スラ子さんは不定形

黒木猫人さん著作

ジャンル:ファンタジー・学園

スライム少女スラ子さんと獣娘リンディーさん。ラノベ表紙風デザイン

プロローグ

 美少女とは、一体どのようなことを言うのだろうか。
 哲学には取り立てて興味があるわけでは無いのだが、そんな哲学的なことを考えてしまうくらいには、俺にとって『スラ子さん』は不思議な存在だった。
 というのも――
「おっ、スラ子さんだ」
「いやー、今日も美しい曲線だな」
「シンプル・イズ・ザ・ベストって言葉が似合う美少女だよな」
「ああ、可愛いよな。俺、今度告白とかしちゃおっかな」
 魔族の生徒達が登校する彼女を見て、口々に絶賛の言葉を述べる。
 ――いや、そりゃあシンプルだし、可愛いと言えば可愛いのかもしれないけども。
 と、スラ子さんは俺の姿を見つけて、近くへ這い寄って来る。
「ススメくん、おはようございます」
「ああ、おはよう、スラ子さん」
「今日も清々しくて、とても良い朝ですね。雲一つ無い空を見ていると、心が洗われるようで顔が綻んでしまいます」
 そう言うスラ子さんであったが、俺には具体的にどこがどう綻んでいるのかよく分からなかった。
 近くを通る女子生徒が「まあっ」と声を上げて、
「スラ子さんが微笑んでいらっしゃるわ」
「まるで青空のように爽やかで美しい笑顔ね」
 と微笑ましそうに言った。……いや、確かに青空のようにクリアブルーなお肌をしてらっしゃるけれども。
 不意に、スラ子さんが円らな黒い瞳をこちらに向けて、
「あっ、ススメくん。花弁が頭に付いてますよ」
「え? 本当に?」
「ちょっとだけ、じっとしてて下さいね」
 スラ子さんがにゅるんと触手のように、手というか身体というかを伸ばして、俺の頭上にぴとっと触れる。
「ほら、取れました。万年桜の花弁。この時期は気付かず頭に乗ってることが多いですよね」
 通学路の並木道にあり、年中咲き続ける『万年桜』のピンクの花弁。それがスラ子さんのぷるぷるの触手に乗せられていた。
「ありがとう、スラ子さん」
「いえいえ」
 多分そう言うスラ子さんは、今もきっと微笑んでいるのだろう。
 ただ、魔族では無い人間の俺には、スラ子さんの笑顔は全く判別が出来なかった。
 スラ子さん――本名『スラコ・エンドフィールド』さんは、クリアブルー色の肌が良く似合うスライムなのである。

一章

 俺――柊ススメ《ひいらぎ すすめ》が通う『魔界立魔王学園』は、今年で創立一万六百六十六年を迎える育成機関だ。次世代の魔王を育てることを目的とし、魔界の首都に設立されていて、そこには強い魔力を持つ魔族達が魔王になることを目指して入学して来る。いわゆる魔族のエリート校と言えた。
 しかしながら俺は、魔王になりたいからそこに通っているというわけでは無かった。
 俺には……魔族の可愛い女の子達――モンスター娘達とお近付きになりたいという野望があったのだ。
 ケモ耳、ラーミア、触手持ち等、異形ながらも可愛さ溢れる人外の美少女達とあわよくばお付き合いしたいという情熱を燃やして、小学校時代から魔法の勉強と特訓漬けの日々を送って来た。
 魔族達から下等種族と言われる人間でありながらも、魔力総量に恵まれた身体に産んでくれた両親には感謝が絶えない。果たして俺は努力が実って、今年の春、魔王学園に入学することが出来たというわけだった。
 ただ、現実は甘くない。入学してから二ヶ月、下等種族であるところの俺は、肝心のモンスター娘達から距離を置かれてしまっていた。彼女達からすれば、俺の方がよっぽど異形に見えるのだろう。
 そう、現実は甘くない。
「あっ、ススメくん。消しゴム落ちましたよ?」
「ごめん。わざわざありがとう」
「いいえ」
 入学して教室で隣の席になったスライム少女――スラコ・エンドフィールドさんは、どこからどう見てもただのスライムだった。
 決してグラマーなスタイルをした人型の形など取ったりすることは無く、プルプルしたゼリーのように不定形な見た目をしていた。
 スライムが美少女の形をするなどというのは、所詮人間の妄想でしか無く、スライムの方からすればわざわざそんな見た目をする必要はこれっぽっちも無いのだ。今の潰れた巨大グミのような見た目こそが、合理的かつシンプルな、ありのままの姿なのだろう。
「はあ……」ため息が出る。
「どうしました、ススメくん? 何か元気が無いようですけれど……」
「いや、大丈夫。別に何でも無いから」
「もしも具合が悪かったら、遠慮なく言って下さいね。私、保健委員なので」
 他のモンスター娘達から倦厭される中、スラ子さんだけは俺に平然と接してくれる。
 彼女に優しくされる度、俺は考えさせられる。
 美少女とは一体どのようなことを言うのだろうか、と――。


