高得点作品掲載所     鏡男さん 著作  | トップへ戻る | 


どこかしら埃っぽい街

    1
 どこかしら埃っぽい街。
 それがこの街に対する私のイメージだ。古い写真をクシャクシャに丸めてもう一度広げ直したような感じ。空は晴天より曇りのほうが似合う。それもクリーム色の雲ではなくて、どこかしらどんよりとした黒の混じった雲。見ているだけで気分が暗くなってしまう類いの雲だ。
 定期的に通る電車のガタンゴトンという音と踏み切りのカンカンカンという音が交互に響き渡る。しかし誰もその騒音を気にしない。なぜならその騒音は騒音と呼ぶにはいささか控え目すぎたし、赤茶けたフォルムの古びた電車が昼夜を問わず献身的に走る様はどことなく叙情的な趣さえあったからだ。と私は思っている。人間界にはひどいことをやってもあまり嫌われない奴と大したことじゃないのにちょっとしたことで蛇蠍の如く嫌われる奴の二種類いるが、電車界において、その電車はまさに前者だった。どことなく怒れない。なんだか怒ったら不憫な気持ちにさせられる。そんな独特の空気をまとった電車だった。
 街中の建物には真新しいものは一つもなく、どれも黒ずんでいたり、変な斑点が付いていたりする。缶コーヒーやサラ金やらのでかい宣伝用看板が掛かっている建物もあるが、かわいそうなことに、まともにその宣伝効果を発揮しているものは少なかった。例えば、BOSSがOSSになっていたり、アイフルはどことなくライフルっぽくなっていたりした。
 私が住んでいるのはそんな古びた建物群の内の一つだ。ちょっと高めのビルなので、街を一望できる。そこが美点。欠点はエレベーターが故障している――しかも誰も直そうとしない――ところだ。屋上に住んでいる私は毎日二十五階を階段で昇り降りしなければならないから相当きつい。
 友達とかにビルの屋上に設置された家に住んでいるなんて言うと「それってVIPルーム? 羨ましい」などと言われるけれど、実情を知ったら誰もそんなことは言わないだろう。
 大体、家と言ってもただの正方形の汚い四角の箱があるという感じだし、建物から屋上に上がるときに使わなければならない外に剥き出しの鉄製簡易階段は腐りかけていてしょっちゅう穴が開く。何度か補修工事をしているのだけれど、どうもこの階段は呪われているらしく、すぐに風化して穴が開く。私がここに越してくるまでに三人ぐらい穴から落っこちて死んだらしい。
 同じ学校の友達がどうしても遊びに来たい、と言ったので渋々屋上にあるマイホームへと案内しようとしたのだが、この階段を見た瞬間急に「帰る」とか言い出してそのまま本当に帰ってしまったことがある。後日学校で事情を聞いてみると、なんと彼女には幽霊が見えたのだとか。
 私は幽霊の類いを見たことがないので信じ難いのだが、この階段に何かしらの特殊な作用があるのは認めないでもない。どちらにせよ決して階段から落ちることのない私には関係のないことだし、こんな階段もそれなりに役立ったりすることがある。
 前、全裸の変態が屋上に上がってこようとしたことがあったのだが、その男は死んだ。もちろんこの魔の階段の餌食になってだ。
 一応その男がどうなったか気になった私が階段の穴から下を覗いてみると、なんと全裸の男は街路樹に突き刺さっていた。なぜそんな上手い具合に突き刺さったのかは分からないが、とにかく男の身体がピンと天に伸びた木の先に焼き鳥みたいに串刺しにされていた。季節がそのとき冬だったため、街路樹は上から落ちてくる人間を突き刺すのに最適の状態だったのかもしれない。葉っぱとか少ないし。それにどことなく冬の木って硬そうだし。
 もちろん私はすぐに電話で階段の修理業者を呼んだ。階段の修理業者というか、ここの建物の管理会社なのだけれど、電話をかけたら三十分以内に駆けつけて階段を修理してくれる存在は私にとって階段の修理業者に他ならない。
 その修理工さん――私が勝手に決め付けた。多分他の名前の役職なのだろう――は四十代前半ぐらいの頭の毛が薄いおじさんなのだけれど、気さくで面白い良い人だ。なにより無駄に干渉してこないところが良い。このときだって「あそこに刺さってる人何?」と聞いてきて私がぶっきらぼうに「知らんけどなんか死んだ」と答えても「ふーん」と言ってそれっきりでチャッチャと仕事を済ませて帰ってしまった。
 ちなみに後日警察には事情聴取されたのだが、私が知らぬ存ぜぬを貫き通したので、彼ら警察はそれ以上どうしようもないので、大人しくすごすご帰っていった。実際のところ死んだ瞬間は見たが、誰なのかは本当に知らなかった。警察には寝てたからそんな男が死んだなんて知らなかった、と嘘を付いたけれど。どちらにせよ大差はないだろう。身元不明の変態が一人死んだところで誰も損などしないのだから。
 私は近所の県立高校に通っている。この春から高校一年生である。進学したと言ってもしょぼい普通レベルの高校なので、中学からの友人も多くいる。大体、中学の校名と高校の校名が同じというだけで十分地域密着型の旧き良き高校という感じがする。
 頭の悪すぎる奴は少し遠くの私立高校(バカ校)に進学し、頭の良すぎる奴はやはり少し遠くの私立高校(進学校)に進学する。そんなこんなで角の取れた、所謂バランスの良い生徒が集まる私の通う高校は行き過ぎた不良もいなければ行き過ぎたガリ勉もいない。
 でも時々トイレの壁に釘でキリストみたいに磔にされている生徒や、クラスに数人単位でいるプチガリ勉――なぜかあまり勉強はできない――を見ていると、なんだかんだでそういう類いの人もいるのかなぁ、なんて思ってしまう。
 色んな意味で牧歌的な学校と言えるだろう。大体、リンチのない学校や陰キャラのいない学校なんてどこにもないのだから。まぁキリストみたいになっているいじめられっ子は少しかわいそうだけれど、わざわざ関わり合いを持とうとは思わない。別に私がキリストにされているわけではないのだし、結局のところキリストにされたことがない人間がキリストを救おうとしたところでそれはただの偽善行為にしかならないからだ。
 少し目を逸らしたり楽しいことを考えたりするだけで人間なんて平気で残酷な現実を意識の外に持っていくことができる。それは学校内でのいじめだったり、他国で行われている戦争だったりするのだが、何よりも人間の業の深いところはそれらを意識の外に持っていくだけでなく、それらの残酷な現実を娯楽に置換できるところにあるのかもしれない。
 例えば私だって上手い具合に木に突き刺さった全裸の男を見て笑ってしまったし、警察が来る前にその間抜けな死体に出くわしてしまった下校中の小学生の一群なんて笑いながら携帯で写メを撮っていた。
 最近の小学生は高学年ぐらいだとほとんどの子が携帯を持っているのだ。普通トラウマとかになるのが健全な反応なのかもしれないけれど、どうやら最近の小学生はネットなどで慣れている――詳しくは知らないが死体の写真が載っているサイトもあるのだとか――らしく相当タフなようだ。大体、トラウマなんてどこまで本当でどこからが嘘なのか分からない類いのものなのだけれど。
 キリストにされている生徒などを見て、世の中に蔓延る理想主義的な倫理観と現実の無邪気な残酷さとのあまりにも大きい差異に気付いた私――ちなみにこのときはまだ全裸の変態男は現れていない――は独自の基準ではあるが、偏ったイデオロギーの発信源たるメディアと上手く距離を取ることにした。
 それは例えば、ニュースは携帯の画面の下方にテロップで流れるやつしか見ないとか、音楽は時の洗練を受けた六〇年代の洋楽しか聞かないとか、ネットは調べ物にしか使わないとか、食料は私が住む建物の三軒隣のスーパーでしか買わないとか、ジュースはアップルジュースしか飲まないといった風に多岐に渡る。特にそれらの基準には政治的なイデオロギーがあるわけではない。つまりは適当である。
 しかし、それらの方策が功を奏したのか、今の私は比較的安定した生活を送っている。朝は六時に起きて、屋上に設置されたベンチ――修理工のおじさんが木の板で作ってくれた――にパジャマのまま楽な体勢で座りつつ、毎朝ゲーテやヘッセやリルケやランボーなどのなんとなく凄そうな人の詩集を読みながらプリンを食べているし、夜は学校の授業の予習を各教科五分ずつしてから十時に眠りにつく。
 しかし安定した生活を送るようになった弊害か、役得か、私はある技術に目覚めてしまった。
 その技術とは簡単に言えば、他人の意識と無意識に潜り込む技術だ。
 これだけ言っても非常に分かりにくいだろうから例を挙げよう。それは例えば、万引きをしても誰にも絶対に気付かれないとか、逆にあまりにも強い存在感を発揮して、その状態の私が道路を歩くことによって注意散漫になったドライバーたちがこぞって交通事故を引き起こすといった類いのことだ。ちなみにお金に困っているわけではないし、世界に対してルサンチマンに陥っているわけでもない私にとって今挙げたようなことをする必要はなかったが、できるかできないか、という見地に立って考えれば、それはできることなのである。
 原因は分からない。ある日、なんとなく友人の額に気付かれずにデコピンができるかな、と思い試してみたら本当にできてしまったのだ。思いっきり私がデコピンをしたのに不思議そうな顔をして額をさすっている友人の姿は、私に滑稽を通り越した戦慄と呼ぶべき感情のうねりをもたらした。
 また、調子に乗って自分の気配を消して歩いていたら危うく自転車に轢かれかけた。自動車ならまだしも視界の広い、ゆっくりとしたスピードで走行する自転車に轢かれかけるとは、まさにサイコスリラー並の戦慄だった。
 家に帰ってベンチのところで街の景色を見下ろしながら、学校とかでやったのとは逆に自分の気配が強くなるように念じてみたら、階段のところに全裸の変態が現れた。その変態はさっき述べたように死んでくれたからよかったものの、もし階段が助けてくれなかったら冗談抜きで私は危なかったかもしれない。それこそ戦慄なんてものでは済まなかったに違いない。
 そんなこんなで意識のほうに働きかける技術――これをすると私の存在感は増す――は危険すぎるので自発的に使用制限をするようになった。しかし、元々他人に干渉されるのが嫌いな私は無意識のほうに働きかける技術――これをすると私の存在感は希薄になる――を多用している。
 例えば、同じクラスに在籍している私の大好きな華乃ちゃんに不意打ちで抱きついたり、華乃ちゃんのぷよぷよした頬っぺたを不意に触ったり、華乃ちゃんの髪の毛を不意に触ったり、といったことだ。
 私は自身の存在を他人の意識の外に追いやることができるので、もちろん華乃ちゃんにセクハラするくらいはお手のものだ。どちらにせよ華乃ちゃんは天然なのでこんな技術がなくてもちょっかいをかけるぐらい簡単なのだけれど。
 この技術が最も役に立つのは華乃ちゃんに害を及ぼそうとする害虫を駆除するときだ。隣のクラスの大原とか華乃ちゃんに手を出してきそうな男子の後頭部に思いっきり黒板消しをぶつけたり、金属バッドで優しく殴ったりといったことを私は時々する。
 なぜこんな技術を体得してしまったのかはよく分からない。メディアと距離を置き始めた頃と同時期に発症――病気かどうかは分からないが病的であるのは紛れもない事実だ――したことは確かなので、とりあえずそこらへんに何かの原因があるのかな、なんて思っている。
 情報過多の現代においてあまりにソフィスティケートされた生活を送ってしまったがために発生した弊害なのだ、と割り切れば原因なんてさして気にならないものだ。
 別に私が朝早く起きてランボーの詩集を読んだからなったとは限らないが、それらの新しい生活基準がこの技術を得るに至るまでの土台というか基礎のようなものになったのは確かだと思う。
 そんなこんなで私はその技術を最大限に利用してストレートな趣味の持ち主である華乃ちゃんをどうにか同じ女である私に振り向かせようとしているのである。
 さて、そろそろ長い独白に終止符を打って、私の今置かれている状況を説明しよう。
 私は今、マイルームの横に設置されたベンチに腰をかけている。夕方だ。まだ五月なので少し寒い。それでも家の中に入らずベンチに座っている理由は、もちろん華乃ちゃん絡みのことだ。
なんと今日、愛しの華乃ちゃんが私の家を訪問してくるのだ。そんな一大事に家の中にいるほど私は愚かではない。もちろん華乃ちゃんを出迎えるために約束の時間の三〇分前からベンチでスタンバイしている。
 私の家に辿りつくには空に剥き出しになった魔の鉄階段を昇ってこなければならないのだけれど、華乃ちゃんは無事なほうの人間なので心配はない。
この階段は人を選ぶらしく、この階段との相性が悪い人が昇ろうとすると幽霊に遭遇したり、死んだりする。ちなみにこの階段が大丈夫な人は今のところ、私と華乃ちゃんと修理工のおじさんだけだ。その他の人は何かしらの理由を付けて――幽霊云々――昇りたがらないし、時々ラリった変態が無理に昇ろうとして死んだりする。
 そんな稀有な存在である華乃ちゃんは私にとって特別な存在だ。実際のところはこの階段との適性があると気付く前から、というか入学式で目にした瞬間――彼女は遠くの女子校出身だ。高校からこちらに引っ越してきた――から私は華乃ちゃんにメロメロなのだが。
そんなこんなでベンチに座ってガクガク震えていると、階段を昇るトントントンッという軽やかな音を響かせて華乃ちゃんがやってきた。
「こんばんは。華乃ちゃん」
 私は震える声を押さえつけ、平然とした口調で華乃ちゃんに声をかけた。
「こんばんは〜。むつみちゃん。って何でそんなに震えているの?」
 どうやら華乃ちゃんにはお見通しだったらしい。心配そうな顔をして私の手に触れる。彼女はどちらかというとぱっちりとした大きな瞳なので何を考えているのかすぐに分かる。
「いいのいいの。それより華乃ちゃんが風邪を引いたら大変だから、さっさと温かい部屋に入ろうよ」と私は華乃ちゃんを誘う。
 華乃ちゃんの意識の外側に干渉して、難なく肩に腕を回す。すると私の不意打ちに「ひゃっ!」なんて声を出して驚く華乃ちゃんがかわいい。
「もぉ。むつみちゃんのえっち〜」
 私がちょっとおっぱいを触ると華乃ちゃんは身を捩らせる。すると私の胸に華乃ちゃんの頭が当たる。華乃ちゃんは私より随分と背が低いのだ。その代わり私より胸は大きい。
「華乃ちゃんはかわいいねぇ。へへ」
「ちょっとむつみちゃんオヤジ入ってるって〜」
 なんて感じで私の一方的なセクハラが続いてゆくわけだが、華乃ちゃんも満更ではなさそうだ。しかし、華乃ちゃんにとっての私との触れ合いはあくまでも女友達同士というスタンスである。なぜ女の子は女の子よりも男の子のことを好きになるのだろうか。私にはそれが分からない。
 私の初恋は小学三年生だ。相手は音楽の先生。中学のときの恋は近所に住む高校生のお姉さん。そして高校に入ってすぐに華乃ちゃん。世の中ではこのような性癖の持ち主が変態だと見なされているのを知っていた私は今まで恋を成就させるために積極的な行動を取ったことがなかった。
 だけれど今の私は昔の私とは違う。人の意識と無意識の間に潜り込む技術を得た私はまさに無敵だ。人の意識に強く働きかければ男はみんな私のことを好きになるし、無意識に働きかければ誰の目にも留まらないようにすることができる。
 しかし意識に強く働きかける技術のダメなところは男たちが見境のない獣のようになって襲ってくることと、圧倒的な存在感を得た私を見ても華乃ちゃんは私のことを恋愛対象として好きになってはくれないということだ。
 ストレートな趣味の持ち主である華乃ちゃんは急に存在感を増した私を見ても、「綺麗〜」とか言ったりはしてくれるけれど、恋愛対象として見てくれるようになるわけではない。羨望や憧憬の域を超えることはないのだ。
 その程度の見返りしかないのに人前でわざわざ自分を目立たせることはない。だから普段の私は目立たないほうの自分を表に出している。
 それでも華乃ちゃんと二人きりで密室にいるときは別だ。私は自分の技術を最大限利用し、華乃ちゃんに対してセックスアピールをする。
「華乃ちゃん一緒にお風呂入る?」
「え〜、むつみちゃんすぐセクハラするからダメ〜」
