ライトノベル作法研究所
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  5. 赤子の殺人公開日:2012年12月23日

赤子の殺人

文矢さん著作

 1 ――後日

 常から、エピグラフというものの必然性に疑問を持っていた。どうしてこんなものがあるのだろうと思うことがしばしばだ。詩を一連、名文を一行、といった風にちょろっとだけ引用している程度なら目を通すが、わけの分からない評論やら哲学書を一段落丸々引き写しているとなったらもう駄目。面倒なので読み飛ばしてしまう。どうせ作家本人が書いたものでは無いのだから。
 そういうことで普段あまり模範的読者では無い私なのだが、いざ自分で文を書き出そうと決意してみると……成程、確かにこれは何かしらの文を引用してみたくなる。というより、冒頭に前置きを入れたくなるのだ。この話はこれこれこういうもので、こういうテーマがあるのですよ、と。しかし、そうまで作者本人の言葉で書いてはいささかクドいし粋じゃない。それに私が今から紡ごうとしている様な推理小説形式のものだと露骨なネタばらしになってしまう。だから自分で説明するのではなく別の、物語全体を象徴してくれる様な一文を、というわけだ。
 しかしながら前述の様なことを日頃から周囲へ語っていた身として、ここで厚顔にエピグラフを挿入するのは何やら気恥ずかしい。それに、どうもピッタリくる本が見当たらない。
 仕方が無いからこの欲望を抑えて書き進めていこうと思い出したのが昨日。
 しかし、そこで我が親愛なる同棲相手――誤解を招きそうなので注釈を入れておくが、彼も私も男性である。又、同性愛の関係にあるわけでも無い。多少やり方が違うかもしれないが、近頃流行のルームシェアの様なものだ。もっとも、手狭なので部屋もろくに分かれてないが――春がその事件に密接に関わる思想の話を振って来た。最終的には事件の動機へ迫る様な。
 その際の一連の会話を振り返ってみると、どうもこれこそ冒頭に配するに相応しい様なので以下にエピグラフや前置きの代わりに私と春のやり取りを記してから事件当日の話へ移る形式で進めていこうと思う。一種の哲学談義なので読者諸氏は多少退屈に思うかもしれないが、先の通り事件そのものに関わって来る話なのでどうか注意喚起を願いたい。
「限界状況、という言葉は中々興味深い」
 春は紫煙を燻らせながらまず、そう言った。
 煙草というものが私は大嫌いなので顔を顰めた後に応じる。私も共に生活しているのだから勘弁してくれと何度も言ったのだが、どうも受け入れてくれない。
「……何だい、それ? 文字そのままの意味で受け取って良いのか?」
 煙草を吸っているからというわけでも無いが、シャーロック・ホームズ気取りに笑った後、春は答える。
「意味的には文字通りだ。リミットに直面した絶対的なシチュエーション。例えば死、苦悩、罪。人間には越えることも変えることも、何もかもが不可能な状況のことを話している。特に、僕が言わんとしているのはヤスパースの実存哲学におけるものだ。おっと、身構えるなよ。別に難しい話では無い」
 と、言われても表情が歪んでしまう。哲学なんて私の範疇外だ。一切の興味が無い事柄だ。いきなり、そんなことを言われたって、どうしようもない。だから、すぐに言う。
「俺はそもそも、外人の名前が出てくるだけで駄目なんだ。小説だって翻訳ものはそんなに読まない。ましてやドイツの哲学者だなんて……」
 春は煙草を揉み消した。
「そんな風に避けることでは無い。結局のところ、同じ人間なんだから。ある程度の趣味の差があったって、理解不能ってことにはならない。もう一回言うが、難しい話じゃないんだから……」
 私は唇をひん曲げた。分かっている。この男が難しい話ではないと言った後は、大概易しくない演説が待っているのだ。確かに全くもって分からないって程では無い。サンスクリット語で書かれた文章よりは理解できる。でも普通、世間話として扱うものには相応しくないレベルではあるのだ。春はその辺りのことを汲んでくれない。
 私のそうした卑屈な心を分かっている筈なのに、春は構わないといった調子で言葉を連ね出した。
「ヤスパースが主張した限界状況、まず出てくるのは第一次世界大戦だ。分かりやすいな。戦争、というのはまさしく一人の人間じゃどうしようも出来ない事の端的な例だ。戦場に送り込まれた兵士は流れに抗うことが出来ない。まさしく限界状況だ。いつ死ぬかも知れないという緊張感の中をひた泳ぐんだ。……こうした状況の中、人は自己の有限性を自覚する。これが、ヤスパースの主張だ」
 ほら、小難しい。私は一度ため息をついてから台詞を発した。
「えーと、つまり、抵抗できない状況下に置かれることにより、自分がいかに無力かという現実を味わえるってこと?」
 聞いて春は「分かっているじゃないか」と笑った。
「ヤスパースは思想史では所謂実存主義に属すとされている。しかし。彼の主張は同じく実存主義者のサルトル、ハイデガーとは大きく異なっている。何が違うか? シンプルだ。ヤスパースは神を信じていたんだ。限界状況に置かれ、人間の有限を知った者は神の存在を感じ取ることができる。神のことを彼は超越者やら包括者やら哲学的に深めたってことで別の呼び方をしているが、まあ、僕が今話していることには関係ない。とにかく、その神の前で一人の人間として立つことにより、人は実存を自覚できる。個々の人格が剥ぎ取られる世界の潮流の中で、確固たる個人となれる。ざっと話すと、彼の話はこんな具合だ」
 一息に喋ると彼はため息をついて、次の煙草へ手を伸ばそうとする。頭が混乱している中、更に刺激されちゃ溜まったものでは無いのでそれを止める。煙草を吸うと頭が冴えると誰かが言ってたが、どうにも信じられない。
 しばらく考えてからようやく言葉が出る。
「結局はあれか。神様を信仰しなさい、と?」
 私の頭で理解できた範囲でまとめるとこの程度だ。実存だとか限界状況だとかよく分からない熟語が提出されたが、結論には余り関係が無い気がする。
「ちょっと違うが、まあ、遠くはない。行きつくところとしてはパウロの信仰義認と似た様なもの。だから、僕は余りヤスパースは好きでは無いんだ」
 予想外の言葉が出た。ここまで話しておいて。どういうことだ。私は余り頭が良くないんだから勘弁してくれないだろうか。
 こちらがそうやって狼狽している間に春は言葉を継いだ。
「最初に言った通り、限界状態という概念自体は興味深いしむしろ肯定する。こちらが何も出来ない絶望的な状況というものがこの世界には確かに存在する。しかしだ。そこで神を持ち出すなど噴飯物だ。超越者とやらなんて存在しない。死の間際に落ち込んだ際、そこにいるのは自分だけだ。もし、実際にヤスパースが限界状況に陥った時に超越者とやらが顔を出していたとしたら、それはただの幻覚に違いない。限界状況において人が自身を慰める為に脳内で生み出した対応の一つだ。……少なくとも、あの時に神は現れなかった」
 最後の言葉にやけに実感がこもっていた。それが引っ掛かり、すぐに尋ねる。「限界状況とやらに陥ったことがあったのかい?」と。デリカシーが無い発言だったかもしれない。それでも元から話すことは織り込み済みだったのか、春はすぐに答えた。
「小学生の頃に井戸に落ちた記憶を僕は持っている。あれこそ、限界状況だったね。誰も気づかない。誰も助けに来てくれない。数日間閉じ込められたんだ。ほとんど枯れ切って誰にも使われない様な井戸だったのが不幸だった。いや、まだ水を湛えていたものなら落ちたらすぐ、溺れ死していたからむしろ幸運だったのか。ともかく、そこで極限を味わった。折れた足の刺す様な痛み。声を出しても反響するだけで誰にも届かないという絶望。空く腹。垂れ流しの糞尿。段々と体温を奪っていく冷えた壁と地面。どれもが、殺そうとしていた。まさしく死の光景がそこにあった。そして、そこに神はいなかった。自身の過小さを嫌という程思い知った。だけど、それだけだ。
「……少し長くなってしまったな。すまない。別に、この体験は問題じゃないんだ。話をしたかったのは、ヤスパースが主張した超越者の説は限界状況になった際に救われる道の一つでしかないということ。誰が限界状況に出会うかによって、何をするかはそれぞれ変わって来るだろうってことなんだ。
「自身の余りの力の無さを自覚して、どうそれを乗り切るか。例えば、そこで絶望して死ぬのも一つの手だろう。発狂するっていう道もあるかもしれない。自分を自分で無くすわけだ。また、諦めずに自身を無理に肯定して精神を壊れない様にするという答えもあり。とにかく、色々ある。僕じゃ考え付かない思考回路を使って新しい道を作り出す人もいるだろう。
「そして、同じ限界状況に陥った人が複数の場合、更に答えは広がる」
 そこで話が一旦切られた。そして……私はようやく、彼がどうしてこの話を始めたのか分かった。この講義が何処へ向かおうとしているのかも。その様子を感じたのか、春は頬を緩めてから長広舌を再開した。
「例えば、ある人は自己の拡大を試みるだろう。他の人を支配するというルートだ。サディズムのメカニズムに似ているかもしれない。自分が過小では無い。他の奴らが過小であり、自分は王様なのだ。その為に使われる力は何か。限界状況に置いて最も有効な力は一つしかない。暴力だ。即ち……」
 私は、そこで春の台詞を止めた。
「分かった、分かったよ、春。流石の俺でも。今、君が言わんとしていることは……」
 少し間を開ける。演出効果を狙ったわけじゃない。喉が渇いただけだ。すぐに継ぐ。
「あの事件の、動機、だろ? 三か月前の」
 そう、あれは限界状況だ。春が先程言った通りの。彼の幼少の際の体験と同様の。私達は死の間際に立たされていたのだから。あの防空壕で、間違いなく。
 ――春はやはり窓ガラスに名探偵風の薄笑いを映しながら、頷いた。


 2 ――二日目・朝

 ぴ、ぴ、と不愉快な電子音が流れる中、春は地面についたままの摂津の右手首から指を離した。
「駄目だな。そもそも、既に冷たくなっている」
 首から離した手を右腕へと持っていく。片手で肘を抑えて、春は死体の腕を曲げた。ほぼ抵抗なく曲がったのを見ると、今度は顔の方へと両手を移動させる。顎の辺りを掴んで、腕の際と同様に力を入れる。何やら、固い。中々動かない。
「死後硬直は既に始まっているけど、腕に達するまででは無い。二時間以上七時間未満? いや、駄目だな。うろ覚え知識だから。とりあえず、夜のうちに殺されているってことは確かだ。分かりきっていたことではあるが……」
 昨日よりも余程陰鬱な口調だった。
「ちょ、ちょっと待った。今、何つった? 殺された?」
 そこで声を出したのは河内だった。スマートフォンで春の手元を照らしている大和の後ろに突っ立っている。
「ああ、大和さん。首の辺りを、河内に分かる様に照らしてやってくれ」
 何も言わず大和は従順に光輪を動かした。間もなくして、それが私の目にも露わになる。大和と河内が息を飲む音がした。
「絞殺……いや、扼殺って言うんだったか……」
 思わず、声に出していた。春が何も言わずに頷く。
 何重にも皺が重なっている中でも殺人者の両掌の跡は明らかだった。どれだけの力を込めたらこうなるのだろう? とてつもない怪力に思えるが、私でもやろうと思えば出来ることなのか? この事務仕事に慣れた貧相な腕で? 何もかもが分からない。とにかく、縊りの痕は酷く――生々しい。薄く見える摂津の顔も。丸っこくて温和そうな筈だった顔は跡形も無い。目をかっと見開き、口からは舌がはみ出ている。
 春は携帯電話を取り出した。それから、カメラを起動させて摂津の方へと向け、シャッターを切る。首、顔、上半身、下半身の順で細部も撮っていく。フラッシュで照らされる限り、他に外傷は無いみたいだ。股間の部分が濡れているのは失禁した、ということだろうか。
「大和さんも、撮ってください。公正さが増すように」
 しばらくしてから、シャッター音とフラッシュの明かり。
 後方で喉が鳴る音がした。次いで、ぼとぼとと液体が垂れる音。河内が吐いているらしい。聞いてどうして、私はこうやって冷静に観察出来ているのだろうかと思う。何だか、リアリティが無い。現実味が欠如している様な……分からない。何だろう。何だかんだで、動揺はしているのだろうが。
「当たり前だが、服装は変わっていない。茶のダッフルコート、その下は紺のセーター、パンツはベージュのデニム生地。パンツのポケットには何も入っていない。コートの右ポケットに財布と携帯電話。左に残り五本の煙草のパッケージと、ライター、マッチ箱と、携帯灰皿。マッチ箱はあの喫茶店のだな。後は左腕の腕時計のみ……」
 一つ一つ春自身のハンカチでくるんで取り出し、明かりへ晒していく。先程からしている電子音は、その中の携帯電話から発せられているものだった。春は取り出した時ためらわずに音を止めた。
「ちょっと、待てよ。ちょっと!」
 そこで、口元を拭きながら河内が叫んだ。
「何で、どうして、おかしいだろ? なあ!」
「……何が、おかしい?」
「殺人なんて、起きるわけ無えだろうが!」
 河内はよろめきながらこちらへやって来て、かがんだ態勢のまま春を掴んだ。
「だって! ここは、防空壕で、俺達はここに閉じ込められているんだぞ? 何で、こんな状態で、その、殺す? 死ぬんだ? しかも、えと、その、初対面で! どうして、おかしいだろ? あり得ないだろ!」


