死神シアター

とよきちさん著作

ジャンル:現代ファンタジー

死神少女の黒ノ守ネネ。ラノベ表紙風デザイン

プロローグ

 死ぬ間際に見るといわれる『走馬燈』は、死神の仕業なのだという。
 どことも知れないほの暗い映画館の中、僕の右隣に座る少女は腕に抱えた山盛りのポップコーンをつまみながらそう言ってきた。放映前に注意事項を説明するみたいに。
「とまれかくまれ、我がシアターにようこそです。あ、月城(つきしろ)さんもおひとついかがですー?」
 と彼女はおもむろにポップコーンを差しだしてくる。頼りない照明の中で、彼女の白く細い指先は脂でわずかに光って見えた。
「……いや」
「それは残念。コレけっこう美味しいんですけどねー」
 言葉とは裏腹にたいして気にした風でもなく、彼女はまた一つポップコーンを口に運ぶ。
 悪戯っぽいコバルトブルーの瞳が印象的な、美しい金髪の少女。
 髪は背中まで伸びていて、彼女がポップコーンを頬張るたびに左側面から飛び出たサイドテールが揺れていた。白い半袖シャツの上にクラシックなドレス風の黒のワンピースという格好は、どこかおてんばなお嬢様を連想させる。ぽろぽろとワンピースの上にこぼれるポップコーンのくずもそれに一役買っていた。
 黒ノ守ネネ(くろのもりねね)。
 それがこのポップコーン少女の名前らしかった。
 いきなり、照明が落ちて真っ暗闇になる。カチャカチャカチャカチャ……という音が真後ろから聞こえてきた。
 振り返ってみるとそれは映写機だった。今時見られない古めかしい映写機。直進する光は僕らの真上を通過して、空気中のチリと前方のスクリーンとを照らしだす。
 小首を傾げながら、ネネは左耳についている三日月の形をしたイヤリングを揺らした。
「さてさてと。いよいよですね、幸夜さん」
「いよいよって……いやいや。そもそも僕はどうしてこんな場所で君といるのかがわからないんだけれど」
 ここに来るまでの記憶もないし、彼女との面識もない。まったくの初対面だ。そしてこのだだっ広い映画館の中で僕たち以外誰もいないというこの状況は、あまりにも不気味すぎた。
「だーかーらぁ、それはさっき説明したじゃないですかー。ああほらほら、始まりますよっ」
 スルー気味に促され、僕は前方の画面に向き直る。
 そこには真っ黒な画面に、白のチョークで書かれたようなタイトルが表示されていた。

『ハッピーナイトストーリー』

 恋人同士で見るにはぴったりのラブロマンスのようなタイトル。……ではあるけれど、むしろその内容はまったく正反対のように思える。彼女の説明が正しいのなら。
 僕はそっとネネのほうを盗み見た。
 三日月のイヤリングがキラキラと光っていた。淡い光に照らされたその横顔は、とても興味深そうな表情をしている。テレビにかじりつく子供のみたいに。
 僕にとっては昼間のテレビショッピング並につまらないと思えるようなものだし、たぶん、他の人が見てもきっと味気なく映るかもしれない。けれど彼女にとっては違うようだ。
 それはだけど、もしかしたら当然なのかも。
 だってネネは――――死神なのだから。
 もちろんそれは彼女の自称だ。でも不思議と違和感はなかったし、嘘を言っているようにも思えなかった。……死神がポップコーンを食べるというのは初耳だったけれど。
 前に向き直ると、スクリーンには今だタイトルの文字が浮かんだままだった。
 なんてことはない。由来は僕の名前、『月城幸夜(つきしろこうや)』にちなんでつけたものだと思う。 
 ハッピーナイトストーリー。
 幸夜の物語。
 なんとも安直でナンセンスなタイトルだった。
 つまりこれは、ただの映画じゃない。
 けれどある意味ありふれたものではあると思う。
 これから始まるのは、死神の彼女が作り出した僕自身の――『走馬燈』なのだから。

一章

 木々に止まる蝉たちが、何かを囃し立てるように騒がしく鳴いていた。
 そこは見覚えのある公園だった。僕の住む町に昔からある『青城公園』。
 見慣れたブランコや風変わりなテトラポッドのような遊具がある他に、この公園には名前の通り二階建ての、青というよりは水色に近い大きな城の形をした遊具がそびえ立っていた。
 外側には数本の滑り台が設置されていて、着地地点には柔らかな砂場がクッションとして敷かれている。
 そしてその滑り台の真下――ちょうど公園の入り口からは城が遮って見えない位置の壁面に、追い詰められた一人の少女とそれを囲う男子たちの姿があった。
 たぶん、どちらも小学生くらい。
「こ、こないで……」
 怯えきった少女の声。腰まで伸びた長いチョコレートブラウンの髪が不安げに風に揺れていた。
 ――花菜だ、と僕は心の中で呟く。
 白雪花菜(しらゆきかな)。僕の幼なじみだった。
 透き通るような白い肌に、ぱっちりとした大きな瞳。シンプルな白のワンピースがここまで似合う女の子はちょっといない気がする。
 ザリ、と威嚇するように小石を踏みしめる音。グループの中でも一回り大きい短髪の男子――たしか登坂(とさか)という名前だったか――がニヤつきながら腕を組み、怯える花菜の前に進み出た。
「いいじゃん減るもんでもねーし。なに書いた見せてみろって」
 見せろ見せろ、と取り巻きの男子たちも一緒になって口々に叫ぶ。
「オレ知ってんぜー? この城にあいあい傘を書くと好きな人とくっつくってやつだろ? ハハッ、すげえ気になるなーオレ」
 それは僕も知っていた。
 特にこの頃僕たち小学生の間では軽い流行りになっていて、城の外側と内側の壁面のいたるところに相合い傘が今も刻まれている。公園の管理側としては定期的に落書きを消すのではなく、むしろ残すことでそういった噂を利用して、公園の活性化をはかっている――というのは建前で、消すのが面倒という身も蓋もない職務怠慢な理由が含まれていたりもするけれど。
「い、いや、こないでください……!」
 と花菜が叫んだ。
 蝉の鳴き声が、一層大きくなる。
 一歩一歩、ジリジリと彼らは距離をつめていく。
 いくつもの真っ黒い影が――彼女に覆い被さっていく。
 その時だった。

