ライトノベル作法研究所
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  5. 無能探偵と死者の館公開日:2013年06月17日

無能探偵と死者の館

こよるさん著作

 第一章 くるいびとの館

 *

 殺人を計画することは、小説を書くことに似ている。
 殺人も小説も、自分にとっては生産的な活動だが、他者からするとおよそ非生産的な活動だ。たとえそれが自分の心血を注ぎ込んだ傑作だろうと、他者から価値を認められることは稀である。そういう意味では、小説も死体も大差ない。違いがあるとしたら、せいぜい腐るか否かだろう。
 彼(無論、彼女でも構わないが、ここでは便宜的に彼としよう)は、人の殺し方ばかり考えるのに疲れ果て、椅子に座ったまま背伸びした。部屋の窓から射し込む太陽光はぎらぎらと激しく、本格的な夏の到来を報せている。彼は凶悪に輝く太陽に目を細め、遮光カーテンを引いた。
 光を遮断すると、部屋はたちまち夜のような暗闇に沈む。
 彼は目を閉ざし、意識を集中させた。
 海に浮かぶ孤島と、島の高台にそびえ立つ洋館。
 今からおよそ二週間の、計画実行の日。
 この手で作り出すことになるだろう、無数の死体。
 殺人のことを思うと、神経は鎮まり、全身が氷のように冷えていく。およそ冷静沈着に殺人を遂行できそうな予感に、全身を震わせる。
 他者の価値を失わせていく殺人という行為に、果たして新たな価値は作り出せるのか。
 殺人者は、死体を作り出していくその過程で、一体何を得るというのか。
 暗がりの道の向こうに、彼は確かに存在している目的を見据える。
 息を吐き、意識を奮わせ、そして目を開く。
 暗闇の中に、後ろ向きの決意だけが残った。

(霧山朽葉(きりやまくちは)『死者の館(上)』より抜粋) 

 * 

 僕が東大寺霧乃(とうだいじきりの)に呼び出されたのは、夏休みに入って数日が経った頃のことだった。
 夏休み――高校二年生、十七歳の夏だ。
 彼女と夏祭りに……みたいな、分かりやすい青春イベントとは無縁の僕だが、それでも今年の夏にはちょっとした予定があった。というのも、クラスの友達と一緒に、五人で長野へ遊びに行こうと計画していたのだ。三泊四日で、避暑がてら信州を満喫しようという計画だった。
 白状すると、実は友達同士の旅行なんて中学の修学旅行以来だ。そういう事情も手伝って、僕は少し浮き足立っていた。
 旅行自体は二週間後だけれど、じゃあそれまでに宿題を片付けようとか、そんな気はちっとも起きなくて。本屋で「信州」と大文字の入ったるるぶを買ってきて、居間でごろごろしながら、まだ見ぬ信州の地に想いを馳せる生活。それはそれで夏休みを満喫してるなぁって気がして、悪くなかった。
 悪魔の呼び鈴が鳴り響いたのは、そんなときだった。
 るるぶで信州そばの特集ページを眺めていると、居間の片隅に設置された固定電話が鳴り出す。両親が共働きで仕事に出ているため、電話には僕が応対するしかなかった。
「はい、小坂(こさか)です」
『あ、ゆぅくん。ぼくだよ』
 夢の中にいるような、独特に甘ったるい声音。僕は一瞬にして、電話の相手が同じマンションに住む東大寺霧乃であることを悟った。また何か面倒事を押し付けられるんじゃ……、といささか顔をしかめつつ、「あぁ、霧乃か」と返す。
「えーと、何か用?」
『うん。ちょっと見せたい物があるから、今からぼくの部屋まで来てよ』
「部屋まで? 電話じゃ駄目なの?」
『だめなの』
 少し強い語調で否定される。ほら、これだ。東大寺霧乃という少女は、僕がささやかな幸せに浸っているときに決まって、あれこれと面倒事を運んでくる。食べ物がないだの、扇風機が壊れただの、本屋までパシリを頼まれてくれだの……。
 霧乃と知り合ったのが僕が中学一年生の時だから、彼女との付き合いも五年目になる。この間、霧乃に細かい用事を押し付けられるのは日常茶飯事だったから、こんな電話もすっかり慣れっこになってしまっていた。
「分かった。今行く」
 受話器に向かって答え、せめてもの抵抗として溜息をつく。
 何だかんだで霧乃のペースに流されてしまうところが、僕の悪いところなんだろうけど。


 東大寺霧乃という少女を一言で表現するならば、「奇人」という言葉を選ぶべきだろう。次点で「変人」、「偏屈」、「廃人」などなど。要するに、そういう奴だった。
 僕の住む高層マンションに東大寺霧乃が引っ越してきたのが、今から五年前。すなわち、僕が中学一年生のときだ。霧乃は僕と同い年で、同じ中学で、そして同じクラスだった。僕の通う中学は小学校からの持ち上がり組ばかりであり、見知った顔と過ごす生活に飽き飽きしていた頃だったので、「転校生の女の子」というフレーズはそれだけで魅力的に響いた。まして自分と同じクラス、同じマンションというから、仲良くなっちゃったりするのかなぁ、と思春期的な淡い想像に浸ってもいた。……の、だが。
 実際、東大寺霧乃は中学入学から卒業まで、教室に一度も姿を見せることはなかった。
 いわゆる、不登校というやつだったのだ。
 どういう理由があって不登校になったのかは、五年が経った今でも、実は知らなかったりする。理由が聞きづらいとか、別にそういうわけじゃない。ただ、東大寺霧乃という少女を見ていると、学校に通うか通わないかなんて、朝食にご飯を食べるかパンを食べるか程度の、些細な違いでしかないと思わされてしまうのだ。不登校以前に、霧乃は世間の常識から軒並み外れた人間だった。
 初めて東大寺霧乃の部屋を訪問したときのことは、今でもよく覚えている。
 中学一年生の五月とか、それくらいだったか。学校から配布されるプリント類を持っていって欲しい、と担任教師に頼まれた僕は、嫌々ながら霧乃の部屋を訪れたのだ。僕の部屋は二階で、霧乃の部屋は十五階にあった。だいたいその辺りから、何となく嫌な予感がしていた。
 いくら同じ高層マンションとはいえ、低層階と高層階では家賃が文字通り天と地ほどに違う。ここのマンションで言うなら、十階以上の高層階にはそこそこ名のある企業の重役やら医者の息子やら、要するに金持ちしか住んでいなかった。
 高額物件に暮らす不登校の少女……。
 それだけなら、まだ理解の余地がある。僕が本格的に度肝を抜かれたのは、東大寺霧乃がそんな場所に、事もあろうか一人で暮らしているという事実を知ったときだった。玄関端に現れた少女に、保護者向けのプリントを手渡したとき、「ぼく、一人暮らしなんだけど」と言われたときのあの衝撃は、今でも忘れない。思えば、あれは僕が世間の広さに触れた初めての出来事だった。
 ともあれ、同じマンションのよしみもあって、中学時代の僕はことあるごとに霧乃の部屋を訪れては、学校から配布されるプリント類を配達した。かといって、プリントを渡すだけというわけにもいかなかったから、義務感から一言、二言ほど会話を交わしてもいた。霧乃は奇人ではあったけれど決して会話が成立しないというわけではなく、彼女の部屋を訪れたときは数分ほど話し込むのが、いつしか日課になっていった。
 そうして、気付いたとき。
 僕と霧乃の間には、何やらよく分からない関係が成立していた。そういうことだ。
「友達、なのかねぇ……」
 十五階の高みから都会の風景を見下ろして、ふと呟く。唇から零れ落ちたその単語は、どこか酸っぱさを含んでいた。他者との関係に友情とか、そういう青臭いものを認めるのは何だか気恥ずかしいから、しぜん友達って言葉を使うのも躊躇われる。思春期してるなぁ、と自分の身を省みて、少し苦笑い。
 霧乃の部屋の前に立ち、玄関ベルを鳴らす。しばらく待つと、ドアが用心深くそろりと開いて、隙間から霧乃が顔を出した。
「あ、ゆぅくん。いらっしゃい」
 相手が僕であることを確認すると、ドアがすっかり開放される。霧乃の表情も幾分柔らかくなり、一応歓待されてるんだなぁと実感。まぁ悪い気分ではない。
 一目見れば分かるが、東大寺霧乃は随分と特異的な少女だった。
 まず最初に目を引くのが、異常なまでに白く透き通った肌。誇張でなく、霧乃はこの四年間あまり、直射日光に晒されたことが数えるほどしかないのだ。白魚のような不健康な肌は、外気に数時間も晒されれば、たちまち火傷してしまいそうだった。
 同じ理由から霧乃は成長不足で、手足が棒のように細い。元々華奢な身体つきのうえ、一日中部屋に閉じ篭もって動かないのだから当然だ。こちらも誇張でなく、僕が捻れば簡単に折れてしまうだろう。不健康の権化みたいな奴だ。
 そんな霧乃だったが、顔立ちだけは唯一の利点と言って憚らない。眠たげに半開きの双眸、控えめに結ばれた唇。伸びすぎた前髪が目に掛かって、常時睡眠不足のような印象を与えるものの、顔立ちだけはこのうえなく整った美少女だった。東大寺霧乃を見ると、天は人に二物を与えず、という言葉をしみじみ理解する。
「で、用事ってなに?」
 ちなみに、霧乃の標準装備はチェック柄の暖色系パジャマだった。たまに近所のスーパーへ買い物に行くときも、いつもこの服装らしい。果たして霧乃がこのパジャマ以外に服を持っているのか、僕は知らない。
「見せたい物があるんだ。とりあえず入ってよ」  
 パジャマ姿の霧乃に促されて、部屋の中に足を踏み入れる。こっちだよ、と伸びすぎた髪をひょこひょこ揺らす霧乃の後ろ姿を眺めて、無防備だなぁと思った。まぁ、僕が相手だから無防備なんだろうけど。
 果たして霧乃に案内されたのは、彼女のベッドが置いてある寝室だった。霧乃は基本的に一日中、この部屋のベッドに寝転がって読書している。そんな生活も、かれこれ四年と半年になるのだろうか。
 寝室にはいつも通り、ハードカバーやら文庫やらが散乱している。いや、散乱しているなんて生易しいものじゃない。地層を形成していると言うべきだ。きっと、大地震の後の図書館はこんな感じなんだろう。霧乃がこの部屋のベッドに横たわって読書しているのを見ると、僕はいつも土葬ならぬ「書葬」という言葉を思い浮かべる。東大寺霧乃は重度の読書中毒であり、本中毒だった。
 実を言うと、この部屋の光景にうんざりして、前にも何度か部屋の片付けを進言してみたことがあるのだ。
「これ、片付けようとか思わないわけ? 本棚でも何でも買ってきてさ」
「なに言ってるの、ゆぅくん。片付いてることと整理されてることは別物だよ。あるべきものはあるべき場所に。それが秩序であり、片付いてるってことでしょ? 外見的に整理されてたって、あるべき場所になきゃ秩序とは呼べないよ」
 よく分からないが、霧乃的に見ると、この部屋は「片付いている」らしかった。まぁ、どうせ学校にも通わず日がな一日、ベッドの上で本を読み漁っている読書廃人の言うことだ。僕なんぞに理解できるはずもない。
 ちなみに、以前ちらりと霧乃から聞いたところによると、ここへ一人で引っ越してきた理由も、誰にも邪魔されずに本を読む空間が欲しかったから、という酔狂なものであるらしい。僕は何だか馬鹿馬鹿しくなって、それ以上の追及を諦めた。
 さて、現実に回帰しよう。
 霧乃に「まぁ座ってよ」と促された僕は、何となく居心地の悪さを感じつつベッドに腰掛けた。足下は本の墓場になっているので、迂闊に脚を伸ばすことすらままならない。霧乃が僕の隣へちょこんと腰掛けた。
「で、見せたい物って?」
「うん。ゆぅくん、霧山朽葉の『死者の館』って本、知ってるでしょ?」
「霧山朽葉……『死者の館』……?」
 そういえば少し前、霧乃がそんなタイトルの本を読んでいたような気がする。クローズド・サークル物のミステリなんだー、と霧乃が頬を綻ばせていたけれど、生憎僕は「クローズド・サークル」ってものが一体何なのか、よく知らなかった。
「ごめん。覚えてないかも」
「むー」霧乃は不満げに眉根を寄せる。「じゃあ、霧山朽葉の方なら知ってるでしょ? 十四歳でデビューして、いま十七歳の推理小説家」
「あ、そっちは聞いたことある」
 十四歳という若さで衝撃のデビューを飾ったとして、一時期世間で騒がれていた小説家だ。顔もプロフィールも一切非公開という覆面作家の体を取ったことも、世間の注目を浴びる一因になっていた。デビュー作『朽ちた葉』は、幼少期に虐待を受けた少女が連続殺人鬼に成長するというショッキングな内容だったが、ミステリとしての評価も高く、100万部を越える大ベストセラーとなった……とか。以上、すべて霧乃情報。
「で、その霧山朽葉がどうかしたの?」
「うん。あの小説家の最新作が『死者の館』っていうタイトルなんだよ。上下巻なんだけど、まだ上巻しか出てなくて」
「なるほど。下巻が出たら、僕にすぐ買ってきて欲しいってわけか」
 依頼を先読みすると、意外にも霧乃は「違うよ」と首を振った。色素の薄い長髪が揺れるのを見て、そろそろ髪を切ってやらなくては、などと思う。まるで飼い猫の世話でもしているみたいだ。
 霧乃は枕元に置いてあった『死者の館(上)』の文庫を僕に手渡すと、「その本の巻末を見てみてよ」と言う。言われた通りにすると、そのページには何やら奇怪な文字列が無数に並んでいた。
 GNKFB……とローマ字が円形に並んでいるものがあれば、75628 28591……と数字が延々と続いているものもある。まるで意味不明だ。
「なにこれ」
「暗号だよ」霧乃の答えは単純明快だ。「『死者の館』の上巻には、最後に十個の暗号が付いてるんだよ。その暗号を、文庫の発売日の翌日までに解いて、答えを指定の郵便番号に送ると、抽選でスペシャルプレゼントがもらえるって企画なんだ」
「はぁ……スペシャルプレゼントねぇ」
 いかがわしい話だな、と知らず知らず渋面になる。だいたい、締め切りが発売日の翌日までって、何だそれ。誰が解くんだよ、その暗号。
「で、そのスペシャルプレゼントって何なのさ」
「うん。霧山朽葉の別荘への、三泊四日の特別招待券なんだ。暗号を解けた人の中から、抽選で三人だけ」
「……何だか、露骨に怪しい企画だな」僕は顔をしかめた。
「まぁね。でも、謎の覆面作家と顔を合わせられるチャンス! とか言って、本屋でも大々的に広告されてたよ。なにしろ、一世を風靡したあの霧山朽葉だからね」
「ふぅん。そうなの」
 僕は霧乃の話を聞き流しながら、『死者の館(上)』の文庫をぱらぱらと捲ってみた。血溜まりに死体が……とか、顔が緑色に変色している……とか、あまり健康的でない描写が見受けられる。SF、ミステリ、ホラー系が好物な霧乃はともかく、僕にはあまり向かなさそうだ。だいたい、タイトルに「死者」が入っていたり、作家名が「朽葉」だったりする時点で、僕の好みから外れる。
 十七歳、謎の覆面作家、霧山朽葉。巻末の暗号と、限定三名様の特別招待券。しかも、解答の受付は発売日の翌日まで……。なんとも、コアなマニア向けの企画だ。
 しかし僕の隣には、まさにその「コアなマニア」がいるわけで。
「こんな話をするということは、つまり、だ。あんまり考えたくはないけど……」
「そう。実はぼく、その特別招待券の入手に成功してしまったのです」
 霧乃はそう言って、にっこりとだらしなく微笑んだ。 


 年中無休で引き篭もりの霧乃が、どうしてそんな企画に応募したのか、実のところ僕にはよく分からなかった。霧山朽葉という小説家がそんなに魅力的だったのか、あるいは気分転換のバカンスのつもりだったのか、あるいはただの気まぐれなのか。
 ともあれ、引き篭もりで人見知りで甘ったれで読書廃人の霧乃が、理由はさておき外出したいと宣言したのは、大きな一歩だったのかも知れない。だから僕も、彼女のその意志は是非尊重したいと思っていた。……の、だが。
 その話から一週間が経った頃、霧乃が急に「やっぱり、行くのやめようかなぁ」と言い出した。理由を尋ねてみれば、
「だって、外に出るの面倒だもん。それに、知らない人と旅行したってつまんないよ」
 などと言う。せっかく霧乃の意志が外に向きかけていたのだから、この機会を逃してはならんと僕も説得したが、効果はなし。どうやら霧乃にはまだ、知らない人間のところへ一人で入っていくほどの気概はないらしかった。
 だから、仕方なかったのだ。
「じゃあ、僕も一緒に行くから」
 半日に及ぶ口論による攻防戦の末、結局僕はその一言を口にしてしまった。行かないよりはマシだ、と考えたのだ。そうすると、霧乃はその一言を待っていたと言わんばかりに、「じゃあ、行ってみようかなぁ」と頬を弛めた。あの時の霧乃の勝ち誇ったような顔は、おもちゃ売場で親をねだり落としたときの幼児の表情に、相通ずるものがあると思う。参加決定通知に記載されていた連絡先に問い合わせてみたところ、付添人という形でなら、参加を認めてくれるとのことだった。
 それでもまぁ、これも夏のいい思い出になるさ。
 そんな風に、僕はいささか楽観的に物事を捉えていたらしい。
 しかしその日のうちに、僕は知ることになる。
 霧山朽葉の別荘招待の日程は、まるまる僕の信州旅行の日程と被っていた、ということを。
 僕は泣く泣く、信州旅行の方をキャンセルする羽目になったのだった。


 きらきらと、輝く飛沫が波間に消えていく。茫漠と広がる海原は、それ自体が大きな鏡のようで、太陽光を反射してあちこちに輝きを灯す。僕はもう遠くなってしまった本州の陸地を見つめて、目を細めた。
 八月中旬の太陽は、肌を刺すように熾烈だ。海の上には、都会のようなまとわりついてくる熱気がない分、太陽光線そのものの鋭さを感じる。僕はたちまち噴き出てきた汗を、タオルで拭った。
「でも、天気が良くて良かったね」
 僕の隣で日傘を差している霧乃が、額に手をかざして、夏の青空をまぶしそうに見上げる。ワンピースの袖から露出した肌の白さにぞっとして、僕は何となく目を逸らした。
「引き篭もりが、いきなりこんな太陽の下に晒されて、きつくないわけ?」
 僕の嫌味は嫌味として伝わらなかったらしく、霧乃は「嵐よりはマシだよ」と答える。
「嵐の孤島、吹雪の山荘。クローズド・サークルなんて、小説の中だけで充分だからね」
「クローズド・サークルねぇ……。それって、正確にはどういう意味なのさ」
 霧乃のミステリ談義に付き合わされるとよく聞く単語だが、いまいち意味が分かっていなかった。尋ねると、霧乃は「ゆぅくんは無知だねぇ」と呆れたような横目を寄越す。
「クローズド・サークルってのはミステリの用語で、何らかの事情で外界との往来が断たれた状況のこと。たとえば、嵐で島の外に出られなくなった孤島とか、吹雪に閉じこめられた山荘とか。そこで連続殺人が起こったりすると、閉じこめられた人たちが外に助けを求められない代わり、犯人も外へ逃げられないでしょ? だから、ミステリの題材としてよく使われるんだ」
「なんだそれ。犯人はどうして、そんな状況の下で連続殺人なんか犯すんだよ。そんな容疑者が絞り込まれる状況下で無理しなくたって、街の中をうろついているところを殺せばいいじゃないか」
「そりゃあねぇ、ゆぅくん。クローズド・サークルの方が、読んでいる読者が楽しいからだよ」
「そうなのか……」
 どうやら最近の犯人は、読者側の事情も考慮して殺人しないといけないらしい。殺人犯も大変だ。
 それはさておき、僕たちがこれから訪れる島というのは、瀬戸内海に浮かぶ天上島(てんじょうじま)という名前の孤島だった。小説家・霧山朽葉の別荘というのは、何でもその孤島に建っているらしい。というか、そもそも、天上島という島そのものが霧山朽葉の所有物なのだ。たかが十七歳が何を思ってそんな島を所有しているのやら、天才小説家の考えることは分からない。
 僕たちは地元から瀬戸内海の港まで、新幹線とバスを使ってやって来て、今はその天上島へ向かう船の上だ。天上島には定期船が通っていないため、今日は特別に融通を利かせてもらっているらしい。ここまで来るだけで交通費もばかにならなかったが、費用はすべて霧山朽葉が負担してくれるとの話だった。なかなか気前がいい。
「でも、改めて考えてみると妙だよね」
 日傘をくるくる回しながら、霧乃が口を開いた。
「うん?」
「今まで覆面作家で通してきた霧山朽葉が、どうして急にこんな企画を持ち出したのかな。自分の別荘に客を招待して、わざわざ自分の正体を明かすような企画をさ」
「さぁね。売り上げが伸び悩んでるとか、色々あるんでしょ。だから、ここらで話題作りのためにも、ってことで」
「そうかなぁ? そんなことしなくても、充分すぎるくらい売れてると思うけど。『死者の館』の上巻も面白かったよ」
 犯人サイドと探偵サイドの二元中継に、いい緊張感があったよねぇ、と霧乃が言う。そんなこと言われたって、僕は読んでないんだから分かりっこないのだが。
「案外、どっきり企画なのかもね」
 遠くに霞のように見える島々を眺めて、僕は言った。
「推理小説家なんだから、最後に観客がびっくりするようなトリックを用意してるのかもよ。だったら、この変な企画にも説明がつくでしょ」
「んー。それはあるかもね」
 霧乃はそう言い、デッキの手すりから身を乗り出して、船の行く先に目を細めた。ふとした拍子に海に落っこちてしまいそうで、見ていて危なっかしい。
 ところで、今日の霧乃の服装は当然ながら、ふるゆわ暖色系パジャマではなかった。清楚なお嬢様にも見える、涼しげなボーダー柄のワンピースだ。彼女が両手で持っている大きめの日傘と一緒に、この旅行のため街中のショッピングモールで購入した物だった。まともな服装をしてさえいれば、霧乃だってかわいらしく映るじゃないか……などと思ったのは、まぁ僕だけの秘密として。
 そんな感じで、霧乃と二人で海の様子を眺めていると、別の客がデッキに現れた。
「よう、お二人さん」
 威勢のいい男の声だった。振り向くと、褐色肌で無精髭を生やした男性が、愛想笑いを浮かべていた。日焼けしているせいで年齢が分かりづらいが、二十歳前後といったところだろうか。
「随分と仲が良さそうだな。あんたらも、天上島へ行くんだろ?」
 男が愛想良く僕たちに歩み寄ってくる。人見知りのきらいのある霧乃は、僕を盾にするようにじりじりと後ろへ隠れてしまった。仕方がないので、僕が応対する。
「はい。……も、ってことは、もしかしてあなたも天上島に?」
「ああ。俺は守屋(もりや)って言うんだ。まぁよろしくな」
 男が日焼けした笑みとともに、無骨な手を僕の前に差し出してくる。握手を求められているようなので、僕は気後れしつつ「どうも」と手を取った。守屋と名乗る男は、ずっと野生の中で生活してきたみたいに、粗くて硬い肌をしていた。守屋さんは霧乃にも、「そちらさんも、よろしく」と手を差しのべたが、霧乃は困ったように僕を見上げるだけで、手を取ろうとしない。
「すいません。こいつ、随分と人見知りする奴なんで」
 僕が弁解すると、守屋さんは「ああ、なるほど」と手を引っ込めた。その代わりのように、「あんたら、名前は?」と尋ねてくる。
「えっと、こっちのが東大寺霧乃って言います。いささか変わり者ですけど、まぁよろしくお願いします。で、僕はその霧乃の付添人で、小坂祐司(こさかゆうじ)って言います。よろしくお願いします」
「へぇ、付添人か……。てことは、『死者の館』の暗号を解いたのは、この女の子の方?」
 守屋さんが興味深げに霧乃の顔を覗き込む。霧乃はますます僕の後ろに隠れてしまった。困った奴だ。
「まぁ、一応。朝から晩まで本しか読まないような奴ですから、知識だけは豊富なんですよ」
「ふぅん。読書中毒ってことね。どうりでこんな真っ白い肌してるわけだ」
 守屋さんが自分の褐色に日焼けした肌と、霧乃の血管が透けそうな肌を見比べる。その視線に耐えきれなくなったか、ついに霧乃が、
「ぼく、下で本読んでるよ」
 などと言い出した。そのまま、てててと守屋さんの脇をすり抜けて、客室の方へと消えてしまう。その後ろ姿を眺めて、守屋さんが「どうやら、嫌われちまったらしいな」と苦笑した。
「すいません。礼儀知らずな奴で」
「いや、いいんだ。そもそも、この企画に参加してる奴の中で、礼儀を心得ている奴がどれほどいるか、疑わしいからな」
「というと。どういう意味ですか?」
「うん。要するに、少なくとももう一人ほど、変わり者がいるってことだよ」
 守屋さんがそう言ったのと、客室に繋がる階段から人影が現れたのが同時だった。「噂をすれば、ってやつだ」と守屋さんが口もとに笑みを浮かべる。その「変わり者」は、漆黒の髪を腰まで伸ばしたうら若き女性であるらしかった。
 彼女はデッキに素早く視線を走らせて、僕と守屋さんを認めると、後ろ髪を揺らして早足で歩み寄ってきた。そして、射抜くような鋭い視線で、僕たちを交互に睨み付けてくる。
「あなた……守屋さんって言ったかしら。天上島へ行くのよね。てことは、こちらの人もそういう人なの?」
「ああ、そうさ」守屋さんが答えた。「ついさっき、客室に降りていった女の子がいただろう? この人は、その子の付き添いなんだってさ」
「あらそう、付き添いね。そういえばさっき、客室の廊下でいかにも鈍くさそうな女の子とすれ違ったわ」
 で、あなた名前は何と言うの? と彼女は僕を睨み付けてくる。先方は睨んでいるつもりはないのかも知れないが、三白眼のうえ口調や態度が刺々しいので、どうしても威圧的なものを感じてしまう。何だか拷問されているような気分だ。
「えーと……僕は小坂祐司って言います。さっきすれ違ったっていう鈍くさい奴は、多分東大寺霧乃って奴です。これから四日間、共々よろしくお願いします」
 幾分かしこまって答えると、彼女はふんと不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「小坂さんと東大寺さんね。私は御代川姫子(みよがわひめこ)よ。あなた方と関わり合いになるつもりは毛頭ないけど、せいぜいよろしく頼むわ」
 彼女はそれだけ言うと、くるりと身を翻して、有無を言わせずに立ち去ってしまった。世の中の全てに食ってかかるような、凛とした足取りだった。
「なかなかアバンギャルドな人だろ?」
 守屋さんが御代川さんの後ろ姿を見送って、笑みを含む。
「アバンギャルドというか……小型台風みたいな人でしたね」
「言い得て妙だな」
 彼はくっくっと喉の奥で笑い声を立てた。
「御代川姫子。電化製品開発なんかで有名な御代川グループの、本家のお嬢様なんだってさ。ただし、元隠し子だけどな」
「は? 元隠し子って、何ですかそれ」
 隠し子に元とかあるのか。いや、それ以前に隠せてないじゃないか。
「御代川グループの会長が、五十のときに作っちまった訳ありの子どもでさ。生まれたはいいが、公表するとスキャンダルになるとか何とかで公表できない。だから、十年間ほど部屋の中で監禁して育てていたっていう、まぁ酔狂な話さ」
「滅茶苦茶な話ですね……」
「まぁ結局、十年経った頃に子ども――姫子の存在がばれちまって、だから元隠し子って扱いなんだけどな。でも、監禁されていて他人と触れ合わなかった十年の間に、御代川姫子はちょっと頭の中がさわやかな人間に成長しちまったってわけさ」
「はぁ……」
 としか言いようがない。
 生まれてから十年間、監禁されて育った人間。他者とろくに触れ合わずに育ったことが一体どんな影響を及ぼすのか、僕には想像も及ばなかった。御代川さんはどう見積もっても、十代後半から二十代前半に見えたが、彼女は監禁が解けてから一体どんな生活を送ってきたのだろう。
 僕の疑問を読み取ったように、守屋さんが「あの人、ちょっと引き篭もりの気があるんだよな」と言う。
「多分、監禁生活が肌に馴染みすぎちまったんだろうな。今でも基本的に、他人と関わりたがらねえ。普段は本家の自分の部屋に篭もりっきりで、一切外出しないんだとさ」
「へぇ、そうなんですか。……ていうか、細かい事情までよく知ってますね、守屋さん」
「ああ。港まで御代川姫子を送りに来た、御代川家の執事って奴に聞いたんだよ。ちょっと変わったところのあるお嬢様ですが、よろしくお願いしますってな」
 僕はさっきの御代川さんの様子を思い浮かべた。他者と接触しないという点では霧乃と同じだが、性格の方は随分と異なっているらしい。二人は一体どこで違いを生んでいるのだろう。
「で、あんたの方はどうなんだよ」守屋さんが僕に横目を流してきた。「あんた、東大寺霧乃って女の子の付添人なんだろ? どうして付き添いなんか必要だったんだ」
「えーと……それはまぁ、霧乃が御代川さんに劣らず奇人だからですね」
 僕は自分がこの旅行に参加するようになった経緯を説明した。守屋さんは顎髭を撫でながら、終始にやにや笑いで僕の話を聞いていた。
「つまり、あの子も筋金入りの引き篭もりだったってわけか」
「まぁ、そういうことですね。いささか生存能力が低いので、僕がお供してるわけです。見知らぬ人の中に四日もいたら、あいつ死亡しかねませんから」
「はん! 結局、この企画に参加しているのは奇人変人ばかりってわけだな」
 守屋さんはそう言って、実に愉快そうに笑った。僕には何が面白いのか分からず、曖昧に笑むに留まった。
「でも、守屋さんがいて良かったですよ。守屋さん以外は、何だか変わった人ばかりみたいですから」
「ふん。それはどうかな。俺だって負けず劣らず変人だぜ?」
「え……」
 予想外のことを言われて、思わず守屋さんの顔を凝視してしまう。彼は「俺の趣味はな、世界各地の無人島で生活することなんだよ」と言って、笑みを深めた。
「無人島……? 何ですか、それ」
「そのまんまさ。最低限の装備だけ持って、無人島で一ヶ月のサバイバルゲームをやるんだ。もちろん、一人でな。喰い物も、寝床も、全部現地でどうにかする。この間、アフリカはギニアの無人島で腹ぺこジャッカルの群れに襲われたときは、もうこれまでかと思ったが、何だかんだで生き延びたな」
「ジャッカルに……。どうやって生き延びたんですか」
「ああ。ジャッカルってやつは持久力があるからな、逃げたって絶対に捕まっちまう。だから、威嚇するのさ。死んでも構わんって意気込みで、闘志剥き出しにして吠えるんだ。人間だってその気になりゃ、ジャッカルくらい追い払える。教えてやろうか? ジャッカルの追い払い方」
 遠慮します、と僕は言った。何かの間違いでアフリカの無人島に飛ばされない限り、ジャッカルの追い払い方が役立つとは思えない。僕はこれから行く天上島にジャッカルが生息していないことを祈って、盛大に溜息をついた。
 結局、わけの分からない人ばっかじゃないか……。
 東大寺霧乃も、守屋さんも、御代川姫子も。都会のマンションで、両親と友人に囲まれて健全に生活している僕の方が、かえって珍しいくらいだ。
 げんなりして、軟体動物のように船の縁にへたり込む。そんな僕の様子を見て守屋さんが笑い、「ついでにもうひとつ、変わり者がいたな」と言った。
「変わり者? まだ何かいるんですか?」
「あの天上島って島だよ。ここらへんじゃ、あの島には何でも、小さな女の子の幽霊が出るって噂らしいぜ」
「……そうですか」
 もうどうにでもなれという気分だった。本当なら今頃は、クラスメイトと一緒に長野に到着して、信州そばでも啜っていたのだろうに。僕は何が悲しくて、こんな奇人変人に囲まれながら船に揺られているんだ。
 泉の水のように、後悔だけがこんこんと湧いて出る。
「お、見えてきたな。天上島と、霧山朽葉の別荘だ!」
 守屋さんが水平線を指差して、ことさら機嫌良さそうに言った。


 天上島は、それ自体がひとつの山のような島だった。南側から北側に向かって傾斜があり、島の北側は断崖絶壁になっている。ちょうど三角定規を倒して、60度の部分を頂点にしたような形だ。霧山朽葉の別荘というのはその頂点の部分に――つまり断崖絶壁に沿うようにして建てられていた。
 船着き場は南端の浜辺に、別荘は北端の断崖絶壁にある。そのため、別荘まではちょっとした登山をする必要があった。
 山道は鬱蒼とした森の中を、ぐねぐねと曲がりくねっていた。こういうサバイバルな体験に富んでいるであろう守屋さんは嬉々として先頭を歩いていたが、引き篭もりの霧乃と御代川さんは極めて不機嫌だった。森があるためか湿度が高く、汗がちっとも乾かないのだ。霧乃は汗だくになりながら「ゆぅくん、おんぶしてよぅ」と弱音を吐いていたが、「守屋さんに背負ってもらえよ」と言うと途端に大人しくなったのは、何だか面白かった。御代川さんの方は終始ぶつぶつと独り言を呟きながら、木々が揺れる度にびくりと身体を硬直させていた。
 そうして十分弱の登山ののち、ようやく頂上の屋敷に到着する。
 断崖絶壁にそびえる霧山朽葉の別荘は、館という表現の馴染む、大きな洋館だった。二階建てではあるが横幅があり、近くまで来ると威圧感を感じる。外壁がことごとく黒色で固められているのも、建物に妙な物々しさを与えている気がした。
「小坂くんには悪いが」守屋さんが洋館を見上げながら、「こりゃ霧山朽葉ってのも、相当な変わり者みたいだな。何が好きで、十七歳がこんな物騒な建物を所有してるんだか」
「連続殺人でも起こす気なのかしらね」
 氷のような声で言ったのは御代川さんだった。笑える類の冗談ではなかったため、四人の間に変な沈黙が流れる。僕はこの洋館に『死者の館』とかいう名前が付いていないことを、切に祈った。
 守屋さんが、一同を代表する形でインターフォンを押す。待つこと数十秒、観音開きの玄関扉がゆっくりと開かれて、中から女性二人が顔を出した。
 穏やかな微笑が顔に貼り付いたような清楚な女性と、含み笑いが顔に貼り付いたような一癖ある女性の二人。何だか対照的な図だ。どちらかが霧山朽葉なんだろうか。
「みなさん」
 微笑顔の清楚な女性の方が、僕たち四人をゆっくり見回した。物腰が落ち着いていて、いかにも良家のお嬢様という感じだった。
「この屋敷へ招待されていた方々ですね。本日は遠いところを、ようこそいらっしゃいました。わたくしがこの屋敷の主人、霧山朽葉です」
 そう言って、彼女は深々と頭を下げる。漆黒の長髪が肩を滑って、滝になった。
 守屋さんが感心したように、喉の奥で小さく唸る。僕の横にいる霧乃も、物珍しそうにまじまじと彼女の様子を眺めていた。僕にしても、彼女が霧山朽葉だというのは少し意外だった。
 十四歳で、いささか猟奇的な推理小説によりデビューした天才覆面作家。瀬戸内海の孤島を所有して、別荘に読者を招待する物好き。となれば余程の変人に違いないと考えていたのだが、目の前にいる彼女は――少なくとも外見上は――極めて常識人に見えた。品位あるパーティに出席していても違和感がなさそうだ。
 本当に、彼女が霧山朽葉なんだろうか。
 想像していた人間像とあまりにかけ離れていたので、僕はそんなことを思ってしまった。
「お出迎えもしませんで、申し訳ございません。本来なら、港まで使いの者を寄越すところなのですが……。いかんせん、人手が足りないもので」
「いえ、構いませんよ。気を遣われた方が、かえって恐縮しちまいますから」
 守屋さんが身体の前で大げさに手を振る。僕はその様子を見て、これから四日間は恐らく彼がリーダーシップを取るんだろうな、と何となく予感した。
「それより、そちらにいる女性は? 俺たちと同じ、招待客の方ですか?」
 守屋さんが、彼女の隣に立っている女性に目を向ける。霧山朽葉が微笑なら、こちらの女性は含み笑いが板に付いていた。ただし、背丈や顔立ち、長い黒髪なんかは霧山朽葉とよく似ている。姉妹と言われたら納得してしまいそうだ。
 霧山朽葉が「彼女は、」と言いかけるのを止めて、その女性が自ら自己紹介した。
「僕はこの朽葉の友達でね、古橋(ふるはし)と言うんだ。今日は朽葉と一緒に、先にこの島へ来させてもらっていたんだよ。でもちゃんと、『死者の館』上巻の暗号は解いてるから、扱いはきみたちと同じ招待客ってことになるのかな。まぁ、よろしく頼むよ」
「ふぅん。古橋さんね」
 守屋さんが胡散臭そうな目で彼女を眺めて、鼻を鳴らした。どうやら霧山朽葉と古橋さんというこの女性、外見は似ているが中身は随分と違うらしい。彼女たちが一体どういう経緯で友達になったのか、何となく気になった。
 それから、今度は僕たちの方が自己紹介する番になった。守屋さん、僕、霧乃、御代川さんの順に、名前と一言挨拶を述べる。この屋敷に招待されている客は、どうやらこれで全員のようだった。
 全員が自己紹介をし終えたところで、霧山朽葉がゆったりと全員を見回した。
「ではみなさん、外はお暑いでしょうから、どうぞ中へお入り下さい。広間に冷たいお飲み物を用意してありますので」
 そう言って恭しく身体を退く姿は、何だか一流の小間使いのようだった。彼女が推理小説のネタとして、あれこれ殺人のトリックを考えている姿は、あまり想像できそうもない。
 観音開きの扉をくぐった先は、玄関ホールになっていた。中へと続く二枚目の扉を守るように、二体の騎士をかたどった石像が鎮座している。一方は剣で、もう一方は斧を抱えていた。その武器の放つ妖しげな光には、何となく背筋に冷たいものを感じる。隣の霧乃が「本物みたいだね」と言った。
 二枚目の扉を抜けると、ようやく屋敷の廊下に入ることが出来る。僕はそこで、壁に貼ってあった屋敷のフロア図を眺めた。
 どうやら、この建物の構造を理解するには、単純な平面図を思い浮かべるのが一番のようだ。まず、外壁の大きな長方形を描く。そして、その大きな長方形の中に、中くらいの長方形を描き、その中くらいの長方形の中に、さらに小さな長方形を描く。要するに、建物の中央に広間があって、それをぐるっと囲むように回廊が存在しているのだった。そして、その回廊をさらに囲んでいる外周は、書斎やら応接室やら、無数の小部屋に分かれていた。基本的な構造は一階も二階も同じのようだ。一階では「大広間」とされている中央の大部屋が、二階では「談話・遊戯室」となっていた。
「こちらが大広間です。どうぞお入り下さい」
 霧山朽葉が大広間の観音扉を開き、皆に向かって軽く会釈してみせた。古橋さんを先頭にして、全員がぞろぞろと部屋の中へ入っていく。
 大広間には、長テーブルが四つ組み合わされて、「ロ」の字形の配置を成していた。椅子は人数分、すなわち六つだけ。人数の少なさにしては、明らかにオーバーなテーブル配置だった。どこに座っても良いらしいので適当に腰掛けたが、僕の隣にすかさず霧乃が座ったのは言うまでもない。
 最後に霧山朽葉が入ると、彼女は扉を閉め、残っていた上座の一席に着いた。「どうぞおのみ下さい」と彼女がにこやかに促すので、各自が思い思いに、それぞれ目の前に置かれたオレンジジュースに手をつけ始める。毒が入ってないかなぁ、とでも言いたげにコップを底から覗いていた霧乃は、失礼なのでテーブルの下で足蹴にした。
 一息ついてから、再び霧山朽葉が話し出す。
「さて。では、みなさんのお部屋について説明しておきましょう」
 霧山朽葉はやはりにこやかな表情で、
「みなさんのお部屋は、すべて二階に用意してあります。東大寺さんと小坂さん以外の方々は、すべてシングルルームにいたしました。全部屋バスルームを備えておりますので、ご安心下さい。それで、ひとつお尋ねしたいのですが、東大寺さんと小坂さんはシングルルームとツインルーム、どちらの方がよろしいでしょうか?」
 僕と霧乃は顔を見合わせた。「ぼくはどっちでもいいよ」と霧乃が言うので、僕が「じゃあ、ツインでお願いします」と答えた。別にやましいことなど何もない。ただ、読書中毒で引き篭もり癖のある霧乃を一人にしておくと、後で何かと面倒が起きるかも知れないと危惧しただけだ。
 霧山朽葉は微笑を崩さずに頷くと、「では、鍵をお渡ししますので」と言って立ち上がった。彼女は長テーブルの上にあらかじめ用意されていた鍵の山を取り、「では、守屋さんは四号室でお願いします」と言った調子で、全員のところへ鍵を配っていく。
「みなさんのお部屋の鍵は、今お渡しした鍵の他、マスターキーを使って開くことが出来ます。ただ、マスターキーやその他の部屋の鍵を持ち出すには、暗証番号が必要でして……」
「暗証番号? 何だよ、それ」
 守屋さんが口を挟んだ。
「申し訳ございません。鍵の管理のため、鍵置き場から鍵を持ち出すには、わたくししか知らない暗証番号が必要なのです。そちらの……小坂さんの後ろの壁に、その鍵の置き場所があるのですが」
 そう言われて振り返ってみると、確かに壁に妙な装置が取り付けられていた。壁に大量の鍵が掛かっており、それを透明なボックスが取り囲んでいる。どれがどの部屋の鍵かは、鍵を掛けるフックの部分に「書斎」、「客室・1号室」、「マスターキー」といったテープが貼られているので、それで見分けるらしい。ボックス装置のすぐ横の壁には、電卓みたいな形の暗証番号入力機があった。おそらく、あそこに正しい暗証番号を入力すると、透明ボックスのロックが解除されて、鍵を取り出せるという仕組みなのだろう。
「ですから、万が一鍵を紛失したりというようなことがあれば、わたくしにお申し付け下さい。マスターキーで部屋の扉を開けさせて頂きますので」
「分かったよ」
 守屋さんが一同を代表して答える。霧山朽葉は軽く会釈すると、「では、わたくしからは以上です」と言って、口をつぐんだ。
 ……さて、と。
 僕はろくに口をつけていないオレンジジュースを置いて、一同の顔を見回した。
 雲の上から地球を見下ろしているみたいな、どこか超然とした微笑を保っているのが霧山朽葉。その隣の古橋さんは何が面白いのか、にやにやしながら僕たちの様子を眺めている。その二人と対照的なのが御代川姫子だ。彼女は露骨に不機嫌そうに頬杖を突き、人差し指で長テーブルをコツコツ叩いていた。一方の守屋さんは、部屋の内装――不健康な黒塗りの壁を、注意深く観察している。僕の隣に座った霧乃は、両手で「カニ」を作って遊んでいた。まるで子どもだ。
 気まずい沈黙を破ったのは、やはりと言うか守屋さんだった。
「さて。それじゃあ、とりあえず各自荷物を自分の部屋に運び込むとしようか。ここでこうしていても、仕方ないしな」
 守屋さんの提案に、霧山朽葉の友達だという古橋さんが「そうだね」と賛同する。他には賛成も反対もなく、それぞれ何となく席を立つ流れになった。
 まだ初日ということもあろうが、何だか空気がぎくしゃくしていて気まずい。僕は、これが初対面特有の気まずさであることを祈った。この企画の参加者に、そもそも「打ち解ける」という概念を持った人間は一体どれほどいることやら、だ。少なくとも霧乃と御代川さんは持ち合わせていない。
 全員が席を立ったところで、霧山朽葉が「もうひとつ、お伝えしておくことがありました」と口を開いた。
「これから夕食までは、基本的に自由時間とさせていただきます。ただし、夕食は午後六時からこの大広間で、としますので、みなさん午後六時までにはここへお戻り下さい」