 極限まで無駄を削った美という意味では、スラ子さんは確かに、美少女と言えるのかもしれない。
 実際、周囲の魔族は、スラ子さんのそういうシンプルさを高く評価しているようだった。
 他にもスライムの女の子は学園に通っていて、見掛けたことがあるが、シンプルさという観点から見れば、確かにスラ子さんの方がスッキリしているというか、限りなく簡素な気はした。
 簡素過ぎて、特徴がまるで見えないというのが、俺の本音ではあるが。
 何にしても、絵描き歌にならないくらい、スラ子さんの見た目はシンプル過ぎる。
 楕円を描いて、黒い点をチョンチョンと二つ横に並べて書けば、それがずばりスラ子さんの容姿だ。
 直径は六十センチ程。ただ、クリアブルーの透ける身体は相当密度が高いようで、小さな身体からは信じられないくらい長い触手を伸ばせたりする。
 ちなみに『スラ子さん』というのは、俺が勝手に頭の中で漢字へと脳内変換しているだけで、実際は皆『スラコさん』と本名で呼んでいる。あくまで日本人である俺が、その方がしっくり来るというだけの話だ。
「ススメくん、どうかしましたか?」
 放課後、誰も居なくなった教室の黒板の前に椅子を置いて、その上に立って背伸びしているところへスラ子さんがやって来る。
 見ればスラ子さんはいつも教室の後ろに飾ってある、魔界の黒薔薇――ロサ・アーテルの花瓶を器用に頭の上へ乗せていた。
「その花瓶の水、いつも誰が変えてるんだろうって思ってたんだけど、もしかしてスラ子さんだったの?」
「はい。好きなんですよ、ロサ・アーテル。黒い花弁なんですけど、気品があって落ち着いた美しさというか……見ていて飽きないんですよね。だから先生にお願いして、毎日お水を変えさせて貰っていたんです」
「そうだったんだ」
 今日まで気付かなかった。
 スラ子さんは花瓶を教室の後ろへ持って行き、触手を伸ばしてそっと台の上へ置いてから、
「それはそうと、ススメくんは一体どうしたんですか?」
「ああ、先生から黒板の上の地図を剥がして、新しいものに貼り換えて欲しいって頼まれちゃって。ほら俺、今日は日直だったから」
 日誌を職員室へ持って行ったら、先生から任されてしまったのだ。
 ちなみ日直は二人一組なのだが、もう一人の日直であるウェアウルフの女の子からは「今日はこれから友達と遊びに行く予定だから、全部やっといてよ人間」と押し付けられてしまっていた。正直ムカッとしたが、化粧濃い目ながらも美少女なのと、ケモ耳がピコピコしているのを近くで拝めたので、我慢することにした。
 こうやって地道に好感度稼いでれば、いつかはお近付きに……と思う一方、これでいいのかと思わなくもない。うん、次同じことされたら怒ろう。でもケモ耳ピコピコさせてお願いされちゃうとなぁ……ああ、あの耳をもふもふしたい。
 それはともかくとして、スラ子さんが這い寄って来る。
「ただ椅子を使ってもギリギリ届かなそうな感じですけど……魔法は使わないんですか?」
「あはは、先生に魔法使っていいか訊いとくの忘れちゃって。職員室にまた訊きに行くのも面倒だったから、何とか魔法使わないでやれないかと思ったんだけど……ちょっと無理そうだね」
 魔王学園では、先生の許可無しに魔法を使うことは校則違反となっている。
 ただこれは、椅子だけじゃどうやっても届きそうに無い。仕方ない、魔法の許可を貰いに行くか……と思い掛けたその時、スラ子さんが思い付いたように、
「そうだ! 魔法を使わないでってことなら、私がお手伝いしますよ。ちょっと待ってて下さいね。準備しますので」 
 そう言ってスラ子さんは黒板の下に立つと、身体を元の何倍にも膨張し、硬質化させて、驚くべきことに椅子よりも遥かに大きい階段を作り出してしまった。
 その階段の横に付いてる二つの円らな瞳が、俺の方を向く。
「どうぞお使い下さい、ススメくん」
「え、でも、女の子の上に乗るのは何だか抵抗があるっていうか……申し訳ない気持ちに……」
「気になさらないで下さい。私が自分でススメくんのお役に立てればって思っただけですから」
 俺はそれでも悩んだが、スラ子さんのせっかく善意を無駄にしてしまうのも何だか違う気がした。
「……分かった。ありがたく使わせて貰うね。なるべく早く作業するから」
「お構いなく。焦らないで、ゆっくりでいいですよ」
 俺は恐る恐るスラ子さんの階段に片足を乗せる。若干ふにょんと柔らかさを感じたが、質感は硬めの体育マットのような感じで、特に不自由さを感じることなく階段を登って行くことが出来た。
 まずは古い地図を剥がす。一旦降りて、古い地図を丸めながら、俺はスラ子さんを見やる。
 俺にはスラ子さんの表情の機微はよく分からない。ただ、彼女の円らな瞳は、様子を見守るようにそっとこちらに向けられている。
 何も言わず、スラ子さんは階段の姿を維持し続けている。
 新しい地図を広げて準備しながら、俺はスラ子さんに入学当初から思っていたことを訊いてみた。
「ねえ、スラ子さん」
「はい、何でしょう?」
「スラ子さんはさ、どうして俺に優しくしてくれるの?」
「え?」
 不思議そうな声が返って来る。
「ほら、他の魔族の皆はさ、俺を避けているっていうか……。まあ、虐められているわけじゃないから、本当は良い奴らなんだと思う。でも、スラ子さんは最初から今みたいに接してくれてたでしょ。周囲の目も気にせず。ずっと気になってたんだ……どうしてなのかなって」
 少し間が空いて、それからスラ子さんは口を開いた。
「……最初からって言うのは、ちょっと違うと思います。私も最初は、ススメくんのこと少し怖かったですから」
「そうなの?」
「はい。生まれてこの方、人間の方とお話したことは無かったので。きっと他の皆もそうなんだと思いますよ。ただ私の場合は、最初の会話の時に、ススメくんが素直で優しい人だって分かりましたから」
「最初の会話?」
 思い出そうとするが、特別何かあったようには思えない。ごく普通の、知らない人達が初めて交わすようなやり取りだったと思う。
「多分、ススメくんはそんなに印象に残ってないと思いますよ。いや、私の姿形に驚いてましたから、視覚的な意味では印象に残ってるかもしれませんけど」
「えっ!? き、気付いてたの!? 俺が驚いてたこと」
 スラ子さんを初めて見た時はやっぱり驚いたというか、世の中の神秘を目の当たりにした感じで、こんな知的生命体が存在し得るものなのかと衝撃を受けた。
 というか、未だにスラ子さんの外見については考えさせられているくらいだし。
「気付きますよ。ススメくんは正直な気持ちがすぐ顔に出ますから」
「え? マジで!?」
 咄嗟に顔を押さえる。スラ子さんは涼やかな笑いを含んだ声で、
「はい、マジです」
 だとすれば、俺は今までモンスター娘達に接する時、とてもいやらしい顔をしていたということになる。……そりゃあ、ただでさえ学園唯一の人間なのに加えて、そいつが怪しい表情を浮かべてたら避けられもするわ。
 今後は意識して気を付けようと思った。
「でもススメくんは、私の姿形を見て素直に驚きながらも、ちゃんと普通に挨拶をしてくれましたよね。笑顔で、初めまして、これからよろしくお願いしますって。それを見た時、私はススメくんのことを優しい人なんだなって思ったんです」
「優しい……のかな。俺はただ、驚いたりしたら失礼だなって思っただけで」
 元々魔族の学校に入るに辺り、ひょっとしたら人間の理解が及ばない異形の存在が居たりするかもとあらかじめ想像していただけで、優しいというのとは違う気がする。
 それでもスラ子さんは首を横に振った。
「最初がそうだったとしても、そのことがきっかけで毎日話している今なら、自信を持って言えます。ススメくんは優しい人です。現にさっきも、変身した私を気遣ってくれました」
 そこまで言われてしまうと、俺は何も返答出来ず、照れることしか出来なかった。
 ただ、それを言うならスラ子さんの方がもっと優しい。
 不定形な見た目はともかく、中身の性格だけで言ったら、スラ子さんは間違いなく美少女だと思った。