『――お父さんは言っていた。弱いものイジメするやつは、ホントは弱いやつだって』

 城の中から、そんな声が反響した。
 突然の声に反応した登坂たちは揃って顔を上げる。
 すると二階の滑り台の入り口に、お面を被った一人の少年が現れる。どこか見覚えのあるお面だった。祭りの屋台でよく売っているような、ありふれたヒーローもののお面。
 ひょろっとした腕を組んで、お面の彼は少年らを一瞥する。そしてスノーボードをするような動きで立ったまま斜面を颯爽と滑り降りた。
 唖然としていた登坂が我にかえったようにハッとする。
「な、なんだよお前。カッコつけてバッカじゃねえの?」
「お父さんは言っていた。バカっていったやつがバカだって」
「バッ!?」
「女の子をイジメるやつは僕が許さない。ぜんいんまとめてぶっ飛ばす」 
 愚かしい子だ、と僕は見てて思った。
 格好つけてそんなヒーローじみた真似をするから……ほら、登坂たちが目と肩を怒らせてにじり寄ってくる。テンプレートに指の関節をパキパキと鳴らしながら。
「いい度胸じゃねーかお前。そんなひょろい体で誰をぶっ飛ばすって? ああー? どうやってぶっ飛ばすんだやってみろやオイ!」
 けれど、お面の少年は物怖じ一つしなかった。
「クソが!」
 そんな態度に逆上した登坂は、問答無用で殴りかかろうとする。けれど、
「……ンあ?」
 と、表情に戸惑いを浮かべて動きを止める。お面の少年がズボンの両ポケットから何かを取り出したからだ。彼は淡白質な声で呟く。
「じゃじゃん」と。
 右手にはライターを。
 左手には爆竹を。
 物騒極まりないものを持つお面の少年は、ぎこちない手つきで導火線に火を灯す。
 ジジジ、と火花が生まれ、彼らの前にひょいと放り投げてこともなげに言った。
「こうやって、ぶっ飛ばす」
 直後、連続して乾いた音が炸裂した。



 ふぅ、とお面の内側で少年はため息をつく。
 情けない悲鳴をあげながら散っていった登坂たちを尻目に、彼は尻餅をついていた花菜に近づいてそっと手を差し伸べる。
「だいじょぶ?」
「あ、ありがとうございます」
 戸惑いつつもぎこちなく少年の手を握る花菜。
 たしか彼女がここを訪れたのは、この頃の花菜の両親の不和が酷く、父親と母親の名前を相合い傘に刻むことで仲直りをしてもらいたかったとか――そんな理由だったような。
 城に伝わる『縁結び』の捉え方は少し違っているけれど、内気で争い事を好まない彼女らしい行動だといえる。
 花菜はワンピースについた砂を払ってから上目遣いで、
「あ、あの。私、白雪花菜と……いいます。……その、あなたのお名前は……?」
 とおずおずと聞いてくる。
 するとおもむろに彼はゆっくりとお面をはずした。
 中から現れたのは、空虚と無邪気がないまぜになったような少年の顔。
 真っ黒な前髪は少し目にかかるくらいで、目鼻立ちはいたって平凡。どこにでもいるような男の子だった。格好をつけて少女たちの前に現れた挙げ句、爆竹を使って少年らを退散させるという暴挙にでるような危険性を除けばだけれど。
 だけど彼は、この頃にはすでに父親を亡くしていた。
 それがすべての原因ではないにしろ、彼はいつも空虚な気持ちを抱いていたように思う。落書きが自由な『城』に通っては一人こもって日頃の不満を書き散らしたり、花火を持参して火遊びをするくらいには。
 そして少年は瞳に空虚を、笑みに無邪気さを浮かべて短くこう告げる。  
「僕は、つきしろこうや」
 当然にして残念ながら、幼少の頃の僕だった。

二章

「これは一体、どういうつもりで見せてるの?」
 ほとんど罰ゲームか何かだと思った。
 嘆息する僕に対し、隣に座るネネはやっぱり他人事のようにポップコーンを食べている。
「ふふん、なかなか良い質問だと思います。死神がどうして人間に走馬燈を見せるのか、それはご存じですか?」
「いいや」
 むしろわかる人がいたらびっくりするけれど。
 ネネはもったいぶるように人差し指をピンと立てる。
「実は明確な意図があったりするんですよねー実は。なんだかわかりますか?」
「見当もつかないかな」
「うわぉ即答ですね……。ちょっとは考えてくれてもいいじゃないですかー。月城さんってアレですか。足枷つけられて密室に監禁されたら即決即断で足をノコギリでぎこぎこ切断して脱出しちゃうタイプなんですかー?」
 と彼女は頬を少し膨らませて、ポップコーンを口いっぱいに放りこむ。ちょっとハムスターに見えた。一体どこまでが本気なのかまるで読めない子だった。
 しかし、そんなこと言われたって。
 たかだか人間の高校生が死神の思惑なんてわかるはずもないし、『死神の思惑』というフレーズからしてあまり好ましくないアンサーしか出ないように思われる。
「まぁ、見てればわかるってことだよね?」
 走馬燈の内容に何かしら法則性があるのなら、そこから意図をくみ取ることができるかもしれない。 
 僕の言葉に機嫌を直してくれたらしく、ネネの顔にパッと再び花が咲く。
「ですです。まぁ、月城さんじゃあわからないと思いますけどね!」
 すごくいい笑顔だった。本当になんなんだろうこの子は。
「ところでネネ、どうしてコレって僕の視点じゃないの? 僕の記憶で僕の姿を見るっていうのはちょっとおかしいと思うんだけれど」
「それはまぁ、そのほうが面白いからですよ。私が。モキュメンタリーっぽくやっても良いんですけど、やっぱり映画はスタンダードな手法が一番見やすいですからねー」
 率直だった。面白いからって。僕にとっては恥部そのものなんだけれど。
「あ、でもそこら辺の加工はしてありますけど、内容自体はいじってませんよ? せっかくのノンフィクションですからね。下手に内容変えちゃったら面白さが半減しちゃいますもん」
 どうしよう。この子がひとでなしに思えてならない。いや実際人ではないらしいけれど。
 こうして話している間も映写機はスクリーンに僕の走馬燈を流し続けている。
 花菜を助けて以来、僕は彼女とよく遊ぶようになった。
 といっても僕がこもり続けた『城』に彼女が毎回闖入してくる形だったけれど。それに小・中・高も一緒で、のんべんだらりと適当に過ごすだけの僕に、どうしてか彼女は見限りもせず『幸夜くん、幸夜くん』とまるでデキの悪い妹のようにずっとくっついてきた。
 だけど、それで僕の人生に彩りが生まれたかといえば……。