 3 ――初日・昼

 喫茶店には何やら独特の空気がある。特に、チェーンではない個人経営のものになるとそれが顕著だ。ベルを鳴らして店内に入った途端、その空気に襲われてしまう。何と言えば良いだろう。店員や他の客と同じ空気を共有している感覚とでも言おうか。妙な一体感があって、店が自分の部屋の様に思えてしまう。聞いたこともない有線の曲がやけに親しみやすく聞こえるのだ。これは、私だけが思っているものなのだろうか? 少なくとも、春はそんなこと一瞬たりとも感じたことも無いとのことだが。
 ともかく、そういうわけで私は自室の壁にある変な形のシミを凝視してしまうのに似た気分で、その初老の男性の方をぼんやりと見つめていた。
 彼が座っていたのはレジの左に位置するカウンター席の隅。丸っこい、いかにも人の良さそうな顔をしている。隣に座っている青年は彼の息子だろうか。見た感じ孫では無さそうだ。二十歳は超えている。
 私の視線が男に引きつけられたのは恐らく、彼が手にしている煙草の所為だ。右手で店の名前が入った十六本入りマッチ箱をいじくりながら、空いた手でひたすらに吹かしている。煙草嫌いな私としては余り気に入らない光景だ。分煙くらい徹底してほしい。灰皿に山程吸い殻が積もっているが、別に全てこの店に入ってから吸ったというわけでは無く隣に放り出されている携帯灰皿から吐き出されたものだろう。といっても、一日に吸う量としては異常なレベルではあるが。極度のヘビースモーカーさんだ。笑うと、真っ黄色な歯が見える。春は灰皿があるところでしか吸わないので彼よりはマシか。
 とまあ、一通り分析したわけだが普段の私はこういった人間観察など基本的にしない。今は特別。レジ待ちの時間が余りに暇なのだ。本日開店とのことで花輪に吸い寄せられてきたのか店内は人で一杯で伝票を持った客が前に三組も並んでいる。私も春も、同様に誘われてきた羽虫の一つなのだけれど。しかし、人が群がっていれば更に群がるという何とも日本人根性丸出しの話だ。たかが喫茶店なのに。味も不味くもなく美味くもなくのレベル。再訪は、きっと無い。レジの前に店の名刺が置かれているが、あれを取ることは無いだろう。
 先頭の会計がやっと終わり、一歩前に進む。春が不満気に鼻を鳴らした。店の中でなければ「どうして、こんなにもレジ打ちで時間かかるかな。キオスクの店員を見習ってほしいね」くらいは言っているだろうなと思う。
 一歩近づいて、例の男性らの声がはっきりと届く様になった。壮年の方の声が特にはっきり。響きやすいタイプらしい。
「この時計、目覚まし機能がついとるんだよ」
「アラームですか? 珍しくもない。今時、百均のにだってついてますよ」
 自慢気に銀の時計を見せつける男性に対し、青年は何ともはや冷たく答えた。
「針の時計にゃあ、珍しいだろう」
「そうでもありません。普通ですよ、普通」
「冷たいな。ともかく、ワシは本当に天涯孤独じゃから、重宝するよ。親も妻も子も無しのしょぼくれた老人じゃから……」
「ワシ、だとかじゃ、だとかわざとらしい口調止めてください。親戚がいないとか中途半端に本当の情報を入れて同情買おうとするのも。後、煙草吸ってると無条件に何だか偉そうに見えますよね。何だか。だから私は吸わないんだ」
 言われて、男性は泣き顔を作った。といっても灰皿で煙草の火を揉み消しながらだから何ともわざとらしい。すぐにライターで新しいものに火がつけられた。
 聞き耳を立てておいてなんだが、余り面白い話では無かった。漫才みたいな楽しさがなくはないが、至極どうでも良い。我ながら何とも勝手だ。
 そこでおい、と春に促される。私の番だった。伝票を渡して金を払う。レシートを貰う。出る。外食する度に思うが相当美味い店で食べるのではない限り、物凄く勿体ないと思う。私は春が行きたいと駄々をこねる時しか外食をしない。今日、この喫茶店に入って私が手に入れた物はこのレシートと腹の中のコーヒーのみ。支払った五百円という値段に見合う満足感は得られなかった。五百円あれば何が買えたかなと思ってしまうくらい。
「あの二人の話、興味深かったな」
 ……ぽつりと春が呟いたのは喫茶店があった来津駅前を離れ、人の少ない細道に入って、冬風が髪を揺らした辺りだった。左前の定食屋の店先に灰皿が設置されているのが見えるからか彼の口には煙草が咥えられている。片手にはライター。しかしガスが切れているらしく何度押しても火は出ない。ざまあみろ。
「腕時計の話が?」
 信じられない。すぐに聞き返した。
「違う。特殊地下壕の話だ」
 意味が分からない。私が何も言わずにいると、彼は勝手に話し出した。煙草をひとまずパッケージに戻して。
「腕時計の話の前の辺り、年取ってる方がマッチ箱をいじりながら話していたんだよ。僕に聞こえたんだからお前も意識を音に向けておけば聞こえた筈だ。で、特殊地下壕っていうのは、所謂防空壕のことを指していると思ってくれれば良い。戦後、埋められずに放っておかれているのが結構あるんだ。子供がそこで遊んだら危ないってことで社会問題にもなってる。で、彼らはすぐそこ……場名美山にそれがあるって話をしていた。店から出た後、行ってみるつもりだとも。天然の穴を少し拡張させたもので、それなりに大きいらしい」
 よくもまた、そんな知識を知っているもので。どうも、私は呆れてしまう。何処からその情報を手に入れてくるのだろうか。そして、今の台詞の流れからすると……
「行きたいのか?」
 返答はすぐに来た。
「勿論。本物の防空壕を、僕は一度も見たことがないんだ」
 なんとも、知的好奇心旺盛なことで。
 私は仕方ないなとため息をついた。どうせ予定も無い休日だ。私も春も。手荷物も無く、身軽なことだし。空も数日前までの雨が嘘の様に晴れている。

 *

 しかし、防空壕は中々見つからなかった。
 当たり前のことではある。他人の話を盗み聞きしただけなのだから、正確な位置など分かる筈もない。観光地じゃ無いから看板も立っていない。頼りにしているのは春が聞いたというぼんやりとした情報だけ。分かってたまるか。喫茶店に戻ってあの二人についていっても良いですかと聞くのがベストな選択だったんだ。そもそも、本当にそんなものがあるかどうかすらも怪しい。
 そう私が文句を言っても、春はマイペースにのらりくらりと交わす。
「何、別にそこまでして行きたいというわけでもなかったんだ。面白そうだなとぼんやり思っただけで。そんな気分で他人――お前は身内だからな?――を巻き込む程、僕は図々しくなれない。付き合わせているのはすまないけど。まあ、場名美山なんて登ったこと無かっただろう?」
 一応、謝ってはいるが、誠意が全くもって感じられない。顔を顰めた。さっき麓にあったゴミ箱横の灰皿の前で春はパッケージの中の煙草を空にしていたが、その際も私はこういう顔をしていた気がする。
 確かに、ここに登ったことなんて無かった。登ろうとすら思わなかった。
 場名美山は、私達の家の最寄駅である来津駅とその隣、北来津駅の中間に位置している山で手軽なハイキングスポットとして市民に親しまれている小さな山だ。一切の準備無しで登れる程度の。頂上までは三十分もかからない。木々が茂る、何の変哲もない小山。その癖に周りにコンビニなどの店は無しと中途半端に都会から離れている。中学校の時、別の小学校の出身の奴が何故か得意気に遠足先は場名美山だったと言ってきたことを覚えている。まさか、良い大人になってから登る羽目になるとは思って無かった。かなり汗をかいている。冬だというのに。まだ四捨五入で二十歳になる側だというのに。情けない。会社員になってから間違いなく体力が落ちた。
「そもそも、防空壕ってのはさ、こんな山の中腹にある様なものなのか? いざという時に逃げる為のものなんだから、もっと麓に近い所にあるべきじゃないのか?」
 更に文句を垂れてみる。
 先程から探索しているのは、その場名美山の登山道から左へ外れて歩き出したところ。比較的階段状に整備されている登山道と違い、酷くでこぼこしているし、よく分からない。一応、道の体は為してはいるが正規のルートでは無い。獣道というやつだろうか? ここに物騒な動物がいるという話は聞かないが、何だか不安だ。スニーカーを履いてきたのは僥倖だった。
「確かに、個人の防空壕ってのは家の庭だとかすぐに避難し易い所に掘られていたさ。でも、今、僕らが探しているのはある程度の大きさを持ったもの。すなわち、当時の町内会だとかが作った、大人数が入れる様にと配慮した壕だ。となると、条件に適した場所はそうそうない。結果、残ったのが山の中腹……というのは余り無茶では無いと思う。それに、中腹といったって、麓から五分だけ上がったくらいだ。大したことは無い」
 知った様なことを。私は口を尖らせた。
 ぱきぱきと足元で枝が折れる音。それすら、やけに大きい。山の中っていうのは、どうしてか、こういう風に非常に静かだ。頭上で鳴る鳥の声と、下からする車の音、どちらもずっと遠い。ただ、服が葉に擦れたりだとか、自分の足音だとか、小さな音がひたすらに。
「おっと、反対側に出ちまった……」
 五分程お互い黙って歩を進めた後、しまったといった調子で春が言う。前に意識を集中してみれば、確かに整備された道が見える。さっきの登山道とは違うところ。北来津駅側の道だ。春の言う通り、反対側。等高線を半周踏破したわけだ。
 獣道から抜ける。固い土の感触が何やら有り難い。安定している。
「さてどうするか」
 一息ついて、ぼそりと春が言った。彼の視線は登山道のラインでは無く、今歩いていた道と少しずれた線上にある等高線の残り半分方面へ進むであろう獣道に向かっている。おい、まだそういう道を歩くのかい? すぐに私は言葉を返す。
「というか、さっきの二人は防空壕の位置が何処だって言ってたんだい?」
 もっと早く聞くべきだった。春がルートをしっかりと把握しているといった顔で歩くものだから、ただそれに応じていただけだったのだ。私は。愚かなことに。
「御手洗まで五百メートルの看板がある所で獣道に出たところと言っていたから、さっきの場所で間違ってなかった筈だ」
 確かに、さっき曲がった場所にはそう書いてあった様な気がする。腐りかけなボロボロの看板。登山道通りに登って行ったらひらけてそうした施設が出てくるのだろう。ろくに手入れされていないだろうが。道の横に見えるパイプはその為の水道管だったのか?
「でも、無かったじゃん。防空壕。別の看板のことを言ってたんじゃないのか?」
 髪をどけるようにして額の汗を拭きながら言う。
「いや、多分、そうじゃなくて……おっと、誰か来た」
 春が話すのと獣道を見るのを止めて、下の方へと目をやった。私もそちらへ意識を集中する。確かに、ちらちらと黒い短髪が見える。
 ぼうっと、そちらを見つめてみる。頭の天辺だけしか見えなかったものが、額の辺りまで、次は目の辺りまで。段々と近づいてくる様は何だか面白い。まだ体全体がようやく見えてきたといった辺りで、顔のパーツとかは区別がつかない。一段一段、彼は着実に登って来る。私達よりもスピードが速いかもしれない。余計なことを喋くらない差か。
「……え?」
 その登りくる彼の顔がはっきりとし出した辺り。あまり意識をせず、私はそう声に出していた。あちらも、こちらを凝視する様にして立ち止まっている。
 しばらく見つめあったところで、彼は一段飛ばしで私の所までやってきた。そして、私の肩を掴んで言う。
「和泉?」
 私も返す。
「河内?」
 お互い頷き合って、それからまた、再び見つめ合う。間違い無かった。
「なんだよ、久しぶりじゃん。何年振り?」
「同窓会以来だから、四年、かな」
 河内盛勝は私達の高校の同級生だ。かなり仲が良い方だった筈なのだが、卒業して別々の大学に行ってからはすっかり疎遠になってしまった。私などはよく陰鬱だとか理屈っぽいと言われるのだが、河内はそれと対照的に明るい性格をしている。顔にもそれが表れていて今も何とも爽やかな笑顔を浮かべている。
「確か、四年前は東京の方に住んでいるって言ってたよな? 帰って来たのか?」
 春が尋ねた。私達は地元にある大学に進学し、その後もこの辺りに就職したので来津に住みっぱなしなのだが河内は春の言った通り、東京の大学に進みそちらへ引っ越していた。
「いや、そのまま東京で就職。今日は久々に実家に帰ろうと思ったんだけど、何か家留守で」
「電話で何時頃行くよとか言わなかったのか?」
「いや、何も言ってなかった。突然行きたくなってさ。お袋、買い物にでも行ってんのかね。で、暇だから、ちょいと、登ってみようかと。ここに」
 河内はそう言って、手を意味も無くぐるりと回した。
「ああ、お前のとこは北来津の方だったっけ」
 納得といった風に春が言う。
 しかし、彼は何とも身軽な格好をしている。灰色のだぼだぼセーター。その下に上着とは対照的なピチピチのジーンズ。サイズが相当キツいのか、ポケットに入れてある物が完全に浮かび上がっている。右ポケットが財布。左が携帯電話。それだけだ。手荷物らしきものは無いが、親への土産だとかは買ってこなかったのだろうか。
「そっちはどうした? わざわざこんな山登り」
「ん、ああ……」
 私が答えようとした時だった。春が、それを止めた。どうしたのかと思っていると、大真面目に指を一本たてて口の前にくっ付けている。子供の頃によくやった「お静かに」ジェスチャー。
 耳を澄ましてみて、どうして春がいきなりそんなことをやり出したのかが分かった。声が聞こえてくるのだ。あの、喫茶店の男性達の。こんなところへ来た元々の要因。いや、春が勝手に盗み聞きしただけだけど。
「どうしたの?」
「防空壕を探しているんだよ。こっちだ」
 春が歩き出したのは、さっき見つめていたもう半周側の獣道だった。結局、かい。スニーカーの隙間からかなり土が入ってきているんだが。河内は大丈夫かな、とちらりと彼の足を見たらスニーカーはスニーカーでもマジックテープで留める式のものだった。大人用もあるんだと感心する。
 聞こえてくるのは主にあの壮年の男性の方の声だ。何だか少しヒステリックな調子が感じられる。どうしたのだろう。
 足を止めずにざっと、春の気まぐれについて河内に説明する。「はあ、物好きだね」と気の抜けた返事が返って来た。その通りだと私も思う。
 三分程歩いて、空間がひらけた。春が右を向く。――そこに、それはあった。
 ずっと昔に層がずれたのだろうか、十メートル弱の土の壁が露出しており、その中に小柄な人の身長程の高さの長方形の入り口が空いている。声はこの中から聞こえてきていた。
 辺りを見てみる。下の方向に、薄らと道らしき跡が見える。これが、もしもの時の避難ルートだったのだろう。今は使われなくなって、草も木も生え放題で使えそうにもないが。
 しばらく、黙って見つめていた。私も春も河内も。その後、誰が言いだすわけでもなく、入り口の方へと歩を進める。冷たい壁に手をかけて、中へ一歩。そこで河内が何故か私に声をかけた。
「和泉って煙草吸うっけ?」
 春が吸っていた臭いの所為だろうか。すぐに答える。
「吸わねえよ。煙草とか、大嫌いだ」
 ……言い終わってしまったと思った。きっと、中のヘビースモーカーさんに聞こえてしまった。どうしよう。心中で言い訳。聞こえる筈も無い。
 中の二人の会話が途切れた。よくよく考えると二人が出て行くのを待っていた方が良かったかもしれない。まあ、入ってしまったものは仕方が無い。
 中は外よりもずっと冷えていた。それに、湿っている。夏に入ったのなら、快適だったかもしれない。天井が低くて、身をかがめなければならないが、横の面積としては中々の広さがあるみたいだ。会社の中会議室くらいはありそうだ。入り口から入って来る明かりじゃ、いまいち把握できないが。壮年の男性達がいると思われる辺りがぼんやり照らされているのが見えるが、懐中電灯とかではなく携帯電話か何かの明かりの様だ。何だ、と少し落胆。本格的に研究しに来ている人かと思ったのに。
 壁に触る。人が手を入れたとはっきり分かる平坦さだ。これを作るのに、どれくらいかかったのだろうか。ピラミッド程では無かろうが、相当な人数と時間を要した筈だ。
 しかし、気まずい。こちらも、あちらも話していない。当たり前といえば当たり前である。もう目的は達成されたし、帰るよう春に促そうか。
「じゃあ、そろそろ……」
 ――私の言葉は、そこで止まった。
 最初は目まいかと思った。気持ちの悪い酩酊感が急に襲ってきて。だが、そうじゃないと分かる。壕内の空気が少し、張り詰めて。
「地震」
 誰かがそう言った瞬間、揺れは強くなった。倒れない様、壁を掴む。強い。といっても、震度四くらいか? 立てなくなる程では無いけれど、笑いながら見過ごせる程度では無し。
 砂がぱらぱらと落ちてくる。よく分からない呻き声が何処からかした。スニーカーが擦れる音。よく分からない地響き。船上にでもいるかの様な、厭な揺れだ。やけに長い。地響きがする。何だ、これは? 河内が何か話しかけてきているけど、地響きに邪魔されて聞こえない。少し大きな土塊が落ちてきた。地面に触れて弾けて、足に当たる。
 数秒して、揺れが治まった。しかし、地響きは止まらない。何だ? この音。
 何やら妙な予感がするのだが、そんな私の気は知らんと言った風に明るい声で河内が話しかけてくる。
「結構揺れたな。揺れが長かった」
「ああ……」
 ずずず、と低い音が壕を支配している。何だろうか、この音。上から落ちてくる塊の量が多くなってきている様な。もう、揺れは止まったのに。頭にでかいのが落ちた。少し、痛い。一体、何だこれは――そこで衝撃がして、私の体が飛び跳ねた。そして、暗転。


