ライトノベル作法研究所
  1. トップ
  2. 鍛錬投稿室
  3. 高得点作品
  4. 長編小説
  5. 魔術師の弟子公開日:2013年12月08日

魔術師の弟子

樹思杏さん著作

ジャンル: 中華ファンタジー・医療

 プロローグ

 アルフレッド・スタンリーは馬車を降り立った。これ以上先は馬車で進むことができないという。
 もうすぐ冬を迎えようとする季節。馬車の中もそれなりに冷え込んだが、外に出るとその寒さは段違いだ。足先から忍び込む冷気に、アルフレッドはフロックコートをかき合せた。
 周りを見渡すと、閑散とした風景が広がっていた。
 振り返れば作物の少ない畑と古い民家が点在しており、前を向けば舗装されていない道が深い森へ繋がっている。
 ここで待っているように御者に伝え、アルフレッドは先へと進んだ。
 落ち葉の積もる柔らかい土を踏みしめながら、鬱蒼と生い茂る木々の中を通っていく。
「本当に、こんなところに人が住んでるんだろうか?」
 思わず独り言が漏れる。
 まだ日の高い時間にもかかわらず、木々に陽光が遮られるせいで薄暗い視界しか保てない。冷たい風が吹き込んできて、彼の金髪が乱れた。
「まさに魔術師の隠れ家みたいだ」
 自嘲気味に笑う。
 アルフレッドは『森の魔術師』と噂される人間を探し求めて、佑南村まで足を運んだのである。ここは清華共和国の中でも辺境に位置する村の、そのまた外れにある。
 そして、この森には魔法のように病気を治す医師がいると、まことしやかに囁かれているのだ。
 本当に『彼』が、ここに住んでいるという保証はない。
 だが、あやしげな風聞であっても藁にもすがる思いで、アルフレッドは歩みを進めているのだった。
 しばらく歩いて、アルフレッドはようやく小さな家を見つけた。森に隠されるように建てられた、質素な外観の家だ。表札も何もかかっていない。だが窓から明かりが漏れているので、中に誰かがいるのは間違いなかった。
 アルフレッドは覚悟を決めると、その家の扉をゆっくりと開けた。




 第1章 

 1

 セルジア王国と清華共和国の間で勃発した戦争が終わりを迎えたのは、十七年前のこと。
 大敗した清華共和国は、セルジア王国に峯界地区を無期限で貸し与えることになる。こうして峯界はセルジアの租借地となった。
 中心を貫く江河のおかげで、峯界は輸出入の中心地として金融・商業が盛んとなった。豊かになるに従って、さらに多くの外国人が訪れるようになる。多くの人によって産み出された莫大な富のおかげで、峯界は清華共和国一の大都市となり、今、まさに黄金期を迎えていた。
 峯界の中でも有力なセルジア人のみで構成される中心部は、異国の雰囲気を醸し出した地区となっている。清華共和国の中にありながら、まるでセルジア王国首都ファイザの一画かと見紛うほどだった。その中で全てのことが完結するように、生活に必要な全てのものが揃っている。
 病院もその一つだった。
 アルフレッド・スタンリーは、今年の夏にファイザにある医学院から、ここ峯界医学院へ派遣された医師である。大学院を修了した後に、初めて派遣されたのだ。
「おはようございます。アダムス夫人。調子はいかがですか?」
 アルフレッドは外来診察室に入ってきた中年女性に、笑顔で声をかけた。
「おはようございます、先生。今日も素敵ですわね」
 元の肌色が分からないほど化粧を施した患者は、にっこりと微笑んで挨拶をした。部屋中に広がった化粧と香水の匂いに、思わずむせそうになる。
「これだけ身なりに時間かけられるんなら、元気でしょ。病院に来る必要なんてないのに」
 後ろで控えていた看護師が小声で呟いた。
 アルフレッドは彼女に咎めるような視線を送って、あらためて患者に向き直った。
「さて、今日はどうなさったんですか?」
「……実は、胸の調子がちょっと」
 言うなり、夫人は服の胸元を広げた。
「聴診していただけますか?」
「……ええ、もちろん」
 アルフレッドは聴診器を耳に当てて、ベルの部分を胸に押し当てた。鼓動はかなり早いが、雑音は聞き取れない。
「胸の音は綺麗ですよ。心配いりません」
「そうですか。でも動悸がするんです」
「じゃあ、不整脈の頓服をお出ししましょう」
 診療録に所見を記しながら、安心させるように笑顔を浮かべると、夫人は顔を真っ赤にしてうつむいた。
 処方せんを書いていると、横から雑談のように夫人が話し始めた。
「やっぱり先生に診ていただくのが一番だわ。実は、うちの旦那はスミス先生にかかってるんです。スミス先生もいい先生なんですけど、最近旦那の調子があんまりよくないみたい。食欲もないし、少し痩せたみたいなの。まあ、もともと太り過ぎてたのもあるんですけどね。私、スタンリー先生に診ていただいたらって言ってみたんですよ。でも旦那はスミス先生に心酔してて嫌がるんです」
 次から次へと溢れ出る愚痴をこぼしながら、夫人はアルフレッドの手を取った。
「あの! 私はスタンリー先生一筋ですから」
「あ……ありがとうございます」
 かなりの迫力に、アルフレッドは思わず仰け反った。なかなか帰ろうとしない患者を、看護師が無理やり診察室の外に出して、次の患者を呼び込む。次はアーチボルト子爵夫人だ。机に並んだ診療録の山から、子爵夫人の分を取り出す。
 どんどん訪れる未亡人やら、既婚夫人、老女から社交界前の少女と、女性だらけの診察が終わった頃には夕方になっていた。
 体をほぐすように伸びをしていると、診察室の裏から誰かが入ってきた。
「だいぶ慣れてきたんじゃないか?」
 声をかけてきたのは、上司であるジェフリー・スミスだった。
 金髪赤ら顔のジェフリーは見た目こそ強面であるが、気のいい大らかな上司だった。人種差別の多い峯界医学院の中で、セルジア医学を全ての人に提供しようとする姿勢を貫いている。尊敬に値する医師だった。
「ええ、まあ。セルジアにいた時は研究がメインだったので、まだ臨床に戸惑うこともありますけど」
「女性患者は皆、君ばかりを指名するってもっぱらの噂だぞ。羨ましいものだな」
「先生みたいに、男の患者さんにもそう言ってもらえるといいんですが」
 笑いながら冗談を口にしたジェフリーに、アルフレッドは溜め息をついた。
 アルフレッドの容姿や業績をやっかむ者は少なくない。ジェフリーのようにからかわれるだけで済まずに、皮肉や嫌みを含んだ言葉を投げられることもしばしばだった。
「困ったことがあったら、いつでも相談してくれ」
 力強く肩を叩いて、ジェフリーが去ったと思ったら、その後ろから別の上司が姿を現した。
 彼はセドリック・チャン。峯界出身の医師で、セルジア人医師に劣等感があるのか、他の同僚にも厳しい上司だった。そして特に、アルフレッドに対する風当たりが一番きつい。なるべく顔を合わせないようにしていたのに、ジェフリーに隠れて見えなかったのだ。
 軽く会釈をしてセドリックの横を通り過ぎようとすると、案の定呼び止められた。
 今度はどんな嫌みが飛び出すかと、身構えたアルフレッドにかけられたのは予想外の言葉だった。
「アルフレッド。君に診てもらいたい患者がいるんだが」
「僕に、ですか?」
 きょとんと目を見張る。まさかセドリックが自分に診察依頼をするとは想像しなかった。
「どなたです?」
「……さる要人だ」
「要人、ですか。それなら、ここに来て間もない僕でなくても」
 セドリックは口の端に笑みのようなものを刻んだ。
「またまた謙遜しないでくれ。セルジア全土に鳴り響いた天才である君をおいて、誰に頼むって言うんだ」
「それはあくまで噂です。僕が臨床で出来ることは限られています。チャン先生の足元にも及びません」
「そうかもしれないがね」
 見え透いたお世辞に、セドリックは気をよくしたように頷いた。
「だが……私も含め、多くの医師が手を上げている状況なんだ。困ってしまってね」
 セドリックは性格に難があっても、医師としての技量は優秀だ。彼が苦慮している症例となれば、確かに困難な病気である可能性が高い。
 断ろうと思っていたが、少しだけ興味がわいた。
「お役に立てるか分かりませんが、とりあえず、診させてもらいましょうか?」
「助かるよ。じゃあ、付いてきてくれるか?」
 セドリックの後を追っていくと、病院の最上階にある特別室に辿りついた。この病室の料金は法外に高い。ここに入院できるとなれば、人物は限られてくる。
「あの。ところで、さる要人って一体」
 部屋に入る前に、アルフレッドは尋ねた。セドリックはノックしかけた手を止めると、アルフレッドを振り返った。そして意地悪い微笑みを浮かべた。
「峯界総督であらせられるベンジャミン・ピール総督だ」
 今の峯界の統治権はセルジア王国にある。セルジアから峯界の全てを一任されていると言っても過言でない地位に相当するのが、『峯界総督』という役職だ。
 ここ峯界で、最も権力のある人間だった。
 さすがにそこまで予想はしていなかった。診察すると言った数分前の自分を後悔する羽目になる。
 セドリックが扉を開けた。
 ベッドには太った男が横たわっていた。身を投げ出すように大の字になり、苦しそうに喘いでいる。顔は土色で、額には脂汗が浮いていた。
 ベッドサイドには妻とおぼしき女性と、付き人のような出で立ちの青年が立っている。
「彼女は香桃(シィァン・タオ)・ピール夫人。隣は秘書のデニス・バーナード氏だ」
 セドリックが簡単に紹介した。
 香桃と呼ばれた女性は、うつむいたままだった。夫人はセルジア人ではない。総督が峯界に赴任した際、知り合った清華人だと聞いている。わざわざ総督が異国人を妻に望んだと言うだけあって、かなりの美貌を誇る女性ともっぱらの噂だった。
 そして隣に立つ秘書は、まだ比較的若そうな青年だった。寝癖の残ったくせ毛の髪をかきながら、所在なさげに視線をさまよわせている。
 セドリックがベッドサイドへ近づき、総督に声をかけた。
「総督……お加減はいかがですか?」
「いい訳ないだろう! 見て分からんのか、この藪医者がっ」
 息も絶え絶えになりながら、口から出てくるのは罵倒の言葉だ。
「……申し訳ありません」
 セドリックは強張ったような顔をして、頭を下げた。
「わしの病名は、分かったのか? 治療は、どうなってる?」
「大丈夫ですよ。順調に検査は進んでいます」
「そのわりに、全然よくならん!」
 切れ切れに不平不満を連ねていく。セドリックはそれを遮るように口を切った。
「今日は、特別優秀な医師に来ていただいたんですよ。ファイザ医学院を過去最高の成績で卒業して、大学院でも見事な論文を修めた医師です」
「なんと! 本当かっ」
(いやいやいや……)
 嵌められた、と気づいたときには遅かった。
 病気で追いつめられた総督のこちらを見つめる瞳に、希望の光が灯っている。
 アルフレッドは内心の焦りを笑顔で覆い隠した。
「総督。お初お目にかかります。アルフレッド・スタンリーと申します。少々、診察させていただいてよろしいですか?」

 *

 ベンジャミン・ピール総督が体調を崩したのは、二ヶ月ほど前かららしい。
 残暑の残る九月。最初は夏ばてかと思っていたようだ。
 主な症状は全身倦怠感、微熱、口渇感、夜間の冷や汗など。一つ一つは重篤感のないものだったため、そのまま放置していた。
 異変に家族が気づいたのは、食事を摂らなくなってきた頃だという。もともと美食家で高度肥満体であった総督が、ここ二ヶ月で十キログラム体重減少した。これはおかしいと峯界医学院を受診したのが、先週ということだった。
 検査は金に糸目をつけず行われているが、病気の原因も治療法も見つけられていない。
 診療録は非常に読みやすい、手本のような文字で書かれていた。検査結果も整然とまとめられている。セドリックらしい几帳面さだった。
 診療録を読み込みながら、アルフレッドは溜め息をついた。
「参ったな……さすがチャン先生。ほとんど調べてる。追加しないといけないような検査はないな」
 アルフレッドに恥をかかせたいという暗い希望もあるだろうが、セドリックが困って頼ってきたことは間違いない。患者が一般人でなく、峯界総督であることもセドリックを焦らせた要因の一つだろう。
 椅子の背もたれにもたれかかり、大きく伸びをした。ここで診療録とにらめっこしても、状況は変わらない。
 アルフレッドは図書館に向かうことにした。
 峯界医学院にはセルジア王国の文献の他、清華共和国の文献も豊富にそろえられている。彼のような症状をきたした症例報告がないか、調べてみる価値はある。
 アルフレッドは図書館が好きだ。古い書物に特徴的な匂いを深く吸い込むと、腹の底が締めつけられるような、わくわくする気持ちが湧き起こってくる。
 症例報告がまとめられた棚に向かい、手元にある本からめくっていった。
「腹痛と発熱を主訴に……」
「頭痛と貧血を主訴に……」
「胸痛としびれを主訴に……」
 ざっと目次に目を通しながら、気になった項目に栞をはさんでいく。両手で抱えられるほどの分量を集めたところで、一旦机まで運んだ。そして椅子に深く腰をかけて、栞のあるページをじっくり読み始めた。
 時代の新しいものから古いものに遡って調べていたが、読んでいる最中に気になった点があった。
「この人、さっきもいたような」
 ぱらぱらとページを戻しながら確認したが間違いない。興味深い考察や特徴的な切り口の症例報告は、決まって同じ人物が書いているのである。
『陳王勇(チェン・ワン・ヨン)』という名の医師だった。
 彼はどうやら、清華共和国の皇宮医長を務めた人物らしい。そして二十年前を境に、彼の名前はぱったりと途切れている。
 彼の報告を読むのは面白かったが、今回の症状に当てはまる症例は見つからなかった。
(話をしてみたいな)
 総督の病気について相談するのが第一だが、そうでなくてもこの医師に教えを請うてみたいと思った。
 だが、彼の行方を知らせる手がかりは全くなかった。煙のように突然表舞台から姿を消しているのである。皇宮医長まで上りつめた医師であるにもかかわらず、だ。
 アルフレッドはジェフリーの研究室を訪れた。
「どうした?」
 書物から目線を上げて、ジェフリーはアルフレッドを迎えてくれた。
「ちょっとお聞きしたことがあって」
「お、何だ何だ? ――看護師に慕われる秘訣か? それとも、エレナのような素敵な妻を迎える方法か?」
「興味深い話ですが、それはまた今度」
 彼お得意の冗談を受け流して、図書館から持ってきた一冊の本を差し出した。
「この著者なんですけど」
 ジェフリーは指差された場所に書かれた人物の名前に目に留めると、心持ち目をそばめた。
「……陳王勇、か?」
「ええ。知識も豊富で、とても面白い視点の持ち主ですよね」
「そうだな――彼が、どうかしたか?」
「ご存知ですか?」
 ジェフリーは峯界の暮らしが長い。もし陳王勇が高名な医師なら、名前くらい知っていてもおかしくないだろう。そう軽い気持ちで尋ねたのだが、不思議と彼は躊躇ったように見えた。
「ああ……知ってるよ。一緒に働いたこともある」
「本当ですか!」
 それは予想外の答えだった。
「会って話がしてみたいんですけど。今、彼はどこに?」
 身を乗り出したアルフレッドを見つめて、ジェフリーは困ったように息を吐いた。
「それが、彼は二十年前に皇宮から姿を消して、それ以来、ずっと行方不明なんだよ」
「行方不明?」
「そう。もう、とうに死んだとさえ言われている」
「そんな……」
 ジェフリーは何かを思い出すように目を細めた。
「君が目をつけた通り、優秀な男だったよ。セルジア医学にも清華医学にも通じた博識な医師だった。それに情に熱くて、男気のあるやつだった。残念ながら、私の方が男前だったがね」
「じゃあ、もう陳医師の行方は全く分からないんですね」
「うーん、まあなあ」
 歯切れの悪い返答である。
「何か知ってるんですか?」
「いや、あくまで風の噂、というか」
「何でもいいから教えてください」
 アルフレッドは深く頭を下げた。
 彼の行方をこれほど必死に探す理由は、我ながら説明できない。だが、どうしても知りたいと思う気持ちは止められなかった。
「峯界から馬車で半日ほど行ったところに、佑南村という村がある。そこに『森の魔術師』と呼ばれる人物の噂があるんだ。彼はまるで魔法のように病気を治すことができると」
「はあ……」
 いきなり始まった胡散臭い話に、アルフレッドは曖昧な相槌を打った。
「いわゆるインチキ宗教の教祖的な輩かと思ってたんだが、彼に治療をしてもらった患者の話を聞く限りでは、きちんとした医療を受けていたんだ――佑南村の外れの森に住んでるっていうんで、そんな辺鄙なところに凄腕の医師がいるもんかと思って、少し調べてみたんだ。すると出された処方が、私の記憶にある陳医師の調合の仕方と重なるように思ったんだ」
「行ってみたことは?」
「馬車で半日かかるんだぞ? 往復で一日潰れてしまう。そんな暇はないよ」
 ジェフリーは小さく肩をすくめた。
「だから、何の根拠もない。『森の魔術師』が、陳医師かどうかなんて全く保証できないし、それどころか、そもそもまともな医者がいるかどうかさえ分からないんだ――悪かったな、期待させるようなこと言って。忘れてくれ」
「いえ、そんな」
 アルフレッドは少し考え込むように、片手で口を覆った。
「明日、一日休みを頂けませんか?」
「はあ? まさか、お前。佑南村へ行く気か?」
「すみません。気になったことは確かめずにはいられない質なんです。明日は外来業務もないので……」
 ジェフリーは目を見張って、溜め息をついた。
「君がそこまで言うなら、好きにしたらいい。しかし、本当に物好きだな。そこにいるのが絶世の美女というなら、無駄足と分かっていても行くかもしれんが」
 最後まで冗談なのか本気なのか分からない言葉を呟くジェフリーに一礼して、アルフレッドは部屋を後にした。

 *

 陳依林(チェン・イー・リン)は長い黒髪を後ろで一つに束ねると、机に向かった。
 机の上には『覚書』と書かれた数冊の本、使い古した秤と軽量匙、薬包紙や生薬をこした器がいくつかが散らばっている。ぱっと見ると乱雑に置かれているようだが、自分にとってはこれが一番使いやすい配置だった。
 先生は依林の整頓能力に文句をつけることはなかったが、弟分である楊柚犀(ヤン・ヨウ・シー)は不平不満を隠さない。
「精密な調合をやってるんだから、もっと綺麗な机でやってよ」
 だの、
「机の整理は頭の整理にもつながるんだよ」
 だの、
「こんなにばらばらになってると、絶対いつか間違えるよ」
 など、枚挙すればいとまない。
 依林は調合を誤ったことはないし、これからもありえない。他人には理解できないかもしれないが、これは自分なりの理論で配置しているのだ。
 依林の心に響いていないことくらい柚犀にも分かっていそうなものだが、飽きもせず新たな苦情を申し立ててくるのである。
 依林は肩を鳴らして腕まくりをすると、覚書のとあるページを開いて、いつものように器を手に取った。
 白い粉を匙ですくい、視線を注ぎながら、少しずつ秤に乗せた薬包紙へ移していく。この分量が非常に重要で、針に糸を通すような集中力が要求される。一匙分を終えて次に移ろうとした時、背後からそっと声がかかった。部屋の出口から、小柄な少年が顔を覗かせている。
「……依林。ちょっといい?」
「何、柚犀?」
 依林は不機嫌に答えた。
 依林は調合を邪魔されるのが好きではない。極限まで研ぎ澄ました集中が遮られてしまうからだ。柚犀はそれを知っているので、作業している間は、よほどのことがなければ部屋に入ってくることさえないのだが。
「実は、客が来てるんだ」
「……客?」
 依林は器用に片眉を上げた。
「峯界医学院の人らしいよ」
「そんな人が、こんなところまでわざわざ来るわけないでしょ」
「だって、自分でそう言うんだ。俺だけじゃ対応できないし。とりあえず相手してよ」
「仕方ないわね……」
 現在、ここを訪れる客は激減している。その貴重な機会を逃すわけにはいかないだろう。あからさまな溜め息をついて席を立った。
 調合室から出ると、待合室の受付台の内側に繋がっている。
 待合には一人の青年が立っていた。
 はっとするほど端正な顔立ちの青年だった。透き通るような白い肌と滑らかな金髪、澄んだ湖を思わせる優しい緑の瞳。
 一目で異国人と分かる容姿だった。フロックコートの中から、きちんと襟元まで詰められたシャツと若紫色のタイが覗いている。身元のしっかりしたセルジア人の服装だ。
 突然の訪問者は、奥から現れた依林に気づいたようだった。
「何のご用ですか?」
 依林がセルジア語で用件を尋ねると、彼はぎょっとしたように依林を見つめた。
「君は、セルジア語が話せるの?」
「ええ。それが何か?」
「いや……」
 身も蓋もない返答に、青年は続く言葉を失ったようだった。だがすぐに気を取り直したように続けた。
「その、僕はアルフレッド・スタンリー。峯界医学院の医師で、ここに、その……陳さんがいるかもしれないと聞いて……」
「いますけど」
「いるのかっ」
 あっさり答えると、青年は受付台に身を乗り出してきた。その勢いに呑まれて、依林は思わず後ずさりする。いると思って来たんじゃないのか、と突っ込みたくなる。
「ええ。一体、何なんですか?」
「ぜひ、お会いしたくて」
「だから、何の用かって聞いてるじゃない」
 嫌な予感がして、依林は苛々したように言った。つい敬語を忘れて、いつもの口調に戻ってしまう。彼は気にした様子はないようだった。
「とある患者のことで相談があって。これ以上は申し訳ないけれど、本人にしか伝えられないんだ。彼を呼んでもらえないかな、お嬢さん」
 やはり想像通りだった。彼は勘違いしている。勘違いの上に、『お嬢さん』扱いが腹立たしい。化粧気がなく、童顔の依林は実年齢より若く見られることが多い。だが、実際にはもうすぐ二十歳を迎えるのだ。
 苦々しい思いで、依林は冷たく言い放った。
「……見た目で判断する白人の典型的なタイプね。あなた医師らしいけど、大した観察眼だわ。あなたが探している人間は目の前にいるの。さっさと用件を言ってくれない?」
 アルフレッドと名乗った青年は目を丸くした。
「もしかして、君が……『森の魔術師』と呼ばれてる?」
「それは、私が呼ばれてるわけじゃない。先生よ」
「先生?」
「陳王勇。彼が私の先生。残念だけど『森の魔術師』は死んだわ。一ヶ月前のことだけど」
「死んだ……? そんな!」
「『森の魔術師』に用があるなら、お引き取り下さい」
 青年は目に見えて落胆していた。依林はそんな彼を冷ややかに見つめた。
 こういう輩は彼が初めてではなかった。
 陳王勇を訪ねてきた患者やその家族は、一ヶ月たった今も、数こそ少なくなれど途切れることなく続いている。
 そして今の青年のように、依林を見てがっかりして帰っていくのだ。
「君は彼の弟子なんだね……名前は?」
 用件を失った青年はすぐに立ち去るかと思いきや、話を引っ張ってきたので依林は驚いた。
「……陳、依林」
「依林か。素敵な名前だ」
「それは、どうも」
 美青年に真正面から褒められて、少し気恥ずかしい。それがばれないように、わざとそっけなく答えた。どうも調子が狂う。青年に悪気はないようだった。
「じゃあ、君に相談してもいいだろうか?」
「え……私に?」
 本気か、という意味を含めて依林は問い返した。
「だって、君は陳医師の弟子なんだろう? 今、彼の知識を引き継いでるのは君しかいないじゃないか」
「そうだけど」
 依林は受付台から出て、青年の前まで歩いていった。
 隣に立つと彼の背の高さがうかがえる。清華人では叶わない広い肩幅とすらりとした体躯。見下ろす緑の瞳は優しげではあるが、異国の人間の色だ。
 依林は臆した風に見えないよう、敢然と顔を上げて青年を見つめた。
「変わってるわね、あなた」
「アルフレッド、と。君のことは依林と呼んでも?」
「好きに呼んで。ところで、本当に私でいいの?」
「もしかして、困る?」
 アルフレッドは形のいい唇に、悪戯めいた微笑みを浮かべた。そういう風に笑うと、少し子供っぽく見える。実際には二十代半ばくらいか。
 医師としてはまだ若い方だろうが、峯界医学院は清華共和国随一の病院である。そんな病院で勤務する医師が、辺境の土地の娘を相手に何を相談するというのだろう。
「そういうわけじゃないけど……」
 だが、彼は『森の魔術師』がこの世を去って初めて、『依林』自身を頼ってくれた人である。何とか力になりたいと思った。たとえ何か裏があったとしても、話を聞くくらいなら問題ないだろう。
 覚悟を決めると、依林は受付台の隣にあった椅子を引き寄せた。
「じゃあ、どうぞ、アルフレッド――役に立てるかどうか分からないけど、まずは話を聞くわ」



 2

 アルフレッドは『とある患者』という前置きで、彼が困っている原因不明の病について話し始めた。
 彼はかなり頭がいいのだろう。ややこしい症例を、筋道だって分かりやすく説明してくれた。話しながら、こちらの理解をきちんと確認している。聞き分けの悪い患者や独りよがりな患者を相手に、根気強く説明をしている医師であることがうかがえた。
 その『とある患者』の症状はどれをとっても珍しくない、ありふれたものだった。逆に言えば、特記すべき所見に欠けるため、診断の情報になりにくい。
 それでもいくつかの検査や経過をみれば、見当をつけるくらいはできるはずだが、どうやらどの検査も決め手に欠けるようだった。
「手がかりがないかと文献を調べている時、陳王勇医師の存在を知ったんだ。彼は皇宮医まで上りつめた医師だというし、彼の質の高い論文を読んで、ぜひ教えを請いたいと思った。ここに彼がいるかもしれないという噂を聞いてきたんだよ」
 彼はそう言って、話を締めくくった。組んだ指越しに、こちらを見つめてくる。
 依林は王勇が皇宮に勤めていたことも、論文を執筆していたことも知らなかった。
 記憶にある彼は、すでにこの森に住まいを構えており、患者のこと以外で森を離れることはほとんどなかったのだ。ならば、依林の記憶以前の話なのだろう。
 王勇は依林が尊敬する医師だが、お人好しで少し天然で、そそっかしいところもある人だった。アルフレッドの話に出てくる人物像とは一致しなかった。
「何か気づくことはある?」
「そうね……いくつか気になるところがあるけど」
 首を傾げて考え込んだ時、そっと入口の扉が開いた。
 依林は驚いて、注意をそちらに向ける。まさか一日に二人も訪問者があるとは思わなかった。王勇が生きていた頃でさえ、そこまで繁盛していたわけではないのである。
「すみません」
 入ってきたのは三十代くらいの女性だった。その手に幼い赤子を抱いている。
「こちらに何でも診てくださる先生がいると聞いて……」
 おどおどとした様子で、彼女は扉の前に立ち尽くしている。
「どうぞ。お入りください」
「ええ……でも」
 彼女は依林の前にいる異国の青年に、躊躇ったような視線を向けた。どうして外国人がこんなところに? と思っているのが、その表情から見てとれる。不信感といくばくかの好奇心と。
 依林はアルフレッドに待っていてくれるよう目線を送り、自分の方から彼女に近づいていった。
 彼女の腕で眠る赤子は顔が紅潮している。側に寄るだけで不機嫌そうにしゃくりを上げて、大声で泣き出した。
「こちらの赤ちゃんですか?」
 依林は赤子の手をとって脈を診た。女は素直にこくりと頷いた。
「抱かせていただいてもいいですか?」
「えっ。あ、はい。どうぞ」
 女は予想外のことを言われたようだったが、すぐに依林に赤子を渡した。母親から離れた赤子はさらに癇が高ぶったようで、泣きやむ気配は全くなかった。
 依林は母親に赤子を返した。
「どうされたんですか?」
「一週間前から熱を出して、全然ひかないんです。機嫌もすごく悪くて、すぐに泣くし。お乳もあんまり飲んでくれなくて。村の薬師さんに診てもらったんですけど、赤ちゃんだから仕方ないって言われちゃって。でも何日たっても治らないものだから心配で」
 女は不安を一気にまくしたてるように話し出した。
「風の噂でこちらの先生なら、赤子も診てくださると聞いてきたんです」
「そうですか」
 赤子は唇が乾燥しており、手足が冷たかった。爪の血行も悪いようだ。リンパも腫れている。
「何ヶ月ですか?」
「四か月です」
「おしっこは出てます?」
「はい。でもいつもより少ないと思います」
 聞きながら、結膜を見て腹を触る。少し張っているようだ。
「吐いたり下痢をしたりはしてますか?」
「ええ。少し」
「分かりました。ちょっとお待ちください」
 女は戸惑ったように依林を見上げた。
「えっと、あの……」
 何か言いたげに口ごもる。
 恐らく彼女は、自分を助手か受付係だと思っているのだろう。奥の部屋には、しかつめらしい医師が待っていると信じている。
 その誤解を解くのは簡単だった。
「ここにいる医師は私です。薬は私が処方します」と言うだけだ。
 きっと彼女は騙されたと憤慨して、回れ右で帰るだろう。だが、それでは赤子は救われないままだ。
「……先生に症状を伝えて、薬を処方してもらってきます」
 依林は静かにそう添えた。女は途端に瞳を輝かせた。
「ああ! ありがとうございます。お願いします」
 なるべく表情を見られないよう、依林はうつむいて奥の調合室へ入った。
 調合室にはちゃっかり柚犀が座っている。柚犀は伸びをした姿勢で、ちらりとこちらを見遣った。
「何で勝手に座ってるのよ」
「いいの? 嘘ついちゃって」
「仕方ないでしょ」
 偽らずに済むなら、それに越したことはない。だが残念ながら、依林ではどうしたって信用してもらえないのだ。
 拳を強く握りしめて、依林は躊躇いを振り払った。
「さ、どいて。処方するから」
 棚にある調合済みの薬包をいくつか取り出した。
 目をつむって、抱いた赤子の重さを思い出す。
 赤子や小児は、成人と同量の薬を処方するわけにはいかない。体重に応じて減量する必要がある。どれだけ減量するかは匙加減だ。ここに医師としての技量が試される。
 調合済みの薬包を開いて、机に置いた新品の薬包紙の上にさらさら落としていく。途中で止めると、再び薬包紙を畳んだ。同じことを何回か繰り返して、減量した薬包を作った。
「お待たせしました」
 待合に戻ると、赤子を抱いた女は受付台の椅子で座っていた。その側にアルフレッドが立っている。どうやら彼が席を譲ったようだった。
 水呑みを準備し、薬包の一つを開いて水呑みの中へ溶かし込んだ。
「こちらを赤ちゃんに飲ませてみてください」
「ええ、はい」
 不安そうに答えて、女は水呑みを受け取った。恐る恐る水呑みの先を赤子の口に含ませてやると、赤子は少しずつ飲み始めた。
 飲み終えたのを確認してから、依林はいくつかの薬包を受付台の上に並べた。色を変えて種類を分けている。
「今飲んでもらったのは、これ。下痢の風邪でぐったりとしている子供に使います。この後少し落ち着いてきたら、こちらの薬に変えてください」
 依林は包み紙の色が違う薬包を渡した。
「こちらも吐く風邪の子につかいますから。一日三回飲ませてくださいね」
「嫌がったらどうしたらいいですか?」
「そうですね。その時はこっちの薬に変えましょう。これは甘くておいしいので飲んでくれると思いますよ」
「甘いんですか!」
 女は驚いたように声を上げた。
 薬はどうしても苦いというイメージが強い。だが、実際は体に合う薬ならそれほど飲みにくいものでもないし、甘みの強い薬もある。
「あと、もしかしたらなんですけど、この子、元気な時でも夜泣きが多いんじゃないですか?」
「ええ、そうなんです。でも、どうして分かるんですか?」
 依林はそれには答えず、にっこりと微笑んだ。そして新たな薬包を渡す。
「お体が落ち着いてからでいいですけど、この薬は夜泣きに効きますよ。試しに使ってみてください」
 そうこう話している間にも、赤子の顔色が落ち着いてきているように見えた。少なくとも、高ぶる泣き声を上げることはなくなった。
 それは女にも分かったのだろう。彼女は顔を綻ばせた。
「本当にありがとうございます。あの、先生にお礼を言いたいんですが」
 依林はぎょっと目を見張った。
「えっと、それは……」
「先生はちょっと忙しくて、手が離せないんですよ」
 助け船は背後からあった。いつの間にか受付に出てきた柚犀が、人好きのする笑顔で平然と答えている。
「そうなんですね。では、感謝の気持ちを先生に伝えてください」
 女は何度も礼をすると、勘定を払って出ていった。
 手渡された紙幣を、依林はしばらく握りしめる。何といっても、初めて自分自身で稼いだ金だ。
「見事な手腕だね、依林」
 静かに感激している依林に、アルフレッドが声をかけてきた。
(ん? ……しまった!)
 依林ははっと我に返る。彼の存在を完全に失念していた。
「あ……その。聞こえてたの?」
 清華語でのやりとりが理解できるとは思わなかった。
「こっちに来る時に、清華語を勉強したんだ。読み書きはまだおぼつかないけど、会話ならできるよ」
「そう……あの、待たせてしまってごめんなさい」
 依林は素直に謝った。
「構わない。君の腕前を見せてもらえてよかった」
 アルフレッドは優しく微笑んだ。
「君は清華医学を学んでいるんだね。さっき処方した薬は清方だろう?」
 セルジア王国を中心として繁栄した医学と、清華共和国を中心として繁栄した医学の間には、同じ医療といえども大きな隔たりがある。
 セルジア医学は、解剖によって得た人体内部の構造知識を中心として、実証によって研究された治療を探る医学である。
 対する清華医学は、解剖学的な知識は持たずとも、体の自然治癒力や免疫を高めることで治癒に導くことを特徴としている。清華医学では『清方』と呼ばれる、生薬を複合的に調合した薬を用いる。よって清華医学を極めた医師は、清方医と呼ばれることもある。
「確かに彼女に渡した薬は清方よ。でも自分は清方医だって言い切るつもりはないわ。ただ清方が得意なのは本当なの――先生は両方に精通していたけど、私はまだ清方を勉強するので手いっぱいだったから……」
 セルジア医学と清華医学は、異なった理論や治療体系をもつため、大部分の医師は互いの医療を認めておらず反目し合っている。
 だが、王勇の意見は違っていた。
 二つの医学は決して相容れないものではなく、むしろ両方のいいところを融合させることで、よりよい医療を提供することができると主張していた。実際に、彼自身がそれを証明していたのである。 
「ところで、どうして君はあの赤ちゃんの夜泣きが多いって分かったの?」
「ああ、あれ……そんなに確信があったわけじゃないんだけど」
 むしろ推測が上手い具合に当たってよかった、と胸を撫で下ろしたくらいだ。
「あの赤ちゃんのお腹を触った時に、泣いてない状態でも腹壁の緊張がかなり強かったから。清華医学では『肝が高ぶる』と表現するんだけど、そういう子って夜泣きが強いことが多いのよ」
「へえ、なるほど」
「そういう時にあの薬はよく効くの。夜泣きは仕方がないって、諦めてるお母さんが多いんだけど、そのせいでお母さんが体を壊しちゃうんじゃ困るものね」
「君は優しいんだね」
 アルフレッドはしみじみと呟いた。突然向けられた賛辞に、依林は言葉に詰まった。
「えっ、な……何よ急に」
「だって、そんなことあの人は相談しなかっただろう。言われていないことも気づいてあげられて、それに対する気遣いができるなんてすばらしいと思う」
「あ、ありがとう……」
 セルジア人は皆、こんな風に直球な人間ばかりなのだろうか。
 褒められて嬉しいはずなのだが、こんなに真っ直ぐ称賛されることに慣れていないせいで、気恥ずかしくて仕方がない。しかも彼は人目を引く美形である。何か裏があるのではないだろうか、などと邪推してしまう。
 だが他意はなく、本当に思ったことを口にしただけなのだろう。アルフレッドはにこにこと微笑んでいるだけだ。
「さっき僕の相談したことで、気になることがあるって言ってたよね。そろそろ、それを教えてくれる?」
 話題が切り替わって、依林はほっとした。
 そしていくつか疑問に感じたことを思い出すと、うーんと腕組みをした。
「それなんだけどね。話を聞いてるだけじゃ、はっきり分からなくて。適当なことを言うわけにはいかないし――あなたがいいんだったら、できればその人の診察をさせてもらいたいの。清方って症状と診察で処方を決めるものだから」
「何だって!」
 いきなり話に入ってきたのは柚犀だった。今まで大人しく黙って話を聞いていたくせに、急に身を乗り出してきた。
「駄目だ、依林。何言ってるんだ!」
「何で、柚犀が反対するのよ。私が聞いてるのはアルフレッドなんだけど」
「僕は構わないよ。もともと相談したのは僕の方だしね。君に診察してもらって何かアドバイスがもらえるなら、助かる」
 アルフレッドはこともなげに頷いた。
 柚犀は両手を振り回して、なおも反論した。
「だって……峯界だろ? 依林はほとんどこの森から出たことがない、世間知らずのくせに。危ないに決まってる」
「峯界ってそんなに危ないの?」
 依林はアルフレッドに尋ねた。彼は腕を組んで、少し考え込んだ。
「まあ、ここにいるより危険はあるだろう」
「ほら。だから――」
「でも心配いらないよ、依林。君のことは僕が守るから」
 柚犀の言葉に重なったアルフレッドの台詞は、依林を凍りつかせるほどの威力を持っていた。
 しばらくして、破壊力抜群の甘い台詞からようやく立ち直ると、依林はこめかみに手を遣った。
 これは、きちんとアルフレッドに指摘しておいた方がいい。今後の依林の精神衛生上の観点からも、また、いらぬ女性騒動を起こしかねない彼のためにも。
 奇妙な正義感に駆られて、依林はアルフレッドに詰め寄った。
「ちょっといい? あなたって、そういうことを平気で女性に言うみたいだけど、控えた方がいいわよ。誤解を招くわ」
「誤解?」
 心外だというように、彼は綺麗な眉をひそめてみせた。
「嘘を言ってるつもりはないよ」
「嘘だなんて言ってない。でも、あなたみたいに、その……つまり、見た目のいい人にそういうことを言われたら、女の人は自分に気があるんじゃないかって勘違いするのよ」
 顔を赤らめながら必死で言い募る依林のことを、アルフレッドはきょとんとした顔で見つめた。
「あちこちで、あなたが好意をまき散らしてるって思われたら困るでしょう? それで、トラブルを引き起こしたりしたらもったいないじゃない? あなたは善意で言ってるんだから。だから、思ったことの半分くらいを口にするくらいでちょうどいいと思うわ」
「……心配してくれてありがとう」
 アルフレッドは穏やかな微笑みを返してきた。
「君は何だか……不思議な人だね。そんな風に言われたのは初めてだよ。でも、君を守ると言ったのは本気だ。だから、君も……柚犀、君かな? 安心してくれていいよ」
 アルフレッドの甘い台詞の連発に、柚犀は毒気を抜かれたようだった。しぶしぶというように頷いた。
「分かったよ。どうせ、依林はこうと決めたら絶対曲げないって知ってるから。だけど俺もついていく」
「柚犀も一緒に来たら、誰が店番するの」
「どうせ、ほとんど客なんか来ないじゃないか。数日、店を開けるくらい構わないはずだ。これは譲れないよ」
「……じゃあ、まあ、アルフレッドがいいなら」
「もちろん。彼は君の小さなナイトなんだね」
「小さな、は余計だ!」
 柚犀は噛みついた。柚犀を落ち着かせた後、依林はアルフレッドに付け加えた。
「それより、お願いがあるんだけど」
 彼は首を傾げた。
「何? 報酬なら弾むよ」
「報酬のこともそうなんだけど――私、峯界医学院の図書館に行きたいの。さっき、先生の論文がいっぱいあるって言ってたわよね? 先生の書いたものを読みたいの」
 王勇から直接教えを請うことは永遠に不可能だが、依林の知らない彼の書物があるのなら、まだまだ彼から教わることができる。こんな機会でもなければ、峯界医学院の図書館へ入ることなどできないだろう。
 アルフレッドは何故か嬉しそうに目を細めた。
「分かった。君の気が済むまで、図書館で勉強できるよう取り計らうよ」
「ありがとう。じゃあ、契約成立ね。よろしく、アルフレッド」
 依林はアルフレッドを見上げて微笑んだ。


 


 第2章

 1

 アルフレッドが乗ってきた馬車に依林たちも乗り込んで、峯界医学院へと出発した。
 依林はめったに外出しない。出かけると言っても、せいぜい佑南村に食料を買いにいく程度である。最近ではそれも柚犀が行ってくれるので、ほとんど森を出ることすらなかった。
 馬車に乗ることも、記憶にある限り初めてだ。
 正直、想像していたより乗り心地の悪いものだった。こんな辺鄙な村まで馬車を使って訪ねてくる人間は少ない。当然、道も舗装されているわけではないから、がたがたと揺れるのも仕方がなかった。
「陳医師は君の父親?」
 夕暮れに沈む村の風景が流れていく。窓から見える景色を見るとはなく見ていると、アルフレッドが口を開いた。
「違うわ。本当の両親は私が赤ちゃんの頃に亡くなったそうよ。それで遠縁の先生が私を引き取って育ててくれたの」
「そうなのか。柚犀君も?」
「柚犀は行き倒れてたところを、先生が連れて帰ってきたのよ。五年くらい前だったかな。それから一緒に暮らしてる」
「君が知ってる限り、彼はずっとここに住んでるの?」
「そうね。さっきあなた、先生が皇宮医だったって言ってたけど、実はそんな話、聞いたこともなかったわ。ずっとここで細々と暮らしていたんだから……まあ、確かに先生はこんな片田舎でくすぶってるなんてもったいないような腕前だったし、時々どこかに呼ばれて出張したりとか、遠いところからわざわざ先生を訪ねてくるような人もいたけど」
 思い返してみれば、王勇は自分の過去について語ることはなかった。出張に依林を伴わせることもなかったし、遠方から王勇を指名してくる客は、決まって彼自身が相手していた。
 王勇は自分の過去をあえて伏せていたのだろう――それを不思議と思うこともないくらい巧妙に。
 知らなかった王勇の一面を垣間見て、依林は大きく溜め息を吐いた。
 アルフレッドは少し躊躇ったように尋ねてきた。
「彼は、その、一体何で亡くなったんだい?」
「……事故だよ」
 セルジア語で答えたのは隣に座った柚犀だった。セルジア語を依林と柚犀に教えたのも王勇だった。
「事故……?」
 アルフレッドはその答えに少し驚いたようだった。
「先生は生薬を森の中で採取するのが日課だった――それで、あの朝もいつものように出かけていった……でも前日の晩に雨が降って、地面がぬかるんでいたせいで崖の近くで足を滑らせたんだ」
 柚犀の言葉を聞いて、アルフレッドは痛ましそうに眉をひそめた。
「病気だったら……きっと自分で治せたはずなのにね」
 依林は独り言のように呟いた。
 探しに出かけた依林たちが彼を発見した時には、すでに帰らぬ人となっていた。
 王勇が亡くなってからしばらくは、依林も柚犀も途方に暮れた。だがいつまでも呆然と過ごしているわけにはいかなかった。蓄えが全くないわけではなかったが、稼がなければ生きていけない。
 結局、依林は王勇の後を継いで、森の奥で医師を続けることにした。生薬は森に行けばあるし、道具も十分そろっている。きちんとした学校で医師免許を取得したわけではないが、依林は王勇から直々医学を教わっていたので、清方医として独り立ちできる知識は備わっていた。
「……辛いことを思い出させてしまったね。申し訳ない」
 それからは沈黙が続いた。
 馬の足音や馬車の揺れのせいで眠ることなどできないと思っていたが、日が沈んで暗くなると、依林はいつの間にか意識を失っていた。

 *

「……依林、起きて。もうすぐ着くよ」
 耳元で心地よい声がする。依林が目を開くと、眼前に綺麗な緑の瞳が飛び込んでくる。目と鼻の先にアルフレッドの顔があることに驚いて、依林は文字通り飛び起きた。
「依林。馬車で飛び跳ねるのは危ないよ」
 アルフレッドは当たり前の忠告をした。
「何でこんなに顔を近づけるのよ!」
 依林はアルフレッドの言葉を無視して、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
 彼は悪びれた様子もなく、肩を小さくすくめただけだった。
「いや、何回か起こしたんだけど、全く起きる気配がなかったから」
「だからってね。起きてすぐに、あんなに他人の顔が近くにあったら、びっくりするでしょうが」
 ちょっと心臓が止まるかと思った。
 胸に手を遣ると、呼吸を繰り返して息を整えた。今のごたごたで柚犀も目を覚ましたらしく、大きく伸びをしている。
「ほら、もう峯界に入ってるよ」
 アルフレッドは窓の外を指差した。依林が眠っている間に夜が明けたらしい。明るい日差しが漏れこむ窓へ、誘われるまま視線を移した。
「わあ……」
 依林は思わず声を上げた。
 そこには初めて見る光景が広がっていた。
 今、自分たちの乗る馬車が走っているのは、大きな馬車通りだった。馬車二台が行きかえるほどの広さがあり、ガス灯が間隔を置いて設置されている。建物は全て石造りで、見たこともない繊細な装飾が施されていた。道をすれ違う人々は、フロックコートやドレスを着た異国人たちばかりだった。
「すごいわ。ここは本当に清華共和国なの!」
 依林は窓に身を乗り出した。
「ここは峯界の中でも、セルジア王国の貴族たちが集う大通りなんだ。だから、この通りだけみればセルジアの首都ファイザと見紛うくらいだよ」
 子供のようにはしゃいだ依林を優しく見つめて、アルフレッドが解説する。
「この通りの奥に、峯界医学院があるんだ」
「へえ。何か、別世界にきたみたい」
 依林は嘆息するしかない。柚犀も同じように興奮しているかと思えば、意外と大人しく座っていた。
「あら、柚犀は驚かないの?」
「俺は峯界で住んでたこともあるから」
「そうだったの! 知らなかった。先に言ってよ」
「別に言うほどのことでもないだろ?」
 寝起きのせいか、柚犀の機嫌は悪いようだった。こういう時は絡まずにそっとしておくに限る。依林はアルフレッドに向き直った。
「ねえ。ちょっと思ったんだけど『とある患者』ってセルジア人でしょ? 私みたいな小娘が出ていって、簡単に診察なんかさせてくれるわけ?」
「うん。実は、君の言う通りなんだ」
 あっさりアルフレッドは頷いた。
「こういうことを言うと、失礼なのは分かっているんだけど、多分、今のままの君を『優秀な医師です』って連れていっても、絶対無理だと思う」
「ええっ!」
「そもそも、彼は清華医学自体をあまり信頼していないみたいでね」
 彼は口を濁したが、恐らく『とある患者』とは、清華医学を非科学的な呪術か何かと勘違いしている輩なのだ。セルジア人にはありがちである。
「あのねえ、じゃあ一体どうするつもりなのよ」
 アルフレッドに焦った様子も困った様子もないので、このことは彼の中で解決済みの問題なのだろう。
「実は、君にいくつか嘘をついてもらわないといけなくなる」
 嫌な予感がして、背筋に冷たいものが流れるのを感じる。
 依林はごくりと息を呑んだ。
「何なの?」
「君は僕の後輩で、峯界医学院の学生ということにする。『とある患者』の症状に聞き覚えがあると言うから、診察を頼んだっていう設定にしようと思うんだ」
「ふうん。まあ、それなら……」
 そんなに複雑でもない上に、騙すことに罪悪感も少ない設定だ。
 ほっとした依林に、アルフレッドは真面目な顔をして続けた。
「ここからが大事なんだけど……今、峯界医学院に女性はいない。というかそもそも、清華共和国自体が女性医師を認めていないんだ」
「えっ、そうなの?」
 依林は驚いて目を見開いた。女性は少ないだろうとは思っていたが、まさかゼロとは思わなかった。
 そして、はっと気づいてアルフレッドを睨みつけた。
「っていうか、それならさっきの設定はおかしいじゃない」
「そう。だから――君に、男の人の振りをしてもらいたいんだ」
 依林は黙ったまま、アルフレッドの顔を見つめた。
(……聞き間違えたかしら?)
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言って」
「君に、男の人の振りをしてもらいたい」
 アルフレッドは律義に言い直した。残念ながら聞き間違いではなかった。では意味を取り違えているのだろうか。
 依林は頭の中で、彼の言葉を何度も反芻した。
 そして、聞き間違えでもなければ、その言葉以上の意味も見いだせないことを悟った――と同時に依林は叫んだ。
「無理無理無理無理無理!」
 顔を真っ赤に紅潮させて、全力で頭を振った。
「ばれるに決まってるじゃない、できるわけないでしょっ」
「依林、落ち着いて……」
 興奮して今にも暴れんとする依林を、アルフレッドはなだめに回った。
「患者は今、朦朧状態だから認識力は極限まで低下してる。一回やそこら会うだけなら、きっと大丈夫だよ」
「だって、髪の毛は? 体つきだって全然違うし。そもそも胸だってどうするのよ!」
「長い髪は束ねて帽子の中に入れればいいし、白衣はゆとりがあるから体の線を誤魔化してくれるよ。胸に関しては包帯をぐるぐる巻きに巻いてみる?」
 アルフレッドは一つ一つ丁寧に答えた。依林はそれ以上の言葉に詰まってしまい、口を尖らせるしかない。隣に座る柚犀に話を振った。
「ねえ。柚犀だって、無理だって思うわよね?」
「そうかな――いいんじゃない、別に」
 柚犀は面白そうな、悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
「その方が俺も安心だよ」
 一体、何が安心だというのだろう。援護射撃を期待していたのに、逆に味方の裏切りに遭った気分だった。
「ごめん、依林。責任は全部僕がとるから。悪いけど、やるだけやってみてくれないか」
 アルフレッドは真摯な顔で頼んできた。
 そうやって男らしく頭を下げられると、無理難題を吹っかけてきているのは向こうなのに、こちらが駄々をこねているような気がしてくる。
 しばらく考えたが、確かにそれ以外『とある患者』を診察する手段はなさそうだった。上手くやれるか自信がなかったが、依林はしぶしぶ頷いた。
「ありがとう。助かるよ」
 アルフレッドはあからさまにほっとしたようだった。
 柚犀は茶化すように付け加えた。
「よかったね。変装に困るほど大きな胸じゃなくて」
「……っ!」
 その余計なひと言のために、ますますへそを曲げてしまった依林を説得するのに、大幅に時間を食ったことは言うまでもない。

