妖精が見守る物語

タカテンさん著作

ジャンル:三角関係

 「あのね、ついに男の子になったの!」
 それはとある小学五年生の朝のこと。
 いつものT字路で、いつもの三人が集まると、光(ひかる)ちゃんがとても嬉しそうに打ち明けてきた。
「ウソ!? じゃあ、アレ、生えてきたの?」
 光ちゃんの衝撃告白に、紫苑(しおん)ちゃんが思わず大きな声で聞き返す。
「うん! いやー、びっくりしたよ。朝起きたらなんか股間が変な感じでさー。でも、よかった。だってうちの父さん、絶対あたしを男にするって決めてたからね。ホント、あのプレッシャーの日々は辛かった」
 と言ってから「あ、いけない。今日から『オレ』って言わなきゃ」と舌を出す光ちゃん。その仕草はやっぱり女の子っぽいよと思ったけれど、今日から男の子になったんだもん。急には変われないよね。
 てか、ボクだって、これからは「光君」って呼ばなきゃ。
「良かったね。おじさん、大喜びしたでしょ?」
「うん! もう、嬉しさのあまり『うぉー!』って叫んじゃってさー。今夜はお祝いの焼肉だーって!」
 両手を上げて喜ぶおじさんを再現する光君に、ボクはふふって笑った。
「焼肉! いいなぁ、焼肉!」
 傍らで「なんで男の子になったお祝いが焼肉で、女の子は赤飯なんだろう?」と紫苑ちゃんがぶつぶつ文句を言い始める。
「女の子もしゃぶしゃぶとかにしてくれないかなぁ」
 えーと、それはそれでちょっと違うんじゃないかな。
「ボクは、女の子はスイーツの方がいいと思うけど」
「あ、それいいね!」
 よーし、初潮が来たら、私はスイーツ食べ放題に連れて行ってもらおうと紫苑ちゃんが意気込んだ。

 時々、神様はどうしてボクたちをこんなヘンテコな体にしたんだろうって思う。
 なんで生まれてきた時に性別をはっきり分けなかったんだろう、って。
 十歳ぐらいまで男の子でも女の子でもない、いわゆる「幼生」と呼ばれる状態。身体は女の子だけど、子供は産めないし、おっぱいだって大きくならない、あくまで仮の身体。おちんちんが生えてきたら男の子、初潮を迎えたら女の子にようやくなれる。
 男の子になるか、女の子になるかはまったくの運任せ……と思っていたら、案外そうでもないらしい。
 十年も生きていたら、普通は自分がどっちになりたいかなんとなく分かるらしくて。これも不思議なんだけど、大抵はそんな想いが運命を決定付ける。
 まぁ、中には光君みたいに「男の子になって欲しい!」っていう親の気持ちに影響されて、というのも結構あるみたいだけど。
 ちなみに紫苑ちゃんは絶対女の子になると決めているそうだ。理由は「私みたいにカワイイ子は女の子にならないとおかしいじゃん!」だって。紫苑ちゃんらしいけど、でも、確かに紫苑ちゃんが男の子になる姿は想像出来なかった。
 そして、ボク、上月 歩(こうづき あゆむ)はと言うと……。

「とりあえずさ」
 学校への道を歩きながら、光君が話し始める。
「中学生になったら野球部に入るんだ。もちろんエースで四番。高校で甲子園を制覇して、そのままプロになって、そしたら」
 急に右隣を歩くボクを見てニカッと笑った。
「あたし……じゃなかった、オレと結婚しようよ、あゆむ」
「え? えーと……」
「ちょ、光! なに勝手なことを言ってんのよ! あゆむは私の旦那さんになるんだからね!」
 すると逆方向から紫苑ちゃんが、ボクを渡すもんかとばかりにぐいっと引っ張って抱きついてきた。
「あゆむはスーパーモデルになった私のマネージャーをやるの。だってあゆむはとっても優しいんだもん。きっと激務で忙しい私を癒してくれるに違いないんだから!」
「う? うーん……」
 なんだろ。どちらもボクを養ってあげるって言ってくれるのは嬉しいんだけど、ちょっと情けない気もする……。
「オレが結婚するの!」
「私の旦那様兼マネージャーなの!」
 ついに僕の左右を引っ張り合うふたり。
 そんなこともあって、ボクはどちらになるべきなのか決めかねていたのでした。

  あれから四年。
 四年も経って、中学三年生にもなれば、当時と色々変わっているのが当たり前だと思う。
 例えば光君はあれからどんどん背が伸びて、すっごく男の子っぽくなって、本当に野球部のエースで四番になった。朝早くから一人でトレーニングをしたり、夜遅くまでバットを振ったりして、野球尽くしの毎日を送っている。
 紫苑ちゃんは六年生にあがった頃に無事女の子になるやいなや、読者モデルのオーディションに合格。人気も上々で、こちらも毎日忙しそうだ。
 多忙なふたり。それでも朝は子供の時のように、ボクに付き合って一緒に登校してくれている。
 ただ、ひとつ。ボクたちの関係にも大きく変わったところがあった。
「あ、あのね?」
「ん? どうした、あゆむ?」
 いつもボクの左隣を歩く光君が見下ろしてくる。
「なに? あゆむ?」
 そして同じく子供の頃から変わらずボクの右隣をキープする紫苑ちゃんが、ドキっとするような笑顔で微笑んできた。
 よ、よし、今日こそ……
「えっと、せっかく三人揃って登校しているんだから、みんな仲良く」
「イヤだ!」
「イヤよ!」
 あうっ。「しようよ」と言い終わる前に、ふたりから鋭くツッコミを受けてしまった。
 てか、紫苑ちゃん、天使のような笑顔がいきなり鬼の形相になったよ?
「そんなことよりも昨日はクッキーを焼くんだって言ってたじゃないか。どうだ、上手く焼けたか?」
「それよりあゆむ、最近ちょっと筋肉がついたんじゃない? 筋トレ、続けてるの?」
 そしていつものように別々の話題を持ち出してきて、
「おい、紫苑」
「なによ、光」
「あゆむはクッキーを作ったり、料理をするのが好きなんだ。筋トレとかあゆむには似合わないだろ」
「残念。あゆむってば結構筋トレとかやってるんだから。野球ばっかで、あゆむにかまってあげられないあんたは知らないでしょうけどね」
 紫苑ちゃんが小馬鹿にしたようにクスクスと笑い、
「なんだと!?」
「なによ?」
 やっぱりお約束のようにボクを挟んで睨み合いを始めてしまった。
 元を辿れば光君が男の子になった時からだろうか。ホントいつもいつもよく飽きないなぁと呆れる反面、仲良しこよしだったボクたちがこんな風になってしまった原因を考えるとしゅんとしてしまう。
 原因は言うまでもなく、ボクにある。
 ふたりの気持ちを知っているのに、ボクはずるずると決断を引き延ばしていて気がつけばもう中学三年の六月。
 目指す進路もそろそろ決めて、本格的に自分の人生を選択しなくちゃいけない時期だというのに。
 ボクはいまだに自分が男の子になるのか、女の子になるのかさえ決めかねていた。
「もう、ふたりとも喧嘩はやめようよぅ」
 今日も今日とて調停が不調に終わったボクは、仕方なく事態の収拾に努めることにした。
 鞄から昨日焼いたクッキーを取り出すと、まずは紫苑ちゃんの口の中に投下!
「んっ!? ……ん~、美味しいぃ~」
 鬼のような形相が一転、蕩けるような笑顔になって、紫苑ちゃんがボクに抱きついてきた。
「あわわ」
 子供の頃からよく抱きついてきた紫苑ちゃんだから馴れているけど、最近はその、体つきもすっかり女の子になっていて、柔らかいものを押して当てられると正直ドキドキしてしまう。
「お、新作だな? どれ、オレもひとつ」
 紫苑ちゃんに抱きつかれて身動き出来ないボクに、光君のごつごつとした手が伸びてくる。
 子供の頃はボクと変わらなかったのに、四年という歳月と、その努力を感じさせる手だった。
「うん。美味い! さすがあゆむだ!」
 もっとも夏のお日さまみたいな、ニカっとした笑顔は相変わらずだけど。
 なんとか場を収めたボクは、さらにクッキーの入った小袋をふたりに手渡すと、みんなでつまみながら再び学校へと歩き出した。
 食べ物は心をおおらかにするよね。一時休戦とばかりに、ボクたちは最近のボクがこつこつやっている筋トレの話から、紫苑ちゃんがお仕事で体験した面白かった出来事、さらにはこの夏、軟式中学野球で頂点を狙う光君の調子なんかで盛り上がった。
 他愛もないけれど、とても大切な時間が流れる。
 だから。
 ――どちらかを選ぶなんて、本当にボクは出来るのかな……。
 そんな不安を悟られないよう、ボクは頑張って笑っていた。

「じゃあな、あゆむ。また明日」
「あゆむ、授業中に居眠りとかしちゃダメよ」
 昇降口で上履きに履き替えると、ボクたちが一緒にいられる時間は基本的に終わりになる。ボクとふたりはクラスが違っているからだ。
 おまけに光君は部活、紫苑ちゃんはモデル活動で忙しい。だから帰りも一緒になることはない。
 それでも三年生に上がる前までは、ボクたちの時間はまだしばらく続いていたんだ。たとえクラスが違っていても、お昼ご飯は三人一緒に摂るのが日課だったから。
 だけど三年に進級してから、そうも行かなくなった。
 妖精組。
 いまだ男の子にも女の子にも変われないボクたち幼生が纏められ、一般生徒とは完全に隔離された教室を、どこの誰が言い始めたのかは知らないけれど、みんながそう呼んだ。
 隔離までして妖精組では一体何をしているのか? と言うと、これがちょっと変わっている。普通の授業は一切なくて、ただひたすら男の子か女の子に「変態」するための特別カリキュラムが課されるんだ。
 でも、別にすごく特別なことをやるわけじゃないよ?
 男と女の先生のもと、プラモデルを作ったり、刺繍をしたり、格闘技の真似事をしてみたり、クラシックバレエを踊ったり。男の子らしかったり、女の子らしいことをやることで、身体に変化を促す刺激を与えるんだって。
 正直、お遊びみたいなもの。高校受験に向けて、さらに難しくなる授業を受けているみんなからすれば羨ましいかもしれないけど、その分だけ妖精組は勉強が遅れちゃう。
 一応教科書は貰えるから、ボクは家で勉強しているけれど、過去の妖精組の中には変態が遅れたばかりに中学浪人になった人までいるそうだ。
 そこまでしてどうして妖精組なんてものを作るのかは知らない。
 ただ一般生徒から完全に隔離されて、勉強もさせてもらえず、お遊戯みたいなことをさせられる……たいていの人は変態しなくちゃって気持ちが強くなる。
 だから四月には十人もいた妖精組も、一学期の半ばにはボクを含めて三人になっていた。
「お、おはよう」
 教室に入ると、すでにボク以外のふたりが席についていた。
 ひとりは窓辺で本を読んでいる相田(あいだ)かなめさん。長くて艶のある黒髪がまるで日本人形みたいに奇麗で、この人がボクと同じ幼生だなんて信じられないぐらいの美人さんだ。いつも本を読んでいて、妖精組の授業にもまるで参加しようとしない不思議な人だった。
 そしてもうひとりは
「おはよう、上月。今日は女の子の授業の日よね。一緒に女の子になれるよう頑張ろうね!
 急に伸びるわけもない髪にエクステを付け、馴れないスカートを穿き、懸命に女の子っぽい話し方をする桐山瞬(きりやま しゅん)さん。これでも春先まではどちらかと言えば男の子っぽくて、妖精組のみんなに「一生幼生のままでいようぜい」なんて言っていた。だけどみんなが次々と妖精組を卒業していった今では女の子になろうと必死だ。
「う、うん。がんばろう」
 朝からテンションの高い桐山さんに圧倒されつつ、ボクは自分の席に座る。
 やがて女の子の授業を受け持つ先生がやってきて、女の子の意識を刺激する授業『女の子ごっこ』をすることになった。

