高得点作品掲載所      幽人さん 著作  | トップへ戻る | 

デンジャラスアップル

「……葉っぱ。あれ落ちる頃、私はきっとこの世にいないのね」
 病室のベッドから、一枚だけ葉っぱのついた枯れ木を見て少女はポツリと呟く。
「……え?」
 いつの間にか、少女の切なさが俺の中にも流れ込んできていたようだ。知らぬ間にテンションダウンしていた。
「倫子(りんこ)……。あ、あははは! 大げさだな。大丈夫だって心配するなって!」
 だから俺は声のボリュームを意識して上げる。それは憂鬱な表情の倫子を元気づける意味と、自分自身を鼓舞する意味を込めて。
 倫子が入院してから一週間が過ぎた。倫子は日に日に元気を失くしている。俺も俺なりに倫子を案じて、毎日病室に顔を出している。今日だって朝ごはんも食べないで、朝一の面会にやってきたのだ。恋人が不安な時こそ、彼氏の俺が元気に振舞わなければいけないのだ。弱気を見せるなんて情けない真似は出来ない。
 普段の倫子は、小さな身体にとてつもない大きなパワーを秘めた少女なのだ。勝気で、負けず嫌いで、男の俺でもタジタジになるくらい怒ると怖い。そんな強気が売りの女子高生なのだ。
 だから倫子が、これほど落ち込んでいて、弱気な姿を俺は見たことがない。きっと俺には想像も出来ないほど、倫子は不安な想いでいっぱいなのだ。
「仮にさ、葉っぱが落ちたからどうだって言うのさ。そんなの関係ないって! 倫子の愛しの省吾(しょうご)くんが言うのだから信じなさい!」
 個室に漂う陰鬱な空気を吹き飛ばすように、俺はすこぶる明るくちゃらけて見せる。
 そんな俺に倫子はニッコリ微笑み、
「うん。関係ないよね。……さんきゅ」
 と今の倫子に出来る全力の明るさで応えてくれる。
 そんな倫子が痛々しくて、愛しくて、俺は彼女の小さな手をぎゅっと握り締める。二人の熱い視線がぶつかる。
 瞳を閉じ小さなアゴを突き出す倫子。俺は倫子の顔にゆっくり自分の顔を寄せる。
 と、その瞬間――枯れ木から葉っぱがはらりと落ちた。
「あっ」
 思わず発した声に反応して、倫子は俺の視線の先を辿る。そして、
「あっ」
 と俺と同じリアクションを見せた。
 直後、激しく気まずい空気が病室に流れる。
 おい。何故落ちる。今のタイミングはないだろう。空気を読めよ、葉っぱ。
 俺はやり場のない怒りを葉っぱにぶつけるが、当然葉っぱに空気が読めるはずもないわけで。なんにせよ、せっかく作ったスイート&ラブなムードは台無しだ。
 再び倫子は憂鬱モードに突入。ガックリと肩を落とし、顔を伏せる。まるで倫子の頭上にだけ雨雲が存在して、そこから雨がザァザァ降ってるような雰囲気だ。
 ……俺にはかける言葉が見つからなかった。
 それでも俺は必死に考える。俺が倫子にしてやれることを。
 誰だって倫子と同じ立場なら不安になるだろう。なんせ病名が本人には伏せられ、家族や医者に「とにかく入院しなさい」と言われ病室にいるのだ。自分がどんな病に侵されているかも分からず、いつ退院出来るかも定かではないのだ。目に見えぬ不安が襲い、夜もぐっすり寝られないのではないだろうか。
「……入院してる理由、教えてよ。知ってるよね?」
 ふいに倫子の口をついて出た言葉に、俺の鼓動が跳ね上がる。
 倫子が察している通り、俺は彼女の入院の理由を、病名を知っている。『省吾さんには知っていてもらいたんです。そして少しでも倫子の力になってもらいたい』と彼女のお母さんから言われ、知っていたのだ。