 *

 簡単な変装(男装)をした依林とともに、アルフレッドは特別室で待つ総督のもとへ向かった。先に自分が部屋に入り、偽りの設定を説明してから彼女に入ってもらった。柚犀には部屋の外で待ってもらっている。
 今日は、室内に総督と秘書のデニスしかいなかった。
「えっと……初めまして。少し診察をさせて下さい」
 依林はくぐもった声で挨拶をした。男の振りを強要したせいで、依林の動きや話し方はどうもぎこちない。が、予想通り、総督にそれを指摘するだけの認識力は残っていないようだった。
 逆に言えば、それだけ状況は悪い。急ぐ必要がありそうだった。
 診察を始めると集中するせいか、依林の挙動不審な動作はなくなった。
 てきぱきと結膜を確認し、舌を診て脈をとった。とくに腹部の診察は丁寧にしている。鳩尾や臍部中心の圧痛を確認しているようだ。セルジア医学の診察と似通っているようで、順序や診ているポイントが異なっている。
 興味深く診察を観察していると、最後に四肢の様子を診た依林が、終わりだというように視線を送ってきた。
 部屋を後にして、空いている面談室の一室に入った。依林と柚犀に椅子を勧めて、自分も向かい合った場所に腰をかける。
 依林は邪魔くさそうに帽子を外して、長い髪を揺らした。帽子の中に窮屈に収めこまれていても、彼女の漆黒の髪は癖ついたりしない。光沢のある絹のような滑らかさだった。
「ありがとう、依林。お疲れさま」
「ばれてなかったわよね?」
「大丈夫。全然、疑ってなかったよ」
 それはそれでどうなのかしら? と首を傾けながら依林はぶつぶつ呟いている。切りそろえられた前髪に化粧気のない顔のせいで、依林は実年齢より幼く見える。その様子は、思わず笑みを誘うような可愛らしさがあった。
「何がおかしいの?」
「いいや――それより、どうだった?」
 アルフレッドが尋ねると、依林は黒い瞳に躊躇いを滲ませた。
 だがすぐに顔を上げる。
「多分、中毒だと思う」
「え……?」
 アルフレッドは思いがけない答えに目を見張った。
「何だって?」
 依林は考え込む時の癖なのか、少し唇を噛んで目を伏せた。しかし、自信なさげにうつむいたり視線を彷徨わせるようなことはなかった。
「毒性の強いものをたくさん飲んだら、すぐに死んでしまうだろうから……毒性の弱いものか、もしくは非常に薄めたものを少量ずつ摂取してるんじゃないかしら?」
「彼が――薬物中毒だって?」
 アルフレッドは呻くように呟いた。
 依林は、自分の発言が予想以上の衝撃を与えていることに気づいたようだった。数回瞬きを繰り返して、言葉を選ぶように続けた。
「えーっと、自分で摂取してるわけじゃないと思うの。それなら自分で心当たりがあるでしょうし、彼の腕に不自然な注射痕もないしね……知らない間に食べ物に混ぜられてるんじゃないかしら?」
「そんな馬鹿な……きっと毒味役だっているのに」
「毒味?」
 混乱したせいで口が滑った。だが、依林は不思議そうに眉をひそめただけで、深くは追及しなかった。
「まあ、たとえ毒味の人がいたとしても、毎日同じ人が毒味してるわけじゃないでしょ? 多分、一回一回の食事に盛られてる毒の量はほん微量なものなのよ。それが一日、一週間、一ヶ月と蓄積されて、体が毒に侵されていってるんだと思う。まだ毒物の種類は特定できないけど」
 どうして考えてみなかったのだろう。
 その目で見れば、総督は確かに薬物中毒状態だ。「まさか」「あるわけない」といった先入観にとらわれて、目の前の患者をきちんと診察できていなかった。
「依林……これは重大な問題だよ」
 アルフレッドは頭を抱えた。セルジア王国の高官が峯界で中毒死なんてことになれば、国際問題に発展しかねない。
 依林は当然だというように頷いた。
「当たり前でしょ。だって、これはれっきとした殺人行為よ!」
「もちろん、そうだ――だけどそれだけじゃない」
 依林は彼の正体を知らない。だから認識に齟齬が生まれることは仕方がないのだ。
 アルフレッドは大きな溜め息を吐いた。指を組んで額に押し当てる。
「これは、要人暗殺とも言えるんだよ」
「はあ?」
 突然飛び出した不穏な言葉に、依林の涼やかな瞳が翳った。
「どういうこと?」
「……いや」
 これ以上、無関係の依林や柚犀を巻き込むわけにはいかないだろう。
 こんなきな臭い話になるとは思わなかったのだ。
 総督の長期的な中毒死を狙っているとしたら、この犯人が非常に狡猾なのは間違いない。深く関わるせいで、冗談でなく依林たちの命が脅かされるかもしれないのだ。すぐにでも元の森に帰ってもらって、忘れてもらうのが一番いいはずだ。
 アルフレッドは後ろめたい気持ちで顔を背けた。
「ごめん。まさか、こんなことになるとは思わなかったんだ……悪いけど、君はこれ以上知らない方がいい。馬車を用意するから今すぐ森へ帰ってほしい」
 もともと峯海行きに反対していた柚犀は、素直に頷いた。
「分かった。そうするよ」
「何言ってるのっ、ここまできて!」
 依林は憤然と立ち上がって、きりきりとまなじりを吊り上げた。
 彼女の怒りは当然だった。請われて峯界までやってきたというのに、状況が変わったから帰れと追い払われても、簡単に納得できないだろう。
「本当に申し訳ないと思ってる。でも君が想像してるより、ずっと危ない状況なんだよ。知れば知るほど危険は増すだろう」
「じゃあ、あなたは? ――あなたは危険じゃないの?」
 食い下がる依林をなだめるように続けた。
「僕は……仕方がない。でも、君は僕が巻き込んだ。本当なら関係ないはずの問題に、これ以上君を巻き込むわけにはいかないよ」
「あなたが守ってくれるんじゃなかったわけ?」
「そのつもりだった。だけど僕だけの力じゃ、どうにもならないかもしれない」
「アルフレッドの言う通りだ。森へ帰ろうよ」
 どうやら柚犀はこちらの味方をしてくれるようだ。
「峯界医学院の図書館の件は、いろいろ落ち着いたら必ずきちんと手配するから」
 依林は腕を組むと、鋭い視線でこちらを睨みつけた。
「――私が、あの毒に心当たりがあるかもしれないって言っても?」
 ふってわいた爆弾発言に、アルフレッドはぎょっとする。
「あ、あるの、心当たり? 分からないって、さっき言ってたじゃないか」
「まだ特定できないって言ったの。私は生薬を扱う清方医よ。生薬の中には量を間違えたら中毒を引き起こすものも多くあるし、そもそも毒に強い学問なの。ああいった症状をきたす毒薬について思い当るものもあるし、彼に出されてる食事を調べることができたら、もっとはっきりすると思うわ」
「でも……」
「大体、峯界医学院の人はあの患者さんを診て、中毒の見当がつかなかったんでしょ。だったら毒の種類に関しても、私に敵う人はいないはず――あの人に残された時間が多いわけじゃないわ。あそこまで進んでしまった中毒だったら、食事を止めたとしても進行を食い止めるのは難しいかもしれない。だったら何の中毒かはっきりさせて、対処法を探した方が効率的なんじゃないの?」
 完璧な正論だった。反論が思いつかず言葉に詰まる。
 先に口を開いたのは柚犀だった。柚犀は怒鳴るように言った。
「でも危険なんだろ。俺は他人の命より、依林の身の方が大事だ!」
「危険は承知よ。だけど人の命がかかってるの! 自分にできることがあるのに、見捨てていけるわけないでしょ。私は医師なのよ!」
 胸を叩いて言い放った依林の瞳に、力強い光が浮かんでいた。
「アルフレッドっ! 私は帰らないわよ。あなたが嫌だって言っても、関わることを選んだんだから」
 依林はみなぎるような闘志を燃やしている。この華奢な体躯の一体どこに、これほどの強さを秘めているのだろう。
 自分より年下の少女が、医師であることに誇りを持って戦おうとしているのだ。自分も腹を括るしかない。
「分かった。君の覚悟に、敬意を払うよ」
 そう答えると、依林は何かに突かれたような顔をした。
 アルフレッドはあらためて椅子に座り直す。
「依林――彼は、峯界総督であるベンジャミン・ピール総督だ。この清華共和国で最も権力のあるセルジア人だよ」
「……!」
 隣で柚犀が絶句している。アルフレッドは依林を見た。彼女の顔には、不安も恐怖も浮かんでいなかった。
「峯界総督の食事に、遅発性の毒が盛られている――これが何を意味するか分かるだろう?」
「そうね。でも『誰が、何のために』っていうのは二の次じゃない。肝心なのは、総督の命を救うこと――でしょ?」
「……君の言う通りだ」
「じゃあ、気を取り直して作戦を練りましょう」
 依林は強気で頷いた。
(参ったな)
 アルフレッドは心の中で両手を挙げる。こうなったら完全降参するしかない。
 この状況で、すぐさま次を考えることができるなんて――敵わないと思った。
「じゃあ、これからのことなんだけど。まずは何とかして、総督の食事を調べる必要があるだろう?」
「そうね。でも、それはそんなに難しくないと思う。柚犀にやってもらいましょう。できるわよね、柚犀?」
「え? どういうこと?」
 アルフレッドが目を向けると、柚犀は完全にふてくされていた。そっぽを向いて口を尖らせており、質問に答える様子はない。
 柚犀の代わりに、依林が嬉しそうに答えた。
「柚犀はすごく手先が器用なのよ。食事を少しいただくくらい簡単よ」
(いや。少し器用なくらいで、そんなことできるわけがないだろう)
 依林の自信の根拠が全く理解できない。
「そっちは大丈夫だから。柚犀に持ってきてもらった食事を私が調べる」
 あまりにも自信満々なので突っ込むことができなかった。
「……分かった。じゃあ、それは君たちに任せるよ。少しでも手がかりになるように、僕は総督の背景を調べてみよう。犯人が分かれば、毒を盛るのを止めさせることもできるかもしれないからね」
「でも、それって危ないんじゃないの?」
 依林は器用に眉をひそめる。アルフレッドは苦笑した。
「あのね。君が危ない橋を渡ってくれるんだよ。僕だけが、のうのうと安全な場所でいられるはずないじゃないか」
「でも……」
 言い募る依林を制して、話題を変えた。
「とりあえず、方針も決まったことだし腹ごしらえをしよう。近くに僕の屋敷があるから、軽食を用意させるよ」
「そうね。確かにお腹が空いたわ」
 依林は途端に目を輝かせた。昨日の夕方、森を出てから飲まず食わずの状態だったのだ。空腹もピークのはずだった。
 依林は颯爽と部屋を出ていった。追って自分も部屋を後にしようとした時、背後から不穏な声をかけられた。
「……何で、依林を巻き込んだんだよ」
 振り向くと、柚犀が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「依林が大のつくお人好しなことくらい、あんたにだって分かるだろ。どんなやっかいな病人でも、放っておけるわけないじゃないか」
「…………」
 言い訳は出来なかった。彼女の優しさと強さに甘えたのは事実だ。
「俺は、依林に幸せになってもらいたいんだ。単調だっていい。世の中の汚いことなんて何にも知らずに、静かにあの森で暮らしてほしいんだよ。それなのに、峯界総督の毒殺未遂に関わるなんて――」
 責める言葉はアルフレッドの深い部分を貫いた。柚犀が依林を心から心配しているのが痛いほどに伝わってくる。
「ごめん」
「俺にとって、相手が総督だろうが王様だろうが、そんなのどうだっていいんだ。本当は引きずってでも依林を連れて帰りたい。でも依林がそれを絶対許さないのも、嫌ってほど知ってるんだ」
 何かを思い出すように柚犀は遠くに目を馳せた。今までにもこんなことがあったのだろうか。そしてその度、柚犀の心配をよそに、依林は自分の正義を押し通してきたのかもしれない。
 柚犀は諦めたように溜め息を吐いた。
「あんたは依林を守るって言ったな?」
「確かに」
「じゃあ、その約束を絶対に守れよ。自分の命より依林を優先しろ。それを誓えるなら、あんたに協力する。一刻も早く解決して、依林を連れて帰るんだ」
「柚犀君……」
「君づけはやめろよ」
 ふんと鼻を鳴らして、柚犀は顔を背けた。
「じゃあ、柚犀――誓うよ。依林と君は、僕の命にかけて守ってみせる」
「俺のことはいい、自分の身は自分で守るから。男に守られるなんて、気持ち悪くて鳥肌がたつ。あんたは依林のことだけ気にかけてくれたらいいから」
「ありがとう。心から感謝するよ」
「いいよ、どうでも。別にあんたや総督のためじゃないし」
 それは彼なりの強がりなのかもしれなかった。柚犀も心根は優しいのだ。そんな二人を育てあげた陳王勇に、叶うことならぜひ会ってみたかった。
 ふと、アルフレッドは疑問に思ったことを尋ねてみた。
「ところで、依林の言ってた手先が器用って、一体……?」
「自分の胸元を見てみたら」
 柚犀は手をひらひらと振りながら、アルフレッドを追い越して出ていった。
「胸元……?」
 言われるままに視線を落とす。そして自分の若紫色のタイがないことに気づいた。
「えっ!」
 慌てて外に出ると、廊下の先で待っていた柚犀がこちらを振り返って、悪戯めいた笑みを浮かべている。その手には、しっかりとアルフレッドのタイが握られていた。



 2

 アルフレッドの屋敷は、峯界医学院から二筋離れた通りにあった。
 石造りの二階建てで、裏にセルジア風の庭園が広がっている。玄関ホールは赤い絨毯が敷き詰められた吹き抜けの空間となっていた。二階の大きな窓から差し込む陽光が、ホール全体を明るい雰囲気に照らし出している。
 玄関には、黒の執事服に身を包んだ男性と、紺のメイド服と白いエプロンをつけた女性が待っていた。
「お帰りなさいませ。旦那さま」
 二人とも小さくお辞儀をする。男性はしかめ面で、女性はにっこりと微笑んだ。
「彼は執事のヘンリーで、彼女はメイド頭のナンシーだ」
 アルフレッドは依林たちを誘った。
「こちらは大事なお客さまだ。依林と柚犀だよ。当分、ここに滞在する予定だから、空いている部屋を準備して」
 ナンシーと呼ばれたメイドは、生粋のセルジア人のようだった。色素の薄い肌に、ブラウンの柔らかな巻き毛、青い瞳を持っている。
「承知しました」
 ナンシーは依林たちの側にくると、礼儀正しく頭を下げた。
「初めまして。ナンシーと申します。滞在中、何でもお申しつけくださいね。二階にお部屋を準備させていただきます。準備が整うまで、応接室でおくつろぎ下さいませ」
 年の頃は三十代半ばだろうか。しっかりした有能なメイドのようだった。
 そして、アルフレッドはヘンリーに向かった。
「あと、簡単なものでいいから、食事も頼む――じゃあ、依林、柚犀。応接室へ案内するよ」
 ヘンリーは白髪交じりの髪をオールバックにまとめた、厳格そうな初老の男性だった。ヘンリーはこめかみに手を遣った後、無言で頷いて正面の扉へ消えた。
 アルフレッドは右手奥の方へ進んだ。扉を開けて待ってくれているので、依林は中に入った。
 室内には、磨きこまれた黒檀の卓とベルベットの椅子が据え置かれている。細かく仕切られた窓には、趣味のよいレースのカーテンがかけられている。そこから整えられた庭が一望できた。
「アルフレッド……あなたって本当にお金持なのね」
 依林は窓際に立つと、今更ながら溜め息をついた。
 あつらえた調度品や家具が一流であるのは、高価なものに馴染みのない依林でも分かる。きわめつけは執事やメイドが当たり前に存在しているのだ。
 そういえば、アルフレッドの身につけているものも全て高級品ばかりだった。彼はそんな一流品に囲まれていて全く違和感がない。それらを当たり前に享受できる身分なのだ。
 アルフレッドは小さく肩をすくめた。
「まあ、僕がというより実家がね。その椅子なんかも、セルジアから送ってきたものなんだ」
 アルフレッドは依林に椅子をすすめた。そうこうしている内に扉が開いて、ナンシーとは別のメイドが白いティーポットとカップを持ってきた。
「セルジア茶は飲める?」
「聞いたことはあるけど、飲んだことないわ」
「じゃあ、試してみようか」
 アルフレッドは緑の瞳を優しく細めた。彼自らカップにお茶を注いで、依林と柚犀に振る舞った。
 カップの中には淡いオレンジ色の液体が注がれている。不思議な香りが立ち込める。嗅いだことのない匂いだったが、好ましく思えた。口つけると新鮮な香味が広がった。
「ああ、美味しい」
 思わず声が漏れた。アルフレッドは嬉しそうに笑った。
「それはよかった。一口にセルジア茶と言っても、たくさん種類があるんだ。また今度、他の茶葉も用意するよ」
 食事の準備ができたようで、今度は食堂へ案内された。
 簡単なものをとアルフレッドは頼んでいたが、用意された食事は非常に豪華だった。普段は質素な食事しかしていないので、ご馳走攻めにあったような気分になる。
「満足してもらえた?」
 アルフレッドが尋ねてくるので、依林は苦笑するしかなかった。
「一生分の贅沢をした気分よ」
 こんな生活が続けば、元の暮らしに戻るのは苦労するだろう。
 食事の後、先ほどの応接室に戻って、依林は早速口を切った。
「腹ごしらえしたことだし、ようやく作戦会議ね」
「そうだね……ところで依林、どうする? これから調査をするなら、やっぱり女性の姿は目立つと思うけど」
 アルフレッドはまず初めに、そこを指摘した。
 峯界医学院に女性がいないわけではない。看護師や見舞客だっているだろう。だが医師しか出入りしないような場所もあるし、その時に女性の姿は目につくかもしれない。
 危険なことに足を踏み入れようとしているのだから、少しでもリスクを減らしておく必要がある。不本意だが男装を続けた方が無難だろう。
「仕方ないわね。こっちにいる間は男装するわ」
 だが、帽子と白衣と包帯で本当に誤魔化せているのかは、はなはだ疑問だ。先ほどは相手が病人だったからよかったが、これからは観察力の鋭い医師にばれないようにしなければならないのだ。
「かつらとか、さらしとかって準備できる?」
「分かった。急いで用意させるよ」
 アルフレッドはこともなげに頷いた。よく考えると、どういう理由をつけてかつらとさらしを揃えるのか不思議だった。まあ、そこはアルフレッドに任せることにする。
 はたと依林は思い当たった。
「あ! じゃあ、名前も依林じゃ女名だし、変えた方がいいの?」
「うーん、それはどうだろう? 峯界医学院はセルジア人が多いから、正直なところ、清華の文化には疎いと思うんだよね。『依林』が女性名かどうかなんて、分からないんじゃないかな?」
「そうなの?」
「うん。顔もあんまり見分けがつかない人が多いよ。君たちだって、セルジア人はみんな同じに見えたりするだろう?」
 確かにアルフレッドほど整った顔なら別だが、依林だって、セルジア人は肌の白い金髪碧眼で一括りだ。逆に彼らからすれば、清華人は皆小柄で華奢な、黒髪黒目の黄色人種なのだろう。
「だったら、あんまり女だってばれることを心配する必要なさそうね」
「君が女か男かっていうことより、清華人が峯界医学院に出入りしている方が目立つかもしれないね。清華人の医師や学生がいないわけではないけど、まだ少ないから。それは気をつけて」
「分かった。あんまり動き回らないようにする」
「よろしく頼むよ」
 アルフレッドは真面目な顔で言った。
「依林が調査しやすいように、医学院の研究室を一ヶ月間、僕名義で借りたんだ。普段はそこで毒物の調査をしてもらったらいいと思う」
「そうなの。わざわざありがとう」
 いつの間にそこまで手を回したのか。ほとんど依林たちと行動を共にしていたにもかかわらずだ。彼はやはり非常に優秀な人間なのだ。
「じゃあ、柚犀にそこまで食事を運んでもらうことにするわね」
「あ、その話なんだけど――柚犀がすごく早業だってことは分かったけど、本当に食事の手配を任せて大丈夫? そこが一番危ない仕事だと思う。僕が何とか理由をつけて、食事を交換することだってできるんだよ」
 アルフレッドは先ほど、柚犀の特技を見せつけられたらしい。ここまでの馬車の中で、顔を真っ青にして若紫色のタイを結んでいた。
 ようやく依林の言葉を信じる気になったようだが、それでも柚犀のことを気遣ってくれているのだ。
 柚犀はそっけなく答えた。
「やり方は何とでもなるよ。俺から見たら、誰でも隙だらけなんだ。そこは怪しまれないようにする自信がある。それより、あんたが総督の食事にいちゃもんをつける方が犯人たちに怪しまれるんじゃない?」
 アルフレッドは柚犀の言葉にしぶしぶ納得したようだった。
 依林は気になっていたことを尋ねた。
「それに、アルフレッドは総督の周囲を調べるんでしょ? そっちの方が心配だわ。誰が仕組んだかとか、やっぱり調べなきゃだめ? それは警察に任せちゃいけないの?」
「そうしたいのは山々なんだけどね。やっぱり、ことがことだから」
 アルフレッドは綺麗な金髪をかき上げた。
「今の状況で安易に警察に相談して、ことが公になると、セルジア王国と清華共和国の間に大きな溝を作る可能性がある。今、それでなくても両国の関係は緊張状態にあるんだ」
「そうなの……?」
 世界情勢などに全く興味のない依林には初耳だった。
「もちろん、最終的には警察や大使館に連絡するつもりだけど、犯人や背景が少しでも分かっていた方がいいと思って。変な陰謀じゃないのなら尚更。それに、もし誰かの謀略でも、これが原因で戦争なんかに発展したなら、犯人の思うつぼだろう?」
「でも当てはあるの? アルフレッドは医師でしょ?」
「知り合いに、そういうことに詳しい人間がいるんだ。その人にお願いしようかと思ってる」
「そう……なら、いいんだけど」
 依林が気にしているのは、自分が関わることを強行したせいで、アルフレッドを危険に陥れているのかもしれないということだった。
 依林が素直に森に帰っていれば、彼は物騒なことに手を染めずに済んだのだろうか。依林の我儘が彼を危険に晒すかもしれないと思うと、申し訳なくて懺悔したくなる。
 依林は自分の信念を押し通して、他人に無理を強いるところがあると自覚していた。よく言えばマイペース、悪く言えば頑固で自分勝手。その時はそれが一番正しいと信じているから、他のことに気が回らない。
 今まで、その被害に遭うのは王勇か柚犀だった。王勇は笑って許してくれたし、柚犀は文句を言いながら付き合ってくれた。だが、今回依林が巻き込んだのは初対面の他人だ。しかも今までの独善と異なり、失敗した時の代償が大きすぎる。
「アルフレッド、ごめんね」
 突然謝ったので、アルフレッドは驚いたようだった。
「何が?」
「ううん……何でもない」
 依林はそれでも考えを変える気はなかった。ならば、謝罪をして許しを乞うのは卑怯な気がした。
 依林にできることは少しでも早く毒の種類を特定し、総督の治療に役立つ情報を手に入れることだけだ。
「私、頑張るわね。だからアルフレッドは無理しないでね」
「……それは僕の台詞なんだけどね」
 急に話題を変えた依林を見て、アルフレッドは澄んだ湖色の瞳に苦笑を滲ませた。

 *

 依林に用意された部屋は、応接室ほどかしこまった雰囲気はないが、趣味のいい装飾に囲まれたお洒落な部屋だった。
 長期間外出する予定で森を出たわけではないので、何の荷物も持ってなかった。着替えや下着などをどうすればいいか、実は気になっていたのだが、箪笥の中に何着かの旗袍と下衣がたたまれているのを発見した。下の引き出しには新品の下着も入っている。
(えーっ、何これ!)
 しかも、寸法はあつらえたようにぴったりなのが不思議である。
「うーん、恐るべしスタンリー家……」
 思わず独り言が漏れた。
 新品の旗袍は、繊細な刺繍の織り込まれた見事なもので、今まで身につけたことはないのはもちろん、お目にかかるのさえ初めてな高価なものだった。実際に着てみるのは気が引けるが、眺めている分には気持ちが高揚するのは止められない。
 ノックの音がして、振り返るとナンシーが立っていた。
「お邪魔いたします。ご用意させていただいたもので、何か足りないものはございますか?」
「いいえ。大丈夫です……突然訪ねてきたのに、こんなによくしてもらって、ありがとうございます――それで、あの、この服なんですけど。下世話な話で申し訳ないんですが、おいくらですか? あとでお支払いできるものでないなら、着られないし……」
 依林はまごまごしながら尋ねた。恥ずかしいが、きっちり聞いておかなければ、あとで困るのは自分だ。さすがにアルフレッドに直接問い質すのは恥ずかしすぎるので、ナンシーが来てくれてよかった。
 目の飛び出るような値段なら、依林の貯金ではまかなえない。もしそうなら安い店を教えてもらって買いに出かけようと考えていると、ナンシーは意外なことを聞いたというように目を丸くした。
「まあ、お嬢さま。それらは旦那さまからの贈り物でございます。差し上げるものですからお気になさらず」
「ええっ!」
 依林は驚きのあまり顎が外れるかと思った。
「そ、そんな! こんな高価そうなものいただけません」
「そうおっしゃいましても、旦那さまは着られませんし、お嬢さまのためにご用意させていただいたものですから」
(そりゃ、確かにアルフレッドが自分で着て、活用するのは無理だけど)
 だが端正な顔立ちのアルフレッドなら、意外と女服も綺麗に着こなしたりするのだろうか。不埒な妄想が脳裏をよぎったが、話がずれていることに気づいて、依林は慌てて頭を振った。
「でも……」
 言い淀んだ依林に、ナンシーは子供に言い聞かせるような口調で続けた。
「旦那さまが峯界にいらしてから、女の方をお招きするのは初めてなんですよ。わたくしども、はりきって準備させていただきました。ですから、ぜひともお受け取りいただきたいと思います」
「そうなんですか? アルフレッドなら、たくさん女の人が訪ねてきそうなのに……」
 思ったことが、そのまま口に出てしまった。口にしてから、しまったとほぞを噛んだが、言ってしまったことは戻らない。
 ナンシーはくすくすと笑った。
「誤解されがちですが、旦那さまはああ見えて、女性関係は非常に真面目な方です。僭越ながらわたくしからすれば、正直固すぎると申しますか……二十代も半ばを過ぎようかという年齢ですのに、仕事ばかりに集中され、特定の女性とお付き合いをなさる時間など皆無でございます。ご実家の方からも、そろそろ身を固めるようにせっつかれているくらいですから。わたくしも心配で心配で……」
 ナンシーはおしゃべり好きな女性のようだった。というか、ほぼ初対面の依林にそんな私的なことまで話していいのかと不安に思うほどだ。
(でも……そうなんだ。意外)
 あれだけ美形で優秀で、甘い言葉を連発するアルフレッドなら、女性に困ることはないだろうと思っていた。失礼な話だが、むしろ複数の女性と同時進行していると言われても納得するくらいだった。
 だが実際は、女性にもてないわけではないだろうが、少なくとも恋人はいないのだ。
 過去に女絡みで不愉快なことがあって、女嫌いになってしまったのだろうか。そうならば、依林に親切な理由が分からない。
 ふっと嫌な想像が頭を巡った。
(まさか……アルフレッドって、男しか愛せない人なんじゃ!)
 額に冷や汗が流れる。
 女が嫌いなわけではないから普通に女性に親切だが、恋人として愛せるのは男性しかいない。だから屋敷に恋人は連れてこないし、その性癖を知っている実家は、早く結婚を迫るのではなかろうか。
 とんでもない考えに眩暈を覚えていると、何を思ったのかナンシーが真面目な顔をして詰め寄ってきた。
「あの……大変、不躾なことをお尋ねするのをお許しくださいね。その、お嬢さまは、旦那さまとどういうご関係でいらっしゃるのですか?」
(ああっ、まさかこの人、誤解してる?)
 男色趣味の主人が唯一連れてきた女性客だと。ようやく主人が女性にも興味を持ったのかと勘違いしているのではないだろうか。
 どうりで先ほどから、妙に突っ込んだ話題を振ってくると思ったのだ。
「あのですね……私はその、職場の同僚と言いますか、仕事関係の人間でして……」
 しどろもどろになって言い訳していると、開いた扉から別の人間が入ってきた。
「ナンシー! 仕事をおいて、何をやってるんだ!」
 入ってくるなりナンシーを怒鳴りつけたのは、ヘンリーと呼ばれていた執事だった。大声を出した後、頭に自分の声が響いたと言わんばかりに、こめかみに手を遣っている。
 ナンシーは肩をすくめた。大声で怒られている割に怯えた様子はない。面倒な人に見つかったというような素振りだった。
 二人の関係を不思議に見つめていると、ヘンリーが依林に頭を下げた。
「ヘンリー・ローリングと申します。当家のメイドが失礼をいたしました」
「い、いえ……そんなことは」
「でもヘンリー。お嬢さまがもし、旦那さまの……」
「黙れ、ナンシー」
 ヘンリーは冷ややかな目でナンシーを一喝する。さすがのナンシーも口を噤んだ。
 それからヘンリーは眉根に強くしわを寄せて、その鋭い眼光を依林に向けた。客に向けるには厳しい視線に、依林はどきっとした。
「ところで最初に申しあげておきますが、もしあなたが旦那さまの寵愛が欲しくて、こちらにいらしたというのなら、今すぐにでも出ていっていただくことになります」
「なっ……」
 あまりの暴言に依林は言葉を失った。ひどい侮辱に顔が紅潮するのが分かる。
「旦那さまのお相手には、わたくしが充分に選別した女性を用意するつもりです。あなたには、残念ながらその機会は永遠に回ってこないでしょう。ですから、そのつもりでいらっしゃるなら、時間の無駄だと申し上げているのです」
「いい加減にしなさいよ!」
 依林は声を荒げた。
「失礼にもほどがあるでしょう。はっきり言っておきますけど、私とアルフレッドの間には、あなたが言うような恋愛感情はこれっぽちも存在しません。わたしがここに来ることになったのも仕事上の都合です。そんな邪推をされるのは不愉快です」
 肩を怒らせて言い放った依林に、ヘンリーは顔色一つ変えず氷のような視線を送っただけだ。そして淡々と続けた。
「できればアルフレッドさま、と。あなたが呼び捨てにできるようなご身分のかたではございませんので」
「アルフレッドがそう呼べって言ったのよ!」
「それならば結構です。失礼を申し上げました」
 軽く頭を下げると、ヘンリーは何事もなかったかのように部屋を出ていった。
「な、何なのっ、あいつ!」
 腹立ちの治まらない依林はその場で地団駄を踏んだ。
 慌ててナンシーが依林をなだめにかかった。
「申し訳ございません、お嬢さま。ヘンリーは幼いころから旦那さまの教育係で、彼こそ旦那さまを偏愛しているのです。偏屈変態男と思って、どうかご無礼をお許しください」
「あの人がいるから、アルフレッドは恋人ができないんじゃないのっ!」
「ええ、それもあるんです、きっと!」
 ナンシーは大きく頷いた。
「ですから、お嬢さま。旦那さまをどうぞよろしくお願いいたします。ヘンリーと堂々と渡り合えるお嬢さまなら、きっと大丈夫でございます」
「……えっ……?」
 思わず我に返って、依林はナンシーを振り返った。ナンシーは満面の笑顔で依林を見上げている。
「あの、だからね……私は」
「わたくしも陰ながら応援させていただきますからね!」
 どうやら、依林は完全にナンシーに標的にされてしまったようだった。




 第3章

 1

 再び峯界医学院に戻る途中も、依林の怒りは治まらなかった。ふくれ面をしたままの依林に、アルフレッドが困惑したような顔で尋ねてきた。
「依林、一体どうしたの? 何か怒ってる?」
 依林はアルフレッドを睨みつける。
「いいえ、何も。アルフレッドさま!」
 叩きつけられるように返された答えに、アルフレッドは首を傾げた。
「……何で、今更『さま』づけなんて?」
 そして何かに思い当たったように、目を見張った。
「もしかしてヘンリーが、君に何か失礼なことを言った?」
「……別に」
 肯定するのは告げ口するようで嫌だった。
 そもそもアルフレッドに罪はない。自分が彼にきつい態度をとるのは、八つ当たり以外の何者でもないことは分かっていた。
(ああ、私って可愛くない……)
 依林が肩を落としていると、アルフレッドは形のいい眉をひそめた。
「ごめん、依林。不愉快な思いをさせたね。ヘンリーにはきちんと忠告しておくから」
「えっ、やめて。私は大丈夫だから」
 敬愛する主人から依林のことで注意を受けようものなら、あの偏屈執事が依林にどんな嫌がらせをしにくることか。
「でも」
「いいのいいの。大したことないのよ――それより、あなたが準備してくれた部屋って?」
 依林は無理やり話題を変えた。
 峯界医学院は病院施設と教育施設に別れている。ちょうどその二つをつないでいる部分に研究室が割り当てられている。だが峯界医学院は研究よりも臨床に重きのおかれた施設であり、実際に研究作業に従事している医師はわずからしい。いくつかある研究室もあまり使用されることなく、空き部屋になっている。
 依林たちは人目を避けるようにして、一番端にある研究室に入った。
 あまり広くない部屋で、研究室とは名ばかりの倉庫になっているようだった。空きスペースには、書類や箱が乱雑に積まれて厚い埃を被っている。小さな明かり取りの窓しかないので、昼間だというのに部屋は薄暗かった。
「ごめん、こんな部屋しかとれなくて」
「いいって。私、狭いところと汚いところには慣れてるの」
「そりゃ、そうだろうね」
 柚犀が小声で呟くのを無視して、依林は埃の層を払った。舞い上がる埃にくしゃみが止まらない。
「まあ、ここで……くしゅんっ……何とかするから……くしゅっ」
「何か準備した方がいいものはある?」
「そうねえ、くしゅんっ……考えておくわ――とりあえず……くしゅんっ、雑巾、かしらね」
 むずかゆそうに鼻をすすった依林を見て、アルフレッドは苦笑した。
「了解。すぐに持ってくるよ」

 *

 アルフレッドはすぐに水の入った桶と雑巾を持ってきてくれた。
 部屋の掃除を手伝おうとした彼を、依林は丁重に断った。優雅な彼に雑巾がけなど似合わないから――ではなく、彼には峯界医学院医師の業務があるからだ。その上、業務の合間に総督の周囲を探るのであれば、掃除ごときで時間を無駄にしている場合ではない。
 アルフレッドは申し訳なさそうに謝ってから、部屋を後にした。
「じゃあ、俺は総督の食事の確保に行きますか」
 そう言い残して、柚犀もあっさり姿を消してしまった。
 依林がさしあたり手前の机や椅子の辺りを拭いていると、背後の扉が音を立てて開いた。
「柚犀?」
 あまりに早い帰りに驚いて振り返る。そして扉の前に見知らぬ男が仁王立ちしているのを見て、依林は飛び上がらんばかりに仰天した。
「っ……」
「お前は誰だ? 何をやっている?」
 男は不審そうに依林と部屋を見渡している。セルジア人だった。
 ブルネットの瞳と髪を持ち、銀色の細い眼鏡をかけた神経質そうな男だ。名札を見るとセドリック・チャンと書かれていた。白衣を着ているので、峯界医学院の医師なのだろう。
 腰を抜かすほど驚いて言葉が出なかったために、男は依林が言葉を解さないと判断したようだった。
「お前、セルジア語が分からないのか」
 何か口走ると余計に話がややこしくなる。誤解を幸いと、依林は黙ったまま首を傾げて困惑した振りをした。 
 無知な清華人と決めつけたようで、男は見下すような視線を寄越したあと、無遠慮に部屋に入り込んだ。
「あの若造が部屋を借りて何をしてるかと思えば……従者に物置部屋の掃除をさせてるとはね。わざわざセルジア語も話せない馬鹿を連れてきたのは意味があるのか」
 男は歩き回りながら、部屋をじろじろ観察している。だが、この部屋をどれだけ調べても無意味だ。自分たちもたった今、ここに来たばかりなのだから。
「総督の病気に関しても、まだ分からないの一点張りか。何がファイザ医学院最優秀卒業生だ。たかがしれている」
 依林の存在を忘れているように、彼は思ったことを垂れ流している。実際、彼にとって依林は人間ではなく空気のような存在なのだろう。
 アルフレッドの話題が出たので、依林は静かに聞いていた。
「大体、そんな優秀な医師が峯界なんぞに派遣されてくるはずがない。左遷されてきたという噂は本当だったようだな」
 何が嬉しいのか、男はくぐもった笑い声を上げた。部屋の中に特別なものはなにもないことを確認し、男は溜め息を吐いた。
「何か企んでると思ったのは、取り越し苦労だったか」
 男はようやく細い目を依林に目を向けた。
「……あいつ、まさかここで情事を交わすつもりなんじゃないだろうな」
 依林を上から下まで眺めまわして、男は呆れたような顔をした。
「こいつが相手とか? だとしたら、少年趣味とはね……あいつをちやほやしてる女どもに教えてやりたいものだ」
 鼻で笑って、男は晴れ晴れした顔で部屋を出ていった。
(何よ! 言いたいこと言いやがって)
 依林はわなわなと拳を震わせた。
 セルジア語が分からない振りをしている以上、どんな侮辱的な言葉を浴びせられても反応してはいけなかった。もくもくと掃除をこなしながら、内心では怒髪天を衝く思いだった。
 しかし、彼も依林を女だとは思わなかったようだ。ナンシーが準備した短髪のかつらとさらしで、性別は充分誤魔化せるようだった。
「でも……怪しいわね」
 わざわざアルフレッドの動向を探りにきたわけである。疾しい事情があるから、偵察にしにきたと主張しているようなものだ。あとでアルフレッドに報告することにしよう。
 少し疲れたので、依林は椅子に腰をかけて伸びをした。すると、今度こそ柚犀が呆れたような顔をして帰ってきた。その手に盆を掲げている。
「何さぼってんのさ」
「お帰りなさい。上手くいった?」
「当然。俺を誰だと思ってるわけ?」
 柚犀は盆を机に置いた。小皿がいくつか並んでおり、その中に少しずつ食事が盛られている。
「彼の今日の昼ごはん。病人だけど、いいもの出されてるよね」
「さすが柚犀。この調子でよろしく頼むわよ」
 依林は腕まくりをして、小皿の一つを手に取った。柚犀は依林と向かい合わせに座ると、小皿に集中し始めた依林を覗きこんだ。
「ねえ、どうやって調べるつもり?」
「見た目や匂いで分かればいいけど、最終は食べてみるしかないでしょうね」
「えっ、食うの!」
「仕方ないでしょ。どんな生薬も結局は、舌で味を覚えてるのよ。まあ、幸い一発で死ぬような毒ではなさそうだから大丈夫よ」
 おざなりに返事していると、柚犀は突然、依林の手を取った。
 急なことに驚いて依林は顔を上げた。
「何、一体!」
「依林。お願いだから、もっと自分の体を労わってよ。依林に何かあったら俺はどうしたらいい? 陳先生に申し訳立たないんだ」
 いつもの茶化したような物言いではない。焦げ茶色の瞳に浮かぶ瞳は真剣で、依林は言葉に詰まった。
 考えてみれば、依林も柚犀も家族と呼べるのはお互いの存在しかいないのだ。どちらかが欠ければ、もう片方は世界にたった一人ぼっちになってしまう。自分の身に無頓着であるということは、同時に柚犀をないがしろにしているのと同義である。
 あらためて、自分の軽率さを思い知った。
「ごめん、柚犀。私が浅はかだったわ。分かった。食べるのは、必要最小限にする」
「………………」
 真面目に答えると、柚犀は顔をひきつらせた。
「ここまで言っても、やっぱり食うんだ……くそ、本当に仕方ない時だけにしてよ」
「約束するわ」
 力強く頷いたのを見て、ようやく柚犀は手を放してくれた。
 依林は懐から銀の匙を取り出して、小皿の食事を混ぜ合わせた。銀は古来より毒を検知する金属とされている。実際には銀に反応しない毒も多く存在するが、まずはこれで確かめてみることにした。
 柚犀が用意した小皿はどれも反応しなかった。
 依林は一つずつ小皿を手に取ると鼻を近づけた。そして粥の入った皿だけは、粥に触れる手前で何度も匂いを嗅いだ。
「うーん」
「その皿が怪しい?」
「……違和感が、ある」
 外見も香りも一目では何の変哲もない粥だ。だが五感を最大限に働かせただけでなく、直感もふまえて引っかかるものがあった。この粥は何かおかしい。
「でも、絶対に毒が入ってるとは言えないし、種類を特定するのはもっと難しいわね」
 依林は溜め息をついて小皿を置いた。
「ところで、今日の食事はどのタイミングで拝借してきたの?」
「病院の看護師さんが運んでるところを、立ち話しながらいただいてきたけど」
 まるで天気を語るように柚犀は答えた。
「いつも看護師さんが運んでるわけ?」
「いいや。奥さんが運ぶこともあるらしいよ。今日も奥さんが一緒だったし」
「ふうん。じゃあ、いつか給食室から出てすぐのタイミングと、誰かが総督の部屋に運ぶ直前のタイミングの二か所でもらってくることはできる?」
「まあ、できなくはないだろうけど」
 面倒くさそうに答えた柚犀に、依林は念を押した。
「じゃあ、やってみて。それで毒が見つかれば、少なくとも毒の入ったタイミングを狭めることができるわ。犯人を絞ることもずっと簡単になる。難しいと思うけど頑張ってね」

 
 *

 アルフレッドは外来を終えてから、峯界医学院の外へ出かけた。
 大通りを抜けて、細い横道に入って行く。入り組んだ路地をすり抜けていくと、広がるのは雑然とした街並みだ。
 セルジアの貴族たちの住む整然とした通りとは別世界である。
 建物も木造物が多くなり、様式も入り乱れ、所狭しと林立する。歩く人々の服装もセルジア風のドレスやら清華風の旗袍やら様々であるが、くたびれた装いは共通している。怒号や歓声が飛び交い、熱気にあふれた雰囲気だった。
 峯界医学院の他のセルジア人は、あまり大通りから出ることはない。この雑踏を好ましく思っていない人間が多いようだ。
 だが、アルフレッドはこの独特の空間を面白いと感じていた。時折、思い出したように散歩することが気晴らしになっていたが、今日は目的があった。
 目当ての店に辿り着くと、アルフレッドは躊躇うことなく階段を上った。二階には寂れた喫茶店がある。薄暗い照明のせいで、退廃的な感のする店内だった。どこかの民謡のような音楽が流れていた。
 奥の仕切り台に一人の女が座っている。
「いらっしゃい」
 清華語で言って、女は顔を上げた。少し掠れた色気のある声音。長い黒髪はゆるやかに巻いて、顔の横で結われている。豊満な胸を惜しげもなく強調した旗袍を着こなしていた。
 女はアルフレッドに目を留めると、嬉しそうに微笑んで、流暢なセルジア語で言い直した。
「あら、アルフレッドじゃない。いらっしゃい」
「久しぶり、雪蘭。変わりないみたいだね」
「あなたは?」
「実はね、厄介な事件に関わってるんだ」
 アルフレッドは肩をすくめて答えると、店内の奥へ進んだ。仕切り台の椅子に腰をかける。
 雪蘭は細い眉を寄せた。
「また仕事の話? ちっとも遊びにきてくれないくせに」
「ごめん。忙しくて」
「まあいいわ。これは貸しよ。次は、仕事抜きでお茶しにきてちょうだいね――それで、今日は一体どういうことを知りたいの?」
 雪蘭は口元に優雅な笑みを刻んだ。
 ここは表向きには古びた喫茶店だが、実際は峯界屈指の情報屋であることを知っている者は少ない。
 店主は劉雪蘭(リィゥ・シュェ・ラン)。
 美貌の女主人が一人で切り盛りしている。実際に種を仕入れてくるのは彼女の配下なのだろうが、その存在は誰も知らない。
 ここ峯界で、彼女の知らない情報はないと言われている。清華共和国の官僚も、彼女の情報網に頼っているという噂だ。アルフレッドはひょんなことから彼女と知り合いになって、時折利用させてもらっている。
「この情報は当分、伏せておいてほしいんだけど」
「分かったわ。その代わり、料金は上乗せよ」
 アルフレッドは頷いた後、一拍置いた。それから、おもむろに口を開いた。
「――実は、峯界総督の毒殺疑惑がある」
 雪蘭はさすがに息を呑んで、大きな目を見張った。
「何ですって?」
「それは君も初耳?」
 もし知っていて演技をしているなら脱帽ものだった。雪蘭は悔しそうに顔を歪めた。
「病気で伏せっているっていうのは知ってたけど」
「それもトップシークレットだよ」
 アルフレッドはわずかに苦笑した。
「病気じゃない。故意に毒が盛られている可能性がある」
「それは間違いないの?」
「恐らく」
 短く答えたアルフレッドに、雪蘭は物憂げに溜め息を吐いた。
「まさか、今の時期にそんな事件が起きるなんて」
 現在、清華共和国とセルジア王国は、いつ戦争が勃発してもおかしくないような緊張状態にあった。
 二十年前、清華共和国の首都天真で、セルジア大使が皇宮訪問中に放火が起こり、大使が死亡した。それを契機に、セルジア王国は天真へ軍隊を派遣した。
 後に『天真戦争』と称される戦争である。
 清華共和国は敗戦し、峯界はセルジア王国の租借地として無期限に貸し当られることになった。それが今から十七年前のこと。
 だがそれだけでは飽き足らず、近年、峯界総督であるベンジャミン・ピールを中心として、セルジア王国は清華共和国に対し、輸出品の関税の税率緩和と貿易港の拡大を要求している。
 その背景には、清華共和国の豊沃な土地と資源を基にした茶や絹や貴金属などの輸出に対し、セルジア王国が対価となる輸出物をもたないため、セルジアの大幅な輸入超過になっていることが根底にあった。
 セルジア王国からの一方的な要請に、清華共和国が応じるはずもない。だが、セルジア王国は強大な軍事力をちらつかせることで清華共和国に迫っており、一触即発の状況となっているのだ。
「もし総督の死が病死でなかったとなれば、セルジア側からしたら戦争開始の格好の口実になるわね」
 二人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。店内に流れる古い民謡だけが耳の奥で響いている。
 アルフレッドは静寂を打ち破るように、口を切った。
「総督の死は食い止めなければならない。医療としてできることは、信頼できる医師に任せてるんだ。だから、僕は犯人の方から追ってみようかと思ってね」
「総督周辺の人間関係を知りたいわけね?」
「そういうこと。話が早くて助かるよ」
「実は、たまたま別件で総督の周辺を洗ってる最中だったの。ちょうどよかったわ。その資料の一部をあなたにあげる」
 雪蘭はそう言うと、仕切り台の下にある金庫を開けて封筒の一つを取り出した。
「その件で分かったことがあったら教えてくれる? 情報によっては、今回の料金をまけてあげるわ」

