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だいきちさん 著作 | トップへ戻る | |
抜けない針 |
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あれから十四年がたつ。
思い出される息子の顔は、いつも憎しみに満ちている。その目は鋭く達吉を睨みつけ、達吉が何かを言えば、その内容が何であろうとも全て逆らい言い返してやろうと身構えているようにも見える。 何をそんなにいらつき、怒っているのか。達吉はいつも落ち着いて諭そうとしたが、持ち前の気性の荒さが災いして、最後はいつも喧嘩になった。手が出たことも一度や二度ではない。達吉のこぶしを受けた後、息子の弘敏は心の底からの憎しみに満ちた目で達吉を見上げたものだった。年をおうごとに弘敏のそんな顔ばかりが頭に浮かんでくる。 結局、達吉に対して二度と笑顔を向けることなく、弘敏は酔ったチンピラに喧嘩を売り、腹を刺されてあっけなく命を落とした。十九歳の夏のことだった。 * 「夏祭りを復活させたいんです」 商店街の会合でそう言い出したのは、米屋の三代目の健一だった。健一は弘敏と同い年で、子供の頃は弘敏と仲が良かった。父親の跡を継いで店に入ってからは、若さの勢いにまかせて店をスーパーに改装するなど頑張っている。達吉と同世代の健一の父親は、いやあ、親父の言うことなんか聞きゃあしねえ、困ったもんだよ、といつもこぼす。しかし達吉にしてみればそれは跡を継ぐものがいるもののぜいたくにしか聞こえない。 商店街の夏の催しは昨年同様の福引に決まり、毎年のことであるから役割分担もすんなりと落ち着くべきところに落ち着いた。後は解散して、達吉たち年配組と健一たちの世代が中心の若手組に分かれていつもの飲み屋へ向かうだけ、と皆が腰を上げようとしたとき、それを健一が遮った。 「毎年の福引だけじゃマンネリですし、今のご時勢なんか新しいことやっていかなきゃっていうことで僕らいつも話し合ってたんですけど、かと言って突拍子もないことをやろうとするとお金がかかってしょうがないし、そこで夏祭りを復活させたらどうかな、と思いまして」 健一の言葉に若手の何人かがうんうんと頷く。若手の連中が隠れてこそこそと、そのような相談をしていることは達吉の耳にも入っていた。 「お神輿や山車なんかも神社にまだ残ってますし、だいぶ前にはなっちゃいましたけど、それまではずっとやってたわけだから段取りなんかもしやすいですしね」 「そう簡単に言うけどなあ」 議長役の肉屋の主人が困ったようにちらりと達吉の顔を見る。 「もちろん簡単だなんて思ってませんよ。その辺は是非経験ある方々からアドバイスはいただきたいとは思ってます。ただ、基本的な部分は僕ら若手が責任もってきちっとやりますんで、皆さんは出来る限りの部分で手伝っていただければいいです」 「そんな思いつきでどうにかなるほど甘いもんじゃないぞ」 勢いよく喋り続ける健一を達吉が遮った。健一がやっぱりきたか、というように一瞬苦い顔をする。 「単なる思い付きじゃありませんよ。ずっとみんなで話し合ってきたんです」 「お前らそうやって新しいことだ商店街の振興だってごたくだけは立派だがなあ。お祭りっていったらわんさか人が集まるんだぞ。なんかあったときお前らちゃんと責任とれんのか?」 「安全対策はちゃんと考えますよ。警察にも協力してもらうし」 「去年福引やってて一回揉め事になったことあったろ。会場の前で喧嘩になって、お前らあんなこと一つまともに抑えられなかったじゃないか。お祭りになりゃあ酒も入るし、あんなもんじゃ済まないぞ。そんときお前らどうするつもりだ?」 「そりゃ……それこそ警察なんかと話して……」 「ほら、何にも考えてねえじゃねえか。そういうのを思いつきって言うんだよ。調子のいいことばっかり言う前に、まずそういうところをきちっと決めてから話を持って来いよ。責任もってやりますだあ? 十年早ええよ」 達吉の厳しい言葉に健一が黙り込む。さっきまでの威勢の良さは見る影もない。 結局夏祭りの件は時期尚早ということで保留となり、話し合いは終わった。 * 翌日、夜八時を少し過ぎた頃、達吉は自分の店のシャッターを閉じた。 