 4 ――初日・昼―夜

 土煙が酷い。
 何度か咽てからようやく余裕が出来て周囲を見回す。何も、見えない。真っ暗だ。失明したというわけでは無さそうだが。
 手が何か、木に触れている。多分、柱代わりにでも使っていたものだろう。外から転がり込んだにしては形が綺麗すぎる。もう片方の手は地面。手のひらを擦りむいたらしい。少しだけ痛む。
「おい、大丈夫か?」
 河内の声。大丈夫、と答える。とりあえず、擦りむいた以外に怪我も無さそうだ。
「そちらは?」
 さっき例の二人組がいた方向へと春が声をかけた。少し間が空いてから、若い方が無事だと答える。ということは、とりあえず一安心か。
 まだ、上から砂やらが落ちてくる。厭な、感じだ。
「何が、あったんだ?」
 こちらが聞きたい。河内の質問にそう答えようと思ったが、私の前に春が発言した。
「多分、入り口の辺りの天井が崩れたんだろうな。最悪だ。揺れ自体は大して強くなかったのに……地盤が緩んでたのか……」
 そして、舌打ち。
 受けて河内はすぐに携帯電話を取り出し、ライトを点ける。照らし出された先にあったのは、予想通りの土の壁だった。もぞもぞと蠢いているのはミミズだろうか? 空いている方の手で河内はそれを押してみるが、何も起こらない。手が土の中に多少食い込んだのみだ。
 混乱していた頭が冷めてきた。ようやく現状把握の方へ働き始める。さっき地震があった。それ自体はさして大きい地震では無い。今まで生きてきた中で、これ以上の揺れなんて何度も体験している。だけど、今、その揺れの影響で落盤が起きた。それによって、地震の際に壕の中にいた私達は閉じ込められてしまった、というわけだ。とりあえず、見渡す限り出口は無い。河内が点けている携帯電話の明かり以外は本当に何も無い。真っ暗だ。冷えた闇がただ、私の周りを包んでいる。
「とりあえず、するべきことは……助けを呼ぶこと、だな」
 春が暗めの声で言った。
 しかし、河内の返事は無い。
 どうかしたのだろうか。今の春の発言が言外に含めていた調子は分かってくれたと思うが。今、丁度携帯電話を取り出しているのだからお前がやれという。
「どうした? 河内」
「圏外だ」
「は?」
 私も自分の携帯電話を取り出してみる。河内のものはスマートフォンだったが、こちらは未だに折りたたみ式の古いやつ。そして、確認……画面右側には河内が言ったものと同じ二文字が。圏外。二人とも? すると、残るは……
「僕も、圏外だ」
 憂鬱気な春の声。
 続く声は無かった。本当に、嫌な感じだ。土が落ちる音だけがする。
「すいません、そちらの携帯はどうでしょう? つながります?」
 そう言う私の声は揺れていた。まるで、願う様ではないか。
「私のは、駄目、ですね」
 若い方がスマートフォンを握りしめたまま言った。その明かりで、ぼんやり彼の顔が見える。少し目が細い以外、これといって特徴が無い。若い若い言っているが、私よりは年上の様子だ。三十路手前といったところか。彼は、壮年の方をつついた。そちらは何故か不機嫌そうに何ともぶっきら棒な調子で言う。
「圏外」
 空気が酷く沈む。この場にいる人、全員の携帯電話が圏外? つまりは、外と連絡が取れない? まさか。顔が、歪む。闇の中だから、誰にも見えちゃいないだろうけれど。
「駄目だ。位置変えても、圏外のまま。マジかよ。キャリア変えとくべきだったかなー」
「多分……どの会社でも変わんないだろう。山の中だっていうのと、土に電波を通しにくい様なものが入ってるか、だ。磁力が強い成分だとか……まずいな。外と連絡が取れないなんて。どうしよう……畜生。まずい、本当に、これはいけない」
 春の台詞の最後の方は、消えゆく様だった。
「……救助が、そのうち来るでしょ?」
「いや、来ない可能性の方が高い……ここは山の中だ。深山ってわけでも無いが、地上から視認できる高さってわけでもない。それに正規の登山道から離れている。音を聞きつける人すら、どれくらいいるか。仮に聞こえても、わざわざここまで確認しにくるか。震度七とかの巨大災害ならともかく、さっきのは精々震度四。そこまで心配する奴はいないだろう。地崩れ自体も、所詮は壕の開口部が潰れた程度の小規模なものだ。大規模なやつだったら、この空間ごと崩れて下に流されるだろうから……いいや、更に崩れるかも分からないか。丁度、この前までの雨が染みていて、土が緩んでいるみたいだから……まずい。まずいぞ、これは」
 一息にそこまで喋ると、春は舌打ちをした。
 成程と私は思ってしまう。彼の今の調子みたいに絶望的ってわけでは無いと思うが、気付くのはかなり遅くなるかもしれない。例えば、場名美山の麓に私が住んでいるとして、上からどんという音が聞こえてきたからといって慌てるだろうか? そりゃ、土砂崩れが自分の家まで来そうとかならともかく、そうでもないなら無視してしまうのでは無いだろうか。春が言っているのは、そういうわけだ。
「いやいやいや、考えすぎだって。重く見過ぎじゃね?」
「逆だ。お前が軽く見過ぎなんだ……」
 春の言葉はさっきから何やら重い。陰鬱気だ。元から躁鬱の気が激しいというか、プラス方向からマイナス方向まで感情の揺れ幅が多い彼だ。どちらの極でも長広舌を駆使するのは変わらないが。
「本当に塞がっとるのか? 馬鹿な!」
 壮年の男性の声。音を聞いていると、立ち上がって歩き出したらしい。暗闇の中だけれど、つまづくことも無く私の前を通り過ぎた。まだ壁を照らし続けている河内の横に立つと、ぺたぺたと触り出した。下から上まで隈なく。しかし、隙間も見つけられなかったらしい。舌打ちと呪詛染みた声。それから、がすっという気の抜けた音が聞こえた。どうやら、壁を蹴ったらしい。彼がもう一度それをやったところで春が声を出した。
「やめましょう。更に崩れて酷いことになる……」
 確かに、そうなのかもしれない。彼が蹴り出した辺りで降って来る砂の量が増えたような気がするし。
 また、舌打ち。それから男性は叫び出す。
「おうい! 誰か! 助けてくれ! 誰か!」
 壕の中でひたすら反響する。耳に刺さる様だ。数分間それは続けたが、何かが起こる気配は無かった。そもそも、外に届いただろうか。外まで声が抜けたとしても、それを聞いてくれる人はいるのだろうか。少なくとも、さっき登っている最中に会ったのは河内だけだ。
 もう一度、彼は舌打ちをした。
「おい、大和! こっちに来い。あんたらも! 助けを呼ぶんだ!」
 これといって反対する理由も無いので、私達も立ち上がり、彼の横についた。大和と呼ばれた若い方もやって来る。確かに、こうやって叫んでいるというのが一番現実的だろう。男性の合図に合わせて、私達はしばらく叫び続けた。
 最初にへたれたのは壮年の彼だった。三十分くらい経った辺りだ。それを見て、段々と声が緩んでいき、その五分後には静かになった。喉が痛い。
「誰か聞こえたら、助けに来るだろ……これだけ叫んだんだ」
 どすんと音をたてて河内が尻をついた。他の面子もその場に座る。
 それからしばらく、誰も話そうとしなかった。息切れや淡が絡んだ咳をする音が段々と小さくなっていき、最終的には消え去った。汗も段々とひいていく。ひいたら、冬らしい寒さが襲ってきた。冷えている。酷く。それに、湿り気。
 携帯電話を見る。さっき圏外かどうかを確かめた時から一時間半が経過していた。外に誰かが来る気配は無い。土が厚くて誰かが来ても分からない程、ということなのかもしれない。しかし、もしそうならばこちらの声も外へ出ていないわけだから……一切が無駄ということになる。
 尻の辺りが湿って来た様な気がする。やはり、何だかじめじめしている。こういう場所の穴なのだから、当たり前か。
「えーと、その」
 河内が口を開けた。久々の誰かの声。
「もしよろしければ、自己紹介を、しあいませんか? 名前も知らない人と一緒の場所にいるのは何だか気まずいでしょ?」
 何とも、彼らしい提案だ。実際に名前を知りたかったというより、何やら気まずい沈黙が続いているのでそれを破りたかったという面の方が強いのだろうけど。
 河内はスマートフォンの明かりをつけ、それで自分の顔をお化けごっこでもするかの様に照らしながら有言実行をする。
「えーと、まず、俺は河内。東京の方で会社員をやっています。はい、次」
 河内はそう言うとスマートフォンを動かし、次の人の顔に明かりが当たる様にした。
「僕は山城……」
 仕方ないなとぶっきら棒に名字だけ春が言う。余りに態度が悪いので私がそれを拾う様につなげる。
「和泉です。こちらでリーマンやってます」
「大和太郎です。えーと、私も来津で働いてます」
 続けたのは若い方の男。それから、少し間が空いて機嫌悪そうに壮年の男性が言う。
「摂津英巳。大和と同じ会社で働いとる」
 春に負けず劣らずの具合だ。いや、春の方が態度悪いか。しかし、摂津はどうしてこんなに機嫌が悪いのだろうか。落盤の前から何やらヒステリック気味な声を出していた様な気がする。喫茶店で見た際は、そんな感じでは無かったのに。
「大和さんと摂津さん、ですね。今日はどうしてこんなところに?」
「なんともなし、です。うちの会社で脱サラして来津駅の辺りで喫茶店を開いた人がいましてね、そいつを半ばからかいに私と摂津さんで店を訪ねたんです。で、えーと、その彼が所謂軍事オタクといいますか、戦争好きで、そこの場名美山に防空壕があるとか教えてくれたんですね。で、気になっていたのでやって来た次第です。摂津さんも私もスポーツシューズで不都合はありませんでしたし」
 軽くのけぞってしまった。こんなにペラペラ喋る人だったとは。いや、さっきから彼は余り話していなかったからその所為で堰が外れた様になってしまったのか。ともかくも、彼らの状況は把握できた。あちらも好奇心で覗きに来ただけのど素人だった様だ。店を先に出た私達より早く到着していたのは、道のりの詳細を教えてもらっていたか否かだけの違いなのだろう。
「僕らは喫茶店でその話を盗み聞いてしまいまして。面白そうだから、と見学をしに来た次第です。こんなことになるなんて、ついてませんね」
 これを言ったのは私だ。正確に言えば僕らには河内は含まれないのだが言ったら多少ややこしくなりそうだし、どうでも良いことなので省略した。河内の方もつっこみを入れる気配は無さそうだ。
 そこでまた、会話が途切れた。慌てて河内が話の種を投入する。
「しかし、本当に閉じ込められた、んで、しょうかね。出入り口はここだけ?」
「落盤する前、奥にいましたけど何もありませんでしたよ」
「見る限り、小さな穴すら無さそうだ。だけど、そんな息苦しくないな。多少は空気が流れてるのかな……酸素欠乏とかはならなそう、か。不幸中の幸いだ」
 大和が答えたところを、春がまとめる。
 実際、ここが完全に密閉された空間だとして、この人数がその中にいてどれくらいで酸素が無くなるものなのだろうか? その辺りが分からないので、今の春の判断が正しいのかどうかいまいち私には分からない。いや、春も完全に把握しているわけではないだろうけど。
「どっか掘って出口作れないかな?」
「入り口のあった辺りはさっき山城さんが言ってたみたいに崩れそうだから駄目。でも、左右も後方も無理。上はそれこそ崩れるでしょうし。下も無理。そもそも、どの方向でだってスコップとか道具無しでは辛そうです」
 大和の言葉を聞いて、試しに地面を引っ掻いてみる。少し湿ってて少しは掘りやすいのかもしれないが、とてもじゃないが人が通れるくらいまで掘れる自信は無い。土竜じゃあるまいし。全員で力を合わせて必死に掘っていけばいけなくもないだろうが、それでも相当な時間がかかるだろう。昔見た映画を思い出す。脱獄がテーマの物語で、外までの穴が完成するまで半年以上かかっていた。この場に看守はいないが、その代わりスプーンすら無い。
 そうなると、どういうことになるか。誰でもすぐ辿り着くだろう。私が言う前に、河内が口に出した。
「となると、やっぱり、誰かに助けに来てもらうしかない、か」
「だが、それはさっき言った通り望み薄だ」
 後頭部を掻きながら、春が陰鬱な調子で言う。
「気にしすぎですよ。さっきの声を誰かが聞いて、今人を呼びに行っている最中かもしれないじゃないですか」
「そ、そうだよな」
 大和の後を河内がフォローする。どちらも言葉通り、楽観している様子だ。どもっているから動揺している様に見えるが、それは春の態度にひいているだけだろう。しかし、と私は思う。春程沈んでいるつもりは無いが、この二人にも同意できない。私は、それを口に出す。
「いや、さっきの声が仮に外に出ていても、それを聞きつけて誰かが来てくれる蓋然性は少ないよ。さっき、僕らは摂津さんの声を登山道で聞けた。だけど、それは防空壕の入り口が空いてたから。反響もあっただろうし。そして、それですら耳を澄まさなきゃ聞こえなかったんだ。口が閉じている今、同じ様に叫んでも外に聞こえる音は今以上に小さい。それが道理だ……だから」
「叫んでも無駄って言いてえのか?」
 そこで、久方振りに摂津が声を出した。
 頷く。数秒後に気付いて「ええ」と声にした。河内がスマートフォンをしまったので、本当に中は暗闇なのだ。
「ふん! じゃあ、眠っておいた方がマシだな。いずれ助けが来るだろ」
「摂津さん」
 大和の言葉に答えず、摂津は立ち上がると少し離れた位置まで歩き出した。そして、恐らく、その辺りに寝転んだ。しまった。気を損ねてしまったか。確かに、自分が率先してやり出したことを否定されたら誰だって頭にきてしまうだろう。反省する。
 雰囲気がそれで醒めた。
 二、三言それぞれが発した後、音は完全に途切れた。先程よりももっと、気まずい沈黙がゆっくりと壕内に広がっていく。
 少し大きな土塊が落ちてきた。聞いて、春が重い調子で呟く。
「壕自体、いつ潰れるかも分からないな……最悪だ」