 *

 アルフレッドが峯界医学院に戻る頃には、日が暮れていた。
 研究室に入ると薄暗い部屋にランプがいくつか置かれて、ほのかな明かりを提供している。依林はたくさんの小皿に囲まれて、それらを分類しているところだった。
 柚犀は奥の椅子を並べて、器用に横になっている。
「はかどってる?」
「あ、アルフレッド。お疲れさま」
 依林がこちらを振り返ると、にっこりと微笑んだ。
 黒い瞳を細めて笑う依林は、とても可愛らしかった。最初に出会った時は緊張していたのか、もっととげとげしい印象だった。だが接していく中で、それは精一杯の虚勢なのだと分かった。
 本当の彼女は感情豊かな、心優しい女性だ。そして、自分を説き伏せるほどの論理力と、総督の病名を解き当てる観察眼を持ち、誰かのために危険を顧みずに戦う勇気を秘めている。
 出会ったばかりであるが、年下の依林に抱く感情は憧れに近いものだった。
「君の方こそ。根を詰め過ぎてない?」
「そんなことないわ。こんなこと日常茶飯事だもの。清方薬を調合するのは、繊細な集中力が要求されるの。そんな精密作業を朝から晩までやってるんだから、こんな作業なんていつもに比べればむしろ楽なくらい」
 依林は冗談っぽく、二の腕を叩いて見せた。
「それならよかった」
「ねえ、アルフレッド。今日、あなたが出ていってすぐに、峯界医学院の人がここに来たわ」
「えっ、本当に?」
 内密で用意したというのに、ここを借りたことに誰が気づいたのだろう。そしてそれを知った上で、わざわざ足を運んだのは何故なのか。
「誰か分かる?」
「セドリック・チャンっていう人。名札に書いてた」
「……チャン先生が?」
「知ってるの?」
「もちろん。上司の一人だ……彼は、総督の主治医だよ」
「そうなの? あの人、ここに来て何かを探ってるみたいだったわよ」
「というかチャン先生が来て、君は大丈夫だった? その時、どうしてたの?」
 慌てて追及したアルフレッドに、依林はこともなげに頷いた。
「ああ、それね。急に入ってきたから隠れる余裕もなくって。その場で呆然としてたら、アルフレッドの従者と勘違いしてくれたみたい。女だってこともばれなかったわよ」
 依林のあっさりとした答えに、アルフレッドは安堵の息をついた。
「そうか、君に何事もなくてよかった」
 アルフレッドと依林の会話で目が覚めたようで、柚犀が起き上がってきた。
「そのセドリックって人、総督の奥さんの愛人らしいよ」
「えっ、何それ!」
 依林が身を乗り出す。爆弾発言に、アルフレッドは眉をひそめた。
「本当に?」
「食事をもらうついでに、看護師さんと雑談してたんだよ。ここの看護師さんは他人の不祥事が大好きだね。色々、病院の噂話を教えてくれたよ」
 柚犀は呆れたように肩をすくめてみせた。
「たとえば、ハリー・ワドル医師は看護師のアビーとイザベルと二股してる、とか。ティム・ヘイズ医師は本当は禿げてて、かつらをかぶってるんだ、とか。サイラス・ダウニー医師は実は同性愛者だ、とか、ジェフリー・スミス医師と奥さんは喧嘩中で、奥さんは全く姿を見せないだとか……」
「分かった、分かった」
 アルフレッドが止めなければ、峯界医学院のただれた個人情報が際限なく暴露されそうだった。
 すると柚犀は悪戯っぽく笑った。
「ちなみに、アルフレッド・スタンリー先生は、この病院一のアイドルらしいね。どの看護師さんも顔を赤くして、あんたのことを話すよ。あの人、もしかしたら私に気があるんじゃないかしらって、ね」
「へえええ……アルフレッド。やっぱり、ずいぶんもてるのね」
 依林が冷ややかにアルフレッドに視線を寄越してきた。心なしか責められているような気がして、アルフレッドは咳払いをすると話題を変えた。
「それより、チャン先生の話だ」
「何人かの看護師さんが口をそろえて言ってたし、まず間違いないみたいだよ。関係も一回や二回じゃなくて、何年にも渡るような年季の入ったものだって。総督も二人の関係を怪しみ始めてたらしくて、セドリックには厳しく当たってたみたいだ」
 思い返してみれば、総督と初めて会った時、病気で苛立っている以上にセドリックに対して高圧的だった。権力志向の高官にありがちな態度かと疑問に思わなかったが、そういう事情があるなら納得できる。
 総督も、妻の不倫相手が主治医とは気の毒な話である。
 依林は難しそうな顔をして腕を組んだ。
「じゃあ、やっぱり愛憎の末にセドリックが毒を盛ったのかしら」
「だけど、それならどうして僕に総督の相談をしたんだろう。自分で毒を盛っておいて、片方で違う医者に診察させるのは、ちょっと矛盾してるんじゃないかな?」
「うーん。確かに」
 アルフレッドはコートのポケットから手帳を取り出した。
「今回僕が調べてきたのは、総督を殺害する動機のある人間だ」
 雪蘭から借りた資料を確認して、何人かピックアップしてきたのだ。
「そんな人、セドリック以外にもいるわけ?」
「うん。まずはさっき話に出てきた総督の妻である香桃・ピール。チャン先生と関係があったことは知らなかったけど、そもそも総督夫妻の夫婦仲は非常に険悪らしい。だが、お互い離婚にはデメリットが多い。総督はやはり外聞を考えてのことだろうね。香桃は金銭面の問題が大きいんだろう。仕方なく夫婦生活を続けてはいるものの、破綻寸前だったようだ」
「なるほどね。病死に見せかけて夫を殺せば、財産は自分の懐に入るって魂胆ね」
「そういう可能性もあるっていうことだよ」
 まるで香桃が犯人だと断定するかのような調子に、アルフレッドは苦笑しながら訂正した。
「次に、総督の秘書をしているデニス・バーナード。第三秘書らしいんだけど、陰湿な苛めの対象だったらしい。ところ構わず怒鳴りつけたり、理不尽な要求を繰り返したり、暴力も日常茶飯時だっていうことだ。だけど彼の実家が倒産して借金がたくさん残っているから、仕事辞めるわけにはいかないらしい」
「ふうん。上司が亡くなれば、新しい総督がくるものね。もしかしたら次の総督は人格者かもしれない」
「そういう動機も成り立つね――それから」
「まだいるの! どれだけ憎まれてるわけ、総督って」
 依林は唖然として声を上げた。
 峯界総督ほどの地位にあれば、どんな言いがかりで恨みを買っても不思議ではない。だがベンジャミン・ピールは、それ以上に人格に大きな問題があったようだ。叩けばいくらでも埃は出るだろう。
「清華共和国の外交官である黄慶駿(フゥァン・チン・ジュン)。彼は峯界の貿易に関するセルジアとの折衝も担当している。天真戦争で清華共和国は不利な条約を締結しているんだけど、総督はそれをさらに超えた無理難題を要求しているんだ。セルジアの軍隊をほのめかせてね。その件について、黄慶駿と総督の間で強い諍いがあったらしい」
 セルジア人である自分がこの詳細を語るのは、正直心が痛い。
 圧倒的な軍事力で暴力的に他国を制圧するのは、文明国のすることではない。お互いの国や文化を尊重し合う姿勢で、友好的な関係を築いていくべきなのだ。だがセルジアは自国の発展に増長し、他国を踏みつけにすることを恥ずかしいと思わなくなってきている。
 依林は厳しい顔つきで、アルフレッドに詰め寄った。
「じゃあ、総督は清華と戦争しても構わないって思ってるの?」
「分からない。だけど、それも辞さないといった強気の態度ではあったようだ。もちろん、セルジア側でも強行していたのは総督だけだったという話だけど」
「天真戦争で清華がどれだけひどいことになったか知らないから、そんなこと言えるのよ。戦争を歓迎するような人間は最低よ」
 依林は顔を背けて吐き捨てた。
 戦火の真只中で生まれ育ってきた彼女は、戦争の恐ろしさを実感しているのだろう。依林は拳を握りしめている。その手は小刻みに震えていた。
 アルフレッドはそっと依林の手を取った。青ざめていた依林は、驚いたように顔を上げた。
「……もう嫌になった? 君が助けようとしている人間は、そういう男だよ」
 依林は押し黙った。
「誰も彼を愛している人はいない――それどころか、彼がいなくなって喜ぶ人間ばかりだ。それでも、君は危険を冒してまで彼を救いたいと思う?」
 実はベンジャミン・ピールの死こそが戦争の口実になる可能性があることは、あえて語らなかった。セルジア王国は峯界総督の不審死を理由に、清華共和国に戦争を仕掛けるかもしれない。だから戦争回避のためには、総督に死んでもらっては困る。
 だが柚犀の言葉ではないが、依林に祖国のそんな暗黒部分を知らせたくはなかった。
(依林が総督に嫌気がさして、この件から手を引いてくれればいいのに)
 そうすれば、彼女は国同士の暗くて汚い一面を見ずに済む。内心でそう願いながら、アルフレッドは依林を見つめた。
 依林は黒く濡れた瞳を苦しそうに歪めた。
「でも……どんな悪人だったとしても……殺されていいわけじゃないわ」
 ぽつりぽつりと呟く言葉はいつものように流暢ではなかったが、心の底から吐き出されたものだという気がした。
「……本当に腹が立つし最低だと思うけど、だからって見捨てる理由にはならない。彼に罪があるなら、生きて罰せられるべきよ――だから、毒の調査は続けるわ」
 依林は断言した。それが強がりでも建前でもないのは、彼女の瞳に浮かぶ澄んだ光を見れば一目瞭然だった。
 今度はアルフレッドが言葉を失う番だった。
「分かった……ごめん、君を試すような言い方をして」
 アルフレッドは自己嫌悪でうつむいた。
 視線の先には、自分の手の中にすっぽり納まった依林の手がある。彼女の白い手はほん小さいものだ。だが、彼女はその小さな手で、これから多くの人間を救っていくのだろう。
 こほんと咳払いが降ってきた。
「ところで……あのね、そろそろ手を放してもらえるかしら」
 言われて初めて、依林の手を握りしめたままだったことに気づいた。
 アルフレッドは依林の手を解放した。
「ああ。ごめん、つい」
「つい……ね」
 依林の頬は何故か紅潮していた。先ほどは血の気がなかったので、喜ばしいことだと思っていると、依林は人差し指をアルフレッドに突きつけた。
「アルフレッド! 甘い言葉を囁くのもそうだけど、無闇に女性の手を取るのも控えてちょうだい。そういうことは好きな女の人だけにするべきよ。誰かれ構わずしちゃ駄目なの」
「別に、誰かれ構わずしてるわけじゃ……」
「言い訳しないで」
 ぴしっと言い放った依林に反射的に頷いてしまう。
「は、はい。分かりました」
 依林は少し調子を和らげて続けた。
「あなたのそういうところ、きっと生まれつきなのね。いちいち真に受けてたら、心が持たないわ。よくないところは私が教えることにするから、あなたもしっかり学んで、きちんと『女』の恋人を作って。そうすれば、ローリングさんもナンシーも私に感謝するはずだから」
 やけに『女』の恋人を強調するのが不自然だったし、何故我が家の執事とメイドが依林に感謝するのかも不明だった。だが、それを尋ねると依林の機嫌をさらに損ねるような気がしたので、アルフレッドは黙ったまま大人しくしていることにした。



 2

 総督の食事を調べ始めて二日が経過したが、いまだ毒の種類も犯人の特定にも至らなかった。依林は念のため解毒作用のある清方薬を処方して、総督に内服してもらうように頼んだ。著明な効果は期待できないが、何もしないよりはましだろう。
 午前中に柚犀が運んできた小皿の山と格闘していると、アルフレッドがやってきた。
 柚犀は情報を仕入れると称して、どこかへ出かけている。
 アルフレッドは日中に医学院の仕事があるため、昼間、研究室を訪れることは珍しかった。
「どうしたの、今日は早いのね?」
「今日は病院が休みの日なんだ」
「へえ、そうなの」
「七日に一度、休業日があるんだ。外来を閉じてるんだよ。だから入院している患者を回診したら、あとは好きに休める」
「それがセルジアの暦なのね」
 依林は感心して頷いた。他国の人間と話していると、ふとしたことで文化の違いを教えられることがある。似て非なる文化の相違を知るのは興味深かった。
「依林もここ二日、ずっとこもりきりだろう? 少し気分転換しない?」
「そうね」
 確かにアルフレッドの言う通りだった。さすがに集中力も切れかけている。この状態で作業を続けても効率が悪いだろう。
「じゃあ、私もちょっと休もうかな」
「よかったら峯界を案内しようか?」
「いいのっ?」
 依林は俄然、身を乗り出した。峯界に出てきたものの、観光をする暇もなく峯界医学院で缶詰状態だった。せっかくだから、清華共和国一と名高い都市を見て回りたいと思っていたのだ。
「もちろん。どこか行きたいことはある?」
「じゃあ港が見たいわ」
「江河港のこと?」
「ええ。私、森の中に住んでたでしょ? だから」
「なるほどね――じゃあ、歩いていけるから散歩がてらに行ってみようか」
 アルフレッドは緑の瞳を優しく細めて頷いた。
 柚犀に書置きを残して、二人で港に向かった。アルフレッドとはかなり身長差があるが、頼むまでもなく依林に歩調を合わせてくれた。
 横に並んだアルフレッドが、ふと口を開いた。
「そういえば、依林はどうして医師になろうと思ったの?」
「え?」
 意外なことを尋ねられて、依林は瞬きする。
「いや。今みたいな知識や経験を手に入れるのは、大変だったんじゃないかと思って」
「そうね……」
 依林は思い出すように目をそばめた。
「陳医師に勧められた?」
「先生は私に何も強いたりしなかったわ」
「じゃあ、苦労してまで医師を目指したのには、何か理由があるの?」
「うーん。確かにたくさん勉強したけど、それが大変だと思ったことはないのよね。先生が教えてくれることは何でも面白くて、いつも次が知りたくて仕方なかった」
 ねだるように教えを請う依林に、むしろ戸惑っていたのは王勇の方だった。
「最初はただ単純に、色んな知識が増えることが楽しかった。別に積極的に医師になりたかったわけじゃないの」
「そうなの? じゃあ、何で?」
 依林は少し考えてから、悪戯っぽく微笑んだ。
「――魔法が使えるようになりたかったから、かな?」
「魔法?」
 意外な答えだったのか、アルフレッドは驚いたように緑の瞳を丸くした。
「そう、先生が患者にかける魔法」
 依林はアルフレッドを見上げた。
「先生が『森の魔術師』って呼ばれたのを知ってるでしょ?」
 アルフレッドは『森の魔術師』と評判の人物を探して、佑南村の外れまで足を運んできたのだ。
「苦しんで先生のもとを訪れる患者が、先生の出した薬でたちまち笑顔になる。患者はみんな『陳先生の魔法』だって言ったわ。そんな姿をずっと隣で見てたから、私も先生みたいに色んな人を笑顔にしてみたくなったの」
 腰痛に苦しむ老人も、二日酔いで吐く青年も、下痢で泣く赤子も。王勇の手にかかれば、たちどころに元気になった。きらめくような笑顔を浮かべながら「ありがとう」と頭を下げる人々を見送っていると、いつも心が温かくなったものだ。
「ところで、アルフレッドこそどうして医師になったの?」
 彼の身分が高いことは間違いない。依林はセルジアの貴族事情に詳しいわけではないが、働かなくても充分生きていける人間のはずだ。それこそ努力と苦労を要してまで、医師を志したのには深い事情があるのだろうか。
「残念ながら、依林みたいな素敵な理由じゃないんだ」
 恥ずかしそうにアルフレッドは首をすくめてみせた。
「家を出たかったんだ。自分一人で生きていくのに力が必要だった――だけど結局、今も実家に世話になってるわけで、全然自分の足で歩けてない。だから僕は、陳医師が亡くなった後、君が一生懸命立ち上がっている姿を尊敬するよ」
 アルフレッドはそう言うと、澄みきった瞳で依林を見つめた。
 いつものように一直線の褒め言葉に、依林は顔を真っ赤にしながら「ありがとう」と呟いた。
 そうこうしている内に、峯界医学院から十五分ほど歩いて江河港へ辿りついた。
「さあ、着いたよ、ここが江河港だ」
 江河は清華共和国内陸部を水源とし、峯界を貫いて海へ注ぐ大河である。峯界は江河に埠頭を持ち、他国、特にセルジア王国との貿易で発展した都市である。
 波止場には多くの汽船が並んでおり、いつも船の汽笛が空に溶けるように響いている。赤煉瓦の倉庫まで荷を積み出すのは清華人で、それをセルジア人が指示している光景はありふれたものだった。
 依林はアルフレッドを追い越し、一番近くの汽船の前まで走った。
「なんて大きな河なのっ! 向こう岸が見えないわ。これは海ではないのよね?」
 依林が振り返ると、アルフレッドは子供のようにはしゃいだ依林を微笑ましそうに見つめている。
「そうだね。目を細めると、うっすらだけど向こう岸が見えるよ」
「本当?」
 言われた通りにすると、白くぼやけた視界の先に灰色の影が見えた。この河の向こうにも町があって、今こうしている依林と同じように、誰かが目を側めているのかもしれない。そんなことを想像するだけで、どんどん胸が高鳴ってくる。
「泳ぎにいったりしたこともないの?」
「ないわ。だから泳げない。あなたは泳げる?」
「まあ、それなりに」
 河から港に吹き抜ける風が、依林の長い髪を乱しては流れる。依林は汽船を見上げた。
「船ってこんなに大きなものだったのね。そりゃ、そうよね。これでセルジアまで航海するんだもの」
 森の中だけで生活していた頃、自分の世界は森と家と佑南村だけで完結していた。狭い視野だけの生活に何一つ不自由はなかった。だが、世界はこんなにも広いのだ。
 見るもの全てが新鮮で心を奪われるばかりである。
「こっちに来てから初めてのことばっかりね」
 楽しくなって、依林は後ろ歩きで波止場を進んでいく。そのため背後への注意がおろそかになっていた。
「あっ、依林、危ない!」
 慌てた様子でアルフレッドが手を伸ばした時にはすでに遅く、依林は背中越しに誰かとぶつかってしまった。体当たりされる格好になった相手は、たたらを踏んだが転倒することはなかったようだ。
「ごめんなさいっ。よそ見してました」
 依林は振り返って、衝突した相手に頭を下げた。
 金髪赤ら顔の大柄なセルジア男性だった。仕立てのよいフロックコートを羽織っており、身分の高さがうかがえる。強面に苦虫を噛み潰したような顔をしており、依林は身をすくめた。
 だが、意外にも男は人好きのする笑顔を浮かべた。
「こちらも不注意だった。申し訳ない、お嬢さん」
「スミス先生!」
 追いついたアルフレッドが、思わずといったように声を上げた。
「アルフレッド? 何故ここに?」
 スミスと呼ばれた男はぎょっとしたように目を見張った。彼はアルフレッドの知り合いのようだった。
「……この子は、君の知り合いかい?」
「ええ、まあ」
 アルフレッドは端正な顔を困惑したように歪めると、依林の耳元で囁いた。
「彼はジェフリー・スミス。峯界医学院の医師で、僕の上司の一人だ」
 言葉を濁したアルフレッドに、ジェフリーはさらに問いかけてきた。
「アルフレッド。君はどうして彼女に男服を着せてるんだ? この子は女性だろう?」
「えっ?」
 依林とアルフレッドは同時に声を上げた。
「分かるんですか?」
「分かるも何も、見たままじゃないか。私は峯界で二十五年いるんだ。清華人だって見慣れてる。それに、まさかこの私が女性を見間違えるとでも?」
「そうですね」
 アルフレッドは観念したように溜め息を吐いた。
「……峯界には治安が悪いところもありますから、男の振りをしてもらってるんですよ」
「なるほど」
 アルフレッドの咄嗟の弁明を、ジェフリーは特に疑問なく納得したようだった。
「お嬢さん、私はジェフリー・スミス。どうかお見知りおきを――お名前を教えていただけるかな?」
「陳依林です」
 依林が答えた途端に、ジェフリーは瞳に鋭い光を浮かべた。
「――陳?」
 アルフレッドは彼の変化を予想していたように小さく頷く。
「ええ、そうです。彼女は陳王勇医師の遠縁の子です。スミス先生が教えて下さった『森の魔術師』は、やはり陳医師だったんですよ。残念ながら彼自身はお亡くなりになっていたのですが、今は彼女が後を継いでいるんです」
「まさか……」
 ジェフリーは言葉を失ったようだった。アルフレッドは続けた。
「依林。スミス先生は昔、陳医師と一緒に働いたこともあるそうだよ」
「そうなんですか!」
 思わぬところで王勇の知り合いに出会い、依林は興奮を隠しきれなかった。
「……まあ、ね。ごく短い間だったけれど」
「ぜひ、先生の話を聞きたいです」
 昔の王勇を知る人間の生の声を聞きたかった。
「陳医師のことは心からお悔やみ申し上げる――そうだね。また今度、時間をとってゆっくり話をしよう。こんなに綺麗なお嬢さんを一人占めできるなら、こちらも大歓迎だ……だが残念ながら、今日は用事があってね。今は申し訳ないけど失礼するよ」
 にっこりと微笑んでから、ジェフリーは急いだ様子でその場を後にした。
 ジェフリーが立ち去る姿を見送りながら、依林は呆れて肩をすくめた。
「……何て言うか、口の上手い人ね」
 アルフレッドはきょとんとした顔で依林を見た。そして、すぐにふんわりと微笑んだ。
「スミス先生はお世辞を言ったつもりはないと思うよ。君は本当に綺麗だから」
 アルフレッドは自分こそ天使のような顔で、歯の浮くような台詞を臆面もなく口にした。
 依林はいたたまれなくなり、そっぽを向いた。
「やめてよ。そういう冗談はよくないって言ったでしょ?」
 アルフレッドは、さも心外そうに眉根を寄せた。
「冗談なんかじゃない――君は綺麗だよ。夜を思わせる瞳も、絹のような手触りの髪も、とても素敵だと思う」
 形のいい唇から次々と溢れ出る美辞麗句は、余計に依林の勘に触った。
「そういう口説き文句は、女の人を誤解させるって言ったでしょ! 私は自分の身の程をちゃんと知ってる。自分が平均以下だってこともね」
「どうして君は、そんな風に自分のことを卑下するんだ?」
 アルフレッドは納得がいかないというように眉をひそめてみせた。
「もういいでしょっ! そんなこと――帰るわ!」
 依林は苛々して怒鳴った。依林が本気で腹を立てていることを悟り、アルフレッドは狼狽したようだった。湖の色をした瞳を心配そうに細めた。
「分かった。もう言わないよ。一緒に帰ろう」
「道順は覚えてる。自分で帰れるわ。ちょっと一人になりたいの。少し放っておいて」
 依林はそっけなく言うと、アルフレッドを置いて先に戻り始めた。

 *

 アルフレッドに悪気がないことは理解していた。
 気を遣っているのか、美に対する感覚がずれているのかは分からないが、依林をからかってあんな言葉を繰り出したわけではないのだろう。
 だが神に愛された美貌を持つアルフレッドに、自分の顔の造作についてあれこれ口にされると、苛立たしくて仕方がなかった。
(アルフレッドって、時々本当に無神経よね!)
 誰に対しても、ああいう賛辞を躊躇いもなく口にする人だと知っている。癖のようなものだと理解していても、馬鹿にされている気がするのは止められなかった。
 腹立ちが治まらずにずんずん歩いていると、気づいた時には見たこともない路地の中に迷い込んでいた。
 慌てて周りを見渡したが、細い道が前後左右に伸びていて、どこから自分が来たのかも分からなくなっていた。豪邸が建ち並ぶ、整然とした石畳の大通りは影も形も見当たらない。木造の改築を重ねたような雑然とした建物が所狭しと並んでいる。
 道に迷ったという不安を覚えるより先に、簡単に歩いていけるような距離で、街並みにこれほど差があることに驚いた。
 誰かに道を尋ねようにも、周囲に人気がない。このまま闇雲に歩き回るのと、誰かが通りがかるのを待つのと、どちらが利口な選択だろうか。
(……待ってれば、アルフレッドが来てくれるかな)
 ふっと頭に浮かんだ考えに、依林はぶんぶんと大きく頭を振った。
(ば、馬鹿ね、私ったら! 来るはずないじゃない。さっきあんなにつんけんした態度を取っちゃったんだし)
 そうでなくても、彼は依林が真っ直ぐ医学院に戻ったと思っているはずだ。どことも知れぬ路地裏で、途方に暮れているとは想像もしないだろう。それに、もしも帰ってこない依林を不審に思って探しにきてくれたとして、「道順は覚えてる」と豪語した自分が恥ずかしくて合わせる顔がなかった。
 依林は仕方なく、その場にあった比較的綺麗な段差に腰をかけた。
 雲ひとつない綺麗な空をぼんやり見上げていると、建物の影から急に一人の青年が転がり出てきた。
「なっ……」
 突然のことに依林が絶句していると、青年は腹を抱えるような格好でうずくまり、そのまま地面に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫?」
 医師としての性分で、依林は急いで青年に駆け寄った。すぐに青年を上向かせる。短く刈り上げた髪と、よく日焼けした肌を持つ清華人だ。だが今は顔色が悪く、額に脂汗を浮かべていた。
「どうしたの? どこか痛い?」
「……は、腹が……」
 青年は依林を認めると、ようやく掠れたような声で答えた。そして息も絶え絶えといった様子で続けた。
「あ、あんた……何か、薬……持って……?」
「お腹が痛いのね?」
 依林は青年の上着を躊躇いなく引き剥がした。彼はぎょっとした顔で抵抗しようとしたが、力が入らないのだろう。依林を止めることは出来なかった。
「大人しくして。私は医師よ。お腹が痛いんでしょう。ちょっと診察するから」
 言い含めると、青年はかなり疑わしそうな目つきでこちらを見てきたが、逆らおうとはしなかった。
 腹部に手を当てると、青年の腹筋は鍛えられていて無駄な贅肉は全くなかった。腹壁の緊張はかなり強い。鳩尾に手を入れると、痛みが増したようで顔を大きくしかめて、ぎゅっと目を瞑った。
(多分、胃痙攣ね)
 若い男性に起こる、急な腹痛の原因の多くが胃痙攣である。薬を飲めば、すぐに治まるだろう。
 ふと青年の背中の下に、いくつかの薬包が落ちていることに気づいた。どうやら先ほど上着をめくった時に落ちたもののようだ。
(何だ、自分で薬を持ってるんじゃないの)
 早く言えばいいのにと思いながら、その薬包を拾う。中身を開けると、ありきたりな白い粉末が入っていた。何気なく匂いを嗅いで、依林は目を見張った。
(これはっ!)
「あ、あなたっ! これをどこで手に入れたのよ!」
 依林は思わず怒鳴った。青年はうつろに目を開ける。そして依林が手にした薬包を見て、息を呑んだ。
「それ……は……」
「こんなものを、何で持ってるの? 持ってるだけで犯罪なのよ」
 青年は苦しそうに眉を寄せるだけで答えなかった。ぷいっと顔を背けてしまう。その態度にむっとして、棘のある口調で続けた。
「答えないなら、薬はあげないわよ」
 すると、青年は悔しそうな顔をした。そして苦痛に耐えかねたように、ぽつりぽつりと吐き出した。
「……それとは、無関係…………上司の、命令」
「上司の命令?」
 今度は素直にこくりと頷く。
「あなた、名前は?」
「……小鳳(シァォ・フォン)」
 嘘をついているようには見えなかった。疼痛がかなり強いのだろう。話すのも単語がやっとといった状態だ。
 依林は意地悪が過ぎたと反省した。青年の頭をそっと撫でて、服の袖口で汗を拭ってやった。
「分かった、小鳳。ごめんなさい。詳しいこと後で聞くから。まずは痛みを取りましょう」
 依林は自分の懐から薬を取り出した。色ごとで分けた中から一つを選んで、青年の口に運ぼうとする。その直前で水がないことに気づいた。
「ちょっと待ってて、水を探してくる」
 依林は青年の手元に薬を置いて出かけた。
 しばらくうろうろすると雨水を溜めた瓶を見つけた。自分の髪を結った布を解いて、水を汲んで急いで戻った。
「あ、あれ……いない――?」
 青年は風のように行方をくらましていた。依林が渡した薬もなくなっているところをみると、水なしで服用したのだろう。
 依林はがっくりと肩を落として座り込んだ。
 依林の手元には、小鳳と名乗った青年が落とした薬包が残されただけだ。もう一度、確認しようと薬を鼻に近づけた瞬間――脳裏に一筋の光が閃いた。
「ああ、そうか! ――何で今まで、分からなかったの!」
 依林は跳ねるように立ち上がった。
 アルフレッドのもとへ戻らなくてはいけない。一刻も早く、この発見を伝えなければ。
 依林は一つ道を決めると、そこを突き進むことにした。幸運なことに、その小道は偶然大通りに通じていた。依林は全速力で走って、峯界医学院へ向かった。

 *

 それより少し前。依林と別れた後、アルフレッドは途方に暮れていた。
 先ほどの会話をどう反芻しても、彼女を憤慨させた原因に心当たりがなかった。理由が分からない以上、対処の仕方も思いつかない。
 悄然とした足取りで峯界医学院へ戻ると、部屋で待っていたのは依林ではなく柚犀だった。椅子を傾けて、組んだ足を机の上に乗せている。
 ヘンリーならきっと無作法だと眉をひそめて見せるのだろうが、不思議と柚犀はそういった所作がはまって見える。
「俺のいない間に勝手に逢引なんて、全くのんきだよね、二人とも」
 柚犀が心配しないように置き書きを残していったが、彼は口を尖らせて嫌みっぽく言った。だが、すぐに怪訝そうに眉根を寄せる。
「依林は? 一緒だったんだろ?」
「まだ帰ってない? 僕より先に戻ったんだけど」
 柚犀は目を見張った。
「何で、一人で帰したりするのさ!」
「それが……どうやら、僕が依林を怒らせてしまったみたいで」
 肩を落としたアルフレッドを見て、柚犀は怒りの矛先を失ったようだった。
「何だよ、一体。何があったわけ?」
「よく分からないんだ」
「あーっ、もう! いいから、とりあえず話してみなよ」
 苛立ったように柚犀が命令して、言われるがままに状況を説明すると、彼は納得したように頷いた。
「ああねえ、なるほど」
「えっ、分かったの? 依林が不機嫌になったわけが」
 いくら頭をひねっても分からなかったことが、柚犀にはすぐに察しがついたことは、何だか釈然としなかった。
 柚犀は肩をすくめてみせた。
「まあね――依林は、自分の容姿にすごく劣等感があるんだよ」
「あんなに綺麗なのに?」
 アルフレッドは依林に、口先だけの褒め言葉を言ったつもりは毛頭ない。
 彼女は、実際に端正な顔立ちをしていると思う。
 涼やかな黒い瞳、通った鼻筋に小さな赤い唇。清華人にしては白いきめ細やかな肌、小柄だがすらりと伸びた手足。華やかで派手な美人というわけではないが、清楚で初々しい魅力に溢れている。
「柚犀だってそう思うだろう?」
「他人が依林をどう見てるかは問題じゃない。重要なのは依林が自分自身で、自分のことを不格好だと思い込んでいることなんだ」
「何かきっかけでも?」
「一言でいえば、男のくだらない嫉妬だよ」
「……? どういうこと?」
 普通、嫉妬という感情は同性同士の間に発生するものではないのか。
「依林は小さい頃から、すごく優秀だったんだ。学校には通ってなかったけど、陳先生の弟子としてずば抜けて賢かった。だけど、清華共和国にはまだまだ男尊女卑の風潮が色濃く残ってる。あんたも言ってたけど、ここでは女性医師は認められてないだろ? それも名残の一つだね――佑南村の少年たちは、自分よりはるかに頭のいい依林の存在が不愉快で仕方がなかった。で、会うたび寄ってたかって依林の容姿をからかうことで溜飲を下げたわけだ」
「ひどいことを」
「一人や二人、一回や二回なら依林だって気にもしなかっただろうけど。繰り返し言われている内に、どうやら自分の顔はとても褒められたものじゃないらしい、と思わずにはいられなくなったんだろ」
 今よりずっと幼かった依林は、周りの少年たちの中傷にひどく心を痛めたのだろう。自分の姿形を歪めて認識してしまうほどに。そして、その呪縛は今でも解けずに彼女を縛っているのだ。
 今、自分がその愚かな少年たちと会うことができるなら、殴りつけてでも依林に謝らせてやるのに。
「俺や陳先生がどれだけ慰めて、依林の思い込みを治そうとしても全然、無理。身内の贔屓目くらいにしか思わない。それどころか、いつからか自分の容姿に関して、あれこれ言われること自体に過剰反応するようになったんだ」
(そうだったのか……)
 自分を不器量だと信じ込んでいる依林にどれだけ言葉を重ねても、彼女は馬鹿にされているようにしか思えなかったのだ。むしろ過去の嫌な記憶を思い出させるものでしかなかったのかもしれない。
 その時、廊下を駆け抜ける足音が響いて、話題の依林が部屋に飛び込んできた。髪を乱して、顔を真っ赤に紅潮させている。肩で大きく呼吸を繰り返していた。
「アルフレッド、柚犀! 分かったわよっ」
 依林は息を整えると、ばんと机の上を強く叩いた。
 二人とも依林の高らかな宣言に心当たりがなく、呆然とする他ない。
「お、お帰り。依林。一体、何が分かったの?」
「毒よ。総督に盛られた毒の種類が分かったの!」
「――何だって!」
 アルフレッドと柚犀はそろって目を剥いた。




 第4章

 1

 依林の話を詳しく聞くために、アルフレッドは一旦、自宅に戻ることにした。
 依林は興奮していて、冷静に説明できるような様子ではなかった。冷却時間を置くという意味と、念には念を入れて関係者が全くいない自分の屋敷の方がいいだろうと判断したのだ。
 応接室に入った途端、依林は時間を惜しむように机の上に白い薬包を置いた。
「これが、総督に盛られた毒の正体よ。間違いないわ」
 依林はきっぱりと断定した。
 アルフレッドは薬包を手にとって中を開けた。白い粉末が現れる。外観だけでは何の粉かは全く分からない。小麦粉だと言われたら納得してしまうかもしれない。
「これは、何なんだい?」
「阿燐片よ――あなたなら知ってるでしょう?」
 依林は厳しい視線でアルフレッドを見遣った。
 アルフレッドは息を呑んだ。
 阿燐片というのは、鎮静や麻酔効果がある芥花子の実を精製して作られた薬物である。切れ味のよい鎮痛効果があり、セルジア医学界では外科手術や疼痛管理などに頻用された薬だった。
 だが量を間違えると、呼吸抑制や血圧低下をきたし致命的な結果を招きうるということが問題なった。
 また医薬品としての作用以外に、阿燐片は快感や高揚感をもたらす。それを求めて、一般市民が医療人の手を介さずに、阿燐片に手を染めるようになった。長期連用により重篤な薬物依存が生じ、廃人と化した人間が激増したのである。
 十年前にセルジア王国が阿燐片禁止令を発令したのを皮切りに、各国も足並みをそろえて阿燐片の製造・販売を禁じることとなった。そして医療現場からも姿を消した、今では禁忌の薬なのである。
「ああ、知ってる。だけど習ったことがある、という程度だよ。どうして君はこれが阿燐片だと?」
「作ったことがあるからよ」
 依林はこともなげに答えた。
「作ったことが……あるの」
 アルフレッドは唖然とするしかなかった。
「ええ。もちろん十年前の話だけど。あの森では芥花子も栽培していたの。阿燐片は治療域と中毒域の狭い薬だけど、きちんと調節したら有用な薬なのよ。毒を制すには毒のことをきちんと知る必要がある。先生はそういう考え方の人だったから、危険な薬のことも隠さずに教えてくれたわ」
 アルフレッドは考えをまとめるべく、腕を組んだ。
「これが総督の食事の中に入っているのは間違いない?」
「症状も合うし、お粥から感じる違和感は阿燐片で間違いないわ」
「あとは誰がこれを混ぜたのか、ということか」
 依林は涼やかな瞳をきらめかせた。
「今は芥花子自体の栽培も禁止されてるはず。阿燐片が世界からなくなったなんて言わないけど、少なくとも一般人が簡単に手に入れられるものじゃないわ」
「というか、依林はこれをどこで手に入れたの?」
 依林の勢いに圧倒されて忘れていたが、急に阿燐片の存在に気づいたことも、その実物を入手してきたことも、考えてみればおかしいことばかりである。
「実はね、さっき倒れた人を介抱したの」
 難しい顔をして、依林は内緒話をするように声を潜めた。それから彼女はアルフレッドと別れた後に起こったことを話し始めた。
 話を聞き終えたところで、アルフレッドは頭を抱えた。
「い、依林。そんな危ない男には近づかないで!」
「だって、助けるまでは危ないかどうかなんて分からないじゃない」
「だけど」
「行き倒れた人を見捨てるわけにもいかないでしょ?」
 アルフレッドはがっくりと肩を落とした。
「じゃあ、せめて僕がいる時にしてほしい。たまたまその男は君に危害を加えなかったけれど、峯界には大通りを外れたら、とても治安の悪い場所もあるんだ。君を心配して言ってるんだ。お願いだから約束して。そうじゃなきゃ、君をここから外に出すことなんてできないよ」
「分かったわ」
 依林の身を案じて、真剣に頼んでいることは伝わったのだろう。心から納得した様子はなかったが、それでも依林はしぶしぶ頷いてくれた。
 彼女の機嫌を損ねることもなかったので、アルフレッドはほっとした。
「小鳳、ね……一体何者なんだろう」
「彼の言うことを信じるなら、彼は阿燐片には無関係ということよね――やっぱり、この間名前の挙がった人たちが犯人候補なのかな? 食事に混じってる阿燐片の量はごく微量だと思うの。あれだけの中毒症状を引き起こすなら、かなり長期間に渡って、盛られてるはずでしょう?」
 依林は躊躇ったように続けた。
「そんなに長い間、総督の食事に関わることが可能なのは、奥さんである香桃しかいなんじゃないかしら?」
「確かにそうだ。だけど、いくら総督夫人とはいえ、一介の貴婦人に阿燐片を入手する伝手があるだろうか」
「手に入れやすいんなら、政府関係者が医療関係者だろうね」
 柚犀がぽつりと口を挟んだ。今まで黙っていた柚犀が急に会話に加わったので、依林は面食らったようだったが、すぐに気を取り直して尋ねた。
「どうして?」
「阿燐片を取り締まっているのは政府だから。押収した阿燐片は焼却処分されることになってるけど、それは建前で闇に流れてるってのはもっぱらの噂だよ」
「医療関係者っていうのは?」
「十年前に病院から阿燐片はなくなったことになってるけど、医師や看護師が自分の懐に少しくらい隠し持っていても分からないんじゃない?」
 よどみなく話す柚犀は、とても十代半ばの少年には思えない。依林は感心したように頷いている。
「じゃあ清華共和国の高官の黄慶駿も、セドリックも容疑者から外れないわね。秘書のデニス・バーナードはどうかしら?」
「看護師たちの意見じゃ、最近のデニスの態度は変だって話だよ。元々おどおどした感じのやつらしいけど、しょっちゅう誰かに手紙を書いたり、こそこそ何かを探ってるような様子を見せたりしてるらしい」
「えーっ、じゃあ結局、全員怪しいじゃないの」
 柚犀の情報を聞いて、依林は悩ましげに腕を組んだ。
 その時、ノックの音がして応接室の扉が開いた。振り返るとヘンリーが頭を下げている。応接室で人と対応している時に、ヘンリーが邪魔をすることは滅多となかった。珍しいこともあるものだ。
「どうした? 何か用か?」
「ええ、急ぎのご用件で。お話し中のところ申し訳ございません」
「もうしばらく待ってくれないか。大事な話をしているところなんだ」
「長くはかかりませんので、できれば今、お時間を取っていただけないでしょうか?」
 納得して下がると思いきや、意外にもヘンリーは食い下がってきた。アルフレッドは眉をひそめた。
「……一体、何の件?」
「本日の舞踏会のことでございます」
 アルフレッドは顔をしかめた。
「それは断るように言ったはずだけど」
 主人の不機嫌に怯えた様子はなく、平然とした調子でヘンリーは続けた。
「お言葉ではございますが、そんな土壇場のキャンセルは、礼儀をわきまえた人間のなさることではありません。体調を崩されたわけでもなく、本日の夜、旦那さまにご予定はなかったと記憶しておりますが」
 堂々と申し出た優秀な執事に、アルフレッドは閉口した。
 主人は自分だったが、幼い頃からの教育係も兼任しているヘンリーに、頭の上がらないのは事実だった。
 言い含めるように、アルフレッドは口を開いた。
「もちろん失礼は承知だよ。だが、それよりも重要な件に関わってるんだ。正直、舞踏会なんかに出席する余裕はない」
「舞踏会など、ほんの数時間のことでございます。その程度のお時間も割くことができないとは思えません。加えまして旦那さまにとって、そういった地位のある方々との社交よりも優先されるべきことなどありません」
 ヘンリーはきっぱりと言い切った。
 そもそも彼は、アルフレッドが医師として働くこと自体に不満があるのだ。働かなくては生活できない身分ではないのに、労働者階級の人間と混じって仕事をするのが気に食わないらしい。
 確かに強い使命感に駆られたり、生活に困窮した結果、今の職業を選んだわけではない。だが、暇つぶしでも道楽のつもりでもなかった。自分なりの覚悟で医師を目指したのだ。それをヘンリーにとやかく言われる筋合いはなかった。
 大体、ヘンリーの指す本来の居場所――晩餐会や舞踏会などの華やかな場所はどうも苦手だった。アルコールには弱いし、見知らぬ他人とうわべだけの会話をするのをどうして楽しめるだろう。
 もう一度断ろうとしかけたところに、好奇心を押し隠せない様子で依林が尋ねてきた。
「ねえ、アルフレッド。舞踏会って何なの?」
 声をかけられてようやく、この場に依林と柚犀がいることを思い出した。
 二人の見ている前で、執事にやりこめられるという失態を見せてしまったわけだ。部屋を出て話を聞けばよかったと後悔しても、すでに遅い。
 アルフレッドは小さく首をすくめた。
「峯界の上流階級の集まりだよ。定期的に開かれるパーティーなんだ」
「それって、総督夫人とかも出席しない?」
「……そういえば、出席者リストに名前があったね」
「だったら、彼女と自然に接触するいい機会じゃない。行ってきたら?」
 依林は俄然、身を乗り出してきた。
 自分の思いつきに満足したように頷く依林を見て、アルフレッドは溜め息を吐いた。
(なるほどね……香桃から新たな情報を得られるチャンスでもあるか)
「……仕方がない。分かった、行くことにするよ」
「では、そのように準備いたします」
 ヘンリーは一礼をすると、部屋を後にしようとした。
「あ、待って。ローリングさん」
 その後ろ姿を依林は呼び止めた。ヘンリーは怪訝そうに振り返った。
「何か?」
 彼女はヘンリーの側まで近寄ると、ふいに彼の肩に手を触れた。ヘンリーは驚いたように身をすくめる。彼が振り払う前に、依林は手を放した。
 依林が何をしたいのかさっぱり理解できなかったようで、ヘンリーはしかめ面のまま彼女を見下ろした。
 依林は懐からいくつか薬包を出すと、彼に差し出した。
「これを使ってみてください」
「……何でしょうか?」
 ヘンリーは額に深いしわを寄せている。
「失礼ですけど、あなたはひどい頭痛持ちなんじゃないですか?」
 言い当てられてさすがに驚いたらしく、ヘンリーは器用に眉を上げた。
「何故、それを?」
「眉間やこめかみに手を遣るのが癖のようだったのと、両肩の筋肉の張り方がとても強かったからです。それは頭痛持ちの人の特徴なんです」
「では、これは……」
「頭痛に効く薬です。よかったら試してみてください。効果があれば、もっと数を作ってお渡ししますから」
 依林の一連の説明は、ヘンリーにとって予想外のことだったのだろう。彼にしては珍しく、返答に戸惑ったように動作が止まった。だがすぐに普段の冷徹仮面に戻り、依林の薬を受け取った。
「お話していないことまで、わざわざお気遣いいただき、ありがとうございます――もう、よろしいでしょうか?」
 にこりともせず、むしろ慇懃無礼な答えを返して、今度こそヘンリーは部屋を去った。
 依林はさすがにむっとしたように口を尖らせている。
「何よ、おせっかいで悪かったわね!」
 彼が出ていった扉に向かって、依林は文句を投げつけた。
 依林が腹を立てるのも無理はない。あの態度では、彼女の親切心をあだで返しているようなものだ。
 ヘンリーは誰が相手であっても、機械のように淡々と業務を遂行する執事である。だが、今は依林を敵視しているように見えた。
「依林、すまない。ヘンリーは本当に頑固で偏屈なんだ。自分の弱みを誰かに知られたりするのが嫌なんだよ。ああいう男だと諦めて、大目に見てやってほしい」
 すると依林は目を見開いた後、何故かくすくすと笑いだした。
「な、何?」
「だって、それ、ナンシーさんも似たようなことを言ってたわ」
「そう?」
「ええ。実はみんな、ローリングさんのことが好きなのね」
 ひとしきり笑った後、依林は話題を切り替えた。
「……ねえ、アルフレッド。これでようやく中毒を起こした薬は分かったわけだけど、それが直接治療に繋がるかって言ったら話は別よね? ――古い薬だから記憶も曖昧なんだけど、阿燐片中毒に対する特効薬ってあったかしら」
 阿燐片はアルフレッドが医師になる前に、医学界から姿を消した薬だ。自分には述べるだけの知識がない。
「ごめん、正直僕にも分からない――とにかく四の五の言ってる場合じゃないし、総督の食事はこっちが用意したものに変えることにするよ」
「じゃあ、私は今から阿燐片を調べる。図書館になら、何か文献があるかもしれないし」
「僕も一緒に行くよ」
「アルフレッドは舞踏会に行かないと」
「舞踏会は夜だ。まだ時間はあるし、特に準備する必要もないから」
「それならありがたいわ。人手は大いに越したことはないし。柚犀も手伝ってくれる?」
 依林が柚犀を振り返ると、柚犀は横に頭を振った。
「どうせ医学のことは俺に分からないから、役に立たないよ」
 そう言って、柚犀は伸びをしながら席を立った。
「少し休んできてもいい?」
「大丈夫? 疲れてるの?」
 依林が慌てて柚犀の側に寄ると、そっと額に手を当てる。柚犀はその手を取って、頭を横に振った。
「大丈夫だよ。毎朝早いから、ちょっと眠いだけ」
「ならいいけど」
「じゃあ、お二人さん。せいぜい仲良く頑張って」
 柚犀はわざとらしく顔をしかめてから、応接室を後にした。

