ライトノベル作法研究所
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  4. ラノベ歴史年表公開日:2012/06/11

 ラノベに連なる文学・サブカルチャー 年表1900~1941年

1905年 明治時代

・夏目漱石が『吾輩は猫である』を俳句雑誌ホトトギスに発表して、小説家デビューする。
 名無しの猫が自分の飼い主である教師と、その家に集まってくる変人たちの生活を眺め、人間の滑稽さや愚かしさを風刺するという内容。猫の飼い主は、夏目漱石自身をモデルにし、猫は彼が実際に飼っていた猫をモデルにしている。
 「吾輩は猫である。名前はまだ無い」から始る、テンポが良くユーモアたっぷりの語り口調はライトノベルに通底するものだが、内容は大人向け。
 ノイローゼを患っていた夏目漱石のために、俳人・高浜虚子が気晴らしにホトトギスに掲載する文章を書くように勧めたのが切っ掛けで書かれた。虚子が漱石の前でこの作品を朗読すると、漱石は自分で書いた物にウケて声をあげて笑ってしまったという。虚子の助言で、修正をし、題名を決めた。
 この作品が大ヒットして、漱石は高校の教え子たちから「猫さん」「猫」と呼ばれるようになった。1908年に『吾輩は猫である』のモデルになった猫が死ぬと、新聞が「夏目氏の猫死す」と記事にしたほどの人気となる。
 最後までこの猫の名前は付けられなかったそうだが、漱石は猫の墓を建てて、命日には鮭の切り身と鰹節ご飯を添えて、その冥福を祈ったということから、相当なニャンコ大好き人間であったことがうかがえる。漱石は「行く年や猫うずくまる膝の上」というほのぼの俳句を残している。

1912年 大正元年 漫画と小説の融合

・漫画家の岡本一平が朝日新聞に入社し、漫画記者となる。
 人間を風刺したナンセンス漫画で人気を博し、漫画に漫文という軽妙洒脱な解説文を添えた『漫画漫文』という独自のスタイルを築き上げた。このスタイルは、大正中期から昭和戦前にかけて流行した。
 朝日新聞社員だった夏目漱石は、『漫画漫文』に魅了され、この連載を単行本化すべきだと主張した。
 これを聞いた岡本は大変喜んで、単行本の序文を書いて欲しいと漱石に依頼しに行き、これをきっかけに二人の交流が始った。岡本は元々、小説家志望だったほどの文学好きで、漱石文学を漫文に取り入れ、漫画小説とも呼ばれた。
 一般文芸と漫画の融合という、ライトノベルの祖ともいうべき試みが、すでに大正時代に行なわれていたのである。
 漫画界の進化発展は、小説に影響を受けていた。

1914年 ライトノベル雑誌とBLの誕生

・夏目漱石の長編小説『こころ』が岩波書店より刊行される。
 夏の海岸で男性が男性をナンパするところから始るボーイズラブ小説。

 私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。
引用・こころ 著者:夏目漱石

 文豪は、あまりにも時代を先取りしすぎていた。
 漱石の代表作とされ、戦後、国語授業の教材にも使われている。
(個人的に、1990年代半ばからのBL隆盛の遠因は、この作品を国語教材とした文部省の教育方針にあったのではないか、という仮説を立てている……冗談です。)

初のライトノベル雑誌

・大日本雄弁会(現・講談社)が月刊少年雑誌『少年倶楽部』を創刊する。
 これは言ってみれば、戦前のライトノベル雑誌であり、大衆作家による少年向け『熱血痛快』長編小説を連載していた。
 このことから、ライトノベル作家の中里融司は、この雑誌の小説にライトノベルの源流があるとしている。
 また、人気漫画『のらくろ』を連載するなど、漫画や組み立て付録も取り入れて人気を博し、1936年には発行部数75万部を達成した。
 戦後は『少年クラブ』と名前を変えて1962年まで続くが、その後『少年マガジン(』1959年創刊)と合併して、その幕を閉じた。『のらくろ』は、漫画の神様、手塚治虫も愛読しており、戦後の漫画、ライトノベルに絶大な影響を与えたと言える。

1923年 

・・講談社が月刊少女向け雑誌『少女倶楽部』を創刊する。
 小学校高学年から高等女学校(旧中学校)低学年の少女をターゲットとした戦前の少女向けライトノベル雑誌である。長編の少女小説や詩を主に掲載し、少女向け雑誌の中では一番の人気となる。
 戦後は1946年に雑誌名を『少女クラブ』に変更し、初の少女向けストーリー漫画『リボンの騎士』(1958年)が掲載された。1962年に廃刊となり、『週刊少女フレンド』がその後継となる。
 少女小説の歴史は古く、1902年に創刊された雑誌『少女界』がその草分け。
 小説の文言一致は、二葉亭四迷の『浮雲』(1887年)が始まりとされており、明治元年(1868年10月23日)から、日本の文学界は急速な発展を遂げたと言える。

