高得点作品掲載所      元ガス屋さん 著作  | トップへ戻る | 

ペンネとブイヤベースの出会い

 1942年 北アフリカ

 俺は砂漠のど真ん中を飛行していた。フィアット社G−50戦闘機のプロペラはすでにその限界に達しているようで、時々怪しげな音を立てている。
「くそ、整備の連中からちょっとまきあげすぎたかな……」
 整備の連中、俺があんまりイカサマでまきあげるもんだから整備の手を抜いたのかもしれない。俺は軽く舌うちすると、不時着が可能な場所を探して周囲を見回した。砂漠は一面砂だらけというわけではない。
 と、俺は眼下に見える砂漠に微妙な変化を見つけた。
「お! 俺ってラッキーだな!」
 コンクリート・デザート。時として自然のいたずらでコンクリート並みに砂が固まる場所がある。ドイツ軍の簡易滑走路よりもよほど離着陸がしやすいという代物だ。
 しかも、その数百メートル先には小さなオアシスまで見えるではないか! 俺は日ごろの行いのよさに心から感謝した。
「神様、整備士から毎回毎回イカサマ賭博でまきあげてましたが、連中の給料を全部持っていかなかった俺の優しさを見ていてくださったのですね!」
 俺は操縦席で素早く十字を切ると、迷うことなくコンクリート・デザートに着陸させた。車輪が地面につくと同時にG−50戦闘機のエンジンは停止した。
「こちらリットリオ、こちらリットリオ!」
 無線機で司令部を呼び出す。すぐにあわただしい雰囲気で返事が返ってくる。
「こちらディオクレティアヌス。どうした?」
「トブルクから南西におよそ80キロ地点に不時着。救援を求める」
 だが、司令部から返ってきた返事は俺を地獄の釜に突き落とすような返事だった。
「司令部はこれより400キロ先のエルアゲイラまで後退する。英軍の大攻勢だ。君も危なくなったらトブルクにでも行って英軍に降伏したまえ。じゃあ、幸運を」
 およそ、味方のパイロットにどうにもならないから降伏しろなんていう司令部なんて、世界中どこを探してもありそうにないが、我がイタリア軍ならありえるのだ。
 思えば去年、30万の大軍でエジプトに侵攻。その後3ヶ月、我が軍は何もせずにバカンスを楽しんだ。実際には陣地を作って敵を待ち構えていたんだが、結果は散々だった。9万の英軍の反撃に味方は壊滅。1日で4000名の捕虜を出した。対する英軍の損害は同士討ちの7名だけ。こんな軍隊だ。自分たちの手に負えない部下に「降伏しろ」なんてことも言いかねない。
「つまり、勝手にしろってことか……」
 俺はヘッドホンを乱暴に叩きつけると、風防を開いて外に降り立った。予想していたが暑い。目指す場所はただひとつ。目前のオアシスだった。
「イタリア空軍のエース、ルーカ・サンツィオ中尉様がこんな目に遭うなんてな……」
 操縦席の後部座席からたっぷりと食料を詰め込んだバッグを取り出す。砂漠の不時着なんて想像したくもなかったが、備えだけはしていたことを神に感謝する。
「俺は一応、これでもエースだぞ!」
 俺は尾翼に描かれた二十五のキルマークを見てため息をつく。これでも英軍機を25機も撃墜してきたという俺の勲章だ。だが、今更恨み言を言ったところでどうにもならない。
 オアシスでゆっくり休んでいたらそのうち英軍がやってくるだろう。そしたらエースたるサンツィオ中尉様である俺を破格の待遇で捕虜にしてくれるはずだ。
 我がイタリア軍も英軍の捕虜に関しては、ちゃんとした待遇をしている。噂で聞いたが、ある英軍将校に夕食を持っていったらしい。パスタにヒラメのカルパッチョの前菜、メインは魚とも肉とも聞いたがデザートつき。彼は処刑前の最後の晩餐と思ったらしい。必死に命乞いする英軍将校に向かって、我が軍の捕虜収容所の所長は神妙に言ったそうだ。