二章

 だから俺は、スラ子さんは別に、スラ子さんのままでも良いと思っていた。
 ところがそれからしばらく経ったある日、スラ子さんに劇的な変化が訪れる。
 朝、教室に行ったら、制服を着たクリアブルー色の肌の美少女がクラスメイトに囲まれていて。
 可愛いな。あれぞまさに理想のスライム少女と呆けていて、俺は一度自分の机へと視線をやり、鞄をそこに置いたところで、
(……って、クリアブルー!?)
 と二度見してしまった。
 まさか、まさかあれは、と思っていると、スライム美少女がこちらへやって来て、何だか照れ臭そうに微笑む。
「おはようございます、ススメくん」
 俺は震える声で尋ねる。
「も、もしかして、スラ子さん……なの?」
「はい」
 そう、人型――しかも人間の俺から見てもはっきりと分かる美少女の形を取り、人型用の女子制服を着ている彼女は、スラ子さんだったのだ。
 スタイルはおそろしく整っていて、胸は大きくグラマーでもあった。瞳はあの感情の機微を全く窺えない円らな黒目では無く、今は身体のクリアブルーとは微妙に異なるサファイアのような色の瞳に、星のような輝きを秘めている。
 そして何より、今のスラ子さんには表情があった。見る者を惹き付ける柔らかな微笑みを浮かべる顔は、精巧に作られた人形のようにそれぞれのパーツが整っている。大きな瞳の上にある睫毛も細く柔らかく見え、質感も再現しているように思えた。
 透き通ったクリアブルーの肌だからそう思うのか、とても細かく作られたガラス細工のような、そんな芸術性を感じさせた。そこに生命の息吹を感じさせる『柔らかさ』が加わることで、人間の俺から見ても美しいと思えるような美少女へと、スラ子さんは変身を遂げていた。
 あとはこれまでと違って学校の制服を着ていることも、印象の違いを大きくしていると思う。当然、スライムは不定形なので、ぴったり合うような制服は無く、昨日までは身体の表面に校章を貼り付ける形で魔王学園の生徒であると示していた。
 それに比べてどうだろうか、今のスラ子さんは。人間で言うところの鎖骨の辺りだったり、制服のスカートから覗く程良くむっちりとした太ももが凄く眩しい。モンスター娘大好きな俺にとっては、神々しささえ感じる程だった。
「一体どうしたの、スラ子さん! その姿は!?」
 更に良く見れば、純粋な人型では無く、頭の左右に角のようなものがあり、背中にも小さな一対の羽が生えている。
 スラ子さんは両手を合わせ、もじもじと指を擦り合わせる仕草で、どこか恥ずかしそうに俯く。
「えっと……色々あって……」
「色々って?」
「それはちょっと……」
 結局その場では答えてくれず、スラ子さんが何故人型になったのかはよく分からないままだった。
 授業の休み時間の度にさり気なく様々な方面から情報を引き出そうとアプローチしてみるが、結果は変わらず、恥ずかしそうに口を閉ざしてしまう。
 ただ、恥ずかしそうであっても、どこか嬉しそうな様子ではあった。
 ちなみに俺は、あまりにもスラ子さんが理想のスライム少女過ぎるので、今日一日授業そっちのけでスラ子さんに見惚れ続けてしまっていた。
 ついに待ちに待っていたモンスター娘との恋が始まりそうな予感。



 スラ子さんが何故人型に変形したのかを知る為には、スラ子さん本人に尋ねる形では駄目だと思った。
 別の誰かの力を借りる必要がある。
(ただ俺、スラ子さん以外に友達って言えるような魔族、居ないんだよなぁ……)
 ただ、スラ子さん変形の謎は何としても解明したい。
 スラ子さんが何かの用で教室から出て行ったの見届けてから、周囲をぐるっと見回して、
(やっぱりこの子かな……)
 休み時間、俺の前の席で、頭頂部に生えたケモ耳を時折ピコピコさせている金髪のウェアウルフ娘。この前、カラオケに行くからと俺に日直の仕事を押し付けて行ったクラスメイト――リンディー・モールゲンさんだ。
 ちなみにリンディーさんはウェアウルフと言っても、人間の少女がケモ耳と尻尾を付けたような容姿をしていた。要するに、俺じゃなくとも一般的な人間から見て、普通に可愛いと思うであろうケモ耳娘なのだった。というか、スラ子さんが特殊過ぎるだけで、魔族は概ね人間っぽい見た目をしていることが多い。少なくとも俺の知る限りではそうだ。
 身を乗り出して彼女が何をしているのかと窺うと、机の上に小物入れやらマニキュアやらを置き、付け爪にピンセットでビーズをくっ付けてデコレーションしている途中だった。家でやれよ! と思ってしまうのだが、モンスター娘とお近付きになりたいという不純な理由で魔界までやって来た俺にとやかく言えたことではないなと気付く。
 俺は彼女の机の前側に回り込んでから、
「リンディーさん」
「へ!? うおぉぉぉ!?」
 顔を上げたリンディーさんは驚いた様子で碧眼を大きく見開き、椅子に座ったまま後退さった。ガンッと椅子の背もたれが俺の机にぶつかって、ピンセットで摘んでいたビーズがぽろっと落ちる。俺はその下に手を伸ばしてキャッチして、彼女の前に差し出す。
「はい、落ちたよ」
 彼女はまさに獣といった身のこなしで大きく跳び退さって、教室後方の机の上に四つん這いで着地する。金髪を逆立てながら、強烈な殺気を放って、
「な、何の用だよ人間! あれか!? この前日直押し付けたことを根に持ってんのか? もし戦うってんなら受けて立つぞコノヤロウ! たとえお前が――」
「違う違う。俺はただ、リンディーさんに訊きたいことがあっただけ」
「き、訊きたいことだと……!?」
「うん。とりあえず――」
 俺は周囲を見回す。リンディーさんが大声を上げて、戦闘態勢を取るものだから、何事かと皆目を丸くしてこちらに注目していた。
「あまり聞かれたくない話なんで、場所を変えたいんだけど」

