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今日咲く企画さん 著作 | トップへ戻る | |
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県立風雲高校には、『ある特殊な部』が存在するという。 そこでは厳格な規律の下、部員らが日々過酷な活動を行なっている。他の生徒は言うに及ばず、教員すら彼らには意見しようとしない。なぜなら、部の活動方針に口出しできるほどの度胸を持ち合わせている者がいないからだ。 それ故、凄惨を極める部活動に耐え切れず志半ばで脱落する者は多い。現在ではわずか四名が現役部員として在籍するのみである。 彼らは、混迷を極める現代社会において一条の光を見出さんとする集団だ。社会に役立つ人間形成のため、己を磨き、己の信念を貫き通すことこそ彼らの至上目的。磨き抜かれた日本刀が神性を帯びるように、純粋かつ妥協を許さない彼らの活動には神々しさすら感じる。 究極にして極限。純正にして清廉の部。人々は彼らをこう呼ぶ。 ――『漢(おとこ)部』と。 「くぉら、小暮ッ!」 グラウンドの片隅、プレハブ建築の部室の前で叱責が飛ぶ。その直後には、鉄拳制裁の音が高らかに響いていた。 「貴様、携帯電話に付けたその飾りは何じゃあ!」 「こっ、これは……。最近流行の魔法少女『まじかるぷりちーエリカちゃん』の限定ストラップですぅぅぅっ!」 殴り倒された方の男子生徒、小暮が泣きそうな声を上げながら携帯電話を手に説明する。その情けない口ぶりとは裏腹に、彼は一昔前の不良漫画にありがちな丈の長い学ランを着ていた。 『長ラン』と呼ばれるものだ。これぞ男の中の男の正装として、ごく一部では未だ根強い人気を博している。その場にいる他の男子生徒を見れば、三人中二人が同じ服装であり、これが彼らの正式なユニフォームであることがわかる。 「髪を茶ァに染めやがった上に、軟派な飾りを付けるたぁ。今日という今日は許さんぞぉ!」 怒り心頭になっている男子生徒が、横座りになっている小暮の胸ぐらを掴む。身長百八十センチという体格に見合った腕力に、小暮は思わず悲鳴を漏らした。 「よさんか、武田」 武田と呼ばれた彼は後ろを振り返る。そこでは鶴の一声を発した本人が腕を組んで仁王立ちしていた。身長は武田とほぼ同じ、格闘家と呼ばれても差し支えない具合に鍛え抜かれた逞しい身体。服装は他の部員と違い、ところどころが破れた学生ズボンと外套といったバンカラ風だ。角張った顔に極太の筆で書いたような眉はいかにも男らしく、さながら剣豪のように鋭い両眼は強い意志の光を湛えている。王者のごとく悠然と佇む姿からは、とても高校二年生とは思えないほどの風格が漂っていた。 「翔馬、なぜ止めるんじゃ」 武田は胸ぐらを掴んだ手もそのままに問う。彼がこの男――翔馬に一目置いているのは、相手の体格やそこから連想される腕っぷしが理由ではない。 ここ漢部においては、翔馬が主将であり武田は副主将という肩書きだった。また、翔馬は人一倍強い責任感と男気を持ち合わせているために、他の部員から厚い信頼を寄せられている。それは武田とて例外ではなく、かつて拳で語り合った者の一人として、翔馬は信頼するに足りる『男の中の男』だった。 「小暮よ。お前、そんなに流行とやらが大事か?」 翔馬は武田の問いに答えることなく、静かな声で問いかけた。 「……」 答えない小暮に、翔馬は歩み寄る。 「いいか。流行というのは、『自分』を持っていない奴が追いかけるものだ。自分を磨かない奴がいくら着飾ったところで、誰もそいつ自身を評価してくれるわけではあるまい?」 「……でも」 小暮がこれに異議を唱えようとした。すると、武田が間髪入れずにこれを押さえ込む。 「男の返事は『押忍』だけじゃ! 貴様、何をつまらんこと言おうとしとるんじゃッ」 小暮は無理矢理引き起こされ、今にも殴られそうになる。 「武田!」 しかし翔馬は武田を一喝する。先走ろうとする副主将を止めるためだ。 「小暮――いや、お前たち全員に言っておく」 後頭部が破れた学生帽を片手で被り直し、翔馬は部員全員を見渡す。 いずれも髪を短く刈り込み、長ランを着込んだ面々だ。時代遅れと揶揄されても仕方ない風貌ではあるが、彼らは伊達や酔狂でそのような格好をしているのではない。 彼らの共通点。それは全員が『男の中の男』を目指してこの漢部に入部したということだ。だから、翔馬が彼らに言うことは、いつも決まっている。 「お前たちは、真の男になるべくしてここにやってきた。真の男とはすなわち、己の信念に従い生きる者のこと。社会がいかに変容しようとも、己が信じた道を突き進む者が男としての人生を全うできるのだ」 『押忍!』 小暮を除く全員がこれに答える。いつも通り、両手を後ろで組み背筋を伸ばして。これが教えを受ける男の基本姿勢だ。 「そのためには、流行に惑わされてはならん。戦後、亜米利加(あめりか)かぶれになった日本社会が今のように混迷を極めているのがその悪例だ。だからこそ我々が日本男児として侍の精神を受け継ぎ、この国を変えていく。それが漢部の基本理念だということを忘れるな」 言い終わると、翔馬は部員に背を向けた。視線の先には赤々と輝く太陽がある。日本国が生まれ変わる明日に向かって沈んでいく夕日だ。 「武田。では、いつも通りに行くぞ」 感動のあまり涙ぐみそうになっていた武田は、口を固く結んでこれを耐えきると、ひときわ大きな声で主将の指示を受け入れた。 「押忍! おい、お前ら整列せんかい!」 ざざっ、と全員が夕日に向かって横一列になる。武田を含む三名は、両手を後ろで組み、両足を肩幅に開いた。残る小暮はというと、何やら釈然としない様子で列の末端に立っているのみである。 武田は大きく息を吸うと、腹の底から声を張り上げた。 「〈男の四箇条〉高唱!」 『押忍!』 残りの部員が叫ぶ。ワンテンポ遅れて「……っすー」と呟いたのは小暮だ。 『一つ、男は堪え忍ぶもの也!』 地鳴りのような大音響。部員(小暮以外)が力の限り唱えているのだ。 『二つ、男は根性で進むもの也!』 高唱する声に、校舎の窓ガラスが振動する。教室で活動していた文化系クラブが、一斉に教室を閉鎖した。 『三つ、男は弱きを助け強きを挫くもの也!』 グラウンドで活動をしていた他の部の連中がその場から逃げていく。全員が例外なく耳を塞いでいた。 『四つ、男は己の信念を貫くもの也!』 最後に、外部放送用のスピーカーが爆発。このところ調子が悪かったのだが、ついに限界に達したのだ。 「以上、〈男の四箇条〉!」 武田がそう締め括った後、グラウンドは静寂に包まれた。それもそのはず、漢部員以外に誰もいなくなっていたのだ。 嵐が去った後のような光景の中、翔馬は帽子を目深に被り直し、 「よし、本日の活動はここまで。お前たち、精進を怠るでないぞ」 背中越しにそう告げると、悠然とした足取りで校門へ向かったのだった。 ■ ■ ■ 翔馬が校門を出ると、背後に気配を感じた。誰かがこの自分の後をついてくる。尾行だろうか? 漢部主将としてだけでなく、校外活動にも積極的に取り組んでいる翔馬にとってはよくあることだ。 たとえば一週間前。近所の商店街を歩いていたら、たまたまカツアゲの現場に出くわした。金髪にピアスといったおよそ日本男児らしからぬ格好の高校生たちが、気の弱そうな中学生を三人で取り囲み、金銭を要求していたのである。 これを見た翔馬がすぐに止めに入ったところ、相手側のリーダー格が逆上し殴りかかってきた。しかし、普段から鍛錬を怠ってない翔馬にとっては別段恐れることでもなく、瞬く間に制圧してのけたのだった。 