達吉の父親が始めたこの岸田酒店はまもなく創業六十年を迎える。空襲で一度焼け野原になってから戦後つくられた商店街であるから、老舗は皆同じくらいの歴史を持つ。そのような店は達吉たち団塊の世代からそのジュニアたちへと、ちょうど代替わりの時期にさしかかっていた。 東京も郊外では大手の流通企業の前に古い商店街はその姿を失いつつある。しかし二十三区でも比較的高級住宅街の部類にあたるこの街では、それ故に土地代も高く、それが大店舗スーパーなどの進出を防いでいる。皮肉なことに都心に近いことが昔ながらの商店街の景観を守ることにつながっていた。 達吉の店にも過去に何度もコンビニエンスストアから誘いが来た。しかし彼はその全てを断っている。達吉にとっては、お得意様を相手に堅い商売を続けていくことが自分の使命であり、安易に誘いに乗ってこの店をコンビニにすることは、これまでの自分の勤勉に対する裏切りのように思っていた。 後片付けをしていると、斜め向かいの米屋の主人、すなわち健一の父親が訪ねてきた。 達吉と年は二つしか変わらないが、今は息子に経営を譲って、自分は店を手伝っている。 「よう、今日も暑いね」 「おう、坂巻さん、お疲れさん」 「昨日はうちの健一が失礼したらしいね」 「いや、失礼したのはこっちだよ。ちょっときついこと言っちゃって」 「いいんだよ。あいつちょっと調子に乗ってんだ。びしっと言ってもらって良かったよ」 坂巻はそう言って笑った。 「そう言ってもらえると……ちょっと待って、すぐかたしちゃうから」 二人は飲み友達だった。この時間に訪ねてくるということは言葉に出さずとも飲みの誘いに間違いない。達吉はいそいそと片付けにかかった。 二人は馴染みのスナックに入った。 当初は普通に飲んでいたが、だいぶ酒がまわってきた頃、それまで陽気に騒いでいた坂巻がぽつりと言い出した。 「もう何年になる? 弘ちゃんが死んでから」 「十四年だ」 「そっか、まあ何年たったってなあ、忘れるもんじゃないだろうけどさあ」 「急になんだよ」 「やっぱり祭りはまだだめかい?」 「……いや、俺が祭りに反対してるのは、弘敏のこととは関係ねえよ」 弘敏が死んだのは夏祭りの夜だった。会場で酔っ払ったチンピラと喧嘩した末の出来事だった。それ以来、夏祭りは中止になり、達吉に遠慮をしてか商店街でそれを再開しようとする者は誰もいなかった、昨日健一が言い出すまでは。 「そうかい?」 「ああ、俺が反対してるのは、あいつらがあまりにも、こうなんて言うか……物事をうわべだけでしか考えてねえっていうのかな。もうちょっとよく考えろって言いたかったんだよ。そりゃあ祭りをやりゃあ楽しいだろうさ。でもなんかあったら楽しいだけじゃ済まないんだからさ」 「うんうん」 「あいつらそういうこと全然わかってないんだよ。自分に都合のいいことばっかりしか見てなくてさあ。そんな危なっかしい場所にみんな浮かれて集まって、もし万が一のことが起こったらどうするのさ」 「そうだよなあ」 「お祭りに行って死んじゃったなんてことになったらさ……親にしてみたら泣くに泣けないよ、ほんとに。責任もってやりますだと? 死んだ奴の責任なんて誰がどうやって取るって言うんだよ。ふざけるなってんだ」 「うん、あんたは正しい。あんたの言うとおりだ」 坂巻が達吉の話に大きく頷く。しかし達吉が落ち着くのを待って坂巻が言い出す。 「……ただな、達ちゃん。祭りって聞いて結構楽しみにしてる人もいるんだよ。そこんところもちょっとくんでやっちゃくれないかなあ」 結局この親父も自分の息子のことが可愛いらしい。何がびしっと言ってもらって良かった、だ。達吉は反論する気が失せ、坂巻の話に頷く。 「ああ、わかってるよ。あいつらがもう少しマシな話を持ってくるようなら俺も何も言わねえよ」 「すまんな」 結局それでしらけてしまい、その晩はそれでお開きとなった。 * 弘敏にはずいぶん手を焼いた。 小学校も高学年になると徐々に親の言うことを聞かなくなるものだが、中学に入るとその傾向はますますエスカレートし、もはや達吉と目を合わそうともしなくなった。 特に何か原因があったわけではない。子供なんてそんなもんさ、うちだって、と折に触れて坂巻は言ってくれたが、完全にコミュニケーションの途絶えた息子との関係に対して達吉は真剣に頭を悩ませていた。 