 *

「救助、来ないな」
 ため息混じりに私は吐き出した。
 携帯電話を閉じる。サブディスプレイに時間が表示される。午後六時過ぎ。冬だから、もう外は暮れているだろう。それなのに、どうにも。何も変化が無い。あちら側に救助隊が来ていれば既に救助されることは無くても、何らかのコンタクトはある筈だ。しかし、何も起こっていない。前の土壁は時折自然に薄く崩れる以外は何も起こっていない。指し示している事実は一つ。口に出してしまった通り。
「うん、ああ、そうだな。もう六時か。どうなってんだよ」
 河内がスマートフォンから顔を上げる。彼は、この数時間ずっとスマートフォンをいじっていた。内蔵のゲームで遊んでいるのだろうが。電池が切れることを心配していないのだろうか?
「もしかしたら、今日はもう駄目なのかもしれませんね。夜になってからはそれこそ望み薄。うわ、やだな。こんなところで一晩……明日、仕事ですよ」
「呑気だな、大和さん。もしかしたら、もっと閉じ込められるか、下手したら死ぬかもしれないのに。雨でも降り出したら、一コロかもしれない。地盤が更に緩んで」
 春の声はますます暗い。ずぶずぶとひたすらに下降していくような。陽の体質の河内には気に入らないのだろう。すぐに文句が入る。
「なんか、さっきからネガティブなことばっか言ってないか? そういうことが起こるのを望んでんのか?」
 「まさか」と嘲る様に笑ってから春は答える。
「ただ、僕は冷静に分析しているだけだ。今のこの状況を。まずいよ、本当に、まずい。なのに、どうしようもできない」
「悲観的すぎるんだよ、それが。こういう時は楽観的にいるべきだって」
「私もそう思いますよ。誰かさんみたいに不貞寝するなんて持っての他。ねえ、摂津さん。聞こえてます? てか、起きてるんじゃないですか?」
 語尾をだらりと伸ばして、大和は摂津の方へ言う。しかし、返事は無く彼の声は虚しく反響するだけだった。摂津は本当に寝ているのか? 視認できないと確かなことは言えない。もしかしたら、吸血鬼の如く霧になって壕内から脱出しているのかもしれない。我ながらくだらない発想だが。
 春は不機嫌そうにふんと鼻を鳴らした。
 しかし、仕事か。成程。考えなければいけないことかもしれない。さっきの自己紹介を聞いているとここにいる誰もが定職を持っている。今日は休日だが、明日は普通に仕事だろう。ここからじゃ休みの連絡なんていれられないから、無断欠勤。いや、そんなことを考えている場合じゃないんだけれど。
 ぼうっと考えて、これは聞いておくべきじゃないかというものを思い当たった。私はすぐに声にする。
「この中で、今日、ここに来るってことを誰かに言っている人っている、か? えーと、その、だから、何処にいるのか分からないってなった時に『そういえば場名美山の防空壕見るって言ってたよ』と答えてくれるような……そうじゃなくても、会社以外に行方を気にしてくれそうな人はいるか?」
「……俺は、いない。実家に行くつもりで来津に来たけど、誰にも言ってない。一人暮らしだから、一日や二日いなくなっても会社が怒る以外は何も無えや」
 私の質問が指す意味くらいは分かっただろうに、至って調子を変えずに河内は言う。その後、大和が続ける。
「私達は、例の喫茶店の店主に聞けばここにつながるとは思いますが……でも、会社が彼に私達の行方を尋ねるなんてことは無さそうですし……彼女がいますが、今喧嘩中だし、で、喫茶店に行くってことは誰にも言ってませんね。で」
 そこで一回、彼は話を止めた。きっと、摂津のいる闇の方を向いているのだろうとなんとなく想像。
「摂津さんは、家族もいませんしで、多分、誰にも言ってませんね。ああ、うん、そうですね。結局、私達の周りに通報してここにいるって教えてくれる様な人は……」
 いない。
 春の言う通り、救いの手が来る希望は少なそうということになる。そりゃ、そうだ。話を聞く限り、皆気まぐれにここを目指しただけなのだから。しかも、帰ってこなくても心配してくれる様な家族も無しと来た。ああ、畜生。春の言う通り、いつ再び崩れるのか知れないのだから救助が来るなら早い方が良いのだが。それに、色々と重大な問題がある。
「後、一つ、言いにくいことがあるんだけどさ。えーと、その、もう少し我慢できるよ。もう少し。でも」
「……どうした、河内?」
「あれだよ。仕方が無い生理的現象というか、さ。つまりは、その、俺の膀胱の中に液が溜まっているというかね。なんというか」
「ああ、小便、か」
 折角、遠回りにと努力をしてくれたのに春が台無しにした。
 だが、笑い事ではない。長くこの中に閉じ込められるということは、そういう問題が出てくるということなのだ。幾ら努力しようとも、幾ら我慢しようとも、私達は自分の体の内部までコントロールできない。排泄の欲は出てくるし、腹だって減る。空腹の方は一日二日なら何とかなるだろうが――といっても、現時点で大分腹を空かしている。昼食をとってないのだ。今日は。こんなことなら喫茶店ではなくファミレスにでも入れば良かった。そうしておけばこんな所に閉じ込められることも無かったわけだし――他の活動はどうにもならない。止めようと思って止められるものでは無いのだから。
「隅の方でしてもらうしか、無いでしょうね」
「やっぱり?」
 何故か、そこで河内はへらへらと笑った。何とも、余裕があることだと思う。いや、照れ隠しだろうか。
 唇が歪む。この空間で、するのか。そういうことを。厭だ。暗いから見えないのが幸いといえば幸いだろうが……臭いも残るだろうし、している時の音をこの響く場所で聞かなければならない。ハイヌウェレならともかく、我々はただの人間なのだから、出てきたものたちは何の役にも立たない。
「寒いし、暗い……な」
 そこで春が、流れを無視して言う。
「誰か、明かりになる様な物とか無いか? 携帯電話じゃなくて。携帯だと、すぐに電池が切れるから」
 返事は無かった。春の言葉は闇にただ吸いこまれる。暗くて寒い黒色へ。
 外気からほとんど隔離された場所だから、夜になったことはほとんど関係ないと思われる。ただ単に、私達自身の体温が下がってきているのだろう。動いていないから。冷えた湿り気味の土が熱を吸い取っているのだ。
「食い物も飲み物も無えし。何も無えな。男は荷物持って外出しないからか」
「関係無いだろ。たまたまだ。多分」
「でも、あれじゃん。女が一人いたら、もうちょっと空気違ったよな。多分」
「そうですね。摂津さんも、それなら不貞寝することは無かったでしょうねえ」
「何? やっぱ、好きな方なのか、この人」
「そりゃ、もう。セクハラジジイで有名ですって」
 能天気な大和と河内の会話が続く。状況を把握しているのかと、ちょっと不安になる。春が言っていたことはしっかり頭の中に入っているのだろうか? 場の空気の主導権を完全に彼らに握られている気がする。いや、私は別にそれに文句は無いけれど。春は気に入らないのかもしれないが。
「あ、ごめん、もう駄目だ」
 そこで河内が立ち上がり、奥の方へと駆け出した。真っ暗なので摂津を踏んだりだとか転びやしないかと思ったが、どうやら無事らしい。
 それから、予想通りのぼとぼとという音がする。そして、アンモニア臭。やはり、厭だ。ろくなもんじゃない。河内のため息まではっきり聞こえる。顔がねじ曲がった。
 髪を掻き毟る。早いところ脱け出したい。心の底からそう思った。

 *

 時刻を確かめた。午後十時三十七分。そして、当然の様に私達は未だ壕の中にいる。
 この数時間、何も起こらなかった。外には何の気配も無い。やはり、あの叫び声は誰にも届かなかったのだろう。もう一回挑戦するにしても、今の時間は適していないだろう。夜中に山にいる人種なんて、ろくなもんじゃない。不審者か山女かのどちらかだ。
「うーん、今夜は駄目かもしれませんね。会社に連絡も入れられないし、初の無断欠勤ですよ。ねえ、摂津さん」
 そう言う大和からは、声に混じって関節が鳴る音がした。伸びでもしているのだろう。
 摂津の返事は無い。どうやら、寝ているらしい。一回用足し――とうとう、彼が大の方をした。土で埋めているが、壕内には特有の臭いが漂っている。獣小屋さながらだ――をしに起きた他はずっとだ。耳を澄ませば寝息が聞こえるから、前に大和が言った様に狸寝入りというわけでは無いようだ。
「じゃあ、明日の朝、か? 散歩とかで誰か来るかな」
「ですかね。しかし、腹が減りましたね。喉も渇いた……」
「全くだ。外に出たら、まず何食おうかな」
 ここに来ても、河内と大和の二人は何とも呑気な会話をしている。焦ってもネガティブになっても仕方が無いのは確かなんだろうが。
 ごろりと寝転ぶ。人の手が加わっているとはいえ、石だとか出っ張りだとかはあるわけで、余り良い気持ちとは言えない。じわじわと服までが湿っていくのも厭だ。我慢するしかないのだろうが。とりあえず、まだ眠くは無いので起き上がる。と、そこで入れ違いの様に河内が寝転ぶのが感じられた。
「それじゃ、やること無いし、もう寝るわ。スマホも電池切れちまったし」
「そうですね。私も」
 続いて、大和も。もう慣れが入って来たのか、音だけで何をやっているのか大体分かる。
「本当に、寝るのか? 寝てしまうのか」
 春が言う。
 彼が発言する度に、壕内の空気が降下する。エレベーターのスイッチだ。河内と大和を楽観視しすぎと思っている私ですら、何だかなと思う。何事も極端はいけない。
「正気の沙汰とは思えないよ、僕には。いつ落盤するかも分からないんだ。震度四とはいえ、余震だとかもあるかもしれない。タオに身を任せて死のうっていうのか?」
「んなもん、起きてても寝ても変わらないだろうが」
「ああ、そうだよ。過小な力しか持っていない僕らには何もすることは出来ない。起きていても寝ていてもね。ただ、だ。なんとなく、お前らがそのことを分かっていない。この状況の悲惨さ、どうしようもなさを理解していないんじゃないかという気になってね。理解していれば、そうも気楽にはいらなれない筈だ。ああ、違う。分かっている。自分勝手な論理だとはね。ただ、僕は、どうにもこうにも、最低な状況であるとしか考えられないだけなんだ」
 春にしては珍しく、何とも支離滅裂だと思った。何が言いたいのかよく分からない。いつもの論理性が無い様な。そんな感じがする。声にはしなかったが。
 呆れたのか何を言っているのかよく分からないのか、河内は返事をしなかった。ただ、息遣いが聞こえるのみ。しばらくして、それは寝息へと変わる。大和も同じく。
 また、砂が落ちてきた。
 確かに不安ではある。しかし、そんなこと考えたって仕方無いではないか。可能性だけならこの世界はどんなことでも起こり得る。普通に暮らしてたって絶対に死なないなんてことは無いのだ。それならば、いちいち考えていたって仕方がない。皆、とりあえずとそうした可能性に目をつぶって気楽に生きているのだ。酷く日本人的考え方ではあるが、とにかくそれが普通。
 だから、私は春に言う。小さな、彼にしか聞こえないであろう声で。
「すまない、俺ももう寝る」
 それに対する春の返事は無かった。
――意識を失う直前、彼のため息が聞こえた様な気がする。


 5 ――二日目・朝

 私の安眠を妨害したのは無粋な電子音だった。ひたすらに繰り返される単音が私の耳に入り込み「起きろ起きろ」と騒ぎ立ててきたのだ。いくら無視しようとしても止みそうにないので、私は自らに鞭を打って目を開ける。そして、そこで少し狼狽した。目が覚めた筈なのに、その先に朝の光が無いのだ。ただ、真っ暗。どうしたのだとしばらく考えて、ようやくして状況を思い出す。私達は、最悪の状況下に立たされていたのだ。
 ひとまず電子音を無視して、携帯電話を取り出す。もしかしたらと思っていた希望はすぐに打ち砕かれた。相変わらず、画面には圏外の文字が表示されている。何も、変わってやしない。時刻は午前七時過ぎ。
 とりあえず、落盤は起きなかったようだ。それは幸いと言えるだろう。寝ている間にお陀仏だってあり得たのだから。そこは神様に感謝しなければ。いや、私は何処の宗教にも属していないけれど。クリスマスもお盆もただのイベントとして捉えている一般的日本人だ。
「何だよ、この音。うるせえな」
 河内の声がした。おはよう、と挨拶をする。しばらくの間が空いてから返事が来る。やけにぶっきら棒に。朝は弱いタイプなのだろうか。
「おはよう、ございます……」
 大和も起きた様だ。一人が起きたら皆目覚めだす。なんとなく、修学旅行の朝の光景を思い出した。
「この音は、誰の?」
 春も起きて、すぐに質問に入る。声のテンションが昨日よりマシになっている。一晩寝て頭が冷えたのだろうか。
「俺じゃない」
「これ、多分、摂津さんのでしょうね。携帯の目覚ましです。おーい、摂津さん」
 大和が呼びかける。しかし、返事は無かった。
「起きてくださいよ。寝ているの、あなただけですよ」
 もう一度。しかし、同じく返事は無い。
「いい加減うるさいから、止めておきたいが……」
「そうですね。ああ、仕方ないなー」
 大和はスマートフォンを取り出すと立ち上がり、摂津のいた方向へと歩き出した。ライトでしっかり照らしているので、迷うことは無い。摂津は昨日から変わらない定位置に寝転がっていた。うつ伏せで、地面に控えめな大の字を書いている。確かに、電子音は彼の体からしているようだ。ポケットにでも携帯電話は入っているのだろう。
「摂津さん、朝ですよ。年寄りは起きる時間ですよ」
 そう言うと大和はライトを摂津の顔面へと向ける。
 ――途端、彼のスマートフォンが落下した。
「せ、摂津さん……? え? ど、どうしたんですか!」
 落ちたスマートフォンはフットライトと化していて、その後の大和の行動を鮮やかに照らし出す。彼は狼狽した様子でしゃがみこみ、摂津の体に触る。そして、すぐに火にかけた薬缶にでも触れたみたいに手を離す。それから道化の如く大袈裟な素振りで尻もちをつくと、叫んだ。
「誰か!  来て! せ、摂津さんが! 摂津さんが!」