ついでに、若者の傍若無人さを嘆いている者として「男とはな〜」と一時間ばかり説教してやったのだが、相手から「うるせーよ、このオヤジ」と同年代とは思えない罵声を浴びせられ、結局逃げられてしまった。 このような校外活動は、結果として逆恨みに繋がることが多い。後で人気(ひとけ)の無いところに呼び出されたり、学校の外で待ち伏せされたりといったことも、幾度となく経験してきたことだった。 だから、いつも校門を出る時には気を引き締めるようにしている。万が一、いきなり飛びかかられてもすぐ対応できるように。あるいは、不当な呼び出しに心を揺さぶられないように。 「ショウちゃん、待ってよー」 (……美奈か) 声を聞いて翔馬は、ほっと溜息をついた。小走りで追いかけてくるのは、幼稚園以来の幼なじみである熊谷美奈だ。この人なつっこさを感じさせる声を聞くたび、心がほのかに暖かくなる。女に呼びかけられて気持ちが安らぐなど、他の部員が知ったら何と思うだろうか。 翔馬は振り返ることなくそのまま歩き続ける。 「何か用か」 とは言うものの、相手が言わんとするところは予想がつく。彼女は幼い頃からの習慣が抜けきっていないらしく、いつも一緒に帰ろうなどと言い出すのだ。 彼女には悪いが、今は女連れで帰るわけにはいかない。女にうつつを抜かしているようでは真の男になれないし、自分はまだ修行中の身なのだから。 「ね、一緒に帰ろ?」 案の定、美奈はこちらの機嫌を伺うように訊いてくる。肩越しに彼女の顔を盗み見ると、目尻の垂れ下がった大きな瞳が潤んでいた。あれほどやんちゃ盛りの少女だった美奈が、こんな表情をできるようになっていたとは驚きだ。昔ならもっと強気に「一緒に帰ろうぜ」と男勝りな口調でこの自分を従わせていたというのに。 「悪いな。生憎と俺は忙しい」 そっけなく言い置くと、翔馬は歩みを早める。 これ以上彼女と一緒にいたら、他の部員に目撃されかねない。真の男になるまでは異性と交際しないと固く誓っている者として、要らぬ疑いをかけられるのはどうしても避けたいところだった。 「ちょ……待ってよ!」 美奈は慌てた様子で翔馬の正面に回り込んだ。ショートカットの黒髪が揺れ、ほんのわずかにシャンプーの匂いが漂う。 「なんでいっつも私のこと避けるわけ? 途中まで帰る方向が一緒なんだから、ちょっとぐらい、いいじゃない……」 美奈は上目遣いに言う。 彼女がここまで食い下がるのは珍しいことだ。いつもなら最初のやりとりで諦めてくれていたのに。それだけ今日はこの自分と一緒に帰りたいということなのだろうか。 彼女には彼女なりの事情があるのだろう。だが、自分の信念を曲げるわけにもいかない。だから、妥協できるのはここまでだ。 「……だったら、俺の三歩後ろを歩け。それ以上近付くことは許さん」 翔馬は表情を読まれないように、帽子のつばを下げた。 河原沿いの道を歩いていると、美奈が訊いてきた。 「グラウンドで大声出してたの、ショウちゃんたちでしょ。なんでまた、あんなことしてるの?」 やはり女には理解できないようだ。 〈男の四箇条〉は、男の遵守すべき事項として歴代の主将が思考に思考を重ねてきた結果の集大成である。これを高唱することによって部員たちに己が日本男児であることを自覚させるとともに、士気を高める意味がある。そのため、部活動終了時にはこれを全員で高唱するという規則があるのだ。 漢部三十二代目主将として、この規則を曲げることは有り得ない。あるとすれば、それは歴代主将の想いと伝統を裏切る時だ。 不機嫌そうな美奈の溜息が聞こえた。返答を寄越さなかったのが面白くなかったらしい。 「……ショウちゃんてば、昔はこんなんじゃなかったのにねー」 昔を懐かしむような口調だ。背中に痒いものを感じながら、翔馬は幼い頃を回想する。 現在の翔馬からすればまったく予想もつかないことなのだが、幼稚園から小学四年生にかけての彼は本好きな子供だった。外で遊んだことは数えるほどしかなく、学校から帰るといつも読書ばかりしていた。そのせいか、上背はあったものの肉付きが悪く、典型的な『もやしっ子』だと大人たちから評価されていたものだ。また、活動的でない性格は近所の悪ガキからすれば気弱に見えたらしく、いつもからかわれてばかりいた。 翔馬にとっての転換期は、小学四年生の時だ。あれはいつものように美奈と一緒に下校していた最中の出来事だったように思う。あの事件がなければ、今も自分は根暗で頼りない少年だったに違いない。 あれから七年。時の流れは早いもので、多くのものが変わっていった。 当時は建設中だった私鉄の高架線路は完成を迎え、駅周辺にできた商店街はいつも買い物客で賑わっている。 新しい家が次々と建ち並び、新しい住人も増えた。 そして、この自分に男の道を教えてくれた祖父はもうこの世にいない。 何もかもが変わった。それは身の回りの環境に限らず、自分を取り巻く人々もまた。 美奈に関しては、殊更そのように思う。 健康的に日焼けしていた肌は輝くような白さに変わり、身体も全体的に丸みを帯びている。あれほど真っ平らだった胸は今や豊かに膨らみ、擦り傷だらけだった手足はまるで丁寧に作り込まれた美術品のようにすらりと伸びている。 近所の男友達と野山を駆け回っていた活発さは鳴りを潜め、今の彼女は文化系クラブの一員に落ち着いている。昔のことを考えれば、まったく別人のように思われた。 彼女は今、確実に女性としての階段を上り続けている。 事件があった日以来、自分は男の道を歩み、一方美奈は女としての道を歩むようになったわけだが、今思えばそれは必然だったのかもしれない。 この道は、自分が真の男になるまで重なることはない。あの時にそう誓ったはずだった。 だから、自分も男として修行を積まねばならない。いつか、堂々と彼女の前に立てる日が来るまで。 (……俺も精進せねばな) 翔馬は自嘲気味に鼻を鳴らすと、顔を上げた。すると、穏やかな空気が頬を撫でていく。冬の風と形容するにはやや暖かい風だ。 季節は間もなく春を迎えようとしている。暦の上では節分以降が本格的な春になるとのことだが、梅のつぼみが膨らんでいるところを見ると確かにその通りだと思う。 梅の季節が過ぎたら、今度は桜だ。この先にある益荒男神社には、御神木として樹齢八百年を超える桜が祀られている。四月にもなると、御神木を含む周囲一帯の桜が満開になり、境内は花見客で賑わう。そんな光景を見るたびに、やはり日本人は桜が好きなのだとわかる。 桜はいい。 開花の時期が来るまで秋冬を耐え凌ぎ、春が来たなら待ちかねていたかのように一斉に咲き誇る。そして、短期間で己の美しさを遺憾なく発揮し、最後には潔く散っていく……。 これぞまさに日本男児の生き様ではないか。いつか自分も、そんな男になりたいと願ってやまない。 「……ちゃん、ショウちゃんてばっ」 美奈の声が翔馬の思考に割り込んできた。校門前でもそうだったが、今日は何かとつっかかってくる。何が彼女にそうさせるのだろう。 「もう、全っ然私の話聞いてないんだから」 ――やれやれ。 仕方なく、翔馬は美奈との会話に応じることにする。まったく、女は会話なしに生きていけない生物というのは本当らしい。 「聞こう。何だ」 しかしあくまで言葉は少ない。男たるもの、べらべらと喋るものではないからだ。 「もう来週だねーって話してたんだけど」 そう言われ、翔馬は首を捻る。美奈は何のことを言っているのだろうか。 来週といえば、〈全日本漢連合青年部〉の総会があったはずだ。大学受験を控えた青年部の幹部が引退し、新体制に移行するという大切な会合である。これを期に旧幹部は成人の仲間入りをし、代替わりした幹部が新しい方針を決定することになっている。翔馬も風雲高校の代表としてこれに出席することになっていた。 「そうか」 「ショウちゃんって、義理でも嬉しいタイプ?」 義理? それはもちろん歓迎だ。