高得点作品掲載所      カズナさん 著作  | トップへ戻る | 


ヒューロの欠片〜パリの正義〜

 少年は思い出していた。
 自分がかつて「神」と言われる眷属の一員であったことを、そして何者かの手により自らの身体が消滅してしまったということを。
 緋色の髪は柔らかいくせ毛で、音も無く吹き抜ける時の風にそれらは静かに波打っている。そして十歳程度にしか見えない小さな体に似合わぬ、碧玉の瞳から発せられる鋭い眼光。
「この渇きは何だ」
 腹の奥底から湧き上がる正体不明の飢餓感に、ヒューロはその細い喉元に手を当てる。
 かつての自分はいつも何かを求めていた。しかしそれが一体なんだったのかが分からない。
 言いようの無い不快感に耐え切れず、自分以外は誰もいない薄闇の空間で少年は唸り声をあげた。それは怒りであり、切なくもあり、誰とも知らぬ相手への懇願でもあった。
 喉を枯らすまで咆哮を上げた後、ヒューロはその緑色の目で前方の闇を見据える。そこに、自分の欠片を持った者がいるのを感じたからだ。
「ふん、こんな馬鹿げた事も後もう少しで終わりだ」
 小さな手を伸ばし、闇を事も無げに押し開く。その先から漏れる世界の光に目を細めながら、それでも少年は頭の片隅でこう思った。
 ――――この渇きは本当に自分の思念なのだろうか、と。



「何故ですか、同志ロベスピエール!」
 サン・ジュストはその美しい眉を興奮で吊り上げたまま、目の前の古びた机を一叩きした。その振動で上に置かれていた指令書とインク壷、クウイルペン(羽ペン)などがわずかに移動する。
 三十人ほどをゆうに収容できるはずのパリ市庁舎の大部屋は、それを上回る人数、そして熱気溢れるその空気に圧倒されるように今にも破裂しそうである。
「これ以上何の罪も無い同志たちを危険に晒すわけにはいかない。分かってくれ、同志サン・ジュスト」
 そう苦々しそうに漏らすマクシミリアン・ド・ロベスピエールの心はこれ以上無いほどに傷ついていた。
 これまで彼はただ理想の国家を作るためだけに心血を注いできた。腐敗を嫌い、尊く白い美しい政治を目指してひたすら「徳」を理想に頑張ってきた。
 そして今、自分はその全てに裏切られたのである。「暴君を倒せ!」と日中の国民公会で自分に投げかけられたその言葉が、未だに耳の奥にこびり付いて離れなかった。
 誇り高い彼はもうこれ以上、「暴君」と言われたくはなかったのである。
 それでも目の前に集まった自分を慕う人々を落ち着かせるため、目の前に差し出されたパリ市民へ救援を求める指令書に彼はサインをしようとペンをとった。その時である。
 大地が揺れた、そう思った。しかしすぐにそれが大砲の衝撃音なのだと自覚する。突然市庁舎のバリケードを突き破り、国民公会の指揮するフランス軍が建物内に侵攻を始めたのだ。
 怒声と銃声が市庁舎に充満し、ただならない緊張感がマクシミリアンを支持する市議会側の人間の間に走る。
 彼らが集うその部屋のドアが蹴破られるまで、それは本当にあっという間だった。
 津波のように押し寄せる軍人の波。その軍服の紺色は、ここにいる人間全てを飲み込んで深い深い海の底へ引きずり込んでゆく。
 スローモーションの映像の中で、そんな錯覚を彼はふと思う。
 煌く白刃の脅威が次々と人々を襲う。自分を逃がそうと腕を引っ張る革命の同志サン・ジュストの力の強さを別世界のように感じながら、一人、また一人と倒れてゆく同志達をマクシミリアンは呆然と眺めていた。
 突然、その人の波の中から一人の若者が彼の視界に飛び出してくる。短銃をその手に構え、その銃口は正確に自分に向けられていることをマクシミリアンは覚った。
 危ない。それは誰かの叫んだ言葉だったのか、それとも自分が心の中で思ったことなのか。どちらにせよそれを認識した時には、顎にとてつもない衝撃を感じてマクシミリアンは思わず足元をよろめかせる。
 まるで鉄のハンマーで直接顎を砕かれたかのようだった。激痛を通り越し、その視界が一瞬真っ白に染まる。
 自分の顔が自分のものではないような、そんなおかしな感覚の中で彼はそのまま意識が遠くなってゆくのを自覚した。
「ロベスピエール、ロベスピエール!」
 後世その美貌から「革命の大天使」と呼ばれることになるサン・ジュストの胸に抱えられながら、マクシミリアンはそのまま亜麻色の瞳を閉じる。
 残念だが正義の革命はこれで終わりだ、そして自分の命も。
 そう、思った。

 一七九四年七月二十七日、テルミドール(熱月)の反動と呼ばれたこの日、マクシミリアン・ド・ロベスピエールはクーデターによりフランス革命の中枢からたった一日で引き摺り下ろされることになった。
 昨日までの彼の肩書きは国民公会議長。彼は命を懸けて戦った仲間によってその地位を失い、そして倒れた。
 たった十九歳の少年兵に撃たれた弾丸は顎を貫通し、骨は砕かれ出血が止まらないままその場しのぎの応急処置だけをされていた。それでもまだ、マクシミリアンは息も絶え絶えに生きていた。
 発熱で視界が歪むなか目を覚ましたのは、コンシェルジュリと呼ばれる牢獄の中である。一年前には王妃マリー・アントワネットが収容されていた別名「ギロチンの間」と呼ばれる場所であった。
 どちらにしろ死ぬのなら、この痛みに苦しんだ挙句明日に公開処刑されるより、すぐに死んでしまいたい。
 自分は間違ってはいなかったはずだ。そうだ、間違っているのは賄賂を受け取る腐敗した政治家であり、他国に逃亡して裏から糸を引くかつての有力貴族たちであるはずだ。  
 心の中でそう毒づいてみたものの、苦痛で息が荒くなると顎に負担がかかって激痛を誘発する。
 剥き出しの荒削りな石で囲まれた小さな独房。その片隅に設置された簡易ベッドに横たわる彼の姿は見るも無残であった。
 普段から清潔好きで隙無く身なりを整えていた法律家出の青年は、華美では無いがいつもセンスの良い格好をしていた。それが今やレースのシャツとクラヴァット(ネクタイ)は自らの血で汚れ、ジュストコール(裾の長い上着)は床を引きずられたせいで土や埃であちこち擦り切れ汚れている。顎を覆う布は元々白かったはずなのに、傷口から絶えず滲み出る血に侵食されて赤黒く変色していた。
 市庁舎に一緒にいたはずの実弟のオーギュスタン、そしてすぐ側にいたサン・ジュストは一体どうなったのか。しかし考えるまでも無く、自分がここにいるならば彼らも同じように逮捕されてこの牢獄に収容されているに違いなかった。
 間違っている。この世は間違っている。
 しかしもうマクシミリアンには正義の為に戦う力は無く、そしてその気力も失せていた。フランスなどこの先オーストリアやプロシアに蹂躙されてしまえば良いのだ。そんなことを考えてしまうほどに、彼は人民の「正義」の有り様に絶望していたのだった。
「おい、お前」
 一人そんなふうにマクシミリアンが薄暗い深夜の独房で考えに耽っていると、どこからともなく子供の声が聞こえた。
「聞こえているのか、それとももう死んだのか」
 始めは自分の気のせいかとも思ったが、続けてその不躾な言葉が聞こえてマクシミリアンは視線をベッドに横たわったまま動かす。すると自分のすぐ横に小さな赤毛の子供が立っているのに気付き、彼は思わず目を見張った。
 どこから入ってきた、しかしそう言おうにも口をわずかでも動かすと激痛が走り、彼はただ小さなうめき声を上げたのみである。
「ふん、喋れぬか。では聞け」
 そうマクシミリアンを見下ろす子供の瞳はエメラルドのように強い光を放ち、その表情はいかにも不遜な雰囲気が漂っている。何も言葉を返せないまま彼がじっと子供を見つめると、その子供――ヒューロは言った。
「お前に人生をやり直すチャンスをやろう、ついでにその怪我も治してやる」
 大きな緑の瞳を煌かせ、そして覗き込むように顔を近づけるとヒューロは囁く。
「その代わり、少しの間私と一緒に行動を共にするのだ。悪い話ではあるまい?」
 一体悪魔とは、実にこのようなあどけない顔をして人を誘うものなのだろうか。熱で浮かされた頭でそう考えながらそれでも彼は小さく、しかし確かに頷く。
 ヒューロがその小さな手を伸ばし、不意にマクシミリアンの顎に覆われた布を取り払った。
「うっ」
「すぐ済む、静かにしろ」
 子供の手の平が傷口に触れるか触れないかの距離で止まると、急に何か温かいものに顎下が包まれる感触がしてマクシミリアンは息を飲む。突然、ヒューロの手の平から真珠色の柔らかな光があふれ出したのだ。
 しかしそれはほんの十数秒のことで、あっという間に激痛は嘘のように去り、出血が止まり、傷口も完全に塞がってしまった。
「これは……奇跡か」
 すっかり元通りになった自分の顎に触れながら、マクシミリアンはベッドから上半身を起こす。そして先ほどは悪魔と心内で呼んだ少年に視線を戻すと、彼は幼子に向かって優雅なお辞儀をしてみせるのだった。
「あなたの慈悲に感謝します、赤い髪の天使よ」
「私の名前はヒューロだ」
 顎の動作だけでヒューロはマクシミリアンに起立を促し、そして石造りの独房の壁に手を触れる。すると突然ぽっかりと人一人通れるくらいの穴が出現し、そこからは様々な光が溢れ出して夜の暗い独房をそっと照らし出した。
 そのまま黙ってその光の中に入ってゆくヒューロの後を追い、マクシミリアンも独房の壁を潜り抜ける。
 迷いは無かった。
 人生をやり直す。それは今のマクシミリアンが、何よりも切望していた事であったからである。



 人はいつもその瞬間が過ぎ去ってから後悔をすることになる。だから彼は自分の人生は全てが完璧で、そして美しくあらねばならないと考えていた。
 自分は間違った選択などしない。もしその結果が思わしくないのであれば、それはたまたま同時に関与していた他者の理由によるものであり、正義に基づいて道を選んでいる限り自分に落ち度は無いと信じていた。
 だから思いもしなかった。心の奥底にずっと閉じ込められていたその小さな感情が、実は「後悔」という名を持つものであったということを。
 他者の落ち度によるものではなく、純粋に自らに向けられた悲しみが眠っていたことに。


 セーヌ川を抜ける風は優しい暖かさを含んで少年に吹きつけ、後ろで束ねたその黒髪を小さく揺らして挨拶をする。
 遅めの春の陽気が馴染んできた五月も末頃、パリのセーヌ川に面したその大通りには様々な物売りが立ち並んで賑わいを見せていた。
 行き交う人々に投げかけられるその売り文句は、まるで歌を聴かせるかのように独特な節回しである。甲高くよく通るその声は屋台の幕を越え、側の家の中までこっそり入り込んでしまうほどに元気が良い。
 朝から晩まで大きな水瓶を荷台に積んだ水売りが忙しく行き交いし、まだ暗いうちにパリ郊外から野菜を売りにやって来た農夫は疲労困憊の痩せ馬を何とか宥めながら自分の家へ帰ってゆく。
 そんなパリのいつもと同じ朝の光景の中、ロベスピエールは特に気にする様子も無く歩きながら分厚い本を読んでいた。
 くっきりした二重目蓋に亜麻色の澄んだ瞳、十六歳にしてはやや小柄でやせっぽっちのその身体。彼は王の名前を冠する名門ルイ・ル・グラン学院の学生で、いずれは政治家や弁護士などのエリートとなるべき卵たちの一員である。
 しかしその割にはいかにも着古した様子のシャツとキュロットの上下にぼろぼろの革靴という冴えないいでたちで、手に持っている革張りの高そうな本だけが妙に浮いているのが誰の目から見ても明らかであった。
 そんな彼が生まれ故郷のアルトワ州からパリにやって来て、すでに五年の歳月が経とうとしている。
「邪魔だ、どけ!」
 猛烈な勢いで背後からやって来たディアブル(座席の側面と屋根しか付いていない馬車)がロベスピエールのすぐ脇を通り過ぎて行き、本に気を取られていた少年は驚いて足をもつれさす。
「うわっ」
 何とか転倒するのを防いだまでは良かったのだが、馬車が通り過ぎた後の土煙にマクシミリアンは白い眉間に皺を寄せて頭を振った。
「相変わらずどんくさいわね、マクシム」
 笑い含みの小鳥のさえずりのような声が聞こえ、少年は後ろを振り返る。そこに立っていたのは白いブラウスに紺色の長いスカートと白のエプロン、茶色い髪の毛をフリルの付いた布製のボンネットで覆い、腕に平籠を抱えたいかにも元気の良さそうな少女であった。
「何だ、マリアンヌか」
「あら、ルイ・ル・グランのエリート学生さんは恩人に向かって随分薄情な態度をとるのね」
「それについてはこの間ちゃんと礼を言った」
「それにあなたを助けたのはあれで二度目なのよ、ふふ」
「本当、感謝してるって」
 本を閉じ小さな溜め息をつきながら少年はマリアンヌに視線を戻したが、少女の水色の瞳と出合った途端すぐにその視線を逸らしてしまう。
 太陽のようにいつも溌剌としたマリアンヌの発言やその態度は、今まで同世代の異性とまともに話したことも無かったマクシミリアンにとって、これ以上無いほどに扱い難い存在だった。
 どれだけ難解と言われるラテン語ができようと、素晴らしい詩が書けようとも、首席の成績だけでは太刀打ちできないことが世の中には多い事を、少年は思い知らなければならないのである。
 マリアンヌが「助けた」と言ったその出来事とは、ちょうどふた月ほど前のことになる。マクシミリアンがたまたま近道をしようとレ・アル(中央市場)の中を歩いていた時、彼は思いがけなく果物泥棒と間違えられてしまったことがあった。
 そして突然果物屋の店主に腕を掴まれ、状況が把握できないまま狼狽する少年に助け舟を出してくれたのが、この栗色の髪の少女であったのだ。
「違うわよおじさん。林檎盗んだのはほら、あの子じゃない?」
 少女が指差す人ごみの中に、十歳にも満たないであろう子供が走り去って行くのがその時店主にも見えた。その小さな手にしっかりと握られていた赤い林檎も。
 マクシミリアンがのん気に果物屋の前を通り過ぎようとしていた時、彼の影に隠れてその少年がまんまと林檎を盗んでいったというわけである。
 そうして晴れて無罪放免となった後、やれやれといった様子でマクシミリアンは恩人であるその少女に頭を下げた。
「マクシミリアン・ド・ロベスピエールと申します。先ほどは本当にありがとうございました、マドモワゼル」
「どういたしまして、ムッシュー」
 屈託の無い笑顔でそう答えた少女は、しかし次の瞬間突然に渋い顔を見せて首を捻る。
「あなたのことどこかで見たことがあるわ」
「え?」
「私記憶力だけはいいのよ。うーん、どこだっけ、その冴えない顔は随分昔にも見たような気がするんだけど」
 少々引っ掛かる表現ではあったがそれを顔には出さず、マクシミリアンは自分の記憶の糸を順に辿ってゆく。その時少女の首元に揺れるロザリオに気付き、それで彼も不意にあることを思い出した。
「もしかして五年前ここで会いました?」
 その問いかけにマリアンヌは両手を合わせて一叩きする。
「ああ、あのおのぼりの迷子さん」
「パリに来て間もなかったんだ、仕方無いよ」
 わずかに眉間に皺を寄せ、マクシミリアンは小さくそう言った。
 マクシミリアンはフランス北部アルトワ州のアラスという場所の生まれである。七歳で地元のオラトリオ修道院神学校に入り、奨学金試験を受けて十一歳の時に今のルイ・ル・グラン学院へ入学した。
 そして大都会のパリにやって来て間もない頃、街に散策に出た少年はその人の多さに圧倒され、そして流され、ついでに貴族のキャロッス(豪華四輪馬車)に追いたてられるように目的の見学地ルーブル宮もルイ十五世広場からも遥か遠ざかり、いつの間にかレ・アル(中央市場)の中に迷い込んでしまったのだった。せっかく初めて一人で緊張しながら辻馬車に乗って、この近くまで来たというのに。
 レ・アルはパリの各所に開かれる市場の大元のようなもので「万人の倉庫」と言われている。その由縁は当時外から入ってくる食料品は殆どこの市場にまず集められていたし、どの店もここで仕入れるのが常識となっていたからである。
 店と店の間の狭い道には自分よりも遥かに背の高い大人がひしめき合い、すでに学校の方角はおろかこの市場の出口すら少年には分からない。そんな、泣くのだけは必死に我慢していたマクシミリアンを見つけたのが、当時少年と同じ十一歳で花屋の売り子として働いていたマリアンヌ・ボワイエであった。 
 お互いの小さな手を繋ぎ市場を抜ける時、先行する少女の身なりが貧しかった割には不釣合いな銀製のロザリオを首から下げていたので少年は記憶に留めていたのだ。
 それから五年の月日を越えて二人はこのレ・アルで再開し、またしてもマクシミリアンは同じ少女に助けてもらった。しかし男としては、あまり格好良い話とはいえないだろう。
 マリアンヌはレ・アルで花屋の売り子をする以外に、花の入った籠を提げて大通りで直接売り歩くということもしていた。そしてふた月前のその再開以来、道で顔を合わせるとこうして臆面もなく話しかけてくるようになったというわけである。
 そうは言ってもマクシミリアンは学校が無い日ですら外出することがあまり無く、その後会ったといってもこれで通算三度目だったりするのだが。
「今日はどうしたの、お散歩?」
 授業が無い日でもあまり出かけないということを既に知っている少女は、そう小首を傾げる。
「カミーユに追い出されたんだ、あんまり部屋に篭っているとカビが生えますよって」
 カミーユとはルイ・ル・グラン学院の寄宿舎で同室になった二つ年下の下級生であった。マクシミリアン同様かなり優秀な生徒であったが、その頭の中にはいつも旺盛な好奇心が詰まっていて、様々な失敗をしでかしては同室の先輩にいらぬ心配をさせている問題児でもある。
「まあ、それで本を読みながら歩いてたの?」
「かなり面白い本なんだ、公園に着くまでの時間が勿体なくて」
「何の本なの、物語?」 
 マクシミリアンが大事そうに抱えていた本を覗き込むようにして、不意にマリアンヌが顔を近づける。ふわりと花のよい香りが少年の鼻腔を刺激して、その心臓をドキンとさせた。
「しゃ、社会契約論」
「何それ」
「国家とはいかにあるべきで、その中で暮らす市民の権利と責任とはどのような……」
「あー、もういいわ、ありがとう。とにかく難解な本なのね、うん」
 自分の語りが途中で遮られてしまったことに少年は肩をすくめると、本の表紙を大事そうに撫でる。
「面白いのに」
「私は自分の名前だけ書ければそれでいいわ。難しい事はあなた達エリートさんがやればいいのよ。ね?」
 当時の識字率は男性でも半数に届かず、女性に至っては二割強といったところである。それを考えれば、マリアンヌが自分の名前を書くことができるだけでも随分とましな方であった。
「ああ、もう私行かなきゃ。そうだマクシム」
 既に三歩大股に進んでから振り向くと、マリアンヌは抱えていた平籠の中から一つの花を取り出す。
「これだけ半端で残っちゃったの。はい、あなたにあげるわ」
 目の前に差し出されたのは、緑の葉が茂った枝に幾つも花を付けた鮮やかな青紫色のリンドウの花であった。
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 五年前から数えてこれで三度目の同じ受け答えに、少年と少女は思わずその口元に笑みを漏らしたのであった。