 だけど、俺にはそんな残酷なことは出来ない。倫子を蝕む病気は現代の医学では解明されてない、稀にみる奇病なのだ。つまりこの先、倫子がどうなるかも分からないし、解決策も見つかってないのだ。いつ退院出来るかなんて想像もつかない。
 だから、俺に出来ることは、
「……悪い。俺、倫子の病気のこと良く知らないんだ」
 なんて安い嘘をつくだけ。
「嘘つき! 本当のことを言ってよ! 私、何も知らないなんて辛いよ! 何も知らないまま、死ぬなんて嫌!」
 だけど、元々勘の良い倫子には俺の偽りの台詞などすべてお見通しだった。
 瞳いっぱいに涙を溜め、必死の表情で俺に向かって訴えかける倫子を見て俺のハートが激しく疼く。
 ――もうこれ以上、嘘はつけない。
 俺は唾をひとつ飲み込むと、意を決して倫子に語りかける。
「……分かった。本当のことを話すよ」
 出来るだけゆっくりと、彼女が怯えないように。
 俺が病名を告げることで、倫子は愕然とするかもしれない。今以上に不安な思いを抱えることになるかもしれない。それでも俺は告げようと思う。
 なぜなら俺には――――倫子を支えて行く自信があるから。二人で一緒に病気と闘う覚悟があるから。
「倫子の犯されている病気の名は――」
 倫子が下唇をぐっとかみ締めるのが映る。

「“濁点消失症”と言うんだ」

 倫子はキツネにつままれたようにキョトンっとした顔を作る。そして少し遅れて、
「へ?」
 と間抜けな声を発する。
 その反応ごもっとも。俺も倫子のお母さんから初めて聞かされた時、似たようなリアクションをとったもんね。
「えっと、だから“濁点消失症”という世にも珍妙な病なんだ!」
「は?」
 再び倫子は理解出来ないといった声を出す。
「つまり、倫子の話す会話から“濁点”が消えてしまうんだ。倫子自身は普通に喋ってるつもりでも、実際に周りの人間の耳に届くのは“濁点”のない台詞なんだ」
 俺は倫子の混乱を解くために、はっきりとした口調で丁寧に説明をする。
 この病気のポイントは、病気にかかっている本人に全く自覚症状がないってことだ。
「そんな……」
 俺の言葉をかみ締めるように聞いていた倫子は、その意味を理解し、力ない言葉を零す。
「そんなの! そんなのって――」
 バッと伏せていた顔を倫子は上げる。真っ赤な頬をして、涙を浮かべた瞳で俺に言う。
「めっ――――ちゃくちゃカッコ悪いよぉぉぉぉぉ!」
 うん。カッコ悪いね。俺もそう思う。それに恥ずかしい。だけど、思ったまま口にする訳にもいかないだろう。目の前の倫子は必死なのだ。死活問題です! ってな勢いなのだ。
「大丈夫だって。今のところ命に別状がある訳じゃないし。すごく珍しい病気だから、治す手段がないんだけど、現代の医学の進歩は目覚しいからきっとすぐに良い薬とか出来るって」
 俺はそう言うと、倫子の頭を撫でてやる。
「それにしても、“たくてん”消失症って……」
 そう。たくてんしょ、じゃなかった。濁点消失症とはふざけた病気だ。
 俺のこの病気に対するファーストインプレッションは、くっ――――――――だらねぇぇぇぇぇ病気! だった。
 内心は呆れ気味で、濁点がないくらいどうでも良いよって思う。俺を尻目に倫子は、さっきから呪文のように「“たくてん”消失症」「“たくてん”消失症」とぶつぶつ繰り返している。ママから頼まれたお使い途中の子供のように一心不乱に呟く倫子が、酷く不憫であり、愛しくもあり。そんな切実な倫子の様子を見ると、俺も真剣に対応せねばと気を引き締める。だけどなぁ……。
 ……そりゃないよな! 「“たくてん”」って! たくてんイーグルス? また新しい球団出来ちゃったよ! みたいな! ゲロゲロ!