男は義理と人情で生きるもの。この自分のために労力を惜しまない相手には全力で応えるとも。 「そうだな。義理はありがたい」 「……そうなんだ」 途端に美奈の声がしぼんでいく。そちらから訊いてきたくせに、何を意気消沈しているのだろう。女心とやらは理解しがたいものだ。 「じゃあさ。か、仮にだよ? ショウちゃんのこと……す、好きでもない子からでも受け取ったら喜ぶの?」 「当然だ。相手がどんな奴であれ、施しを受けたら感謝する。そして、必ず返す」 「『必ず返す』って……。意外と律儀なんだ……」 「それが男の礼儀だからな」 そう答えると、美奈は何も言わなくなった。後ろから彼女の足音と息づかいだけが聞こえてくる。 さっきから妙だ。男の流儀を理解できないくせに、やけに男の事情に立ち入ろうとするではないか。幼なじみとはいえ、未だに美奈が何を考えているのかわからない。 「……でも」 意を決したような声色だ。今度は何を言い出す気だろうか。 「ほ、本命だったらもっと嬉しいんじゃないの?」 本命? それはどういう意味だろうか。頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、後ろで美奈があからさまに狼狽えた。 「ばっ、ばかっ! 何言わせようとしてんのよっ!?」 馬鹿とは相当失礼な物言いではないだろうか。それに、この女は先ほどから沈んだり怒ったりと随分忙しいことだ。それこそ馬鹿呼ばわりされるのはそちらの方ではないのか。 これ以上の会話は無駄に思えてくる。何を言ってもこちらの意図が上手く伝わっていないようであるし。 翔馬は風で飛びそうになった学生帽を片手で押さえ、河原沿いの道から神社のある方向へと歩を進める。 と、そのとき。 神社の奥から数人の声が聞こえてきた。誰かが境内にたむろしているのだろう、聖域にそぐわない騒々しさだ。善良な人々が談笑しているだけなら問題はないのだが、声の調子からしてそうでもないらしい。 これは様子を見る必要がありそうだ。もし、先週のような輩が風紀を乱しているなら、灸を据えてやらねばなるまい。 「美奈、先に帰れ。用事ができた」 要件を簡潔に伝えると、翔馬は本殿のある方向へ歩き出した。 見上げるような大きさの鳥居をくぐると、広大な境内が視界に飛び込んでくる。 広さにして学校のグラウンド程度といったところか。玉砂利が敷かれた敷地は幾本もの桜の木で取り囲まれ、時期が時期ならば満開の桜が翔馬を歓迎してくれていたことだろう。 正面に見えるのは本殿。重厚感のある屋根は青銅色に酸化しており、それが歳月の変化を感じさせる。その屋根を支える柱は力強さに溢れ、そこがただ朽ち果てるのを待っているような神殿でないことを物語っていた。鳥居から遠く離れているはずなのに、見上げるように大きく見えるのは建物から放たれる威圧感のせいだろう。そこに在るだけで、ただの建造物にはない風格を漂わせていた。 ――だというのに。 本殿の正面にある階段に座り込んだ面々を見ると、歴史的価値も文化的価値も台無しになってしまう。 人数は五人。いずれもブレザーとチェック柄スラックスという制服姿であり、他校の生徒であることがわかる。 ただ、高校生といっても髪を金色に染めていたり、耳や鼻にピアスをしていたりと、日本男児にあるまじき格好だ。おまけに、彼らが発する言葉が横文字なのか日本語なのか判然としない。翔馬にとって、彼らは理解しがたい文化を持つ人種だった。 「っでよぉー、だから俺は言ってやったわけ。『お前、すっげーKYだな』って」 「ああー、あのキモヲタだろぉー? あいつ、ぜってぇドーテーだぜ?」 「てかよ、これからどうすんべ? マジかったりーからさ、どっか行くのもメンドイけどよ」 「なぁなぁ、誰かジッポーオイル持ってね?」 「うわ、お前一ミリなんてクソダセぇの吸ってんの。ありえねー」 じゃり、と地面を踏みしめる音。翔馬が近づくなり、五人はすぐにこちらを振り向いた。 (またこいつらか……) 翔馬は五人のうち三人の顔に心当たりがあった。 先週、商店街で中学生相手にカツアゲをしていた連中である。あの時充分に言い聞かせていたはずなのだが、彼らには自分の意図が通じなかったらしい。 翔馬は言い分を聞き入れられなかったことに辟易しながら、口を開こうとする。 ところが、それよりも早く五人がどっと笑い声を上げた。 「うっわー! マジでいたよ、『コスプレ番長』」 鼻にピアスをした男子高生が、翔馬を指さしながら言う。その顔には、あからさまにこちらを見下した表情が貼り付いている。 「だろ? だから言ったじゃねーか。すげぇだろ、あの格好」 「俺、初めて見たよ。こんな天然記念物」 長い金髪の男子高生――先週、真っ先に殴りかかってきた奴だ――がはやし立てると、残りの四人はまるで笑劇でも見ているように腹を抱えて笑う。 この反応からして、やはり彼らはこれまでの行いを改める気はないようだ。 「お前たち、今すぐゴミを片付けて帰れ」 翔馬は足元に転がっている空き缶や、菓子袋を指さした。状況からして、目の前の五人が散らかしたことは明らかだった。 「うるせーよ、この出オチ野郎。冗談は格好だけにしとけよな」 リーダー格の金髪が顔を歪ませる。精一杯こちらを畏怖させようとしているようだが、翔馬にとっては、にらめっこをしているようにしか見えない。 「冗談ではない。ここは神聖な場所だ、お前たちのような者がいては穢れる」 二度目ということもあり、翔馬はやや強い口調を心がけた。あれほど生活態度を改めるよう忠告していたのに、未だ改善されていないということは、彼らが普段から周りの迷惑を顧みない、ならず者ということだ。そんな連中に遠慮することはない。 「……んだとぉ。ナメてんのか?」 賽銭箱に腰掛けてタバコを吸っていた男が、翔馬の言葉に反応した。どうやらカンに障ったらしい。 「てめ、何様だよ。エラソーに言いやがって」 「どう受け取るかはお前たち次第だ」 翔馬は引き下がらない。ポケットに両手を入れたまま近づいてくる相手を、正面から見据えた。 「もう一度言う。今すぐここから立ち去れ」 「嫌だって言ったらどうすんだよ?」 喫煙者は半笑いになってタバコを左手でつまみ上げた。火がついたままのそれを、背後に置いてある賽銭箱の中に投げ込む。 (……この、不信心者が) この瞬間、翔馬の腹が決まった。 「おい、そこの金髪!」 翔馬はリーダー格の男子高生に鋭い声を飛ばす。 「貴様、確か江崎とかいったな。先週の出来事を忘れたわけではあるまい?」 江崎は面白くなさそうに、 「……ああ、覚えてるよ。あんときは、すんげームカついた」 と、鼻に皺を寄せる。 「自分勝手な行いが、周りにどのような迷惑をかけるか考えたらどうだ。男たるもの、自分の欲求を我慢する心が必要だと教えただろう」 すると、江崎は大仰に両手を広げた。 「んなこと言ったってオッサンよぉ、『最大多数の最大幸福』って言葉知らねぇのか。イマドキの世の中は快楽主義なわけよ。自分がしたいようにして、何が悪いわけ?」 「……英吉利(いぎりす)人の言葉に興味はない。外国人の言葉に惑わされるとは、貴様それでも日本男児か」 「……けっ、バッカじゃねぇの?」 そう吐き捨てると、江崎は翔馬に背を向ける。帰る気にでもなったのだろうか。 「なあ、近藤」 背中越しに名前を呼ばれ、タバコを吸っていた男子高生がこれに答える。 そして、江崎はこう告げたのだった。 「――やれ」 近藤と呼ばれた彼と、翔馬がその意味を理解したのは同時だった。 「っのやろッ!」 相手は右腕を大きく振り上げた。だが、予備動作が大きい。これでは反撃して下さいと言っているようなものだ。 翔馬はすかさず一歩前に踏み込み、肩から体当たりを仕掛けた。 「ぐおっ!?」 