ろくに勉強もしないまま、すべりこむように入った高校は、勉学どころかタチの悪い仲間を増やすことにしか役立たなかった。弘敏は家にも帰らず、人様に迷惑をかけるような行いをすることもしばしばだった。警察に頭を下げに行ったことも一度や二度ではない。 達吉の目には、弘敏はわざと無茶苦茶なことをやっているように映った。何をそんなに生き急ぐのか、歳をとった達吉には理解することができず、ただ口をきかない息子を殴りつけることしかできなかった。 達吉が殴れば殴るほど弘敏の目は鋭くなり、その行状もまたエスカレートしていった。高校を退学せざるを得なくなる頃には、もはや自分の息子が心通う人間と思うことすら困難になっていた。 思い起こされるのは、何かに怒り、何かにいらつき、焦り生き急ぐ獣のような弘敏のとがった瞳ばかり。息子の笑った顔を思い出すことはもうない。 * 二週間後、商店街の会合に行くと、達吉たちの前には分厚い提案書が用意されていた。 そこには祭りについて実に詳しい内容がまとめられていた。人の流れ、警備計画、けが人の対処、駐車場の手配、予算、日程計画等々。他の町の祭りや花火大会まで参考にしてよく練られている。 健一たちだけの力でできたものではないことは明らかだ。恐らく達吉の知らないところで多くの人たちが彼らの味方に付いたのだろう。その証拠に商店街の連中は、若手はおろか年配の連中までが、達吉が何と言うか恐る恐る様子を伺っている。 つまり反対しているのは俺だけということか……達吉はそう思い自嘲的に笑う。その笑みを勘違いしたのか、健一が言い出す。 「岸田さん、中身について説明させてもらいたいんですけど、いいですか?」 「いいもなにもないよ。よく頑張ったじゃないか。これだけ考えてありゃあ文句の言いようがないだろう。じゃあ後は任せるよ」 達吉が席を立つ。 「岸田さん」 「達ちゃん、まあ座りなよ」 しかし達吉は椅子には座らない。 「俺がいたんじゃ気を使ってやりづらいだろう。お前たちがよくやってるのはわかったから、後は好きにやんなよ。もう俺は何も言わないよ」 達吉はそう言い残して、会合のために借りている公民館の会議室を後にした。 * あの日、病院の遺体安置室に入り、動かなくなった弘敏を見ても、達吉は何が起こったのか把握することができなかった。病院に詰めている葬儀業者が、横たわる弘敏の前に線香を手向けてくれていた。彼は立ち去る前に「もしお心当たりがないようでしたら……心のこもったお式を務めさせていただきます」と言って達吉に名刺を出した。その名刺を見て、初めて達吉は人が一人死んだこと、それが自分の息子であったことをやっと認識した。 葬式が済み、元の日常が戻ってきても、達吉の心に大きな動きはなかった。素直に息子の死を嘆き悲しむには、その息子の行状に心を痛めている時間があまりにも長すぎたのだ。心のどこかにほっとした気持ちがあることを否定するために達吉は仕事に励んだ。 それは弘敏の死から二週間ほど経過した頃だった。朝、普通に店を開け、昼近くになり来店客も途絶え、そろそろ配達の準備をしようかと考えていたときのこと。達吉は店の二階がいつまでも静かなことに違和感を覚えた。そろそろ二階の自室で寝ている弘敏が起きだしてきて、ばたばたとうるさい物音が階下に聞こえる時間だった。その音が響くと、返事をしない息子にあきらめず声をかける妻の声がし、その後に弘敏が父親に顔を合わせないよう裏口から出て行く音が聞こえてくるはずだった。達吉にとってはその音を聞くのも気が重かった。 そこで達吉ははっと気付いた。もう二階からその音が聞こえることは二度とないのだ。もうあの床鳴りも、階段を乱暴に駆け下りる音も、裏口のドアを勢いよく閉める音も。 もう、弘敏はいない。心通い合わせることもないまま、笑顔を達吉に向けることもないまま、彼はこの世から姿を消してしまった。 その瞬間、これまでなかった大きな感情の動きが急に彼を襲い、達吉はうろたえた。達吉は初めて息子の死に涙を流した。くう、と喉の奥から搾り出すような声が出た。 息子の姿を追い求めるように周囲を見回す。だが、もうそこに弘敏の姿を認めることはできなかった。その無念さは今も忘れることはない。 * 健一たちが祭りの準備に忙殺されている様子は、何かと達吉の耳にも入ってくる。 