「申し訳ない。部下の手違いで一般兵向けの食事を貴官にお出ししてしまった。これからはちゃんと将校用の食事を用意するので、この無礼を許して欲しい」
 ここまでちゃんとした待遇をしてやってんだ。あっちだって俺を有無を言わさず射殺なんてしないだろう。
 半分以上、俺の戦争は終わったと思いながら俺は小さなオアシスに向かって歩いていた。
 オアシスは小さいながらもきれいな水をたたえてくれていた。俺は手ですくってそれを一口飲んだ。うまい。
「動くな!」
 と、いきなり後頭部にごつごつした感触。今は戦争中で、「動くな」という言葉と一緒に突きつけられるものなんて、だいたい相場は決まってる。
「イタリア空軍か……」
 ほっとした声と共に後頭部からごつごつした感触が消えた。俺は振り返って言葉を発していた男を見た。
「げっ!」
 思わず口をついて出た言葉に男は不思議そうな顔を浮かべている。
 男は黒皮のジャケット。その胸には鉄十字章が光っている。ドイツのパイロットだ。男は頼まれてもいないのに勝手に名前を名乗ってきた。
「ヨハン・リストマイヤー中尉だ」
「……ルーカ・サンツィオ中尉……」
 まさかこのオアシスに先客がいるとは思いもしなかった。しかも長身で、略帽で隠れて見えないが、おそらく金髪であろう典型的ゲルマン系のハンサム。黒髪に背もそれほど高くない俺はそれだけで彼に嫉妬したくなる。
 絶対にヤツの方が女にもてる! それだけは断言できた。
「実はな、サンツィオ中尉。お客がもう一人いるんだ」
 そう言ってリストマイヤーはそばの木を顎で示した。
「ああっ!」
 俺はまたしても声を出してしまった。木に縛られているのは英軍の飛行服を身に着けた金髪女だった。すらりと高い鼻。鋭く青い目はまるでラピスラズリを思わせる美しさだ。
「自由フランス空軍だそうだ。新型のメッサーシュミットだからと思って増槽をつけたまま応戦して、情けないことに相打ちになってここに不時着したわけさ」
 リストマイヤーは苦笑いしながら言った。増加タンクをつけた戦闘機は戦闘時にはそれを切り離して身軽になるのが常だ。俺はそんな彼を無視して彼女に歩み寄った。
「名前は……?」
 俺の問いかけに彼女は敵意をむき出しにした視線を向けるだけ。
「名前は?」
 再度の問いかけも無視。畜生、俺がもっとハンサムだったらもうちょっと結果が違うんじゃないのか。
 そう思ってため息と同時に彼女に背を向けたとき、天使を思わせるようなソプラノが俺の鼓膜に飛び込んできた。
「マリー・サントン……自由フランス軍少尉……」
 
 ドイツ人にイタリア人、そして捕虜になったフランス人という奇妙なオアシス生活は最初の夜を迎えていた。リストマイヤーはやはり、アフリカで戦うパイロットらしく食料を豊富に用意していた。ソーセージやらサラミやらを口にしている。俺はワインをちびちびやりながら、時々、木に縛られたマリーに視線を飛ばしていた。
「彼女のことなら放っておけ。貴重な食料を捕虜に分けるわけにはいかん。それに……」
 リストマイヤーは、俺の知っているドイツ人らしからぬ口ごもり方を見せた。こいつ、何かたくらんでやがる。直感で俺は悟ったが、口に出しはしなかった。
 それよりも、やっと大量の水を確保して作成中のパスタの出来が気になったのだ。魚介類の缶詰を大量に補給隊からせしめておいてよかった。おかげで好物のペスカトーレを作ることができる。
「戦場でそんなに食事に時間をかけてちゃ生き残れないぞ」
 皮肉を込めてリストマイヤーがサラミをほおばりながら言うが、俺は気にしない。