 *

「おかしいだろ? 何かの間違いだろ。畜生!」
 河内はそう喚き散らしながら、春の肩を揺さぶった。バランスが崩れて倒れかけたところをなんとか左腕で持ちこたえる。
「どういうことだよ、なあ!」
「落ち着けって」
 低い声で春が宥めようとするが河内のパニックは続く。こちらの状況など知らずに、叫んで春の肩をひた揺らす。
 しばらくは我慢していた春だったが、途中で我慢しきれなくなったのか河内の胸をとん、と押した。態勢が崩れて河内は盛大に尻もちをつく。石やらが突出していることだし痛いだろうなと私は少し同情した。
 河内の荒れた息がおさまるのを待ってから春が言う。
「信じられなくても何でも、とりあえず摂津は見た通り殺されている。それだけだ」
 河内からは何も返ってこなかった。
 私も、春の言葉を口の中で転がす。現状を一言でまとめると成程、その通りだ。昨夜まで一緒にいた摂津が何者かによって殺されていた。それだけだ。だが河内の気持ちも分かる。信じたくない。信じられない。そういった気持ちが先に立ってしまう。一日も付き合いが無かった私達だってそうなのだ。大和は、どうなのだろう。私は恐る恐る後ろを向いた。すると、そこには信じられないことをしている彼の姿があった。
 彼は、摂津に煙草を咥えさせていた。
 その動きには淀みが無い。さっき春が取り出して置いておいた摂津の私物の中からマッチ箱を取ると彼は中から一本出して、躊躇うことなく火をつける。そして、その炎をそのまま煙草の先へ。用済みのマッチを地へ捨てると均衡が悪くて今にも倒れそうなそれの抑えへ手を回した。
 地面に置かれたスマートフォンの明かりで薄らと照らし出されたその光景は何処か夢の様で現状にも増してリアリティが無かった。何も言えず、摂津の顎を支えている大和の顔をしばし見つめていたが少しして正気に戻る。
「何をやっているんですか!」
 鼻の先にあの厭な香り。やめてくれ。ここは密閉されているんだ。いや、違う。そうじゃなくて。つっこみを入れるべきはそこじゃない。
 大和は摂津の顔から手を離さずに私の言葉へ応じた。湿っぽい声で。
「摂津さん、煙草、本当に好きだったんですよ……」
「は?」
「ヘビースモーカーで。いつだって吸っていて。そういう時の摂津さんの顔が凄い良くて。一つの煙草終わったら次の煙草といつも矢継ぎ早に吸ってて。昨日も山の中だっていうのに構わずに吸ってて。私は、煙草吸わないし喫煙者の人も嫌いな方だけど、でも、その、やっぱり摂津さんには煙草じゃないとっていう……だから、だから、その、吸ってもらわなきゃ。昨日から吸っていなかったし、だから……」
 そこまで話すと大和は泣き出した。両手で顔を抑えて。とりあえず危ないし不愉快なのでそのスキを抑えて携帯灰皿を引っ掴み、摂津の口から煙草をもぎ取る。地面で火を揉み消すと灰皿の口を開けて煙草を放り込んだ。既に二本程白い影が見える。煙草と灰しか入っていない袋。なんと忌々しい。どうしてこんな物体がこの世界に存在しているのだろう。少し危惧していた大和からの妨害は無かった。
 拍子に摂津の死体に触ってしまった。驚くくらい、冷たい。冷え切っている。死後何時間かは分からないけれど、確かに生きていた人がこんな風になってしまうのか。生きていたのに。確かに、あの時は。
 そこを確かめて、唾を飲み込む。冷静な振りを保ってはいるが、私だって恐ろしい。普通じゃいられない。摂津は殺されている。間違いない。自分自身で死ぬまで首を絞めることなんてできない。死ぬ前に気絶して終わりだろう。自殺しようとするならそれこそ、もっと他の手があるし。だから、摂津は殺されている。春がさっき言ったことは紛れもない事実だ。ということは、ということは――この中に、人殺しがいるということだ。壕の中には私達しかいないのだから。出入りなんて出来ないのだから。
 そこまで思考を巡らせて、戦慄した。汗が噴き出る。おぞましい。今、私は確かに、殺人者と同じ空気を吸っている。なんという、ことだ。
 なるだけ周りから離れた位置へと移動して腰を下ろす。自分の息が河内と同様に荒れていることに気付いたのはその時だった。


 6 ――二日目・昼―四日目・昼

 柱の残骸の木で地面を掘ると、ある程度湿り気の無い層が表れた。そこに壕内で集められる限りの木の葉と枝を並べる。携帯電話のライト頼みの明かりなので少し手こずった。それからライターを取り、スイッチを押す。しかし、点かない。何度か試して諦めてマッチ箱を手に取る。開ける。闇の中、指を動かして本数を数えてみる。十三本。そんなに失敗ができる数では無さそうだ。とにかく、一つ取る。両手をライトの近くへ寄せる。ここで初めて気付いたが、これは例の喫茶店のマッチ箱らしい。広告用の新平型のマッチ箱は箱が薄くて使い辛い。数回空振りしてからやっと火が点いた。そして、それを落ち葉へと持っていく。湿気っていたので不安だったが、何とか引火した。手やら息やらを駆使して酸素を送り込む。しばらくして努力が実り、火が大きくなった。薪代わりの多少大き目の木を被せて、とりあえず安心か。火の方にいかないようにため息をつく。
「火、ついたよ」
 私は他の人へと呼び掛けた。
 火が一つあるだけで壕の中が随分と明るくなる。火を初めて手にした原人の気持ちがよく分かる。まるで魔法だ。有り難くて涙が出てくる。暖かい。河内のマジックテープ式の靴まではっきりと見える。
「空気は何処からか流れているみたいだから、酸素の消費は多分気にしなくて良い」
 続ける様に、ぽつりと春が言う。掌を火に当てて。少しして、羽虫の様に河内と大和が寄って来た。当然のことではあるが、昨日の陽気さは何処かへ消えてしまっていてその姿はまるでゾンビさながらだ。そもそも飲まず食わずで、あんなことまであったのだから。
 しばらく、ぱちりぱちりと枝が跳ねる音だけが壕を包んだ。ゆらりゆらりと火と共に壁に映る影が揺れる。なんだか、安心する光景だった。
「それじゃ、そろそろ、始めようか」
 沈黙を破ったのは春の言葉だった。
「始めるって、何を?」
「検討事項についての話し合いを、だ。考えるべきことはたくさんある。何しろ、この中に人殺しがいるんだ。外部犯なんて可能性はあり得ない。僕らは閉じ込められているんだから。この防空壕に」
 春のその言葉は、重かった。分かってはいるけれど余り考えたくは無かったことを的確に貫く台詞だ。河内と大和の二人も、聞いてすぐに顔を強張らせている。それが見えているだろうに遠慮せずに春は話していく。
「まず、一つ目。これはただの提案だ。今は、今日中に助けが来るかも微妙な状況。つまりはもう一晩、いや二晩……何日もここで夜を明かさなければならない蓋然性が非常に高い。手を血で塗らせた奴がいるのに、それはまずい。だから、この約束を取り決めたい。必ず二人以上起きているようにする。そうしておけば、次の殺しが起きる可能性は無いだろう。殺人犯が複数の場合はそれも意味無いかもしれないが、まあ、その場合はどっちにしろ犯人じゃない奴は何もやりようがない」
 妥当な提案だ。これ以上の殺人が起きない様にするには、それしか無いだろう。それに殺人犯以外の奴が暴れ出そうとした時も、この作戦は有効だ。河内も大和も反対するわけが無く、春のこの提案は満場一致で可決された。
「じゃあ、次だ。これも提案。今からお互いの身体検査をしたい」
「し、身体検査、です、か」
「ナイフだとかの刃物を持ってちゃ、どうしようもならないからな。まず、全員手持ちのものを出してくれ。その後、それぞれ右に座っている人の体を触って何か怪しいものを隠し持っていないか確認」
 そこまで言い終わると、春は財布やら携帯電話を取り出した。少しの躊躇があったものの、他もそれに従う。ここで下手に隠したらそれこそ犯人扱いになってしまうだろう。おとなしく私も全てを差しだした。
 それでも、皆大したものは持っていなかった。財布と携帯電話、その他はハンカチくらい。飴玉一つさえ出てこない。体を触ったって、何も無かった。とりあえず、危険物は無いらしい。
 出したものを全員がしまい終わると春は議題の提出を再開した。
「それじゃ、本題だ。今の状況を、出来る限り整理したい。それぞれの証言やらを合わせて……出来るなら、犯人に迫りたい」
 空気がぴん、と張り詰めた。河内と大和の顔が強張ったのがはっきり伺える。二人とも、何か言いたげだが、何も言えない。そんな感じだ。私も、何も言えない。沈黙を掬い取る様に、春は言葉を連ねる。
「普通、殺人が起きた場合にするべきことはアリバイの確認だろうが、今回はそれは出来ないということは自明だ。アリバイも糞も無いんだからな。一応、聞いておくけれど、昨日何か不審な音を聞いただとか、誰かが立ち上がったのを感じただとか、そういう証言はあるか?」
 首が振られる。春は、それを見るとすぐに継いだ。
「誰がやったのかについて、直接的な証言は得られていない。また、犯行は誰にでも可能だった。摂津さんは壮年。対し、ここにいる生き残りは全員若い。体力的にも圧倒的有利だったろう。とりあえず肉体的な問題で出来る出来ないというものは無い。もう一度、言おう。摂津さんを殺すことは、誰にだって出来た。可能だった」
 最後の一文に、気持ちが強く込められているのが分かる。
 そう、誰にでも出来た。それは言えると思う。私は犯人ではないけれど、もしやろうと思えばいくらでも可能だったろう。そもそも首を絞められるなんて誰も思っていない。無防備状態なのだから、首さえ掴んでしまえば終わり。もしかしたら摂津は寝ていたかもしれないし。その後、幾ら抵抗しようとも先手を打った者の方が有利に決まっている。簡単、だったのだろう。呆れるほどに。犯行場面を想像してしまった。気分が悪い。
「では、誰がやったのだろうか?」
 そこまで喋ると春は視線を一周させた。誰もが緊張した表情を見せる。
「それは、その、あの、悪いけど、決まってる、じゃないか。なあ、和泉?」
 そこで河内が話を振って来た。すぐに「どういうこと?」と答える。彼は一回、顔を伏せて握った拳をしばらく見つめながら答えた。
「はっきり、言っちまえば、犯人は大和さんしかいないんじゃないか? だって、俺達は昨日初めて摂津さんに会ったんだ。殺すも生かすも関係ない。動機が無いんだ。だから、犯人は、その、大和さん……」
「そんな!」
 大和が立ち上がった。だけれど河内に組みつくわけでも無し、すぐに座り直す。それから、彼は髪を掻き毟って反論を壕内へと提出した。
「確かに、摂津さんと関わりあるのは私だけです。だけど、だからといって、殺す理由なんてありませんよ。そんな憎んでいる人と一緒に休日に遊びに行きますか? それに、です。仮に殺したいと思っても、こんなところでは殺しませんよ! もっと、人がたくさんいて、容疑者がたくさんいて、そういうところでやりますよ! 当たり前でしょう?」
 一理ある。特に後半部分。
 推理小説に対する批判としてよく言われることだ。どうして閉ざされた館の中で人を殺す? 密室トリックなんて使うよりも、街中で通り魔の振りをして殺す方が余程捕まりにくいし足がつかないじゃないか、と。そして現状はそれの更に極端な場合だ。閉ざされた館よりも余程クローズド。外部からやって来た犯人なんてあり得ない。それなのに、どうしてわざわざ? はっきり言ってわけが分からない。これに論理的な理由なんてあるのだろうか? 少なくとも、今の私が考え得る限りその様な答えなんて出てこない。全くの不合理、不可解だ。
「そもそも、動機というもの自体、水掛け論にしかならないからな。世の中には信じられない様な動機で人を殺す人が幾らでもいる。今の河内の言い分だけじゃ、犯人特定はならない。お前に対する動機だって考えようと思えば幾らでも考えられる。逆も然り、だがな」
 春はそう言うと笑った。余り趣味の良い笑い方じゃない。嘲りに近い様な、聞くと不愉快になる類のもの。どうしてこんな笑い方をするのだろうか? なんだかんだで彼も精神的に不安定になっている、というだけだろうか。
「何が言いたいんだよ」
「別に、動機に関しても同じく誰にでも適応できるってだけだ。動機からじゃ、犯人は絞れないと思うってだけだ」
 春の答えに河内は舌打ちをした。何やら空気が悪くなりだした。話を逸らそうと、私は別の話題を出す。それも結局は事件の話なのだけれど。
「不可解といえばこの状況で殺人を犯したって他にも変なところが色々あるね。例えば、どうして扼殺だったのか」
 火を起こす準備をしつつ考えていたことだ。この事件において疑問点は何か。色々と出てくるが、その中で最も引っ掛かっていたのがこれだ。誰も発言しないようなので、私は続きを語り出す。しかし、喉が渇く。ちょっと火から離れようか。
「はっきり言って、こちらも正気の沙汰じゃない。こうも掌の跡がくっきり残っちゃっているんだから。警察が取り調べをしたならばすぐに分かってしまうよ。犯人が。掌紋ってのもあるんだよね。指紋もとれるかもしれない。決定的も決定的。今、犯人が分からないっていうのはその辺りの照合ができないだけで。ああも、摂津さんの首に犯人の証が刻まれているんだから……」
「はあ、成程。それもまた、おかしいですよね。はい。警察が調べれば分かってしまう」
 先程の興奮がおさまったらしい。かなり落ち着いた調子で大和が言ってきた。
「他に凶器になりそうなものは幾らでもあったのにな。例えば今こうやって焼べている木でだって殺せる。後、絞殺しようとするなら靴紐でも可能。石だって手頃なものがそこらへんにある。少なくとも今挙げたもののどれを使っても、扼殺よりは足がつきにくい筈だ。それなのに、犯人はわざわざ扼殺を選んだ。さて、どうしてか」
 春が私の意見を補完する。
「何らかの必然性があってやったのだろうが。その必然性とは、何だろうな?」
 春は何故か河内を睨みつけた。
「必然性と言いましても、手で殺すなんて、そんな……」
「そうだな。頭のネジが外れている。全くもってわけわからない。イカれている。しかし、何より恐ろしいのはその彼が狂気を隠して今この場に座っている筈だということだな。狂気と理性は置換可能な関係を持っていると言うが、何とも恐ろしい。この中に理解の外の殺人鬼がいるわけだから」
 春の言葉を聞いて頷く。成程。不可解なことばかり。だけれど、実際に起こったことで、殺人者がいることは事実なわけで。
「では、誰がそのイカれた野郎なのか。そこについてもっと深く考えていこうか」
「やめろよ!」
 春の台詞の最後の二音に被さる様にして河内が喚いた。
「そんな、犯人探しなんてしてどうなるんだよ! 凶器は持っていないことが分かったんだから、なら、普通に、二人以上起きているって原則守って、助けを待てば良いだろ? 空気が悪くなるだけだ! 今日中に、多分、助けは来るから!」
 立ち上がってそこまで叫ぶと、急に彼は口を押さえてさっきの地点までふらふらと行き、もう一回吐き出した。厭な吐瀉音。腹に何も入っていないので胃液のみ吐き出されているのだろう。液体の落ちる音のみただ響く。酸えた臭いと端の方から漂う糞尿のものとが合わさって、気分が悪くなってくる。
「私も、や、河内さんに賛成です。そんなことをやっても、どうにもならないじゃないですか。とっ捕まえても、そ、それこそ昨夜山城さんが言ってたみたいにここが全て崩れておじゃんになるかもしれないんですよ? 運命共同体なんですから、この中で、そんなこと、やらなくても……外に出たら、結局、つ、捕まるんですから。そ、そりゃ、摂津さんを殺した奴は許せませんけど、でも、でも」
 高くなったり低くなったりの何とも不安定な音程で大和は一息に話した。
 確かに一理あるというか当たり前の考え方だ。疑われるというだけで気分が悪くなる。私だって勿論そうだ。話が具体的になるにつれ厭になってきたのだろう。そもそも、この場にいる春以外の全員がこの話題が始まる前に不服そうな顔をしていた。
「……分かった。やめよう。そうまで反対されちゃ、仕方ない」
 そこで春の冷めた声。意外だった。もう少し反対するかと思っていたのだが。その後、彼は付け加える様に言う。
「ただ、二人以上は起きているというルールだけは絶対に守るように、な」