 *  *  

 不意に彼は自覚した。ほんの数瞬間前まで己がいたその場所は、既に通り過ぎた記憶の中にあるということを。
 しかし目の前で繰り広げられていた光景の中の少女には何故か見覚えがなく、三十六歳のマクシミリアンは赤毛の子供を振り返った。
「赤毛の天使よ、これは」
「今、お前の過去の中から一番大きな人生の岐路を探している。繊細な作業だからこうして順を追って見てゆかねばならぬ、厄介なことにな」
 そしてマクシミリアン自身が変えることができるのは、その「最大の人生の岐路」のみという説明をヒューロは付け加えた。
 しかしマクシミリアンは未だ得心できないという様子で首を傾げ、ヒューロを見つめる。
「これは本当に私の過去なのですか?」
「どういう意味だ」
「私はあのマリアンヌという少女を知りません」
 彼が嘘をついている素振りはどこにも見られなかったが、赤い髪の少年は意に介する様子が見られない。ふっと小さく、口の端に笑みを漏らしただけであった。
 彼らが立っている場所は地面の上なのか、それとも宙に浮いているのかすら判別がつき難い薄暗闇の中である。
 独房の壁に創られた入り口からはあれほど様々な光が溢れかえっていたというのに、いざ中に入ってみれば明かりらしいものは何一つ存在しなかった。
 ヒューロとマクシミリアンの姿だけが周囲に同化することを拒むように白く浮き出し、それは彼にどうにも奇妙な感覚を与える。そしてどこからとも無く吹いてくるこの緩やかな風は、一体どこから吹いてくるのだろう。そうぼんやりと考えながらマクシミリアンは周囲を見渡した。
「しかし私には、学生時代にやり直すべきことなど存在しないのです」
 自分がやり直したいと思っていることは「革命」の推し進め方である。もっと慎重に、もっと的確に人を見極めて自分の周りを固め、今度こそ他の邪魔をされずに理想を実現させるのだ。
 だからこんな十代に戻られても困ると詰め寄る彼に、赤毛の天使は一瞥をくれた。
「お前の意見など聞いてはおらぬ」
 外見とは正反対の人間の領域を遥かに越えたその威圧感に、マクシミリアンは開きかけた口をそのまま閉じる。しかしわずかな沈黙の後、彼は何か思い当たったように再び顔を上げるとヒューロを見ながら言った。
「その姿からすると、あなたはギリシア神かローマ神なのですか?」
 驚いたように緑の瞳を見開く少年に、マクシミリアンは更に詳しく説明を加える。
「その衣装は確かキトンという古代ギリシアの民族衣装だと思いましたが」
 ついでに言えば、ヒューロの白いキトンの上に羽織っている緑色の外套はヒマティオンと言う。マクシミリアンは学生時代、講師から「ローマ人」と評されるほどに古代ギリシア語やラテン語を得意とし、その延長で色々と歴史文化なども独自で調べたことがあったのだ。
「……分からない」
 わずかに視線を泳がしながら少年神はただそれだけを呟く。それ以外答えようが無かったからだ。
 ヒューロの身体は未だ実体を持たない不完全な影に過ぎない。しかし一つづつ欠片が戻ってくるたびにその力は強くなり、その心に芽生える思考も変化し続けてきた。
 きっと良い自分も悪い自分も同じように飛び散った後、今こうして回収しているからなのだろうと少年は推測している。
 今目の前にいるあの人間、マクシミリアンの傷一つ無い顎を見上げてからヒューロは自分の手の平を見やる。
「あの力は、治癒の力」
 その力も以前までは使えなかった能力の一つである。そしてそれは、激しく少年の心を揺るがすものであった。
 治癒の力。
「治癒の……女神」
「何か言いましたか、赤髪の天使よ」
「いや」
 不意に口をついて出たその言葉の真意も分からぬまま、ヒューロはまた次の時間を旅するためにその腕を宙に伸ばす。
 全ての欠片と記憶が戻るまでは、どんなことがあってもこの欠片探しを続けなければならない。それが彼に与えられた全てであった。 



「聞いて下さい、マクシム!」
 突然乱暴に自室の扉が開かれて、そのすぐ横の戸棚に振動が伝わる。上に乗せられていたランタンがカタカタと抗議の声を上げ、机に向かいクウイルペンを握ったままマクシミリアンが入り口の方を振り返った。
「また壊す気か、カミーユ」
 同室の下級生カミーユ・デムーランがこのように飛び込んでくるのはいつものことである。呆れたように一つ溜め息をもらしたマクシミリアンの声音は、しかしそれでも「仕方が無いな」といった柔らかい雰囲気を含んでいた。彼を見るたび、マクシミリアンは故郷に残してきた弟を彷彿とさせられるからだ。
「聞いてください、僕、僕……」
「分かったから落ち着け、君は何でもかんでも大騒ぎし過ぎる」
 ぺンを置いて立ち上がると、詰め寄ってくるカミーユの肩を押してベッドの方へ誘導する。まるで子供に言い聞かせるような形で彼をベッドの上に座らせると、マクシミリアンは一つ息をついてから尋ねた。
「で、何があったんだ」
 その言葉を待ってましたとでも言いたそうにカミーユはその黒い瞳を輝かせると、頬を紅潮させながら勢いよく話し出す。
「僕、運命の人に出会ったんです!」
「……君には一体何人の『運命の人』がいるんだ、カミーユ」
「今までの出会いは全てこの為の布石だったんですよ」
 腰に手を当てて呆れ顔のマクシミリアンに、カミーユは嬉しそうに笑う。この年下の少年が街や教会で出会った美しい少女を見ては、「運命の人」と言って騒ぐのもいつものことなのであった。
 物怖じしない性格のカミーユはこれと決まるといつも猛烈なアタックを始め、本人の自己申告によるとその戦績はほぼ八割程度だとか。
 黒い髪と瞳はいつもキラキラと輝き、その顔の造作もなかなかに繊細で整っている方だ。それに何といってもこのパリ一の名門学院に通い成績も優秀なのだから、相手が貴族などの高嶺の花でもない限りそうそう無碍にする街娘はいないというものだった。
 しかし上手く行く確率が高いといっても何故か彼はすぐに振られてしまうことが多く、そして向こうが振らなければ自分から運命の相手への興味を無くし、そしてやはり縁が切れてしまうのだった。
 熱しやすく冷めやすい。その優れた頭脳も波に乗れば上手く発揮されるが、いつもが必ずそうとは言えない。そのムラのある性格が全てに災いしていることは明白で、それを間近で見ているマクシミリアンには歯がゆくて仕方が無いのだった。
「君はこのパリに勉強をしに来たんだろう、そんな色恋ばかり追ってどうする」
 まだ十四歳なのに、とすっかり兄の心境になりつつマクシミリアンはいつものように説教を始める。するとカミーユは慌てたようにジュストコール(上着)のポケットの中からあるものを取り出すと、免罪符が如くマクシミリアンの前に突き出した。
「マ、マクシム、あなたに渡してくれって預かってきました。ほら」
 一つの封筒を受け取ると、その宛名を見てマクシミリアンの眉が訝しげに中央に寄る。
「こんな名前の知り合いはいない」
「何言ってるんですか、可愛い女の子でしたよ」
 それを聞くと、彼はその封筒の中身を改めることすらせずに机の上に放り出した。
「え、読まないんですか?」
「興味無いし、そんな暇も無い」
 淀みも無くそう言い切る先輩を見て、今度はカミーユの方が「何と勿体ない」と溜め息をもらすのだった。
 去年の五月に先のフランス王ルイ十五世が逝去し、当時弱冠十九歳のルイ十六世が即位した。
 戦争をすればイギリスに植民地のインドやカナダを取られ、晩年は放蕩の限りを尽くす愛人のデュ・バリー夫人を常に側に置いて政治をおろそかにし、フランスの国力を更に弱体化させた先王の死に人々は歓喜したものである。
 かつてガリア地方を統一したフランク王国初代王クロヴィス一世が、パリの東にあるランスでカトリックに改宗するべく洗礼を受けた。それ以来の伝統で、フランス王はランスで戴冠しない限り正当な王とは認められないということになっている。
 そうしてルイ十六世は即位して約一年後の一七七五年六月十一日にランスで戴冠式を行い、その帰途ルイ・ル・グラン学院に立ち寄って生徒からラテン語の詩で祝辞を受けた。
 そしてその栄誉ある代表として選ばれたのが、講師から「ローマ人」と称されるほどにラテン語が堪能だったマクシミリアンだったのである。
 その一件以来、それまで女っ気の無かった彼の周囲が俄かにこそばゆい雰囲気に包まれ始めているのも事実だ。そして真面目一辺倒の彼が、戸惑い以上に苛立ちを感じていたことも。
 彼の家は代々法律家の家系で育ちも悪くはない。マリアンヌが「さえない」と一刀両断していた容姿だって、力強さは無くとも通った鼻筋とくっきり二重目蓋はパリジェンヌ達に「可愛い」と囁かれていた。それに何と言っても法律学科の首席ならば、将来弁護士として勇名を馳せる可能性大というわけである。
「私にはそんなことに心を砕いている余裕は無いんだ」
 彼の父フランソワ・ド・マクシミリアンは故郷で弁護士を営んでいたが、マクシミリアンが十歳の時に借金を作ってそのまま消息不明になってしまった。
 だからそれ以来長兄の彼がマクシミリアン家の家長であり、今は母方の祖父母の家で暮らしている妹と弟を守るべき責任を負っていると自負している。
 早く大人になりたい。家族を守れるようになって故郷へ戻るのだ。
 奨学金試験を受けて十一歳でパリにやって来た時から、少年の胸に宿るその決意は今も昔も変わりは無いのだった。
「またまた。そんな堅いこと言って、本当はちゃんと意中の女性がいるんじゃないですか?」
 今帰ってきたばかりなのにまた出かけるつもりなのか、カミーユは既に戸口に立ちながらも先輩の机の上に置いてある小さなものを指差す。 
 寄宿舎の勉強机はその表面に漆すら塗られておらず古くて簡素な作りであったが、綺麗に整頓されたその上には本と筆記類の他に白い台紙で作られたしおりが置かれていた。
 薄い紙で表面を覆われ、その内側に青紫色のリンドウの花びらが数枚の葉と一緒に押し花としてあしらわれた、一見雅なものである。
「これは恩のある友達からもらった花なんだ」
 初めてわずかに怯みを見せたマクシミリアンに、カミーユは微笑を浮かべた。
「それリンドウですよね、『正義』の花だ。マクシムにぴったりですよ」
 そう言うとカミーユは手を振りながら部屋を出て行ってしまい、再び一人になったマクシミリアンは机の上に乗せられたしおりを手に取る。
 ひと月ほど前にたまたまマリアンヌからもらった一本のリンドウの花。後に偶然その花言葉を知り、何か因縁めいたものを感じてそのまま枯らすのは忍びないと思ってしまった。
「だから押し花にしてみたんだが、変だったかな」
 その凛とした姿の花が意味するものは、「正義感」と「誠実」。
 将来弁護士を目指す自分にとってこれほど相応しい花は無いと思い、常に身近に置いておきたいとも思った。
「他に意味なんて、無い」
 もう一度同じことを心の中で呟きながら、少年は青紫の花びらをそっと指でなぞるのだった。


「ふんふん、で、これは何て読むの?」
「ああ、これは……」
 周囲を欄干で囲まれた八角形のその広場。中央にはルイ十五世が駿馬に跨った銅像が誇らしげに人々を見下ろし、はるか西を望めば隣接するチュイルリー公園の広大な緑地が道に沿って左右に続く。
 その向こうにそびえるチュイルリー宮とルーブル宮は雅やかな姿を人々に晒し、フランス王がヴェルサイユに住むようになって久しい今日でも健気に威光を知らしめていた。
 ルイ十五世広場と名付けられたその広場は周囲を堀が余すことなく巡り、八角形の隅にはそれぞれ花模様を台座に施した東屋が建てられている。そのうちの一つに入ってベンチに腰を下ろし、少年と少女は本と紙をにらめっこしながら青空教室の真っ最中であった。
 マリアンヌが持っていたペンを受け取ると、マクシミリアンは目の前の石造りのテーブルの上にある紙に綴りを書きながら説明する。
「『親愛なる』。よく手紙の書き出しに使うだろ」
「ああ、そうなんだ」
 何やら嬉しそうに頷くマリアンヌは、その綴りを今すぐ脳に刻み込もうとするかのように何度も口ずさみながら指で綴りを辿る。
 知らず知らず以前よりも休日に外出する機会が増えていたマクシミリアンは、先日また例の如く道でマリアンヌに出会い、そしてその時に文字を教えて欲しいと頼まれたのだった。
 過去に二度も助けられた恩もあることだし、と休日だけの約束で彼は快諾し、それで今こうして比較的読みやすい詩集の本を選び書付のメモなども一緒に持参して教えているわけだが。
「そう言えば、どうしていきなり読み書きを教えて欲しいだなんて?」
 不意に少女が紙面から顔を上げる。すると意外に二人の顔の距離が近くて、少年はわずかに後ずさりした。
「うん、手紙をね……書きたくて」
「代筆屋があるだろう」
「できればこれは自分の字で書けたらなって思うのよね」
「ふうん。ま、何にしても向学心があるのは良いことだと思うけど」
「そう? ウチの伯父さんなんて『花屋の小娘に教養なんていらねえ』っていつも言ってるわよ」
「伯父さん?」
「そう、伯父さん。私ずっと伯父さんの家で暮らしてるの」
 父はおらず、母は死んだとあっけらかんと喋りきると、マリアンヌは再びその空色の瞳を詩集へ向けた。その時いつか見たあの銀製のロザリオが服の胸元からシャラリと出てきて、紙面上でゆっくりと揺れる。
 今までお互いにそういう込み入った話をしたことは無かったので、マクシミリアンは彼女の意外な環境に思わず黙り込んでしまった。
 聞いてみたいことは沢山あった。しかし少年の口をついて出たのはたった一言だけである。
「じゃあ、一通り手紙の書き方を教えるよ」
 いつもの晴れやかな笑顔になると、マリアンヌはマクシミリアンの亜麻色の瞳を真っ直ぐ見た。
「ええ、ありがとう」