 教室に女の子っぽい、どこか甘いような匂いが充満している……。
「ほーら、あゆむちゃんもすっごく可愛くなったよ。鏡、見てごらん」
「う、うん」
 先生に渡された手鏡を恐る恐る覗いてみると、すっきりと眉毛が整えられ、眼がぱっちりと強調されたボクがいた。
 頬にはチークが乗せられ、唇もリップの加減でいつもと比べて瑞々しい。
 まるで紫苑ちゃんが載っているファッション雑誌の女の子みたいで、自分のことながら驚く。
「うわっ、あゆむちゃん、カワイイ!」
 突然、にょっきと鏡とボクの間に桐山さんが顔を出してきた。
 いつもはボクのことを「上月」と苗字で呼び捨てにする桐山さんだけど、授業中はルールに従って下の名前で、男の子の授業なら「君付け」、女の子の授業なら「ちゃん付け」で呼ぶ。
「そんなことないよ、瞬ちゃんもカワイイよ」
 だからボクも桐山さんを下の名前で、ちゃん付けで呼んだ。
 なんでも君付け、ちゃん付けで呼ばれることで、それぞれの性への意識を高めるんだそうだ。
「瞬ちゃんも? ってことはあゆむちゃん、自分で自分のことをカワイイって思ってるんだ?」
「え、いや、それは言葉のあやって言うか」
「しかもさっきのは自分のほうがカワイイって上から目線での言い方だ!」
「そ、そんなことないよ! ねぇ、先生、ボクより瞬ちゃんの方がかわいいよね?」
 劣勢なボクは先生に助けを求める。だけど
「はい、あゆむちゃん、減点一。自分のことをボクなんて言っちゃダメよ、女の子なんだから」
 言葉使いを諫められた。
「あ……ご、ごめんなさい」
「うん、ちゃんと意識しないとね。……それから瞬ちゃん、女の子の可愛らしさは顔だけじゃ決まらないの。例えば洋服ひとつでも大逆転も可能よ」
「だよねー、って先生ェ、それってあたし、顔じゃあゆむちゃんに完敗してるって事?」
「あはははは。女の子は細かいことを気にしちゃダメよー」
「それは男の子の方だぁ!」
 桐山さんがぽかぽかと先生を叩く。
 その叩き方は女の子っぽいなぁと思ったのだけれど……。
 お化粧が終わって、学校が用意してくれた女の子の服の中から、自分に似合いそうなものをお互いに着てみたら、桐山さんがボクをぼーと見つめてきた。
「な、なに? 瞬ちゃん?」
「あゆむちゃん……あのさ」
 桐山さんの視線が妙に熱っぽい。
「ちょっとくるっと一回転してみてくれる?」
「え? えーと、こう、かな?」
 桐山さんのリクエストに応えて、右足を軸にしてくるっと回転してみる。
 着慣れないスカートがふわっと広がる。ちょっと焦った。
 加えて
「うわっ! も、萌えーッ!」
 桐山さんの咆哮に、もっと焦るボク。
「うーん、もしかしたら瞬ちゃんは女の子より男の子属性の方が強いかもしれないわね」
 先生が苦笑してそんなことを言った。
 だからかな?
「どうやら俺、やっぱり男の子属性の方が強いようだ」
 翌日、桐山さんはエクステを外すどころか、頑張って伸ばしていた髪の毛までばっさりと切って、おまけにお兄さんに借りたという学ランを着て登校してきた。
「自分の本当の属性がようやく分かった。これも全て上月のおかげだ。ありがとう!」
「えっと、ボクは別に何もしてないけど?」
 うん、ホントに何もしてない。
「そんなことはないぞ。上月の女の子姿、めっちゃ可愛いかった。綿貫が上月一筋なのも納得だ」
 桐山さんがうんうんと頷く。
 ちなみに綿貫ってのは、光君の上の名前だ。
「俺も綿貫の立場なら、どんなに女の子に言い寄られても上月が女の子になるまで待つぜ」
「……」
「ホント、上月は絶対女の子が似合っているよ。綿貫の為にも早く女の子になってやれよ。な?」
 軽く言ってくれると、桐山さんは「一日も早く男になるために、ちょっと筋トレすっか」と教室の片隅で腕立て伏せを始めた。
 だからボクが唇を噛み締めているのは気付かなかったと思う。
 ……悪意がないのは分かっている。だけど、簡単に言って欲しくないなぁって気持ちはどうしようもなかった。
 光君がボクのために、女の子の告白を悉くお断りしているのは知っている。
 光君は隠しているけれど、人の噂まで隠すことはできない。
 それに光君にフられた女の子や、そのお友達に意地悪されることだって、みんなと一緒に授業を受けていた時は何度かあった。
 上履きを隠されたり、足を掛けられて転ばされたり。酷い時は校舎裏に呼び出されて「気持ち悪いんだよ、あんた」って面と向かって言われたことだってある。
 ボクだってね、光君のために女の子になってあげたいよ?
 でも、もしボクが女の子になっちゃったら、光君と同じように想いを寄せてくれる男の子たちを断り続けている紫苑ちゃんはどうなるの?
 紫苑ちゃんだって光君と同じくらいボクのことを大切に思ってくれているんだ。その気持ちを裏切ることなんて出来ない。

 だからボクはずっと迷っているんだ――

 数日後。
 桐山さんは無事男の子になった。
 大喜びで先生に報告して、ボクたちに挨拶して、その日のうちに一般生徒のクラスに編入していった。

  夏が来た。
 中学生最後の夏。
 そろそろ本格的に高校受験に向けて勉強を始めなきゃいけない、この大切な時期。
 ボクも受験勉強に打ち込むつもりだったんだけど、ひとつだけ気になることがあった。
「へっ? 妖精組がない?」
「そうなんだよ、いくら探しても見つからないんだ」
 いつものように三人で学校に向かうすがら、相談してみた。
「もしかしたらと思って調べたんだけど、どの高校にも妖精組のことが書かれてないんだよ」
 妖精組は全国の、どの中学校にもあるって聞いている。
 ボクのところは三年生からだけど、中にはもっと早い段階から編入させられるところもあるらしい。
 だから当然、高校にもあると思っていたんだけど……念のためにと調べてみたら、何故か見つからなかった。
「呆れた。あゆむってば中学生のうちに決着を付けようって気はさらさらないのね?」
「そ、そうじゃないよ」
 紫苑ちゃんに軽く睨まれて、ボクは慌てて言い訳をする。
「でも、もしかしたら幼生のままかもしれないし、その時、頑張って高校に入ったのに『あれ、キミはまだ幼生なんだね。悪いけどうちに妖精組はないから、他の高校に行ってくれるかい?』とか言われたらイヤだもん」
 まぁ、そうならないようにしたいとは思っているんだけどね。
「ふーん。でも、妖精組なんてあって当たり前だから書かないんじゃね?」
 だから気にする必要なんてないってと光君が笑い飛ばした。
 光君は男の子になる前から、あまり細かいことは気にしない性質だったけれど、男の子になってからはますます拍車がかかっている。
 何かと細かいことを気にしてしまう自分とは正反対な、能天気ぶりが羨ましい。
「それよりもさ……あゆむ、どこの高校を狙ってる?」
「うーん、第一志望は花押高校なんだけど」
「花押! マジか!?」
 その能天気な光君が、ボクの答えを聞いて珍しくずーんと落ち込んでしまった。
「あらあらー。残念だったわねぇ、光。光の頭じゃ花押は無理よねぇ?」
 紫苑ちゃんの顔に意地の悪い笑みが浮かぶ。
「う、うるせぇ! てか、紫苑こそモデルの仕事があるから、高校は東京だろ?」
「残念。この前、事務所と話をしてねー。高校も地元に進むことになりました~」
「なにぃ!?」
「てわけで、私とあゆむは花押に進むから。あんたは今度の全国大会でせいぜい名を売って、どっかの名門校で野球漬けの青春を過ごすといいわ」
 そう言って紫苑ちゃんは光君に見せ付けるように、ボクへ抱きつく。
 紫苑ちゃんの言葉通り、光君率いる我が中学の野球部は地方大会を勝ち抜いて、夏休み中に開催される全国大会への参加を決めていた。
 今はまだ無名に近い光君だけど、ここで活躍すれば甲子園の常連校からスカウトされることもあるはず。甲子園で活躍して、いずれはプロへ。光君が描いた夢にまた一歩近付いていて、とても喜ばしいことだと思うんだけど……。
 今、目の前にいる光君は沈み込んでいて
「……言われなくても高校でも野球漬けの毎日を送らせてもらうつもりだ」
 肩を震わせながら、力なく呟いた。
 えっ!? もしかして泣いてる?
「ただーし、それはあゆむと一緒に通う高校での話! 決めた! オレも花押に行くぞ!」
 突然、丸めていた背中をしゃきんと伸ばし、肩をいからせて、光君が宣言した。
 泣いているなんてとんでもない、光君の肩の震えは武者震いだった。
「えー? 考え直した方がいいわよ、光? 花押って野球、弱いし」
「弱小をオレの左腕で甲子園へ連れて行く。これぞ男のロマン!」
「そもそも光の頭じゃ花押なんてムリのムリムリ」
「逆境こそ勝利! 高い壁を乗り越えてこそ、男の中の男!」
 それにオレには野球で培ってきた、ここ一番って時の集中力がある、スポーツバカが全てを勉強に注ぎ込んだ時の爆発力をナメんな! と光君が意気込んだ。
 おおっ、光君、やる気充分デス!
 なのに。
「ああ、飛ぶ時のゴキブリのIQが跳ね上がる、みたいなヤツ? あれ、結構眉唾モノだから信じないほうがいいわよ?」
 紫苑ちゃんがヒドい事を言った。
「おい、紫苑! さっきから言いたい放題言いやがって、誰がゴキブリだっ!」
 さすがに光君の堪忍袋の緒が切れ、握りこぶしを作った右手を振り上げる。
 でも、そこはさすが幼馴染。光君の怒りの防波堤をちゃんと見抜いていた紫苑ちゃんは、すでにきゃーと声をあげながら駆け出していた。
「おい、待ちやがれ! お前は一度血を見ないと分からないみたいだな!?」
「えー、光は乱暴だから痛くしそうでイヤ! その点、あゆむは優しくしてくれるに決まってるもん!」
「ば、ばか! そういう血じゃねぇよ!」
 光君が頬を一瞬にして赤く染め「あいつ、マジでむかつくよな?」とボクに同意を求めてくる。
 ボクは「あはは」と笑って誤魔化した。

「あの、先生。ちょっと進路のことで相談が……」
 その日の妖精組の授業(男の子用)が終わってから、ボクは先生に相談することにした。
 朝はうやむやになったけれど、やっぱり高校の妖精組が気になって仕方がなかったんだ。
 と言うのも、朝の連絡事項で今や妖精組唯一のクラスメイトである相田さんが、明日転校することが告げられたから。
 なんでもよりカリキュラムが充実した妖精組のある学校へ移るらしい。
 相変わらず本を読んでばかりで、授業には全く参加しない相田さんだから、転校に意味があるのかどうかは分からない。ただ、転校という事実がボクの心配症な想像力を刺激してしまった。
 例えば中学を卒業しても幼生だった場合は、特別な施設へ強制的に収容されるかも、とか。
 一度考え始めると怖くなって、だからボクは先生に訊いてみることにした。
「高校に妖精組? どうしてそんなのが気になったんだい?」
 先生が訝しむ顔をするので、ボクは恐る恐る抱いていた不安を口にする。
「ははは、なるほどー。上月さんは想像力豊かだねぇ」
 だけど、と先生は笑って続けてくれた。
「大丈夫だよ。そんな施設はないから」
「本当に?」
「うん。そもそも人間誰しも中学を卒業する迄には必ず変態するから、高校に妖精組はいらないんだ」
「そ、そうなんですか!?」
 中学を卒業する迄には必ず変態する……そんなの初めて聞いて、びっくりしてしまった。
 朝は紫苑ちゃんにあんなことを言ったけれど、あと半年ほどでボクが男の子か女の子のどっちかになるなんて正直まだ実感できない。
 だからこそ高校でも妖精組かなぁって思っていたんだけど……。
「だから余計な心配はせずに、今は早く男の子になるか、女の子になるのかを決めて、受験勉強に専念出来るようにしないとね」
 先生は安心させるようにぽんぽんとボクの肩を叩いて、教室を出て行った。
 残されたボクは複雑な気持ちでひとりぽつんと立ち尽くす。
 高校に妖精組のない理由が分かったのは良かったけれど、でも、これまでずっと解決できずにいた問題をあと半年ほどでクリアしなきゃいけないなんて……。
 体に何か重いものがのしかかってきたように感じ、ボクは振り切るように教室を出ようと足を踏み出した。
 その時だった。
「くすくす」
 かすかな笑い声が聞こえた。
 驚いて振り返ってみると、相田さんが珍しく本から視線をあげていて。
 多分初めて見せる柔らかな笑顔で、ボクを見ていた。
「相田さん?」
「上月さん……あなた、何も知らないのね」
「えっ!?」
 知らない? 知らないって何のことだろう?
「高校に妖精組があるかどうかなんて……思わず吹き出しそうになったわ」
 馬鹿にされている……と思う。
 だけど相田さんが浮かべる表情はボクを馬鹿にしたり見下したようなものじゃなくて、なんかお母さんが子供を見るような、くすぐったいけれどどこか安心出来る微笑だった。
 だからボクも素直に、相田さんの言葉通りだなって思って答えた。
「あはは。うん、ボクも先生に言われて、あ、そうだったんだって思」
「違うわよ」
 ボクの言葉を遮った相田さんの顔から俄かに表情が消えた。
「え、えーと……何が違うの?」
「先生の言ったこと。あんなのでたらめ」
「ええっ!?」
 驚いた。一体何を言い出すんだ、この人?
「確かに高校に妖精組はないわ。だけどその理由を、先生は正しく説明してない」
「……どういうこと?」
「知りたい?」
 開け放たれた窓から、風が吹き込んできた。
 相田さんの黒髪がさらさらと風にそよぎ、口元を隠す。果たして微笑んでいるのか、それとも口を一文字に結んでいるのか分からない。ただ、瞬きひとつしない眼が、ボクをずっと見つめていて「どうするの?」と問いかけていた。
「……うん」
 時間にしてほんの数秒だったと思う。だけどその数秒の間に、ボクの頭の中で好奇心とか、危機感とか、常識とか、信頼感とか、とにかく色んなものがせめぎあった。
 結果、ボクは相田さんの話を聞くことにした。
 明日になれば相田さんは転校で遠くへ行ってしまう。そうなればもう話をする機会なんてない。
「そう。じゃあちょっと付き合って」
 相田さんが立ち上がる。
 と、不意によろけた。
「だ、だいじょうぶ!?」
 慌てて駆け寄るボクを相田さんは片手で制し「問題ないわ」と言うけれど、どこか全体的に生気のない様子が気になった。