 *

 時間を確かめる。もう午後五時を回っている。陽は、暮れてしまっただろうか? とりあえず、今日も駄目らしい。夜になれば、助けは来ない。多分。
 腹が減った。喉も渇いている。余り喋る気になれない。他の奴らの口数が少なくなっているのも、その所為だろう。喋っていると口から水分が失われるから。前に火があるのも原因かもしれない。明かりと暖をとる為に木を付け足し付け足しで燃やし続けている。だが、燃料もそろそろ足りなくなってきている様な気がする。何せ湿っているのだ。壕の中は。
 ふと、後ろを振り向いてみる。炎に照らされる様にして摂津の死体が浮かび上がっていた。顔の辺りはよく見えないけれど、変わっていないのだろう。変わっている筈が無い。屍臭とやらが漂っている様な、そうじゃない様な。別の悪臭が強すぎて、よく分からない。しばらく見つめて、厭になったところで視線を炎へと戻した。
 それからぼんやりと考える。朝、河内と大和の反対によって中断された話題について。
 犯人は誰だろうか? そして、そいつはどうしてこんなことをやったのだろうか?
 最大の謎はこの状況下で殺人を犯したということだろう。どうして、こんなところでそんな行動に出たのか。しかも、掌紋なんていう明らかすぎる証拠を残して。何故?
 例えば犯人が警察に捕まることを前提としていないということが考えられるだろうか。この壕の中の人を皆殺しにして、最終的には自分も自殺するというパターン。自分が死んだ後にいくら調べられても痛くも痒くもない、というわけだ。しかし、そうした計画にしては私達が今生き残っているのが不自然だ。皆、無防備に眠っているのだからその間に全ての行動を済ませれば良い。だのに、そうしていない。一人一人に恐怖を味わわせてということが考えられなくもないが……そんな偏執者のやることにしては殺し方がシンプル過ぎる様な気がする。それに、いつ救出が来るのか分からないのだから早めに全員殺してしまった方が良いのでは? 残り二人となった時に助けが来たら捕まって即アウトだ。
 考えてみても、どうにも結論には達しない。春の言った通り、人が人を殺す理由なんて様々なんだから推測不可能ってことで諦めるべきなのか? だとしたら、他にどんな考え方がある? そういうものが余り介入しない、物質的なもの? だとすると、どうなる?
 頭を掻いた。状況を整理しろ。今まで集めてきた情報から、何か推理できないか? それぞれの持ち物、行動、台詞。とにかく昨日から今に至るまで、あったことを全て思い返す。そこから、何か仮説を。分かるものは無いか? 考えろ。考えるんだ。
 ――答えが見つけられたのは、もう少し後になってからだった。

 *

 二日後の午後三時。ようやく私達は救出された。後で聞いた話だと、近隣の高校の生徒が部活動のトレーニングに場名美山を使っていた際に落盤を発見して通報したとのこと。
 極度の衰弱状態にあった為、取り調べやら何やらの前に私達は病院へと緊急搬送された。


 7 ――二日後・朝

「春、起きてるかい?」
 病室に誰もいないことを確かめて、私は春へとそう話しかけた。
「お前のその台詞が僕の夢の中の台詞じゃなければ」
 噴き出す。春らしい返しだ。安心した。
 救出された日から今日で二日目とのことだった。昨日はほぼ一日寝ていて何も考えられなかった。夜に食事をとれたが胃等を慣らさなければということで食事は酷く簡素なものだったことを覚えている。病院食というと余り良いイメージが無かったのだが、あんな状況下にいたからか少量でもとにかく美味かった。そういうわけで今日はかなり回復できている。……春にあのことを話そうと決意できるくらいに。深く息を継いでから私は言う。
「春。ちょっと、聞いてほしい話があるんだ」
 少し間が空いてから答え。
「何についての話だ?」
 ここでもう一度、思いっきり空気を吸った。大丈夫、決意したんだろう?
「摂津殺しについて、だよ。あれの犯人について――あくまで犯人について、だけだ。どうしてあんなとこで人殺しなんてしたのかだとかは思いつかなかった――一つ、推論が出来た。それを聞いてくれないかい?」
 そう、私の中で推論が、推理が完成していた。正確にはもっと前、壕の中にいた際、しかも摂津の死体が発見された当日には大体が出来上がっていたのだけれど言いだせなかったのだ。どうしても。でも、今なら言える。春に対してのみなら。
「……断る理由が無い、な。どうぞ話してくれ。興味はある」
 その言葉に勇気づけられる。小さく頷いてから、私は話し出した。
「まずこの事件を考えていくにあたって何に着目するべきか。スタート地点はそこだった。
「あの場で話し合われたのはどうしてあんな所でわざわざ殺人なんかに及んだのかとどうして扼殺なんて選んだのかくらいだったが、どうもそちら側の攻め方は駄目そうだ。お前も少し言ってた気がするけど、それらについては幾らだって理屈がつけられる。説得力があるか無いかの違いはあるだろうけど。
「なら、どんなアプローチがあるか。あの場で他に不思議だったことは何かあるだろうか。一つ、俺は見つけた。摂津がまだ生きていた頃のことだ。彼は、やけに苛ついていた。落盤が起こる前から、少しヒステリックな調子で何か喚いていた。喫茶店で見た時は温和そうな人だなっていう印象だったのに。一体、どうしてだろうか。俺は、この謎に着目することにした」
 自分の思考のプロセスをなぞっていく。大丈夫、いける筈だ。息継ぎをしてから進める。
「勿論、このホワイだって、幾らでも理屈がつけられるものではある。だけど、狂気が感じられない分、選択肢は少ないと思うんだ。それに、今から話すことはあくまで推理の取っ掛かりだしな。
「さて、喫茶店での時と壕の中では何が違っただろうか。ぱっと、一つ思い浮かんだ。煙草だ。喫茶店では彼は煙草を吸っていた。壕の中では吸っていなかった。
「ニコチン中毒だから煙草が無い時にストレスが溜まるってのは単純な流れだ。じゃあ、どうして彼は煙草を吸っていなかったのか? 山に入ったから? いや、それは無い。大和が言ってたよな。山の中だっていうのに構わず吸っていて、と。彼は山の中でも関係なしに煙草を吸うタイプだったんだ。場所なんて関係なし。常に煙草を吸う。そういう人だったわけだ。摂津は。なら、他に何が考えられる?
「重度のニコチン中毒者が喫煙できない状況。それは何だろうか。ざっと考えて、一つだけしか考えられない。物理的に吸えなかった、だ。といっても、彼の手と口は正常だった。ハードの方に問題は無し。なら、問題があったのはソフト。煙草自体はまだパッケージに数本残っていた。残るは、火の方。そして、ライターはガスが切れていた」
 あの日、火をつける際。私はまずライターを手に取って点火しようとしたのだ。そして、火はつかなかった。あれは間違いなく、ガス切れだ。
「でも、マッチがあっただろう?」
 そこで初めて春が口を挟んだ。しかし、予想内の反論だ。むしろ丁度良い合いの手。笑みを浮かべてから、私はそれに応じる。
「そう。マッチ。確かに摂津のポケットにはマッチが入ってた。しかも、俺はそれを使って火を点けさえした。それがネックだった。しかし、少し考えてみて俺は分かった。マッチの件はこの事件を考えるにあたってストッパーにはならない。むしろ、手掛かりなんだ、と。神が垂らした蜘蛛の糸なんだ、と」
 ぴん、と指を立てた。すると春は驚いたといった口調で「どういうことだ?」と尋ねる。その質問に、すぐに答えた。ここからが私の推理の本番だ。
「逆なんだよ。摂津がマッチを持っていることが、おかしなことなんだ。彼はマッチなんて持っていなかった筈なんだ。
「何故そんなことが言えるか? 摂津の携帯灰皿を見たからだ。良いか? 春。あれには、マッチの燃え殻が入っていなかったんだよ。そのくせ、煙草の吸い殻は入っていた。これは明らかにおかしい。だって、マッチはしっかり使われていたんだから。あのマッチ箱は十六本入りだと箱に書いてあった。で、俺が火を点ける時に数えたら十三本。大和が摂津の死体に吸わせる際に使ったのを足しても十四本。二本、使われているんだよ。なのに、その燃え殻が入っていなかった。二本分の。摂津がマッチを持っていて使ったのなら、携帯灰皿に二本入ってないとおかしいんだよ。燃え殻が。
「マッチの燃え殻はポイ捨てした? そんなモラルの奴が携帯灰皿なんて持ち歩くだろうか? 煙草の吸い殻の方はしっかりと入れているのに。考えにくいし、余りに不自然だ。燃え殻は別の場所に捨てていた? それは近くに別の灰皿がある場所でしか成り立たない。山に入ってからは灰皿は無い。摂津は山に入っても煙草を吸っていたとのことだから携帯灰皿に入っていた二本は山に入ってからのものだろう。彼は灰皿があるところで携帯灰皿の中身を捨てる習慣があったみたいだから。ということは最低でも一本は山の中で点火したってことだ。その燃え殻だけは入ってなきゃおかしい。
「そういう風に論理的に考えていくと、論理的な結論は一つしか見えてこない。摂津はマッチなんて持っていなかった。途中、ライターのガスが切れたから火が無くて煙草を吸えなかった。その為に苛々していた。死体発見時にあったマッチ箱は壕の中にいた犯人が犯行後に彼のポケットに入れたものである……これしか、ない」
 一気に喋って喉が渇いた。ベッドの横のテーブルから水を一口飲んでから再び話し出す。
「これで、犯人の条件が一つ導き出された。犯人は、マッチ箱を所持していた人物である。
「じゃあ、それは誰か? まず、河内はあり得ない。あれは事件当日にオープンした来津駅前の喫茶店のマッチ箱だった。普段東京に住んでいて、あの日に北来津へ久々に帰って来た河内には手に入れる機会が無い。また、仮に北来津の実家へ行き誰もいないので場名美山に登ったという一連の話が嘘だとしても、やはり河内はマッチ箱の所有者ではあり得ないんだ。何故なら、マッチ箱を入れる場所が無いから。あいつのジーンズはピチピチで、ポケットにマッチ箱なんて入れようものなら潰れてしまうことは間違いない。というか、入れてあったら外見で分かってしまう筈。現に、携帯電話と財布のシルエットがはっきりと見えたからな。ということで、河内は犯人ではない。
「では大和はどうか? これも無い。一つ、大和がマッチ箱を取っていたならば摂津はライターのガスが切れた際、彼にマッチをせびった筈。次に煙草を吸わない大和にはそもそもマッチ箱を取る理由が無かった筈。店の住所等の確認の為になら、レジに名刺が置いてあったからそれを取れば良い。わざわざ使いもしないマッチを取る必要なんて無い。三つ目。さっき言った通り、あの喫茶店はあの日オープンしたばかり。そこのマッチ箱からマッチを二本使う為には喫茶店を出てから山に入るまでの間に火を点けるしかないわけだが、煙草を吸わない大和が何の為にマッチに火を点けたというのだろう? また、その燃え殻は何処にやった? 余りに不自然すぎる。だから、大和も犯人ではあり得ない。
「そして、今の大和に関する理由の二つ目と三つ目は俺にも適応される。それに、俺はあの日、店から持ち出したものはレシートと腹の中のコーヒーだけだ。だから、俺は主観的にも客観的にも犯人ではあり得ない。つまり、だ!
「春、犯人はお前だ。お前しか、いないんだ」
 ――春は、答えなかった。
 私は糾弾を続ける。
「本当は、こんな回りくどい消去法なんて使わずに導いてたよ。お前が犯人だって。マッチの件に辿り着いた時点で。だって、お前、喫茶店が出てから歩いている途中でライターのガス切れてたもんな。でもその後にも煙草を吸っていた。あの辺りにはコンビニも無いから百円ライターなんて買えなかったのに。何で火を点けたか? 分かってるよ。見てたんだから。お前は、マッチで火を点けた。あの、喫茶店の、マッチで。そして、壕内で身体検査をした時はマッチ箱は出てこなかった。当たり前だ。お前はマッチ箱を、摂津のポケットに放り込んでいたんだから……
「では、どうしてマッチを摂津に預ける必要があったか? それは、お前が明かりと暖かさを得たかったからじゃないのか? 他人に明かりか何か無いかと尋ねた張本人が後からマッチがありましたって取り出したら不自然極まりないから。
「じゃあ、何故お前はマッチ箱を持っていたことを隠さなければならなかったのか。それは、俺の所為だ。俺が煙草なんて吸わない、嫌いだと壕に入る時に言ってしまったから。そんなことを言ってた奴がマッチ箱を持っているなんて、どう考えてもおかしいから、そうだろう? そこから秘密がバレてしまうんじゃないかと思ったから……」
 ――と、そこで廊下から足音がしたので私は言葉を止めた。聞いていると、その足音の主が用事あるのは私達らしい。この部屋のドアをノックしてきた。枯れた声で「どうぞ」と言う。
 現れたのは、見知らぬ二人組だった。体格の良い方が懐から手帳を取り出す。
「すいません。来津署の立川と申します。えーと……山城和泉さん、ですね?」