「マクシム、マクシム、マクシムーッ!」
 そろそろ暦も七月になる。パリの夏は乾燥がちで比較的気温も低いため、曇りや雨の日はやはり春と同じでシャツの上に上着をきなければ肌寒い。
 そんな曇り空の下、またしても部屋の扉を廊下に轟き渡るほど乱暴に開けて飛び込んできた低気圧に、ベッドに寝そべって本を読んでいたマクシミリアンは溜め息をついた。
「今度は何だ」
「ふ、振られました、僕」
「たまにはそんな事もあるだろう」
「しかもこっぴどく怒鳴られて、思い切り殴られたんです!」
 そういえばさっきからカミーユが左頬をずっと押さえたままであることに彼は気付き、その腕を引っ張る。すると頬に見事な平手打ちの赤い跡が付いているのが顕わになり、思わずマクシミリアンは小さく噴出してしまった。
「あ、人の不幸を笑いましたね、酷いですよマクシム」
 口を尖らせて拗ねる後輩の肩を軽く叩くと、マクシミリアンは何とか笑いを納めようと顔をひくつかせる。
「悪い。でも今回は相当の女傑だったみたいだな」
「そりゃあもう、元気のいい綺麗な人なんですよ」
 一瞬そう嬉しそうに語ったカミーユだったが、その声音はあっという間に落ち込んで小さくなってしまった。
「ああ、どうして僕の情熱を理解してくれないんだろう」
 今は大層おおげさに落ち込んでいる彼だが、またしばらくすれば別の運命の相手を見出して復活することはマクシミリアンには分かっていた。だからもうこれ以上話を聞くのも慰めるのも無用、とばかりに彼は机の上の本と筆記用具を手早く袋に詰めて部屋を出る。
「用事があるからもう行くよ」
「ああ、慰めてくれないんですか。マクシムの人でなしー」
 自由奔放なのは個人の自由だが、もう少し大人になってもらいたいものだ。軋む廊下を歩きながらカミーユの嘆きを背にし、マクシミリアンはそう苦笑した。
 しかし、実はこの一件にはまだ続きがあったのである。
「全く本当に失礼しちゃう」
 恒例になりつつあるルイ十五世広場での、マクシミリアンの青空教室。
 そこに現れた少女のあまりな憤慨の様子に、少年はつい「何かあったのか」と尋ね、その途端にマリアンヌは細い眉を吊り上げまくし立てるのであった。当然その怒りは彼に向けられたものでは無く、別の人物に向けられたものである。
 少女の説明によると、今日の午前中いつものようにセーヌ川の河岸で花を売り歩いていると突然彼女を呼び止める少年がいた。そして目の前にやって来ると突然こう言ったのである。
「美しい人よ。聖母マリアのように清らかなその美しさが、僕の心を一瞬で虜にしてしまいました」
 突然何ごとかと一歩後ずさりしたマリアンヌだったが、その身なりの良い少年も同じように一歩踏み出して更に言葉を続ける。
「あなたが鈴の音のような可憐な声で道行く人々に呼び掛けるたび、僕は嫉妬の業火で身を焦がしてしまいそうです。罪深きマドモワゼル、どうかこんな愚かな僕の気持ちを察してください」
 そうして反応に困っている少女の手を取ると、うやうやしくその手の甲にキスをしたというのである。
 街のそこかしこで見かける花売りの娘は、ただぼんやりと突っ立って花を売っていただけではない。当時のパリの世情の乱れを顕著に表したように、彼女達は自らの女の武器を使い、時にはチラリとスカートの裾や胸元を垣間見せ、その視線で道行く男性を絡め取っては花を強引に売りつけるのである。
「私をその辺の腰の軽い花売り娘と一緒にしないでもらいたいわ。うちの仕入れた花の品質には自信があるし、私はブーケの腕で売ってるんだから」
 他の娘達が抱える平籠には花がそのまま入っていることが多かったが、マリアンヌは伯父が営む店の花を組み合わせて小さなブーケを自分で作って売り歩いていた。その可愛らしい花束と彼女の明るい笑顔に引き寄せられ、人々は足を止めて花を買うのである。
 その事実に少なからず誇りを持っていた彼女は、この一方的に迫ってくる少年の態度の中に「自分が他のはしたない花売り娘と同じ目で見られている」と感じ取ったようだった。今もこうして思い出しては憤慨しているのだから。
「どこかの学生だって言ってたけど、あんなので学問なんてできるのかしら。何が『運命の人』よ、バカにするなーっ!」
 愚痴を聞きながら教材の詩集をペラペラとめくっていたマクシミリアンは、その途端に手を滑らして本を地面に落した。
「運命……ってまさかその相手の髪の色」
「黒かったわよ、デムーランとか名乗ってたわ。私より年下に見えたし、何だか頭に来て思い切り叩いてやったんだから」
 カミーユ・デムーラン。それが自分と同室の、あのお調子者の名前である。その途端マクシミリアンの脳裏にあの見事な平手打ちの跡がよみがえり、思わず失笑する。
「なあに、もしかして知り合いなの?」
「いや、何でもない」
 意外な偶然もあるものだ。心の内でそう呟くと、少年はまた一つ小さな笑いをこぼすのだった。
 マリアンヌは勉強熱心でそのうえ元々賢い娘だった。始めは殆ど字が読めなかったのに、今では簡単な文ならぎこちないながらも書くことができる。
 目の前の真っ白な紙に生まれてゆく彼女の文字を眺めながら、少年はマリアンヌが読み書きを習いたいと言った動機を思い出していた。自分の手で手紙を書きたい、彼女は確かそう言っていたはずだ。
 代筆を頼まずこんなに苦労してまで自分で書きたい手紙とは、一体どんなものなのだろう。
 そう考えた瞬間、未だ寄宿舎の自分の机の隅に置かれたままの封筒の存在を少年は思い出す。
 何故だか嫌な気分がした。臓腑が重たく感じられて、鼓動が少しだけ速くなる。その原因も分からぬままにマクシミリアンは自然に口を開いていた。
「その手紙の……」
「そう言えばあなたって有名人だったのね、ついこないだ聞いたばかりなんだけど」
「え?」
 自分と同時に喋り出したマリアンヌの声にかき消され、マクシミリアンの呟きはそこで途絶えてしまった。しかし本人ですら何を言い出そうとしていたのか自覚が無かった為に、そのまま少女の話題に意識が向いてしまう。
「最近街の娘たちに人気あるみたいじゃない、嬉しい?」
「関係ない」
 眉間に皺を寄せるマクシミリアンを見て、マリアンヌはその背中をバンバンと勢いよく叩きつけた。
「まあまあ、周りが騒いでもマクシムはマクシムなんだから。ね」
 そう快活に笑って見せた少女は、しかしその途端に小さな背中を折って咳き込んでしまう。
「何で叩いた君の方が咳き込むんだよ」
 細い背中をさすってやりながら少年が気遣わしげな視線をやると、マリアンヌは呼吸を落ち着けるために目を瞑って胸に手を当てた。
「……うん、ちょっと最近よく咳が出て。よし、もう大丈夫」
 自分を見上げる空色の瞳にいつもと同じ光が戻っていることを確認すると、マクシミリアンは小さく息を吐き出した。
「ねえ」
「うん?」
「マクシムは王様に会ったんでしょ、どんな方だった?」
 それがランスでの戴冠式後に学院に立ち寄ったルイ十六世への祝辞の件であることを察し、マクシミリアンは自然と姿勢を改める。
「優しそうな、お方だったよ」
 記憶をゆっくりと辿りながら、少年は東屋の中から公園内を横切るキャロッス(豪華四輪馬車)の残していった土の轍を眺めていた。
 ルイ・ル・グラン学院が喜びと緊張に満ち溢れていたあの日。
 音も無く初夏の小雨が降りしきる中で、門の前で膝まづいて王の乗った馬車を出迎えた講師一同と生徒代表のマクシミリアン。
 全校生徒が周囲を静かに見守る中、中庭のテラスでラテン語の詩を読み上げる少年を見守るフランス王の眼差しはとても穏やかなものであった。その隣に佇む王妃マリー・アントワネットは未だ十九歳の乙女であり、その薔薇色の頬や輝かんばかりの美しい金髪、碧い瞳に宿る光は希望に満ち溢れており、新王夫妻はにこやかにその祝辞を受け取ったのである。
「そう、穏やかな方なのね」
 黙ってマクシミリアンは頷いた。
 王が代わってもう一年。フランスという大国が、これからゆっくりとでも良い方向に変わってくれたら良い。少なくとも先王や、その前の摂政時代のような無軌道で無法がまかり通る国政のあり方は正さねばならない。若輩であることを自覚しながらも、マクシミリアンはよく最近そう考えるようになっていた。
「マクシムは今の学校を卒業したらどうするの?」
「バシュリエ(大学の入学資格者)を目指すよ、学士号をとって弁護士になるつもりだから」
「弁護士になったらどうするの?」
「アラスに帰るつもりだけど?」
 ロベスピエール家はアラスで代々法律家として根付いてきた家系だ。しかも二人の妹と弟一人を守らなければならないという使命がある彼には、他の選択肢など思いもつかなかった。
「アラス、アラス……北の方よね」
 フランスといっても以前はベルギーの一部であったその寒冷の地は、冬の間は殆ど灰色の厚い雲が空を覆って太陽が姿を見せない。湿気が多い平原であまり豊かな土地とは言えなかったが、パリよりも更に遅い春がやって来た時には全ての緑が息を吹き返し、夏は束の間の楽園を築き上げる。
 故郷の記憶は全てが良いものとは言えなかったが、兄弟たちと走り回った庭や裏の森を思い起こすと、いつも真面目なだけの少年の表情が少しだけ和らいで見えるのだった。
 そんな光景を横目で見ながら、マリアンヌは微笑む。
「私もいつか行ってみたいな、アラスへ」
「他所の人には寒いだけだよ」
「マクシムって、勉強はできるのにどうして察しが悪いのかしら」
「何が?」
 首を傾げる少年に、少女はわずかに眉根を寄せるのであった。

  *  *

「カミーユ、か」
 久しく口にしていなかったその呼び名を実際声に出してみると、今まで繰り広げられていた十代の世界との光の落差に、何故だか世界にたった一人取り残されたような奇妙な寂しさが大人になった彼の心に滲み出る。
 マクシミリアンの生きてきた時間の中では、その後無事弁護士になった彼はアラスに戻り、後にカミーユ・デムーランも同じ弁護士となった。
 しかし弁護士として成功するマクシミリアンとは違いカミーユにはあまり向いていなかったようで、彼は数年後にジャーナリストとしての道を歩み始める。
「諸君、直ちに武器を取れ!」
 と当時の革命家のたまり場となっていたパレ・ロワイヤルで叫び、彼がやがてバスチーユ要塞陥落へと繋がる民衆蜂起を促した立役者となったことは今もパリ市民の記憶に新しい。
 その後もマクシミリアンの論文を自分が発行に携わっている雑誌に載せたりと、大人になってからも時に交流を持っていた二人であった。
 しかし、その後輩も今はいない。
「いないとは?」
「私が殺したのです」
 ヒューロの問いかけに、マクシミリアンはそう一言だけ静かに答えた。二人以外誰もいないその静寂の中で、不自然なほどに冷静な彼の声が空気を震わせ辺りに響き渡る。
『同志ロベスピエール、あなたに紹介したい人がいるんです』
 後に同じ国民公会議員となった彼ら。それより少し前に遡った頃、カミーユがマクシミリアンに紹介したその恰幅の良い男の名前はジョルジュ・ジャック・ダントンと言った。
 彼もまた同じ弁護士であり、その雄弁な発言が人々を魅了して民衆の人気を博したのは奇遇にもマクシミリアンと同じである。しかしその性質はお互いに水と油。「清廉と徳」を大事にするマクシミリアンに対し、ダントンは常に清濁を併せ呑む豪快で奔放な男であった。
 共に山岳派として共和制を目指して戦い、始めこそその豪快さに惹かれるものを感じたマクシミリアンであったが、革命の変遷と共にダントンという男が単なる自制心の無い、欲にまみれた人間でしかないとその判断を下す。
 いかなる道徳観念とも縁のなかった男が、どうして自由の擁護者たりえようか。
 ダントン一派を起訴する為の資料は既に揃っていた。政治の片腕であるサン・ジュストにそれを手渡せば、この男と共に行動していたカミーユ・デムーランも同じ運命を辿ることは明らかである。
 しかしそれも正義の為には仕方の無いことなのだと、政治家に徹する彼は疑問にも思わなかった。
「私たちは常に最下層の市民の味方でなくてはならない、ブルジョワに通じた身中の虫が最も厄介な存在となり得るのだ」
 いつの間にか独り言を口にし、拳を握り締めていたマクシミリアンをヒューロは黙って見る。
 何も言わない赤髪の天使の視線を受けながら、彼は孤独だった。
「今度は貴様の番だ、ロベスピエール!」
 逮捕されて六日後に彼らは断頭台に上がった。牢獄から処刑場まで運ばれる馬車がマクシミリアンの下宿の前を通り過ぎた時、夕暮れのパリの街に響き渡ったその呪いの予言は、室内にいた彼が聞いたダントンの最期の言葉であった。
 カミーユは既に生気の抜けかけた様子で何も言わずに運ばれてゆき、理想の白い政治の為にまた一つ邪なものが排除されただけ。そのはずだった。
 自分は間違っていない。そう繰り返し呟く彼の心は、それでも何故か孤独である。また、ダントンが言ったとおりにその三ヵ月後に逆襲に遭い、こうして自分も政治の舞台から引きずり落とされた現実の滑稽さを思うと虚しさは更に募るばかりだった。
「マリ、アンヌ」
 水色の瞳、艶やかなその茶色い髪。朗らかな笑顔は太陽の様で、その光は優しくひび割れた心の隙間に少しづつ染み入ってくる。彼女が自分の知らない人物などではなかったということを、マクシミリアンは今少しづつ実感しつつあった。
 今まで全くその存在を忘れていた過去の少女のことが、どうしてこんなにも今思い出されるのだろう。大人になって日々忙殺されていた記憶から、不思議なほど彼女のことだけがここで過去を見るまで綺麗さっぱり消えていた。
 それは記憶力の良いマクシミリアンにしてみれば、全くおかしなことであった。
 


 夏も終わりの九月初旬。日中はそれほどでなくとも、日が落ちるとパリは途端に冷え込む日が多くなる。
 下水道の整備が不完全で石畳の上を汚水が流れるこの街は、軒を連ねる五、六階建てのアパルトマンの窓から中世さながら排泄物を外に投げ捨てるのが未だ当たり前となっていた。
 公設の給水泉は数が少ない上に手入れが行き届いておらず、万年水不足のパリの生活水はセーヌ川が頼りである。水売りが一日中行き来して川の水を各家庭へ運ぶのだが、時に自然災害によりセーヌ川が濁ってしまうとそれをそのまま飲まなければならなかった。
 よって期待を持って初めてこの街を訪れる者はその悪臭の酷さに慄き、セーヌ川の水を飲んで体調を崩すのが通例である。
 こんな不衛生な状況下では夏の間に流行り病や寄生虫などが発生しやすいのだが、今年のパリはどうやら大きな痛手を受けないままに秋を迎えることができそうであった。
 そしてその手紙がマクシミリアンの元に届いたのは、そんな頃のことである。
 寄宿舎の自室で飾り気の無い白い封筒を開けると、それを読むなり彼は表情を曇らせて空の封筒を荒々しく床に投げつけた。
「今更何のつもりだ」
 差出人の名前はシャルロット・ロベスピエール。長兄がパリに行ったあと、兄弟の年長者として故郷のアラスですぐ下の妹と末の弟を面倒見ている二つ年下の妹である。
 そして大人の誰かに代筆を頼んだに違いないその手紙には、思いがけない内容が綴られていたのだった。
 
 パリの中心を流れるセーヌ川に浮かぶ二つの島のうち、ノートルダム大聖堂のあるシテ島から南に伸びるサン・ミシェル橋を渡ると、サント・ジュヌヴィエーヴの丘が眼前に広がる。
 緩やかな丘陵を描くその裾に広がる建物群はカルティエ・ラタンと呼ばれ、十四世紀に造られたソルボンヌ大学、十六世紀に作られたルイ・ル・グラン学院を筆頭に、医学校、美術学校、士官学校などが集まった学生街としてよく知られていた。
 その日の授業を終えたマクシミリアンがほど近い寄宿舎へ戻ろうと門を出たところ、正面のサン・ジャック通りの上り坂を軽やかな足取りで駆けて来る人影が視界に入り彼は足を止める。
 夕方前の大通りはどこも馬車と人がごった返しになりがちだが、ここは学生街のためかそれほど喧騒は感じられない。今日はいつものように頭部をボンネット(フリルの付いた布製の被り物)で覆わずに高い位置で髪を結い上げ、若草色のコット(ワンピース)の裾を翻しながら手を大きくぶんぶん振る少女が誰であるのか、顔の中が見える距離になる前から少年には分かっていた。
「マクシム! あのねお返事が」
「マリアンヌ、そんなに走ると危な……」
 両者の距離があと五メートルほどという所で、少女は歩道を歩いていた一人にぶつかってよろめく。慌ててマクシミリアンも駆け出してその細い肩を支えて一息つくと、そのぶつかった人物に頭を下げた。
 しかし少女の代わりに謝罪の言葉を紡ぐはずだったその口が、相手を見た途端に凍りつく。
 口とは逆に見開かれた双眸が、そこに佇む人物を食い入るように見据えた。
 白髪交じりで手入れのされていない黒髪、襟元や袖口がほころびたシャツに薄汚れたクラヴァット(ネクタイ)。上着のジュストコールとキュロットがかろうじてその男の社会的身分を証明しているかに見えたが、こけた頬も生気のない瞳も、長ズボンを穿き食うやくわずの生活を余儀なくされているフランス農民のそれを少年に思い起こさせる。
「大きくなったな、マクシミリアン」
「驚いた、あなたまだ生きていらっしゃたのですか」
 マクシミリアンに未だ肩を支えられた格好のマリアンヌは、普段落ち着いて見えた少年が初めて見せる感情の昂ぶりに意外そうな視線を向けていた。すぐそこにある見知った少年の亜麻色の瞳は怒りに震え、燃えるように光をたゆたわせている。
 場の張り詰めた空気に耐えられず「誰」と少女が聞こうとしたその時、マクシミリアンが吐き捨てるように呟いた。
「で、何の御用ですか――――父上」
 フランソワ・ド・ロベスピエール。彼がアラスの家を出てから、それは実に六年越しの親子再会であった。


『親愛なるマクシムお兄様へ
 お元気でお過ごしでしょうか、お兄様が陛下の前で祝辞を読むという名誉を賜ったこと、心よりお喜び申し上げます。
 こちらはアンリエット(次妹)がやっと風邪が治って最近よく外で遊べるようになり、オーギュスタン(次男)は来年お兄様と同じ学校へ行けるようにと猛勉強中です。
 お手紙を差し上げたのは他でもありません、実は先日町でお父様を見かけたとおっしゃる方がいたのです。
 ほうぼう探してはみたのですが、結局お父様を見つけることはできませんでした。
 ですがもしかしたらお兄様の噂を聞いてそちらに行かれたかもしれないと思い、お知らせしておこうと思います。
 お兄様がお父様の事をよくお思いになっていらっしゃらないことは知っていますが、どうかお父様を見かけたらアラスの家に帰ってくるように説得をお願いします。
 では、お兄様のご幸運とご健康をお祈りしつつ。
 シャルロット・ロベスピエール』

 かつてのロベスピエール家の主人フランソワは、祖父やそのまた祖父と同じように法律家としての道を歩み弁護士として成功した人物であった。
 妻との間には子供が次々と四人生まれ、長子のマクシミリアンは利発で将来は有望。何人もの依頼者を常時抱えていたフランソワの収入も多く、二階建ての大きな屋敷に住むロベスピエール一家はブルジョワ階級の中でもそれなりに裕福な生活を送っていた。
 それが崩れたのは、妻のジャクリーヌが五人目の子を流産したのが元で亡くなってからである。元々浮気が絶えず腰の落ち着かないところのある彼だったが妻のことはそれなりに愛していたらしく、その落ち込みようはかなりのものであった。
 しかし彼は四人の子を抱える父親としてそこから立ち直るどころか、仕事もろくにせず複数の恋人をつくっては遊び暮らすようになる。挙句の果てにはその四年後に多大な借金を残してそのまま消息不明になり、十歳のマクシミリアンを筆頭に四人の子供たちだけが取り残された。
 妹のシャルロットは当時八歳であった。それほど明確な記憶が無い分、父に対する思いが思慕に傾くのは仕方の無い事なのか。
 苦虫を噛み潰すような思いの中で、マクシミリアンは妹へその手紙の返事を数日前に書いたばかりである。
 父はパリには現れなかった、と。
「ねえマクシム、やっぱり良くないわ」
「私は何も間違っていない」
「でもあなたのお父様は、この世であの方たった一人なのよ」
「だから!」
 レ・アル(中央市場)に隣接する、パリで最も美しいとされるサン・トゥスタッシュ教会。
 ゴシックの重厚な構造とギリシアのコリント式柱が混在した歴史ある建造物の前にある広場で、腰を下ろしていた花壇のレンガを力任せに叩きつけたマクシミリアンはそのまま立ち上がった。
 昨日突然現れた父のフランソワとろくに会話もせず追い返した少年は、肩を落として去って行くその男を気遣うように同じくそこを離れたマリアンヌの落し物を拾っていた。
 差出人の名前の無い手紙で、封は開いていたが中までは見ていない。そして学校が終わってからレ・アルでマリアンヌの伯父が経営する花屋まで届けに来たのだった。
「だから……嫌なんだ。自分の父親があのような腑抜けだと思うと虫唾が走る」
「マクシム」
 マクシミリアンはその時、自分を心配そうに見上げてくる空色の瞳が初めてわずらわしいものに感じられた。わずらわしい? いや、それとは少し違っていたかもしれない。
 あのように惨めな男が自分の父親だということを知られて、少年は恥ずかしかったのだ。
 どこの者とも知れぬ下品な女を屋敷に連れ込み、自分の義務さえ果たすことのできなかった人間のクズのような男。
 父がつくった借金に屋敷は取られ、兄弟たちは母方の実家に身を寄せた。それまで上品な服に身を包んで教養ある環境で育ってきたマクシミリアンにとって、それは屈辱な出来事でしかなかったのである。
 十一歳で奨学金を得てパリに来てからも年間四百五十リーヴルというお金だけでは学費と雑費だけでその殆どが消えてしまい、裕福な子弟の学友達のように衣服を揃え、身なりを整えることもままならなかった。
 それでも当時の労働者の平均年収が四百リーヴルだったことを考えれば大きなお金である。パリの一流の学校で勉学する事とは、それだけ費用がかかるということなのだ。
「私の父は六年前に行方不明になった。そしてそれは、これからも変わらない」
 そうはき捨てるマクシミリアンは、しかし少女の目を決して見ようとはしない。彼女が自分と異なる意見をしたがっているのはよく分かっていたし、それを聞きたいとも思わなかったからだ。
「マクシムはいつも正しいわ。でも私たち人間は、いつも正義だけでは生きていけない時もあるのよ」
 心がどうしようもなく弱くなった時、誰かにすがりたいと思った時。正論だけでは決して満たされない心の隙間を、人は愚かな行動で埋めなくてはいられない衝動に駆られる時がある。
「誰だってそうよ、あなたのお父様だけが悪いんじゃない。私だって……」
 そう真っ直ぐ自分を見つめてきた少女の水色の瞳に、マクシミリアンの心臓が跳ね上がった。
 マリアンヌは両の手を胸の前で組み、その瞳を潤ませる。
「あなたの中に、私が入り込む隙間は無い?」
「え?」
「私はあなたが好きよ、マクシム」
 思考が、真っ白になった。
 いつも冷静で絶えず何かを考えているはずの少年の頭は、少女のたった一言だけで機能を麻痺させられてしまった。
 マリアンヌが二歩近付き、ボンネットに包んだその頭をそっと少年の胸に寄せる。花の香りがふわりと漂って、マクシミリアンの身体をわずかに硬直させた。
 すぐ側に感じる息遣い。そっと回した手に触れる少女の身体は、いつも元気な彼女からは想像もつかないほどに華奢で頼りない。
「私は……」
 跳ねる自分の心臓の音を聞きながら、それでもようやく少年の頭が回り始める。
 少年の胸に蘇る過去の記憶があった。
 母が亡くなった後、父が何度となく屋敷に連れ込んで来た酒場の女や場末の娼婦たち。空の酒瓶が床を転がり、狂ったように笑いさざめくその甲高い声が屋敷じゅうに響き渡っていた。
 下の兄弟たちは皆既に寝入っていたようだったが、長兄のマクシミリアンだけは二階の自室のベッドで震えながら耳を塞ぎ、歯を食いしばってじっと耐えるしかなかった。
 愚かな父。そして愚かな女たち。決して自分はそうはなるまいと、幼心に決心したあの夜。
「マクシム」
 細い腕がマクシミリアンの背中に回された。柔らかい女性の身体の感触が服越しにも伝わって、少年は一気に現実へと引き戻される。
 そして目の前にいる人物が、途端に「少女」ではなく「女」なのだと実感させられた。
 女、女。何と愚かで、汚らわしい生き物。
「よしてくれ」
 考えるよりも先に両手が彼女を自分から無理矢理引き剥がしていた。 
 元気で明るくて自分の背中をはたくようなマリアンヌだからこそ、今まで疑問も持たずに一緒にいられた。それなのに……
「君もなのか、マリアンヌ」
 この聡明な少女でさえ、いつかは「女」というものに変わっていってしまう。それは考えてみれば当たり前のことなのに、全く失念していた自分自身に、変わらないでいて欲しいといつの間にか思っていた自分の身勝手さに、マクシミリアンは大きな衝撃を受けていた。
「ごめ……なさ」
 今にも消え入りそうな声にマクシミリアンは視線を上げる。顔を俯かせた少女の顎先から幾つも流れ落ちる透明な雫が、彼の心臓をぎりりと締め上げた。
「う……ゲホッ、ゴホゴホゴホッ」
「大丈夫か?」
 突然激しく咳き込みながら両の膝を地に着かせた彼女に手を差し伸べようとしたマクシミリアンだったが、なおも咳をしつつ頭を横に振るマリアンヌの拒絶にあって動きを止める。
「さようなら」
 掠れたその一声だけをその場に残し、少女の小さな背中は去って行った。
 マクシミリアンは金縛りにあったように一歩も動けぬまま、ただそれを見送ることしかできなかった。