「華乃ちゃん王様ゲームやろっか?」
「え〜、むつみちゃんすぐえっちな要求するからダメ〜」
 といった具合で全然上手くいっていないのだが。それでも私の名誉のためにもこのとき華乃ちゃんは断りつつも白い頬をほんのり赤く染めていたという事実に言及しておかなければなるまい。意識へと強く働きかけると、いかにストレートな趣味の華乃ちゃんといえども照れるぐらいのことはしてしまうのだ。
 それが私の得た技術。この技術をもってして私はいつか華乃ちゃんを手に入れる。
「華乃ちゃんは好きな人いるの?」と私は聞く。
「いないよ。むつみちゃんっていつも私と会うたびに好きな人いるかって聞くよね」
「それは私が華乃ちゃんのことが好きだからだよ。もし他に好きな人ができたら私、その男をブッ殺すから」
 冗談っぽく言う私だが、もし華乃ちゃんに好きな男ができたら私はどうするのだろう? 殺害するのだろうか? それともその男が死んだことによって悲しむ華乃ちゃんの顔を見たくないがために一時的に身を引いて別れるのを待つのだろうか? それとも私は華乃ちゃんを殺害してしまうのだろうか?
 まったく予測がつかなかった。大体、そんな状況に陥る自分の姿すら想像できない。
「またまたぁ〜。むつみちゃんは冗談が上手いんだから」と華乃ちゃんは私の想いも知らずに言う。
 いっそ襲っちゃおうかな、とか思うけれど、私はジェントルウーマンなのでそんなことはしない。ラッコが貝の外側を石でコツコツと叩いて地道に貝殻を壊していくように、私も華乃ちゃんの心の殻をコツコツと解していきたいのだ。
「冗談なんかじゃないさ。私は華乃ちゃんのことを一人の女性として好きなんだよ」
「もうっ! むつみちゃんったら変わり者なんだから。こんなに綺麗なのに男子が寄ってこないのは絶対そのせいだよ、多分。私が男だったらむつみちゃんみたいな綺麗な女の子は放っておかないもの」
 男子が寄ってこないのは、上手く彼らの意識の外側に自分を追いやることに成功しているからだ。実際この技術を得るまではひっきりなしに男子は毒虫の如き勢いで私に寄ってきた。
それにしても男だったらなんて言わずに女のままでも私のことを好きになって欲しいものだ。それを実現させられないのは私の力量不足に他ならないのだが。
「私は華乃ちゃんの前でしか綺麗にはならないもの。男子が寄ってくるわけがないでしょう?」と私は言う。
「そういえばむつみちゃんってあまり学校では目立たないよね。何でだろう? そういえばこうやって二人で会ってるときのむつみちゃんのほうが学校でのむつみちゃんより綺麗な気が……いや、顔は同じなんだけど存在感が違うというか。うーん。よく分からないなぁ」と華乃ちゃんは形の良い眉をしかめながら考えるようにして言った。
 それにしても驚いた。私の技術をそこまで見破ることができる人間がいるなんて。大体、人の意識レベルに働きかけているのだから、私が急に存在感を増したとか、影が薄くなったなんて普通気付けないのだ。
「ほぅ。良くぞ気付いた勇者よ。お姫様が褒美のキッスをしてあげよう」
 そう言うと私は華乃ちゃんの意識の外側に自分の存在を一瞬押しやり、不意を突いて頬っぺたにキスをする。
「あ! またいつの間に! むつみちゃん気配消すの上手すぎるよぉ。絶対将来暗殺者とかになったほうがいいって」
 華乃ちゃんは赤くなりながらも抗議してくる。唇同士でのキスはどこかしら特別な気がするので、なんとなくするのを躊躇う。私はチキンガールなのだ。
「私は華乃ちゃんに群がる毒虫を駆除するので精一杯だよ」と私は言った。
    2
 華乃ちゃんは誤解を受けやすいタイプの子だ。綺麗な顔をした女の子というのは異性には誤解を受け、同性には嫉妬されるという宿命的な運命を常に背負っているものだが、華乃ちゃんの場合、いささかそれが度を越していた。
 しょっちゅう勘違いされて酷い目に遭いかける。遭いかけるだけで実際に遭っていないのは、ひとえに私が華乃ちゃんを影ながら守っているからなのだが、そうでなければ今ごろ華乃ちゃんは大変なことになっていただろう。
 なぜか華乃ちゃんのことを付け狙う男というのがロクでもない男であることが多く、妙に生々しくて変質的な奴ばかりなのだ。例えば、こっそり華乃ちゃんの後を尾行したり、体操着を盗んだり、階段を昇るとき後ろから写メでパンティを撮影しようとしたり、などなど。
 とりあえずそんな輩が現れたら速攻私は金属バットで背後からぶん殴ってやることにしている。華乃ちゃんと出会ってからの一ヶ月で私は隣のクラスの大原を含めて三人の変態男を仕留めた。
 私もそんな外道たちの一人なのではないか、という疑問はひとまず棚に上げておいて、とりあえず私は華乃ちゃんを守っていこうと思っている。華乃ちゃんは共学の学校にはいてはいけないタイプの女の子なのだ。その点では、今まで華乃ちゃんを女子校に通わせていた華乃ちゃんの両親の教育方針は間違っていなかった。あくまでも今までは、ということだが。
 しかし、このままだと危ない。私の本能がそう告げていた。なぜか分からないが、華乃ちゃんは人の意識の外側に上手く立ち回ることができない子なのだ。
 電車とかでよく痴漢されやすいタイプの女の子がいると言うけれど、まさにそんな感じの女の子だ。
 他者の意識を私ほどでないにしても、一般的な綺麗な女の子レベルで操れるようになる――例えば近寄りがたいオーラを身につけるとか――ことがもちろんベストなのだが、そうもいかない。
 だったらその業界――私しかいないけれど――のプロフェッショナルたる私が彼女を守るしかない。
 それが華乃ちゃんに対してできる唯一のこと。華乃ちゃんは私が守る。
 そんな風に私は自分の立ち位置を決めている。
    3
 夜になると私の住むどこかしら埃っぽい街も少しばかりお洒落な雰囲気を醸し出す。古びた高層ビル群も夜になれば古いのか新しいのか分からなくなるし、ネオンに彩られた街というのは中々美しいものなのだ。たとえそれが欲にまみれた繁華街から洩れる子供の宝箱のような安っぽい光だとしても光は光だ。暗いところのない光だ。定期的にゴトンゴトンという音がして赤茶けた電車が通る。しかしその電車が赤茶けているのかどうかなんて夜は分からない。ただの光の筋だ。
 この街は都会というわけではないのだが微妙に開けているため、街の西地区に歌舞伎町のような繁華街がある。つまりはバーやキャバクラや風俗店の類いなのだが、それらは主に北地区の工場が密集した地域で働く労働者たちを相手にしている。
 そんなこんなで西地区は私たちの学校では立ち入り禁止地帯となっている。放課後になると教師たちがそこらへんをうろついて、生徒たちが入って来られないように監視しているのだ。
 でもその業務内容はいたって不純。二年のアキ先輩が風俗で小金を稼ぐために働いていたら、なんと客として体育教師のモリタケ(森猛雄)がやってきたらしい。しかもあろうことかヤッた後に説教をし始めたとか。まったく男という生き物は意味不明である。悪いことだと思っているならなぜお前は金を払って来ているのだ? と聞きたくなる。だけどそんなことを言うとモリタケなんかは殴りかかってきそうなので誰も文句は言わない。
 下界では面倒臭いことばかりやっているなぁ、と私は西のほうの煌びやかなネオンを見るといつも思ってしまう。種の保存を本能としている動物だったはずの人類はどこでボタンを掛け間違えてしまったのだろうか。どこで曲がり角を曲がり間違えてしまったのだろうか。と私はいつも考える。そんなことを考えても、答えなど見つからないし、おそらくは最初から解などないのだろうけれど。
 私のような存在――同性愛者――が世間から嫌悪されるのは種の保存の本能に反しているからだろうか。しかし、風俗なんかで遊ぶ大人たちだって十分、種の保存の本能から外れているではないか。いや、その本能を悪用して快楽に置換してしまっているではないか。それでは残酷な現実を娯楽に置換してしまうカルマと同等ではないか。いつから聖なる行為が恥ずべき行為に置換されてしまったのだろう?
 しかし、それもやはり答えなど見つからない類いのことなのだ。なぜ戦争をやめないのか。死刑制度は廃止すべきなのかどうなのか。などのように世の中には論理で解決できないことが多くある。解決出来ない理由は明快。相反する意見でも論理は構築できるから。たとえベクトルが逆同士の事象でも、それぞれもっともらしい論理を構築できてしまうから。だからこそ、それらの議論には終わりが見えてこないのだ。
 多分、私が女である華乃ちゃんが好きで好きで堪らないのも同じことだ。論理では解決できないのだ。
 問い。そういうときどうすれば良いか。
 答え。とにかく本能に従って行動しましょう。自分の理性や道徳観念という意識のフィルターを通さずに生まれる、無意識下から湧き出る感情の奔流に身を委ねましょう。
 おそらくこれこそが私の陥っている状況でのベストな解法だ。なぜならそこには一片の論理も組み込まれていないのだから。それだけ。非論理的帰結により、解法は示されず。しかし異論の余地はなし。これこそがもっとも美しい解法に違いない。
 さて、今日は学校の予習なんて中止――明日は土曜日だが普段の私は金曜の夜も土曜の夜も習慣で勉強していた――でいいから来るべき明日のために少し早く寝よう。眠れるかどうかは自信がないが、それでもベッドに入ろう。
 なぜなら私はついに華乃ちゃんとデートの約束をしてしまったからだ。
 北地区の潰れた工場の跡に建てられた小さな遊園地。もっぱら、隣に併設されているプールのほうが人気の施設だが、別に私は五分で一周するしょぼい観覧車に乗るか、温水の流れるプールで木片のように流されるか、なんてどちらでもいい。華乃ちゃんさえいてくれれば……なんてことを思いつつも、一方ではどちらかというとプールのほうが楽しみだなぁ、なんて思ってしまうスケベな私。なんたってプールには着替えがあるのだから、これを逃す手はない。もちろん観覧車という密室空間も捨てがたいが。
 私は剥き出しの蛍光灯の電気を消して病院用簡易ベッドに入る。まったく質素な暮らしぶりだ。もちろん欧米のように靴で歩き回る部屋。壁もコンクリートの打ちっ放し。これはこれで中々お洒落かつ前衛的な気がするのだが、華乃ちゃんはどう思っているのだろうか? 私としては表参道の建物群を建築した安藤忠雄さんプロデュースの建築物にも引けを取らないと思っているのだけれど。でもそれは少し買い被りすぎかな。
 そんな雑念のせいで私は結局朝まで眠りにつくことができなかった。
    4
「むつみちゃんおはよ〜!」
 華乃ちゃんの元気な声が響く。駅前の公園で待ち合わせをしていたのだ。もちろん私は三〇分前からスタンバイ。
夏だったらもっと薄着だったのだろうけれど、やはり好きな子の私服姿というものは新鮮だ。ちなみに私たちが行くのは室内温水プールなので、いつでも泳ぐことができる。
「おはよう華乃ちゃん。ピンクのフリルスカートと桃色のパンティが似合っているよ」
「ありがとぉ〜。って何でパンツの色まで分かるの? もしかして透視?」
 慌てて、ふんわりとしたスカートを押える華乃ちゃん。
「なんちゃって。鎌かけてみただけ。全く、華乃ちゃんは正直さんなんだから」
「ひど〜い。乙女心を踏みにじるなんて」
 大きな黒い瞳を潤ませてシクシクと嘘泣きする華乃ちゃん。彼女はかわいらしい外見と裏腹にけっこう演技派なのだ。
「お〜、よしよし。飴ちゃんあげるからおじさん家においで。もっと一杯あげるから」
 と言って華乃ちゃんの黒くてウェーブのかかった柔らかい髪の毛を撫でてあげる。
「オヤジモード出たっ!」と言って走って駅の方向に逃げ出す華乃ちゃん。「おまわりさ〜ん!」なんて大きい声で騒いでごてごてとした埃っぽい街の雑踏を走り抜ける。ほんとに警察きたらどうすんだっての。
 私も華乃ちゃんの背中を追って、雑踏を駆け抜ける。どこかしら退廃的な雰囲気が漂う街を駆け抜ける。普段は退屈でたまらない薄汚い建物の壁も、チューインガムがへばりついた街路も、今日はなにもかもが新鮮に見えた。私と華乃ちゃんが通った道、もっと細かく言えば私たちの足跡の部分から、このどこかしら埃っぽい街の表層がベリベリと剥がれて長年隠されていた新しい世界が少し顔をのぞかせているのではないか、という気さえした。
 私と華乃ちゃんは赤茶けたフォルムの古びた電車に乗って北地区を目指す。別に歩いても行けるのだが、繁華街のある西地区は昼間も物騒なので女の子二人で歩くのは危険すぎるのだ。学校でも遊園地に行くときは必ず電車を利用するように言われているし、言われなくともそうする。
 デートとは基本的に移動中が一番会話の盛り上がるはずなのに、なにせ近いので三分ほどで電車移動は終わってしまった。
 さて。私たちはとりあえずプールで泳いでから遊園地に行こう、ということで更衣室にて着替えているのだが、着替えているのだが、着替えているのだが、
「あの〜。華乃ちゃん? なんでバスタオルで隠しながら着替えるのかね?」
 華乃ちゃんはバスタオルで身体を隠しながら、うんしょっこらしょっ、と言いながら水着に着替えていた。
「え? だって恥ずかしいでしょう? むつみちゃんは恥ずかしくないの?」
 そんな殺生な〜、とか思っているうちに華乃ちゃんは着替え終わってしまう。ピンク色のビキニ。彼女はピンク色が好きなようだ。
「う〜ん。というか華乃ちゃん。噂に違わず大きなおっぱいだこと」
 私は華乃ちゃんの胸元をチラチラと見ながら言う。
「きゃっ! またむつみちゃんがえっちなこと言った〜」
 華乃ちゃんはきゃあきゃあ言いながら更衣室から出て、プールのほうに向かう。私は音速で着替えてその後を追う。片思いというのはつらいものです。
 私は広いプール場の中で華乃ちゃんの姿をキョロキョロと探す。元自動車工場の跡地――国内で生産するより中国とかで生産したほうが、人件費などが安く済むかららしい――だった場所に建てたアミューズメントパークだから遊園地のほうは少し遊園地としては狭すぎたが、この温水プールはプール場の割に広かった。流れるプールもあるし、くねくねと入り組んだコースターもあった。うちの高校の生徒たちにもけっこう人気がある。その分、女子高生たちが多く来るという噂を聞きつけた変態男やナンパ男が相当数交じっているという話も聞くが。
 そうこう考えながら華乃ちゃんを探していると、見つけた。しかも流れるプールの上を通る歩道橋みたいなところの陰で変態っぽい太った男に詰め寄られている。
 私は人間の意識の外側に潜り込むときの気配を作り出す。いや、気配というものを完全に消して、周りの空気と同化させる。今の私はそうとう集中して見ないと誰も気付くことができないだろう。これが、私だけが使うことのできる神がかった技術。華乃ちゃんを守るためだけにある技術。
 私は太った男の後ろに回り込む。華乃ちゃんの視界に私は入っているはずなのに、華乃ちゃんが私の姿を捉えることはない。涙目になって「そんなの困りますぅ」なんて言っている華乃ちゃん。そういう態度を見るとこういう類いの男は図に乗ってどんどん強引になるというのを華乃ちゃんは知らないのだ。
「ねぇ。一枚でいいからさぁ。ちょっと写真撮らせて」
 太った男が華乃ちゃんに向かってそう言った瞬間、私は男の首を締め上げて流水プールの流れが最も急なところに突き落とす。
 そして自分の存在を華乃ちゃんに意識できるレベルまで引き戻した私は、華乃ちゃんの腕を引いて一目散でその場から逃げる。もう流れるプールの周辺は危険だ。仕方ないから遠くのほうにある人気の低い五〇メートルプールに行こう。
「むつみちゃん、私……」と華乃ちゃんは泣きながら何かを言おうとする。
「いい。何も言わなくていいから」
 この子は私が守ってあげなければならないのだ。あまりに無垢で汚れを知らない、自分の身すら守れないこの子を、私が自立できるようになるまで面倒を見てあげなければならないのだ。
 私は震える華乃ちゃんの手を決して離さないようにぎゅっと握り締め、遠くのプールへと急いだ。
    5
 このときの私は不遜にも自分は華乃ちゃんというお姫様を守るために特別な能力を得た勇者のような存在なのだ、と思っていた。