拳が当たる前にバランスを崩され、近藤某はその場に尻餅をつく。 「あっ、てめっ」 鼻にピアスをした男子高生が加勢に入った。翔馬に駆け寄るなり、外套の胸元を掴んで締め上げる。 (……この程度ではな) 本気を出すのも馬鹿馬鹿しく、翔馬は分厚い手で相手の腕を掴んだ。 「!?」 まさに『力ずく』という単語が当てはまる。翔馬が力にものをいわせて縛めを解いたのだ。 「ひっ!」 腕力だけで押し切られたことに、鼻ピアスの男子高生は顔色を変えた。 戦意を挫かれた者を倒すのは容易い。翔馬は相手の両腕を掴んだまま、豪快に投げ飛ばす。地面に座り込んだままの近藤がその巻き添えを喰って、折り重なるように二人がダウンした。 (……さて) 翔馬は金髪頭の江崎を睨みつける。 手下を使って自分だけ高見の見物をするとは、小悪党もいいところである。そんな輩には骨の髄まで男の生き様を教え込んでやらねばなるまい。 一方、当の江崎は多少顔色が悪いものの、未だに不敵な笑みを浮かべている。 その理由はすぐにわかった。 「ぅおらっ!」 「よっしゃー、ゲット!」 無事だった残りの二人が、翔馬を両脇から羽交い締めにしたのである。 (……一対一の喧嘩もできんとはな。つくづく救えん奴らよ) 相手の情けなさには溜息が出るばかりだ。男の喧嘩といえば、己の意地をかけて正面からぶつかり合うものだというのに。なぜその美学が理解できないのだろう。 「へっ。さすがに五対一じゃ、こないだみてぇにはいかねぇだろ」 江崎は自分の絶対的有利を悟ったのか、両手をポケットに入れたまま近づいてくる。 「オッサンよ? もうちっと賢く生きたらどうだ。今どき、あんたみてぇに他人を注意して身を危険にさらすような奴はいねぇぜ」 出来うる限り憎々しげな声色で、江崎が言った。顔を鼻先にまで近付けてきたせいでタバコ臭くて仕方ない。 「じゃあ、パンチングマシーンってことでよろしくぅ!」 江崎は半歩後ろに下がると、右の拳を目一杯後ろに引いた。これから渾身の一撃を放つつもりらしい。 「いいぞ、やっちまえ!」 「『目指せ百五十トン超え』ってやつ?」 両側の二名が口々に煽る。すると気分を良くしたらしい江崎は、口の両端をいびつに歪ませた。 「せぇのっ!」 直後、顔面を打つ音が響き、翔馬の学生帽が高々と宙に舞った。 舞い上げられた帽子は、傷ついたカラスのように右へ左へと風に煽られる。ややあって、玉砂利の上に着地した。 それがきっかけになったのか、玉砂利の上に一人がもんどりうって倒れる。負傷した部位を手で押さえ、口から泡を吹きながら喚き出した。 「……いっ、痛ってェェェッ!」 声を上げたのは、江崎だ。彼は右手首を左手で掴みながら、地面をのたうちまわる。 「……しょせん、貴様の拳はその程度だ。この俺を倒すことなど出来ん」 翔馬は哀れな子供を見るような目つきで、そう呟く。 日頃から砂袋を顔面にぶつけるという鍛錬を行なっている彼にとって、江崎の拳などそよ風に等しい。何度殴られようとも倒れる道理など皆無だった。 「江崎よ、まだ続ける気か」 静かな怒気を含ませた声で問い掛ける。 「……っっ! くそッ」 ようやく力の差がわかったらしい。先週にも同じような目に遭ったはずなのだが、その経験が生かされていないのは気の毒なことだ。もっとも、気遣ってやる筋合いなどないのだが。 ふっ、と両脇の圧力が緩んだ。圧倒的な力の差に、両側の手下が恐れをなしたらしい。 それをいいことに、翔馬はやすやすと自由の身になる。自分を拘束していた二人は、慌てて江崎に駆け寄った。そんな情けない姿が、この上ない憐憫の情を抱かせる。 「てめぇ、覚えておけよ」 捨て台詞まで三流だ。江崎は手下の四人を引き連れて、益荒男神社を後にしたのだった。 (……嘆かわしいことだ) 翔馬は、ならず者たちを見送ると学生帽を拾い上げた。簡単に砂埃を手で払うと、いつも通り頭の上に載せる。 「ん?」 散らかったゴミを片付けていると、鳥居の方向に人影を見つけた。それが誰なのか悟った瞬間、平静を保っていたはずの心が激しく波立つ。 柱の陰に、美奈がいたのだ。 (……あの女……!) 彼女にしてみれば、翔馬のことが気がかりで後を追ってきたのだろう。だが、もし万が一、美奈が江崎たちに人質に取られていたらと思うと……! 「美奈!」 思わず叫んでいた。翔馬が感情的になるのは実に珍しいことだった。 名を呼ばれた本人は、びくりと身体を震わせてから、おずおずと姿を現す。悪戯を見咎められた子供のように、引きつった笑みを浮かべていた。 「しょ、ショウちゃん。大丈夫……?」 彼女は自分がどれだけ危ない目に遭うところだったのか考えもしなかったのだろうか。もしそうであれば、相当呑気な話である。 「お前、先に帰れと言っただろう。なぜここにいる」 自然と言葉が辛辣な響きを帯びていた。無理もない、男の事情に首を突っ込み、あまつさえ自分の身を危険にさらしたのだから。 江崎たちと一悶着起こす前、美奈に帰るよう命じたのは彼女を危険から遠ざけるためだ。翔馬自身はこういった荒れ事に慣れているが、美奈は違う。か弱い彼女のことだ、もしあの場にいたら間違いなく手痛い目に遭わされていただろうに……。 ――俺がどんな思いでお前を遠ざけたか、わかっているのか! もうすぐで、そう口にするところだった。しかし翔馬は口をつぐむ。女の不手際を責めるなど、男らしくないからだ。ここは耐えたほうがいいだろう。 「……帰るぞ」 「……うん」 悄然として美奈が後をついてくる。肩越しに振り向けば、彼女は顔を俯かせたまま何も言わない。 ――言い過ぎただろうか? 気落ちした美奈の顔を見ていると、そんな気になってくる。とはいえ、弁解していては格好がつかない。 結局、二人は無言のまま夕焼けの眩しい街の中を歩くのだった。 益荒男神社を出て、商店街のある方角へと向かう。そこを通り抜ければ、目的地にたどり着くはずだった。 「あれ、ショウちゃん。家、こっちじゃないでしょ? ていうか、こっちは私ん家の方向なんだけど……」 商店街の入り口にさしかかった辺りで、美奈が怪訝そうに聞いてくる。 彼女の指摘は正しい。ここで左に曲がるのが、翔馬の本来の帰宅経路だ。 だが、今日はいつもと事情が違う。もしかすると、あの江崎たちが虎視眈々と反撃の機会を窺っているかもしれない。つまり、美奈に危害を加えられる可能性があるということだ。 「気まぐれだ」 翔馬は敢えて不機嫌な声で答える。自分の意図を気付かれるわけにはいかない。そう、美奈にだけは。 「……変なの」 商店街の中央を闊歩していると、夕食の時間帯が近づいていることもあってか、賑やかな声が聞こえてくる。ここは高架線路の近くにできた新興商店街とは違い、古くから地域一帯の商業地として栄えてきた。近年の不況の煽りを喰って幾つかの店舗は閉店してしまったが、未だに人の往来は多い。 買い物に興じる人々とすれ違いながら、翔馬はふと気付いた。 ここは先週、江崎たちと一騒動しでかした場所だ。 あのときはそれほど意識していなかったが、この辺一帯は元来、人の多い地域のはず。ということは、中学生相手に悪事を働こうとしていた江崎たちを多くの人々が目撃していたはずだった。 にもかかわらず、人々は江崎たちを止めなかった。もしかすると、最後まで江崎たちのカツアゲ行為を見て見ぬふりしてやり過ごそうとしていたかもしれない。 偶然翔馬が通りかかったからよかったものの、もしそうでなければ、あの中学生は衆人環視の中で酷い目に遭わされていたことだろう。 確かに、世間では傍若無人な若者を咎めたところ逆襲に遭ってしまったというケースがあるため、力を持たない人々が割って入るにはかなりの勇気が要ったに違いない。 だが、翔馬はこう思う。 ――そのとき、現場に居合わせた男たちは何をしていたのか。 男なら、不義を見過ごすべきではない。