「やっと見つけた、マクシミリアン」
 そしてしばらく立ち尽くした後、突然名を呼ばれて振り返ったそこに立っていたのは少年が予想していた人物である。自然と眉間に皺が寄り、答える声は低くなった。
「父上」
「ほんの少しでいいんだ、金を用立ててくれないか」
 息子はその一言だけで父がここに現れた真意を悟って唇を軽く噛む。
 アラスにはもうロベスピエール家というものは無い。彼の兄弟は母方の実家に住んでいるのだし、放蕩の限りを尽くした父が妻の実家に金を無心できるはずも無かった。
 そしてどこかで聞いたのであろう、息子のマクシミリアンは四百五十リーヴルも奨学金をもらってパリで勉学中なのだと。そんな金は殆ど残らず身の回りの物ですら満足に整えられないというのに、父は愚かにもそのおこぼれを目当てにこんな遠くの首都までやって来たのである。
「父上、私にはそんなお金はありません。あなたにも誇りが残っているのなら、働いて稼げばいいでしょう」
「頼む、十リーヴルだけでもいいんだ」
「いい加減にしてください!」
 息子の手を取ろうとした父の手を、マクシミリアンは反射的に跳ね除けた。側に立っているだけでむせる様に臭ってくる酒のにおい、薄汚れたその手、乱れた頭髪。全てが嫌悪の対象であり、こうして話しているだけでマクシミリアンは気が変になってしまいそうだった。
「何だ。あの子は今日も親切にしてくれたのに、血の繋がったお前は随分と冷たいんだな」
「今何と言いました?」
 詰問するように視線を強めた息子に、フランソワは淀んだ瞳をさ迷わせる。
「ちょっとだけ借りるつもりだったんだが、返さなくてもいいって言ってくれてな。お前はあの娘と結婚するのか?」
「あなたは!」
 へらへらと薄ら笑いを浮かべる父親の胸元を思わず掴むと、マクシミリアンはその手に力を込めた。
「あなたは他人の施しを平気で受けるのか、それでも誇りある法律家ですか。嘆かわしい!」
「や、止めろ、暴力は止してくれ」 
「ふざけるな!」
 まるで大きな子供のように頭を両腕で庇いながら父は身を縮める。やり切れない思いでマクシミリアンが服を離して突き飛ばすと、フランソワはバランスを崩して道のぬかるみの中に足を踏み入れてしまった。
 パリの道にあるぬかるみとは、すなわち街の人間が窓から投げ捨てた糞尿と泥が混じったものである。これ以上は無いほどに惨めな姿の父親の姿を見て、少年は失望も怒りも通り越して小さな笑いが浮かぶのみであった。
 その時、父の傍に銀色に光る何かが落ちていることに気付く。ぎりぎりぬかるみには入らず石畳の上にあったそれを少年が拾い上げると、どこか見覚えのある銀製のロザリオであった。
「まさか、これ」
「盗んだんじゃないぞ、アラスに帰る旅費が無いと言ったらあの娘の方からくれたんだ」
 マクシミリアンが言い訳する父を睨みつけると、その眼力に彼は口を閉ざして視線を逸らす。
「どうせアラスなどに帰るつもりなど無いくせに。あそこはあなたにとって、決して住み心地の良い土地ではないはずだ」
 かつての友人に借りた借金もまだ完済されておらず、自分の家も無いから妻の実家に身を寄せる他に無い。それに父は、冬の長い北の土地をいつも嫌っていた。だからそもそも、自分が少し説得したくらいで妹たちの所に帰るような人間ではないのだ。 
「これは私が彼女に返しておきます」
 え、と残念そうな声を上げるフランソワだったが、息子の険しい表情を見ると力づくで取り戻そうとまではしなかった。
 マクシミリアンは同年の男子の中では小柄でそれほど力も強い方ではない。フランソワが強引に飛び掛れば形勢逆転できたかもしれなかったが、彼にはその気力自体が既に無かった。
 元々どこか気の弱いところのあった父だ。酒と乱れた生活で、すっかり息子の言うところの「腑抜け」になってしまったようである。
 踵を返し、よたよたと遠ざかってゆく父の背中を少年は黙って見つめていた。
 誰かの背中を見送るのは今日はこれで二度目である。どちらの時にも、たった一言くらいは声をかけて引き止めるべきだったのだろうか。
 父のことはやはり許すことはできなかったが、妹たちのがっかりする顔を思い浮かべると少年は深い溜め息をもらさずにはいられなかった。 

  *  *

「そろそろだ、見えるか」
 ヒューロが指し示した闇の向こうには、ぽっかりと黒い壁に穴が開いている。その先に見えた光景にマクシミリアンは一瞬で心を奪われてしまった。
 過去の自分がルイ・ル・グラン学院の前を通り過ぎ、その坂を下ってゆく。学校が一箇所に集められたその丘がある街の名は、カルティエ・ラタン。その語源は数百年前から各国からの留学生が集い、街の共通言語がラテン語だったことに源を発する。
 学校の他には記念建造物が道に華を添え、キケロ、セネカなどの古代人の像が道行く学生を黙ったまま見守っていた。その横を通り抜け、そして戻り、石畳の上を何度も行き来しては十六歳のマクシミリアンは難しい顔で考え込む。
 洗いたてのハンカチに包んで上着のポケットに入っているものは、銀のロザリオであった。今は顔を合わせづらいその持ち主にどう言葉を掛けて良いのか皆目検討も付かなくて、少年はこうして同じところをウロウロしているのである。
「そうだ、私はあの時行かなかった」
 あの涙を見た翌日だった。父の謝罪もせねばと思ってはいたが、やはりもう少し間を置いてからの方がお互い冷静に話し合えると思ったのだ。
 しかし後にマクシミリアンが改めてマリアンヌの伯父が営む花屋を訪ねると、店主の伯父は苦々しそうにこう答えたのみである。
「あいつは嫁に行っちまったよ、遠いところへな」
 その後の噂で、マリアンヌが実はかなりの資産家の落とし種だったのだと少年は伝え聞いた。自分を好きだと言った少女がそのたった数週間後に資産家の親元に引き取られ、今やどこかの身分ある男の妻に収まっている。そう想像しただけでマクシミリアンの心は激しく乱れた。
 自分から拒絶したくせに、彼女が他の誰かのものになるのが嫌だった。
「本当は、好きだったんだ」
 自分でその気持ちに気付いた時にはもう彼女はいなかった。あっさり自分を見切って上流階級の世界へ消えていった彼女が憎らしくさえ思えた。
「だから私は全てのものを捨てた。勉学だけに打ち込んで全てを忘れようとしたんだ」
 そう呟いた時、マクシミリアンは突然何かに思い当たったようにその顔を上げる。
 やっと気付いたのだ。自分がどうして全くマリアンヌのことを覚えていなかったのか、その理由が分かったからである。
 彼女からもらったリンドウで作ったしおりも、読み書きの勉強のために使った詩集も紙もペンも全てセーヌのほとりで燃やしてしまった。そして時間と共にだんだんと小さくなってゆく炎を見ながら思ったのだ。
 これで全てを忘れよう、何も無かったことにしようと。
 本当に忘れてしまうとは思ってもみなかった。だが結局勉強しか取り得の無かった当時の自分に、他に何ができたと言えるだろう。
「ですがマリアンヌ自身は幸せに暮らしているはずです、私が今更どうする訳にもいかないでしょう」
 初めてこの時の狭間に足を踏み入れた時とは違い、マクシミリアンの心は様々な傷のせいで萎れかけていた。新たな傷ではなく、過去の忘れた傷から噴出す悲しみの血の為である。
 そしてかつての優しい人々を改めて目の当たりにし、誰一人今は自分の側にはいないという孤独を自覚してしまったからだ。
「あの娘は長くはないぞ。その後楽しく余生を送ったとは思えんがな」
 ぼそりと呟いた子供の一言に、マクシミリアンは目を見開いた。
「肺を患っている。大して生きられんはずだ」
 ヒューロは少女のその後に興味を持ったのか、過去のマクシミリアンが映し出されているその隣に指を伸ばす。中央から闇がだんだんと薄れてゆき、やがて一つの穴が出来上がった。
 そこに映し出された少女は、どこかの屋敷の一室に閉じ込められているようである。マリアンヌは叫び疲れ、その声も掠れて力を無くしていた。
 少し動いては激しく咳き込み、長かったはずの髪は肩に付かないくらい短くなって艶も無く乱れ放題である。
「マリアンヌ!」
 彼がどれだけここで叫ぼうともその声が届くことは無い。それでも叫ばずにはいられなかった。
 太陽のように輝いていたあの少女が、暗い部屋の中でたった一人で閉じ込められて病に侵されている。何とかしてやりたい、心からそう思った。
「ああ、お前は革命とやらをやり直したいのだったな。遠回りになるが、ここからその戦略でも練り直せばよいだろう。とりあえずこの日にあの娘にお前が会えば、それで人生の選択肢が変わる、それでいいな」
 革命をやり直す。確かにそのために彼はこの少年の後に付いて来たはずだった。しかし今はそれだけではない、確信を持ってそう言うことができる。
「はい、お願いします。赤髪の天使よ」
 そう頷きながら、マクシミリアンはその両目を閉じる。その目蓋の裏に思い浮かぶ姿はスカートの裾を翻しながら駆けて来る、元気な少女の輝くような笑顔であった。



 人の数、時代の数だけ無数の小さな流れが集まり、それは一つの大きな時の河となる。
 その大河のうねりに翻弄されて後世に名を残すほどの偉業を成し遂げる者、小さな幸せを見つけて生を終える者、悲しみや苦しみを抱えて消える者。そこにある人生は千差万別だ。
 一つの要素が変われば、その後の支流の流れも自然と変わる。
 今、人智を越えた神の力によって、その一石が河に投げ込まれようとしていた。
「愚かなる人間よ、運命が変わったからといって必ずしも以前より良い人生が待っているとは限らない。お前は違う道を選んだ、ただそれだけだ」
 ヒューロは再び一人きりになった闇の中で、ただ見つめている。
 抜ける青空、ひしめく建物群の中を走る石畳の道を、ひたすら駆け抜けてゆく一人の少年の姿を。
 二十年前のパリの街をひたすらレ・アルに向かって、マクシミリアンは走っていた。十六歳の身体とはこんなにも軽いものなのか。内心驚きながらもその足の速度を緩めることはない。
 早く彼女の元へ。そう急く気持ちで胸が張り裂けそうだった。
 途中で辻馬車を捕まえ、その中に飛び乗る。ポン・ヌフ(セーヌ川にかかる橋)を渡り、真っ直ぐ対岸のサン・トル街へ馬車は向かった。レ・アルのある広場は、もうすぐその先だ。
 すえた臭いのする狭い車内で外の様子を今か今かと窺っていたマクシミリアンは、馬車が停まるなり外へ飛び出した。料金は前払い制である。
「マリアンヌ、マリアンヌ!」
 真っ直ぐ花屋へ向かい、ひしめく人ごみの中に懐かしいその少女はすぐに見つかった。不思議な空間から過去を垣間見るのではない、現実に今あの彼女が自分の目の前にいる。
「マクシム」
 驚きと困惑の表情で彼を出迎えた少女は、しかしかつての太陽のように元気な笑顔を見せてはくれなかった。
「何のご用?」
 顔に笑みを浮かべているにもかかわらず、与えるその印象は何故か物悲しい。それが前日に自分が彼女を拒んだせいだという事を、彼はようやく思い出して表情を改めた。
「どうした、マリアンヌ」
 花が所狭しと並べられた屋台の奥から出てきたのは壮年の男である。茶色いくせのある髪を後ろでくくり、太い眉毛にいかにもいかつい顔をした大男であった。
「ダミアン伯父さん」
 ダミアン・ボワイエはマリアンヌの母親の兄であり、子供のいない彼ら夫婦の実子同様に姪を育ててきた厳しくも頼もしい頑固親父である。
 いかつい顔の大男が経営する花屋はしかし意外にも繁盛しており、店主の愛想が足らない分を姪と今は席を外している彼の賢い妻が支えているのだった。
 ダミアンはじろりと痩せた少年を見下ろすと、横にいる姪に尋ねる。
「何だあのひょろっちい奴は? 昨日も来てたな、確か」
 明らかに始めから好意的とは無縁の視線であったが、マクシミリアンはそれを怯むことなく受け止めた。過去のマクシミリアンであったなら何も言えなかっただろう。しかし彼は海千山千の人間を相手取り、政治の中枢を泳いできた人間なのだ。
 マクシミリアンがダミアンに向かって丁寧にお辞儀をすると、市場には相応しくない優雅な気品が漂う。見上げた真摯な瞳に射抜かれ、ダミアンは自分よりはるかに年下の少年に目を見張った。
「マクシミリアン・ド・ロベスピエールと申します、ムッシュー。しばらくお嬢さんをお借りしたく、参上しました」
 あの闇の中で、彼は独りであることがどんな事であるかを自覚した。こんなにも自分が誰かを必要としていることに、革命に奔走している間は気付かなかった。いや、気付かない振りをしていたのかもしれない。
「ふん、勝手にしろ」
「ありがとうございます」
「え、伯父さん?」
 第一印象とその中身が違う事を覚ると、ダミアンはあっさりと少年を容認してしまったようである。
 店の中に戻ってゆく大きな背中をうろたえながら見送る少女の腕を掴むと、マクシミリアンは市場の外へ走り出した。
「ど、どこへ行くの?」
「話がある」
 不安げな声を上げるマリアンヌを振り返ると、マクシミリアンはわずかに笑みを浮かべた。
 着いた場所はレ・アルの隣にあるサン・トゥスタッシュ教会の広場である。マクシミリアンにしてみれば遠い過去の出来事だがマリアンヌにとってはまだ傷の癒えぬ、つい昨日辛い思いをした場所だ。これ以上彼に何を言われるのだろうかと不安に慄きながら、少女は未だ腕を離さない少年を見やった。
「マク……」
「昨日はごめん」
「え?」
「それに君がどこかの身分ある人との結婚が決まっていたとしても、私は自分の気持ちをちゃんと伝えたい。あ、その前にこれを返しておくよ、マリアンヌ」
 ジュストコールのポケットから出した白いハンカチを開き、マクシミリアンはロザリオを差し出す。
「は? あ、ああ、これはあなたのお父様に」
「大事なものなんだろう?」
 言われるままにそれを受け取りながら、何か得心いかない様子で少女は首を傾げる。
 改めて目の前の少女を見ながら姿勢を正すと、マクシミリアンの鼓動が自然と速くなった。
 どんなに大勢の民衆の前で演説をしても、国民公会の議会で発言する時でさえもこんなに緊張したことはかつて無い。
 手の平の汗を感じつつ、記憶と変わらない可憐な少女の空色の瞳をじっと見つめながら口を開いた。
「君が好きだ」
 最初は無言であった。水色の瞳は大きく見開かれたまま少年を凝視して、彼女はピクリとも動かない。
「君を守りたい。昨日の無礼は、あの、どうか許して欲しい。…………マリアンヌ?」
 気がついた時には目に涙をいっぱいに溜め、顔をくしゃくしゃにしたマリアンヌが肩を震わせていた。
「もう、何よ今更。昨日は本当に傷ついたんだから」
「うん、ごめん」
 彼女の白い頬の上を、真珠の様な涙が光を反射しながらぽろぽろとこぼれてゆく。それは昨日流したものと同じはずなのに、こんなにもお互いの気持ちが穏やかなのは何故だろうと彼は心のうちで思った。そして未だ手に持っていたハンカチで、白い頬を優しく拭ってやる。
 その時だった。一瞬マクシミリアンの身体に小さな雷撃が落ちたように痺れが走り、その視界が真っ白に染め抜かれる。
 呆然とそのままの姿勢で数秒立ち尽くし、マリアンヌも異変に気付いて少年の顔を覗きこんだ。
「マクシム、マクシム大丈夫?」
 身体を軽く揺さぶる振動にやっと我に返ると、少年は驚いたように目の前の少女を見つめ、そして周囲を見回す。
「あ、あれ。私はどうして……」
 自分はマリアンヌに会いに行くかどうかを悩んでいた。そして強い想いに引き摺られる様にしてここへやって来たのだ。それは分かる。
 そしてたった今、マリアンヌに「好きだ」と伝えたことも彼はしっかり覚えていた。
「でも」
「もうなあに、あなた変よ。大体、私結婚が決まってる人なんていないし」
「え、結婚って何?」
「自分が言ったんじゃない、マクシムったら」
「そ、そうだったかな」
「そうよ」
 そう頷くマリアンヌの顔にはあの輝くような太陽の微笑みが戻っている。わずかに感じた自分の中の違和感さえも、それを見れば取るに足りない出来事のようにマクシミリアンには思えたのであった。