「バカ言え。食事こそ人生最大の楽しみだ。それを無駄にして何が戦争だ。俺はこのスタイルで一応エースにまでなったんだぞ」
 リストマイヤーはちっと舌打ちすると、オアシスの外にある自分の機に歩いていった。
「バカらしい。俺は寝るぜ」
 彼の愛機メッサーシュミットBf−109Gは中破して修理不能だということだ。彼は最悪の場合、400キロ歩いてエルアゲイラの友軍陣地まで行くという。
「さて、できた!」
 トマトソースをたっぷり絡めたパスタを俺は思いっきりほおばった。ちょっとオリーブオイルを効かせすぎたかな、と反省した。
 と、木に縛られたままのマリーを見る。
「食うか?」
 俺が言い終わる前に彼女は無言で首を横に振った。敵意に満ちた目は相変わらずだ。
「そっか……、けっこういい出来なんだがなあ……」
「あなた、わたしたちが敵同士だってわかってる?」
 初めて、マリーが俺に言葉をかけた。だが、その言葉は鋭くナイフのようだった。
「わたしとリストマイヤーは殺し合いをしてたのよ。ちょっとタイミングがずれたらあなたも参加してたかもしれない」
 パスタを食べ終わった俺は黙って彼女の話を聞いていたが、ワインをちびりと飲んだ。
「君もリストマイヤーもわかっちゃいないみたいだな。ここは敵も味方にも忘れられたオアシスだ。ドイツ・イタリア軍からは400キロ。イギリス軍が占領するトブルクからも80キロ。今更、敵も味方もないさ。俺の機は故障中。リストマイヤーのは修理不能。君のハリケーンも大破してるじゃないか」
 確かに俺の言うとおりだった。ドイツ・イタリア軍はイギリス軍の攻撃で数百キロも後退中。イギリス軍はそれを追いかけてリビアの奥深くに侵攻中。ここはまさに忘れられた地上の楽園だ。
 たまたま偵察飛行に出ていた俺。リストマイヤーもマリーもおそらく似たような任務だろう。偶然、ここで出会っただけの話だ。
「こんな誰もいないオアシスでも戦争は続けなきゃいけないのかい?」
 俺の問いに今度はマリーが黙る番だった。

 砂漠の朝は早い。地平線から太陽が昇ったと思うと、すぐに灼熱地獄に砂漠は変貌する。
 そんなことお構いなく、俺は木陰で寝転んでいた。エンジンの修理なんてオチャノコサイサイ。気が向くままのんびりして自軍に戻るなり、エルアゲイラまで燃料が足りなきゃ敵に降伏しようと思っていた。何しろ、司令部から「勝手にしろ」とのお墨付きをいただいたのだ。もっとも、その司令部も下手をすれば英軍の捕虜になっている可能性は十分にあるが。
木陰で目をつぶろうとする俺は、リストマイヤーの奇妙な行動に気がついた。マリーの目の前で水筒をぶらぶらさせている。
「欲しいか……? 欲しいだろうな」
 端正な顔をゆがめるリストマイヤー。マリーは飲まず食わずだ。すでに唇には脱水症状の兆候が見え隠れしていた。不意に、ドイツ人は彼女のロープを切った。いきなり身体の自由を取り戻したフランス娘は、リストマイヤーの持つ水筒に飛びかかった。だが、水筒は非情にもリストマイヤーが引っ込めた。
 マリーは最後の力を振り絞ったのか、その場にうずくまった。ずっと飲まず食わずで縛られていたのだ。無理もない。かわいそうに、半袖の飛行服の裾から見える彼女の細い二の腕にはロープの跡がくっきりと残ってしまっている。しかし、そんな彼女にドイツ人は冷酷に言い放った。
「よかろう。水はくれてやる。その代わり……脱げ!」
 思わず俺は起き上がった。別にマリーのストリップショーを一緒に見るためではない。
「ちょっと待て! リストマイヤー!」
 本能的な欲求に屈してすでに飛行服に手をかけ、白い肩を見せ始めていたマリーの手が止まる。整ったゲルマン系の顔がいやらしくゆがんでいる。