 ――スクリーンが、中学生の頃の僕らを映し出す。
「ずびずばーん!」
 と叫びながら、花菜が何やら変なポージングをしていた。
 場面は昼休みの教室。机を向かい合うようにくっつけて反対側に座っていた月城少年は、自動販売機で買ってきたパックのジュースをズズズ、と吸いながら唖然とした様子だった。
「何をしてるのさ、一体」
「えっ知らないの幸夜くん。今流行りの電光戦隊ズビズバンの決め台詞だよ?」
「だよ? って言われても。僕が当然のごとく見ている前提で話を振らないで欲しいんだけれど」
「でも小学校の時はそういうの見てたよね?」
「いつの話をしてるんだよ。僕はとっくの昔に卒業したし、そんな子供っぽいの」
 と月城少年は呆れるようにため息をつく。
「でもさ、花菜って変わってるよね。女の子でヒーローものが好きだなんてさ」
「ん? えへへ。だって私、本物のヒーローに会ったことがあるもん」
「へぇ、どこで?」
「ほら、あの青城公園で」
「どんな?」
「お面をかぶってて、爆竹が武器なお城の王子様みたいな人」
「……そんないかにもお巡りさんに補導されそうな危険人物が花菜のヒーローなの?」
 呆れた調子でそう問うと、花菜はクスクスと笑った。
「うん、そうなの。私ね、その人に会ってからずっと思ってたの。あんなヒーローみたいになれたらなぁって」     

 ――スクリーンが、高校生の頃の僕らを映し出す。
 そこは学校の屋上だった。鮮やかな夕焼けが一望できる放課後の屋上で、月城と花菜がフェンスに背を預けるように並んでいた。月城はこの時間のこの場所が好きだったし、彼女はいつも通り彼にくっついてきた形だった。
「ねぇ幸夜くん。進路、決まった?」
 と花菜は覗きこむようにして聞いてくる。
「いや、僕は就職しようと思ってる。母さんに迷惑かけたくないからね」
 半分は本音で、半分は嘘。迷惑をかけたくないというのもあるけれど、まぁ、例えば僕が大学に進学したと仮定する。……うん、自分が真面目に勉強しているイメージがまったくもって浮かんでこなかった。
「そうなんだぁ。……えっと、でも幸夜くんには何か目的っていうかその――」
「夢がないかって?」
「うん、そんな感じ」
 わりと真剣な質問を曖昧に問われて、ふむ、と月城は少し考えこむフリをする。即答すれば、たぶん花菜は悲しい顔をすると思ったから。
「ないかな。そもそも僕には縁のないワードなのかもね。そういう花菜はなんか夢があるの?」
「ええっ、私?」
 上手く回避されたことに気づかない彼女。自分に振られるとは思わなかったのだろう、頬を染めて口をもごもごさせていた。
「え、へへ……。実は私もまだ見つかってなかったり。でも――」
 と花菜は続ける
「私ね、それに似たようなものはずっと昔に見つけたことあるの」
「似たようなもの?」
 月城は首を傾げた。夢に似ているもの。僕は今でも彼女のその言葉の答えがわからないままでいる。
 夕日が一段と色鮮やかに輝いて、フェンスがキラキラと反射していた。
「最近ね、思うの」
 と、彼女は顔を少し上げて呟いた。それはどこか普遍的で、とてもキラキラしたもののように思えた。見上げた先に浮かぶ色鮮やかな雲みたいに。
 あるいは、好きな異性に届けるシンプルな告白みたいに。
「自分の人生をかけてもいいって思えるものに出会えるっていうのはね、たぶんそれは、一つの幸せの形だって――私は思うの」 

 白雪花菜は、いつも僕の隣で輝いていた。
 物事のほとんどをポジティブに捉えることが彼女にはできた。
 だけどその清らかさが、盲目さが、人によっては残酷な毒に変わることだってある。
 特に僕のような陰鬱な人間にとっては。強い光ほど色の濃い影を作るように、清らかな人間の側にいるだけで自分の中の醜さが浮き彫りになってしまう人だっている。
 父親がいて、優しくて、裕福で、混じりけもなく清らかで。
 何もかもを手にしているそんな花菜が、僕は――
「なんだか浮かない顔ですね、月城さん」
 僕の思考を遮るように、そんな声が隣から聞こえてきた。
 僕は誤魔化すように少しだけ笑ってみせる。
「さっきの答えだけど。もしかしてこれ、幸せなシーンを切り取ったものだったりするのかな?」
 だとしたら、的外れも良いところだけれど。
「まぁこんなに可愛い女の子と一緒にいるわけですからねー。でもでも残念ハズレです」
「じゃあ一体?」
 だけどネネはそれに答えなかった。
「月城さんは、自分の人生がもっと違ったものだったら――とか、そんな風に考えたことはあります?」
「……別に、ないよ。そんな風に考えたことは一度もないと思う」
「ですよねー」 
 さらりと肯定された。わりと真面目に返したはずなんだけれど。
 しゃらん、とネネの三日月のイヤリングが揺れる。小首を傾げながら、彼女は艶然と微笑みこう言った。
 すべてを見透かすように。
「だって月城さん、自分と自分の人生に興味がない感じですもんね?」
 ――と。
「放映中もずっと他人事みたいに見てましたし。まるで自分自身を否定するように客観的に自分の過去を捉えてますもん」
「いや、そんなことは――」
「ないって言えます?」
 僕は二の句を継げずにいた。
 一体全体、何を言いたいんだろうこの子は。こんな走馬燈を見せて、何をさせたいんだろう――死神という生き物は。
「ごめんなさい、ちょっとイジワルがすぎましたね。ヒントも少なすぎましたし。それに月城さん自身、記憶が一部欠けてますからね」
「え? それってどういう――」
 けれど言葉を遮るように、彼女の白く細い人差し指が僕の唇に押し当てられた。
 ポップコーンのほんのりと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐってくる。そして彼女は言った。
 噛んで含めるように、ゆっくりと。
「走馬燈は、死神が人間に契約をさせるために見せているんです。その人の魂を、死神が自分のものにするために」
 一瞬、何を言っているのかわからなかった。
 契約? 魂を自分のものにする?
 悪い冗談のようにしか聞こえなかった。
「契約の内容っていうのは?」
「んんー、そうですね。月城さんの魂を私にくれると約束してくれれば、過去の一つを改変することができる――というものです。ま、ほとんど地獄行きと変わらないんですけどね」
 と彼女はもののついでという感じでサラリと不吉なワードを言い放つ。
 地獄行きって。
「過去改変って……そんな大それたことをしても大丈夫なの?」
「いいんじゃないですかー? だって、それまで積み上げてきた人生を丸ごと台無しにするわけですし。頑張って頑張って善行を積んで手に入れた天国行きのチケットを、自分で破り捨てるようなものですからねー」
「ならそんなの普通、誰だって断ると思うんだけれど」
「ええ。だから見せるんですよ、走馬燈を。じゃあじゃあ月城さん、過去を変えたいと思わせるにはどんな場面を見せたら効果的だと貴方は思います?」
 彼女の問いに僕は少し考えてから、
「……後悔する場面、とか?」
 と答えてみる。するとネネは意味ありげに微笑んだ。どうやら正解のようだ。
 でも、正解ということは――
「じゃあ僕は花菜と一緒にいたことを後悔していたってこと? そう言いたいの、君は」
「んんー、半分正解で半分不正解ってところですかねーそれは」
「意味がわからない。ちゃんと説明してほしい」
「あはは、そんなにピリピリしないで下さいよー。百聞は一見にしかず、です。次のシーンを見ればわかると思いますよ? あなたの欠落した記憶の一部ですから」
 そう言って、ネネは前方のスクリーンに指先を向ける。仕方なく僕はそちらを見ることにした。
 一体、そこに何があるというんだろう? 
 僕はふいに、昔見た映画の中に出てきたフレーズを思い出す。
 ――人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない。
 あんなに陳腐で鬱屈した日常を送っていた僕の人生にだって、もしかしたら、最後の最後で甘くとろけるチョコレートのような出来事があったのかもしれない。
 ……でも、それは逆に言えば。
 毒入りのチョコレートが入っている可能性だって、ないとは言えないのだ。