「私のお母さんは亡くなったんだけど、お父様は生きてらっしゃるの」
「じゃあ、この間言ってた返事っていうのは」
「伯父さんはダメって言ってたんだけど、どうしても一回だけお会いしてみたくてこっそりね」
 そうイタズラっぽく笑う少女を見ながら、マクシミリアンは以前自分が思ったことが杞憂であったと知って内心胸を撫で下ろした。
 そして先ほどからずっと気になっていたことを思い切って聞いてみる。
「マリアンヌ、そのボンネット外してみてくれないか」
「えっ、あ、いやその……」
 突然動揺を見せる少女の頭に手を伸ばし、マクシミリアンは髪を覆っていた白いボンネットを慎重に外す。始めは抵抗しようとしたマリアンヌだったが、急接近した彼の顔や身体の圧迫感に緊張してそれどころではなくなってしまった。
「ああ、やっぱり」
 マクシミリアンの吐息のような声がもれる。眉尻が下がり、なんとも悲しそうな表情になった。
「ごめん、これも父上のせいだね」
「そんなことないの、私が勝手にやったんだから。だからあの、マクシムがそんな顔すると、私も悲しいし……」
 いつか見た彼女の栗色の美しい髪は結い上げて尚その余裕を持っていたはずなのに、今やそれが肩の上辺りまでしかない。
 当時上流階級の人間が使っていたカツラの材料は、人毛や馬の毛が主流であった。決して裕福でもない彼女は、マクシミリアンの父に渡す金を作るのに自分の髪を売ったのである。
「金髪ならもっと高く売れたのに残念」
 自分を気遣い微笑むマリアンヌを見て、これ以上は何を言っても彼女の負担になる事を覚って少年は苦笑しながら短い髪にそっと触れた。
 やがて天に居座っていた日が西の地平にその身の半分を沈め、街は夜の帳に包まれ始める。
 しかしパリの街が眠りにつくのはまだまだこれからだ。真面目な農民や商売人たちが早々と夕食を終えて寝支度を始める頃、暇を持て余した貴族や裕福なブルジョワ階級の者たちがそろそろと繰り出し始めるのである。
 繁華街ならば夜遅くまで営業しているローストビーフ屋やキャバレーの明かりで二十三時頃まで明かり無しでも十分歩けたが、今いる教会の辺りはそうもいかない。話すのに夢中でこんなに遅い時間まで引き止めてしまった事を後悔しながら、少年は大切な想い人を促した。
「送るよ、帰ろう」
「うん」
 少し恥ずかしそうにマリアンヌは頷き、進行方向を向いていたマクシミリアンの手を後ろからそっと握る。少年は一瞬驚いたように目を見開いたが、わずかに頬を染めただけで口には何も出さなかった。
 いつか自分がアラスに帰る時、こうして彼女の小さな手を握って共に行けたらどんなに良いだろう。
 故郷で自分たちを喜んで出迎えてくれる兄弟たちの姿を思い浮かべながら、マクシミリアンは未来のことを想った。
 その時である。薄暗くなった通りを猛スピードで走ってくる四輪馬車がいた。
 金持ちがよく使う四輪馬車の割には、全面が黒塗りで余分な装飾は一切見られない。
 猛スピードで回転する車輪が、石畳に激しくぶつかって悲鳴を上げていた。
 御者の男の服もまた漆黒に染め抜かれた色で、まるで闇に溶け込んでいるかのように少年には思える。
 馬車の扉が乱暴に開かれた。
 そこから身を乗り出したもう一人の男が身に付けている黒い外套が風に煽られ、見える内側の深紅の布地がいかにも不吉である。
 馬車は真っ直ぐマクシミリアンたちに向かって突進すると、その距離をあっという間に縮めた。そしてすれ違いざま、車内に乗っている男が太い腕を伸ばしてマリアンヌの腕を取ったのである。
「きゃあ!」
「マリアンヌ!」
 二人が手を繋いだままだったのが幸いした。
 マクシミリアンは慌ててマリアンヌの身体を引っ張り、その不審人物の強襲から彼女を辛うじて地に留める事に成功する。
 理由は分からない、どこの誰とも分からない。しかしあの馬車がこの少女を攫おうとしていることだけは明らかであった。
 そうしてマクシミリアンは、よろめくマリアンヌの手を引っ張って走り出した。
 あいにくとこの近辺には既に人影が他にない。どこか人気のある所はどこだ、少年の脳が瞬時に考えを巡らす。
 北に走れば昼も夜も貴族がお祭り騒ぎをしているパレ・ロワイヤルが。東に行けば日が暮れても絶えず交通量のある橋、ポン・ヌフがある。
 距離にすればどちらも同じだったが、マクシミリアンが選んだのはパレ・ロワイヤルの方角であった。
 パレ・ロワイヤルとはルイ十六世の従兄弟オルレアン公が自分の居城を開放している庭園のことで、それはルーブル宮のすぐ隣にある。
 当時中へ入るのに必要だったものは身分ではなく、最新流行の服で着飾った見てくれであった。よって庶民の格好をした彼ら達が中に入るのは困難であったが、そこまで行き着けばかなり往来も多いし、庭園の入り口にはスイス人の衛兵が常駐しているはずである。
「早く、こっち」
「マ、マクシム待って」
「待ってたら追いつかれてしまう、早く!」
 通り過ぎていった馬車がもたもたと方向転換している間に、二人はとりあえずレ・アルの広場へ繋がる細い路地に駆け込んだ。
 教会の広場からレ・アルに入るには通常表通りを大回りしなければならない。最短の抜け道を使って人気の無い市場にやって来ると、そこに詳しいマリアンヌが指差した。
「あっち、あっちに正面入り口とは反対の路地へ抜ける道があるわ」
 早朝から夕方まで人でごった返す大市場も、さすがにこの時間になると静まり返っている。所狭しと並ぶ屋台もその骨組みと品物を並べる台だけが野ざらしにされて、いかにも寂しげな雰囲気が漂っていた。
 その間を走り抜けながら、マクシミリアンはふとどうしてこんな状況になってしまったのかを考える。しかし普段激しい運動とは無縁の少年は、息を弾ませながら障害物に足を取られないようにするだけで精一杯であった。
 山のように詰まれた木箱の横を通り抜け、地面に置きっぱなしになっている天幕を飛び越える。ジグザグになっている細い通路を駆け抜けて、屋台が連なる隙間を抜けた。
 店じまいした大きな商店が並ぶ細い裏路地に出て大樽が並ぶ間に身を潜めると、その隙間から正面先の大通りを窺い見る。
 その途端先ほどの怪しい馬車が怒涛のように通り過ぎて行き、レ・アルの中へ入っていったようであった。
 その時改めて馬車を見たマリアンヌが一瞬息を飲む。どうしたと声を掛けようとした少年は、隣の少女の顔の蒼さに一瞬同じように息を飲んだ。
「マリアンヌ?」
 しかしここでぐずぐずしているわけには行かない。日はいつの間にか完全に沈み込み、辺りはすっかり真っ暗になっていた。少女の手を引っ張りながらマクシミリアンは立ち上がる。
「早く」
 引き摺るようにしてマリアンヌを立たせたが、少女は目を見開いたまま自ら動こうとはしなかった。
「マリアンヌ」
「お、お父様……」
「何?」
「あの馬車に付いていた紋章は……お父様の」
 唇を震わせながらそう呟いたマリアンヌの顔はすっかり血の気が失せ、マクシミリアンは少女にかける言葉を失った。


 壁に括り付けられたランタンの火が、煌々と闇に包まれようとしている室内を映し出す。
 豪奢な織りの厚いカーテン、落ち着いたクリーム色の壁紙の縁には所々金箔があしらわれ、夏の間は使われることの無い暖炉や棚の上には見事な彫刻の芸術作品がずらりと並ぶ。
 しかし一見派手に思えるその装飾たちもトータルで見れば控え目なデザインであり、それがより上品さを醸し出すことに成功している。
 部屋の隅にある天蓋の付いた小さなベッド。そのすぐ横に腰掛け、ベッドに寝かされている幼児を優しく見つめていた一人の女性がゆっくりと振り返る。
「あなた、リシュリュがやっと寝ましたわ」
「そうか」
 音を立てないよう静かにドアを開けて入って来た夫に微笑むと、薄い紅色のドレスを身にまとった女性、ヴァレリー・デュナンは立ち上がった。
「あの話はどうなりまして?」
 この屋敷の主人たるエドモン・デュナンは今年で三十七歳になる。その夫人は未だ二十四歳と年若く、二人の間に生まれた長女リシュリュはまだ三歳になったばかりであった。
「ああ、やはりカスタニエ卿の次男と話が進みそうだ」
「まあ、よろしかったこと」
 あでやかに微笑む夫人を見やると、エドモンは自慢の顎髭を触りながら眠る我が子をそっと覗き込む。
 エドモン宛に娘だと名乗るマリアンヌ・ボワイエから彼に手紙が来たのは、今から一週間ほど前のことだった。
 始めは大蔵省の高級官吏である彼に取り入ろうとするいたずらかと思ったのだが、ボワイエという苗字を見て彼はすぐにそれを思いなおした。
 まだ学生の頃、彼はある街娘と恋に落ちたことがある。その娘の名前はアンヌ・ボワイエ。
 何か贈ろうと言えば彼が身につけている物一つだけで良いと言い、エドモンは銀のロザリオをその細首にかけてやった思い出がある。街娘にしては珍しい、慎ましやかな女性であった。
 結局体裁を気にする彼の両親の妨害によりアンヌは目の前から姿を消してしまったのだが、まさかその時に彼女が身ごもっていたとは。
「私に娘がもう一人いただなんて本当に驚きだ。しかもその子はしっかりとした字も書ける教養があるらしい」 
 仲間にそうもらしている所へ彼の上官が通りかかり、仕事のできるデュナン氏の娘ならきっと利発に違いない、とトントン拍子にこの話が持ち上がったのである。
 しかし数日前に使者を出してマリアンヌを迎えにやったところ、伯父のダミアンに追い返されて伝言すらできずに戻ってきた体たらくであった。
 既にマリアンヌへは返事を出した後だったので、結婚のことを書き綴った手紙を更に送ってはみたがどうやらそれもダミアンによって握りつぶされている様子である。
「昔一度だけ見たことがあるが、あの男は頑固の塊のような人間だったからな。これはなかなかに難しい」
 しかし既に上官の子息との婚姻話は走り出している。デュナン家は貴族では無いにしても代々廷臣として繁栄してきた家系であり、その豊富な資産と役人として有能なエドモン自身の将来性を思えば、上官が婚姻話を持ってくることも不思議な事では無かった。
 とにかく、マリアンヌをできるだけ早く引き取って淑女として仕立て上げなくてはならない。そう焦る彼が出した結論は至って単純なものであった。
「まずダミアンに金で交渉してみよう。それでダメなら力ずくで引き取るのみ」
 役人として上官と親戚関係になるということは大きな魅力である。妻との間に生まれたリシュリュはまだ三歳、偶然降って湧いたような幸運を逃すほど彼は愚かな人間ではなかった。
「マリアンヌ嬢と上手くやれるかしら、私」
「君とは八つしか変わらないから、姉妹のようなものだな。マリアンヌが家に来たら行儀作法をよく教えてやってくれ」
「ええ、楽しみにしているわ」
 エドモンは夫人の白く美しい頬を撫でると、そこに小さなキスを落とす。同じように未だ夢の世界にいるリシュリュの頬にも口付けをすると、戸口で来客を告げる使用人と共にその部屋を後にした。
「そうね、楽しみにしているわ。ねえ、リシュリュ?」
 夫がいなくなった部屋で一人そう呟くと、ヴァレリーは側にあった花瓶に手を伸ばす。
 薔薇の大輪をしみ一つ無い細指で握りつぶすと、絨毯の上に深紅の花びらが音も無く舞い散った。
「あの娘を迎えに行ったのは、特別な使者ですもの。ふっ、ふふっ……ふふふふふ」
 部屋の照明に照らされたその横顔は妖しいほどに美しく、そして悪魔を魅了する毒を含んでいる。
 娘のリシュリュは生まれつき身体が病弱で、すぐに熱を出しては両親を心配させる子供であった。もし、この子が死んだら。
 資産家のデュナン家だからこそ自分は十三も年上の夫に嫁いだのだ。後から出てきた下賎な血の私生児などに、デュナンの資産は一リーヴルとて譲りはしない。
「本当、会うのが楽しみだこと」
 夫が差し向けた使者の代わりにヴァレリーが用意した男達は、決してマリアンヌをこのデュナン邸には連れては来ない。そして逃がすくらいならば……
「ふふ、ふふふふふ……」
 呪いの小さな笑い声は部屋の隅の闇に溶けてゆく。
 貞淑で美しいと世間で評判のデュナン夫人は、自分が描いた喜劇の行く末をここで静かに見守っているのであった。


「こっちだ!」
「ま、待ってマクシム!」
 石畳を蹴りつける靴底が響いて足にビリビリと振動が伝わる。
 走って、走って、心臓が破れるほどに息を弾ませて、それでも背後から迫る黒い馬車の影は消えることはなかった。
 しかしどんなに苦しくてもマクシミリアンは繋いだ手を絶対に離さない。離した瞬間に大切な少女がどこかへ消えてしまうのではという不安を、少年の本能は敏感に感じ取っていたからだ。
 本来は北のパレ・ロワイヤルへ向かうはずだったが馬車に追い詰められる度に方向転換を余儀なくされ、いつの間にか二人はポン・ヌフ(橋)のすぐ近くに来てしまっていた。
 やっとのことでサン・トル街で馬車を再び撒き、二人は河に向かってひたすら足を進める。
 夜のポン・ヌフにも物売りはいるし、橋を渡ってセーヌ河の中央にあるシテ島に辿り着ければ裁判所やコンシェルジュリ牢獄がある。
「この橋を渡りきれば衛兵が巡回しているはずだ、もう少し頑張れ」
 息も絶え絶えなマリアンヌを鼓舞する少年自身も、あくまで頭脳が売りで体力はそれ程でも無い。酸欠で視界がかすみ、足が鉛の塊のようにずしりと重かった。しかし何としても自分が守るのだという気持ちだけで身体を動かしている。
「きゃあ!」
 ポン・ヌフはセーヌ河に架かる橋の中で最も使用頻度の高い橋であった。馬車が横に三台は並んで走れる広さがあるし、その横にはちゃんと別で縁石で区切られた歩行者用の道が造られている。
 目の前に広がる石造りの橋に足を踏み入れて半分も踏破できないうちに、マリアンヌが疲労で足をもつれさしてしまった。
 石の上に倒れこむ少女を抱きかかえようとするが、いかんせん疲労で全く力が入らない。その時すぐ横で果物売りが目を真ん円にして自分たちを凝視しているのに気付き、マクシミリアンは視線を動かした。
「何だい、あんたたち」
 果物売りの男は歩道の縁石の上に敷いた布上に商品の果物を乗せ、繁華街から帰ってくる酔っ払い相手に口先三寸でそれを売りつけるのが仕事である。
 夜陰に轟く蹄の音が聞こえた。石畳を叩きつける車輪の軋み、馬を叱咤する御者の掛け声が響く。
 視線を上げれば、橋に直結する大通りの向こう。そこにちょうどあの馬車が顔を出したところである。一直線にこちらに猛進する様子を見て、マクシミリアンは慌てて果物売りの方を振り返る。
「おい、何するんだあんた!」
「すみません、代金は後で払います!」
 縁石の上に乗っていた籠からオレンジを掴むと、少年は一気に迫ってきた馬車の御者目がけて投げつけた。
 しかし御者は片手でそのオレンジを跳ね除けてしまい、効果は全くない。
 だから今度は馬の顔目がけて投げつけることにした。それは見事に目に当たり、驚いた馬は大きくいなないて前足を躍り上げる。
 既に御者の手綱捌きの問題では無かった。馬は混乱して迷走を始める。偶然通り過ぎた余所の馬車にぶつかり、または大きくいななきながら前足を上げて通行人を驚かしてはジグザグに進む。
 その隙に果物売りが敷物を留め置くのに使っていた木材を持ち上げると、マクシミリアンは渾身の力を込めて投げつけた。
 両者の距離は十歩あるかどうかという所。しかし何ということか、勉学少年の非力な腕では木材は御者の高さに届かず、その手前で落下を始めてしまうではないか。
「何だ、わぁーっ!」
 しかし何が幸いとなるか分からないものである。その木材は御者ではなく馬車の車輪に巻き込まれて車軸を破壊し、そのまま石橋の縁にぶつかって永遠に動きを止めてしまった。
 衝撃で馬を繋いでいた馬具が外れ、混乱した馬がそのまま走り去ってしまったのだからもうこれ以上動きようも無いというものである。
「すごい、マクシム」
「い、いや、私もちょっと……驚いた」
 素直に賞賛するマリアンヌに呆然と手を差し伸べながら、マクシミリアンはほつれて顔にかかった髪をぐいとかき上げた。
 その時、立ち上がったマリアンヌが目を見開いて驚愕の声を上げる。
「マクシム、後ろ!」
 振り向くと背後に立っていたのは、馬車の中に乗っていたもう一人の男の方だった。先ほどは分からなかったが顔には素性を隠すための仮面を被り、その腰には帯刀している。
「ガキが、舐めやがって」
 無表情のはずの仮面が、何故か二人の目には悪魔の怒りの形相に映った。
 男はサーベルを抜き放ち構える。わずかな月明かりに鈍く光る銀色の刃面があまりにも不気味で、垣間見える外套の内側の深紅が彼らの行く末を暗示しているかのようであった。
「は、早く逃げて」
 今まで決して離そうとしなかったその手を解放し、マクシミリアンは少女の背中を押す。
 途端に空色の瞳に不安が陰り、マリアンヌが振り返った。
「やだ、マクシムも一緒に……う、ゲフ、ゴフゴフゴフッ」
 突然少女は咳き込んで背中を丸め、その動きを止める。
「危ない!」
 ほんの一瞬だった。
 仮面の男が振り下ろしたサーベルが、マリアンヌ目がけて振り下ろされる。
 嫌な音がした。
 鋭利な刃物が肉に食い込む鈍い音。
 鮮血が迸り、熱い命の欠片が石畳の上に飛び散った。
「いやぁぁぁぁ、マクシム!」
 サーベルを身に受けたのはマリアンヌではなく、それを咄嗟に庇ったマクシミリアンであった。
 背中から斜めに袈裟懸けに切りつけられ、少女を胸の中に抱いた腕に思わず力がこもる。
 背中が焼けるように熱かった。血が噴出し、服の裾からぽたぽたこぼれてゆくのが振り向かなくてもよく分かる。
 さすがにもう、これでは走れない。
 目を閉じ、何よりも愛しい少女の耳元で彼は囁く。
「アデュー(さよなら)、そしてごめん」
 身体を支える足元が揺らぐ。二歩よろめいて橋の縁にもたれかかり、そして力が抜けた。
「私も一緒よ、マクシム」
 背中一面を深紅に染めたマクシミリアンは、橋の縁を越えて宙を舞う。
 彼にしっかりとしがみついたままマリアンヌもまた、偉大なるセーヌ河に身を投じたのであった。

 
「人間とはこれほどに愚かな生きものなのか」
 暗闇のなか惨劇のあった橋から下流に下った河上に姿を現した赤毛の子供は、苦々しげに吐き捨てる。
 せっかく人生をやり直す機会を与えてやったものを、こんなに早く無駄死にするとは。
 ゆっくりと上流から流れてくるモノを見やりながら、神の子は小さな手を差し伸べた。
「あいにくと今死なれては困るのだ、人間よ」
 マクシミリアンの最大の人生の岐路は、確かにあそこで間違いは無かった。
 しかしその後ヒューロの元に戻ってくるはずの欠片はどこにも見当たらず、その気配すら感じられない。こんな事は初めてであり、あってはならないことであった。
「何が起こっているのかもう少し様子を見させてもらう。ふん、よくよく悪運の強い男だ」