三章

 そんなわけで俺は、リンディーさんと屋上へやって来た。が、彼女は未だ四つん這いの構えで、俺が下手な動きを見せようものなら飛び掛かって来て、八つ裂きにされそうな雰囲気だった。
 警戒されてんなぁ……。
「リンディーさん」
「なんだ! 止めるってんなら今のうちだぞ!」八重歯っぽく見える牙を覗かせて、ぐるるるると唸り声を上げる。
「いや、だから戦う気は無いって。知りたいことがあるんだ」
「ウェアウルフの弱点か!? 甘く見んな! 私は見た目チャラいし、そんなに成績良くないけど、種族としての誇りはちゃんと持ってるんだからな!」
「チャラいって自覚あったんだ……。というか、弱点には興味あるけど、今回訊きたいのはそれじゃなくて、スラ子さんのことについてなんだ」
「スラ子さん……?」
「スラ子さんがどうして最近、人型の形態を取るようになったのかが知りたいんだ。リンディーさんは何か知ってる?」
 リンディーさんの殺気が収まり、逆立っていた金髪がしんなりと戻って行くのを感じる。
「お前、まさかスライム族の能力を知らねぇのか?」
「能力なの?」
「マジかよ……。わざわざ魔王になりに来た癖に、変な奴だなお前」
 そうは言っても、入学直後に魔界の図書館へ魔族の図鑑を探しに行ったら、一応存在はしたものの、人間に対して閲覧禁止指定図書となってたし……調べようが無い。魔族は過去に人間と敵対し、戦争していたから、自分達の情報を知られたくないということなんだろう。
「それで良ければ、その能力について教えて欲しいんだけど……駄目かな?」
「……まあ、弱点とかだったら、人間に仲間は売れねぇし、絶対に教えねぇところなんだが……」
 ちらっと俺の顔を窺ってから、
「スライム族はな、誰かに恋をすると、その種族と同じ形態を取ろうとするんだよ」
「えっ、それってつまり……」
「スラ子さんに好きな奴が出来たってことだな」
 スラ子さんの頭に角、背中に羽が生えていたのを思い出す。
 俺はその場に跪き、両手を床に着けた。orz……ああ、コンクリートのひんやりとした感触が心地良い。
「ちょっ、今度はいきなり何だ!? まさかそれが人間の戦闘体勢なのかっ!?」
「いや、これは人間が戦いに敗れた時に取るポーズだよ……」
 果たして俺の恋は、始まる前に終わりを告げたのだった。



 それからしばらくが経ち、失恋の傷も癒え始めたある日のこと。
 いつもの昼休みのパン争奪戦を何とか制し、一日三十個限定の高級オムライス焼きそばパン(通称オムそばパン。学園特別プライス百五十円)とその他を両手に教室へ帰還しようと歩いていると――
「あ」
 二階渡り廊下の窓から見える中庭に、スラ子さんの姿があった。
 中庭のベンチに、男子生徒と一緒に腰掛けている。男子生徒には頭の左右に角と、背中に黒い羽が生えていた。顔立ちは遠目にも分かるイケメンで、あれがおそらくスラ子さんが好意を寄せている魔族なのだろうと思った。
 スラ子さんとイケメンが仲睦まじそうに昼食を共にしている姿は、とても絵になった。やはり世の中、美少女の心を奪って行くのは、それに相応しいイケメンなのだなと思うと、ちょっと悔しい。
 しかし、彼と一緒のスラ子さんはとても楽しそうで、幸せそうな笑顔を浮かべていて。
「まあ、いっか」
 スラ子さんが幸せそうならそれが一番だ。
 彼女の笑顔を見ていると、そんな気持ちが胸に湧いて来た。
 教室に戻ると、他のクラスメイト達が机を寄せている所へ行くつもりなのか、金髪のウェアウルフ少女が机の上に昼食を用意している最中で、
「リンディーさん」
「うおっ!? またお前か人間! 今度こそ喧嘩売る気か!?」
「違うって。今日は俺と昼食一緒にしない?」
「は!? なんでお前なんかと!」
「いや、日直一緒にやった仲じゃない」
「一緒にやって無いし! お前に全部押し付けたし!」
「酷かったねあれは。正直イラッとしたけど……でもそれは、この前スラ子さんの情報を教えて貰ったからチャラってことで。ちなみに今、俺と昼食を共にしてくれるなら、もれなく――」
 リンディーさんの前にオムそばパンを差し出して見せる。
「購買で一日三十個限定、オムそばパンを半分食べさせてあげよう」
「お……」
 リンディーさんが飛び跳ねるように席から立ち上がって、叫ぶ。
「オムそばパンだとぉぉぉ――ッ!?」
「うん」
「伝説のオムそばパン……! 本当にお前が手に入れたのか!?」
「どう? 一緒にお昼を食べてくれる気になった?」
「っ……わ、私は誇り高きウェアウルフ。それを食べ物で釣ろうなどと……!」
 とは言うものの、制服のスカートに設けられた穴から生えているモフモフの尻尾が、パタパタと左右に振られているのを俺は見逃さない。
 押して駄目なら――
「そうか、残念だなー。なら、俺は一人寂しくオムそばパンを食べよう」
 引いてみる。俺が彼女の前からオムそばパンを遠ざけると、慌てた様子で、
「ま、待て!」
「うん?」
「う、ウェアウルフは寛大な種族だ。たとえ相手が人間といえども、一応クラスメイトだしな。お前がどうしてもと言うなら、昼食を一緒にしてやらなくもない……!」
「そっか。ありがとうね、リンディーさん」
「お、おう……」
 その後、俺はリンディーさんと机をくっ付けて、約束通りオムそばパンを半分に分け合った。
 一口食べたリンディーさんは蕩ける様な笑顔を零して、
「ふわとろのオムレツと、濃い味のソースを絡めた焼きそばが、絶妙のコンビネーションを奏でて口の中で踊る……! これが伝説のオムそばパン……至福の味……!」
 はぐはぐと夢中になって食べていた。耳と尻尾が喜びを体現するかのように良く動く。
 うむ、ケモ耳娘はやはり良い。
「というか人間、お前の名前何だっけ?」
「ススメです」
 知らなかったのかよ。