「どうした? さすがはイタリア人だな。一緒に楽しむ気になったか?」
 俺はそんな彼を無視してボタンをはずしかけたマリーに歩み寄ると、無言で水筒を渡した。その行為に彼女は一瞬、呆然としていたが俺が笑顔を浮かべて頷くと、その中身を一気に飲み干した。
「サンツィオ中尉! 貴様、俺の邪魔をするのか!」
 お楽しみを思いっきり邪魔される格好になったリストマイヤーが腰の拳銃に手をかけながら叫んだ。俺も腰の銃はいつでも抜けるようにしてある。俺は夕べから思っていたことを思い切って口にしてみた。
「リストマイヤー、あんた、もう帰れないって思ってるだろ? そりゃそうだ。あんたのメッサーシュミットは修理不能。エルアゲイラのドイツ軍までは400キロ。どうせ捕虜になるか野垂れ死にするくらいなら、それまでは彼女を散々もてあそんでやろうって魂胆だろ?」
 俺の鋭い指摘にドイツ人はうなった。
「もしくは、俺のG−50を修理して便乗させてもらう駄賃に彼女を差し出すつもりだったか? もっとも、その選択肢は今のあんたを見てご遠慮願いたいと思うがね」
 冷酷だなと俺自身も思う言葉に、ドイツ人の態度は一変した。今度は懇願するような表情を浮かべて俺に叫びかけた。
「サンツィオ中尉! きれいごとばかり抜かすな! この女は敵だ。そして俺たちは見捨てられた。悪いことは言わない! この女をお前の好きにしていい! お前のG−50に便乗して俺をエルアゲイラまで連れて行ってくれ!」
 俺はこの言葉を聞いて、イニシアチブを完全に握ったと確信した。リストマイヤーは捕虜になりたくない。ましてや死にたくないのだ。彼の運命を握っているのは俺だった。
 ドイツ人にG−50は操縦できまい。俺を射殺してしまったところで彼単独で脱出は出来ないのだ。俺は夕べ、リストマイヤーが俺の愛機をいろいろ見て回っているのを知っている。
「この女をホントに俺の好きにしていいんだな?」
 俺の言葉に彼は無言で頷く。
「よし。考えとこう」
 俺はそう言って水筒を手にしゃがみこむマリーに近づいた。彼女は手を差し出した俺に華奢だが豊かな身体をびくりとさせた。その長い金髪に触れてみた。砂と汗でざらついているがきれいだった。
「俺とリストマイヤーはあっちに行ってるから水浴びでもしなよ」
 女は常にきれいで清潔でなきゃいけないのは俺の美学だ。俺はさわやかな笑顔を浮かべて言ったが、彼女は先ほどと同じようにきょとんとしている。
「そんな汗まみれに砂まみれじゃ気持ち悪いだろ。さっぱりしなよ」
 俺はそう言ってリストマイヤーを木立の向こうに引っ立てた。オアシスを通り抜ける風と一緒に水音が聞こえた。彼女が水浴びをする音だ。
「サンツィオ。きっと後悔するぞ。俺は同盟軍として忠告しておく。彼女に情を見せるな。俺と君とでG−50は定員オーバーだ。そうなれば、彼女はここに置いていかなきゃいけなくなるんだぞ」
 俺はその言葉を軽く聞き流した。
「お前こそ、水を餌に女をモノにしようなんて恥を知れ。もしもエルアゲイラに帰ったら言いふらしてやるぜ。ドイツ空軍は餌なしじゃ女も釣れないヘボパイロットぞろいってな」
 リストマイヤーは屈辱的だが否定できない俺の言葉に、顔を怒りで引きつらせていた。いくら怒ったところで関係ない。ヤツには俺が必要なのだ。イタリア語だらけのG−50をヤツが操縦できるはずもないのだから。

 マリーが水浴びをしている間の会話ですっかり機嫌をそこねたリストマイヤーはとっとと自分の機に戻った。羽の下か操縦席で夜を明かすつもりだろう。
 俺は例によってたっぷりの水でパスタを沸かした。
「ほれ、食えよ」