 パリの闇は深まる。
 人々の欲望も、怒りも悲しみも全てその内に隠して、また新たな朝日を迎える為に。
 こうしてマクシミリアン・ド・ロベスピエールの人生は、また新たな局面を迎えることとなる。

 

「ムッシュー・ロベスピエール、あまり時間がありませんからなるべく早く戻ってきて下さいね」
「分かった、顔を見て祝いの言葉を言ってくるだけだから」
 十二月の寒風吹き荒ぶパリの空の下、簡素な四輪馬車からゆるりと一人の青年が降り立つ。
 すらりとした立ち姿に、亜麻色の生気溢れる瞳。髪には丁寧に髪粉をつけて一糸の乱れも無く束ねられ、セピアの落ち着いた色合いのジュストコールの下に覗くのはクラヴァット(ネクタイ)と刺繍入りのベストである。
 あれから既に十六年が過ぎていた。
 その後弁護士としてマクシミリアンは故郷で名声を勝ち得、精力的に活動していたが、あくまでも頑固に正義を貫こうとする彼の姿勢は次第にアラスの上・中流階級から煙たがれるようになってしまった。
 しかし彼を支持する貧民層の信頼は厚く、歴史の流れが作り上げた三部会(聖職者、貴族、平民からなる議会)の代表者としてフランス革命のまさに舞台上で、政治家として活躍するようにまで成長していたのである。
 三部会の第三身分代議士、それが今年三十二歳になる彼の肩書きなのだ。
「マクシム! まさか本当に来てくれるだなんて」
 招待された屋敷の大広間に入った途端に出迎えてくれたのは、今日の主役である。
「やあ、久しぶりだな。カミーユ」
 カミーユ・デムーラン、三十歳。弁護士を経て現在はパリで旧体制を批判するパンフレットを刊行するなど、ジャーナリストとして活躍している革命家の一人である。
 フランス革命は今から一年前、一七八九年のバスティーユ牢獄陥落がその始まりだと言われている。そしてそのバスティーユ陥落のきっかけを作ったのが、パレ・ロワイヤルで民衆を扇動したジャーナリストのカミーユであった。
「お互い忙しくてあまり会えませんけど、マクシムの論文をうちの雑誌に載せたいし、これを機会にまたよろしくお願いしますね」
「それは願ったりだな。とにかく結婚おめでとう、花嫁は随分と美しいご婦人だと噂に聞いているよ」
「ふふふ、そうなんですよ」
 幸せそうに昔と変わらぬ人懐こい笑顔を浮かべるカミーユを見て、マクシミリアンの口元に自然と笑みがもれた。
 広間には親族や友人の他に、革命家の端くれであるカミーユに相応しく数人の同志が祝いに駆けつけている。後にパリ市長になるぺティヨンやジロンド派の指導者となるブリッソーなど、層々たるメンバーに視線を走らせた後でマクシミリアンはカミーユを見た。
「申し訳ないんだが、これからまた議会に行かなければならないんだ」
 三部会においてぽっと出の若い弁護士としか見なされなかったマクシミリアンは、その発言をことごとく握りつぶされるという苦い経験を去年の一年間ですでに味わわされていた。
 それ以来彼は殆ど毎日議会に通い詰めては戦い続けている。「演説」という武器一つだけを頼りにして。
 その時マクシミリアンが入って来た扉とは対角線上にある、もう一つの出入り口の方でざわめきが起こった。
「何かあったのだろうか」
「どうせ酒を飲みすぎた親父が足元を狂わせてつまづいたんでしょう」
 そう肩をすくめて見せたカミーユであったが、慌てて駆けつけてくる侍従に耳打ちされると顔色を変える。
「マリーが?」
 首を傾げるマクシミリアンに、カミーユは一礼した。
「妻の気分が悪くなったようなので、少し失礼します。折角来ていただいたのに満足にお相手もできなくて申し訳ありません、マクシム」
「ああ、いや。私はもう帰るから気にしないでくれ」
 すまなそうに一度振り返ったカミーユだったが、しかしすぐに部屋の奥の人だかりへ一直線に走っていった。
 何年もの恋愛期間を経て成就させた相手であると聞いている。あの恋多きカミーユがやっと本物の「運命の相手」を得たのだと思うと、他人事ながら感慨深いものを感じるマクシミリアンであった。
「さあ、私にはやらなければならない事がある」
 人だかりの向こうにわずかに見えた花嫁のドレスにその場で一礼すると、マクシミリアンは身体の向きを変えた。

 あれからたった十数年のうちに、西ヨーロッパ随一の人口を誇る大国フランスには沢山のことが起こっていた。
 今まで黙って虐げられてきた民衆は、税金を払わずに遊び暮らす貴族に、国庫を浪費するばかりで何の改善策も立てられない王に、反旗を翻して利権を取り戻し多くの特権階級を国外へ追い払った。
 ヴェルサイユに篭っていた王族をパリに移すと、それと共に三部会もヴェルサイユからパリに移動して一年と少し。 
 しかし本当の改革はこれからだ、マクシミリアンは冷静に今の情勢をそう分析している。
 誰もが自由で、そして平等な世界。それがかつて愛読していたルソーの社会契約論の理想であり、彼にとっての目標であった。
 疲れきった身体でサントンジュ街にある自分のアパルトマンへ戻ってくると、マクシミリアンはクラヴァットを外して棚の上に置く。書きかけの論文を仕上げようと机に座ると、ランタンの明かりに照らされて光を反射しているあるものが視界に入った。
「相変わらず成長が無いな、私も」
 しばらく眺めた後、ペンたての横に引っ掛けてある銀のロザリオを指で突いてマクシミリアンは一人苦笑する。
 十六年前、確かにあの時暴漢に襲われた彼は、背中に大怪我を負ってそのままセーヌ河に落ちた。マリアンヌも共に、である。
 しかし次に目を覚ました時には、彼は何故か寄宿舎の自分のベッドの上に寝かされていた。
 服は記憶のままに一刀両断されていて血まみれであったが、その背中には傷一つ残っていない。不可思議なことではあったが思うことはただ一つである。
「マリアンヌは」
 しかしレ・アルのいつもの場所には、ダミアンが経営する花屋はどこにも見当たらなかった。
 その後人づてに聞いてボワイエ一家が住んでいるというアパルトマンに辿り着くことができたが、そこにはもう誰も住んでおらず、ただテーブルの上に銀のロザリオが残されていたのみである。
 彼女は死んでいない、だからその証にこのロザリオを私に残していったのだ。
 あの夜に自分たちを襲ったのが何者なのかは分からなかったが、その言葉無きメッセージに少年は自分の心を励まし、納得するしか無かった。
 そうして少年の手には、ロザリオと彼女からもらったリンドウの花で作ったしおりだけが残ったのである。
 やがて故郷へ戻り弁護士として働く傍ら、忙しい毎日の合間にできたわずかな休日にマクシミリアンは「散歩」と称して各地を訪ね歩くようになった。
 生きているならば必ずどこかで会えるはず。わずかな希望でも、それを捨てることはできなかった。
 しかしそれも三部会の代議員になってからは困難となり、もう二年近くアラスにも帰っていない。弟のオーギュストはパリで弁護士となり、長女のシャルロットはアラスの家を守っている。次女のアンリエットは病弱がたたり、既に病死していた。
 父親のフランソワはあれ以来姿を見せなくなり、あの三年後にミュンヘンで病死したと噂で聞いている。
 あんなにも憎んでいたはずなのに「これであの男と永遠に縁が切れたのだ」と思うだけで、何の感慨も湧かない自分がいた。
「やはり私は冷たい人間なのだろうか」
 かつてマクシミリアンに、哀れな父親を許してやれと言った水色の瞳の少女の幻影は、ロザリオの向こうで微笑を浮かべているのみであった。


「これだけ言っているのに何故分からない、ダントン!」
「俺はお前のように酔狂な人間じゃないからな、『徳』なんぞで到底生きてゆけはしないんだよ」
「私はそういう話をしているんじゃない」
「お前の説教は聞き飽きた!」
「同志ダントン、少し落ち着いてください」
 言い争う二人の間にカミーユが入り込み、両者は仕方なく口を閉じるが非友好的な視線がぶつかり合う。
 世の中ではその後王権が廃止され、三部会の代わりに革命家達による国民公会が行政を取り仕切るようになっていた。しかしその中心的存在であるマクシミリアンとダントンは、性質の違いにより両者の溝を深める一方である。
 だがマクシミリアンがこうもダントンに注意を促すのには、彼の妻に関する疑惑によるものであった。
 ダントンは前妻に先立たれ後妻を迎えたばかりであったが、それがこともあろうに王党派の娘だったのである。実を言えばダントンは愛する前妻の遺言に従ったまでなのだが、この革命の嵐吹き荒れるど真ん中でそんなことをやってのけるのは、誰の目にも無謀としか言えなかった。
 革命によりフランスから逃げ出した貴族はごまんといる。彼らは他国の王をそそのかし、または取引をして祖国に攻め入ろうと常に画策しているのだ。
 未だ国内が安定しきっていない状態で、攻め入ってくるオーストリアやプロシアにもフランスは同時に対処せねばならない。そしてダントンの新妻は、夜毎夫がベットの上でもらす話を国外にいる亡命貴族に流していると見られていた。
 それはマクシミリアンの政治の片腕、サン・ジュストがもたらした有力な情報である。
 近頃のダントンは妙に退廃的で、利権を平気で漁るようになり自滅をしたがっているようにも見えた。たった一人の為に祖国を危険に晒すわけにはいかない、それが政治というものなのだ。
 そうしてマクシミリアンは、ダントン一派を政治の舞台から一掃することを決断する。彼に心酔しているカミーユ・デムーランもまた、その余波を避けることは不可能であった。

 一七九四年、カミーユの結婚式からわずか四年で、時代が学友の仲を永遠に引き裂いた。
「次は貴様の番だ、ロベスピエール!」
 下宿先の部屋で聞いたダントンの最期の言葉が、今でもマクシミリアンの耳に残っている。
 そうして彼は今、革命広場に一人佇んでいた。そこはかつて「ルイ十五世広場」と呼ばれた場所である。
 まだ少年だったマクシミリアンは、ここでマリアンヌに読み書きを教えた。未だ鮮明に蘇るその記憶。まるでつい昨日のことの様に思い出すことができる、宝のような時間である。
 あの頃は輝かんばかりに美しかったこの広場も、今では大きく様変わりをしていた。
 広場のシンボルであるルイ十五世像は傷だらけにされてその権威を地に貶め、かつてはよく見られた、広場を通り抜けチュイルリー公園やシャンゼリゼ通りに向かうキャロッス(豪華四輪馬車)は皆無である。
 彼らが勉強する時に使った東屋は取り壊されて既に無く、その代わりに広場に存在を知らしめていたものがあった。断頭台である。
 大人の背丈ほどもある大きな木製台座の側面を階段で上ると、中が空洞で天高くそびえる木の枠組みが控える。処刑の痛みを少しでも和らげるために開発されたギロチンは、今ではすっかり人々の恐怖の対象として定着しつつあった。
 あれほどに美しかった広大な庭園の景色は、今や人殺しの場所として人々の心に刻み込まれているのである。
 政治の場から離れふと我に返る時、マクシミリアンの心には時々やりきれない虚しさが押し寄せるようになっていた。何かが間違っているのではないか、そう心の奥底で叫んでいる自分がいた。
 自由と平等の世界。それを目指したはずなのに、欺瞞と恐怖が吹き荒れる今の血まみれのフランスはどんどんそこから離れていってしまっているのではないか、と。
 革命広場に隣接するチュイルリー公園を遠方に眺めると、視界の隅に入る断頭台が無言でマクシミリアンを責め立てているようであった。
 溜め息をつき、瞳を閉じて黙祷を捧げる。ここで命を潰えた革命の同志は数知れず、かつて自分が祝辞を捧げた国王さえもその露と消えていた。
 そうして目蓋を開けた時、目の前に一人の婦人が佇んでいることに彼は気付く。黒いドレスを身に纏い、やはり黒い帽子を目深に被っているところを見るとどこかの未亡人のようであった。
「どうかなさいましたか、シトワイエンヌ」
 シトワイエンヌとはマダム、マドモワゼルの変わりに使われるようになった敬称で、「女性の市民」という意味を持つ。ムッシューもシトワイヤン(市民)に取って変わられ、普段使う言葉にも市民革命の片鱗が現れていた。
「ええ、あなたを待っていたの。…………マクシム」
 婦人が自分の名前、それも今は殆ど誰も使わなくなったその呼び名を口にしたのでマクシミリアンは思わず目を見開く。
「失礼ですが、あなたは」
 婦人はゆっくりとした動作で帽子を取り、その素顔が顕わになる。その途端彼は絶句し、震える手をそっと胸に当てた。
 憂いを帯びた空色の瞳、美しく結い上げられた茶色の髪の毛。可憐な唇はそのままに、その立ち姿は大人びてはいるが懐かしい記憶の面影と瓜二つである。
「マリ、アンヌ?」
「ええ」
「やはり君は生きていたのか」
「そして今は、マリアンヌ・デムーランというの」
 悲しげに微笑むマリアンヌに、マクシミリアンは雷撃にでも撃ち抜かれたかのように身体を硬直させた。
「デムーラン」
 優しい仕草で小さく頷く彼女をただ凝視する。デムーラン、それはつい先日亡くなった後輩の苗字である。
 カミーユの妻は病弱がちだという話で殆ど表には出てこなかった。その後のマクシミリアンとカミーユの付き合いも、結局数回原稿を送ってやり取りしたのみである。
 自分と徹底的に反りの合わないダントンに傾倒してゆく後輩とは更に疎遠となり、とうとう彼らはその接点を失った。
「マクシムは死んだって聞かされていたの」
 二十年前のあの夜、共にセーヌに沈んだあの日。
 マリアンヌの身体は比較的早いうちに川岸に打ち上げられていて、帰りの遅い姪を探しに来たダミアンがそれを発見した。
 その時彼の視界にゆっくりと下流に流されてゆく少年の姿も入り、一度はダミアンは飛び込もうとする。しかし少年を取り巻く水は絶えず深紅に染まり、身体はピクリとも動かないことにすぐ気付いた。
 あの出血量ではもう到底助からないだろう、いやもう事切れていてもおかしくはない。そう判断して彼は姪を担いでそのままそこを去ったのである。
 デュナン家の手から逃れるため、その夜のうちにダミアン一家はパリを後にした。しかし荷物を纏めている最中にマリアンヌが目を覚まし、マクシミリアンを探しに行こうと暴れる姪を縛り上げて言ったのだ。
「あの少年はもう死んでいた、諦めろマリアンヌ」
 伯父の言葉を信じたくはなかった。ほんの数時間前まで一緒にいて、この手を繋いでいたのに。
「そんなの嘘よ、生きてるわ!」
 彼らの行き先を記すメッセージを残すことは許されず、少女はせめてもの思いで銀のロザリオを残していった。
「身体が弱いのは本当なの。私あれから肺の病を患ってしまって」
 田舎に移り住んで数年後、病が重くなった少女を完治させるためにはもっと設備の整った医療施設と資金がいるという現実に伯父夫婦は直面する。
 マリアンヌの実父エドモンの性格を知るダミアンは元々この仕打ちに疑問を感じなかったわけでもなく、意を決して彼は単身パリのデュナン家に向かった。
 影で義理の娘を排除しようとした正妻は流行病で既に他界しており、当主のエドモンはその襲撃の事実をダミアンから告げられて驚愕した。
 出世や保身のために娘の婚儀を進めようとしていた彼だが、それは結局マリアンヌ自身の幸せにも繋がると彼なりに考えた結果なのである。仕事では真面目で優秀な大蔵省の役人であるエドモンは、元々それほど悪い人間ではなかった。
 彼は快く娘のために南フランスの別荘を貸し与え、優秀な医師も遣わした。そこで彼女は一進一退を繰り返す長い闘病生活に入るのである。
「私ね、いつか病気が治ったらマクシムを探しに行こうと思ってたの」
 しかしその想いも長の闘病生活で色褪せてゆき、段々とマクシミリアンが本当に死んだのではないかと想うようになってしまった。  
 動けなかった時間は彼女から体力を奪い、かつて石畳の上を跳ねるように歩いていたそのバネを奪い、気力をも奪い去ってゆく。
 触れたら折れてしまいそうなほどに弱く、しかし時折見せる微笑は柔らかな日差しのようで暖かい。大人になったマリアンヌは同時に教養も身につけ始め、やがて小康状態を保てるようになる頃には周囲から深窓の令嬢と噂されるようになっていた。
 彼女が正式にエドモンに引き取られることは無かったが、腹違いの妹リシュリュも時々別荘に遊びに来ては交流を深めてゆき、戯れに一緒に付いてきた妹の友人というのが何とカミーユ・デムーランだったのである。
 カミーユはマリアンヌを見つけて驚嘆した。こんな所で彼女に再会するのは真に神のお導きだと思わざるおえなかった。
 実を言えば十四になったリシュリュとカミーユは恋仲未満の微妙な関係であったのだが、ここで彼の意識は一気に姉に傾くこととなる。
 それ以来彼は仕事の合間を縫ってはマリアンヌを訪問した。パリではジャーナリストとして現体制を批判していた彼も、ここではそんな生臭い話は一切せず詩を朗読し楽しい話だけをした。
 身体が弱ったままの彼女は遠方を尋ね歩く夢も潰え、記憶の中にいるマクシミリアンを思い出すだけの生活を虚しく送っていた。そんなマリアンヌを根気よく励まし、見守り続けたのがカミーユなのである。
「とても優しい人だったの。時々おっちょこちょいな所もあったけれど、その失敗だって笑って済ましてしまうような人だった」
 かつてカミーユが寄宿舎で見せた無邪気な笑顔を思い出しながら、マクシミリアンは苦笑する。
「よく知っているよ、私のルームメイトだったから」
「ええ、そうなんですってね」
 マリアンヌがその事実を知ったのは、まさにその五年後の結婚式の日であった。
 死んだと思っていた。今まで何度となく夢にまで見た人物を遠目に見つけた彼女の心情は、一体いかばかりであっただろう。
「ほんの少しのきっかけで、私たちの運命は全然変わっていたかもしれないわ」
 カミーユが政治の話のついでに、マクシミリアンを話題に出していたら。彼女が静養する場所が南ではなく北フランスであれば、時折新聞にも掲載された彼の活躍が耳に入っていたかもしれない。
「どこですれ違ってしまったのかしら」
 白い頬を伝うその透明な涙には、一体どれだけの想いが込められていたことだろう。儚く頼りない肩を震わせ、記憶よりずっとたおやかに成長した愛しい女性を目の前にマクシミリアンの腕が自然に伸びる。
「マリ……」
 伸ばした指が彼女の肩に触れる寸前。ドレスの黒い色が神経を絡め取り、彼はピタリとその動きを止める。
 私は彼女を抱きしめる資格も、触れる資格も無い人間なのだ。
 承知の上でマクシミリアンはカミーユを裁判にかけ、断頭台に送った。そして彼女から優しい夫を奪ったのはこの自分なのだと、この時彼ははっきり自覚させられたのである。
 どうして自分が生きていると信じてくれなかった、とは言えなかった。公務に追われる彼もまた、マリアンヌの影を時折思い出すだけの日々を送っていたのだから。
 愛する女性が他の男によって既に奪われていたという事実に、普段冷静な彼だって腹立たしいものを感じないでもない。
 しかし「目の前にいればせめて殴ってやったものを」と思ったところで、相手はもうどこにもいない。
 いなくなった今でさえ、喪服を着せることで彼女を独占しているカミーユが恨めしかった。
「君は、本当にカミーユにとって『運命の人』だったんだな」
 あの狭い二人部屋で、黒い瞳を輝かせながら少年は語っていた。頬を上気させ、それはとても嬉しそうに。
 繰り返される恋愛話を呆れ顔で聞いてはいても、そんな思いをすることすらマクシミリアンには楽しい出来事の一つだった。学院一の秀才の彼に物怖じせずに話しかけてきたのは、あの同室の後輩ただ一人であったのだから。
 マリアンヌは断頭台を見上げながら呟く。
「どうしてこうなってしまったのかしら。どうして人は大切な命を、こんなにも簡単に奪えるようになってしまったの?」
 学生の頃の活気溢れるパリの街。けっしてみなが裕福で幸せとは言えなかったが、いつも街には人が溢れ、市場には物売りの声が響き渡っていた。しかし今はほんの少しの疑いだけで裁判にかけられ、断頭台に上がりかねない物騒なご時勢である。
「分からない」
 マリアンヌは黙っていた。それが余計辛く思えて、マクシミリアンは頭を垂れる。
「恨むなら、恨んでくれていい。私を恨む人間はもう数え切れないほどいるのだから、今更一人や二人増えても変わりはしない」
 嘘だった。何よりも自分の心の大事な部分を支えてくれていた思い出の少女に、背を向けられる事ほど堪えることはない。
「私はあなたを恨んだりしないわ」
 顔を上げたマクシミリアンの視界に入ってきたのは、とても優しい陽だまりの様な笑顔であった。全てを許す、聖母とはこのようなものなのかと彼は心の内で思う。
「もう、人が死ぬのはたくさん。誰にも死んで欲しくないの」
 微笑の余韻を残し、マリアンヌは広場を立ち去って行く。
 公道に待たせてある馬車に彼女が乗り込むその時まで、マクシミリアンは一瞬たりともその視線を逸らすことは無かった。