 心の中で倫子の台詞に突っ込みを入れたら、愉快な気分になってきた。だから思わず鼻で笑ってしまった。
「あ! 今笑った!」
「いや、笑ってないって」
 うっかりしていた。倫子は勘が良いのだ。
 やばい、倫子がいつもみたいな凶暴な少女の顔をしている。待てよ、普段の倫子らしさが出るのは良いことじゃないのか? いや、ダメだ。俺の身が危険だ。 
 確かに憂鬱な倫子からすれば、馬鹿にしたみたいに笑う俺は激しくデリカシーのない奴なわけで、ご機嫌も斜めになるってもんだ。 
「嘘よ! “せったい”笑った!」
「いや誤解だ! 俺は倫子の彼氏だぞ! 恋人が苦しんでるのに笑うなんてことするかよ!」
「……そっかぁ。私、少し神経質になってるかも。許して……」
 ふぅ。危ない危ない。必殺の逆切れ攻撃で何とか難は逃れた。
 ……それにしても「“せったい”笑った!」って! 
 ――接待笑った。説明しよう。接待笑ったとは、サラリーマンが上司のしょうもない親父ギャグなどに無理して笑う様を言うのである。
 ――――んな訳ねぇぇぇぇぇ!
 やばい、面白いって! なまじ倫子の表情が真剣だから余計に面白い。可愛らしい女の子が真面目な顔して馬鹿なことを言う。……このギャップ、ある意味萌えるな。
 そんな風に俺は、ダメだと思いつつも、ついつい倫子の台詞が気にかかる。俺は自らの顔がにやけているのに気がつき、サッっと顔を伏せる。
 どうやら倫子はそんな俺に気づくことなく、物憂げに病室の外を眺めやっていた。頬杖をして大きなため息もついている始末。薄幸の美少女よろしく、アンニュイなオーラを纏っている。
 そうだ。そうなのだ。倫子は必死なのだ。未知の病気と闘っているのだ。戦う美少女闘病戦士なのだ。恋人の俺が彼女の気持ちを分かってやらないでどうする。俺のぉ! バカヤローーーーー!
 俺は「省吾、しっかりしろ」と小さく呟き、自らに活をいれるために頬をビンタする。
 ふいに倫子が振り返る。大きく開かれた瞳が、俺を射抜くような強さで向けられている。
「ひとつ聞いていい?」
「ああ、何だって聞いてくれよ」
 弱々しい倫子がとても愛しくて、俺の心に『彼女のために出来る限りのことをしてやろう』という熱い気持ちが湧き上がる。
「……わ、私のこと好き? こんな私のこと愛してくれる?」
 振り向き俺に問いかける倫子が、捨てられた子犬のように可愛い。胸の奥がキュンっと鳴り、俺はガバッと倫子を抱きしめる。
「好きにきまってるだろ! どんな倫子だって、俺にとっては大切な女の子なんだ!」
 俺の腕の中にいる倫子は、眉をへの字に曲げ、瞳をうるうるさせながら、俺を見上げてくる。
「……“しょうこ”」
 言葉と同時に倫子は、俺の身体に腕を回し強く抱きしめてきた。俺に対する愛情が、倫子の肌の暖かさとなって伝わってくる。俺は幸福の意味を、この瞬間に知った。だけどなぁ……。
 ……“しょうこ”って! 俺の名前、省吾ですから! 『初めましてぇ、“しょうこ”って言いますぅ。以後お見知りおきをぉ。うふっ』みたいな。俺は新宿二丁目のニューハーフか! 今日初出勤か! 
 ……ああ、やってしまった。うっかり馬鹿なたとえをして、「ぷっ」という笑い声が漏れてしまった。
「え? 嘘? 今、笑った?」
 隊長! アングリーガール発見であります! しかも自分の腕の中にいるであります!