 俺はマリーを縛ったりすることはしなかった。どうせここは世界に忘れられたオアシス。逃げようがないのだ。それを知っているのか彼女は逃げるそぶりも見せなかった。万が一、俺を襲って武器を奪う可能性も考えたが、そんなそぶりもない。
 もしも、彼女に襲われても俺は抵抗するんだろうか? パスタの皿を彼女に差し出しながら俺は考えた。
「……ありがと」
 今度はマリーは受け取ってくれた。フォークに刺されたパスタが彼女のきれいな口に運ばれる。俺は神妙にそれを見守った。
「おいしい」
 俺は安堵の笑みを浮かべる。ペンネは俺の自信作なのだ。これを「まずい」なんて言われた日には生きていく気力を失う。
「さ、だったら遠慮しないで食えよ。あ、ワインもあるぞ」
 俺は調子に乗ってどんどん彼女に食事を勧めた。彼女も空腹だったのか、俺の料理が本当においしいのか、全部食べてくれた。
「サンツィオ中尉……」
 オアシスのほとりで食事を終えて、一息ついたところでマリーが俺を呼んだ。
「ルーカでいいよ。俺はルーカ・サンツィオってんだ」
「……ルーカ」
 先ほどとは打って変わって、マリーは怪訝そうな顔をしている。月明かりに映る彼女の陰鬱な顔もまた美しかった。
 ああ、俺は彼女に恋をしてる。正直にそう思ったのはこの瞬間だ。
「あなたって変わってる。まるで敵とは思えない」
 俺はその言葉を聞きながらその場に寝転んだ。満腹感が気持ちよかった。
 と、俺の腰に違和感を覚える。「まさか」と思ったときは手遅れだった。マリーが俺の腰から素早く拳銃を抜いていたのだ。寝転んだ俺に馬乗りになって銃口を向けている。
「撃つかい?」
 生まれて初めて銃口を向けられるという経験をしているにも関わらず、俺は冷静に彼女に聞いた。彼女は無言だった。俺を撃って、銃声を聞いてやってくるリストマイヤーを待ち伏せして殺せば彼女は晴れて自由の身だ。
 しばらく俺に銃を向けていたが、彼女は細い眉をしかめて、悔しげに首を横に振った。
「撃てない……。あなたを敵と思えない……。いえ、思えなくなったわ……」
 馬乗り状態から立ち上がって、俺の横に座る。銃は俺に素直に返してくれた。
「戦争って何なんだろうって思うわ。ドイツ人もイタリア人も憎むべき敵。そのはずなのに、あなたは憎めない。ねえ、どうして? どうしてわたしを助けたの? あなたがわたしにひどいことでもしてくれたら、わたしはあなたを敵と思えるのに!」
 最後は半分泣き声になりながらマリーは叫んだ。寝転んだまま俺は夜空を見上げていた。飛行機に乗ってるときもそうだが、星を見ているといかに自分がちっぽけな存在かってのがわかる。そんなちっぽけな存在でも、目の前にいる美しいフランス娘を救うことができた。そして俺は目の前の女に心奪われている。
 何も答えない俺に、少し落ち着いたマリーが今度は笑顔で振り向いた。思えば、彼女の笑顔を見るのは初めてだと気がついた。
「イギリス軍の噂で聞いたわ。イタリア軍司令部の無線を傍受したって。『ワイン、オリーブオイル、トマトピューレ、マッシュルームが不足。至急輸送されたし。なお、輸送船のスペースに余裕があればついでに、武器弾薬も送られたし』って。本当?」
 軍の上級司令部なら本当に送りそうな無線だ。それに、こんな砂漠でペンネの出来を気にするイタリア人パイロットを見れば、その噂も信じたくなるってものだろう。
「ま、ありえない話じゃないだろうな。連中、自分のお抱えシェフまでアフリカに連れてきてるんだぜ。……俺はイヤになったんだ」
 どうしてだろう。俺はいつの間にか独白し始めていた。
「空を飛ぶのは好きだった。だから軍隊に入った。いつの間にか『敵』ができて、連中を叩き落すことが仕事になった。言われるままにアフリカまで来て、言われるままに出撃してこの有様だ。でも……」