 *

 私達は自首をした。

 *

 程無くして、私は春がどうして摂津の首を絞めるのに己の両手を使うに至ったのか理解した。
 春は取り調べで緊急避難を主張したのだ。夜中、摂津が「外に出る」と喚き出して壁を蹴るなどして暴れ出した。放っておいたら土が更に崩れて壕が埋まってしまうんじゃないかと思った為、それを止めようとしたところ揉み合いになり、つい力が入りすぎてしまった。以上が春の描いたストーリーだった。この話を成立させるには、扼殺がベストだったというわけだ。検死等で何処まで事実が明らかになるのか分からないが、とりあえず今のところ裁判はそのシナリオで進んでいる。弁護士は無罪放免にすると約束してくれたが、実際のところどう転ぶかは判決の時まで分からない。
 しかし、どうしてあの状況で摂津を殺したのかだけは幾ら考えても分からなかった。この緊急避難だったという話は作り話だろう、と私は早い段階から確信していた。これといった根拠があったわけではなく、非論理的ではあるのだが。どうにもそんな理由じゃ納得できないのだ。ということで考えていたのだが、どうにも分からない。
 この事件についての一部始終を文章に直そうと思ったのは偏に文章に整理し直すことによって真実の一端に迫れるんじゃないかと思ったからに他ならない。つまり私は最初、春の動機を把握せずに書き始めようとしていたのだ。そんな折に春が自ら動機を話してくれた、というのは冒頭に書いた通り。推理小説風に書く以上、最初から犯人等を明かすのはどうかと思い会話の途中で切らせてもらったが犯人や事件の概要を説明し終わった今、隠す理由はもう無い。ということで、以下にその会話の続きを記してこの一文の締めにしようと思う。
 ――しかし、この稿自体の発表はいつになるだろうか。そもそも何処に発表するというのだろうか。とりあえずは事件のほとぼりが冷めるまで、私達に判決が下るまでは隠しておかなければならないだろうが……まあ良い。元からただの手慰みだ。


 8 ――後日

「そう、動機だ。僕が話したかったのは、それなんだ。流石に、察しが良いね。
「そりゃ、な。
「じゃあ、話を続けていくよ。今からが、肝心の部分だ。今までは仮定だとかの話だったけど、ここで僕自身の話に落とそうと思う。ちょっと、順番ミスったかな。最初に話すのは僕の体験のことだから、話が限界状況に一人で陥った話だ。まあ、良い。話、整理できているだろ? さて、井戸に落ちるという限界状況に陥った時、どんな抵抗を試みたか?」
 春のシャーロック・ホームズ風の薄笑いは変わらない。私は余りしない顔だ。自分の部屋の窓ガラスに映っている自分の姿なのに、やっぱり別人。他の人は、どうして気付かないのだろうか。こんなにも、私達は違うのに。春は顔を支配したまま、台詞を継ぐ。
「井戸に落ちた際、山城和泉が行ったのは、自己の分裂だった。余りの恐怖と苦痛に耐えきれずにもう一人の自分を生み出したわけだ。この体験は自分のものではない、他の誰かのものだ。メカニズム的には親に虐待をされたことによって……と同じだね。解離性同一障害ではよくあるパターンだ。ということで、お前、和泉は春というもう一人の自分を誕生させ、僕に井戸の中での体験を全て押し付けることによって限界状況を乗り切った。君の中に、井戸に関する記憶は一切ない。僕に押し付けたわけだから。
「もしかして、憎んでる?
「いいや。何でお前を憎まなきゃならない? あくまで主人格は山城和泉なんだ。山城春じゃなくて、な。お前がいなければ僕は生まれなかった。お前が井戸に落ちなければ春なんて存在はこの世界に無かった。むしろ、感謝するべきかもしれないな。まあ、良い。さて、そういうわけで、僕には井戸に落ちた際の限界状況の記憶がある。それは良いな?」
 私は頷いた。
 しかし、そうか。春が誕生したのはそれが切っ掛けだったのか。正直、今の今まで春といつからの同棲なのか分かっていなかった。気が付いたら彼は私の中にいたのだ。井戸のことは初耳だった。その辺りの記憶が飛んでいる、というわけだろう。何とも不思議なものだ。人間の脳は。
「さて、というわけで、今回の防空壕だ。ここで僕らは限界状況に遭遇した。といっても、お前は呑気にしていたかもしれないが。限界状況の記憶がある僕としては、たまったもんじゃなかったんだ。何度も言っていた通り、本当に、僕らは何も出来なかった。いつもう一度崩れるかもしれない穴の中に、閉じ込められていたんだから。それに、だ。あの場には僕の記憶を呼び覚ます状況が揃っていた。湿って、冷えた空間。糞尿の臭い。昔の記憶と相まって、僕の精神はすぐに限界状況を自覚した。目の前に、死を感じた」
 春があの場でどうして、あそこまでネガティブになっていたか。その理由がようやく分かった。死を一度感じた人間は死の気配に敏感になる。そういうことなのだろう。ましてや、多少なりとも似た状況にあっては。
「限界状況っていうのは、自らの過小性を自覚する様な状態と言ったな? 何も出来ない。何の力も無い。それを自覚するのが限界状況なわけだ。つまり、人はその状況下にとって、赤子なんだ。赤ん坊はどうして泣くか? それは、力が無いから、誰かに守ってもらう為だ。誰かに頼る為。近くに人がいてほしいからだ。僕の精神状態は、まさしくそれだった。もしもの時の為に、近くに誰かがいてほしかったわけだ。無力な自分を助けてくれる様な。勿論、人が幾ら集まったって限界状況はどうしようもできない。だが、近くに誰かがいるということは間違いなく救いになる。孤独を癒してほしかった。
「近くに……いたじゃないか。三人も。
「ああ、いたよ。確かに。皆が起きている時は心配は無かった。問題になったのは、全員が寝てしまってからだ。限界状況に陥っていた僕は寝られなかった。しかし、他の人はぐっすり眠っている。この状態じゃ、彼らは助けてくれない。つまり、そこに孤独が発生したわけだ。今冷静に分析すれば、な。あの時はとにかく、不安で、怖くて、どうしようもなかった。初日だから空腹の程度が低くてまだ耐えられたが、一晩以上は無理だろうと感じた。
「……そういうわけで一人ぼっちの限界状況に落ちた、と?」
 春は頷いた。
「耐えきれそうになかった。そして、昔の様に自己の分裂で孤独を癒すこともできなかった。だって、それが無意味だと僕は知っているから。今だって僕とお前で会話しているけれど、所詮は自問自答だ。結局のところ、同じ人間なんだから。そんなことをやっても無意味だ。今までの生活で、お前も僕も所詮同じ山城和泉なんだなと十二分に体験してしまっている。もう一人増えても、同じだ。だから、もっと別な手で限界状況を打開しなければならない。どうすれば良いか? そんなに難しいことではない。皆が起きている時は耐えられたのだから、他の人に起きてもらえば良い。でも、ただ起こすだけでは駄目だ。そのうちまた眠ってしまう。寝させないようにしなければ。ずっと僕の傍に誰かがいてほしかったんだ。
「ちょっと、待て! 春、ちょっと待て!」
 そう叫ぶ私の声は震えていた。つまり、つまり? 今、春が言わんとしていることは。
「だから、殺した……と? そういうことなのか?」
 少しの沈黙の後、春はそれを肯定した。
「その通りだ。これが、僕の動機だ。
「限界状況に、死を直面しているというのにそれを自覚していない壕の中の奴らに、もっと身近な形で死を意識させる。その為に、僕は摂津の首を絞めた。『もしかしたら殺されるかもしれない』と思わせれば、どんなに呑気な輩でも緊張するだろう? 疑心暗鬼にさせる様に、というのも意識した。『犯人を止める為、二人以上は絶対に起きているようにしよう』という提案に自然に同意させられる様に。とにかく、そうして僕は、殺したんだ。
「他の方法は無かった。暴行程度では緊張は長く続かないだろうし、縛られたり拘束されることによってお前にまで迷惑がかかってしまう。それに、マッチを使うこともできないから寒さと闇に耐えなければならないままになってしまうしな。
「そして、それは成功した。あの後、僕は孤独に陥ることは無かった。ちゃんと、誰かが起きてくれていた」
 寝かせたくなかったから、殺した。
 恐ろしかった。そんな動機が、成立してしまった。春の話を聞いて、納得してしまった。それがとにかく、恐ろしい。おぞましい。だが、しかし。いや……どうにも言葉が出ない。そんな私を無視して春は言葉を継ぐ。
「一応の配慮はしたつもりだ。摂津は天涯孤独とのことだったから、あの中で殺すには一番都合が良かったんだ。大和には彼女が、河内には家族がまだいるとのことだったし……すまないとは思っているけど」
 ――自分の顔を殴りたくなったのは、初めてだった。

作者コメント

 うわ、もうこのミスの季節かよと焦ってます。
 結局世界も滅亡しなかったし。
 文矢です。

 例の如く色々と詰め込んである本格ミステリです。
 メインにしたのはホワイダニット(動機当て)のつもりです。
 完全なクローズドサークルの中でどうして殺人が起こったか? という梓崎優の「砂漠を渡る~」の向こうを張るつもりで。
 犯人当ての要素も入ってますが、論理の部分はともかく犯人自体はかなり当てやすいかなーと思ってます。
 後、最近はまっている哲学談義も微妙に入ってますが、薄いです。
 一見堅苦しく見えるかもしれませんが緩いんで気にしないでください。


※こちらの方に投稿していた旗平もの(?)の連作については先日完結編となる最終話を書きあげ、某日本で一番尖った賞の方に放り込みましたので、投稿した分は文字化けさせていただきました。
感想をくださった皆様、本当にありがとうございました。
大変参考になりました。

2012年12月23日(日)13時20分 公開

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感想

本気と書いてマジさんの意見 +40点2012年12月23日

こんばんは、本気と書いてマジです。
執筆お疲れ様でした。

私は謎解きが苦手なので、ミステリ部分についてはうまく言えませんが、高い文章力のおかげで、のめり込んで読むことが出来ました。
拙い感想しか書けなくて申し訳ありません。

今後も執筆頑張って下さい。応援しています。

兵藤晴佳さんの意見 +30点2012年12月24日

 拝読いたしました。兵藤です。

 論理だけがじっくりと詰め込まれた、読み応えのあるミステリーでした。
 どこかしゃに構えて偉そうな物言いをする名探偵が延々とまわりくどい理屈をこねる小説というのは、謎解きへの興味がかきたてられないとなかなか読んでいられないものです。
 この作品では、それが単純な方法でクリアされています。
 一つは、消去法。可能性が一つ、また一つと打ち消されていくので、読者としては、どの選択肢が残るのかに注意をひきつけられざるを得ません。
 もう一つは、その消去法を正当化する極限状況。江戸川乱歩『闇に蠢く』や、手塚治虫『奇子』でも用いられている状況で、決して斬新なものではないのですが、たいへん効果的でした。

 ただし、オチは推理小説としては反則でしょう。
 ただし、探偵小説としてはアリかと思います。特に、動機。退廃的で猟奇ですね。

 楽しませていただきました。ありがとうございました。

赤い杯さんの意見 +30点2012年12月24日

文矢様、こんばんは。
赤い杯です。拝読しました。
感想を書かせていただきます。

始めに誤字の報告です。
『6』の章の24段落目、和泉さんのセリフに誤字がありました。

誤:今、犯人が分からないっていうのはその辺りの『称号』ができないだけで。
正:今、犯人が分からないっていうのはその辺りの『照合』ができないだけで。

とても面白かったです。
防空壕の中で死体という特殊な環境での事件ということで、惹きつけられましたし、そこに至るまでの動機当てもよかったです。
前作の例もあったので、今度こそは騙されないぞと意気込んで読んでいたのですが、やはり騙されてしまいました(笑)
お上手です。

ですが、今回のお話のオチはちょっとアレかなと思いました。
もう一度、最初から読み返すとオチに繋がるまでの伏線がキチンと張られていて、お見事なのですがなにか引っかかるものを覚えました。

登場人物も魅力的でしたし、文章もよかったです。
意表を突く真実もまた、楽しめました。

大変失礼いたしました。
次回作も楽しみにしています。

インド洋さんの意見 +30点2012年12月24日

 こんばんわ、インド洋です。
 本作、拝読させていただきましたので以下に感想を。


 誰がしゃべっているのかわかるのにどこか違和感を覚えていたんですが、なるほどそれが最大のヒントだったのかもしれない……。
 いやー、なかなかどうしてお見事な作品でした(はじめて読んだパターンってこともあり)。最後の動機もいいですね。個人的には根本の部分はストレスの肩代わりなんだろうとは思いますが、ぶっとんじゃっててよかったです。

 結局、セリフの繋ぎだったり春の描写だったりとかが指摘しようとメモっていた部分だったのですが、オチがこれだったのでもう文句のつけどころがなくなってしまいました。
 なので、もう書くことが……。

 あ、そうだ、
>スニーカーはスニーカーでもマジックテープで留める式のものだった。
(ほかにもあと一回たしか強調してましたが)
 こういうデコイはいやらしいなと思いましたw
 でも、絶妙に上手いです。それら含めて文章も100ページあるとは思えないほど読みやすさが半端なかったですし。

 それでは~


 PS 公募のほうよい結果が出ることをお祈りいたします。

木本 奏太さんの意見 +40点2012年12月27日

 文矢さん、こんにちは。木本奏太です。
 読ませていただいたので、感想を残したいと思います。

 犯人ぐらいは当ててやろう、と気合を入れて読んだつもりだったのですが、まんまと騙されてしまいました。
 春には、同居だったりタバコ好きだったりで、勝手にシャーロックのイメージを持ち、探偵役だと決めつけていたため、凄い驚きました。
 だって、作中でもシャーロックっぽいって言ってるじゃないか!
 