「妖精組の存在意義って何だと思う?」
 ふらふらと隣を歩く相田さんが突然問いかけてきた。
 学校を出て、相田さんはボクの家とは逆の方向へ歩き始めた。
 どこへ行くのかは「ちょっと、上月さんに見せたいものがあるの」と答えるだけで、教えてくれない。
 だからボクは黙って横を歩いた。まぁ、変なところには連れて行かれないでしょ……多分。
「え? 妖精組?」
「そう。簡単に言えば、どうして妖精組があるのか?」
 そんなの、幼生であるボクたちを一日も早く変態させるために決まっているとボクは告げた。それよりもやっぱり調子悪そうなんだけど……と続けたけれど
「そうね。でもよく考えて? どうしてそんなに変態を急かせるの?」
 無視されて、さらに変なことを言ってきた。
「妖精組なんて作って、変態済みの子達と分けて、まるでお前たちは発育不良だとばかりに差別までされて、変態を急かす理由は何?」
「……」
 言葉が出なかった。妖精組とはそういうものなんだと思っていて、疑問を持つことすらしなかった。だけど確かに言われてみればおかしい。わざわざ勉強まで中断されて、どうしてこんなことをさせられるんだろう?
 相田さんは先生がウソをついていると言った。
 もしかしたらウソだけでなく、先生にはボクたちには言えない何かがあるのかもしれない。
「今まで考えてもいなかった、って感じね。だったらいい機会じゃない。よく考えてみるといいわ。あ、それから」
 それまでずっと前を見るばかりだった相田さんがかすかに首を傾げて、ボクの顔を覗き込んできた。
「上月さんって誕生日はいつ?」
「誕生日? えっと、二月十四日だけど?」
 意外な質問に思わず面食らった。
「そう。なるほどね」
 何がなるほどなのかボクには見当もつかない。
 バレンタインデーに生まれたから、チョコレート並みに甘い考えだって言いたいのかな?
「着いたわ」
 ごく普通の住宅街、ごく普通の一軒家で、相田さんが足を止めた。
 よく手入れされた小さな庭に、自家用車一台分のガレージ。ポストには「チラシを入れないで下さい」のシールが貼られていて、その上に「相田」と彫られた御影石の表札があった。
「ここって?」
「うん、私の家。さぁ、どうぞ?」
 鞄から取り出した鍵で玄関を開け、相田さんがボクを手招きする。
 鍵がかかっていたということは、中に家の人は誰もいないんだろう。変に気遣いをしなくていいのは助かるけど、逆に言えば家の中にボクと相田さんのふたりきりになるわけで。
 それは教室や、ここまでの道すがらとも変わらないはずなんだけど、なんか変にドキドキするのだった。
「ちょ、ちょっと。見せたいものがあるんじゃなかったの?」
「そうよ。家の中にあるの」
 来ないの? と相田さんが首を傾げた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
 お邪魔します、と一声掛けて相田さんに続く。
 外見と同様、中もごく普通だった。
 ちょっとここで待っててと言われたのでリビングのソファに座っていると、制服姿のままの相田さんがトレイにふたり分の麦茶を乗せてやってきた。
「あ、ボクが持つよ」
 相変わらず相田さんはふらふらしているんだもん。危なっかしいよ。でも。
「お客様に持たせるものじゃないわ。それよりも私の部屋に行きましょ」
「……そう?」
 意外と相田さんは頑固だった。
 それよりもやっぱり相田さんの部屋に行くのか……ドキドキがさらに高まった。
 漫画で男の子が女の子の部屋に招き入れられてドキドキするシーンを読んだことがあるけれど、その気持ちがなんとなく分かったかもしんない。
 相田さんもボクも同じ幼生だから、変な話だけれど。
 階段を上がると短い廊下の左右に扉がひとつずつ。そのうちのひとつに「かなめ」と札がかかっていた。
「私、両手がふさがってるから開けてくれる?」
 相田さんに言われて、ボクは扉のノブを握り、ゆっくりと押し開ける。
「うわぁ」
 思わず声が出た。
 部屋自体は普通の八畳洋間。南側に窓があって、カーテン越しに淡い光が部屋を包み込んでいる。
 驚いたのは、その中身だ。
 本、本、至るところが本だらけ。
 本棚は勿論、机の上、床にも本が山のように高く積み上げられていて、ベッドの上にすら散らばっている。まるで図書館……の書架。しかも全然整理できてない、ダメな書架だ。
「勉強机の椅子にでも座って」
「う、うん」
 積み上げられた本の山を崩さないよう、慎重に進む。椅子に座るのも、下手な振動を起こさないように、そーっと。
「麦茶、どうぞ」
 ようやく一息入れられたボクに、相田さんが麦茶を手渡してくれた。
「あ、ありがとう。ところでボクに見せたかったのって、この部屋?」
「え?」
「相田さんっていつも奇麗な姿勢で本を読んでいたから、とても几帳面で、キチンとしている人だなって思ってたんだ。だけど、この部屋を見て、ちょっと印象が変わった」
「……ぷっ」
 ボクの言葉に最初は驚いたような表情を浮かべていた相田さんが、やがて我慢できないように吹き出した。
「あ、あれ? ボク、なんかおかしなこと言った?」
「あはは、おかしいどころじゃないわよ。そう、上月さんの目に私ってそんなふうに映ってたんだ。幻滅した?」
「ううん、むしろ親しみが湧いた。ボクの部屋だって結構散らかっていて」
「でも、私の部屋ほどじゃないでしょう?」
「えーと……うん。でもね、ホント幻滅とかじゃなくて、本当の相田さんを見せてくれたようで」
 嬉しいな、とボクは言った。
 本当の気持ちだった。
 同じ妖精組なのに授業には参加せず、ずっと教室の片隅で一人読書する相田さん。殻に閉じ篭った相田さんを、ボクたちはどうすることも出来なかった。
 でも、転校する前日に、こうして普段からは想像できない姿を見せてくれたのはなんだか嬉しかった。
 相田さんが吹き出す顔も見れたしね。
「……そう、ね」
 だから相田さんが不意に顔を背けた時、笑っていたはずの瞳に何か光るものが見えたのは目の錯覚だと思う。
「案外、本当に見せたかったのはこの部屋だったのかもしれないわね」
 言いながら相田さんはボクにお尻をむけて、四つん這いになって本棚へと近寄ると、下の段から一冊の本を取り出してきた。
「でも、私があなたに見せたかったのはコレ」
 手渡されたのは一冊の文庫本。表紙に男の子と、ふたりの女の子が描かれていた。
「読んだことはある?」
「ううん。面白いの?」
「私はあんまり……。だけど、上月さんは目を通す価値があるかもしれないわ」
 面白くない本をオススメするのはどうなんだろうって思ったけれど、次の相田さんの言葉を聞いて理由が分かった。
「この本の主人公ね、上月さんに似てると思うの。だから何か参考になるかもしれない」
 参考って言うのは、きっとそういうことなんだろう。
 ずっと本を読んでいた相田さんらしいアドバイスだと思った。
「ありがとう。あ、でも、相田さん、明日には転校しちゃうんだよね。どうしよう、返せないよ」
「いいわ、あげる。私は読んじゃったし、それにもう必要ない」
「そんな、悪いよ。ボク、何も用意してないのに」
 別れの手向けに、ボクも何か相田さんに出来ることはないかなって考える。
 だけど相田さんと言えば、本が好きってことしか出てこない。見渡す限りずらっと部屋を埋め尽くす本の山……ボクが持っている本で、相田さんが読んだことがないもの、さらに読む価値があるようなものってあるかなぁと必死に頭の引き出しを開けまくった。
「あ、そうだ! 相田さんって、こんな小説を読んだことある?」
 ボクは思い出した中で、一番相田さんに読んで欲しい小説の話をした。
 いわゆるラノベって呼ばれるヤツで、暗殺術を仕込まれた盗賊団の少年が、ひょんなことから奴隷の少女を預けられ、やがてふたりで生きる意味を見い出していく話だ。
 ちょっとグロテスクな描写もあるけれど、これまで真っ暗闇の世界で生きてきたふたりが光を求める展開は心に迫るものがあった。
「ううん、ないわ」
「良かった! じゃあそれを明日持ってくる! 朝だったら大丈夫でしょ?」
「ええと……そうね」
 相田さんの言う「そうね」を、ボクは一瞬「大丈夫」って意味だと思った。
 だけど違った。
「上月さん、私のこの部屋を見て、なにか思わない?」
「なにかって、相田さんも結構無精者だなぁ、って」
「それはさっき聞いたわ。そうじゃなくて、これが明日転校する人間の部屋に見える?」
「あ……」
 なるほど。確かにそうだ。荷造りどころか、整理すらされてないもん。
「分かった? 明日から行くところはね、何も持っていけないのよ」
「……そんな」
 それでも文庫本一冊ぐらいは持っていけるんじゃないかな。ポケットに入るぐらいの大きさだもん。と、ボクは粘る。
 でも相田さんは「何も持っていけないの」と頭を振った。
 そして。
「ねぇ、上月さん。妖精組はなんで妖精組って呼ばれるか知ってる?」
 いきなり話ががらっと変わった。
「え? 幼生と妖精を掛けてるんでしょ? って、それよりも」
「それだけじゃない。人は幼生のまま死ぬと妖精になるからよ」
「……はい?」
「神様は人間に三つの変態をプレゼントしたの。ひとつは男の子。もうひとつは女の子。そして最後に人間を捨てて、神様の元に仕える妖精」
 飛躍した上に、とんでもなくファンタジーな話が始まった。
「人間は十五歳の誕生日を迎えるまでに、この三つのどれかを選ばなきゃならない。大抵は男の子か女の子を選ぶわ。妖精になれるとはいえ、誰だって死ぬのはイヤだから」
 とても夢見がちで、現実味のない話を語る相田さん。さっきは笑われたけれど、今度はボクが笑う番だったのかもしれない。
 にもかかわらず、相田さんがボクを見つめる眼差しは真剣そのもので、笑い飛ばせなかった。
「でもね、妖精を選んだ人間はひとつの奇跡を起こすことが出来るの。もちろん、一人の人間が出来る範囲の、だけど」
 ねぇ、上月さんはどうする?
 男の子? 女の子?
 それとも命を捨ててまで起こしたい奇跡が何かある?
 相田さんの瞳がボクに語りかけてくる。
「ボク、ボクは……」
「うん」
 相田さんに促されるように、ボクは素直な気持ちを口にした。
「ボクは……相田さんがどうしてこんな話をするのか、その理由が知りたいな」
「あら?」
 相田さんの目が大きく見開かれる。
「てか、相田さん、一体何の話なの?」
「あらら、てっきり信じ込んだと思ったのに」
 残念、と相田さんがぺろっと舌を出す。そんな表情も出来るんだと思う反面、ボクはさすがに呆れていた。
「いくらボクでもそんなお伽噺を信じるわけないよ」
「そうね。私も半年前にある人から聞いたんだけど、笑い飛ばしちゃったわ」
 けれど夢のある、素敵なお話だと思わない? との言葉に、ボクはうーんと頭を捻る。夢、あるかなぁ? 自分の命と引き換えの願いなんて、ボクには到底考えられないんだけど。
 
 それからボクたちは色々な話をした。
 接点がないと思っていたボクたちだけど、一度うちとけるとウソのように話が弾んだ。
 いつも本を読んでいた相田さんは、それでも授業中のボクたちの様子もちゃんと見ていたそうで、あの時の誰それの言動が面白かったとか、もとから男の子気質の桐山さんが女の子になろうとしている様子は傍から見ていておかしかったとかで盛り上がった。
 気が付けば部屋に夕陽が差し込む時間になっていて、ボクはやっぱりもう一度、明日の朝早くに例の本を持ってくるからと約束した。
 転校先に持っていけなくても、例えば移動の車や電車の中で読んで欲しいと思ったからだ。
 相田さんは固辞したけれど、最後には溜息をつきながら好きにすればいいと折れてくれた。
 だから翌日。
 ボクは自転車を走らせて、相田さんの家にやってきた。
 時間は朝の七時。基本的には出かけるには早すぎる時間だろうから、絶対に相田さんに会えると思ったんだ。
 だけど呼び鈴を押すボクを迎えてくれたのは、相田さんのお父さんで。
 その口から「もうかなめは行ってしまった」と告げられたボクは、持って来た小説を手提げ袋ごと落してしまった。
 慌てて拾い上げて「じゃあせめてこれを送ってあげてくれませんか」と頼むボクに、相田さんのお父さんはただ首を横に振るばかり。
 最後に「ありがとう」というお礼を言われて、扉を閉められてしまった。

 相田さんもいなくなり、妖精組でひとりぼっちになったボク。
 夏休みが始まるまでの授業は、ほとんど覚えていない。
 おまけに夏休みに入ってもあまり勉強に身が入らず。
 紫苑ちゃんとショッピングに出かけても。
 この夏一番のイベントだった中学軟式野球全国大会も。
 誘ってくれた紫苑ちゃんや力投した光君には悪いけれど、ボクの心は別のところにあった。

 ――どうして妖精組はあるんだろう?
 ――それに、どうして相田さんはあんな話をしたのだろう? 
 