町内の調整、警察への申請、テキ屋との打ち合わせ、商工会議所やPTAへの説明等々、通常の仕事をしながら、それらを一つ一つこなしていく姿に、若者たちの熱意が感じられる。 達吉は自他共に認める頑固親父で通っていた。何かというと、このままじゃ商店街には未来がない、とむやみに悲観的な極論に走り、そうかと思うとこれまた極端で突拍子もない話を「商店街振興策」として持ってくる若者たちの、その地に足のついてない頼りなさを達吉は嫌った。彼らがやれアーケードの建設だ、イベントの誘致だと浮ついた話を持ち出すたびに、達吉は彼らを叱り飛ばした。どんなに不景気だろうと時代が変わろうと、きちんとお得意様を大事にしてまっとうな商売をしていれば、そう簡単に商店街はなくなりはしない。大金出して屋根をこさえてる暇があったら自分の足元固める方が先だろうが、それが達吉の持論だった。 今回の夏祭りの復活もそんな軽薄な話の一つにすぎない、と達吉はたかをくくっていた。ところが一つ一つ話が実現性を帯びていくごとに、それが間違いだと思い知ることになった。健一たちの若さは、それが浅はかな思い付きであっても、勢いにまかせて実行してしまうことで現実のものにしてしまう力を持っていた。 通りの電柱に提灯が飾られ、全ての商店の壁にポスターが貼られている。街往く人々にすら何か期待に満ちた熱気のようなものが感じられる。 達吉はそれらを見るにつけ、体から力が失われていくような感覚を覚えた。自分だってかつて若い頃は同じようなことをしていた。むしろ積極的に祭りを仕切る方の人間だったはずだ。だがいつの間にか自分は死んだ息子の顔ばかり思い浮かべているような老人になっていた。もはや、そこにない何かを新たに創り出すような力は、自分には、ない。 健一が岸田酒店を訪ねてきたのはそんなある日のことだった。 「岸田さん」 「おう、久しぶり。ずいぶん頑張ってるじゃないか。大したもんだ」 「いや、俺だけじゃないですよ。みんな頑張ってくれてるから」 「謙遜するとは立派になったなあ。いやほんと、見直したよ」 「それより岸田さん、今日ちょっと話あって来たんですけど」 健一は笑顔をやめ、真面目な顔になって言った。 「なんだい、あらたまって。じゃあこっち入んなよ」 達吉は妻に店番を任せて、健一を店の奥に招いた。店の奥は達吉夫婦の住居になっており、六畳の居間とつながっている。畳に座り込むなり、健一が言い出す。 「俺らが祭りの計画について説明しようとしたとき、岸田さん帰っちゃったじゃないですか」 「ああ」 「まあそれで俺らに任せてもらって、勝手にやらせてもらってるわけなんですけど……俺、岸田さんがどう思ってるのかすごい気になってて」 「別にどうとも思ってないよ。俺は気にしてないからお前らが好きにやればいいさ。もうお前らみたいな若いのに任せたほうがいいんだよ」 「それじゃ困るんですよ!」 健一が身を乗り出すようにして言う。 「困るって、なんだよ」 「岸田さんに気にしてもらわなきゃ駄目なんですよ。俺たち岸田さんに認めてもらって、岸田さんに喜んでもらいたくて、祭りの話出したんです」 「俺に?」 達吉はわけがわからず、戸惑った。 「まあ、正確に言うと弘敏にっていう気持ちなんですけど」 「……弘敏に?」 「親父さん、ちょっと出れますか?」 「今からか? どこに行くんだよ。俺配達があるんだけど」 「すぐですよ。ちょっと見てもらいたいものがあるんです。お時間はとらせません」 健一は強引に達吉を連れ出した。 * 二人連れ立って商店街を歩き出す。その道すがら、健一が話し出す。 「いまさらこんなこと言うのなんなんですけど、俺……弘敏に申し訳ないことしたって気持ちがあるんですよ」 「何を? なんかあったのか?」 「いや、なんかあったってわけじゃないんですけど……俺らいっつもつるんでたじゃないすか。それでしょうもないことばっかして」 「そう、だったな」 「今思えば本当によく俺今生きてるなっていうくらい馬鹿なことばっかりやってましたよ。何にあんなにむきになってたんでしょうね。ほんと、みんなとんでもない奴らでしたよ」 健一がまるで他人のことのように言う。 「……なのに、弘敏だけあんなことになっちゃって。俺らもあの場にいたのに」 「それで良かったんだよ。