 しかし、それは全くの勘違いだった。
 何かを守ろう、という気持ち。何かを壊そう、という気持ち。私はこれらを、表と裏、こちら側とあちら側、光と闇、そういう対なる存在だと思っていた。
 しかしその考え方は厳密な意味では間違っていた。
 本当はお互いに相似形だったのだ。常に互いが互いを含む集合だったのだ。
 あるいは私にもう少し教養があったのならば、自然破壊と自然保護の欺瞞などに思いを馳せることで気付けていたことなのかもしれないが、このときの私は幼すぎた。自分の心の深い部分に凶暴な破壊願望が隠れ潜んでいるなんて思いもしなかったのだ。
 でも事実私は彼女の心を壊すことになった。それもただの理由なき破壊願望だけではなく、利己的で、なおかつ狡猾な目的を持って、まるで牛肉を食べながら捕鯨反対についての議論を戦わせる自然擁護団体の幹部たちのような無邪気さでもって、私は華乃ちゃんの心をズタズタに引き裂いた。無意識のうちにアリンコを踏み潰すよう子供のように、華乃ちゃんの心がペースト状になるまで、何度も何度も踏みにじったのだ。
    6
「わぁ〜。むつみちゃん、ここのプールすごい空いてるよ〜」
 さっきは変態男に付きまとわれていて大変だったのに、随分と回復が早いものだ。それが華乃ちゃんの美点だと言えなくもないが、私としてはもう少し重く受け止めてそんな被害に遭わないような女の子に早く成長してもらいたいものだ。
「そうだね。ねぇねぇ華乃ちゃんこっち向いて」
「ん? どうしたの?」
 振り向いた華乃ちゃんの顔にめがけて、
「それっ!」
 と水を掛ける。すると華乃ちゃんも、
「やったなぁ〜」
 なんて言いながら水を掛けてくる。
 型に嵌りすぎた行動だけれど、そうだからこそ面白いときもある。手っ取り早く嫌なことを忘れたいときは、小難しいことをやるよりも、こんな単純なことのほうが効くのだ。
 閑散としたプール。若者たちは流れるプールやコースターのほうに行っていて、すこし歩く必要があるこの五〇メートルプールまではわざわざ来ないのだ。
 ここ以外にも流れるプールの横に五〇メートルプールはあったのだが、あの変態から少しでも離れたかった私は華乃ちゃんをここまで連れてきた。
 よぼよぼの老人が健康のためだか、なんだかのために水の中を歩いて行ったり来たりしている以外には、泳いでいる人はいない――老人たちも厳密に言えば泳いでいるわけではない――。今や私と華乃ちゃんの貸切り状態だ。ひょっとしたらここは案外穴場スポットなのかもしれない。
 どうやら華乃ちゃんはカナヅチらしいので、泳げるようになるのを手伝ってあげることにした。
 私が華乃ちゃんの腕を引いてゆっくりと歩くと、華乃ちゃんはバタバタとバタ足をする。五メートルそれをやったら息継ぎのため中断し――彼女は泳ぎながら息継ぎすることができなかったので、いちいち泳ぐのを中断しなければならなかった――、再び五メートル腕を引かれながら華乃ちゃんはバタバタとバタ足をする。それを十セット繰り返すことでやっとプールの端から端までを泳ぎ切った。
「やったぁ。私初めて五〇メートル泳ぎ切ったよ〜」
 華乃ちゃんはハァハァと息を切らしながらもうれしそうに言った。
 十回も地面に足を付けて――しかも手を引いてもらって――泳ぎ切ったというのも少し奇妙な話であるが私は合わせる。
「華乃ちゃん。偉いねぇ〜。泳ぎをマスターできた君は新たなステップに上がるときがきたようだね」と私は後半部分を低い声で言う。
「え? 急に怖い声出してどうしたの? それに新たなステップって?」と華乃ちゃんは恐る恐る聞く。
「そりゃあもちろん最終試験の『ジョーズごっこ』でしょう」と私は言った。
「ジョーズって鮫の? えぇ〜? そんなの嫌だぁ。怖いよジョーズとか」
 華乃ちゃんは肩を震わせて怖がる。こういう華乃ちゃんの姿を見ると私の嗜虐心に火が付く。
「じゃ〜今から三〇秒後にスタートね。ちなみに華乃ちゃんがあちらの岸まで着けたら、華乃ちゃんの勝ちだから」と私は五〇メートル向こうを指差して言う。
「え〜? そんな自力で泳ぎきるなんて無理だよぅ」
「イーチ、ニー、サーン、シー」
 私は華乃ちゃんの抗議の言葉を無視してカウントを取り始める。それを見た華乃ちゃんは大慌てで水の中に潜る。
「ニジュゴ、ニジュロク、……あ」
 私のカウントが二十六を回ったとき、華乃ちゃんは十メートル地点で溺れた。私は優雅なフォームのクロールで華乃ちゃんのもとへと泳ぐ。私はスポーツが全般的に得意なのだ。
 沈んでいた華乃ちゃんを助け出し、プールサイドへと行く。なんか起きないから定番の人工呼吸をやろうと思ったのだけれど――もちろんジョーズごっこをやろうと提案したのは人工呼吸をしたかったからである――案外平気だったようで華乃ちゃんはすぐに目を覚ましてしまう。
「なんだ、もう起きたのか。チッ!」と私は舌を鳴らす。
「ちょ、チッ! って危うく死にかけちゃったよぅ〜」と華乃ちゃんはうな垂れる。
「大丈夫。そんな人間は簡単に死なないから。ね? だからもう一回ジョーズごっこやろう?」
「そんなもう嫌ぁ〜。死んじゃうよぅ〜」
 華乃ちゃんがマジ泣きしそうになったので止めてあげる。
「嘘だよ嘘。そろそろ上がって、お昼ご飯食べようよ。それから遊園地に行こっか?」
 機嫌直しにデザートでも奢ってあげよう。
「うんっ! むつみちゃん、今日は本当にいい一日だね」
 華乃ちゃんはぽよぽよした柔らかそうな白い頬を綻ばせてそう言った。
    7
「へぇー。じゃあ華乃ちゃんは幼稚園から中学卒業までずっと女子校育ちなんだ」
 今私たちは遊園地内にあるレストランで食事をしている。私はピザとカルボナーラスパゲティ。華乃ちゃんはお子様ランチ。どうやら彼女は小食で、お子様ランチぐらいの量がちょうどいいらしいのだ。それにしても高校生が日の丸の旗がついたチャーハンを食べるというのも不自然な気がするが、小柄で幼稚園児みたいな肌の彼女にはぴったりなのかもしれない。少なくともヴィジュアル的には全く違和感がない。
「うんっ! お父さんとお母さんが華乃にはそっちのほうが合ってるって言ったから入ってたの。本当は一人暮らししながら高校もそこに通う予定だったんだけど、華乃には一人暮らし無理だからってことで転校することにしたんだ〜」
 やはり華乃ちゃんの両親は華乃ちゃんのことをしっかりと理解しているようだ。多分、家族間での諍いなんてない良い家庭なのだろう。私は少し羨ましくなってしまう。
「へぇー。華乃ちゃんは優しい家族がいていいね」と私は何気なく言った。
「あ……なんか私、はしゃいで無神経なこと言ってごめんなさい」
 華乃ちゃんは急に謝ってくる。おそらく私がわけの分からない雑居ビルの屋上で一人暮らしをしていることに何か特殊な事情があると思って謝ったのだろう。
「え? いや、気にしなくていいよ。私は一人暮らししてるけど家族に問題があるとかそういうのじゃないからさ」と私は取り成すように言う。
「そうなの? じゃあなんでご両親はむつみちゃんを屋上に一人で生活させているの?」
 華乃ちゃんはこちらのほうを訝しげに見てくる。
「あぁ。別に家族が嫌なヤツとかそういうのじゃなくて、ただよく理由は分からんけど私の両親中東のほうに行って帰ってこないから……」
「なんでまた中東? というかものすごく問題あるような気が……」と華乃ちゃんは言う。
「さぁ。石油でも掘ってんじゃない?」と私は答える。
「えぇ〜? 親の仕事ぐらいせめて把握しようよ」と華乃ちゃんはげっそりとした様子で言った。
「まぁ、人それぞれってことでいんじゃない? さて、そろそろ食べ終わったことだし遊園地行こうか? お姉さん、愛しの華乃ちゃんのために鉄砲でぬいぐるみでも取ってあげよっかな〜」と私は言った。
「え? ホント? 私ウサギのぬいぐるみが欲しい〜」と華乃ちゃんは目を輝かせて言った。
「任せときなさい。華乃ちゃんのためだったら野生のウサギだって捕獲しちゃうんだから」
 私は誇らしげに胸を張って答えた。
    8
 パコンッ! なんて発砲音としてはいささか間抜けな音がして弾が発射される。それは棚に座っているピンク色のウサギの胴体に吸い込まれ、ウサギは静かに棚の後ろに崩れ落ちた。手の平サイズだから難しそうだな、と思っていたのだがあまりに呆気なく取れてしまったので拍子抜けした。
「わぁ! むつみちゃんすご〜い! 一発で当てちゃうなんて」
 華乃ちゃんはまるで自分が撃ち落としたような勢いでピョンピョン飛び跳ねながら喜ぶ。
「はい、どうぞ。私のお姫様」
 私はそう言うと店長のおじさんから受け取ったぬいぐるみを華乃ちゃんの小さなピンク色のポーチに付けてあげる。なんとぬいぐるみはキーホルダータイプだったのだ。ポーチの端にある輪っかのような部分にキーホルダーを装着してあげる。これならちょっとやそっとのことでは落ちまい。
「ありがとぉ〜! こんな良くしてもらったら私、むつみちゃんのこと好きになっちゃいそうだよ〜」と華乃ちゃんは言った。
「え〜? 今までは好きじゃなかったの?」と私は聞く。
「今までも好きだよぉ〜! だけどそういうのを越えた好き、みたいな?」
 そういうのを越えた好き? そういうのというのは女友達同士としての好きであったはずだから、それを越える、ということはひょっとしてアレですか? いいんですか? 禁断のほうに突っ走っちゃっていいんですか? マリアさま?
「華乃ちゃん。いや、華乃さん」と私は改まった口調になる。
 そうだ。彼女は高校まで女子校――私の推測ではお嬢様校――に通っていたのだ。絶対にそういうシチュに出会っているはずだし、ひょっとしたら薔薇様たちのヴァレンタインカードを巡って争った経験があるのかもしれない。いや、それどころか華乃ちゃんぐらい可愛いんだったら薔薇様だった可能性だって十分にある。中学校に薔薇様がいるかどうかは分からないが、とにかくそういう百合的な素養がある可能性は高い。
 いける。これはいける。ついに私にも春が――。
「急に改まっちゃってどうしたの?」
 華乃ちゃんは私のほうを少し見上げるようにする。彼女も何かの予感を感じたのかもしれない。普段は語尾を伸ばすのに、今は伸ばさなかった。頬も少し赤く火照っている。
「オランダに……オランダに行きませんか?」と私は聞いた。
「ってむつみちゃん何言ってるのぉ〜? 気ぃ早すぎるよぉ」
 華乃ちゃんは私の背中をポンポン叩きながら笑って言った。
「あぁ……ごめん」と私は反射的に謝った。
 しかし、今の彼女の発言を精査してみよう。まず彼女はオランダ行き発言の真意――オランダは同性愛者の結婚を認めています――を一瞬にして汲み取った。そしてなおかつ間髪入れずに気が早すぎるよぉ、と言った。
 つまり、彼女はもう私に惚れていて、半分付き合っているような気分になっているのか? このようなとき一体どんな対応をすればよいのだろうか? 実際私は今まで女の子と――雄はもちろんのこと――付き合ったことがないのでよく分からない。
 とりあえず、とりあえず、とりあえず……
「とりあえずお化け屋敷にでも行こうか?」
 やはりチキンな性格の私であった。
 それからお化け屋敷に行って、はっきり言って小さな遊園地のお化け屋敷だからしょぼかったのだけれど、華乃ちゃんはきゃあきゃあ騒いで怖がり、私の腕にしがみついてきたりしたのでそこそこの収穫はあった。
 華乃ちゃんが、最近ジェットコースターの事故が多いから、と言って渋ったため絶叫系には一つも乗らないで終わった。多分、ジェットコースターの事故が多発していなかったとしても華乃ちゃんは乗るのを嫌がっただろうな、と思った。
 しょうがないので二人で小さなカートのようなものを運転して走り回った。こんなカートの何が難しいのか分からないのだが、華乃ちゃんは何度も壁にぶつかったり、コースから外れたりしていた。
 そして、日も暮れ始め、予定調和のように観覧車に乗ることになった。しかし普通の遊園地でイメージするような大きな観覧車とは違い、すさまじく小さい観覧車なのでグルリと一周するのに五分とかからない。そんな観覧車が一体何のためにあるのかよく分からなかったが、まぁ遊園地においての象徴、というか天皇みたいなポジションにあるこのアトラクションだけはどんなしょぼいものでもいいからあったほうがいいと、この遊園地を経営する企業は思ったのかもしれない。
 私と華乃ちゃんは隣同士で座る。別にこれには深い意味などなくて、ただ単に片側の座席が黒っぽく汚れていたからだ。少し老朽化が進んだ観覧車は時々風に吹かれてギシギシと揺れる。
 それでも頂上付近に来るころには街を眺める程度のことはできるようになった。遊園地の外に密集している工場の煙突からゆらゆらと白い煙がたちのぼる。あんなに煙が出ているのに、どうして空を白く覆い尽くさないのだろうか。
 少し向こう側には繁華街が見える。夜になるまでは蝶になる前の蛹のように大人しい。そしてそれのさらに向こう側には私の住む地区がある。埃っぽくてペンキの剥げた看板がたくさん掛かっている、黒ずんだ建物。道路を走る車もどこかしらトルコ車のような古びた趣のある車――トルコ車が古びているかどうかは知らないが、なんとなくトルコという言葉に私は古びたイメージを持つ――が多い。
 ひょっとしたら私の街のどんよりとした雲や、建物についた黒い染みは、ここらへんの工場の煙が作り出しているのかもしれない、と荒唐無稽なことを考えてみたりした。あながち正しかったりして。
 太陽の光が一つ先を行く観覧車の鉄の頭に当たり反射した。きらきらと輝くオレンジの光が目に入り、眩しくなった私は外の風景から目を逸らした。
 するといつの間にか、華乃ちゃんが私の手の上に冷たい小さな手を重ねていることに気付いた。
「華乃ちゃん、どうしたの?」とそれに気付いた私は声を掛ける。
「ううん、何でもない。一周するまでずっと握っていていい?」と華乃ちゃんは聞いた。
「もちろん」と私は答えた。
 私はもう一度自分の住む街を見ようと外に目を向けた。すると急にぽつりぽつりと華乃ちゃんは話し始めた。
「私、今まで通っていた学校から転校することになって不安だったの。新しい街に行くというのも不安だったけれど、やっぱり新しい人間関係が一番不安だった。新しい街って言葉には新しい人間関係という意味合いも含まれているものだから分けて考える必要はないのかもしれないけど」
「うん」と私は相槌を打った。
「だけどむつみちゃんは入学してからずっとおろおろしていた私に声を掛けてくれた」
「うん」と私は再び芸のない相槌を打った。
「うれしかった。共学って怖いところだと思っていたから私はうれしかった」
「私も華乃ちゃんに出会えてうれしかったよ」と私は正直な気持ちを言う。
 それから私たちはずっと黙って外の景色を眺めていた。もう頂上は越えていたので下降していく一方だった。まるで夢から醒めていく過程のような下降の仕方だった。まず私の住む地区が見えなくなり、それから繁華街が見えなくなり、ついには工場の煙突も派手な色のアトラクションに隠れて見えなくなった。もう見えるのは工場の高い煙突から空にたちのぼる白い煙だけだ。それだけが目覚めたばかりの脳内にたちこめる幾何学的模様のようなぼやけた輪郭を空に向かって吐き出し続けていた。
 その間も華乃ちゃんはずっと私の手の上に小さな冷たい手を重ねていた。
    9
「今日は楽しかったね、むつみちゃんっ!」
 観覧車を降りてから華乃ちゃんと私は特にどこかのアトラクションに乗るでもなくブラブラと遊園地の中を歩いていた。片手にソフトクリームを持ちながらだ。
 そろそろ夕方だし、華乃ちゃんの家は多分門限とかあるだろうから、このソフトクリームを食べ終わったら今日のデートはおしまいだ。
 そう考えると大して気温も高くないのにどろどろと溶けてゆくアイスクリームが恨めしくなってきた。
「うん。楽しかったね」と私は言葉少なめに答える。
「私も五〇メートル泳げるようになったしね」と華乃ちゃんは言った。
「十メートルぐらいで目を回して溺れていたのはどこの誰だっけ?」と私は茶化す。
「う〜。でもむつみちゃんが手を引いてくれてたときは泳げてたよね?」