 そして二学期が始まる二週間前。
 緊急に開かれた三者面談で。
 ボクは、あの日、相田さんから聞いたお伽噺の一部を、先生から聞かされることになる。

「そ、そんな……」
 先生の話を聞いて、お母さんが絶句した。
 妖精組で男の子用の授業を担当していた先生だ。
「残念ですが、これは本当の話です」
 先生が眉間に皺を寄せながら、もう一度、ボクたちに絶望の言葉を浴びせかける。
「十五歳の誕生日までに変態できないと、上月さんは死にます」
 と。
 先生によると、これは十五歳の誕生日を迎える半年前までに変態をしていない幼生と、その家族にのみ伝えられるらしい。本来ならほとんどないケースだから、世間に知れ渡って下手な心配を煽らないよう他言無用を徹底されていて、実際ボクたちも面談の前に念書へサインをさせられた。
 全く心の準備が出来ていなかったお母さんは相当ショックだったみたい。
 先生から「まだ半年ありますから」と慰められても、泣きじゃくっていた。
 対してボクは先生の話を冷静に受け止めることができた。
 相田さんのおかげだ。
 相田さんが転校してから、ボクはずっとあの日話した内容を頭の中で繰り返していた。
 先生がウソをついていると話した相田さん。
 妖精組の意味をよく考えてと宿題を出した相田さん。
 ボクの誕生日を聞いて何かを納得した相田さん。
 十五歳までに変態しないと妖精になって死んでしまうという話を、半年前に聞かされたと言っていた相田さん……。
 考えているうちにふっと気になって、相田さんの誕生日を調べてみた。
 七月七日。
 それはボクと相田さんが仲良くなった日の翌日。
 相田さんが転校してしまった、あの日だった。
 おかげでなんとなく分かってしまって、心の準備が出来た。
 もし相田さんが話してくれていなかったら、今頃ボクもお母さんと同じように凄いショックを受けていたと思う。
 もちろん自分が死ぬかもしれないと勘付いた時は心が苦しくなったけれど、相田さんはそんなボクのために、何をするべきかのヒントも与えてくれていた。
 だから先生が
「お母さん、どうでしょうか、上月さんを他の学校に転校させるというのは?」
 泣きじゃくるお母さんにそんな提案をしてきても、上手く対応する事ができたんだ。

「お母さんも気付いておられるとは思いますが、上月さんが変態できないのはひとえに綿貫光、九重紫苑のふたりから求愛を受け、どちらかに決めかねているのかが原因です。そのふたりから遠ざければ、今からでも変態は十分間に合います」
 先生が言うにはふたりと遠く離れてしまえば、問題から解き放たれて自然と変態できるようになるってことだった。
「最初は三人とも辛い思いをするでしょうが、やがてこの選択が正しかったと思える時がきっとくるはずです」
 一筋の光が見えて落ち着きを取り戻しつつあるお母さんへ、先生がさらに追い討ちをかける。
 と言って、お母さんだって先生の提案に抵抗がないわけじゃない。
 子供の頃からボクたちを知っているんだもん。将来は光君があゆむを貰ってくれるのかしら、それともあゆむが紫苑ちゃんをお嫁さんにするのかしらねって、嬉しそうによく言っていたしね。
 それが両方ともダメになる。とても受け入れられる提案じゃないけれど……。
「それしかないのでしょうか?」
「はい。これが唯一にして、確実な方法です」
 先生の言葉にお母さんは深く溜息をつくと、ようやく気が付いたかのように隣に座る僕を見つめ、突然がばっと抱きしめてきた。
「お、お母さん、苦しいよぅ」
「あゆむ、ごめんね。こんなことになるなんて、母さん、思ってもいなくて」
 本当に、本当にごめんなさいとせっかく涙が止まったのに、僕の肩でまたお母さんは泣いた。
 けれど、お母さんは何一つ悪くない。
 悪いのは全部ボクだ。
 早くにお父さんを事故で失って、女手一つで懸命にボクを育ててくれた。そのお母さんをボクが悲しませていると思うと、心が急にざわめいて一緒に泣きたくなった。
「納得、してもらえたようですね」
 先生の声も震えていた。
 先生だって、本当はこんなことを伝えるのは辛かったと思う。ボクのことをよく考えて出してくれた、苦渋の方法だったとも思う。
「あ、先生」
 でも、ごめんなさい。ボク、ワガママ言います。
「ボク、転校しません」
 先生が驚いて目を見開いた。
 ボクの肩で泣いていたお母さんも、びっくりしたように見つめてくる。
 いつも素直に言うことを聞くボクが、反対するなんて思ってもいなかったんだろう。
「ボク、ようやく分かったんです。自分が何を求めていたのか? どうして男の子にも、女の子にもなれないのか?」
 これも相田さんのおかげ。
「多分こうすれば問題は解決できそうだなぁってアイデアもあります。だから」
 本当にありがとう、相田さん。
「ボク、転校しません」
 ボクはにっこりと笑顔で言った。

 二学期が始まると、ボクは妖精組から一般クラスへと編入された。
 と言っても、変態したわけじゃない。受験勉強もそろそろ本格化する中、これ以上は変態のための授業ばかり続けるわけにはいかない、という名目だった。
「いやー、学校もいいところあるよなぁ。オレと一緒のクラスにあゆむを入れてくれるなんてさ」
 席が左隣になった光君が両手をぎゅっと胸の前で構えて「くぅー」と変な声をあげた。
「そうね。まぁ正確に言えば、私と一緒のクラス、だけど」
 紫苑ちゃんが冷めた口調で光君の発言を訂正しながら、右隣から机を寄せてくる。
 そう、ボクは光君と紫苑ちゃんと同じクラス、しかもふたりと両隣の席に編入してもらっていた。
 かつては光君に想いを寄せる女の子たちから嫌がらせを受けたこともあるから、こんなあからさまなやり方はどうかなとも思う。だけど中学三年生の二学期と言えば、迫り来る高校受験を前に、恋愛モードの熱も維持するのは難しくなるはずだ。
 それになによりボクには時間が限られている。
 多少のムリは押して通さないといけなかった。
 なんせ。
「おい、紫苑、あゆむに近付くなよ!」
 机を寄せる紫苑ちゃんに、光君が牽制の一声をかける。
「何言ってんの? あゆむはこれまで妖精組にいたから勉強が遅れているのよ。だから私が教えてあげるの」
 光君の牽制もなんのその、紫苑ちゃんは我が道を行く。
「だったらオレも!」
「あゆむより成績の悪いあんたが何を教えるってのよ?」
「だからあゆむに勉強を教えてもらうんだよ!」
「そっちか!」
 あんたこそ近付かないでよと手でしっしと振り払う仕草を見せる紫苑ちゃんに、光君ががるると唸り声をあげた。
 ね? こんな小学生の頃から変わらない、ボクを挟んでの睨みあいを相変わらず始めてしまうふたりなんだ。
 まずはこれをなんとかしなくちゃ。
「ダメだよ、ふたりとも」
 ふたりの仲を取り持つのは、いつだってボクの役目。
 でも、これからはもっと強引に行くよっ!
「紫苑ちゃん、ボクに勉強を教えてくれるのは嬉しいんだけど、光君にも教えてあげてよ?」
「ええっ!? このアホに?」
 いつもはただ仲良くしようよって言って終わりなのに、具体的な話が出てきて驚いたのかもしれない。紫苑ちゃんはえらくどストレートに驚いた。
「アホとは何だよっ! この」
「光君は紫苑ちゃんにもっと感謝しなくちゃダメ!」
 紫苑ちゃんの配慮のない言葉に、光君がかっとなんて何を言おうとしたのかは分からない。でも、きっと紫苑ちゃんを怒らせるようなことを言おうとしたのに違いないので、ボクは割り込んで中断させた。
「はぁ? なんでオレが紫苑なんかに」
「紫苑ちゃんは優しいから、なんだかんだ言ってこれまでも光君に勉強を教えてくれたよね。おかげで赤点を回避できたこともあったじゃない。光君はもっと紫苑ちゃんに感謝すべきだよ」
「あー、そりゃあまぁ……」
 光君の痛いところを突いた。中学に入って早々の一学期の中間テストで光君は酷い点数をとっちゃって、このままだと夏休みは部活動返上で補習を受けなくちゃならない事態に陥ったことがある。それを助けてくれたのは、他でもないボクたちの中で一番頭のいい紫苑ちゃんだった。
 光君が鼻をぽりぽりとかく。さすがに反論できないよね?
「そーだそーだ、光はもっと私に感謝して崇め奉りなさい。そうねぇ『紫苑様、どうか馬鹿な自分をお救いください』とお願いするなら、私だって鬼じゃないわよ?」
 思わぬ劣勢に立たされた光君に、紫苑ちゃんがここぞとばかりボク越しに「ほーら、どうするの?」と、せっかくの可愛い顔を意地悪く歪ませる。
「紫苑ちゃん! 紫苑ちゃんも意地悪はやめて素直になろうよ」
 振り返って、今度は紫苑ちゃんを非難する視線を送った。
「素直って……わ、私はいつだって素直よ、あゆむ?」
「ウソだよ。紫苑ちゃんだってホントは光君のことが心配なんでしょう? 補習で部活が出来なくなっちゃったら光君が可哀想だからって勉強を見てあげたんだし、今だって本当に光君も一緒に花押高校に通えるかどうか不安に思ってるはず!」
 いつも自信満々な紫苑ちゃんが珍しくどもったのを好機と見て、ボクは一気に捲し立てた。
 おかげで紫苑ちゃんは目を白黒させて、口をぱくぱくさせてはいるものの、上手く言葉は出てこないみたいだ。
「だからね、ふたりとも仲良く勉強しようよ?」
 ボクは唖然としているふたりの机を自分から手繰り寄せる。
 こうしてボクたちの、中学最後の二学期が始まった。