お前までなんかあったら俺はお前の両親に申し訳がたたなくなるとこだった」 「いや、それはそうなんですけど……ただ、そういうことじゃないんです」 「じゃあどういうことなんだ?」 「健一さん! 遅いじゃないすか。もう終わるとこですよ」 達吉が訊ねたとき、それを遮るように上から声がかけられた。見上げると、そばの建物の二階の窓から商店街の若者が顔をのぞかせている。そこは区の公民館の建物だった。 「ああ、悪い。今行くよ」 健一が若者にそう声をかける。 「ここのホールを借りてるんです。近所の小学生にお神輿の修理をやってもらってるんですよ」 二人がホールに入っていくと、広いスペースに神輿が二台置かれている。一台は大人用の立派なもので、もう一台はその半分くらいのサイズの子供用である。その小さいほうに十人ほどの子供たちが集まってなにやら手を加えている。 「なんせ長いこと使ってなかったからいろいろ手を入れなきゃならなくて。木工屋さんで修理してもらったんですけど、小さいほうはせっかくだから装飾の部分だけは子供たちにやってもらおうと思って……まあ、ぶっちゃけた話、装飾の部分は木工屋さんでも外注になるから高くつくってのもあって」 健一がそんな風に説明する。 「あ、お父さん!」 一人の子供が健一を見て駆け寄ってくる。健一の長男の健太だ。 「健太、酒屋のおじちゃんに“こんにちは”は?」 足元に抱きついてきた息子に健一が言う。健太が達吉を見上げてはにかんだ表情をつくる。達吉は微笑んで健太の頭をなでた。健太は時折達吉の妻が用意するおやつを目当てに達吉の店を訪れることがある。そんなとき彼は「こんにちは」「ありがとう」という挨拶を欠かさない。達吉たちはいつも健一夫婦のしつけに感心していた。 「こんにちは」 「はい、こんにちは。どうだ? お神輿は綺麗になったか?」 「うん。見て見て。あそこに折り紙貼ったの僕だよ」 健太が二人を神輿の前に連れて行く。担ぎ棒の上に乗せられた神輿は、大人用のそれと比べれば簡単な作りのものだったが、屋根の上にはきちんと鳳凰が据えられていてそれなりに威厳がある。子供たちは屋根の瓦や台輪の装飾を金や銀の綺麗な折り紙で再現している。よく見るとなにやら漫画のキャラクターらしきものまで描かれていて、その子供らしさがほほえましい。 「あ、そこは貼っちゃだめだ」 健一が、神輿に加工した折り紙を貼ろうとしている一人の子供を止めた。その子供はてっぺんの鳳凰が立つ台座に綺麗に刻まれた折り紙を巻こうとしていた。 「どうして? こここんなに汚いのに」 「いいから、そこはそのままでいいんだ」 子供の言うとおり、綺麗に色を塗りなおされた鳳凰に対して、その台座は塗装も剥がれおちてこげ茶色の地肌をさらしていてみすぼらしい。 「親父さん、覚えてますか? その神輿」 健一が達吉に訊いてくる。質問の意味がわからず達吉が訊き返す。 「ん、いや……何をだ?」 「その神輿のてっぺんの鳥が乗っかってる台座あるじゃないですか。それに色塗ったの。弘敏ですよ」 達吉は驚いて健一の顔を見る。 「昔、俺らが子供の頃、やっぱりこの神輿の装飾をやったことあったんです。俺なんかどこ担当したかなんて全然覚えてないけど、弘敏はその後も祭りのたびにずっと言ってましたよ。あの鳥がとまってる台座に色塗ったの俺だぜって」 達吉はもう一度神輿を見つめた。健一が話を続ける。 「あいつ祭り好きだったじゃないですか。俺なんかだんだん祭りなんてくだらねえなんて思うようになっちゃったけど、あいつは神輿となると真っ先に担ぎにいってたし……基本的に大声出して暴れるのが大好きでしたからね」 知らなかった。家ではずっと押し黙り、家族と口をきこうともしない息子だった。彼が外で何をしているかなど、警察や近所からの苦情でしか知りえなかった。当時は達吉も祭りの実行委員の一員であったが、たまたま神輿の方には関わっていなかった。 「さっきの話ですけど、俺らなんか理由があってぐれてたわけじゃないと思うんですよね。ただあのときはああするしかなかったっていうか。だから俺らと弘敏の間になんか違いがあったわけじゃなくて、ただ、あいつだけちょっと勢い余って飛び出しすぎただけっていうか……あいつそういうとこあったじゃないですか。いつもすぐ勢いだけで突っ走っちゃうみたいな。