 スラ子さんが幸せそうならそれで良い。そう思っていたのだが……彼女の様子に違和感を覚えるようになったのは、またしばらく経ったある日のこと。
 具体的に何がどうとは言えないが、俺には何となく、スラ子さんの元気が無いように思えた。
 スラ子さんが人型になって、些細な感情の変化も分かり易くなった。だからこそこの前までは、端から見てもとても幸せそうだった。
 それが今は感じられない。笑顔が見られなくなっていた。
 一応同じ女子から見るとどうなんだろうということで、前の席のリンディーさんに訊いてみる。
「ねえ、リンディーさん」
「あ? 何だよススメ」
「ここ最近さ、スラ子さん、何だか元気が無いように見えるんだけど。リンディーさんはどう思う?」
「多分、好きな男のことで悩んでるんじゃねぇの? 相手が相手だし」
「相手が……ってどういうこと?」
 するとリンディーさんは、鞄の中を漁って、小さなノートを取り出す。
「何そのノート」
「学園内のイケメンをチェックしたノートだ。えっと……」
 長い付け爪の指を器用に動かして、ペラペラとページを捲る。
「というか、リンディーさん、そんなものチェックしてるの?」
「バーカ、女子の嗜みだぞ。こうやってしっかりチェックして、計画的にアプローチを掛けて行かないと、イケメンはあっという間に狩り尽くされちまう」
「その中にはひょっとしたら将来魔王になる奴が居るかもってことか。ねえ、俺は載ってないの?」
「トイレの鏡で自分の顔を見てからモノを言え」
 リンディーさんにそう言われたので、俺は男子トイレに行って、鏡の前に立ち、出来得る限り格好良い角度を模索してから帰って来る。
「地味な顔の男が一人映ってました」
「よく分かってんじゃねぇか」
 ちょっと虚しくなった。
「で、話は戻るけど、スラ子さんの相手って?」
「えっと……二年三組のハリアー・ネメシスフォード先輩。昔から多くの魔王を輩出してるムーア族のネメシスフォード家長男。成績良好。魔力の総量は周囲が認める程で、実際の戦闘演習でもかなり強いらしい。二年生の中で魔王候補って言われている一人だな。外見はピカイチ」
 それはこの間、実際に目にしたから分かる。悔しくなるくらいイケメンだった。
「ただ……内面的なところが個人的には微妙かな。スラ子さんに元気がねぇのは多分、ここに原因があるんじゃないかと私は思う。勘だけど」
「内面的なところ?」
「ハリアー先輩はあんまり大きな声じゃ言えねえけど……女ったらしなんだよ。中学の頃から色んな女子を手篭めにしてたって噂。実際に私がチェックする途中で、スラ子さん以外の女子と一緒に居るところを見た」
「え」

四章

 ひょっとしたら、自分のやっていることはお節介なんだろうかとも思う。
 しかし俺は、ハリアー先輩の良くない噂を知ってしまって、居ても立ってもいられなくなってしまった。
 今日の昼休み、スラ子さんは教室で一人昼食を口にしていた。ここ最近はずっとハリアー先輩の所へ通っていたようだったのに。
 オムそばパンは今日はお預けにして、ハリアー先輩を探す。教室には居なかった。中庭にも居ない。それから学校中探し続けて……ようやく見つけたのは、体育館倉庫。
 傍らに見たことの無い女子生徒を置いて、イチャイチャしている最中だった。
 女子生徒はとても性的な、妖艶な無数の触手を持つ少女だった。いわゆる触手娘。普段なら羨ましいと思っていたかもしれない。
 ただ俺は、体育館の扉の隙間からそれを覗いていて、込み上げて来るのは怒りの感情だった。
 ハリアー先輩にとって、スラ子はさんは一体何だというのか。そう考えると、今にもこの扉を蹴り倒して乗り込んで行きたい気持ちになる。
 しかし、スラ子さんの笑顔が頭の中を過ぎって、俺は拳を強く握り締めたまま、その場を離れた。
 教室に戻ると、リンディーさんが弁当箱を開けないままで待っていた。
「おい、ススメ。今日は、オムそばパンは――」
 彼女は俺の顔を見て、驚きの表情を浮かべ、それから怖がるようにケモ耳を倒れさせる。
「な、何かあったのか?」
「え? どうして?」
「凄い怒った顔してるから……」
 そういえば、スラ子さんが言ってたっけ。俺は正直な気持ちがすぐ顔に出るって。
 努めて笑って、
「何でも無いよ。ごめん、今日はオムそばパンの争奪戦には参加しなかったんだ」
「そ、そうか……まあ、そういう気分の日もあるよな、うん」
 スラ子さんは昼食を終えて、どこかに行ってしまっているようだった。怒った顔を見られなくて良かった。
 このところオムそばパンを釣り針にして、リンディーさんと昼食を一緒にするのが日課となっていた為か、リンディーさんは俺の席の方を向きながら、ぱくぱくと弁当を食べ続けている。
 さっきの怒っていた表情が気になるのか、時折ちらちらと俺の表情を窺っていた。
 俺は、彼女に訊いてみることにした。
「あのさ、リンディーさん」
「何だ?」
「リンディーさんは……付き合うとしたら、自分だけを大事にしてくれる男と、自分以外の女性も大事にしている男、どっちがいい?」
「むぐっ!?」
 リンディーさんは驚いたのか、喉に食べ物が詰まったらしく、ペットボトルの水でそれを流し込む。
 息を落ち着けてから、
「いきなり変なこと言うな! そ、それはあれか? 私の好みが知りたいってことか?」
「まあ、そうなるかな。ほら、魔界って一夫多妻制でしょ。だからリンディーさんはどう思ってるんだろうって訊いてみたくてさ」
「ま、まあ弱点とかでは無いし? ススメがどうしてもと言うなら、教えてやらなくもないけど?」
 何だか忙しなくピコピコと動くケモ耳と、パタパタ振られる尻尾。彼女は言った。
「私は……というか、大多数の女子がそうだと思うけど、出来るならやっぱり好きな奴には自分だけを見て欲しい、大切にして欲しいって思うよ。でもまあ、それが叶わないならせめて、他の女と同じくらい自分を大切にして貰いたいよな」
「そっか。そうだよね……」
 ハリアー先輩があの触手少女とも仲良くしていることはよく分かった。ただ、それでもスラ子さんのことを大切に思っているかもしれない。
 こればかりは、ハリアー先輩に直接訊いて確かめる以外無さそうだ。