 「えっ、自転車は『bicycle』だから、『bike』はオートバイだろ!」
「なに言ってんの? オートバイは『motorcycle』よ。オートバイは和製英語」
「マジかよ!?」
「んー……じゃあ光君、さっきの模試の英語長文、どんな話だと思ったの?」
「えっと、バイクをかっとばして秋葉原に買い物に行ったらいつの間にか暴走族に入っていた話?」
「オタクな少年が自転車競技の魅力にハマっていくスポコン話を、どうやったらそんなヤンキーものに訳せるのよ、あんたは?」
 模試では必ず三人集まって答えあわせをしたり。
「ノルウェーの海岸などに見られる氷河によって削られた地形は何と言うでしょう?」
「えっと、たしかフィヨルドだっけ?」
「ですが、よく似た日本の東北地方に見られる、河川の侵食によって出来たギザギザの地形は?」
「リアス式海岸、だったよな?」
「ですが、さて問題です。東経10度のノルウェーの首都オセロと、東経135度の日本の首都東京との時差はおよそ何時間でしょう? 端数は切り捨てでよし」
「へ? 時差?」
「簡単だよ、光君。経度が15度ごとに一時間の時差があるから、東京からオセロの経度を引いて15で割ればいいんだ」
「ナイス、あゆむ。ってことは120を15で割るんだから8時間だ!」
「……ぐっ、正解だけど、光は小学生から算数をやりなおすべきね」
「はぁ!? なんだよそれ、正解されたのが悔しくて難癖つけるのかよ?」
「あんたねぇ、135-10がどうして120なのよっ!」
「あ? ああああああああっ!!」
 休み時間や通学中も、こうして三人で問題を出しあってみたり。
「……この雨量、それに弾丸ライナーで飛び込むホームランのような軌跡を描くグラフ……うーん、どっかで見たことがあるぞ」
「あはは、さすが光君っ、野球に絡めると記憶しやすいんだね」
「てか、こいつ、数学の『秒速一センチで移動する点P』だとダメだけど『時速160キロの剛速球』って言い直したら正解率がぐんと跳ね上がるのよね。完全な野球バカじゃん」
 と言いながら、光君に教えるには野球に絡めるのが一番だと分かって、ボクたちはほっと胸を撫で下ろしてみたり。
 こんなふうにいつも三人が一緒で、しかも揃って難関の高校へ進学しようと力合わせて勉強をする日々の中、ボクたちはかつての恋愛感情なんて知らず、ただひたすら仲が良かった頃へと少しずつ戻っていく。
 ……とは言え、相変わらずボクたちの間にはあの問題が残っていた。

「あーゆーむー。これ、あげる!」
 ある日、光君が席を離れた隙を見て、紫苑ちゃんがボクに手鏡を渡してきた。
「えっと、なにこれ?」
「あのね、あゆむ」
 紫苑ちゃんがちょっと頬を赤らませ、ボクに耳打ちしてくる。
「あゆむって自分のアソコ、ちゃんと見たことある?」
「ええっ!? ないよ、そんなのっ!」
 思わず大声になってしまった。
 でもしょうがないよね。一体なにを言い出すんだよ、紫苑ちゃん。
「だよねぇ、私もないもん。でもね、聞いちゃったのよ。男の子たちってさ、おちんちんが生えてくる前に自分のアソコを見てムラムラしたんだって。どうやらそのムラムラが男の子にさせるらしいよ?」
 だからその手鏡を使って、あゆむもムラムラして男の子になっちゃいなさいって言われた。
 そんな無茶苦茶な。

 でもって光君も光君で、これまた紫苑ちゃんがいない時に
「あゆむ、ひとつお願いがあるんだ」
 と真面目な顔で迫ってきたと思うと
「俺、将来は自分の野球チームを持つのが夢なんだ」
 なんてことを言ってきた。
 夢自体は別にいい。光君らしい夢だと思う。でも
「うん。だけどそれをどうしてボクにお願いするの?」
「だから子供は最低九人欲しいんだよ」
「へ?」
「俺、頑張るから、あゆむもお願いだから頑張ってくれ。なっ?」
 なっ? じゃないよ! なんて話をしだすんだよ、いきなり。
 そんなわけでボクたちはやっぱり相変わらずで。
 次はこれをなんとかしなくちゃいけなかった。

「……ねぇ、紫苑ちゃん、こんなこと言っていいのか分からないけど……」
 学校が終わり、ボクの家に集まって勉強をしている時のこと。
 ボクはあることを紫苑ちゃんに話してみることにした。
「なに? 私とあゆむの間に遠慮なんて不要よ?」
 ただし光、あんたはもっと遠慮しなさいと、分からない問題があるたびにヘルプを求めてくる光君を紫苑ちゃんは睨みつけた。
 光君はそんなのどこ吹く風とばかりに無視を決め付けているけれど。
「あのね、じゃあ言うけど……紫苑ちゃん、最近ちょっと太った?」
「ぶはっ!?」
 紫苑ちゃんが思い切り噎せた。口の中で頬張っていたクッキーが気管に入っちゃって激しく咳き込む紫苑ちゃんをボクはおろおろと、光君はニヤニヤと笑いながら見守った。
「はぁはぁはぁ、び、びっくりした」
「ご、ごめんね。そんなに驚くとは思ってなかったんだ」
「ううっ、謝らないで。なんかもっと惨めになってくるから」
 今でさえ十分すぎるほどに落ち込んでいる紫苑ちゃんの姿に、ボクは申し訳ない気持ちになった。
 太ったって言っても、ほとんど見た目では分からない。なのにこんなに落ち込むなんて。女の子って大変なんだな……。
「た、たしかにちょっと太っちゃったの。でも今は受モデル業もお休みしてるし、受験が終わってからダイエットしようと思ってたんだけど……」
 外見にも影響が出てきているのなら、今すぐにでも始めないと! と紫苑ちゃんがいきり立った。
 うん、昔から自分の容姿には人一倍気を使う紫苑ちゃんだもんね。きっとそうくると思ってた。だったら……。
「あ、それなら光君と一緒にランニングしてみるってどうかな?」
「えっ!?」
「ええっ!?」
 ボクの提案に、ふたりが驚いた声をあげた。
 ちなみに光君は純粋に想定外でびっくりした感じ。対して紫苑ちゃんは「なに言い出すの!?」とちょっと非難めいた驚き声だ。
「光君、朝にランニングしてるよね?」
「ああ。勉強も大切だけど、身体を鈍らせるわけにもいかないしな」
「それに紫苑ちゃんも付き合わせてあげてよ。普段勉強を見てもらっているお礼も兼ねて」
「えー!?」
 光君が「マジでか?」とばかりに紫苑ちゃんをマジマジと見つめる。
「ちょ、光、その見下したような目はやめなさい! てか、一体何を言い出すのよ、あゆむ?」
「だってダイエットするんでしょ? 丁度いいかなって」
「よくないわよ。なんで私が光なんかと一緒に……」
 それに、と紫苑ちゃんは光君をちらりと見て
「光だって自分のトレーニングの足を引っ張られたくないでしょ? 私、ほら、あんまり体力ないし」
 いつもは強気な紫苑ちゃんにしてはしおらしいことを言った。
 でも実際、紫苑ちゃんは運動が苦手だ。
 子供の時も光君やボクと違ってボールを蹴るのも投げるのも苦手で、走るのも遅かった。
「ああ、ホントにお前、昔から体力ないよなぁ」
 弱気な紫苑ちゃんに、光君がはぁと溜息をつく。
「覚えているか? 小学生の頃、遠足で山に登ったけど、お前、すぐに疲れちゃってオレとあゆむが変わりばんこで背負ってやったことがあったろ?」
 言われて思い出した。あれは大変だったなぁ。
「な、なによ、そんな昔のことを今さら掘り返さなくてもいいじゃない。それに今はあんたが」
「ああ、今はオレがお荷物だよ。けど、あゆむや紫苑が面倒見てくれているおかげで、ちょっとずつ成績があがってきた。ホント、感謝してる」
 光君が深々と頭を下げた。
 ボクも思わずつられて頭を下げる。驚いた。光君がこんな素直に感謝言葉を口にするなんて。
 実際にほら、紫苑ちゃんなんてあまりのことにポカンと大口開けて呆けているし。
「困っている仲間がいるなら手助けしてやる。仲間ってホントにいいよな。たださ、最近それで思ってたんだ。あの遠足の時、俺たちがやったことは本当に紫苑のためになったのか? って」
「は?」
「本当の仲間なら『ガンバレ!』って応援して、手を繋いだり、肩を貸してやったりして、自分の足で登らせるべきだったよな、って。だから」
 光君がいつものようにニカっと笑う。
「今度こそ間違いなく手助けしてやるぞ、紫苑。よし、明日から早速ランニングだ!」
 爽やかさ五割、ニヤニヤ五割の「してやったり!」の笑顔だった。
「ええっ!? いいわよ、そんなの!」
「なーに、遠慮するな。いつもお前にはお世話になってるからな。その分みっちりと仕返し、じゃなかったお返ししてやるからな」
「仕返し! 今、仕返しって言ったわ、こいつ!」
「ははは、細かいことは気にするなって。よし、明日は朝の五時に近所の公園に集合。いいな、紫苑!」
「えええっ、ヤダ、絶対行かない! ちょっとあゆむ、笑ってないで助けてよう」
「うーん、ボクはいい機会だと思うよ? 紫苑ちゃんはもっと体力をつけるべきだと思ってたし、丁度光君もいるしね。ふたりとも頑張って」
 ボクは両手を肩の辺りでぷらぷらと振って、ふたりにエールを送る。
「えっ、何言ってんだよ、あゆむ。お前も一緒に走ろうぜ」
「そうよ、あゆむだけ抜け駆けしようなんてずるいわよ」
 ……まぁ、そうくるよね。今までなんだかんだでずっと三人一緒だったもん。
 だけど。
「うーん、ごめん。ちょっとね、朝は別にやらなくちゃいけないことがあるんだ」
 ボクはきっぱりと断わった。
「なんだよ、やらなくちゃいけないことって?」
「それもみんなでやればいいんじゃないの?」
 それでも粘るふたりに、ボクはダメを押す言葉を告げる。
「気持ちは嬉しいけど、これはボクひとりでやらないとダメらしいんだ。意味、分かるよね?」
 あっとどちらかともなく言葉が零れ出た。
「だからね、ランニングはふたりで、ね?」
 光君には紫苑ちゃんの体力を考えたメニューをお願いして。
 紫苑ちゃんにはすぐに諦めないで頑張ってみようよと励まして。
 ボクは重い空気を一掃しようと、明るくふたりのランニングを後押しした。
 でも、実は払いのけたかったのは空気だけじゃない。
 ボク、ウソをついたんだ。
 朝にボクひとりでやらなくちゃいけないことなんて何もない。
 しかもふたりが何も言い返せないことまで匂わせて……ホント、サイテーだ。
 そうするしかなかったとは言え、ふたりへの負い目で心の中に燻り始める黒い煙を必死にボクは追い出そうともがいていた。

  十二月になった。
 本格的な受験シーズンの到来を前に、ボクたちも準備が整ってきている。
 まず光君の成績が急ピッチで上がってきた。
 最初は「花押高校なんてムリだ」なんて言っていた先生も、ここに来て「十分狙える!」と太鼓判を押してくれたほど。さすがは運動部、ここぞという時の集中力はハンパないね。
 それにもうひとつ。紫苑ちゃんの体力づくりもしっかりと成果が出てきていた。
 最初は「ヤダー」とか「もうムリー」とか言っていた紫苑ちゃんだったけれど、光君の立てた見事なメニューのおかげで気がつけば順調にレベルアップ。まぁ、本当のところは挫けそうになるたびに光君が「あらあら、もうギブアップですかぁ」とか言ってきて、ムキになって噛み付いていたらいつの間にかメニューを消化していたらしいけど。
 それでも今では光君が本来走っていた五キロのコースを、それなりの速度で走れるようになったんだから、大したものだと思う。
 おかげで。
「人間の腕とハトの翼はどのような関係になる?」
「相同器官だろ。どちらも魚の胸鰭から進化してるからな。ちなみに昆虫の翼とハトの翼は進化の祖先が違うから相似器官だ」
 さらに痕跡器官とは、と光君が続ける。
 学校への登校中、歩きながらみんなで問題を出し合うのは変わらないけれど、以前は自信なさげだった光君の回答が堂々としたものになっていた。
 それどころか頼んでもないのに解説を加えたり、薀蓄駄々漏れだったりと、なんか学校で習ったことを喜んでお母さんに話す子供みたい。
「ちっ! 当たりよ。光、あんた、たまには間違いなさいよ」
 あはは、バカだーって見下してやるのが楽しかったのにと紫苑ちゃん。
「紫苑こそそろそろ弱音を吐いていいんだぜ」
 言いながら光君が歩く速度を上げる。
 こんな時にも体力トレーニングを欠かさず、最初の頃はゼーハーゼーハー言いながら紫苑ちゃんも付いてきていた。
「うるさいわね。それよりもトレーニングのレベル、もっと上げなさいよ。最近のはヌルくて体がなまっちゃう」
 それが今では息ひとつ乱してない。うーん、凄いなぁ。ボクもそろそろキツくなってきているんだけど。
「それを言うなら、紫苑こそ問題の難易度上げろよ。頭の運動にもなりゃしないぜ」
 うんうん、光君も頼もしい限りだ。
 それにボクを飛び越してふたりが憎まれ口を交わすのも相変わらずだけど、その内容にボクが絡まないことが多くなったのは大きな変化だと思う。
 喧嘩するほど仲がいいと昔から言うけれど、確かに今の光君と紫苑ちゃんのそれは、お互いのことを分かり合えているふたりのものだった。
 よかった。これならなんとか間に合いそう……。
 ボクはそっと歩みを緩めて、ふたりの後方にさがる。
 楽しそうなふたりの背中を眺めて、ボクはかすかに微笑んだ。