だから、あいつはちょっとついてなかっただけなのかなって……そういう言い方すると親父さん気分悪くするかもしれないですけど」 「いや、そうだと思うよ」 正直に言えば健一たちを恨めしく思うこともあった。弘敏だけが何故、と思うこともあった。他ならぬ健一たち自身も同じことを考えていたことを知って、達吉は長い間胸につかえていたものが少しだけとれたような気がした。 「仲間うちで色々話してて、夏祭りを復活させようって案が出たとき、俺、絶対これやってやろうって思ったんです。あれ以来、夏祭りがなくなって、一番後悔してるのって弘敏だと思うんですよ。あっちゃー、やばいことやっちゃったなあ、みたいな感じで。だから代わりに俺らが祭りをやって大騒ぎしてやれば、あいつも喜ぶかなって。そんなわけで、今回は絶対俺らがやってやらなきゃいけなかったんです」 そのとき、それまで小さな体で神輿にしがみつくようにして作業していた健太が、父親のもとにやってきた。 「お父さん、一緒にお祭り行けるようになった?」 「ごめんな、健太。お父さんやっぱりお仕事があるから行けないよ。お友達と行っておいで」 「ええーっ、なんとかするっていったじゃん! なんでー!」 健太が駄々をこねる。そう言えば自分も弘敏と一緒にお祭りに行ったことがあっただろうか。達吉は記憶を探った。 「ねえ、お父さあん」 「我儘言うな。お父さんもお母さんもおじいちゃんもみんな忙しいんだから」 「じゃあ、おじちゃんと一緒に行くか?」 目に涙を貯めて父親にくってかかる健太に、達吉が声をかける。 「ほんと?」 健太が期待に満ちた目で達吉の方を見る。健一が心配そうに訊く。 「いいんですか?」 「いいさ、どうせ俺はやることないからな。祭りを楽しむ方にさせてもらうよ」 「すいません。健太、おじちゃんにお礼を言いなさい」 どこか棒読みじみた健太のお礼の言葉に、達吉は笑顔で応じた。 * 数日後、いよいよ祭りの日が来た。 達吉は自分の店の前で神輿が担がれていく姿を見ていた。 商店街の仲間たちが真新しいはっぴに身を包み、威勢のいい声をあげて神輿を前へと進めていく。じりじりと肌を刺す強い日差しをものともせず、独特の熱気を周囲に発散している。 大人用の神輿が行ってしばらくすると、子供用のそれが続く。担ぎ手の中にはやや大きいサイズのはっぴに着られているような健太の姿があった。健太は体の小ささに負けず大声を張り上げている。その顔には満足げな笑みが浮かぶ。 だが、達吉は神輿の上に据えられた鳳凰の台座を見つめていた。弘敏の手による台座が今久方ぶりに太陽のもとに戻ってきた。彼がそれを満足するかどうかは、達吉にはわからない。ただ、弘敏のためにしてやれることがある分、達吉は健一たちをうらやましく思った。 「弘敏、お前はあれを喜んでいるのか?」 達吉は心の中でそう問いかけるが、思い浮かぶのは相変わらず敵意に満ちた彼の表情だった。 ずっと無念さを感じてきた。 あれほどまで荒れて、あらゆるものに反抗していた息子は果たして幸せだったのか。何度問いかけても、達吉の記憶の中の弘敏はそれを否定した。それは無理もない、弘敏は達吉の言葉をその全てをことごとく否定してきたのだから。血を分けた息子からの拒絶は達吉の心に抜けない針を深くつきたてていた。 自分の息子に生まれて、弘敏は幸せだったことがあったのか? あるいは時間が経ち反抗期が過ぎれば、健一のように親を思いやり真面目に働く青年へと成長したのだろうか。 それらを確かめるチャンスは奪われて久しい。その間も無念さは達吉の中で消えることはなく、むしろ時が経つごとに、達吉が歳を重ねるごとにその思いは増していった。 親として、自分は弘敏に何をしてやれたのだろうか。答えは、出ない。 * 辺りが暗くなり始めた頃、達吉は健太に手を引かれて神社の境内にやってきた。長い参道の両脇にはずらりと屋台が立ち並び、多くの人でごったがえしている。 健太のはしゃぎようはすごかった。金魚すくい、射的、輪投げ、べっこうあめ、型抜き。初めて見る遊びの数々に目を輝かせ、そこまで歩く一歩ですらもどかしいといった様子であちらへこちらへと走っていく。連れているだけの達吉の方が疲れてしまった。 「見て見て、あれすごいよ! お面がいっぱいあるよ!」 「健太、待ってくれよ。ちょっと一休みしよう。おじちゃん疲れちゃったよ」 「ええ、何でえ? 