「十回ぐらい地面に足付いて息継ぎしてだけどね」と私は再び揶揄するように言う。
「でもでも、むつみちゃんがいたら私は溺れないで五〇メートル泳げるよねっ?」
 華乃ちゃんはムキになって私のからかいの言葉にかぶせるように言った。
「そうだね。私がいればとりあえず華乃ちゃんは溺れないで済むね」
 私は静かな口調で答える。華乃ちゃんを守れるのは私だけなんだ、なんて心の中で誇らしげに思ったりしていたことは華乃ちゃんには内緒だ。
「また、一緒に来ようね」と華乃ちゃんははにかみながら言った。
「うん。また一緒に来よう。今度は流れるプールとかコースターとか泳げない華乃ちゃんでも楽しめるようなところで遊ぼう」と私は言った。
「私は泳げるよぉ〜」
 なんて華乃ちゃんは白い頬をふくらませて強がりを言う。春の夕暮れの涼しい風が華乃ちゃんのウェーブのかかった黒髪をそよそよと揺らす。
 ふいに華乃ちゃんの匂いが風に運ばれて隣を歩く私のところまでやってくる。私はそんな優しい匂いをかいで、羊水の中にいる胎児のような安心感を得た。
「溺れても私が助けてあげるから平気だよ」と私は言った。
「うん。むつみちゃんが守ってくれるから私は何も怖くなんてないよ」
 華乃ちゃんは下をうつむいてポツリと言った。
 それと同時に、少し強めの風が私たちの周りを駆け抜けていった。
「きゃっ!」と華乃ちゃんはかわいらしい声を出す。そして続けて、「アァ〜!」と変な声を出す。
「どうしたの、華乃ちゃん?」と私は聞く。
「私のソフトクリーム……」
 華乃ちゃんが泣きそうな顔になって地面を指差す。
 そこには風に吹かれて華乃ちゃんが手から滑らせてしまった、数秒前まではソフトクリームであった塊が落ちていた。コーンのほうからではなく、クリームのほうから落ちてしまったらしく、ソフトクリームコーンが小学生の描いた三角錐のように不恰好に立っている。まるで運動場に置いてある赤いコーンのようだった。
「大丈夫だよ、華乃ちゃん。今から私がひとっ走りして買ってきてあげるからさ」
 私は泣きそうになっている華乃ちゃんの頭をよしよしと撫でながら言った。
「本当?」と華乃ちゃんは期待のこもった目でこちらを見てくる。
「本当でございます、お姫様。爺やがすぐに新しいソフトクリームを買ってきて参りまする」と私は言った。
「ごめんね、むつみちゃん。でも悪いから自分で買ってくるよ」と華乃ちゃんは言った。
「いいのいいの。今日は私が誘ったんだから最後ぐらい私が出すよ。ちょうど私ももう一本ぐらい食べたいと思ってたところだし」
 本当は一本食べただけで身体は冷えてしまっていたのだが、華乃ちゃんにいいとこを見せたくて嘘を付いた。
「そうなの? じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
 華乃ちゃんは少し芝居がかった口調でそう言った。春の到来を告げるおだやかな風のような微笑みを口元に浮かべていた。
「よし。じゃあ華乃ちゃんはこのコーンのところで待っているんだよ。すぐ買ってくるからさ」
 そう言うと私は華乃ちゃんを残して、ここから少し遠くにあるソフトクリームの屋台へと向かった。
「むつみちゃ〜ん!」と少し遠くなってから華乃ちゃんが大きな声を出して私を呼んだ。
「なに〜?」と私も少し大きな声を出した。
「いつまでも、いつまでも友達でいようね〜!」と華乃ちゃんは叫んだ。
 友達かいな、と私は少しずっこけそうになったが、
「うんっ!」
 と言って華乃ちゃんのほうに大きく手を振った。華乃ちゃんも手を振り返してくる。
 友達でもいい。華乃ちゃんにとって特別な存在でいられるなら私は何だっていい。
 そして私は生まれてから感じるおそらく最高級の幸福の中、お姫様にアイスクリームを買うため、遠くにある屋台を目指す。
 このときの私は幸せだった。この一瞬一瞬が愛しくて堪らなかった。近くの工場から排出される煙に囲まれるこの遊園地の空気でさえ、愛しく感じた。私の肺の中に細かく堆積してゆく細かな塵のようなものにさえ愛を感じた。目に映る景色は全てが新鮮だったし、どこか私の心を突き回す郷愁のようなものも兼ね揃えていた。
 そんな微妙に自家撞着を起こした幸福感の中、私は小ぢんまりとした遊園地を駆け抜ける。小学生に白と黒の絵の具だけを与えて描かせたような薄汚れた空の下、私は華乃ちゃんのために走っていたのだ。
 これより幸せなことがこの世の中のどこにあると言えよう。
 私は確かにこのとき、私のしょぼい人生においての黄金時代を迎えていた。
    10
 幼い私はこのとき、自分は華乃ちゃんを守るナイトのような存在なのだとおこがましくも思い込んでいた。危機一髪になると必ず現れるご都合主義の産物でしかない勇者なんて現実世界にはいないのに、馬鹿みたいな絵空事を本気で信じていたのである。
 私は屋台に着くとソフトクリームを二つ注文した。慣れないバイトの子なのか、クルクルととぐろを巻いたソフトクリームを作るのに何度も失敗した。
 でもそんな些事は私の心に何のダメージも与えなかった。ほんの少しの苛立ちすらなかった。幸せの絶頂にいた私はちょっとやそっとのことにいちいち目くじらを立てる気になれなかったのである。
 もしそのバイトの子がさっさとソフトクリームを作っていたら、もし格好をつけて一人で買いになんて行かないで華乃ちゃんと一緒に行っていれば、もしあのとき忌々しい風が吹かなければ、なんて後になって『たられば』を言ってもどうしようもないのが世の常だけれど、私はそう思わざるを得なかった。
 もし華乃ちゃんをこんな危ない遊園地に連れて来なければ、華乃ちゃんの心は壊れなくて済んだのに。
 いや、これは欺瞞だ。物や自然事象に責任をなすり付けようとするなんて愚の骨頂だ。
 もちろん、あの忌々しい男に責任をなすり付けるのも同じく愚というものだろう。
 たしかにきっかけにはなったかもしれないが、原因ではないのだ。
 原因は私にある。工場の高い煙突からたちのぼる煙が空気に紛れて、気付かれぬまま人の肺へと侵入するように、私の心にも静かにポツリポツリと悪意という名の塵が堆積していたのだ。
 そう。華乃ちゃんの心を壊したのは私なのだ。
 私の中にある無意識下のエゴイズムが華乃ちゃんの心をズタズタに引き裂いたのだ。
 そんなことになるとは露知らず、ソフトクリームを両手に抱えた私はウキウキとした足取りで馬鹿みたいに鼻歌を唄いながら、華乃ちゃんがいるはずだったコーンの場所へと向かった。
 しかし、そこに華乃ちゃんはいなかった。
 華乃ちゃんだけでなくソフトクリームコーンの不恰好な三角錐もなくなっていた。
 いや、ソフトクリームはあったが、誰かが無理やり踏み潰したように、まるで自動車に轢かれたカエルのように、ペースト状で地面に張り付いていた。
「華乃ちゃん……?」
 私の空しい声が少し肌寒い春の空にポツリと浮んで、そして消えた。
    11
「華乃ォー!」
 私は自分が女であることを忘れて半狂乱状態で遊園地を駆けずり回る。
 あまりの興奮状態で、私は他人の意識に干渉する技術を誤作動させてしまっているらしい。急に半径十メートル以内の人たちが私のほうを惚けたような間抜けな顔で見とれたり、まるで私の存在がこの世界から欠落してしまったかのように、急に視認できないほどの薄い存在感になって、歩く人々にぶつかり不思議そうな顔をされたり、とにかくめちゃくちゃだった。
 私はそこら辺でノロノロと歩いている人々をなぎ倒し、ダストボックスをなぎ倒し、着ぐるみをなぎ倒し、何かもをなぎ倒しながら馬鹿みたいに大きな声を張り上げて華乃ちゃんを探す。
 誰にも私の声は認識されていないのかもしれない。それとも異常な存在感を放つ私に見とれて、私の声など耳に入っていないのかもしれない。私のほうを見て間抜けな顔をしたり、見えない私になぎ倒されてやはり間抜けな顔をする人々。
 私は今自分が他人にどのように見えているのか把握できていなかった。今まで空気のように慣れ親しんできた能力が、完全に暴走していた。走りすぎて過呼吸になっても無視して走り続ける。気を失いそうになって倒れてもすぐに起き上がって走り続ける。
「華乃ォー! 華乃ォー!」と野獣のように吠えて走り続ける。
 体裁なんかに構ってはいられなかった。私は華乃ちゃんがいなくなってしまったら生きていくことなんてできない。華乃ちゃんがいなくなったら私は今右手に持っているソフトクリームのようにどろどろと溶けて消えてしまう。
 溶け切るのを『華乃ちゃん探しゲーム』のタイムリミットに設定しているかのように、ソフトクリームはポタポタと、まるで一定のリズムで時を刻む無慈悲で残酷な時計みたいに溶けてゆく。このソフトクリームが完全に溶けてしまうと同時に華乃ちゃんもこの世界から溶けていなくなってしまうかのではないか、という懐疑的思想の迷宮に私は陥った。
 右手が気持ち悪い。でも私にはどろどろになったソフトクリームを投げ捨てることがどうしてもできなかった。まるで嵐の中で走ることを余儀なくされた聖火ランナーのように私はソフトクリームを守りながら走り続けた。
 ついに私は少し外れたところにある公衆便所の前で華乃ちゃんへと繋がる手がかりを掴んだ。
 私がプレゼントしたピンク色のウサギのキーホルダーだった。凶暴な力に晒されたのか、銀の金具部分はごっそりと引き千切られていた。
 打ち捨てられたピンク色のウサギのぬいぐるみはまるで本物の子ウサギの死骸みたいな生々しいリアリティがあった。
 全身から右手のソフトクリームみたいな感触を持った生々しい汗が噴き出る。もうほとんど右手のソフトクリームは原形を保っていなかった。私は乱暴にぬいぐるみを左ポケットに突っ込むとトイレの中へと突入した。
 まずは男子トイレに入ったが、そこには誰もいなかった。次に女子トイレに入ると、ひとつ故障中の札が貼られた扉があった。私は迷わず蹴り開けた。しかしそこにも誰もいなかった。
 一体華乃ちゃんはどこに消えてしまったんだ?
しかし、呆然としている私の耳に、誰かのすすり泣くような声が聞こえた。 最初は空耳かと思ったが、確かに声がする。
 しかし一体、どこから?
「むつみちゃん……た、助けて……むつみちゃん……む、つみちゃん……」
 この声は華乃ちゃんだ! しかし一体どこにいるんだ? トイレには誰もいない。
 私は耳を澄ませながら素早くトイレの外に出る。トイレの横には森がある。地域緑化運動だかで植えられた木々で形成された森だから大して深くはない。
 そこが華乃ちゃんの声の発信源に違いない。なぜならこのトイレの近くには他に何もなかったからだ。そのせいで誰も寄り付かないのだが、ある意味、私と華乃ちゃんが泳いでいた五〇メートルプールのような穴場、いや、盲点だと言える。
 私は森の中へと足を踏み入れた。すると段々華乃ちゃんの泣き声が大きくなってきた。
 やはり華乃ちゃんはここにいる。私は声の方へと足を急がせる。
 そして、少し大きな木々が鬱蒼と茂っている場所に、華乃ちゃんはいた。
 華乃ちゃんだけではなかった。
 獣がいた。いや、獣と呼ぶにもおこがましい、種の保存の本能を欲望、快楽に置換した歪んだ一人の人間がいた。
 その人間は流れるプールの上を通る歩道橋の陰で華乃ちゃんに詰め寄っていた、あの男だった。
 私にはその男が私や華乃ちゃんと似た組成で創られた人間であるとは信じられなかった。何か別の生き物のように見えた。しかし同時に、こうも醜い生物が地球上にいるということに上手く現実的な肌触りとして認識することができなかった。
 そんな汚れた肉の塊が華乃ちゃんの身体に覆い被さるような格好になっているのだ。
 しかし、まだ純潔は奪われていない。
 その太った男は下半身を露出して、ナイフを片手に持ち、反対の手で華乃ちゃんの口を押さえつけている。時々、男のぼてっとした汚れた指の隙間から、
「む、つみ、ちゃん……助けて……タスケ、テ」
 と嗚咽混じりの声を漏らした。
 顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、今日は本当にいい一日だね、と綻ばせていた笑顔の面影はどこにもなかった。
 たったの数時間前には、今日は本当にいい一日だね、と微笑んでいた少女が数時間の間にこんなにも酷い絶望に晒されるという残酷な事実を私は現実的な質感として上手く把握できなかった。
 数時間どころの話ではない。十分ほど前まで、彼女は確かに、春の到来を告げるおだやかな風のような微笑みを口元に浮かべていたのだ。
 そんな華乃ちゃんの美しい口元が、笑うときに目尻に寄る小さな皺が、柔らかそうな頬が、こんなにも醜く引き攣らせられるという現実を一つの事象として受け入れることができなかった。
 私は静かに自分の気配を消す。他人が視認できないレベルまで世界と同化させる。
 そして、私は、私は――。
 華乃ちゃんのことを助けることもなく、木の陰から息を殺してそれをじっと窺った。
    12
 このときの私が何を考えながら華乃ちゃんが壊される様子を窺っていたのかは分からない。
 大体、人間の脳内の働きとか考えていることを全て言語化しよう、なんてこと自体が土台不可能なのである。
 このときの私の脳内は、時々文字も現れたかもしれないが、ほとんどは音や映像、その他の感覚で形成されていたし、なによりもこのときの私は少し混乱していた。
 しかし、なぜ華乃ちゃんをすぐに助けないでいたのかについて推理することはできる。
 簡単に推理をすれば、華乃ちゃんを保護したいという願望と共に、華乃ちゃんを破壊したいという願望が私の心の深いところにあった、という安易な結論が導き出されるのだが、それだけではないだろう。
 それだけならばとうの昔に私は自分でやっていただろう。いくらでも華乃ちゃんを肉体的、精神的に殺す機会はあったのだから。部屋で二人きりのとき。プールで泳いでいるとき、などなど。
 それに、人間とは本能的な願望――破壊願望や愛玩願望――に従うのと同時に、非常に理知的で狡猾な目的を持つことができる動物なのだ。人類が生態系のトップに君臨している理由はそのような技術を持ちえたことに他ならない。
そういう意味では、華乃ちゃんが壊されるのを黙って見ていた私はこのとき、とても人間らしい精神状態であったと言えるのかもしれない。
 私は、華乃ちゃんを自分だけのものにしたかったのだ。
 上手い具合に心が壊れて男に恐怖するような、私だけに都合の良い華乃ちゃんを作り出そうとしたのだ。私は華乃ちゃんを人形にしようとしたのだ。
 飼っている小鳥が飛んでいってしまわないように風切り羽を千切る人間と同じ心理。
 世界中の至るところで見られるさして珍しくもない人間のカルマ。思索能力を持ってしまったが故に生み出された業。
 そんな自身の利己心を満たすためだけに、私は華乃ちゃんの心が壊れる音が聞こえるその瞬間がやって来るまで黙って息を潜めて待っていたのだ。
 おとぎ話に出てくるお姫様を救うナイト。彼らはなぜいつも危機一髪で助けるのだろうか。本当は危機が迫るずっと前から物陰で息を殺してじっと待っていたのではないか。
 ナイトが登場するに相応しいシーンが訪れるまで、お姫様がどれだけ痛めつけられようとお構いなしで平然と出番を待ち続けていたのではないか。
 私がしたように、お姫様の心の壊れる甘美な音がしてから颯爽と現れて悪者を倒したのではないか。
 そんなふうに私は思ってしまう。少なくとも現実世界のナイトなんてそんなものだった。私がそれを証明してしまった。
 ナイフを持った男に覆い被されて、心が壊れてしまった華乃ちゃん。
 特に男が何かの行動を起こしたわけではない。男は何もしないで黙ってナイフを握り、下半身を露出し、覆い被さっていただけだ。その後、何かをしようと企んでいたには違いないが、その前に私がその男をブチ殺してしまったのだから、結局のところは分からない。
 唯一はっきりしていることは、華乃ちゃんの心が壊れてしまったということだけだ。
「む、つみちゃん……タスケテ……むつみちゃん、タスケテタスケテタスケテ――」
 壊れた音楽プレイヤーのように『むつみちゃんタスケテ』を繰り返していた華乃ちゃん。