 *

 柚犀は部屋を出ると、廊下を見渡してヘンリーの姿を探した。すでに廊下に姿は見当たらない。近くのメイドに行方を尋ねると、執務室に向かったという情報を手に入れた。すぐに執務室へ行き、音を立てないように部屋に滑り込む。
 そして執務室の奥で、ヘンリーがまさに薬包をごみ箱に捨てようとしているところを目撃した。
「そんなに依林のことが気に入らない?」
 背後から声をかけると、ヘンリーはぎょっとしたように振り返った。柚犀を認めて、さらに驚いたように目を見張っている。
「あなたは……」
「大事なぼっちゃんが、どこの馬の骨とも知らない女に奪られちゃったみたいで悔しいのかな?」
 わざと嘲るように吐き捨てると、ヘンリーは少しだけ嫌そうに顔を歪めた。だがすぐにいつもの無表情に切り替わる。手に握った薬包を机の上に置いて、咳払いをした。
「何のことでございましょう」
「あんたの依林への態度だよ」
 あれだけあからさまな敵意を見せておいて、厚顔無恥も甚だしい。
 依林は最終的にヘンリーの無礼を笑って許したが、柚犀には到底許せるものではなかった。
 依林が清華人であることも、平民の依林がアルフレッドに気安く接することも気に食わないのだろう。だが、恐らく一番気に入らないのは、敬愛する当の主人が依林ばかりを構うことなのだ。ただの嫉妬である。
 アルフレッドは気づいていないようだが、ヘンリーは最初から依林に風当たりがきつかった。依林は腹を立てていたが、アルフレッドに告げ口するようなことはなかった。だから、あえて柚犀も口を挟まなかったのだ。
 まさかそんなヘンリーに対して、依林があえて薬を処方するとは思わなかった。
(どんだけ、お人好しなんだ、依林は!)
 柚犀の感覚で言うなら、ここまでくると善人を通り越して、ただの馬鹿である。
 だが、それでこそ依林なのだ。柚犀は彼女を愚かだと思う一方で、その真っ直ぐな姿勢が変わらないでほしいと思うのである。
(俺は陳先生に、依林を託されてるんだ)
 だから自分が泥をかぶっても、汚れ役を引き受けてでも、そんな彼女を守り抜くつもりだった。
「あんたが依林を嫌うのは勝手だけど、あんたに依林を傷つける権利はないはずだ」
「わたくしは別に依林さまを傷つけるつもりはございません。ただ、医師から処方していただいた薬しか服用しないようにしておりますので」
 ヘンリーは顔色一つ変えずに、のうのうと言い放った。
 あまりの侮辱に、柚犀は顔が青ざめた。ヘンリーは依林を医師とは認めていない。だから依林の薬など飲めるはずがないと言ったのだ。
 依林が耳にしなくてよかったと心底思った。こんなひどい話を聞けば、依林は激怒するだろう。そして怒りのあとに、きっと一人でこっそり涙するのだ。
「依林だって、あんたを嫌ってるって思わないのかよ」
「……それは……」
 ヘンリーは言葉を濁した。さすがに自分が依林に好かれているとは微塵も考えていないはずだ。
「なのに、わざわざ薬を作ったのが、何でか分からないだろう?」
「そうでございますね。嫌がらせかと思いました」
 柚犀は胡乱な目でヘンリーを見遣った。そんな捻くれた物の捉え方しかできないとは、いっそ哀れだった。
「薬を飲めば、何で依林があんたに薬を渡したのかが分かるさ」
 困っている人を助けたい。それが嫌いな人間だろうが関係ない。依林が考えているのは、ただそれだけのことだった。
 柚犀は鋭くヘンリーを睨みつけた。
「依林の調合は完璧だ。もし飲まずに捨てたりしたら、あんたの大好きなぼっちゃんに言いつけるからな」



 2

 依林はアルフレッドとともに、峯界医学院の図書館に足を踏み入れた。
 高い棚が林立して、ぎっしりと書物が詰め込まれている。手前の方はよく使われる本が多いのか比較的綺麗だったが、奥の棚は本が山積みになって埃を被っていた。
 依林が探しているのは十年前に消えた薬の情報なので、乱雑に積まれた書物を漁る必要がありそうだった。
 機能的に分類されているはずもないので、どこから手をつけるべきか悩む。とりあえず一番手前のものから手にとって、中身をめくった。関係のありそうなものは横によけて、本を選別するところから始めることにした。
 アルフレッドは依林がよけた本の内で、阿燐片のことを言及した本を研究室に運んで、詳しく読み込むことになった。
(本当に膨大な資料ね……)
 依林にとっては宝の山だ。本当なら一日中ここに引き籠って、一から読み漁りたい。王勇の論文も勉強したい。だが、今はその欲求は堪えて、阿燐片だけに頭を絞って集中する。
 依林は速読が得意だった。ぱらぱらとページをめくるだけで、書いてある内容を大まかに理解することができる。深く読み込むには時間をかける必要があるが、阿燐片に関連するかどうかに限って本を選別するなら、数分あれば可能だ。
 手前にある本を取って奥にいらない本を戻し、背後に必要な本を重ねていく。そんな作業を繰り返していると、自分の後ろには本の山ができていた。
 ふと図書館の扉が開く音がした。躊躇ったような、ゆっくりとした足取りで誰かが入ってくる。
 アルフレッドが本を取りにきたと思っていたので、耳に届いた話し声に依林は息を呑んだ。
「ねえ……あなた、今日はいらっしゃらないの?」
 甘さを含んだ、知らない女の声だった。
「僕が出席できる身分ではないことは、あなたの方がご存じでしょう」
 続いて耳にした男の声には聞き覚えがあった。
(この声……!)
「そんなこと。主人の主治医だとおっしゃれば何とでも」
「そのご主人が病気なんですよ。主治医がパーティーで奥さんをエスコート? 不謹慎きわまりない」
 間違いない。女と会話をしている男は、セドリック・チャンだ。ということは、女の方は香桃・ピールなのだろう。先ほどまで話題の中心だった人物が現れたことで、依林は興奮を隠しきれなかった。
 本の影に身を潜めているため、彼らは依林に気づいていないようだった。だが入口付近で会話をしているので出るに出られない。盗み聞きしているようで気分が悪いが、仕方がなかった。
「でも。最近はあなたと会う時間が取れてないもの」
「悪いと思っています」
「本当かしら。そんな素振りを全く見せてくださらないわ。いつもいつもお手紙ばっかり! あなたは私と会わなくても平気なのね」
「……そんなことはありませんよ」
 香桃が拗ねたように言い募っている。対するセドリックは口調こそ丁寧だったが、うんざりしているのはすぐに知れた。
「ですが、こんな風に病院で会うのはよくないでしょう」
「どうして? 夫が入院してるんだから、私が見舞いにきたって何の不思議もないはずよ」
「ならば病室の方へ行ってください。研究室にあなたが来る理由はない。誰かに見られたらどうするおつもりですか? あなたご自身の評判を貶めるだけですよ」
「だって……」
 話を聞いている限り、どうやら熱を上げているのは香桃のようだった。どちらかといえば、セドリックは香桃と縁を切りたがっているように思えた。ならば、セドリックが総督を殺害する理由はないことになる。
 彼女が犯人だとしたら、単独犯行ということか。
「さあ、帰りましょう。お送りすることはできませんが」
「いやよ。まだ帰らないわ」
「……香桃」
 呆れと困惑が半々、といった声音でセドリックがあやすように続けた。
「一体、僕にどうしろと言うんです」
「お分かりにならない? 私がどうしてほしいのか」
「困った人だ」
 苦笑を滲ませて、セドリックは小さく息をつく。ふいに彼らの会話が止まった。
(ようやく帰ってくれるのかしら)
 本の後ろにうずくまって身を隠していた依林は、隙間から外の様子をうかがった。
 そして仰天した。
 依林が目にしたのは、図書館の壁を背にして抱き合う二人の男女の姿だった。二人は深い口づけを交わしており、男の手は女の胸元をまさぐっている。女の服は乱れていた。耳を澄ませば、息継ぎの合間に甘い喘ぎが聞こえてきた。
(なっ……!)
 全身に血が駆け巡るのが分かる。頬が一瞬で紅潮した。心臓が自己の存在を声高に主張する。
 もともと依林は恋愛に耐性がない。異性と交際したことがないだけでなく、恋をしたことすらなかった。もちろん医師として性知識がないわけではなかったが、所詮、書物の中の知識である。それが、いきなり他人の濡れ場を目撃させられたわけである。
(なっ、何やってんのよー、こんなとこでっ!)
 頭を抱えて依林はうずくまる。その時に誤ってぶつかってしまい、積んであった本の一冊が落ちた。あっと気づいた時には遅く、不審な物音を聞きつけたセドリックが鋭い声を上げた。
「誰だっ! 誰かいるのか?」
(やばいっ、やばいー、見つかった!)
 他人の情事を目撃したことと、この危機的状況の両方が、依林を混乱の極致に叩き落とした。
 セドリックは図書館を歩き回っている。そして疑わしい本の山に目をつけたようで、こちらにつかつかと歩み寄ってきた。
(どうしよう……)
 絶体絶命の窮地である。依林は息を凝らした。足音はすぐ側まで迫ってきている。覆いかぶさる影が依林を捉えた。
「一体、誰なんだ!」
(えーい、ままよ!)
 セドリックが本をまたいで、依林を捕まえようとした瞬間。
 依林は勢いよく立ち上がった。セドリックは呆気にとられたように動きを止める。その隙をついて、依林はセドリックの脇を抜けて、図書館から脱兎のごとく駈け出した。
「なっ……お前は、あの時の!」
 セドリックが気を取り直すのは早く、すぐに依林を追ってきた。男の足なら依林に追いつくのは容易いだろう。
 依林は必死になって逃げた。隠れる場所が思いつかず、行き慣れた研究室に逃げ込んでしまう。
「……依林?」
 部屋の中には、文献を読んでいるアルフレッドがいた。息を切らして飛び込んだ依林を不思議そうに見上げている。暢気な様子で微笑んだ。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「アルフレッド! どうしよう。セドリックに見つかっちゃった。すぐにここに来るわ。どうしたらいい? ごめんなさい」
 頭が回らない上に、口がもつれて上手く話せない。アルフレッドは困ったように目を見張るだけだ。こんな説明で、状況を理解できるはずがない。
 どうしてここへ来てしまったのか。
 匿う場所もないし、逃げる場所もない。しかもここにはアルフレッドがいて、自分との関係を誤魔化せるはずもないのに。
(私は馬鹿だ!)
 遠くからセドリックが角を曲がって、走ってくる足音がした。彼はこの部屋で依林を見ている。まずはここに来るに違いない。
「どうしよう、私……」
 泣き出しそうな依林を見て、アルフレッドはすぐに立ち上がった。依林を部屋の隅に連れていったが、狭い室内では姿を隠すことはできない。
「駄目よ、すぐ見つかるわ」
「かつらをとって、これを羽織って」
 アルフレッドは依林に自分の白衣を渡した。言われるままにかつらを外すと、彼の白衣を着た。
「アルフレッド……どうするの?」
 彼は依林を壁に押しつけて、自分の体で依林を覆った。縋るようにアルフレッドを見上げると、彼はいつものように優しく微笑んだ。
「しっ、黙って――それから、これから僕が何をしても、声を出さずにされるままにしていて」
 そう言うと、返事を待たずに依林の頬を両手で包み込んだ。そして依林の顔を上げさせると、そのまま自分も屈みこんで顔を寄せてきた。
(えっ! ……まさか。こ、この体勢はっ)
 依林はぎょっとして目を丸くする。逃げたいと思うのに、金縛りにあったように身動きができない。
 もう一瞬で唇が重なる――その手前で、彼は動きを止めた。
 逆光のせいで、アルフレッドの表情は読めない。熱い息遣いだけが、ほん間近で感じられる。
 その瞬間、扉が乱暴に開けられた。すぐに喚き散らすような、怒鳴り声が続く。
「アルフレッドっ! あの従者をどこにやった!」
 セドリックは断りもなく入ってくる。そして部屋の奥にいるアルフレッドを見て、言葉を失ったように息を呑んだ。
「ア、アルフレッド……お前」
 依林たちの姿は後ろから見れば、恋人同士が熱い口づけを交わしているように見えたに違いない。
 アルフレッドは少しだけ依林から体を放すと、わざとらしくゆっくりと振り返った。
「ああ……チャン先生」
 アルフレッドは今、気がついたと言わんばかりに気だるげに答える。
「何かご用ですか?」
「な、何かって……」
 アルフレッドがあまりに堂々としているので、セドリックは乱入してきた時の気勢を失っている。逆に狼狽したように言葉を探していた。
 セドリックはアルフレッドの胸に包み込まれた依林に目を遣った。
 彼に依林の顔は見えていないはずだった。そして、セドリックはどうやらここにいる長い髪をした娘を、先ほどの少年と一致させることはできなかったらしい。
 彼はばつが悪いのを取り繕うように、何度か咳払いをした。
「……君がこの部屋を掃除させていた従者のことだ。彼はどこへ行った?」
「ああ、彼ですか」
 アルフレッドは落ち着き払った調子で続ける。
「彼は、今日はここには来ていませんよ」
「そんなはずはない。僕はさっき図書館で……」
「図書館で彼を見たんですか?」
「え? ああ、まあ、その」
「勝手に他の部屋に入らないように言ったのに」
 アルフレッドは小さく嘆息した。
「すみません。きつく注意しておきますから」
「いや。そうじゃない!」
「? 違うんですか? 勝手に部外者が入ったから、先生は怒っていらっしゃるんでしょう? そうでないなら、彼が先生に何か失礼をしましたか?」
「え……」
 尋ねられてセドリックは言葉に詰まったようだった。それはそうだ。総督夫人と密会現場を目撃された、とは口が裂けても言えないだろう。
「いや、そういうわけでは。その、別に……何も」
「そうですか。では図書館の件はあとで叱っておきます――ところで、チャン先生」
「……何だ?」
 口の中でもごもご呟きながら、セドリックはうつろな返事をする。
 アルフレッドはふんわりと口元に優雅な笑みを刻んだ。
「もう、よろしいですか? ……大切な人との大事な語らいの途中だったのですが」
 はっとして、セドリックは慌てて二人から目を背けた。そのままくるりと踵を返す。
「女にわざわざ白衣を着せて病院に連れ込むなんて、ふしだらすぎるんじゃないか! 自重したまえっ」
 憤然と言い放って、セドリックは部屋を出ていった。
 足音が遠ざかって聞こえなくなるまで、アルフレッドは体勢を崩さなかった。しばらくそのままの状態でじっとしていて、ようやく大丈夫だと判断したのか、アルフレッドは緊張を解いたように息を吐いて依林を解放した。
「依林、大丈夫? 誤魔化せたみたいでよかった」
 アルフレッドは先ほどの甘い雰囲気などなかったように、爽やかな調子で尋ねてきた。
 依林は黙ったまま顔を上げなかった。上げられなかったのだ。頭から爪先まで全身が真っ赤になっているような気がした。
「依林?」
 不審に感じたのか、アルフレッドが身を屈めて依林を覗き込もうとする。
「ば……」
「ば?」
「馬鹿ーっ!」
 アルフレッドの耳元で怒鳴りつけると、目の前にあった彼の頬を平手で張り倒した。部屋中に小気味よい音が響き渡る。
「えっ……」
 アルフレッドは鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした。何が起こったのか理解できなかったようで、唖然としたまま打たれた頬に手を遣っている。
「アルフレッドの馬鹿っ!」
 依林はもう一度、噛みつくように繰り返して、うつむいたまま走り出す。
「依林、待って――」
 彼の制止を無視して、部屋を飛び出した。

 *

「な、何で?」
 あまりに驚いたので、アルフレッドは依林を追っていけなかった。はっと我に返って、部屋の外に出たが依林の足取りはつかめない。
「どこに行ったんだ……?」
 依林に何が起こったのか分からないが、とりあえず依林はとても興奮していて、冷静に物事を考えることができないのは間違いない。今は上手くセドリックをやり過ごすことができたが、また彼と鉢合わせしたり他の人間に出くわしたりすれば危険だった。
「でも……どうして僕は殴られたんだ?」
 自問するが答えは出なかった。
 依林はアルフレッドに助けを求めていた。だからセドリックを手っ取り早く追い払うために、一芝居打ったつもりだった。実際、セドリックは依林のことを少年とは思わずに、出ていったではないか。
 感謝されこそすれ、叩かれる筋合いはないと思う。
 しかも女の手であるが遠慮なく力いっぱい殴られたため、思いがけず痛い。
 呆然と立ち尽くしていると、研究室の前にナンシーがやってきた。ナンシーは頬を赤く張らしたアルフレッドを見て、驚いたように目を見張った。
「まあまあ、旦那さま。一体、何があったのです」
 ナンシーは屋敷から軽食を運んできてくれたらしい。その手に大きめのバスケットを抱えている。研究室に戻ると、彼女は冷やしたハンカチを用意してくれた。
「ありがとう、ナンシー」
 素直に礼を言うと、ナンシーはにっこりと笑う。
「誰にやられたんです、その平手打ち」
 綺麗な手形を残した頬を見れば、誰かに叩かれたのだと見当つけるのは難しくない。上手い言い訳を思いつかず、正直に答えるしかなかった。
「……依林だよ」
「まあ、お嬢さまが!」
 主人に手を上げた依林を非難するという調子ではなく、むしろ何故か嬉しそうにナンシーは声を上げた。
「旦那さま、何をなさったんです?」
 まるで非は自分にあるのだろう、と言わんばかりの問いにアルフレッドはむくれた。
「何もしていないよ。むしろ彼女の役に立ったつもりだった」
「お言葉ですが、お嬢さまは何もないのに、誰かに手を上げたりするような方ではないと思いますよ」
「それは、そう……だろうけど」
 ナンシーは訳知り顔で正論を吐いた。ナンシーの言葉はアルフレッドにも理解できた。感情の起伏が激しいのは否定しないが、依林は理由もなく腹を立て、誰かに暴力をふるうような女性ではない。
 かいつまんで説明すると、ナンシーは非難するように眉をひそめてみせた。
「それは間違いなく、旦那さまが悪いです。未婚の、しかもあんな純真そうなお嬢さまにそんなことをなさるなんて。それも寸止めなんて」
 ナンシーは断言した。アルフレッドは納得がいかずに反論した。
「だって、本当に口づけするわけにはいかないじゃないか」
 そもそも下心があってしたわけではない。疾しい気持ちはこれっぽちもなかったと神に誓える。
「そういう意味ではございません。そういう流れに持っていくこと自体が悪いと言ってるんです。他に方法がなかったんですか?」
 きっぱりと言い切って、ナンシーはアルフレッドを睨みつけた。
「早くお嬢さまを探して、謝ってあげてください。時間が経つと、さらにこじれますよ。嫌われてもいいんですか?」
「分かってるよ。でも、どこへ行ったか分からないんだ」
「お嬢さまなら、こちらへ来る途中に中庭でお見かけしました」
 すっかり依林の味方になったナンシーは憮然と言い放つ。
 アルフレッドは追い立てられるように中庭に向かうしかなかった。

 *

 一方、部屋を飛び出した依林は、どこへ行くあてもなかったので、病院からも研究室からも死角になる中庭にやってきて、茂みの側にうずくまった。
(もう、信じられないっ!)
 恥ずかしくていたたまれなくて、頭が沸騰しそうだった。
 アルフレッドは細身に見えるが、近づいてみると意外と逞しい体つきだった。頬に触れた手は壊れ物を扱うように優しかったが、顎を上げさせる動作は有無を言わせない強引さがあった。湖の色をした瞳に浮かぶ鮮やかな光が依林を捉えて、微動だにすることさえ許さなかった。ばくばくと拍動する心臓の音が彼に聞こえるのではないかと、ずっと気が気でなかった。
 直前に香桃とセドリックの絡みを目にしていたこともよくなかった。
(何で、あんなこと簡単にできるわけっ?)
 たとえ振りだとはいえ、アルフレッドは簡単に友人の域を踏み越えた距離まで近づいたのだ。未遂かどうかは問題ではない。
 さらに腹立たしいのは、これほど自分が動揺しているのに、アルフレッドが全く気にした様子がないことだった。意識しているのはこちらだけで、彼にとっては何でもないことなのだ。
(もう、男って最っ低よ!)
 同じ思考がぐるぐると頭の中を巡っている。髪をかきむしりながら、じっとしていると頭上から声が降ってきた。
「こんなところで何をやってるんだい?」
 はっと顔を上げると、埠頭で出会った医師――ジェフリー・スミスが不思議そうにこちらを見下ろしていた。
「あ……」
「やっぱり。君は陳依林さんだよね」
 ジェフリーは依林をしっかり見つめて、意外と人好きのする笑顔を浮かべた。
「この間はかつらだったのか。本当は長かったんだな。綺麗な髪だ」
 そう言って、ジェフリーは再び問い直した。
「さて君は白衣を着て、こんなところで何をしているんだ?」
 正直に答えるわけにもいかず、依林は言葉に詰まった。
「えっと、それは」
「医学の勉強をしにきたのかな?」
「ええ。まあ、そうです」
 正しくはないが、偽りでもない。阿燐片の調査をしていることは、医学の勉強と言えないことはないだろう。
「なのに、茂みにうずくまってるなんて、体の調子でも悪いのか? 診察しようか?」
「いいえ。そういうわけじゃないです」
「でも顔が赤いようだけど?」
「そ、それはっ」
 先ほどのことを連想してしまい、余計に頬が紅潮する。しどろもどろになった依林を見て、ジェフリーは何か勘づいたらしく、にやりとした。
「はーん。もしかしてアルフレッドと何かあった?」
「えっ! な、何かって何ですかっ!」
 機械のように固まって不自然な大声で答えた依林は、彼の問いが正解だと告げているようなものだった。
 ジェフリーは愉快そうな笑い声を上げた。
「もてまくるくせに女の影もなかったアルフレッドがねえ。迫られたのかい?」
「だ、だから、ち……違います」
「彼のことだから、無理やりってことはないだろう?」
「そんなことない! 無理やりだったわ」
 笑い話のように言うジェフリーにむっとして、思わず反論が口をついて出た。
「えっ?」
 ジェフリーはぎょっと目を丸くしている。
「アルフレッドが君の意志に反して、無理やり襲おうとしたのか?」
「い、いえ。違います。そうじゃなくて」
 低い声で問われると、まるでアルフレッドが強姦でもしたように聞こえてくる。もしジェフリーにそう誤解させたとしたら、さすがにそれはまずい。きちんと訂正しておかないと、アルフレッドの峯界医学院での立場がない。
『図書館で勉強をしていると、セドリックに無断使用を咎められて追いかけられた』という設定で、先ほどの状況を説明すると、ジェフリーは安心したように息を吐いた。
「何だ。そうだったのか……それならよかった」
「それならよかったって。全然よくないです」
 依林は憮然として言い返した。依林の受けた精神的ダメージは全く回復していないのだ。
 ジェフリーは苦笑して手を振った。
「ごめん、ごめん。そういう意味じゃないんだ」
「じゃあ、どういう意味ですか? お芝居なんだから、何したって構わないだろうってことですか?」
 ジェフリーに罪はないのだが、つい責めるような口調になってしまう。八つ当たりだったが、彼は気分を害した様子はなかった。
「確かに、アルフレッドのやり方はよくない。未遂とはいえ、貞淑なお嬢さんに口づけを迫るなんて紳士のすることではないな」
「そうでしょう?」
 依林は味方を得た気がして大きく頷いた。
 ジェフリーは子供に言い聞かせるような口ぶりで続けた。
「だけどその短い時間で、何とか君を助けようとして知恵を絞った結果だったわけだ。何も君だって、彼に下心があってああいうことをした、とは思ってないだろう?」
「それは……そうですけど」
「アルフレッドがしたことは褒められるものじゃないが、活きのいい平手打ちで充分罰を受けたわけだし、許してあげたらどうだい?」
「……でも」
「君は今、腹を立ててるっていうより、照れているだけのように見えるよ。どんな顔をして、アルフレッドに会ったらいいのか分からないっていう感じだ」
 図星を指された依林は押し黙った。恥ずかしさを怒りに誤魔化しているというのは事実だった。
 ジェフリーは内緒の話をするように、声を潜めて悪戯っぽく笑う。
「仲直りのこつはね。男が謝ってきたらあれこれ言わずに、にっこり笑ってあげることだ――それだけで男は参ってしまうはずだ」
「それは、実体験に基づくアドバイスですか?」
「もちろん。まあ私とエレナは喧嘩自体、ほとんどしないがね」
「エレナさんって奥さんですか? 仲良しなんですね」
「自慢の妻なんだ」
 ジェフリーは力強く頷いて、首元から何かを取り出した。それはいわゆるロケットペンダントと呼ばれるものだった。中身を開けると、優しい顔立ちをした女性の横顔写真がはめ込まれている。
「どうだい。可愛いだろう? ――彼女は、峯界医学院の看護師だったんだ。可愛くて優しくて仕事ができて。評判の看護師だった。出会って一目で恋に落ちた。口説いて口説いて、ようやく口説き落として、妻になってもらったんだ」
 ジェフリーは誓うような調子で続けた。
「だから、僕はどんなことをしても、何をしても彼女を守ってみせると心に決めたんだ」
 この世界でそれほど愛する人に出会えたこと、彼女と相思相愛になれたこと、それを堂々と自慢できるほど幸せな日々を暮らしていること――ありふれているようで、それがなかなか得難いものであることを、依林は知っている。
 その悪い例が――くだんの総督夫妻である。
「いいですね。何か、羨ましいです」
「君、恋人は?」
 依林は力なく頭を振った。
「いません。それに……私を好きになる人なんているはずないわ」
「そんなわけないだろう。私がもう二十年若ければ立候補していたかもしれないよ」
 大仰に目を見開いてジェフリーは言う。優しい冗談に、依林は苦笑した。
 ジェフリーと雑談をしている内に、だんだん頭が冷めてきた。時間を無駄にしている場合ではなかったのだ。阿燐片に関して、少しでも情報を仕入れないといけない。アルフレッドと仲たがいしている暇はなかったはずだ。
「ありがとうございます。少し落ち着きました。アルフレッドを問答無用に殴っちゃった私も悪かったし、彼と仲直りするようにします」
「それがいい。いい報告を待ってるよ」
 頭を下げてジェフリーと別れ、研究室に戻ろうとすると、中庭をうろうろしていたアルフレッドを見つけた。
「何してるの?」
 依林が背後から声をかけると、アルフレッドはぎょっとして振り返った。
 そして依林を見下ろして、困ったように視線を惑わせた。
「……その、君を探してたんだ」
 彼の頬はまだ赤く腫れていた。端正な白い顔ゆえによく目立つ。自分が仕出かしたこととはいえ、痛々しい見た目にばつが悪くなった。
「私を?」
「だって、かつらを外して出ていったし」
(そっか。誰かに見つかったらまずい格好で飛び出しちゃったもんね)
 あの状況の後だというのに、彼は依林の身を心配してくれていたのだ。胸がじんわり温かいもので満たされた。
 アルフレッドは言葉を選ぶように、たどたどしく言った。
「その、ごめん、依林……他に思いつかなかったとはいえ、無理やりあんなことをして」
「もうそのことはいいの――私の方こそごめんなさい。助けてくれようとしたのに、思いっきり叩いちゃって。あの……痛かったでしょう?」
 素直に謝罪の言葉が出た。ジェフリーの忠告通り、一生懸命に笑顔を作ってみせる。
 アルフレッドはようやく肩の力を抜いたようだった。そんなアルフレッドの姿を見て、はっと重要なことを思い出した。
「そういえば、あなた、今日はパーティーがあるのよね! どうしよう。その腫れ、ひくかしら?」
 顔に平手打ちの痕を残して舞踏会に出席すれば、噂好きの女性たちの格好の餌食になってしまう。というか、もしヘンリーの知るところになれば、依林は確実に血祭りに上げられるだろう。
「そんなこと、どうにでもなるよ。大したことじゃない」
 アルフレッドはまるで憑きものが落ちたように、晴れ晴れした顔をしていた。
 何の問題も解決したわけではないのに、あまりにさっぱりした様子なので、依林は怪訝に思って尋ねずにはいられなかった。
「……何だか、あなた、すごくすっきりしたように見えるわ」
「それはそうだよ。だって、君にどう言って謝ろうか――もし君に許してもらえなかったらどうしようって、さっきからずっと悩んでたんだよ。こうやって普通に話せてすごく嬉しい」
 そう言うと、長めの前髪を払って無邪気に微笑んで見せた。
「そ、そう……」
 たったそれだけのことが、アルフレッドをこれほど上機嫌にしたのか。
 自分の一挙一動が彼に強く影響を与えたことを知り、くすぐったいような感情が湧き上がってくる。
 二人で連れ立って研究室に戻ると、ナンシーが待っていた。
「あらナンシー、どうしているの?」
「ああ、お嬢さま。よかった、帰ってきてくださったんですね。旦那さまが失礼なことをなさったみたいで」
「私が悪かったのよ」
 そもそもはセドリックに見つかった上に、研究室に逃げ込んだ依林に非がある。
 突然巻き込まれて、アルフレッドも混乱していたに違いない。その上で何とか対処しようとしてくれたのに、当の依林に殴られたわけである。アルフレッドはもっと腹を立ててもおかしくなかったのだ。
 主人よりも、むしろ依林を案じているナンシーが不思議だった。
「そんなことございません。どんな理由があろうと、旦那さまのなさったことは簡単に許されることではありません。お嬢さまの広い心に感謝いたします」
「そんなに言われたら、何だか申し訳ないわ。本当にもういいのよ」
「いいえ。そう言うわけには参りません。ぜひお詫びさせていただきたいのです」
「お詫び?」
 頑なに頭を振ったナンシーの言葉に、依林は首を傾げた。
 ナンシーは大きく頷いた。
「ええ――よろしければ旦那さまのエスコートで、お嬢さまに本日の舞踏会に出席していただいたらどうでしょう?」
 一瞬言われている意味が分からず、きょとんとするしかなかった。すぐに理解が追いつくと、依林は目を見開いた。
「ええっ! 何言ってるのっ」
「旦那さまのエスコートで、お嬢さまに本日の舞踏会に出席していただいたらどうでしょうかと申し上げました」
 ナンシーは律義に繰り返した。
「そういう意味じゃなくて! そんなこと無理に決まってるでしょ? 私は貴族じゃないのよ。アルフレッドに恥をかかせるだけだわ」
「あら、お嬢さまのテーブルマナーは完璧でございましたよ?」
 食事の際にナンシーは給仕についていたので、その時に観察したのだろう。
 決して裕福な食事情とは言えなかった陳家であるが、王勇が教えてくれた食事作法は、正式な場でも通用するものだったらしい。
「お嬢さまは舞踏会に興味はございませんか?」
 ナンシーの問いかけに、依林は言葉を詰まらせた。
 依林も年頃の娘である。綺麗な衣装ときらびやかな宝石を身にまとって、社交場に出ていくことに全く興味がないと言えば嘘になる。
 だがそんな場所に相応しい人間でないことは、自分が一番分かっていた。惨めで恥ずかしい思いをするだけだ。それに貧相な小娘をエスコートするアルフレッドにも迷惑をかけることになる。
「でも……駄目よ。テーブルマナーだけ完璧でも仕方ないし。それにダンスだって踊れないわ」
「大丈夫です。ダンスなら旦那さまにお任せください。ね、旦那さま」
 それまでアルフレッドは黙って見守っていたが、ナンシーが同意を求めてきたので笑って頷いた。
「依林さえよければ、ぜひ。僕も一人で行くより、依林がいた方が心強いよ」
「そ、そう?」
 ナンシーの提案は、悪魔のささやきのように聞こえてくる。
「で、でも……」
 何とか出席できない言い訳を探そうとするが、上手い言葉が思い浮かばない。本心では行きたいと思っていることに違いはないのだ。
 依林が誘惑に負けるのは、時間の問題だった。




 第5章

 1

 結局、依林は舞踏会に出席することになった。
 初めにナンシーが用意した旗袍の内の一つを着ていくことになった。セルジア貴族が身にまとうフリルやレースがふんだんに使われたドレスは、逆立ちしても自分に似合うとは思えなかったからだ。
 ナンシーが準備した高級な旗袍は、パーティー用として充分使用できる質のものだった。というか、こんな高級品を『普段着でどうぞ』と言わんばかりに、箪笥に入れておかないでほしいものである。
「でも、アルフレッドにエスコートしてもらうのを、よくローリングさんが許してくれたわね? 絶対無理だと思ったのに」
 依林が見せた最後の抵抗は『ヘンリーがいいというなら』というものだった。アルフレッドに近づく女性に目を光らせているヘンリーなら、嫌っている依林の同伴を許すはずがないと思っていたのだ。
 許可を申し出にいったナンシーが、了解を得てきた時にはかなり驚いた。
「そうですね。まあ、苦渋の上の決断、みたいな感じでしたけど」
 ナンシーが依林の着つけを手伝いながら苦笑して答える。
 ナンシーが選んだのは、深紅の旗袍だった。高い詰襟の胸元に切り返しのあるタイプで、袖はほとんどない。裾は足首まであるが、スリットは太腿の部分まで深い切れ込みが入る。胸元と肩の部分に金色の繊細な刺繍が施されており、豪奢な印象を与えていた。
 着てみると、あつらえたように体にぴったりだった。ナンシーはその後、依林の顔にしっかりと化粧を施して、髪を手早くまとめるとかんざしを挿し込んだ。
 身支度が整うと、姿見を依林の前に運んできた。
「よくお似合いですわ、お嬢さま。わたくしの目に狂いはありませんでしたわね」
 満足げに頷いて、ナンシーは手放しで喜んでみせた。
 だが、二の腕も太腿も露わな旗袍に、依林は戸惑いを隠せない。鏡の前で顔をひきつらせながら、裾を少し摘まんでみる。
「そ、そうかしら? ねえ、やっぱり派手すぎない? あっちの緑のやつの方が……」
「そんなことはございません。お嬢さまは清楚な印象がございますから、こういった情熱的な衣装の方が際立つんです」
「際立つって、ナンシー。私はむしろ目立たない方がいいんだけど」
「まあ、何をおっしゃっているんですか! 舞踏会は晴れの舞台ですよ。どのご令嬢も、誰より注目を浴びようと必死に着飾ってくるんですから――特に、お嬢さまは旦那さまのエスコートのおかげで、皆さんの興味の一心に集めるはずですわ」
「えっ、そうなの? 何で?」
 嫌そうな顔をしてみせた依林に、ナンシーは呆れたように肩をすくめた。
「当然でございます。旦那さまが正装された姿を思い浮かべてみてください。どれほど人目を惹くか、想像するのは簡単でございましょう?」
 黒のタキシードに身を包んだアルフレッドの姿が頭をよぎる。印象的なまばゆい金髪と澄んだ緑の瞳。白いきめ細やかな肌。端正だが優しい顔立ち。
 そんな彼が長い腕を隣の女性に伸ばして、優雅にエスコートする様子が脳裏に浮かんだ。そしてその女性というのは、自分になるわけである。
 あまりに恐ろしい想像に依林は青ざめて、ごくりと息を呑んだ。
「……やめる」
「はい?」
 ナンシーが目をしばたたかせた。
「やっぱり行くのやめる。私なんかがアルフレッドの隣に立てるわけない。不釣り合いもいいところだわ」
 依林は着せられた旗袍を急いで脱ごうとした。慌ててナンシーが防ごうとする。
「ちょ、な、何をおっしゃってるんですか! お嬢さまなら、旦那さまの隣に一番ふさわしいです」
「そんなわけないでしょっ。ナンシー、放して」
「わたくしが嘘を申し上げる理由がありません。もし旦那さまが笑い者になるのだとしたら、わたくしが真っ先にお止めするに決まっているでしょう――放しませんよ、お嬢さま。観念なさってください」
「嫌だーっ、行きたくないー」
 とんだ攻防を繰り広げている二人の間に、ノックの音が響き渡る。
「依林、ナンシー。準備はどう?」
 扉の奥からアルフレッドの声が届く。依林はびくっと首をすくめた。その隙にナンシーは依林の手首を握りしめた。
「旦那さま。どうぞお入りください」
「えっ、待っ……」
 心の準備ができる前に、アルフレッドが扉を開けた。
 仕立てのよいタキシードを難なく着こなしたアルフレッドは、先ほど想像した通り、貴族的な美貌が際立つ、非の打ちどころのない姿だった。ナンシーの手早い治療のおかげで、頬の腫れも目立たなくなっていた。
 アルフレッドの視線が、ナンシーにがっしりと腕を掴まれた依林に向けられる。
 盛装した自分の姿が彼の目に映ると思うだけで、身の縮む思いがした。
(こんな綺麗な服、私に似合うわけないのに)
 アルフレッドにどう思われるかと考えると、絶望的な気分になる。
 彼は息を溜めて、数十秒押し黙った。それから大きな息を吐いた。
「びっくりした」
 ゆっくりと依林に近づいてくる。
「すごく似合ってるよ」
 アルフレッドはあらためて依林を眺めた。依林は気恥ずかしさを誤魔化すために顔を背けた。
「あんまり見ないで。自分でも分不相応だって分かってるんだから」
「そんなことない」
 アルフレッドは真剣な顔で断定した。
「依林は、自分の姿を鏡ごしでしか判断できないだろう? だから、似合ってるかどうかかを決めるのは君じゃなくて、周りにいる人間の方だ――僕が、今の君は素敵だと言ってるんだから信じてほしい」
「そ、そうかしら」
 高価な衣装と抜群の化粧技術にかかれば、ほんの少しくらい依林もましな外見になるのだろうか。
 力を抜いた依林を見計らって、ナンシーはようやく手を放してくれた。
「お嬢さま。これで服を脱ぐなんて言わずに、舞踏会に出席していただけますね?」

 *

 舞踏会の会場は、とあるセルジア貴族の屋敷だった。
 こうしたパーティーは資産家の間で、持ち回りで開催されているらしい。
 今回の屋敷も、アルフレッドの邸宅に勝るとも劣らない豪華な屋敷であった。広大な庭園を舞台に園遊会を開くこともあるようだが、今回は屋内でのダンスパーティーが主イベントらしい。
 まばゆい光を惜しみなく輝かせるシャンデリアの下、ホールに大勢の人々が集まっている。タキシードを着た男たちにエスコートされながら、ワルツを踊る女性たち。その間をすり抜けるように給仕をする従僕。話を遮ることがないよう調整された調べを奏でる音楽家。
 男性が似たような印象になるのとは対照的に、色とりどりの華やかな衣装に身を包んだ女性たちはホールの華であった。
 依林は、初めて参加する舞踏会のきらびやかさに圧倒されるばかりだった。
 出席している人々はセルジア人の方が多かったが、少なくない数の清華人も見かけられた。
 清華人の中には、セルジア人と同様のタキシードやドレスを着ている人間もいれば、高級な旗袍を着ている人間もいる。よく耳を澄ませば、流れる音楽の中にはバイオリンやピアノ以外にも、二胡や琵琶の音色も混じっているようだ。
 二つの文化が違和感なく入り乱れた特殊な雰囲気は、きっと峯界独特のものだろう。
 依林の手を取って、ホールに足を進めたアルフレッドが提案した。
「踊ろうか、依林」
「えっ? ……駄目よ、ダンスなんて全然分からないし」
「大丈夫。僕がリードするから、合わせるだけでいいよ」
「ちょっと!」
 アルフレッドは有無を言わせずに、体を密着させて踊る男女の隙間を縫って、依林をホールの真ん中へ連れていく。
 曲の途中からだったが、ゆったりとしたワルツの調べに合わせて、アルフレッドがステップを踏んだ。慌ててアルフレッドの足元を見ながら真似をしようとすると、彼は依林の腰に手を回して、耳元でささやいた。
「依林。うつむかないで。僕を見ていたらいい」
「だって、下を見ないとあなたの足を踏むもの」
「踏んでもいいよ」
「そう言うわけにはいかないでしょ。足を痣だらけにしたらどうするのよ」
「その時は君に治療してもらうから」
 アルフレッドは冗談っぽく笑ってみせた。依林もつられて微笑む。笑っていると何だか心まで浮き上がってくるような気がした。
 いつの間にか危なっかしい足取りながらも、それなりに踊れている自分に気づいた。アルフレッドのエスコートが驚くほど秀逸なのだ。次にどこに足を出せばいいのか、どんな風に動けばいいのか巧みに誘導してくれている。一、二回脛を蹴ってしまっただけで、何とか無事にワルツを踊り終えることができた。
「楽しかった?」
 ホールの端の方へ戻ってくると、アルフレッドはうかがうように依林の顔を覗き込んだ。
「ええ、思ってたより、ずっと。ありがとう、アルフレッド」
「それはよかった」
 アルフレッドは心から嬉しそうな笑顔になった。
 その時、ふいに背後から声をかけられた。
「アルフレッド。君も来てたのか?」
 振り返ると、アルフレッドと同じ年頃の青年たちが集まっていた。
「……久しぶり」
 どうやらアルフレッドの知り合いのようだ。彼らは興味津々といった風に、依林に目を向けてくる。
「そちらの美しい女性は? 君のパートナーか?」
 無遠慮な視線に晒され、品定めされているような気がした。そんな依林を気遣って、アルフレッドは庇うように依林を背後に隠した。
「まあ、そんなところだよ」
「へえ。君が女性を連れてきたのは、初めてなんじゃないか?」
 青年の一人が依林に向かって、優雅に一礼した。
「レディ、お名前を教えていただけるでしょうか」
「あの、えっと……」
 尻込みしている依林に代わって、アルフレッドが答えた。
「陳依林嬢だよ。僕の上司のお嬢さんなんだ――依林、お腹が空いたんじゃない? 何か口にしてきたら」
 堂々と嘘を口にしながら、アルフレッドは食事が用意されたテーブルを指差した。
 青年たちをアルフレッドが引き受けてくれている間に、依林はそそくさとその場を離れることにした。

 *

 依林が去ると、青年たちは一気に不平不満を言い立てた。
「何だよ。俺たちだって、あの美人さんと話したかったのに」
「お前の恋人なのか?」
「一人占めなんてずるいじゃないか」
「紹介してくれよ。清華人ってのもありだな」
 口々に詰め寄ってくるが、律義に答える余裕はなかった。
 確かに、依林がとても魅力的な娘であることは否定しない。
 きつめの化粧を施して、赤い旗袍を身にまとった依林は、普段の少し幼めに見える印象とは異なり、誰もが振り向くような洗練された美女になった。正直、自分も息をするのを忘れるほど驚いた。彼らが騒ぐのも無理はない。
「すごく人見知りなんだ。こんなに大勢の男に囲まれたら、怖がって話せるものも話せなくなる」
 アルフレッドは煙に巻くように答えて、青年たちから距離を取った。
 自分の魅力に無自覚な依林を、長く放置しておくのは不安だった。依林を探している途中で、運よくと言うべきか、香桃・ピールの姿を見つけた。
 彼女と接点を持つために、この舞踏会に出席したと言っても過言ではない。
 依林のことも気がかりだったが、アルフレッドは香桃に近づいて「失礼」と声をかけた。
 香桃はゆっくりとこちらを見上げた。依林とはタイプが違うが、噂通りの美女だった。長い黒髪はゆるやかなカールを描いて肩から背中に流れ、澄んだ夜のような大きな瞳を持ち、小さな赤い唇は熟れた果物のようである。
 アルフレッドは深く頭を下げる。そして秘密の話をするように声を潜めた。
「突然申し訳ありません。一度お会いしましたね。私はアルフレッド・スタンリーと申します。セドリック・チャン先生とともに、あなたのご主人の診察を担当しております」
 香桃は途端に美しい眉をひそめて見せた。
「それは、極秘事項のはずよ。こんな場所で話題にしていただきたくはないわ」
 手厳しく答えた香桃に、アルフレッドは素直に謝った。
「すみません。ご主人の容体がよくなかったもので、少しお話をさせていただきたかったのです」
「そうですか」
 香桃は表情を隠すようにハンカチで口元を覆う。
 だが、アルフレッドは彼女が見せた一瞬の隙を見逃さなかった。
(笑った……?)
 間違いなかった。覆い隠せずに漏れ出たのは、紛れもなく微笑みだった。香桃は夫の病状を聞いて笑って見せたのだ。
 憂鬱な気分になりながら、アルフレッドは演技を続けた。
「あまり気を落とさないでください。全力でご主人の治療に当たります。それに今、優秀な清方医に診療をお願いしているんですよ」
「清方医?」
 香桃は疑り深そうに顔をしかめた。
 アルフレッドは鎌をかけるために、あえて切り込んだ質問を投げかけた。
「ですが、なかなか難しい病状だということです。その医師によれば、日に日に衰弱していく姿は、まるで毒でも盛られているようだとか」
 アルフレッドは注意深く香桃の顔色をうかがう。予想通り、見事に青ざめた顔で香桃は唇を震わせた。
「な、何をおっしゃってるんです? 不謹慎にもほどがございますでしょう」
「ええ。そうですね。軽率でした。謝罪いたします」
 あっさりと前言を翻す。だが、香桃の顔色は戻ることない。落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
「わたくし、気分が悪くなりましたわ。もう帰ります」
「それはいけない。お送りいたしましょうか?」
「結構です!」
 アルフレッドの提案をぴしゃりと跳ねのけて、香桃は身を翻した。
 去っていく香桃の背中を見つめながら、アルフレッドは心の中で呟いた。
(……この態度だけでも十分、状況証拠になるな)
 どうやら彼女が実行犯だというのは、ほぼ間違いないだろう。
(そろそろ、大使館に報告すべきだろうか)
 少なくとも犯人の目星はついたわけである。だが背後関係は掴めておらず、単独犯だという保証もない。
 できれば清華共和国側で事件を解決してほしかったが、非常にデリケートな問題を孕んだ案件を相談できるような知り合いはいなかった。
(雪蘭に頼んでみようか……)
 彼女なら、信頼できる清華共和国の高官を紹介してくれるかもしれない。どうしたものかと、アルフレッドは深い溜め息を漏らした。