 僕と霧乃の部屋は、十二号室だった。
 屋敷の二階も、基本的には一階と同じ構造をしている。回廊によって取り囲われた中央の大部屋は、一階では大広間だったが、二階では談話・遊戯室だった。回廊の外周に沿うようにして立っている無数のドアは、そのすべてが客室のドアであるらしい。もっとも、客室ドアにはすべて鍵が掛かっているため、鍵を持っていないと立ち入り出来ないのだが。
 さて。自分たちの部屋に足を踏み入れた僕は、まずその設備が実に整っていることに驚いた。
「へぇ! まるでホテルの一室みたいだ」
 部屋の入り口付近にドアがあり、奥にはベッドが二つ並んでいるのが見える。入り口付近のドアを開けてみると、中はトイレ+バスルームだった。この屋敷、客室が全部で二十弱ほどあったような気がするのだが、全部屋にこの設備が付いているのだろうか。霧山朽葉もたいした金持ちだ。
 ベッドルームには作業用の大きなデスク、液晶テレビ、サイドボードに電気スタンドなど、小物類まで一通りが揃っている。僕の部屋の数倍は上等な装備だ。ベッドに腰掛けてみると、自分の体重を跳ね返すような、軽い反発があった。
「おい霧乃。このベッド、楽しいぞ!」
 僕は何だか一人で嬉しくなってしまって、ベッドに寝そべってごろごろと寝返りを打った。信州旅行ではチャチな民宿に泊まる予定だったから、部屋の上質さだけならこの屋敷の方が遥かに上だ。これが無料なんだから、こっちに来て良かったなぁ……などと、僕は一瞬血迷ったりもした。良いわけがない。
「ゆぅくん。なんか、修学旅行の小学生みたいだよ」
 霧乃がわりに醒めた目で僕を眺めて、ごろんと自分のベッドに横たわる。「ちょっと、ふわふわしすぎだよ。ぼく、自己主張するベッドは嫌いなんだ」とか、文句を垂れている。さすが年中ベッドに寝転んで生活しているだけあって、ベッドの質にはうるさいらしい。
 僕は霧乃を放ってベッドから起き上がり、部屋のカーテンを開けてみた。
 ガラス戸の向こう、眼前に広大な海原が広がっていた。
「へえぇ。海がこんなに大きく見えるのか……。ほら霧乃、海だよ海!」
 ベッドに寝転んでいる霧乃に呼び掛けてみるも、彼女は「海なんて、東京湾を見慣れてるよ……」とまるでやる気がない。そんなの、アンコールワットを見て、「アンコールワットなんて、写真で見慣れてるよ」と言うのと同じじゃないか。これだから引き篭もりという人種は駄目なんだ。
 部屋のガラス戸は開くようになっていて、簡単なバルコニーが付いていた。なので潮の空気を吸いに外へ出てみたのだが、足下を見て驚いた。
 バルコニーの遥か真下で、波が不気味に渦巻いていたのだ。
「ここ、海にせり出してるのか……」
 僕は急に足が竦んでしまい、すごすごと部屋の中へ引き返した。
 そういえば、この屋敷は北側が断崖絶壁に面しているんだったっけ。どうやら、この十二号室は屋敷の北側に位置しているらしかった。
「ゆぅくん。海が見たいなら、二階の中央バルコニーに行ってくれば?」
 霧乃が手荷物の中からハードカバー――『不連続の宇宙』とかいうSFだ――を取り出しながら言った。
「中央バルコニー?」
「ここへ来る途中、二階に観音開きの扉があったでしょ? あそこから、思いっきり海にせり出した大きなバルコニーへ行けるみたいだよ」
「ふぅん。よく知ってるんだ」
「ゆぅくんは観察力が低いんだよ。色々見ているようでいて、実は何も見ていない。クローズド・サークルだと、途中で少しだけ真実に触れて殺される脇役ってところかな」
「ああ、そう」
 現実とフィクションを混同しかけている奴に言われたくなかった。
「でも、どうしようかな。せっかくだから海の写真撮りたいけど、カメラとかスマートフォンとか持ってきてないし」
 カメラと、カメラ機能搭載の各種機器については、この企画では持参が禁止されていた。霧山朽葉は覆面作家であるため、というのがその理由らしい。下手に写真でも撮られてネットに流失したらかなわない、ってところだろう。スマートフォンを持参できないのは、現代人の僕には少々つらかったが。ちなみに、霧乃はそもそも携帯電話の類を所持していなかった。
 僕は、ベッドに寝転んで淡々と読書を始める霧乃の隣に、腰を降ろした。
「なぁ霧乃。せっかくだから、中央バルコニーへ一緒に行ってみないか? あるいは、屋敷の周りをぐるっと探険してみるとか。せっかく瀬戸内海の孤島まで来たんだからさ」
「ぼくはいいよ」
 ごろん、と霧乃は寝返りを打つ。ちょっと長いこと太陽の下にいたからだろうか、霧乃の色素の欠落した肌が、火照って上気していた。
「海や森を眺めるより、文字を追っている方がよっぽど幸せだからね。本がなければ何も満たされないけど、本さえあれば全て満ち足りる。そういう人間だよ、ぼくは」
「……知ってるけどさ」
 東大寺霧乃の幸せの指標は、0パーセントと100パーセントの二つしかない。本がなければ0パーセント、あれば100パーセントだ。実に単純で、だからこそ救いようがない。この女の子には、本質的に他者というものが存在価値を持たないのだろう。
 僕がその「他者」の位置づけに含まれているか否かは、保留するとしても。
「せっかく、瀬戸内海まで来たっていうのにさ……」
 僕は唇を尖らせ、ゆらりと立ち上がった。霧乃の返事はなかった。
 ベッドに埋もれて、ハードカバーへ眠たげな瞳を向ける少女。
 異常に白い肌も、色素の薄い長髪も、華奢な肩も、棒きれのように細い腕も。
 何だか彼女の全てが作り物のように見えてしまって、僕はやっぱり、土葬ならぬ「書葬」という言葉を、頭に思い浮かべたのだった。


 実はさっき、それぞれの部屋に別れる前に、守屋さんから「全員でこの島を探索してみないか?」という提案が出ていた。
「せっかく小難しい暗号を解いて、ここまで招待されてきた仲間なんだからさ。お互い、親睦を深めるためにも。時間もあることだし」
「冗談じゃないわ!」
 守屋さんのその提案に、まるで癇癪でも起こしたかのように反対したのは御代川さんだった。
「島の探索をする、ですって? あなた、自分が言っていることの意味を分かっているのかしら。森を歩いて蛇でも出てきたらどうするのよ。未開人の真似事なら、一万年前に遡ってやって来たらどうかしら?」
 彼女は言いたい放題に喚き散らすと、さっさと自分の部屋へ閉じ篭もり、中から鍵を掛けてしまった。おそらく夕食まで一歩も外に出ないつもりなのだろう。守屋さんが「やれやれだな」と言って肩を竦め、僕も彼に同調して溜息をついた。
 何のための集まりなんだか、ますます分からなくなってきた。
 御代川さんのこともあって、守屋さんの提案は結局流されることになった。夕食までは各自、自由行動。そう決まって、霧乃がひそかに胸を撫で下ろしていたことを、僕は知っている。
 そういうわけで現在、守屋さんが外へ探索に出ていった他は、全員が屋敷の中にいた。霧乃と御代川さんは自室に閉じ篭もっているわけだが、僕もそれに倣う気にはなれず、屋敷の中を歩き回ることにした。
 中央バルコニーに繋がる観音扉は、霧乃の言った通り、二階回廊の北側に存在していた。扉に鍵は掛かっておらず、外へ出ると、確かにバルコニーが海にせり出しているのが分かった。足下を見下ろせば――さながら獲物が落ちてくるのを待つ生き物のように――白波が荒れ狂っている。もしここから転落すれば、間違いなくあの世行きだろうと思われた。
 ひとしきり海原を眺めてから、二階回廊へ戻り、階段を降りる。
 一階の回廊にも、二階と同じように、回廊の外周に沿うようにして無数のドアが立っていた。さっき見たフロア図によれば、一階には使用人部屋や応接室、書斎なんかがあるはずだ。もっとも、全ての部屋に鍵が掛かっているだろうし、中を覗こうとも思わなかったが。
 そうして結局、大広間に戻ってきてしまった。
 中に誰かいるかな――。そんなことを思いながら、何となく扉を開く。
 すると、
「あれ?」
 大広間の中で、見知らぬ女性が長テーブルを拭いていた。僕と同じタイミングで向こうもこちらを見ていて、目が合ってしまう。
 肩口まで伸ばした髪、どこか物憂げな瞳。年上のようにも見えるが同年代のようにも見える、年格好のよく分からない人だ。
 しかし、そんなことより目を引くのは彼女の服装だった。黒色のシンプルなドレスに、白色のエプロン。あの特徴的な衣装は……。
「もしかして、この屋敷のメイドさん……だったりします?」
 気が付くと、僕の方が先に口を開いていた。それで彼女の方も我に返ったらしい、「あ、はい。そうです」といささか取り乱した様子で服装の裾を直し、慌てて僕に向き直る。
 彼女は丁寧にお辞儀してみせた。
「ようこそいらっしゃいました。わたくし、この屋敷の使用人を務めております、伊勢崎と申します」


 伊勢崎さんが出してくれたカフェラテは、甘すぎるのが玉に瑕だった。とはいえ、飲まないのも失礼なので、僕は一口ずつカップを口に運びながら、僕を見守るように立っている伊勢崎さんに話し掛けることにした。
「でも、驚きましたよ。てっきり、この屋敷にいるのは六人だけだと思ってたので……。まさか、メイドさんがいるとは」
「すいません。顔も出さないで」
 伊勢崎さんが大げさに頭を下げて謝ってくる。それで逆にこっちが恐縮してしまって、「いえいえ」と手を振った。これじゃコントだ。
「じゃあ結局、ここにいるのは七人ってことですか?」
「そうですね。霧山さん、古橋さん、守屋さん、御代川さん、東大寺さん、小坂さん。そこにわたし伊勢崎を加えて、全部で七人です」
「ふぅん。七人にしちゃ、ちょっと屋敷が豪華すぎますけどね。もう二十人くらいなら、楽々入れそうですよ」
「ええ、まぁ。広いお屋敷ですから」
 あまり使われないのが少しもったいないくらいです、と伊勢崎さんが付け加える。僕は糖分たっぷりのカフェラテを一口含み、気になっていたことを尋ねてみた。
「あの……この屋敷って、本当に霧山さんの所有物なんですか? いや、屋敷だけじゃなくて、天上島そのものも」
「ええ。今は確かに、霧山朽葉さんの個人所有ということになっていますね」
「やっぱり、そうなんですか……。まだ十七歳なのに、どうしてこんな屋敷を作る必要があったんですかね。僕も十七歳ですけど、見てるものが違いすぎる気がしますよ」
 伊勢崎さんは困ったように、曖昧に笑んだ。
「えっと、ひとつ誤解を正しておくと、このお屋敷は確かに霧山さんの所有ですけど、彼女が建てたわけじゃないんですよ」
「え、どういうことですか?」
「ええっと、少し複雑な事情があるんですけど……。簡単に言うと、このお屋敷を建てた前の所有者さんから、霧山さんが島と屋敷を買い取るような形になったんです。熊切さん、って言うんですけどね、その前の所有者さん。ほんの数ヶ月前の話です」
「数ヶ月前! そんな最近になって、霧山さんが買った屋敷なんですか」
 言われてみると確かに、大きな屋敷ではあったが、真新しいという印象は特別受けなかった。それは、背後にそんな事情があったからなのか。
 しかし、それはそれで、どうして霧山朽葉がこの屋敷を買ったのかという疑問が残る。まるで、この企画のためだけに購入したみたいだ。……さすがに、それはないか。
「実を言うとわたし、元々はその熊切さんに仕えていたんですよ」
 伊勢崎さんが、カップを握る僕の手元に目を落として言った。
「熊切さん……。ここの前の所有者さんに、ですか」
「はい。このお屋敷専属の使用人として雇われたんです。その当時は、他にも使用人が何人かいて、熊切さんも頻繁にこのお屋敷を訪れていらっしゃったんですが……」
「熊切さんの別荘だったわけですね?」
「ええ。熊切さんは、週末には必ずここへいらっしゃいました。今から、だいたい五年ほど前までは、それはもう必ず」
 伊勢崎さんの言い方には妙な含みがあった。僕はカップを置いて、彼女を見つめた。伊勢崎さんは伏し目がちで、どこか戸惑うような気配を纏っている。
「何かあったんですか? その、五年前に」
「ええ。……実はわたしもよく知らないんですけど、何か事件のようなものがあったらしくて」
「何かって? 伊勢崎さんって、ここで働いてたんですよね?」
「ええ、そうなんですけど。……その時、ちょうど暇を頂いていたので。詳しいことは何も知らないんです」
 そうなんですか、と僕は鼻を鳴らした。
 いくら休暇中とはいえ、自分の職場だ。何か事件があったのなら詳細を知っていても良さそうなものだが。そう思ったが、積極的に知りたいと思うほどの興味はなかったので、僕は黙ったままでいた。
「で、その事件らしきものの後、どうなったんですか?」
「ええ。その事件を境に、わたし以外のすべての使用人が解雇されて……わたしだけが、このお屋敷の維持・管理という名目で、引き続きここに務めることになったんです」
「へぇ……。何だか、えらく怪しい話ですね」
 僕は半ば他人事として彼女の話を聞いていた。今日は変人の話ばかりだったので――十年間監禁されていた女性やら、ジャッカルと格闘した男性やら――感覚が麻痺していたというのもあるが。
 五年前、孤島の洋館で起きたという、謎の事件。職場の人間にすら詳細を知らせることの出来ないような、後ろめたい秘密。
 いかにも霧乃が好みそうな話題ではあるな、とは思った。
「それで、伊勢崎さんは事件の後、五年も一人でここに?」
「まぁ、そういうことになりますね。この五年間、買い物へ行く以外は、島を離れたことは一度もありませんから」
「それはまた……」
 メイドさんまで世捨て人だったか、と心の中で呟く。顔が引きつっていないか、心配になった。
「とにかくも、それでようやく数ヶ月前、ここの所有者が熊切さんって人から霧山さんに変わったってわけですね。で、伊勢崎さんも熊切さんのところを辞めて、霧山さんに仕えるようになった……?」
「そういうことです。もっとも、わたしがその霧山朽葉さんって方と実際に会ったのは、今日が初めてでしたけども」
 ずっと電子メールでのやり取りでしたから、と彼女は続けた。どうやらあの霧山朽葉という小説家、秘密主義が人格に根を張っているらしい。皆の前でもペンネームで通して、実名を明かそうとしないところにも、その片鱗が窺える。
 しかし、それにしても――。
 絶海の孤島、謎の事件が起こったらしい洋館、秘密主義者の覆面推理小説家、奇怪きわまる招待客。
 およそ歓迎されがたい舞台装置だけが、着々と整っていくようだ。
 背後に漂う奇妙な予感に、僕は背筋を震わせた。


 その後、伊勢崎さんは「食事の支度がありますので」と言い残し、空のカップを持って厨房の方へ消えてしまった。僕も霧乃のところへ戻るかと腰を浮かせかけたとき、ちょうど大広間の扉が開いて古橋さんが入ってきた。
「やぁ、きみがいたか」
 彼女は僕を認めると、如才ない微笑みを浮かべて歩み寄ってくる。遠目で見ると、彼女は霧山朽葉に少しだけ似ているため、僕は一瞬見間違えそうになった。
「あぁ、古橋さん。どうも」
 椅子に尻を戻し、軽く会釈する。彼女は僕の隣席を指して、「ここ、いいかな」と尋ねてきた。どうぞ、と答える。
 しかしこの人、表面上は気さくな態度を取っているが、どことなくわざとらしい気もする。あえて道化を演じ、演じていることを他人に隠そうとしないような……。それがこの人の性格なんだろうか。
「自分の部屋で読書していたんだけどね。暇になって、誰かいないかと広間に来てみたのさ。そうしたら偶然、きみがいた」
「僕の方もだいたい同じですよ。霧乃――東大寺霧乃を、一緒に屋敷の周りを散策しないかと誘ったんですけど、あっさり断られまして。あいつ、瀬戸内海まで来て、部屋で読書してます」
 僕がそう言うと、古橋さんは「そうかい」と声を立てずに笑った。それから、「実は僕の方も、守屋さんに誘われたんだよね」と続ける。
「もし暇だったら一緒に島の探索でも、ってさ。森の散策はもちろん、海で泳いでみるとも言っていたかな。彼も物好きな人だよ」
「聞いたところによると、無人島で生活するのが趣味らしいですからね。守屋さん」
 僕が船の上で聞いた情報を披露すると、古橋さんは「へぇ」と少し目を丸くした。
「無人島か……。確かに、そういう他者の干渉がない生活ってのは、僕も憧れるかな。いささか厭世の気性があるものでね。もっとも、世の中の大多数の人間と同様、口ばかりで実現は出来そうにないけれど」
「まぁ、ジャッカルに襲われたら大変ですからね」
 僕が言うと、古橋さんは「いや、そういう意味じゃないんだよ」と言ってひらひらと手のひらを振った。
「え、じゃあどういう意味なんですか?」
「野生動物に襲われるくらいなら構わないが、残念ながら僕は泳げない体質なんだ。……いや、恥ずかしい話だけどね。だから、海に囲まれた無人島では、どうも生き延びられそうにない」
「へぇ……そうなんですか」
 いわゆるカナヅチというやつなんだろう。僕が小学生の頃にも、クラスメイトに一人だけそういう奴がいた。運動能力が低いんじゃなくて、水恐怖症なのだ。だから、そもそもプールに入ることが出来ない。古橋さんもその類なんだろうか。
「僕と違って、朽葉なんかはすごく泳ぎが上手いんだけどね」彼女は言った。「朽葉は趣味で水泳をやっているから。彼女だったら、無人島生活も可能かもね」
「霧山さんが水泳? ……ちょっと、想像できないですけど」
「まぁ、だろうね」
 古橋さんはそう言って、愉快そうに笑った。
 泳げない古橋さんに、泳げる霧山朽葉。含み笑いの古橋さんに、微笑の霧山朽葉。路傍のツクシみたいな性格の古橋さんに、日なたのヒマワリみたいな性格の霧山朽葉。何だか、陰と陽で対になっているみたいだ。
 そこで、ふと疑問が湧いた。
「そういえば、古橋さんってどうやって霧山さんと知り合ったんですか。ずっと気になってたんですけど。友達なんですよね?」
「うん、まぁね。とあるインターネットのサイトを通じて、二、三年くらい前に知り合ったんだ。それでまぁ、性格が合うってことで何度か実際に会ったりもしたわけだよ」
「へぇ。二、三年前っていうと、じゃあ霧山さんが作家デビューした後の知り合いなんですね。彼女、十四歳のときにデビューして、今は十七歳ですから」
「そうだね。彼女があの霧山朽葉だって知ったときには、僕もさすがに驚いたよ」
 古橋さんはその時のことを思い出すように遠い目をした。
「僕も彼女も、学校には通ってなくてね。まともな知り合いってやつがいなかったんだ。そういう理由も手伝って、僕たちはわりとすぐに仲良くなった。いい思い出だよ」
「はぁ……。というか、学校に通ってないと言うと、お二人は不登校か何かだったんですかね」
「さてね。朽葉の方にどんな事情があったのかは知らないが、少なくとも僕は不登校ってわけじゃないよ。僕の方は、少しばかり特殊な事情を持つ人間でね」
 古橋さんは独特に含みある笑みを浮かべた。ほらみろ、また特殊な事情だ。どうやらこの島は、余程変わった人間に好かれているらしい。僕は内心うんざりしつつも、「どういう事情があったんですか」と尋ねてみた。
「うん。実は僕は、わりと幼い頃から海外留学していてね。ドイツで、医学を学んでいたんだ」
「医学ですか……。あれ? でも古橋さんって、そんな年上に見えませんけど」
「僕は朽葉と同じ、十七歳だよ。ただ、僕は生まれつき、少しばかり数学系の才能に恵まれていたものでね。十歳から十四歳までの四年間、ドイツに留学して、普通の人よりちょっと早く医学を学んでいたんだ」
「……要するに、天才ってことですか」
「さてね。僕はあんまり、その言葉は好かないけどな。その一言で何でもかんでも済ませようという姿勢が、ちょっと気に入らない。まぁ、きみがそう呼びたかったら勝手に呼んでくれても構わないけれど」
「じゃあ、天才と呼ばさせてもらいますよ。ていうか、そんな才能があるんだったら、霧山さんに劣らず有名人になっていそうなものですけどね。天才医学少女、とか銘打って」
「うーん」古橋さんは苦笑した。「僕がもう少し万人受けする性質の人間だったら、多少は有名人になっていたかも知れないけどね。でも生憎と、世間は人殺しには冷たいよ」
「…………え」
 全身の血液が凍り付いたように錯覚した。ぐぎぎ、と機械めいた動きで、隣の古橋さんを見やる。彼女は苦笑いしていた。
「ドイツでね。興味に駆られて、少しばかり非合法的に人間を解体してしまったのさ。三つ、四つくらいかな? まぁ檻に閉じこめられるのは免れたんだが、そのおかげで日本に追い返されたわけだ。十四歳のときの話だよ」
「……冗談ですよね、それ」
「さてね。冗談と思いたければ、冗談と思えばいい。それで僕という人間の人格が変わるわけじゃないからさ」
 彼女は喉の奥で笑い声を立てた。僕もそれに合わせるように、曖昧に笑う。
 人殺しの天才医学者――。
 古橋さんの肩書きは、こんなものでいいのだろうか。
「うん? どうかしたかい。何だか、顔色が悪いようだけど」
「ええ、まぁ。島に着いたときから頭痛が絶えなくて」
「頭痛か……。生憎と、今は頭痛薬を持ってないんだけどね。なんなら朽葉に頼んで、」
「構いませんよ」
 この島を出たらすぐ治りますから、と僕は心の中で毒づいた。
 しかし、これでようやく、この島に来ている全員の肩書きが揃ったわけだ。
 秘密主義で物好きな覆面作家、人殺しの天才医学者、世界各地の無人島を渡り歩く冒険家、十年間監禁されて育った引き篭もりのお嬢様、一日中ベッドの上で過ごす読書中毒、五年間一人で孤島で過ごした小間使い、そして、ただの高校生。……どう考えても、僕が仲間外れだ。
 一体何だっていうんだろう、この島は。
 まるで、奇人変人ばかりを狙って抽出したみたいな、そんな作為を感じる。
 その作為の陰に、僕は何者かの悪意を感じずにはいられなかった。


 夕食の前に、ちょっとした事件が起きた。というのも、二階の客室から狂ったような叫び声が聞こえてきたのだ。何事かと思って、広間にいた古橋さん、伊勢崎さんと一緒に駆けつけると、二階回廊で御代川さんが果物ナイフ片手に暴れていた。
 蛇がいるのよ! 蛇がいるのよ!
 御代川さんは喚きながら、半狂乱でナイフを振り回していた。目を剥き、髪を振り乱して暴れるその姿は、狂っていると言うほかない。島の探索から戻ってきた守屋さんが事態に気付き、二階へやってきて彼女を取り押さえてくれた。
 御代川さんの部屋では、電気スタンドに繋がっている電気コードが、ナイフでズタズタに切り裂かれていた。どうやら彼女には、この電気コードが蛇に見えたようだった。
 錯乱状態の御代川さんは、どうしようもなかったので別室に隔離して、精神医学も心得ているらしい古橋さんに任せることにした。数十分後、御代川さんは別人のように静まり返って、ぶつぶつ独り言を呟きながら部屋から出てきた。電気コード以外に目立った損害はなかったので、とりあえず一件落着、ということになった。
 これはその後で、守屋さんから聞いたことだが――。
 御代川姫子は過去、監禁されているときに蛇に噛まれたことがあったらしい。御代川家の息子が飼っていたやつが、彼女の部屋に忍び込んだのだとか。そもそも、その蛇の一件が、彼女の監禁が露呈するきっかけになったのだという。以来、御代川姫子は蛇に対して極端な恐怖心を抱くようになり、蛇のような細長い物体にすら反応するようになったのだとか。
 電気コード、ネクタイ、ベルト、靴紐……。御代川姫子はそれらに恐怖して触れることが出来ないどころか、時としてナイフで切り刻んだりもしてしまうため、彼女の部屋からは一切の蛇に見えるものが取り払われたらしい。守屋さんはそんな話を今朝、御代川家の執事から聞かされていた、と語った。
 御代川さんは夕食中ずっと、肩を小刻みに揺らしては何事か呟いていた。
「何なのかねぇ……この屋敷は」
 夕食後、御代川さんと霧乃は早々に自室へと引き揚げ、メイドの伊勢崎さんを除く残りのメンバーは、二階の談話・遊戯室でしばし歓談するという流れになっていた。もっとも、僕は今日一日で色々ありすぎて疲弊しきっていたため、早いうちに輪から抜けて、十二号室へと戻った。
「おかえり、ゆぅくん」
 ベッドで相変わらずハードカバーを広げている霧乃が、僕を認めると半身を起こした。ほのかにシャンプーの匂いがする。多分、霧乃は先に風呂へ入ってしまったのだろう。僕はすぐに風呂へ向かうほどの元気もなく、自分のベッドに倒れ込んだ。
「どうかしたの?」
「どうもこうもないよ。まるで異星人の群れの中に漬け込まれたような気分だ。このままじゃぬか漬けにされちまう」
 僕が嘆くと、霧乃は「ゆぅくんは、何の取り柄もない高校生だからねぇ」と慰めてくれた。でも、それは何の慰めにもなってないと思う。
「しかしなぁ……。こんな奇怪きわまりない人たちの中にいると、霧乃の奇怪っぷりがまだ可愛らしく見えてくるよ」
「うん? そうかな」
「自分の部屋に閉じ篭もって読書してるだけなら、害がないからさ。蛇が出たとかいってナイフを振り回すよりは百倍もマシだ」
「おぅ。ぼく、ゆぅくんに初めて褒められた気がするよ」
「別に褒めてるんじゃないの。相対的にどうかって話だから……」
 僕は寝返りを打った。霧乃は自分のベッドに寝転んで両脚を天に掲げ、足の裏をくっつけようとして遊んでいる。その邪気のなさに、今はちょっとだけ安心する。こんなわけの分からない屋敷の中で、僕にはこの女の子だけが自分の味方のように思えた。
 あと三日――。
 何事もなく過ごせればいいのだが。
「でも、似てるよね」
 ふと、霧乃が呟いた。うん? と僕は彼女の方を見やる。
「似てるって、何がさ」
「この状況だよ。ゆぅくんは読んでないから分からないかも知れないけど、この屋敷の様子は霧山朽葉の『死者の館』上巻にそっくりなんだ」
「……………………」
「『死者の館』でも舞台設定は孤島の洋館だったし、変わり者の小説家も出て来るんだよ。登場人物は、人数や設定なんかは違うけど、みんな奇人変人ってところは『死者の館』と同じかな」
「何が言いたいんだよ」
「別に。ただ、何となく似てるなぁと思ったから」
 霧乃はそう答えて、僕に背中を向けた。ふん、と僕は鼻を鳴らしてみせる。それはもちろん、強がり以外の何物でもなかった。
 それはつまり、心のどこかで認めているのだろうか。
 この屋敷が既に、何か異様な気配に包まれている、ということを。
「あと、もうひとつ」
 霧乃はそう言ってベッドの下に手を突っ込むと、何かを取り出した。ゆぅくんパス、と言って投げ寄越してくる。咄嗟に掴んだそれは……人形?
 生地が色褪せて黄ばみ、ところどころ破けて中の綿が飛び出している。小さな子どもが玩具にしていそうな、古びた女の子の人形だった。
「何だよ、これ」
「さっき、この部屋で偶然見付けたんだよ。昔、小さな子どもがここにいたのかもね」
「いたから、どうだって言うのさ」
「『死者の館』上巻にも、同じような設定があるんだよ。この館では昔、小さな女の子が監禁されていました、っていう設定が」
「……まさか。考えすぎだろ」
 たかが人形があったくらいで。そう付け加えると、霧乃はわりとあっさり「まぁ、そうかもね」と言って読書を再開してしまった。ああなると霧乃は他人の話を聞かなくなるので、僕も口をつぐんで、彼女に背を向ける。
 古びた人形。小さな子ども。
 そういえば、守屋さんが行きの船でこんなことを言っていた気がする。
 ――ここらへんじゃ、あの島には何でも、小さな女の子の幽霊が出るって噂らしいぜ。 
 それだけじゃない。伊勢崎さんから聞いた、五年前にこの屋敷で起こったという謎の事件。熊切という名前の、この屋敷の前所有者。この古びた人形とその五年前の事件には、何か関係があるのだろうか。
 そして、霧山朽葉の『死者の館(上)』に似ているという、この屋敷の様子。
 孤島の洋館、奇怪な招待客。
 考えれば考えるほど、不穏な気配が背筋を舐め回すようだった。
 雨が近いのか、海がやけにざわめいていた。


 その翌日――。
 朝から全員が呼び集められた大広間で、僕は霧山朽葉の死を知った。


 第二章 悪意の集う夜明け   

 *

 昔から。
 昔からずっと、生者と死者の境目というものが、よく理解できなかった。
 それは単に心臓が動いているか否かの差異なのか、あるいは他の定義が与えられ得るのか。与えられ得るのだとしたら、それは一体何なのか。
 たとえば、生まれてから一度たりとも他者に感知されることのない人間が存在するのだとしたら。たとえば、指先でつつくほどの影響力さえ世界に行使できない人間が存在するのだとしたら。その人間は、果たして生者であると呼べるのか。生者と死者の境目は、一体どこに存在するというのか。
 彼が、彼女の頭に鈍器を振り下ろすとき、考えていたのはそんなことだった。
 その一瞬は、永遠かと思われるほど長かった。
 振り上げた凶器。どうして、と問うように見開かれた彼女の目。風を切る音。身体に伝わってくる確かな手応え。低音。裂けた肉。赤い液体。ぬめりけ。
 気付いたとき、意識を失った彼女が目の前に倒れ伏していた。
 彼は血を滴らせる凶器を片手に、しばらく彼女の身体を眺めた。
 生者と死者の境目を、今まさに越えようとする物体。彼が彼のために価値を損なわせたモノ。
 精神は、思ったより冷静を保っているようだった。それどころか、殺人を犯すことによって、ますます冷徹に研ぎ澄まされていくようにすら感じた。
 血液の付着した頬を、指の腹で拭う。
 それから彼は、懐から頑丈なロープを取り出した。それを注意深く、意識を失った彼女の首の下に通していく。
 後の作業は、ただの事後処理に過ぎなかった。
 彼は彼女に馬乗りになり、体勢を安定させて、ロープを左右へ思いきり引っ張った。彼女は意識を失っているから、マネキンの首を絞めるのと大差ない。ただ、生理的反応なのか、首を絞め上げたとき、彼女の口から、ぐぅ、と喉を引き絞ったような声が洩れた。
 秒数をきっかり数えたのち、彼はロープに掛ける力を緩めた。彼女は飛び出さんばかりに目を剥き出し、唇を歪めて絶命していた。彼女の首には、まるで蛇が這った後のような、毒々しい赤色の索状痕が残されていた。
 彼は自らが創り出したその光景をしばらく眺めてから、用意していた紙を死体の脇へ添えた。
 『第一の犠牲者』――。
 紙にはそう書かれていた。 

(霧山朽葉『死者の館(上)』より抜粋)

 *

 大広間には、重たい沈黙が漂っていた。誰もが混乱を来しているというのに、口を開くことすら出来ない。古橋さんの口から伝えられた事実は、それだけの衝撃を持って僕たちの上にのしかかった。
 ――霧山朽葉が、殺されたんだ。
 神妙な表情をした古橋さんは、「亡くなった」でも「死んだ」でもなく、「殺された」という表現を使った。そのことが余計に、僕たちに圧迫を与えた。
 古橋さんの隣では、メイドの伊勢崎さんが青い顔をして俯いている。唇を噛み、恐怖に耐えようとしている様子だったが、彼女の肩は小刻みに震えていた。彼女が霧山朽葉の――死体の――発見者であるらしかった。
 はっきり言って、僕は何が起こったのか理解できないでいた。混乱していたのだ。
 殺された? 霧山朽葉が?
 頭ではその単語を認識しているのに、その言葉が一体どういう意味を持つのか、まったく理解できない。まるで脳のシナプスが焼き切れてしまったみたいだった。頭の中では、ただ「霧山朽葉が、殺されたんだ」という古橋さんの声だけが、ぐるぐると渦を巻いている。
「待ってくれ」
 ずるずると自分の奥底に落ち込んでしまいそうな僕を、その声が現実に引き摺り戻した。音源を辿ると、守屋さんが古橋さんに向かっていた。
「霧山朽葉が殺されたって……それは一体、どういうことなんだ」
「言葉通りの意味だよ」
 古橋さんは根が医学者だからということもあるだろうが、いささか冷静を保っているように見えた。
「書斎――この屋敷の一階に書斎があるんだけど、そこで朽葉が殺されていたんだ。発見者は僕じゃなくて、こちらの伊勢崎さんだけどね」
 そう言って、彼女は自分の隣で震えている小間使いを見やった。しかし、伊勢崎さんには状況を説明する余力がないだろうと考えたのか、「僕の方から説明させてもらうと」と言って、続ける。
「今朝、伊勢崎さんが起きて、大広間へ向かう途中のことだ。彼女によると、書斎のドアが半開きになっていたらしい。それで、不審に思って中に入ってみると――」
 霧山朽葉が死んでいた、という事実を、古橋さんは沈黙で示した。
「ちょうどその時、僕が一階へ降りてくるところだったんでね、伊勢崎さんは僕に報せに来たというわけさ。その後、僕は彼女と一緒に、書斎へ向かった」
「そんなことはどうでもいい!」守屋さんが声を荒げる。「そんなことより、書斎なんだな。書斎にその……死体、があるわけだな」
「ああ、そうだ」
 古橋さんは神妙に頷いた。
「じゃあ、とにかく書斎だ。書斎へ行ってみようじゃないか。この目で見ないと、そんな話、信じられるわけがねぇ」
 守屋さんは半ば怒ったような調子で言い散らすと、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。「みんなも、一緒に来てくれよ」と言って、大広間を出ていこうとする。その背中に、古橋さんが声を掛けた。
「余計な忠告かも知れないけどね、あんまり精神力のない人は見ない方がいいよ。一晩ならともかく、一生うなされる羽目になる」
「そんなに、ひどい状態なのか」守屋さんが振り返った。
「惨状、という言葉を使うべきだろうね。悪趣味にも程がある」
 古橋さんはそう言って、全員の顔を見回した。どうする? と尋ねるみたいに。
 古橋さんの隣でぐったりしている伊勢崎さんは、どう考えても再び書斎に入るほどの元気はなさそうだった。膝の上で組んだ彼女の手が、小さく震えているのが分かる。
 一方の御代川さんは頬杖を突き、例によって不機嫌そうな顔で向かいの壁を睨んでいる。このことについてどう思っているのかは、いまいち分からない。彼女はもしかすると、他者についてそもそも興味がないのかも知れなかった。
 その他、守屋さんは書斎へ行くものとして……さて、霧乃はどうだろう。僕は隣席に座っている変わり者の友人を、ちらりと眺めた。
 霧乃は、テーブルの角をじっと見据えたまま、微動だにしていない。その表情は驚愕や恐怖というよりも、何か考え事をしているというふうだった。かすかに眉をひそめている。珍しい表情だ、と僕は意味なく思った。
「東大寺さんと小坂くんは、どうする?」
 古橋さんが僕たちに意志を尋ねてくる。僕はちらりと霧乃に目を馳せたが、彼女の方は僕を見ることなく、「ぼくは行くよ」と静かに答えた。それなら、と思って、僕も「行きます」と答える。
 結局、伊勢崎さんと御代川さんを除いた全員で、書斎へ向かうことになった。  


 書斎の状況は、まさに凄惨の一言に尽きた。
 入り口からちらっと中を覗くと、部屋の中央に大きな血溜まりが出来ているのが分かる。そして、血の海の中には、とある物体が横たわっており……。
 死体というものを初めて目にする僕は、その時点で吐き気を催してしまった。実際、「ゆぅくん、しっかりして」と霧乃が手を握ってくれなかったら、僕はその場で戻していただろう。霧乃だって死体を見るのなんか初めてのはずだが、それにしてはやけに落ち着いている気がした。
「中に入ろう」
 古橋さんも冷静だった。彼女は扉を押し開けると、一人で書斎の中へ入っていった。さすが自称「人間を解体した」医学者だけのことはある。守屋さんと霧乃、僕もそれぞれ目配せして、書斎の中へ足を踏み入れた。
「これは……」
 死体を間近で見て、守屋さんが唸った。野生生活には慣れているはずの彼までもが、表情を歪ませている。
 床に出来た大きな血溜まりのせいだけではない。
 隣にいた霧乃が、小さな声で「顔のない死体……」と呟くのが聞こえた。

 そう――霧山朽葉の死体は、首が斬られて、頭部が欠損していたのだ。

「ひどいもんだな……」
 守屋さんが呟きを零した。彼の視線は死体から、死体の脇に投げ捨てられている鉄斧へと転じられる。この斧には僕も見覚えがあった。この屋敷の玄関ホールで、回廊へと続く観音扉を守るように鎮座していた、石像の騎士が持っていたものだ。恐らく、これで死体から首を斬り取ったのだろう。
 首のない死体には、恐怖よりも異常さが際立っていた。
 あるべきものが欠損した人体。それは何だか滑稽な光景で、ともすれば一種の芸術作品のようにも見えてしまう。じっと見つめていると、僕という存在がその死体に吸い込まれてしまいそうな、そんな奇妙な感覚を覚えた。
「何でったって、首が斬り取られてるんだ……」
 僕の呟きに、霧乃が「それは、犯人に聞いてみないと」と声を潜める。
 犯人――。
 そう、これは殺人なのだ。そして、殺人には必ず犯人がいる。そんな当たり前のことに、今さらのように気付いた。
「変わっているのは、首が斬り取られていることだけじゃないみたいだよ」
 古橋さんの声に、はっとして顔を上げる。これ、と言って、彼女は床に落ちている何かを指差していた。
 彼女の手元を覗き込む。

 『第一の犠牲者』

 A4サイズのコピー用紙に、赤文字でそう書かれていた。恐らく定規を使って書かれたのだろう、ひどく角張った特徴的な文字だ。
 第一の犠牲者。
 それが一体、何を意味するのか……。背筋を通り抜けた悪寒に、僕は身を震わせた。
「悪趣味だな……」
 僕は呟いた。隣の霧乃がそれに応じるように、こくりと頷く。
「でも、それだけじゃないよ。単に悪趣味ってだけじゃない」
「うん、どういうこと?」
「ゆぅくんは分からないだろうけど、一緒なんだよ。孤島の洋館、書斎で見付かった小説家の死体、そして『第一の犠牲者』っていう紙まで、全部」
 まさか、と霧乃の顔を見やる。
 彼女は真剣な眼差しを死体に向けながら、その続きを口にした。
「霧山朽葉の『死者の館』上巻と、そっくり」


「死体見物は楽しかったかしら?」
 大広間に戻ると、椅子に座って腕組みした御代川さんが、鋭い目つきを僕たちに向けてきた。守屋さんがそれに不快感を隠さず、「口を慎んだ方がいいぜ」と忠告する。
 御代川さんは、ふんと鼻を鳴らした。
「結構なことね! こんなわけの分からない場所に連れてこられたと思ったら、今度は殺人ですって。『そして誰もいなくなった』の実演でもする気? だったら、私がこの場で真っ先に、あなたたちを皆殺しして差し上げるわ」
「……みんな気が立ってるんだ。静かにしてくれ」 
 守屋さんが押し殺した声で再度忠告すると、御代川さんはまた鼻を鳴らして黙り込んでしまった。
 あの後、四人でざっと書斎の中を調べてみた。なくなった頭部が見付かるかも知れない、と思ったのだ。しかし、頭部はおろか、他には何の異常も見付かることはなかった。
 霧山朽葉の死体は、他にどうしようもなかったので、毛布を掛けて放置してきた。
「さて。まず何を考えるべきなのか……」
 全員が席についたのを確認してから、守屋さんが口を開く。「ロ」の字形に並んだテーブルの中で、一席だけが不自然に空席となっていた。僕の意識は、知らず知らずそこへ吸い寄せられてしまう。
「霧山朽葉は殺された……。どうやらこれは、疑いのない事実らしい。だから、冷たい言い方だが、それはそれで終わったことにしようと思う。そんなことより今、俺たちが考えるべきは、とりあえずこれからどうするか、だ」
 守屋さんの問いかけに、古橋さんが答える。
「何よりも先に、警察を呼ぶべきだろうね。こいつは、僕たちだけでどうにかするには、いささか問題が大きすぎる。手に負えないよ」
「僕も賛成です。警察を呼んで、警察が来るまでは、この大広間でじっとしてましょう」
 僕も意見を述べた。こういう状況にあっては、下手に動かないのが一番のように思えたのだ。
 しかし、その最善策は「それは、出来ません」というか細い声によって打ち壊された。
 声を発したのはメイドの伊勢崎さんだった。
「実はわたし、みなさんが書斎へ行っている間に、警察に連絡しようとしたんです。一階の使用人部屋の隣に電話機があるので、そこへ行って。でも……でも電話機は、既に破壊されていたんです」
 伊勢崎さんは怯えるように俯いたまま、小さな声で語った。
 破壊された電話機――。その陰には明らかに、何者かの悪意が見え隠れしていた。
「ふん。それが犯人の目的ってか。この屋敷、他に外部との通信手段は?」
「……ありません」伊勢崎さんが消え入るような声で答えた。
「そうかい。電話は破壊されていた……。だが、携帯電話ならどうだ。誰か一人くらい、携帯電話かスマートフォンを持ってる奴はいないのか?」
 守屋さんはそう言って、一同を見回した。しかし、反応する者は誰一人としていなかった。
 無理もない。
 この企画では、カメラ機能搭載の機器の持参は一切禁止、とされていたのだ。そうすればおのずから、携帯電話だろうとスマートフォンだろうと持ち込めないことになる。
 とはいえ、そうではない別の理由も考えられた。
 他者との接触を拒絶する引き篭もりが二人、無人島で生活する趣味を持つ者が一人、ドイツ留学していて日本に知り合いのいない者が一人、ずっと孤島で一人で生活していた者が一人。
 そもそも、僕たちの中のどれほどが携帯電話なんてものを手にしたことがあるのか。そこから疑わしい気もした。
「いねぇか」守屋さんは苦虫を噛み潰したような表情になる。「つまりこれで、外部に連絡する手段は断たれたってわけだな……。ちくしょう」
 それきりで守屋さんは黙り込み、大広間は重苦しい沈黙によって支配された。
 連絡する手段がなくなった、というそのこと自体よりも、電話機が破壊されていた、という事実の方が、僕には不気味に感じられた。
 電話機を破壊した者――恐らく霧山朽葉を殺害した犯人だろうが――は、どうして電話機を破壊しなければならなかったのか。
 言うまでもない答えが、僕の身体の内部を這い回る。
 それは、何よりも恐ろしい想像だった。
「残りの手段と言えば」
 気付くと、僕は勝手に声を出していた。
「帰りの船が来るまで、全員でずっとこの広間にいるってことぐらいですね。帰りの船、明後日には来るんでしょう?」
「ええ……。明後日の昼前に、ということになっていましたから」伊勢崎さんが答えた。
「だったら、明後日までの辛抱ですよ。ここは、全員で一箇所にまとまって……」
「冗談じゃないわ!」
 僕の提案を遮った嬌声の主は、言うまでもない。御代川さんだ。
「私はね、他人と同じ空間にいると、ひどいストレスをこうむる体質なのよ。今だって我慢の限界が近いというのに、それを明後日まで!? そんなことしたら、誰が手を下さなくたって、私は間違いなく殺されてしまうわ」
「しかし、御代川さん……。今は、そんなこと言ってる場合じゃないですよ」
「そんなこと、ですって! これだから常識人って人種は好きになれないのよ。自分の中にある考えが、たまたま世間のそれと合致しているからって、それが万人共通の認識だと思い込む。自分の考えが他者には理解されないとしっかり認識している点で、私はあなたより殺人犯との方が気が合うわ!」
 目を剥いて捲し立てる御代川さんに、僕はすっかり閉口してしまった。僕の隣にいる霧乃が、「変わった人だねぇ」と呑気に言う。こいつだって人のことを言える立場じゃないのだが。
「まぁまぁ」
 御代川さんの乱入で収拾のつかなくなった場を取り繕うように、仲裁に入ったのは古橋さんだった。
「僕は御代川さんの言い分も充分に分かっているつもりだよ。なにしろ、僕も世間じゃ異端児だからね。でもとりあえず、この場は落ち着こうじゃないか。取り乱すと、また血圧が上がるよ」
「ふん。それもそうね」
 御代川さんが引き下がると、古橋さんは全員をぐるっと見回した。
「僕はまだ、この島からの脱出を諦めたわけじゃない。電話や携帯電話がなくて外部と連絡を取れなくなったからといって、ただちに失望する必要はないよ」
「でも、連絡が取れなかったら……」
 僕が口を挟もうとするのを、古橋さんは「まぁまぁ」と手で制した。
「ここは島だ。それも、定期船さえ通っていないような孤島。そこにこんな屋敷があるなら、モーターボートの一つや二つ、あってもいいとは思わないかい?」
「ボートか……」
 それは考えていなかった。僕たちは屋敷の事情に詳しい伊勢崎さんに注目した。
「一応、あることはあります。閉じ篭められたら困るので……」
「ふぅむ。一応、ってのはどういう意味かな」と古橋さん。
「その……モーターボートは浜辺の鉄檻の中にあるんですけど、檻を開けるには鍵が必要でして。そこの壁に掛かっているんですけど」
 そう言って、伊勢崎さんは僕の背後の壁に目をやった。昨日、確認した通りの装置がそこにはある。
 壁に掛けられた無数の鍵、それを囲う透明なボックス、暗証番号入力機――。
 確かに、無数の鍵の中には、フックに「ボート小屋」と記された鍵がある。あるいは「マスターキー」と記された鍵でも開けられるかも知れない。
 しかし、このボックスを開けて鍵を取り出すためには、暗証番号が必要だった。
 そして、その暗証番号を知る唯一の人間――霧山朽葉は、もう既に殺されているのだ。
 再び、僕たちの間に失望が広がった。
「つまり、だ。僕たちには、モーターボートを使用することが出来ない。そういうわけだね」
「いんや」
 結論付けようとした古橋さんに、食ってかかったのは守屋さんだった。
「馬鹿正直に番号入力してやる必要なんかない。壊せばいいんだ。鍵を囲っている透明な箱か、あるいはボートが入っているって檻を」
 言うや否や、守屋さんは立ち上がって僕の背後に回り込んだ。ちょっと失礼、と誰も座っていない椅子を取り上げて、彼はボックス装置に向かう。
 椅子を思いっきり振りかぶり、そして振り下ろす。
 ごん――。
 分厚いガラスを素手で殴ったような、鈍い音がした。ボックスには傷ひとつつかない。
「無理です」伊勢崎さんが言った。「そういう事態を予想されて作られた装置なんですから、人間業じゃ壊せるわけがありませんよ。銃で撃ったって傷ひとつ付きません」
「ふざけやがって!」
 守屋さんの怒りは、一体何に対するものだったのだろう。
 やめて下さい、と伊勢崎さんが止めるのにも関わらず、彼は椅子を振りかぶり続ける。その度に生まれる音が、大広間に不気味に響いた。
 何度か叩きつけたところで、椅子の方が壊れた。
 守屋さんは荒い息で、その場に座り込んでしまった。
「おい、伊勢崎さん。ボート小屋の方はどうなんだ」
「鉄檻です。どうしようもありません」
「くそ……。じゃあ、この忌々しい箱をぶっ壊すしかないじゃねぇか。確か、書斎に斧があったよな?」
「斧って……」
 僕は言葉をなくした。 
 なにしろ、その斧は、霧山朽葉の首を切断したものなのだ。
 僕たちが止めかねているうちに、守屋さんは一人で広間を出ていってしまった。やがて彼は本当に斧を抱えて戻ってきたが、その斧の刃は赤い液体でぬめっていて、誰もが目を逸らした。
 そして、結果は変わらなかった。
「クソ! 何だってこいつは、こんな頑丈に出来てるんだ! まるで俺たちをここに閉じ篭めようとしているみたいじゃないか!」
「霧山さんが取り付けるよう指示してきたものです。どうか、悪く言わないで下さい」
 伊勢崎さんの言葉に、守屋さんは何も言い返せず、ふんと鼻を鳴らすに留まった。
 霧山朽葉……。彼女は一体どうして、こんな強固な防衛システムを用意したのだろう。自分の家というならともかく、ここは別荘で、しかも誰も入り込めない孤島だというのに。
 彼女は本当に、僕たちをここへ閉じ篭めようとしたんじゃないか――。
 そんな変な妄想までもが頭をもたげてくる。仮面のような微笑面をした、思考の奥底が読めない覆面作家。その真意を尋ねようにも、彼女はもう何者かに殺されているのだった。
「とにかく」
 誰もが口を閉ざした頃、僕の隣の読書中毒娘が、すべてを総括するように言った。
「これでぼくたちは、この島に完全に閉じ篭められてしまったわけだね」