 ここで俺は言葉を切ってしまった。マリーの興味深々といった感じの青い瞳が痛いくらいに感じられる。彼女の視線に耐えられなくなったのか、俺はらしくないくらいに強引に会話を打ち切った。
「まあ、そんなところさ! 明日も暑いぞ! ゆっくり寝よう!」
 そんな俺をマリーは昨日までとは別人のように優しい笑顔で見つめていた。

 木陰で毛布にくるまって寝ていた俺を起こしたのは、マリーの美しい声ではなかった。
 今までイヤというほど聞いてきた音。エンジン音だった。
「マリー、隠れてろ!」
 少し離れたところで毛布から飛び起きた彼女にそう言い残すと、俺はオアシスの切れ目まで走った。木立の陰から双眼鏡でエンジン音の音源を確かめるためだ。
「なんてこった……」
 俺は思わず絶望した。エンジン音の正体はドイツ軍のケッテンクラートだ。おそらく、逃げ遅れた空挺部隊か何かだろう、二名のドイツ兵とリストマイヤーがオアシスから少し離れたところで話をしている。
 ケッテンクラートはバイク型の乗り物で後輪部分がキャタピラというちょっと変わった代物だ。砂漠でもそれなりに走ってくれる。リストマイヤーはおそらく、修理不可能になった自分のメッサーシュミットに残ったガソリンと引き換えに、エルアゲイラまで便乗を交渉しているようだ。ケッテンクラートだと俺もマリーも乗せることができる。
「あっ!」
 俺はとんでもないことに気がついた。このままじゃマリーを連れて行かれてしまう。最悪、用済みな上に散々リストマイヤーの企てを邪魔し、愚弄した俺は殺されかねない。しかも、エルアゲイラまではるか400キロ。道々、彼女が味わう屈辱を考えて身震いがした。
「サンツィオ中尉!」
 リストマイヤーが叫んだ。その手には拳銃が握られている。ケッテンクラートのドイツ兵は、一人は機関銃を構え、もう一人もマシンピストルを構えている。リストマイヤーのヤツ。俺を寝返ったとでも吹き込んだんだろう。
「中尉、女をこっちに渡せ! そうすれば君もエルアゲイラまでつれて帰ってやる!」
 リストマイヤーの誘いに俺は何も答えなかった。ただ、俺が隠れている木立から愛機までの距離を目測で測っていた。40メートルもないが、ドイツ軍の機関銃の前ではそんな距離を無傷で走れるはずはない。
 そして、俺のG−50と反対方向。着陸時にスピンしたんだろう。マリーの愛機、ホーカー・ハリケーンが見えた。右翼が木に接触していて大破している。
 反応がないことを悟ったリストマイヤーはドイツ兵に合図した。ケッテンクラートに装備された機関銃と、マシンピストルが轟音を上げる。空気を切り裂いて飛来した銃弾が、オアシスの多くない木々に命中して葉っぱや木片を飛ばした。
「ルーカ、リストマイヤーの言うとおりにして! このままじゃ、あなたが殺されるわ」
 木立の向こうでマリーが叫んだ。俺は大して頼りにならないだろう拳銃を抜いて弾薬を確認した。そして彼女が隠れる木立まで駆け戻った。
「マリー、怪我はないか?」
 頷く彼女の頬に俺は思わず唇をくっくけた。驚いたような、それでいてうれしそうな青い瞳が俺を射抜くように見つめる。
「マリー、君のハリケーンだけど、機銃は動くか?」
「ええ。エンジンは動くから片翼だけだけど発砲は可能よ」
 素早い彼女の返答に俺は考えていたことを口にした。
「俺が囮になる。君はハリケーンまで走って連中をやっつけてくれ。このままじゃ、俺も君も殺される。リストマイヤーは自分を侮辱した俺を許さないし、君もエルアゲイラまで生きたまま連れて行かれるとは思えない。ここで一緒に戦って生き残ろう」
 俺の言葉を裏付けるように、再び機銃の掃射がオアシスを襲った。思わず俺はマリーを抱きしめて彼女をかばった