1927年 昭和時代

・芥川龍之介が『河童』を総合雑誌『改造』に発表する。
 主人公が穂高山に登った際に河童に出会い、河童の国に迷い込むという異世界迷い込み型ファンタジー。人間とまったく逆の価値観、生態を持つ河童たちが織りなす笑いあり、風刺有りのコメディライトノベル。
 自殺した河童のトックがあの世で松尾芭蕉に出会い、「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な俳句について、「蛙」を「河童」にしたら、もっと良い句になったのに、と批評したりする。
「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ」
 といったセリフや、「どうか Kappa と発音して下さい」という意味不明の副題。河童はいつもカワウソを仮想敵にしていて、カワウソは河童に負けない軍備を整えているといった設定など、荒唐無稽なギャグのセンスが光っている。
 芥川龍之介は夏目漱石の弟子で、短編小説『鼻』(1916年)を漱石に絶賛されたことから、漱石の後継者と目され、世間の注目を浴びた。それ以前に名作『羅生門』を発表しているが、文壇から無視されたため、漱石に引き上げてもらうために彼に弟子入りしたという戦略眼を持っていた。現在では、すでに地位を確立した作家が、新人作家を帯や解説で褒めることで引き上げるという手法が確立しているが、その元祖であると言える。
 芥川は漱石のことをもともと深く尊敬しており、中学時代に『吾輩も犬である』というパロディエッセイを書いている。
 この年の7月24日に芥川は自殺し、命日を小説『河童』にちなんで河童忌という。

1928年 アニメ映画のヒット作

・ウォルト・ディズニー制作の音声付きアニメ映画、ミッキーマウスシリーズ第一弾『蒸気船ウィリー』が11月18日にアメリカ合衆国で公開される。世界初の音声付きのアニメは1924年に公開されているが、最もヒットした初期のアニメ映画はこの作品である。
 ディズニーは素人にも関わらずフィルム会社を設立し、二度映画を作成するも失敗し、借金でギリギリに追い詰められた中、このアニメ映画を制作した。内容は、暴れ者であるミッキーがガールフレンドのミニーと一緒に、船の上で他の動物たちにいたずらをして、暴れ回るというもの。
 ミッキーマウスは日本にも輸入され、田河水泡ののらくろと人気を二分するほどのヒットとなる。 

1931年 戦前の大人気漫画

・田河水泡の漫画『のらくろ』が大日本雄弁会講談社(現・講談社)の月刊少年雑誌『少年倶楽部』の一月号に掲載される。
 1941年に軍部・内務省の言論・出版の統制が厳しくなり、漫画などという不真面目な読み物を子供に読ませてならん、という規制を受けて打ち切られるまで、10年10ヶ月、134回もの長期連載となった大人気作。
 野良の黒犬のらくろが猛犬聯隊という犬の軍隊へ入隊して活躍し、徐々に出世していくという物語。
 この年の9月18日に満州事変が起きていることから、軍隊賞賛の漫画だと誤解されている。のらくろが構想、執筆されたのは前年からだったので、直接の影響は受けていない。のらくろは士官時代に「猛犬連隊は正義の軍隊である。理由もなくよその国に攻め込むような野蛮な軍隊ではない。世の中が平和で戦争がなければこれほど結構なことはないではないか」と語っている。
 作者の水泡は、捨てられた野良犬が人間に依存せず自立していく話を描きたかったらしく、のらくろはその後、軍を退役し、職を転々とした後、喫茶店のマスターとなって結婚する。

1935年

『芥川龍之介賞(芥川賞)』が創設される。純文学の新人に与えられる文学賞。短編・中編作品が対象。
『直木三十五賞(直木賞)』が創設される。大衆小説のベテラン作家に与えられる文学賞。
 二つとも日本で最高峰に位置する文学賞。どれくらいすごいかというと、電撃小説大賞の何倍もすごくてエライ。
 どちらも芥川龍之介の旧制第一高等学校からの友人であり、終生のライバルであった菊池寛によって設立された。菊池寛は天才、芥川龍之介に圧倒され、苦杯を舐め続けたものの1923年に雑誌『文藝春秋』を創刊し、大成功を収める。芥川は、身体と心の病気に冒されて、作品の発表数が減っていき、36歳で自殺したのに比べて、菊池は晩年、成功した。

1938年

・内務省警保局図書課が、『児童読物改善ニ関スル指示要綱』を発表し、言論統制の一環として、子供向けの本や雑誌に対する厳しい規制を開始する。
 漫画や冒険小説のような不真面目な読み物は、子供に悪影響を与えるから、今後、発表してはいけないというもの。
 まず講談社の絵本が発禁処分とされ、これを受けて他社も自主規制を始めていったと言われている。
 これによって漫画は次々に姿を消し、少年誌は戦争を賛美する内容に変っていく。
 この言論統制は、1945年に第二次世界大戦が終わるまで続けられた。

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