 気付くと、屋敷の外では雨が降っていた。大広間から回廊に出ると、島を包み込む雨の不気味な低音が、黒塗りの壁から漏れ聞こえてくるようだった。屋敷の窓からは、紫色の雲が低く垂れ込めて、島を覆っているのが見える。この分では、たとえボート小屋の鍵が開いたとしても、モーターボートを走らせることなんか出来なかっただろう。海は猛り狂ったように白波を暴れさせていた。
 その後、大広間の死んだような雰囲気の中で、全員でブランチを摂った。伊勢崎さんが精神的に参っていたので、古橋さんも厨房を手伝うと申し出た。その真意は、誰も指摘こそしなかったが、伊勢崎さんに毒を入れる隙を作らせないためだったのだろう。
 この中に犯人がいるかも知れない――。
 霧山朽葉の死から時間が経過して、全員の心の中に疑心の種が芽生えていた頃だった。
「別に、見張る必要なんかないと思うけどね。ぼくは」
 この期に及んで、大広間にSFハードカバーを持ち込んでいる霧乃は、呑気にもそんなことを言う。
「どうしてだよ。見張らなかったら、毒を入れる隙がいくらでもあるじゃないか」
「だって、そんな状況で伊勢崎さんが毒を入れたら、自分が犯人ですって申し出てるようなものだもん。そんなこと、まともにものを考えられる人間ならしないよ」
「分かんないよ。もしかしたら、自分以外の全員に毒を盛って、一気に片を付けるつもりなのかも知れない」
「それだったら、昨日の夕食でやってると思うけどなぁ……」
「でも、万が一ってことがあるだろ」
「うーん」
 すると、霧乃は顔を上げて少しだけ考え込み、
「そのときは、そのときだよ」
 そんなことを言って、再び読書に戻った。
 ……こいつは、ひょっとすると事の重大さを認識していないんじゃないだろうか。それとも、生きることに執着がないのか。どちらにせよ、常軌を逸した女の子であることは間違いない。
 結局、そのブランチでは何事も起こることはなかった。
 食事の後、再び全員で今後の方針について会議することになった。
「とにかく、だ。まず行動目的をはっきりさせておこう」
 今度の話し合いで主導権を握るのは、どうやら古橋さんのようだった。守屋さんは鍵を囲むボックスを斧で破れなかったことが余程ショックなのか、軟体動物のように椅子の上で項垂れている。
「僕たちが目的とするのは、何よりも安全の確保だ。これについては異論はないだろう。朽葉を殺害した犯人は、『第一の犠牲者』という思わせぶりな紙を書斎に残していた。考えたくはないが、これは連続殺人の予告と見てまず間違いないよ」
 連続殺人――。
 誰もが認識していながら、口には出せなかった可能性。改められて突き付けられたその単語は、やはり相当の重さを持って僕たちにのしかかってくるようだった。
「僕たちは、これ以上の犠牲者を出すわけにはいかない。安全の確保という目的のために全力を尽くす。いいね?」
 古橋さんはそこで一同の顔を見回した。それぞれが神妙に頷く中で、「笑わせてくれるじゃない」と冷たく言い捨てたのは、御代川さんだった。
「安全の確保、ですって? それなら、私は今ここで、斧でも何でも振り回してあなた方全員を殺害する所存よ。それが一番手っ取り早いわ」
 身も蓋もない彼女の物言いに、隣の霧乃がくすっと笑って、「至言だね」と小声で囁いた。
「御代川さん。あなたの言い分は分かるけれど、それでは意味がないんだ。僕たちは可能な限りで、全体としての利益を最大化しなければならない」
「あら? でも残念ながら、私にはそんな義理はないわよ。私は個人の利益以外に関心がないもの」
「悪いけれど」古橋さんは声を沈めて、「そういうことであれば、僕たちは全体の利益のために、あなたを抹殺しなくてはならないんだ。余計な血は流したくない。そういうことなら、御代川さんも理解してくれるね?」
 容赦のない台詞だった。御代川さんは鼻を鳴らして、それきり黙り込んでしまった。
 本題に戻ろう、と古橋さんは続ける。
「さっき、僕たちは安全の確保という目的のために、外部への救助要請という手段を講じようとした。警察への連絡や、ボートでの島からの脱出がそれだ。しかし、生憎とこの手段は封じられた……。故に、僕たちは二次的な手段を執る必要があるんだ」
「二次的な手段、ですか?」と僕。
「うん。早い話、安全の確保には犯人の行動を封じ込めてしまえばいいんだ。そのために必要なのが、すなわち犯人探しだよ。犯人さえ分かってしまえば、もう怖いものはない」
「そう、ですね」
 僕の合いの手には、しかし、少しばかりの躊躇いが含まれた。犯人探しという言葉のニュアンスが、何かしら不吉なものを含むように感じられたからだ。
 僕たちの中に犯人がいるんだよ――。
 古橋さんが、言外にそう言っているような気がしてならなかった。
「おい、古橋さんよ」
 今まで黙っていた守屋さんが、不意に口を開いた。
「それってのはつまり、俺たちの中に犯人がいると言いたいわけか。この屋敷にいる六人の中に、霧山朽葉の首を斬り落とした気狂いがいるってか?」
「うん。まぁ、屋敷の中にいるのは確かだろうね。でも、僕は六人と言ったわけじゃないよ」
「どういうことだ」
「分かるだろう? 第三者の可能性さ」
 そう言って、古橋さんは笑みを含んだ。
「この屋敷の中にはまだ、得体の知れない何かが、招かれざる七人目がいるかも知れない――。僕はそう言っているんだよ」
「……………………」
 ぞくり、と。
 肩が震えるような気がした。
 一瞬、大広間に降りた沈黙の帳が、いやに薄気味悪かった。
「招かれざる七人目ね……」と守屋さん。「身内を疑う前に、まずそっちを疑えってわけか。ふん、どうだかね。でも、ここは孤島の屋敷だぜ? 泥棒がちょっと忍び込んで、ってのとは訳が違う」
「分かってるよ。普通の屋敷だったら、僕だって第三者の可能性が高いと言うわけにはいかない。でもね、昨日朽葉から聞いたんだけれど、この屋敷はいわく付きだって言うじゃないか。とするとこれは、僕たちが知らない何かが、屋敷の中に潜んでいるかも知れないよ」
「いわく付きだと?」守屋さんが身を乗り出す。「どういうことだよ、それは」
 いわく付きの屋敷――。
 そう聞いて、僕には思い当たることがあった。
 昨日、伊勢崎さんから聞いたこの屋敷の過去。霧山朽葉の前にここを所有していた、熊切という人間。そして、五年前に起こったという謎の事件。
 一同の視線は、自然と伊勢崎さんの元へ集められた。
「えっと……」
 伊勢崎さんは自分への注目に戸惑うように目を伏せて、
「わたしも、はっきりしたことを知っているわけじゃないんです。本当に、ただの噂話に過ぎないことで」
「構わないよ」
 古橋さんが言った。
「情報は少ないよりも多い方がいい。それがたとえ、単なる噂話でしかなかったとしてもね」
「……そういうことなら、お話ししますけど」
 そう言って、伊勢崎さんは躊躇いがちに口を開いた。
「まず、わたしのことから話しておきたいと思います。わたしは、元々は霧山さんではなく、熊切さんという方に仕えていたんです。このお屋敷の、専属の使用人として」
「待ってくれ」守屋さんが早速割って入った。「この屋敷の、ってどういうことだ。ここ、霧山朽葉が建てたんじゃないのか?」
「いえ、違うんです。元々、この天上島は熊切さんの所有物で、この屋敷を建てたのも熊切さんでした。霧山さんは、それを買い取るような形だったんです」
「へぇ、そうだったのか。――悪い、先に進めてくれ」
「はい。次に、その熊切さんという方について説明するのですが……皆さんは、熊切千秀(くまきりせんしゅう)という名前をご存知ですか?」
「熊切千秀……聞いたことはあるよ」と古橋さん。「確か、歴史小説家か何かじゃなかったっけ」
「ええ、その通りです。熊切千秀は、実名をそのままペンネームにしている歴史小説家でした。わたしがお仕えしていたのも、その熊切千秀という人物だったのです。もっとも、わたしがお仕えするようになった頃には、彼はもう晩年で、だいぶ歳を重ねておられましたけど」
「ふぅむ。つまり、歴史小説家の熊切千秀がこの屋敷を建てた、と。そういうわけだね」
 と古橋さん。
「はい、そうです。それで……このお屋敷で使用人として働き始めたまでは良かったのですが、その頃からこの屋敷には変な噂がありまして。というのも、この屋敷は熊切千秀が、自らの隠し子を密かに育てるために作った屋敷なんじゃないか、という噂が」
 隠し子……。
 その言葉に、じっと話を聞いていた御代川さんが、少しだけ反応を示したような気がした。そういえば、彼女も御代川グループ会長の隠し子で、十年間監禁されて育てられたんだっけ。
「隠し子ね。でも、噂ってことは、実際にその子どもの姿を見ることはなかったのかな?」
「ええ。少なくとも、わたしはありませんでした。ただ、熊切千秀があまりに頻繁にこの屋敷を訪れるものですから……ひょっとしたら、とは思っていましたけれど」
「頻繁に、というと?」
「一週間に一回は、必ず。表向きは仕事だ、と言っているんですけれど、仕事なら本家の方でも充分に出来るはずですから……。わざわざ、この孤島の別荘を訪れなければならない理由というのが、他になかったんです。だから、隠し子がいるんじゃないか、という噂が流れ始めたわけでして」
「ふぅむ。なるほどね……。しかし、実際に姿を見たことはないとなると、その隠し子ってのは、どこかに閉じ篭められていたのかな」
「さぁ。そもそも、ただの噂に過ぎない話ですから。本当にそんな子がこの屋敷にいたのかどうかも……」
 そう言って、伊勢崎さんは目を伏せた。
 歴史小説家・熊切千秀。孤島の洋館。隠し子のために建てた屋敷……。有り得ない話ではない、と僕は思った。
「でも、これで可能性がひとつ出てきたわね」
 一同が沈黙する中、声を発したのは意外にも御代川さんだった。
「どういうことですか?」と僕。
「あら、分からないの? この屋敷には、隠し子が監禁されていたのかも知れないという噂があった。そして今、得体の知れない第三者が、殺人を行ったのかも知れないと目されている。だったら、自然と答えは出て来るんじゃないかしら」
「まさか……」
「そうよ」
 御代川さんは不敵に笑った。
「その隠し子が、まだこの屋敷のどこかに潜んでいて、殺人を行っているかも知れないのよ」


 滅茶苦茶な仮説だ……と思った。
 しかし、それでも彼女に異を唱えることが出来なかったのは、もしかしたらそう信じたかったのかも知れない。
 この屋敷に招待された、顔を突き合わせている六人の中に、殺人犯がいるということ。
 その恐ろしい可能性を排除したくて、僕の思考は姿の見えない七人目へと向かっていく。そちらの方が、まだリアリティがある。そう信じたくなってしまう。
 その後、何かの手がかりを探すという目的もあり、屋敷の探索が行われることになった。じゃんけんにより、一階部分は守屋さん、霧乃、伊勢崎さんが、二階部分は古橋さん、御代川さん、僕が担当することになった。 
「探索、とはいえ、二階には鍵の掛かっている部屋が多いからね……」
 三人で固まって二階へ上がったところで、古橋さんが言った。
「二階にある客室はざっと十五ってところだろうけど、ドアを開けられるのは僕たちが泊まっている四部屋と、それに中央の談話・遊戯室だけだよ。他の部屋の鍵は、マスターキーも含めて全部、広間のボックスの中に閉じ篭められているからね」
「いいじゃないですか。とりあえず、入れるところだけでも探しましょうよ」
 僕たちは先程、大広間の鍵置き場を確認してきていた。ボックスで取り囲まれているとはいえ、ボックスが透明なので、外から鍵の状況を把握できるのが唯一の救いだった。
 調べたところによると、鍵置き場になかった鍵は八つだけだ。すなわち、まず招待客の客室の鍵が四つ。それぞれ古橋さんの客室、守屋さんの客室、御代川さんの客室、僕と霧乃の客室だ。残りの四つは伊勢崎さんの使用人部屋の鍵と、食糧庫の鍵、霧山朽葉が殺されていた書斎の鍵、それから大広間の鍵だった。書斎の鍵は霧山朽葉の死体のポケットにでも入っているものとして、食糧庫と大広間の鍵は伊勢崎さんが管理しているとのことだった。
 全部屋の鍵を開けることの出来るマスターキーを含め、他の客室の鍵は、すべてあの頑丈な透明ボックスの中だった。
「でも、かえって良かったかも知れませんね。あの鍵の防衛システムは」
 僕は言った。
「もしあのボックスがなかったら、犯人にマスターキーを盗まれていたかも知れない。そうしたら、客室にいくら鍵を掛けたって、安心して眠れませんから」
「そうだね。マスターキーは確かに鍵置き場にあった。ということは、客室に鍵を掛けて閉じ篭もれば、ひとまず僕たちの身は安全ってわけだ」
「馬鹿なこと言うのね、あなたたち」
 御代川さんが冷ややかに言った。
「あんなくだらない箱がなかったら、今頃私たちはボートでこんな島を脱出していたところよ。無能ごっこも大概にしたらどうかしら?」
「それも、そうですね……」
 まさにその通りだった。局所的にばかり物事を考えると、大局的な見地を見失ってしまういい例だ。だからゆぅくんは詰めが甘いんだよ、という霧乃の甘ったるい声が、脳内で反響した。
「さて。じゃあ、まず僕の部屋から調べようか」
 古橋さんが場を取り持つように、僕たちを促した。
 部屋の鍵を開けて入ろうとするところで、「私は中には入らないわよ」と御代川さんが言う。
「え、どうしてですか?」
「だって、中には蛇がいるんだもの。電気コードに、シャワー。シャワーが握れないせいで、昨日はお風呂が大変だったわ。それともあなたたち、我を忘れた私にナイフで切り刻まれたいの?」
「……いえ。そういえば、そうでしたね」
 御代川姫子は極度の蛇恐怖症だったっけ。僕は昨日、御代川さんが部屋の電気コードを蛇と見間違えて、ナイフでずたずたにしてしまったことを思い出した。その後の夕食でも、彼女は蛇みたいで気持ち悪いからと言って、パスタには一切手をつけなかった。
 結局、御代川さんは外で待つことになり、僕と古橋さんが二人で部屋の捜索を行うことになった。
「もっとも、客室なんか探したって、何も出てくるわけはないんだけどね……」
 一応、部屋にあった本棚やベッドの下を調べてみたりもしたが、収穫はなし。得体の知れない七人目どころか、何の手がかりも見付けることは出来なかった。
 考えてみれば当然だ。ここは古橋さんが一晩泊まった部屋なんだから、余程おかしなことがあれば彼女が気付くに決まっている。今さら捜索したって、何も出てくるはずがなかった。
 その後、御代川さんの客室と、守屋さんから借りた鍵で彼の部屋も調べたが、やはり収穫はなし。二階フロアの中央にある談話・遊戯室には少し期待したが、特にこれといったものが見付かることはなかった。
 そして最後、僕と霧乃の客室。
 自分で鍵を開けて中に入ったところで、そういえばと思い出すことがあった。
「あの、古橋さん。実は昨日のことで、いま思い出したんですけど……」
「うん? 何か変わったことでもあったのかい?」
「はい。変わったこと、ってほどでもないんですけど」
 僕は昨日の夜のことを説明した。
 孤島の洋館、奇怪な招待客。それらが『死者の館(上)』の舞台設定とよく似ていたこと。また、『死者の館(上)』に登場する館では昔、小さな女の子が監禁されていたという設定が存在していること。そして何より、霧乃がこの部屋で見付けたという古びた人形……。
 部屋の隅に放って置いたその人形を見せると、古橋さんは「ふぅむ」と顎に手を当てて難しい顔をした。
「随分と年季の入った人形だね。十年とか十五年とか、そのくらいかな……。つい最近、この屋敷を買ったばかりという朽葉のものじゃなさそうだよ」
「とすると、やっぱり前の所有者……熊切千秀に関係のあるものなんでしょうかね」
「そうかも知れない。あるいは、彼に隠し子がいたという噂は本当なのかもね。とりあえず、もう少しこの部屋を探してみよう」
 その後、古橋さんと二人で僕と霧乃の部屋の捜索を行った。本棚は古橋さんが担当すると言い出したので、僕はベッドの下やデスクの裏など、細々した部分を徹底的に調べた。もっとも、僕の方はいたずらに埃を撒き散らすだけの作業だったが。
「ちょっと、小坂くん」
 たっぷり埃気を吸い込んで噎せていると、古橋さんが僕を呼んだ。これ見てみなよ、と言うので彼女の手元を覗き込むと、ノートに何やら文字が書かれているみたいだった。

『くまきりちはや くまきりちはや くまきりちはや くまきりちはや……』

 下手くそな――まるで幼稚園児の書き殴ったような文字が、ノート一面を埋め尽くしていた。文字はどれも同じ、「くまきりちはや」だ。
「……何ですか、これ」
 僕は少し気味悪くなって、声を潜めた。
「多分、子どもの字だよ。自分の名前を何度も書いて、文字を書く練習でもしていたんじゃないかな」
「自分の名前……?」
「そう。『くまきりちはや』だ。奇しくも、この屋敷の前の持ち主だったという熊切千秀と、同じ苗字のね」
 くまきりちはや――恐らく、熊切千早と書くのだろう。女の子の名前だ。
 歴史小説家・熊切千秀。この屋敷の前所有者。そして、隠し子の噂……。
 このノートは一体、何を意味するのか。
「それだけじゃないよ」
 古橋さんは言った。本棚の隅に転がっていた何かを取り上げて、「ほら」と僕に手渡してくる。
 それは、プラスチック製の小さなショートケーキの玩具だった。
「これ……もしかして、おままごとの?」
「多分ね。明らかに子どもの玩具だよ。探せば他にも見付かるかも知れないけれど、そろそろ決めつけてしまってもいいだろう」
「この屋敷には昔、小さな女の子がいた……?」
「その通りだ。そしてその女の子は、まず間違いなく熊切千秀という歴史小説家の隠し子だった。子どもの名前は恐らく、熊切千早」
 熊切千早――。
 熊切千秀の娘であり、隠し子。この屋敷に閉じ篭められ、育てられてきたという。僕はまだ見ぬ少女の姿を、淡く頭に描いた。
 その子は今、一体何歳になっているのだろう。
 そして、まさかとは思うが、彼女は今もこの屋敷のどこかに息を潜めているのだろうか。
 霧山朽葉を殺害し、首を斬り落とし、そして『第一の犠牲者』という紙で連続殺人の予告を行った殺人鬼。電話機を破壊し、僕たちをこの島に閉じ篭めた張本人。
 熊切千早。まさか、本当にそんな人物が……?
「もしかすると、熊切千早は長年この部屋に閉じ篭められていたのかも知れないね」
 古橋さんがノートをぺらぺらと捲りながら言う。
「こんな小さな女の子がいるんだ。それだったら、熊切千秀が週に一回は必ず、この屋敷を訪れていたというのも頷ける」
「そうですね……」
「とにかく、だ」
 古橋さんはノートを閉じると、僕に真剣な眼差しを向けた。
「早く下に降りて、このことをみんなに報告しよう。熊切千秀の隠し子は実在しており、それは熊切千早という名前で、どうやらこの屋敷に監禁されていたらしい、という事実をね」


 ガラス戸の外の空は、灰色だった。
 雨が霞のように白く煙っているせいで、視界が悪い。見えるはずの隣の島も霞の向こう側で、まるでこの島だけが世界から隔離されてしまったようだった。大量の雨粒が地面を打つ、地鳴りのような音が、巨大な化け物の呻き声のように聞こえる。
 僕は雨に煙る黒々とした海原をしばし眺めてから、部屋のカーテンを閉ざした。
「すっかり、嵐の孤島だねぇ」
 自分のベッドに寝転がって、読書している霧乃が言う。
「もっとも、嵐じゃなくても脱出できないかな。連絡手段もないし、ボートが使えないんじゃさ」
「嵐はオマケってわけか……」
 僕も自分のベッドに腰を降ろした。まだ午後の二時だというのに、大雨に見舞われたこの屋敷は薄暗く、死んだように静まり返っている。せめてセミの鳴き声でも聞こえれば、まだ元気づけられたのだろうが。
 屋敷内の探索では、めぼしい収穫は熊切千早に関することだけだった。熊切千秀には千早という名前の隠し子がおり、その娘はこの屋敷に監禁されていたらしいということ。その認識が、全員に共有された。
 もっとも、それだけの情報では僕たちはどうしようもなかった。その熊切千早が今もこの屋敷に潜んでいるという証拠は、何ひとつとして見付からなかったのだから。
 その後、このまま夕食まで全員で大広間にいたらどうか、という意見も出されたが、御代川さんが癇癪を起こして喚き散らしたため、一旦解散という流れになった。
 客室に鍵を掛けさえすれば、誰も入ってくることは出来ない――。
 その事実が、僕たちの唯一の安心材料だった。なにしろ、全部屋の鍵を開けられるマスターキーはあのボックスの中にあり、誰にも手に取ることは出来ないのだから。
 その後、僕と霧乃はこの十二号室へ戻っていた。
 僕としては大広間にいても構わなかったのだが、霧乃が「ここじゃ、落ち着いて本も読めないよ」と我が儘を言い出したのだ。およそひ弱な彼女を一人にさせるわけにもいかず、僕も一緒に部屋に戻ったのだった。
「しかし、霧乃は呑気だよな。ほんとに……」
 隣のベッドに転がる読書娘を眺めていると、ついそんな呟きが漏れる。「んー?」と霧乃はだらけきった反応を寄越した。
「ただでさえ、人が一人殺されてるっていうのにさ。おまけにこんな屋敷の中に閉じ篭められて、外は陰気な大雨だってのに。よく平気で本なんか読んでいられるな、と思って」
「雨の日は読書するに限るよ、ゆぅくん」
 霧乃は目尻の下がった眠たげな瞳を細め、わずかに微笑んだ。
「こんな状況、ぼくたちじゃ、どうしようもないからね。犯人さんがいい人であることを祈るだけだよ」
「いい人なわけないだろ……」
 無用な突っ込みを入れて、僕は溜息をついた。
 動き回っているときは気付かなかったが、こうして緊張が解けると、自分がひどく疲弊しているのが分かる。頭が鈍く痛み、身体は鉛のように重たかった。それと同時に、こうして霧乃と二人でいることに、知らず知らず安堵している自分に気付く。
 こんな奇怪な屋敷だ。
 いくら変わり者とはいえ、この女の子は僕にとって唯一信頼のおける仲間だった。
「それとも、ゆぅくん。暇つぶしに探偵ごっこでもする?」
 霧乃がベッドから半身を起こして言った。
「探偵ごっこ? なにそれ」
「そのまんまだよ。今まで見てきたことを整理して、そこから色んなことを推理してみる。どうせ、他にやることもないしね」
「ふぅん……。よく分からないけど、ただ読書してるよりはいささか建設的かもね」
 何が建設的なのか、自分で言っていてよく分からなかったが。
 霧乃は「じゃあ、状況の分析から始めようか」と言って、話し出した。
「死体の発見は今日の朝、伊勢崎さんだったよね。ぼくたちは大広間に集められて、霧山朽葉の死を知り、その後書斎へ死体を見に行った。発見された死体は、斧で首が斬り落とされていて、そばには『第一の犠牲者』という紙が置かれていた。その後で、電話が破壊されているということを知った。こんなところかな」
「うん。それで合ってる」
「じゃあ次に、犯人が絞り込めないか考えようよ。犯行があったのは多分、昨夜。ぼくは部屋にいたから知らないけど、昨日の夜はみんなで談話・遊戯室にいたんじゃなかったかな?」
「うん。霧乃と御代川さんと伊勢崎さんを除いたメンバーが、二階の談話・遊戯室にいたんだ。もっとも、僕は一番先に抜けたから、その後どうなったのかは分からないけど」
「ふぅん……」
 霧乃は少し唸って、
「じゃあ、アリバイは誰にもないと考えた方が良さそうだね。犯行は誰にでも可能だった、と。つまり、現時点では犯人の絞り込みは出来ない」
「それじゃ駄目じゃないか」
「駄目じゃないよ。まだ、状況で検討すべき部分がいくつかあるからね。いい、ゆぅくん? 今までの状況で気になるのは、大きく二つだよ。つまり、どうして霧山朽葉の死体は首が斬り落とされていたのか、ってことと、ぼくたちの置かれた状況が『死者の館』によく似ている、ってことの二つ」
「ふむ。それで?」
「まず一つ目から考えようよ。犯人はどうして、霧山朽葉の死体から首を斬り取ったのか。
 実を言うと、ぼくにはこれが不思議なんだ。というのも、『死者の館』の第一の殺人では、犯人は被害者を殴って気絶させた後、ロープで首を絞めて殺害しているんだよ。それなのに、どうして現実では犯人は首を斬り取ったのか」
「そんなの、別に小説に合わせる必要なんかないじゃないか。犯人は霧山朽葉を殴って気絶させた後、首を斬って殺した。それじゃ駄目なの?」
「駄目なの」
 霧乃は僕の案を無下に切って捨てた。
「だって、この屋敷の状況は、他は全部『死者の館』と一緒なんだもん。孤島の洋館、書斎で見付かった死体、最初の被害者が小説家であること、そのうえ死体のそばに『第一の犠牲者』という紙が置かれていたこと、ついでに言えば、屋敷に妙な過去があること。そこまで一緒なのに、どうして犯人は霧山朽葉の首を斬り落としたのか。これはちゃんと考えないといけない問題だよ」
「ふぅん……。そういうもんなのか」
「でね、ゆぅくん。次に、どうして犯人は首を斬ったのか、あるいは首を斬らなければならなかったのかについて考えるんだよ。
 首斬りの理由については――これはミステリの話なんだけど――主に二つの理由が考えられるんだ。つまり、一つ目は人物の隠蔽や入れ替わり、二つ目は証拠の隠蔽」
「はい? 人物の……隠蔽?」
 いきなり専門用語らしきものが飛び出して、僕は混乱する。霧乃は「ミステリを読まない無知なゆぅくんのために説明してあげると」と言って、続けた。
「人間の見分け方って、何だかんだ言って顔でしょ? 顔を見て、相手が誰なのか判断する。だから、その顔を含む頭部を隠すことで、死体が誰なのか分からなくすることが出来るんだよ」
「たとえば?」
「んー。ありがちな例だけど、顔がそっくりな双子姉妹がいたとするでしょ?」
「双子兄弟じゃ駄目なのか」
「どっちでもいいの! ゆぅくんは黙って聞いてなさい」
 珍しく霧乃が大きな声を出した。自分の専門分野について語るときは、こいつも少しばかり瞳の輝きが増すような気がする。
「で、その双子姉妹の姉の方は、目の下にホクロがあるんだよ。だから、みんなはホクロの有無で姉妹を見分けていたんだ。
 そこで、あるとき妹が殺人を犯しちゃうんだよ。現場からは物的証拠も見付かって、妹が捕まるのは時間の問題だと思われていた。そこで、考えあぐねた妹は姉を殺害しちゃうのです」
「え? なんで」
「まぁいいから。で、姉を殺害した妹は、姉の首を切断して、頭部をどこかへ隠してしまった。その後、自分の目の下に姉と同じようなホクロを描くわけ。するとどうでしょう、ホクロのある方が姉だと思い込んでいる周りの人は、生きているのは姉で、顔のない死体は妹だと思い込んでしまう。おかしい、妹が犯人のはずなのに、その妹が殺されてしまうなんて……。ということで、事件は迷宮入りして一件落着ってわけだよ」
「そんなデタラメな……。今なら、科学捜査とかあるでしょう。DNA鑑定とか」
「そういう無粋なものは考えないものとするの」
 霧乃は唇を尖らせた。でもそれって、物理で「空気抵抗は考えないものとする」とかいうのと同じなんじゃないだろうか。
「まぁ、そういう例もあるよって話だから。もっとも、今度の事件では少し考えにくいけどね」
「うーむ。似ていると言えば、霧山さんと古橋さんはちょっと似ていたけど……」
 髪型とか、顔の作りとか。
「ちょっと似てるくらいじゃ無理だよ」
 霧乃は断言した。
「いくらなんでも、それだけじゃ他人の目を誤魔化すことは出来ないからね。……で、首切りの理由としてもう一つ考えられるのは、証拠の隠滅だよ」
「証拠の隠滅?」
「こっちは至って単純。首から上に、犯人を示すような証拠が残ってしまったから、仕方なく首を斬ったという場合だよ」
「ふぅん。証拠ね……」
 首から上に一体どんな証拠が残るのやら。脳のない僕が考えても、さっぱり分からなかった。
「とまぁ、ここまでが犯人はどうして首を斬ったのかという問題について。次は、この屋敷の状況が小説『死者の館』によく似ていることについて考えてみようよ」
「うーん。僕はその小説を読んだことないから分かんないけど、偶然が重なっただけとか?」
「それはないよ、ゆぅくん。孤島の館だけならともかく、殺害場所、被害者の属性、『第一の犠牲者』という紙まで一緒だったら、何かあるって考えた方が自然じゃないかな」
「じゃあ、一体何があるんだよ」
「うんと、何があるのかは後で考えるとして、よく似ているって事実が何を示すのかについて先に考えた方がいいかな。ゆぅくんは見立て殺人って言葉は、知ってる?」
「知らない」
 即答すると、霧乃は「だよねぇ」と言って、蔑むような目を僕に向けた。ふん。どうせ僕は無知無能だ。
「見立て殺人ってのは、たとえば小説や童謡に見立てられて殺人が進んでいくことだよ。小説に、一人目は毒殺、二人目は絞殺、三人目は刺殺ってあったら、現実でもそういう風に殺人が進められていくんだ」
「何だそれ、気味悪いな……。まさか、この屋敷で起こっているのも、それだって言うわけ?」
「そうかも知れない、とは思うよ。だって、この屋敷は何から何まで『死者の館』とそっくりだもん。違うことと言ったら、被害者の首が斬り落とされていたことくらい」
「さっきの首斬りの話か……」
 そうだとすると、確かに首が斬られていたというのは不可解な気がする。こうまで『死者の館』の見立て通りになっているのに、どうして犯人は霧山朽葉の首を切断したのか。もしかして犯人は斬りたくて斬ったわけじゃなく、やむを得ず首を斬らなければならないような状況に置かれていたのではないか……。そんな風にも思えてくる。
「ただ、この見立て殺人っていう概念には、一つはっきりしない部分があるんだよね」
「はっきりしない部分?」
「そう。つまり、どうして犯人は見立て通りに殺人を進めていくのか、っていう理由の部分だよ。見立て通りに犯行を進めるのは、要するに自分の行動を制限するようなものだから、犯人にとって不利なんだよね。それなのに、どうしてわざわざ見立てをする必要があるのか」
「偏執狂の完璧主義者だから、とかそういう理由じゃないの?」
「うん。まぁ、それも考え得るけどね。でももしかすると、他にもっと合理的な理由があるのかも知れない」
「何だよ、その理由って」
 僕が問うと、霧乃は「それは犯人さんに聞いてみないとねぇ」と呑気に答えた。
 見立て通りに殺人を行う理由か……。要するに予告殺人を行うようなものだ。監視の目が厳しくなるだろうから、犯人にとって不利益な結果しか生まれ得ないような気がするのだが。僕には殺人犯の考えることは分からない。
 そんな風に考えていると、ふと思いつく。
「あのさ、霧乃」
「ん?」
「現実のこの状況が小説の見立て通りなんだとしたら、小説から犯人が誰かとか、分からないのかな。小説の犯人が、この現実の事件での犯人と同じかも知れない」
「それは無理だよ、ゆぅくん」
 霧乃は僕の提案を否定し、
「だって、霧山朽葉の『死者の館』は上巻しか出てないんだもん。犯人が誰かが分かるのは発売されてない下巻、解決編だよ」
「そうか……」
 そう簡単に犯人にはたどり着けない、ということか。僕は頭を抱える。
「まぁ、今の段階で分かるのはこのくらいだね」
 霧乃はそう言って、またベッドに横になった。
「首斬りの理由と、見立て殺人の意味。ぼくたちが注意して考えなきゃいけないのは、主にその二つだよ」
「ふぅん……」
 僕は仰向けにベッドに倒れ込んだ。目を瞑ると、嫌でも書斎のあの光景が脳裏に蘇る。
 床に出来た血溜まり。首斬り死体。『第一の犠牲者』。
 殺人者はどうして霧山朽葉の首を斬り落としたのか。そして、何故『死者の館』を連想させるような『第一の犠牲者』という紙を残したのか。首斬りの理由、見立ての意味は?
 目を閉じて思考の海に沈んでいるうち、自分がひどく問題を無機的に捉えているということに気付く。
 この屋敷の中で現実に殺人が起こって、しかも殺人はまだ続くかも知れないというのに。
 僕たちの中の誰かが、まだ殺されるかも知れないというのに。
 何故か平然としていられる。いや、平然としているしかない。
 現実に、自分に死が近づいていること。それを理解し受け入れるだけの精神力は、僕にはないのだった。そんなことを認めてしまったら、正気を保っていられなくなりそうで。
 恐怖すらも麻痺してしまっているのだろうか。
 ふと目を開けると、自分の身体が小刻みに震えていることが分かった。無意識の反応で、止めようとしても止まらない。それどころか、ますます震えが大きくなる。
 怖い、のか。僕は。
 分からず、ただただ震える。
「ゆぅくん?」
 制御を失った自分の身体が気味悪くなり、身を丸めて縮こまっていると、霧乃に声を掛けられた。
「どうかしたの?」
 ベッドの上で丸まっている僕を見て、顔を覗き込んでくる。夢うつつのように眠たげな、霧乃の瞳。細く白い腕。淡色の長髪から、ほのかに甘い香りが漂う。
 僕は自分を悟られたくなくて、寝返りを打ち、霧乃に背中を向けた。
「別に、何でもないよ」
 そんな嘘をつく。霧乃は僕の様子に気付いたのか、「冷房、効きすぎかな?」なんて尋ねてきた。それどころか、実際にリモコンで設定温度を上げているみたいだ。どこまで呑気なんだろう、この女の子は。
「怖くないの?」
 気付くと、そんなことを尋ねていた。うん? と霧乃がこちらを振り向く気配。
「霧乃はさ、こんな状況に置かれて、本当に何も感じてないのかな、って。そう思った」
「ん……」
 霧乃がかすかに喉を詰まらせる。それから、僕の背中にもたれ掛かるようにして、自分の背中を預けてきた。
 衣服越しに伝わる、かすかな体温。
「ゆぅくんは、やっぱり怖いの?」
 どこか躊躇いがちに、霧乃が僕の心に手を添えてくる。うん、と僕は答えた。そっか、とだけ霧乃は言った。背中合わせになった彼女の身体から、かすかに心臓の鼓動が伝わってくる。それが、一人じゃないと言われているみたいで、何故か心強かった。
「ぼくは、どうなのかな。あんまし、いつもと変わらないけど」
「いつもって、どういう意味さ」
「いつも通り、永遠に醒めない夢の中」
 霧乃の答えはあまりに素っ気なかった。その冷えた声音に、僕はどこかざらついたものを感じる。
 え? と思わず振り向くと、霧乃は僕に背中を預けたまま、天井に灯るライトを漠然と眺めていた。
「ねぇ、ゆぅくん。ぼく時々思うんだけどさ、醒めない夢の中で生きることと、死んでることって、一体何が違うんだろうね」
「そんなこと……」
「もしかすると、ぼくは死ぬことをあまり怖れてないのかも知れない」
 やけに醒めた声だった。僕はどう反応していいのか分からず、黙り込む。
 東大寺霧乃。重度の読書中毒であり、本の海の中で暮らしている女の子。およそ他者と触れ合わず、読書の中にのみ価値を見出して。僕は霧乃の部屋に入ったときに時々感じる、「書葬」という言葉を思い出した。
 永遠に醒めない夢の中。
 もしかすると、この子はもう既に――。
「なんて、ねー」
 不意に、霧乃が調子の外れた声を出した。
「え?」
「冗談だよ。冗談を言ってみたのです」
 霧乃はくるりと僕を振り返った。白い頬に、淡く微笑みが浮かんでいる。
「ゆぅくんが元気なさそうだったから、元気づけようと思って。どうだった?」
「どう、と言われても……」
 頭を掻く。確かに、恐怖がどこかへ行ってしまったような気はするが。身体の震えはもう治まっていた。
 霧乃はベッドから立ち上がると、身体の後ろで両手を組んで腰を屈め、諭すように僕を見つめた。
「あのね、ゆぅくん。こういう状況で一番危ないのは、状況の異常さに我を見失うことだよ。冷静を欠けば、すべて向こうの思い通りになってしまう」
「……………………」
「冷静を保ち、状況を見つめ、論理を組み立てて可能性を絞り込む。そうやって犯人を追い詰めていくのが、今ぼくたちに出来る唯一のことだよ」
「分かってるけどさ……」
「なら、しっかりしてよ。ゆぅくんは、ぼくにとってたった一人だけの味方なんだから」
 ね? と霧乃は僕に向かって首を傾げてみせる。うん、と僕は頷いた。
 たった一人だけの味方。
 それは、僕にとっての霧乃を指す言葉でもあった。
 彼女だけは、彼女だけは絶対に犯人じゃない。何を考えているか知れない奇人ばかりが集う館にあって、その事実はあまりに心強いものだった。
 大丈夫だ。
 まだ、頑張れる。
 東大寺霧乃が、僕の隣にいてくれるんだから。


 第三章 晩餐に眠る 

 * 

 一般的に言って、無から有を創り出すのは困難であり、有から無を創り出すのは容易である。それ故に、無から有を創り出すことは善とされがちだし、逆に有から無を創り出すことは悪とされがちだ。殺人などは後者の典型的な例だろう。
 だがしかし、とここで彼は考える。
 殺人が悪である根拠は、「殺人=有から無を創り出す行為」という前提条件に立っているからだ。ならば、その前提条件が狂っていたらどうだろう。
 たとえば、殺される人間がおよそ無価値な存在であるとしたら。そして、殺人者が行為の果てに唯一無二の価値を見出すことが出来るのだとしたら。果たして、それでも殺人は悪であると言えるのか。
 ふん、と彼は鼻を鳴らした。
 くだらない考えだ。殺人者の見出す価値など、価値と認められないのが世の常である。たとえそれが、本人にとって唯一無二の絶対的価値であったとしても。
 だから、言い訳など要らない。する気もない。彼は彼のために、信じた道を進んで行くまでだ。
 先程の晩餐では、一人が毒を飲んで死んだ。
 顔を引きつらせ、その場で嘔吐し、喉を掻きむしって。吐瀉物の中に倒れ込み、白目を剥いたまま戻らない死体の様子は、まさに醜悪としか言いようがなかった。広間には今も、胃酸の饐えたような臭いが充満している。 
 自分が自分のために失わせたものを前にして、しかし決意は揺るがない。
 この暗がりの道の果てに、確かに価値あるものを見据えていられるのなら。
 彼は、『第二の犠牲者』と書かれた紙を持って、彼女の部屋に向かった。

(霧山朽葉『死者の館(上)』より抜粋)  

 *

 夕食は昨日と同じように午後六時から、大広間で執り行われることになっていた。十分前に僕と霧乃が下へ降りていくと、守屋さんと御代川さんは既に席についていた。最後にやって来たのは古橋さんで、彼女は「悪いね。遅れちゃって」と苦笑していた。
 霧乃もかなり呑気に構えているが、古橋さんも随分と飄々とした人だ。仮にも友達である霧山朽葉が誰かに殺されたのに……と思ったが、考えてみれば彼女も自称人殺しだった。この人はおよそ死というものに疎いに違いない。
 全員がテーブルを囲んだところで、伊勢崎さんが厨房からワゴンを押して現れた。
「みなさん、申し訳ありません。随分と簡単な食事になってしまいましたけど……」
 恐縮するように身体を縮ませながら、彼女は僕たちの前に料理を配膳していった。ハヤシライスに、ベーコンとほうれん草のスープ、それからレタスとミニトマトだけのシンプルなシーザーサラダ。グラスにはウーロン茶が注がれていた。
「本当なら、もっとしっかりしたものをお出しする予定だったんですけど。なにぶん、あんなことがあった後なので」
「構わないよ」
 古橋さんが答えた。
「こちとら、何だかあまり食欲が湧かなくてね。特に、肉料理なんかは見たくもない気分だったから、かえってありがたいよ」
「恐縮です」
 肉料理なんかは見たくもない。その言葉の含むところに、僕は胃袋が絞め付けられて気持ち悪くなった。冗談にもならない。
「でも、私たちも大概気が狂っているわね」
 骨の浮く細い腕を組んだ御代川さんが、料理を眺めて言う。
「この中に、もし毒でも入っていたらどうする気? こんな状況で他人の作ったものを食べるなんて、気がふれているとしか思えないわ」
「仕方ないよ。一日くらいならともかく、少なくともあと二日はこの屋敷にいるんだからね。食べなきゃ、こっちの身体が持たない」
「ふん。それで食事に毒が入っていたら笑い話ね。身体が持たないどころの話じゃないわ」
「毒なんて、入ってませんよ」
 伊勢崎さんが、御代川さんに反論した。
「食料庫には鍵が掛かっていて、その鍵はわたしが持っていたんですから。毒を入れようったって、誰も入れられません」
「どうかしらね。あなたが犯人だったら、すべてそれで片が付くんじゃなくて?」
「そんな……」
 伊勢崎さんは言葉を失って黙り込んでしまった。床に目を落としながら、「わたし、犯人じゃないです」と小声で呟いている。でも、この瞬間ばかりは、僕も御代川さんに同意したい気分だった。
 僕と霧乃以外の誰かが、間違いなく犯人なのだ。
 霧山朽葉を殺害し、僕たちをこの島に閉じ篭め、そして連続殺人を予告した――。
 古橋さんか、守屋さんか、御代川さんか、伊勢崎さんか、あるいは熊切千早という謎の人物か。いくら伊勢崎さんのような気弱な人とはいえ、信用できるわけがなかった。
 きっと、誰もが同じ目をしている。
 同じ目をして、お互いのことを睨んでいる。
 食事を前にした大広間の沈黙は、明らかに剣呑さを含んでいた。
「まぁ、仕方ないだろ」
 緊張を破ったのは守屋さんだった。彼は日焼けした顔を歪めて僕たちを見回し、
「こういう状況じゃ、可能性を疑い始めたらきりがないと相場が決まってるんだ。トイレにも行けないし、寝ることさえ出来ない。何か喰わなきゃ身が持たないのは事実なんだから、黙って喰うことにしようぜ。ただし伊勢崎さん、あんたも一緒にだ」
「え?」
 大人しい小間使いが、戸惑うように顔を上げる。「悪いが、」と守屋さんは続けた。
「俺たちには、あんたを信用する根拠がない。あんたが犯人だという可能性を否定できないんだ。だからあんたにも、俺たちと同じものを、同じように喰ってもらおう。そうでなきゃ、俺たちはあんたに毒を盛られて皆殺しされかねないからさ。みんなの皿から、少しずつ料理を分けてもらって食べるんだ。いいだろ?」
「……分かりました」
 伊勢崎さんは気の毒なほど怯えた様子で、緩慢に頷いた。少し可哀想な気もしたが、仕方がない。 
 その後、これまた守屋さんの提案で、全員の料理をランダムに交換することになった。配膳は伊勢崎さんによるものだったので、もし彼女が犯人だったら被害者を狙い撃ちできるから、というのがその理由だ。いくらなんでも不穏なやり方だ、と思ったが、誰からも反論は出ず、結局じゃんけんをして適当に皿を交換した。
 皿を交換し終えた後、守屋さんは眉間に皺を寄せて全員の顔を見やった。
「俺もこういうやり方はしたくないが、こんな状況になった以上仕方ない。もし毒が入っていたりしたら、その時は運が悪かったと思って諦めてくれ」
「あら。まるで、この皿の中のどれかに毒が入っていると知っているような口振りね」
 例によって、御代川さんが横槍を入れる。
「違う。そういうんじゃない。もし、万が一そういうことがあったらの話をしているだけだ。それに、昼飯のときは誰も何ともなかったんだ。きっと夕飯だって何ともないさ。とにかく、食べよう。スープが冷めちまう」
 そう言って、守屋さんは機先を制するようにスープを口に運んだ。美味いぜ、と彼は一言だけ感想を述べたが、それは沈黙の大広間にあまりに空虚に響いた。
 しかし、それに続くようにして、誰からともなく箸を取り始める。ハヤシライスに、シーザーサラダに、ウーロン茶に、手を伸ばす。ただし、誰もが無言で、皆一様に難しい顔をしていた。
 僕もシーザーサラダのレタスに箸を伸ばそうとしたが、そこで手が止まった。
 動かない。
 手が震えているのだと、その時になって気付いた。
「ゆぅくん?」
 震える箸でレタスを摘もうとして、何度も取り落とす。ついに僕が諦めて箸を置いてしまうと、隣に座っている霧乃がその様子に気付いて、僕の顔を覗き込んできた。
「どうしたの? やっぱり、食べれない?」
 うん、と僕は黙って頷いた。
 もし、この中に毒物が混入していたら――。
 一旦そう考えてしまうと、疑心暗鬼に取り憑かれたように身体が固まってしまう。膝の上で握った両拳が、小刻みに震えた。
「こんなの、やっぱり狂ってるよ。安全かどうかも分からない食べ物を全員で交換して……。まるで、誰かが毒で死ぬのを待っているみたいだ」
「仕方ないよ。他に、食べるものがないんだから」
「なら、食べなきゃいいじゃないか。二日間くらい、何も食べなくたって死にはしない」
「それじゃ弱っちゃうよ。それこそ、犯人の思い通りになる」
「でも……」
 僕が躊躇していると、不意に霧乃が僕の拳に自分の手を添えてきた。白くて繊細で、柔らかな子どもみたいな手。
「ゆぅくん」
 霧乃が僕に呼び掛ける。顔を上げると、いつになく真剣な顔をして霧乃が僕を見つめていた。
「食べよう。食べなきゃ駄目。心だけじゃなくて、身体まで弱っちゃう」
「それでも……」
 食べたら死ぬかも知れない、と僕が渋っていると、霧乃は意を決したように「ぼくも一緒に食べるから」と言った。箸で僕の皿に盛られたレタスを摘み、自分の口に入れる。それを飲み込んでから、彼女は箸でレタスを摘むと、僕の目の前に差し出した。
「ぼくと一緒だから。ゆぅくん、口開けて」
 恐る恐る、目を瞑って言われた通りにする。口の中に箸が差し込まれた。レタスの感触が舌の上に載る。噛んで、という霧乃の指示通りに、噛み砕く。胃が抵抗するように収縮して、吐き気を催す。僕が食べ物を飲み込むまで、霧乃は僕の拳を、ぎゅっと握っていた。この小さな手がなかったら、僕は気持ち悪さのあまり嘔吐していたかも知れない。
 我慢して、飲み込んで。
 何ともないみたいだ、と悟って目を開くと、霧乃が「大丈夫だから」と言って僕を見つめていた。うん、と答えた僕の声は、少しだけ震えていた。