 さらに、それだけで全部分かった気になっていたら、もう一発。
 自分、ずっと文矢さんの手のひらの上でした。踊り狂いました。とんだ道化です。
 自己紹介が不自然だったことを指摘してやろう、とニヤニヤしてたら伏線だし……。
 
 批判や助言をお望みでしたら、すいません。むしろ、自分が勉強させていただきました。
 とても面白かったです。ありがとうございました。
 では、失礼します。

バリスタ黒さんの意見 +30点2012年12月28日

本感想はネタバレを含みます。


はじめまして。バリスタ黒と申します。
拝読しましたので、恐縮ながら感想を残させていただきます。

おお、すごい百枚。つか何だこの平均点。という感じでクリックしたのですが、読み始めると止まらず、一気に読了してしまいました。
ホワイダニット、という単語を初めて目にしたミステリ初心者ですが、面白かったです! 
マッチ、煙草のくだりから春だろうってのは分かって、ドヤ顔しながら読み進めていましたら……。
>私達は自首をした
ここに至ってまで、「達? え。なんでお前まで?」とか思ってしまった間抜けぶり。
見事にしてやられました。
読みやすい文章、伏線の妙。ともに尊敬の眼で見つめさせていただきました。


異常心理による動機は、十分に納得でき、受け入れられるものでした。
某サイトで見た、サイコパス診断とかいう動画を思い出しました。
常人(本作では『常時』ですかね)では想像もつかない、だけど確固とした彼らなりの論理を近くに感じて、ぞっとさせられました。とてもお上手だったと思います。
最も、「どうも春っぽい……」というのを察した時点で、冒頭の語り、状況を合わせて考えるに、その動機の方向性自体は自然と見えてきたので、意外性という点では、あまり衝撃を感じられなかったような気がします。……そこは別に良いんですかね? すみません。ホワイダニットというものがよくわかりません。

また、唯一消化不良気味なのが、結局、河内さんは何をしに来たのかなあと。
事件が解決した後になっても、彼自身の言葉を信じることがやっぱりできなくて(笑)、気になったままです。
自分が「なんか春っぽいけど、じゃあこの河内さんは何なの?」ってずっと気にしながら読んでいたせいもあったかと思いますが、おとり役の疑わしさに対するフォロー、読者のミスリード以外に納得できる説明が欲しかったなあと個人的には思いました。見落としているだけならすみません。


いかにも素人丸出しの感想で申し訳ありません。
「面白かったです!」という一言以外は、適当に読み飛ばしてくださったら嬉しいです。
それでは、失礼いたします。

Hiroさんの意見 +20点2013年01月03日

おはようございます。
webで長文を読むのが苦手なHiroです。


読み終わってから作品の完成度の高さに感心しました。
難をいうば、序盤の部分が読んでいて退屈だったところでしょうか。
事件が始まってからは、好奇心が動き出すのでそこからは物語に入っていくことができました。

●他
読んでいて、登場人物(春と和泉)の名前(フルネーム)と関係が不明で気になり……と思っていたら、トリックでしたか(爆
他、妙だと思ったところはみなトリックに関わるところだったので、読み終わるころには疑問は解消していました。

ときどき疑問点(トリック部分)で悩み止まるところがありましたが、それ以外のところは読みやすかったです。

序文の内容からして、春が最有力候補だと思っていたのですが、その反面みえみえだからもう一展開あるかな、と考えたら見事に出てきた設定が全部伏線だったという。
本当にお見事な構成でした。

欠点は作品のとっつき難さでしょうか。
感想返しでなければ、序盤でリタイヤしていました。

デキは良かったと思う反面、作品のとっつきにくさと、トリックが絡む文面が咀嚼しにかったのが気になったので+20止まりとさせていただきます。


感想は偏った生き物が書いているので、情報の取得選択にはご注意ださい。
では、失礼しました。


●余談
ミステリって動機から考えるのでしょうか? それともトリック?
ミステリを書いたことがないので気になります。

鍵入さんの意見 +20点2013年01月04日

 スプリングに気付いたのが真相開示後だったんでよーやるなーという気分。鍵入です。『重力ピエロ』でしょうか? クリスマスごろに3章の途中まで、ついさきほど最後まで拝読させていただきました。

>春はやはり窓ガラスに名探偵風の薄笑いを映しながら、頷いた。
:クリスマスから今まで何やってたのかというと、くろけん原作の漫画版逆転裁判を読み、ゲーム逆転裁判をプレイし、映画逆転裁判を観るという逆転裁判祭りで、たぶんそのせいなんですが、さあ読むぞと以前読んだ箇所をざっと流しているとき引用した一文が目にとまりまして、あれこれ実は面会シーンなんじゃないの、とすると地の文的に語り部犯人じゃないから犯人春なんだな(煙草吸ってるけど)、という盛大に空振りしたけどキャッチャーが捕球し損ねたスキに出塁みたいな事態が起こりました。たとえが見当違いな気がしますが流してください。

 マッチの論理。どーにかして被害者がマッチ使う状況がないものかと何回か本文を行き来しましたが、ちょっと考えただけでは思いつきませんでした。ので、とりあえず傷はないのかなと。ですが、初読からしてこの論理だけではあまり満足が得られなかったんですね。というのもこれって「被害者はマッチを持っていなかった」という仮説を思いつけるかどうかが全てじゃないですか。仮説には良い意味での“飛び”がありますが、これだけでは直観に反しているのでストンと落ちにくい。その説明である「本当に被害者はマッチを持っていなかったのか」の論証は、たとえば携帯灰皿が空であることとか、ライターのガス切れとか、想定される個々の状況に対し明確な伏線が一対一で対応しているaので、論理のアクロバットがないんですよね。犯人特定に関しては、犯人の条件さえ明かされてしまえば先は分かりやすいので、これも驚きはありません。平たく言えば「分からなかったしその通りだがそれがどうした」です。犯人当てがメインというわけでもなさそうですし、すっごく酷い無茶振りしているんだろうなーという自覚はありますが。
 あ、ホワイダニットは良かったと思います。わりと重要な要素である「孤独」云々が解決編で唐突に出てきた印象があったのは気になりましたが、狂人の論理としては申し分ないものでした。

 6章で春が持ちかけたディスカッション。作品的にはいわゆるあらためで、春としては「犯人がこの中にいる」ってことを河内らに強調しておきたかったのが理由なのかなと思いますが、あらためが前に出すぎちゃってるかなという気がします。春としては、具体性をもった議論より無根拠でも不安をあおったほうが効果的だったのでは。何かの拍子に犯人だとバレてもたまりませんし。そうするとあらためできないんですけどね。この辺のバランスはもう少し調整したほうが良いかもしれません。

 春と和泉の会話文、問題編では連続して出てくることがないんですよね。気付いてもらえるかも怪しい伏線ですが、こういう細かい作りこみがニヤニヤさせてくれます。これを逆に利用すれば、鍵括弧閉じ忘れと見せかける、みたいな伏線に仕立てることもできそうですが、やりすぎですかね。

 投稿時の筆名は、あれですよね。メフィの結果って次号なんでしょうか? 座談会でコメントが読めることを、ひいてはそこから先も期待しています。それでは、失礼しました。

ゴッピー(ゴパヒゼギラ)さんの意見2013年01月05日

 エビピラフの必然性って……なんてアホな読み間違いをする、感想返しにきたゴッピー(ゴパヒゼギラ)でございます。

 はっきり言います。全部聞き流すことを推奨します(ここ重要)。多分耳に毒かと思います。
 読んでないのと同じくらいにさらっと読んだだけなので評価ナシとさせていただきました。それだけでなく、評価できないというのも理由です。
 しかし私がきちんと客観的に評価ができれば点数は高くなっていたかもしれません。ですが私は変人気質であり偏った意見を持っております。私が感想返しに来たことが不運だった、とお考えください。


 この作品は嫌いな種類の小説です。
 えーと、すごい個人的嗜好を述べるだけになるんですけど、私、フェイトシリーズが嫌いなんですよ。それに似た印象を受けました。

 ちなみに、はじめの数十行を読んだ時点で「タバコ吸うと頭が冴える(気がする)派なのでちっとも感情移入できない」なんて発想が浮かんできたのでまともに評価するのは不可能だと判断しました。
(注!)再度警告します。私の意見は聞くだけ、考慮するだけ無駄です。配慮したとして、作品全体の完成具合を落とすだけです。まずプラスにはなりません。そして私が思い浮かんだ問題を全て解決したところで私の点数は伸びないはずです。根本的に感性が違うと思うし、そもそもそれらの問題は、私個人がこの作品によい感情を抱いていないから出てくる発想なので。むしろ書いてごめんなさい。

 それにより、逆にとてもいい、売れそうな作品だとも思いました。フェイトは人気ありますし、名作だとも考えています。それに似ているなら名作に近いのかもしれません。
 固めの文章と雰囲気がとても流行に準じており、評価は不可能でも名作の予感はしました。
 まったく興味がないのに、展開が意外そうだなーと感じたくらいですし。……暴言をすみません。


 がんばってください! 道は違えど才能は感じました。プロは近いかもしれません。
 是非ともこの調子でいい作品を作ってください。

耳呈さんの意見 +10点2013年01月07日

治安が働いているとき、殺人が発生するには四人以上が必要という法則を思い出しました。耳呈です

1/5の返信を確認したので、今更です。年末に一度読んで、今、もう一度読み返しました。叙述の良いところは二回目には別の楽しみ方があることですよね。アンフェアと指を差される根本なわけですが、個人的には叙述は好きです

始めに、エビピラフじゃないですが、前置き。もう随分と互いの作品読みあって、それで薄々気付いてるというか、言う機会がなかったというか、必要がなかったというか、僕と文矢さんって同じミステリでも方向性は結構違うよなあ、というか
こういう作風としては完成してるだろうし、肌に合わないものを押し付ける気もないんですが、多くの方が感想書いてらっしゃいますし、出涸らしも残っていない状態なので、まあ、うん、重箱の外を突っついてもご容赦願います。というところです


そんなわけで感想です

マッチ箱の論理
瑕はないけど砂上の楼閣という感じ。タバコ吸わない和泉がマッチ箱持っていてもあの状況なら誰も突っ込まないだろうし、突っ込んでも解離性同一性障害疑うことなんてないだろうし、そもそも本当にばれたくないなら春はだんまり決め込むだろうし、等々
ただ、問題ないといえば問題ないと思います。こういう細かいところ気にして墓穴掘るってのは一つのパターンになってるところもありますし

春と和泉
こないだ深夜帯で重力ピエロの映画をやっていました。配役が俺得すぎた
関係ない話は置いといて、解離性同一性障害についてですが、僕は主人格、交代人格が共に表面に上り、五感と肉体を共有しているという症例を知らないので、8章の半ばで叙述に気付きました。切り離した私は切り離されたわたしを知らないという知識があったもんで
なんで、違和感を持つ人は多少いると思います。持ちました。ただ、ゲーム的というか競技的なミステリなら許容可能だと思います

ホワイ
しかしながら、競技的なミステリに仕上げた場合、このホワイが活かされない。ホワイ自体はすごく好み。もっともっと内面に迫る構成にしてほしかったです。
現状、ホワイを成立させるために事実を並べているように見えるんですよね。例えば、エピグラフじゃなくて、井戸に落ちたシーンを冒頭に持ってくるとか。記憶を語るのと場面を描写するのとではやっぱり重みが違います。
もっと言うと、読者が感情移入するのは語り手なので、和泉を完全な傍観者にしてしまうのはもったいないです。

重箱の外
一般的な二重人格者をモデルにして、孤独に対する恐怖から和泉→春にスイッチ。春は切り離された部分なので、他に押し付けることができない。なので、ホワイ敢行。朝には孤独から解放されて春→和泉。ここでディスカッション。平然と自分は犯人じゃないと言える。だが、殺人者への恐怖から和泉→春。扼殺と執筆の理由は告発。確実な証拠と見覚えのない罪状があれば精神鑑定に回されると見越し、そこに交代人格の書いた小説という告発文で和泉に自分が恐怖の受け皿にされていることを理解させようとした。
お粗末様です


>>軽くのけぞってしまった。こんなにペラペラ喋る人だったとは。いや、さっきから彼は余り話していなかったからその所為で堰が外れた様になってしまったのか。

堰を切った。あるいは箍が外れた


最後にどうでもいいながらも重要なことがあって、2章にわらわらと名前が出てくるじゃないですか。僕の第一印象としてほぼ全員が「昔の地名。確か京都の辺り」になったんですよ。そのためか、名前の区別がつきにくかったです。キャラクターは立っていたんですが、春を除いて名前がシャッフルされていました。僕も歴史上の人物からよく名前を借りているので、今後気をつけようと思いました。
全員の名前に赤という字を入れて誰が誰だかわからなくする叙述を思いついたけど、絶対にやらない。絶対に
それでは

ニッキさんの意見 +30点2013年01月23日

大変遅くなりましたが、感想を頂いたお礼に参りました。

さっそくですみませんが、なかなかとっつきにくいお話だなーというのが最初の印象でした。
文矢様=ミステリーというイメージでいたため、序盤にあった哲学の要素の部分で「え、そっち系?」という印象をまず抱いてしまいました。
読み進めていくと、もうドストライクの展開でニヤニヤせざるおえなかったのは確かです。しかしそれだけに、ほんのさわりしか出てこなかった哲学要素はいらないのでは……?と思いました。
入れるならいっそ、内容にがっつり絡んでいた方が、個人的には嬉しかったです。

また文矢様の特徴(と勝手に思っているの)ですが、文矢様の作品は二度読むべきだと思っています。
全体を把握してから、もう一度謎解きを読んで納得でき、更に楽しめるというのは本当に尊敬します。真似してみてもできませんでしたが、コツなどがあるのでしょうか?
何にせよ、私は一度目は全体の把握、二度目で理解という形で読むのが癖なので、とても読みやすくて好きな文章です。
あとは前にも書いたような気がしますが、状況やキャラクターを映像でイメージしやすく、読んでいてまったく飽きが来ないです。キャラクターの言動だけで、環境まで想像できる小説は多くはないので、きっちりお手本にさせていただきます(笑)

すみません、思うがままに書いたら迷走してしまいましたが、とりあえずこの辺りで失礼させていただきます。
鍛錬投稿室での新作を期待しつつ、本で旗平さんに会えることを楽しみにしています。それではまた。

アクセさんの意見 +30点2013年01月31日

こんばんは。
アクセです。
とても完成度の高い作品だと思いました。
面白かったです。

短いですがこれで失礼します。

本さんの意見 +40点2014年02月09日

初めまして、こんにちは。最近このサイトをうろうろしている本です。

さらさらと読めて、読み応えのある物語だった、と私は思います。
訂正する部分もなく、読みやすい文章です。

+40点!

薄っぺらな感想で申し訳ないw