 その後しばらく、マクシミリアンはひと月ほど議会から姿を消すことになる。
 彼は下宿先で物思いに耽ったりその家の子供たちと遊んでやったりと過ごしたが、その間仕事らしい仕事は何一つしなかった。
 現政権の象徴的存在でありながら表舞台に出てこなくなった彼を非難する声、戻ってくるように働きかける議員。
 そしてその陰では、不正を激しく嫌う彼の潔癖な政治姿勢に身の危険を感じる後ろ暗い輩どもが密かに蠢動を始める。
 マクシミリアンはそれに気付いていなかったのか、それともわざと気付かないふりをしていたのか。
 いずれにせよこの一ヶ月の空白が、今後の革命政府を大きく揺るがす引き金となるのである。
 


 運命は巡る。
 時代の意志、人々の願い。強い気持ちが折り重なって絡み合い、それはやがて歴史を動かす一つの大きなうねりとなる。
「くっ、全く不愉快だ。この感覚は」
 歴史が動く時、人々は必ず諍いを起こしては同族の屍を山と積み上げる愚行を繰り返してきた。
 マクシミリアンのその後を監視して来た少年は、「革命」という大義名分の下で惨殺される数多くの凄惨な光景をも同時に見ている。
 そのたびに自分の中に燻ぶる異物を感じては、ヒューロはその小さな眉間に皺を寄せるのであった。
 暴徒と化した民衆に腹を引き裂かれる貴婦人、寄ってたかって覆い被さられて原型が分からなくなるまで石で殴り続けられた紳士。怯えて四散するフランス衛兵隊の代わりに闘ったスイス人傭兵は取り押さえられ、鎖に繋がれて処刑場へ引っ立てられてゆく。
 混乱はパリの中だけではない。フランスの地方都市にもその殺戮の波は時間差で押し寄せ、「悪い市民」と決め付けられた多くの民衆が断頭台に上がり、または銃殺された。
 その人数だけで言えばパリの死者が二千六百程度というのに比べ、ヴァンデでは八千六百、ナントでは三千五百。
 中央の革命家たちの目の届かぬところで実に多くの殺戮が横行し、そして国外でもフランスに踏み入ろうとする諸外国との戦争が幾度となく続けられていたのだった。
 断末魔の叫びが世を覆いつくし、人の命が塵くずのように簡単に捨てられて行く。そんな光景を見るたびにヒューロは我知らず血に酔いしれ、更なる殺戮を求める渇望感に魅了された。
 取るに足りない生き物である人間がどうなろうと知ったことか。
 人間に対する関心は殆ど無かったはずなのに、時々押し寄せてくる異物めいた感情が不快で不快でたまらなかった。
「これは私の感情ではない、私の望みではない!」
 小さな心に馴染まぬどす黒い感情に苛立ち、少年は回りの闇を手から放った閃光で打ちつける。
 しかしそれは漆黒の壁に緩やかに吸い込まれ、音も無く消えていった。
 少年自身のものではない感情。――――では誰のものだ。
 ヒューロは何らかの理由によってその身体を四散させられた。その欠片に別のモノが混じっていたとでもいうのか。
「それとも、元々私は二つの心を持っていたとでも?」
 可能性を口にして、ヒューロはその口元を奇妙に歪めた。
「面白い。全ての欠片が集まったその時、私は一体何者になるのだろうな」


 会議場に罵声が轟く。
「暴君を倒せ!」
「暴君を倒せ!」
 それは大公安委員会を率い独裁政治を敷いて規律を守らせることで、国内をひいては国外にいる敵から祖国を守らざるをえなかったマクシミリアンを非難する声である。
 一七九四年、テルミドール八日(七月二十六日)。
 巡り巡って、運命の日が再びマクシミリアンに訪れた。このままでは自分が静粛に遭いかねないと察した政治屋達が、こぞって彼に反旗を翻したのである。
 興奮する周囲の議員達に比べてマクシミリアンは驚くほど落ち着いた様子で発言を求め、三度までそれを却下された後に彼は立ち上がった。
 瞬間、机が壊れんばかりに叩きつけられた靴音に皆が一斉に静まる。
 足で机を踏むような無粋なことはしない。腕っぷしの弱い彼は脱いだ靴の厚いヒールを思い切り机にぶつけたのだ。 
 周りの雑音が消えたことを確認すると、マクシミリアンは満足げに微笑んで皆によく見えるよう優雅な一礼をする。
「失礼、諸君が興奮されておられるようなので少し手荒なことをしてしまいました」
「同志ロベスピエール」
 横に座ったまま彼を驚いたように見上げていたサン・ジュストが服の裾を引っ張った。小さく顔を横に振ってそれを制すると、マクシミリアンは大きく息を吸い込んで顔を上げる。
「諸君は私を独裁者だという、それも一理あるだろう。しかし相次ぐ連邦主義者の反乱、食料危機、厚かましくも我がフランスを狙おうとする諸外国の危機から脱するには、急造革命政府の統制は余りにも脆過ぎた」
「だからと言って独裁が許されるというわけではないぞ!」
「シトワイヤン・フーシェ」
 その声に、マクシミリアンは自分より階下の席にいる男に視線を移した。
「あなたは派遣議員としてパリからリヨンへ赴き、そこで何をした。派遣の目的は新兵募集と食料供給であったはずなのに、大砲まで持ち出して半年で千八百人を無意味に殺した。本来は守るべき民を、それも裁判にもかけずに!」
 始めの野次こそ威勢が良かったが、その弾劾にフーシェは両の眉を下げ冷や汗を額に浮かべて口をパクパクとさせる。
「シトワイヤン・タリアン!」
 身体をぐいと右に向け、マクシミリアンが大声を張り上げながらに指差さした小男はひぃと小さな悲鳴を上げた。そのうろたえ様を見て、彼は口元に笑みを浮かべる。
「分かっている、この茶番の黒幕があなただということは」
「う、嘘だ。あなたは私に何の言いがかりを付けようというのだ」 
「シトワイエンヌ・カバリュス」
 テレーズ・カバリュス、元フォントネ伯爵夫人。元々熱心な革命家であったタリアンを堕落させた女。
 派遣議員としてボルドーへ赴いたタリアンはテレーズに出会ってから骨抜きにされ、投獄する対象である彼女とその知人を不正に釈放し自分の私服まで肥やすようになった。この事がマクシミリアンに発覚する前にこちらから攻撃に出てやろう、それが今回の反乱のきっかけなのである。
「う、嘘だ、嘘だぁぁぁぁ!」
 嬌声を上げながらタリアンは立ち上がり、目の前の書類を掴んで投げつけた。しかしそれは当然離れた位置にいるマクシミリアンには届かず、タリアンの一つ前の座席に座っている人物に降りかかったのみである。
 恐怖で口から涎を垂らし目を剥き出しにして暴れ始めたタリアンを、周囲の人間が慌てて取り押さえた。そのまま彼は会議室から連れ出されてしまい、一同はそれを驚いた様子で見送る。
 しかしタリアンよりはフーシェの方が幾分かは胆が据わっていた。彼は事前に裏取引をした多くの議員にその隙に合図を送り、彼らは一斉に立ち上がる。
「みな目を覚ませ、ただ一人の人間が国民公会の意志を麻痺させている。彼を裁くべきだ!」
「そうだ、独裁者を倒せ!」
「倒せ!」
 再び怒声が湧き出し、それはあっという間に伝播した。ここで引いたら命が危ない者ばかりなのだから必死になるのは当然である。
 異様な雰囲気が立ち込める中、それまで黙って座っていたサン・ジュストが立ち上がる。
「ここは危険です、出ましょう同志ロベスピエール」
 端正な顔立ちの若い革命家を振り返ると、マクシミリアンは苦笑した。
「もう少し色々言いたかったが、これが限界かな」
 そうして彼らは逃げるように荒れ狂う会議室を後にしたのだった。


 水色の屋根に横長の構造。中央の棟だけがひときわ大きく突き出し、左右に優美な丘陵を描く。
 夜の色が濃くなる深夜二時過ぎ、闇の中で悠然と構えるそのパリ市庁舎に比べ周囲を取り囲む大砲や軍人の持つ銃たちの何と無粋なことであろう。
「何故ですか、同志ロベスピエール!」
 サン・ジュストは美しい眉を吊り上げたまま、目の前の古びた机を一叩きする。その振動で上に置かれていた指令書とインク壷、クウイルペンなどがわずかに移動した。
 その後逃げ込んだパリ市庁舎の大部屋で、マクシミリアン以外の人間は埒も明かない議論を繰り返しては悲嘆に暮れている。
「もうこれ以上人々が血を流す必要は無いのだ、同志サン・ジュスト」
 政治の反乱分子はフランスから殆ど姿を消し、対外戦争も今やフランス共和国軍は常勝を続けていた。
 危機が去った今、民は血の臭いに嫌気が差し始めている。マクシミリアンは正確にそれらのことを把握していた。もう恐怖政治も、これ以上の暴動も起こす必要性は無いのである。
「それにしてもあなたにしては迂闊過ぎです。自ら『独裁』という言葉を使うだなんて」
「それに兄上、分かっていたなら何故もっと早く彼らを議会で追及しなかったのです。やはりひと月も議会を休むべきではなかったのですよ」
「もっともだ。いや、すまない」
 サン・ジュストと実弟のオーギュストに次々と窘められ、マクシミリアンは苦笑しつつそう答える。オーギュストもまた兄と同じように弁護士を経て国民公会議員となり、共に逃げてきた一人であった。
 しかしマクシミリアンは未だ民衆の支持を多く受ける正義の政治家であり、こうして自分を助けようと命も顧みず集まってくれる人々もいる。それは彼にとって素直に嬉しいと思えることであった。
「ポケットに何か?」
 先ほどから兄がジュストコールのポケットを上から触れたままでいることに気付き、弟が首を傾げる。本人はそのことに自覚が無かったようで慌てて手を離すと、小さく首を振った。
「いや、何でもない」
「さあ、早くこれにサインを」
 パリ市民へ救済を求める指令書を目の前に突き出され、マクシミリアンは溜め息をつきながらもペンをとる。その時だった。
 大地が揺れた、そう思った。
 しかしすぐにそれが大砲の衝撃音なのだと自覚する。突然市庁舎のバリケードを突き破り、国民公会の指揮するフランス軍が建物内に侵攻を始めたのである。
 軍靴が床を踏み鳴らす足音が地鳴りのように聞こえる。
 あっという間にドアが蹴破られ、室内に青い軍服の津波が一気に押し寄せた。
「同志ロベスピエール、早く、こっちです」
 煌く白刃の脅威が次々と人々を襲い始める。サーベルがあちこちで振り下ろされるたび、鮮血が石の床の上に舞い散った。
 開け放たれた入り口付近には長い銃を構えた軍人が一列に並び、逃げ惑う人々をその銃口が狙いを付ける。
「やめろ」
 腕を引っ張るサン・ジュストの力強さを感じながら、マクシミリアンは呆然と眼前の光景を眺めやった。
「やめてくれ、こんなことは無意味だ」
 眉間に皺を寄せて頭を振るマクシミリアンの眼前に、その時何かが飛び込んでくる。
 少年であった。しかし立派な軍服に身を包んだその手には短銃を構え、正確にこちらを狙っていることが分かる。
 発砲音は思ったより大きくは無く、マクシミリアンは自然とその両方の瞳を閉じる。
 衝撃は――――無かった。
 弾はぎりぎりの所を逸れ、後ろの柱に小さな窪みを形成する。
 ぴしりとひびが入る音が耳元で聞こえた。
 そしてマクシミリアンは目を見開く。
 大きく息を吸い込み、彼は腹の底からあらん限りの大声で怒鳴り声を上げた。
「止めろ、私は逃げも隠れもしない!」
 両の腕を広げ、亜麻色の瞳が輝きを増して睨みを利かせる。ほんの数秒で彼は後方にいた指揮官を視界に捉え、その目を射抜いた。
「これ以上殺すな」
 マクシミリアンは成人男性としては小柄な方である。しかし隣でその光景を眺めていたサン・ジュストの目には一瞬彼の姿が大きくなったように見え、その美貌により革命の大天使と後に呼ばれた彼は端正な口元を綻ばした。
 ああ、この姿こそが自分が憧れた革命の志士の真の姿なのだと。
 そして彼らは仲間の死傷者を、軍が予想していたよりも遥かに少ない数に押さえて逮捕された。
 引き立てられて行く革命家達は胸を張り、背筋を伸ばし、威厳に満ち溢れた立派なものだったという。
 それは固唾をのんで状況を見守っていたパリ市民達の、深い深い溜め息を誘った。

「結局、同じ道を辿るか」
 押し込められた独房のベッドに腰掛け、マクシミリアンは今静かにその時を待っている。彼も、彼の弟や仲間のサン・ジュストらも皆、夜が明けるまでの短い命であった。
「やはりお前、記憶が戻っているな」
 突然甲高い子供の声が背後から聞こえ、マクシミリアンは驚いたように振り返る。
「赤髪の天使」
 彼の背後、腰掛けたベッドの空いたスペースに立っていたのは古代ギリシアの民族衣装を着た少年神であった。
「何故ここに?」
「まだお前の運命は決定していない」
 首を傾げるマクシミリアンを見やりながら、ヒューロはふわりと宙を舞って目の前の床の上に降り立つ。
「記憶が戻っていることで確信した。お前にとって最大の人生の岐路が、再びこの後に控えているはずだ」
「しかし私は」
「一度違う選択をすれば、その後の人生は全く違う道を辿るはず」
 しかし最大の人生の岐路を変えたはずのマクシミリアンは、ほぼ同じ道を辿ってきたと言えた。それは何故か。
「時代がお前を呼び戻した」
 再び強引に引き戻されたその力に巻き込まれ、ヒューロの探す欠片もまた新たな岐路に姿を消した。厄介なことだが、既に起こってしまったことなのだから仕方が無い。
「必要に迫られ私がお前を二度助けた偶然さえもまた、今となっては必然か。……ふん、余程お前はこの時代に必要な人間だったと見える」
 そうして少年は再びどこへとなく姿をかき消してゆく。またあのほの暗い時の狭間で事の成り行きを見守るのだろう、マクシミリアンはそう思った。
 彼の記憶が戻ったのは、革命広場でマリアンヌと別れた後である。徐々に時間が経つにつれてそれは鮮明になって行き、マクシミリアンは自分が結局同じ人生を歩まざるおえなかった自分を知った。
 しかしたった一つ大きく違うことがあった。
「それでも彼女は生きている」
 二十年前の不審な馬車に彼女が連れ去られていたら、赤髪の天使が戯れに見せたあの悲惨な光景のようにマリアンヌはどこかに監禁されたまま病死していたに違いない。
 確実に一つの命を助けることができた。自分の人生は、それだけで満足するべきなのだろう。
 それが決して、二度と手に入れることができない存在であったとしても。
 その時格子の向こうの通路から人の気配を感じて、マクシミリアンは視線を上げる。
「良かった、同志ロベスピエール。早くここを出ましょう」
 二人の男であった。憲兵の制服を着た方が手早い動作で牢の鍵を開けるのを彼は呆然と見やり、そして呟く。
「どういうことだ」
「あなたは死なすには惜しい人だ、「清廉の人」こそが私たちパリ市民の誇りなのです」
 清廉の人。マクシミリアンの潔癖なまでの正義を貫くその姿勢は人々にそう称されていた。ここコンシェルジュリ牢獄の憲兵隊達の中にも彼を信ずる者は多く、その一部と外部の革命家達の支持者が手に手を取ってマクシミリアンを助け出そうとしているのである。
「いや、しかし私は」
 牢の出口が開かれ、手を引っ張られながら彼は困惑顔を見せる。
「とりあえず、デムーラン夫人の持っておられる南フランスの別荘へ身を隠してください」
「デムーラン……夫人?」
 マリアンヌが自分を助けようとしているのか、彼女の夫を死に追いやった自分を。
 動揺に唇が震える。しかし湧き上がる罪悪感を追いかけるように、マクシミリアンの心を侵食してゆくものがあった。
 初めて彼女と手を繋いで歩いた遥かなるパリの夕暮れ。その時におぼろげながらに浮かんだ、決して適うことのなかったその小さな願い。
 マリアンヌと共に生きてゆくことができるかもしれない。
 二十年という果てしない時間の遠回りをして、再び彼らの人生が交わろうとしていたのだ。
 上着のポケットに手を当ててはっきり答えを出せないまま、マクシミリアンは大きな黒い布を頭から被せられ、引っ張られるままに歩いてゆく。
 夜明け前の牢獄。正規の通路ではなく役人のいない食料搬入通路を選んで暗がりを進んで行く。そして数時間ぶりに肌が外気に触れた時、東の空は薄ぼんやりと明るくなり始めて夜明けが近いことを告げていた。
 ふと、後ろを守るように歩いていたもう一人の男が何かを拾ってマクシミリアンに差し出す。
「同志ロベスピエール、これを落とされましたよ」
「ありがとう」
 その手に受け取ったのは、周囲がぼろぼろに擦り切れた一枚のしおりだった。手を当てていたのとは反対のポケットに入っていたものが、何かの拍子に落ちたらしい。薄い紙の下に透かして見えるのは、すみれ色のリンドウの花びらであった。