 放課後、ロサ・アーテルの花瓶の水を変えて教室に戻ると、スラ子さんが残っていた。
「あっ、ススメくん。花瓶の水、ススメくんが換えてくれてたんですね」
「うん、ごめん。ちゃんと言っておけばよかったね」
 スラ子さんは首を横に振って、
「いいえ、ありがとうございます。私、今日は花瓶のこと、忘れてしまいそうになってたので」
「まあ、そういう日もあるよ」
「この頃、あまりススメくんと会話、してませんでしたね……」
 スラ子さんに笑顔は無い。どこか悲しげな表情をしていた。
「ハリアー先輩って人のこと、好きになったんでしょ?」
「えっ……」
「中庭でよく一緒に、お昼を食べてたよね」
 スラ子さんは俯いて、口を閉ざしてしまう。
 俺は花瓶を教室後方の台に置いて、
「その時はスラ子さん、とても幸せそうな顔をしてた。俺はそれが見られれば、別に会話なんて出来なくても良かった」
「ススメくん……」
「でも最近は、ハリアー先輩と一緒に居ない。だからなのか、スラ子さん、あんまり元気が無いよね」
「それは……」
「出来ればさ、スラ子さんが笑顔になるようなことをしてあげられたらいいんだけど、俺じゃ多分それは無理なんだ。それが出来るのは、ハリアー先輩だけなんだよね」
 俺は自分の席に戻り、鞄を手に持つ。スラ子さんに振り向いて言った。
「じゃあ、俺は帰るから」
 手を振って、教室の出入り口に向かう。
「ススメくん」
 呼ばれて振り返ると――
「また明日」
 彼女は頑張って笑顔を作り、手を振っていた。
 俺はそれに答えられなかった。手を振り返すことしか出来なかった。
 明日もまた今日のように会話が出来るかなんて分からなかったから。
 場合によっては今日、俺はスラ子さんに嫌われることをするかもしれない。



 指定した空き教室に向かうと、ハリアー・ネメシスフォード先輩は例の触手少女を寄り添わせながら、椅子に腰掛けて待っていた。
「やあ、人間くん。約束の時間通りに待っててあげたよ」
「ありがとうございます、先輩」
「それで僕に話ってのは?」
 長くてサラサラの前髪を手で横に流しながら言う。
「スラ子さんのことです」
「一年のスラコ・エンドフィールドさん? 彼女のことで何か?」
「はい。最近、スラ子さんにあまり元気が無いようでして……おそらく先輩が、その触手の麗しい方とイチャイチャしているのが原因なんじゃ無いかと俺は思うわけなんですが……」
 すると、ハリアー先輩は、ふぅと溜め息を吐いて、
「やれやれそうか。ついついこの子に夢中になってしまってね。スラ子さんを放置してしまっていたよ。今度ご機嫌を取りに、教室まで足を運ぶことにしよう」
 ご機嫌を取りに、という言葉に腹の辺りが熱くなるのを感じる。
「えー、ハリアーったら、私はー?」
 しゅるしゅると身体のあちこちから触手を伸ばして、ハリアー先輩の制服の内側に潜り込ませる触手娘。
「もちろん君も大事にするよ。ただ、僕の立場上、スラ子さんと仲良くする必要があるのは分かるだろう?」
「立場上、仲良くする必要がある……?」
 今の発言はさすがに聞き流せなかった。
「立場上というのは、どういう意味ですか?」
 そう言ったのは、俺では無かった。俺の背後、空き教室の出入口のところから声はした。
 振り返ると、そこにクリアブルーのスライム少女が立っていた。
「スラ子さん……!」
 どうして彼女がここに、と考える暇も無く、スラ子さんはハリアー先輩に捲くし立てる。
「答えて下さい、ハリアー先輩! 今の言葉はどういう意味なんですか!?」
 ハリアー先輩は額に手を当て、困ったように溜め息を吐いて、
「あー、バレてしまったか……。まあいいや、じゃあ正直に言うけど、スラ子さんは自分が周囲からどのように思われているか、知っているかい?」
「え?」
 首を傾げるスラ子さん。おそらく彼女はあまり知らないだろう。というより、そういうことを気にしない性格なのだ。これまで見て来たから分かる。
「君はこう思われているのさ、学園一の美少女ってね。だから僕はそれを手に入れたいと思った。そばに置いておくことで、自分のステータスになる」
「そんな……!」
「僕は一応魔王を目指しているんでね。だからこそ見栄えが大事なわけさ。学園一の美少女と付き合っているという見栄えがね。君にも分かるだろう? それが分かっているからこそ、君も僕に近付いて来た。違うかい?」
「違います! 私は本気で先輩のことを……!」
「驚いた。違っていたのか。なら今後はもっと君を見てあげるようにしよう。今の君は恋をして、とても美しい姿になっているしね」
「ふざけるな」
 俺は気付けば、スラ子さんが唇が言葉を紡ぐ前に、そう言っていた。拳を強く握り締める。
 ハリアー先輩が不快そうな顔をして、
「うん? 何か言ったかな人間くん?」
「ふざけるなって言ったんだクズ野郎。一体何様なんだお前は」
「おいおい、君の方こそ人間の分際で一体何様だ? ムーア族の僕に対してその利き方。魔王学園に入るだけの魔力は持ってるようだけど、それだけで調子に乗ってるんじゃないだろうね?」
「ムーア族を馬鹿にするつもりは無い。ただ、お前は種族関係無しに間違いなくクズだ。それだけは断言出来る」
「あくまで僕を愚弄するか人間」
 ハリアー先輩が立ち上がって、背中の翼を大きく広げる。触手娘が「きゃっ」と驚いて離れる。
 全身から魔力を溢れさせて言う。
「ならば、痛みをもって教えてやろう。立場の違いってやつを」
「す、ススメくん!」
 スラ子さんが俺の制服の袖を引っ張って、首を横に振る。
 止めてと言いたいのか、そんなことしなくてもいいと言いたいのか。いや、おそらく両方だろう。
 それでも俺は彼女に告げる。
「ごめん。俺は今から、ハリアー先輩と戦うよ。どうしても許せないから」
「駄目ですよ! 戦うなんて!」
「あいつにだけにはスラ子さんを渡せない」
 掴まれた手を振り切って、
「俺はスラ子さんに幸せになって欲しいから」
 だから戦う。たとえスラ子さんに嫌われることになろうとも。
 俺は大きく息を吸ってから、先輩に向けて駆け出した。
「ハリアァァァ――ッ!」
「馬鹿が。調子に乗って、真正面から突っ込んで来て」
 ハリアー先輩が魔法陣を作り出し、そこから強力な火炎魔法を繰り出す。
 俺は同じく火炎魔法で、その攻撃を相殺する。
 ハリアー先輩は瞳を鋭利に細めて、
「一発相殺したくらいで調子に乗るな。僕が一度に使える魔法は――同時に百発だ」
 百の魔法陣が空き教室の隅々に至るまで展開して、そこから放たれた魔法が俺の視界を覆い尽くした。