三章

 真夏の夜のコンビニエンスストア。
 スクリーンに映されたのは、またも僕にとって馴染みの場所だった。
 というのも別によく立ち読みにくるというわけではなくて、アルバイトとしてここで働いていたから。
 基本的に僕はのんべんだらりな性格なので、あまり働きたくない。ぐうたらしたい。でも小遣いは欲しい。だけど、あいにく僕には振れば小判が出てくる木槌やお金のなる木も持ち合わせてはいないので、一番仕事が楽――いや、すぐ覚えられそうなコンビニで働こうという結論に至ったわけだった。
 同級生があまり来店することがない、少し奥まった場所にある寂れたコンビニ。
 そこでは過去の僕である月城が働く姿があった。
「それじゃ、僕は商品の補充をしてくるから」
 コンビニの制服である白のYシャツに青のエプロンを着た高校生の月城は、適当な調子で手をひらひらと振る。
 そんな彼とは正反対に、カウンターにいる店員が元気な声で返してきた。
「あ、はい! 了解ですっ」
 びし、と可愛く敬礼をする女の子。おなじみの幼なじみの白雪花菜だった。
 同色のYシャツとエプロンの格好をしているのに、月城と違ってとても似合っている。チョコレートブラウンの髪は肩でバッサリ切り揃えられていた。
 相も変わらずふんわりとした女の子だけれど、僕がこっそりアルバイトをしているのを看破すると「じゃあ私もするっ」と即決。わざわざ知人の来ない場所を選んだ僕の狙いが一瞬で崩壊したのだった。
 月城は店の入り口から対角線上にあるカップ麺コーナーを軽くチェックしてから、スタッフルームへ行っていくつかの段ボールを台車に積んで戻ってくる。
 ここが時間を潰すためのベストポジション。というのも、この場所は基本入り口側のレジにいるスタッフからも見えにくいし、反対の窓側の隅に設置されてあるミラーを見れば来店してきた人間をチェックできるから。交代にやってくる店長を警戒していればサボっていても誤魔化せるという寸法だった。  
 ぴぽぴぽぴぽーん、という無機質なチャイムが鳴る。どうやら来客のようだ。
『いらっしゃいませー!』
 という花菜の小鳥のようなソプラノが響く。奥でフライヤーの掃除をしているのが通路越しに見えた。 
 例によって月城は窓側のミラーを確認。あまり鮮明とは言わないけれど、男の姿が映っているのが見えた。キョロキョロと店内を見回しているようで、何やら挙動不審だった。
 しかも、男の格好がどうもおかしい。
 短パンに運動靴という格好は問題ないとして、腰から上が不自然だった。
 夏だというのに目深にかぶった帽子に、厚手のジャンパー。
 それに面積の多いマスクを着用していて両手はジャンパーのポケットに突っこんでいた。
 月城は怪訝に眉を寄せる。たぶん、僕と同じことを考えているのだと思う。
 そしてミラーから男の姿が消えた。ということは、窓側の立ち読みコーナーじゃなくて花菜のいる奥のレジカウンターに移動したのだろう。
 レジのほうに視線を移すと、彼女は再びフライヤーの掃除をしていた。近づいてくる男に気づく様子はない。
 月城は隠れるように棚の影に移動して、こっそりと覗きこむ。男の後ろ姿が映った。背丈はそれほど大きくはないけれど、体つきはしっかりとしている。帽子の後ろからはみ出した毛が反りあがるように跳ねていた。
「……ぃ。……せ」
 くぐもった男の声が、わずかに聞こえる。それにより花菜が慌てて振り返った。
「あ、すいませんっ。おたばこですか?」
 営業スマイルを作った彼女に、けれど男は首を振った。
 そしておもむろにジャンパーに突っこんでいた右手を抜く――鈍く光るナイフと一緒に。
「ッ」
 花菜の顔が一瞬で白くなる。声もでない様子だった。
 優位に立てたことで気が大きくなったのか、男はさらに肉薄する。ナイフをタクトのように振って見せびらかす。銀色の薄っぺらい脅威を誇張する。
「煙草はいらねえ。金を出せ」
 そんなテンプレートなセリフをボソボソと口にした。
 今度はかろうじてと聞き取ることができた。月城はどうすれば良いのか迷っている様子だ。あいにく携帯電話は真後ろのスタッフルームにあるので取りに行く余裕はない。このまま事が終わるまで見守るべきか、それとも――
 月城は苦虫を噛みつぶしたように顔を歪めた。だけどその時、
「……?」
 月城はふと怪訝な表情を浮かべた。
 おかしい、と僕も眉をひそめる。
 花菜の声がしない。僕の名前を呼ぶ声が聞こえて良いくらいなのに、それがない。パニックになって泣きわめいている様子もなかった。まさかもう――
 月城はまたこっそりと覗いてみる。強盗の背中越しに、花菜と目が合ったようだった。
 彼女の瞳は濡れていた。だけど、涙はこぼれていなかった。
 そして何気ない動作で右手を頭に持ってくる。
 敬礼、だった。
 その手は少しだけ震えていて、その唇はぎこちない微笑みを作っていた。
 ――大丈夫だよ、幸夜くん。
 隠れている月城に、そう伝えるように。
 ナイフを突きつけられながら、涙目になりながら、体を震わせながら、花菜は気丈に振る舞っていた。助けを呼ばないことで月城を守るように。そして、
「(……ちょ、花菜っ)」
 思わずと言った調子で月城が小声で叫ぶ。
 彼女が意味ありげに目線を下にやっているのに気づたのだ。たぶん、フットスイッチ――足元にある警報装置を作動させようとしているんだろう。瞬間、彼女の言葉を思い出す。