 初めは恐る恐るだった夕食だが、食べても何ともないことが分かると、次第に場の緊張も解れてきた。空腹を満たすため、誰もが機械的に手を動かしている。もっとも、こんな中での食事なので、味なんてほとんど分からなかったが。
「そういえばさ」
 無言の食事に耐えかねたのか、守屋さんが箸を動かす手を止めて、口を開いた。
「さっき、昼飯の後で伊勢崎さんから話を聞いたよな。この屋敷は熊切千秀って歴史小説家が、隠し子を育てるために建てたものなんじゃないか、って話」
「ええ。お話ししましたけど……」
 伊勢崎さんが不安げに守屋さんの表情を窺う。
「だよな。そんでその後、全員でこの屋敷を調べて、どうやらその隠し子らしい熊切千早っていう奴が、昔この屋敷にいた――いや、今もいるかも知れないってことが確認されたわけだ」
「はぁ……」
「けどさ、だったら熊切千秀はどうしたんだ? どうしてこの屋敷を霧山朽葉に売るようなことになったんだよ。俺、そこがさっきから引っかかっててさ」
 そういえばそうだね、と古橋さんも同意した。確かに、と僕も思う。
 熊切千秀という歴史小説家が、隠し子のためにこの屋敷を建てたというのは分かった。しかし、だったら何故彼はこの屋敷を売り払うことになったのか。そしてその際に、熊切千早という女の子はどこへ行ってしまったのか。
 そういえば昨日、伊勢崎さんから、この屋敷では五年前に何か事件があったらしい、ということを聞かされていた。その事件と何か関係があるのだろうか。
「実は、さっき話しそびれてしまった噂がもう一つありまして……」
 伊勢崎さんは箸を置いて俯いた。全員の視線が彼女に集中する。
「あまりに滅茶苦茶な話なので、話半分で聞いてくれるとありがいたいんですけど。実はその……熊切千秀は五年前に亡くなっているんです」
「亡くなってる?」守屋さんが眉をひそめる。「どういうことだ」
「はい。表向きは、この屋敷に滞在中の不慮の事故、ということになっております。ただ、本当はもっと別の死に方をしたんじゃないか、という噂がありまして」
「待てよ。あんた、この屋敷で働いていたんじゃないのか? 熊切千秀がここで死んだなら、噂じゃなくて本当のことを知ってるはずだぜ」
「いえ、わたしはその時、ちょうど暇をもらっておりまして。本土の方にいたので、本当のところは分からないんです」
「ふぅん。で、その噂ってのは何なんだ。熊切千秀はどんな死に方をしたってのさ」
「それが……彼の隠し子に殺された、というんです。ナイフで、滅多刺しにされて」
 伊勢崎さんの口から出てきたのは、予想外に衝撃的な言葉だった。守屋さんが息を呑む気配がする。
 熊切千秀は、隠し子に殺された。ナイフで滅多刺しにされて。
 隠し子――熊切千早に?
「本当に、出所も分からないような噂なんです。どうか、あまり本気にしないで下さい」
 伊勢崎さんは自分の言葉に言い訳するように、蒼白な顔で僕たちを見回した。
「しかし、噂ったって……。そんなえげつない話なら、それなりの根拠があるんじゃないのか? 火のないところに煙は立たない、って言うしさ」
「それは……確かに、不審ではあったんです」
 伊勢崎さんは再び顔を伏せて、
「熊切千秀の死については、わたしのような使用人には熊切本家から曖昧な説明があっただけでした。事故死、というだけで詳細は一切不明。それ以上は、尋ねても答えて下さいませんでした。なので、当時この屋敷にいた他の使用人にも訊いてみたのですが……知らないの一点張りで」
「つまり、熊切千秀の死は、熊切本家に握り潰されたってわけか。真相を知っている使用人は恐らく、口止めされていたんだろうな」
「そうだと思います。しかもその後、ここで働いていたわたし以外の使用人は、全員解雇されてしまいましたから。以後五年間、わたしだけでこのお屋敷の世話をしてきたんです。そんな事情もあって、どこからか、熊切千秀は彼の隠し子に殺されたんだという噂が流れ始めて……」
「熊切千早。結局、その謎の人物に行き当たるってわけだな」
 守屋さんは目元に皺を寄せて、深く息を吐いた。
「これまでのことから、熊切千早って人物が実在していたってことは疑いないだろう。ついでに、その熊切千早が熊切千秀の隠し子で、この屋敷に監禁されていたってことも。問題は、その五年前の事件だな。熊切千秀は本当に熊切千早に殺されたのか。そして、そうだとしたら熊切千早は今、一体どこにいるのか。伊勢崎さん、あんた何か知らないのかい?」
「いえ……」伊勢崎さんは緩くかぶりを振った。「熊切千秀の死についても曖昧なんですから、ましてや彼の隠し子の消息なんて……。何も分かりません」
「でもあんた、五年間も一人でこの屋敷にいたんだろ? だったらその間、もしこの屋敷に自分以外の誰かが潜んでいたりしたら、いくらなんでも気付くはずじゃないのか?」
「さぁ……。わたし以外に誰かいるなんてことは、一度も感じたことはありませんけれど」
「ふん。そうかい」
 守屋さんは苛立たしげに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
 熊切千早なる人物が監禁されて育てられていたという屋敷。五年前、ここで謎の死を遂げた熊切千秀。しかも、その死の真相は使用人にすら秘密にされているらしい。
 一体、熊切千秀はどうやって死んだのか。あるいは、殺されたのか。
 その死の後、ここに監禁されていた熊切千早はどうなったのか。島の外へ出ていったのか、あるいはこの屋敷に留まり続けているのか。
 そして事件から五年が経った今、同じ屋敷で起こっている殺人事件。
 犯人は一体誰なのか。この大広間にいる誰かなのか。あるいは熊切千早という得体の知れない人物がこの屋敷のどこかに潜んでいて、殺人を目論んでいるのか。一体何のために。
 分からないことが多すぎた。
 もしかしたら、屋敷の暗がりにでも誰かが潜んでいて、僕たちを狙っているんじゃないか……。そんな疑心暗鬼さえ生まれる。首筋が薄ら寒くなり、僕は上着の襟元を合わせた。
「でも、いよいよもって『死者の館』ね。この屋敷」
 御代川さんが冷ややかに言った。
「屋敷に監禁されていた少女。その後に起こった謎めいた事件。そして今、何者かに小説家が殺害されているなんて。『死者の館』そのものだわ」
「確かにな」守屋さんが同意する。「この屋敷に『死者の館』とかいう名前が付けられていたら、本当にそのものだ」
「あら。そんな名前なんか付いてなくても、役者が揃ってるじゃないの」
 御代川さんは三白眼を守屋さんに向け、唇を歪めた。
「五年間孤島に一人で暮らしていた小間使い。ドイツ留学で殺人をして、日本に追い返された異端児。無人島生活を趣味とする物好き。部屋に閉じ篭もって外部と接触しない引き篭もり。それに、本がお友達の素敵な読書中毒さん。みんながみんな、まともに他者とつながりのない人間ばかり……。そういう意味でなら、この屋敷はまさに生きながら死んでいる『死者』たちの集う館――『死者の館』と称して差し支えないんじゃないかしら?」
 御代川さんの言に、大広間には薄気味悪い沈黙が流れた。生きながら死んでいる『死者』たちの集う館……。そのフレーズがどこか説得力を持って、皆の上にのしかかっているようだった。
「霧山朽葉が『死者の館』の下巻を発表してなくて残念だったわね。下巻を読めば、犯人が誰なのかも分かるというのに。――それとも」
 御代川さんは一息置いて、嘲るように口もとに笑みを含んだ。
「霧山朽葉は、あえて下巻を書かなかったのかも知れないわね。何故なら、この屋敷に集まった私たちが、その下巻を演じることになるのだから」
「……………………」
 誰かが息を呑む気配がした。まさか、と守屋さんが呟いた。霧山朽葉は誰かに殺されているんだ。そんなこと、考えていたはずがない。
 でも――と考えてしまう、一つの可能性。
 あまりに『死者の館(上)』と似ているという、この屋敷の状況。監禁されていた少女、五年前の事件、殺害された小説家。見立て殺人。
 まさか、霧山朽葉は全てを知りながら、この小説――『死者の館(上)』を書いたのではないか。
 未来を予見し、自分が殺されるという運命を分かっていながら。『死者の館』の下巻は、この屋敷に集まった『死者』たちが演じるのだ……。
 そこまで考えて、僕は思考を振り払うように頭を振った。常識的に考えて、そんなこと有り得るはずがないじゃないか。霧山朽葉が未来を予見していた、だなんて。この異常な状況に、正常な思考力までもが奪われているみたいだった。知らないうちに狂気へと染まっていく精神に、戦慄を覚える。
「まぁいいわ。お喋りはこのくらいにして、私はそろそろ休ませてもらうから」
 やおら御代川さんがそう宣言して、立ち上がった。唐突なことだったので、守屋さんが「何だよ、おい」と面食らったように呼び止める。
 守屋さんは彼女の皿を指差して、
「まだ、メシが半分も残ってるじゃねえか。喰わなくていいのか?」
「私はあなたのような野蛮人と違って繊細なのよ。人が殺されているというのに、夕食をがつがつ食べるような趣味はないわ」
「しかしだな……」
 守屋さんが言い淀んでいるところに、古橋さんが「ここで一緒にいた方がいいよ、御代川さん」と鋭く忠告した。
「はっきり言って、この屋敷は危険だ。熊切千早なる謎の人物がどこかに隠れていて、機会を窺っているかも知れないんだよ。もう暗くなっているのに一人で廊下なんか歩いていたら、間違いなく狙われる。危険だ」 
「ふん。謎の人物ね……。あなたたちも、いい加減に現実逃避をやめたらどうかしら。本当は認めたくないだけなんでしょう? この中の誰かが、連続殺人を予告した犯人なんだ、ってことを。それを認めるのが怖いから、いもしない第三者なんてものを犯人に仕立て上げようとする」
「……………………」古橋さんは何も言い返さず、ただ黙って唇を噛んだ。
「それにね、ありがたいことに犯人は、見立て通りに殺人を進めてくれるらしいわ。『死者の館』によれば、第二の被害者は毒殺――。この夕食で何も起こらなかったということは、今日はもう何も起こらないわよ」
 そういうわけだから、お休み。そう言って、御代川さんは誰が止めるのも聞かずに、欠伸を洩らしながら大広間を出ていってしまった。大広間の壁に掛けられている時計によれば、今はまだ午後七時だ。寝るにはいくらなんでも早すぎる、と思ったが、御代川さんは他人と一緒にいるだけでストレスを感じる体質であることを思い出した。どこまでも厄介な人だ。
 薄暗い回廊に御代川さんの後ろ姿が消え、重たげな音を立てて観音開きの扉が閉ざされる。
 大広間の中には、降りしきる雨が屋敷を叩く音と、気まずい沈黙だけが残された。


「しかし、何だな」
 御代川さんの抜けた大広間では、伊勢崎さんが空いた皿を片付けて、再び会議をするような形になっていた。緊張を破ったのは、守屋さんだった。
「あの御代川姫子って女、性格や体質は無茶苦茶だが、言うことが妙に的を射ているときがあるんだよな。それがまた、何とも嫌らしい」
「『死者の館』の話かい?」
 古橋さんが尋ねると、守屋さんは「まぁな」と苦い顔で顎を引いた。
「言われてみりゃ、確かに俺たちは他者とろくに関わらない連中ばかりだ。生きながら死んでいる『死者』って表現も、何だかそれっぽいしさ。まともに生きているって言えるのは、東大寺さんの付き添いの小坂くんくらいなものだぜ」
「あ、えーと……どうなんでしょう」
 急に名指しされたので、まごついてしまう。霧乃がくすりと鼻で笑った。
 でも確かに、その通りだとは思った。この屋敷に集まっている人たちは、この東大寺霧乃も含めて、およそ他者と関わりのない、社会的に死んだ人たちばかりなのだ。そういう意味でなら、『死者』という表現もあながち間違いではない。
 ――醒めない夢の中で生きることと、死んでることって、一体何が違うんだろうね。
 不意に、そんな霧乃の台詞を思い出す。あれは霧乃の心の、一体どのくらいの深さにあった言葉なんだろう。
「そう考えると、もしかしたらって思っちまうよな。霧山朽葉は本当に、この屋敷という舞台で『死者の館』という小説を完結させるつもりだったのかも知れない、ってさ」
「まさか……」と僕は呟いた。「いくらなんでも、それはないですよ。霧山朽葉はもう既に、殺されてしまっているんですから」
「ふん。そりゃま、そうだよな。霧山朽葉じゃなくたって、気違いの犯人野郎が小説を真似て殺人を犯しているだけっていう可能性も否定できないし」
「悪いけどね。今の段階では、そんなことを考えても埒が明かないと思うよ」
 古橋さんが割って入った。
「はっきり言って、犯人の動機面なんて想像しても仕方ない。殺人者が何を考えているかなんて、僕たちには分かるわけもないからね」
「何だよ。あんただって、ドイツでちょっと人を殺してきたって話じゃないか。立派な殺人者だろうがよ」
「今はそんなことを問題にしている場合じゃないだろう!」
 珍しくも、穏便な古橋さんが声を荒げた。その剣幕に、場が水を打ったように静まり返る。
 古橋さんは「すまない」と言って、項垂れた。
「こんな状況で、僕もちょっと混乱しているんだ。でもとにかく、今は無駄な議論をしている場合じゃない。それだけは分かって欲しい」
 守屋さんは太い腕を組んで、不快な顔でそっぽを向いた。伊勢崎さんはさっきから物憂げに俯きっぱなしだし、霧乃にいたっては左右の手の爪の長さを見比べていやがる。
 仕方ないので、僕が口を開く。
「御代川さん、こうも言ってましたよね。いい加減に現実逃避をやめたらどうかしら、って。この中に犯人がいる、とも」
「うん、そうなんだ。僕たちが今、本当に考えなければならないのはそのこと――この中に犯人がいる、という可能性についてだよ」
 はっ、と息を呑むようにして伊勢崎さんが顔を上げる。彼女はますます表情を歪めて泣き出しそうな顔になると、ゆるゆると再び目を伏せてしまった。
「先に言っておくけどね、僕は別にこの中に犯人がいると確信しているわけじゃない。謎の第三者――熊切千早なる人物が、この屋敷に潜んでいるという可能性も充分にあると思っている。ただ、もしそうじゃなかった場合のことも、視野に入れておかねばならない、ということだよ」
「万が一、ってこともありますからね」
 僕の相槌に、古橋さんは頷いてみせ、
「そこで、どうだろう。このあたりで、全員の所持品検査をしてみる、っていうのは。もしかしたら、誰かが犯人を示す証拠品を隠し持っているかも知れないしね」
 そう言って、彼女は一同の反応を窺った。伊勢崎さんは怯えっぱなしで俯きっぱなし、守屋さんは眉間に皺を寄せて腕を組み、霧乃は手を握ったり開いたりしながら「無意味だと思うけどねぇ」と小声で呟いていた。
 しかし結局、具体的な賛成や反対は得られなかった。
「じゃあ、とりあえず所持品検査をやってみる、という方向でいいかな。ここでこうしていても始まらないしね。犯人だと疑われるのはいい気分じゃないだろうけど、我慢してくれよ」
「まぁいいさ。そんなチャチなもんで疑いが晴れるってなら、いくらでもやろうぜ」
 守屋さんが投げやりに言い、かくして所持品検査が行われることとなったのだった。 


 さて、所持品検査に先だって、自分の部屋にいる御代川さんを呼びに行く必要があった。誰が呼びに行くのかという部分で多少揉めたが、結局全員で行くことになった。というのも、大広間にいるメンバーは全部で五人だったからだ。熊切千早が潜んでいるかも知れない屋敷で一人になるのは危険だったし、かといって二人にすれば相方が犯人である可能性を排除できない。そういうわけで結局、五人全員で動き回るのが一番安全という結論に至ったのだった。
「別に二人と三人に分かれても良かったと思うけどね、ぼくは」
 大広間を出て回廊を歩きながら、例によって霧乃がぼやいている。
「なんでさ。二人に分かれて、相方が犯人だったらどうするんだよ」
「だからー……そんな状況で犯行をするわけないじゃん。相手を殺しちゃったら自分が犯人だってバレるんだから」
「そりゃ、理屈ではそうだけど。でも心情的に嫌だよ。自分の相手が殺人犯かも知れない、と思うと」
「心情ねぇ……面倒だねぇ、そういうの」
 とんでもない暴言を吐きやがる。会話を聞いていた古橋さんが、くすくすと苦笑いするのが聞こえた。
 大広間を取り囲むように屋敷を巡っている回廊を進み、二階への階段を上る。二階の構造も基本的には一階と同じで、中央の談話・遊戯室の大部屋を取り囲むように回廊が伸びていた。談話・遊戯室と反対側の壁には、客室のドアが無数に立ち並んでいる。
 屋敷はしんと静まり返っていて、僕たちの靴が廊下を叩く音だけがいやに響く。天上島を覆っている暗い雨雲が、他の音をすべて吸い込んでしまったようだった。
 気配は、ない。
 僕たち以外の誰かの息遣いも、足音も。雨に包まれた屋敷には、静寂と薄暗がりだけがあった。
 御代川姫子の部屋の前に立つ。
「御代川さん。起きてるかい?」
 全員を代表して、古橋さんが扉をノックした。二、三秒待ったが、返事はない。
「御代川さん、僕だ。全員で所持品検査をしようってことになってさ……開けてくれないか?」
 今度は強めに、拳で扉を叩く。しかし、今度も中からの反応はない。古橋さんは仕方なく黙って扉を開けようとしたが、扉には鍵が掛かっていた。
 彼女は僕たちの方に向き直ると、肩をすくめた。
「どうやらお嬢様はお休みのようだね。部屋に鍵を掛けて、ぐっすりと眠っているみたいだ」
「仕方ないですね」と僕。「じゃあ、御代川さん抜きのメンバーで所持品検査をやりますか。起こすのも悪いし」
「そうだね……。彼女を無理に起こしたりすると、また癇癪を起こしそうだ」
 そう言って古橋さんが扉から離れ掛けたとき、「待てよ」と低い声が飛んできた。
 守屋さんが怪訝そうな表情で腕を組んで、扉を睨んでいた。
「おかしくないか。まだ夜の七時半とか、そのくらいだぜ? それなのに扉を叩いても気付かないほど熟睡するか、普通」
「有り得ないことじゃないだろう」と古橋さん。「ただでさえこんな状況なんだ。彼女だって参っているよ」
「だったらますます変だろ。こんな状況に置かれてるのに熟睡するなんて、まともな神経してる奴じゃ出来ねぇよ。……もっとも、あの我が儘なお嬢様がまともな神経してるとは言い難いがな」
「ふぅむ……」古橋さんは口もとに手を当てて黙考し、「分かった。要するにきみはこう言いたいんだろう。この中にいる御代川姫子の身に、何かがあったんじゃないか、と」
 ひっ、と伊勢崎さんが小さく悲鳴を上げた。守屋さんは深く息を吐いてから、重たげに口を開く。
「仕方ないだろ、こんな状況じゃ。俺だって考えたくはないが、そういう可能性もあるってことは常に頭に入れておかなけりゃならん。この扉を破って御代川姫子が何ともなかったら、その時は万歳ってことでいいじゃねぇか」
「確かに、そうだね。別に扉を開けて損があるわけじゃないし、御代川さんには悪いけれど、ここはひとつ強行的な手段で扉を破らせてもらおうか」
 古橋さんの目配せに、守屋さんが厳粛に頷く。彼は扉を調べて、鍵が掛かっていることを確認したりしながら、「このくらいなら、体当たりでどうにかなりそうだな」と言った。
「おい、小坂くん。悪いけど、あんたも手伝ってくれよ。何たって、この屋敷には男が二人しかいないんだからな」
「あ、はい」
 守屋さんに指名されて、彼の隣に並ぶ。とはいえ、守屋さんの方が一回りも二回りも身体つきが良いので、僕は気休めみたいなものだった。ジャガイモとモヤシくらい違う。
 じゃあ行くぞ、という守屋さんの声に合わせて、僕たちは客室の扉に体当たりを試みた。
 肩を怒らせ、勢いを付けて扉に突っ込んでいく。身体がぶつかると、ぎしっと木材の軋むような音がするとともに、骨が割れるような鋭い衝撃が身体に走った。
 一度、二度……。
 女性陣――特に伊勢崎さんの不安げな視線を受けながら体当たりすること三度目、ついに扉が勢いよく向こう側へ弾け飛んだ。それとともに、僕と守屋さんも思いっきり床へなだれ込む。
 打ち身の痛みに顔をしかめ、四つん這いの姿勢になって起き上がろうとしたとき、
 ふと、それに気付いた。
 倒れ込んだ位置のちょうど手元に、折り畳まれた紙が落ちている。
「守屋さん……これ」
 僕が示すよりも早く、彼の手が伸びてきて紙をかっさらっていった。
 部屋に落ちていた紙。
 思い出してしまう――書斎で、霧山朽葉の死体の脇に落ちていた紙。『第一の犠牲者』……。
 まさか、と震える声で守屋さんが呟いた。早く紙を開こうとして指が震えて、上手く開けない。
 しかし、徐々に中に書かれている文字が露わになっていき、
 一同の視線が注目する中、開かれたその紙には、

『第二の犠牲者』

 定規を使って書かれた不自然な文字が、全てを物語っていた。


 全員の動作が停止していた。『第二の犠牲者』と、そう書かれた紙が、僕たちの時間を止めてしまったようだった。
 頭から、血の気が退いていく気配。
 全身の血が胸に集中し、心臓が燃え上がるほど熱くなる。どくどくどく、と異常な速さで鼓動を刻み出す。目の焦点がぶれ、紙に書かれた文字が輪郭を失う。
 誰もが動けないでいる中、真っ先に行動したのは古橋さんだった。
「まさか――」
 僕と守屋さんの脇をすり抜けるような形で、彼女が部屋の奥へと走っていく。その様子に僕もようやく我を取り戻し、壁に手を突いて立ち上がる。肩の痛みはとうに消し飛んでいた。
 そして、見る。
 部屋の奥に据えられたベッドの上、そこに異常なほど長い黒髪を振り乱して、一人の人間がこちらに背を向けて倒れている。僕たちの呼びかけに応じなかった、応じることの出来なかった彼女。
 それは見間違えようもなく、御代川姫子だった。
「おい! 御代川さん! 御代川さん!」
 古橋さんが彼女の肩を揺さぶる。しかし、反応はない。
 古橋さんは舌打ちして呼びかけを諦めると、今度は彼女の首筋に手を当て、脈を測り始めた。一秒、二秒……。重たい沈黙が流れる。
「おい、どうなんだ……。まさか本当に――?」
 守屋さんが床に這いつくばるような姿勢で、古橋さんに問い掛ける。彼女は「黙っててくれ」と静かに忠告して、その後二、三の検査を行った。医学者だけあって、さすがに手慣れているな……などと思って、焦燥を誤魔化す。
 やがて僕たちに向き直った彼女は、唇を噛んで首を横に振った。
「死亡している。処置なしだ……」
 うう、という悲鳴とも呻き声ともつかないものが、伊勢崎さんの唇から洩れた。他のメンバーはただ俯いて、静かに現状を受け入れようとしていた。
「死因は……死因は何なんだ」
 守屋さんが立ち上がり、古橋さんに尋ねた。 
「死因については、詳しいことは分からないよ。多分、窒息死の可能性が高いと思うけど……。ただひとつ言えるのは、彼女が何らかの毒物によって殺害されたということだ」
「毒物だと?」
「そうだ。他に外傷がなかったからね」
 毒物によって殺害された――。
 僕は霧山朽葉の小説『死者の館(上)』を思い浮かべた。霧乃に聞いたところによると、あの小説でも、第二の被害者は毒によって殺されたという……。
 見立て殺人。
 まさか、本当にそんなことが――?
 無意識に引き摺られるようにして、足が部屋の奥へと進む。僕のふらふらした足取りを見て、古橋さんが「落ち着くんだ」と身体を支えてくれた。
 古橋さんは恐怖の色に染まった全員の顔を、ぐるっと見回した。
「とにかく、この部屋は危険だ。すぐに出た方がいい」
 それから、彼女は僕の視線に気付いたのか、
「いいか、この部屋には鍵が掛かっていたんだ。すなわち、密室だよ。密室で人を毒殺するような手段と言えば……」
「機械仕掛けの殺人」
 古橋さんの台詞を、霧乃が引き継いだ。それを肯定するように、古橋さんが頷く。
「この部屋には、どこかに何か仕掛けが隠されているかも知れないんだ。御代川姫子を毒殺したような、危険極まりない仕掛けがね。――とにかく、大広間だ。大広間に戻って、そこでまた話し合うことにしよう」


 かち、かち、かち……と時計の針が時を刻む音だけが、広い室内に響いている。「ロ」の字形に配置された長テーブルに付いている僕たちは、皆一様に無言だった。
 霧山朽葉に続く、御代川姫子の死――。それが僕たちの沈黙の重さを増しているのは明らかだった。 
 古橋さんはテーブルに両肘を突き、両手の指を組んで、その上に顎を載せている。その瞳がかすかに揺れていることから、冷静沈着な彼女も精神に動揺を来していることが窺えた。
 守屋さんは大股を広げて椅子に座り、難しい顔をして腕を組んでいる。時折僕たちを睨むように動く視線は、まるで犯人探しをしているみたいだ。
 伊勢崎さんはさらに酷い。自分の両肩を抱くようにして、蒼白な顔で視線を落としている。唇が怯えるように、わなわなと震えているのが見て取れた。
 そんな中にあって、東大寺霧乃だけは呑気だった。時計の秒針を呆然と眺めている。秒針の動きに合わせて、「いち……に……さん……し」などと小声でぶつぶつ呟いているのだが、羊の数でも数えているのだろうか。
 そして僕は……。
 はっきり言って、まともにものを考えられる余裕はなかった。考えれば考えるほど恐怖に取り憑かれて、気が狂ってしまいそうで。だから、他のメンバーの様子を観察したりして、極力頭を使わないようにしている。そうして漠然と、御代川姫子の死が心に暗い穴を空けていくのを感じていた。
「……正直言って、」
 不意に、古橋さんが口を開く。その声に引き付けられるように、一斉に全員が彼女に注目した。きっと誰もが、誰かが口を開いてくれるのを待っていたのだろう。
「盲点、だったな。機械仕掛けでやられるとは。『死者の館』と同じように犯行が重ねられるものとばかり思っていたから、夕食にばかり注意していたんだけれど……。しかし、毒殺するだけなら、何も食べ物に毒を仕込む必要なんてなかったんだ」
「あの……機械仕掛けって、どういうことですか?」
 僕は空気を乱すのを承知で、古橋さんに尋ねた。「ああ、それはね」と彼女が説明を始めたとき、「遠隔操作による殺人だよ」という声が隣から飛んできた。
 声の主は霧乃だった。
「ゆぅくん。機械仕掛けの殺人ってのは密室トリックの一つで、犯人が現場にいなくても被害者を殺害できるっていうやつなんだ。たとえば、被害者の部屋に毒入りのコーヒーを置いておくとか、部屋に仕掛けられた拳銃が時限式で被害者の頭を打ち抜くとか。被害者が部屋の中から鍵を掛けていれば、それだけで密室殺人になるでしょ?」 
「ふぅん。なるほど」
「御代川さんの場合も、多分その方法だ」と古橋さん。「あの密室は、御代川さんが中から鍵を掛けたものと見てまず間違いないだろう。御代川さんは一人で大広間を離れた後、自分の部屋に戻り、ドアに鍵を掛けた。その後、部屋の中に仕掛けられていた何らかの装置によって、死に至らしめられたんだ」
「あの部屋の鍵なら、確かに部屋のデスクの上にあったな」と守屋さん。「御代川姫子が自分でドアに鍵を掛けたって部分については、疑いがなさそうだぜ」
「うん……。つまり、この場合は密室はたいして重要じゃないんだ。問題は、犯人がどうやって御代川姫子を毒殺したか。あの部屋のどこに、そんな装置が仕掛けられていたのか」
「――どうして」
 分析的に話を進める古橋さんに対して、今まで黙っていた伊勢崎さんが口を開いた。意外だったので、誰もが彼女に注目する。
 伊勢崎さんは蒼白の顔を俯かせ、唇を震わせていた。
「どうして、そんなに平然としていられるんですか……。霧山さんに続いて、御代川さんまで殺されたのに……。変です、おかしいですよ。みなさん、気が狂ってるんじゃないですか」
 息を吐くように震える彼女の声には、みんなを黙らせてしまうだけの重みがあった。それぞれが自省するように口をつぐんで、下を向く。
 平然、としているのだろうか、僕は。
 よく分からない、というのが正直なところだった。
 怖い。怖いけど、恐怖を恐怖として認識できない。そもそも、平然の基準から歪められてしまったような、そんな感覚だった。
 もしかしたら僕たちは、とうの昔に正気を失っているのかも知れない。
 しかし、正気の基準が存在しないこの閉ざされた空間――クローズド・サークルでは、正気と同じように狂気もまた認識できない。きっと、そういうことなのだろう。
「たとえ、気が狂っていたとしても――」
 声を発したのは、やはり古橋さんだった。
「僕たちは絶対に、目的を見失ってはならない。いいか、伊勢崎さん。僕たちの目的は一体何だったんだ?」
「それは……安全の確保、です」
 伊勢崎さんは昼間、全員で決めた僕たちの目的を、小さな声で繰り返した。
「そうだ。僕たちは何としても、自分たちの身の安全を確保しなければならない。そして、その目的を達成するための手段として、犯人を捜し出し、拘束する。平然としているか狂っているかなんて問題じゃない。いいか伊勢崎さん、僕たちは何としても目的を達成しなければならないんだ」
 古橋さんの声は熱を含み、その場にいた全員の心へ直接響いてくるようだった。古橋さんの訴えは伊勢崎さんにも伝わったのか、彼女は幾分元気を持ち直したように「分かりました」と頷いた。隣に座っていた霧乃さえも「たいした人だね」と感心するように呟いたのだから、古橋さんは本当にたいした人なんだろう。きっと、僕なんかとは比べものにもならない。
 全員の意志が統一されたのを見て、古橋さんは「じゃあ、本題に戻ろうか」と言った。
「僕たちの目的は安全を確保することだと言った。そして、そのための手段は犯人を捜し出して拘束することだとも言った。じゃあ今度は、その犯人を捜し出すことを目的に据えて、そのための手段として事件の分析を行うんだ。いいね?」
 全員がぱらぱらと、その言葉に頷きを返す。
「差し当たっての問題は、犯人がどうやって御代川姫子を毒殺したか、だ。そこで僕は、犯人が御代川さんの部屋のどこかに仕掛けを施したんじゃないかと考えた。問題は、その仕掛けがどんなものだったか、というところなんだが……」
「しち面倒くせぇな」と守屋さん。「ここで机上の空論をぶつけてる暇があったら、確かめに行きゃいいじゃねぇか。もう一度、全員で御代川姫子の部屋に。あの部屋のどこかに、人を毒殺するような仕掛けがあったんだろ?」
「うん。そうなんだけど……」
「それは変だよ」
 古橋さんと守屋さんの応酬に割って入ったのは、驚いたことに東大寺霧乃だった。今まで、全員の前ではおよそ無言を貫き通していたのに、どうしたことか。僕がびっくりして彼女を見やると、彼女の瞳が――さながら獲物を追い詰める猫のように――ぎらぎらと輝いていた。
 それは僕が今まで一度も見たことのない、東大寺霧乃の本気の瞳だった。
「だって、御代川さんの部屋には、御代川さん以外立ち入る隙がなかったんでしょ? 鍵は御代川さんしか持っていなかったし、マスターキーはあの通りボックスの中だし。昼間に二階を捜索したときには入ったかも知れないけど、あの時は誰かと一緒だったんだよね」
「うん。僕と、古橋さんが一緒に入ったんだ」と僕。
「そっか。だったら、もしゆぅくんが犯人でも、古橋さんが犯人でも、お互い監視下にあったんだから、仕掛けを設置する機会はなかったと考えていいよね。つまり、何が言えるかというと、御代川さんの部屋には毒殺の仕掛けなんてなかった、ってことだよ」
「そうか……」と僕。「でも、部屋の中とは限らないんじゃないの? たとえば、御代川さんの持ち物に毒を塗っておくとか、部屋の外側のドアノブに毒を塗っておくとかさ」
「んー……。持ち物に毒を塗るのは不可能だよ、ゆぅくん。だって御代川さんの持ち物は全部、御代川さんの部屋の中にあったんだから。部屋の中に毒の仕掛けを作れなかったのと同じ理由。
 それから、部屋の外側のドアノブっていうのも……。それはつまり、ドアノブに触って手に付いた毒を、口の中に入れないといけないんだよね。何かを素手で触って食べていたのならともかく、何もないのに指を舐めるっていうのは考えにくいと思うよ、ぼくは」
「素手で何かを食べたってのも有り得ねぇな」と守屋さん。「夕飯を残して部屋に戻った奴が、自分の部屋に戻ってから何かを食べるとは思えねぇし。それに、部屋の中にはそれっぽい食べ物なんて見当たらなかったしな」
「確かに、そうですね……」
 僕は頷いた。 
 すなわち、これで御代川さんの部屋や持ち物に毒物が仕掛けられていたという可能性が排除されたわけだ。誰がやったのか、という部分はとりあえず放って置くこととして、では一体、犯人はどうやって御代川さんを毒殺したのか。
「自殺の可能性を考えないものとすると、」
 今度は古橋さんが口を開いた。
「素直に考えれば、あの夕食の中に毒物が混入していた、と考えるのが一番自然だろうね。いわゆる青酸カリのような即効性の強い毒ではないけれど、摂取後三十分ほどで症状が出て、結果死に至らしめるような毒物。それがきっと、御代川さんの食べた物の中に入れられていたんだ」
「でも、夕食は僕たちだって食べたじゃないですか。どうして御代川さんだけが……」
「夕食に、毒なんて入ってません」
 咎めるような口調で言ったのは、伊勢崎さんだった。
「さっきも言いましたけど、食糧庫には鍵が掛かっていて、私がその鍵を管理していたんです。飲み物にちょっと毒を混ぜようったって、そんなこと出来ませんよ」
「だから、それはあんたが犯人じゃないと仮定しての話だろ」
 と守屋さん。
「現時点で、こいつは絶対に犯人じゃないと言える奴は、この中に一人もいないんだぜ? いくらあんただって、他人の証言なんか信用できねえってのが本当のところさ」
「そんな……」
 伊勢崎さんは唇を噛んで俯いてしまう。霧乃が小声で、「堂々巡りだね」と呟いた。 
 そうだ。いくら他人を信用できないからとはいえ、証言の全てを疑って掛かったら、本当に信用できることなど何一つなくなってしまう。
 だから僕たちは、見抜かなければならないのだ。
 何が真実で、何が嘘なのか。
 誰が本当のことを言っていて、誰が間違ったことを言っているのか。
 そもそもジョーカーは、本当にこの中にいるのだろうか?
「盛り上がっているところ、悪いけどね」古橋さんが言った。「差し当たり、食糧庫に入れたか入れなかったかなんてことは、問題じゃないんだ。そもそも、全員が口にする食糧に毒なんか混ぜたら、僕たちは全滅だよ。犯人がそんな馬鹿なことするわけがない」
「でも、だったらどうやって……」と伊勢崎さん。
「分からないかな。別に、食糧の方に毒を仕掛ける必要なんてないんだよ。食器――皿やグラス、スプーン、フォークなんかに毒を塗っておけば、それで事足りる」
「――――――――」
 はっ、と伊勢崎さんが息を呑んだ。驚いたように目を見開き、その表情のまま、かくかくと顔を伏せる。彼女の頬を、冷や汗が伝うのが見えた。
「伊勢崎さん。あなたはどうやら、そっちの可能性には思い至らなかったみたいだね。食糧庫には鍵を掛けても、食器の方は無防備だったのかな」
「……………………」伊勢崎さんは震えるだけで、声を発しようとしない。
「いいか、僕は怒っているわけじゃないんだ。確認しなかった僕たちにも責任はある。正直に言って欲しい。食器の置いてある厨房には、誰かが出入りする機会があった?」
 そう尋ねると、伊勢崎さんは僅かに頷いてみせた。
「そうか。じゃあ、もう一つ。夕食の前、あなたは料理を盛ったり飲み物を注いだりする際に、食器を洗浄しなかったのかな?」
「……申し訳ありません。しませんでした。……まさか、食器に毒が塗られているなんて思わなくて」
 縮こまる伊勢崎さんを見て、守屋さんがふんと鼻を鳴らした。
 彼は大げさに肩をすくめて首を振り、
「メイドがこれじゃ、人が死んで当然だわな。食器に毒が塗られているなんて思わなくて、か。笑わせてくれるじゃねぇか」
「守屋さん」古橋さんが声を沈めて、「きみも口を慎んだ方がいい。今は、終わったことをどうこう言っている場合じゃないんだ。責任なら後でいくらでも追及すればいい。もっとも、僕たちがここから生きて出られたら、の話だけどね」
「ふん。そりゃいいが、こうなると伊勢崎さんに嫌疑が集中することになるぜ。食器に毒を塗って、そいつを御代川さんの前に差し出すだけでいいんだからな。目下の容疑者はあんたってことだ」
「……わたし、犯人じゃないです」
 伊勢崎さんの訴えは、しかし、だだっ広い大広間に虚しく響くだけだった。
 ここまでの議論をまとめると、御代川さんを死に至らしめた毒物は、彼女の部屋や持ち物ではなく、夕食に混入していた可能性が高いということになる。そして、毒物は食糧ではなく、食器に塗られていたという見解が強まっている、というわけだ。
 そこで、僕は疑問を覚えた。
「あの、ちょっといいですか」
 手を挙げて、みんなの注目を集めてみる。古橋さんが先生役になって、「何だい、小坂くん。ただし、ここは教室じゃないんだから、手を挙げる必要はないよ」と言った。
「すいません。えっと、疑問に思うことがあったので……。今までの見方からすると、御代川さんの食器に毒物が塗られていた、という可能性が高いわけですよね。でも、それって変じゃないですか? 夕食の時、僕たちは自分の食器をじゃんけんでランダムに交換したんです。それだったら犯人は、どうやって御代川さんを狙ったんですか?」
「そんなの、簡単だろ」と守屋さん。「犯人は、別に御代川姫子を狙ったわけじゃなかったんだ。誰でも良かったのさ。毒を塗った食器に当たった奴は死ぬわけだが、今回はそれがたまたま御代川姫子だった。それだけのことさ」
「それだけって……。まぁいいや。確かに、犯人が僕たちの中にいない――たとえば熊切千早という人物だとしたら、それでいいんでしょうけど。でも、僕たちの中に犯人がいるんだとしたら、それじゃ駄目ですよ。だって、自分自身も毒を飲んでしまう危険性があるんですから」
「だ、か、ら。犯人は俺たちの中にいない、すなわち熊切千早ってことだ。明快じゃねぇか」
 熊切千早。
 結局、そこに落ち着くのか。
 歴史小説家・熊切千秀の隠し子。この屋敷に監禁されていた少女。そして五年前、この屋敷で熊切千秀を殺害したのではないかと目されている――。
 だが、本当にそうなのか? 
 本当に、そんな少女がこの屋敷に潜んでいて、殺人を行っているというのか?
 御代川さんの言葉を思い出す。 
 ――あなたたちも、いい加減に現実逃避をやめたらどうかしら。本当は認めたくないだけなんでしょう? この中の誰かが、連続殺人を予告した犯人なんだ、ってことを。それを認めるのが怖いから、いもしない第三者なんてものを犯人に仕立て上げようとする。
 その言葉に、僕は胸を射抜かれるような思いだった。
 僕はただ、認めたくないだけなんじゃないのか。
 この中に、この大広間で顔を突き合わせているメンバーの中に、殺人犯がいるということを。そして、そいつが心の中でほくそ笑みながら、次の獲物を狙って舌なめずりしているということを。
 僕はただ、熊切千早という都合のいい第三者に、現実逃避しているだけなんじゃないのか――。
「そろそろ、議論も煮詰まってきたようだね」
 自分の中に落ち込んでいってしまいそうだった僕を、その声が現実に引き戻した。
 古橋さんが全体をまとめるように、メンバーの顔を見回していた。
「僕としては、このあたりで休憩の時間を挿みたいと思うんだけど、どうだろう。みんなも夕食の前からずっと拘束され続けて、しかも第二の事件まで起こって、精神的にきついだろうしね」
「精神的に、ね」と守屋さん。「精神なら、とっくに異常を来しているだろうがな。そうでなけりゃ、こんな状況の下で、トリックがどうのなんて冷静に話し合っちゃいられねぇよ」
「確かに、そうかも知れないけど……。他の三人はどうだい。ここに拘束されているのも、そろそろ苦痛じゃないかな?」
 そう問われて、伊勢崎さんが小さく頷いた。彼女としては――彼女が犯人じゃなかったらの話だが――さっさと自分の部屋に鍵を掛けて、閉じ篭もりたい思いだろう。さっきからずっと怯えっぱなしで、相当参っているように見える。
 霧乃はというと、「ぼくはどっちでもいいよ」と答えた。さすがにこの状況で「部屋に戻って、読書したいよ」などと言うほどの元気はないらしい。僕は何故だか、そんなことに安心してしまった。
「そっか。じゃあ、小坂くんは?」
「えっと、僕もどっちでもいいですよ。特別どうってわけでもないし……みんなに従います」
「うん、そうか。じゃあ、とりあえず三十分ほど休憩ってことでいいかな。伊勢崎さんが随分と参っているようだし」
 そう言って、再び全員に目を馳せる。それぞれ、曖昧に頷いた。
 では、という段階になったところで、守屋さんが言う。
「今さら言われるまでもないと思うが、個人行動はなるべく慎めよ。御代川姫子の事件によって、犯人がこの屋敷に潜んでいる熊切千早って奴だってことが明らかになったんだ。自殺願望でもない限り、ここで大人しくしてることをお勧めするぜ」 


 第四章 『死者』たちの夜

 *

 この館に集った人間は、誰も彼も死者ばかりだった。
 およそ他者と接触することのない、社会に忘れ去られた異端児たち。たとえ死んだところで、世界に爪の先ほどの影響すら与えない無価値の人間。
 この世に残すものが何もない連中にとって、生きていることと死んでいることは同義だ。その意味で、この館に集った死者たちは皆、一切の価値を持たない。
 すなわち、殺したところで何も変わらない。
 彼は故に、無価値の者を殺していく。そして、その殺戮の末に、唯一無二の価値を見出すことを望む。
 無価値の者を殺して、有価値を得る。
 無から、有を創り出す。
 殺人に正当性を認めてくれと頼む気はないが、それが彼なりの殺人の論理だった。
 三人目の犠牲者となる彼女は今、彼の足下に倒れていた。
 背後から近づいて、鈍器で一撃。鈍い音とともに、彼女は床に倒れ伏した。人間の気を失わせるというのは、案外容易いものだ。
 彼は自分の血が冷えていくのを感じながら、彼女を抱き起こした。両腕を彼女の腹に回して、後ろ歩きに気を失った彼女を運ぶ。
 二階の廊下から、館のバルコニーに出る。
 外は雨だった。鉛色の雲が、陰鬱に島全体を覆っている。雨に打たれた海には、ぼんやりと靄が掛かっていた。海原は黒々と粘りけを含み、動脈のように波打っている。
 彼は彼女の身体を担ぎ上げると、バルコニーの柵に歩み寄った。
 眼下で波立つ、海。飛沫を上げて、獲物が罠に掛かるのを待ちかまえているかのようだ。すべての状況が彼を祝福しているように感じられて、思わず片頬で笑む。
 後悔はなかった。
 無価値の殺戮の果てに、価値あるものを見出せるのなら、と。
 彼は彼女の身体を、眼下の海に投げ落とした。
 重力に引き摺り込まれる物体。海面の割れる音。黒々とした水飛沫。
 やがて波が収まり、海面に揺れる彼女の身体が明らかになる。
 沖へ、沖へと引き摺られていく。
 彼はその様子に目を細め、きびすを返して館内に戻った。
 バルコニーに通じる扉には、『第三の犠牲者』の紙が貼り付けられていた。
 
(霧山朽葉『死者の館(上)』より抜粋)