 ハリアーは鼻で笑った。
「これだけの魔法、人間ごときに防げるものか」
 百の魔法が人間に向けて一斉に放たれる。既に空間自体を結界化している為、空き教室が傷付くことは一切無い。
 相手の人間にしても同様で、この結界内のダメージは相手の精神を削るだけで、実際に死にはしない。それくらいは考えてある。
 まあ、もっとも精神に深いトラウマは残ってしまうかもしれないが。
 ところが。
「な……に……?」
 百の魔法に対し、人間は恐るべきスピードでそれぞれと同じ魔法を撃ち出し、ことごとく相殺して行った。一つとして避けることなくだ。
 百の魔法を全て見切って、同じ魔法で撃ち落とすなど、ハリアーにも出来はしない。
 人間は一息吐いてから、右腕の具合を確かめるようにぐるんぐるんと回して、
「……どうやら先輩は、俺の立場なんて微塵も興味が無いようだから、言っておく」
「な、何なんだお前は!?」
 ハリアーは巨大な魔法陣を作り出し、大規模魔法を放とうとするが、それを発射するより速く、人間が懐に飛び込んで来ていて、
「俺は人間でも、魔王学園に主席で入学した男だぁぁぁ――ッ!」
 感じたこともないような強大の魔力の込められた拳が、ハリアーの顔面を捉え、意識ごと身体を吹っ飛ばした。

エピローグ

 ハリアー先輩が倒れ、空き教室の結界が解かれた後。
 触手少女は素知らぬ顔で逃げて行って、俺はスラ子さんと二人、空き教室に残された。
 スラ子さんはとても深いショックを受けたのか、人型から不定形の姿へと戻ってしまっていた。下に制服が落ちてしまっている。
 大きさはそのションボリ度合いを示すかのように、直径三十センチくらいにまで縮んでしまっていた。円らな黒い瞳は、床の方へと向けられている。
 彼女がどんな表情をしているのか、俺にはもう分からない。
 彼女は消え入りそうな声で言う。
「ごめんなさい、ススメくん……。私、教室でススメくんに元気が無いって言われて、それでちゃんと笑顔を浮かべられるようにならなきゃと思って……だから、先輩と話し合う為に来たんです。でも……」
「スラ子さん」
 片膝を着いて、彼女に声を掛ける。
「俺はさ、たとえスラ子さんに嫌われることになっても、スラ子さんに幸せになって欲しかったんだ」
 少しでも彼女が前を向けるように。
「俺は他の皆と違って、スラ子さんが今みたいな姿をしている時、それがどれくらい美しいものなのか、はっきり言ってさっぱり分からなかった。
 だからなのかな……見た目じゃなくて、スラ子さんの中身に触れる機会が多かったように思う。
 見た目の良さはよく分からなかったけど、それでもスラ子さんの優しさに触れて、俺はスラ子さんは本当に美少女なんだなって思えたよ。
 だから自信を持って。スラ子さんの外見だけじゃなくて、中身も良いって思ってくれる人がいつか必ず現れる。
 ハリアー先輩なんかよりずっと大切にしてくれるイケメンが現れるはずだよ。むしろこんな美少女放って置いてどうすんだって感じ」
 黒い瞳が動いて、こちらを見た。
「今すぐには無理かもしれないけど、いつかまた素敵な笑顔が見られる日を待っているよ」
「ススメくん……」
 小さな瞳に雫が溜まって、ぽろぽろと落ちる。幾つも、幾つも。
「ススメくん……ススメくん……」
 俺は彼女が泣き止むまで、傍らに居続けた。



 ハリアー先輩が結界を張ってくれたおかげで、空き教室に被害は一切無かったものの、校内で百発以上の魔法をぶっ放し、学校の先輩をぶん殴ったという事実に変わりは無く、俺は担任の先生に全ての経緯を話して自首をした。
 色々事実確認をするから寮で連絡を待てと言われ、夜八時くらいになって電話が掛かって来る。
 先生曰く、
「ハリアーに確認したんだが、そんな戦いは無かったと否定してる」
 どうやら先輩は、俺に敗北したのを無かったことにしたいらしい。
 そんなわけで、俺は謹慎処分等にはならず、原稿用紙十五枚の反省文提出という形で頭を冷やすこととなった。
 反省文を書くに当たり、自分を見つめ直すという行為はなかなか難しく、十五枚を埋めるのに一晩掛かってしまった。
 寝不足の欠伸を噛み締めつつ、翌日登校すると、
「おはようございます、ススメくん」
 再び人型の少女に変形したスラ子さんが照れ臭そうな笑顔を浮かべ、教室で待っていた。
「スラ子さん!? どうしたの? また人型に戻ってるけど……」
「えっと……それはその……」
 恥ずかしいという感情が昂ぶったことで、血の代わりに魔力が顔に集中して、変色させているのだろう。頬を赤く染めて、ちらちらと上目遣いでこちらを見ながら、言葉に詰まるスラ子さん。
「ふーむ」
 俺は彼女の身体を観察する。
 女子の制服に包まれた体形は昨日まで変形していたものと変わりが無いように見える。ただし今回は――
「角と羽が無くなったんだね」
 かあぁあぁぁっとより一層顔を真っ赤に染めるスラ子さん。
 それはそんなにも恥ずかしい事実なんだろうか。
 その後も観察を続けるが、それ以外に変わった特徴を見出すことが出来なかった。
「な、何か分かりましたか?」
 スラ子さんが訊いて来る。
 俺は首を横に振って、
「いや、ごめん。今度の相手はどんな魔族なのか、さっぱり分からないよ……」
 彼女の方を見やると、何故か怒った顔をしていて。
「あれ?」
「す、ススメくんの――」
 感情が極限まで高まった様子で瞳にじわっと涙を浮かべ、怒りも加わったからかこれ以上無いくらい顔を赤くして。
「バカァァァ――ッ!」
「ちょっ……スラ子さぁぁぁ――ん!?」
 聞いたことの無い子供っぽい大声を出して、彼女は教室から何処かへ走り去って行ってしまった。
 俺が呆然としていると、前の席のリンディーさんがいつからこちらの様子を窺っていたのか、ふんと鼻を鳴らして告げる。
「バーカ」
「えっと……なんかリンディーさんも怒ってない?」
「は? 怒ってねぇし」
 ぷいっと背を向ける金髪のウェアウルフ少女。
 いや、怒ってるでしょ。
「わ、分からん……」
 果たして、何故か『美少女』という定形を得たスラ子さんであったが。
 その女心というのは、種族関係なく、不定形のものであるらしかった。