「それリンドウですよね、『正義』の花だ。マクシムにぴったりですよ」

 蘇る元気の良い声。窓から差し込む日差しに黒髪が絹のように輝いて、過ぎ去りし日の少年はそう語った。
「正義の……花」
 突然歩みを止めたマクシミリアンに、前を行く憲兵の制服の男が振り返る。
「どうしたんです、夜が明け切る前に庭を抜けてあの壁を越えなければ」
 彼が指差したレンガ造りの高い壁は、コンシェルジュリ牢獄をぐるりと取り囲んで外界との境界線になっていた。それを越えた先に見えるのは、母なるセーヌ河である。
 朝日に照らされる大河は、どんなに美しいだろう。そう口元を綻ばせた後、彼は上着のポケットの中からあるものを取り出した。
「これをシトワイエン……いや、マダム・デムーランに渡しておいてくれ」
 憲兵の制服を着た男の手に銀のロザリオを乗せると、彼は微笑む。
「アデュー、そしてごめん。と」
 踵を返し、元来た道へ一人歩み始めるマクシミリアンを慌てて皆が押し留める。
「待って下さい、あなたはみすみす死にに行くのですか?」
「これからでも再起を図ることはできます、私たちを導いて下さい」
 慌ててそうまくし立てる彼らにゆっくり振り向くと、マクシミリアンは静かに答えた。
「私は、私の役目を最後まで全うする義務がある」
 見張りに気付かれないように彼らは小さな声で喋っていた。その時のマクシミリアンの声とて特に大きくは無く、押し殺された低いものである。
 しかし彼を救いに来た二人はその一言に圧倒され、言葉を失った。彼が人生をかけて導き出したその一言に抗う言葉など、出てくるはずも無かった。
「諸君らも危険を顧みず私のことを救おうとしてくれてありがとう。君たちが無事にここから脱出できることを、私は神に祈っている」
 ピンと張った背中、ゆっくりと歩む優雅な物腰。革命の英雄が再び建物の中に姿を消すまで、彼らは虚しく庭木の中から見送った。
 不意に光が差し込み、暗い建物の中に踏み入ろうとしていたマクシミリアンの足が止まる。東の空に太陽が昇り、世界は再び生まれ変わろうとしていた。
 正義だけでは国は成り立たないのかもしれない。
 自分たちは変化を急ぎすぎたのかもしれない。
 それでも革命が無意味なものだったとは思いたくは無い、人々の為に。大切な人の為に。
 血に荒れ狂う今のパリの暴走を止めるには、象徴的存在である彼自身が消えることが一番確実な方法であった。
「お前だけは最期まで付いてきてくれるか?」
 しおりのリンドウの花びらを眺め、マクシミリアンは再び歩き出す。
「待たせたなダントン、そしてカミーユ」

 一七九四年、七月二十九日。
 実弟のオーギュスト、サン・ジュストらと共に、フランス革命の英雄が断頭台の露と消えた。
 マクシミリアン・ド・ロベスピエール。
 人々は彼のことを尊敬の意を込めて「清廉の人」と呼ぶ。


 エピローグ

 闇の壁を突き抜けて、自ら光を発する小さな星の欠片が宙を舞う。
 迷いも無く赤髪の少年の身体にそれは飛び込むと、中で同化するように小さな明かりを灯しながら燃え尽きていった。
「意外に手間取ったな」
 先ほどまでじっと見つめていた空間の窓を閉じると、ヒューロはそのまま黙り込む。
 少年にはマクシミリアンの選択が意外であったのだ。そのまま逃げて好きな女と終生暮らせば良かったものを、何故あそこでわざわざ引き返すのか理由が全く分からなかった。
 人間は自分の欲望の為にのみ動くもの。低俗な存在でしかないと思っていたはずが、実はその認識が少し違っていたのかもしれないと小さな心が揺れている。
 しかしマクシミリアンが命をかけてまで守ろうとしたものが具体的に何であるのか、少年にはいまひとつ理解できない。
「人間が生きる意味とは何だ」
 人間として生きた覚えの無い彼にはその気持ちは永遠に分からない。
 しかし確実にヒューロの心は以前よりも人間に対する関心が高まっていた。それだけは少年にもよく分かる。
 瞬間、ヒューロの全身を目映い黄金の光が包み込む。少年は途端に苦悶の表情を浮かべ、小さな膝を片方地に着かせた。
「くそっ、またか」
 毎回欠片を取り戻すたびに、身体と心を組み替える反動が少年に激痛をもたらしていた。しかしそれもすぐに収まると、わずかに浮かんだ額の汗を手で拭いながらヒューロは立ち上がる。
 だが少年は両の手で自分の顔を覆うと、そのまま崩れるように座り込んでしまった。
 震える細い肩、闇に吸い込まれてゆく小さな嗚咽。あどけない指の隙間からこぼれるものは透明な涙である。
「僕はたくさんの命を奪った。だから、だから」
 しゃくり上げ、エメラルドの瞳から数え切れないほどの涙の粒をこぼしながら少年は叫んだ。
「だから僕は両親に殺された!」
 少年の心が悲鳴を上げる。
 他に誰もいない時の狭間で、ヒューロはただ一人泣き続けていた。

 ――――残す欠片は、あと二つ。  


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●感想
horiko-さんの感想
 ライトノベルと言うよりは、どこか大人向きの作品で(歴史小説だから? horiko-の頭じゃ理解できないからか?)、力を入れて読み解く必要がありましたが、読むのに詰まる事はありませんでした。
  『二都物語』のような感じかな〜と思っていたのですが、他の方の感想を見てみると、どうやらこの登場人物は史実に出てくる人たちのようで。(自分は日本史 専攻だったのでサッパリ分かりませんが)一般人以下の世界史知識しかないので、地名・建物なども場所がサッパリ。(読み解けば、フランス革命のお話だとい う事はわかりました)
 感想のみで批評は出来ません……というか、どこが悪いのが見抜けなかった。個人的なものでは、赤髪の天使:ヒューロの欠片探し。最後の一部分が意味不明でした。話が続くのであれば問題はないのでしょうが……


榎原優鬼さんの感想
 終わりかと思ったら、実は続き物?
 しかも前がある!
 うん、前作も見たいです。
 面白い。
 人生の選択肢を変え、人生をやり直しても、大局的な時の流れ、人生のありようは変わらない。ロベスピエールのような歴史の中心人物ならなおさら。それを痛感しました。
 切ないですが、すっきりしたエンドです。
 自分の人生に誇りを持って、定めとして断頭台に消えたロベスピエールに乾杯!


飛車丸さんの感想
 びば!清廉の人!
 革命家ロベスピエールに幸あれ。飛車丸です。

 if物語なのにifじゃないなんて、まさにロベスピエール。
 ヒューロなんて飾りです。偉い人にはそれがわから(ry
 ……失礼、飾りじゃまずいですねorz
 ともあれ、楽しく読ませて頂きました。所々に重複した表現(上、手紙の一文で最近が重複とか)、少し戸惑う漢字(覚る、など)、おかしな日本語(〜〜せざる"を"えない、が正解ですむしゅう)が見られますが、それを補って余りある文章力に脱帽です。
 個人的には死にに戻る彼が格好良かったです。これぞ清廉の人。びば!せいr(ry
 シトワイエンをマダムに言い換えた所に、革命の終わり=ロベスピエールの役目の終わりを感じました。
 と もあれ本音で言うと、彼の正義への傾倒による狂気をもっと見たかった、と思うと同時に、ifの世界でマリアンヌへの情を持ち続けた彼が、そこまでの狂気を 持ち続けるのも、少し得心がいかない気もする所存です。少なくとも正義だけでは生きていけないことを知っているわけですし、狂気を保つ為に苦悩する姿が描 かれていれば、と思うのはちょっと我侭でしょうか。


九月さんの感想
 ボンソワール。九月と申す者でございます。
 おお、今回は「フランス」ですか。実は以前フランス革命をかじったことがある人間なので、大変興味深く読ませていただきました。
  他の方々が大方ポイントを突いていらしゃいますので、感想が重複する点はご容赦下さい。尚『連作の二作目』とのことなので要所で挿入されるヒューロのシー ンをあえて読み流し、マクシムの物語を重視するという変な読み方をさせていただきました……申し訳ございません。折を見て一作目も読ませていただきます。

・ロベスピエール像
  実は『ダントン』という映画の影響で、ロベスピエールは「革命という言葉に振り回された挙句、かつての同志を次々断頭台に送って最終的に自分も断頭台送り になった冷血漢」というイメージがあったので、途中までマクシムに「恋愛」を絡めるのはどうかな? と思って読んでいました。しかし、マクシムの個人史が かなり詳細に描かれている上、上手くマリアンヌとの恋愛というフィクション(ですよね?)が絡めてあったので、読み進めていく内にすんなり本作のマクシム に感情移入できましたね。
 ある意味綺麗過ぎるマクシムの最期も、違和感なく受け入れることができました。
 ちなみに私が一番グッと来たシーンは、マクシムがマリアンヌと再開するくだりではなく、マクシムが父親に対する嫌悪感を露わにするくだりです。あの、幼年期のマクシムが放蕩親父を憎悪する悲壮に満ちた描写には感動すら覚えます。
 ああいうドロドロした人間ドラマ、大好きです。

・筋立て、伏線
  他の方々が仰っているので今更なのですが、下手に手を出してしまうと「単に歴史的事実を書いただけで面白くなるんじゃないか?」と思われかねない「フラン ス革命」というドラマチックな歴史的事実を上手く逆手に取り、フィクションを絡めた軽妙な伏線―マリアンヌとカミーユの関係―を張ることで、オリジナリ ティーある作品に仕立て上げられていると感じました。
 資料集めだけでなく、筋の組み立ても、ご苦労様です。

・背景の説明
  これは技術的なことで、まず気になったのは用語の後ろに( )で説明されている語句です。これが出てくるたび、作中世界から現実に引き戻される感触があり ました。「レ・アル」や「ポン・ヌフ」はいいのですが、「クウイルペン」「クラヴァット」は素直に「羽ペン」「ネクタイ」で別に差し支えは無かったと思い ます。
 次に、、三人称で時代背景を語る際の宿命、所々で挿入されている「説明文」から感じる違和感です。本作は「歴史の真実を語る」所謂ドキュ メント的な作品ではないのですが、史実をモチーフにしているため、どうしても何らかの形で当時のフランスの説明が必要だったと思われます。しかしながら、 やはり「説明文」が流れを止めていたように感じられてなりません。
 一つのパラグラフにまとめて書かれている箇所はいいのですが、特に気になったのが、マクシムが馬車でマリアンヌの元に向うシーンです。『料金は前払い制である』このたった一文が、シーンに水を差したようでやけに引っかかりました。
 かといって、私に何か解決策を講じられるわけでもありません。言い放しで申し訳ありません……

・用語、史実干渉の是非
  前述したように、本作は歴史のドキュメントにウェイトを置いた作品ではないと思うのですが、作中に出てくる「国民公会」「三部会」「政治屋」その他、聞き 慣れない用語が読む側の足枷になっていたと思います。以前、フランス革命をかじった「はず」の私も人名以外はほとんど忘れていました。
 これは決 して用語が「邪魔」という意味ではありません。やはり無いと雰囲気や世界観が損なわれてしまうので、あった方がいいとは思うのですが、読む側としては、聞 き慣れない用語の「意味を知らないと作品を楽しめないのではないか」裏を返せば「意味を知っていればもっと楽しめるのではないか」と邪推してしまうのが正直なところです。
 喩えるなら、本作の内容の「濃さ」はウィスキーの「ストレート」といったところでしょうか。個人的に「ロック」でも美味しくいただけたかな、と思います。とは言え、「ストレート」が好きな人もいるわけで(何のこっちゃ)……。

  最後に個人的意見、要望なのですが、「フランス革命」を象徴する上でダントン、カミーユが豪快に、もしくはロベスピエール派が冷静に断頭台に上るシーンが 欲しかったです。その辺については、さらっと書かれていただけなので(あ、でも、それをしちゃうとマクシムの『アデュー』の元ネタがバレるのか)。
 一変人からの意見としてお受け止め下さい。

 以上、長々と書かせていただきました。所々枝葉の部分があるとは言え、読み終えた正直な感想は「力作」の一言に尽きます。うーん、エンターテイナーだなあ。
 それでは、このへんで、オールボア。


巴々佐奈さんの感想
 巴々佐奈と申します。『ヒューロの欠片〜パリの正義〜』拝読いたしました。
 私が読んだカズナ様の作品は『ミスルトーの贈り物』から2作目ですが、破綻のない精密な筆致は是非見習いたいと思います。
  ロベスピエール、かっこよかったです。フランス革命期の動乱の時代。私は長谷川哲也氏の『ナポレオン 〜獅子の時代〜』を愛読していますが、自分的には フーシェやダントンにも見せ場があったのがよかったです。ただ、恐怖政治(テルール)の立役者であるロベスピエールのヤバさというのが本作にはちょっと足 りなかったかもしれません。でも、マリアンヌとの恋愛話がストーリーの縦糸になっていますから、あまりエキセントリックなロベスピエールでもまずいです ね。

((前半部))
 物語の構造として前半部がやや冗長。『ミスルトー』もそうでしたが、前半部で読者に舞台イメージを固めさせ て、後半で一気にストーリーを動かすパターンですね。後半部の妙味を知ってしまった身としては、前半部でいかに読者を逃がさないか、もう一工夫あったほう がよいように思われます。

((ヒューロ))
 連作の一編としての評価はロベスピエールの生涯で行うにしても、ヒューロという存在が何であるのか、何のために力を行使するのかがよく判りませんでした。連作が進むにつれてそれは明確になってゆく構造とは思われますが、次の一編を読みたいと思わ せるだけの行動をヒューロがしているかと思うとちょっと疑問です。冒頭で謎をふりまいてヒキをつくっているのですから、謎をのこしつつも、もうちょっと ヒューロについてのねたばらしをしてやれば、次も読みたくなるのだとおもいます。

((分岐と結末))
 人生をやりなおしたロベスピエールは、やっぱりロベスピエールだったというオチ。とても面白かったです。マリアンヌを選んだロベスピエールは選ばなかったロベスピエールよりも、ずっとロベスピエールなところはよかったです。
  ただ、私の読解力不足なのか、作者様がこの作品を通して何を言いたかったのかが読み取れませんでした。マリアンヌを選んだ人生と選ばなかった人生。かたや 大望が敗れてやり直すことを望み、かたやマリアンヌの救いの手を断って自分自身の人生を完結させることを選ぶ。おまけに兵卒の銃撃に顎を砕かれることを避 けられたりもしています。この二つの人生の差異と、マリアンヌを選ぶことに何の関係があるのか首をひねります。
 おそらくは、それが連作のモチーフになるのでしょうが、本作単体で評価した場合にはこれが若干完成度をさげることになるかと思いました。手放しに評価できないところです。
 それでは面白いお話、ありがとうございました。


Eiさんの感想
 忘れた頃に、むしろ今更のようにやってくるEiでございます。しるぶぷれー。
 「悪酔い」では大変お世話になりました。

 まずはこの細かな設定の数々を褒めないわけにはいきません。
 情景一つ、呼び方一つ、会話一つでも時代の雰囲気が漂っていますね。
 いやはや、そうとう資料集めをなされたのでしょう。
  ストーリーも面白いと思いました。革命の歴史の表と裏と神様の介入という感じでしょうか。
 西洋歴史はマッシュルームの次くらいに苦手なのですが、すんなり 読めました。
 ただヴァレリー・デュナンの陰謀(?)が彼女の死であっさり区切りが付いてしまったことが少し残念でしょうか。申し訳ない……陰謀とか謀略と か大好きなもので。

 ヒューロの意味深なセリフや行動や天使やならんやら、これはいったいどこで消化されるんだ? とか思っていたらなる ほど、これはシリーズモノだったのですね。「上」のコメント欄までいくまでわかりませんでした(汗)前作も探してみたのですが見つかりませんでしたので、 こういう部分には触れないでおきます。ヒューロのシリーズを初めて読んだものから言わせていただきますが、この話単体でも十分楽しいと思いました。

  少し気になったのは、前半で存分に世界観を演出していた物の名前とか地名ですが、後半になってから少し説明っぽい気もしてきました。しかしこれがなければ この作品に流れる雰囲気も出ないし……どうしたらいいのか、と、軽く自問自答してみましたが答えは出ませんでした。「気になった」程度のものですので、欠 点ではないと思います。

 さてさて、つたない感想で申し訳ない。
 歴史を題材とした作品を書くことは想像以上に難しい、と思い知らされました。
 それでは!


オジンさんの感想
 こんにちは、カズナさん。オジンと申します。「ヒューロの欠片〜パリの正義〜」読ませて頂きました。

 革命の旗手ロベスピールの生涯の 点描、堪能させていただきました。
 ヒューロの変化も興味深いものがありました。
 今回のストーリーには文句のつけようがなかったです。秀作だと思います。
 マクシミリアンとマリアンヌの出会いと別れには、どうにもならない人生の悲哀が溢れていました。
 生涯恋愛とは無縁だったといわれているロベスピエールの秘め られた悲恋(笑)
 も美しく歌い上げられております。

 革命の推移には、ロベスピエールの意思も働いたでしょうが、
 おそらくは一番大きなも のは時代的制約だっただろうと思います。
 彼の意思とは別の次元で働く時代の制約――識字率、法に基づいて動く意識の欠如、
 民主主義的手続き理念の欠如等々 のためにあの革命はああなるしかなかったのかもしれません。
 それだけに最後のロベスピエールの決断を導き出したのは見事に思えました。

 最後のヒューロの謎めいた言葉の意味が、続く作品で明らかにされることを期待しています。


イマダさんの感想
 読み終わりました。さて、一番乗りなもんでどなたかの批評に乗っかるわけにも行きませんね(笑)
 一生懸命考えてみたんですけど、ぶっちゃけ面白かったです。
 文章は読み易く、運命に抗いがたいであろうストーリーに無理は感じず、
 (マリアンヌと結婚してもやっぱり同じ結末だった……ってのもありかとは思った んですが)
 伏線もちゃんと張ってあるし(マリアンヌの手紙やリンドウの押し花、そして某タケシ君の言葉)、
 主だった登場人物達に愛情が湧きもちろんマク シムもかっこよく散りorz(涙)、
 おまけにフランス革命の勉強まで出来る、と。
 テーマは、やっぱりマクシムが最後まで貫いた正義……ですかね(マテ)
(象徴である自分が死ぬ ことによって血で血を洗う革命に幕を下ろす)

 ↓以下は蛇足です。一応書きますけどスルーして下さいorz

 章が変わる時にある、マクシムでもヒューロでもない無味無臭の語り手による文章が、
 ちと説教臭いなぁと感じてしまったんですがorz(すいません)

  一部と二部の構成が全部一緒って言うのはどうかなーと、思わなくもないです。
 結局、何らかの問題を抱えている主人公のところに
 ヒューロがやってきてつれ行かれて選択を迫られる……っていうパターンなんで。
(まぁ、受けるか受けないかの違いはありますけど)
 単体で見る分にはいいと思うんですけど、後にひと つの大作となった場合には、どうでなんしょう……。
 まぁ、これもれいによってれいのごとくスルーの方向でお願い致します。

 ではカズナさんの益々のご活躍をお祈りしつつ、失礼致しますorz


一言コメント
 ・いいですね〜。特に最後。それにしても、講談社のある漫画に少し似ていたのは気のせいでしょうか?
  自分はその漫画がすきなんですが・・・・
 ・アデュー、そしてごめん
 ・よかった
 ・saikou
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