 * 

 夜が深まるにつれて、屋敷の中に不穏な影が濃さを増していくようだった。言い知れない邪気のようなものが、この屋敷に煙のように充満していくのを感じていた。
 休憩時間中、大広間にいるのは僕と霧乃だけになった。
 古橋さんはトイレか何か分からないが、そそくさと大広間から出ていってしまい、守屋さんは「熊切千早って奴を捕まえてやる」と言って出ていった。いくらなんでも危険だと思ったが、思えば彼はギニアの無人島でジャッカルと闘った人間なのだ。殺人鬼ごときに引けを取るはずはない、と彼は確信しているらしかった。
 伊勢崎さんも、食糧がどうとか言って、守屋さんに連れられるように大広間を出ていった。怯えきっていたにもかかわらず、仕事だけはきちんとこなすところが一流だな、と思う。
「しかし、みんな呑気だねぇ」
 休憩時間中、呑気にもペーパーバックを開いている霧乃が、そんなことを言う。さっきのぎらぎらと光る瞳はどこへやら、今は普段通りの眠たげな目に戻っていた。
「こんな状況で動き回るなんて、絶対に危険なのにさ。みんなで大広間で固まって、迎えの船が来るのを待てばいいんだよ。寝るときだって、二人を見張りに立たせて交代で眠ればいい。そうすれば、絶対に犯人は行動を起こせないんだからさ」
「だから、何度も言うけどそう簡単にはいかないよ。人間には心ってものがあるんだ。必ずしも合理的に行動できるわけじゃない」
「んー。囚人のジレンマだね。全員が協力して物事にあたれば最善の結果が得られるのに、裏切りを怖れるあまり最善の選択が出来ない。うん? この場合は情報が非対称的じゃないから、ちょっと違うかな」
「いや、知らないけどさ」
 こういうことを言っているのを聞くと、この子には本当に正常な心ってものがあるのか、どうも疑わしくなってしまう。ぼくは死ぬことをあまり怖れてないのかも知れない、という霧乃の声を、思い出す。
 『死者』なのだ。この女の子も、また。
「ねえ。霧乃はさ、どう思う?」
 話題を変えるために、そう問い掛けてみた。なぁに? と気の抜けた返事が返ってくる。
「今の状況だよ。霧山朽葉が殺され、御代川さんも殺された、この状況。さっきの議論で出た結論って、あれで正しいと思う?」  
「ん……。どうして、そういうことをぼくに訊くかな。ゆぅくんだって頭があるなら、自分で考えればいいのにさ」
「自分で考えても分からないから、訊いてるんだよ。霧乃はそういうの、得意でしょ」
 そう言うと、霧乃は「まぁね」とだらしなく頬を弛めた。それからようやく気を取り直したのか、ペーパーバックをテーブルの上に伏せる。
「んと……さっきの話し合いの結果をまとめると、どういうことになるのかな。論点は、毒物が仕掛けられていた場所だったよね」
「うん。話し合いの結果だと、毒物は食器に仕掛けられていたってことになってるね。御代川さんは運悪く、毒入りの食器を引いてしまったんだ、って」
「ふぅん。その点については、ぼくも異論はないかな。御代川さんの使った食器のどれか――多分、グラスか何かだと思うけど、きっとそこに毒が塗られていたんだよ」
「そっか。だとすると、この屋敷に招待された人が犯人だという可能性は減るね。だって、あのとき僕たちは食器をランダムに交換したんだから。自分が毒入りの食器を引いてしまうかも知れないのに、そんな危険な方法は採らないと思う。つまり、これは僕たち以外の第三者の犯行だった、って言えるんじゃないかな」
 僕としては割とよく出来た論理だと思ったが、霧乃は「うーん」と首を傾げてみせた。
「確かに、第三者の犯行だって決める論理そのものには問題ないと思うけど……。でも、ゆぅくんの言う第三者って、熊切千早のことなんだよね?」
「うん。きっと、彼女がこの屋敷のどこかに潜んでいるんだ」
「ぼくはね、それには賛成しかねるよ」
 霧乃は珍しくも、きっぱりと否定の意を示した。
「だって、そうでしょ? 冷静に考えれば分かるよ。熊切千秀がこの屋敷で死亡したっていう謎の事件があったのが五年前のこと。それ以降、この屋敷はずっと伊勢崎さんが一人で管理してきた。そんな状況の下で、誰かがこの屋敷に隠れていたなんて考えられないよ。どこに隠れていたのか、ご飯はどうしたのか、その他病気とかもろもろの問題を考え合わせれば、そんなこと有り得ないってすぐに分かる」
「待てよ。霧乃は何が言いたいんだ」
「んー……。じゃあ、はっきり言っちゃおうか? この屋敷にはね、熊切千早なんていう人物はいないんだよ。いるのは僕たちの知っている七人だけ――二人いなくなったから、今は五人だけだよ」
 ぞっと、鳥肌の立つような感覚が全身を駆け抜けた。
 もしかしたら、と。そうなんじゃないか、と思い続けてきた可能性を、改めて目の前に突き付けられた衝撃は、やっぱり相当のものだった。
 だって、それはつまり、
 僕たちの中に犯人がいる、ということを意味しているのだ。
「ゆぅくんも、そろそろ認めた方がいいよ。犯人は僕たちがよく知っている人間の中の誰かなんだ、ってこと。そうじゃないと、魂を抜かれるよ」
「でも……だったら、熊切千早はどうなったんだ。監禁されていたんだろう? 五年前の事件は? 熊切千秀はどうして死んで、その後に熊切千早はどうなったんだ」
「そんなこと、ぼくに訊かれても困るよ。もし無事にここを出られたら、熊切家にでも問い合わせればいい」
 無事にここを出られたら――。その表現に、僕は背筋が竦むような思いになる。
 閉ざされた孤島、殺人の屋敷。
 この中に、犯人がいるんだ。
 僕と、それにもちろん霧乃は犯人じゃない。殺された二人を除けば、残るのは三人。
 古橋さん、守屋さん、伊勢崎さん。
 この中の誰かが、連続殺人を犯している狂人だと言うのか?
「話が逸れちゃったね。元に戻そうか」
 冷や汗を滴らせる僕を尻目に、霧乃が続けた。
「問題は、犯人がどうやって御代川さんに毒を飲ませたか、だったよね。そこで、ぼくはとりあえず、食器に毒が塗られていたんだと仮定した。
 ここで問題となるのは、ぼくたちが食器をランダムに交換したという事実だよ。これだと、犯人は自分のところへ毒入りの食器が回ってくる可能性を排除できなかった。だよね、ゆぅくん?」
「うん……」
「でも、たとえばこう考えられないかな? つまり、犯人は食器にあらかじめ目印を付けて、どれが毒入りの食器かを見分けられるようにしていた。もし自分のところに毒入りの食器が来ちゃったら、口を付けなければ済んだ。どう?」
「目印か……」
 特に妙な目印なんてなかったような気がするけど、と思っていると、霧乃が「ちょっと調べてみようか」と言い出した。言うや否や席を立って、てこてこと厨房の方へ歩いていく。行動力があるのかないのか、よく分からない奴だ。仕方ないので、僕もその透明色の長髪に従う。
 大広間と厨房は繋がっていて、誰でも出入りすることが出来た。ワゴンの上に、洗っていない食器が山積みになっている。
「これ、全部調べるのか……」
「時間ならあるでしょ。どこかが欠けてるとか、食器の模様が違うとか、ないかな」
 そう言って、霧乃は食器の汚れを意にも留めず、素手で触っては調べていく。僕も仕方がないので、彼女に倣って調べ始めた。
 しかし、結局。
 食器には何の細工も施されておらず、それぞれの食器を区別するのは不可能だという結論に達した。
「おかしいなぁ……」
 大広間に戻り、そう言って首を傾げる霧乃は、落ち込むといった様子ではなく生き生きしているようにすら見えた。謎が不可解であればあるほど、やる気を出すらしい。タチの悪い奴だ。
「これだと結局、犯人は毒入りの食器を見分けられず、自分で毒を飲んでしまう可能性を排除できない、ってことになっちゃうんだよね……。ううん、どこかで間違えたかな」
「実は、それでも構わなかった、とか? 自分に毒入りの来る確率が六分の一なら、それでもいいと思ったんじゃない?」
「それはないよ、ゆぅくん。こういう偏執的な事件を起こす犯人が、そんな危険を引き受けるはずがないもん。きっと、何かあるんだよ。自分は安全に、かつ自分以外の誰かに毒を飲ませるような方法が……」
 そう言って、霧乃は黙り込んでしまった。ぶつぶつ、と自分にしか聞こえないような独り言を呟いている。こうなると霧乃は誰の言葉にも耳を貸さなくなるのだ。その姿はどこか、面白い玩具を与えられた子どもと重なる。
 きっと、興味や集中力が局所的で、かつ異常なんだろう。
 だから、一日中平気で読書していられるし、逆に言えば読書以外のことをしない。普段、読書に向けられている興味と集中力が事件の謎に向けば、今度はそちらにひたすら没頭する。……何だか、稀代の名探偵シャーロック・ホームズを彷彿とさせる性癖だ。
 霧乃が機能停止してしまったので、僕も仕方なく、自分の頭で考えてみることにする。
 食器に仕掛けられていた毒物。区別できず、しかもランダムに交換された食器から、犯人はどうやって自分の身を守ったのか……。
 いや、それ以前に、犯人の可能性はどうだろう。犯行を成しえた人物から、犯人を絞ることが出来るのではないだろうか。
 この場合、犯行を成しえた人物というのは、すなわち食器に毒を仕掛けることの出来た人物だ。厨房には鍵が掛かっていなかったみたいだから、出入りは誰でも可能だったと言える。時間的にも、午後に屋敷の探索を終えてからは自由時間となっていたから、可能性としては誰でも犯行が可能だったはずだ。
 結局、犯人を絞り込むことは出来ない。
 すなわち、全員にアリバイなし。ただ、「どうやったのか」という方法の部分だけが分からない……。
「あのさ、ゆぅくん」
 不意に、霧乃が声を発した。彼女はぽかんとして、対面の壁を眺めていた。
「なに?」
「どうってことのない疑問なんだけど、犯人はどうして即効性の毒物を使わなかったのかな」
「え?」
「いや、だから、犯人はどうして即効性の毒物を食器に塗っておかなかったのかな、と思って。別にあの有名な青酸カリやニコチンじゃなくたって、飲めばすぐに症状の現れる毒物なんかいくらでもあるんだよ。それなのに、犯人はどうして比較的遅効性の毒物を使ったのかな、って」
「そんなの……どうでもいいだろ。たまたま、犯人がそういう毒物を使おうと思ったってだけで」
「そうかな……? もしかして何か、理由があるんじゃないかな。犯人が、遅効性の毒物を使わないといけなかった理由が」
「うーん。たとえば?」
「たとえば……そうだな。犯人は被害者に、即座にこの場で倒れてもらっては不都合があったんだ、とか? 実際、御代川さんは自分の部屋に戻ってから倒れたわけだし」
「それはそうだけど……でも何のために? ここで倒れるのと、自分の部屋に戻ってから倒れるのと、一体どこがどう違うって言うんだよ」
「それは、」
 ――その時だった。    
 どこか遠くから、人間の悲鳴のようなものが聞こえてきた……気がした。 
 雨の音に紛れてはっきりとはしないが、何が異音が混ざったような……。
 一瞬だけだったから、耳を澄ませても、もう何も聞こえない。
「おい、霧乃……。今、何か聞こえなかった?」
 尋ねると、霧乃は眉をひそめて大広間の天井を見上げた。
「二階の方……かな。確かに、何か悲鳴みたいなものが……」
 その次の瞬間、霧乃は椅子を蹴って飛び出していた。迷いなく大広間の扉を開け放って、外へ走り出ていく。
 待てよ! と叫びながら、僕もその華奢な背中を追いかけた。
 大広間から外に出て、回廊を突き進んでいく。誰かの悲鳴はもう聞こえない。一体何があったというのか。まとわりついてくる不吉な想像を振り払う。
 前を走る霧乃は、意外に速い。僕も足をもつれさせながら、その小さな背中を追う、追う。
 一階から二階へ上がる階段の手前で、守屋さんと伊勢崎さんに出会した。
「守屋さん、伊勢崎さん! 今、二階で悲鳴がして!」
 叫びながら、しかし足を止めることはない。伊勢崎さんが恐怖に顔を引きつらせているのが見えた。
 俺たちも行く!
 守屋さんがそう叫んで、伊勢崎さんの手を引っ張って走り出す。伊勢崎さんは足が竦んでいるのか、半ば守屋さんに引き摺られるような形だった。
 僕の前には東大寺霧乃。後ろには守屋さんと伊勢崎さん。
 待て……。
 古橋さんは、古橋さんは一体どこにいるんだ!
「くそっ――」
 まさか、という想像を振り払って、ただ走る、走る。
 階段を駆け上がり、二階の回廊に出る。伸びる廊下、立ち並ぶ無数の客室ドア――。
 どこだ、悲鳴はどこから聞こえた。
「中央バルコニーだ!」
 背後から、守屋さんの声が飛んできた。
「何かが海に落ちる音が聞こえたんだ! 多分、中央バルコニーから――」
 そう言われるや否や、霧乃が回廊を駆け出していた。
 思い出す。
 中央バルコニーの眼下に広がる海、砕ける波飛沫、獲物を待ちかまえる海原――。
 まさか、あそこから誰かが突き落とされたというのか?
 走る。
 息が上がり、心臓が絞め付けられるように痛む。足がもつれ、倒れそうになる。
 ようやく中央バルコニーへと続く観音扉の前に到着する。
 その扉を見て、先に到着した霧乃が一瞬、たじろいだ。
 僕も見る。
 大きな観音扉。そこには、まるで僕たちを嘲笑うかのように――。

『第三の犠牲者』

 定規を使って書かれた角張った文字が、三番目の凶行を示していた。 
 それでも、霧乃がたじろいだのは、ほんの一瞬のことだった。
 貼り付けられた紙を一瞥し、観音扉を開け放って外へ出ていく。僕もその動作に続いた。
 外は雨が降っていた。もっとも、中央バルコニーの上には庇があるので、僕たちが濡れることはない。バルコニーには僕たち以外誰もいなかった。
 霧乃が柵に両手を突き、身体を乗り出して眼下の海を見下ろす。雨のせいもあって視界が悪く、よく見えない。黒々とした波がうねっていることだけが分かる。
「ライトだ」
 と、後からやって来た守屋さんが、ペンライトで海を照らしてくれた。伊勢崎さんもバルコニーに出てきて、地面に膝を突いている。
 黒い海に、ライトが照らされた部分だけが、ぼんやりと黄色く光る。守屋さんはライトを動かしては、そこにあるはずの何かを探した。
 そして、ついに――。
「古橋さんだ!」
 黒々とした波間に、人の姿があるのを発見した。
 長い黒髪、白い頬。それは見間違えようもなく古橋さんの姿だった。しかし彼女は意識を失っているように目を瞑って、まったく反応を示さない。波間に揺られて、だんだん沖へと引き摺られていく……。
「おいっ! おいっ! 気付けよ!」
 守屋さんが、海に向かって怒声を飛ばす。しかし、海面に呑まれた古橋さんは何の反応も示さなかった。
「くそ――。意識を失っているのか、既に事切れてるのか」
「どっちにしろ、あのままじゃ」僕は言った。「沖に流されて、助からないですよ……」
 守屋さんは唇を噛む。彼は諦めずに海に向かって叫び続けたが、それはもはや何の意味も為さなかった。
 背後で、嗚咽するような声が聞こえる。
 伊勢崎さんが地面にうずくまって、泣いているようだった。
「どうしようもねぇのか……」
 古橋さんの身体は、沖へ、沖へと運ばれていく。
 やがて彼女の身体は海中に沈んで、もう何も見えなくなった。   


 中央バルコニーには、屋敷を覆うように降り込める雨の音と、伊勢崎さんの啜り泣く声だけが聞こえていた。
 古橋さんの姿が見えなくなってからも、守屋さんはペンライトを振っていたが、それもついに諦めたようだ。沈痛な面持ちで、ただ唇を噛んでいる。
 残されたのは、四人。
 僕と霧乃と、守屋さんと伊勢崎さん。この屋敷にいるのは、それだけだった。
「ねえ、ゆぅくん。今は落ち込んでる場合じゃないよ」
 不意に、霧乃が僕の服の裾を引っ張ってきた。なに、と振り向くと、彼女は瞳をぎらぎらと光らせていた。守屋さんと伊勢崎さんも、霧乃に注目する。
「僕たちが悲鳴を聞いてから今まで、二、三分しか経ってないんだよ。もし犯人が直接、古橋さんをここから突き落としたんだとしたら……」
「そうか……」と僕。「犯人はまだ、この近くにいるかも知れない、ってことか」
 霧乃は静かに頷いた。
 ――あれ? でも、それは変じゃないか?
 僕たちはさっき古橋さんの悲鳴を聞いて、一階から二階へ四人全員で上がってきたのだ。とすると、僕たち四人の中には犯人はいない。そういうことになってしまうじゃないか。
 この中に犯人がいる。霧乃はさっき、そう宣言したのに……。
 やっぱり、いるのか? この屋敷には、僕たち以外の誰かが。
 ちらと横目で霧乃を見やると、彼女は怪訝な顔をして俯いていた。こんなことは有り得ない、とそう言いたげに。
「良し。だったら、二手に分かれて二階を調べよう」
 守屋さんが言った。
「この回廊は環状になってるんだ。左回りと右回りに分かれれば、途中で必ずぶつかることになる。それでいいか?」
 守屋さんの提案に、全員が神妙に頷く。守屋さんと伊勢崎さんがペア、僕と霧乃がペアになって、それぞれ左回りと右回りで回廊を探索していくことになった。
 中央バルコニーの扉を開き、屋敷の中へと戻る。
 守屋さんが伊勢崎さんを先導するように右回りの方向へと消えた後、僕も霧乃に目配せした。
「よし。じゃあ、僕たちも行こうか」
「……ん」
 霧乃は曖昧に頷きを返すだけだった。視線が俯きがちで、唇を軽く噛んでいる。
「何か考え事でも?」
「うん……。歩きながらにしようよ」
 霧乃に促されて、回廊を左回りに歩き出す。遠近法の見本みたいに、両側の黒塗りの壁と床がどこまでも伸びている。右手の壁は談話・遊戯室の壁で、左手の壁は客室の壁だ。左手には客室に繋がる無数のドアが立ち並んでいたが、客室ドアの鍵のほとんどは大広間のボックスの中に閉じ篭められているので、開けることは出来ない。
「ねえ、ゆぅくん。ぼくたちが悲鳴を聞いてから、あの二人――守屋さんと伊勢崎さんに出会すまで、どのくらいだったかな」
「さぁ……だいたい、三十秒かそこらじゃない? 気が動転してたから正確じゃないかも知れないけど」
「うん……。たとえば、犯人は二階の回廊で古橋さんを襲い、殴るか何かして気絶させる。古橋さんが悲鳴を上げたのは多分、その時だね。で、その後、中央バルコニーに出て、気を失った古橋さんを海に突き落とし、大急ぎで一階に戻る。そして、僕たちと一緒にまた二階に上がる……守屋さんか伊勢崎さんが犯人だとしたら、それ以外に方法が考えられないけど……」
「無理だな」と僕は否定した。「いくらなんでも時間が掛かりすぎる。三十秒じゃ不可能だよ」
「そうだよね……」
「だから、やっぱり僕たち以外の誰かが、この屋敷には潜んでいたんだ。その何者かは、古橋さんを海に突き落として、僕たちが来る前に二階のどこかに隠れた。それなら三十秒でも何とかなる」
「んー……。でも、ぼくたち以外の誰かっていうのはねぇ……どうしても、しっくりこないんだよ」
「しっくりこないと言われても……だって、他に可能性がないじゃないか」
 僕がそう言っても、霧乃は「むー」だの「んー」だのと曖昧に唸るだけだった。
 でも、そうなのだ。この犯行は、僕や霧乃にはもちろん、守屋さん、伊勢崎さんにも出来なかった。すなわち、全員にアリバイあり。だから、第三者という概念を想定しなければ、これは不可能犯罪ということになってしまう。
 きっと、どこかに潜んでいるのだ。この二階のどこかに、殺人狂が。
「しかし、開けられない扉が多いんだな……」
 左手にずらずらと立ち並ぶ客室の扉を眺めて、そんな呟きが洩れる。
 二階には客室がシングル・ツイン合わせて十五部屋ほどあるが、そのうちドアを開けられるのは僕たちの使っている四部屋だけだ。僕と霧乃の部屋、守屋さんの部屋、御代川さんの部屋、それに古橋さんの部屋……いや、古橋さんの部屋の鍵は、彼女と一緒に海の中だろう。とすると、僕たちが中に入れる部屋はたった三部屋だけになってしまう。 
 扉を開けられない部屋が、実に十四部屋。
 その中に誰かが隠れているんじゃないかと、どうしても疑ってしまう。
「あのね、ゆぅくん。ひとつ言っておくけど、仮に熊切千早ってのがいたとしても、その人が鍵の掛かっている部屋に潜んでいる可能性はないよ」
 霧乃が僕の思考を読んでいるかのように言った。
「え、なんで?」
「伊勢崎さんが言ってたんだけど、霧山朽葉がこの屋敷を買ったときに、全部屋の鍵を一新したんだって。つまり、ここの客室を開けられる鍵は正真正銘、この世に二つだけなんだよ」
「二つだけ?」
「そう。この客室の正規の鍵と、それからこの屋敷のあらゆる部屋の鍵を開けられるマスターキーの二つだけ。でも、ぼくたちが使っている部屋の鍵以外の鍵は、マスターキーも含めて全部大広間にあったでしょ?」
「うん。確かにそうだね……」
 僕たちが使用している部屋の鍵以外の鍵は、マスターキーも含めて全てが大広間の鍵置き場にあった。そして、強固な防衛システムに守られていたのだ。
 鍵を透明ボックスから取り出すために必要な暗証番号は、霧山朽葉しか知らなかった。
 そして、その霧山朽葉は一番最初に殺されてしまっているのだ。
「そういう理由もあって、ぼくは第三者の可能性なんて有り得ないと思っているんだよ。だって、隠れられる場所がないんだもの」
「でも、第三者じゃなかったら、僕たちの中――守屋さんか、伊勢崎さんが犯人ってことになっちゃうじゃないか。でも、その二人には、犯行は不可能だったんだ」
「そうなんだよねぇ……」
 霧乃は再び、黙り込んでしまった。
 回廊をひたすら歩き続け、とうとう僕たちの部屋の前までやって来る。ここまで、誰かの気配なんて微塵も感じることはなかった。
「まさか、この中に誰かがいるなんてことはないだろうけど……」
 中に入れる数少ない部屋ではあるので、一応のこと調べておくことにする。
 僕は一度ノブに手を掛けて、ドアに鍵が掛かっていることを確かめてから、持っていた鍵を使って扉を開けた。入り口のパネルを操作して照明を点け、霧乃と一緒に中に入る。
 部屋の中は当然ながら、夕食前にここを出たときと変わっていなかった。床にまで散乱した霧乃の愛読書たち、ベッドの上の僕の荷物、部屋の片隅に放り置かれている古びた人形……。そういえばこの部屋には、熊切千早が昔この屋敷にいたことを示す品が、色々と収納されていたんだっけ。
 名前しか知らない少女の姿を頭に淡く描きながら、バスルームを覗いてみたりする。当然、そんなところに誰かが隠れているはずもなく……、
「ゆぅくん」
 僕が風呂場のカーテンを開けているとき、バスルームの外で霧乃が僕を呼んだ。なに? と答えて、風呂場の外に出る。
 霧乃が文庫本を片手に、神妙な顔で立っていた。
「なにさ。どうかしたの?」
「この部屋、おかしいよ」
 霧乃は手に持った文庫本から、僕へと視線を転じる。
「おかしいって、何が」
「デスクの上に伏せてあった文庫本のページ数が、変わってるんだよ」
「……どういうことだ」
 僕は不穏な気配に、息を潜めた。
「晩ご飯の前に文庫を途中まで読んだから、そのページでデスクの上に伏せてあったんだ。それなのに何故か、いま見たらページ数が変わってるんだよ」
「そんな馬鹿な……。記憶違いとか」
「記憶違いなわけがないよ。ゆぅくんなら、ぼくの本に対する愛着は知ってるはずでしょ」
「……………………」
 僕は何も言えなくなってしまった。よもやこの読書魔の霧乃が、文庫をどこまで読み進めたかを忘れるはずがないのだ。そんなこと、僕だって充分に承知している。
「でも、だったら……」
「そうだよ」霧乃は瞳に真面目な色を灯して僕を見上げ、「夕食から今までの間に、誰かがこの部屋に入ったんだ。そして何かの拍子に本を落としてしまい、元のページが分からないから適当に伏せて置いた……」
 全身を鳥肌が蹂躙した。部屋の空気が急に、不吉なものを含んでいるように感じられ、息が苦しくなる。
 夕食から今までの間に、誰かがこの部屋に入った?
 馬鹿な――。
 そんなこと、あるはずがない。
 だって、
「この部屋の鍵は、僕がずっと肌身離さず持っていたんだぞ。それにマスターキーだって、大広間のボックスの中に確かにあった。鍵の掛かったこの部屋に、僕たち以外の誰かが入れるわけがないじゃないか!」
「でも、入られている。この事実は絶対だよ」
 霧乃は淡々と言った。持っていた文庫本をデスクに戻して、窓辺に歩み寄る。
 クリーム色のカーテンを脇に寄せると、大きなガラス戸が現れた。黒い夜の風景の中に、僕たちの姿が薄く映っている。僕の顔は動揺に引きつっているようだった。
 霧乃がガラス戸に触れながら、冷静に口を開く。
「ドア以外からこの部屋に入る方法となると、このガラス戸しかないけど……。ちゃんと、鍵が掛かってるね。それにここは二階だから、そう簡単に侵入できるはずもないよ」
「でも、だったら犯人はどうやって――」
 この部屋に侵入したんだ。そう、言いかけたときだった。
「おい! 東大寺さん! 小坂くん!」
 廊下の方から、守屋さんの怒鳴り声が聞こえてきた。どたどたと足音を踏み鳴らして、彼がこちらに向かって走ってくる音がする。
 僕は霧乃と顔を見合わせて、部屋の扉を開け、回廊に出た。
 僕たちの部屋の前を行き過ぎようとしていた守屋さんは、僕たちの姿を認めると、「大変なんだ!」と息も切れ切れに叫んだ。動揺に歪んだ彼の表情に、これはただ事じゃないと直感的に悟る。
 事実、彼の口から飛び出したのは、僕を驚愕させるに足る事柄だった。
「御代川姫子の死体が、なくなってるんだ!」


 しずしずと雨の降る音だけが、その部屋に響いている。僕も霧乃も、守屋さんも伊勢崎さんも、誰もが無言だった。僕には雨の降るその音が、僕たちに降り注ぐ誰かの悪意のように感じられてならなかった。
 御代川さんの部屋に、僕たちは集まっていた。
 僕と霧乃はガラス戸のある窓際に並んで立ち、守屋さんはデスクの椅子に座って太い腕を組んでいる。伊勢崎さんはベッド――確かに御代川姫子の身体があったそのベッド――に、身体を縮めるようにして浅く腰掛けている。
 御代川姫子の死体がなくなっている、と守屋さんが言った通り、この部屋にあるはずのその物体は、影も形も見当たらなかった。ベッド、バスルーム、クローゼットの中……。どこにもないのだ。
 いや、それだけじゃない。
 その後、屋敷の中の入れる部屋を全て捜索したにもかかわらず、僕たちはその物体を見付けることは出来なかったのだ。
 後は鍵の掛かっている部屋だけだったが、全ての扉を体当たりで破っていたらこちらの身が持たないので、僕たちは捜索を諦めて御代川さんの部屋に戻ってきたのだった。
 御代川姫子の死体がどこにも見当たらない、というのと同時に、屋敷内の探索で僕たちはもう一つ思い知った。

 この屋敷には、明らかに僕たちしかいない。

 謎の第三者など、気配すら感じることが出来なかった――。それもまた、僕たちの間の沈黙を居心地の悪いものにしていた。
「さて……何から話し合えばいいのか」
 御代川さんの部屋で、守屋さんが重たい口を開いた。
「いかんせん、分からんことが多すぎるんだ……。第三の事件に関することだけでも、大きく二つ、分からん」
「二つ、というと?」と僕。
「まず、犯人は――とりあえず、俺たち以外の誰かを犯人と仮定するんだが――古橋さんを殺害した後、どこに消えちまったのかってこと。俺たちが二階をくまなく捜索したにもかかわらず、犯人の気配すら発見することは出来なかった。
 さらにもう一つ。こっちは至って単純で、御代川姫子の死体は一体どこに消えちまったのか。入れる部屋は全て探したが、死体はどこにもなかった。これで二つだ」
「一つ目なら分かるよ」
 僕の隣でガラス戸にもたれ掛かっている霧乃が、口を開いた。
「一つ目……犯人は古橋さんを殺害した後、どこに消えたのかって謎か?」
「うん。守屋さんの言うように、これはぼくたち以外に犯人がいるって仮定しての話だけど。あの時、ぼくたちは全員で中央バルコニーに出たでしょ? とすると、ぼくたちがバルコニーに出ている隙を狙って、二階にいた犯人がこっそり階段を降りたと考えることは出来るよ」
「そうか……俺たちと入れ替わるように、ってことだな。それなら確かに、可能だな」
 可能だが――と守屋さんは言いたげに顔をしかめた。
 可能だが、だったらその犯人とは何者なのか。この屋敷には俺たちしかいないじゃないか……。守屋さんも、徐々にそのことを感じ始めているようだった。
 そして、二つ目の謎。この部屋にあった御代川姫子の死体は、一体どこへ消えたのか。動かしたのは間違いなく犯人だろうが、では一体何のために?
「二つ目の謎についてなんだが」
 守屋さんが言った。
「こいつはちょっと不可解な点が多いぜ。誰がやったのか、どのようにやったのか、何故やったのか。フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット……。分からんことのオンパレードだ」 
「えっと……その中だとハウダニット――方法は分かりませんけど、犯行時間の特定くらいなら出来そうじゃないですか?」
 僕は言った。
「夕食後に御代川さんの死体を発見してから、休憩時間に僕たちが古橋さんの悲鳴を聞いて、二階に上がってくるまで……。この部屋、扉は開いてましたから誰でも出入りは出来ましたよね。となると、やっぱりみんなが自由に動き回っていた休憩時間が、一番怪しいと思うんですけど……」
「休憩時間ね。そりゃあんた、俺たちの中に犯人がいると仮定しての話だな?」
 守屋さんに睨まれて、僕は目を逸らしながら小さく頷いた。
 でも、そうとしか思えないのだ。
 霧乃が言ったように、この島に僕たち以外の誰かが潜んでいると考えるのは非現実的すぎる。それは単に、自分たちの中に犯人がいるとは思いたくないという、現実逃避でしかないのだ。
 そう。
 この中に犯人がいるのだ。この中に……。
「休憩時間だったら、ぼくとゆぅくんはずっと一緒にいたよ」
 霧乃が口を開いた。
「ずっと、大広間で一緒。ね、ゆぅくん?」
「うん……。僕と霧乃には犯行は不可能です。だから、もし――もし万が一、この中に犯人がいるとしたら、それは守屋さんか伊勢崎さんのどちらか、ということに」
「やめて下さい……」
 伊勢崎さんがか細い声を出した。両手で耳を塞ぎ、いやいやをするように首を振っている。
「わたしじゃないです……わたし、犯人じゃないです……」
 ノイローゼを起こしたかのように、ただその言葉だけを小さな声で繰り返す。その様子を見て、守屋さんが長い溜息をついた。
「いいよ、伊勢崎さん。あんたが犯人じゃないってことは、俺が知ってる。証明してやる」
 伊勢崎さんは涙を目尻に溜めて、ゆるゆると守屋さんの顔を見やった。
「悲鳴が聞こえたとき、彼女は食糧庫の中に、俺はその近くの回廊をうろついていたんだ。その後、悲鳴が聞こえたらすぐに、伊勢崎さんが食糧庫から廊下に飛び出してきたから、彼女のアリバイは俺が保証する。同時に、俺のアリバイも彼女が保証してくれるはずだぜ」
「でも……」と僕。「休憩時間中、二人はずっと一緒にいたわけではなかったんでしょ? だったら、隙をついて二階に上がって、古橋さんを突き落として、御代川さんの死体をどうにかして、悲鳴は録音か何かで……」
「ゆぅくん」
 頭に浮かんだ考えを思いつくまま喋る僕に、霧乃が咎めるような目を向ける。それで僕は我に返り、「……すいません」と二人に向かって謝った。録音機材なんて二階にはなかったし、それにあれは間違いなく古橋さんの声だった。
 守屋さんは僕に目を向けて、
「なぁ小坂くん。俺たちを疑う前に、疑うべき奴がもう一人いると思わねぇか?」
「もう一人……?」
「古橋さんだ」
 僕は息を呑んだ。
「彼女は休憩中、二階にいたんだ。それなら御代川姫子の死体をどうにかする時間はある。――それにな、彼女を疑うにはもう一つ、決定的な理由があるんだよ」
「決定的な理由、ですか?」
「そうだ。すなわち、俺たちは彼女の死体を見ていないという事実さ」
「……………………」
 ぐるっと、視界が反転したような気がした。隣の霧乃が、我が意を得たと言わんばかりに、小さく鼻を鳴らす。
 僕たちは、古橋さんの死体を見ていない――。
 その事実は一体、何を示しているというのか。
「いいか。こういう状況にあっては、死体が目の前にない限り、死んだと断定するのは危険だ。犯人が自分は死んだと見せかけて姿を隠し、影で犯行を重ねていた、なんて話は腐るほどある。ミステリの女王の有名なクローズド・サークルだって、その一例さ」
「つまり……つまり、守屋さんはこう言いたいんですか。一連の事件の犯人は古橋さんであり、第三の事件は全てが彼女の自作自演だった、と……?」
「断定は出来ないが、その可能性は充分にある、ってことだ」
 守屋さんは自分で自分を鼓舞するように大きく頷いて、
「そういや、考えてみれば、古橋さんが休憩時間中に二階に行ったってのも妙な話じゃねぇか。あの人、安全の確保を最優先にする、って自分で豪語してたんだぜ? そんな奴がどうして、わざわざ危険を冒して二階に行かなけりゃならなかったんだ。あの人は知ってたんだよ。この屋敷は何も危険じゃないってことを。なにしろ、危険の根源は自分なんだから、ってな」
「確かに……そう考えれば辻褄は合いますけど」
 たとえば、古橋さんは休憩時間になったら、一人で二階へ向かう。そこでまず、御代川姫子の死体をどうにかする。目的は不明だが、これだけ探しても死体が出てこないってことは、恐らく海に落とすか何かしたんだろう。そしてその後、中央バルコニーに通じる観音扉に『第三の犠牲者』の紙を貼り付け、自作自演の悲鳴を上げる。僕たちが悲鳴に気付いて二階へ来るまでに、彼女は自ら、中央バルコニーから海へと飛び込んだ。そして、やって来た僕たちに自分が死んだのだと思わせ、注意が逸れてから、海を泳いでこっそり島へ戻る……。
 いや、待てよ。
 何かがおかしい。この論理にはどこかに違和感が……、
「そうだ!」
 僕は思わず大声を上げてしまった。何事かと他の三人の視線が集束してくる。
「守屋さん、その方法は無理ですよ。だって、古橋さんは泳げなかったんです。昨日、そんな話を確かに聞きました。こんな雨降りで海が荒れている夜に、カナヅチの人が海を泳いで島に戻るなんて、不可能ですよ」
「そういえば、ぼくもそんな話を読んだ覚えがあるよ」
 宙に視線を漂わせて、霧乃が言う。
「多分、霧山朽葉のインタビュー記事か何かだったと思うけど……。自分の数少ない友人の一人に医学者がいるんだけど、彼女は水恐怖症で泳げないから一緒に海に遊びに行けなくて残念だ、みたいなことを確かに書いてあったよ」
「……そういえば、俺も覚えがあるな」
 守屋さんは実に苦々しい顔で首を振った。
「昨日のことだ。午後の自由時間に、暇だったら一緒に島の探索でもして、ついでに泳がないかって古橋さんを誘ってみたんだ。そうしたら、自分は泳げないから申し訳ない、って……。もちろん、それだけだったら彼女が嘘をついていた可能性もあるが、その後に霧山朽葉を誘ったときに確かめたから、間違いない。古橋さんは先天的な水恐怖症で泳げないんだって、確かに霧山朽葉は言っていた」 ……これはどうしたことだ。三人の証言が、ぴったり一致してしまったではないか。
 古橋さんは泳げない。
 これはどうやら、疑いようのない事実であるらしかった。
「くそ……正解を見付けたと思ったのに」
 守屋さんは頭を抱えて、うう、と呻いている。しかし、彼はその後すぐに頭を上げると、「いや、まだだ」と瞳を爛々と輝かせた。
「泳げないから何だってんだ。そんなの、いくらでも誤魔化す手段はあるじゃないか。たとえば、海に落ちたのは自分じゃなくて人形だったとか、実は浮き輪を付けてたとか……」
「人形ってのは有り得ませんよ」と僕。「全員で、ちゃんとこの目で確認したじゃないですか。あれは人形なんかじゃありませんよ」
「だったら」と守屋さん。「御代川姫子の死体を、自分の身代わりとして海に落としたってのはどうだ? ……そうだ! これなら、消えた死体の謎を説明できるじゃねえか!」
「それも違いますって」
 僕は言った。
「守屋さんだって、ちゃんと確認しましたよね。海に漂っていたのは、間違いなく古橋さん本人でした。顔もちゃんと確認しましたし」 
「あの……浮き輪っていうのも、無理があると思います」
 今まで黙っていた伊勢崎さんが、珍しくも口を開いた。
「そもそも懐中電灯で照らして、古橋さんの姿をくっきり捉えたんですから、大きな浮き輪を付けていなかったことは一目瞭然ですけど……。そうじゃなくたって、ここらへんの海は流れが速いんです。みなさんもご覧になりましたよね、その……古橋さんの身体が、どんどん沖に流されてしまう様子を。いくら浮き輪を付けていたって、よっぽど泳ぎの上手い人じゃなきゃ、島まで戻ることなんて出来ませんよ」
 くそ、と守屋さんが呟いた。喰い切らんばかりに、唇をきつく噛み締めている。
「つまり、」
 話し合いを総括するように言ったのは、霧乃だった。
「第三の事件に関して言えば、こういう図式が出来上がるわけだよね。
 古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡……。
 もし古橋さんが犯人だって言うなら、この図式のどこかを崩さなきゃいけないんだよ。
 もっとも、古橋さんが犯人だったとしても謎は残るけどね。第一の事件で霧山朽葉の首を斬った理由、第二の事件で自分の身の安全を保ちつつ御代川さんに毒を盛った方法、第三の事件に関連して、御代川さんの死体を隠した理由……。分からないことは山積みだよ」


 しんしんと更けていく夜。静かに降り続く雨。二人だけの部屋。かすかな安堵感と、ひたすらの静寂。
 御代川さんの部屋に集まって行われた話し合いでは、結論は出なかった。それどころか、考えれば考えるほど、謎が深まってしまうようにさえ感じられた。
 真っ暗な洞窟を、地図もなく手探りで探索していく感覚。僕たちが置かれている状況は、それに限りなく近い。前に進めば進むほど、奥へと続いている分岐が無数に現れてくる。そしてさらに、その分岐の先までもが幾重にも分岐していて、しかもその道の先は必ずどこかで行き止まりになっている。僕たちは来た道を引き返し、シラミ潰しに可能性を潰していく。そんな方法で本当に答えに行き当たるのか、僕には分からない。いや、行き当たるかも知れないが、犯人が皆殺しを完遂する方が先なのかも知れなかった。
 そんな不安を誰もが胸に抱きながら、しかし、今日の話し合いは打ち切りとなった。寝て、明日に備えようというのだ。全員が大広間に集まり、交代で寝るという案は出なかった。残されたのは四人。交代で夜警をして、充分に寝られるほどの人数ではなかったのだ。
 結局、それぞれの部屋に戻って鍵を掛け、さらにドアの前にバリケードを作って犯人の侵入を防ぐ、というアイデアが採用された。なにしろ、部屋の扉を開ける方法は、自分が持っている鍵とマスターキーの二つしかなく、マスターキーの方は完全な防御システムに守られているのだ。斧を振り下ろしても割れない透明なボックスケースには腹が立ったが、今になってみると強靱な防御システムは僕たちの心強い味方だった。
 ただ、一つだけ気になることと言えば……。
 この部屋に置いてあった霧乃の文庫本。そのページ数が変わっていた、という奇怪な出来事。
 侵入不可能なはずのこの部屋に、僕たち以外の何者かが出入りした、という事実。
 一体どうやって、そして何のために?
 頭の冴えない僕が考えても、分かるはずはなかった。
「ねえ、ゆぅくん」
 風呂上がり、バスルームから寝室に戻ると、珍しくも霧乃は読書していなかった。ほんわか暖色系のゆったりパジャマに身を包み、ベッドに腰掛けている。かすかにシャンプーの香りがするのが、僕の心を和ませてくれた。
「なにさ」
 僕は霧乃と向かい合うように、自分のベッドに腰掛けて問う。霧乃は何気なく首を傾げて、
「ゆぅくんは、学校で数学って習ってるの?」
 そんなことを尋ねてきた。
「数学……? 高校生なら、普通は誰だって習ってると思うよ。まぁ、僕は苦手だけど」
「ふぅん。ああいうのってさ、一つの大門があると、大門の中で(1)、(2)、(3)って感じで分かれてるよね。(1)、(2)で出した答えを使って、(3)を解くみたいなの」
「あぁ……あるある。僕なんか大抵、(1)だけ出来て(2)で詰まるから、(1)、(2)の答えを使って解く(3)は、絶対に解けないんだ。卑怯だよね、あれ」
 なんて言いながら、僕は霧乃が何を言いたいのか、何となく分かったような気がした。
「まさか……霧乃は、この事件もそういうパターンだって言いたいわけ? つまり、第一の殺人、第二の殺人を正しく解けないと、第三の殺人は絶対に解けないようになってる……って?」
「まぁね」
 霧乃は真っ白な頬にわずかに笑みを含み、
「ぼく、色々と考えたんだけど、第三の事件はなかなか一筋縄じゃいかないよ。まず、ぼくたち全員にアリバイがあること。それから、古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡っていう図式が崩しがたくて、古橋さんが犯人だって断定できないこと。ついでに言えば、誰かがこの部屋に入ったという事実と、消えた御代川さんの死体の謎も……。どうも、この謎のすべてを解決するには、素直に物事を考えていたんじゃ駄目みたいなんだよ」
「というと? ひねくれた視点で物事を見ればいいのか?」
「んー……。確かに、ある意味ひねくれないとね。ぼくたちはきっと、どこかで見過ごしちゃったんだよ。正解の道に続いている、隠された分岐道を」
 隠された分岐道……。そんなものが、今までの過程にあったのだろうか。
 (1)、(2)を正解しないと、絶対に解けない(3)の問題。
 僕たちはどこで道を間違えてしまったんだろう。(1)、(2)の問題のどの過程で、何をどう勘違いしてしまったというのか。
 いや、あるいはもっとそれ以前から?
 (1)、(2)を解くにあたって、当然の前提としていた事柄が、実は真実じゃなかったとしたら――。
 僕たちがこの島にやって来た時点から、誰かの嘘に騙され続けているのだとしたら――。

 一体何が嘘で、何が真実なんだ。

 分からない。
 分からなくて、怖い。
 一旦何かを疑い始めれば、それは僕が立っている世界の基盤にまで亀裂を生じさせ、僕の世界を崩壊させる。足下を失った僕は、まるで奈落の底までどこまでも落ち続けていくかのようで。
 僕は一体、何を信じたらいいんだ。
 霧山朽葉でも古橋さんでも、守屋さんでも御代川さんでも伊勢崎さんでもない。そんな連中、信用できない。
 東大寺霧乃か?
 分からない。
 もし、もしこの子までもが、僕に嘘をついているとしたら。目の前にいるこの東大寺霧乃が、偽物だとしたら。僕に話した推理が、すべて僕を間違った方向へ導くための罠だったとしたら。
 この子が、犯人だったとしたら――。
「ゆぅくん?」
 霧乃が心配そうに表情を曇らせ、僕を覗き込んでくる。雪のように真っ白で、水のように淡くて、そして何より愛しい霧乃の、眠たげな顔。
 それが、ぐにゃりと歪む。 
 白い肌が裂け、内部から黒色と赤色とに染まった毒々しい皮膚が現れる。
 透明な長髪は漆黒に染まり、槍のように鋭くなって振り乱れる。
 僕を見ている眠たげな瞳が充血し、真っ赤に染まる。
 東大寺霧乃が牙を剥き、僕に襲い掛かってくる……。
「――――――――」
 それが限界だった。
 胃の底からこみ上げてくるものを、僕は抑え込めなかったのだ。次の瞬間、僕は四肢を引きつらせ、その場で嘔吐していた。
 食道を逆流した物体が、口から吐き出される。抑えようもなく客室の絨毯を汚す。不快な低音。饐えた胃酸の臭い。その全ての輪郭が曖昧で、ピントがぼけていた。くらくらと目眩がして世界が幾重にもぼやけ、身体のバランスを見失っている。
 身体を貫く嘔吐感に、その場に倒れ込みそうになったとき。
 ぐっ、と誰かに肩を抱きかかえられた。
 前のめりになった身体が、そこでどうにかバランスを持ち直す。
 肩越しに首を巡らせると、霧乃がいつになく真剣な表情で僕を見つめていた。
「大丈夫だから。ゆぅくん」
 瞳に生命力の輝きを灯し、柄にもなくそんなことを言う。唇を噛み、頬を強張らせたその表情は、真剣そのもの。ぼくが一緒にいるから、なんて、そんなこと言わないで欲しい。僕は自分がどんどん嫌になっていってしまうじゃないか。
 でも今はそんな抵抗の余裕すらなく、ただ生理的欲求に身を任せる。
「全部、吐いた方がいいよ。我慢しなくていいから」
 そう言って、霧乃が背中をさすってくれる。そんな彼女はもう、化け物の姿に映ったりはしなかった。
 胃の底が沸き上がるような吐き気に、もう一度身体を震わせる。
 霧乃は黙って身じろぎもせず、ただ僕の背中をさすってくれていて。
 こんな状況だからこそ、
 雨の孤島に閉じ篭められ、殺人鬼と一緒に時を過ごさなければならない今だからこそ、
 僕の背中に触れているその手が、泣きたいくらい頼もしかった。
 情けない、けれど。


 そして、夜は更け――。
 僕の醜態から一時間後。
 部屋を汚してしまった吐瀉物を片付け、ついでに僕は自分のパジャマも汚れてしまったので、風呂に入り直した。霧乃の服や身体を汚さずに済んだのが、せめてもの救いだった。
 そして、風呂上がりの布団の中。
 湯を浴びた直後に寝ろというのも無理な話で、僕は目が冴えてしまって、なかなか眠れないでいた。隣の霧乃はもう眠りに就いているのだろうか、すやすやと心地よさげな呼吸音が聞こえてくる。ガラス戸の外で、雨はまだ降り続いているらしかった。
 暗闇の中で寝返りを打ち、朝から三つの殺人が連続して起こった今日のことを、ぼんやりと思う。
 霧山朽葉の死、御代川姫子の死、古橋さんの死。
 死を間近で見つめるたび、殺人という感覚が僕の中で薄れていくようだった。そしていつしか、死体を前にして冷静に状況分析を行うようにすらなっていった。殺人すれば殺人しただけ、自分も追い詰められるという逆説的な世界。クローズド・サークル。
 そんな世界で育まれた正気なんてものは、所詮まやかしでしかない。僕の身体はそのまやかしを受け付けなかった。嘔吐して初めて、自分が精神的にかなり追い詰められていたんだということに気付いた。
 その嘔吐感からも解放され、とりあえず一息ついて。
 暗闇の中、僕が思考を巡らせるのは、やはり事件のことでしかなかった。
 首斬り死体、見立て殺人、『死者の館』……。事件のキーワードが次々と頭に去来する。毒入りの食器、『第二の犠牲者』、古橋さんの悲鳴、沖へと流されていく彼女の身体、なくなった御代川さんの死体、何者かが侵入したこの部屋……。
 そういえば、バリケードは大丈夫だろうか。ふと気になって、半身を起こす。
 鍵を掛けていたにもかかわらず何者かに侵入されたため、僕と霧乃は客室ドアの前にバリケードを作っておいたのだ。ドアの前には、荷物その他もろもろが山となって積み重なっている。これならたとえ犯人がドアの鍵を開けても、ドアを押し開けて入ってくることは出来ないだろう。大丈夫だ。
 再びベッドに上体を戻し、そして考える。
 この屋敷にかつて監禁されていた少女。熊切千秀の隠し子、熊切千早。そして五年前の事件。殺害された熊切千秀。使用人すら真実を知らないという謎の事件。
 過去にこの屋敷で起こったという事件は、本当に今回の事件と関連がないのだろうか。奇怪な事件が、同じ屋敷で……。偶然にしては、いささか出来過ぎではないか。
 そういえば、この部屋には熊切千早の存在を示す品が色々とあったんだっけ。古びた人形、『くまきりちはや』と名前がひたすら書かれたノート、おままごとの玩具……。熊切千早は、かつてこの部屋に監禁されていたのだろうか。部屋の中を探せば、アルバムや写真も見付かるかも知れない。いまだ顔を見たことのない、謎の少女――。
 寝返りを打つ。薄暗がりの世界が、無性に不安を煽る。
 数学の大門。(1)、(2)、(3)。僕たちは一体どこで間違えてしまったのか。正解へと続いている分岐道は、一体どこに隠れていたというのか。
 嘘と、真実。
 僕たちは一体、誰の嘘に騙されてしまったんだろう……。
 暗闇の世界が、現実と夢の境目を溶かしていく。
 かすかに聞こえる霧乃の息遣いが、僕を眠りへといざなう。
 いまだ降り止まぬ雨の中、僕はいっときの眠りに落ちた。