 *

 アルフレッドが口にした料理の話は逃げる口実だったが、実際、依林は空腹だった。
 準備された料理はどれもとても綺麗に盛りつけられ、美味しそうな匂いを放っている。給仕の一人が依林にワイングラスを渡してくれた。どの皿から食べようか悩んでいると、見覚えのある人間を見つけた。
 総督の部屋で見かけた男だ。総督秘書のデニス・バーナードである。
 彼は清華人と話していた。飾り気のないシンプルな黒い旗袍を身につけた、きびきびとした様子の清華人だ。長めの黒い前髪を横に流して、その奥から鋭い一重の眼差しが覗いている。身分の高い貴族というには、その瞳に浮かぶ光はどこか険呑だった。
 背後で誰かが漏らした声が、依林の耳に届いた。
「ほら、あれ黄慶駿じゃないか」
「珍しいな。こんな場所に姿を見せるなんて」
(黄慶駿ですって!)
 依林は思わず声を上げそうになった。優秀な官吏だと言っていたから、もっと年配の男を想像していた。目の前の青年は二十代後半くらいに見えた。貴族ではなく高級官吏だと言われれば、隙のない動作や鋭い眼差しも頷ける。
 黄慶駿はデニスと話し終わったのか、会釈をして彼から離れた。そしてホールから出て行こうとした。
 これは千載一遇のチャンスなのかもしれない。
 普通なら面識を得ることが難しい黄慶駿を、偶然に見かけたわけである。彼が総督を殺害する動機をもっている以上、詳しく彼の人となりを知る必要があるのではないか。香桃を探るべく舞踏会にやってきたわけだが、依林が黄慶駿を調べることができれば一石二鳥である。
 依林はそっと黄慶駿の後を追った。
 不自然にならないところで、偶然を装って声をかけようと思ったのだ。彼はホールを出ると庭の方へ向かっているようだった。
(どこへ行くのかしら?)
 室内にいる時は感じなかったが、薄着の依林には外の気温は身を切るように冷たかった。日中はそれほどでもないが、太陽が沈んでからの冷え込みは厳しいものになっている。上着を取りに戻ろうかと悩んでいる間に、黄慶駿を見失ってしまった。
「あ……しまった」
 夜の闇は暗く深い。今日は月明かりも乏しく、この中で黄慶駿を探し出すのは不可能だろう。諦めてホールに戻ろうとした時、誰かが依林の手を取った。
「あんた、何でここにいるんだ?」
 聞き覚えのある声に、依林は驚いて振り返った。
 依林の手首を掴んでいたのは、路地裏で小鳳と名乗った青年だった。
「あ、あなた!」
 先ほどから予想外の人間にばかり会っているせいで、頭が混乱して上手く考えがまとまらない。
 どうして彼がここにいるのだろうか。
 依林の驚愕には頓着した様子なく、小鳳は嬉しそうな顔をした。
「まあ、いいや。また会いたいと思ってたんだ、あんたに。礼も言えてなかったし。助かったよ。あの薬、すごく効いたんだぜ」
「あなたの方こそどうしてここに? ――それに、私あなたに聞きたいことがいっぱいあるのよ」
「へええ。そんなに俺に興味津々なわけ? それならきちんと答えないとな。でも、まずはあんたの名前を教えてくれよ」
「……陳依林よ」
「そっか、依林ね――で、依林。俺に聞きたいことって何?」
 彼は勝手に呼び捨てにしたが、不思議と不快感はなかった。
 小鳳はごく軽い調子だったが、世間話で済まされるような内容ではない。依林はわざと怖い顔を作って、声を潜めた。
「阿燐片の話に決まってるでしょ」
 所持しているだけでも禁固十年相当の罪になる。無かったことのように、飄々とした態度でいる小鳳が信じられなかった。
「あなた、阿燐片とは無関係って言ったわね? じゃあ、どうやってあれを手に入れて、一体何に使おうとしていたわけ?」
「色気のない話だなあ」
「ふざけないで」
 依林は小鳳に詰め寄った。小鳳は降参するというように、両手を上げた。
「あの時も言ったけど、上司の命令なんだよ。今、阿燐片がらみの犯罪を追ってるんだ」
「犯罪を追ってるって……あなた、一体いくつよ?」
「十九だ。あんたは?」
「もうすぐ二十歳よ」
「おいおい、一歳年上だからって馬鹿にするなよ? 人生経験は依林より俺の方がずっと上だ」
「何でそんなこと分かるわけ?」
 世間知らずは自覚していたので、つい口調が厳しくなる。
 小鳳は薄い唇に皮肉気な微笑みを浮かべると、捉えたままの依林の手首を、ふいに自分の顔に近づけた。抵抗する間もなく、依林の手の甲に小鳳の唇が押し当てられる。
 何が起こったか分からずに、依林は呆然とした。
 だが、すぐに手の甲の温かな感触に目が覚める。
「な、何するのよっ!」
 思わず手を振り払って、依林は手首を胸元まで持ってくる。頬は真っ赤に染まっているだろうが隠しようがなかった。
 小鳳は「見たことか」と言わんばかりに、呆れたような表情になった。
「ほら、たったこれだけのことで、そんなに動揺してるじゃん。これくらいで真っ赤になってるんじゃあ、次の段階に進むのにどれだけ苦労するんだろうな」
「余計なお世話よ、あなたに関係ないでしょっ」
「関係ないことないよ」
 噛みつくように言った依林に、意外にも小鳳はふざけた様子を潜めると静かに続けた。
「むしろ大いに関係がある」
「どういう意味よ?」
「あれ、分からない?」
 小鳳は意味ありげに瞳をきらめかせた。思わせぶりな言い方に腹が立ったが、小鳳の言わんとすることは全く見当がつかなかった。
「だから――」
「依林、こんなところで何をやってるんだ」
 何かを言おうとした小鳳の言葉に、アルフレッドの声が重なった。
 小鳳の真後ろにアルフレッドが立っていたのだ。話に夢中で全く気づかなかった。
「アルフレッド……」
 彼の姿を認めると、何故かほっとして肩の力が抜けた。
 そして冷静になってみると、上手い具合に阿燐片の話題を逸らされていたことに気づいた。
 アルフレッドは小鳳の脇を抜けて、依林の前までやってくる。そして自分の上着を脱いで、依林の肩に羽織らせた。彼の体温を残した上着をかけてもらって、鳥肌の立つほど体が冷え切っていたことを悟った。
「ありがとう」
「どういたしまして――依林、彼は?」
 アルフレッドは普段の温厚な彼からは珍しく、厳しい視線を小鳳に向けている。
「小鳳よ、さっき話したでしょう」
 彼が? と、アルフレッドは目を見張った。
 とんだ闖入者だと言わんばかりに、小鳳は不機嫌を隠そうともしなかった。
「あんた誰?」
「僕はアルフレッド・スタンリー。峯界医学院の医師だよ」
「ふうん。で、あんたは依林とどんな関係なわけ?」
 不躾な質問に、アルフレッドは眉をひそめて見せた。
「友人だけど」
「ああ、そう。じゃあ、邪魔しないでくれるか? 今、俺と依林はいいところだったんだけど」
「いいところ……?」
 アルフレッドは少し狼狽したように、依林を見下ろした。小鳳の言葉の真偽を問うような視線に、依林は力いっぱい横に頭を振った。
「う、嘘よ。何にもなかったわっ」
「依林、俺はあんたが好きだって言おうとした」
「ああ、そうなの――って、ええっ……!」
 振ってわいた予想外の告白に、ますます混乱が深まるばかりだ。
「な、何言ってるのっ。もう、からかうのはよして」
「からかってなんかない、本当のことだ」
「意味分からないわよ。今日の昼会ったばかりの人にそんなこと言われたって、信じられるわけないでしょう? 大体、あなた、さっきまで私の名前さえ知らなかったじゃないのっ」
「出会ってからの時間は問題じゃない。大事なのは内容だ。俺はあんたに命を救われたんだ。惚れたって不思議じゃないだろ?」
「そんな……」
 人生初の愛の告白に、どう対応したらいいかさっぱり分からなかった。こんな状況の対処の仕方を王勇は教えてくれなかった。
 依林が絶句していると、アルフレッドは今までの会話を完全に無視して、小鳳に質問をぶつけた。
「君は、一体何者なんだ? 本当に阿燐片に関係していないのか?」
「ああ、もちろん」
 小鳳は力強く頷いてから、うさんくさそうにアルフレッドを睨みつけた。
「っていうかあんたに、あれこれ答える筋合いはないんだけどな……ちなみに、あんたも依林に言い寄ってるわけ? だったとしたら残念だけど、諦めてもらうしかないな。依林は俺のものになるんだから」
 小鳳の口からどんどん溢れ出る爆弾発言の嵐は、歯止めがかからない。
 依林は茹でダコのように赤くなった顔のまま、小鳳を怒鳴りつけた。
「いい加減にしてよ。今、そういう話をしてる場合じゃないでしょ。勝手なこと言わないで!」
「ふうん、じゃあ、依林はこいつのものになるわけ?」
 小鳳が顎をしゃくって、アルフレッドを指す。
 誘われるようにアルフレッドの整った顔をまじまじと見つめてしまい、依林の恐慌状態は加速度的に進行する。
「そ、そんなわけないでしょっ」
「でも、この兄さんはそのつもりかもしれないぜ?」
「もう違うってばっ! 変なことばっかり言わないで。大体ね、アルフレッドは男の人しか愛せない人なんだからねっ!」
 息継ぎせずに言い放った後、ぜいぜいと依林は肩で息をした。
 逆上した依林が思わず口にした言葉で、一瞬にして、その場の空気が凍りついた。
 最初に気を取り直したのは、小鳳だった。
「えっ、そ、そうなの? この人、そういうこと?」
 小鳳の引きつったような口調で、依林は我に返る。
「あ、しまった!」
 興奮した結果、人の秘密を暴露するなんて最低な仕打ちだ。
 依林は狼狽して、おろおろと言い訳を始めた。
「あ、あの……違うの。ごめんなさい、アルフレッド――私、こんなこと言うつもりじゃ……」
 実際には『アルフレッド同性愛疑惑』は、完全に依林の妄想の賜物だったのだが、頭に血が上った依林の中で、いつの間にか事実のようにすり変わっていた。
 誤解を深めていく依林の態度に、あらぬ疑いをかけられたアルフレッドは唖然とした顔をした。
「い、依林。一体、そんなことを誰が……」
「そうかそうか。じゃあ、俺はあんたを警戒する必要は全くないな」
 すっかり頭を切り替えた小鳳は機嫌を直して、愉快そうな声を上げる。対して、アルフレッドは柔らかな金髪をぐしゃぐしゃとかき乱すと、憮然とした面持ちで反論した。
「全然違う。僕はノーマルだ」
 嫌そうに言って、アルフレッドは依林に向き直った。
「依林、誰に何を吹きこまれたのか知らないけど、それは誤解だから」
「え、ええ……そうよね……」
「本当に違うからね。信じてくれ」
「あんまり必死に否定すると余計怪しいぜ、お兄さん」
 小鳳がからかうように茶々を入れてくる。
「君は黙っててくれ!」
 きっとアルフレッドは小鳳を睨みつける。
 混乱した依林と、面白がる小鳳と、躍起になったアルフレッドによって繰り広げられる空しいやりとりは、その後しばらく続けられた。
 そして完全に余裕のなくなった依林とアルフレッドは、いつの間にか小鳳が姿を消していることに気づかなかったのだった。



 2

「ううっ……頭が痛い」
 目覚めたばかりのアルフレッドは、こめかみを締めつける痛みに顔をしかめた。
 体の中で小人が暴れまわっているように、吐き気が込み上げてくる。何度か唾液を飲むことで胃液を押さえた。ベッドサイドのテーブルに置かれた水差しから、コップにレモン水を注いで胃の中へ流し込む。吐き気は少しましになったが、胸が悪い感じは一向に治まる気配はなかった。
 だるい体に鞭打つようにして立ち上がると、眩暈で倒れそうになる。何とか壁に手をついて倒れるのを防いだが、そのままずるずると床に座り込んでしまった。
 完全な二日酔いである。
 昨日、舞踏会で非常に不名誉な誤解を受けたアルフレッドは、依林を先に帰らせるとワインを自棄飲みしたのである。
 もともとアルフレッドはアルコールに弱い。少量でも翌日に倦怠感が残る性質なのに、自分の限界を遥かに超えた量を摂取したせいで、かつてないほどの二日酔いを引き起こしてしまったのだ。
 自業自得なので、誰を責めるわけにもいかない。小鳳を見逃したことといい、昨日の自分をなじるしかない。これから六日間、仕事が待っているかと思うと泣きたくなった。
 重い体を引きずるように食堂へ向かうと、そこには依林が座っていた。彼女はアルフレッドに気づいて、気まずそうな顔をした。だがすぐに腹を括ったように笑顔を浮かべる。
「おはよう、アルフレッド」
「……おはよう、依林」
 ちなみに柚犀は総督の朝食を拝借するために、毎朝病院に出かけているのである。
「あの、昨日は私……」
 依林が何か言いかけたのを、アルフレッドは遮るように頭を振った。
 それでなくても体調不良の今、話をむし返されてはたまらない。それに、あの時間自体をなかったことにしてしまいたかった。
「ごめん、ちょっと今、頭ががんがんしてるんだ」
 依林は訝しげに眉をひそめた。
「もしかして、二日酔い?」
 妙齢の女性の前で、弱みをさらけ出して恥ずかしかったが、意地を張っても今さらである。アルフレッドは素直に頷いた。
「そう。アルコールに弱いんだ、実は」
「そうなのね――吐いた?」
「いや。吐き気はあるけど、まだ吐いてはない」
「下痢や腹痛は?」
「ないよ。とりあえず、気持ち悪くて頭が痛い」
「分かったわ、ちょっと待ってて」
 依林は一人で納得したように頷いて、食堂を出て行った。突然のことに面食らっていると、すぐに薬包を持って帰ってきた。
「はい、これ飲んで」
 水の入ったコップとともに渡された。
「これは何?」
「二日酔いの薬。子供の嘔吐下痢症なんかに出したりするんだけど、実は二日酔いにも効くの」
 今の状況を何とかしてくれるなら、どんな薬でも試してみる価値がある。
 アルフレッドは躊躇うことなく、依林から手渡された薬を飲んだ。清方薬を内服するのは初めてだったが、想像よりずっと甘い薬だった。
「思ったより飲みやすいね」
「飲みやすいっていう感想は、体に合ってるっていう証拠よ」
 依林は「よかった」と付け加えて微笑んだ。
 運ばれてきた朝食を少しずつ食べている内に、確かに体が楽になってきた。病院に出発する頃にはだいぶ回復の兆しが見えた。
「すごいな、清方って」
 素直に称賛の言葉が口をついて出た。これほど劇的に効果があるとは思わなかった。自分の体で実感したこの感動は忘れられないだろう。
「清方薬は症状を改善することを目的としてるから、患者の困っている症状にすぐに対応できるの」
「魔法と言われるのも納得だな。ありがとう、依林」
 アルフレッドは感謝を告げて、依林を研究室に送り届けた。
 その日の業務は、依林の薬のおかげで無事にこなすことができた。午後から病棟回診の予定だったが、その前にもう一度、依林に礼を言おうと研究室に寄ることにした。
 アルフレッドが研究室に入るなり、依林がひどく感情を高ぶらせた様子で駆け寄ってくる。そして自分の腕を掴んで中に引き入れた。
「アルフレッド! ちょうどいいところに来てくれたわ」
 こんな風に興奮している時は必ず、彼女は新しい事実を掴んでいる。
「どうしたの、急に」
「香桃が実行犯だっていう確証を得たの」
 依林は瞳をきらめかせて言った。
「今日、柚犀が持ってきてくれた粥の小皿よ。右が給食室から運ばれてすぐのもの、左が病室に入る直前のものよ」
 机の上には彼女の言葉通り、二つの小皿が置かれている。
 依林は重大な事実を発表するように、大きく息を溜めてから言った。
「左にだけ、阿燐片が入ってるの」
 思わず両方の皿を手に取って見る。だが何度目を凝らして見ても、自分に違いは分からなかった。
「今日、食事を運んだのは香桃よ。柚犀に確認したけど、給食室を出てから病室まで、食事に触ったのは彼女だけ――間違いないわ。少なくとも総督に阿燐片を盛っているのは、香桃で決まりよ」
「……そうか」
 アルフレッドがあまり驚いた様子がないので、依林は少し不満げだった。だが、すぐ気を取り直したように話を続けた。
「ねえ。香桃が犯人、で終わっていいのかしら」
「それは……背後に黒幕がいるはずだってこと?」
「ええ――やっぱり彼女一人で夫を殺そうと企んで、阿燐片を準備して、病気に見せかけるために盛り続ける、っていうのはなんだか無理がある気がする」
「そうだね」
 もちろん不可能ではない。
 頭脳明晰な胆力のある女性なら、完全犯罪を一人でやり遂げることもできるだろう。実際、過去に大罪を犯した女性の例ならいくらでもある。
 だが少し揺さぶりをかけただけで、簡単にぼろを出した香桃に可能かと問われると、難しいと言わざるをえない。
「確かに、彼女は操り人形に過ぎないのかもしれないね。本当の犯人がいて、彼女を上手く使って、総督殺害をもくろんでると考えた方がすっきりする」
「でしょう? そして、彼女に殺人を唆すことができるとしたら、親しい人間の可能性が高いと思うの」
「依林は――チャン先生が怪しいと?」
「だって、医師だから阿燐片も手に入れやすいだろうし、香桃はセドリックに首ったけって感じだったわ。彼に言われたら何でもするんじゃないかな?」
「でも、チャン先生が総督を殺して何の利益があるかな」
「それは……」
 依林は言葉を詰まらせた。
 患者を救えなかったという汚名と、総督夫人でなくなった香桃が残される。
 セドリックが愛ゆえに総督殺害に手を染めたなら納得できるが、香桃との関係は恐らく彼にとって火遊びの域を出ないはずだ。ならば、夫を殺してまで自分と結婚しようとする不倫相手は重い鎖にしかならない。
「それに前も言ったけど、チャン先生が犯人なら、僕に総督を診察させたことが引っかかる」
「じゃあ、アルフレッドは誰だと思うの?」
 依林は自分の案が否定されて、憮然とした顔で尋ねてきた。
「分からない――だけど、犯人探しは二の次だと言ったのは君だよ。実行犯が分かったからには、これ以上の背後関係については、専門組織に任せた方がいいかもしれない。それよりも、僕らは阿燐片の治療について情報を探すべきだと思う」
「うっ、それはそうね」
 依林は素直に頷いた後、思い出したように項垂れた。
「正直、手がかりが全く掴めてないんだもの。申し訳ないわ」 
 図書館で文献を当たっているが、阿燐片中毒の治療について何の糸口も掴めていないというのが実情である。膨大な文献の中から、あるかどうかも分からない情報を探すのは、砂漠で一粒の宝石を見つけ出すようなものだ。見つからなくても無理はない。
 依林が責任を感じる必要はなかったが、彼女としては歯がゆいところなのだろう。
「……こんな時、陳先生ならどうするんだろうね」
 二人のやり取りを見ながら、ふいに柚犀がぽつりと言った。独り言のような呟きを聞いて、依林が瞳を大きく瞬かせる。そして急に立ち上がった。
「それよ!」
「えっ?」
「アルフレッド! 私、佑南村へ帰るわ」
 言うなりかつらを外して、依林は部屋を飛び出さんばかりに席を立った。
 アルフレッドは慌てて引き止めた。
「ど、どういうこと?」
 帰る、という言葉が思ったより胸に突き刺さった。
 依林の目の輝きを見れば『治療法を探すのを諦めて村に戻る』という意味ではないと、すぐに知れた。だが、いずれ彼女は峯界を去るのだと頭をよぎった途端、胸の奥がきりきりと痛んだのは事実だった。
「昔、阿燐片を作ったことがあるって言ったでしょ? その時は、先生が阿燐片の精製法を記した『覚書』を見て作ったの」
「えっと、それで?」
「だからその本を見つければ、精製法の他に、対処の手がかりが書いてあるかもしれないってこと」
 依林はいちいち答える時間さえも惜しいような様子だった。
「ねえ、あなたの馬車を貸してくれる? 明日には戻ってくるようにするから」
 峯界に――自分のもとに戻ってくるのだと分かると、ほっと溜め息が漏れた。
「分かった。でも僕は行けないけど、大丈夫?」
「もちろん。柚犀にも一緒に帰ってもらうし――朗報を期待してて」
 依林は力強く微笑む。そして、急展開についていけない柚犀の手を引っ張るようにして、瞬く間に部屋を後にした。

 *

 依林たちが半日かけて佑南村へ戻ると、すでに太陽は西へ沈もうとしていた。
 夕焼けの空は赤く泣き濡れている。暮れなずむ夕陽を背に、森の手前で馬車を降りた。帰る足がなくなると困るので、スタンリー家の御者に待っていてもらうように頼んだ。
 森を留守にしたことは久しぶりだった。本当はすぐに戻ってくる予定だった。こんなに長く家を空けることになるとは思っていなかったのだ。数日のこととはいえ、懐かしい気持ちになりながら玄関の扉を開ける。埃の匂いと、生薬の香りが鼻腔の奥をくすぐった。
 受付台の奥にある調合室に入る。さらに奥には左右に別れた廊下があり、右手前の部屋が書庫になっていた。
 書庫には乱雑に積まれた書物が、所狭しと積み上げられている。峯界医学院の図書館の規模とは比べるまでもないが、個人の蔵書としてはなかなかのものだろう。
 その中で用があるのは、王勇が記した手書きの『覚書』だった。
 生薬の種類や調合方法、病気の症状や治療薬など、彼の経験や知識が書きとめられた珠玉の書である。だが残念なことに『覚書』というだけあって、系統だってまとめられたものではなく、書かれた順序や内容は雑然としている。時折見られる走り書きの部分は、読み取れないところもある。 
 実は、この『陳王勇覚書』をきちんと分類し清書した上で、さらに自分自身の経験を書き加えていくことが依林の密かな夢だった。
 その分量は驚くことに、五百あまりの冊数に及ぶ。もちろん重要な箇所は暗記しているし、よく使うところは付箋を貼ったり手元に置いたりしている。しかし全ての内容を把握するのは不可能だった。
 阿燐片の調合についても、五百もある覚書のどこで読んだのか思い出せない。端から読んでいくしかないのである。
「柚犀は一番から読んでいって。私は逆に五百番から遡っていくから。阿燐片に関連する部分があったら、とりあえず横によけておいて」
「分かった」
 二人は黙々と作業に勤しんだ。
 しばらく時間が経ってから、思い出したように柚犀が顔を上げた。
「ねえ、依林」
「何?」
 本に目を落としたまま依林は答える。躊躇ったような間の後、柚犀は尋ねた。
「もし、見つからなかったらどうする?」
「え?」
 予想外のことを聞かれて、依林は顔を上げた。すると真剣な顔をして、こちらを覗き込む柚犀と目が合う。
「見つかったとしても、阿燐片の治療法が分からなかったら?」
 畳みかけるように柚犀は続けた。
「なあ。依林――もう、手を引かないか?」
 依林は瞬きとともに息を詰めた。
「何言ってるの?」
「峯界に帰らなくたって、いいんじゃないかってこと。依林はもう十分やったじゃないか。総督の病気の原因が中毒だってことを暴いて、その毒の種類まで突き止めた。毒薬を盛った人間だって分かった。頼まれた仕事はこなしただろ」
「どうして、今更そんなこと言うの? それで終わり、なんて本気で思ってるわけじゃないでしょ?」
「今更じゃないよ。ずっと言ってきた。俺は依林に危ないことはしてほしくない。もう総督とか暗殺とか毒薬とか、そんな物騒なものとは縁を切ってほしいんだよ。後はアルフレッドがどうにでもするさ」
 柚犀は悔しそうに言って、そっぽを向いた。
 依林は本を読む手を止めると、真正面から柚犀に向き直った。
「柚犀が心配してくれてるのは分かってる。でも中途半端なまま放りだすことができない私の性格を知ってるでしょう」
「でも!」
「大丈夫よ。アルフレッドが守ってくれるって言ったじゃない」
 わざと明るく振る舞うと、柚犀は苦々しげに吐き捨てた。
「随分、信用してるんだね。まだ出会って数日の男なのにさ」
 柚犀がここまで頑なになるのは珍しい。故意に憎まれ役を買って出てくれているのだ――彼は何より依林の身を案じている。
 依林はそっと息をついて、柚犀の手を取った。
「私の無茶が柚犀を不安にしてるのは、悪いと思ってる。でも、まだできることがあるのに、止めることなんてできないよ。お願いだから、もう少しだけ頑張らせて」
 心を込めて頼むと、柚犀は無言で苦しそうに顔を歪めた。
 その時、ふいに玄関の方で物音がした。
「何かしら?」
 店は閉めているので客が訪れるはずがない。二人があまりに遅いから、スタンリー家の御者が様子をうかがいにきたのだろうか。
「俺が見てくる。依林は続けてて」
 ふてくされた顔を見られたくないのか、柚犀はうつむいたまま立ち上がった。そして足早に玄関へ向かう。
 柚犀が消えた扉を見つめながら、依林は唇を噛みしめた。
(ごめんね、柚犀)
 これ以上、依林がこの事件に関わる意味はないのかもしれない。重症阿燐片中毒の治療法は存在せず、総督はもう誰にも救えないのかもしれない。
 充分やったじゃないか、とささやく柚犀の言葉は甘い誘惑だった。
(――でも、諦めたらそこで終わりだもの)
 自分を奮い立たせるように、ぐっと拳を握りしめる。
 再び本に目を落としてページをめくっていると、見覚えのある表題にぶつかった。
「これって!」
 慌てて本に近づいて、食い入るように読んだ。
 線をひいたり、丸を描いたり、本自体も開きやすいように折り目がついている。そのページをしっかり読み込んだ証拠である。『阿燐片精製法とその他』についての項目だった。
 一度思い出すと、記憶が戻るのは早かった。すぐに最後まで読み終えることができた。
「――そうだったのね」
 思わず声が漏れた時、重い物が落ちたような鈍い音が玄関から響いてきた。
 そう言えば、様子を見にいったはずの柚犀が帰ってこない。不審に思って、依林も受付に向かった。
 そして部屋を出た瞬間――口元に何かの布が押し当てられる。鼻腔を甘い香りがくすぐった。何が起こったのかを知る前に、舞台の幕が下りるように目の前が暗くなる。体の力が溶け出すように抜けていくのが分かった。
(……早く峯界へ戻らないといけないのに。アルフレッドに伝えなきゃ……)
 そう思ったのが最後で、依林は奈落の底へ意識を手放した。




 第6章

 1

 柚犀は誰かに肩を叩かれて、目を覚ました。受付の窓から眩しい陽光が漏れている。いつの間にか夜が明けていた。それに気づくと同時に、柚犀は跳ね起きた。
「依林っ!」
 周囲を見回したが、急に大声を上げた柚犀に驚いたスタンリー家の御者がいるだけだった。どうやら自分を起こしてくれたのは御者のようだ。が、そのことに感謝する余裕なく、柚犀は書庫に駆け込んだ。
 書庫には誰もいなかった。乱れた本の山の中で、一心不乱に書物を読み漁る依林はいない。書庫から出て、調合室や各々の部屋も全て調べたが、依林の姿は見当たらなかった。
「依林……」
 柚犀はがっくりと膝を折って、廊下でうずくまる。室内に争った形跡はなく血の気配もなかったが、彼女がどこにもいないのは事実だった。
 頭を抱えていると声が降ってきた。
「あ、あの……これを」
 のろのろと顔を上げると、御者が冷たく絞った布巾を渡してきた。意味が分からず呆然としていると、御者が柚犀の後頭部に布巾を当てた。
「頭を打っているようですので」
 指摘されて初めて、頭部を強打されたことを思い出した。布巾越しに自分の頭を触ると大きな瘤ができており、鈍い痛みを感じる。
「……ありがとう」
「いいえ。あの、何があったんですか?」
 柚犀は力なく頭を振った。
 覚えているのは、玄関へ向かったところで背後から頭を殴られたことだけだ。すぐに意識を失ったので犯人の顔も見ていない。その後に何が起こったのか全く分からなかった。
 だが、依林が勝手に行方をくらます理由がない。間違いなく、誰かに無理やり連れ去られたのだ。
(これからどうしたら……)
 室内には、依林の行方を示す手がかりは何も残されていなかった。依林を助けに行きたくても、どこから手をつけて、どうやって探し出せばいいのか見当もつかない。
 それなりに器用で大概のことはこなせる自信があった。だが今、途方に暮れることしかできずにいる。自分の無力さに吐き気すら覚えた。
(だから嫌だったんだ!)
 八つ当たりに近いと分かっていても、アルフレッドへの怒りが止められなかった。
 毒殺未遂事件に巻き込まれたせいで、依林の身が危険に晒されたのには違いない。関わらなければ今頃、平和な森の生活を続けていたはずだった。
(俺は、陳先生から依林を託されてたのに……)
 柚犀は五年前、峯界で倒れているところを王勇に救われた。
 もともと孤児だった柚犀は、峯界のとある盗賊団の一員だった。物心ついたころから裏社会の中で生きていた。その日その日を生きるために、今では口にできないようなことを何でもやった。二度と思い出したくない最悪の日々だった。だがある日、些細な失敗が原因で重傷を負い、峯界の路地裏で死を迎えようとしていた。そして、たまたま通りがかった王勇と出会ったのだ。
 彼は柚犀の命を助けただけではなく、行くあてのない柚犀を佑南村の自宅へ連れ帰った。
 そこで柚犀は生まれて初めて、人間らしい生活を与えられることになる。温かい食事と柔らかい寝床。生きていくための知恵。たわいもない会話――くすぐったくて泣きたくなるような幸せな日々だった。
 今の自分があるのは、ひとえに王勇のおかげである。彼には感謝してもしきれないほどの恩がある。そして王勇が、何より大切にしていたのが依林だった。彼女を守っていくことが自分の役目であり、これが恩返しになるとずっと信じてきたのだ。
(でも今の俺じゃあ、依林を助けられない)
 自分の手に余ることを認めるのは悔しかったが、状況は一刻を争う。
「俺を、今すぐ峯界へ連れてってくれ!」
 柚犀は御者に頼み込んだ。御者も緊急事態であることは分かったのだろう。すぐさま馬車の準備ができ、驚くべき速度で峯界へ向かった。
 峯界に辿り着いたのは深夜だった。
 すでに仕事が終わっている時間帯だと踏んで、峯界医学院ではなくアルフレッドの屋敷へ帰った。予想通りアルフレッドは戻っていた。血相を変えてやってきた柚犀を出迎えて、彼はひどく驚いたようだった。
「どうしたんだ、柚犀。すごく早かったんだね」
 肩で息をする柚犀をねぎらいながら、アルフレッドは怪訝そうにあたりを見回した。
「あれ? 依林は? 医学院へ行ったの?」
 暢気な質問に、思わず高ぶっていた感情が爆発した。
 柚犀はアルフレッドの胸元に掴みかかった。
「……依林は、じゃねえよっ!」
 いきなり食ってかかられたアルフレッドは、ぎょっと目を見張った。
「ゆう、せい……?」
「あんた、俺に誓ったじゃないか! 命をかけて依林を守るって」
 尋常でない柚犀の乱れぶりに、アルフレッドは何かに思い当たったように顔を強張らせた。
「――まさか、依林に何かあった?」
「いなくなったんだよっ。誰かに連れ去られたんだ!」
 アルフレッドは息を呑んだ。
 だが、すぐさま自分を取り戻したようだった。柚犀の手を外すと、逆に柚犀の肩を掴んで問い質してきた。
「何があったんだ?」
「俺に分かるか!」
「柚犀、落ち着いて。とりあえず深呼吸して」
 言われた通りに息を整えると、少し頭が冷えた。
「お願いだから、まずは状況を説明してほしい」
 確かにアルフレッドをいくら非難しても、事態は一向に改善しない。柚犀は咳払いをしてから、佑南村へ帰った後に起こった一連の出来事を伝えた。
 順を追って話している内に、彼に対する怒りは萎んできた。怒りの後には、抑え込まれていた不安や自己嫌悪が蘇ってくる。
「……依林に何かあったら、どうしよう」
 惨めで情けない顔を見られたくなくて、両手で顔を覆い隠す。すると頭に温かい掌が乗せられた。
「依林が何の痕跡もなく連れ去られたってことは、まだ彼女の無事を意味しているはずだよ」
 柚犀は恐る恐る顔を上げた。
 アルフレッドは湖を思わせる緑の瞳を優しく細めている。
「あの依林が意識のある状態で、やすやすとつかまると思う? きっととんでもなく暴れるはずだ。だけど争ったあとがないということは、恐らく抵抗する間もなく眠らされた可能性が高い。そして本気で依林を排除するつもりなら、その場で殺害する方が手っ取り早いのに、わざわざ攫ったということは、彼女に何か利用価値を見出していると考えられる。だったら少なくとも、すぐさま彼女に命の危険が迫ることはないはずだ」
 理路整然と話すアルフレッドは、何より頼もしく見えた。
「だけど、早く助け出さないといけないのは違いない」
 アルフレッドはそう言うと、敢然と顔を上げた。そしてベルを振って、ヘンリーを呼び出す。
「電報を打つから準備を。それから今から外出する」
「今から、でございますか?」
 ヘンリーが驚いたように眉を上げた。アルフレッドは有無を言わせぬ口調で命令した。
「今からだ。否とは言わせない。早く仕度を」
 以前、ヘンリーにやりこめられた面影は全く見られなかった。命令することに慣れた、毅然とした態度で断言したアルフレッドに、ヘンリーは姿勢を正す。そしてすぐさま準備に取りかかった。
 突如、慌ただしくなったスタンリー家に、柚犀は呆然とするしかなかった。
 見事な仕立てのフロックコートを羽織ると、颯爽と身を翻したアルフレッドは柚犀を振り返った。
「さあ柚犀。出発しよう」

 
 *

 月明かりの中、人気のない大通りを馬車が駆け抜けていく。石畳を蹴る足音だけが、夜の静謐を乱して闇の中に溶けて消える。馬車はスタンリー家と肩を並べるほどの大邸宅の前で足を止めた。馬車から下りて、大きな屋敷を見上げる格好になった柚犀が尋ねた。
「ここは……?」
「ピール総督の自宅だよ」
 こともなげに答えたアルフレッドに、柚犀ははっとした。
 このタイミングで依林を拉致した犯人が、一連の事件と無関係のはずがない。そして現段階で確実に判明している実行犯は香桃・ピールだけだ。まず足がかりにするには、彼女しかないだろう。混乱していたとはいえ、それを全く思い浮かべられなかった自分が恥ずかしかった。
「でも、こんな夜中に急に訪ねていって、会ってくれるのか?」
「それは無理にでもお願いするしかないだろうね」
 アルフレッドは口元を歪めてみせた。
 非常識な時間に面会を求めたアルフレッドだったが、向こうの執事と押し問答をした結果、応接室へと案内された。しばらくして、簡単に身支度を整えたらしい香桃が部屋に入ってくる。あからさまに不機嫌そうな顔だった。
「まさかスタンリー家の御子息が、このような無作法をなさるとは思いませんでした」
 皮肉気に口を開いた香桃に、うやうやしくアルフレッドは頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが、どうしても緊急であなたにお尋ねしたいことがあったのです」
「手短にお願いできるかしら」
「もちろんそのつもりです。あなたが教えて下さるのなら、すぐにでも立ち去りましょう」
「一体、何をお知りになりたいの?」
 小さく溜め息を吐いた香桃に、アルフレッドは口を切った。
「――総督を毒殺するよう、あなたに命じた相手はどなたですか?」
 一瞬にして、その場の空気が凍りついた。
 アルフレッドは明日の天気を尋ねるような口調で、核心をついた質問を直球で投げかけたのだ。
 香桃は一気に顔面蒼白になり唇を震わせた。
「な、なに……を」
「聞こえませんでしたか? もう一度、繰り返した方がよろしいでしょうか?」
 天使のような微笑みを浮かべながら、アルフレッドは追及の手を緩めない。むしろその笑顔が空恐ろしく思えてくる。
 香桃は何とか気力を振り絞ったように頭を振った。
「何をおっしゃっているのか、分かりませんわ……」
「分からないはずがありませんよ、ピール総督夫人。あなたが長期間に渡り、総督に阿燐片を盛っていることを私は知っているのですから」
「な、何故……」
 まるでひきつけを起こしそうに、香桃は喘ぐような呼吸を繰り返している。
 アルフレッドはそっけなく答えた。
「理由をお話している時間はありません。あなたも手短にしてほしいとおっしゃったはずです。私の質問に答えていただけませんか?」
「わ、わたくしは何も知りません! 証拠でもございますの?」
「証拠が必要ですか?」
「当たり前でしょう! 証拠もなく、そんな無礼なことをおっしゃったのですか? 名誉棄損で訴えてもよろしいんですのよ」
 アルフレッドは仕方がないという風に溜め息を吐いた。そしてコートの胸元から黒いものを取り出したと同時に、そのまま香桃に突きつけた。
 それは拳銃だった。
 慣れた手つきで撃鉄を引き起こすと、狙いをつけたままゆっくりと香桃に近づいていく。
 今度こそ香桃は足の力が抜けたようで、その場に崩れ落ちた。
「女性を傷つけることは本意ではありませんが」
 儀礼的な笑みを浮かべていた顔から表情が消えた。そうすると、普段穏やかで優しげなアルフレッドが鋭利で冷徹な印象に一変する。なまじ端正な顔をしているゆえに、酷薄にすら映った。
(こんな顔もするんだな……)
 その時、柚犀は気づいた――アルフレッドは心底、憤っている。
 先ほどは柚犀の方が取り乱していたので、そんな素振りを微塵も見せなかったが、実は腸が煮えくりかえりそうな怒りを抱えていたのだ。依林を誘拐した犯人に、目の前で座り込む香桃に、しかし――何より依林を守り切れなかった彼自身に。
「時間がないのです。できればこんな物騒なものを使いたくはありません。答えてください」
 アルフレッドが銃を構える姿はさまになっていた。香桃の額に照準を合わせた後は、全くぶれることなかった。
「……セドリックです」
 とうとう観念したように香桃が呟いた。
「セドリック・チャン先生ですわ……彼が阿燐片を用意して下さったのです」
「チャン先生が? 本当ですか?」
「この状況で嘘をつく理由があると思って? 本当です――わたくしと彼は恋人同士だったのです」
 とんでもない秘密を明かすように声を潜めて答えたが、誰もが知る公然の関係であったことを彼女は知らなかったのだろうか。
「……そうですか。直接、彼から指示されたんですか?」
「いいえ。人目のあるところでは言葉を交わすことすら警戒していたのです。そういったやりとりはいつも手紙で行っていました。ある日、彼からの手紙に病気に見せかけて夫を殺そう、二人で一緒になろうと書かれていたんです。やり方は全てセドリックが考えてくれました。阿燐片を手に入れたのも彼でした。彼が指定の場所に隠して、わたくしが取りにいくような手筈になっていたのです」
 アルフレッドはきらりと瞳を光らせた。
「なるほど。ではチャン先生の口から直接聞いたわけではない?」
「え、ええ。そうですけど、でも手紙の筆跡は彼のものでしたわ」
「そうですか。それではもう一つ。私があなたにお会いした時、清方医が毒殺を疑っていると伝えましたね――それをチャン先生に伝えましたか?」
「もちろんです。すぐさま手紙を書いて、どうすればよいのか尋ねました」
「返事はありましたか?」
 香桃は力なく頭を振った。
 アルフレッドは頷くと、ようやく拳銃を胸元に戻した。
「分かりました。聞きたいことはこれで全てです。あなたのお望み通り、すぐに立ち去りましょう」
 香桃は顔を上げて、悲痛な声を漏らした。
「ま、待って! このことを、誰かに……」
「この件に関しては、しかるべき場所に報告します。あなたも覚悟して、ご自分の身辺を整理しておかれますよう。それでは」
 うなだれたままの香桃を残して、柚犀とアルフレッドはピール総督の屋敷を後にした。
 アルフレッドは馬車に戻ると、御者に次の行き先を命じた。
 馬車が走り出しても、アルフレッドの表情は硬いままだった。眉間に深いしわを寄せ、静かに考え込んでいる。
「セドリックを問い質すしかないよな」
 柚犀が話しかけると、アルフレッドはふっと馬車の外に視線を遣った。
 夜の闇に包まれた峯界の街は、深い静寂に沈んでいる。アルフレッドはここではないどこかを見ているようだった。物憂げに目を細めている。
 そしてぽつりと呟いた。
「黒幕は、きっとチャン先生ではないよ」
「えっ、何だって?」
 柚犀は思わず声が上ずった。予想外の答えに頭が混乱する。
「前にも言ったけど、チャン先生が黒幕だとしたら、他人に診察を依頼するのは不自然だ。自分だけの胸に収めていたら、総督は病死で片づいたはずなんだから」
「そうだけど……じゃあ、誰だって言うんだよ」
「それは……」
 アルフレッドが口を開く前に、馬車が次の目的地に辿り着いたようだった。
 そこは峯界医学院だった。
 夜の病院は日中に見るのとは違い、不気味な雰囲気を漂わせている。柚犀はごくりと息を呑んで、隣に立つアルフレッドを見上げた。
「相手は、医者なのか?」
 アルフレッドは小さく頷き、迷うことない足取りで中に向かっていく。何故か声をかけることが躊躇われて、柚犀は黙って後をついていくしかなかった。
 研究施設の棟に入り、アルフレッドはある一室の前で足を止めた。扉の隙間から明かりが漏れているので、中に誰かがいるのは間違いなかった。
 ノックをすると、部屋の中から「どうぞ」という声が届いた。
 意を決したように、アルフレッドが扉を開ける。
 金髪赤ら顔の大柄なセルジア人が、座って書類をまとめているところだった。彼は突然やってきた来訪者を見て、強面の顔を不審そうに歪めた。
「どうしたんだい、アルフレッド。こんな夜更けに」
「すみません、スミス先生。あなたにお話したいことと、おうかがいしたいことがあるんです」
(ジェフリー・スミス? ……どうして彼の部屋に?)
 何故、アルフレッドが彼を訪ねたのか見当もつかない。
(彼が黒幕なのか? でも、彼が話題に上ったことなんてなかったのに)
 ジェフリーは首を傾げている。
「この時間に?」
「ええ」
 言葉少なく答えて、アルフレッドはさらに一歩中へ進んだ。
「スミス先生。峯界へ派遣になって右も左も分からなかった僕に、丁寧に指導をして下さったことに感謝しています。それにセルジア人、清華人と人種で差別することなく、最善の医療を提供しようとする姿勢も尊敬しています」
「おいおい、いきなりやってきて褒め殺しか? 一体どうしたんだ?」
 ジェフリーは苦笑しながら、アルフレッドに椅子をすすめた。だが彼は座らずに、そのまま頭を下げた。
「きっと深い理由があるのだと思います。ですが、どんな事情があっても許されないことはあります。お願いします、スミス先生。何の罪もない一人の女性が危険に晒されているのです。彼女を救うために、ご自分のしたことを認めてください」
 ジェフリーはその顔からすっと表情を消した。だが顔色一つ変えずに続けた。
「何の話だ、アルフレッド」
「お分かりのはずです」
「いや、正直、さっぱり分からないな。まるで私が犯罪者のような口ぶりだったが」
「そうお伝えしたつもりですから――あなたが、総督毒殺をもくろんだ犯人です」
「…………」
 香桃はあからさまに取り乱したが、ジェフリーは眉をひそめてみせただけだった。本気で心当たりがないのか。とすれば、アルフレッドがジェフリーにかけた嫌疑は的外れになる。
「それは、さすがに面白くない冗談だぞ」
「認めていただけないなら、最初からお話するまでです」
 挑戦を受けたように、アルフレッドが敢然と顔を上げた。
 それから、依林とともに探ってきた今までの経過を語り出した。先ほどの香桃との会話まで話が進むと、ジェフリーは疑問を突きつけた。
「総督夫人は、自分に毒殺を命じたのは、チャン先生だと明かしたのだろう? 指示された手紙の筆跡も彼のものだったと」
 一緒に聞いていた柚犀にも、この期に及んで彼女が嘘を吐いたとは思えなかった。
 だが、アルフレッドに慌てた様子はなかった。
「そうですね。ですが筆跡なんて、どうとでも真似できます。チャン先生が手本のような字を書くのは、診療録を閲覧できる医学院の医師なら誰でも知っています」
「それは、セドリックが犯人ではない根拠にならない」
 まるで教師が生徒の解答を採点するかのような態度だった。
 アルフレッドは冷静に続ける。
「依林が誘拐されたんですよ」
「誘拐……?」
 初めてジェフリーは不可解そうな顔をした。
「チャン先生には、依林を誘拐する理由がないのです」
「……どういう意味だ? 総督夫人は自分たちの悪事が依林嬢に暴かれたと、セドリックに伝えたんだろう? なら、彼が焦って彼女を連れ去ってもおかしくない」
「それはあり得ません」
 アルフレッドは断言した。
「だから、何故?」
 とうとうジェフリーが苛立ったような声を出した。
「チャン先生は依林を知らないからです」
「何だって? そんなことはない。彼女はセドリックと図書館で会ったと話していた」
 淡々と答えるアルフレッドに、ジェフリーが反論する。
「ええ、確かに何回か遭遇しているのは事実です。ですがチャン先生は、男装した依林としか会ったことがないのです」
 はっとしたように、ジェフリーが顔色を変えた。
 アルフレッドは痛ましいものを見るように目を伏せた。
「後ろにいる彼のような少年が側にいたにもかかわらず、彼女だけを狙って拉致したということは、阿燐片を見抜いた清方医が『女性』であることを知っていた人間に限られます」
 語れば語るほど傷ついていくように見えるのは、むしろアルフレッドの方だった。敬愛していた上司を追いつめることで、自分自身を痛めつけている。
 それでもアルフレッドは推理を止めなかった。
「僕たちは清華人の少ない峯界医学院で依林が目立たないよう、隠れて生活してきました。ですから、そもそも依林の存在を知る人間自体が少ない。それに依林に男装をしてもらっていたのは、あなたもご存じでしょう? チャン先生は依林を見たことがある数少ない医師の一人ですが、それでも彼女を少年従者としか思っていませんでした。そんな中で依林が清方医であり、かつ女性であることを知っていたのは――あなたしかいません」
 弁解の余地のない証明だった。
 ジェフリーは黙ったまま、食い入るようにアルフレッドを見つめていた。どれくらいの時間が経ったのか、ジェフリーが根負けしたように大きな溜め息を吐いた。
「そうか。それなら仕方ないな」
 それは事実上、罪を認める発言だった。
「君の言うとおりだよ。私がピール総督を殺害するよう、夫人を騙した。そしてその罪をセドリックに被せようとしたんだ」