おまけ『リンディーさんも不定形』

「なんか最近、私の扱いが雑な気がする」
 前の席のリンディーさんがそんなことを言い出したのは、スラ子さんが席を外しているとある日の休み時間のことだった。
 椅子に逆に腰掛け、背もたれに両腕を置きながら、釣り目をジト目にしている。耳がピコッと揺れるのを見て、俺はちょっと幸せな気持ちになる。うむ、ケモ耳娘は可愛い。
「おい、聞いてんのかよススメ」
「え? 聞いてる聞いてる。でも、どうしてそんな風に思うの? 少なくとも俺は、そんなつもりは毛頭無いけど」
 リンディーさんを愛でこそすれ、雑に扱うなどあるわけが無い。
 彼女は視線をちらっと俺の隣の席へと向けて、
「……スラ子さんと私の扱いに差を感じる」
「そうかなあ?」
「最近、オムそばパンも分けようとしないし」
「あれ? 食べたかった? ならそう言ってくれればいいのに」
 スラ子さんとまた話すようになって以降、リンディーさんは昼休みに別のクラスメイト達と昼食をとるようになっていたから、俺はてっきりオムそばパンに飽きられてしまったのだと思っていた。
 この頃スラ子さんが昼食に誘ってくれて、俺は彼女と教室で昼休みを過ごすようになっていた。
「じゃあ、私がオムそばパンくれって言えば、お前は私と昼食を一緒にすんのか?」
「うん、いいよ」
「スラ子さんは?」
「え? うーん、その場合はスラ子さんに訊いてみないと」
「ほら、スラ子さん優先じゃん」
「いや、そんなこと……」
「もういい」
 リンディーさんはそう言って、ぷいっと背中を向けてしまった。
 その後何度か話し掛けるものの、彼女は無視して口を利いてくれなかった。



 だから俺は驚かざるを得なかった。
「よっ、ススメ」
「リンディーさん、一体何しに……?」
 その週末、寮の部屋に彼女が訪れて来た時は。
「暇だから遊びに来た」
「え……」
「お前、滅茶苦茶成績良いんだから、ついでに宿題とか教えてくれよ」
「いや、でも部屋汚いし」
「大丈夫、分かってるって。男の部屋なんだから」
 有無を言わさず、リンディーさんはドアを開いた俺の腕の下を通って、部屋の中に入って行ってしまう。
「わー! わー!」
 慌てて俺は部屋の掃除に取り掛かった。
 そうしてドタバタやっている横で、リンディーさんは俺のベッドに寝転がる。
「ちょっと、リンディーさん! ベッドは……!」
「んー、まあ男臭いけど、別に私は気にしねぇし」
「俺が気にするの!」
 しかしながら、自分のベッドにうつ伏せになって、尻尾をパタパタやっているケモ耳娘の姿というのはなかなか扇情的ではあった。変な気を起こし兼ねないから、あまり見ないようにしよう。
 ただちゃんと見ていなかったせいで、
「ん、何だこれ」
 いつの間にかリンディーさんがベッドの下を漁っていることに気付かなかった。
「ちょっ……リンディーさん、そこは駄目だぁぁぁ――ッ!」
「魅惑の人外娘集?」
「ギャ――ッ!?」
 軽い身のこなしで俺が伸ばした手をかわし、ページを捲って行くリンディーさん。やがて、
「……お前、なんで人間が魔王学校なんかに来たのかってずっと思ってたんだが、そうか……」
 彼女はニヤニヤと笑って、
「そういう趣味だったのか」
「ぐあぁぁぁ!」
「つまり私の耳とか、尻尾とかが堪らなかったりするわけなんだな? ほれほれー」
 ここぞとばかりに耳をピコピコ、尻尾をパタパタさせる。
 俺はその場にうずくまって、顔を押さえて懺悔する。
「すみません! そうです! 俺はリンディーさんみたいなモンスター娘が大好きなんですぅぅぅ――ッ!」
「ススメの変態」
「うぐっ……!」
 しかし顔を上げると、リンディーさんは笑顔を浮かべていて。
「まあ、私は別に気にしねぇけど」



 週が明けての昼休み。
 リンディーさんは、俺やスラ子さんと昼食を共にしていた。
「それにしても、昨日は楽しかったな、ススメ?」
「えっと……」
 動揺する俺に、ニヤッと笑って、
「まさかススメにあんな趣味が――」
「わー! ストップストップ!」
 俺は慌ててリンディーさんの口を押さえる。
 それを見ていたスラ子さんは不機嫌そうな顔をして、
「ススメくんって、リンディーさんと仲良しなんですね。休日も一緒に過ごすくらい」
 一方のリンディーさんは、半分に分けたオムそばパンをあーんと頬張り、上機嫌な様子で。
(女の子ってやっぱり分からん……)
 理解するには、まだまだ時間が必要なようだった。