 怒気をはらんだ調子で、倫子が俺に問う。見上げてくる倫子の顔は眉が吊り上がり、眼光が凄まじく鋭い。瞬間的に『やばい、殺される』と感じるほどの殺気に溢れている。
「い、いや、笑ってないよ。断じて笑ってない! そう、そうだ! 俺、ちょっと風邪気味なんだよ! うん。間違えない。何かそう言えば、朝から熱っぽかったもん!」
 人間って生き物は命の危険を感じた時、普段からは想像も出来ない力を発揮するらしい。咄嗟についた嘘にしては、どうにか形になったのではないだろうか。
 俺はおまけとばかりに、「ごほっごほっ」なんてワザとらしく咳をする。
「そっかぁ。“こめんね”“うたかったりして”」
 すぅっと熱が引くように、倫子の顔に優しい瞳が戻る。
 良かった。何とか危機を回避出来たぞ。うん。もう馬鹿なことを考えるのはやめよう。倫子に対して失礼だ。何より、俺の命が危うい。だけどなぁ……。
 ……それにしても、“こめんね”って! “うたかったりして”って! 全く――うぉぉぉぉぉ! ダメだ。考えちゃダメだ。今、考えないと決心したばかりだろ。しっかりしろ省吾! 邪念よ消えろ! そうだ! こういう時は、念仏でも唱えて気を紛らわせよう。
 えっと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、もいっちょおまけに! 南無阿弥陀仏! ヘイヨー! 要チェキラッ! 南無阿――はっ!
 ……俺ってばダメな人間かもしれないです。もしくは救いようのない馬鹿なのかもしれません。何故! 念仏が! 途中から! ラップに! なっ! ちゃ! う! ん! だよ!
 あまりの自分の意志の弱さ、そして馬鹿さ加減に、自己嫌悪の色が浮かぶ表情をする。
「平気? 顔色悪いよ?」
「あ、ああ。大丈夫だよ」
 これは超ラッキーだ。災い転じて福となすだ。倫子は俺が風邪気味故に青い顔をしているもんだと、素敵な勘違いをしてくれている。
 不謹慎な俺とは対照的に、倫子は心配そうな顔をしている。倫子は「熱あるかな?」なんて言い、俺のおでこに自分のおでこをくっつけてくる。
 間近で見る倫子はやっぱり可愛い。そして嘘を信じて疑わない姿に俺のハートがチクチクしてくる。何だか俺は嬉しくて、悲しくて、情けなくて泣きそうだ。
 ごめん。倫子。誰よりも自分自身のことが一番心配なはずなのに、俺のことを心配してくれるなんて。 倫子は何て良い子なんだ。 俺にはもったいない最高の彼女じゃないか。それに比べてどうだ? 俺は最低の彼氏じゃないか。最愛の彼女が不安で、辛くて、泣きたくなるような状況の時に、俺は何を考えてるんだ。俺のぉ! バカヤローーーーー!
 俺は『倫子を一生大切にするぞ』という想いを込めて、再び強く抱きしめる。
「あんっ。痛いよ」
 内容とは裏腹に、倫子の声は嬉しそうだ。
 俺は抱きしめたこの腕を一生離さない。――いや、むしろ離したくない。倫子の柔らかな胸が身体に当たって何とも言えないこの気持ち良さ。ああ、辛抱たまらん。もう、このまま押し倒しちゃうか。良し押し倒そう。行くつくところまで行ってしまおう! それじゃ、いただきまぁぁぁぁ――はっ!
 おい! 俺! 何を考えてるんだ!