 2

 依林は窮地に陥ったことを自覚せざるを得ない状況にいた。
 後ろ手に縛られ、明かりひとつない暗い部屋に閉じ込められている。空気は淀んで据えた匂いが漂い、何か機械が動作する音がずっと絶え間なく響いていた。
(落ち着け、落ち着け、私……うん。まずは現状把握しよう)
 恐怖と不安のあまり叫び出したくなる衝動を押さえて、何度か深呼吸を繰り返す。
 目覚めた時にはすでにこの状態で、床に転がされていた。
(えっと。眠る前は何をやってたんだっけ?)
 思い出そうとして瞳を閉じると、脳裏に段々と記憶が蘇ってくる。
 柚犀とともに佑南村に帰ったこと、書物を紐解いた時間、阿燐片を記した『覚書』、何かのぶつかる音、立ち上がって部屋を出た瞬間。
 そこで、依林の記憶は途切れている。
(きっと睡眠薬みたいなものを嗅がされて、連れてこられたのね)
 周りをきょろきょろと見渡したが、柚犀の姿は見当たらなかった。自分だけがここに閉じ込められている。
 そうなると、意識を失う直前に耳にした鈍い物音が気になって仕方なくなった。
(柚犀は……無事よね?)
 ここに柚犀がいないことが、いいことなのかどうか分からなかった。自分だけが拉致されて柚犀が助かっているのならいい。だが、もし彼の身に何かあったのだとしたら。
(私が関わるって決めたせいで、柚犀が……)
 胸がじんと熱くなって、じわりと涙が滲んだ。鼻をすすって、ぐっと涙が流れるのを堪える。唇を噛みしめて暗い妄想を振り払った。不確定なことを憂えて、泣いても事態は変わらない。
(せっかく、阿燐片の対処法が分かったんだから)
 ようやく自分の役目を果たすことが出来ると思った矢先だったのだ。
(アルフレッドの期待に応えられるはずだったのに)
 彼は、依林が『女』であることも『清華人』であることも差別しなかった。
 アルフレッドが「君の覚悟に敬意を払う」と告げた時。彼が『依林』自身を認めてくれたのだと知って――心が震えた。
 決して生半可なことはできないと、胸に刻んだ瞬間だった。
 ここで自分が死ぬようなことがあれば、何もかもが無駄になる。
(絶対に何とかしないと)
 次第に目が暗闇に慣れてきた。ここは倉庫のような部屋らしい。木箱が何段も積み重なっており、麻袋が乱雑に放置されている。部屋の奥に、一組の寝台のようなものが見えた。
(まさか、誰か……いる?)
 両手が使えないので、這うようにして寝台まで近づいた。寝台の上には毛布が被せられており、ちょうど人型に膨らんでいるのが分かった。
 依林は息を呑んで、恐る恐る声をかけてみた。
「あ、あの……すみません」
 ふっと毛布が身じろぎするように動いた。悲鳴を上げそうになるのを堪えた。ゆっくりと毛布がはがれて、人影が現れた。
 依林は今度こそ、声を漏らした。
「……っ!」
 現れたのは、ひどく痩せ衰えた女性だった。皺だらけの手足に、髪には白いものが混じり、頬の肉は削げ、唇は渇き切っている。あまりの衰弱ぶりに、年の頃を量るのは難しかった。不気味な容貌に冷や汗が流れ落ちる。しかもよく見ると、彼女の両手足には金属の鎖が噛まされていた。
 彼女もここに監禁されているのだ。それも依林より長く、頑強に。
「……あ、なた……は……?」
 低く掠れた声が聞こえた。
 それが目の前の人間から漏れたものだと気づいて、依林はぶるりと体を震わせた。まるで獣の唸りに近い。それでも会話が可能だと分かったことは前進だった。依林は気持ちを奮い立たせた。
「あ、あの、私も、無理やりここに連れてこられたんです。あの、ここはどこですか」
 女は黙ったまま依林を見下ろしている。無遠慮な視線に、恐怖に近い感情が湧き起こる。女はしばらくして頭を振った。
(今のは……分からないって、意味かな?)
 依林も女をまじまじと見つめた。その時、何かが脳裏をよぎった。
(あれ……私、この人、知ってる気がする)
 森からほとんど出たことのない自分の交友関係は狭い。知り合いのはずがないのに、記憶の琴線に触れるのだ。
 喉元まで出かかっているものを絞り出すように、頭を悩ませた。
 女が顔を背けたので横顔が目に入る。その瞬間、過去の映像が目の前にはじけた。
 ジェフリーが自慢げに見せたロケットペンダントの女性だった。
 そんなまさかと思う気持ちを抱えながら、おずおずと問いかけた。
「あなた、もしかして――エレナ、さんじゃないですか? スミス先生の奥さんの」
 女はこちらを振り向く。すごく驚いたように見えた。もちろん、肉のそげ落ちた顔では表情を読み取りにくかったのだが。
 しかし、その様子で自分の推測が正しかったことを知る。そして、それが事実だということで背筋が凍った。
(エレナさんがどうしてこんなところで、こんなにことになってるわけ? 一体、何が起こってるの?)
 思い出すのは、ロケットペンダントの写真を見ながら、誓うように彼女を守ると宣言したジェフリーの姿だ。あの時点で、すでにエレナはこの状態だったはずだ。これだけ人間を衰弱させるには、かなりの時間を必要とする。
 今度は医師としての視点で、エレナを注意深く観察した。暗いせいではっきりしないが、エレナの様子は総督と重なるところがある。エレナも重症阿燐片中毒に陥っている可能性が高い。
「もしかして、総督の事件にスミス先生が関わってる……?」
 独り言のように呟いた。
 その時、がちゃがちゃと鍵を外す音がして出口の扉が開いた。振り返った先に明かりが差し込んでくる。暗闇に慣れた目には眩しくて、思わず顔を背けた。
「ようやくお目覚めか、お嬢ちゃん」
 二人の男がずかずかと入ってきた。一人は大柄で筋肉質な男だ。もう一人は彼の部下のようだった。大柄な男がやけに嬉しそうに声をかけてきた。その男は依林の前まで来て、腰をかがめた。そして顎を掴むと、無理やり自分の方に向かせた。
 嫌らしい笑顔を浮かべて、酒臭い息を漂わせている。気持ちが悪くて吐き気がしそうだった。
 何とかして顔を離そうとする依林を見て、男は鼻を鳴らした。
「ふうん。こんな小娘が清方医だなんて、あの先生が言ってたことは本当なのかねえ」
「柚、柚犀は? 一緒にいた男の子が無事かどうか教えて」
「この状況で、他人のことが気になるかい?」
 男は依林から手を放した。ずっと息を止めていたせいでむせてしまう。男はどうだったかな、と笑った。
「止めを刺した覚えはないね」
 依林は胸を撫で下ろした。少なくとも殺されたわけではないのだ。
「じゃあ、どうして私だけここへ連れてきたの?」
 ともすると、挫けそうになる心を叱咤しながら尋ねた。生き延びて脱出できた時のために、少しでも多くの情報を手に入れておかなければならない。
 男は愉快そうに眉を上げた。
「殺さないで、とか助けて、とか言わないのか?」
「殺さないでほしいし、助けてほしいわよ。でも私に何かさせたいから、わざわざ閉じ込めてたんじゃないの?」
「ほう、度胸だけは大したもんだ」
 男はいちいち癇に障る相槌をする。しかも依林の質問には答えていない。
 依林は寝台に視線を遣った。
「あそこにいる人は、スミス先生の奥さん、エレナさんでしょう?」
 初めて男が意外そうな顔をした。
「知ってるのか?」
 依林は黙って頷いた。それから、少し悩んで直球で切り込むことにした。
「彼女、阿燐片中毒者なんじゃない」
 男は唖然としたようだった。ずっとにやにや笑っていた顔を崩せたことで、少し溜飲が下がった。
 だが気を取り直した男の視線は、先ほどよりずっと鋭くなった。今まで侮っていたのが、急に本気になったようだ。
「なるほど。確かに、ただの小娘じゃあないようだ」
 男は依林の顔をぐっと覗き込んだ。瞳に険呑な光が浮かんでいる。
「確かに、あそこにいる女は重症の阿燐片中毒だ。ある事情でね、スミス先生から大切にお預かりしてるんだが。ここ数日の容体がよくないみたいでな」
 それは彼女の姿を見れば一目瞭然だった。
 大切が聞いて呆れる。この劣悪な環境でずっと幽閉していたのだとしたら、治る病気もよくなるはずがない。恐らく、総督よりも病状は進行しているとみていい。もってあと数日かもしれない。
「俺らとしても、預かってる手前、死んでもらっちゃあ困るんだよ。聞いたところによると、あんた優秀な清方医で毒全般に詳しいんだとか?」
「それは……スミス先生が言った?」
 男はにやりと笑った。
「どうやら勘もいいようだな」
「あなたたちとスミス先生はどういう関係なの?」
「それをあんたが知る必要はないね」
 男は腰に手を遣ると、切っ先の鋭いナイフを取り出して、依林の顎先に突きつけた。
「……痛っ」
 ナイフの先端が肌に食い込んで、小さく痛みが走った。依林は思わず顔をしかめた。その様子を心底楽しそうに見つめながら、男は続けた。
「もともと、俺はあんたを処分するつもりだったんだ。だけど、利用価値があるんじゃねえかって、気が変わったんだ。なあ、お嬢ちゃん。あんた、まだ死にたくないだろう? あの女を何とかすることができるか?」
「……できなかったら?」
「ははは、そりゃあ、生かしておく意味はないよなあ?」
 言って、男はナイフを軽く上下させた。
 依林は後ろ手に縛れたまま、きっと男を睨みつけた。男は視線にびくともしなかった。
「人を助けるのが私の仕事よ。あなたに言われなくたってやるわ。だからこの縄をほどいて」
「一応言っとくけど、ほどいたからって逃げようとするなよ? 余計な手間をとらせたら、すぐにあの世行きだからな」
「分かってるわよ。無駄なことはしない」
「その威勢のよさは感心するねえ」
 男は依林の縄をナイフで切った。長らく不自由な体勢を強いられていたせいで、体が強張っている。何度か体をほぐすと、エレナに近づいた。
「気をつけろよ、そろそろだからな」
「えっ?」
 男の不思議な忠告に気を取られた時、突如、エレナが大声を上げた。
「うわああああああああああああっ」
「なっ!」
 耳元で絶叫するエレナに驚いて、依林は思わず腰を抜かした。
 エレナは悲鳴のような唸り声を絞り出しながら、手足をばたばたと暴れさせる。その度に、彼女を拘束する鎖が痛そうな音を立てた。
 男が愉快そうに笑いながら、座り込んだ依林の横に立った。
「俺らが鎖を使ってまで手足の自由を制限してるのは、別にしたくてしてるわけじゃないのさ。阿燐片が切れるくらいの時間には、こうやって理性が飛んだように暴れるんでね。こうしないと自分自身ですら傷つけちまうんだよ」
「他人事みたいに言わないでよっ、阿燐片はあなたたちが盛ったんでしょう!」
 男は目を半眼にすると、薄笑いを浮かべてエレナを見下ろした。
「それはとんだ誤解だな。この女は、最初から自分で阿燐片を欲したんだ。だから俺たちはそれを提供したに過ぎないね」
「え……?」
「まあ、それはいいさ。それより阿燐片の対処について、何か案があるのかい?」
 男は無理やり話題転換した。それ以上の詮索を許さないと言わんばかりの態度だった。だが、エレナの状況が猶予を許さないのも事実だ。とりあえず、エレナの治療を優先させるべきだろう。
 依林は小さく咳払いした。
「阿燐片自体を中和する治療薬はないわ」
「ほう」
 男のナイフの切っ先をすっと持ち上げた。依林は慌てて付け加える。
「ま、待ちなさい。話は最後まで聞きなさいよ――阿燐片中毒で死に至る一番大きな原因は、今のエレナさんみたいに、阿燐片が切れるときに出現する離脱症状なの。それでなくても阿燐片のせいで弱った心肺に離脱症状が強烈に起こると、体力消耗を早めたりショックを起こして急死することがある。だから、その離脱症状を起こさないようにすることが大事なのよ」
「ということは、阿燐片を与え続ければいいってことか?」
「そんなことしたら、いつまでたっても阿燐片が体から抜けないわ。阿燐片精製の途中で中毒性を引き起こす物質だけ除く工程を入れるの」
「そんなことができるのか?」
「簡単じゃないけど、不可能じゃない。芥花子から分泌された乳液状の物質を集めて乾燥させると、黒い粘土状の半固形物になる。これをさらに煮出して乾燥させた粉末が阿燐片になる――実は煮出しをする時に黒炭を一定の割合で加えると、黒炭に一部の物質だけ吸収されるのよ。それが中毒性をもつ成分と言われてるの」
 淀みなく話す依林を見て、男は感心したように目を吊り上げた。
「阿燐片の代わりにその疑似阿燐片を服用させて、そこから徐々に阿燐片を減量していけば、理論的には体から阿燐片を抜くことができるはずよ」
「なるほどねえ」
「煮出し前の状態のものはある? それと黒炭を準備してくれれば、私が煮出しをするわ」
 薬の調合と考えれば、依林の得意分野だった。
「そんなやり方があるとは初耳だったな。あんたが優秀な清方医だってのは、どうやら嘘じゃないらしい――分かった、早速手配しよう」
 男は後ろに控えていた部下の耳元で何かを囁いた。部下は頷いて部屋から出ていき、しばらくすると戻ってきた。
「準備が整ったようだ」
 依林は閉じ込められていた部屋から出された。細長い廊下が左右に伸びていて、同じような扉の部屋がいくつも並んでいる。耳慣れて忘れていた機械音が、より鮮明に鼓膜を震わせた。
 久しぶりに立ち上がって歩いたせいだろうか、足元がしっかり踏みしめないような、眩暈に似た感覚がする。ふらふらとした足取りでいくつかの扉を通り過ぎて、一つの部屋に通される。
 この部屋は、どうやら阿燐片の精製室の一部のようだった。ガラス製の瓶やアルコールランプなどが机の上に散乱している。床の上には蓋の開いた木箱が置かれていて、中には粘土状の物質が大量に入っていた。
「黒炭の方はそんな急に用意できなかったんでね。今はその机の量しかない」
 指差された先に目を遣ると、両手に治まる程度の黒片があった。
「とりあえず、ある分で精製しましょう」
 依林は軽く腕まくりをすると、黒片を手に取って鉢の中に入れて、すりこぎで擦り始めた。細かく砂状になるまですり潰す作業である。
 後ろで男がじっと見張っていた。その手元は腰のナイフに当てられており、依林が何か不審な動きをすれば取り出せるようにしている。最初は背後が気になったが、すぐに没頭してどうでもよくなった。
 地味で単調な作業を繰り返していると、依林を観察していた男もすぐに飽きたらしい。部屋に鍵をかけて出ていった。
 ようやく黒片を全て粉状にできたところで、粘土の重さを量った。そして底の深いガラス瓶に両者を混ぜ合わせると火にかけた。あとは固まったり焦げたりしないようにかき混ぜるだけだ。
(これで離脱症状を押さえることができれば、中毒が進むことも防ぐことができるはず。上手くいくといいんだけど)
 撹拌している最中に、再び背後で扉が開いた。足音が近づいてきて、すぐ後ろで止まる。どうせあの男が戻ってきたのだと、気にも留めていなかった。が、突然後ろから両腕が伸びてきて、依林の両目を手のひらが覆った。
「ひ、ひゃああっ」
「しっ、依林。声が大きい」
 聞き覚えのある声が耳元をくすぐる。すぐに手のひらが外されたので、依林は慌てて振り返った。想像より近いところに相手の顔がある。そしてさらに別の意味で驚いた。
「……小鳳?」
 舞踏会の夜に、いつの間にか姿を消した青年が、肩をすくめて立っている。依林は開いた口が塞がらない。一体、どれだけ神出鬼没なのか。
「あなた、こんなとこで何してるの!」
 言ってから、自分が手を止めていることに気づいた。作業を再開しながら、小鳳を睨みつける。
「っていうか、火を使ってる作業中に、あんなふざけたことしないで」
「あー、それは、ごめん。不安が和らぐかと思って」
 小鳳は素直に頭を下げてくる。おどけた調子だったが、彼の安堵した顔を見れば、依林を心配してくれていたのだと分かった。
 依林は咳払いをしてから、あらためて尋ねた。
「ねえ、小鳳。どうしてここにいるわけ? やっぱり、あいつらの仲間なの?」
 小鳳は頭を振った。
「違う。前も言ったけど、阿燐片絡みの犯罪を追ってるんだって。俺の上司はその筋じゃ、有名な情報屋なんだよ。それで今回、阿燐片の情報を依頼されて、ここに潜り込んだんだ。前に落とした阿燐片もここのやつなんだ」
「あ、もしかしてさっきの男と一緒にいたのって」
「そう、俺だ。びっくりしたよ。拉致されたのが、あんただって分かって。あんた、本気でやばかったんだぜ。ボスが、殺る前に彼女を診察させるって言ったから何とか助かったけど」
 真剣に命が危うかったと告げられ、思わず身震いした。今まで恐ろしいと思っていても実感していなかったから、挑発的なことを言ったり虚勢を張ったりすることができたのだ。
「あいつたちは一体何者なの?」
「清華共和国の裏社会の集団さ。阿燐片密売を取り仕切っている中で、最大規模の組織だよ。さっきの男がそのボスだ」
「どうして、そんなやつらとスミス先生が関係してるのよ」
「それはまだ分からない」
 小鳳は頭を横に振った。
 依林は心が暗く淀むような気がしていた。
 ジェフリーがエレナを語る姿を見ていて、依林は心底羨ましかったのだ。自分にそんな出会いはないと分かっていても、望んで望まれて一緒に暮らす二人に憧れた――だがそれは所詮、幻想に過ぎなかったのだ。
「まあ、積もる話は一旦終わりだ。今ならまだ監視も薄い。依林、さっさとここから逃げ出すぞ」
「えっ?」
 小鳳は嫌そうな顔をした。
「おい、考えてもみなかったのか? 今から脱出するんだよ。俺が手引きするから」
「エレナさんは?」
「自分で歩くこともできない女を連れて、見つからないように逃げるのは無理だ」
「だって自分だけ助かるわけにはいかないわ」
「別にあんたがここにいたって、エレナが逃げ出せるわけじゃないだろ。この組織を潰すために、以前から俺の上司は動いてたんだ。エレナのことだって、もう少し経てば何とかしてくれるはずだ。とりあえずあんただけでも逃げるんだ」
 依林の肩に手を置いて、小鳳は説得してきた。
「でも、エレナさんに残された時間は長くないわ。今私がここから逃げて、疑似阿燐片を作るのをやめちゃったら、彼女、間に合わなくて死んでしまうかもしれない」
「それじゃあ、あんたが自己犠牲して残った揚句に、命を落としたっていいのかよ」
 小鳳は少し怒ったように言い放った。
「いいわけないでしょ。でも、助けることが出来るかもしれない人を見逃すなんてできない。あなたの上司が何とかしてくれるんだったら、その間だけでもここで踏ん張るわよ。疑似阿燐片を作ってる以上、多分すぐ殺されることはないと思うし」
 もちろん助かる保証はどこにもない。もしかしたら、ここで逃げ出さなかったことを後で悔やむことになるのかもしれない。だが、たとえここから自分だけ脱出したとしても、エレナの身に何かあったら死ぬほど後悔するはずだ。同じように後悔するなら、誰かのために何かをする方を選びたい。
 それに、ここで疑似阿燐片の精製を試しておけば、総督にすぐに提供することも可能になる。ここほど設備と材料が整った状況は他にないはずだ。
「本気か……こんな悪党の巣窟に、他人のために残るっていうのか」
 気が変わる様子がない依林に、小鳳は理解できないというように目を丸くした。そして、突然くっと喉を鳴らした。
「――さすが俺が惚れた女だ。肝が据わってる」
 小さく肩を揺らしながら、小鳳は言い含めるように続けた。
「仕方がない。あんたを説得するより、上司を急かした方が早そうだ――いいか、絶対に無理はするなよ。なるべく早く助けにくるようにするから」
「あなたこそ、何をするつもりか知らないけど無茶しないでよね」
 依林が言うと、小鳳はくすりと微笑んだ。
「無茶もするよ。好きな女がこんなところで、一人で戦ってればね」
「なっ……」
 突然茶化すように言った小鳳に、依林はぱっと頬を赤くした。
「も、もう。からかわないでって、前にも言ったでしょ!」
 恥ずかしさを誤魔化すために、わざと強い口調で怒鳴る。小鳳はそんな依林を見て、笑いながら踵を返した。
 小鳳が消えると、部屋は急にしんと静かになった。
 依林は阿燐片をかき混ぜながら、ぼんやりと想いを馳せた。
(きっとこのことを知ったら、柚犀は怒るわね)
 目を吊り上げて説教する柚犀の姿を想像するのは容易い。
 アルフレッドはどう思うだろうかと、ふと脳裏を掠めた。出会ってすぐだというのに、依林を守ると約束してくれた人だ。ここに捕われていることを知れば、どんなに無謀でも助けにきてくれる気がした。
 そこまで考えて、依林は頭を振った。
(……駄目よ。そんなことさせるわけにはいかないわ)
 こんな状況に陥ったのは、アルフレッドが止めたにもかかわらず、事件に関わることを選んだ依林の自業自得だった。そんな自分のせいで、彼が危険に晒されるのは困る。
 だが、小鳳の上司が組織を潰すという不確定な情報に頼りきるわけにもいかない。自分の身は自分で守らなければ。
 まずは疑似阿燐片を完成させて、エレナの危機を脱したのを確認する。それから自分が脱出する術を考えよう。




 第7章

 
 1

 アルフレッドが命をかけて依林を守ると柚犀に誓ったのは、口先だけのつもりではなかった。いざとなれば、彼女の盾になることを厭うつもりはなかった。
 だが直接的に彼女を危険に晒すことになった原因は、自分の不注意な発言だった。そもそも物騒な事件に彼女を巻き込んだくせに、彼女を守ると告げたその口で、彼女を危機に陥れたのだ。
 自分の愚かさ具合に心底うんざりする。額を壁に打ちつけて、痛めつけてやりたい衝動を押さえ込むのは一苦労だった。そんなことをしても自己満足になるだけで、彼女は帰ってこない。一刻も早く居場所を突き止めて、彼女を救出するためことが最優先だ。後悔も反省も自己嫌悪も、その後だった。
 依林が誘拐されたと知らされた瞬間、香桃を操っている黒幕はジェフリーしかありえないという結論に至った。もちろん、当初から彼を疑っていたわけではない。正直、考えてもいなかった。
 ジェフリー以外の黒幕がいる可能性を捨て切れず、確信を得るために香桃を追求した。自分の推測が外れていればよいとさえ思った。だが、香桃の証言は疑惑を確証に変えただけだった。
 きりきりと軋む胸の痛みに気づかない振りをしながら、ジェフリーに尋ねた。
「何故、総督を毒殺しようとしたんです?」
 正体を晒したジェフリーは、倒れるように椅子に座り込み、背もたれに身を任せている。そして天井を仰いで、何年分かのような重い溜め息を吐いた。
「――彼に、阿燐片の密売を知られたからだよ」
「あなたが、密売……ですか」
「私はね、自分の上流階級の患者に阿燐片を売っていたんだ。総督は、阿燐片患者の層に変化があることに気づいたらしい。今まで底辺の人間に蔓延していた阿燐片が、何故か峯界の貴族たちにも取引されていることを知った。そして峯界医学院に注目して、私がその中心であることを突き止めた。彼は私の罪を正すのではなく、口止めとして阿燐片の横流しを求めてきた。だんだん要求がつり上がってきてどうしようもなくなったんだ」
「だから、病死に見せかけて殺そうと?」 
 ジェフリーは苦々しく微笑むだけで答えなかったが、沈黙は肯定の証だった。
「どうして、あなたほどの人が阿燐片なんかに手を染めたんですか!」
 思わず責める口調になった。彼は何もかもを持っていたはずだ。地位も名誉も金も――愛する家族も。何故、それを全てどぶに捨てるような真似を仕出かしたのか。
 ジェフリーは黒幕には相応しくない、疲れ切ったような顔をした。
「エレナのためだったんだ」
 ジェフリーは意外な答えを返した。
「奥さん、ですよね?」
「そう――エレナは、阿燐片中毒だったんだ」
 そっと目を伏せて、ジェフリーは静かに語り始めた。
「エレナは昔、峯界医学院の看護師だったことは話したことがあったかな? よく気のつく、優しい評判の看護師だった。私と結婚してからも看護師を続けていたんだが、数年前に子供を授かってね。それをきっかけに退職したんだ」
 ジェフリーは失った日々に想いを馳せるように、遠くを見て目を細めた。
「結婚して十年あまり。念願の子供を授かったものだから、二人で踊るように喜んだものだ。毎日、輝くような日々だったな――だが、長くは続かなかった」
「一体、何があったんですか?」
「流産だよ。エレナが階段から落ちて、そのショックでね。しかもその時の怪我で、エレナは二度と子供が産めない体になってしまった」
「それは……」
 かける言葉が見つからずに、アルフレッドは声を呑み込んだ。
「エレナの絶望は深かった。傷ついた彼女を支えてやらなきゃいけなかったのに、私自身も子供を失った衝撃が深くて――ただただ仕事に逃げてしまった」
 感情の籠らない声が淡々と事実を告げていく。
「もし、エレナが看護師を続けて社会と関わりを持っていれば、ましだったのかもしれない。だが怪我の影響で仕事の復帰もままならず、エレナは誰もいない家で、心を病んでいった……彼女はもともと生理痛がひどい体質らしくて、十年前に阿燐片が規制されるまで痛み止めとして、自分用の阿燐片をいくつか持っていたんだ。彼女はとうとう手元に残っていた阿燐片に手をつけてしまった」
 エレナはどんどん阿燐片に溺れた。そしてジェフリーが気づいた時には、エレナは重症阿燐片中毒患者になり、とても日常生活をまともに送れるような状態ではなくなってしまったのだと言う。
 そんな風に壊れた妻を見て、ようやくジェフリーは異常事態に気づいた。
「もう手遅れだった。阿燐片を断つと、とんでもない禁断症状が起こって命すら危ぶまれる状況だった――ちょうどその頃だな。彼女の罪を盾にして密売組織の連中が、私の患者に阿燐片を売るように脅してきたのは」
 自分の築いてきた名声や立場が崩れることよりも、白衣の天使と呼び声高かったエレナが、阿燐片で汚れたと思われるのが嫌だった。最初は言われるままに、患者に阿燐片を流した。だが、外来に来る度に様子がおかしくなっていく患者を見て、自分のしていることが空恐ろしくなった、とジェフリーは続ける。
「言い訳するわけじゃないが、すぐに自首を考えたよ。けれど、それを察知した組織にエレナを拉致されてしまった。彼女の命を保証する代わりに、今まで通り密売を続けるように指示された――許されないことだなんて、嫌ってほど分かってたさ。けれど、あんな風になるまで、私がエレナを放っておいたせいで、彼女は闇に落ちたんだ。どんなに罪深くても、二度と彼女の手を放すわけにはいかなかった」
 話し終わると、ジェフリーは判決を待つ罪人のように項垂れた。
 アルフレッドが峯界にやって来た時には、すでにエレナは重篤な阿燐片中毒者だったはずだ。ジェフリーはずっと周囲を欺きながら、自分の妻を称え続けていたということになる。
 何故、彼は偽ってまで、妻のことをわざわざ話題にしたのだろう。彼の本心は分からない。が、そうやって自分自身も騙しながら、妄想の生活を語ることで精神の均衡を保っていたのかもしれなかった。
 ジェフリーの自供は、いずれしかるべき機関がきちんと捜査するはずだ。だが今、何より知りたいのは、依林の行方だった。
「依林は一体、どこにいるんですか?」
 するとジェフリーは辛そうに眉を寄せ、うつむいて押し黙ってしまった。
「スミス先生!」
 思わず声が尖る。ジェフリーは苦しげに吐き捨てた。
「残念だが、私は知らない」
「何だって!」
 後ろで控えていた柚犀が、話に割り込んできた。
「依林嬢をさらったのは、確かに阿燐片の密売組織だろう。彼女が毒殺に気づいていると手紙をもらい、そのまま組織に伝えた。結局、彼女を始末することで話がまとまったらしい。正直、彼女は殺されたものだと思っていたんだ。攫われたと聞いて、驚いているのは私の方だ」
 あまりの言い草に、頭にかっと血が上る。掴みかかりそうになる手を押さえて尋ねた。
「心当たりは全くないんですか?」
「……彼らの隠れ家は、無数にある。そもそも私は操り人形で、彼らの内情など知らされる立場じゃない。依林嬢のことは本当に気の毒だし、協力したいのはやまやまだが」
 心の中に絶望が広がった時、遠くから誰かが駆けてくる足音が耳に届いた。そして間もなくヘンリーが研究室に姿を現した。手に台紙のようなものを握っている。
「旦那さま。電報の返書でございます」
 自分が予想した以上に、早い返信だった。ヘンリーがかなり無理をして、急ぎで運んでくれたのだろう。
 アルフレッドが電報を送った相手は、劉雪蘭だった。
 総督を蝕んだ毒が阿燐片であったことを伝え、阿燐片に関わる組織について詳細な情報を知りたい旨を添えたのだ。拉致に阿燐片が関与しているなら、裏社会の情報を手に入ることで、依林を攫った連中の居場所が掴めるかもしれないと考えたのだ。
 電報を開いて内容に目を通す。『スグニコラレタシ』という句読点すらない、たった一行の文章が打たれていた。
「ありがとう、ヘンリー」
 ねぎらいの言葉をかけると、何故かヘンリーは思い悩むように逡巡した様子を見せた。
「いいえ――旦那さま」
 ようやく腹を決めたように顔を上げる。
「……必ず、依林さまとともにお帰りくださいますように」
 それだけ口にして、ヘンリーは恭しく頭を下げた。
 アルフレッドは驚いて、まじまじと自分の執事を見下ろした。
 以前、依林にあれだけ冷たい態度を見せた彼が、わざわざ彼女の無事を祈る言葉を口にしたことが新鮮だった。後ろで柚犀も目を見張っている。
 あまりにアルフレッドが黙ったままでいたせいか、ヘンリーはごほんと咳払いをした。
「依林さまがいらっしゃらないと、新しい薬がいただけませんので」
 そう小さく付け加えると、ヘンリーそそくさと部屋を後にした。その言葉を聞いて、アルフレッドは手で口元を押さえる。
(そうか。ヘンリー、依林の薬を飲んだんだな)
 そして――彼も、依林の『魔法』にかかったのだ。
 このことを依林に大声で教えてやりたかった。今そばに彼女がいないことが、胸をかきむしりたくなるほどに切ない。
(絶対に、彼女を無事に連れて帰る)
 新たな決意を胸に、アルフレッドはジェフリーに問いかけた。
「スミス先生。僕たちは何としても依林を救い出すつもりです。組織にも、いずれ捜査の手が伸びるでしょう。自首するおつもりはありますか?」
 ジェフリーはのろのろと顔を上げて、何かを訴えるような目をした。
「アルフレッド。君は組織の内部に心当たりがあるのか?」
「今は何とも。ですが、必ず突き止めてみせます」
 断言したと同時に、ジェフリーはアルフレッドの足元に膝まずいた。アルフレッドはぎょっとして後ずさった。
「アルフレッド! こんなことを頼むのは筋違いだと分かってる。だが、君にしか頼めない。お願いだ。エレナを、私の妻を助けてくれ! エレナが生きて帰ってくるなら、自白でも何でもする。私には、この世で彼女以上に大切なものはないんだ」
 必死に縋るジェフリーの姿を見ると、彼が犯した罪を憎む思いや、依林を巻き込んだことに対する怒りが、少しずつ萎んでくるような気がした。
 決して許されることではないが、彼が悪に手を染めた根本には、妻に対する深い愛情がある。その愛だけは間違いなく純粋なものなのだ。
 とすれば、愛は突き詰めると――狂気と一番近いのかもしれない。
「確約はできません」
 アルフレッドはジェフリーに手を差し伸べると、静かに答えた。
「ですが、最善を尽くします」

 *

 アルフレッドは柚犀を連れて、峯界医学院を出発した。
「悪いけれど、ここから少し歩くよ」
 早足で歩きながら言うと、すぐ後ろに柚犀の従う気配を感じた。
「どこへ行くんだ? さっきの電報と関係あるわけ?」
「今から、電報を送った先を訪ねるんだ」
 柚犀は無駄口を叩かず、黙ってアルフレッドに付き添ってきた。
 小走りで大通りを抜けて、細い横道に入っていく。入り組んだ路地を抜けて、雑然と建ち並ぶ木造建築物の一つを目指す。階段を上って、寂れた喫茶店の前まで辿りついた。到底、店を開けている時間ではないが迷うことなく扉を開けた。
 月明かり以外何も照らすものがない店に、三人の人間がいた。
 仕切り台の中には一人の女性――劉雪蘭が立っており、手前の椅子には二人の男が座っている。一人は見覚えがあり、もう一人は全く知らない人間だった。
「いらっしゃい。早かったわね」
 雪蘭はアルフレッドたちを手招きして、椅子に誘った。
 見覚えのある男の方が、アルフレッドに小さく会釈をした。
「先日はお世話になりました、スタンリー先生」
「あら、彼とは面識があるの?」
 雪蘭が目線で問いかけてくる。アルフレッドは頷いた。
 どこかおどおどした印象を他人に与える、この男の名はデニス・バーナード。ピール総督の第三秘書のはずだった。
「そう。じゃあ、もう一人の彼は初めてかしら?」
 雪蘭が手前の席に座った清華人の男を指した。男はすっと立ち上がる。清華人にしては長身だった。長めの黒い前髪を横に流して、その奥から鋭い一重の眼差しが覗いている。
 むだのない動きでアルフレッドの前まで来ると、すっと手を差し出してきた。
「私は黄慶駿という。外務省の官吏だ」
 綺麗なセルジア語で、慶駿は飾り気のない挨拶をした。意外な人物の登場に、アルフレッドは目を見張った。
「アルフレッド・スタンリーです。峯界医学院の医師です」
 何故、黄慶駿とデニス・バーナードが雪蘭の店にいて、自分に引き合わされたのか分からない。
 だが雪蘭は無駄なことをする女性ではなかった。とりあえず礼を失することのないよう握手を交わして、それから説明を求めるべく雪蘭に目を遣った。
 雪蘭は小さく頷くと、口を切った。
「あなたが来た時に、別件で総督の周囲を調べてるって話したでしょう? 実はね、その依頼人が彼なのよ。総督が阿燐片絡みの犯罪に関わってるっていう疑惑があって、それについて慶駿から調査を依頼されていたの」
 雪蘭は、彼のことをあっさりと慶駿と呼び捨てにした。彼もどうやら、彼女の常連客なのだ。
「実は清華共和国の高官の中に、阿燐片中毒者が発生している。彼らの身辺を洗って分かったのは、どうやらピール総督から阿燐片を受け取っているということだった。彼は阿燐片を武器に、清華共和国に不利な条約を締結させようと画策していたらしい」
 慶駿は隣に座るデニスの方をちらりと向いた。
「雪蘭に依頼して、彼と渡りをつけてもらった。デニスの協力のもとで、秘密裏に総督と阿燐片の関係を調査していたんだ。だが、阿燐片の入手先がなかなか掴めなかった。阿燐片密売組織のしっぽを掴んだにもかかわらず、やつらと総督の接点がなくて、捜査が暗礁に乗りかかっていた」
「そんな時に、あなたが総督の毒殺疑惑があるっていう話を持ち込んできたでしょ?」
 雪蘭が話を引き継いだ。
「その上、さっき電報で総督に盛られた毒が阿燐片だということを教えてくれた。それで慶駿とアルフレッドの案件は、関係している可能性が高いと思ったの。それならお互いに協力するべきだと考えたわけ」
「なるほど……」
 ようやく今の展開に理解が追いついてきた。
「最近、総督が体調を崩して入院していたことは、デニスから報告されていたが、まさか総督自身が阿燐片にやられているとは思わなかった。君は総督を殺そうとした人間について何か分かったのか?」
「ええ」
 アルフレッドはジェフリーが語った内容を手短に説明した。
「なるほど。入手先は、そこか」
「総督の要求に耐えかねたスミス医師が、総督夫人を実行犯に彼を殺害しようともくろんだことが、毒殺未遂事件の真相です」
 アルフレッドは断定した。
 慶駿は考え込むように腕を組んで、探るようにアルフレッドに問いかけた。
「スミス医師は、総督と阿燐片の関係を我々にも自供してくれるか?」
「妻であるエレナを組織から助けてくれるなら、何でもすると約束してくれました」
「じゃあ、エレナの無事が条件ということか」
 独白のように呟いた慶駿に、アルフレッドは付け加えた。
「彼女だけではないんです」
「と言うと?」
「私の大事な友人も、恐らく同じ組織に捕われているんです。何があっても彼女を救い出したい。あなた方は組織の潜伏場所は掴んでいるんですか?」
 慶駿はすっと目を細めた。
「ある程度は。来週をめどに一斉摘発を予定している」
「来週? それじゃあ、遅すぎます」
 あと一週間も、依林を捕われの身にしておくなどできるはずがない。それまで依林が安全でいられる保証はどこにもないのだ。
 アルフレッドが抗議の声を上げた瞬間。
 ふいに漏れ込む月光が翳り、急に部屋が暗くなった。と同時に、雪蘭の背後にある窓から、飛び込むように何者かが乱入してきた。
 小さな窓を揺らすことなく、突然現れた闖入者は、まだ二十歳前後の精悍な青年だった。
「姐さん、ただいま!」
 場にそぐわない、おどけたような声に聞き覚えがあった。
「あ、あれ? 来客中?」
 青年はすぐに雪蘭以外の人間がいることに気づいたようで、少し狼狽したように雪蘭をうかがった。わざとらしいしかめ面をして、雪蘭は青年を睨みつけた。
「そこは出入り口じゃないって、何度言ったら分かるのかしら?」
「ご、ごめん」
「しかも、ここへの出入りは誰もいない時にしなさい、とも教えてるわよね」
「も、申し訳ありません……」
 美女のとんでもない迫力に、青年は押されたように平身低頭した。雪蘭はしばらく鋭い視線で睨みつけてから、仕方がないというように息を吐いた。
「まあ、いいわ。この人たちは信頼できる人だから」
 雪蘭の許しに、青年はあからさまに安堵した様子になった。それから青年はこちらに目線を向ける。そしてアルフレッドに目を留めると、驚いたように目を見張った。
「あ、あんた……」
 声を途切らせた青年の代わりに、アルフレッドが言葉を繋いだ。
「君は確か……小鳳、と言ったね?」
 阿燐片を所持した不審人物で、かつ舞踏会で依林に愛の告白をしていった青年に違いなかった。
「君は一体、何者なんだ?」
 小鳳は衝撃から立ち直ったようで、やれやれと肩をすくめた。
「俺は雪蘭姐さんの部下なのさ。あの舞踏会も、黄先生と落ち合うために潜り込んでたんだ」
 それから、からかうような口ぶりで続けた。
「それより、男しか愛せないお兄さんこそ、どうしてここに?」
「――えっ?」
 周囲の視線が一斉にアルフレッドに集まった。
 急に冷え切った空気を払いのけるようにアルフレッドは咳払いをして、小鳳に胡乱な目を向けた。
「それは誤解だと言ったと思うけど。それに今、そんなことはどうだっていい」
「まあ、それはその通り。確かに、お兄さんが同性愛者かどうかはどうだっていい。大事なのは依林を助け出すことだ」
 いちいち引っ掛かる物言いを、アルフレッドは無視した。
「今、何て?」
「依林が捕われているのを助け出すんだ。あんたも彼女を探してるんだろう?」
「君は、依林が拉致されたことを知ってるのか?」
 小鳳はにやりと不敵に笑うと、大きく頷いた。
「俺は姐さんの命令で、密売組織に潜入してたんだ。隠れ家の一つに、依林が連れ去られてきた」
 考えるよりも先に足が出て、アルフレッドは小鳳に詰め寄った。
「彼女と会ったのか! 依林は無事かっ?」
 肩をがっちりと掴んで問い詰めると、小鳳は嫌そうにアルフレッドの手を払って、しぶしぶと言った様子で答えた。
「会って話もした。今のところは大丈夫だ」
「どうして一人、彼女を置いてきたりしたんだ!」
 思わず声を荒げてしまった。
 裏社会の巣窟に彼女が一人で取り残されていると思うと、背筋が凍りそうになる。
 非難を浴びた小鳳は口を尖らせた。
「仕方がないだろ。依林が残るって言ったんだ」
「依林が?」
「そうさ」
「小鳳! あなた、女の子をほっぽって自分だけ帰ってきたわけ?」
 話に割り込んできた雪蘭が、きりきりと美しい眉を吊り上げた。
 それを見て、慌てたように小鳳が言い募った。
「い、いや。俺だって、平気で依林を置いてきたわけじゃない。当然、連れて帰るつもりだった。だけど、依林がエレナのために、踏ん張るっていって聞かなかったんだ」
「そんなの信じられるわけないでしょう!」
「本当なんだ、姐さん。依林はエレナのために、阿燐片の治療薬を作ってたんだ。それを途中で投げ出したら、エレナが間に合わなくて死んでしまうかもしれない。助けることが出来るかもしれない人を見逃すことはできないって、そう言ったんだよ」
 阿燐片の治療薬が分かったのか。アルフレッドは心の中で驚愕した。
(さすがは依林だ……)
 そして小鳳の弁解は、恐らく真実だろう。
 普通なら雪蘭のように、自分の命が危ぶまれる状況で、他人のために助けを断る人間などいるはずないと思うところだ。
 だが、まだ出会って数日のアルフレッドでさえ、依林ならそう言うだろうと確信している。
 アルフレッドが柚犀を振り返ると、彼は頭を抱えていた。目が合うと、うんざりした顔つきで同意するように首を縦に振った。
 雪蘭はまだ怪しむような視線で小鳳を見ていたので、アルフレッドは言葉を添えた。
「きっと、小鳳が言ってることは正しいと思う。僕が知ってる依林はそういう人だ――だから、君は急いで戻ってきたんだね? 協力を求めるために」
 思いかけぬ援護射撃に、小鳳は不本意そうにしながらも頷いた。
「そういうこと。黄先生の言う一週間先まで待つのなんて無理だ。なんとか一刻も早く二人を助け出せないか、姐さん」
「雪蘭、黄さん。僕からもお願いします。依林を助け出すのに、力を貸して下さい」
 アルフレッドは垂直に近い角度で頭を下げた。
 きっと入念に準備をしてきた計画のはずだ。それを急遽変更しろというのが、どれほど無茶な要求かは理解している。それでも譲れなかった。
 しばしの沈黙の後、頭上に雪蘭の溜め息が降ってきた。
「小鳳、二人がいる場所はどこなの?」
 雪蘭が静けさの孕んだ声で尋ねた。
「船だよ。江河港に停留している中型船舶が、やつらの隠れ家の一つなんだ」
「慶駿。摘発を早めるなら、何日かかる?」
 慶駿は苦虫を噛み潰したように不機嫌な顔をした。
「二日はかかる。それ以上は無理だ。しかも早めるなら、彼女たちの救出にこちらの人員を割くことはできないぞ」
「そうよね――仕方がない。摘発前に自分たちで潜入するしかないわね」
「雪蘭!」
 慶駿が責めるように声を上げる。雪蘭は諭すように言った。
「だって人の命を救うために、女の子がたった一人で頑張ってるのよ。それを見捨てるわけにはいかないでしょ」
「だが、もしやつらに気づかれて、他の隠れ家ともども逃げられたらどうするんだ。悪いが私はたった二人の人間のために、この機会を潰すつもりはない」
 アルフレッドは頭の中で情報をまとめながら、考えつつ口を開いた。
「組織に偽の情報を流してみたらどうでしょうか?」
「どういう意味だ?」
 慶駿は、一睨みで人を凍らせることができそうな鋭い視線を向けてくる。
「つまり……一週間後、依林たちが捕われている隠れ家の捜査が入るという情報を、わざと流すんです」
 慶駿は器用に片眉を上げて見せた。
「それで?」
「恐らく彼らは慌てて、その隠れ家を引き払う準備をするはずです。荷運びや都合の悪いものの処分に手がかかるから、依林たちの監視は緩む」
「なるほど、潜入もしやすくなるな」
「はい。捜査が入る隠れ家は一つだと勘違いしているから、その他の隠れ家を立ち退くことはない。しかも一週間で片をつけるべく準備をしている途中で、二日後に一斉摘発が入れば、やつらが逃げ果せる心配も少ない」
「――なるほど」
 アルフレッドの提案に、慶駿は腕を組んで考え込むように目を伏せた。
「……君は、確か医師だったな?」
「ええ、そうですが?」
 突然降ってわいた全く関係のない質問に、アルフレッドは首を傾げた。
 慶駿は口元に皮肉気な微笑みを浮かべた。
「それだけ策略を巡らすことができるなら、政治家や官僚の方が向いてるんじゃないか?」
 そして慶駿は畳みかけるように続ける。
「だが、君の言っているのは机上の空論だ。必ずしもそのようにことが進むとは限らない。もしかしたら気が向いて、他の隠れ家も引き払う準備をするかもしれないし、猛烈な速度で片づけて、一日二日で逃亡されるかもしれないだろう」
「…………」
 繰り出される攻撃に、アルフレッドは言葉を詰まらせた。
「反論はないのか?」
「……確かにあなたのおっしゃる通りです。この作戦に成功の保証はありません」
「なら――」
「ですが、それほど勝率の低い賭けでもないはずです。そして、あなたにとっても利益はある」
 慶駿は鼻を鳴らした。
「私に?」
「ええ。現在のセルジア王国と清華共和国の緊張状態を考えれば、総督が峯界で不審死を遂げるのは非常に危険なことのはずです。恐らく依林はこの国で唯一、阿燐片中毒の治療薬を作ることができる医師です。彼女の身の安全を確保し、総督の治療にあたることはこの国にとっても有益です。それだけじゃない。あなたは総督と阿燐片の関係を立証したいはず。それにはエレナが生きて帰ってくることが必須でしょう。ですが、小鳳の話ではエレナの状態はかなり悪そうだ。とすれば、二人を救出するなら少しでも早い方がいい」
 アルフレッドは断言して、慶駿の暗い瞳を敢然と見据えた。
 部屋にいる全員の視線が、慶駿に向かう。彼はじっと黙っていたが、やがて諦めたように首をすくめた。 
「それだけの交渉ができるなら、君は外交官になってもいいな」
 そして渋面を崩すことなく、慶駿は言い放った。
「小鳳、やつらに偽の情報を流せ」
「黄先生!」
 小鳳が目を輝かせた。
「この貸しは高いぞ――今から摘発の手配をしよう」