困った人がいるなら、それを助けるのが当然ではないのか。 祖父から聞いた話だが、昔はどの街にも住民間の諍いを仲裁したり、町内で起こった厄介事を解決するために話し合いの場を設けたりする調停役がいたそうだ。 この調停役は、豪快な性格の偉丈夫であることが多かった。というのは、場合によっては手荒な解決法を使わざるを得なかったからだ。たとえば、悪ガキの成敗などがそうである。 一見すればただの荒くれ者なのだが、単なるやくざ者と決定的に違うのは彼らの心意気だ。彼らは心の底から街を、街の人々を愛し、それらのために自分の命をかけることを誇りに思っている。その意味で彼らは街の守り手であり、担い手だった。 彼らは街の人々から慕われ、頼りにされていたという。そして、少年のほとんどはそんな男になることを憧れていたと祖父は語っていた。 ……それが、今はどうだ。 調停役どころか、身勝手な振る舞いに終始している輩を止められる男は一人もいないではないか。 そんな現実を見せつけられてしまうと、腹の底から嘆きの声を上げたくなってしまう。 ――人を助けずして、何が男ぞ! 翔馬はやるせない気分のまま、視線を遠くに遣る。その先には美奈の自宅があるはずだった。 場所は益荒男神社からほど近い朋友公園。 「くっそ。アイツ一体何でできてるんだ」 金髪頭の江崎は忌々しげに言うと、水飲み場の蛇口を捻った。冷水が右手にかかったせいで思わず身震いしてしまう。それでもこうせずにいられなかったのは、負傷した手首の痛みを和らげるためだった。 「江崎、大丈夫か?」 近藤(今は喫煙していない)が怪我の具合を訊いてくる。 大丈夫なはずがない。岩肌を力一杯殴りつけたようなものだ、骨折とはいかなくとも捻挫ぐらいはしているだろう。まったく、あの時代遅れのダサ男ときたら恨めしくて仕方ない。 「るっせぇよ。使えねー奴は黙ってろ」 近藤がいとも簡単に撃退されたことに対する嫌味だ。今の江崎にとって目に入るものすべてが鬱陶しかった。 身体から『俺に話しかけるなオーラ』を最大出力で放出すると、他の面々は猛獣に睨まれた草食動物のように黙り込む。こうなったら誰も手を付けられないと、全員が知っているのだ。 (……許さねぇ、あのオヤジ) 怒りの矛先は当然『コスプレ番長』だ。何かにつけて「周りの迷惑を考えろ」だの、「男なら我慢しろ」だのとうるさい。自分の欲求に正直なのが何故悪いといえるのだろうか。そもそも、男だからどうあるべきなどという考えは時代遅れもいいところではないか。 思い返せば腹が立つ。狂いそうなほど腹が立つ。兎にも角にも腹が立つ。 先週のことだってそうだ。ゲームセンターに行く金がなくなったから中学生に融資を頼み込んでいただけなのに、奴は難癖をつけてきた上につまらん説教をしてきたのだ。あんなものはただの自己満足ではないか。自分の価値観を他人に押しつけて何が楽しいのだろう。 「このっ、このっ、このッ!」 沸々と湧き上がってくる怒りに任せて、江崎はコンクリート製の水飲み台を何度も蹴り付ける。取り巻きどもはそれを見て、おろおろするだけだった。 「っがぁぁぁっ! あいつ、ぜってぇブッ殺す!!」 力の限り蹴飛ばすと蛇口がひしゃげ、水があらぬ方向に流れていく。 さすがにこれはまずいと感じたのか、近藤が止めに入った。 「おい、やめろ。いい加減やべぇって!」 これがいけなかった。江崎は振り向きざま、近藤の顔面に頭突きをかます。 「ぶごッ!?」 鼻を押さえてのたうち回る近藤を見て、残る三人は色を失った。逆らえば同じ目に遭わされると考えたのだろう。そしてその反応は、江崎の望むところでもあった。 「……おい、人を集めろ。あの野郎にリベンジしてやんぜ」 有無を言わせない口調で言うと、手下の四人はすぐに携帯電話で連絡を取り始めた。 その間、江崎は作戦を考えることにする。 先週は三対一で負けた。そして今日は五対一で負けた。だったら、もっと多くの敵を作ってやればさすがにあの男も為す術がないだろう。 だが、これではまだ不十分だ。奴は身体を鍛えているようだから、素手で勝てる見込みは薄い。だから、武器の調達も考えなくてはならない。 それと、保険も必要だ。 多勢に無勢でもあいつなら乗り越えかねない。この自分と一対一になってしまった場合に、何か有利になれるような条件がないと心許ない。 「……あのぅ」 頭脳をフル回転させているところに、空気を読まない声が入り込んできたので、江崎はいたくイラついた。 「うるせぇ、殺す……ぞ?」 台詞の最後が疑問形なのは、声を掛けてきた相手が奇妙ないでたちをしていたからだ。 この格好は漫画で見たことがある。その漫画は――江崎にしてみればギャグ漫画にしか思えないのだが――やけに男くさい連中が友情だの根性だのと謳いながら並み居る敵と戦うような内容で、主人公サイドの登場人物は例外なくこの服を着ていた。 あたかも漫画の中から飛び出してきたようなその男は、小心者らしい小声で江崎に話しかけてくる。よく見れば、下がり眉の気弱そうな顔だ。顔の情けなさだけなら、先週にカツアゲをしようとした中学生といい勝負である。 「す、すみません。ちょっと、お話したいことがありまして……」 「んだよ、テメー」 相手は小動物のように身体を震わせると、どもりながら自分の事情を話し始めた。 聞くところによると、この小心者もまたあの『コスプレ番長』に恨みを持っているらしい。だから、ともに仕返しをしようと言い出したのだ。 「けっ、何でテメェなんかと協力しなきゃならねぇんだよ。そんなにしたきゃ、お前一人で……」 と、江崎が相手の提案を突っぱねようとした時、思わぬ情報を聞かされた。 ――なるほど、それはいい。 新たに情報を得たことで、江崎の作戦はここに完成したのだった。 ■ ■ ■ 翌週の木曜日。風雲高校は部活動の時間である。 「おのれ、小暮はどこに行ったんじゃあ!」 副主将兼後輩の指導役を務める武田の胴間声がこだまする。部活動の時間だというのに、一年生の小暮が出席していないのだ。 小暮が無断欠席するのは今に始まったことではない。これまでにも、厳しい指導をした日以降は必ずといっていいほど休みがちになっていた。先週の服装・所持品検査の結果、日本男児にあるまじき所持品を発見したので武田が鉄拳制裁したわけだが、どうやら裏目に出てしまったらしい。 「武田、構わん。部活動を始めるとしよう。小暮には俺からよく言っておくから」 「……そうじゃな」 翔馬に言われ、武田はたった一人残った後輩部員に檄を飛ばす。 「よっしゃ! それでは今日の活動内容を伝える」 「押忍!」 もったいぶった口調で言う武田に、後輩部員はきらきらと輝く瞳で答える。小暮がいない今、先輩部員の厳しい目が集中するというのに、それすら喜んでいるような表情は先輩として嬉しい限りだ。 翔馬は腕を組み、感慨深く頷く。 部員は少ないが、自分はいい友と後輩を得たものだ。武田は、一見して無理難題を突き付けて後輩いじめをしている人物のようだが、本人はきちんと限度を心得ているし、後輩の成長を心から願っているようないい男だ。かつては価値観の違いから殴り合いの喧嘩をしたものだが、あれも互いの信念がぶつかりあった結果だ。全力を尽くして戦った後、二人は真の男を目指しているという共通点に気付いた。それ以来、二人は固い友情で結ばれている。三年生の引退後、ともに部の運営方針について意見を出し合い、ともに部を存続させてきた。口には出さないが、この男のためなら命を賭けてもいいと翔馬は思っている。 「あれを見るんじゃあ!」 びしぃっ、と武田が指さす先には、一抱えもある柱が一本置かれている。かなり年期が入ったものらしく、表面は黒ずみ、所々がぼろぼろに朽ちていた。 「あれは益荒男神社の改修工事の際、老朽化のために取り替えられた柱じゃ。