エンタメを目指すのか、文学を目指すのか
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そういうわけで、ドラマトゥルギーについては、考え方が違うと申し上げています。
その意味で、木下順二の論を引用しました。
基本的なドラマの法則が述べられているだけで、種々の方法論との優劣が論じられているわけではありません。
ただ、「2つの力の対立」を用いる西洋の方法論に依るなら核心を突こうと言っているだけです。
(つまり、仕掛け以前の問題です。現実には、歌舞伎にも浄瑠璃にもプロットのひねりは存在します)
本当に現実を変えるほど「ドラマティック」であるということは、ドラマに触れた観客の生活が変わるということなのであり、そのきっかけはまだ日本で見つかっていないだけで必ずある、という「思想」を筆者は述べています。(だから問題7の選択肢『ホ』は誤りとなるのですが。)
本文中に上げられている5幕構成の展開は悲劇向きのものなので、Aが勝ってBが負けるエンターテイメントに置き換えるなら、Bの力が下降線をたどる過程がクライマックスと考えればよいかと思います。
まあ、3幕の中心か終わりにポイント・オブ・ノーリターンが来るといったところでしょう。
私も、作品中の情報整理の方法としては5幕(折り返し点を含めたら6幕)構成を使っています。
エンタメを目指すのか、文学を目指すのか
投稿者 あまくさ 投稿日時: : 1
暴走気味の議論に返信していただき、有難うございます(本心)。
スレ主様にも他の方にもご迷惑かとも思いつつ、この件については少しこだわりたい理由がありましたので、ご容赦ください。
しかしこれ以上論じても平行線かと思いますので、一応最初の本題に戻って私なりのまとめを。
>「自己紹介パート」その他、設定を説明するための段落はそもそも必要なものでしょうか?
エンタメならNO(不要というより、基本的に無い方がいい)。純文学ならYES(必要な場合がある)。
一言でいうなら、これが私の結論です。
エンタメにおいて冒頭の設定説明パートがマイナスになるのは「つかみ」の問題であって、それ以上でもそれ以下でもありません。ただしエンタメではつかみは死活的に重要です。中盤~終盤がいかに素晴らしくても、そこまで読んでもらえなくては無価値だからです。
純文学の場合は考え方が違います。冒頭において前提を説明する必要があると判断される場合は、まどろっこしいというだけの理由でそれを排除してはいけません。その結果ほとんど読まれない作品になってしまったとしても、少なくとも無価値ではありません。
純文学でも「ついて来られない読者はついて来なくてもよい」という姿勢の是非は問われるところかとは思います。作者側に伝える努力は必要でしょう。
それでもエンタメと純文学とでは真逆というほど考え方が違う部分があります。そして、どちらが優れているということもありません。
ジャンルに貴賎なし。
次に、尺の問題。
>「自己紹介パート」その他、設定を説明するための段落はそもそも必要なものでしょうか?
短編ならNO(不要というより、基本的に無い方がいい)。長編ならYES(必要な場合がある)。
エンタメでも純文学でも、短編なら核心に近い部分を切り取って構成することは強く求められる技術でしょう。
一方で長編はスロー・スタートの方が適していることが有り得ます。ただエンタメの場合は「つかみ」の問題と抵触するので、多くの書き手が悩むところだと思います。そこは作者の腕の見せ所でしょう。
純文学とエンタメは作品の作り方がかなり異なります。別物と言って過言ではないほどです。純文学・ラノベ・アニメを比較した場合、近いのは同じ小説である純文学とラノベではなく、ラノベとアニメだと私は思います。
兵藤さんに質問したいのは、文学寄りの作品を書きたいのか、エンタメを目指していらっしゃるのかという1点です。
いくつかの実作を拝見したかぎり、ラノベとは少し違う気もしますが一般のエンタメ志向だとは思えるんですね。このスレと前の女ボスの相談も、最初の質問はエンタメ方向と思えました。
ですからエンタメを前提にして意見を述べたところ、やりとりをかさねるうちに純文学寄りに話がずれていく感じがしたので、そこにやや戸惑いました。
エンタメか文学かと杓子定規に線引きはしなくてもいいですが、やりたい方向性がエンタメ寄りなのか文学寄りなのかは明確に意識された方がよいのではないかと思います。
そこがぶれていると、アクセルとブレーキを同時に踏むようなことになりかねないからです。
カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 問題を早めに提示するのは当たり前のことではないか?