 しかしある瞬間、それはプツリと電池が切れたように停止してしまい、二度と再生されることはなかった。気を失ったわけではない。目は開いている。それでもその目には光というものがない。暗い井戸を覗き込んだときに見える気がする、漠然とした不純物みたいなものが浮んでいるだけ。
 あの暗く濁った眼球が、微笑んだり、涙を浮かべたり、そんな動作を表現する器官だったとは信じられなかった。
 そして、私は華乃ちゃんの心が折れる音を聞いた。
 ポキンッという甘美な音がした。小鳥の足の骨が折れるときの音みたいだった。
 なぜそんな音が聞こえたのかは分からない。ただの幻聴だったのかもしれない。
 それでもその音を聞いた私は、華乃ちゃんの心が粉々に壊されたことを知った私は、男のナイフを持っているほうの手首を静かに持つと、男の首を掻っ切った。
 噴水のような血飛沫が宙を舞い、多少の時間差ののち、華乃ちゃんの顔に降りかかった。
 それでも華乃ちゃんはまばたき一つしなかった。
 男は即死だった。おそらく自分の身に何が起こったのか分からずじまいのまま死んでいったことだろう。
 私は華乃ちゃんの心を壊し、私の足元にも及ばない小者の変態を殺害したのち、携帯電話から警察を呼んだ。
 友達をレイプしようとしていた男が、私が駆けつけたら目の前で首を掻っ切って自殺をした、と。
 警察がやって来て、次に救急車がやって来た。救急車は華乃ちゃんを乗せてどこかに行ってしまった。
 私は警察署で事情聴取を受けたのち、病院に連れて行かれた。PTSD、心的外傷後ストレス障害の恐れがある、とのことだった。
 なぜみんなトラウマで全てを片付けようとするのだろう。怜悧な状態の私が育てた怪物のどこに心的外傷後ストレス障害などが入り込む余地があるというのだ? そんな私が目の前で男が死んだ程度でどうにかなるなんてありえないのに。
 誰も私の中で生き続ける醜悪な悪魔に気付く者はいない。
 私は精神状態がそこまで酷くないので家に帰っていい、とのこととなったが、華乃ちゃんのほうは酷い状態らしく、長期的に入院することが決まった。
 今の華乃ちゃんは自分で飯も食えない状態で、一時的なものだと思われるが、失語症にもかかっているそうだ。
 飛べなくなるだけでなく、歌えなくなった小鳥。
 それが今の華乃ちゃん。
 男を殺害したとき、私の右手には何か良くない呪いが降りかかったみたいに、アイスクリームがべっとりと張り付いていた。
 現場に到着した警察の人が用意してくれた綺麗な白いタオルで丁寧に拭いたはずなのに、いつまでもべたべたとした質感が残っていた。
    13
「わざわざ華乃のためにすまないね。きっと華乃も喜ぶと思うよ」
 華乃ちゃんのお父さんは言った。若くて、目が覚めるほどハンサムなお父さんだった。
 昨日から華乃ちゃんは街の東地区にある病院に入院していた。昨日は家で安静にしているように言われていたので、まだあれから私は華乃ちゃんに会っていない。
 どこに華乃ちゃんが入院しているのか正確に把握していなかった私は、華乃ちゃんの家に電話をして、病院のロビーで華乃ちゃんのお父さんと待ち合わせをすることになったのだ。
「いえ。当然のことです。それにあの事件は私のせいで起こったようなものなんですから」と私は言葉少なめに答えた。
 落ち着いているふりをしているが、本当はこの場で自分の腹を裂いて中身を出し、いかに自分が汚れているのか、華乃ちゃんのお父さんに見せてやりたかった。
 でも、なんと説明すればいいのか分からなかったので私は黙っていた。いや、なんと説明すればいいのか分からないという、もっともらしい理由を付けて自分を誤魔化しているだけだ。本当は糾弾されるのが怖いから隠しているのだ。つまりは保身である。
 いつから私はこんなに汚れた人間になったのだろう。
 私は自分がしてしまったことと自分が理想とする自己像との間のギャップに苦しんでいた。いや、上手く距離を測りかねていた。
「そんなことを言わないでくれ。ちょっと目を離しただけで君のせいだなんて、そんなのおかしいよ。どれもこれもあの悪魔のような変態男が悪いのさ」と華乃ちゃんのお父さんは腹立たしげに言った。
「いえ、それは……」
 私は何か言おうとしてやめた。私が本物の悪魔なんです。私が華乃ちゃんの心を壊したんです。華乃ちゃんが私に助けを求めていたとき、本当はすでに現場に到着していたのに、なぜか動けないで物陰からじっと窺っていた自分がいたんです、なんて言えばよかったのだろうか。
 おそらくそう言ったとしてもこの優しいハンサムなお父さんは、それは恐怖のため立ち尽くしてしまっていただけだ。それを何か悪いことと勘違いしているだけだ。だから君には責任はないんだよ、と言ったことだろう。
 でもそれは違うのだ。私はあんな小者の変態などちっとも怖くなかったのだ。
「華乃についてだけれど、まだ会話はできないと思う。一応面会謝絶の札は外れたけれど、それは女性に対してだけだ。今や男だったら父親である私でさえ見ただけで布団の中に隠れるようになってしまったよ……」
 華乃ちゃんのお父さんは弱々しく笑って言った。
 一体、自分の娘に避けられる親の気持ちとはどういうものだろう。それも反抗期などという分かりやすい定型ではなく、何か別の異常な理由で避けられている親の気持ちだ。
 私にはそれが死よりもつらい究極の地獄であるような気がした。
 『死』よりもつらいことが、この世の中にはあるのかもしれない。
 しかしそれは、私のような甘ったれた人間に本質的な意味での理解ができる類いのことではないようだった。
「そうなんですか……もし良ければ、私に華乃ちゃんの介護をさせていただけないでしょうか?」と私は慣れ親しんだ詩を詠むようにすらすらと言った。
 私は自分が少女の皮をかぶったとんでもない悪魔なのではないか、という疑惑を持った。華乃ちゃんを襲った男みたいな分かりやすいやつではなくて、私のような人間が真の悪魔なのではないか、と。
 本当の悪魔は天使のような美しい見た目か、もしくは誰にも一瞬にして忘れ去られるような地味な見た目をしているに違いない。分かりやすいやつらはみんなフェイクだ。
 本物の悪魔は最後まで悪魔であることなんて気取られるはずがないのだから。
 おとぎ話で、本当の魔王は勇者であった――私の見解である――ことと同じように、完全なる悪というものは最後まで気取られないからこそ、完全なる悪であり得るのだ。
 犯罪についても同じことが言えるだろう。疑いが発生した時点で完全犯罪ではない。本当に完璧な犯罪は疑いどころか、事件の発生さえも気取らせないに違いない。
 そういう点から考えれば、私は完全犯罪を達成した。
「いいのか? うちの家内も仕事をしているから、そうだと非常に助かるのだけれど」
 華乃ちゃんの両親は一緒に建築事務所を経営していて、共働きなのだ。前に華乃ちゃんが言っていたので、両親が仕事で忙しいことは知っていた。
 もしあの事件のとき私がここまで見通していたとしたら、私は紛れもない悪魔だ。
「いいんです。私は、私は華乃ちゃんの友達なんですから」と私は言った。
 すると華乃ちゃんのお父さんは感極まったように瞳に涙を浮かべて、
「君のような友達ができて、本当に華乃は幸せ者だ」
 と言った。それから私の腕を震える手で握って、「ありがとう……ありがとう……」と何度も繰り返した。
 綺麗な指をしたお父さんだった。こんな綺麗な指を駆使して、この人はいつもどこかの誰かのために図面に線を引いているのだろうか。
 そう思うと同時に私は、華乃ちゃんの小さくて冷たい手を思い出した。
 プールで泳ぎの練習をしていたときに、私の手にきゅっと小さな指を絡めて離さないようにしながらバタ足をしていた華乃ちゃん。
 観覧車の中で私の手の上にそっと重ねてきた小さくて冷たい手。
 華乃ちゃんの指もスベスベとした綺麗な指だった。まるで搾りたての乳を固めて創られたような白くて綺麗な指だった。
 そんな幸せだったひと時のことを思い出していると、急に涙が零れてしまった。
 静かに一筋の涙がツゥーッと垂れた。嗚咽も漏らさずただ、静かに一筋の涙が流れた。
「大丈夫?」
 華乃ちゃんのお父さんはそれを見ると、綺麗な指を私の汚れた手の上から離して、心配そうに尋ねた。
 私は一体、何をやっているのだ。泣きたいのは華乃ちゃんのお父さんのほうなのに、なぜ私が涙なんかを流しているんだ。
 私は汚れた手で――華乃ちゃんのお父さんから触れてきたとは言え――華乃ちゃんのお父さんに触れてしまったことを恥じた。
 私の手は汚れている。あの事件から、特に右手がずっとぬるぬるしているのだ。
 アイスクリームがべとべとと張り付いていた手。男の手首を掴んで、ナイフを男の首筋に当てて、ざっくりと切り裂いたほうの手。
 男の死体の手首にはべっとりとアイスクリームが付いていたが、特に誰にも突っ込まれなかった。脈でも確認したと思われたのだろうか。
 私がずっと下をうつむいていると、華乃ちゃんのお父さんは私の頭をポンポンと撫でてから、
「それでは、私は仕事があるからそろそろ行くよ。もし良ければ華乃に会ってくれ。私だとダメだが、きっとむつみちゃんだったら大丈夫だろうから」
 と言うと、華乃ちゃんのお父さんは病院の入り口から足早に出て行ってしまった。いてもしてあげられることが何もないのだろう。それに華乃ちゃんを養うためにも、彼は働かなければならないのだ。綺麗な指でせっせと図面を作成しなければならないのだ。
 私は華乃ちゃんのお父さんが病院を去ってからも、ちょっとの間その場から動くことができなかった。
 華乃ちゃんのお父さんだって、本当は私の頭なんかじゃなくて、華乃ちゃんの頭をポンポンと撫でてあげたいのだ。私は綺麗な指を持つお父さんに頭を撫でられる華乃ちゃんの姿を想像してみる。それはとても美しい一枚の絵だった。幸せな絵だった。
 だけれど、そんな機会はもう失われてしまったのだ。
 いや、そういう機会自体は華乃ちゃんのショック状態が和らいだら、また見られるようになるかもしれない。しかし、以前とまったく同じようには行くまい。そこには何かの芸術的完全性のようなものが失われてしまっているに違いない。
 私はそんなことを考えると、ノロノロと歩き始め、華乃ちゃんの病室を目指した。
    14
 華乃ちゃんの病室は東棟にあり、病室の窓からは工場の煙突や、小さい観覧車が見えないようになっていた。
 おそらく病院側が配慮したのだろう。華乃ちゃんの病室の窓からは中央棟の外壁とその壁に等間隔で並ぶ窓が見えるだけだ。その間には広々とした開放的な中庭があり、入院患者たちの憩いの場となっていた。
「華乃ちゃん……私のこと、分かる?」
 そう言うと私は華乃ちゃんのがらんどうで生気の無い瞳を覗き込んだ。すると華乃ちゃんはカサカサに乾いてしまっている唇を動かして、何かを話そうとした。
 でも華乃ちゃんの唇からは何の言葉も紡ぎ出されなかった。
 本当のところ、華乃ちゃんは声を出しているのに、それらの言葉が私のもとに届く前に病院の白い壁に叩きつけられてしまっているのではないか、と私は疑った。
 華乃ちゃんの紡いだ言葉がピンで腹を突き刺された昆虫の標本のように壁に打ち付けられているのではないか、と。
 唇を少し震わせながら、私のほうを見上げる華乃ちゃん。手元には銀の金具が千切れてしまったピンク色のウサギのぬいぐるみがあった。
 華乃ちゃんは小さな綺麗な指でぬいぐるみをきゅっと掴んでいた。
 それから私は華乃ちゃんのトイレを手伝ったり、ご飯を食べるのを手伝ったり、身体の汗を拭いてあげたりした。
 一方的なお話を語り続けた。勇者がお姫様を救う話をした。もちろん私の作り話の中の勇者は物陰で隠れて機を窺ったりなどしていなかった。
 ボロボロの状態で駆け込んできて、絶体絶命だった場面を危機一髪の場面に置換し、そして最後は自由安泰に置換した。とても手際の良い勇者だった。
 華乃ちゃんはなにも話さなかったけれど、それでも病室に来たばかりのときに比べて、いくぶんか表情が和らいだような気がした。
「華乃ちゃん、それじゃあまた明日来るね」
 日が暮れてきたので私は家に帰ることにする。結局、華乃ちゃんの声を聞くことはできなかったけれど、それは私の招いたことだ。この白くて綺麗な清潔感のある鳥かごの中に華乃ちゃんを閉じ込めたのは他ならぬ私なのだ。
 私は自分が今どこに向かっているのか分からなかった。下降しているのか、上昇しているのか、全くもって見当がつかなかった。
 何も分からぬまま、何の救いもないまま、私は私の居場所である、どこかしら埃っぽい街に帰巣本能に従う鳥のように帰るしかなかった。
 狂い始めた立ち位置に、このときの私はまだ気付いていなかったのだ。
    15
 それから一週間ほど経って華乃ちゃんは声を取り戻した。小鳥は歌を取り戻したのだ。
 それと引き換えに、私の立ち位置は目に見えて狂い始めた。この時初めて私は、自分が下降していることに気付いた。
 私は華乃ちゃんのためだけの技術を上手く制御できなくなっていた。遊園地で華乃ちゃんを探しているときほど酷くはないにせよ、私の技術は目に見えて減退していった。
 まず、私は電車の中で痴漢に遭った。華乃ちゃんの入院している病院からの帰りのことだった。たったの二分か三分ほどの乗車時間の目一杯、気持ち悪い吐息を漏らす男に嬲り者にされた。
 私はホームに着くとトイレに駆け込み、胃の中のものを全て吐いた。涙も出た。鼻水も出た。失禁すらした。
 普段の私からは考えられないことだった。人間の意識と無意識を完全に掌握していた頃の私には似ても似つかない醜態だった。
 そして車に轢かれかけた。青信号を渡っていた私の目の前を凄まじいスピードで鉄の塊が駆け抜けていった。まるで私など最初からそこにいなかったかの如き迷いのないスピードだった。間一髪飛び退いて助かった私はその場で無様にも腰を抜かして、腹を潰された芋虫のように転げまわった。
 なんとか這って歩道まで来た私はその場でやはり全てのものを身体から排出した。多くの人が往来している道のど真ん中で痴態を晒した。しかし誰もその痴態に気付く者はいなかった。私が出した吐瀉物の類いにすら誰も気付かず踏みつけていった。
 そのときの私は完全に世界から隔絶されていた。まるで全世界が壮大なホログラフィーで創られたたちの悪い冗談のように思えた。しかし、本当は自分こそが現実世界の中に創られたたちの悪い冗談だったのだ。
 そのことに気付いた私は段々、自分自身の存在が現実なのか虚構なのか区別が付かなくなっていた。私は自分自身の存在に現実的な質感を見出せなくなっていた。
 私は学校に行かなくなった。華乃ちゃんのところに行くとき以外は雑居ビルの屋上にある、薄汚れた四角い箱に閉じこもった。家から出るときは、最近、段々と暖かくなってきているにも関わらず暑苦しいコートを身に纏った。私の身体のサイズにはあまりにもでか過ぎるコートだったが、痴漢に遭わないようにするためにはそれしか方法が無かったのだ。
 できるだけ肌の露出は避けて、イスラム教の女性信者のような格好をする必要があったのだ。つばの深い帽子を被って、大きなマスクをして黒いサングラスをかけた。
 電車はやめて、徒歩で病院には通った。それでも途中、路上で襲われることがあった。だから私は刃渡り一五センチのナイフを持ち歩いた。そして私は襲ってきた男の腹を刺した。プスッと先っちょでつつくようにしただけだったが、それだけでその男は泣いて逃げ出した。
 それでも、その男が感じていた恐怖よりも、私が感じていた恐怖のほうが強かったに違いない。なぜなら、私は必死でナイフを振りかざし、男を追い払いながらも、絶えず失禁し続けていたのだから。
 今や、普段は平気だった屋上から下に行くために使う、呪われた鉄階段にすら私は戦慄した。私には階段が哄笑しているように見えて仕方がなかった。いつか自分を吸い込んで下に生える街路樹のピンと尖った先に私の肉を突き立てるのを、舌なめずりして待っているように思えて仕方がなかったのだ。
 精神的に参ってきた私は、薄暗い室内にこもってリルケの『マルテの手記』を何度も何度も貪るように読んだ。