 銃弾が俺の右腕をかすめた。思わず、マリーを抱きしめながらうめき声を出してしまう。
「ルーカ、なんで、なんでわたしのためにそこまで……」
 今更俺にとっては野暮すぎる質問を投げかけてくる。俺は傷がかすり傷だということを確かめると、彼女に向き直った。
「イタリア男は惚れた女のためなら命も賭ける。それだけさ」
 さわやかに答える俺に、金髪のフランス娘は少しきょとんとしていたが、可笑しそうに笑った。
「ルーカ、本気なの?」
「本気さ。俺は今まで冗談で女を口説いたことはない」
 そう言って再び華奢なマリーを抱きしめた。彼女は俺の背中に手を回してくれた。
「バカな人……」
 再び機関銃弾が俺たちを襲った。俺は名残惜しく彼女を解放すると、さっき話した作戦をもう一度彼女に説明した。彼女は不安な気持ちを隠しきれないようだった。
「ルーカ、わたしにできるかしら……」
「やってくれ。できなきゃ、ここで二人とも死ぬんだ。世界から忘れられたオアシスで俺たちは死ぬために生まれたんじゃないはずだ」
 俺の言葉にマリーは力強く頷いた。俺は彼女をもう一度だけ見つめた。もう迷いを感じない澄んだ瞳を信じて、俺はオアシスの切れ目に走った。
 走りながら俺は小さく叫んでいた。
「マリー、君が好きだ」
 彼女を残した木立から俺は彼女のかすかな声を聞いたような気がした。
「ルーカ、わたしもよ……」

 「サンツィオ中尉! いいかげんに女の独り占めはやめようぜ!」
 機銃掃射の合間にリストマイヤーがにやけながら叫んでいる。俺はマリーのハリケーンから十分に離れた場所を確保すると、得意でない拳銃を構えて狙いを定めた。
 数十メートル離れた場所から当たるはずもないが、一応、退屈そうにマシンピストルの弾倉を交換するドイツ兵に狙いを定めて引き金を引いた。
「うお!」
 当然弾丸は命中するはずもなく、ケッテンクラートの近くにいたドイツ兵の周囲に着弾した。それでも、俺の位置だけは悟ってくれたようだ。
「あそこだ!」
 全弾撃ちつくした俺は素早く別の木陰に走っていた。さっきまで俺が潜んでいた木々は機銃で粉々に砕け散る。
「サンツィオ! 同盟軍に銃を向けるとは許さんぞ!」
 リストマイヤーの怒りに満ちた叫びと同時に、別の音が砂漠を支配した。
 マリーは上手くやってくれたようだ。
二人のドイツ兵はそれが何かわからないようだったが、パイロットのリストマイヤーだけはわかったらしい。遠くからでもわかるくらい恐怖で顔を引きつらせた。
「伏せろ!」
 ドイツ人パイロットの悲痛な叫びと同時に「地獄のシャワー」と揶揄されるホーカー・ハリケーン戦闘機の7・7ミリ機銃の嵐がケッテンクラートとドイツ人たちに襲い掛かっていた。

 「頼む、命だけは助けてくれ!」
 運よく生き残ったリストマイヤーが俺たちに懇願している。俺もマリーもそれを見下ろすだけだ。というのも卑怯なドイツ人パイロットをたった今、木に縛りつけたところだったのだ。俺は彼の手が届く距離に水と食料を置いてやった。もちろん彼好みである、手の込んだ調理の必要がないサラミなどだ。
「俺たちは勝手にする。お前も勝手にしろ」
 そう言って俺はマリーの肩を抱いてオアシスから歩き出した。
「待ってくれ! エルアゲイラに行くんだろ! 俺も一緒に!」
 そう叫ぶリストマイヤーに俺は振り返ることなく言った。
「エルアゲイラにもトブルクにも行くつもりはない。ここでお別れだ……」
 俺はリストマイヤーの愛機から増加タンクを取り外すと、自分の愛機に取り付けた。俺の機の故障原因は単純だった。オイル切れだ。当然、リストマイヤーのメッサーシュミットからオイルを頂戴すると、フィアット製のエンジンは機嫌よく始動した。