神主殿に頼み込んでな、譲って貰ったんじゃ」 「押忍!」 あくまで後輩部員の返事は一種類のみである。 「今日は、あれを交代で担ぎ、校内を十周する。……ん? なんじゃ、いつもより激しいと言いたげじゃな。よかろう、お前にはその訳を教えてやる」 今日は気分がいいのか、武田は後輩部員の周りを歩きながら説明を始めた。 「よいか。世間は罵恋多淫之日(バレンタインデー)を明日に控えておる。だがしかし、男たるもの砂糖菓子の一つや二つで一喜一憂してはならん。あまつさえ、未熟者がおなご相手に鼻の下を伸ばすなどもってのほか! そこで、精神鍛錬のため、この神聖な柱を担ぎ煩悩を打ち払うのじゃ!!」 「押忍!」 「よし、ついてくるんじゃ!」 そう言うなり、武田は上着を脱いで上半身裸になると、例の柱を担ぎ上げた。普段から鍛えていなければ、それすら無理だったことだろう。 活気に満ちた部活動の様子を見て、翔馬の士気も上がる。武田と同じように外套を脱ぐと、武田の前を走り始めた。 前から順に翔馬、武田、後輩部員の布陣で、漢部の驀進が始まった。グラウンドの中央は野球部が使っているため、その周りを走ることになる。その際は練習に励んでいる野球部員に激励を送ることを忘れない。 次はテニスコートだ。ここはフェンスで囲まれているので中に入ることはできない。しかし、漢部員の応援は届く。 そして、校舎裏のサッカーグラウンドだ。その前を通り過ぎる際には、今年こそ全国大会へ行けることを期待している旨伝える。 風雲高校において漢部の存続が認められているのは、こういった応援活動があるからだ。確かに、〈男の四箇条〉を高唱している時には他の部に迷惑を掛けることになるが、それ以上に彼らの応援は生徒たちに好評なのである。 これは翔馬が主将に就任した当初、他の部の主将と話し合って決めた案だ。これまでの漢部は、はた迷惑な集団として疎まれていたものだが、翔馬の機転により状況は改善された。現在では大声で檄を飛ばすと「お前らもなー!」と声が返ってくることも多い。そんな現況を、翔馬は心地よいものと感じていた。 ただ、遺憾に思うのは部員が少ないことである。創設当時は二十人近い部員がいたそうだが、今となってはそれも過去の栄光だ。 (……小暮) 今はいない部員のことを思うと不憫でならない。 小暮よ、お前は真の男になりたかったのではないか? そうなるためには、どんな苦難も乗り越えると誓ったのではなかったか? できるだけ早いうちに、言い分を聞いてやらねばならないだろう。せっかく一年近く過酷な活動に耐えてきたのだ、ここで諦めては彼のこれまでの忍苦が無駄になる。 『放送部から連絡します――』 外部用スピーカー(新品)から校内放送が流れた。 放送の内容に耳を傾けると、教師が翔馬を呼んでいるので生徒指導室まで来て欲しいというものだった。 列の先頭を走っていた翔馬は片手を上げて駆け足を止めると、後ろの武田に声を掛けた。 「すまんな、呼び出しだ」 部活動を中断させてしまったことを詫びると、武田は「とんでもない」と首を横に振る。 「いや。ワシがこいつをしっかり見ておくから、お前は安心して行ってこい。なあ?」 最後の部分は柱をバトンタッチされた後輩部員に対するものだ。するとニキビ面の一年生は笑顔のまま「押忍」とだけ答える。 翔馬はそんな二人を見て頷いた。これなら任せても大丈夫だろう。 「では、行ってくる」 「失礼します」 翔馬が生徒指導室に入ると、そこには見知らぬ男がいた。年齢は六十近いだろう、髪はほとんど白くなっている。やけに出っ張った頬骨が特徴的でいかつい印象ではあるものの、親しげに細められた両目が辛うじてその人物の穏やかな人柄を示していた。 「やあ、君が早乙女君か」 名字を呼ばれた途端、翔馬は顔をしかめる。女を連想させる名字は、翔馬が自分に関して唯一嫌っている要素だった。 男に促され、翔馬は机を挟んだ向かいに座った。この部屋は広さにして三畳間ほどなので、男二人がいるとそれだけで窮屈な印象になる。 「君のことは噂で聞いているよ。それにしてもバンカラなんて懐かしいなぁ。私も若い頃は硬派で通したもんさ」 「失礼ですが、どちら様でしょうか」 相手の機嫌を損ねないように尋ねる。年長者には敬意を持って接するというのが翔馬なりの考えである。 「ああ、こりゃうっかりしてた」 と言って、男は背広のポケットから手帳のようなもの取り出すと、それを広げて中身を翔馬に見せてきた。 「生活安全課少年係の山内だ。担当はもちろん、少年犯罪や少年の健全育成だよ」 翔馬が警察手帳に記されている内容に目を通すと、確かに『警部補 山内紀夫』とある。 「その刑事さんが、どういったご要件でしょうか」 翔馬はやや緊張して言う。というのも、この格好のせいで自分のことを不良と勘違いして高圧的な態度を取ったり、見下した態度を取ったりする制服警官に何度も職務質問された経験があったからだ。 「じゃあ、手短に話をしよう。今は部活の最中みたいだしね」 山内は窓の外に目を向ける。そこでは武田と後輩部員が「うっしゃあ! 男なら根性見せたらんかい!!」「押忍!」といった掛け合いとともに、激走を続けている。 「先週の話なんだが、江崎という悪ガキがうちの署に来てね。君から暴力を受けたから被害届を出したいと言ってきた」 ――またあの男か。 翔馬の眉がぴくりと動く。 あのならず者は、自分から喧嘩を仕掛けてきたくせに被害者を装うつもりなのだ。盗っ人猛々しいとはこのことである。 「話を聞いたら、どうにも要領を得なくてね。前にも悪さをしたことがあったから厳しく追及してやったところ、結局は自業自得だとわかった。だから被害届も取っていないし、逆に『お前が悪い』と言って追い返してやったよ」 なるほど。この山内という刑事は話のわかる男らしい。翔馬は相手が信用できる人物だと評価した。 「とはいえ、こちらもそんな話を聞いた以上、事実確認をしなきゃならん。それで今日、学校の先生に事情を話して君を呼んで貰ったわけだ」 そこまで前置きすると、山内は江崎から聞き出した内容を翔馬に話して聞かせる。驚いたことに、江崎はあの日の出来事を正直に話していたらしい。卑怯者らしく嘘を吐いたり真実を隠していたりといったことはなく、翔馬が知っている事実ありのままを山内に伝えていたのだ。 (……いや、これが刑事の手腕なのかもしれんな) おそらく、山内が江崎に真実を『話させた』のだろう。この刑事、ベテラン然とした風貌は伊達ではないらしい。 翔馬が山内の評価を一段階上げたところで話は終わった。 「――ということで間違いないか?」 「押忍」 あくまで返事は短く。不要なことを長々と喋る男はみっともない。男は言葉ではなく、態度や行動で語るものだ。 「わかった。それなら、この件は終わりだ」 山内はにっこり微笑むと、腰を浮かせる。 相手が退出するのだと察した翔馬は素早く席を立ち、生徒指導室のドアを内側に開いた。昔は学校の生徒全員が教師の入退出時にこうしていたと聞くが、今やそれを実行しているのは漢部員だけである。 「あ、そうだ。先生から一つ頼まれていたんだった」 山内はぴしゃりと額を叩き、立ったままで翔馬に告げる。 「君に非がないとはいえ、学校側としては今回のようないざこざを好ましく思っていないそうだ。今後も続くようなら、漢部の存続を検討しなきゃならなくなるそうだよ」 それを聞いたとき、翔馬は雷に打たれた気がした。 学校側はあの出来事を、自校の生徒が起こした厄介事と捉えているのだ。自分の信念に基づいて傍若無人な江崎たちを諫めただけなのに、そんな風に思われていたとは。武士道における義の心も随分と廃れたものだ。 しかし腹は立つものの、衝動に任せて動くことはない。気がかりなのは山内の話の後半部。