 ――夢か、現実か。
 ひどく身体が重たかった。全身に鉛を詰められたかのように、腕に、脚に、倦怠感がある。頭が鈍重で思考が回らず、意識がはっきりしない。
 たとえて言うなら、無理やり夢から現実に引き戻されたような感じだった。
 神経がまだ夢の世界に根を張っているせいで、頭がぼんやりとしている。風邪を引いたときのような世界が曖昧な感覚と、頭の鈍痛……。
 ――僕が異変に気付いたのは、この時だった。
 違う。
 僕はどうして無理やり現実に引き戻されたんだ。気怠い覚醒を、余儀なくさせられたんだ。
 それは、臭いだった。
 鼻孔をちくちくと刺し、剥き出しの眼球を刺激するような、不穏な空気。それが焦げ臭さだと気付くのに、時間は掛からなかった。
 ――焦げ臭さ? 
 そう思うのと同時に、覚醒しきらない頭をもたげ、ベッドの上で半身を起こす。目やにのついた目元を手の甲で擦り、そして見た。

 客室ドアの入り口、バリケードとして置いた荷物が、燃えていた。

 一瞬の呆然。
 それから、脊髄を金属バットでぶん殴られたような衝撃。目の奥で、火花が弾けた。
「かじ――火事だっ!」
 そう叫んで、ベッドから跳ね起きる。全身の筋肉が一瞬にして覚醒する。が、
 跳ね起きて……何をすればいい?
 混乱する。自分が混乱しているという事実を認識して、さらに混乱する。僕はとにかく霧乃だと思い立って、隣のベッドのふんわりパジャマ姿に視線を馳せた。霧乃はさっき僕の立てた大声で目覚めたらしく、ベッドで上体を起こしていた。部屋の入り口で燃えている荷物を見て、目を丸くしている。
「ゆぅくん……これ」
「火事なんだ」
 僕は簡潔に一言で、今の状況を示した。紅蓮の炎を背景に、霧乃がふっと表情を曇らせる。部屋の中で、四つの瞳が不安に揺れた。
 火事――。もちろん、自然なものであるわけがない。
 誰かが火をつけたのだ。
 屋敷の中にいる殺人犯が、この部屋の前までやって来て、炎を放ったのだ。
 だが、今はそんなことどうだって良かった。どうして犯人が炎を放ったのかも、少なくとも今の問題じゃない。
 僕は霧乃を見つめた。
「とにかく、早く火を消そう。炎がまだ小さいうちに」
 炎の背景に縁取られた霧乃は、少し躊躇したように見えた。しかし他に解決策が浮かばなかったのか、小さく頷く。
 僕は部屋の入り口で燃える炎を睨んで、とにかく水だと思った。炎はすでに僕のボストンバッグを燃料にして燃え広がっている。ここまで大きくては、踏んだり叩いたりで消火できるレベルではない。
「バスルームに行こう。あそこにシャワーがある」
 僕は瞬時に思いついた案を口にして、半ば無理やり霧乃の手を取った。握った瞬間、その腕が思ったより遥かに細かったことに、ぎくりとする。僕はその腕を引っ張って、バスルームに走った。
 この部屋はバスルームと寝室があるだけの、ビジネスホテルの一室のような造りだ。部屋の入り口から寝室までは廊下のように幅が細くなっていて、その廊下の横の空間にバスルームが収まっている。
 僕はバスルームの扉を開くと、中に駆け込んだ。洗面台、トイレットの向こうに浴槽がある。シャワーはそこだ。僕はシャワーの首をひっ掴むと、カランを最大にして水を噴射した。ヘッドが変な方向を向いていたせいで僕と霧乃はずぶ濡れになってしまったが、そんなことを気にしている場合ではない。シャワーを引っ張って部屋の入り口まで――、
「届かない……」
 冷静に考えてみれば当たり前だった。シャワーがバスルームを貫通して外にまで伸びる道理はない。長くて邪魔なだけだ。
「ゆぅくん、桶!」
 絶望していた僕に、霧乃が声を掛けてくる。彼女は洗面台のところにあったプラスチックの桶を掴んで、僕に差し出していた。ここに水を溜めて、部屋のドアの炎まで運ぼうというのだ。効率が悪いが仕方ない。僕はシャワーの水を桶の中にぶち撒けた。水が溜まるまでの時間がもどかしい。炎が刻一刻と大きくなって、この部屋を飲み込んでしまう妄想に取り憑かれる。
 ようやく桶に水が溜まった。霧乃がバスルームの外へ水を撒く。炎は消えたか、消えてくれたか……?
 しかし――、
「駄目だよ、ゆぅくん!」
 空の桶を片手にバスルームへ戻ってきた霧乃は、動揺を隠していなかった。瞳が揺れている。呑気極まるこいつがここまで動揺するなんて……と僕はむしろそっちの方にショックを覚えた。
「炎がどんどん大きくなってる! もう消せないよ!」
 早く外に出よう! そう言って今度は霧乃が僕の腕を掴み、バスルームから外に飛び出す。 
 その一瞬、僕たちはまさに炎に包まれた。
 薄い高熱の膜をくぐり抜けるような感覚に近かったが、それは間違いなく炎の中に飛び込んだのだった。そのまま二人して、なだれるように寝室の方へと倒れ込む。振り向くと、炎はとうに部屋の入り口を焼き尽くし、僕たちが出てきたばかりのバスルームの扉を焼いていた。
 もしさっき、シャワーのヘッドが変な方向を向いていなくて、僕たちが水を浴びなかったら――。
 きっと、繊維のパジャマに炎が燃え移り、今頃二人とも火だるまだっただろう。
 僕たちの背後に近寄っていた死の危険に、しかし、今は背筋を震わせている場合ではない。
 どうする。どうすればいいんだ。
「消火は諦めて、とにかく一刻も早くこの部屋を出よう」
 霧乃が押し殺したような静かな声で言った。しかし、炎に照らされる横顔には焦りが浮かんでいる。
「でも、部屋を出るったって……」
 僕は言葉を詰まらせた。
 部屋の入り口はもう、炎で塞がれてしまっているのだ。いや、それだけならまだ、捨て身で走り抜ければ、火傷くらいで外に出られる可能性もあるだろう。
 しかし、この部屋にはこともあろうか、バリケードが作ってあるのだ。
 外側から内側に入れないという事実はすなわち、内側からも容易に外側には出られないという事実を意味する。ドアの前には、バリケード用の荷物が山となって積み上げられているのだ。そして今は、そのすべてが炎に包まれている――。
 すなわち、火だるまと化した荷物の山を、ドアの前から退けない限りは、僕たちは部屋の外に出られないのだ。
 しかし、燃えている荷物を悠長に移動させている暇なんかない。そんなことしていたら、その間に僕たちが焼き殺されてしまう。少なくとも、ただの火傷じゃ済まない。
 どうする。
 焦燥が身を刻む。
「ねえ、ゆぅくん」
 霧乃が、声を沈めて僕に呼び掛けてきた。その瞳は、じっと入り口の炎に据えられている。
「なんだよ」
「ゆぅくんは、命に価値ってものを認める?」
「は?」
 意味の分からない質問だった。思わず頓狂な声を上げて、霧乃の横顔を見返してしまう。しかし、彼女は真剣な眼差しで炎を睨んでいた。
「じゃあ、質問を変えるよ。ゆぅくんは、一つの命より二つの命の方が、価値があると思う?」
「何言ってるんだよ」
「いいから、答えて」
 霧乃の大人びた口調に僕は戸惑いを覚え、そして仕方なく「当たり前だろ」と答えた。一つよりは二つ。少ないより多い方がいいのは、命だって同じだ。
 ――と、そこで僕は何か嫌な予感が、脳裏を掠めるのを感じた。
 奥歯で砂を噛んだような、あのざらついた感覚。
 東大寺霧乃は、真剣だった。
「そっか。だったら命が一つもないよりは、一つでもあった方がいいってことだよね」
「待てよ……お前、何を」
「ぼくがドアの前の荷物を全部どかす。そして、力が残っていればドアも開ける。ドアが開いたら、ゆぅくんは炎の中を走り抜けて、廊下に逃げて」
 霧乃の考えていたことは、僕の嫌な予感そのものだった。
「そんな……そんなこと言って、じゃあ霧乃はどうするんだよ! あの炎の中で荷物をどかしてたりしたら、まず助からない……」
「ゆぅくん、言ったでしょ。一つの命より二つの命の方が価値があるって。一つよりは二つ。ゼロよりは一つ。同じだよ」
「駄目だ! そんなこと認めない……認めるもんかよ」
 こともあろうか、僕に霧乃を見殺しにして逃げろ、だと? いや、それどころじゃなく、自分が助かるために霧乃を道具として使え、だと? 
 出来ない。
 いくら死ぬのが怖くたって、それは出来ない。
 僕が持つ最低限のプライドが、その最悪の選択を拒絶する。
「ゆぅくん」
 霧乃はあくまで冷静に、言葉を紡いだ。
「今日の御代川さんの話、覚えてる? この屋敷は『死者の館』そのものだっていう、あれ」
「覚えてたら、どうだって言うんだ」
 僕は記憶の糸を辿り、御代川さんの声を思い出す。
 ――でも、いよいよもって『死者の館』ね。この屋敷。 
 ――五年間孤島に一人で暮らしていた小間使い。ドイツ留学で殺人をして、日本に追い返された異端児。無人島生活を趣味とする物好き。部屋に閉じ篭もって外部と接触しない引き篭もり。それに、本がお友達の素敵な読書中毒さん。みんながみんな、まともに他者とつながりのない人間ばかり……。そういう意味でなら、この屋敷はまさに生きながら死んでいる『死者』たちの集う館――『死者の館』と称して差し支えないんじゃないかしら?
 覚えている。
 だが、それが何だって言うんだ。
「ぼくはね、『死者』なんだよ。ゆぅくん。生きながら死んでいる、『死者』。生きていることも、死んでいることも、たいした変わりはない。だから大丈夫」
「そんな馬鹿な――」
 認めない。認めてたまるもんかと、心が震える。
 そんな中で思い出す、ひとつの声。
 ――ねぇ、ゆぅくん。ぼく時々思うんだけどさ、醒めない夢の中で生きることと、死んでることって、一体何が違うんだろうね。
 ――もしかすると、ぼくは死ぬことをあまり怖れてないのかも知れない。
「認めないっ!」
 僕はその全てを振り払うように叫んだ。そうでもしなければ、僕は死の恐怖に何も言えなくなってしまいそうだった。
「生きるのも死ぬのも同じなんて、そんな馬鹿なことあるわけないだろ! なにが『死者』だ! 認めない! 僕は絶対に、認めない!」
「ゆぅくん……」
 僕の剣幕に毒気を抜かれたか、霧乃が困惑したように眉を曇らせて僕を見やる。
 炎に揺れるあどけない横顔。
 どうしようもなく読書中毒で、人見知りで甘ったれで呑気屋で、そして僕のたった一人だけの味方。この狂った屋敷の中で、何度も何度も僕を励ましてくれた、大切な女の子だ。
 だから絶対に、認めない。
 霧乃を道具として使って一人だけ生き延びるなんて、不可能だ。
 だが――。
「くそ……」
 どうする。どうやって、この状況を打開すればいいんだ。
 炎に包まれた扉。それを阻むように置かれた、同じく炎に包まれた無数の荷物。あれをどかさなければ、廊下には出られない。炎の中、二人で手分けしてどかしても、仲良く焼死が関の山だろう。かといってここで黙っていれば、黒煙に巻かれて死ぬ。
 どうすればいい。
 炎に包まれた扉=扉の前の火だるまの荷物=どかす=死亡……。
 この図式のどこを、破ればいいというんだ。
 いや、違う。
 図式を破るんじゃなくて、もっとこう……前提条件を覆すような何かを……。僕たちはどこかで、正解へと続いている隠された分岐道を、見過ごしてしまったんじゃないのか。
 そして、ふと思いつく。
 この状況を打開しうる方法。二人で助かりうる方法。
 それは危険な方法だ。しかし――。
 他に、打開策はなかった。
 逡巡一秒、僕はそれが正解へと至る道だと、決めつけた。
「霧乃、来い!」
 僕の隣で困ったようにしている霧乃の細腕を、無理やり掴む。
 引っ張って、走る。
 部屋のドアがある方向とは、真逆の方向へ。
「図式が崩せないなら、問題設定を崩せばいいんだ!」
 何故なら僕たちは、それを『問題』として認識した時点で、犯人の罠に填っているのだから。
 『問題』に対する解法が何一つとして見出せないとき、僕たちはどうするべきか。
 簡単だ。『問題』の方をねじ曲げればいい。 
 僕は寝室のカーテンを引き開けると、ガラス戸を開け放った。
 そこにあるのは、バルコニー。眼下では、黒々と海が波をうねらせている。
「ゆぅくん……まさか」
「まさかだよ」
 霧乃が息を呑むのが分かる。目を丸くしているのだろうか。この太平楽を驚かせられたなら、それだけで満足な気もする。
 だが、僕たちはそれだけでは終わらない。
「霧乃、思いっきり息吸え!」
 指示すると共に、自分も肺に酸素をありったけ溜め込む。胸が膨らむのが分かる。いささか焦げ臭い空気だったのが残念だ。
 眼下に望む海原。
 獲物が落ちてくるのを待ち構えているような、黒々としたうねり。
 見下ろして、そのあまりの遠さに一瞬の躊躇。足が竦む。……が。
 他に解法はなかった。型破りだろうと何だろうと、自分で出した答えなら自信を持つしかない。
「行くぞ!」
 僕は叫び、そして夜空へ向かって駆け出した。
 足で踏み込んで、柵を飛び越えて、
 そして一息に――

 僕たちは、宙に身体を手放した。

 重力から解放される、一瞬の浮遊感。
 風を切る音。
 空気を裂いて前進する感覚。
 しかし、それはたった一瞬のことで――。
 次の瞬間には、空中での失速。
 ずんと重たくなる身体。
 圧倒的すぎる重力の支配。
 自分がただの「物体」に過ぎないと実感した一瞬の間に、目の前には加速度的に海が迫っていた。
 黒い海原。粘りけを感じさせる波の流動。僕たちを飲み込まんと、ぽっかり口を空ける海面。
 落ちる、と思ったその瞬間、滅茶苦茶な衝撃が全身を貫いていた。
 上下左右、全方位から散弾を浴びせられるような感覚。痛みを知覚する以前に、それは衝撃として僕の身体に叩きつけられていた。
 耳元で唸っていた風が止み、一切の音が消える。ごぼごぼごぼ……と口から酸素が漏れ出ていく音だけが聞こえる。
 どこまで沈んだか、水のクッションが僕の身体を受け止めた。
 目を開けても、そこは暗黒の世界。
 上下左右がどこにあるのか、分からない。宇宙空間に放り出されたような、不安定な感覚。
 ふっ、と身体が浮かび上がる。僕はその方向を上だと判断して、体勢を立て直す。水中で平泳ぎのように水を掻き、酸素を求める。 
 ――出た。
 ようやく、海面から顔を出す。その場にあったありったけの酸素を取り込まんとばかりに空気を吸う、吸う。空気と一緒に海水が入ってきて、噎せた。
 そういえば、霧乃はどこにいる?
 海面から出た首から上を振って、その姿を探す。……と、いた。僕の近くで海面から顔を出し、盛大に咳き込んでいる。その光景に、ひとまず胸を撫で下ろした。
 しかし、まだ安心は出来ない。
 伊勢崎さんによると、ここの海は流れが速く、あっという間に沖へ持って行かれてしまうんだとか。事実、古橋さんの身体は沖へと流されたまま、消えてしまった。あそこまで流されたら、泳ぎの出来ない人はまず助からない。そして、古橋さんは泳げなかった――。
 あの時の光景を脳裏に浮かべながら、島の断崖絶壁になっている部分をどうにか掴む。岸壁だ。ここに手を突いてさえいれば、この岸壁沿いに島の砂浜まで戻ることが出来る。海面に浮く霧乃の腕も掴んで、岸壁へと引き寄せた。
「どうにか、助かったな……」
 歓喜の声を上げるほどの元気もないので、呟くように言う。その言葉に霧乃も、小さくではあったが、はっきりと頷いた。
 頭をもたげて上を見れば、屋敷の僕たちの部屋が火が噴いている。バルコニーまで焼き尽くすつもりらしい。あの分じゃ、部屋にあった荷物類は何も残らないだろう。
「とにかく、屋敷に戻ろう」
 霧乃を促して、岸壁に手を突きながら夜の海を泳ぐ。
 きっともう、これ以上のことは起こらない――。
 何故だか分からないが、僕の中にそんな確信があった。 


 第五章 嘘に包まれた真実 



 『死者の館』の夜明けが近かった。
 東の空がうっすらと白んで、水平線から太陽が昇ってくる。『死者の館』の外壁はその光を受けて、さながら鏡のように輝く。恐ろしい夜の終わりは同時に、彼に殺人の終焉をも告げていた。
 朝日に目を細め、血に塗れたこの数日間のことを思い出す。
 この館に集った、無価値の死者たち。無価値の饗宴。無価値の殺戮。
 暗がりの道の果てに、彼はその目的を見出せたのだろうか。
 無価値の者の殺人を重ねて、有価値を得ることは出来たのだろうか。   
 太陽が、彼の目を痛いほどに刺してくる。
 まぶしくて、目を開けていられない。
 夜の終焉、朝の始まりは一体、何を意味するというのか。
 彼は霧のように満ちてくる不穏な気配に、静かに身を震わせた。

 ――下巻につづく

(霧山朽葉『死者の館(上)』より抜粋)

 * 

 屋敷の夜明けが近かった。
 東の空がうっすらと白んで、水平線から太陽が昇ってくる。屋敷の外壁はその光を受けて、さながら鏡のように輝く。恐ろしい夜の終わりは同時に、僕に殺人の終焉をも告げているようだった。
 結局、火事は僕と霧乃の部屋を燃やし尽くしただけで済んだ。
 屋敷が全焼の事態に陥らなかった一番の要因は、炎が他の部屋に燃え移らなかったことだ。僕と霧乃のいた十二号室は真っ黒焦げになってしまったが、逆に言えば炎は十二号室に閉じ篭められていたということになる。
 僕たちが天上島の浜辺まで泳いで戻り、大急ぎで屋敷に辿り着いた頃には、守屋さんと伊勢崎さんが事態に気付いていた。屋敷中の消火ボンベを掻き集めて、二人が消火活動に当たってくれていたのだ。雨の助けもあり、その後まもなく火は消し止められた。
 ただ一つ、不可解な点といえば、この火事が霧山朽葉の『死者の館』には書かれていなかったこと。霧乃は、この火事は犯人にとって不測の事態だったんじゃないか、などとぶつぶつ呟いていた。もっとも、僕の方は推理なんてする余裕もなく、火が消し止められたことにただただ安堵していたのだけれど。 
 気付けば、消火活動をしている間に日が昇っていた。
 延焼を防いでくれていた恵みの雨も、いつしか上がっていた。屋敷を取り囲む森の緑は、雨に濡れた部分を太陽に照らされて、きらきらとした輝きに満ちている。昨日、あれだけ黒々として不気味に見えた海も、太陽の下で淡い水色を取り戻していた。
 火が消し止められたのが朝の五時半くらいだったが、それからまた一眠りする気にはなれず、僕と霧乃、守屋さん、伊勢崎さんの四人は大広間に集まっていた。
 その大広間に、その紙があったのだ。

『熊切千早の監禁部屋にて待つ』

 例によって定規を使って書かれた、不自然な赤文字。大広間の長テーブルの上に、その紙はピンで留められていた。これが犯人からのメッセージであることは、もはや議論の必要すらなかった。
 現在、僕たちは大広間のテーブルで、この紙をどう解釈すべきか考えているところだった。
 紙を握っているのは守屋さんだ。彼は顎に手を当てて、片手に持っている紙を下目で睨んでいる。守屋さんは消火活動でも最前線で一番よく働いてくれたが、その表情に疲れは見えない。さすがジャッカルと闘う男だ。
 守屋さんと対照的なのが伊勢崎さんで、彼女は膝の上に両手を置き、困ったように目を伏せている。昨日はよく眠れなかったと見えて、目の下にくまが出来ていた。顔色も悪い。
 霧乃はというと、彼女は昨日の夜から、眠気のする目を封印しているらしかった。獲物を追い詰めた猫のように、ともすれば危険なほどぎらぎらと瞳を輝かせている。本気モードの証拠だ。
「しかし」
 紙を眺めていた守屋さんが、口を開いた。
「この犯人は、俺たちのことを完全に馬鹿にしてやがるみたいだな。『熊切千早の監禁部屋にて待つ』だってよ。デートの待ち合わせじゃあるまいし」
 けっ、と彼は嫌気を飛ばした。
「きっと、その監禁部屋ってところには毒針か何かが仕掛けられてるんだろうぜ。あるいは爆発物かも知れん。部屋を見付けて扉を開いた途端、ドーンだ。こいつは明らかに罠さ」
「そうかな?」と霧乃。「ぼくは、これは罠じゃない……何か意味のあるメッセージだと思うよ。罠にしては、いくらなんでも露骨すぎるもん。これはきっと、犯人側からの僕たちに対する、何らかの働きかけだよ」
「働きかけ、だと? 馬鹿言うなよ」
 守屋さんは皮肉に肩をすくめて、
「今まで犯人からの働きかけは文字通り死ぬほどあっただろうが。今さら何をしようってんだよ。おい、伊勢崎さん。あんたはどう思う?」
「わたし……ですか?」
 伊勢崎さんは急に指名されて、少し驚いたように目を丸くした。それから、再びゆるゆると視線を落として、
「わたしはただ……もうこれ以上、何も起こらなければ、と。何も起こらないなら、何だっていいんです」
 詰まるように喋って、それだけで黙り込む。彼女の言葉はこの場にいる全員の総意でもあった。
 伊勢崎さんはあまり積極的に発言するような人じゃないけど、だからこそ喋ったときには、彼女の一言は場の空気に強く影響してくると思う。僕たちは何となく発言しづらくなって、黙り込んでしまった。
 犯人からのメッセージ。『熊切千早の監禁部屋にて待つ』。これをどう解釈すべきか。
 僕としては、これはほとんど直感だけれど、乗ってみてもいいような気はした。これは罠じゃない。何となくだけど、そんな気がする。
「実を言うとね」
 場の緊張を破ったのは、霧乃だった。
「ぼくにはもう、事件のだいたいの流れは読めてるんだよ。第一の事件、第二の事件、第三の事件。それから、消えた御代川さんの死体や、不可能なはずの客室への侵入、昨日の火事についても……。この事件を解くには、たった一つの方法しか考えられないんだよ」
「何だと……。まさか、犯人が分かったっていうのか?」
 守屋さんが霧乃に視線を向ける。つられて、僕と伊勢崎さんも霧乃を見やった。
 彼女は静かに、そしてはっきりと頷いた。
「ぼくの推理が正しければ、このメッセージは罠じゃない。そこへ行けば、きっとこの事件のすべてが解明される。それでも、やっぱりこのメッセージを無視する?」
「……………………」
 守屋さんはテーブルに肘を突いて両手を組み、俯いた。無視するかどうか、迷っているというふうだ。
 しばらくの沈黙。
 やがて彼は顔を上げると、厳粛に言った。
「じゃあ、このメッセージの場所へ行く前に、あんたの推理ってやつを聞かせてもらおう。そして、その推理に全員が納得したら、このメッセージは罠じゃないと信用する。三人とも、それでいいか?」
 守屋さんは霧乃、僕、伊勢崎さんの順に視線を巡らせた。僕たちは三人とも、静かに頷いた。
 最後に守屋さんが、力強く頷く。
「決まりだな。じゃあ、聞かせてくれよ。その推理ってやつをさ」
 守屋さんに促されて、東大寺霧乃は静かに話し出した。
「じゃあまず、一連の事件の論点について簡単に説明するよ。
 この屋敷で起こった事件が、大きく三つに分かれるっていうのはいいよね。まず、書斎で霧山朽葉が殺され、首を斬られていた第一の事件。次に、御代川さんが毒殺された第二の事件。最後に、古橋さんが中央バルコニーから突き落とされた第三の事件。  
 この三つの事件には、それぞれ特徴的な謎があるんだよ。第一の事件では、犯人はどうして霧山朽葉の首を斬り落とし、頭部を隠蔽したのか。第二の事件では、犯人はランダムに交換された毒入りの食器からどうやって自分の身を守り、かつ御代川さんを殺害したのか。第三の事件では、そもそもどうやって犯行を成し遂げたのか。ぼくたち四人には全員にアリバイがあったし、第三者の可能性も考えにくい。かといって、古橋さんの自作自演=古橋さんが犯人という説は、古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡という図式が完璧で、崩す余地がないから否定される。じゃあ擬似的な密室状態だった屋敷の二階で、犯人はどうやって犯行を成し遂げたのか。
 三つの事件に関する大まかな謎はこのくらいだよね。ここまでは、いい?」
 霧乃はそこで言葉を区切って、他の三人の顔を見回した。それぞれが神妙な表情で頷く。
「じゃあ、ここからは謎解きに入っていくよ。
 この事件の中で一番特徴的なのは、やっぱり第三の事件だよね。常識的に考えれば不可能な、密室状態の中での犯行。この一連の事件を解く鍵は、この第三の事件に詰まっていると言っても過言じゃないんだよ。
 確かに、密室状態での犯行というのは一見、不可能に見える。でも、犯行が起こったからには、どこかに抜け道があるはずだよね。そして、この抜け道の可能性が限られているという意味では、密室状態での犯行ってのは意外と脆いんだよ。全員に犯行が可能だった第一の事件、第二の事件に比べれば、この第三の事件は犯行の可能性が限られている分、考えやすい――。だから、この屋敷で起こった一連の事件を解き明かすには、第三の事件から考えていくのが正解なんだ」
「そんなこと言っても」
 僕は反論した。
 古橋さんが二階の中央バルコニーから突き落とされた第三の事件では、犯行当時、僕たち四人――僕、霧乃、守屋さん、伊勢崎さん――は全員、屋敷の一階にいたのだ。すなわち、ちゃんとしたアリバイがある。それに、この屋敷に僕たち以外の誰かが潜んでいて、そいつが古橋さんを突き落とし、僕たちの隙をついて逃げたというのも、考えにくいとして否定されたはずだ。そのうえ、古橋さんの自作自演説だって、さっき霧乃が言ったように否定されている。あの人は確かに海に落ちたし、確かに泳げなかったし、だったら結果として確かに死亡してしまうのだ。
 しかし、霧乃は首を振った。
「ぼくたちはそこで、もう一つの可能性を考え忘れていたんだよ。確かに、第三の事件では、ぼくたち四人にきちんとアリバイがあった。でもあの時、実は一人だけ、犯行が可能だった人物がいるんだよ」
「犯行が可能だった人物……?」
「そう。堂々と二階にいて、堂々とアリバイがなくて、にもかかわらず、ぼくたちが見逃してしまった人物――」
 霧乃は全員の顔をゆっくりと見渡して、種明かしのように彼女の名前を口にした。
「御代川さんだよ」


 御代川姫子――。
 まさか、彼女が?
「迂闊だったよね。守屋さんがせっかく、ヒントになるようなことを言ってくれたのに。『犯人が自分は死んだと見せかけて姿を隠し、影で犯行を重ねていた、なんて話は腐るほどある』って。古橋さんに目が向くあまり、ぼくたちはもう一つの可能性に気付けなかったんだよ」
「御代川さんは――御代川姫子は、実は生きていた?」
「そうだよ。思い出してみて、第二の事件があったときのことを。状況が状況だけに、ぼくたちはつい騙されてしまったんだけど、あの時、ぼくたちは実際に御代川さんが死んでいることを確かめていないんだよ」
 思い出す。
 第二の事件の現場。御代川姫子の部屋。
 僕と守屋さんで体当たりして鍵の掛かった扉を開け、倒れ込み、手元に『第二の犠牲者』という紙が落ちていることに気付いた。
 あの時、真っ先に倒れていた御代川さんに駆け寄ったのは――古橋さんだ。
 古橋さんは御代川さんの身体にあちこち触れ、僕たちに「死亡している。処置なしだ……」と告げた。そしてその後、この部屋には御代川さんを毒殺した仕掛けがあるかも知れないと言って、「とにかく、この部屋は危険だ。すぐに出た方がいい」と僕たちを部屋から出るように促した……。
 考えてみれば、僕たちは御代川さんが死んでいることを、実際に確かめてはいないのだ。
 でも、だったら古橋さんはどうして――。
「多分、御代川さんは古橋さんを抱き込んだか何かしたんじゃないかな。『この中に犯人がいるに決まっているんだ。犯人を見抜くために、ここは一つ芝居を打とう』とでも言ってね。古橋さんは医学者でもあったし、リーダーシップを取ってもいたから、その役には打ってつけだったんだよ。結局、古橋さんはその話に乗せられ、結果としてぼくたちに嘘をつく形になったんだ。 あらかじめ打ち合わせしていた通り、御代川さんは夕食後に自分の部屋に戻った。その後、古橋さんはぼくたちを連れて彼女の部屋に向かい、御代川さんは死んでいると嘘をついた。御代川さんが自分の部屋に戻らないといけなかった理由は、言うまでもなく、大広間で倒れたら演技だと気付かれちゃうからだよ。
 第三の事件で、休憩時間のときに古橋さんが二階に行ったのも、それが理由。なかなか降りてこない御代川さんが、もしかしたら本当の犯人に襲われたんじゃないかと心配になったんだろうね。実は生きていた御代川さんは、逆に古橋さんを襲って気絶させ、中央バルコニーから突き落としたんだ。そして彼女は、古橋さんの悲鳴を聞いたぼくたちが、四人で中央バルコニーに駆けつけた隙を狙って、階段を降り、一階のどこかに身を潜めた。ぼくたちがその後で二階を捜索したとき、御代川さんの死体がなくなったと思ったのは、そういうわけ。
 あと、これは余談だけど、ぼくがこの着想を得たきっかけは、実は第三の事件じゃなくて第二の事件だったんだよ。ゆぅくんと守屋さんは覚えてるでしょ? 鍵の掛かった扉を体当たりで破って、室内に倒れ込んだ――。その時、自分たちの手元に『第二の犠牲者』という紙が落ちていたことを。でも、よく考えたらそれは変なんだよ。あの部屋の鍵は御代川さんしか持っていないし、マスターキーはこの大広間のボックスの中にあって誰も手出しできない――。それなのに何故、『第二の犠牲者』の紙は、鍵の掛かった部屋の中にあったのか。となると、これはもう、御代川さんが自分でその紙を作って、自分で部屋の中に置いた以外に考えられないんだ。すなわち、少なくとも第二の事件は、御代川さんの自作自演によるもの――。だから、もしかして御代川さんは死んだふりをしているだけで、実は生きているんじゃないかって思ったんだよ。多分、あれを部屋の中に置いちゃったのは御代川さんのミスだろうね」
 そういえば、確かに……。
 そもそも、部屋の中に『第二の犠牲者』の紙がある時点でおかしいのだ。客室には鍵が掛かっていて、その部屋の使用者以外は、誰も中に入ることが出来なかった。それはもちろんのこととして、たとえ犯人が中に入れたとしても、犯人はそんな紙を置くことが出来たはずがないのだ。
 何故なら、夕食の食器類はランダムに交換されたのだから。
 たとえ夕食に毒を盛ったとしても、犯人はあらかじめ誰が死ぬのかを予測することなんて出来なかった。それなのに、何故か御代川さんの部屋には『第二の犠牲者』という紙があった――。
 その時点で、僕たちは気付くべきだったのだ。
 これは、おかしいと。
「しかし、じゃあ結局、昨日の夕食には毒なんて入ってなかったってことか……」
 守屋さんが脱力したように呟く。霧乃は頷いてみせた。
「そういうことになるね。すべては御代川さんの自作自演だったんだから。そもそも、普通に考えれば不可能なんだよ。区別が付かない毒入りの食器をランダムに交換して、それでも自分は安全圏にいるなんて。不可能なら、問題設定の方が間違ってる。そう考えるべきなんだよ」
 ね、ゆぅくん? そう言って霧乃は僕に横目を流し、かすかに微笑んだ。
 ――図式が崩せないなら、問題設定を崩せばいいんだ!
 それは僕が昨夜、火事に見舞われた部屋で叫んだ言葉だった。
 この事件もそうだ。与えられた問題設定を崩さなければ、絶対に解けない。
「でも、だったら第一の事件は?」
 僕は尋ねた。
「第二、第三の事件はそれで何となく分かったけど、まだ第一の事件で霧山朽葉の首が斬り落とされていた理由が分からないよ。御代川さんは何のために、首を斬って頭部を隠したんだ?」
「蛇、だよ」
 霧乃の答えは簡潔だった。
「この一連の事件は、すべてが霧山朽葉の小説『死者の館』に見立てられているっていうのはいいよね。ゆぅくんは読んでないから分からないかも知れないけど、あの小説では第一の事件は絞殺だったんだよ」
「絞殺?」
「そう。正確には、背後から殴って被害者を気絶させ、そのうえでロープで首を絞めたんだけど……。問題は、そのロープだった」
 ロープ。細長い紐。
 それはまるで、蛇のような形……。
「御代川さんは絞殺という手段を使えなかったんだよ。ロープじゃなくてもいい。電気コードでも何でも。とにかく、人を絞殺するには細長い紐が必要不可欠なんだよ。でも、御代川さんは電気コードを蛇を見間違えて発狂しちゃうような人。到底そんなものを握って人を殺すことは出来ない……。だから多分、御代川さんは霧山朽葉を、絞殺じゃなくて撲殺したんだと思うよ。棒か、あるいは鈍器か何かで。
 でも、まだ問題が残った。一連の事件を『死者の館』に見立てるつもりなのに、第一の犠牲者が絞殺じゃなくて撲殺されていたら、どうしても目立ってしまう。そして、犯人はどうして絞殺しなかったのかと考えられたら、紐を握れない自分が犯人だと感づかれてしまう……。だから、御代川さんは霧山朽葉の首を斬って、頭部を隠蔽したんだよ。殺害方法を分からなくして、ぼくたちの注意を逸らすためにね」
「そうか……」
 確かに、それだったら筋が通っているように思えた。第一、第二、第三の事件の辻褄も合う。
 だが、しかし――。
「じゃあ、最後にもう一つだけ。昨日の火事は一体何だったんだ? あれも、屋敷に隠れていた御代川さんがやったんだろ? でも一体、何のために。やっぱり、僕と霧乃を殺害するため?」「多分ね。みんな部屋に鍵を掛けたうえ、バリケードまで作っていたから、他に殺害方法がなかったんだよ。だから、ドア周辺に灯油か何かを撒いて火をつけ、部屋ごとぼくたちを焼き殺そうとした――。もっとも、この計画は失敗したみたいだけどね」
「いや、待てよ」
 守屋さんが口を挿んだ。
「そんな火事、霧山朽葉の『死者の館』じゃ、どこにも書かれてなかったぜ? この屋敷で起こった他の事件は全部、あの『死者の館』通りに見立てられているってのにさ。どうして最後になって、御代川姫子は見立てをやめて、火をつけたんだ」
「さぁ……それは御代川さんに訊いてみないと、ぼくにも分からないけど。そのためにも、このメッセージの示す場所に行ってみよう、って言ってるんだよ」
 そこで霧乃は口をつぐみ、僕たち全員をぐるっと見回した。自分の推理に納得したかどうか、尋ねているようだった。
 僕はもちろん、納得だ。
 何となくではあるけれど、事件の全貌が見えた気がした。第一の事件の首斬りの理由も、第二の事件の毒殺の謎も、第三の事件の密室状態での犯行も。今、霧乃が喋った通りならば、全ての辻褄が合う。
 守屋さん、伊勢崎さんも表情にこそ出さないが、異論はないようだった。
「良し。だったら、東大寺さんの推理を信じてみることにするか」
 守屋さんが三人の意見をまとめるように言う。
「広間に置かれていたこの紙――『熊切千早の監禁部屋にて待つ』ってやつに、乗ってみようじゃねえか。もっとも、そのためには熊切千早の監禁部屋ってのがどこなのか、突き止める必要がありそうだけどな」
「それ、きっと僕と霧乃の部屋だと思いますけど……」
 と僕。
「僕たちの部屋には、熊切千早が使っていたと見られる品が色々とあったんです。人形とか、ノートとか、玩具とか……。きっと、熊切千早はあそこで監禁されてたと思うんですよ」
「ふぅん。でもな、あの部屋は火事ですっかり燃えちまったじゃねえか。熊切千早の監禁部屋にて待つ、っても、あそこには黒焦げの残骸くらいしか残ってないぞ」
「そうですけど……」
「あの部屋じゃないよ」
 僕たちが考えあぐねていると、霧乃が横から口を出した。
「だって、普通に考えて、あんな場所に子どもを監禁するわけがないもん。いくら鍵を掛けて、他の人が立ち入れないようにしていたとしても、部屋の中で泣き声を立てれば外にバレちゃうよ。でも実際は、熊切千早の存在は噂程度でしかなかったんだよね?」
「ええ、そうです」と伊勢崎さん。「熊切千秀があまりに頻繁にこのお屋敷を訪れるものですから、ひょっとして、という程度でした。実際に姿を見たとか、声を聞いたというようなことは、一度も……」
「ふぅん。じゃあ、熊切千秀ってどういう名目でこの屋敷に来ていたの? 実際は隠し子の世話かも知れないけど、表向きの名目があったんでしょ?」
「ええ。それは、仕事のため、と……」
 伊勢崎さんの言葉に、霧乃はにやりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、もう分かったようなものだね。熊切千秀は歴史小説家。そんな人が仕事で使って、閉じ篭もるような部屋と言えば――」
「書斎、か」
 僕が後を引き継いだ。
「そう。だからきっと、書斎のどこかにあるんだよ。熊切千早の監禁部屋につながる、隠し通路のようなものがね」


 一日ぶりに訪れる書斎は、臭気に満ちていた。   
 臭いの発生源は言うまでもなく、霧山朽葉――いや、霧山朽葉だったモノ、だ。腐食の進行を抑えるために、書斎では昨日から冷房を全開にしていたが、それでも時間が経てば死体はどうしようもなく腐る。人間と物体の境目を実感した瞬間だった。首斬り死体に毛布が掛けられていて、その哀れな姿を直視する必要がなかったのが、唯一の救いだろう。
 そうして誰もが顔をしかめながら探索を行った結果、ついに発見した。 
 書斎の隅の床板に、かすかに継ぎ目が見える。その床板を持ち上げてみると、地下へと続く穴がぽっかりと口を開けていたのだった。
「隠し通路……熊切千早の監禁部屋は、この先にあるってのか?」
 守屋さんの独り言めいた呟きに、霧乃が黙って頷いた。
「この先の地下室に、熊切千早はずっと閉じ篭められていたんだよ。生まれてから何年も、あるいは、何十年も……」
 四角形の穴の大きさは、人間一人がなんとか通れるほどのものだった。剥き出しのコンクリートの壁に取っ手が無数に取り付けられていて、僕たちはそれを梯子として地下へ潜っていった。潜れば潜るほど闇は濃くなり、空気が冷たくなっていくようだった。
 どのくらい潜っただろうか。
 先頭を行く守屋さんが「着いたぞ」と息を潜めて言った。狭くて暗い空間に、その声は何重にも反響して聞こえる。やがて、僕たちも地下の地面に降り立った。
 真っ暗で、そして狭い。
 地下の印象はそれに尽きた。視界はほとんどゼロで、上を見上げれば、地下への入り口の四角形が太陽になっている。また、地下は天井が低く、高さが二メートル程度しかないため、ひどく圧迫感を覚えた。
「どうやら、地下道が続いてるみたいだな……。部屋はこの先か」
 守屋さんが携帯していたペンライトで、地下に明かりを提供してくれた。地面が円形にぼんやりと照らし出される。
 監禁部屋へと向かう地下道は、真っ直ぐ続いているらしかった。
 互いの横に並んで歩けるほどの広さはないので、しぜん隊列を組んで一列で進むことになる。守屋さんが先頭、その次に霧乃、僕、伊勢崎さんの順で、奥を目指す。ペンライトがあるとはいえ、ほとんど何も見えないので、僕たちは互いに手をつないで進んだ。右手には霧乃の手、左手には伊勢崎さんの手。心なしか、霧乃の手の方が力が篭もっている気がした。 
 こつ、こつ、こつ……とコンクリートの地面を踏む四人分の足音が、壁に反響して聞こえる。閉ざされた地下道ではあるが、空気はたいして外と変わらない気がした。恐らく、換気口が無数に空けられているのだろう。
 霧乃の手に引かれ、伊勢崎さんの手を引いて進む。
 どのくらい進んだか、先頭の守屋さんが「扉だ……」と呟いて、歩みを止めた。霧乃の肩越しにペンライトの照らす先を覗いてみれば、そこには確かに扉が立ちはだかっていた。錆び付いた鉄製の扉に、無骨なドアノブが付いている。まるで監獄の入り口のようだった。
「多分、この扉の先が監禁部屋だ。何が待っているのか知らんが、中にはきっと何かがあるんだろう」
 守屋さんが僕たちを振り返る。
「だが、気を付けろよ。犯人――御代川姫子が招待したってことは、何か妙な仕掛けがあるかも知れん」
「こんな狭い地下室だから、大がかりな仕掛けはないと思うけど……」
 霧乃が言う。
「毒針くらいはあるかも知れないから。みんな、不用意に壁に手を触れちゃ駄目だよ。それから守屋さん、ノブを回す役は危険だから、ぼくが代わるよ。ここに来ようって言ったのは、ぼくだからね」
 そう言って、霧乃は半ば無理やり守屋さんと位置を交代してしまった。その勇気に、僕は少し感心する。どうだろう。もし僕が霧乃の立場に置かれていたとして、自ら危険な役を請け負うだけの勇気は、あるだろうか。
 そんなことを考えている間に、霧乃はノブに触れ、そしてゆっくりと回した。鍵は掛かっていない。ノブはすんなりと回り、鉄扉が開かれる。
 霧乃は鉄扉を完全に開け放つと、「中に入ろうよ」と僕たちを促した。
 その部屋の中は、思ったよりも広かった。
 高さがないのは地下道と同じだが、部屋の入り口から寝室までの狭い通路を経ると、奥は広々とした空間が広がっていた。ちょうど、僕たちの客室と同じような造り・広さだ。ただし、蛍光灯が切れているため、中は真っ暗だったが。
「お風呂やトイレも、一緒にあるみたい」
 霧乃が入り口付近にあった扉を開いて、中を確認している。きっと、その中がバスルームになっているのだろう。僕たちの客室とまるで一緒だ。
 違うのは、外の風景を楽しめるガラス戸や窓が皆無であること。それから、部屋がコンクリートの打ちっ放しであること。床も壁も天井も、冷たいコンクリートが剥き出しだった。まるで牢屋ですね、と伊勢崎さんが小さな声で呟いた。
 この部屋で、熊切千早は何年という時を過ごしたのだろうか。
「それより、ここに一体何があるってんだよ」
 守屋さんがペンライトを振り回している。
「あの紙によると、ここに何かがあるんだろ。犯人か、それに近い何かが」
 そう言って、守屋さんはペンライトを片手に部屋の奥へと進んでいった。客室と造りが同じなら、多分あそこがリビング兼寝室なんだろう。薄明かりに、ベッドが照らされて見える。
 ペンライトが、そのベッドを掠めたときだった。
 そのベッドの上に一瞬、人の身体のようなものが映った……気がした。
「守屋さん。今、そのベッドの上に――」
 僕が全てを言う必要はなかった。守屋さんはその場で固まったように、動けないでいたからだ。多分、彼はそこにある何かを発見したのだろう。
 ゆっくりと、ペンライトがその人間の身体を映し出す。
「あったぜ……。これ」
 押し殺した声に、バスルームにいた霧乃や、伊勢崎さんも守屋さんに注目する。
 暗闇の中、ペンライトの明かりが映し出すものは――、
「もう、死んでる……」
 御代川姫子の、青白い顔だった。
 霧乃が弾かれたように、寝室のベッドの元へと駆け寄っていく。彼女は臆することなく、その身体にぺたぺたと触ると、
「まだ温かいね。死んでから、まだそれほど時間が経ってないよ。やっぱり、御代川さんは昨日の夜の時点では生きていたんだ」
「じゃあ、これは……」と僕。「どうして、今は死んでるんだよ」
「多分、自殺だな」
 霧乃の代わりに、守屋さんが答えた。見ろよ、と言って、ペンライトでベッド脇のサイドボードを照らしている。そこには、注射針らしきものと、手書きの文字でびっしり埋め尽くされたコピー用紙が数枚置かれていた。
 遺書……なのだろうか。
 ふっ、と誰かが鼻で笑うような声がする。
 笑いを抑えているような、どこか状況を愉しんでいるような。
 それは、東大寺霧乃だった。
「これで本当に、犯人がはっきりしたってわけだね」
 彼女はそう言って、口もとに笑みを含んだ。
 その犯人――御代川姫子の遺書には、こう書かれていた。