 2

 依林が長時間の煮出しに耐えた結果、ようやく少量の疑似阿燐片が出来上がった。小さな瓶に流し込んで、火を止める。
「やった!」
 依林は額に滲む汗を拭った後、ぎゅっと拳を握りしめた。しばらく喜びに浸っていると、あの男が部屋に戻ってきた。
「出来たのか?」
「ええ。まだ少しだけど」
「じゃあ、早速使ってもらおうか。また暴れる時間になっちまったんでね」
 もちろん異論はない。依林は素直に男の後について、再び細長い廊下を戻った。廊下に人気はないが、どこかで大勢が慌ただしく走り回っている足音がしていた。
 監禁室に辿り着くと、金属が乱暴に打ちつけられる音と、獣のような叫び声が聞こえてきた。先ほどの身の毛がよだつようなエレナを思い出して、依林は思わず息を呑む。手元にある疑似阿燐片の小瓶を握りしめた。
「びびってるのかい、お嬢ちゃん」
 嘲るように声をかけられて、依林は我に返った。怯えた姿を見られたくなくて、つんと顎を上げる。
 男が鍵を開けて監禁室の中に入ろうとした時、小走りで別の人間がやってきた。男の耳元で何かをささやくと、男は嫌そうに眉根を寄せる。男は報告にきた人間を追い払うと、依林に向き直った。
「ちょっとトラブルが起きた。悪いが、あんたにはここの部屋でじっとしておいてもらう。そうだな、その間にそれを飲ませておいてもらおうか」
 それだけ告げると、男は依林を部屋に押し込めて外から鍵をかけた。
 依林は暴れ始めたエレナと二人きりになってしまった。暗い室内に目が慣れてくると、部屋の奥のベッドで悶えているエレナが視界に入る。
 深呼吸をしながら、ゆっくりとエレナに近づいた。
「エレナさん。薬を作ってきたの。お願いだから、少しだけ頑張って」
 依林は何とかして、エレナの口元に小瓶を持っていこうとするが、正気を失っているエレナは依林の言うことを聞こうとしなかった。無理やり押さえつけようとしても、依林の力では全く敵わない。
「どうしよう……あいつが戻ってくるのを待つしかないのかな」
 だが、気になるのはエレナの容体である。この発作が自然に治まるまで待っている間にも、心肺に大きな負担がかかっている。今まさに急変したって不思議ではないのだ。
 依林が必死でエレナと格闘していると、部屋の外で鍵をいじっている音がした。やつらが戻ってきたのだろう。
(よかった! これでエレナさんに疑似阿燐片を使えるわ)
 依林は扉まで駆け寄って、部屋に入ってきた男を迎える。そして――絶句した。
「…………っ」
 鍵を開けたのは、組織の男ではなかった。
 粗末な衣装に身を包んではいるが、隠しきれない美貌と気品に溢れた美貌の青年が立っている。柔らかそうな金髪。通った鼻筋。澄んだ湖のような緑の瞳。見間違いではなかった。
「アルフレッド……」
 依林は驚きのあまり、呆然と立ち尽くした。
 アルフレッドは無言のまま依林に一歩近づく。そして、そのまま腕を伸ばして依林の肩を引き寄せた。抵抗する間もなく、依林はアルフレッドの胸に倒れ込んでしまう。
「ひゃっ!」
 アルフレッドの思いもよらない行動に、依林は一瞬で全身の血が沸騰するような気がした。じたばたとアルフレッドの腕の中でもがいていると、頭上から泣きそうな声が降ってくる。
「依林。無事で……よかった」
 心底安堵したような言葉を耳にして、依林は動きを止めた。
 依林を抱きしめている腕は小刻みに震えている。耳元で感じるアルフレッドの鼓動はとても速い。どれほど彼に心配をかけたのかが、言葉を超えて伝わってくる。じかに伝わる彼の温かさに触れて抵抗する気が失せ、そのまま身を任せていた。
 しばらくすると、アルフレッドは依林を解放した。そして、あらためて依林に向き直る。
「僕は、君を助けにきたんだ」
「助けに?」
「そう。小鳳たちに手伝ってもらって」
 アルフレッドは依林が連れ去られてからの経過を簡単に教えてくれた。柚犀が無事でいるという情報を聞いて、とりあえず安心する。
「ここの監視が緩んだのは、偽の情報が上手く機能したんだろうね」
 アルフレッドは話しながら、暴れているエレナの側で膝を折って脈をとった。簡単な診察を始めたアルフレッドの背中を見ながら、依林は唇を噛みしめた。
「……ごめんなさい、アルフレッド。こんな風にあなたを危険に晒してしまって」
 以前、自分の無謀な決断のせいで、彼が危険に足を踏み込むことになるかもしれないと怯えたことがあった。そして、一番恐れていたことが現実になってしまったのだ。
 アルフレッドは立ち上がって依林を振り返ると、悲しそうに眉尻を下げた。
「何でそんなこと言うんだ? 依林を巻き込んだのは僕の方だよ。君はもっと僕を責めたっていいのに」
「どうしてあなたを責めるのよ。こうなったのは私の自業自得でしょう」
 アルフレッドは緑の瞳を細めると、依林をじっと見つめた。穴があきそうなほどに真っ直ぐ見つめられて、依林は上手く息ができなくなる。もう我慢できない、と思う一歩手前で、アルフレッドは小さく溜め息を漏らした。
「やっぱり、君には敵わないな」
「え?」
 アルフレッドは唇に苦笑を滲ませて、頭を振った。
「いや、いいんだ。それより早くここを脱出しよう」
「あ、待って。その前に、これをエレナさんに飲ませてほしいの」
「それって……もしかして、阿燐片の治療薬?」
「ええ。まあ、正確には治療薬ってわけじゃないんだけど。細かいことはあとで話すわ。エレナさんを押さえててくれる?」
 アルフレッドが頷いて、エレナの体を押さえこもうとした刹那。エレナの動きが急に止まった。アルフレッドは怪訝そうにエレナの顔を覗きこむ。そして一気に顔色を変えた。
「まずい! 息をしてない」
「えっ?」
 アルフレッドはエレナの体に馬乗りになると、胸の正中に手を当てる。そしてすぐさま心臓マッサージを始めた。
「依林! 気道を確保して、人工呼吸を」
 切羽詰まった声でアルフレッドが指示する。だが、突然の出来事に依林は足がすくんで動けなかった。
(何やってるのっ。急変するかもしれないって分かってたじゃないの!)
 自分で自分を叱咤するも、体は微動だにせず固まったままだ。
 死に向かう人間を目の当たりにするのは初めてだった。混乱と恐怖が綯い交ぜになって、依林の動きを縛りつける。
「依林! 今エレナを救えるのは、僕たちしかいない! 一緒にエレナを助けるんだ」
 アルフレッドが必死にマッサージをしながら、依林に呼びかけた。
(一緒に、助ける!)
 その瞬間、呪いが解けたように依林の体に力が戻ってきた。依林は慌ててアルフレッドに駆け寄った。
「人工呼吸の仕方は分かる?」
 悔しかったが、清華医学では心肺蘇生のやり方は存在しない。正直に首を横に振る。
「わかった。じゃあ、僕が一回やってみせるから、よく見ておいて」
 アルフレッドはそう言って、エレナの体を降りると、彼女の頭もとへ向かった。自分の唇でエレナの唇を覆うと、風船を膨らますような勢いで息を吹き込んだ。それを二回繰り返した。その後、心臓マッサージを再開する。全体重をかけて力強く身体を上下させていた。
「一、二、三……」
 数を数えながら胸を押す。
「依林。人工呼吸を!」
 依林は無我夢中で空気をエレナに押し込んだ。アルフレッドが心臓マッサージを続ける。
 一体、そのサイクルを何度繰り返しただろうか。
 突如、無反応だったエレナが、勢いよく咳き込み始めた。アルフレッドと依林は思わず顔を見合わせる。
「戻った……」
 依林は脱力して、その場にへたりと座り込んだ。
 アルフレッドは依林から小瓶を受け取ると、疑似阿燐片をエレナの口に含ませた。エレナはつっかえるようにしながらも、しっかりと疑似阿燐片を飲み込んだ。
「依林、よく頑張ったね」
 アルフレッドが労いの言葉をかけてくる。
 それを聞いた時、ふいに熱いものが目元に滲んだ。自分が泣いているのだと自覚した途端、涙が次から次へと溢れて出てくる。
「あれ? わ、私……」
 エレナが命を取り留めたからといって、まだ安心できる状況ではない。ここから脱出しなければいけないし、悠長に泣いている場合ではないのに、涙は止まることを知らなかった。
 急に泣き出した依林を見て、アルフレッドは驚いたように目を見張った。だが、ふっと表情を和らげると、まるで壊れ物に触れるように依林の頭を優しく撫でてくれた。

 *

 依林が落ち着きを取り戻したタイミングを見計らって、アルフレッドは口を切った。
「さあ、今度こそ出発しよう。小鳳が逃げる手段を用意してくれてるんだ」
 アルフレッドはエレナを背負うと、依林に付いてくるように言った。
 監禁室の外に出て、周囲を警戒しながら廊下を歩いていく。
「アルフレッド、どこへ向かってるの?」
「船尾の方だよ」
「せんび?」
「ここは船の中なんだ。江河港でいくつも停まっている船を見ただろう? あの中の一つだったんだ」
「えっ、そうなの?」
 どうりで足元がおぼつかないような感覚がしたはずだ。耳を澄ますと聞こえる機械音は、船の動力源の発する音だったのだ。
「小鳳がそこで脱出用の小舟を準備して、待機してるはずだから」
 何人かの人間とすれ違いそうになる度に、近くの部屋に入ったり、別の廊下に身を潜めたりしながら、何とか誰にも見咎められず船尾まで辿りついた。
 船内から出ると、あたりはしんとした暗闇に包まれていた。水面をなでる肌寒い風が吹きつけて、依林の髪を大きく乱していく。舞い上がる髪を押さえつけながら周りを見渡すと、はたして月明かりの下で小鳳が待っていた。
「無事だったか、依林」
 小鳳は小走りで駆け寄ってくる。最初は緊張で強張っていた小鳳の表情が緩んで、ほっとしたように笑ったのが分かった。
「ありがとう。本当に助けにきてくれたのね」
「当たり前だろ。礼は後でちゃんともらうからな」
 小鳳はおどけたように続ける。
「さあ、早く降りよう」
 小鳳が指差したので、依林が船の縁から河を見下ろすと、小舟が揺られながら浮いている。
 アルフレッドが出口を見張ることになったので、小鳳が先にエレナを背負って、縄梯子を使って船を降りた。
 その次に依林が船縁に足をかけて、あとに続こうとした瞬間。
 ぞくりと背筋が冷えるような殺気を感じた。
「――そこまでだ」
 掠れた低い声が空気を震わせる。その声と共に頭上から人影が降ってきて、依林のすぐ後ろに着地した。そして何か鋭いものが依林の背に当たる。
 恐る恐る背後を振り返ると、そこには小鳳がボスと呼んだあの男が仁王立ちしていた。その手にナイフを構えている。その切っ先は、背中越しに依林の心臓を捉えていた。
「……っ」
 依林は青ざめて息を詰める。視線だけでアルフレッドをうかがうと、いつの間に用意したのか、彼の白い手には拳銃が握られていた。
「ナイフを下ろせ」
 アルフレッドは狙いを逸らさずに、セルジア語で冷ややかに言い放った。
 男はセルジア語が理解できないのだろう。不愉快そうに顔をしかめた。
「はあ? 何言ってるのか、さっぱり分からんね」
 アルフレッドは流暢な清華語で言い直した。
「ナイフを下ろせ。彼女を害せば、必ずお前を打つ。僕は絶対に狙いを外さない」
 すると、男はその口元に凄惨な笑みを刻んだ。
「そうかもな。だが――絶対にこの女は死ぬ。それでもいいのか?」
 アルフレッドは氷のような表情を動かさなかった。
 男が依林にナイフを突きつけ、アルフレッドが男に銃を向ける。そんな緊迫した三すくみの状態が続いた。
 ふとアルフレッドはセルジア語で口を開いた。
「――依林。僕を信じてくれる?」
「えっ?」
「僕が隙を作るから、そうしたら船を飛び降りてくれないか」
「はああっ?」
 依林は状況を忘れて、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「私、泳げないって言ったでしょっ?」
 何の準備もなく、こんな高さから暗い大河に身投げするなど自殺行為に近い。
「必ず助ける。約束するから」
 アルフレッドはきっぱりと断言した。
「おい、一体何を喋ってるんだ!」
 異国語で会話する二人に、男が苛々したように叫んだ。ナイフに込められた手に力が入り、切っ先が依林の背中に刺さる。
「痛っ」
「やめてくれ――分かった、銃は捨てる。だから、ナイフを下ろせ」
 アルフレッドはそう言って、構えていた銃を下げた。視線を動かさないまま、ゆっくり床に置こうとする。アルフレッドは依林に目線で合図をした。
 アルフレッドが銃を手放した時、ほんのわずか男のナイフが緩む。
(もう、仕方ないっ!)
 依林はやけくそのような気分で、船縁にかけていた足を踏み出す――そして、そのまま空へ身を躍らせた。
「なっ!」
 予想外の依林の行動に、男が慌てたような声を上げたのが分かる。だが、それも一瞬のこと。
(二度と、船なんか乗るもんかーっ!)
 とんでもない勢いで、頭から江河へ落ちていく。瞬きする間に、全身に途方もない衝撃が加わる。
 そして依林は意識を手放した。

 *

「依林、依林っ!」
 耳元で誰かが自分の名を繰り返している。その声はとても悲痛で、今にも泣き出しそうに聞こえた。
「お願いだから、目を覚まして!」
 頭がぐらぐらと上下に動いている。肩を掴まれ力強く揺さぶられているのだ、と分かったと同時に、徐々に意識が鮮明になっていく。
 依林はゆっくりと目を開けた。
「依林! 気がついた?」
 いきなり目に飛び込んできたのは、ずぶぬれのアルフレッドだった。もともと白い肌が、青ざめて一層白くなっている。
 依林は思わず咳き込んだ。むせながら、怒鳴りつける。
「ち、近いってば!」
 一瞬で顔に全身の血が集まってくる。依林は顔を背けようとしたが、アルフレッドはそれを許さない。綺麗な指で依林の頬を挟むと、真っ直ぐ視線を合わせようとする。
「ひえっ!」
「気分は? 息は苦しくない? 体に異変を感じるところは?」
 アルフレッドは依林の珍妙な悲鳴には全く触れず、必死な口ぶりで尋ねてきた。
 自分の体を確かめようにも、アルフレッドの距離が近すぎて、それどころではない。彼の濡れた金髪から滴り落ちる雫が、依林の頬を濡らしていく。
「わ、分かったから! ちょっと離れてっ」
 ようやくアルフレッドが依林を解放したので、依林は起き上がろうとした。
「……っ」
 体中に鋭い痛みが走って、悲鳴を上げそうになる。慌てたようにアルフレッドが支えてくれた。彼の助けを借りて、依林は何とか座ることができた。
「無理しないで。全身に強い衝撃を受けてるんだから」
「あなたは大丈夫なの?」
 アルフレッドは泣きそうな顔で頷いた。
「ここは、どこ? あれからどうなった?」
 依林が尋ねると、アルフレッドは困ったように息をついた。
 周りを見渡してみると、後ろには赤煉瓦の倉庫が立ち並んでおり、前にはいくつかの汽船が停泊しているのが見えた。制服を着た大勢の警官が、ランプを持ちながら集まっている。何か作業をしているようだ。
「ここは江河港の波止場だよ――君が落ちた後、僕もすぐに君を追って河へ飛び込んだんだ。それで、君を小舟に拾い上げた。そしてここまで連れてきたんだ。密売組織の人間は、清華共和国の警察が検挙してくれたよ」
「エレナさんと小鳳は?」
「今、さっき病院に向かったところ。次は僕たちが行く番だ。すぐ迎えがくるはずだから」
「そっか……」
 依林はぽつりと呟いた。本当に助かったのだ。
 そう思い至った途端、ふっと肩の力が抜ける。緊張がとれたと同時に、凍えるような寒さが襲ってきた。
「はっくしゅん!」
 思わず、くしゃみが漏れた。アルフレッドははっとしたように目を見張る。
「ごめん、気づかなくて。濡れたままだから寒いよね」
 アルフレッドはそう言って、軽々と依林を抱き上げた。
「ちょっ! なっ、何するの?」
「ちょっとでも早く病院に行こう」
 依林は身をよじるようにして暴れた。アルフレッドはそんな依林に嘆息する。
「じっとしてて。危ないから」
「でもでも!」
「だって歩けないでしょう? これくらいはさせてほしい」
 だが自分の姿をあらためて見下ろすと、濡れた衣服が張りついて、身体の線が露わになっている。そんなことを気にしている場合ではないが、とてつもなく恥ずかしかった。
(ば、馬鹿ね。アルフレッドは私みたいなの、別に女と思ってないわよ)
 そもそもアルフレッドは同性愛者だ。下心などあるはずもなく、ごく真剣に依林の身を案じての行動のはずである。ここで変に恥ずかしがるのは、むしろ自意識過剰なのかもしれない。そう言い聞かせて、依林は抵抗を止めた。
 すると何かを感じ取ったのか、アルフレッドが片眉を上げる。
「依林、あえて聞くけど。もしかして僕が男しか愛せないって、まだ誤解してるんじゃない?」
「えっ? まさか――って、ち、違うの?」
 依林は驚いて顔を上げた。
 アルフレッドは本気で嫌そうに顔をしかめる。あの不名誉な誤解が解けてなかったなんて、と口の中で呟きながら、彼は大きな溜め息を吐いた。
「違うよ。確かに恋人がいないのは事実だけど、それは好きな人がいなかったからだ」
「へ、へえ……そう」
「君が怒る前に、もう一つ付け加えておくけど、僕は別に、誰にでもこういうことをするわけじゃないからね」
「は? それって一体……」
 アルフレッドは濡れた髪をうるさそうに払うと、意味ありげな微笑みを浮かべた。
「さあ、どういう意味だろうね? しばらく考えてみてよ」




 エピローグ

 一連の騒動から生還した依林は、なんと峯界医学院に入院することになった。
 怪我は大したことないと思っていたのだが、アルフレッドが頑として譲らなかったのだ。
 もちろん主治医は、アルフレッド・スタンリーである。
 だが、何かにつけてアルフレッドが自分に構うため、看護師たちの無言の圧力を一身に受けることになった。気を遣うことばかりで、余計に体調が悪くなりそうだった。
 もう一日だって入院していられないと主張すると、アルフレッドはしぶしぶ退院を許可した。その代わりにアルフレッドの屋敷で静養することが条件だった。
 結局、依林は一ヶ月ほど峯界で過ごすことになった。
 その間、退屈している依林のもとに色々な情報がもたらされた。
 阿燐片の密売組織は、黄慶駿の指揮のもと一斉摘発された。これからは末端の組織まで捜査の手が伸びるだろうということだ。
 ピール総督は、依林がアルフレッドに教えた疑似阿燐片を服用して、回復の兆しを見せているらしい。だが総督も体調が戻り次第、黄慶駿の尋問が待っている。清華共和国でセルジア王国高官が不祥事を起こしたため、セルジア側が押しつけてきていた無理な要求は一旦撤回されることになるだろう。
 そして、ジェフリーは全ての罪を自供した。情状酌量もあるだろうが、ジェフリー自身が厳罰を望んでいるということだ。だが、ジェフリーは一人ではない。エレナも自分の罪を償った後、二人はもう一度新たな人生を出発できるはずだ。
 こういう裏情報を次々と運んでくるのは、小鳳だった。
 彼はアルフレッドの屋敷に勝手に侵入しては、情報を手土産に依林に会いにくるのである。その度に依林に迫ってくるのだ。最初の方こそ狼狽していたが、今では慣れてしまって、口説き文句も簡単にあしらえるようになった。
 そして――とうとう、依林が佑南村へ帰る日がやってきた。
 依林が自分の荷物を点検していると、扉をノックする音がした。
「依林、いい?」
 扉から顔を覗かせたのは、アルフレッドだった。
「どうしたの?」
「いや、何か手伝うことがあるかと思って」
「昨日から準備してたんだもの。大丈夫よ」
「……それも、そうだね」
 言ってから、アルフレッドは躊躇ったように口を噤んだ。だが思い切ったように続けた。
「もっと、ゆっくりしていってくれたっていいんだよ」
「もう充分、ゆっくりさせてもらったわよ。これ以上、お世話になるわけにはいかないわ。店も閉めたままだしね」
 依林がそう答えると、アルフレッドは困ったように眉を下げた。
 依林とアルフレッドは一緒に、屋敷の外まで向かった。依林の荷物はスタンリー家の御者が、馬車まで運んでくれた。馬車の中ですでに柚犀が待っていた。
「お嬢さま。ぜひまたいらしてくださいね。お待ちしていますから」
 ナンシーが依林の手を取って、深々と頭を下げた。依林も彼女の手をぎゅっと握りしめた。
「色々迷惑かけてごめんなさい。ナンシーのおかげで、毎日とっても快適に過ごすことができたわ。ありがとう」
 するとナンシーの後ろから、しかめ面のヘンリーが姿を現した。どんな嫌みが飛び出すかと身構えていると、ヘンリーは小さく咳払いをした。
「……薬をいただきたくなったら伺います。その際は、よろしくお願いいたします」
 背に腹は代えられないと言わんばかりの、彼らしい物言いに依林は苦笑する。
「分かりました。かなり遠くて申し訳ないけど、いつでもどうぞ。頭痛の薬はローリングさん用に準備しておきますから」
 依林は、最後にアルフレッドを見上げた。
 この一ヶ月間が脳裏を駆け巡っていく。間違いなく、依林の今までの人生で一番濃密な時間だった。
 万感の思いを込めて、依林は言葉を紡いだ。
「アルフレッド、今までありがとう。私、あなたに出会えて本当によかったと思ってる。あなたのこと絶対に忘れないわ」
 アルフレッドが小さく息を呑んだのが分かった。
 これ以上、彼の顔を見ていると泣きそうな気がした。依林は未練を振り払うように馬車に乗り込んだ。
 その時、アルフレッドが依林の腕を取った。
「? アルフレッド?」
「依林、待って――実は、ずっと言いたかったことがあるんだ」
 依林はふっと眉を寄せた。この段になって、何を言おうというのだろう。
「えっと、何?」
 アルフレッドは澄んだ緑の瞳に、決意の光を浮かべた。
「まだ帰らないで――お願いだから、僕の側にいてくれないか」
「えっ……?」
 周囲が一気に静まり返る。
 最初に気を取り直したのは、ナンシーだった。
「だ、旦那さま! よくぞ、おっしゃいましたっ!」
 普段のナンシーからは、およそ想像できない調子ではしゃぎ始める。遅れてヘンリーが、眉を吊り上げてナンシーを叱りつけた。
 そして依林は、突然の告白に腰を抜かしそうになった。
「な、な、な、な……」
 混乱のあまり、言葉が出てこない。依林は馬鹿の一つ覚えのように「な」ばかりを繰り返した。
 アルフレッドは周りの騒ぎに動じた様子もなく、静かに次の言葉を添えた。
「――それで僕に、清華医学を教えてほしいんだ」
「は? …………はあ?」
 依林は唖然として、顎が外れそうなほど大きく口を開けた。
 アルフレッドはそんな依林に気づかずに続けた。
「依林、前に言ってたよね? 陳医師はセルジア医学と清華医学両方に精通してたって。僕も清華医学をもっと勉強したいと思ったんだ。だけど君の体調が戻るまで待とうと思ってたら、ずるずる言いそびれてしまって。僕も君にセルジア医学を教えるから、これからもここで一緒に勉強しないか。二人で、もっとすばらしい医療を目指していこうよ」
(なるほど、こういう落ちですか)
 依林は心が急速に冷え込んでいくのが分かった。
 一体、自分は何を期待していたのだろう。
 先ほど取り乱した自分が恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分だった。恥ずかしさを誤魔化すように、依林はそっけなく吐き捨てた。
「そんなの、別に私じゃなくたっていいじゃないの。誰か他の人に頼めば」
「いや、依林がいいんだ」
「何でよ?」
 投げやりに尋ねた依林に、アルフレッドは甘い顔立ちに鮮やかな笑みを浮かべた――それは、見るもの全てを虜にするような魅力的な微笑みだった。
「だって、僕は依林が好きだから」
「ふうん、そう――って、えっ。今、何て?」
「だから、僕は依林が好きなんだよ」
 アルフレッドはもう一度言い直した。
 依林は何度も瞬きを繰り返した。そして、聞き間違えでもなければ、その言葉以上の意味も見いだせないことを悟った――と同時に依林は叫んだ。
「な、な、何ですってえっ!」
 依林の驚愕と周囲の祝福の声は、峯界の青空に吸い込まれるように溶けていく。
 二人の物語は、まだ始まったばかりである。

 *

 陳依林は後に、清華共和国初の女性医師として歴史に名を残すこととなる。
 彼女はセルジア人の夫とともに、セルジア医学と清華医学を融合した独自の医学を展開した。彼女たちの功績のおかげで、大勢の患者が命を救われたと言われている。
 また、彼女は豊富な知識の詰まった医学書を書き上げたことでも有名である。これは今でも、峯界医学院の教科書として実際に使われている。
 さて後年、彼女は辺境の森に住まいを移した。
 彼女のもとを訪れた患者は、魔法のように病気を治す彼女のことを『森の魔術師』と呼び、慣れ親しんだと言われている。

作者コメント

 こんにちは。樹思杏と申します。普段は短編の間でお世話になっています。
 初めて長編を書き上げたので、投稿させてもらいました。
(1)文章は読みやすかったか。
(2)キャラが魅力的だったか。
(3)世界観に違和感はなかったか。
(4)設定に矛盾はなかったか。
(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。

 上記の点について、アドバイス頂ければとてもありがたいです。もちろん無関係でも大歓迎です。読んだ、読みきれなかったなどの足跡だけでも結構です。
 遅くなるかもしれませんが、感想返しはできる限りうかがいます(作品名を教えてください)。

 どんな批評でも結構ですので、感想をいただければ幸いです。

 ちなみにこの作品はフィクションです。現実に似たような名前の国や薬があっても、完全に無関係です。

12/8 伊東大豆さんのご感想をもとに文章を一部修正しました。
12/9 文章を一部修正しました。
12/15 文章を一部修正しました。
12/18 文章を一部修正しました。
12/25 文章を一部修正しました。
1/7 誤字を修正しました。
1/8 文章を修正しました。

2013年12月08日(日)13時20分 公開

感想送信フォーム 作品の感想を送って下さい。

お名前(必須)

点数(必須)

メッセージ

感想

伊東大豆さんの意見 +40点2013年12月08日

樹思杏さん

 こんばんは。
これ、どこの書店で売ってますか? 電子書籍?
マジで買います。もちろんイラストは山田章博先生で一択。
長編第一作とは信じがたい出来です。

私はこれまで山ほどラノベを読んできました。で、慢性化した病が「既読感性既視感症」。
初見なら結構面白かったはずなのに、既読感がおもしろみを削いでしまうという重病です。
まあ、スレてきただけなんですけどね。
でも、この作品は結構目新しい感があります。
豊かな医療の知識に支えられた背景情報で構成されている点が新鮮でした。
わたしは二十世紀初頭のドイツ租界あたりをイメージしながら読みました。
(ちょっとだけ、ハガレンの錬金術 v.s 練丹術ぽいかな)


(1)文章は読みやすかったか。
 リーダビリティーは○ 。時折出てくる医学用語もとてもこなれていて、前作のような文体の顕著な変化もなく、格段の進歩がありました。さくさく読めます。
(でも、後段で結構深刻なテーマ(特効薬の諸刃の剣)があったりして、奥行きがあります)


(2)キャラが魅力的だったか。
陳依林
 治療者としての思い、無自覚ながら秘められた乙女心。錯綜する心理描写が見事です。
この二つが物語の展開とともに変化・成長していく様は、「物語の前後で主人公に変化が起きてはじめて物語といえる」とすれば、これはもう合格点です。
男装とか、セドリックに対して言葉がわからない振りをするところとか、セドリックと香桃との情事を目撃して、スタンリーの部屋に駆け込んでからの描写、同性しか愛せないのではないかいう疑惑に苛まれるところとか。折々の心理の揺れが丁寧に書き込まれ、退屈しません。


アルフレッド・スタンリー
 ヒロインに対する王子様役としては文句ないです。知力体力物腰家柄資産、社交界諸嬢の噂の焦点……欠陥はないのかこの男は。そしてヒロインに一途なところで女性読者の心を鷲づかみ、というわけで人物造形としては完成度が高い……樹思杏さんの理想像だったりして?


楊柚犀
「彼は君(依林)の小さなナイトなんだね」
 この一言がすべて。年若いながら苦労を重ね、姉とも慕う依林を守るためならなんでもする。
 これで、もっと少年萌え要素と容姿の描写、彼がけなげにも危険を冒してアルフレッドと依林に尽くす場面がないのが残念。


 小鳳
このキャラ大好きです。普段はボスに頭が上がらないくせに、いざというときはかっこよく、ときにはヒロインに言い寄る強引さ。裏道家業ながら悪に堕せず、やるときゃやる、みたいな。
名脇役です。


 劉雪蘭
凄腕の部下を手足のように使って情報売買する謎の女店主。
しかし、その描写が「美貌」の一語だけ。もっと妖艶に、怒りは凄絶、普段は中立だが、味方にするとこれほど頼もしい相手はいない(対価は高くつくが)みたいなキャラ好みかな。当然、おっぱいは大きくないとだめです。
  
セドリック・チャン、香桃
 もっと俗物臭がほしいところ(読者が反感を持つくらいの)

ヘンリー・ローリング
 黒後家蜘蛛の会? 年齢設定・容姿・執事というお仕え役……。
 ストーリー上、ジーヴズタイプは難しいかも知れませんが、この人物だけ個人的には既視感あり。



(3)世界観に違和感はなかったか。
 独自の世界観が医療という視点でうまくまとまっていると思いました。特に、
 
 背景
  セルジア医学 × 清華医学
  セルジア人 ×  精華人
  強国 ×  弱国
 キャラクター
  医者(アルフレッド他) ×  患者(提督他)
  男性医師(アルフレッド) ×  女性医師(依林)
  優秀(アルフレッド) ×  凡庸(セドリック)
  官吏(黄色慶駿)×  犯罪者(密売組織)
  上司、主(劉雪蘭、アルフレッド) ×  部下(小鳳、ヘンリー)

これらの対立関係が、物語をバランスよく強固なものにしています。
私は作品を書く前に人物相関図をよく作るのですが、どうしてもどこか破綻してしまうのですが、
この作品は背景の屋台骨がしっかりしています。お見事です。




(4)設定に矛盾はなかったか。

 第7章。ごめんなさい。ここだけすごくつらかったです。
これは一ミステリ読者の意見として、聞き流してください。
私見ですが、作品で謎が明らかになるためには、

「すべての手がかりは読者に(主に伏線として)提示されなければならない」
「”物語に存在する手がかりだけ”を元に謎は解明されなければならない」

という原則があると思います。
でも、前段に
エレナなが病弱でこのところ自宅に引きこもっている、とか
密売に関わる当の本人である提督が、阿燐片の禁断症状の自覚があるとか、
正体不明の密売団の影がほの見えるとか……。そんな描写があればなと。
読み返してみると、読者に「ああ、そうだったんだな」と膝を打たせるような伏線があってもよかったのでは?
ジェフリー医師の一人語りで謎が自壊してしまっているように見受けられました。
この物語で(個人的に)残念、といえるのはこの一点のみです。


(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
 個人的には、読み足りない感がありました。もっともっと読みたいくらいです。
 電撃様式だと、42× 34行なので、これで換算すると百六十枚かな……中編です。
 該博な知識でプロットをもっと広げられたかも。
 そうなるとライトノベル枠をこえる……そこは難しいところです。



【総括】
 久方ぶりの没入感でした。最近、ラノベに飽きてきて「べにはこべ」のような太古の小説に食指を伸ばしているせいか、時宜にあった内容で楽しめました。もっと続きが読みたい。
読み終えたばかりの興奮状態で書いていたので、自分の好みを書き散らしてしまい、申し訳ありませんでした。

樹思杏さん
また、御作拝見したいです。
愉しい午後のひとときありがとうございました。




p.s
蛇足ですが、中国人にとって、自分の名前を日本語で間違った読みをされるのはかなり頭に来るらしいです。親父が中国生まれなのでよくこぼしていました。些事ですがその点は少し工夫が必要かなと。

香 桃(シャンタオ)→シィァン・タオ
陳王勇→チェン・ワン・ヨン
陳依林(チン イリン)→チェン・イー・リン
黄慶駿(コウ ケイシュン)→フゥァン・チン・ジュン
小 鳳→シァォ・フォン
劉雪蘭→リィゥ・シュェ・ラン

楊柚犀(ヨウ ユウセイ)
ここで、ずっこけました。これはないわー。
重要なキャラなのに。→ヤン・ヨウ・シー


・コーデリアって誰?

須賀透さんの意見 +30点2013年12月09日

 須賀透と申します。
 まことに失礼ながら、ご作品はまだ通読できておりません。
 しかし、「コーデリア」の位置だけ取り急ぎご報告いたします。


「突然申し訳ありません。一度お会いしましたね。私はアルフレッド・スタンリーと申します。セドリック・チャン先生とともに、あなたのご主人の診察を担当しております」
 香桃は途端に美しい眉をひそめて見せた。
「それは、極秘事項のはずよ。こんな場所で話題にしていただきたくはないわ」
 手厳しく答えた((((((((((((コーデリア))))))))))に、アルフレッドは素直に謝った。

◆ここですね。おそらくはここだけ香桃に変更し忘れたのですね。
 こっそりと直しておいてはどうでしょう。
 なお、ブラウザーがInternet Explorerであるならば文章内の文字検索ができます。
 キーボードのCtrlキーを押さえながらFを押してください。
 該当箇所の検索をするときに便利ですな機能ですよ。

日向ナツさんの意見 +30点2013年12月10日

 樹思杏様、はじめまして。日向ナツと申します。
 拝読いたしました。面白かったです。先が気になる展開が続くので、読む手が止まらなかったです。御作はタイトルからして、魔法使いが出てくるファンタジーだと思っていましたが、実際読むと、医療や薬が題材にされているお話でライトノベルでは珍しいジャンルだと思いました。
☆文章について
 とても読みやすかったです。
☆キャラクターについて
 サブキャラを含めて登場人物が多く、最初は頭が混乱しました。読み進めていくうちに慣れましたが。恐らく私が、中国名に慣れてないせいですね……。
 私が魅力的だと思ったキャラは、棟依林です。一番キャラが掘り下げられていたからか、生い立ちや性格に人間味が感じられました。アルフレッドは紳士的で、かっこいいですが、完璧人間なので、何か欠点を持たせてあげると、ギャップ萌えになっていいと思います。柚犀君は年齢が、よくわかりませんでした。私が思った彼の年齢は、十五歳から十七歳でしょうか。小鳳君は年齢の割に、彼から出る雰囲気が幼いと読んでいて感じました。
☆世界観・設定について
 違和感は、なかったです。すんなり物語に入り込めたのは、世界観に矛盾がなかったからだと思います。薬や毒の設定や名前には目を惹きました。樹思杏様が考えた設定は独特で、あまり見かけないと思うので、新人賞に応募するにあたって武器になると思います。密売組織に名前を付けてみるのはどうでしょうか。これは個人的に思ったことなので参考程度に留めておいて下さい。
 こんな感想ですが、少しでも樹思杏様の作品の参考になれば幸いです。あと、的外れなことを書いていましたら、すみません。それでは失礼しました。

タオ・タシさんの意見 +20点2013年12月16日

タオ・タシと申します。以下感想をば。

キャラについて。
 主人公こと依林。タイトル及びラストの記述からすると、アルフレッドではなくこちらが主人公ですよね? 可愛かったです。年頃のほぼ引き籠りな田舎娘にしてはいろいろ物わかりが良くて、ちょっとあざとい感もありました。それから、行動力があるのはお話を動かすためだとは思いますが、これも都合よく相手が動いてくれている感があります。サクサク読めるのとバーターではありますが。
 アルフレッド。万能キャラ1。頼もしいのは請合いですが、情報屋にまで顔が利いているのはやりすぎかと。それは柚犀の領分ではないでしょうか。
 柚犀。万能キャラ2。頼もしいような、でも肝心なところで消えている不思議な子。これは後述します。
 ジェフリー。うん、正しく犯人でした。
 小鳳。いいキャラですが、なぜ主人公に惚れたのか説明がないので、せめて『あんたに一目惚れしたんだよ』とひとこと言わせるべきかと。どうでもいいことですが、『こいつは“ハリウッド映画化されたら面白黒人枠に変更されるキャラ”だな』と思って読んでました。

世界観について。
 アヘン戦争から支那事変WW1までの租界のイメージですよね? 違和感はなかったです。

ストーリーについて。
 ミステリものとしては、毒薬が阿燐片ということは正直言ってわかりませんでした(むくみや倦怠感からヒ素かと思ってました)が、謎解きそのものは正直普通でした。「セドリックは犯人じゃなさそうだな。意表をついて奥さんの一人芝居か、ジェフリーか。でも奥さん、頭悪そうだし」が主人公が帰省する時点での予想で、その帰省先で主人公が襲われた時点で「この居所を知ってるのはアルフレッドと使用人以外はジェフリーのみ」となりました。もう少し、二転三転する仕掛けが欲しいです。
 ですが、ガールミーツボーイものとしてはなかなか楽しく読めました。殊に、トラウマがあるくせに胸が薄いことを指摘されて拗ねたり、着飾って舞踏会に出ることにまんざらでもなかったりと、女の子の面倒くささが上手く表現できていたように思います。
 総じて表現するなら、おとぎ話風味であったかと思います。主人公一味のこれでもかというくらいの万能感、脈絡なく主人公に惚れて手助けしてくれるキーパーソン、大したことない悪役、そしてハッピーエンド。良くも悪くも、安心して読める作品でした。
 
助詞の抜け以外、誤字脱字がほとんどない。素晴らしい。以下に1つだけ挙げます。
× 旦那さまのエスコートのおかけで
○ 旦那さまのエスコートのおかげで

重箱の隅を突きます。
・柚犀が消えている箇所があります。クライマックスの活劇、それからラストの馬車の中。彼は何をしていたんでしょうかね? どちらも金切声を上げて組織の男やアルフレッドに掴みかかりそうな場面ですが。
・電報の返信が届くのが早過ぎませんか? 字面を追う限り、2時間と経っていないでしょうに。同じ市域に住む劉雪蘭なら、ヘンリーに手紙を持たせて返事をもらってきたほうがより迅速かつ確実じゃないでしょうか?
・我々の世界では、電報は1800年代後半には世界的に普及しているようです。一方電灯も、1870年代には使用が始まっています。この作品世界がどの年代をモデルにしているのか詳細はわかりませんが、峯界は都会のようですから、ガス灯ではなく電灯が普及していて、田舎から出てきた主人公たちが目を見張ったほうがリアリティが出るように思います。
・暗黒組織とやらは、なぜ柚犀を殺さなかったんでしょうね? 医学知識のある主人公を拉致してくるはまあわかるとして、気絶から復帰したらアルフレッドに通報が行くこと必定でしょうに。なものですから、『襲ったのはジェフリーに買収された御者だな。眼が覚めた柚犀が急ぎ走らせた馬車の椅子下に、主人公が隠されているに違いない』などと推理してました。というか、御者はこのときどこにいたんでしょうね? ……この際、柚犀も拉致して少し痛めつけましょう。でもって主人公に見せて『お前が早くエリナを治療しないと、この小僧がどんどん阿燐片に溺れていくなぁ。んん?』いかがでしょうか?

さて、ご所望の件ですが、
(1)文章は読みやすかったか。
  読みやすいものでした。
(2)キャラが魅力的だったか。
  主人公は魅力的でした。
(3)世界観に違和感はなかったか。
  違和感は特にありませんでした。上述した重箱の隅突きの部分以外は。
(4)設定に矛盾はなかったか。
   上述した重箱の隅突きの部分以外だと、暗黒組織に主人公を帰省先で襲わせたこと、
  2人とも殺さなかったこと、ですかね。彼らがそうした理由が全くありませんので。
(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
   中だるみは感じませんでした。展開は、ストーリーのところでも述べたとおり、
  トリックにもう一味欲しいので、ちょっと速かったということで。

というわけで、ミステリとしては普通でしたが、ボーイミーツガールものとしては良かったです。
次回作期待してます。
お邪魔しました。

幽霊のハチさんの意見 +30点2013年12月22日

 こんばんは幽霊のハチとなります。以前作品を読んで感想をいただいたいので感謝の印として感想を書かせていただきます。
 まず最初に樹思杏さん感想を書くのが遅くなってすいませんでした。この作品自体は随分前には読み終わったんですけど、なかなか感想を書く時間がなく、遅くなってしまいました。申し訳ございません。 

(1)文章は読みやすかったか。
 まず文章についてはとても読みやすかったです。というかすごく良かったです。自分も文章を趣味で書いている身ですが、正直軽く自信を失くす程にはよい文章だと思います。
 特に依林の心情の描写はよく出来ていたなと思いました。とても勉強になりました。ありがとうございました。
(2)キャラが魅力的だったか。
 キャラについては嫌いなキャラは出て来ませんでした。個性もそれぞれよくあって良かったと思います。
 自分が好きなキャラはアルフレッドです。あーいう完璧天然ジゴロ紳士みたいなキャラは見ていて、面白いです。しかも性格まですこぶるいいのが大変好感が持てました。あのようなキャラは物語では大抵何か裏があったりしますが、あそこまで性格が清らかだと逆に新鮮でした。ただアルフレッドに苦言を言うならあまりにも綺麗すぎるかなと思いました。もっと汚い部分を見せて欲しかったです。例えば小鳳など依林に好意を寄せるキャラに嫉妬するなど、キツく当たるなどもう少し人間臭さが欲しかったです。
 依林はこの物語の主役にふさわしいキャラでした。まさに主役といった感じでした。個人的に花より男子の牧野つくしに似ているように思えました。
 小鳳はとても魅力のあるキャラでした。セリフの言い回しやここぞという時の芯の強さなど大好きなキャラです。だけど登場が少し遅いかなと思いました。もっと早くに出てきてアルフレッドなどに絡むというか共闘する場面がもっと多く見たかったです。活躍シーンも個人的に少ない印象でしたのでちょっと勿体ないキャラだなと思いました。
 ヘンリーは自分の中ではかなり気にいっています。あんな使える偏屈じいさんキャラは見ていていいなぁと思います。そもそもジジイキャラ事態が大好きです。特にヘンリーを見習ったのはあの性格の悪さでアルフレッドやナンシーに好かれているのを見て、きっと性格の悪さ以上にヘンリーには良い部分があると思うと、好きになるしかないキャラだなぁと思いました。自分の中ではヘンリーにかなり癒された感じです。
 こんな感じに魅力の多いキャラは多かったです。あえて指摘するというならキャラは魅力的でしたが、魅せ方は足りないなと思いました。小鳳についてはさっきも書きましたが、最も足りないなと思ったのは楊柚犀だと感じました。彼はとてもいいキャラだと思いましたが、終盤消えていたように思います。一番の見せ場がヘンリーに説教する場面寂しいです。楊柚犀の依林に対する想いは恋かどうかではないにしてもアルフレッドと同等かそれ以上だと思っていたので、もう少しその描写が足らないかなと思ってしまいました。
 最初に嫌いなキャラは出来なかったと書きましたが、自分の中では嫌いなというか嫌悪感を抱かせるキャラも一つの作品の中では重要だと思いますのでそのようなキャラがいたらこの作品はもっとレベルが上がっていたんじゃないかと思います。
(3)世界観に違和感はなかったか。
 このような世界観についてはあんまり詳しくないですが、違和感は特になかったです。好きな世界観でした。もう少し風景などの描写もあったらもっと綺麗な作品になりました。
(4)設定に矛盾はなかったか。
 無かったと思います。
(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか
 中だるみは特に感じませんでしたが、犯罪集団から依林を救う場面はもっと濃密にやって欲しかったです。

 全体的に言えば、面白い作品でした。特に文章については本当に凄かったです。
 しかし全体的にあっさりとしていた物語だなと思いました。綺麗で楽しい話でしたが、少し物足りないという印象を持ってしまったので個人的にもう少し濃く書いてみたらいいと思いました。(これは個人的な趣味なので、参考にしなくて大丈夫です)
 自分も出来てないくせに指摘が多くなってしまいましたが、この作品は良く出来た作品でした。神様のカルテとゴシックの二つの作品の良いところを混ぜた感じだなと思いました。
 この作品を読んで一番強く思えたのは樹思杏さんの作品をまた読んでみたいと思いました。なので、出来たら樹思杏さんにはこれからも書き続けて、次の作品もぜひ読みたいです。
 以上です。長文、乱文失礼しました。
p.s
 今度また新しい作品をここに載せる時もあるかもしれないのでその際には樹思杏さんに読んでいただけると幸いです。
 では素晴らしい作品ありがとうございました。

最弱の新人さんの意見 +20点2013年12月22日

 感想返しにやってまいりました最弱の新人です。
私の感想は的外れなものが多いと思いますので、樹思杏様のほうで取捨選択の程よろしくお願いいたします。

ではテンプレにしたがって感想を書かせていただきます。

(1)文章は読みやすかったか。

読みやすかったです。
誤字脱字がほとんど無かったというのもそうですが、医学的な要素があったので、読み始めたときはかなりびびりながらだったのですが、とても分かりやすい文章で、説明も程よくなされていたため気になるところはありませんでした。


(2)キャラが魅力的だったか。

魅力的だったはずです。
キャラはどのキャラも混同するシーンもありませんでしたし、どのキャラも個性があったかと思います。
しかし、魅せ方が足りないかと。
どのキャラのよさも一応は伝わってきましたが、もっとしっかりと見せ場のようなものがあっても良かったと思います。


(3)世界観に違和感はなかったか。

違和感はありませんでした。


(4)設定に矛盾はなかったか。

無かったかと思います。
あえて言えば、医者、それもいいとこのお坊ちゃまであるはずの(間違っていたすいません)アルフレッドが裏とつながりがあることに少々の違和感がありました。


(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。

どちらも無かったかと思います。
しかし、ミステリー的な部分にもう少し捻りがあっても良かったかもしれません。
まあ、ミステリー主体ではなく、ミステリーが味付け程度なら問題は無いでしょうけど。



最後に、終始自分のことを棚に上げた物言いで申し訳ございませんでした。
私の疎い感想が樹思杏様の肥やしにでもなっていれば幸いです。
では、次回作も期待しております。

それにしても初めての長編でこのレベルとは……。

下等妙人さんの意見 +20点2013年12月24日

 感想返しにやってまいりました。下等妙人でございます。
 拝読いたしましたので、拙いながらもご感想をば。

 読み終わった時、真っ先に感じたのが完成度の高さでした。
 作り込み、アイディアなどがとても素晴らしく、隙がない作品です。欠点といった欠点もなく、非常に技量が高い。お世辞でもなんでもなく、プロの作品として書店に並べられていても違和感がありません。
 しかし、面白いかと言われると……。
 その点については後述します。

 まずストーリー。
 この点については言うことがありません。なかだるむこともなく、しっかりとした目的が提示されており、まさにお手本のような運びでした。本当にお見事としか言い様がありません。
 また、医学という要素は非常に目新しく、オリジナリティもあると感じました。

 次いでキャラクター。
 ここは少々残念でした。
 登場キャラ全員に特徴、個性というものを感じなかったため、全員嫌いにはならなかったものの、好きにもなりませんでした。
 読み終わったらすぐに記憶から消えてしまう、と、そんな感じです。
 御作における欠点があるとしたなら、このキャラ造形であるかと思います。
 とはいえ、あまりにもラノベラノベした風にすると御作の長所と思しき「洋画的雰囲気」を損なってしまう恐れがあるため、ここは非常に難しい問題かと思います……。
 
 第三に設定。
 ここは問題ありません。世界観をはじめ、様々な設定がしっかりと作られており、欠点らしき欠点は見当たりませんでした。

 総評。
 非常に完成度が高く、欠点がほぼ存在しない。隙のないよくできた作品、という印象ですが、反面「突き抜けたもの」といった要素がなく、「非常に地味」と言わざるを得ません。
 個人的にはこうしたキチッと完成された作品は好みではあるのですが、どうしても「めちゃくちゃ面白い!」といった風にはならないのが惜しいところです。
 キャラクターに洋画的なジョークを言わせる、台詞回しや造形にもっとユーモアを入れる、といったことをすると、この地味さというものが薄くなり、完璧な作品に仕上がるのではないか、という印象を受けました。

 以上、終始上から目線で申し訳ございません。

 執筆お疲れ様でした。

どんぐりさんの意見 +20点2013年12月25日

 始めまして。読み終わりましたので、遅ればせながら感想を書かせていただきます。
 未熟者の意見ゆえ的外れな内容になるかもしれませんが、お許しください。

(1) 文章はとても丁寧で、すらすら読むことができました。私も今初めて小説を書いているところなので、この点は非常に勉強になりました。ありがとうございます。

(2) 特に気になったキャラについて述べてみます。
○ 陳依林
 善良でひたむきで、素直に好感を持てる人物です。突き抜けた個性はないけれども、主人公としてはこのくらいの按配でちょうどいい気もします。周囲から容姿について悪く言われ続けてきたわりには、あまり性格に捻くれたところがないのもいいです。

○ アルフレッド・スタンリー
 完璧な人間というのを私も一度書いてみたいと思っているのですが、なるほどこれがその一つの形だと思いました。容姿、地位、才覚、すべて兼ね備えながら性格は純朴。これほどの人物なのに、依林を除く特定の女性との絡みがなかったのはちょっと意外でした。実際には依林の方がモテモテですね。

○ 楊柚犀
 出番はあまり多くないけれども、個人的に気に入ったキャラクターです。お坊ちゃんのアルフレッドを手玉に取ったり、裏でヘンリーさんを説き伏せたりと、上の二人とはまた違った持ち味があるので、もっと掘り下げていけば、その特技も相まってトリックスター的な活躍ができそうな予感があります。でもそうなると小鳳あたりとキャラが被るかなあ……。
 余談ですが、五章のあたりで一人称が“僕”に変化している部分がありますが、何か意味があるのでしょうか。

○ セドリック・チャン
 この人はもっと嫌なやつだと思ってました。ところが自分は総督夫人と不倫しているわりに、依林とアルフレッドのイチャラブ芝居(仮)を目の当たりにして動揺する場面では、小物っぽいかわいさというか、憎めなさを感じてニヤニヤしてしまいました。セドリックちゃんと呼んだら怒られますかね。自重したまえっ。

(3) 歴史的事実を踏まえているためか、きっちりと説得力のある世界観を構築されていると思います。むしろ違和感がなさすぎて、異世界という感じがあまりしませんでした。もちろんいい意味で。

(4) 設定に大きな矛盾点はないと思います。

(5) すでに他の方も指摘されていますが、終盤の展開がやや駆け足ぎみかもしれません。作戦開始から依林とアルフレッドが再会するまでの流れは、間にもう少しエピソードを挿入する余地がありそうです。隠密行動で臨むにしても、敵の根拠地に乗り込むなら男連中を活躍させるチャンスではないでしょうか。
 また、アルフレッドがジェフリーを追求する場面では、ジェフリーが思いの外スピーディーに自白しています。彼の置かれている立場を鑑みればもっと抵抗してもおかしくはない気がします。「君の言ってることは状況証拠にしかならない、私にはアリバイが~云々」とか。
 とは言えあんまり悪あがきさせるとキャラのイメージが壊れてしまい、以降のお話がなんとなく後味が悪くなりそうなので、これも難しいところですね。すみません。

 最後になりましたが、文章や設定等の構成については安定した高水準の内容だったと思います。丁寧な作品づくりという作業において、ぜひとも見習わせていただきたいと思いました。これからもがんばってください。応援しております。

お茶さんの意見 +20点2013年12月27日

こんにちは。お茶と申します。
先日は感想コメントを頂き、本当にありがとうございます。
拝読いたしましたので、感想コメントを残させていただきます。

<文章は読みやすかったか
読みやすかったです。
三人の登場人物の、シーンごとの視点の切り替え方。
世界設定の説明も、説明文くさくならずにすんなりと読むことができました。
同じく情景描写、人物描写も理解しづらいところはなかったと思います。

<キャラが魅力的だったか
登場人物の一人ずつの説明や描写が丁寧に書かれており、生き生きと小説の中で描かれていました。
納得できるだけの情報量もそろっていたので、登場人物全てに好印象を持てたと思います。

<世界観に違和感はなかったか
洋風、中華風の世界観が違和感なく織り交ぜられていました。
中心都市が文化の象徴になっていました。洋風側だけでなく中華風側の住居も描写されていたので、すんなりと読み手側には納得できたと思います。

<設定に矛盾はなかったか
事件の真相や、政治関係など特に矛盾はなかったと思います。
寧ろ私にとっては勉強になった程でした。
地道にプロットを作り上げ、納得できる事実や設定を揃えられる力は素晴らしいと思います。
同じく医学的知識に関しても間違った部分はなかったです。

<展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか
総督の病気の症状が「薬物中毒」という展開に、一気に物語を追いかけようという意欲が沸きました。
それから、事件の伏線を小出しにし読者を期待させたり、恋愛要素や緊迫する要素を適度に混ぜていく展開はとてもテンポが良かったです。
物事の順を丁寧に追っていけるので、展開が速すぎるということはありませんでした。

全体的に完成度が高かった作品でした。
後は誤字脱字に気をつけてくだされば大丈夫だと思います。

読みにくい感想コメントになってしまい申し訳ありません。
樹思杏さん、ご投稿頑張ってください。応援しております。

とよきちさんの意見 +30点2013年12月28日

どうも、樹思杏さん。先日は拙作への感想ありがとうございますとよきちです。遅くなりましたが、感想返しに参りました。
拝読したのでさっそくさっそく~

しっかりとした設定、作り込まれたキャラクター、安定した文章。どれも質が良くて圧倒されました。正直、自分のレベルで批評して良いものか……といささかおよび腰になってしまいますが、自分なりのコメントは残していこうと思います。お役に立てれば良いですが。
ではでは、作者コメントにならって。


(1)文章は読みやすかったか。
→基本的に読みやすかったです。安定もしていました。
しかし個人的に思ったのは、読点でしょうか。例えば、

>足先から忍び込む冷気に、アルフレッドはフロックコートをかき合せた。
 周りを見渡すと、閑散とした風景が広がっていた。
 振り返れば作物の少ない畑と古い民家が点在しており、前を向けば舗装されていない道が深い森へ繋がっている。
 ここで待っているように御者に伝え、アルフレッドは先へと進んだ。
 落ち葉の積もる柔らかい土を踏みしめながら、鬱蒼と生い茂る木々の中を通っていく。

冒頭のこの部分とかですね。読点が文章の同じような位置に置いてあるパターンが連続しているので、リズムが単調になりがちで遅く感じるかなと思いました。読点なしの短い文や倒置法を間に混ぜてバランスをとるなどするとより読みやすくなると愚考します。

(2)キャラが魅力的だったか。
→魅力でした。真っ直ぐな依林ちゃんが良いですね。自分に自信がないという欠点もきちんと作り込まれてますし、アルフレッドとのからみは楽しませてもらいました。良い牽引力になっていると思います。
しかし既存のラノベで考えるとなると、いささか個性が弱いかなと。

(3)世界観に違和感はなかったか。
→自分には感じられませんでした。むしろしっかりとした作り込みに感嘆としました。こういう世界設定ってまだまだ自分には出来ないので、勉強させて頂きます。

(4)設定に矛盾はなかったか。
→致命傷な矛盾はなかったように思えます。

(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
→前述した通り、アルフレッドと依林のからみが良い牽引力になっていると思いました。こういう手法って好きです。もちろん他の部分も面白く(柚犀がヘンリーに迫るシーンとか好きでした)、のめり込みましたね。


短いですが、自分からは以上です。まだまだ未熟ですんで取捨選択はお願いします(特に文章に関しては、本当自分の感覚なんで)

それでは樹思杏さん、ごちそう様でした!