 ☆☆☆

 夏の三者面談の前。
 ボクは相田さんから貰った小説を読み返していた。
 相田さんがボクに「見せたい」と言った物語は、ある男の子を取り合う女の子ふたりの話だった。
 もともと子供の頃は仲良しだった三人。でも変態して思春期を迎え、お互いに異性として意識しあうようになると、その関係にヒビが入り始めた。
 最初はちょっとした気持ちのすれ違いだった。それが徐々に大きくなり始めて、ふたりの女の子は幼馴染の男の子を奪い合うようになる。
 結局は主人公の男の子が苦渋の選択でひとりを選ぶんだけど、選ばれなかった女の子がショックで自殺をしてしまい、残されたふたりも罪悪感で別れてしまうという救いのない結末を迎える、確かに相田さんが言うように「うーん」な話だった。
 でも、相田さんがボクにこれを見せたいと言ってくれた気持ちは、なんとなく分かる。
 多分、今のままではボクたちの未来も、この小説と変わらないんじゃないかな。
 ボクたちの物語を悲劇にするわけにはいかない。
 だから必死になって考えた。
 そして分かったんだ。
 ボクは結局三人一緒にいつまでも仲良くいたいんだって。
 それを可能にするには、そう、光君と紫苑ちゃんが付き合って、ボクはふたりと仲のよい友達関係を続ければいいんだ。
 そうすればきっと男の子になることにも、女の子になることにも躊躇いがなくなって、ボクは無事にどっちかへ変態できるはず。
「……上月さん、それは転校するよりもずっと辛くて厳しい選択だよ?」
 先生が難しい顔をしてボクを見つめて言ったけど、これしかないと思った。
「ふたりに事情を話してみるのはどうかしら?」
 三度泣きそうな顔をするお母さんに、ボクは頭を横に振った。
「考えたけど、多分ダメだよ。それだとボクを助ける為のお芝居みたいになっちゃって、きっと変態できないと思う」
 仮初の恋人じゃ意味がない。本当にふたりがお互いを選び取ってくれないと、ボクは吹っ切ることができない。
「本当に……それで?」
 いいんだねって最後の問い掛けに、ボクは頭を縦に振った。

 ☆☆☆

 ふたりの後ろを歩く。
 その背中に、このままボクに気遣いなんかしなくて、ふたりで歩いていっていいんだよって気持ちをこめる。
 けれど。
「あれ、どうした、あゆむ!?」
 ちょっと後ろに下がっただけで光君はすぐボクに気がついた。
「ごめん、もしかしてペースが速すぎた? ちょっと光、ちゃんとあゆむのことも考えてあげなさいよ」
 紫苑ちゃんだってほぼ同時に気付いて、光君に毒づく。
「す、すまん。紫苑なんかにかまけてあゆむを疎かにしたとは、我ながら一生の不覚」
「紫苑なんか、って言葉には異議を申し立てたいところだけど、そうね、あゆむのことを忘れてたってのは致命的よね。ってことで」
 あゆむは私のものってことで決定しましたーって紫苑ちゃんが抱きついてきた。
「あ、こら! なんでそうなるんだよ、ふざけるな!」
 慌ててボクを紫苑ちゃんから引き離す光君。目がマジだ。
「なによー、あんたがミスったのが悪いんでしょう?」
「だからってあゆむがお前のもんになるわけじゃないだろーが!」
 そして久々にボクを挟んでがるるってやり始めた。
「はぁ」
 せっかく上手く行っていたと思っただけに、つい溜息もついてしまう。
(やっぱり次の段階が必要なのかなぁ)
 その時チクっと。
 体のどこかで痛みが走ったけれど、ボクは気付かない振りをした。
 
 ふたりを引っ付ける為に、次にボクがするべきこと――それはふたりだけの時間をもっと作ることだった。
 三人での勉強会の途中に何度も席を離れてみたり。
 みんなとの朝の待ち合わせに遅れてみたり。
 先生に呼ばれているからとふたりには先に帰ってもらったり。
 以前ウソをついた時に陥った罪悪感も、何度も繰り返す度にどんどん薄れていって、ついには――
「ええー!? あゆむ、風邪引いちゃったんですかぁ!?」
「そうなのよ」
「じゃあ、今日みんなで遊びに行くって約束は……」
「ごめんなさいね。光君と紫苑ちゃんだけでも楽しんできてってあゆむも言っていたわ」
 おめかしして迎えに来たふたりに、玄関先でお母さんが申し訳なさそうに断りを入れるのを、いたって元気なボクは階段の上から気付かれないように覗き見していた。
 十二月二十五日。クリスマス。
 受験生だけど、この日だけは思いっきり遊んじゃおうって三人で前から約束していた。
 ホントはボクも行きたい。
 だけどふたりの仲を決定的に進行させるには、このイベントを最大限に利用しない手はない――こんなことも出来るようになっていた。

「それじゃああゆむに『早く風邪を治してね』ってお伝え下さい」
 お見舞いを申し出るも「風邪が移ったら大変だから」とお母さんからやんわりと断られ、仕方なくふたりは伝言だけを残してボクの家を後にした。
 自分の部屋に戻り、カーテンの隙間から様子を覗いてみる。
 肩を落して遠ざかるふたりの背中が見えて、思わず小さな声で「ごめんね」って謝った。
 でも、仕方ないんだ。ボクにはこうするしかなかったんだもん。
 それに今はがっかりしていても、そのうちボクの分まで楽しもうと立ち直ってくれるはず。
 カーテンから離れて、でも勉強する気分にもなれず、ベッドに寝転んでいるとガチャリと音がしてお母さんが入ってきた。
「ねぇ、あゆむ。ホントにこれでよかったの?」
 三者面談時は取り乱したけれど、普段はいつも笑顔を絶やさないお母さん。でも、ボクを見下ろしてくるお母さんの表情は珍しく怒っているような、困惑しているような。そして必死に隠そうとしてくれているけれど……ウソまでついてふたりとクリスマスを楽しむことができない僕を憐れんでいるようだった。
「……うん。だってしょうがないもん」
 そんなお母さんの顔を見たくなくて、ぼんやり天上を見上げてボクは続ける。
「それにクリスマスはなにも今年だけじゃないもんね」
 来年もあれば、再来年もある。
 ボクが生き続けている限り、今年の穴埋めをする機会はまだまだ何度も訪れるはずだよって笑ってみせた。
「そう……そうよね」
 お母さんも気丈に微笑んでみせる。
 お母さんも辛いはずなんだ。
 自分の子供がどんどん死の淵へ近付いているのに、何も出来ない無力さに。
 もしかしたらボクよりも辛いかもしれない。でも、笑ってボクを見守ってくれている。まるで笑うことで、色々な不安や嫌なことを払いのけようとするみたいに。
 変な話だけど、ああ、ボクってやっぱりお母さんの子なんだなぁって思った。
 自分が辛い時ほど笑顔になる。
 相手の為に。
 自分の為に。
 笑顔が何もかもを解決してくれると信じて。
 
 子供の頃、クリスマスにサンタさんには色々なおもちゃをお願いした。
 そして今、お願いするのはただひとつ。

 どうかこの笑顔がホンモノになりますように。

  その日は突然やってきた。

 一月も半ばのある日のこと。
 ボクたちは一緒に帰って、例のT字路で分かれた。
 みんな用事があるってことで、その日はそれぞれの家に帰って、個々のレベルアップに励む予定――だったのだけれど、ボクは勉強を開始してしばらくしてから、参考書を学校に置き忘れたことに気付いた。
 ボクの苦手なところを分かりやすく解説しているからと紫苑ちゃんが渡してくれた参考書だ。面倒だったけれど、取りに戻ろうと家を出た。
 そしていつものT字路で、ボクは見てしまったんだ。
 光君と紫苑ちゃんがふたり並んでどこかへ行こうとしているところを。
 単なる偶然かもしれない。
 声をかければよかったのかもしれない。
 だけどボクはゴクリとツバを飲むと、ふたりに気付かれないようそっと後ろを追いかけた。
 遠くからでも分かる、ふたりの楽しそうな雰囲気。
 いつもはボクを挟んでいるふたりの距離が、何か異様なほど近いように見える。
 紫苑ちゃんの手が、光君の指と絡みたいようにゆらゆらしていて。
 光君の右腕が、紫苑ちゃんの肩を抱き寄せたいようにそわそわと動く。
 見ちゃいけないものを見ている気分になったけれど、ボクは頑張って目を逸らさず、ふたりの後を付いていった。
 ふたりが向かったのはいくつものテナントが入っているショッピングセンター。その中でふたりは雑貨屋さんやスポーツショップに入ったり、服を見たりと終始楽しそうだった。
 デート、だよね、やっぱり。
 紫苑ちゃんが大きなぬいぐるみを抱えあげるのを見て、光君が苦笑いしたり。
 光君がじっくり靴を選ぶのを、紫苑ちゃんが茶化したり。
 バレンタインコーナーで、チョコレートの山を散策するふたりはどこから見ても立派な恋人同士だった。
 
 良かった。
 とうとうふたりは付き合いはじめたんだ。
 これまで頑張った甲斐があったし、これでボクもようやく変態出来る。
 本当に良かったと思った。
 だって全部ボクが望んだことで、望みのままになったんだもん。
 死ななくて済んだんだもん。
 それは絶対に喜ばしいことで。
 いくら視界が滲んで、歪んで見えていても。
 絶対。
 絶対に。
 悲しいことなんかじゃないんだ。

 光君と紫苑ちゃんのデートを目撃したその日。
 ボクは家に帰るなり、夕食もとらず、お風呂にも入らないまま、ベッドに潜り込んだ。
 寝てしまおう。明日にはすべてが終わっている。
 そう信じていた。
 男の子になるのか、女の子になるのか、そんなのはどっちだっていい。
 ただ変態さえ出来ればいい。
 そしてこれからも光君と紫苑ちゃんと仲良くしていければ、それだけで十分だと自分に言い聞かせて、懸命に押し寄せてくる感情を堪えて目を閉じた。

 なのに、何故かボクは変態しなかった。

 翌朝、目覚めても何の変化もなく、すごく動揺した。
 お母さんに話をしたら顔を青ざめて、朝ご飯も取らずに、ボクを連れて学校へ向かう。
 いつもよりずっと早い時間だったので、T字路にふたりはいなかった。
 学校で同じことを話したら、先生もびっくりしていた。
 ちなみに先生には定期的に報告をしていたんだ。
 うんうんと頷きながらボクの話を聞いてくれて、アドバイスをくれたり、相談にも乗ってくれた先生。「辛くない? 大丈夫?」と心のケアもしてくれていた。
 で、ボクもそうだし、先生もそうだったけれど、三学期の初めの報告で「そろそろ」だと思っていた。
 ボクが変態できないのは、ふたりとの人間関係。その問題のクリアはもうすぐそこ。
 覚悟はしているけれど、やっぱりふたりが結ばれるのはきっとショックで。
 でも、そのショックがボクを変態させるはずだと思っていた。
 けど、結果は……。
 もしかしたら原因は他にあるのかな? どうしよう、もう時間がないって言うのに……。
「もう一度確認するけど、上月さんはふたりがデートをしているのを見たんだね?」
「う、うん」
「それで本当に吹っ切れた?」
 ……と思うと、ボクはこくんと頷いた。
 やっぱりショックだった。
 つい涙が出た。
 だけど心の底からふたりにおめでとうって思ったのもホントだ。これでボクたちはずっと仲のいい友達でいられるって思ったのもウソじゃない。
「おかしいな。だったら変態しているはずなのに」
 ボクの話を聞いて先生が深刻そうに頭を捻る。
「……先生、もしかして他に原因があるんじゃ」
 お母さんが不安そうに言いよどむ。
「うーん、それは考えにくいと思いますが……」
 とにかく自分の方でも調べてみますと先生はお母さんを落ち着かせると、ボクには心当たりを思いついたら、どんなことでも、いつでもいいから話しに来てって言ってくれた。

 それからは毎日が慌しくなった。
 先生が呼んでくれた専門家のおじさんのカウンセリングを受けたり。
 お母さんに連れられて、都会の大きな病院で何日も検査を受けたり。
 受験どころじゃなくなって、ボクはあっちへこっちへと連れまわされた。
 おかげでなかなかふたりには会えない。
 最初こそ目撃したことと変態できなかったことのダブルショックでそれもいいかなと思ったけれど、数日もすればとても会いたくなった。
 正直、ふたりが今までと同じように接してくれるかどうか不安もあったけれど。
 でも、きっとふたりなら、と信じていた。
 恥ずかしそうに付き合い始めたことを話してくれて。
 ボクは驚きながらも、ふたりを祝福して。
 それでもこれまでと同じ、ボクが望む、仲良し三人組の関係が続くものだと信じていた。
 ……だけど、それはあまりにも幼い幻想だったんだ。