漢部消滅の危機についてだ。 これまでの学校側の態度からして、漢部に良い印象を持たれていないことは知っている。実際に活動方針を改めるよう注意されたことはないが、保護者から苦情が来ていたり、潔癖な性格の教師から陰口を叩かれていたりといった話は何度も聞いている。 漢部を廃部にしようと考えている者にとって、今回のような事件は口実としてはうってつけといえた。だから、感情のままに職員室へ乗り込むようでは、まさに相手の思う壺である。ここは主将として、そして何より男として耐えるところだ。 翔馬は自分に忍耐の二文字を言い聞かせ、 「そうですか」 とだけ答える。顔に怒りが滲み出ていないか酷く気になった。 「では失礼するよ」 翔馬の心中を悟ったのかそうでないのかは不明だが、山内は部屋を出る時、肩に手を置いてきた。 「個人的には君らのような男は好きだよ。ただ、時代がそれを求めていないのかもしれんが……。ま、頑張りなさい」 山内はそう言って生徒指導室を後にした。 そろそろ駆け足も終わった頃だろうと見当をつけ、翔馬は部室に戻る。すると案の定、武田と後輩部員がそこにいた。 激しい運動の後で二人の顔が紅潮していると思いきや、それに反して二人の顔は青ざめている。これは何かあったに違いないと思い、翔馬は部室内の机の前でうなだれている武田に訊いた。 「どうした」 「……翔馬、大変じゃ。小暮の奴、こんなモンを残していきよった」 武田から手渡された封書には、筆ペンで『退部届』と書いてある。 (……ついにこの時が来たか) 半ば予想していたことではあったが、現実を目の前につきつけられるとやはり辛い。封入されている紙を取り出し文面に目を通すと、『一身上の都合により退部します』とだけある。退部理由も、謝罪の言葉も、「お世話になりました」の一言もない。あまりにも寂しい去り方だ。 「すまん。ワシが厳しくし過ぎたせいじゃ。あいつもいつかはわかってくれると思っとったが……」 言葉を失っている翔馬を気遣ってか、武田が頭を下げようとする。 だが翔馬は武田の肩に手を置き、首を横に振った。「謝る必要はない」という意思表示である。 「お前は自分の役目を果たしただけだ。男が簡単に頭を下げるものではない」 「じ……押忍」 よほど気に病んでいるのだろう、「じゃが」と翔馬の温情に反論しようとしたのを寸でのところで踏みとどまったらしい。「男の返事は『押忍』だけ」と言った立場上、武田も辛いところである。 一方、後輩部員は共に辛酸を舐めてきた同級生がいなくなったことに戸惑いを隠せないでいる。これまでにも新入部員が辞めていく場面は何度もあったが、さすがに最後の一人となると心細いのだろう。室内をそわそわ歩き回っているところから、そんな様子があからさまに見て取れた。 「沈んでいても仕方ない。では、今日の部活動はこれで終わりとする」 翔馬はいつもと変わらない口調を心がけて終了を告げる。 『……押忍』 部活の締めに唱える〈男の四箇条〉は、今日に限って寂しげに響いた。 帰り際、翔馬は武田を呼び止めた。 「何じゃ?」 主将としてやることが残っているから自分は部室に残ると告げた上で、最後にこう付け加える。 「それから、美奈のことを頼む」 事情は先週のうちに伝えてある。江崎という他校の生徒がこの自分に恨みを抱いており、手を出しやすい美奈に危害を加える可能性がある、だから彼女の護衛を頼みたい――というように。 自分の手が空いていれば頼む必要もないのだが、生憎と今日はそれが許されない状況にある。翔馬は漢部存続を学校側に願い出るため、これまでの活動内容と功績についてまとめた報告書を作成しなくてはならないと考えていた。 「押忍。もちろん、相手に気付かれんようにじゃろ?」 武田はニヤリと笑うと、一礼して部室を出て行った。 (……さて) 翔馬は備え付けの本棚からアルバムを引き抜く。昨年四月以降の活動を振り返るためだ。 アルバムの最初のページには新入生を含めた集合写真が収められている。四月当初は新入部員が六名いた。それまで漢部員は翔馬と武田の二人だけであり、このままでは存続自体が危ぶまれていたのだが、近年希に見る大収穫に当時の二人は大喜びしたものだった。 写真撮影があった日などは武田が嬉しさのあまり、撮影場所からほど近い川に服を着たまま飛び込んだことがあった。すると他の部員たちは後に続けと言わんばかりに次々と身を投じていき、これが原因で翌日には部員全員が風邪をひいてしまった。これも今となっては良い思い出である。 (……あの頃はよかった) 翔馬は内心で笑うと、次のページをめくる。 そこにあるのは、ゴールデンウィークに訪れた〈大和ミュージアム〉の写真。日本国のために散っていった偉大な戦死者たちを男の鏡と崇める翔馬たちにとって、そこは聖地ともいえた。 見開き隣のページには、正面入り口の前で撮影された集合写真が貼ってある。写っているのは全員で七名。この行事の直前に、部員が一人辞めていたのだ。 (……それでも部の活気は衰えていなかったのだが) 次は夏休み期間中に催された合宿のスナップ写真である。一週間のキャンプを企画し、部員全員で共同生活を送ったわけだが、途中「これは山籠もりでは?」という疑問が一部から出ていた。その通り、合宿中は道具らしい道具もないまま山奥で野宿をし、川魚や野ウサギを狩っては食料調達していた覚えがある。 (……これ以降、立て続けに退部者が出たのだったな) 翔馬の記憶は正しい。続く文化祭の写真では部員が五名しか写っておらず、年末に行われた寒中水泳大会の頃には四名になっていた。 そして今日、小暮が部を去ったことで残り部員はたった三名になってしまった。 次々と減っていく部員たち。彼らに退部理由を尋ねると、彼らは異口同音にこう言ったものだった。 ――こんなことして何になるんですか。時代遅れもいいところですよ―― 時代遅れ。 これまでに何度も聞かされてきた言葉だ。 確かに漢部は、日本古来から言い伝えられてきた「男らしさ」を体現することで真の男を目指す集団である。だから、現代の風潮にはそぐわないところも多々あるだろう。 しかしその本質は、社会において必要な忍耐力を養うところにある。誰もが「不可能だ」「馬鹿馬鹿しい」と考えることでも、自分が正しいと信じる限り真の男は逃げない。自分が望む結果が出るまで不断の努力を続け、それが達成されるまではひたすら耐える。それこそが信念を貫くということであり、真の男の生き様だといえるからだ。 さらに、真の男に求められる要素は他にもある。 男なら、正しいと感じたことには命を賭け、間違っていると感じたことには正面からぶつかり合う勇気を持たなければならない。そして、自分の信じた道が誤っていたとわかった時、潔く責任を取るべきだ。翔馬はそう思う。 (……だが現実は) 世間に目をやれば、女の機嫌を取り、波風を立たせないよう無難に振る舞う男が増えている。大人たちは他人の悪事から目を逸らし、自分の意見を言うことに臆病になっている。ひとたび自分の過ちに気付けば、それを取り繕うための弁解を続ける者までいる始末。 こんな連中を見るたびに翔馬は、「これが現代人の生き方だ」と教え込まれているような気分になる。 (それが何だと言うのだ。真の男は信念を貫くものだ!) 歯をくいしばった。 多くの人に理解されなくてもいい。ただ、自分が信じた道はこれなのだ。この道を行くと決めた以上、後戻りはしない。たとえ自分が最後の一人になろうとも。 翔馬は一人、部室で拳を固めるのだった。 報告書をまとめ上げ、翔馬が帰る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。校舎の時計を見ると現在時刻は午後六時八分、思ったよりも時間がかかってしまったようだ。 