「ルーカ、エルアゲイラにもトブルクにも行かないっていったいどこへ?」
 当然のように疑問に思ったマリーが、一連の作業を終えた俺に尋ねた。俺はたまらず彼女を抱き寄せた。
「エルアゲイラに行けば君は捕虜。トブルクに行けば俺が捕虜。俺は君と離れたくないんだ。だったら、行き先はひとつしかない……」
「ひとつだけ……?」
 俺の抱擁を受け入れながらマリーが再び尋ねた。俺は彼女の両肩をつかんで思いっきり見つめ合った。アフリカの空で戦っていたにしては色白なマリーの頬が赤く染まるのがたまらなかった。
「G−50の航続距離は600キロだ。ついでにリストマイヤーのメッサーシュミットについていた増加タンクもいただいた。1200キロは飛べる。そして、俺も君も離れ離れにならなくてすむ場所さ……」
 俺の言葉に、パイロットのマリーが顔をぱっと明るくした。
「スイスね!」
 ご名答だった。最悪、イタリア本土で給油も可能だ。なんたって俺はエースのルーカ・サンツィオ中尉なんだから。「特殊任務のために給油を願う」でオッケーなはずだ。
「じゃあ、行こうか!」
 俺は笑顔でマリーの右手を握った。細いがしっかりとした力で握り返してくれる。
 G−50の操縦席が狭いことは今回に限っては幸運だ。愛するマリーの感触をたっぷりと味わいながらの遊覧飛行だ。
「サンツィオ中尉! 待ってくれ!」
 離陸寸前の俺たちに、どうやって抜け出しのかリストマイヤーが駆け寄ってきた。すでに滑走を始めた俺の愛機を止めることはできない。
 が、俺は地平に見える砂煙を発見した。
「リストマイヤー! お前は死にはしない! 捕虜はイヤだって第一希望はかなえられそうにないがな!」
 俺の言葉にリストマイヤーも地平の砂煙に気がついて呆然としている。そして、その正体を知った瞬間、がっくりと膝を落した。
 砂煙の正体は、アメリカから供与されたM−4シャーマン戦車で武装した英軍の大部隊だったのだ。

 「ねえ、ルーカ?」
 英軍の警戒線を超えてどうにかイタリア軍が制空権を保っている空域にたどり着いた。
シチリア上空でマリーが俺の首に手を回してきた。操縦が乱れて機が揺れるが、俺は彼女に抱かれた心地よさの方を優先させた。
「なんだい?」
「スイスに着いたら、ペンネのお礼に、とっておきのブイヤベース作ってあげる」
「そいつは楽しみだ!」
 イタリア男は惚れた女のためなら命をかけて戦う。この戦いの成果――俺にしがみつく最高の美女は俺にとっては大きすぎる戦果だった。
「マリー、君に出会えたオアシスと神に感謝したい気分だ」
「わたしもよ」
 狭い機内で俺たちは唇を合わせた。地中海特有の風が機体を揺らしたが、お互いに夢中な俺たちは地中海の風の嫉妬を気にするつもりもなかった。


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●感想
一言コメント
・これだけ短いお話なのに、心を暑くさせられたのは久々です! とても面白いお話でした。
 ルーカとマリー、お幸せに!
・設定が現実味のあるもので、テーマも爽やかで読みやすかった。
 タイトルをもう一工夫すると良くなるのでは? 久しぶりに後味のいい作品でした。
・王道なラブコメをきれいに描いたすてきな作品でした。
 悪役の残酷さの背景やヒロインのプライドやコンプレックスをもう少し掘り下げて欲しかったと思います。
・主人公の性格がつかみづらいところがありますが、心沸き立つお話でした。
・おもしろかったです。イタリア軍の適当さがよかったです
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