『私ね、その人に会ってからずっと思ってたの。あんなヒーローになれたらいいなぁって』

 やめろ……やめるんだ花菜。
 刺激すれば彼女の身が危うくなるのは明白だった。月城は拳が白くなるほど強く握りしめる。気づけば、僕も彼と同じようにしていた。
「あ? おい姉ちゃん、何しようとしてやがる?」
 と男の声が聞こえてきた。
 ……まずい、と月城は――僕は思う。
「まさかテメェ、警察を呼ぼうとしてんじゃねえだろうなぁ?」
「ひっ」
「ナメた真似しやがって……クソがァ!!」
 男は激怒し、ナイフを逆手に持ち替えて振り上げる。
 その瞬間だった。
 画面の中の僕が動いた。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
 叫びながら、全力で。
 泣いている花菜のもとに駆けつける。男が僕に気づく。弾かれたようにこちらを振り向いた。そこへ、僕は構わず全力でタックルをかます。
「早く逃げろ! 花菜ッ!!」
「幸夜くん!」
「いいから、早く!!」
 僕の一喝に、彼女はほとんど反射的に動き出す。レジカウンターを抜け、急いで出入り口のドアを開けて走り去った。
 これで彼女は大丈夫だ。こんな状況でありつつも、少しホッとする。だけど、
「……あ、が……!?」
 突然僕は右の脇腹を押さえて倒れこんだ。震える両手は、おびただしい血に染まっていた。
 僕の細い腹部に、男のナイフが深々と突き刺さっていたのだ。

 