『窓をあけたまま眠るのが、僕にはどうしてもやめられぬ。電車がベルを鳴らして僕の部屋を走りぬける。自動車が僕を轢いて疾駆する。どこかでドアの締まる音がする。どこかで窓ガラスがはずれる。僕には大きな窓ガラスの破片が哄笑し、小さな破片が忍び笑いするような気がした』

 私は自分とこのどこかしら埃っぽい街を繋ぐ唯一のラインである鉄の簡易階段が発する哄笑に恐怖し続けていた。
 私は私を轢き殺そうと走る鉄の塊に恐怖し続けていた。
 多少の音でビクビクし、食事をろくにとっていないせいで痩せ細った身体を毒虫のように仰け反らせ、拷問を受ける革命家のような悲鳴を上げた。悲鳴を上げるたびに浮き出た肋骨がバラバラになる感覚がした。顔の贅肉が必要以上に削ぎ落とされたせいで、ぎょろぎょろとしていた目を周りに走らせ、物陰に理性を失った男が隠れているのではないかと懐疑心に陥った。
 赤茶けたフォルムの古びた電車が、私の四角い部屋を、私の身体を、後方から突き刺すようにして通り過ぎるたびに、私の肌は沸騰するように粟立った。
 いつ自分が完全に世界から欠落してしまうのかと、いつ自分がアイスクリームのように世界から溶けてなくなってしまうのかと、自分の痩せ細った身体を抱えながら考え続けた。しかし、答えは出なかった。
 アイスクリームのどろどろとした質感が残る右手からは腐臭がするような気さえした。
 いつかそこから私は腐り始めるのだろう、と私は右手を洗面所で何度も何度も洗いながら思った。
 いいかげん指先がふやけてきて、しまいには血が滲んできても私は右手を洗うのを止めなかった。