早く行きたい!」 「やれやれ、子供にはかなわないな」 達吉は老体に鞭打って健太についていく。 「達ちゃん!」 参道の途中に実行委員会の本部が設けられており、そこから達吉に声をかける者があった。見ると坂巻がはっぴを着てそこに座っている。 「健太、酒屋のおじちゃんの言うことちゃんと聞いてるか?」 「聞いてるよ!」 健太は祖父の言葉にうるさそうに返事をすると、また近くの屋台へと駆け出していく。 「悪いなあ、達ちゃん。迷惑かけるね」 「いやいや、迷惑なんてことないけど。まあ子供ってのは元気だな。昼間あんなに神輿担いではしゃいでたってのに」 「ああ、無駄に元気なところはせがれ似なんだよなあ」 「ははは、まあ元気な分にはいいだろう」 達吉は坂巻のすすめる椅子に腰掛け、周囲を見回す。 「みんな、楽しそうだなあ」 「ああ、おかげさんでうまくいってるよ」 「なんだか、俺申し訳ないことしてたなあ」 「え、何が?」 「いや、こんなにみんな喜んでくれるなら、もっと早く祭りを再開すべきだったんだよなあ。俺がそう言い出すべきだったよ」 「そんなことないだろう。あんたに言わせることじゃないよ」 「いやいや、俺がだらしなくて、みんなに悪いことしちゃった」 「どうしたんだよ、今日は。達ちゃんらしくないな」 坂巻が心配そうに訊いてくる。達吉はそれには答えず、再び周囲を見回す。そこで達吉はあることに気付いた。 「あれ? 健太は?」 「んん?」 坂巻も健太の姿を探してあたりを見る。しかし健太の姿はどこにもない。参道を行きかう人の波はいよいよその数を増し、小さな子供など少し離れればすぐにはぐれかねない勢いになっている。 「あの坊主はしょうがねえなあ」 坂巻が立ち上がる。達吉も椅子から立ち、先ほどまで健太がいた屋台のところに行ってみる。 「さっきまでここにいた小さな男の子知らないか?」 達吉が屋台の主に健太の特徴を説明する。しかし鉢巻をした若い衆は、わからない、と答えた。 「健太あ、どこ行ったあ!」 達吉が大声をあげる。しかしその声は祭りの喧騒にかきけされて遠くには響かない。 「俺、探してくるよ」 達吉が、同じくあたりを見回す坂巻に声をかける。 「ああ、済まねえな。まあ大丈夫だよ、すぐに戻ってくるよ」 そう言いながら、孫のことになると坂巻は心配そうな表情を隠せない。達吉は参道を先に向かって歩き出した。 達吉は焦っていた。よそ様のお子さんに万一のことがあったら償いきれるものではない。達吉は祈るような気持ちで健太の姿を探して歩く。 幸いしばらく歩いた後、達吉は今にも泣きそうな表情できょろきょろとあたりを見回す健太の姿を見つけることができた。 「健太!」 「おじちゃん!」 健太はよほど一人で不安だったのか、達吉の姿を見るやいなや表情をくしゃくしゃにして涙をこぼした。達吉は安堵した。 「だから一人で行くなって言っただろう」 達吉が優しくたしなめると、健太は泣きながら駆け寄ってきて、達吉の足にしがみついく。そしてそのままわっと声をあげて泣き始める。 その様子を見て、達吉は強い既視感に襲われた。こんなことが前にもあった気がする。 子供が、いた。小さな子供が達吉の足にしがみついて、泣いている。そうだ、あれも夏祭りの夜だった。 「弘敏……」 それは達吉が幼い弘敏と祭りに来たときの記憶だった。 弘敏は、笑っていた。 様々な屋台に弘敏は目を輝かせ、落ち着きのない様子で屋台から屋台へと走り回る。達吉が注意する声など耳に入らない。 ――見て、お父さん、金魚がいっぱいいるよ ――見て見て、お父さん、ルーレットがあるよ ――お父さん、これやりたい、ねえ、いいでしょう? ――お父さん! ――お父さんっ! 弘敏は、一つ一つの屋台を見るたびに楽しそうな笑顔を達吉に向ける。 調子に乗った弘敏が達吉の目の届かないところへと走り去ってしまったことがあった。ようやく弘敏の姿を見つけたとき、弘敏はわっと泣き出して達吉の足にしがみついた。 ――馬鹿! お父さんのそばを離れるなって言ったろう。 達吉が叱ると、弘敏はまた泣き声をあげる。 ――おとうさあん ――もう離れるんじゃないぞ。 痛いくらいに足にしがみつく息子の頭を、達吉はなでてやった。 ひとしきり泣き喚くと、今泣いた烏はどこへやら。