 願わくば、この遺書が永遠に発見されないことを。そして、私の持つ記憶のすべてが、この紙の中に封印されたまま朽ち果てることを。
 前書きとしてそう書いておきながら、このようなものをしたためる心境は妙なものです。私はこの遺書を誰かに発見してもらいたいのか、あるいは発見されずに朽ち果てることを祈っているのか。
 それは、隠れん坊をしているときの心境に近いのかも知れません。
 見付かりたくないが、見付けて欲しい――。
 もっとも、私は生まれてからずっと小部屋に閉じ篭められて育ったので、隠れん坊をやったことは一度もないのですが。
 隠れん坊ばかりではありません。
 私は鬼ごっこも、缶蹴りも、ドッジボールも、あらゆる遊びという遊びをしたことがありませんでした。十何年も薄暗い部屋に閉じ篭められ、他者と交わる機会が与えられなかった私に、そんな遊びが出来るはずもなかったのです。ただ情報としてのみ知るそれを、私は暗い部屋の中でうずくまりながら、ひそかにやってみたいと願うばかりでした。しかし、この遺書があなたに読まれているということは、私は一度の遊びの機会も持てずにこの世を去ることになったようです。残念だ、と私の死体は考えているのでしょうか。
 白状すると、この遺書を書いている今は、私の計画はまだ実行に移されていない段階です。瀬戸内海の天上島、霧山朽葉の別荘――そこで起こったであろう惨劇を、私はまだ見ていないのです。故に、私は瞼の裏にその惨劇の様子を想像するほかありません。私はそこで一体誰を殺し、どの程度まで計画を遂行できたのでしょう。殺人の想像は、私を静かな興奮に導くようです。それは他者を殺すという昂りであると同時に、自らをも殺すという昂りであるようにも感じます。計画を完遂したにせよ、途中で頓挫したにせよ、私はこの屋敷で果てるつもりでいましたから。
 動機についても触れて置かねばならないでしょう。
 私はどうして、このような殺人を犯すに至ったのか。
 実を言うと、自分でもよく分からないというのが正直なところです。日々を監獄のような部屋の中で延々と繰り返しているうち、私の中に殺人の衝動とでも呼ぶべきものが、徐々に降り積もっていった、というのが一番正しいのかも知れません。一滴、一滴と毒を垂らすようなそれは、いつしか私を狂気へと染め上げたのです。そして、いつからだったか、私はこの人生の最期を、殺戮の果ての自殺という形で迎えようという思想を抱くようになりました。それが、私にとってもっとも相応しい最期であるように感じられたのです。
 今になって冷静に自己分析を行えば、私はただ自己というものを主張したかっただけなのかも知れません。
 生まれて以来ずっと部屋に閉じ篭められ、他者と接触せずに生きてきた――。
 そのような、およそ生者と呼ぶに値しない私であっても、せめて最期の一瞬くらいは生きる者として他者に認められたい。社会に、私という人間の存在を訴えたい。この天上島で起こったであろう殺人劇は、いわば私の最期の叫びであったのかも知れません。
 天上島でのこの企画を利用しようと思ったのにも、やはりそれなりの事情はありました。
 ふとしたことから手に取った小説『死者の館(上)』を読み、巻末でこの企画を知ったとき、私はかねてから考えていた殺人幻想の実行を思いついたのです。この小説と同じような舞台で、同じような方法で殺人を重ねていく――。その劇的な殺人は、私の最期として相応しいものであるように感じました。
 そのような私の考えは、この天上島の屋敷に隠された秘密を知ったとき、確定的なものとなりました。殺人計画を立てるため屋敷のことを調べているうち、奇しくも、この屋敷で少女が監禁されていたという事実を知るに至ったのです。

 私とまったく同じ境遇に立たされていた少女――。

 その時の私の心境を、理解してもらえるでしょうか。
 私は、ここしかないと思いました。この屋敷で――出来ることなら、その少女がかつて監禁されていた部屋で――私は最期を迎えるのだ、と。『死者の館(上)』の暗号を解いて企画に応募した結果、参加決定の通知が届いたとき、私は運命の存在を確信しました。このようにして、私は自らの殺人幻想を、この屋敷で具現化することになったのです。
 もっとも、今まで書き連ねてきたような事情は、すべてが個人的なものに過ぎません。いくら言葉を重ねたところで、私には罪の赦しを請う資格すら与えられ得ないでしょう。だからこそ私は沈黙し、その代わりに遺書という形で、あなたに真実を託すことにしたのです。
 最後に――。
 願わくば、この遺書があなたの手によって発見され、読まれることを。そして、私の持つ記憶の一端でもが、他者の心に深く根付き、永遠に時を刻み続けることを。

 生きる者であるために 
 御代川姫子



 第六章 生きる者であるために 


 犯人である御代川姫子が死亡したため、天上島の三日目、四日目は何事もなく過ぎていった。心穏やかとは間違っても言えないが、これ以上は何も起こらないという確信が、僕たちの間に静かな安心感を与えてくれているようだった。
 四日目の昼、予定通りにやって来た帰りの船に乗り、僕たち四人は無事本土へと戻った。そして、それと同時に、天上島での惨劇が世に知られることとなったのだ。
 いや、世に知られるという言い方には語弊がある。
 実際のところ、天上島での惨劇は、その異常に高い猟奇性のあまり報道規制が敷かれ、広く一般に公開されることはなかったのだ。ただの噂として、霧のようにインターネット世界に拡散するのが限界だった。故に、僕たちのプロフィールが世に出回ることもなく、妙な噂が立つこともなかった。
 本土に戻ってからは連日、取り調べとカウンセリングの嵐だった。
 事件の詳細を飽きるほどに語らされ、かと思ったらよく分からない心理療法(その実態は何だか洗脳じみていた)を受けさせられる、そんな毎日。僕と霧乃と守屋さんは比較的心理的ダメージが小さいということだったが、伊勢崎さんはPTSDがどうのということで、しばらく入院することになったらしい。かくいう僕も、家のような閉じ篭められた空間に一人でいると、胃の底がざわめいて気持ち悪くなるという後遺症に悩まされる羽目になったのだけれど。
 また、これは取り調べの最中に聞いた話だが、僕たちが本土に戻った後、天上島の屋敷は大規模な火災に見舞われたらしい。御代川さんの放った火がどこかで燻っていて、再び燃え出したのだろうということだった。
 結局、屋敷は全焼。
 焼け跡からは、二人分の女性の遺体が見付かった。そのうち一つは、地下室にあったため燃えずに済んだ、御代川姫子の死体。そしてもう一つの死体は、完全に焼けて骨だけになってしまったため本人確認が困難だったが、僕たちの証言や、その死体に首から上がないことなどから、霧山朽葉の死体であると断定された。海に突き落とされて溺死したとみられる古橋さんの死体は、いまだ捜索中だが、見付かる可能性は低いとのことだった。
 二人の死者と一人の行方不明者を出した天上島の事件は、火災による屋敷の焼失をもって幕を閉じた――。
 それはひょっとすると、それはこの事件の終わり方として最も相応しかったのかも知れない。御代川姫子の遺書にあった通り、この事件は屋敷の焼失とともに闇に葬り去られ、しかし同時に僕たちの心に深く刻み込まれたのだから。
 僕は不思議と、御代川姫子に対して怒りのような感情を抱くことはなかった。
 僕の心に残ったのは、御代川姫子という人間の存在であり、その生に対する哀しみだった。
 とにかく、これで事件は終わったのだ。

 本土に戻ってから一週間後、ようやく拘束を解かれた僕は、同じマンションに住む東大寺霧乃の部屋を訪れていた。

 八月は、二十日。
 夏休みも残すところわずかというその日も、朝から殺人的に暑かった。久々に拘束を解かれた僕は、自分の部屋でクーラーをつけて一日中のんびりする予定だった。事実、キャンセルした信州旅行をせめて雰囲気だけでも味わおうと、僕はベッドに寝そべって、朝っぱらからるるぶを広げていたのだ。
 しかし、一人でいるとどうにも落ち着かなかった。
 それは東大寺霧乃が恋しいとかそういう理由ではなくて、もっと無機的なもの。あの屋敷での出来事は、それなりに僕の心にも傷を残していたのだ。一人でいると、部屋の扉が音もなく開いて、隙間から何者かが顔を見せるような……そんな、気味の悪い妄想に取り憑かれてしまう。結局、僕はるるぶを眺めるのを中断して、誰か友達のところへ遊びに行ってみよう、と思い立ったのだった。
 そして何故か、真っ先に思い浮かんだのが東大寺霧乃だった、というわけだ。
 実を言うと、霧乃とはここ数日間、あまりじっくりと話をしていなかった。お互い、警察やその他の機関に身体を拘束されていたから、というのがその理由だ。だから、事件のことが一段落した今、もう一度きちんと霧乃と話をしてみようと思い立ったのだ。
 高級物件が並ぶマンションの高層階、果たして戸口に出てきた霧乃は黒のタンクトップ姿だった。
「あ、ゆぅくん。いらっしゃい」
 眠たげな瞳はいつものままに、僕を見上げてわずかに頬を弛める。やっぱり一応、歓待されているらしい。
 霧乃に部屋の中へ通されながら、尋ねてみた。
「その格好、どうしたのさ。いつもは一日中パジャマ姿で過ごしているくせに」
 霧乃の普段着は暖色系のゆるふわパジャマなのだ。さすがに天上島にいたときは普通の格好をしていたが、あれは旅行へ行くに先だって、二人でショッピングモールへ行ったときに買った服なのだ。それまで、霧乃はパジャマ以外の服を所持していなかったはず。
 それが何故か、今日は涼しげな黒色のタンクトップ姿。ボトムスはキャメルのショートパンツだった。露出している白く細い手足に、何となく目が行ってしまう。
「んーと、ね」
 霧乃は唇に人差し指を当てて考え込み、
「向こうにいたときは、普通の格好だったでしょ? それで、夏場は長袖パジャマより、こっちの方が涼しいって気付いたんだよ。だから、今日はこんな格好なのです」
「……そうなのですか」
 世の常識を再発見! みたいな感じなのだろうか。天才の資質はよく分からない。
「あ、そうだ。ゆぅくん、せっかくだから何か食べてく? もうお昼だよ」
「うん……そうだな。霧乃の迷惑にならないなら」
 そう答えると、霧乃は「じゃあ、こっち」と言って、本に埋もれた寝室とは反対側の扉を開け、中に入っていく。そういえば久々に寝室以外の部屋に入るなぁ、と思いながら、僕も部屋の敷居を跨ぐ。
 霧乃に通されたそこは、リビングルームだった。板敷きの床に地味なカーペットが敷かれ、その上にこれまた地味なコタツ机が一つだけ。ソファがなければ液晶テレビもなく、ごみ箱すらない、実に生活臭のしない部屋だった。本にばかり興味が集中している霧乃は、その他のものには一切拘らない性格なのだ。
 霧乃は「涼しく、そうめんでも食べよう」と宣言してキッチンの方へ向かい、僕は漠然とリビングルームに取り残された。
 コタツ机の上には、文庫本が山となっていた。そのタイトルと言えば『獄門島』、『黒死館殺人事件』、『斜め屋敷の犯罪』、『十角館の殺人』、『孤島パズル』などなど……何やら物騒なタイトルばかりだ。何なんだこれは。
「国内のは今日までにだいたい再読し終わったから、明日からは海外編だよ」
 やがて、皿や食器類を運んできた霧乃は、僕の視線に気付いてそんなことを言う。
「サスペンスと謎が融合する展開、世界に引き摺り込まれるような独特の感覚、それから綺麗にまとめ上げられるロジック……。やっぱり、クローズド・サークルはミステリの花形だよ、ゆぅくん」
「あぁ、そう」
 ついこの間まで、その渦中に放り込まれていたというのに。僕は改めて、こいつが常識外の世界に生きる人間であることを悟った。霧乃はまだ新本格的推理がどうといった話をしていたが、僕は耳を閉ざし、ひたすらそうめんを啜った。
 クローズド・サークル――。
 その単語を聞くと、どうしても思い出してしまう。
 一週間前の、天上島での一連の事件。
 霧山朽葉の首斬り死体に始まり、夕食後に起こった第二の事件、古橋さんが突き落とされた第三の事件。消えた御代川さんの死体と、不可能なはずの客室への侵入。僕たちを襲った火事、隠された監禁部屋、御代川さんの遺書――。
 うん?
 思考に妙な引っかかりを覚えて、僕は箸を止める。
 何か今、おかしなことに気付いたような……。
 しかし、その一瞬の感覚はさざ波のように消えてしまい、正体を特定することは出来なくなる。
 どこだろう。
 僕はどこに、その引っかかりを覚えたんだろう。
 もう一度、思考を洗い直してみる。
 霧山朽葉の首斬り死体、御代川さんが自作自演した第二の事件、夕食に入っていなかった毒物、『第二の犠牲者』……。
 違う、そこじゃない。
 古橋さんが突き落とされた第三の事件、泳げなかった古橋さん、波間に消えていく彼女の身体、擬似的な密室状態での犯行……。
 違う、そこでもなくて。もっと別の……。
 第三の事件の後に行われた二階の捜索、消えた御代川さんの死体、変わっていた文庫本のページ数。不可能なはずの客室への侵入――。
 それだ!
 脳のシナプスに電流が走り、僕に引っかかりの正体を告げる。
 変わっていた文庫本のページ数。
 不可能なはずの客室への侵入。 
 これ、おかしくないか?
 御代川さんが犯人だったとしたら、彼女は一体どうやって、そして何のために僕たちの客室に侵入したんだ。
 一週間前、屋敷の大広間で聞いた霧乃の推理を思い出す。
 あの時、確かに霧乃は、第一の事件、第二の事件、第三の事件、そして消えた御代川さんの死体の謎について、明快な解答を示してみせた。
 しかし、だ。
 あの時、霧乃はこの謎については一切触れていなかった。
 御代川さんは一体どうやって、そして何のために僕たちの客室に侵入したのか。
 待て。
 これは一体、どういうことだ。
「おい、霧乃」
 僕は箸を置いて、コタツ机の正面に正座している霧乃を見やった。なぁに? と相変わらずのとろんとした眠気目で、霧乃が小首を傾げる。その雪のように白い顔に、僕は言った。
「いま気付いたんだけどさ、あの屋敷の事件で一つだけ、分からないことがあるんだ。多分、霧乃も見落としていた……。
 第三の事件の後のことだよ。あの時、僕たちは二階に隠れているかも知れない犯人を探すため、二手に分かれて屋敷の二階を捜索しただろ? そして、僕たちは自分たちの部屋に入り、霧乃の文庫本のページ数が変わっていることに気付いた……。つまり、あの部屋には何者かが侵入していたんだ。扉に鍵が掛かっていたのにもかかわらず、だ。
 しかも、あの部屋の扉を開ける方法は二つしかない……。正規の客室の鍵か、あるいはマスターキーを使うか。でも、正規の客室の鍵は僕が肌身離さず持っていたし、マスターキーはあの透明ボックスの中に確かにあった……。これは一体、どういうことなんだ。御代川さんは一体どうやって、そして何のために僕たちの部屋に侵入したんだ」
「あぁ、そのこと」
 霧乃はしばらく箸を止めて僕の話を聞いていたが、何でもないといった感じで答えると、再びそうめんを啜り始めた。
「ゆぅくん、ようやく気付いたんだね。ぼく、てっきり知りながら黙殺しているものと思ってたよ」
「待て。だから、それはどういうことなんだ……?」
「ぼくがみんなに話した推理で、その部分以外は一応収まりが良かったし、だったらそれでもいいかなーと思ってたんだけど。やっぱり、ゆぅくんは本当のこと知りたい?」
「本当のことって……。まさか、霧乃が屋敷で話した推理は、間違っていたというのか?」
「そうだよ」
 霧乃はあっさりと肯定した。僕は目眩がしてくる。
「待ってくれ。だったら……まさか、あの事件の犯人は、実は御代川さんじゃなかった、とでも言うのか。他に真犯人がいた、と」
 頭に混乱を来している僕に、霧乃は黙って頷いてみせた。
 そんな馬鹿な――。 
 あの事件の犯人は御代川さんじゃなかった、だと?
「あのね、ゆぅくん。あの事件の犯人が御代川さんじゃないってことは、ちょっと考えればすぐに分かるんだよ。
 まず、ゆぅくんが指摘したように、ぼくたちの部屋への侵入が御代川さんには不可能だったこと。それから、侵入しなければならない理由もなかったこと。  
 二つ目。御代川さんの取った行動が、いくらなんでもリスクが大きすぎること。古橋さんに、『犯人を見抜くため、ここは二人で芝居を打とう』なんて持ち掛けるのは、いくらなんでも危険すぎるよ。なにしろ、これとまったく同じ方法で、犯人が自分を死んだように見せかけた、超有名なミステリ小説があるからね。古橋さんがそのことに気付かなかったはずがないもん。
 その他にも、御代川さんがぼくたちの部屋に火をつけた理由がいまいちはっきりしないこととか、そもそも初めて訪れる屋敷であんな周到な殺人を実行できるわけがないとか、考えればおかしな点は色々と見付かるんだよ」
「待ってくれ」
 僕は頭を抱えた。
「だったら、一体誰が犯人なんだ。熊切千早か。謎の第三者が、やっぱりあの屋敷にはいたって言うのか……?」
「違うよ。落ち着いて考えてみて、ゆぅくん。
 ぼくは一週間前の屋敷で、この事件は第三の事件から考えるのが正解なんだ、って言ったよね。そう。第三者の可能性を考えないものとするならば、あの第三の事件には、可能性が二つしかなかったんだよ。
 すなわち、御代川さんが実は生きていて古橋さんを殺害したか、あるいは第三の事件は古橋さんの自作自演だったか。
 御代川さん=犯人説が否定されたとなると、残る可能性は一つしかないでしょ?」
「つまり、あの事件の犯人は……」
「そう。分かりやすく言えば、古橋さんだったってことになるんだよ」


 古橋さんが真犯人だった……?
 その事実は僕の頭を強烈にぶん殴ると同時に、無数の疑問をも提起してきた。
 古橋さんが霧山朽葉の首を斬り落とした理由は?
 古橋さんが御代川さんを毒殺した方法は?
 古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡という図式をどう崩すのか?
 古橋さんは一体どうやって、そして何のために僕たちの部屋に侵入したんだ?
「まぁ順番に考えていこうよ、ゆぅくん。
 まず、古橋さんの行動の裏には、すべて自分以外の誰かを犯人に仕立て上げようという意図があった。これを前提として考えていくんだよ。
 最初の謎は、第一の事件で霧山朽葉の首が斬られていた理由。一週間前ぼくは、これは御代川さんが蛇のような紐を握れなかったため、霧山朽葉を絞殺できず、殺害方法から自分が犯人だとばれるのを防ぐために、首を斬ったって説明したよね。でも実は、これは逆だったんだよ」
「逆だった……?」
「そう。古橋さんは間違って、霧山朽葉を『死者の館』の見立て通りに絞殺しちゃったんだよ。これはまずかった。何故なら、もし後で御代川さんを犯人に仕立てることになった場合、霧山朽葉が絞殺されていたら、御代川さんは絞殺できないという事実と食い違いが出てしまうから。だから古橋さんは、霧山朽葉は絞殺されたという事実を隠すために、霧山朽葉の首を斬り、頭部を隠したんだよ」
「そんな、騙し絵みたいな……」
 御代川さんが犯人だと仮定すれば、彼女は霧山朽葉を撲殺したという事実を隠すために首を斬ったという結論になる。
 古橋さんが犯人だと仮定すれば、彼女は霧山朽葉を絞殺したという事実を隠すために首を斬ったという結論になる。
 人間の心理とは、かくも不思議なるものか。  
「続いて、第二の事件。この事件で、古橋さんは誰を犯人役に仕立てるかを選別したんだよ。すなわち、当たりの食器を引いてしまった人が犯人役だってね」
「当たりの食器……。やっぱり、夕食時の食器には毒が塗られていたってことか?」
 でも、それではおかしい。
 あの時、僕たちは区別がつかない食器をランダムに交換したんだ。
 それだったら、犯人でさえも自分が毒を飲んでしまう可能性を回避できないじゃないか。
「ううん」
 霧乃は僕の考えを否定し、
「古橋さんには、自分で毒を飲む可能性なんてなかったんだよ。それでも彼女は、御代川さんを殺害することに成功した」
「そんな馬鹿な。だったら、あの人は一体どんな方法で……」
「毒、じゃなかったんだよ」
 霧乃の答えは簡潔明瞭だった。
「夕食の食器には確かに異物が塗られていた。でも、それは実は毒じゃなくて、ただの睡眠薬だったんだよ」
 睡眠薬……。
「古橋さんは確かに、自分で仕掛けた罠に自分で填ってしまう可能性を排除できなかった。区別できない食器が、しかもランダムに交換されたんだから。もしかすると、自分の使った食器こそが、自分が罠を仕掛けた食器なのかも知れなかった。
 でも、それが致命的な問題となるのは、仕掛けた罠が毒物だったらの話だよ。仕掛けたのが毒物じゃなくて睡眠薬だったら、もし自分が飲んでしまっても、ただ眠るだけで済む。だから古橋さんは、小さいリスクでこの計画を実行できたんだよ。もし自分が睡眠薬で眠ってしまった場合は、また何か別の方法を考えていたんだろうね。実際は、運悪く御代川さんが睡眠薬の食器を使ってしまったみたいだけど」
 僕はあの時の御代川さんの様子を思い出した。
 夕食の後、まだ午後七時だったにもかかわらず、休むと言って部屋に戻った御代川さん……。
 知らないうちに睡眠薬を飲まされていたんだとしたら、その行動にも説明はつく。
「でも、だったら、第二の事件が発覚して僕たちが御代川さんの部屋に入ったとき、彼女はやっぱり生きていたのか? ただ、眠っていただけで」
「そうだよ」
 霧乃はこくんと頷いた。
「もっとも、御代川さんは睡眠薬の作用で意識を失っていたけどね。睡眠薬ってのは色々種類があって、強力なものだと、ただ呼び掛けられたくらいじゃ起きなくなるんだ。まして、普段睡眠薬を使っていないような人が、いきなりそんなものを飲まされれば、睡眠どころか昏睡状態に陥る危険性だってある。御代川さんがぼくたちの呼びかけに答えなかったのは、そういう理由だよ。
 で、あのとき、眠っていた御代川さんに近づいたのが古橋さんだけだった、ってのは一週間前に説明した通りだよね。古橋さんは眠っているだけの御代川さんを検診して、死んでいるってぼくたちに告げ、早くこの部屋を出るように促した。結局、ぼくたちは御代川さんが実際に生きているかどうか確認しないまま、古橋さんの発言を信用してしまった。まぁ、部屋の中に『第二の犠牲者』っていう紙があったし、状況が状況だけに仕方ないけどね」
「うん? そういえば、その紙はどうなんだよ。あれも結局、古橋さんが用意したものだったんだろ?」
 でも、それじゃおかしい。
 『第二の犠牲者』の紙は、御代川さんの部屋の室内にあった。しかし、あの部屋には鍵が掛かっていて、御代川さん以外は中に入れなかったはずだ。古橋さんは一体どうやって、あの紙を室内に入れたのか。
 しかも、霧乃の説明によると、古橋さんは誰が睡眠薬入りの食器を使い、誰が眠るのかを断定できなかったはずじゃないか。それなのに、どうしてあの部屋には既に『第二の犠牲者』の紙が落ちていたのか。言い換えるなら、古橋さんはどうして二番目の犠牲者が誰なのかを予測できたのか。
「んーとね、そこらへんを説明しようとするとややこしくなるんだけど……」
 霧乃は少しだけ口ごもり、
「古橋さんはね、実はマスターキーを持っていたんだよ。あの屋敷の全部の部屋の扉を開けることが出来る、マスターキーを」
「そんな……」
 馬鹿な、と僕は続けた。
 マスターキーは、確かに大広間にあった。斧でも割れない超頑丈なボックスの中に、確かにあったんだ。ボックスは透明で中が見えていたし、マスターキーがそのボックスの中にあったのは間違いない。マスターキーが二つあったとでも言うのか。
「ううん」と霧乃は否定し、「マスターキーは、古橋さんが持っていた一つだけだよ。古橋さんが持っていたのが、正真正銘、本物のマスターキーだった。とすると、大広間のボックスの中にあったのが何かは、もう分かるよね」
「あれは、偽物だった……?」
「そう。鍵なんて、どれがどれなのか、外側から見ただけじゃ分かりっこないからね。適当な鍵に『マスターキー』って札でも付けておけば、それで事足りるよ。まして、ぼくたちはあのボックスを開けられなかったから、ボックスの中にある鍵が本物かどうかなんて確かめようがなかったしね」
「そうか……。いや、しかし待てよ。でも、だったらどうして古橋さんはマスターキーなんか持ってたんだ。あのボックスを開けるには、霧山朽葉しか知らない暗証番号が必要なんだぞ? 古橋さんはそれを知っていたとでも……」
「うんとね、それはもう少し後で説明することにするよ。とりあえず今は、古橋さんが本物のマスターキーを持っていたって事実だけを覚えておいて。
 で、話を元に戻すと、マスターキーを持っていた古橋さんは、それを使って御代川さんの部屋の鍵を開け、中に『第二の犠牲者』っていう紙を入れたんだよ。それが夕食の前、全員が大広間に集まるときのこと。あの時、古橋さんは夕食の席に遅れてやって来たでしょ?」
「そういえば、確かに……。でも、それでもまだ、古橋さんはどうして御代川さんが睡眠薬入りの食器を引くって予測できたのか、っていう疑問が残るよ」
「ゆぅくん、人の話はちゃんと聞こうよ。古橋さんは、睡眠薬入りの食器を誰が選ぶかまでは予測できなかった、ってさっき言ったでしょ?」
「でも、だったら……」
「誰が選ぶか分からないなら、誰が選んでもいいようにしておくまで、だよ。ゆぅくん。つまり古橋さんは、ぼくたち全員の部屋に、一時的に『第二の犠牲者』っていう紙を入れていたんだよ。誰が睡眠薬入りの食器を選ぶか分からないんだから、そうするしかないよね」
「そうか……。だとすると、僕たちの部屋に何者かが侵入した形跡があったのは」
「そう。古橋さんが『第二の犠牲者』の紙を置くために、ぼくたちの部屋の鍵をマスターキーで開けて、中に入ったからだよ。その時、古橋さんはうっかりぼくの文庫本を床に落として、証拠を残すような羽目になっちゃったけどね。
 さて、次にいよいよ第三の事件。古橋さんは第二の事件に関する議論が出尽くした適当なタイミングを見計らって、休憩にしようと言い出した。休憩時間になると、古橋さんは真っ先に二階へ向かったんだよ」
「そして、自作自演の悲鳴を上げて、中央バルコニーから海に飛び降りたわけだな?」
「違うよ、ゆぅくん……」
 霧乃は呆れたような目で僕を見て、
「古橋さんには、まだやっておくことがあったんだ。それがすなわち、全員の部屋に撒いた『第二の犠牲者』の紙の回収と、御代川さんの処理だよ。
 古橋さんはまず、全員の部屋の扉をマスターキーを使って開け、中にある『第二の犠牲者』の紙を回収した。それから、眠っていた御代川さんを手足を縛るか何かして、二階の別の客室に放り込んだ。マスターキーで、ぼくたちが使っていない二階客室のどれかの鍵を開け、その中に御代川さんを隠したんだよ。ぼくたちは扉を開けられないから、まずばれない。これが、御代川さんを犯人に見せかけるための行動だったってのは、言うまでもないよね。
 さて、すべての準備を終えた古橋さんは、中央バルコニーの観音扉に『第三の犠牲者』の紙を貼り付け、二階で自作自演の悲鳴を上げると、海に飛び込んだ」
「そこで、あの図式が問題になるわけだな。古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡……。実は古橋さんは泳げたとか、あるいは浮き輪をつけていたとか?」
「ううん」
 霧乃は静かに首を振った。
「そのどちらでもないよ。ただ、これについても説明は後回しにしたいんだ。とりあえず今は、古橋さんは海に飛び込んだ後、生きて屋敷に帰り着いたってことにしといて」
「ふぅん。なんだか、釈然としないな」
「古橋さんが屋敷に帰り着いた後の行動は、簡単だね。ぼくたちが寝静まるまで、どこかの部屋で身を隠す。そして、タイミングを見計らって二階へ向かい、どこかの客室で眠らせたままの御代川さんを、部屋から引き出した。そして、御代川さんを抱えたまま、一階の書斎から隠し通路の奥へと向かい、熊切千早の監禁部屋に辿り着く。そこで古橋さんは毒物を注射して御代川さんを本当に殺害し、偽の遺書を置いたんだよ。ついでに、大広間には『熊切千早の監禁部屋にて待つ』っていう例の紙を置いておいた。
 御代川さんを殺害した後、古橋さんは再び屋敷の二階へ戻り、ぼくたちの部屋の前に灯油か何かを撒いて放火した。それからは、あの人は屋敷のどこかの部屋に身を潜めていたんだと思うよ。なにしろマスターキーがあるんだから、どの部屋でも使いたい放題だからね。
 ……っていうような真相に、実はぼくは一週間前の時点で思い至ってたんだけど、みんなの前では言えなかったんだよ。ごめんね、ゆぅくん」
「どうしてさ。自信があるなら、堂々と話せばいいじゃないか」
「古橋さんが、どこかで聞いているかも知れないからだよ。自分が犯人だ、ってことがぼくに知られていると思えば、古橋さんはまだ犯行を続けるかも知れない。だから、そんな危険を冒すよりは、古橋さんが用意した偽の真相に騙されたふりをする方が、安全だなって思ったんだよ。ぼくたちに、犯人に仕立て上げた御代川さんの死体を発見させたってことは、古橋さんはこれで犯行を終わりにするつもりなんだろうなって思ったしね」
「ふぅん。なるほど……」
 僕にはとても頭の回らない考えだった。東大寺霧乃が天才の範疇に属する人間であることを改めて思い知り、ついでにどうしてその才能をもっと生産的な活動に使わないのかと改めて悔やむ。
「それで? まだ、後回しにしてきた謎が残ってるでしょ。古橋さんはどうしてマスターキーを手に入れられたのかってことと、古橋さんはどうして海に落ちて助かったのかってこと。その二つの謎は、どう説明するんだよ」
「うん。難しいのは、そこなんだよ。まぁ、マスターキーの問題くらいなら、友達である霧山朽葉に頼んでボックスを開けてもらったってことで、無理やり説明できなくもないんだけど……。 それでも、二つ目の謎はなかなか解明できないんだよ。古橋さんはどうして海に落ちて助かったのか。古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡っていう図式の、どこを崩せばいいのか。
 古橋さんが海に落ちたっていうのは、疑いようがない。古橋さんが泳げなかったっていうのも、確からしい。泳げなかったら沖に流されて死亡するっていうのも、どうにも崩しがたい。
 だったら、ぼくたちは一体どこを崩せばいいのか。
 そこで、ゆぅくんの言葉が出て来るんだよ」
「僕の言葉?」
「そう。図式を崩せないんだったら、問題設定の方を崩せばいいんだ、っていうあれ。あれを聞いて、ぼくはもしかしたらって思ったんだ。
 ぼくたちは、この図式を描いた時点で、既に古橋さんの罠に掛かっているんじゃないか。
 この図式を描く上で、当然の前提としている事柄を崩せないか、ってね」
「当然の前提としている事柄……」
「そう。古橋さんが海に落ちたのも、古橋さんが泳げないのも、泳げなかったら死亡するのも疑い得ない。だとしたら、崩せる可能性のある部分はひとつだけ――」
 古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡……。
 崩せない図式。
 問題設定の方を崩せばいいんだ。
 当然の前提としている事柄。
 崩せる可能性のある部分はひとつだけ――。
 まさか、と思った。
 真実の可能性に思い至り、驚愕に目を見開く僕に、霧乃はそれを認めるように頷いてみせた。
「そう――。彼女は、古橋さんじゃなかったんだよ」 


 古橋さんは――いや、〈彼女〉は――古橋さんじゃなかった。
 それは、あまりに型破りな解決法ではあるが……確かに、そう考えれば図式は崩れる。古橋さんが泳げなかったという事実は、何の意味も持たなくなるからだ。
 しかし、それだったら――。
 〈彼女〉は一体、何者だったんだ。
「ゆぅくん、考えてみてよ」
 霧乃は言う。
「最初に屋敷についたとき、〈彼女〉は霧山朽葉の友達であると自称して、堂々としていた。なおかつ、ぼくたちが霧山朽葉だと思っていた人物の方も、〈彼女〉の話している内容に何も変な顔をしなかった。とすると、これは〈彼女〉と、ぼくたちが霧山朽葉だと思っていた人物の共謀によるものだった、としか考えられないんだよ」
「だったら、まさか――」
「そう。あの二人は最初から入れ替わっていたんだよ。ぼくたちが霧山朽葉だと思っていたのが実は古橋さんで、古橋さんだと思っていたのが本物の霧山朽葉だった――。ゆぅくん、それが真実だよ」
 僕たちが、霧山朽葉だと思っていたのが古橋さん。
 僕たちが、古橋さんだと思っていたのが霧山朽葉。
 すなわち、この事件の犯人は霧山朽葉だったということになってしまう――。
「最初から変だと思っていたんだよ、ぼくは。覆面作家であるはずの霧山朽葉が、どうして突然こんな企画を組んで、正体を明かすような真似をしたのか。確か、行きの船でもそんな話をしていたよね。答えは簡単。最初から正体を明かすつもりなんてなかったから――。
 犯人である〈彼女〉――これからは霧山朽葉って呼ぶけど、彼女は多分、友人だった本物の古橋さんに頼んだんだよ。こんな企画をやるつもりで、ドッキリ企画にしたいから、悪いけど自分のふりをしてくれないか、って。そして企画の最後で、自分たちが最初から入れ替わっていたって事実を明かすつもりなんだ、って。本物の古橋さんはそれに乗せられてしまい、結局霧山朽葉の計画に利用されることになってしまった。霧山朽葉が最初に、古橋さんを殺害しないといけなかったのも、そこに理由があるんだよ」
「しかし、そうだとすると……どうなるんだ?」
「うんと、まずマスターキーの謎が片付くよね。彼女が本物の霧山朽葉だったんだから、彼女は普通に暗証番号を打ち込んでマスターキーを入手しただけだよ。そして、マスターキーがあるべき場所には、別の適当な鍵を身代わりとしてぶら下げて置いた。
 それから、霧山朽葉が海に落ちて助かったってのも、もう分かるよね。霧山朽葉はそもそも、水泳をやっていたような人。だから、多少は沖に流されても、島まで生きて泳ぎ戻ることは可能だったんだよ。
 さらに、ぼくたちが島から戻った後、屋敷が全焼したっていう事件。警察は事故だって見てるらしいけど、あれもきっと霧山朽葉の手によるものだよ。ぼくたちが船で島を出た頃合いを見計らって、霧山朽葉は屋敷中に火をつけ、燃やした。その理由は多分、書斎にあった本物の古橋さんの死体を誤魔化すため。のちの科学捜査で、あれが実は霧山朽葉の死体じゃないってばれたら、せっかくの計画が台無しだもの。だから霧山朽葉は屋敷を燃やし、古橋さんの死体を骨だけにして、身元を割り出せないようにしたんだよ。
 とまぁ、ここまでが、古橋さんと霧山朽葉の入れ替わりによって解明できる謎の数々……。
 でもぼくたちは、もうひとつだけ不可解な謎を抱えているんだよ。
 それはすなわち、ぼくたちが見舞われた火事の謎――」 
「うん? 火事の謎って、あの火事に何かおかしなところがあったっけ」
「あの火事は、動機が不明確だったんだよ。ここまで一人一人、言うなれば丁寧に殺害してきた霧山朽葉が、どうしてあの段になって火事なんていう不確実で派手な手段に出たのか」
「僕たちを殺そうと思った、じゃ駄目なの?」
「んー……。駄目じゃないけど、説得力に欠けるよ。霧山朽葉はマスターキーを持って屋敷に隠れていたんだから、殺害しようと思えばもっと確実な手段があったはずだもん。それなのに、どうしてあえて放火という手段を選んだのか。 
 そう考えるとね、これはもう、ぼくたち以外に目的があったとしか考えられないんだよ。
 ぼくたち以外――すなわち、あの部屋自体を、霧山朽葉は焼き払ってしまわなければならなかったんだよ」
「あの部屋自体、だと?」
「そう。思い出して、ゆぅくん。無数にある客室の中で、ぼくたちの客室に特徴的だったこと……」
「僕たちの客室に特徴的だったこと……。そうか、熊切千早の品々だ!」
 霧乃は、その通りだと言うようにはっきり頷いた。
「霧山朽葉は、あの品々を処分する必要があった……。一体何故か。それはつまり、あの品々の中に、自分への疑いを深めるような何かが残っていたからだよ。
 ねぇ、ゆぅくん。気付かなかった? 
 きりやまくちは、と、くまきりちはや。
 アナグラムだよ。
 平仮名にして並び替えると、ぴったり一致するってことに――」
「――まさか」
「そうだよ。ペンネーム・霧山朽葉こそが、熊切千早その人だったんだ」


 僕は何だかもう、驚き疲れてしまった。
 古橋さんだと思っていた人物が霧山朽葉で、その霧山朽葉こそが熊切千早だった――。
 なんだこれ。わけが分からない。
「多分、霧山朽葉は、ぼくたちの部屋に写真やアルバムの類もあるんじゃないかと心配になったんだろうね。そこにもし、自分の顔が映っていたら――。せっかく、順調に進んでいる計画がすべて水の泡だもの。だから彼女は、ぼくたちの部屋に火をつけたんだよ。証拠を燃やし、あわよくば、それを発見して真実に気付いてしまったかも知れないぼくたちをも、一緒に葬り去ろうとね」
「じゃあ、熊切千早が父である熊切千秀を殺害したっていう、五年前の事件は……?」
「それも多分、本当のことだよ。
 霧山朽葉であるところの熊切千早は、生まれてからずっと地下のあの部屋に監禁されていた。そして五年前、自分を監禁し続けた父に、ついに復讐の刃を向けた。
 事態を知った熊切家は、事を揉み消して、熊切千早を自分たちで引き取った。それから熊切千早がどうなったのかは、ぼくにはよく分からないけど、とにかく彼女は霧山朽葉という名前の推理小説家として、デビューしたんだ。だから、『死者の館』の舞台があの屋敷に似ていたのは当たり前。だって霧山朽葉は、自分がかつて監禁されていた屋敷をモデルに、あの小説を書いたんだから。
 ううん、それどころじゃない。あの小説が上巻しか発売されていないことを考えると、霧山朽葉はそもそも、あの殺人劇のためだけに、『死者の館』を書いたのかも知れないよ。最初から、下巻を書いて解決編をやるつもりなんかなかったんだ、ってね」
 霧山朽葉、すなわち熊切千早――。
 実の父に監禁され、およそ他者と触れ合わずに育った少女。
 五年前、その実の父を殺害し、その後に推理小説家としてデビューして。
 自分が監禁されていた屋敷をモデルに『死者の館(上)』を書き上げ、今度の殺人劇を計画し、そして実行した。
 彼女という人間は一体、何を見つめていたんだろう。
 何のために、こんな殺人劇を繰り広げたのだろう。
「動機については、彼女に聞かないと分からないから、ただの想像になるけど……」
 霧乃はコタツ机に両肘を突き、両手で顎を支えた。どこか遠い目をして、自分の部屋の壁を眺めている。
「霧山朽葉は結局、自分が死んだと世間にアピールしたわけだよね。書斎にあったのは本当は古橋さんの死体だったけど、警察の判断では、あれは霧山朽葉の死体だったってことになってるから。ぼくは多分、それこそが霧山朽葉の本当の狙いだったんじゃないかと思うんだ」
「本当の狙い? 霧山朽葉が、自分は死んだと世間にアピールすることが?」
 霧乃は黙って頷いた。
「自分以外に偽の犯人を仕立て上げたのも、自分の身代わりとなる死体を用意したのも……。多分、そのすべてが、霧山朽葉が死んだと見せかけるためのもの。恐らくそれこそが、彼女の真の目的――。
 ぼくはね、ゆぅくん。霧山朽葉は、あの屋敷で一度社会的に死ぬことで、生まれ変わろうとしたんじゃないかと思うんだよ」
「生まれ変わり?」
「そう。霧山朽葉――熊切千早は、生まれたときから屋敷の隠し部屋に監禁され、誰とも触れ合わずに育った。いわば、生きながら死んでいる『死者』だよね。御代川さんの偽の遺書にあった言葉――あれももちろん霧山朽葉が偽装したものだけど、あれは案外嘘じゃないと思うんだ。
 覚えてる、ゆぅくん? あの遺書の一節を……。
 ――私は鬼ごっこも、缶蹴りも、ドッジボールも、あらゆる遊びという遊びをしたことがありませんでした。十何年も薄暗い部屋に閉じ篭められ、他者と交わる機会が与えられなかった私に、そんな遊びが出来るはずもなかったのです。ただ情報としてのみ知るそれを、私は暗い部屋の中でうずくまりながら、ひそかにやってみたいと願うばかりでした。
 ぼくにはね、これはどうも単なる嘘のように思えないんだよ。
 これは嘘なんかじゃない。きっと、これは霧山朽葉の本心――熊切千早があの薄暗い部屋で監禁されているときに抱いていた、切なる願いだと思うんだ。
 鬼ごっこも出来ない。缶蹴りも出来ない。ドッジボールも出来ない。それどころか、友達を作って普通に喋ったり、笑い合ったりすることすら許されなかった十年間――。
 呪われた運命だよ。
 だからきっと、霧山朽葉はそれを捨て去ろうと願ったんだ。
 呪われた過去を、『死者』としての人生を棄て、もう一度新しい形で人生をやり直す――すなわち、生まれ変わり。
 霧山朽葉は自らを一度殺し、そして別人として再生するために、あんな事件を起こしたんだよ。自分は死んだんだと世間に明確にアピールし、熊切千早でも霧山朽葉でもない、別人のまったく新しい人生を歩み出そうとしたんだよ。
 ううん、もしかすると、今回の事件だけじゃないかも知れない。ずっと前から――それこそ、あの隠し部屋に監禁されていたその時から、霧山朽葉は生まれ変わりの幻想を抱いていたのかも知れないよ。いつか、こんな呪われた人生は棄てて、別人として生まれ変わってやるんだ、って。
 もし、そうだとしたら。
 霧山朽葉の行動がすべて、生まれ変わりというたった一つの目的に裏打ちされているのだとしたら。
 霧山朽葉が推理小説家になったのも、『死者の館』という小説を書いたのも、屋敷での殺人劇も、すべては生まれ変わりというたった一つの願いのためだけのものだったとしたら――」
 ゆぅくん。あなたはどう思いますか?
 霧乃は声に出しこそしなかったが、そう尋ねるように僕を見つめた。
 僕は、何を思ったのだろう。
 生まれて以来、ずっと暗がりの部屋に監禁されて育った少女。
 実の父を殺し、ただその呪われた人生を棄てることだけを目的として、生まれ変わりを願い続け、
 推理小説家となり、『死者の館』という小説を書き、あの屋敷で殺人劇を繰り広げた。
 つい一週間前までは古橋さんだと思っていた彼女の、落ち着いた物腰を思い出す。
 あの人は――霧山朽葉は、あの静かな態度の裏に、一体どんな想いを秘めていたのだろう。どんな激情を、隠していたのだろう。
 僕は、霧山朽葉――熊切千早という人物の人生に、爛々と輝くような強い意志と、そしてその意志の裏にある深い哀しみとを、感じざるを得なかった。


 神様、というのがいたのだろうか。
 この日からちょうど三日が経った日の早朝、僕は知ることになる。
 瀬戸内海の中心で、故障を起こして転覆していた一隻のモーターボートが発見されたこと。
 それは、天上島の屋敷の檻に格納されていたモーターボートであり、僕たちが島からの脱出に使おうとしていたモーターボートだった。あの時は、鉄檻の鍵を開けられなかったため、ボートの使用は諦めざるを得なかったのだけれど。
 僕たちが帰りの船で島を出た後、いまだ屋敷に潜んでいたその人物は、屋敷に火を放ち、檻の鍵を開けてモーターボートで島を脱出しようとしたらしい。
 そんな最中、海の上でのモーターボートの故障、そして転覆。
 海に投げ出されたその人物が、必死にしがみついていたのだろうか、モーターボートの船体には、無数の爪で引っ掻いたような跡が残されていたらしい。
 生きるために。
 彼女は一体、どんな思いで転覆したボートにしがみついていたのだろう。海の中、次第に衰弱していく自分を励ましながら、それでも生きることを諦めなかったのだろうか。
 運命とは無情なもので。
 発見されたのは、モーターボートの船体だけだった。


 その事実を知った日から時は遡り、再び東大寺霧乃の部屋。
 曲がりなりにも事件の全貌を知るに至った僕は、何とも言えない気分でそうめんを啜っていた。
 『死者』であった過去の自分を棄て、新しい人生を歩んでいくために殺人劇を繰り広げた霧山朽葉。彼女は一体どういう思いで、自らの書いた小説に『死者の館』という名前を付けたのだろうか。そして、どういう基準であの企画の参加者を選んだのだろうか。
 ひょっとすると霧山朽葉は、暗号の答えなどではなく、応募者の性質で参加・不参加を決めていたのかも知れない。自分と同じ、他者とのつながりを持たない『死者』であるならば参加を認め、正常な人間関係を持つ『生者』であるならば参加を認めない。そう考えると、あの屋敷に奇怪な人間ばかりが集まっていたのも頷ける気がする。
 ――そういう意味でなら、この屋敷はまさに生きながら死んでいる『死者』たちの集う館――『死者の館』と称して差し支えないんじゃないかしら?
 生前の御代川さんの言葉は、案外当たっているのかも知れない。
 そうだ。
 僕の目の前にいる、この女の子も……。
「どうしたの。ゆぅくん?」
 僕が変な目で見つめていたからだろうか、霧乃がそうめんを口から垂らしたまま、小首を傾げる。とろんと夢心地にいるような瞳が、僕の瞳を映している。
 この子の目は、本当に僕を見ているのだろうか。
 少しだけ、不安になる。
「あのさ……僕、ずーっと気になってたんだけど」
 目を落とし、霧乃の白い首もとあたりに視線を据える。そうめんを啜って間を取るという選択肢を封じるため、僕は箸を置いた。
 そのうえで、喉から質問を絞り出す。
「霧乃は、どうしてあんな企画に応募したのかなぁって……。ほら、霧乃って基本的に部屋に引き篭もってる人間だろ? それなのに、どうして急に外出しなけりゃならないような企画に、応募しようと思ったのかなぁって」
「んー……。それは、ホワイダニットだね」
 ぴっ、と霧乃は箸で僕の鼻先を指した。脳髄までミステリに浸かっているのだろうか、この子は。
「ゆぅくんも、たまには自分の頭で考えようよ。どうしてぼくは、あの企画に参加したいと思ったのでしょうか? 本格推理じゃないけど、れっきとした日常の謎だよ、これは」
「日常の謎、ねぇ……」
 その単語なら知っている。殺人やら密室やらという物騒な謎じゃないけど、日常の中に潜んでいる小さな謎に焦点を当てた推理小説だ。がちがちのミステリが苦手な僕でも、たまに霧乃が「ゆぅくん。これ一緒に読んで、感想交換しよう」と言って貸してくれる日常の謎系のミステリなら、何冊か読んだことがあった。
 問題。東大寺霧乃はどうして、霧山朽葉の企画に応募しようと思ったのか。
 ない脳みそを絞って、僕なりの答えを導いてみようとする。
 旅行に行くと決まる前の、霧乃の態度。
 僕をいきなり部屋に呼びつけて、企画参加が決まったことをだらしない笑顔で告げた霧乃。その後、「知らない人と旅行したってつまんないよ」と言い出し、「やっぱり、行くのやめようかなぁ」と言い出した霧乃。さらにその後、僕が折れて一緒に行くと言い出したとき、「じゃあ、行ってみようかなぁ」と頬を弛めた霧乃。
 日常の謎系ミステリ。
 ゆぅくん。これ一緒に読んで、感想交換しよう。
 それが、答えなのだろうか。
 東大寺霧乃という女の子にとって、僕という存在は――。
 顔を上げる。心なし緊張した面持ちで、霧乃がそうめんを啜っていた。「分かった?」なんて、何気ないふうを装って尋ねてくる。でも、その声はちょっとだけ震えている。
 僕は自分で出した答えを、口にしてみた。
「もしかして、僕と一緒にいたかったから。……とか?」
 微妙な沈黙。
 微妙な間。
 そうめんを箸で摘んだまま動作を停止させていた霧乃は、やがて動作を再開すると「ゆぅくんがそう思うなら、それでいいんじゃないかなぁ」と真意の読めない口調で言った。
 だが、そんなの卑怯である。
 僕が憮然として彼女を睨み続けていると、霧乃が「あ、そうだ」と殊更なんでもなさそうに言う。
「ね、ゆぅくん。冬休みはどこか雪山へ遊びに行こうよ。雪山の山荘、吹雪付きセットで」
 そう言って、言った後に気恥ずかしさが抑えきれなくなったのか、わずかにはにかんでみせる。「冗談言うなよ」と突っ込みながらも、僕も何だか笑ってしまった。その発言の裏に、霧乃の真意が透けて見えたから。
 いや、もっとも、クローズド・サークルは冗談抜きで勘弁なんだけど。
 でもまぁ、こんな日くらいは。
 それをネタにして笑ってしまっても、いいような気がしたのだ。
 そして、同時に確信する。
 東大寺霧乃は間違っても、生きながら死んでいる『死者』なんかじゃない。彼女はきちんと人間の中に網を張って、自分の足で道を歩んでいる『生者』なのだ。
 だって、霧乃の隣には僕がいるのだから。なんて、恥ずかしくて言えないけど。
 それでも、きっと僕は霧乃の隣に居続けるのだろうし、霧乃は僕の隣に居続けるのだろう。
 理由なんて、問うまでもない。
 生きる者であるために。


(Fin)

作者コメント

*この作品はミステリです。感想・作者レスに重大なネタバレが含まれる恐れがあります。未読の方はご注意下さい。* 
 
 飽きもせず、小説漬けの毎日……。どうも、こよるです。
 いつか「館モノ」を書いてみたいなぁと思っていて、そろそろ本格的なミステリの練習もしたいなぁと思っていて、というわけで書いてみました。ちょう手垢にまみれたオーソドックスな「館モノ」です。とはいえ、何だかあちこちボロボロ穴だらけなのですが…。
 ミステリを読まない人でもついてこれるよう、「分かりやすく、明快に」を心がけたつもりです。難易度は、犯人当てだけなら簡単ってところ。どのくらいまで分かったか、教えてもらえるとありがたいです。
 では、よろしくお願いします。

6/20 7/12 7/13 一部、加筆修正

2013年06月17日(月)22時50分 公開

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感想

桜色さくらさんの意見 +20点2013年06月18日

 どうも、桜色さくらと言います。
 普通に読者として読んだだけなので、校正などはしていないのですが、感想を書かせていただきます。

 私、ミステリーに関しては素人なんですよね。ですから技法とか詳しいことは分からないんですが、特に展開が破綻していたり、こじつけているような印象はありませんでした。夜中に読んでいたので、怖くてトイレに行けなかったりはしましたが。
 
 謎解きに関しては、最初はヒロインの霧乃を疑っていました。単純に勘で。この子が犯人だったら、面白いけど恐ろしいぞ、みたいな。中盤辺りで予想が外れているようだと分かり、安心しました。ふう……。

 ミステリーとしては完成されているけど、意外性が少し欠けていたかな、といったところでしょうか。誰が犯人でも、そこまで驚かなかっただろうな、と。それこそヒロインが犯人でしたとなれば、私は今後一切女性を信用しません。

 では、なぜヒロインが犯人だったら驚くのか? それは主人公との接点が多かったからです。どういう人間なのか、どこが長所で、どこが短所なのかが分かっているぶん、それが犯人だったと分かると、いい意味で読者への裏切りになるんですよね。
 別にヒロインを犯人にしろ、と言っているわけではありません。ただ、犯人がどういう人間なのかをもう少し掘り下げていれば、意外性が増したのではないかと。この作品の展開上、難しいかもしれませんが。
 このままでは、知らない人同士が集まり、知らない人が殺され、知らない人が犯人だったというだけになってしまいかねません。あ、この部分はあくまでも表現ですので、あしからず。

 あとは、屋敷の外観や周囲の景色などをもう少し描写していれば、クローズドサークルという状況、設定が映えるのではないかと。

 乱文で偉そうなことを言いました。
 この感想に書かれていることは、あくまでも一個人の私見なので、作者様の方で判断をお願いしますね。

 それでは、失礼しますっ。

てんさんの意見 +30点2013年06月19日

 はじめまして、てんと申します。

 『手垢にまみれたオーソドックスな』とご自身でも書かれている通り、確かに、ありきたりでした。私は古今東西を問わず、また様式を問わずミステリーを読み漁っているので、展開や登場人物など「わあ……アレに似てるな……」と思ってしまうところが多かったです。
 でも、面白く読ませていただきました。

 そういうわけで、犯人が誰かなども読みやすかったのですが、分かりやすく明快に、という意図は充分クリアされていると思います。
 私は、館にいたのが、作家とその友人だったところで、もしかしたらと思ってしまいました。
 あまり真剣に謎解きをしなかったので申し訳ないのですが、きちんと二転三転していましたし、ミステリーとして楽しめました!