 そしてエンドロールが流れ始める。
 倒れた僕と、うろたえる男の映像をバックに。
 無駄に明るくポップな音楽までかかっているのはネネの趣味なんだろうか? よく見れば脚本やキャストの名前が『月城幸夜』になっている。悪趣味にもほどがあると思った。
「どうでしたー? 映画を見たご感想は」
 とネネ。僕は背もたれに全身を預けて深くため息をつく。ここまで精神をすり減らす映画は初めてだった。少なくとも、何度も繰り返し見ようとは思えない。
「……うん、ちょっと情けない人生だったかな。死に場所とか、コンビニだし」
 別に世界を救うためだとか、そんな壮大な死を期待していたわけじゃないけれど。
 ネネはニコリと笑って言う。
「でも、まるでヒーローみたいでしたよ」
「はは……」
「ま、出てきた瞬間サックリやられちゃうあたり噛ませ犬的な役柄でしたけどね!」
 すごくいい笑顔で言われた。こんな場面でさえこの子は相も変わらずなのは、彼女が死神だからだろうか。それとも、死神の中でも変わり者の方なのか。後者であって欲しいと切に願う。
 でも、と僕は独り言のように呟く。
「……まぁまぁ、だったよ。最高だったわけじゃないけれど、最悪だったわけでもない。一貫して空虚な人生だったけれど、最後の最後で女の子を命がけで守ることができたんだ。だからまぁ、後悔はしてないよ。君と契約する必要もない」
「そうですか」
「うん、そう――」
 言いかけて、何気なく視界に入った画面に僕は釘付けになった。
 そこには倒れて微弱に痙攣している僕と、その前でうろたえている男が映っていた。
 けれどもう一人。
 コンビニの出入り口のドアを開けて、彼らのほうへ向かっていく少女の後ろ姿があった。
 激しく乱れているのは、チョコレートブラウンの後ろ髪。
「え、花菜……!?」
 信じられない気持ちで僕は叫んだ。
 そんな、どうして。
 なんで花菜が戻ってきてるんだ。意味がわからない。わかりたくもない。
 僕が刺されたのを見てパニックに陥ってしまったんだろう。なりふり構わずといった様子で花菜が男に向かっていく。
 けれど当然、女の子である花菜が太刀打ちできる相手じゃなかった。すぐに押し倒されて馬乗り状態になる。
 男は腕を振り上げる。そして、小ぶりの石のような拳が、彼女の顔面に落下した。
 何度も何度も。ビデオでボールが落ちるシーンだけを巻き戻して、リピート再生するみたいに。
 何度も。何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
 ボールがだんだんと赤く変色していくのがわかった。落下する度に彼女の体が微弱な電流を流したように痙攣する。ほとんど動かなくなってからもそれはまだ続いた。巻き戻されて、再生される。際限なくリピートされる。ポップで明るい音楽が流れる中で、悪趣味なエンドロールが流れる中で、その行為は延々と、延々と続いていった。
「ぅ、あ……」
 と、僕の口から言葉にならない掠れた声がこぼれ落ちる。
 自分の中で、何かが壊れる音がした。
「ああ……あああ! うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああア!!」
 狂ったように叫ぶ中で、同時にどこか冷静に物事を考える自分がいた。
 どうしてスクリーンに僕と花菜のやりとりばかり流れていたのか?
 どうして僕の記憶が一部分だけ失われていたのか?
 どうしてネネは僕に契約を持ちかけてきたのか?
 すべての謎が繋がっていく。欠けていた最後のピースがぴたりとはまる感覚。
 かくん、と僕の首が落ちた。そのまましばらくの間沈黙が漂う。
「……ッ」
 もしも花菜が僕に出会わなければ、愚かなヒーローに憧れなければ、僕と一緒に居続けなければ。そんな後悔の念が次から次へと溢れ出す。
 そして乾ききった僕の唇から、蚊の鳴くような呟きが漏れた。
「ネネ」
「はいなんでしょう、月城さん」
 わかっているくせに。白々しくも彼女はそう聞いてきた。
 死神の手の平で踊らされている自覚はあった。でも、だからどうした。それがなんだ。
「僕の魂を君にあげると約束すれば、この過去を変えられるんだよね?」
「ええ、その通りですよ」
「花菜を助けることはできるんだよね?」
「ええ、できます」
 ただし、とネネは人差し指を立てる。
「白雪花菜さんの結末は変えられても、月城さん自身の結末は変えることができません。それでもいいんですか?」
「……うん、いい。それでも」
 彼女を救えるのなら、なんだっていい。どうだっていい。
 するとネネは何気ない調子で三日月のピアスに手を触れた。
 その瞬間、彼女の姿が忽然と消える。
「……!」
 僕は辺りを見回そうと首を振る――振ろうとして、だけどそれができなかった。首に、三日月のような長大な鎌の刃先がぴたりと押しつけられていたのだから。
 耳元に甘い吐息が吹きかけられる。
「この通り、ジョークでは済みません。本当にいいんですね? もし契約したら、死んだ後で月城さんの魂を頂くことになるんですが。それでも本当に?」
 自然、僕は喉を鳴らした。本当に死神だったのか、と今さらながら実感する。けれど不思議と恐怖は感じなかった。
「構わないよ。それで花菜が助けられるのなら」
「ふむ? 不思議ですね。月城さんは少なからず彼女を憎んでいませんでした? 白雪さんはたしかに正義感のある善良な子ですが、無知で無神経な面があるために逆にその善良さがあなたを苦しめていたと思うんですけど」
「それはまぁ……そうかもしれない」
 だけど、と僕は目の前の鎌を素手で握りしめる。現実でもないのに皮膚が裂け、血がこぼれた。
 後ろにぴったりと貼りつくネネに、硬い声色で言い放つ。
「傍観者である君が、ましてや人間でもない死神である君が、僕と花菜のことでそんな知ったふうな口をきかないで。お願いだから」
 苛立ちを隠しきれなかった。けれどこうして怒るのも、とても久しぶりな気がする。
 瞼を閉じて、心を落ち着かせるように一つ息を吐く。また目を開けて、僕は静かに言った。
 花菜のことを思い出しながら。
「自分の人生をかけてもいいって思えるものに出会えるというのは、一つの幸せだって、花菜は言っていたんだ。……それがようやく、僕にもわかったような気がするよ」
 たとえ悪魔に――いや、死神に魂を売り渡したとしても。
 それでも後悔しないと思える選択は、やっぱり正しいのだと僕は思う。 
 するといつの間にか首に押しつけられていた巨大な鎌は消えていた。直後、後ろにいたはずのネネがまた隣に座っている。彼女の手には鎌ではなく、Lサイズのポップコーンが乗っていた。
 ネネはひょいとそれを一粒つまみ上げ、
「わかりました。いいでしょう。私もハッピーエンドのほうが好みですからねー」
 と、やっぱり本気なのかどうかわからない調子でうそぶく。
 真っ白いポップコーンを口に放りこみ、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。

「ではでは、月城さんのスペクタクルなご活躍に期待するとしましょうか」

四章

 気付がつけば僕は、夜中のコンビニエンスストアの中にいた。
 店の一番奥の棚に隠れるように立っている。すぐ後ろにあるジュースが陳列されている冷蔵ショーケースが、かすかにうなりを上げているのが聞こえる。店内は少し毒々しいくらいに冷えこんでいた。
「(……あ、れ? この場面ってもしかして……?)」
 暑くもないのに首筋に汗が流れた。僕は急いで本が陳列している側の隅にあるミラーを確認。けれどそこに男の姿はない。
 今度は、恐る恐る反対側にあるカウンターのほうを覗きこんでみる。
「!」 
 見た瞬間心臓が跳ねあがった気がした。息を呑む。
 目深にかぶった帽子からはみ出るそり上がった襟足、厚手のジャンパー。アンバランスな短パンにスポーツシューズをはいた怪しい男が、そこにいた。――花菜を撲殺した男が。
 それで確信する。僕は、過去に戻ってきたのだと。
 男の背中越しに花菜の姿が見えた。目と目が合い、彼女はぎこちない微笑みを浮かべながら敬礼をしてくる。この笑顔があの男によって潰されると思うと、僕の胸の中がザワついた。
「(……絶対、助けるから)」
 とにかく時間がない。もうすぐ花菜の企みが男に看破されてしまう。そうなる前に何か作戦を立てて彼女を助けなければ。手段も選んでられない。
 だけど近接での戦いは避けたかった。またがむしゃらに挑んだところで大した時間稼ぎにもならない。それで花菜が戻ってきたら――。
 何か武器が必要だ。
 間合いを取れて、なおかつ時間稼ぎができる武器が。
 僕はすぐ後ろを見る。そこにはスタッフ専用の部屋であるスタッフルームがあるけれど、あいにく今は僕と花菜しかいない。
 いやむしろ、男はあえてこの時間帯を選んだのかもしれない。というのも、強盗があるのは大体深夜の時間帯が多いみたいだから。成人男性である店長よりも、モヤシみたいな男子や弱そうな女子を相手にしたほうがやりやすいと踏んだのかもしれない。
 まぁいい。それを今考えても仕方のないことだ。
 しかしスタッフルームに武器となるものはありそうだけれど、反対側のレジカウンターからは丸見えなのでまず入れない。
「となると……ん」
 もしかしたら、と僕は思った。
 動きやすいようエプロンを脱ぎ捨ててから、音をたてないように本の陳列コーナーのほうに小走りで向かう。角を曲がり、女性用品の棚を影にして花菜たちとは反対側にあるもう一つのレジの近くへと進む。
 栄養ドリンクコーナーの隣に、目当てのものを発見した。
 僕が幼少から慣れ親しんできたもの――花火だった。
 色んな種類が並んでる。煙玉や爆竹は使えそうだった。ロケット花火で威嚇することもできるだろうけれど、それだと花菜にも当たってしまいそうだ。
 ……いや、そもそもの問題がある。
「火が、ない……」
 ライターが必要だ。けれど肝心のライターはレジ前の煙草と一緒に並んである。
 それだと手に入れた瞬間に僕の存在がバレてしまう。距離が少しあるとはいえ、花火の導火線に火を点けて発火するまでに時間がかかるだろう。導火線を千切って時間を短縮することはできるとは思うけれど、それも一発勝負。火が点かなかったりすればその間にナイフでグサリと刺されてジ・エンドだ。
 失敗は許されない。だけど時間もない。
 こんなふうに迷っている今でさえも、花菜の命のリミットが刻々と近づきつつあるというのに…………落ち着け。パニックになるな。何か手があるはずだ。花火がダメなら何か違うものを見つければいい。
 僕は周りを見回した。栄養ドリンクコーナー、雑誌コーナー、そして女性用品コーナー。
 そこでふと、僕の目に留まるものがあった。
「あれなら、もしかして……」