弘敏はすぐ元気を取り戻し、次の屋台へと走り出す。 りんごあめにかじりつく息子に、達吉は訊ねる。 ――祭り、楽しいか? ――うん。 ――また、来ような…… ――うん! 顔中に笑みを浮かべ、弘敏は父親の言葉に頷いた。 * 「達ちゃん!」 坂巻が遅れて達吉たちのところにやってきた。 「ああ、いたか。良かった」 坂巻は健太の姿を確認して安堵の声をもらす。 「なあ、坂巻さん。弘敏も小さい頃こんなだったよなあ」 達吉が言う。坂巻は突然死んだ息子の話を始めた達吉を不思議そうな顔で見る。 「あいつ馬鹿だから、何にも考えないで走り出して、挙句に迷子になって泣いてやがった。子供の頃からあいつはああだったんだよ。後先考えないっていうか」 「そうだったっけなあ」 「ああ、そうだよ。でもあいつ楽しそうだったなあ。やっと思い出した。あいつの、あんな楽しそうな姿」 「今まで忘れてたのかい?」 「ずっと思い出せなかったんだ……あいつが悪くなってからは、あいつの、怒った顔ばかり見てきたから……」 ――お父さん…… 何十年ぶりにも感じる弘敏の笑い声、達吉の耳にかすかに残る。 あんなに嬉しそうだった。幸せそうだった。あの頃自分は、この笑顔を守るためなら例えどんなことでも苦しくない、そう思っていたんだ。達吉の胸に当時の想いが甦る。 「本当に……楽しそうだったなあ」 達吉の声は、こみあげてくるものに遮られて高くなる。坂巻は、目に光るものを浮かべた達吉の背中をそっと叩く。 「そうか、良かったなあ」 「ああ、本当に、良かったよ……ありがとう」 その言葉は、坂巻に向けられたものなのか、祭りを主催した健一たちに向けられたものなのか、抜けない針に遮られた記憶を呼び覚ましてくれた健太に向けられたものなのか、達吉自身にもわからない。 頬をぬらす達吉の姿を見て、自分のせいだと勘違いした健太が神妙な顔で二人を見上げている。達吉はそれに気付いて、頬を二の腕でぬぐいながら健太に言う。 「ああ、ごめんな健太。さあ、続き見にいくか」 「うん!」 達吉の優しい言葉に安心したのだろう。再び顔に笑みを浮かべて、健太は頷いた。 |
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●感想
kimuraさんの意見 2012年08月01日 達吉は頑固だ。それは、他者の心を撥ねつけてしまうということだ。 達吉は最後まで、弘敏の反抗の原因に目を向けない。 坂巻が言うように、特に何か原因があったわけではないと結論づけているのであろうか。 殴りつけて、息子を否定し、受け入れることをしない父親。達吉は自分を省みない。 達吉がどんなに過去を懐かしく振り返っても、涙しても、その心に私は共感できない。 結局、達吉は自分の心にある針を抜き、その痛みから逃れようとしているだけに思えてくる。 なぜ親なら子の心に寄り添わないのか。 この小説に女性は登場しない。 父と子の物語にするなら、設定を見直すべきだろう。 母性を持った人物のいないこの小説は、家族や親子ではなく、達吉という男の自己肯定の世界で終わっている。 千川 冬馬さんの意見 息子を亡くした父の視点からのお話は、若い読者層がターゲットのラノベでは珍しく斬新に思いましたが、 達吉の悲しみの描写をもっと入れてもいいかと思いました。 「結」の部分も尻切れトンボな感じがします。 モノローグをいれて、心境を変化を書いてもくどくはならないかと。 また、弘敏が死んでからの妻の存在が薄く勿体ないです。 鬱になってしまって通院していたり、一見心の傷が癒えたようでも、一人の時、仏壇で泣いていたり…… 色々、書きようがありますが、そんな妻との会話や、やりとりを入れれば、 息子への喪失感や愛情をもっと描写出来るのではないでしょうか。 弘敏の仕出かした「悪行」も具体的に入れれば、読者の感情移入度も違ってくるのかと 思います。 (落書きや、夜中に花火などして遊ぶくらいの悪行なのか、学校の窓を割ったり、カツアゲ、 ひったくりなどのニュースにのるくらいなのか、で弘敏の印象は大分変わります) 酷評してしまいましたが、ラノベ特有の軽薄さが無く、硬派かつ情緒的な文章は好感がもてました。 |
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