 ただ、犯人の動機と殺人のタイミングがしっくりきませんでした。
 なぜ犯人は、この日この時この場所で殺人を犯さなくてはならなかったのか、それがあればもっと深みが増すと思います。
 私の読み取り不足なら申し訳ないのですが、館に招待された人は全く無関係な方ばかりですよね? 赤の他人がいるときに殺人を犯すメリットがないと思うんです。この手のミステリーでは、無関係に見える人々が、実はみんな何らかの関係を持っていて……というのが多いですよね。それには作者の都合もさることながら、理由があると思うんです。
 その辺りも研究されてみると、いいのではないかと思います。

 * * *

 以下は、気になった点です。

 まず、名前です。
 ヒロインが「霧乃」、キーパーソンが「霧山」でしたので、少し読みづらかったです。
 それぞれに意味があって付けられたものでしょうし、愛着もおありでしょうから、難しいとは思います。ですが、漢字を変えるか、名前そのものを変えるか、検討してみてください。

 もう一つは、チェックミスかもしれないのですが、同じことを別の表現で説明している個所が何度かあった気がします。
 一番気になったのは、こちらです。


> 二枚目の扉を抜けると、ようやく屋敷の廊下に入ることが出来る。僕はそこで、壁に貼ってあった屋敷のフロア図を眺めた。
 どうやら、この建物の構造を理解するには、単純な平面図を思い浮かべるのが一番のようだ。まず、外壁の大きな長方形を描く。そして、その大きな長方形の中に、中くらいの長方形を描き、その中くらいの長方形の中に、さらに小さな長方形を描く。要するに、建物の中央に広間があって、それをぐるっと囲むように回廊が存在しているのだった。そして、その回廊をさらに囲んでいる外周は、書斎やら応接室やら、無数の小部屋に分かれていた。基本的な構造は一階も二階も同じのようだ。一階では「大広間」とされている中央の大部屋が、二階では「談話・遊戯室」となっていた。


> 僕と霧乃の部屋は、十二号室だった。
 屋敷の二階も、基本的には一階と同じ構造をしている。回廊によって取り囲われた中央の大部屋は、一階では大広間だったが、二階では談話・遊戯室だった。回廊の外周に沿うようにして立っている無数のドアは、そのすべてが客室のドアであるらしい。もっとも、客室ドアにはすべて鍵が掛かっているため、鍵を持っていないと立ち入り出来ないのだが。


 これと似たような部分が他にも小規模ですがありました。全てを指摘できなくてごめんなさい。ご自身でもう一度読み返してみてください。
 二つの文の間があまりに近いと不自然ですので、どちらかは削って構わないと思います。

 そして、実は私が一番気になったのが、この舞台でした。
 「瀬戸内海」というのが架空の存在でない限り、この設定には無理があると思います。
 瀬戸内海には確かに島が無数にありますので、個人所有の島も存在しますし、別荘を建てて優雅に暮らしていても不思議ではありません。
 ですが、「島が無数に」存在するのです。
 地図を見るとお分かりのように、島と島の間はかなり近いです。つまり、対岸が簡単に見えてしまうのです。その上、頻繁に船が行き来しています。漁船はもちろん、タンカーやフェリーも通ります。
 ですから……孤島にはなりえないのです。のろしを上げれば、すぐに誰かが気が付きます。
 また、瀬戸内海は穏やかなことで有名です。嵐が来てようやく、平穏な日本海程度に荒れる、そんな海です。遭難事故は起こりますし、人命が奪われることもありますが、表現として、荒れ狂っていたり、白波が立っていたりというのは、少し違うかなあと思います。
 孤島で助けを呼べない、外部の人間を呼べない、もしくは、犯人が入ってこられない、これがこのタイプのミステリのキモですよね?
 瀬戸内海を使われるのなら、脱出できない、救出できない、の部分をもう少し詰めてみてください。海はどこでもいい、島があれば、というのでしたら、もうふわっとさせてしまって、地名は出さない方が賢明だと思います。

 かなり突っ込んだことを言ってしまいましたが、実は私は瀬戸内海沿岸に住んでいます。知っている場所が舞台だと、おっ! と興味を引かれる反面、このように些細なことが気になってしまうものです。
 現実の地名を出されるときには、ちらっとで構わないので、下調べをされることをお勧めします。


 * * *

 最後になりましたが、私は個人的にこのコンビが気に入りました。
 そういう意味でも楽しく読ませていただいたのです。
 またこの二人の出てくるお話を読みたい、そんな主人公たちでした!

 それでは失礼いたします。

追儺さんの意見 +30点2013年06月19日

 どうも、感想返しに参りました。追儺です。

 ミステリということで、期待のハードルは上がります。うまく騙されたときは額を平手で叩きたくなりますよね。
 ちなみに私は伏線が多少ありがちでも、綺麗に纏っている方を評価する人です。
 文章は砕けた一人称。超読みやすいです。
 文章に既視感があると思ったら、雰囲気が鈴危様の作品と少し似ていますね。貴作も面白いですがあちらも面白いので、読んでみるのをおススメします。

 さて、実況。実況なので伏線や構造については多分触れていません。
 読者の的外れな推理で踊り、読んだ時点で感じたままの声と言うことで、ご了承ください。
 読み返すとアホだな、私。

一章
 最初の文章は、本当にどこかの作品から抜き出してきたかのような臨場感です。

>僕はいつも土葬ならぬ「書葬」という言葉を思い浮かべる
 面白い表現ですね。
 ふむふむ、雑誌懸賞に当たったガールフレンドと一緒に旅行ですか。
>おもちゃ売場で親をねだり落としたときの幼児の表情
 少し違和感が。おもちゃをねだり落としたときは、相手である親を根負けさせた時だと思います。すこしシチュエーション的にどうなのか。

 孤島はクローズドサークル。王道ですね。
 守屋登場、御代川登場。
 主人公小坂くん、霧乃。おや、招待客は三人なのに。読み飛ばしですかね。付添いはいいんですかね。孤島なのに。

 屋敷の構造説明。ややこしいのであまり考えないでおきました。
 しょっぱなから、いかにも事件が起こりますよ的な演出過剰な感じが出ています。ここは、犯人はいない! 全部ヒロインを楽しませるための演出!では。
 メイド登場。ここは最初に出すべきです。うーん、雑誌の懸賞で人を迎えるのですから、荷物を運ぶなり役割はあるはずです。何よりもミステリであるという理由がありますが。
>路傍のツクシみたいな性格の古橋さんに、日なたのヒマワリみたいな性格の霧山朽葉。
 主人公は朽葉についてほとんど知りませんが、印象でしょうか。
>蛇がいるのよ! 蛇がいるのよ!
 鍵カッコが付いていないのは仕様でしょうか。
 御代川さんのトラウマ。何か、設定披露みたいで、事件への御膳立て染みています。世のクローズドサークルはこのようなものなのでしょうか。事件が起こってから死因説明にあってもいい気がしますが。
 小説の内容と現実が似通っている。ううむ、盛り上がります。
 そして事件が起きる。

二章

>低音。裂けた肉。赤い液体。滑りけ。
 誤字、でしょうか。最後のが理解しかねます。
 死体発見者、メイドが怪しい! と読者的には予想しておきます。動機もあるみたいだし。「この館の真の主はあたしなのよお!」みたいな。
>A4サイズのコピー用紙に、赤文字でそう書かれていた。恐らく定規を使って書かれたのだろう、ひどく角張った特徴的な文字だ。
 おお、筆跡鑑定対策に、こういう方法もありますね。
 御代川さんに死亡フラグがビンビン立っています。いやあ、楽しいなあ、こういうの。
 クローズドサークル成立の説明は丁寧で分かりやすいです。
>その斧の刃は黄色い液体でぬめっていて、誰もが目を逸らした。
 何故返り血ではないのか。ここは単なる疑問です。
 七人目がいるかもしれない。
 ところで、小説の中身は何なのかという疑問が早々に湧いてきます。情報開示の問題ですが。これは全員が知っていていい情報で、犯人の予測ができる最重要情報でもあります。ここは、第一の殺人が起こった時に開示してほしい所です。

 先代の屋敷の主も小説家だった。これはメイドのミザリー的展開があるのか。先代も含めて小説のアイディアはメイドの発想だったとか。
 外れたとしても予想は楽しいですね。
>シャワーが握れないせいで、昨日はお風呂が大変だったわ。
 この人の家にはコード類が全くなく、麺類やところてん等もダメなのかと想像すると、少し萌えてしまいます。
 小説の既視感のなかで、殺人の状況が異なる。そしてこれからどうなるのか。
>東大寺霧乃が、僕の隣にいてくれるんだから。
第三章 晩餐に眠る 
 おや、改行が反映されていませんね。
 熊切の不審な死。少しずつ物語が深みを増していきます。
 御代川さんがいい具合にかき乱してくれます。
 第二の殺人。御代川さんの役割が気持ちいいくらいにテンプレです。「俺はおまえらなんか信用できねえ!」みたいな。
 おお、今度は古橋さんが怪しくなってきました。ヤバイ、面白い。この踊らされてる感じが。

四章
>俺たちも行く!
 叫びをこのようにしているのですね。特徴的ですが、少し違和感が。
 第三の殺人。よかった、私の「犯人メイド説」予想は外れてない。
 ところで、小説はどこまで進んで、どこで終わっているのでしょうか。
 トリックの検証。面白いです。
 追い詰められる主人公。可哀想なくらいに心理描写が生々しいです。
 火事! これも小説の筋書きなのでしょうか。
 揚げ足取りみたいで申し訳ないのですが、二人一組なら交代で寝るなり方法があるのでは。それほど切羽詰まっている状況だと思います。

五章
解決編。
 うーむ、きょ……げふんげふん、この解決方法は少しエレガントではないかもしれません。納得がいくけど認めたくない、ぐぬぬ、そんな具合でしょうか。
 一つ一つの事柄が伏線になっていますね。ぐぬぬ。
 そんな火事、霧山朽葉の『死者の館』じゃ、どこにも書かれてなかったぜ?
 ここは読者には知らされていないことです。考える必要があるのでは。
 似たような出来事が実は同一のものだった。とおもったのですが、ここは偶発的なところみたいですね。
 ふたりの結託も含め、殺人に偶発的要素が絡むと魅力が半減してしまうことは否めません。
 とはいえ、綺麗にまとまっていると思います。

六章
 犯人が人を殺す理由、ホワイダニットの部分が希薄ですが、これはセーフかと。ただし、犯人の心情をもう少し掘り下げる必要があるのでは。
 解決、と思ったらまだ何かあるのか。えーっ!
 ここのトリックも偶然に頼っています。うーむ、美しくない。
>「違うよ、ゆぅくん……」
 霧乃は呆れたような目で僕を見て
 なぜかブヒれるシーンです。もっと罵ってください。
>霧山朽葉は屋敷を燃やし、古橋さんの死体を骨だけにして、身元を割り出せないようにしたんだよ。
 差し出がましいようですが、歯の治療痕の判別というのもあります。
 ううむ、急展開に脳味噌がややついていけません。だけど、アイディア的には満点ではないでしょうか。
 動機、ううむ、犯人は偽名で世間に名を残し、一度生まれ変わっているのではないでしょうか。これをやったことに特別な意味はあるのか。ここは尻がムズムズしますが、謎のままで姿を消してしまった、でも余韻が残る終わりになるのでいいかと。

 総括すると、とても面白かったです。心理描写が危機感を煽り、話が二転三転する。
 欠点といえば、見立て殺人の根本である小説の内容が小出しで、「次に何が起こるか分かりづらい」点でしょうか。

 ミステリ作家は多くいますが、物理的トリックはすべて出尽くしたと言われていますね。あとは叙述トリックや「信頼できない観測者」等がありますが、作者様はどういう方向に進もうとしているのでしょうか。
 やはり、「氷菓」のような、キャラクター性を打ち出したミステリとラノベの中間でしょうか。それにしては、キャラの勢いが弱いように思えます。一度吹っ切れた、「人間ではない」、不自然すぎるキャラを作れば意外と面白いもしれません。

 感想は以上になります。では、失礼します。

鈴危さんの意見 +20点2013年06月19日

こんにちは鈴危です。読了いたしましたので感想の方を。

率直に言って、ミステリとしての完成度は高いと感じました。楽しめました。

おっしゃるとおりかなりオーソドックスな感じですが、トリックがよく練られていたなと思います。ここまで複雑にして整合性を持たせるのはさぞ大変だったことでしょう。終盤のどんでん返しには非常に勢いがあり、おもしろかったです。

また、謎解きの際の説明がわかりやすかったです。ここって意外と書いてて神経使う、難しいポイントだと思うんですが、すんなりと頭に入ってきました。推理ものをよく読まれていて、手法もきちんと理解しているのだなと思いました。

偉そうな言い方で申し訳ありませんが、以前よりずっとお上手になられたな、と感じました。


どのくらいまで分かったか、について。

御代川姫子の死体が消えた時点で、検死をしていた古橋が犯人かなー、と直感的に感じました。ただそのときはてっきり、古橋が御代川姫子の死体に自分の服を着せて海に流したのかと思ったので、見事外れというわけですが。

くまきりちはや、はひらがなで出てきた時点で「あ、これはアナグラムだ」とは思いました。しかし並び替えてみるのが面倒だったしキャラのフルネームを覚えきれていなかったので普通にスルー。そのため最後の種明かしは楽しめました。(私は本格ミステリでもこういう読み方をする奴です。すみません)最初から漢字で出した方がよかったかもしれません。


次は難点について。

まず、トリックでやや強引かなと思うところが少しありました。
一番気になったのが、古橋さん=海に落ちた=泳げない=死亡、です。古橋さんが泳げない根拠というのが本人の談と過去の霧島インタビューだけというのは、あまりにも弱い気がします。嘘をつくこともできますし、過去本当に泳げなかったとしても練習すればできるようになります。なにか身体的な障害を持っていただとか、過去海難事故にあってトラウマがある(これでも弱いですが)とかない限り、確定情報として推理するのはかなり不自然な気がしました。また、いくら泳げても着衣で流されて沈んでたらかなり危険だと思います。いつまで見られているかわからないので、相当の間泳がず死んだふりしてなきゃならないでしょうし。
他に、第二の犠牲者のところもかなり運任せなような。睡眠薬飲んだ人が部屋に戻るかわからないですし、飲んでない人が部屋に戻るかもしれないですし。

次に、既存作との類似点が多々見られるのが気になりました。これで少し減点していたりします。
私はそこまでミステリを読むわけではないので知っている作品は少ないのですが、なんとなく『クビキリサイクル』と『十角館の殺人』の要素が多分にあるように感じました。
首切って登場人物同士が入れ替わる、は、まあ私が知らないだけで他の作品にもある手法なのかもしれませんが、主人公とヒロインにはかなりいーちゃんと友っぽさがありますし、最後のどんでん返し含め全体の雰囲気もなんなく『クビキリサイクル』です。
それと、事件的な部分はかなり『十角館の殺人』の影響を受けているように見受けられました。最初が絞殺、はともかくとして、二番目の毒殺の辺りは真相こそ違うものの、トリックの検討を進めていく行程などはあまりにも似すぎています。ちょっとまずいレベルではないでしょうか。他に『第○ の犠牲者(被害者)』や秘密の地下室、不義の子、最後の館炎上など、ところどころに細かな類似点が散見されました。
ミステリというジャンルをそこまで深く知らないので、見当違いな指摘だったらすみません。

それと、上と少し被りますが、この作品ならではの売りがないように思われました。
完成度は高いと思いますが、あくまでオーソドックスな舞台とトリックを全面に押し出してる感があるので、どうしても秀逸な既存作の劣化になってしまう気が……。キャラや舞台設定になにか真新しい要素があれば、同じトリックでもぐっとよくなるのではないかと思います。


以上になります。
いろいろ文句を書いてしまいましたが、レベルは高いと思います。これからもぜひ頑張って欲しいです。
それでは失礼します。 、

橘 修司さんの意見 +30点2013年06月20日

はじめまして、こよる様 感想返しに参りました橘です。

まずはじめに一行コメ  (トリックがありきたり、既視感がある。 橘)

おいおい、それだけかよ! ちゃんと読んでくれたのかよ、あらすじしか読んでないんじゃ……

 というのは冗談で、面白かったです。そして完成度が物凄く高いですね。
実は私3月まで、西村京太郎の小説しかミステリーらしい小説は読んだことはなかったのですが、ミステリーを書いてみようと思い立って、ここ2~3ヶ月で10冊ぐらいのミステリー小説を読みました。海外の作家2名、ここ5年位の日本の有名作家8名ぐらいです。正直それらに遜色ない完成度の作品だと思いました。下手をすれば御作の方が完成度が高いかもともです。

また本になっていてもおかしくないとも思えます。いや本になりますよきっと。有名作家の作品がこの投稿室にあっても私は30点を付けない可能性もありますので、完成度は相当だと思います。

さてさて、読み進めながらの感想を書いていきますね。

まずはじめに御作に限らずミステリー小説全般に言える事なんですが、なんで身分のある人間が、ボディーガードもつけずに、怪しげな招待に応じるんですかねえ? 私なら1千万円貰えるなら行きますが、200万とかだと行く気が起きません。そこの動機にいつも首を傾げます。犯人の動機よりそこの動機が不可解な気が…… まあそれがミステリーですよね。読んだ本はそのパターン8割でした。

 気になる点

1.序盤持ち物検査はしてなさそうでしたが、現代の人なら携帯を隠し持って来てもおかしくないような?

2・壊せないキーボックス。斧があるなら壁の裏側から破壊することも出来るのでは?

3・呼称が僕が多いので少々解りずらい気も。

4.第一の殺人の後、進行がタルい気が……。

5.斧があるなら、開かない部屋の扉を片っ端から破壊しそうな気も。

6.ゆぅくんと霧乃意外にも上巻を読んでるはずなのに、他の人があまりそれに照らし合わせて事件を見ようとしていない所に違和感が。

7.霧乃に促されて食事を取るシーン、無理に取らなくてもいい気がしますが、他のミステリーも取ってるので、ミステリーはこういうものと割り切る必要がありますかね

8.中盤同じ説明の繰り返しが、少々飽きさせる要素になってるような……
ここらで40点予定が30点になりました。

9.いつも思うのですが、クローズド・サークルって殺し合いを促す所がありますけど自己防衛だけをしていれば3日ぐらいすぐ過ぎると思うのですが、ミステリーはそうなんですよね。これはクローズド・サークル全てに。

10.塗るタイプの遅毒性の毒ってあるんですか? カプセルならなんとなく解るのですが。

11.緊迫した気持ちを表現した心理描写が少々長すぎる気がしました。

12.睡眠薬、私もたまに飲むのですが、舐めて利くようなのってないような気が…… それと寝息とか鼾はかきますよ。逆に睡眠薬飲んだ時のほうが鼾が凄いかも。遺体なのか? 寝ているか? は状況が特殊なら解らない場合もありますけど例え色白でも肌の色とかですぐに解る気が…… 

13.上巻だけでデビューさせてくれますかねえ?

違和感は以上です。ミステリーだからありの部分も多いと思いますが、ちょっとだけ気になる点を挙げていきました。

隠し子の千秀がメッタ刺しの部分を読んで…… 私の巨大旅客飛空艇とネタが被っている。私のはバレバレだった訳ですね。

 ここ最近ミステリーばかり読んでいたので、犯人とトリックはなんとなく序盤から想像出来ていました。と思ったら予想と違う答えを出されて困惑、その後真相を明かされてやっぱりとなりました。ミステリー好きでなければ平気かもしれませんが、ミステリー好きだと、あらっ? と思うかもです。

 しかしながら完成度の高い作品でした。
公募では会いたくない気がします……。まあ私も私なりに頑張ってみますね。

ではでは、執筆活動がんばって下さい。

伊東大豆さんの意見 +30点2013年06月23日

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他の読者の方へ。
以下の感想にはネタバレや感興をそぐ記載が一部存在します。
できれば、先に本編を読了されることをおすすめします。
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こよる さま

伊東大豆です。。
いつぞやは拙作に長く丁寧な、しかもアツい思いがこもった感想をありがとうございました。今も励みにしています。こよるさまの前作は時宜を失してしまいましたが゜今回は時間がとれたので感想のお返しに参りました。

……のですが、タイミングが悪すぎです。
実は「例の団」の長編を脱稿したばかりで、以下の感想はかなりバイアスがかかっているものとお含み置きください。

まず、前半。
孤島、メイド、島で迎える二人、大雨、荒れた海、オレンジジュース、島の主が殺害される、書斎での殺人、主人しかマスターキーを所持しない、ドアを二人でぶち破る……等々。
どうしても「孤島症候群」とオーバーラップしてしまい、今回の作品世界に入り込めるのは御代川さんが「死んだ」あたり。その後は一気に読んでしまいました。


【文章】
 こよるさんの文章の特徴は前作もそうでしたが、米澤穂信風、それもちょっと固い感じ。ただ、状況説明や背景のセッティングをまとめてブロック記述する傾向があり、ちょっとごつごつした印象はあります。

【設定】
書籍は上下巻同時発売が通例打と思います。なので「使者の館?」とでもして?への伏線が張られたところで以下次号……そしてその示唆された内容通り、天上島で展開される、とした方が自然だと思います。
また、「使者の館」の延長線上にあるという知識が生き残った者に共有され、おのおのの解釈で行動する、という展開だと各人の「動機」「行動原理」が明確になるのではないかと感じました。作中では脅威に対して集団行動となるのは致し方ないのですが、その中には激しい対立やグループ化があってもよいと思うのです。生き残りに必死なのですから。
孤島物では十五少年漂流記、蠅の王、ラノベだと土橋真二郎の「扉の外」かな? 作品の中で対立する様子が克明に書かれています。
個人的には生き残るための各人の行動原理が激しくぶつかり合う世界はクローズドサークルに必須と考えます。
ジャッカル男の守屋が暴走するとか、メイドの伊勢崎さんが旧主の密命を受けて密かに行動していたとか……。各人の秘められた何かが暴露されていれば、より魅力的になったと思います。もちろん、枚数やラノベ、という制限の中でこの作品はかなり完成度が高く評価できます。すくなくとも私のレベルを超えている。しかしトゲがない。


【キャラクター】
こよるさんの作品は前作もそうでしたが、キャラクターの濃淡の書き分け、特に会話のやりとりが可視化しやすいという特徴があります。私は複数のキャラが一斉に話し出すと収拾がつかなくなる傾向がある為、この点は非常に得るものがありました。
 他の読者の方から説明がくどい、という指摘がありましたが、これはほめ言葉ではないでしょうか? 会話中の背景や登場人物の輪郭が明瞭なので地の文の説明はもう十分です、ということだと思います。

さて、登場人物ですが、

東大寺霧乃
安楽椅子探偵というと、肥満の中年オヤジが車いすに座って助手役が現場を走り回るとか、寝たきりとかいった陳腐かつ古典的なイメージが私にはありますが、彼女のキャラ、非常に立っていると思います。ワトソン役の小坂君とのやりとりもいい。もっとも評価できるのはキャラの一貫性が保たれていること。
まるで中学生と見まがう華奢な体に鋭い頭脳と謎を解く強い意志。密かに小坂に信頼感を持ちつつも、きちんと距離を開けるといった立ち位置に好感が持てます。

小坂祐司
本作は小坂君の視点で進みますが、不思議と一人称を意識せずに読み込めます。これはこよるさん=小坂祐司の性格だと思うのですが、地の文に「我執」や「変な癖」がないため、素直に読めてしかも逸脱せず退屈に墜ちない。このあたりも、前作に比べても向上していると感じました。


守屋さん
冒頭から、何の接点もないはずの御代川姫子の出自を語りまくるところをのぞけば、冷静沈着な霧乃・小坂ペアを引き立てる粗暴キャラとしてはうまくいっています。ただ設定的に鍵箱をぶちこわそうとする以外にもっと暴力的に活動させても良かったような。
(実は冒頭の引用文にミスリードされて犯人は男=守屋説がしばらくの間、ぬぐえませんでした。粗暴を装いつつ虎視眈々と……)


御代川さん
お嬢さんにしても言葉遣いが古めかしいかな?

伊勢崎さん
この人が共犯……霧山朽葉と古橋はすでに入れ替わった状態で主人公の眼前に姿を現し、それをサポートするのがこの人! などと一瞬期待しましたが、最後まで従順なメイドで終わりました。自らの意志をふるう情景が挿入されたら、キャラにより生命力が吹き込まれたように感じました。

古橋さん
もっとも情報が少なく、薄いキャラです。容姿・相貌の描写がはっきりしない。まるで医学の知識がある人物を成立させるためだけに配置されたようです。


【内容】
ひとつだけ、とても残念なこと。
アナグラム

くまきりちはや

くま「きり」「ちは」や

「きり」やまく「ちは」

と二段階変換でこの作品の骨子、すなわち謎の作家「霧山朽葉」=隠匿された子を暗示させ、そのわずか数行後に屋敷の元所有者が歴史小説家の熊切千秀であることが書かれているので、
「ああ、霧山はこの屋敷を相続したのだな」
「同じ隠し子の御代川が異常だし、こいつもやっぱり……」
という連想につながり、興そがれたというか。残念です。



【総括】
全般的に見て、誤字脱字はほぼなく、段落の切り方、会話文の技巧等々、かなりレベルが高く仕上げられています。章立てのバランスもとれていて読みやすい。前作から二ヶ月。ご多忙な学生生活を送られている中で、この創作スピードも速いですね。
この作品の今後としては、他のクローズドサークル物との類似点、既視感をどうやって除去するか、登場人物の行動原理が明確化するかという点が課題となるでしょう。
「真犯人」の死が故意に(?)ぼかされているのは期待が持てます。
まあ、過去にはライヘンバッハの谷底から見事復活した有名人もいることですし、霧乃と祐司のもとにある日ある時、正体不明の招待状が届くことを期待しつつ、感想返しといたします。


こよるさん

楽しいひとときありがとうございました。
またどこかで作品を拝見したいものです。

矢交結介さんの意見 +30点2013年06月24日

 お初にお目にかかります。矢交結介と申します。御作を拝読しましたので、感想を書かせていただきます。

 まずなによりも、御作の完成度の高さに驚かされました。他の方の感想にもありますが、キャラ立てからストーリー構成、話裏の設定まで、どれも目立った破綻なく仕上げられており、実際に書籍として売られていても違和感がないのではと思えるほどの出来でありました。


【キャラクター】
 どのキャラクターにも個性があり、キャラが立っておりました。

・東大寺霧乃
 どこまでもマイペースで、それでいて要所ではしっかりと探偵役として鋭い切り口の推理を行うというギャップに魅せられました。また、自分の気持ちを伝えることに不器用であるという点を活かしたラストも、彼女の魅力をいっそう高めていたように思います。

・小坂祐司
 島に集まったメンバーの中では貴重な常識人……なのでしょうか? なんだかんだと言いつつ東大寺霧乃にホイホイとついていけている彼もまた、ことによると変わり者として分類されかねないな、などと感じながら読み進めておりました。

・守屋
 登場した当初は、「あ、この人絶対死ぬな。最初に死ぬな……」などと感じておりました。しかし結局、死亡フラグをバンバン建てながら最後まで生き残ってしまいましたね。ジャッカルを追いはらった男というレッテルは、伊達ではなかったようです。

・御代川姫子
 令嬢でありながら、壮絶な幼少期を過ごしていたとのことですが、その経歴に違わず序盤から奇行にはしり、事あるごとに自我を通しと、どこまでも恐ろしい人でした。この人が誰かを殺してしまうのではないかという心配もあり、同時に、自分の意思を尊重しすぎるその行動で、いつ殺されてしまうのかとハラハラさせられました。

・霧山朽葉
 友人を利用し、客人を犠牲にして自分の計画を遂行した彼女。第一の死体に顔がなかったということから、彼女はどこかで生きているのだろうという予測はできたのですが……彼女が古橋さんを殺しておきながら、平然と古橋さんになりすましていたのだとわかったときには、背筋が凍りつきました。

・古橋
 霧山朽葉を友人に持ってしまったが故に事件に巻き込まれた不幸な女性。作中では、どこか不気味でそこが知れないという描写が多くあった彼女――正確には彼女になりすました霧山朽葉――ですが、その実、友人の計画に協力しているあたり、本当は心の子の優しい人であったのだろうと感じました。だからこそ、彼女は浮かばれないのですが……。

・伊勢崎
 こういう人はなぜか死なないというのが、ミステリ小説には往々にしてありますね。度々疑いの目を向けられながら怯える彼女の様には、「もうやめてあげて……」と心が痛みました。生き残ったということが、彼女にとってはせめてもの救いなのでしょうか……。


【ストーリー】
 前述しました通り、目立った破綻もなく非常に完成度の高いものでありました。私はミステリものはあまり読まないのですが、そんな私でも、休日を返上して一気に読み終わることができました。特に、物語の要所に挟み込まれている仮想小説の引用文が、作品をより不気味で魅力的なものにしていたのではないかと存じます。携帯を隠して持ち込めないのか――そもそも電波が届くのかということや、小説の上巻を皆が読んでいるのだがらそこについて真っ先に議論されるべきなのでは等々、若干気になる部分はございましたが、それも物語自体を破綻させるようなものではなかったので、さほど問題にはならないのではないかと。


 感想は以上となります。ありがとうございました。

勇樹のぞみさんの意見 +20点2013年07月02日

 こんばんは、こよるさん。
 勇樹のぞみです。
 作品を読みましたので、感想を書かせていただきました。

 ミステリはシャーロック・ホームズと江戸川乱歩しか読まなかった人間ですので、そんな人間のサンプルとしてでもお役に立てばと思います。

 第一の殺人があった後、見立て殺人について主人公とヒロインが話し合うシーン。
 普通なら、主人公は小説に書かれた第二の犠牲者の殺害方法について、ヒロインに聞きませんか?
 それが分かったら、少しは対策もできるし、落ち着くこともできるでしょうに、まったく興味を持たないのが不可解でした。
 そして第二の犠牲者の時の食事、主人公は食べようとしませんでしたね。
 ヒロインが毒見をするように食べてくれて、ようやく食べる。
 火事の時は、室内に居る主人公なら火を放つことができた。

 こよるさんの用意したミスリードではなく、私が勝手に思考の袋小路にはまり込んだのでしょうが、私は主人公が犯人かと思い込みました。

 まぁ、そんな訳は無く、ヒロインの仮の謎解きになるほどと思いつつ、でもまだ続きがあるなと思って読むと、真の謎解きでなるほどと理解するという。
 いや、素人の私の意見など参考にならないかも知れませんが、穴の無い、見事な推理だと思います。

 と、ミステリの完成度のお話は文句が無い出来栄えだとして。
 ラノベとしての需要はどうかな、と思います。
「館モノ」のミステリって言うと、漫画「名探偵コナン」が毎度のごとくやっていますが、主人公達以外は使い捨てのゲストキャラなんですよね。
 そう言う意味で、読み手が感情移入できるのは主人公とヒロインだけと言う気がします。
 まぁ、そうですよね。気に入ったキャラが居たとしても犠牲者として殺されるか、主人公たちを騙している犯人か、どちらかになる可能性があるんですから、読み手だって予防線を張ってキャラに入れ込んだりしません。
 すると、特にミステリの謎解きが好きだと言う方以外に売るには、ラノベ的には、ヒロインの魅力、彼女と主人公の軽妙なやりとりだけで読者を引き込まないといけないということになります。
 この辺は富士見ミステリー文庫が潰れたけど、萌えやファンタジー、冒険活劇を絡めたライトなミステリだけは売れたという過去もあることですし。
 そういった背景を踏まえて、こよるさんが純粋なミステリの道を進むと仰るなら、仕掛けに磨きをかけると良いと思います。
 そうじゃなく、ラノベでミステリをやりたかったら、読者を引っ張る華のあるヒロインと、彼女と主人公の掛け合いの面白さを追及すると良いかと思います。
 確かに霧乃は良いキャラで、私も好ましく思いましたけど、読み手がミステリを特に好まなくても読みたいと思わせるほどの強い牽引力は残念ながら感じられませんでしたので。

 それでは失礼いたします。
 今後とも頑張ってください。

下等妙人さんの意見 +30点2013年07月12日

 下等妙人でございます。拝読いたしましたので、拙いながらもご感想をば。

【良かったところ】

・ヒロインが可愛い。

・ストーリーが完璧。


【悪かったところ】

・なし


【総評】

 完成度が怪物的に高く、非常に綺麗で芸術的にも思えるようなミステリー作品でした。
 読んでいたのが深夜で、頭がかなり疲れていたにもかかわらず、御作を読み終えた頃にはスッキリと爽やかな気分になっていました。本当に素晴らしいです。
 キャラ、ストーリー、設定などなど、指摘部分がほぼ見つかりません。感嘆しながら読み耽るばかりで短所をみつけようとも思えませんでしたし、実際目立つような粗はないように思います。
 ミステリーは普段ほとんど読まないのですが、御作をきっかけに好きなジャンルになりそうです。
 良い作品をありがとうございました。 
 ……ちなみに、僕は霧乃=霧山朽葉ではないか、と推理してました。はい、大馬鹿ですorz

 以上、終始上からで申し訳ございませんでした。

 執筆お疲れ様でした。

 ではでは。

相雨衣雄さんの意見 +30点2013年07月12日

 どうも相雨衣雄です。先日は拙著に感想いただきありがとうございました。
 以下、感想をば。


・文章について
 何、この理路整然とした美しさ。と、感嘆の念しか抱けないほどの、文章力の高さに感心するばかりです。問題などあろうはずがありません。見習いたい。


・キャラクターについて
 ミステリーなだけに、キャラクター性を取り上げるというのが、非常に難しいように思います。何せ半数は死体に変わりましたしねー。
 それでもキャラ立ちは、しっかりとされていて、魅力に溢れるキャラに思えました。
 なんと言ってもお気に入りは霧乃。全力でお世話しt。


・ストーリーについて
 非常に完成度の高いストーリーで、問題らしい問題が見つけられないというのが、正直な感想です。もっともミステリーというものに対して、意見を述べられるほど詳しくないのもありますが。
 素人目にではありますが、矛盾した点もなく展開におかしなところもありませんでしたし、とてもよくまとめられていると思いました。

 多少気になったところといえば、主人公と霧乃が海に飛び込むシーンでしょうか。高さがどれくらいあるかわかりませんが、普段からまったく運動というものをしていない霧乃が、いきなり海に飛びこんで、骨の一つも折らず無傷でいられるものだったのかどうか。それとも主人公がかばえ切れるくらいの衝撃だった、ということでしょうかね。まあ、深く追求しなくていいところかもしれませぬが。

 犯人に関しては、初めからずっと入れ替わりを疑って読んでいました。まあ、だからと行ってトリックやらなんやらが、わかるわけではありませんでしたけどねー。
 オーソドックスというだけあって、よく似た形の話を読んだことがある気がします。しかしそこはそれ。この作品には、こよるさん独自の感性がきらりと光っておりますし、似たり寄ったりの作品など、世にはごまんと溢れているので、気にすることはないでしょう。

 補足。誤字ですかね、これは。
・それきりで黙り込んでしまった。それきり「で」?


・最後に
 新しい作品を読むたびに、新鮮な感動をいただいております。この完成度の高さ、本当に見習いたい。
 感想に関しては、ほとんど役に立たないものしか残せていない気がして、心苦しいばかりです。自分程度では、この程度のことしか書けないorz
 執筆お疲れ様でした。次回作も頑張ってください。

 追伸。こちらの手違いで感想を二重に投稿してしまったようです。一つは削除済みですが、メールが二通届いてしまっているかも。すみませんでした。

神河さんの意見 +20点2013年07月13日

おお、タイトル前に王冠が!

めいっぱい遅れてしまいました、神河です。こよる様のミステリーへ挑戦しに参りました。お役に立つかどうか判りませんが、思ったことや感じたことを残していきますね。


一章
冒頭の劇中作から始まって、霧乃の登場にゆぅくんとの会話。二人とも良い感じで悪くないです。メインキャラのつかみはOKです。
船上にて、守屋と御代川に出合います。この辺りのシーンで、少し引っかかりを覚えました。
こういうミステリー物では仕方ないのでしょうが、キャラが聞かれもしないことをしゃべるのがいささか気になりました。
守屋の場合だといきなり声をかけてきて、ゆぅくんに自らの私生活を事細かに話します。そのゆぅくんも、初めて会った大人に霧乃の引きこもりやらを臆面なく話します。別に、人見知りすると説明しても良かったのに、と。
そして御代川ですが、

「小坂さんと東大寺さんね。私は御代川姫子(みよがわひめこ)よ。あなた方と関わり合いになるつもりは毛頭ないけど、せいぜいよろしく頼むわ」

「あんた、関わりたくないのに自分の名前をきちんと言うのかよ」、と突っ込んでしまいました。ここはもう少し、彼女は他人を突き放した方がよかったような。
ミステリーで船上のシーンはよく見ますが、主人公達とサブキャラの出会いはもう少し自然体で行われているような気がします。守屋の場合だと、たとえば霧乃が落とした本を拾ってくれるとか。
そもそも船には四人しか乗っていないのなら、港で四人が出合って徐々に会話していった方がよかったかなと思いました。
私はこの船上シーンで、作者のキャラ紹介を垣間見てしまったような気がしてならなかったです。
メイドの伊勢崎登場。
この人も使用人の分際で、他人にご主人のことをべらべらとしゃべります。しかも結構深いところまで。色々な説明は必要なのでしょうが、ここももう少し自然体でいってほしかったです。たとえば、おしゃべりが大好きなメイドさんするとか。
使用人ついでにいうと、守屋が御代川家の執事から彼女のかなり詳しい話を聞いたと言っていますが、これもちょっとどうかと。主人の秘密をぺらぺら話す使用人はクビでしょう。守屋がフリーのジャーナリストか何かだったら納得できるんですけど。

古橋さん登場。
なんかこの人、一番怪しい。霧山朽葉と年齢も背格好も一緒だし、もしや二人は入れ替わってるのか? だってメイドさんも霧山朽葉に今日会ったばかりだっていうし、誰一人として霧山朽葉の顔をしらないということ。それに、親切に歓待してくれた作者(霧山朽葉)もうさんくさい。何らかの事情で二人が入れ替わっている可能性が高いと、私は判断しました。

二章
霧山朽葉の死去
彼女は、首を切り落とされて死んでいました。あまりにも荒っぽい手口。返り血も浴びるだろうし、首の後始末も大変だろう。ここから導き出される答えは……(すみません、ここから感想ではなく推理に入ります)恐らく顔を隠す必要があった。
なぜか。
その死体の身元を特定させないため。でもどうしてか。亡くなった人物と入れ替わるためとか? だったら姿が似ている古橋さんがやはり怪しい。
という推理を私はしていました。

三章
このあたりから、御代川が毒殺されるというシーンから、古橋さんをほぼ犯人と断定し始めました。
御代川の生死を確認したのは古橋さんだけ。あまりに怪しい。

「いいか、この部屋には鍵が掛かっていたんだ。すなわち、密室だよ。密室で人を毒殺するような手段と言えば……」

機械仕掛けの殺人? どうしてすぐさまその図式が成り立つのか。他の方法もあるのではないか? 本当に御代川は死んでいたのだろうか?

四章
このクローズド・サークルに登場する、主人公たち以外はみんな容疑者。だから本人達が語っている言葉はすべて信じてはいけない。とくに古橋さん。彼女の「泳げない」発言は違和感があります。

「野生動物に襲われるくらいなら構わないが、残念ながら僕は泳げない体質なんだ。……いや、恥ずかしい話だけどね。だから、海に囲まれた無人島では、どうも生き延びられそうにない」

ここまで言う人が、船に乗ってまで、なぜ孤島(ほぼ無人島)に来たのでしょう。ずっと、引っかかっていました。
それがこの章で、解消されます。
短時間過ぎる、海へ突き落とす犯行。残りの四人にはほぼ犯行が不可能に近い。
消えた御代川の遺体。彼女の生死を判定したのは古橋さんだけ。死んでないとすれば、ますます怪しい古橋さん。
そして古橋さんと霧山朽葉が入れ替わっているとすれば、「泳げない」のトリックは破れるし、マスターキーも使えるはず。二人は友達同士なんだから「みんなを驚かすから」、と霧山朽葉が言えば本物の古橋さんも納得するでしょう。マスターキーがあれば、後半の本のページが変わっていたのも説明できる。
ここまでで判断したのは、古橋さんと御代川のダブル犯人説。どうでしょうか?

五章
犯人が判明します。
御代川姫子。おかしい。どうにも釈然としない。動機もこじつけすぎるし、

そもそも、部屋の中に『第二の犠牲者』の紙がある時点でおかしいのだ。客室には鍵が掛かっていて、その部屋の使用者以外は、誰も中に入ることが出来なかった。それはもちろんのこととして、たとえ犯人が中に入れたとしても、犯人はそんな紙を置くことが出来たはずがないのだ。

ドアの下から紙を差し入れれば良かったのでは。

六章
やっぱり犯人は古橋さんだったのか。推理もほぼ思っていた通りでした。
しかし熊切千早のことはすっぽ抜けていて、「ほーう」と言った具合で読んでいました。

その他
熊切千早の監禁部屋を探し当てるのが、早すぎというか、都合が良いように思えました。だって長年住んでるメイドさんでさえ、今まで見つけられなかったのですから。

それと睡眠薬のくだりも強引のような気がします。かなり効き目がいいようだし、自分が飲んだら次の日まで寝てしまって犯行に支障が出るのではないでしょうか。リスクが高い。

一番気になったのは、島に招待された三人が霧山朽葉に会って誰も喜んだり、驚いていないことでした。一体あんたらは何をしにここに来たんだよと。島にどうしても来たいという、各人の理由づけが弱いような気がします。


総じて完成度は高いと思いました。そしてこよる様の文章力も上がっているという事実。あとは人物に、詳細なリアリティが加味されればというところでしょうか。

かなり不躾になりましたが、楽しめたのは事実です。それではまたお会いできることを祈って、失礼します。