『空気の一つ一つの成分の中には確かにある恐ろしいものが潜んでいる。呼吸をするたびに、それが透明な空気といっしょに吸い込まれ――吸い込まれたものは体の中に沈殿し、凝固し、器官と器官の間に鋭角な幾何学的図形のようなものを作ってゆくらしい。刑場や拷問部屋や癲狂院や手術室など、あるいはまた晩秋の橋桁の下などから醸された苦痛な恐怖感は、あくまで執拗にまといつき、どこまでもしみこみ、すべての存在を嫉妬するかのように、その恐ろしい現実に執着して離れない』

 私は華乃ちゃんとのデートのときに愛しく感じていた、このどこかしら埃っぽい街にもほとほと嫌気が差していた。
 私の四角い部屋の窓から覗く街の風景は、どう見ても癌のように黒ずんでいていたし、空は血反吐と泥をかき混ぜたような色をしていた。
 少し遠くにある工場群の煙突から空へと撒き散らされる煙が、私の肺の中に侵入してくるたびに、私は自分の心もこのどこかしら埃っぽい街のように汚れていくのではないかと思ったし、実際にそれを感じるたびに自分の喉に指を突っ込んで得体の知れない病巣部位のようなものを、肉を引き千切ってでも吐き出そうとした。
 それでも私の喉からはもうほとんど何も出なかった。酸っぱい胃液と血の混じった液体しか出てこなかった。
 そして私は、毒々しい黒い斑点がいっぱい付着した自分の心臓を想像した。街と重ね合わせながら考えた。
 右心房、右心室、左心房、左心室。これらを工場密集地帯や欲望にまみれた繁華街や華乃ちゃんが入院している病院や自分の住んでいる雑居ビルに見立てて考えた。
 私の想像の中での心臓は、常に毒々しい黒色で塗りたくられていた。そこを薄汚れた血液のような人や車や電車が縦横無尽に突っ切っていた。
 私は息を吸い込むたびに細かな死が体内に降り積もっていくのを感じた。
 破壊願望と愛玩願望が二者択一のものではなく、常に互いを含んでいる集合であり相似形であることに気付いたように、私は生と死が互いに指を絡めあって背中合わせになっていることに気付いた。
 それでも私は華乃ちゃんのもとに通い続けた。華乃ちゃんはまるで私の魂を少しずつ削り取り、それを養分としている不思議な虫のように回復していった。
 一時期、自分でご飯も食べられなくてげっそりと痩せていた頬も、今やぽよぽよとした血色の良い玉のように美しい肌に戻っていたし、カサカサだった唇も、まるで表面張力で水が張っているのではないか、と思ってしまうほどの瑞々しい潤いで満ちていた。
 井戸の底の異物が浮いているようにしか思えなかった眼球も、今や爛々と好奇心に輝く活発な瞳に戻っていた。
 恐ろしいほどの美しさだった。華乃ちゃんの肌が、唇が、瞳が、声が、微笑が、それら全てが私の毒々しく汚れた心を揺さぶった。
 まるで私は神にひれ伏す信心深い民のように華乃ちゃんの前に跪いた。
 病床に臥している少女の前に跪く私の姿は、誰にも入り込む余地のない鬼気迫る何かがあった。
 その姿は、見る者を恐怖させるほどの甘美で妖艶な雰囲気で満ちていた。
 病室に入ると私は華乃ちゃんの目の前に数分間跪いてから、華乃ちゃんのおなかの辺りに頭を乗せ、赤子のように泣きじゃくった。
 華乃ちゃんは「もう大丈夫だよ。もう大丈夫だよ」と聖母のような慈悲深い声を私にかけ、私の艶を失った醜くパサパサとした髪の毛に美しい指を絡めた。
 華乃ちゃんの心を粉々に粉砕したはずの私は、いつの間にか華乃ちゃんに飼われる存在まで堕していた。
 華乃ちゃんにこのどこかしら埃っぽい街の中にある病室の鳥かごの中に入れられ、愛玩される、風切り羽を引き千切られた小鳥と化していた。
 しかし、そんな華乃ちゃんも完全には回復したわけではなかった。華乃ちゃんは私の目の前でしか、存在できなかったのだ。
 医者や看護士、両親が入ってくると途端に虚ろな瞳になり、手元の銀の金具が千切れたピンク色のぬいぐるみをきゅっと抱えてうつむいてしまうのだ。
 完全なる存在である天使のような華乃ちゃんは、私以外の人間が現れると、かくれんぼを楽しむ無邪気な子供のようにどこか遠くに隠れてしまうのだ。
 なぜ華乃ちゃんが私の目の前でしか存在できないのかは分からなかった。
 それにこのときの私は自分のことに精一杯でそんなことを考える余裕がなかった。
 少なくとも華乃ちゃんの白くて清潔な病室の中にいる限りは、私は自分を統制することができた。存在を失うこともなかったし、逆に存在を誇示しすぎることもなかった。
 普通の私として存在することができた。
 だから私は華乃ちゃんの病室に一日も欠かさずに通い続けたし、いられる限りはずっと華乃ちゃんのそばにいた。
 華乃ちゃんは私の目の前でしか存在することはできない。
 私も華乃ちゃんの目の前でしか存在することはできない。
 ふたりでひとり。
 華乃ちゃんというピースと私というピースを組み合わせることで初めてふたりは存在することができる。
 それは私が望んだことであった。渇望し続けていたことであった。
 私はずっと華乃ちゃんと一つになりたかったのだ。
 だから私は華乃ちゃんの病室に毎日訪れ、跪き、赤子のように華乃ちゃんのおなかの上で泣き、泣き止むと羊水に漬かった胎児のようにすやすやと眠った。
 いつの間にか私は、華乃ちゃんのおなかの上でしか眠れなくなっていた。
    16
 私がいつものように華乃ちゃんが入院している病院に向かうため、哄笑を続ける鉄階段の前でオロオロとしていたときのことだった。
 鉄階段の下にある、建物の中へと続く扉から急に知らない男が現れた。
 恐ろしい風貌の男だった。逆立った髪で、鋭い眼光を放つ、筋肉質な男だった。
 屋上の鉄階段の前でオロオロとしている私を見つけると、急に男は階段を昇ってきた。
 私は恐怖で悲鳴を上げようとした。しかし、私のかさついた唇からは太陽光でカラカラと干乾びたカエルのような声しか出なかった。
 髪の毛が逆立った恐ろしい風貌の男は私のほうへと階段を一段一段凄まじい音を響かせながら昇ってきた。
 しかし、七段目に差し掛かったとき、男は私の目の前から消えた。
 筋繊維がブチブチと引き千切れるような音がして、階段に穴が開いたのだ。
 そして少しの時間差ののち、血肉を中に詰めた水風船が破裂するような微妙に甲高い音が辺りに響いた。
 私は鉄階段の真ん中にぽっかりと開いた穴から下を覗き込んだ。
 するとピンと尖った街路樹の先にハムのような死骸がぶら下がっているのが見えた。
 私は部屋に戻ると、修理工のおじさんに電話をかけた。
 普段の私はこの程度の些事で声を震わせることなどなかったため、電話口に出たおじさんは少し驚いていた。
 いつもは「三〇分以内に行くよ」と言うのに、今日は「一五分以内に行くよ」と言った。
 するとぴったり一五分で修理工の、四十代前半ぐらいの頭の毛が薄いおじさんが工具類や鉄を抱えてやってきた。
「むつみちゃん。おはよう」とおじさんは言った。
「おはようございます。おじさん」と私は返事をした。
 私はおじさんの名前は知らない。一応、名前とか知らないと困るかな、と思って名前を聞いたことがあるのだが、おじさんは自分のことを『おじさん』と名乗った。
 絶対に嘘だと思った私だったが、階段に穴が開いたり、ちょっとガタガタ音がし始めて危ないな、と思ったりしたときに、管理会社へと電話をかけて、電話口に出た女性職員の人に「おじさん、お願いします」と言ったら普通に『おじさん』で通じたので、案外本当におじさんの名前は『おじさん』なのかもしれない。
 おじさんは妙なコートや帽子やサングラスで武装している私を見て、「ぷひひひ」と小さく笑った。おじさんは普通のオッサンとは違い、「ぷひひひ」とかわいく笑うのだ。
 するとおじさんは工具類や鉄くずを使って、魔法のように――おじさんのことだから本当に魔法を使っているのかもしれない――魔の鉄階段の補修工事をした。
 工事は二〇分ほどで終わった。そんなおじさんの姿を見ていると、私は華乃ちゃんの病室の中にいるときのような安心感に自分が浸っているのに気付いた。
 自分の存在が安定していることにも気付いた。希薄でもなく、過激でもない自分がいることに気付いた。
 そのことでなんとなく愉快になってきた私はおじさんに、私が辿った『下降』についての物語を、その件について私がずっと考えて続けてきた省察や分析なども交えて、面白おかしく派手に脚色して話した。
 華乃ちゃんのところに行くのが遅れるのは少し辛かったが、おじさんに会うことは滅多にないと思ったから、私はすこしの間、浮気をすることにしたのだ。
 話は長く、三〇分ほどかかった。おじさんは時折り「ぷひひひ」と相槌を打った。
 話が終わるとおじさんはおもむろに語り始めた。
「別に、むつみちゃんが悪魔であるなんてことはないんじゃないかな?」とまず開口一番におじさんは言った。
「何でですか?」と私は丁寧な口調で聞き返した。
 なぜならおじさんは世の中の一般的な大人たちとは違い、どこかで聞いたことのある説法や焼き増しのイデオロギーで誤魔化すことがなかったからだ。『どこかで聞いたことのある説法や焼き増しのイデオロギーで誤魔化す』という行為は自分の底の浅さを他人に露呈するのに最も効率の良い方法だが、私はそんな自分が底の浅い人間であることを誇りにしているような人に意見など求めないし、真面目に話も聞かない。でも、おじさんはそういう人間ではなかった。だから、厳粛に心して聞くべきなのだ。
「だってむつみちゃんは僕に今こうやって自分は悪魔で〜す、なんて吹聴しちゃってるじゃない。だからむつみちゃんは真の悪魔じゃないよ。悪魔だとしても出来損ないの悪魔さ。まぁむつみちゃんの『真の悪魔は最後まで自分が悪魔であるなど気取らせない』っていう持論に従えば、の話だけど」とおじさんは言った。
「そういえば、そうですね」と私は答えた。
 おじさんの言葉を聞いて、私は心の中が清々しく晴れ渡ってゆくのを感じた。
 私は孤独な悪魔なんかじゃないのだ。現にこうしておじさんと秘密を共有しているではないか。
 そこで私は自分の『下降』の原因に気付いた。
 ただ、私の中で秘密が膨らんでいって、それがぱんぱんになって破裂しそうになっていただけなのだ。破裂寸前の状態で自分以外の人を守るために使う技術など、制御できるはずがない。道理で、ままならぬはずだ。
 そんなとき、どうすればいいか?
 この問題はおそらく小学生の低学年でも解ける。
 解。私の身体を膨張させていたガスを抜いてやればいい。
 私の場合のガスは『秘密』であったわけだが、それならば仲の良い人に共有してもらえばすぐに解決することだ。
 なぜ今の今まで、私はこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
 なぜ自分の身体が膨張してぱんぱんになっていたことに気付かなかったのだろう。
 私は自分の痩せ細った、肋骨の浮き出た身体に触れながら思った。
 私の身体の状態と精神の状態が逆ベクトルを示しているところとかが、私にこの解を、いや、この問いの存在を気付かせるためのメタファーだったのかもしれない。
 解など問いさえあればすぐに見つかる。極端なことを言えば、問いさえあればそのうち、小学生どころか赤子にだって胎児にだって解けるのだ。この問いを見つけるまで、こそが、真の問題だったのだ。
 私はそれに気付かせてくれたおじさんにキスをしてあげようかと思ったけれどやめた。
 それは自分が今、痩せていて醜いから、という理由ではない。大体、私は少し痩せたからといって醜くなるような女ではないのだ。
 多少裏技を使って存在感さえ増量すれば、道を歩く人々が皆、振り向いて見とれるほどの美しい少女なのだ。
 肋骨が浮いているからって、目がぎょろぎょろしているからって、頬がこけているからって、吐瀉物を吐いたからって、何の問題もなく私は美しいのだ。
 そんなものは表層部分の人に意識できるところだけの話だ。本質はもっと奥に隠されている。そんなバニラアイスカップの蓋の部分が根こそぎグチャグチャになっているからって、中身にある私の存在や人格が否定されることなどないのだ。
「おじさん。おじさんの秘密は何なの?」と私は聞いた。
「う〜ん。人肉を喰っちゃうところかな」とおじさんは答えた。
 そういえば、私たちが住む街は行方不明者が多いことで有名なのであった。
 おじさんも中途半端な悪魔のようだ。吹聴してしまっている。
「ふ〜ん。じゃ私は急ぐから、またね、おじさん」
 私はそう言うとおじさんと別れて部屋に戻った。そして、くだらない表層部分を覆うコートやらサングラスやらマスクやらを脱ぎさって、春らしい服装に着替えた。
 この素晴らしい、どこかしら埃っぽい街で私の新しい一日、いや新しい人生が始まるのだ。
 私は毎日毎日、細胞を更新し続けている。そう、毎日生まれ変わっているのだ。
 部屋を出るとおじさんはいつの間にか工場からたちのぼる煙のように消えていた。
 私はトントントンッと軽やかなステップで魔の鉄階段を飛び降りるようにして駆け下りると、走って一気に二十五階を降りた。
 そして徒歩ではなく、電車で華乃ちゃんのところに行くことにした。
 存在感全開で。アクセル全開で。
 私の歩いた軌跡の部分だけ、ベリベリと世界が剥がれる。私は埃っぽい世界を埃っぽくない世界に創り変える。そして私は痩せ細った美しい私の姿に見とれる凡俗どもの間をすり抜けて、ホームの中へと駆け込んだ。
 すると私に痴漢行為を働いた男がいたので、瞬間的に意識の外側へと回り込み、脂ぎった汚い頭を鷲掴みにして線路へと突き落としてやった。
 ひょっとしたら、あの男じゃなかったかもしれないので、違ったらごめんなさい。
 心の中で私が謝っていると、狐につつまれたような顔をしたサラリーマン風の男性は線路からホームへとよじ登ろうとしていた。自分の身に何が起こったのか認識できていないのだ。
 存在感全開の私は男の目の前に行って、ホームによじ登るのを手伝ってあげた。
 すると痩せ細っていて、目がぎょろぎょろとしている美しい私の姿を見て、男性は少し照れたような顔をした。
 テンションが異常に高くなっていた私はそのオッサンにもおじさんと同様にキスしてあげようかな、と思ったけれど、おじさんと同様の理由でやっぱりやめておいた。
 なぜならおじさんやオッサンは美しくないからだ。
 たかが表層部分。されど表層部分。
 私のような技術がないと、深層部分を人間の意識に直で訴えかけるなんて離れ業はできない。
 まぁ私は今日からモリモリご飯食べて、その表層部分も取り戻すけれど。
 そうこうしているうちに電車はやってきて、私はそれに乗り込んだ。
 今日はかなり遅刻気味。華乃ちゃん怒ってなければいいけど。
    17
「むつみちゃん遅〜い」
 案の定、華乃ちゃんは膨れっ面で私を迎えた。
「ごめん、華乃ちゃん。ちょっと道草食ってた」
私は朗らかな微笑みを浮かべて答えた。
「むつみちゃん、元気になったね〜。心配して損しちゃった」と華乃ちゃんは言った。
「別に前と変わってないよ。表層部分を置換しただけ。まぁ少し早い衣替えってことで」と私は言った。
「あはは〜。なんか今日のむつみちゃん意味分かんない」
 華乃ちゃんも満面の笑みを浮かべている。
 でもこの笑顔も私以外のところでは閉ざされてしまうのだ。
 そんなことを考えると、看護士さんが昼食のトレイを持って部屋に入ってきた。
「あ、看護士さん私がやっときます」と私は看護士さんに言った。
 華乃ちゃんは、華乃ちゃん自身を操っていた糸のようなものがプツリと切れてしまったかのようにガグリと顎を下に向け、力ない様子で目を見開いたままうな垂れていた。
 やはり華乃ちゃんはまだ治っていないのだ。
「あぁ。むつみちゃんありがとう。なんか今日のむつみちゃんは明るいね」
「いえいえ。衣替えです。衣替え」と私は答えた。
「ふ〜ん。よく分からないけれど元気なのは元気じゃないよりもいいことだよ」
 看護士さんはあっけらかんとした明るい声でそう言った。
 私はこういう当たり前すぎることを当たり前のように言ってくれる人が好きだ。
「ふふ。ありがとうございます」と私は答えた。
「どういたしまして。でも……華乃ちゃんはまだダメみたいね」
 看護士さんは華乃ちゃんのほうに目を向けて、少し心配そうな声で言った。
「大丈夫ですよ。そのうち治りますよ」と私は言った。
「そうね。それじゃあ華乃ちゃんをよろしく」
 看護士さんはそう言うと、部屋から出て行った。
 私は看護士さんを見送ると、クルリと華乃ちゃんのほうへ向き直った。
 そこには百パーセントの微笑みを浮かべる華乃ちゃんがいた。
 私は華乃ちゃんの前に跪く。
 そしてそれから数分後、今度は華乃ちゃんのおなかの上に頭を乗せる。
 私は華乃ちゃんの小さなおなかの上に愛玩動物のように頭を乗せる。
 いつも通りだ。でも少し違うのは私が赤子みたいに泣きじゃくらないところ。
「今日はむつみちゃん泣かないんだね」と華乃ちゃんは言った。
「うん」と私は目を閉じながら答えた。
 華乃ちゃんは私の頭の上に寸分の狂いもなく創られた芸術品のような、ミロのヴィーナスの失われた腕のような、汚らわしくも美しい手をおいた。
「ずっと、ずっと、私たちは一緒だよ」
 華乃ちゃんは魂の表層を少しずつ削り取るときの音のような、まるで致死量よりも遥かに少ない量の毒薬を毎日少しずつ美味しい紅茶に盛り続けるときに歌う鼻歌のような、甘美で慈愛に満ちた美しい声で私に声をかけた。
 私は何も言わず華乃ちゃんの小さなおなかの上で羊水の中にいる胎児のように目を閉じている。
 華乃ちゃんは「うふふ」と小悪魔チックな声を出した。
 一瞬、ほんの一瞬、ひょっとしたら華乃ちゃんこそが真の悪魔なのかな、という疑念、いや雑念が私の心の中を流れ星のようによぎったが、やはりそれはただの雑念、ノイズに過ぎず、私の心の上にひらりと舞い降りて、息をつく間もなく消え去った。
 まるで粉雪のように、そんな疑念とも呼べない何かの薄っすらとした気配のようなものは静かに私の心に積もって、すぐに消え去った。
「むつみちゃん。むつみちゃん。ずっと、ずっとずぅ〜っと、一緒にいようね。世界が朽ち果ててからもずぅ〜と」
 華乃ちゃんが首筋をナイフで優しく撫でるような甘い声を出す。
 置換なんてどこにもない。
 いつでも善は悪を含有し続けていたし、悪は善を含有し続けていた。
 それにあと一歩の惜しいところで気付けなかった私は、気取ることができなかった私は、今日も悪魔が創った箱庭で、胎児のように静かに眠り続けるのであった。
 いつまでもいつまでも、ぷかぷかぷかぷか。
 産み落とされるか、堕とされるまで、ずっと、ずぅ〜っと。
 ぷかぷかぷかぷか。
●作者コメント
 鏡男です。
 二本目の小説ということで、短編を書きたくなり二日ほどで一気に書き上げました。
 でも文字数制限に微妙に引っかかり長編になりました。
 そういう背景の中、プロットも立てず妄執の赴くまま行き当たりばったりで書いた小説なので、そうとう自由な内容になりました。というか鬱な内容になりました。
 暗黒ライトノベルってことで読んでやって下さい。
 なかなか鬱ってのも面白い試みだと思います。
 テーマは『人間の意識と自意識』です。
 けっこう重めかも。