「おおっ! あゆむ、久しぶりだなぁ。もう大丈夫なのか!?」
「あゆむ、無理しちゃダメよ」
 ようやく時間が取れたある日、いつものT字路にちょっとだけ早く着いて待っていると、仲良く一緒に歩いてきたふたりがボクの姿を見て駆け寄ってきた。
「う、うん。ごめんね、心配かけちゃって」
 ふたりにはボクがインフルエンザにかかったってことにしている。
「ホントよ。受験は体力勝負なんだから。健康管理はちゃんとしないと!」
 両手を腰に当てて、怒ってみせる紫苑ちゃん。ほんの半年前まで紫苑ちゃんの口から「体力勝負」って言葉が出てくるなんて想像も出来なかった。
「そうだね。ボクも朝のトレーニングに付き合ったほうがよかったかなぁ?」
 さりげなく会話の中に「付き合う」って言葉を入れてみた。
「くそう、やはり無理矢理にでもあゆむも付き合わせるべきだったか……」
「あゆむも一緒だったら、もっと楽しかったのにね」
 悔しがる光君と「今からでも一緒にやる?」と誘ってくれる紫苑ちゃんに、なんだか拍子抜けなボク。
 それからボクが休んでいる間にこんなことがあったとか、この問題が試験に出そうなんて話をしながら学校へと向かった。 
 だけどなかなかふたりが付き合い始めたって話が出てこない……。
「と、ところでさ、何かふたりに変わった事は、ない?」
 我慢しきれなくなって訊いてみた。
「おお、よくぞ聞いてくれた!」
 光君が嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「最近、フォークの落ちが鋭くなったような気がするんだ」
「へ、へぇ」
 ……ごめん、それは今、どうでもいい。
「何つまんないこと言ってんのよ、それよりももっと大切なことがあるでしょ」
 紫苑ちゃんがとても真面目な顔で、ボクを見つめてきた。
「あのね、あゆむ。驚かないで欲しいんだけど、私と光ね……」
「う、うん」
 心の準備は出来ているつもりだけど、思わずツバを飲み込んだ。
「年末の模試で五教科の点数が同じだったのよ!」
「……そ、それは凄いね」
 普段だったら「えーっ!」って驚いていたと思う。
 でも、聞きたいのはそんな話じゃなくて……。
「でしょー!? ホント、わたしもアホの光と同じ点数だなんて、マジでショックだわ」
 薄い反応を浮かべるボクとは対照的に、紫苑ちゃんは大袈裟に右手で顔面を押さえて嘆くマネをしつつも、とても嬉しそうだ。
「おい、どさくさに紛れてアホって呼ぶのはやめろよ」
「だって、あんたアホじゃない。そのアホなあんたをここまで育てるのにどれだけわたしたちが苦労したか」
「くっ。そ、それは感謝してるけど、でも、アホアホと言わなくてもいいだろ!?」
「あほ~あほ~、光のあほ~」
「し、紫苑! てめぇ、いい加減にしやがれ!」
「うわぁ、アホの光が怒った!」
 怒った光君から、紫苑ちゃんがいつものように走って逃げ出す。
 今まではそれを光君は苦笑しながら見つめるだけだった。
 でも。
「痛い痛い! ちょっと光、やめてぇ~」
「あははは。やめて欲しければアホを訂正しろー!」
「分かった、分かったから、もうやめてー」
 光君はダッシュで追いかけて紫苑ちゃんを捕まえると、ヘッドロックして頭にぐりぐりと握りこぶしを押し当てていた。
 そしてヘッドロックを解いた光君に、涙目の紫苑ちゃんが何か文句を言う。
 でも全然取り合ってもらえなくて、そんな態度に紫苑ちゃんは怒った振りをしてぽかぽかと光君の胸元を叩いた。
 バカップルだ。
 どう見てもふたりはバカップルになっていた。
 だけどふたりはそんなことを全然言ってくれなくて。
 おまけにボクのことを忘れたかのように、笑いながらふたりして歩いていく。
 ふたりの世界。
 ふたりだけの世界。
 ボクが入り込めない世界が、そこにあった。
「あ、ごめん、あゆむ。こいつがまたアホなこと……」
「アホな光にアホって言われたくは……」
 しばらく歩いてようやくボクが立ち止まっていることに気付いたふたりが振り返って……顔を強張らせた。
「……うん、どうしたの?」
 ボクは頑張って無理矢理笑顔を作る。
「どうしたのって、あゆむ、お前……」
「なんで泣いてるの?」
 泣いてる?
 何を言っているんだろう。ボクは笑っているはずだ。
 笑えているはず……なんだ。
「あ、あゆむ!?」
 突然学校とは反対方向に走り出したボクの背中に、ふたりの驚いた声が届いた。
 だけどボクは振り向かなかった。
 振り向くのが怖かった。
 
 正直にふたりが付き合いはじめたことを言ってくれなかったのが辛かった。
 ふたりとは別の世界にいる自分が悲しかった。
 変態できず、ずっと幼生のままのボクは、どんどん男の子になっていく光君や、日に日に女の子になっていく紫苑ちゃんに、置いていかれるような気持ちを覚えることがあった。
 それでもふたりがいつも一緒にいてくれたから。
 左を見ればいつだって光君が。
 右を見ればいつだって紫苑ちゃんが。
 ボクの左右にふたりがいてくれたから、ボクはいつも笑顔でいれたんだ。
 だけど、さっき、ボクを置いていくふたりの背中を見て感じたんだ。
 今度こそボクはふたりに置いていかれたんだなぁ、って。
 もうどうしようもないんだなぁって。
 それでも笑顔でいなきゃって、思ったんだけど……。

 この時、ボクはようやく本当の自分の本性を知った。

  二月十三日。
 ボクに残された最後の日。
 あの日から学校に行っていないボクが目を覚ましたのは、お昼過ぎだった。
 念のために体を確かめてみる。
 当然のように、何の変化もなかった。
 ベッドを降りる。
 と、貧血みたいに頭がクラクラした。最近よくなる。そう言えば、と相田さんもフラフラしていたのを思い出した。
 リビングに降りて行くと、お母さんの姿はなかった。
 どこに行ったんだろう。見当がつかない。
 こんな最後を迎えるのは、本当に悲しかった。

 先生でも、医学でも、ボクを変態できなかった結果、お母さんが最後に救いを求めたのは宗教だった。ボクも色々なところへ連れ回された。
 面白かったのは、そのうちのひとつに「変態出来ずに死んだ人間は妖精になる」と唱えている宗教があったことだ。あの日、相田さんから聞かされたお伽噺、そのソースがこんなところにあったなんてと驚いた。相田さんは笑い飛ばしていたけれど、反面信じているようでもあったから、案外ここの信者だったのかもしれない。
 もっともボクを救いたいお母さんは死んだ後の話なんて聞きたくなくて、すぐにそこは飛び出たけれど。
 そんなお母さんを見かねて、ボクが心のうちを全部話したのは数日前のことだ。
 ボクは、ボクが思っていた以上に欲張りだったんだって。
 ふたりが付き合い始めても、三人一緒にいられたらそれでいいんだって思っていたけれど。
 実は違ったんだ。
 ボクが本当に求めたものは……ふたりが付き合っても、光君の右にはボクが、紫苑ちゃんの左にもボクがいて、つまりはふたりの中心にはいつもボクがいるっていう、すごく欲張りな関係だったんだ。
 そんなの出来るわけがないじゃないかって今になっては思う。
 だけど、ふたりが付き合い始めるまで、ボクたちなら出来ると思っていた。
 バカだ、どうしようもないぐらい本当にバカで欲張りだ。
 結局、ボクが変態できないのは、今までの関係を崩したくなかったからだけど。
 崩れてしまった今となっては、ただただ後悔するばかりで。
 欲張りすぎる自分に絶望するだけで。
 変態して生きていこうって気持ちになれなかった。
 こんな話をするボクに、お母さんはただただ呆れて、叱ってくれた。
 生きている中で失恋や失敗なんてのはいくらでもある。それを乗り越えていくのが人生だって教えてくれた。
 苦しいこと、辛いこと、嫌なこと、いっぱいある。でも、同じくらいに嬉しいこと、楽しいこと、面白いことも今は見えていないだけでいっぱいある。
 だから生きようって励ましくれた。
 それでも変態できないボクに、とうとう愛想が尽きたのかもしれない。
 お母さんの居ないリビングがとても寂しく見えた。

 最後の日をどのように過ごすか。
 ちょっと前から考えて、昨日のうちに用意を済ませていた。
 お母さんにナイショで作った、丁寧に包装し、ちょっとしたメッセージを添えた、手作りのバレンタインチョコレート三つ分。
 ひとつは光君に。
 ひとつは紫苑ちゃんに。
 そして最後のひとつはお母さんに。
 バレンタインデーといえば、日本では女の子がチョコレートと一緒に、想い人へ愛の告白をするものだけれど、本来は大切な人にちょっとした贈り物をするものだそうだ。だから女の子の紫苑ちゃんや、お母さんに送ってもおかしくないよね。
 それをまだ学校に行っているはずの、ふたりの家に届けに行く。
 最後にふたりに会いたくないと言えばウソになる。でも、会えばきっと泣いちゃうから、もうふたりの前で泣き顔は見せたくないから、出会うことのない時間のうちに届けに行くんだ。
 ふたりの家はとても近いのに、身体がフラフラして大変だった。
 呼び鈴を押し、出てきてくれた光君のおばあちゃんも、紫苑ちゃんのお母さんも、真っ青な顔をしているボクを見てびっくりしていた。
 だけどボクが体調を崩して学校を休んでいるのはふたりとも知っているみたいで、余計な説明をしなくて済んだのは助かった。おかげでボクは軽く挨拶をした後にチョコを取り出して、一言だけ言伝を頼むだけでよかった。
「バレンタインデーは明日だけど、必ず今日中に食べてねって伝えて下さい」

 ふたりの家に配り終えて戻ると、やっぱりお母さんはいなかった。
 どこへ行ったのだろう。
 早く戻ってきてくれるといいな。
 ……戻ってきてくれる、よね?
 やっぱりお母さんには最後に直接ありがとうって言いたかった。だからリビングのソファに座って待つことにしたのだけれど……。
 不意に。
 力が抜けた。
 まるで操り人形の糸が次々と切れるみたいに、身体を支えている力が抜けていく。お腹の前で組んでいた手が離れ、首ががくんと右に落ちた。その衝動で体も右に倒れていく。
 えっ、もう?
 もう終わりなの?
 ああって思ったその時。
 ボクの前に、突然相田さんが現れた。

 「え!?」
 当然だけど、ボクは驚いた。
 ボク以外誰もいなかったリビングに、突然相田さんがあたかもずっとそこにいたかのように現れたんだもん。
 おまけに。
「やっぱりこうなっちゃったのね」
 驚くボクをよそに、相田さんが顔を覗き込んできた。
 やっぱりこうなっちゃったって、そりゃあ驚くよ。いきなり現われたんだもん。
「そうじゃないわ。私が言っているのは、やっぱり上月さんも妖精になっちゃったねってこと」
「……妖精?」
 心を読まれたこともそうだけど、それよりも妖精って言葉が気になった。
「そう。上月さんも分かっているでしょう?」
 そして「体を起こして」と相田さんは優しく言う。
 え、でも、体を起こしてといわれても力が……
「あ、あれ?」
 不思議な感覚だった。どこにも力をいれてないのに、勝手に上半身が起き上がった。それでいて無理矢理起こされたわけでもない。加えて重さを全く感じない。なんだこれ? 無重力?
「体から解放されて、魂だけの存在になったからよ」
 不思議がるボクをみて、相田さんが説明してくれた。
「魂だけの存在って、やっぱりボク……」
「そう、上月さんは死んでしまったの」 
 薄々とは感じていたけれど、やっぱりそうなんだ。
 涙は出ないけれど、悲しかった。
「そして幼生のまま死を迎えたから、これから上月さんは私と同じように妖精になるの」
「……あの話、本当だったんだ?」
「そうよ。上月さんも最後には信じていたでしょう。だって、起こす奇跡も考えていたみたいだし」
 全てを見透かされていて驚いた。
 相田さんが言うには、死んで妖精になってからずっとボクを見守ってくれていたらしい。おまけに妖精は魂そのものを見ることが出来るらしくて、そこに隠し事は出来ないそうだ。
 だからボクが何をお願いするのかも分かるそうだけど
「でも、奇跡は口にしないとダメ」
 と、なんか変なことを言ってきた。
「口って、魂だけの存在なのに?」
「う。細かいことを……。たしかに厳密に言えば口で言うわけじゃないけれど、私が勝手に思考を読んで、叶えるわけにはいかないってことよ」
 たじろぎつつ、説明してくれる相田さん。こう言ってはなんだけど、外見といい、あまり妖精らしさが……。
「悪かったわね。妖精らしくなくて」
 うわわ、考えていたことを読まれてしまった。
「それよりも起こしたい奇跡を言って。ただし」
 相田さんがボクをじっと見つめて、言った。
「奇跡はひとつだけ。そして一度口に出した願い事は決して翻すことはできないの。私は上月さんが何を願っているのか知っている。でも、今一度本当にそれが上月さんの起こしたい奇跡なのか、よく考えて」
 相田さんの瞳に映るボクが、ごくりと唾を飲み込むのが見えた。
 そうだ、相田さんが言うように、ボクはもし奇跡が起こせるのなら、これをお願いしようってことを決めていた。
 何故ってそれがボクに出来る、みんなへの精一杯の餞だと思ったからだ。
 光君や紫苑ちゃん、それにお母さん……これから長い人生を生きていくみんなが、ボクがいなくなっても苦しまずにいられる唯一の方法――。
 相田さんの言葉を信じるなら、あとは口にするだけで叶うっていう。
 だったら
「ボク、上月歩の願いは」
「ストップ!」
 いきなり相田さんが似合わない大声を上げて、ボクの願い事を遮った。
「え、なに?」
「上月さん、私、言ったわよね。奇跡は一度、口にしたら変更なしって」
「うん。聞いたよ」
「よく考えて、っても言ったわよね」
「うん。言ったね」
 それなのに、と相田さんが軽く溜息をついて、