「あ? おい姉ちゃん、何しようとしてやがる?」
 と男の声が聞こえてきた。
 ……まずい、と僕は思う。
「まさかてめえ、警察を呼ぼうとしてんじゃねえだろうなぁ!?」
「ひっ」
「ナメた真似しやがって……クソがァ!!」
 男は激怒し、ナイフを逆手に持ち替えて振り上げた。
 その瞬間、僕は隠れていた棚から躍り出す。驚いたように即座に男が反応する。
 僕は構わずレジ前にあるライターを手にとった。そして男に向き合う。
「花菜を……離せ!」
「誰だよテメぇ!?」
 テンプレートな口調だけれど、面と向かうと迫力は全然違った。体格は倍以上に感じるし、猛獣に鼻息を吹きかけられたように勇んだ心が萎縮してしまいそうになる。
 だけど。
 僕は抗うように一歩踏み出した。
 それだけで男の顔が強ばり、意識が完全にこちらに定められる。
 これでいい。さりげに僕は花菜に目配せをする。僕は意識して笑みを作り、アイコンタクトで怯えきった彼女に伝える。
 ――花菜、今のうちに逃げるんだ。
 幼なじみということもあり、彼女にはきちんと伝わったようだった。
 戸惑いながらもこくりと頷き、花菜は男に気づかれないようにその場に出入り口へと向かう。
「あ、コイツッ!」
 彼女が逃げ出したことにようやく気づいたらしく、男が追おうとする。すかさず僕はバリケードのように両手を広げてとおせんぼ。
 男は僕が両手に持っているものに気づいたのだろう、怪訝な視線を向けてきた。
 左手にはライターを。
 右手には制汗スプレーを。
 それらを手に手に持って、僕はできるだけ優位性を演出するために静かに告げる。
「中高生の間ではわりとポピュラーなネタなんだけど。ねえオジサン、ライターと可燃性スプレーで何ができると思う?」
「……ッ!」
 危険を察知したのか、男がナイフをギラつかせてこちらへと向かってくる。
 すかさずライターに火を点けて、僕はその手前で『火気厳禁』と注意書きされたスプレーを発射。一メートル弱の炎が猛進する。
「うおおッ!?」
 と肉薄してきた男がたたらを踏む。
 いわゆる、簡易火炎放射器。
 下手をすれば缶の中のガスに引火する危険性もあるけれど、花火の不発よりマシだと思う。失敗すればナイフでグサリという前提で、だけれど。
 範囲は思ったりよりも狭い。けれどたぶん、心理的な効果範囲は実際にダメージを受けるレンジよりもずっと広いはず。現に男は射程距離よりも後ろで身構えていた。
 牽制しながらチラリと後ろを振り返る。花菜は……いない。たぶんもう外に出て誰かに助けを求めてるはずだ。
 だけどまだ安心できない。
 あの走馬燈だと、花菜が出入り口のドアを開けて戻ってきていたのだから。殺された僕を見て逆上して、無惨な返り討ちにあったのだから。
 それならこのまま男に深手を負わせておいたほうが良いのかもしれない。そんなことを考えていると――
「調子に乗るなよ、クソガキ!」
 男が叫び、レジカウンターに置いてあった募金箱を無造作に掴み上げた。
 人々の優しさや親切心がぎっしりと詰まった募金箱。
 勢いよく投擲することで、それは一瞬で凶器へと変貌する。
「がッ!?」
 持っていたライターが弾かれる。直撃した左手がミシミシと嫌な音を立てた。思わずスプレー缶も床に落としてしまう。
 そこへ一瞬で肉薄する男。振り上げられるナイフ。頭部を狙った鋭い刃先は、僕のバランスが崩れることで肩へと突き刺さる。
「うぎッ!?」
 刺された瞬間に沸騰するような熱が帯びた。遅れて尋常じゃない痛みが走る。
「う、あ、あああああああああああああああア!?」
 足がよろめき、僕は後ろにある手動のドアに倒れこんでしまう。
 白の制服が赤黒く滲んだ。ナイフは刺さった時に男の手からすっぽ抜けたらしく、僕の肩に聖剣のように突き立ったままだった。
 だけど、それでも劣勢なのは変わらない。
『自分の結末は変える事が出来ない』――ぼんやりとだけどたしかネネはそう言っていた気がした。なら、これも運命なのかもしれない。僕はきっともうすぐ死んでしまう。そして死んだ後だって、天国とやらの場所にだっていけやしない。
 ――けれど。
「それでも、花菜だけは……!」
 彼女だけは助けなきゃダメだ。そのために僕は『契約』をしたのだから。あの美しい死神に魂を渡すことで。
 だから僕は、明確な線引きをするように。
 寄りかかって半開きになっていたドアを引き戻し、ガチャリと鍵を回す。それを僕は頭で隠した。ここは死守しなきゃならない。絶対に。男を行かせないように。花菜が入ってこれないように。
 もしかしたら無駄なあがきなのかもしれないけれど、そうせずにはいられなかった。
 直後、男が無造作に僕の肩に突き刺さっていたナイフを引き抜いた。
「ッ……ぐ!?」
 痛みに顔を歪める。だけど、もう恐怖はなかった。どころか不思議と胸が満たされていた。
 ハッピーナイトストーリー。
 幸せな夜の物語。
 案外、この状況を見越してあの死神少女がつけたのかもしれなかった。
 ナイフがゆっくりと振り上げられる。正確に、今度こそ僕の頭部に狙いを定めて。
 赤い血がべっとりとついたガラス張りのドアに頭をもたれながら、僕は願った。
 自分の分まで花菜がこの先幸せでありますように、と。
 そして、最期に僕は微笑んで――