 俺は瞬間、拳で自らの頬を殴る。
 クソッ。恐るべし本能。恐るべし青春の熱いパッション。危うく、エロスという若者の中に巣くう悪魔に飲み込まれるとこだった。
「もう無理しないの。“かせきみ”さんは、大人しくするの!」
 様子のおかしい俺に倫子は優しい言葉をくれる。そしておもむろに、顔を俺に近づけるとチュッっとほっぺにキスをする。ああ、俺ってば幸せ。幸福の絶頂。倫子お前は最高だ! わたくし、彼女に一生ついてくことを、この瞬間決意しました。――え〜ただ、ひとつ気になることが。
 “かせきみ”って! ――化石見。え〜これテストに出るので、皆さん今日はしっかり覚えて帰ってください。使用法と致しましては、『今年も化石見の季節がやってきました』や『豪華五段重ねの化石見弁当』など『お花見』と同じように使ってください。
 ソンナワケナイジャン。
 だははははははは! や、やばいって! 倫子ダメだってそんな面白いこと言っちゃ!
 無理だぁ! もう無理だぁ! 我慢できねぇぇぇぇぇ!
「くっ、くくくくくくくくくくっ。化石見って! どぅわっはははははははははは!」
 ……あ〜あ。……やっちまいやした。あっし、取り返しのつかねぇことやっちまったでやんす。
「……今、確かに笑ったよね? 大きな声して私のこと笑ったよね!」
 後の祭りとはこのことか。いや、この後は血祭りだろう。倫子さん鬼怒り。すっげぇ怖い顔してる。おしっこちびりそう。あ、むしろすでにちょっと出てるかもしれない。
 背後ではきっと、死神がデスサイズをホームランバッターよろしくブンブン振り回して、俺の首を狩るのを今か今かと待ちわびているに違いない。
 俺、絶対絶命大ピンチ! やばい。何か手立てはないか。助かる道はないのか。1%でも可能性がある限り人間は諦めたらダメなのだ。そんなもっともらしいことを考える俺だけど、すべて自業自得ですから。はい。
 そ、そうだ。誰かが困った時は天気の話をしろって言っていたよな。うん。これしかない。
「な、なぁ、倫子。見てみろよ。今日は雲ひとつない秋晴れじゃないか。いやぁ実に清々しいね!」
 最後はビシッっと親指を立てて、ニューヨーカーもビックリの爽やかさを俺は演出する。
「ふ〜ん。他に何か言うことある?」
 効き目なし。
 こらぁぁぁぁぁ! 誰だ! 天気の話をしろなんて言った奴は!
 青ざめる俺を前にして、倫子は首を左右に揺らし、指をポキポキ鳴らしだす。
「あ、あはははは。落ち着こう。り、倫子ちゃん」
 今や俺の声は届いていない。俺の腕の中で、倫子は烈火のように燃える瞳で見据えてくる。
 ああ、終わりですわ。完全に終わってしもたわぁ。っと何故か使えもしない関西弁が飛び出すほど俺はテンパッている。
「さよなら!」
 そう倫子の口から死の言霊が、飛び出す。同時に倫子の小さな拳がアッパーカットよろしく俺と倫子僅かな隙間から、繰り出された。
 と、その時――――ぎゅるるるるるるるるるるっと俺の腹の虫が、場の雰囲気を全く読まない暢気な音を、病室に響かせた。
 瞬間二人の時間が止まる。間一髪、倫子の拳は俺のアゴ先でピタリと止まっている。
 この後どうなるのかと、俺の内心は気が気でない。そんな緊迫感の中、先に動き出したのは倫子だった。
「ふ、うふふふふふ! あははははは!」
 あら? 笑ってるよ?