「『みんなの記憶からボクのことをなくす』のが、本当に上月さんの起こしたい奇跡なの?」

 ボクを睨みつけてきた。
 相田さんの言いたいことは分かる。
 そんな奇跡、悲しすぎるって。
 だけど。
「……だって、しょうがないよ」
 ボクはこんな時も笑顔を浮かべた。
「ボクはみんなに心から感謝しているんだ。本当にこれまでありがとうって」
「知ってるわ。チョコレートのメッセージカードにそんなことを書いていたものね」
「うん。だからね、そんな大好きなみんなを悲しませたくないんだ」
 だから最初からボクなんていなかったってことにすれば。
 みんなの記憶からボクが消え失せてしまえば。
 ふたりは何の傷も背負わず、これからも付き合っていける。
 お母さんだって辛い想いを引き摺らなくてすむ。
 それでもみんなには感謝の気持ちを伝えたくて、一日早いけどバレンタインのチョコレートを送った。
 そういえばふたりにはもう食べてもらえたかな? 明日には忘れられちゃうから、今日中に食べてって言伝をお願いしたけれど。
 お母さんは……無理かな、やっぱり。リビングで倒れているボクを見つけて、きっとチョコレートどころじゃないはずだもん。
 それでもチョコレートに籠めた気持ちに気付いて、食べてくれたらいいなと思った。
「……なんだったら、それを奇跡のお願いにする?」
「はい?」
「今、思ったこと。みんなにチョコレートを食べて欲しいってお願いを奇跡にする? って言ったの」
 そんなくだらない提案を相田さんが真面目な顔で言うものだから、ボクは思わず笑ってしまった。
「ははは。さすがにそれは馬鹿馬鹿しいよ、相田さん」
「そう? でも上月さん、残念だけど、あなたのチョコレートは誰にも食べてもらえそうにないわよ?」
 相田さんが何気ない様子でリビングのテレビの電源を入れた。
「え?」
 突然の行動にも驚いたけれど、画面に映った映像にはもっとびっくりした。
 映し出されたのは見慣れたボクんちのリビング。ソファにボクがぐったりと横たわっていて、その側に
「なんで……ふたりが……?」
 お母さんと一緒に、光君と紫苑ちゃんもいて、三人揃ってボクの体を必死に揺さぶって大声で呼びかけていた。
「あゆむ! 目を覚ましてくれ、あゆむ!」
「ヤだ、死んじゃヤダよ、あゆむ!」
「あゆむ! あゆむ!」
 光君も、紫苑ちゃんも、そしてお母さんも、みんな泣いていた。
「これって……?」
「今、現世で起きていることよ」
 なんでも死んだ瞬間に魂は現世とそっくりの「あの世」へと移動するらしく、ボクが今いるところはその「あの世」だそうだ。
「なんでふたりともボクの家に……?」
「さぁ、それは私も知らないわ。ただ、ふたりとも制服姿だし、時間的にも学校から直接やってきたって感じね」
 そんな……それじゃあまだふたりともチョコレートを食べていない? メッセージカードも見ていない?
 ううん、今はもうそんなことを言っている場合じゃない。
「相田さん、お願いだから今すぐ」
「上月さん、あなたは奇跡を起こすことが出来る」
「うん、だから」
「でも、それはみんなの心から大切なものを奪って、隙間を作るような、そんな悲しい奇跡なんかじゃない。こんなにあなたのことを想って泣いてくれているのに、次の瞬間、どうして泣いていたのかとその理由すら忘れてしまうような、つまらない奇跡なんかじゃない!」
 そして相田さんが強い口調のままボクに問いかける。
「上月さん、あなたが起こしたい本当の奇跡を思い描いて!」
「で、でも……」
「でも、じゃない! いい、上月さん、奇跡は信じられないことが起きるから奇跡って言うの。願った人が嬉しくて、嬉しくてたまらないことが起きて神様に感謝するから、奇跡って言うの。あなたが今言おうとしたのは、単なる自己満足。そうじゃない、あなたの本当の想いを、願いを言って!」
 ボクの本当の願い……そんなの、決まっている。
 でも、まさかそんな……そんなことって……。
「上月さん、奇跡を信じないと。ね?」
 奇跡を信じる……!?
 だったら、ボクの願いは……

「お願いです、神様! ボクは光君や紫苑ちゃんといつまでも仲良く一緒にいたいんです!」

 大声でボクは叫んだ。

エピローグ

 あれからいくつもの季節が流れた。
 無事に花押高校へと進学したふたりは、充実した高校生活を送り、そして。
「結婚、おめでとー」
「いつまでも幸せにねー」
 高校卒業と同時に式を挙げた。
 この春からふたりとも近所の工場で働くことが決まっている。
 と言っても光君はまだプロ野球選手になる夢を諦めていなくて、働きながら会社の野球部でプレイすることになった。
 紫苑ちゃんも光君との結婚で事務所と揉めて契約を解除されるも「だったら演技派女優になってやる!」と、こちらも働きながら劇団で自分を磨く予定だ。
 お互いに忙しく、職場は同じとはいえ、すれ違いになることも多いだろう。だからこの早すぎる結婚を、事情を知らない人は無謀だって笑い飛ばすかもしれない。
 だけど、ふたりを、ううん、ボクたちを知っている人ならば誰もが「絶対上手く行く」と信じてくれている。
「おおい、あゆむ。そんなところにいないでこっちに来い!」
「ええっ!? いいよぅ、ボクはここで」
「何言ってんの? あゆむの場所はここって決まっているでしょ」
 式を挙げた教会を前での記念撮影、ボクは気を利かしてちょっと離れたところにいたんだけど、ふたりに無理矢理腕を引っ張られて
「はい、やっぱりあゆむは私たちの間にいないとね」
「ああ、なんせあゆむは俺たちの大切な子供だからな」
 左に光君、右に紫苑ちゃんという、いつもの場所に配置されてしまった。
「え、えーと、じゃあ撮りますよー」
 光君の子供発言に、事情を知らないカメラマンさんが戸惑いながらもファインダーを覗く。
 きっとこんな結婚写真を撮るのは初めてなんじゃないかな。
 だって、新郎新婦の間に、まるで小学生みたいな幼馴染、そして今日からはふたりの養子となる、十八歳なのにいまだ幼生のボクが心からの笑顔で立っているんだから。

 あの日、お母さんの向かった先は、ボクたちの学校だった。
 先生に相談して、立会いのもと、お母さんは光君と紫苑ちゃんにボクのことを話した。
 ふたりはとても驚いたものの、ボクがお互いをひっつけようと画策していたことに気付いていたようで、実は何度かこれからのことについても相談していたらしい。
 正直なところ、ふたりともボクの変態をまだ待っていたそうだ。
 男の子になったら紫苑ちゃんが、女の子になったら光君が結婚して、もう一方はきっぱりと身を引きながらも友達関係は続けていく。そう決めたらしい。
 ちなみに目撃したデートシーンは、ボクの誕生日プレゼントをふたりで買いに行っていったんだそうな。ベタな勘違いだった。色々とごめんなさい。
 そしてお母さんからボクの話を聞き、ふたりが出した結論が「ボクを養子にして、将来は三人一緒に住む」というものだった。
 大胆な発想だったけれど、これならこれまで通りの関係に近いし、ボクも安心出来るだろうってことで、話がまとまったところで早速家に向かったのだけれど。
 ボクの命の灯火は消える寸前だった。
 そんなボクを救ってくれたのは、神様……なんだけど、ボクは相田さんだと思っている(神様、ごめんなさい!)。
 だって、ボクから本当の願いを引き出した相田さんは、その瞬間優しく微笑んで
「うん。それでいいの」
 とボクの頭を撫でると、声高らかに言ったんだ。
「神様、私、相田かなめの願いは、先ほどの上月さんの願いを叶えること。どうか奇跡をお願いいたします」
 途端にあたりが光の粒となって消えた。
 地面も消え失せて、まるで空中に放り出されるようになって、ボクは慌てて両手をじたばたと動かす。
 その手を握ってくれたのは、相田さんだった。
 ぎゅっと力強く握ってくれたので、なんだか落ち着いた。
「上月さん、スカイダイビングってやったことある?」
「え、ないけど?」
「私も。でも、多分こんな感じじゃないかしら」
 光の中を落ちるとも浮き上がるとも分からない、不思議な感覚。でも、落ち着いてくると、とても気持ちがよくて、ふたりして笑顔になった。
「……あ」
 そしてボクは見た。
 相田さんの背中に小さな透明な羽が生えてくるのを。
「相田さん、それ……」
「あ、羽があるわね。てことは、わたしも晴れて妖精になれたみたい」
「なれたみたいって……じゃあこれまで妖精じゃなかったの?」
「そうね。だって私」
 これまで叶えたい奇跡がなかったんだもん、と相田さんは言った。
「あ、でも、気にしなくていいわよ。神様だって困っていたもん。なんかあるだろう? って。でも、ないものは仕方ないわよね。むしろ奇跡を願わないと妖精になれないシステムを作った神様に問題があるって言ってやったわ」
 どこか勝ち誇ったような相田さん。神様もこれから大変だ。
「私ね、男の子にも女の子にもなりたくなかったの。男の子は野蛮だし、女の子は嫉妬深いのがイヤでね。でも妖精になりたいかって言われると、そうでもなかったんだけど……」
 と、不意に相田さんの握る手が弱まった。
「あ、そろそろお別れみたい」
「相田さん!?」
「じゃあね、上月さん」
 上月さんが笑顔のまま、指をゆっくりと離していく。
「妖精ってね、人間を見守って幸せに導くのが仕事らしいの。そんなの面倒だなって思ったんだけど……上月さんたちの作る物語を私は見たくなった。だから今は妖精になれてよかったなと思ってるわ」
 ありがとう上月さんと相田さんが言った。
「そんな、ボクのほうこそ! 相田さん、ありがとう! 本当にありがとう!」
「うん。じゃあ三人仲良くね。面白い物語、期待してるわ」
 そして相田さんは全ての指を離した。
 途端にボクはすーっと落ちていく。
 逆に相田さんは天へと昇っていくようで。
 光り輝く羽がとても奇麗だった。

「それでは三人の幸せな今後を祝って。ばんざーい!」
「ばんざーい!」
「ばんざーい!」
 結婚式に出てくれたみんなが万歳三唱をして、新婚旅行へと向かうボクたちの車を見送ってくれた。
 でも。
「お、おい、あゆむ。本当に大丈夫なんだろうな?」
「信頼してない、わけじゃないわよ。でも、はっきり言うわ。私、まだ死にたくない」
 車の後部座席に座るふたりの顔色は青ざめていた。
「ぶー。ふたりとももうちょっとボクを信用して欲しいなぁ」
 ボクはハンドルを握り締める。
 実はふたりにはナイショで車の免許を取ったんだ。
 春から仕事で忙しくなる光君たちに対して、ボクの役割は主婦(主夫?)として食事やら洗濯やらでふたりをサポートすること。
 だから職場への送り迎えにも便利かなって考えて、免許も取った。
 車にはあまり興味はなかったけれど、乗ってみると面白かった。このスピード感、やみつきになるぜ?
「じゃあ行くよー!」
 ボクは思い切りアクセルを踏み込む。
 後ろでふたりが声にならない声をあげた。
 もう、大丈夫だって、ボクを信じて。
 それにボクたちの側には、いつだって幸運の妖精がいる。
 ボクの、ボクたちの物語を、ずっと楽しげに見守ってくれているんだから。

 おわり。

妖精が見守る物語の主人、歩む