「ガぐッ!?」

 いきなり、男がナイフを振り上げたまま目の前でドサリと倒れこんだ。
 一瞬何が起こったのかわからなかった。見れば、そのすぐ後ろに誰かが立っていた。
 肩の痛みで意識が混濁していて焦点が合わない。視界も頼りなげに明滅している。
 だけど一瞬、はっきりと見えた。
 その人物は荒い息を吐きながら、募金箱を両手でかかえる少女だった。
 肩で切り揃えたチョコレートブラウンの髪に、今にも泣き出しそうな大きな瞳。どこかのヒーローのように僕を絶体絶命のピンチから救ってくれた女の子。
 意識が途絶える寸前に僕が目にしたのは、白雪花菜の姿だった。

エピローグ

 少し生温かい風になでられて、僕は目を覚ました。
 ほの暗い真っ白な天井がぼやけて目に映る。何度か瞬きを繰り返す。
「あら、気づきましたか月城さん」
 まだ不透明な視界に少女の顔が飛びこんできた。透き通るような金髪と、悪戯っぽいターコイズブルーの瞳。
 呼びかけようとしたけれど声が出ない。動けない僕に、彼女は優しく笑って何かを語りかけた気がする。
 その直後、彼女は煙のように消えてしまった。
 目をぎゅっとつぶってからまた開いてみる。すると僕の隣には、パイプ椅子に座った花菜が心配そうな顔でこちらを覗きこんでいた。
「こ、幸夜くん……ッ」
「あれ、花菜?」
「ああ良かった目が覚めたんだね幸夜くん!」
「痛たいよ花菜、そんなに強く抱きしめられると……」
「あ、ごめんっ」
 花菜は慌てて解放してくれる。彼女は幼少の頃と同じように白のワンピースを着ていた。やっぱりとても似合っている。
 改めて辺りを見回してみるも暗くてよく見えない。部屋の様式から、どうやらここは病室らしいことがわかる。
 彼女の話によると僕は三日間ずっと眠っていたようだった。強盗は無事逮捕されて、僕は花菜と一緒に救急車で運ばれてきた。彼女は目覚めない僕を心配してちょくちょく通い、こうして泊まりこみ看護までしてくれていた。
「心配かけてごめん。……でも、どうして僕は生きてるんだろう? それにあの子は――」
 僕の結末は変えられないはずなんだけれど。……ん? これって誰から聞いたんだっけ?
 なんか記憶が曖昧だ。目覚めたばかりで頭が働かないのかもしれない。
 すると花菜が僕の言葉に反応した。
「あの子って、もしかしてネネちゃんのこと?」
「……そうだった。ネネだ」
 思い出した。彼女の名前はたしかそんなだった。どうして忘れていたんだろう?
「いや、というかどうして花菜がネネのことを知ってるの?」
 そう聞くと、彼女は首を竦めて縮こまる。
「ええっと……幸夜くん。怒らないでね? 実は私も、ネネちゃんと『約束』したの」
「約束って……まさか、『契約』のこと!?」
 驚きのあまり飛び上がりそうになったけれど、包帯の巻かれた肩に激痛が走ってそれはできなかった。大人しくベッドに横たわる。
 えへへ、と花菜は眉尻を下げて困り顔で笑った。
「まぁ、うん。でもそれは幸夜くんもでしょう?」
 言われて、僕は苦笑を浮かべるしかなかった。まいった。どうにも反論できる余地がなさそうだ。
 一つ深いため息をついてから、僕は彼女に確かめる。
「つまり、僕と花菜はお互いネネに走馬燈を見せられて、お互いを助けるために『契約』をした。……そういうことなるのかな?」
「うん。たぶんそう」
 なるほど、と僕は納得する。
 過去が一部変わっていたのは、花菜が変えていたからだ。
『自分自身の結末は変えられない』というルールも、二人の人間が互いに互いの結末を変えてしまえばこの通り、というわけなのか。……なんとなく時間のズレとかがありそうなものだけれど。
 そこはもしかしたら、誰かさんが調節してくれたのかもしれない。おそらく自分が一番楽しめる演出を狙って。相変わらず彼女の意図が読めないけれど、僕はなんとなくそこにネネなりのメッセージがあるような気がした。
 だから、僕はそっと花菜の左手に自分の手を重ねる。
「ねえ花菜。君に一つ、告白してもいいかな?」
 そう言うと彼女は目を丸くした。でも、すぐに微笑んで頷いてくれる。
「あのね、花菜。僕はたぶん、君のことがずっと嫌いだったんだ。いつも真っ直ぐで、盲目的で、眩しいくらい輝いている君のことが、ずっと嫌いだった」
「……うん」
「でもさ、わがままだけどさ。これからもずっと僕の側にいてくれないかな? こんな僕で良ければ――もちろん、君が良ければ」
 地獄の果てまで……とはさすがに言えないけれど。
 おもむろに花菜は空いてるほうの右手を挙げた。そして彼女は瞳を潤ませながら、頬を赤く染めながら――いつものように。
「了解です」
 と敬礼をしてくれた。
 すると、開け放たれていた窓から夜の暖かい風が流れこんできた。
 見ると夏の夜空に細長い三日月が静かに浮遊している。誰かさんの瞳の色のように少しだけ青みがかっていて、誰かさんの髪の色のようにそれはとても美しかった。
 鋭い鎌の形をしたその月を眺めながら、僕は追憶する。
 記憶がどんどん薄れつつあるけれど、たしかに僕はネネという少女に出会った。
 ポップコーンと映画が好きで、時折り何を考えているのかわからなくて、そして何よりも誰よりも美しい少女に。
 そんな彼女はきっと、最後にこう言ったのだと思う。
『続編、楽しみにしてますからね』――と。
 僕は一人呟く。
「うん。次に会う時は、もう少し面白い映画を見せてあげるよ」
 窓から差し込む温かな月の光は、祝福するように僕らを照らしていた。