現役サッカーさんの意見 +10点2013年12月28日

この作品で僕が不満を感じたのは人物関連
主人公とヒロインが出会ってお互いを受け入れるとことか、ヒロインが連れ去られたとことか、人間てこんな風に感じたりこんな風に行動するかなってとこが結構あった
すんなりと行き過ぎというか
本格ミステリーならともかくとしてそうじゃないならストーリーありきってだけじゃ面白みに欠けると思う
人物造形に関しても綺麗過ぎる人が多くて物足りなかったな
文章とか設定、ストーリーはよくできてるのに勿体ない

篠宮俊樹さんの意見 +30点2013年12月29日

篠宮と申します。
遅ればせながら、感想を返させていただきます。

まず、ご質問の事柄から。

>文章は読みやすかったか。
読みやすかったと思います。
やや珍しい時代と舞台でしたが、違和感なく読み進められました。

>キャラが魅力的だったか。
全員、しっかりと行動原理が描かれており、私には魅力的なキャラ達と映りました。
特にアルフレッドは、色々と恵まれているのに嫌味を感じさせないように描かれていて好みでした。

>世界観に違和感はなかったか。
違和感どころか魅力的な世界だったと思います。
時代が動くときというのは、光も闇も強いものですしね。
贅沢を言えば闇の部分をもう少し描いてもよかったかもしれません。

>設定に矛盾はなかったか。
香桃とセドリックが手紙のみで毒殺の指示を行ったのは無理がある気もします。
ほとんど会ってないのならともかく、彼らは顔を合わせているようですので。
どうしても話がかみ合わなくなってしまうのではないかと。

>展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
中だるみは等は感じませんでした。
興味をかきたてる良いストーリーだったと思います。

上記と得点を見てもらえば分かるかと思いますが、楽しく読ませていただきました。
特に秀逸だと感じたのは舞台です。
明治の日本を舞台とした作品はたまに見ますが、中国(みたいな所)を舞台とした作品はほとんど見ません。
また、総督という大物を登場していますが、毒を盛られた動機は個人的な事情の積み重ねであったりと、変に国家や社会を揺るがすための大きな陰謀とせず、そこに生きる人たちをしっかりと描いていたのも好印象でした。
ラノベとして見るなら若干、勢いが不足している気もしますが、小説としてみれば、十分に完成度の高い作品であったと思います。
少なくとも私には好みの題材・人物・ストーリー展開でした。

以上、たいしたことは書けませんが、楽しかったです、という報告だけ。
次回作も是非、読ませていただきたいと思います。
それでは、機会がありましたら、どこかで。

波木 ユウさんの意見 +30点2013年12月29日

 こんにちは! 以前はコメントをありがとうございました。読ませていただいたので、コメントを残していきたいと思います。

 最初の数行読んで、ああ上手だな、と思いました。依林の視点のところが特に生き生き書けていた印象で、いい意味で、女性的なセンスがあるなと感じた作品でした。

(1)文章は読みやすかったか。
・リズムも、バランスも良かったと思います。結構な量の設定が盛り込まれていましたが、会話のなかに落とし込んだりして、説明のストレスを減らすような工夫が良く効いていたと思います。

(2)キャラが魅力的だったか。
・キャラ付けが終始ぶれることなく、良く描けていると思います。しかし全体的に薄味な感じあったので、もうちょっと濃くしてもいいかな、と思いました。

(3)世界観に違和感はなかったか。
・このタイプのファンタジーを読みなれていないこともあって、最初はちょっとだけ「なんで中国風?」と単純なレベルでの違和感があったのですが、読み進むうちに気にならなくなりました。政治や陰謀の部分がちょっと単純かなあとも思ったところがあるのですが、物語の主眼はそこではないですし、良く練られていた設定だったと思います。

(4)設定に矛盾はなかったか。
・物語の枠内での大きな矛盾はなかったかもしれませんが、展開や人物の動機が少し唐突な感じがありました。今作で一番気にかかったのもこの部分です。「人物がそう行動することの理由」があまり語られていなかったように感じました。

(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
・全体的にテンポよく進んでいたと思います。船上でのアクションシーンは少しあっさりしすぎかもしれません。
 あと、これはこちらからの質問になるのですが、今作では場面転換の処理をシンプルにこなしている印象が強かったです。一文でパッとシーンを変えたりされてて、リズム感いいな、と思ったのですが、この辺りは意識的に工夫されていたのでしょうか?

 簡単ですが、以上で感想とさせていただきます。
 技術的な瑕も少なく、とても面白く読めました。また交流できるときを楽しみにしています!

波木 ユウさんの意見 +30点2014年01月03日

 こんにちは! 先日のコメントの補足をさせていただきます。抽象的な感想ではなく具体的な指摘をすべきでした。
 
 行動の動機付けについてですが、柚犀、小鳳、(終盤の)ヘンリー、アルフレッドといった男性キャラクターがなぜ依林のことを強く思いやる(ようになった)のか、そのあたりが少し弱いかなと思いました。説明はなされていますし、理屈として破たんしているとかではないので、枚数、全体のバランスが許せばちょっとしたエピソード、心情描写、心象風景を挿入するなりして、キャラクターの心情の変化・強さを強調したりすると陰影が出ると思います。

 具体的な場面ですと、一番気になったのが、トリックスター的に描かれている小鳳の登場場面です。
 命にかかわるほどの症状だった小鳳が、薬を服用した直後になぜ消えたのか、彼女に出会いのわずかな間で好意を抱き、再開を望んでいたということを彼自身が後に述べているので、その整合性においてすこし引っかかりました。
 シーン全体の状況の描写に、出来事の緊張感のわりに、ちょっと間延びした雰囲気を感じたことが、そう読んでしまった原因かもしれません。
 小鳳がヤバイところから逃げていて、未だ危険な地域から脱出しきれていないなどの、緊迫した状況を匂わすような描写をしておいたりすると、場面の信憑性が増すと思います。

 見当違い、もしくは突っ込み過ぎていたらすみません。以上で補足とさせていただきます。ご参考になれば幸いです。

東子さんの意見 +30点2014年01月03日

はじめまして。一晩で全部読ませていただきました。
面白かったです。よく調べて作りこまれているんですね。

それに、ここはみなさんが真剣に議論されておられ、いい場所ですね。
普段は、拝見させていただくばかりで、めったに書き込みしないのですが、私は割と長く鍼灸師をしていまして、上海の中央病院で研修した経験などから、作者様のなにかお役に立てられればと、投稿させていただきますね。

物語全体については、みなさまのご意見と比べ突出して相違ないので、鍼灸師としてどうしても気になった点を書き上げさせてください。

総督が阿燐片中毒だったわけですが、峯界医学院は現在の中医院、それも中医薬大学病院に相当するような専門機関であり、そこの医師が阿燐片中毒を見落とすとは、どうしても考えにくいのです。

この世界の裏社会では割とありふれた薬物のようでしたので・・・

だとすると、専門病院ではある程度の教育・解毒方法等が研究されているのではないでしょうか?

また、お粥に阿燐片が盛られていると依林が気づく箇所なのですが、匂いと見た目と雰囲気で断定に至っているのですが、峯界医学院のセドリックチャンが気がつかないほどだとすると、阿燐片は基本的に無味無臭無色だったのではないかと思われます。

鍼灸や中医には望診と言って、見ただけで病気を突き止める技や匂いで予後を診断する技がありますが、それらは神技とされています。

確かに実際の臨床において、生きている患者さんから死臭を感じたり、病気の気配のようなものを感じることはあるのですが、依林はまだ修行途中の身のようなので、違和感だけでお粥に阿燐片が混入されていると断定するのは厳しいのではないでしょうか。

ですから、例えば薬物に反応する溶液(薬物の数だけ溶液もあるので大量にある)を佑南村の実家から持ってきて、あらゆる食材・食事に振りかける、などという方が現実的かなと思いました。(膨大な調査項目になると思いますが、未知の薬物を特定するのだとすれば、当然)

東洋医学は感覚医学などと言われることもありますが、今は割と西洋医学と融合しつつありますし、中医学も中西医統合をさかんに謳っていますし、依林の師匠も峯界医学とセルジア医学を融合した医術体系を作られておられたご様子であれば、依林が峯界医学的に感覚で掴んだものをセルジア医学的(化学的)な方法で検証・立証する、とすれば現実にも即しており物語に厚みが出るかなと私は思いました。

この物語において、総督が中毒による衰弱であること、それを依林が突き止めることは医療部分の柱でありますので、リアリティを追求しておく必要があると思います。

なので、上記を踏まえ矛盾なく、設定を修正するとすると、(失礼ですよね、申し訳ありません)

総督の中毒は、世間一般には出回っていない特殊な薬物。よって、医学会でも研究がなされておらず、峯界医学院でも原因を突き止めることができない。

依林が、それに気付いたのは自分の過去に深く関わる薬物であったから。両親が、それによって殺害された、とか。もしくは、陳王勇が関わっていた、とか。

それに関わったせいで、皇宮医長を追われて森に隠れ住んでいた、なんてのは王道でもありますよね。

なので、そのあたりで物語を膨らませるとすると、

・陳王勇は、皇宮医長であった頃、不正を糺そうとして薬物を使った罠に嵌められ失脚。
・今回の件で依林が調査するうちに、そのことを知り、名誉を回復するために努力する。
・もしくは、本当は悪人で皇宮医長の地位を利用して薬物を王宮に蔓延させて私服を肥やしていた。
・ジェフリーは、その時の陳王勇の配下の一人だった。
・何かで、悔い改めて森に隠棲し依林を助けることで、罪を償おうとしていた。
・依林の両親も、その薬物に関わっており殺害。依林も薬物で殺害されそうになっていた所を、陳王勇に救われる。
・故に、依林は総督に同じ薬物が使われていることが分かった。

とすると、今回の総督暗殺未遂事件も、過去からの運命みたいな感じで一本の線でつながるかなーとか。が、考えられるのですが、どうでしょうか?

ただ、これだけだとどこかで読んだ話になってしまうので、工夫が必要でしょうけれど。

せっかく考えられた設定を他人にアレコレ言われて、気分を害されないとよいのですが、医学に関わらず専門性の高い分野を小説にする場合、論理的・知識的に問題がある個所は調査量の欠如とあげ足を取られると思います。

樹思杏さんの他の作品も読ませていただいたのですが、そちらにも医療に関わる場面があり、もしかして医療従事者なのかな、と思ったのですが失礼ながらどうしてもそう思えませんでした。
しかしながら、完全に医療と無関係な方がネットや本で調べただけで書いているようにも思えません。

だいぶ悩んだのですが、それで、ついついこのような投稿をしてしまいました。

それにしても、よく調べられてありますよね。
赤ちゃんの夜泣きで、肝が高ぶるとか、日本では肝の虫といわれているやつですね。

症状からすると、唇の乾き、爪の状態からして血熱、血燥、などの肝陰虚。癇癪、一週間もの小児にしては長い期間の発熱、機嫌の悪さからも肝がベースでの、手足の冷えがあることから肝の相克である脾にまで病の伝変がある・・・
風邪(ふうじゃ)が最初、肝に入って、こじれちゃったんですね。こういうのは一般的な薬は効きにくいですから、村の薬師が治せないのも当然です。

ですが、生後四カ月の赤ちゃんでの、この診察診断となると相当な小児臨床の経験が普通は必要でないかと思いますが、依林はこれが初めて自分で稼いだ、とありますね。

普通、初めてのそれもボランティアでなく、お金をもらう診察診断治療というのは、とてつもない不安に襲われ、患者さんが悪化していないか、気になって眠れなかったりしながら、なんとか指導者のもとで成人の臨床ができるようになって、それから小児や妊婦さんの経験を積むのですが、それは成人の治療や診断とはまったく別で、小児・妊婦には成人臨床で得た経験がほとんど役に立ちません。

なので、また一から泣きながら夜も眠れずに勉強しなおさねばならず、加えて責任はとてつもなく重くなるので、鍼灸師の中でも小児・妊婦はまったく手をつけないという先生もいます。

それを依林は、あっさりやってのけていたようなので、とすれば陳王勇に小児臨床をみっちり叩き込まれていた記述か、もしくは不安でしょうがなく、翌日親子の元に様子を診に行ったりするとリアリティが出ると思います。

また、総督の診察をする時の腹診などは、日本鍼灸特有の診察法でしたね。かつての中医学では、あまり腹診てしないんですよね。
内臓腹診と経絡腹診に違いがあることも触れていますし、東洋風医療ラノベという分野でここまで書き上げられてお見事です。

私も、以前鍼灸ラノベを書いていたことがあり、なんか、また書きたくなってきました。
ラノベを介することで、医療や専門職の紹介・普及啓蒙につながれば素敵だなーと思っています。
ご健闘応援しています。この投稿が樹思杏さんのお役に立てばよいのですが。

ありがとうございました。
長文、失礼しました。

だぱんさんの意見 +30点2014年01月03日

はじめまして、だぱんと申します。

書籍に疎い自分ですので
お役に立てる事は何も書けないのですが

とても楽しく読ませていただきました。
書店で買ってしまいたいぐらい良い作品です

楽しい時間を有り難うございました。
こっそり次回作も楽しみにしております。

ヴィシルさんの意見 +30点2014年01月05日

こんばんは。以前拙作に感想をいただいたヴィシルという者です。
遅くなりましたが感想返しに参りました。
先に質問の方に答えていきたいと思います。

(1)文章は読みやすかったか。
すらすらと読み進めることが出来ました。
ところどころの表現も秀逸で、それでいて凝った表現を入れた文章が多すぎずほど良い分量だったので、くどさを感じる事もなかったです。

(2)キャラが魅力的だったか。
どのキャラもきちんと描かれており、それぞれが物語の中で活き活きと動いていました。
あえて特に良かった、微妙だったキャラを挙げるなら、前者はアルフレッド、後者はセドリックです。
アルフレッドは容姿端麗で頭も良く家柄も申し分なし、とプロフィールを見たら完璧超人なのに、実際に接してみるとなかなかどうして抜けているというか…隙があるのが良いですね。
私が女だったら確実に惚れていました。
セドリックも悪くはないキャラなんですが、読み終わった今となっては少し印象が薄いキャラです。もう少しアクを強くしてアルフレッドに突っかかるように描いた方が良いかもしれません。

(3)世界観に違和感はなかったか。
特に違和感を覚える事はありませんでした。
むしろ二つの国の間で絡み合っている複雑な情勢をきちんと構築しており、尚且つそれを説明過多にならないよう随所随所で的確に説明するその腕前に舌を巻きました。
参考にさせていただきたいです。

(4)設定に矛盾はなかったか。
矛盾とは少し違いますが、物語の展開で「ん?」と首を傾げるシーンが何度かありました。
依林がお粥に盛られた阿燐片に気づくシーンや、そもそもそこまでの段階で峯界医学院の医者が阿燐片中毒だと見抜けなかった事、
終盤でアルフレッドの口から真相が語られるシーンなど。具体的な指摘は他の方々が既にされているので、羅列するだけに留めます。

(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速過ぎなかったか。
展開が速過ぎた、という印象は受けました。(4)で述べたとおり首を傾げるシーンがあったので、そこに説得力を持たせるためにもう少し丁寧に展開を運ぶべきだったと思います。

・総括
色々と偉そうな事を言ってしまいましたが、全体としてはとても面白い作品でした。
正直勉強になった、という部分がほとんどでろくろくアドバイスらしいものも書けませんでした。申し訳ないです。
初の長編でこれだけの作品を描けるのは本当にすごいと思います。

楽しく読ませていただきました。
執筆お疲れ様でした。

こころんさんの意見 +20点2014年01月10日

 拝読いたしましたので、感想を残します。
 もの凄い遅れました、申し訳ないです。ごめんなさい!
 と平身低頭で感想を書いていこうと思います。
 もう一つ謝っておきます。感想を書くときこれを言うのは好きじゃないんですが、今回は自分の好みに沿わせて独りよがりに感想を書きます。ごめんなさい。

 御作、とても完成度が高かったです。以下、ご質問に沿って。


(1)文章は読みやすかったか。
 全体的に読みやすかったです。
 ただ、完成度が高いだけに少々退屈だったな、というのが正直な感想です。
 同じ言い回し、例を挙げるなら「(溜め)息を吐いた」などが多い印象で、読みやすいんですが、なにかもう少し面白みが欲しかったという風に思いました。
 もう一つ、恐らく表現上間違っているわけでもないのですが「……」という表現が散見されました。個人的に、これは好きではない表現で残念だったなという感じです。それぞれの絶句、もしくは声にならないという表現をもう少し豊かに書いて欲しかったです。

(2)キャラが魅力的だったか。
 よく出来ていました。とてもお上手に書けていたと感じます。このご質問が「キャラは書けていたか」なら、満点に近いものを出していました。
 魅力的だったか、と問われると、申し訳ないです、「いいえ」と答えます。
 樹思杏さんの御作品は、短編とこちらで計3つ拝読しました。短編のどっちかにも感想で書いていて、今回も同じように思ったのですが、「完璧すぎるな」というのが感想です。なにより、道徳的すぎる気がします。

 アルフレッド:素晴らしい男性ですね。頭脳明晰、容姿端麗、ここまではまぁまぁとうなずきます。次に、性格も良い。女性の影が全くない。ここら辺から首をかしげたくなります。
 個人的にはですが、少女マンガのメインの男性は、容姿端麗、頭脳明晰なのに、性格がひねていたり結構嫌な感じだったりすると思います。どうしてなのかと、個人的な考えでは、完璧な人間を描けばそれだけで退屈だからだと思っています。
 そんな性格が破綻しているキャラには、一人だけ男友達がいるのがよくあるパターンだと思います。その男友達はたいてい、容姿は悪くない。けど、メインのその男性と比べて劣る、頭もそんなに良くない。でも性格がまともだったり、主人公の女性を気遣うのはそのキャラの役割だったりというイメージです。
 今回、アルフレッドはその両方の良い所だけ持っているキャラクターのようで、退屈でした。

 依林:素直で、真面目で頑張り屋で能力も高い。可愛くて素敵なキャラクターですね。すみません、アルフレッドと同じく、完璧すぎるなと思います。
 素直で真面目で頑張り屋というと、これも少女マンガによくあるキャラ設定だと思いますが、その場合、勝気すぎたり、がさつだったり、イメージ的におおよそ「女らしくない」ところがあると思います。そうでなく、ただただ可愛くて真面目な手放しで褒めるしかないような女の子をだと退屈でした。

 そのほか、味方側のメインキャラクターたちは道徳的で、ものわかりのいい人たちばっかりで、少女マンガのキャラクターから欠点を除いたキャラのように思えました。
 古く、ドラえもんはネズミが苦手から始まり、魅力的なキャラクターには明確な欠点があると思います。ドラえもんはわかりやす過ぎますが、それは時代の変化とともにセンスが洗練されてきただけで、根本は変わらないのではないでしょうか。一時ブームになった「ツンデレ」も今でいうただの属性ではなく、最初は「素直になれず、つい正反対のことを言う」という欠点だったんじゃないかな、と個人的に思っております。
 とはいえ、もし、こんな程度の感想で、樹思杏さんが、「欠点を足そうか」とお考えになって下さったとき、樹思杏さんの一番の武器である「医療」の小説をお書きになるのであれば、「人の死がトラウマ」「血を見るのが苦手」といった欠点は絶対にお勧めしません。

 敵に関しても、いささか道徳的すぎるというか、お利口すぎる気がします。スミス先生は、仕方なくという側面もあるので、別になんとも思いませんでしたが、密売組織の連中は悪としては弱すぎると思いました。
 最後の対決、どうして銃を下しただけでナイフを持つ手を緩めるのか、その時点で依林を引き寄せて、銃撃を防ぐために盾のように使って、ナイフ突き付けとけばいいんじゃないの? と思ってしまいます。

 総じて「この人たち(アルフレッド、依林など)なら、なんとかするだろうし、この人たち(悪)なら何にもできないし、しないし、反省すらするだろう」と、安心感ばかり先立って、緊迫感は皆無でした。


(3)世界観に違和感はなかったか。
 なかったと思います。中華ファンタジー的な。御作の場合ファンタジーじゃないですけど、そこは仮想中華という感じですね。全然触れない割に好きなジャンルです。
 歴史的な重みを感じることもできましたし、違和感や気になる所もありませんでした。すんなりとこの世界に入っていけた感じです。
 ただ、キャラクターが道徳的なので、「こんなキラキラした世界で、誰が自分の利益だけを追求して、他者を踏みつけるような戦争をするんだろう」と、負の部分に関するリアリティは感じませんでした。


(4)設定に矛盾はなかったか。
 医学的な知識はないですけど、中毒の発覚、原因の発覚、対処、また使用していた犯人、その動機。どれをとっても、矛盾を感じない完成度の高いものでした。


(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
 ありませんでした。医療と恋愛が片側で少しずつ進行していく様はお見事でした。

 出来栄え、文章などから、樹思杏さんが真面目で、誠実な人だろうなぁと思いました。女性的な気遣いも多々あったと思います。
 反面、その真面目さが退屈だったり、女性的な理想なり、思いというのが強すぎる気もしました。
 女性的な、という意味では、「女性医師が一人もいない」というような話の割に、性差別的なものを感じなかったのが残念かなと思います。人種差別的なお話は割とあっただけに。もう少し女性蔑視があっても良いかも。そしたら、最後の最後、依林が初の女性医師になった時、人種、性の差別が緩和されたのかも、と、良い感じになるんじゃないかなと愚考します。
 逆に、失礼ですが、アルフレッドが助けてくれるところや、日常のアルフレッドの気遣い等々、「女は守られるもの」という意識を感じてしまったり……。もう少しパワーバランスを女性に傾けてもいいかもしれないと思いました。

 総評としまして、完成度は相当に高かったと思います。それだけに、退屈も感じました。本当に個人的な好みですが、もう少しゆるい、遊びの部分が文章、キャラクターにあって欲しかったなという印象です。
 なので、「面白かったです」の30点ではなく、「良かったです」の20点にしました。平均点を下げてしまって申し訳ないです! 本当にごめんなさい。
 いつもなら「自分でできないしな」と遠慮して書かないことも、好き勝手全部書きました。それは紛れもなく、「ただの一読者」にさせられるほど、御作が優れていたということだと思っております。
 本当にもう一から十まで申し訳ないことしか書いておりません。もう一回平身低頭謝ります。ごめんなさい。

 執筆お疲れさまでした。次回作も楽しみにしております。
 あ、もう来ないでということは遠慮なく言ってください。マジで。

wさんの意見 0点2014年01月21日

こんにちは。
ゲームの艦隊これくしょんにハマってすっかり提督となってワナビとしてはナマっている感じですが、リハビリ的に中華モノっぽい本作品を読んでみたので、感想を書いてみます。
全体としては、つっかかることなく最後まで楽しく読むことができました。
下の感想もざっと目を通しましたが、ほとんどの方がおっしゃっているように、完成度の高い良い作品だったと思います。
しかし、細かい部分では欠点も多く目に付きました。
一番大きな問題を最初に挙げておくとすると「何故、本作品は擬似中華なのか。アヘン戦争後くらいの清王朝を舞台とした歴史物にしなかったのか」ということです。もちろん擬似中華には擬似中華のメリット、デメリットがありますし、歴史物にも同じ事が言えます。本作品においては、擬似中華であることによるデメリットがあちこちで目についてしまいました。その具体例についてはおいおい述べていきます。

(1)文章は読みやすかったか。
基本的に読みやすかったと思います。ただ、つっかかる点が三つほどあったかな、と。
一つ目は、文章力の問題ではなく構成の問題かもしれませんが、最初に読み始めた時は、アルフレッド視点なのでアルフレッドが主人公の一般文芸っぽいものかと思っていました。しかしその後依林に視点変更し、それでようやく、本作品が擬似中華少女系であると分かりました。
その変更も、第一章第一節の最後の部分から、という妙に中途半端な場所からだったので、ちょっと混乱しました。ここまでアルフレッドで引っ張ってから視点変更をするのなら、第二節からにしてもいいのでは、と思いました。
もっといえば、視点変更は無い方がいいです。あまりアルフレッドに寄りすぎない三人称で書くか、どうしてもアルフレッド視点が必要なら、一番最初は主人公依林シーンから始める、などといった工夫が欲しかったです。
二つ目は、漢字の中国語読みです。中国語は読めないので、さすがに馴染みが薄く、キャラの把握に苦労しました。しかも、シャンタオがダメでシィァン・タオでなければならない、となったら更に難しくなりますし。どう表記するのが正解、というのは無いと思うのですが、漢字表記なら漢字表記だけでもいいのではないかと思いました。
三つ目は、文章の読みやすさという点では問題なかったのですが、逆に、もっと描写が欲しい部分で描写が足りないと感じました。余計なことを書かずに骨子だけだから読みやすいのは良いのですが、それは読みやすいだけであって、脳内でイメージを描く上ではやや物足りなく思えました。
具体例を挙げるとすると、下で他の方が仰っていましたが、情報屋劉雪蘭の容姿に関する描写が美貌というだけであったり。
他にも、二人が散歩に出るシーンで、情景描写が無かったり。これは詳しくは後述します。
あと、世界観のところで詳しく述べますが、疑似中華ならではの、細かい文物の描写が無くて物足りなく感じました。


(2)キャラが魅力的だったか。
うーん。どのキャラも悪くはなかったと思います。しかし、じゃあ良かったか、魅力的だったかと問われると、もにょります。まず、先にも述べたように、中国語読みがとっつきにくく、清華人キャラを覚えるのに無駄に苦労しました。
また、各キャラについていうと、それぞれ魅力的な部分もあると思うのですが、それぞれキャラ描写として良くない点も見られるので、ほぼ全員のキャラが、悪くはないけど、なんかビミョーという評価です。
アルフレッドに関しては、こんなものじゃないでしょうか。確かに完璧超人すぎてどうも、と思う読者もいるかもしれません。しかし、少女系ですし、理想を体現したキャラがいたっていいんじゃないでしょうか。
主人公依林については、まあ主人公らしく、喜怒哀楽もあって、なかなか良かったとは思います。しかし、途中で出てきた容姿コンプレックスに関しては取って付けたようで蛇足だったと思います。容姿にコンプレックスを持っている割には、日頃はそういったそぶりが全く無かったですし。また、コンプレックスを抱くにいたった原因の一端である男尊女卑が、本作品ではあまり描写されていなかったので。これについても後述で。
劉雪蘭。先に述べたように、容姿描写が無いので、魅力を描ききれていない。また、他の方の指摘にありましたが、良いとこのおぼっちゃんであるアルフレッドが、どうして情報屋と知り合ったのかが疑問です。かつての患者、とも思えませんし。そんな病気になりそうな奴ではないので。美容のために漢方薬(清方)を買っていた、というのもないですね。アルフレッドは漢方医ではないですし。
楊柚犀。異様に手先が器用、という特殊能力というか異能力というかを持っている。というのが、なんとも物語展開のためのご都合主義に感じました。
また、他の方も指摘しておられましたが、存在が消えているというか、存在しているのにまるで居ないかのように出番の無い場面があったように思います。
二つの粥を較べて香桃が実行犯であることを確信したシーンでも、最後の方に「……こんな時、陳先生ならどうするんだろうね」というセリフが出てくるまで、その場に柚犀が居るということが分からず「なんだ、こいつ、居たのかよ」と思いました。

(3)世界観に違和感はなかったか。
下の感想を見ると、ほぼ全ての人が世界観に関しては絶賛しているようです。ですが、自分としては、そこまで絶賛できるほどとは感じませんでした。もちろん悪くはないのですが。
本作品は、アヘン戦争後くらいの清王朝をモデルとした疑似中華異世界もの、ということになると思います。といっても、世界観としてオリジナル要素はそれほど多くはなく、リアル清王朝の固有名詞や薬品名などを架空のものに変更しただけで、大部分は史実に沿っている設定であると思いました。
全体的な雰囲気としては、どなたかが仰っていたように、洋画的な世界観、あるいは、パール・バックの『大地』(未読なのですが)のような翻訳物小説のような世界観だと感じます。そういった世界観はラ研作品では珍しくあまり見られないので、斬新さ補正もあって高く評価される傾向になるだろうとは想像がつきます。なので、下の感想では高い評価を得ているのでしょう。
もちろんそれは読者個人の感想なので間違いでもなんでもないのですが、私としては、先に述べた通り、なぜ、リアル清王朝にしなかったのか。なぜ疑似中華にしたのか、がひっかかってしまいました。
疑似中華のデメリットの一つとしては、一般文芸として成り立ちにくい、というのがあると思います。一般文芸作品の中にも疑似中華作品はありますが、『後宮小説』のような余程完成度の高い作品でないとなかなか難しい。まあ本作の場合は、一般など考慮に入れずあくまでも少女系という割り切りで良いのでしょうけど。
ただ、疑似中華の少女系にしては、あまりにも、リアル清王朝をトレースしすぎている、と感じました。逆に言えばオリジナル世界観であるメリットが少ない。
というのも、診察する病人が総督であると判明した時点で「そんなエラい人なのか。だったら病気じゃなくて毒でも盛られているんじゃないの?時代背景からいったらアヘンあたりじゃないのかな」と思ってしまいました。結局毒の正体は阿燐片ということでオリジナルの薬物ではありますが、要はリアル清王朝におけるアヘンに該当するものですよね。なので、あっさり先が読めてしまい、ガッカリでした。
これがもし、リアル清王朝が舞台だったら、「なるほど、盛っていた毒はアヘンか。当然そうなんだろうけど、作中の事件と史実をうまく絡めてあるな」という感想になっていたと思います。パール・バック『大地』の中でも、ウィキペのあらすじで見ると、アヘンを盛って相手を弱らせる、という場面があるようですし。
あと、既に少し述べたのですが、疑似中華の異世界であるにもかかわらず、異世界である描写が足りないと感じる部分がありました。その一つが男尊女卑です。
主人公依林が容姿コンプレックスを抱くにいたった原因の一つである男尊女卑ですが、本作品においては、「社会には男尊女卑がある」と一応の説明はされているものの、それを実感できる描写は無かったと思います。これは、私だけが思っているのではなく、下で別の感想人さんもおっしゃっていたはずです。
これが、リアル清王朝が舞台だったら、たぶん歴史事実として男尊女卑があったのでしょうから、作中に描写が無かったとしても、男尊女卑があるということを出したとしても、読者はある程度納得するでしょう。
しかし本作品は、清王朝をモデルとした異世界です。異世界であるからには、その社会に男尊女卑があるかどうかの設定は、描写されていなければ、読者には分かりようがありません。
男尊女卑設定と容姿コンプレックス設定に関しては、無い方が良かったのではないかと私は思っています。特に男尊女卑については、異世界であってリアル清王朝ではないのですから、必ずしも清王朝と同じようにする必要はありません。作品の都合によって、清王朝の歴史事実を変更することができます。その自由度が、疑似中華異世界のメリットだと思うのです。

どうも文字数オーバーっぽいので、ここで切り。

wさんの意見 0点2014年01月22日

感想の続きです。

で、男尊女卑以外で描写不足を感じた部分を更に言いますと、全体的になのですが、清華共和国の文物の描写が足りないと感じました。
恐らく作者さまが、本作品をリアル清王朝ではなく疑似中華とした理由は、アヘン戦争頃の清王朝に関する歴史知識がそれほど豊富ではなく、あまり自信が無かったからではないかと推測しています。違っていたらすみません。ただ、実際のところ、リアル清王朝ではなく疑似中華であるメリットを生かしきれておらず、全体として文物描写が少ないのを見ると、どうしてもそう思ってしまいます。
当時を描いている部分といったら、冒頭のフロックコートと、汽船、電報、ガス灯、ぐらいじゃなかったでしょうか。それなりにあるといえばあるのですが、それでもこれでは足りないと感じます。
特に本作品は、世界観が売りの作品であると思います。推理要素やキャラ要素などは、他の作品と差別化できるほど、そこまで突き抜けて優れたものではないと思いますので。であるならば、世界観描写というか、世界観の雰囲気というものを、もっと強く描いてあった方が良かったと思うのです。
例えば、アルフレッドの屋敷が、セルジア風庭園だ、ということが書いてあったと思いますが、もう一歩突っ込んで欲しかったところです。セルジア風庭園って、どんなものなのか。清華風庭園とはどこがどう違うのか。それは読者の私には全く分かりませんでした。あの部分で長々と庭園の解説をされても困りますが、だからといってただセルジア風と言われただけでは、文物描写が足りないと感じます。
清華の家屋の様子も、裏道に入った時にちょっと出てきましたが、やはりそれも、想像をふくらませるには物足りなかったです。どんな家なのか。場所的にいって貧乏人だろうから伝統的な四合院ではないでしょうし、黄土地帯でもないからヤオトンでもないでしょう。でも家の前には小さいながらも抱鼓石があるのか、とか、扁額には何が書かれているのか、とか。
どこか数カ所くらい物語の進行を妨げない場所でいいので、そういった細かいピンポイントの描写でもあれば大分違っていたと思うのですが。
中国歴史関係のものは、どうしても必要となる知識が厖大な量となり、調べるだけで手一杯となったりします。私自身20年くらい中国歴史物が好きで、自分でも書いてみようとしてはいるのですが、知識も足りずなかなか上手く書けなかったりします。大変だとは思うのですが、疑似にせよリアルにせよ中華を舞台とした世界を描くなら、そこを頑張らないと、あまり意味が無いように思ってしまいます。

(4)設定に矛盾はなかったか。
すみません。これは、既に多数指摘も出ていますが、矛盾は多かったと思います。
というか、下の(5)とも共通するのですが、物語の後半は、怒濤の展開は良いのですが、その代わりキャラの行動は不自然なものだらけで、首をかしげることが多かったです。いや、多かったというよりは、後半は全体として不自然だらけでした。
思いつく限りでだらだら挙げていくとすれば。
やはり、誰もアヘンを知らない、アヘン中毒を疑わないのはまず不自然でした。
アルフレッドがなぜ劉雪蘭と知り合いなのかも、納得できる理由が見あたらないからには、矛盾といえば矛盾だと思います。
主人公依林が誘拐される場面。柚犀が殴って気絶させられただけ、というのも不自然です。こういう場合、殺してしまうか、そうでなければ、依林に薬を作らせるための人質として柚犀も連れて行くか、だと思います。
その場面、森の手前で御者に待っていてもらっています。しかし、既に日が沈もうとしている時間に、調べ物にどれだけ時間がかかるかも分からないのに、どうやって待っていろというのでしょうか。馬車に座って仮眠でもしていろというのでしょうか。依林の部下ならまだしも、スタンリー家から借りてきた御者を、そんなブラック企業的なこき使い方をするのも不自然です。そしてその御者が、何故、翌朝になったら頼まれてもいないのに森の家に入ってくるのでしょうか。
香桃に拳銃をつきつけて迫る場面も、いくら小悪党とはいえ、物的証拠も提示されていないのに、ただ脅されただけでぺらぺら自白してしまうのはご都合主義にしか感じませんでした。そんなことができるなら、香桃が実行犯だと分かった時点で最初からやっていればいいのに。
そして悪の組織。最大規模の組織と言っている割には、小鳳がボスと呼んでいた男が、わざわざ辺境の村まで依林を拉致しに行って、依林に薬を作らせる交渉をしたり、というのもおかしいです。普通はその程度は中ボスの仕事ではないでしょうか。
そしてそのボス、戦闘シーンでは、アルフレッドが拳銃をおろしただけで油断してナイフを緩めたり、なんというか、ちょろいです。よくこんなんで最大組織のボスがつとまるものです。
細かい部分に関して言えば、これだけではなく、挙げればきりがないので、本作品における設定矛盾の大きなポイントを二つだけ指摘しておこうかと思います。
阿燐片の設定と、悪の組織の設定です。
阿燐片にかかわるキャラの言動の不自然さは全て、阿燐片がまるで未知の毒薬であるかのような扱いであることに由来しています。実際には、蔓延して禁止されたという、よくある麻薬でしかないのに。
総督の症状を診察しても誰も阿燐片と気づかないのも、阿燐片が未知の毒薬的な扱いだから。
また、阿燐片は無色無味無臭であると思われるのに、主人公だけがちょとしたことで気づくのも、設定不足と思います。
禁止されるほど蔓延していたのに、今まで王勇先生以外誰も処置する薬を研究していなかったとしか思えないのも不自然です。
悪の組織については、作者さまは明確なビジョンを持っておられるのでしょうか。行き当たりばったりで敵役として出したとしか思えなかったです。
国内最大規模といいますが、構成員は何人くらいいるのか。清華共和国全土のあちこちに当然支部もあるのでしょうし、それも含めたらどれくらいの人数なのか。阿燐片取引以外に何か収入源はあるのか。阿燐片で動かしている金額はどの程度の規模なのか。取り締まり機関の中にも内通者くらい潜り込ませているのではないか。そもそも組織の名前も決まっていないようですし。国内最大規模、と言うからには、これよりも小さい同業ライバル組織が存在しているだろうから、そういったライバル組織との関係はどんな感じなのか。などなど。こういったことについて、作者さまはどの程度ビジョンを持っておられるのでしょうか。
もちろん、こういったことを逐一全部設定する必要もありませんし、作中に出す必要もありません。ただ、何のビジョンも無しに書いては、組織の姿が薄っぺらく見えてしまいます。
阿燐片の設定と、悪の組織の設定。この二つをしっかり見直すだけでも、かなり変わると思います。

(5)展開に中だるみはなかったか、または逆に展開が速すぎなかったか。
これについては、他の方もおっしゃっているように中だるみする部分は無かったと思います。終盤の怒濤の展開は良かったです。
その反面、既に上記で述べたように、設定の矛盾や、敵のボスのちょろさとか、香桃が脅されただけで自白してしまうとか、特に後半の全ての事象が主人公たちに都合良く回っているご都合主義が、展開の早すぎと言えないこともないです。
キャラの部分でふれた、アルフレッドと依林が完璧超人であることについては、それはそれでいいと思います。ですが、周辺の事象までもが全て主人公たちの良いように回るというのでは、ただ単にちょろいだけの物語になってしまうと思います。
それと、全体的な文物描写不足が、展開の早すぎになっていたとも思います。一カ所ではなく随所に見られたと思うのですが、例として特にそれが顕著だったのが、散歩に出るシーンでした。
ずっと引き籠もって研究ばかりしている依林に対してアルフレッドが散歩に行かないかともちかけ、依林が川を見たいと言って喜んで応じる。
で、ここで実際に散歩に出て、外に出ます。
ところが、歩いている途中も、二人の会話が続く。川に到着してから、やっと川の情景描写が出てきます。うーん。
外に出たタイミングで、ワンクッションの情景描写がほしいところでした。
依林は最初にこの街に来た時に、馬車の窓から、表通りを眺めています。しかし、馬車の窓から見るのと、徒歩で見るのとでは感じ方も違うでしょうし、まだ慣れていない大都市は、一度見ただけで見飽きるものではなく、依林の目には新鮮に映っているはず。それなのに何故描写が無いのか。
やはり全体として、物語進行が優先されていて、キャラの自然な行動が阻害されていると感じます。

ええと、あとまだ、何か言い忘れているような気もするのですが、読む時にメモを取っていなかったので、忘れてしまいました。文字数制限も近いようなので、駆け足ですが感想は以上です。
点数は、文章は10点までは行かないけど、5点。キャラは、4点。世界観は2点。設定はマイナス6点。物語展開はマイナス1点で、トータル4点くらいと思っておいてください。
執筆おつかれさまでした。次回作も期待しています。

追儺さんの意見 +40点2014年01月23日

思杏様、「魔術師の弟子」拝読しました。感想のほどを。
高得点入り間際だということで、できれば高得点を入れたいという動機で読み始めた次第です。自演だったり読みにくかったりつまらなかったりしたらマイナス点を叩き込む用意もできていました。

文章 飾り気がない感じで読みやすいです。台詞もキャラを表現しています。魔術師ということで炎がドバーとか雷がビシャーとかを期待したのですが、これは一般向けっぽいですね。
世界観は現実のものを少し名前を変えただけ。他の完成度が恐ろしく高いだけに、少しマイナスです。

キャラ
被ったキャラが全くいません。全部見分けがつきます。役割もはっきりしています。これは意外と難しいことです。
キャラ同士もお互いがどう思っているか、線がはっきり見えます。
名前が平凡なので、考える必要があるかもしれません。
アルフレッド 青年医師。超イケメン。言動もイケメン。古いですが、「ネギま!」のネギ先生を思い出しました。使命に忠実。でも人は大事にする。紳士。
依林 女性の医師。主人公。これといって惹きつけられるものはなく、等身大の印象があります。この作品はどちらかというと女性向きなのでしょうか。
柚犀 小柄な少年。意外といいやつ。事件よりも依林が大事。兄弟のようなもの。
中国名はパッと見で性別が分かりにくいですね。
セドリック 悪役。こういった奴は大好きです。
ジェフリー 上司。人好きのする男。

展開、構成
 高貴な身分の患者の診療を任せられる主人公。手に余る病状で、頼みの綱は伝説の医師。医師の手掛かりを追って、主人公はある村に足を踏み入れる。しかし探し求めていたはずの医師はすでに亡くなっていた。残された女性の医師に主人公は助けを求める。
最初のヒロインと主人公の反発が定石ですがニヤニヤします。

ふたり、患者の病状から診断しようとするが、うまくいかない。そこに患者が。依林の腕前に感心するアルフレッド。
馬車に揺られて峯界へ。診察。事件の匂い。常に一定の変化とストレスを持った状態で物語が進んでいきます。読者を寄り道させることがなく、欲しい情報がすぐに出てきます。
自宅。セレブなアルフレッド。
ここまで読んでいて視点変更が数回あったはずですが、違和感が全くありません。恐るべき筆力です。
毒殺犯人は提督のヨメでしょうか。
依林のコメディ展開。なかなか面白いです。ところで、最初に提示された中国名の読みを忘れたまま物語が進行しているので、アルフレッドにカタカナで呼ばせたらいいと思います。
アルフレッド、情報屋に聞きに行く。ここまでくると少し出木杉、いや出来すぎでしょう。
セドリックは提督のヨメの愛人。ふむ、だったらこいつが怪しい。
依林、道に迷う。青年を介抱しているとヒントを得る。
要所要所で柚犀が凄く役に立っています。全員の思惑があり、正義がある。すごく完成度が高いです!
図書館での情事を目撃。セドリックの悪態が伏線になっていてとてもイイです。
それからの展開が流れるように無理がなく、キャラ性もはっきり出ています。「こいつだったらこう言うだろうな」を十分すぎるほど表現できています。
舞踏会。旗袍とは、馴染みのない言葉です。
提督のヨメ、ほぼクロ。
黄慶駿を発見、尾行……誰でしたっけ? 再説明が欲しいです。
小鳳と再会。強気なイケメン。彼もまたどこかで出番があるのでしょうか。
依林、村に帰る。離ればなれで情報を集める、という手法が結構ありますね。
依林、連れ去られる。柚犀の過去。
黒幕の判明。意外です。でも動機が? うーん
筋書きに逆らう依林。キャラが生きています。
真犯人が分かったところで、セドリックはまるで真相に気づくことがなかった? 道化だったと。
ラストの展開も分かりやすく、よかったです。ただ、アクションシーンが弱いか。アルフレッド、柚犀、小鳳にアクションを増やし、ジェフリーに危機を助けるかたちで少しだけ登場してもらえればいいかなと。

舞踏会から村に帰るまで、少し中だるみっぽく感じました。
キャラがほぼ全員最後まで出番があり、それぞれ非常に立っていました。
文章についても文句なしです。不必要な描写はほとんどなく、心理描写も巧み。
弱点はラストのアクションがほとんどないこと。ここは爽快感が欲しかったです。
あと、舞台設定が現実の名前変えに留まったこと。世界観と呼べるレベルではなかったです。

感想は以上になります。では、失礼します。