 俺は倫子が笑っている理由が分からなくて、キョトンとした表情で目の前の少女を眺めていた。
「あぁ、おかしい。君の間抜けなお腹の虫に敬意を表して、許してやろう」
 尚もおかしそうに倫子は笑う。目の端っこに涙を浮かべるほど、うけている。
 そんなもの何が面白いのか、俺にはさっぱり分からない。それでも最大のピンチは乗り切った訳だ。一応、俺の腹の虫に感謝しておこう。
「お腹減ってたのね。仕方ないか。朝から何も口にしてなかったもんね」
 気がつけば倫子は優しくて、穏やかな顔をしていた。「何かあったかな?」なんて俺のために食べものを探してくれる。
 俺はすごく感動した。目頭に熱いものが込み上げてくる。倫子の優しさが今の俺には、何にも変え難い。
「倫子。良いよ。何も入らない。俺はお前のその優しさでお腹いっぱいだ!」
「あんっ。もう、痛いって」
 俺は倫子を、ありったけの想いを込めて抱きしめる。
「倫子が居てくれれば、俺は他に何もいらない!」
「……嬉しい」
 見詰め合う二人。瞳を閉じ小さなアゴを突き出す倫子。俺は倫子にゆっくり顔を近づける。
 その時――ぎゅるるるるっと再び登場、腹の虫。
 あのぉ……今は間に合ってるんですけど!
「何でこのタイミングで鳴るんだよ……」
 俺は思わず首をうな垂れ、倫子の肩に額を乗せる。倫子と言えばそんな俺がおかしいらしく、クスクス笑っている。何だかそんな倫子につられて俺も笑う。
 病室に二人の笑い声が響く。それはとても幸せな時間。
「とにかくお腹に何かいれなよ。キ、キスはその後……しよう」
 倫子は顔を赤くして、恥ずかしそうに微笑む。
「う〜ん。フルーツしかないなぁ」
「ああ、フルーツで良いよ」
 正直腹を満たしてくれれば、何でも良かった。倫子と早くキスをしたいというのが俺の本音なのだ。
 倫子は俺の腕の中にいるままに、手だけ伸ばして果物を取る。そして倫子が伸ばした手のひらには、真っ赤に熟れた林檎が乗っていた。
「はい、これ。甘くて美味しいよ、この“りんこ”」
「え? 今何て?」
 俺の全身を、電撃が駆け巡るような震撼が襲う。
「んと、“りんこ”美味しいよって言ったの。遠慮しなくて良いよ」
 この瞬間、俺の中で何かの鎖がぶちきれた。
 はい。もう無理。もう止まらないよ俺。
「うん。じゃぁ遠慮なく食べさせてもらうよ。甘くておしいそうな“りんこ”ちゃんをね!」
「え?」
 次の瞬間、俺はベッドに倫子を激しく押し倒す。総合格闘技よろしくマウントポジション確保。
「倫子! いただきまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁす!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 *
 
 えっと残念ながら、あの後、何が起こったのかはっきり思い出せない。医者曰く、俺はちょっとした記憶喪失らしい。何とか曖昧な記憶を頼りに思い出してみる。だけどさまざまな衝撃音が耳に薄っすら残るのみなのだ。
 という訳で俺が倫子を襲った後の出来事を擬音のみでプレイバック!
 ガバッ! モミ! ムニュ! カァァ! バシッ! ボコッ! ドカッ! ポンッ! パリンッ! ヒュゥゥゥ! ドサッ! ボキッ!
 とまぁ以上のような経過を辿り、現在俺は包帯でグルグル巻きにされ、手足の自由が利かないミイラ状態でベッドに寝ている次第です。はい。
「はぁい。あ〜んして」
「あ〜ん」
 甘くてシャリシャリとした触感が、俺の口の中に広がる。「美味しい?」と微笑み問いかけるのは倫子で、「うん。美味しい」と答えるのはもちろん俺なのだ。
 お陰様で、倫子の隣のベッドにお世話になることになりました。恋人同士仲良く、俺も倫子も退院がいつになるかは未定らしいです。
 それでも倫子のそこはかとない喜びに溢れた笑顔を見ていたら、悪くないかもなんて思う。まぁだからかなぁり無理があるのだが、俺は最後にこう言おうと思う。
「めでたし、めでたし」


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