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●感想
みつおさんの感想
 鏡男さんの掲げたテーマの人間の意識と自意識について上手く表現できていると思います。
 主人公の設定などもかなり良く、エゴや鬱、壊れた心の描写は人間の本質に迫るものがあると感じました。  
 何故か変態的な男しかでてきませんが、この話は普通の人少ないですね。

 最後まで一気に読めたので(←読んだ後かなり鬱になりましたが)中々良いのではないでしょうか。


中吉さんの感想
 鏡男さんこんばんは。拝読しました。感想書きます。

 まずは、読みやすさが良かったです。
 変わった比喩も多用されていて、勉強しながら読み進めさせてもらいました。

内容:
 これはもっと短くても良いのでは? と思いました。
 元は短編の構想をなされていたということですが、もっと大幅に削っても大丈夫だと思います。
 特に前半〜中盤、事件が起こるまでのエピソードは半分近くカットしても問題ない気がしました。
 事件までがひたすら長かったです。
 読みやすい文章だったのでラストまで完走できましたが、実際、中盤は読んでいて疲れてしまいました。
 展開に進展がなく、ただひたすら「私」と華乃さんの関係が描写されるだけだったので、
 「いつまで続くんだろう」と思ってしまいました(失礼な発言すみません)。
 二人の絆の強さや何気ない日常の風景を描写したことで、
 後半の「私」の堕ちっぷりが際立ったのも確かですが、やはり長いです。

 鬱がテーマ、というのは良かったと思います。
 前半と後半ですっかり立場が変わってしまった「私」は、なかなか怖いものがありました。
 ただ、やはり長文でやられると読んでいる側はごそっと体力を持っていかれます…orz


文章:
 文章はとても良かったです。心理・背景ともによく伝わってきました。
 特に比喩がよかったです。
 序盤の街の描写がとても素敵でした。
 勝手に、たそがれた半スラムの地方都市を想像してました(笑)

>病床に臥している少女の前に跪く私の姿は、誰にも入り込む余地のない鬼気迫る何かがあった。
>その姿は、見る者を恐怖させるほどの甘美で妖艶な雰囲気で満ちていた。

 全編通して一人称「私」視点でしたが、この二文だけ視点がずれていることが気になりました。
 また、「私」の地の文が基本堅めの文体だったのに、
 ときおり「なんか」「とか」のような話し言葉が入ってきたので少し違和感がありました。
 特に序盤の独白部分に多かった気がします。
 ただ、これは私個人の好みでもあるのであまり気になさる必要もないかもしれません。
 あとは改行後の字下げ忘れがちょくちょく見られました。

 では失礼しました!


星宿(せいしゅく)さんの感想
 作品を拝読させていただきましたので、感想を書かせていただきますね。

 えーと、まず、この作品を二日で書き上げたってことにすごい衝撃を受けました。実は、私も百合物で、少し狂気の入った感じの主人公の話を書いたことがあるのですが、この作品と同じような長さで、書き上げるまでに3ヶ月かかりました。ちらほらと似通ったところがある話なだけに、自分の遅筆さを改めて思い知らされました。鏡男さんの筆の速さが非常に羨ましいです。

 作品についてですが、すごく入りやすい文章でした。個人的に先の『鏡国奇譚』よりも、こちらの方が好みです。
 主人公の思考にちょっとおかしなところもありますが、それも含めてひとつの作品としていい雰囲気を醸し出していると思います。
 前半部分の微笑ましい展開からの、突然の日常の崩壊。ちょっと重たいな〜と思いながら読み進めていましたが、最後にはちょっと救いがあって、これからの二人にほんのり期待を持たせる形のでの終わり方。ほんと、壊れたまま終わったらどうしようかと思いながら読み進めていただけに、本当にほっとさせられました。個人的に好きな感じの終わり方です。

 文章もとくに荒れたところも無く、とても二日で書いたとは思えないほど出来たお話だと思います。素直に楽しませていただきました。

 以上がこの作品を読んだ私の感想です。
 それでは、執筆がんばってくださいませm(_ _)m


GRACE.E.GOさんの感想
 この作品は傑作です。
 果たして、主要キャラが死なないのにここまで鬱な作品がこれまであったでしょうか?
 これほどまで、人間のエゴ、そして生々しい心理が描かれた作品があったでしょうか?
 そんなこんなで私はこの作品に50点を付けたいと思います。
 中盤にわざと王道を踏襲しつつも、伏線をちりばめる技術も素晴らしいですね。
 一見不毛に見えた日常的シーン全てがことごとく伏線として回収されていたのも良かったです。
 そして氏ならではの素晴らしく上手い比喩表現。読んでいてぞくぞくしました。
 この作品、『どこかしら埃っぽい街』は鬱の人は必見ですね。
 主要キャラが死なないのに鬱、というのは鏡男さんの表現力の勝利です。


クールミカンさんの感想
 文章はややくどいかなと思ったものの、特におかしいと感じる部分もなく、すんなり読み進めることが出来ました。
 が、主人公が自分の能力について説明するところはちょっとわかりにくかったです。
>これだけ言っても非常に分かりにくいだろうから例を挙げよう。それは例えば、万引きをしても誰にも絶対に気付かれないとか、逆にあまりにも強い存在感を発揮して、その状態の私が道路を歩くことによって注意散漫になったドライバーたちがこぞって交通事故を引き起こすといった類いのことだ。

 と、せっかく例に挙げてくれた部分で、要領を得なかったのです。その後の変体男が云々のあたりでようやく「ああ、石ころ帽子と目立ちライトかぁ」と把握できたのですが。最初からもっとストレートに「自分の存在感を操作できる」と書いて、その後で説明をしてもよかったのではないかな、と。

 それから、主人公が華乃ちゃんの介護をしたいと言う場面。普通は断られると思います。他人に無償での介護を申し出られて承諾するとしたら、結婚の約束をしている恋人同士、ぐらいでないとありえないのでは。お父さんには一回目は断ってもらって、主人公が毎日見舞いに来て自主的に介護→お父さん折れる、ぐらいが自然かな、と思います。

 中盤で見せた主人公の深層心理、後半の転落は生々しくて真に迫っていたと思います。ラストはなんだかんだで病んでる同士、幸せなんかな、と感じました。ごみごみとうらぶれた街の雰囲気描写、外界との繋ぎ目である階段の存在、その階段に許されたおじさんetc、独特の世界を感じました。サトラレなんかもそうですが、異能が物語の底辺に深く根ざされている物語には好感が持てます。これからもがんばってください。


クンストさんの感想
 こんばんは、クンストと申します。

 すごいですねー、の一言。この物語にはどれぐらい真の悪魔が隠れているのでしょうか。
 異能がメインの話になるかと思いきや、主人公の独特の主観に満ちた日常でしたか。冒頭の一文がやや長く感じましたが、主人公が主観を語るたびに文章に引き込まれました。

 面白い作品を読ませていただき、ありがとうございました。


巴々佐奈さんの感想
 巴々佐奈と申します。『どこかしら埃っぽい街』拝読させていただきました。
 面白いお話でした。文学的修辞の多い文体から綴られるクライマックスの所は圧巻でした。重いテーマにはそれを受け止めるだけの大人向けの文体があうのだなぁ、と感じた次第です。
 色々示唆に富むエピソードでした。主人公が持っている人の無意識に働きかける力。時に自らの存在を周囲から消すことができ、時に皆から注目させることが出来る主人公の能力。華乃とのかかわりの中で、主人公の心は揺れ、事件に巻き込まれて傷ついてしまいます。そこから畳み掛けるように描写されるむつみの心の変調がすごいですね。私は本作をハッピーエンドとも百合エンドとも解釈していません。読み取ったのは心を壊したむつみの悲劇です。それを前提に感想を書かせていただきます。前提から間違ってるかもしれませんが、その辺はご容赦の程を。

(むつみの思考描写)
 本作については色々考えさせられました。幸いにして、心を壊したことがないので、むつみの思考に共感できるかというとちょっと自信がありません。ただ、精神的に追い詰められた人間はこんな風に饒舌に自分のことを語れるかといえば、難しいだろうと思います。本作においては、むつみが語り手となっていますが、むつみはしばしば物語上の時間を先取りして今後の展開を述べてしまっていますね。例えば、華乃が襲われる前から華乃が襲われることを予知するような書き方になってます。心情をリアルタイムに追った方が読者の共感をえやすいように思います。あるいは、日記形式にしておけば、この辺の違和感は解消するのではないかと思いました。

(心理分析)
 むつみの主観から華乃の心が壊れる様子が克明に記されています。同時にその結果を受けてむつみ自身が心を壊す経過。それが本作の主眼なのでしょう。それは多分心理学的な視点から防衛機制という言葉で説明できるのではないかと思います。
 むつみが自分を悪魔だと規定したのは、変態男の華乃への暴行に相対した自分が何も出来なかった理由が自分で説明できなかった。本当は腰を抜かして動けなかったことを良しとできなかったために、自らを悪魔であるという理由をつけることによって、むりやり合理化したのでしょう。
 また、他人の無意識に干渉できる能力が不安定になって、痴漢にあったり車に轢かれそうになったのは、華乃を守れなかった罪悪感から、無意識に罰を求めたせいなのかと読みました。悪魔である自分は罰を受けなければならない。華乃の心を壊した罪への罰を求めるが余り、華乃と同じように性的な暴行を受けるように、その後は車に轢かれて死ぬようにと無意識の行動に出た結果なのではないかと推察します。
 つまり、むつみは自らの願望に沿った行動を無意識にとってしまう人間であり、それに対する周囲の反応を『能力』として解釈する人間なのかもしれません。それが他人の無意識に干渉できる『能力』の正体ではないか。そんな風に読み取りました。
 だとすれば、華乃の心が回復に向かっているというのも怪しいと思うのは穿ちすぎでしょうか。むつみは華乃の罪を償いたいという望みが『能力』の変調をもたらしたならば、併せて得たい物は華乃からの赦し。それがむつみと華乃だけのバーチャ・トークを実現させているということです。もちろん、華乃がむつみ以外の人物と会話している描写がないところからの妄想ですが、そういう読み方をすればこの話は深い。

(よくわからなかった点)
 同様に、むつみの住む屋上の住居。人死にまで出る壊れやすい階段。これは多分思春期の少女の自己防衛本能のメタファーなのかなと解釈しました。理由らしい理由もなく一人暮らしをする自称美少女といい、登場する男性が華乃のお父さん以外は変態ばっかりな仕掛けといい、色々小説的な仕掛けがある作品なのだなと、身構えながら読んでいたのですが。ラスト近くの階段修理のオジサンのくだりは本編において、どのような位置づけになっているのか、結局よくわかりませんでした。心を壊したむつみはこのオジサンと秘密を共有することによって、立ち直るきっかけを得ますが、その秘密というのが『人喰い』というのは、ちょっと突飛ですし、そこで話が切れてフォローがありませんですよね。本作は華乃との関係性がメインテーマなので、ここで奇を衒う必要があったのかどうか、読者として首を捻る所です。むつみが既に常軌を逸してしまっていることへ伏線なのかもしれませんが、ちょっとフォローが欲しかったです。

(総評)
 本作はむつみがいつ、誰に対して語った物語なのかが判らないところが惜しい。ホラー要素を盛り上げているとも言えなくはないのです。でもそれが逆に結論を読者に委ねてしまっていて、ライトノベルとしては不親切なような気がしました。起承転結の結が抜け落ちてる感じです。
 仄めかしの手法もいいのですが、むつみの精神状態を観察する何か客観的な測定点があれば個人的にはありがたいです。
 とは言え、心理描写は圧巻でした。また、面白いお話を読ませてくださいませ。


だいきちさんの感想

 一言で言って怖い小説だと思いました。私のような三十代の人間からすると十代の若者というのは逆立ちしても同世代とは言い難く、むしろもはや違う生き物と言っても過言ではない状況でして、「今時の若いもんは……」と言う側にまわってしまっているのが悲しい現実です。本作品は私のようなオヤジが忘れかけた十代の感覚、感性をストレートに描いています。
 すなわち人の命はなんとも思わず、むしろむごたらしい死が娯楽として扱われ、若い女性は肉欲の対象でしかなく、善行は全て欺瞞や偽善、人々の日々の生活によって積み重なる澱はうす汚い汚れや埃……あまりにも刹那的な世界観です。狭窄した視野や抑圧されたエネルギーを若者らしくストレートに描いたこの作品を読んでいると、街を歩いている十代が皆このような感性で物事を捉えながら、内にあふれるエネルギーを持て余しながら過ごしているように感じて恐怖を覚えます。
 圧巻はやはり華乃が壊されるところを黙って見ているところだと思います。ただ逆に言えばその部分以降はややテンションが維持できていない、頭で考えて書かれているような印象を覚えます。ここからむつみの中の欲望をじっくり深く掘り下げていくのかなと思わせておきながら、さらっと表面的な部分だけですかされた感があります。

 描写や文章は見事です。作中幾度か嫉妬を覚えるような表現がありました。しかしテーマとする部分が作者様自身の中できちんと掘り下げられていないために、そういった表現も全て未消化で薄いものに感じられてしまいます。人間が醜い、世の中が汚いと言いながら、どこかでそのうす汚さを信じていないように見えます。まあそれもまた若さなのかもしれませんが。

 表現力、文章力は高いレベルのものをお持ちのようですので、ジャンルや体裁ではなく、本当に自分が書きたいことが何なのかをご自身が見つめられたとき、きっと素晴らしい作品が描けるのではないでしょうか。次回作に期待します。頑張ってください。


Hareyaさんの感想

 初めまして。毎日こちらに訪れるのに、滅多に投稿もしなければ感想も書かないHareyaと申します。
 拝読させてもらったので、拙いですが感想を。
 長編ですが、飽きることなくすんなり一気に読めました。パソコンで長い文章を読むのが苦手なのですが、この話にはしっかり引き込まれました。
 文章がとても上手だと思いました。自分には書けないです。内容も深いところに迫れていて良かったです。テーマも鬱も、きちんと伝わってきました。

 本当に拙いですが、以上です。
 それでは失礼致します。


一言コメント
 ・ラノベ向きじゃないかもしれませんが、完成度が高くて驚きました。

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