自宅への帰り道を歩いていると、翔馬は電柱に背を預けて座り込んでいる男を見つけた。短く刈り込んだ黒髪に長ラン姿、顔は青痣や擦り傷にまみれている。 「武田!」 それが誰なのかわかった瞬間、翔馬は相手に駆け寄っていた。がっしりとした親友の肩を掴み揺さぶると、武田はうっすらと目を開いた。 「どうした。何があった」 問い掛けると、武田は感電したように起き上がる。 「翔馬、大変じゃ!」 強い眼力を持つ両目をさらに大きく見開いて、武田は翔馬にすがりつく。 「美奈が……美奈が攫われてしもうたんじゃ!」 (……何!?) 翔馬の鼓動が跳ね上がる。恐れていたことが現実のものとなってしまった。 「美奈が歩いておるところに金髪の男が現れてな。ワシは最初、ナンパかと思っておったんじゃ。じゃが直ぐに十人近い連中が現れて、美奈を無理矢理連れて行こうとしたんじゃ」 金髪と聞いて、翔馬は江崎の顔を思い浮かべた。あの男、やはり美奈を狙っていたのだ。どこまでも救いようのない奴である。 「それで、すぐに止めようとしたんじゃが……結局このザマじゃ」 武田を責めることはできない。一対十では分が悪すぎる。それに武田の怪我を見ると、敵はバットなどの武器を使っていたことが窺える。奴らは止めに入った武田を袋叩きにしたのだろう。これでは単なるならず者どころではない、立派な犯罪集団ではないか。 「奴ら、お前に用があると言っておったぞ。確か『雷雲高校の体育館で待っている、一人で来い』とか」 雷雲高校は、風雲高校と兄弟校の関係にある。数年前までは、ここにも漢分が存在しており切磋琢磨し合う仲だったのだが、部員の激減が原因で廃部となってからは校内の風紀が乱れる一方だと聞く。確かに、江崎たちを見る限り、それは事実に相違ない。 「とにかく、ワシがふがいないばっかりに……すまん!」 武田はその場に正座すると、額を地面に擦りつけた。 「こうなったら、ワシはもう腹を切って詫びるしか」 「馬鹿なことを言うな!」 翔馬は武田を一喝する。 「要は俺が行けば済むことだ。詫びるのはまだ早い」 「じゃが。あいつらのところへ行ったら、お前はただじゃ済まんぞ。美奈を返してくれる保証も――ぐばっ!?」 翔馬の拳が唸った。なおも説得を続けようとする武田の顔面を、したたかに打つ。 「男の返事は『押忍』だけだ。貴様、そんなことも忘れたか」 「……お、押忍」 武田は唇を噛んで、以後の話を止めた。 「俺は今から雷雲高校へ行く」 「なら、ワシも……」 加勢を申し出る親友に、翔馬はぴしゃりと言い放つ。 「ならん。奴らは俺に用があるのだろう? ならば手出しは無用、俺が一人で行く」 言い終わると、翔馬は立ち上がった。猛り狂う獅子の目で、雷雲高校のある方角を睨む。 「翔馬ぁぁぁぁぁっ!」 走り出す。武田の声を振り切るように。 夜の街を駆け抜ける翔馬は、七年前の出来事を思い返していた。 そう、自分が真の男になると誓った、あの日のことを。 七年前の冬、小学四年生だった翔馬と美奈はいつも通りに仲良く下校していた。 その途中、酒に酔った中年男が美奈に執拗な嫌がらせをしてきたことから、これに激怒した彼女がランドセルを相手の顔面に叩きつけたのだった。 これで大馬鹿者を撃退できたらよかったのだが、残念なことに中年男が逆上し、美奈に向かって腕を振り上げたのだ。 当時の翔馬には、これに対抗できるだけの腕力も勇気もなかった。だから、鬼のような形相をした大人の暴力行為を、震えながら見ていることしかできなかった。 そして、男の平手打ちが美奈の頬を直撃。大人の力に小学生が耐えられるわけもなく、彼女は紙人形のように吹き飛ばされたのだった。 結局その後、この状況を見た誰かが一一〇番してくれたことで警察が駆けつけ、事なきを得た。 だが、翔馬はあの時の美奈の顔を忘れられない。 ――どうしてこんな奴に殴られないといけないのだろう―― 美奈の目はそう訴えていた。悔しさのあまり泣き出した彼女を見たとき、翔馬は激しく自分を責めたものだ。 ――あのとき、自分が彼女を守るべきだった。もっと力があれば良かったのに、もっと勇気があればよかったのに―― それ以来、翔馬は自分を鍛えることにのみ年月を費やした。初めの頃は過激な運動にひ弱な身体が悲鳴を上げ、血の小便を出したこともあった。 また、度胸を身に付けるために、マナーの悪い者を積極的に注意して回ったこともある。中にはこれに腹を立てて暴力を振るってきた者もいたが、美奈が負った心の傷に比べれば、そんなものは何でもなかった。 月日は流れ、いつしか翔馬が見違えるほどに雄々しくなった頃、彼は一つの決心をしたのだった。 それは、日々女性として成長しつつある美奈の前に、一人の男として立つこと。彼女を守るに充分な力と勇気を兼ね備えた、真の男として。 その目標を掲げて以来、翔馬の修行は続いている。今もなお。 そのさなか、唯一無二の親友と可愛い後輩を得られたのは僥倖というものだろう。 今では、美奈も部員も、翔馬にとっては等しくかけがえのないものだ。この二つを同時に失うことがあれば、最早生きている意味がないと言えるほどに。 (……美奈) 彼女は今頃、一人で並み居る猛獣の中に放り込まれた気分でいることだろう。七年前の忌まわしい記憶に、心を引き裂かれていなければいいのだが。 行く手に雷雲高校が見えてきた。呼び出し先である体育館の内部からは煌々とした明かりが漏れており、さながら夜闇の中にそびえ立つ魔城のようであった。 雷雲高校の門はすでに鉄格子で閉鎖されていたが、翔馬は取手に足を掛け、牛若丸のごとく飛び越える。 左手側にある体育館に視線を移すと、そこには三十人近い男たちがたむろしていた。制服を着崩した者、ダウンジャケットにジーンズといった私服姿の者、中にはバイクに跨り、けたたましく空ぶかししている者までいた。 体育館が魔城なら、こいつらはさしずめ悪の軍勢といったところか。なるほど、見れば見るほど邪悪な顔をしている。 翔馬の姿を認めるや、悪の軍勢がざわめいた。といっても、戦慄しているのではない。彼らはいずれも、自陣に単身乗り込んできた愚かな敵兵を嘲っているのだ。 突然、バイクが猛スピードで突っ込んできた。運転者がニヤついているので、単に恐怖心を煽りたいだけだろう。相手の腹づもりを読み取った翔馬は、臆することなくその場で立ち止まる。 するとバイクが目の前で急停止。作業服姿の運転者が口を開いた。 「ホントに一人で来やがったんだな。お前、マジでバカだろ?」 嘲笑混じりの言葉を無視し、翔馬は無言で通す。このような相手には言葉など不要だ。 「……けっ、スルーしてやんの。まあいいや、中で江崎サンが待ってんぜ」 男がアゴをしゃくると、道が開けた。ならず者たちが、これから翔馬を死地へと誘おうというのだ。 歩く。周りには目もくれず。 翔馬が体育館の入り口をくぐると、中から狂ったような笑い声が聞こえてきた。 「うっわー、マジで来やがったよ『コスプレ番長』」 そう言ったのは他でもない、リーダー格の江崎だ。アーモンド型の両目は優越感に彩られ、口の両端が裂けそうなほどに吊り上がっている。翔馬がこれまでに見た中で、一、二を争う醜悪さだった。 「約束通り来たぞ。美奈を離せ」 翔馬は江崎の左腕に抱きすくめられた美奈の表情を確認する。 顔が青ざめているようだが、泣き喚いたりはしていない。幼い頃に培った胆力で、恐怖に耐えているのだろう。 服装に乱れがないので、下卑た悪戯などはされていないらしい。もしそうでなかったら、今頃自分は我を失っていたはずだ。 「あっれぇー? 俺、そんな約束したっけ。なあ、お前ら」 おどけた調子で、江崎が周りに陣取っている手下に訊く。すると、十数名が一斉に笑い出した。 「ってぇーことで、お前の言う通りにはできねぇな。ていうか、どんだけ都合いいんだよ」 「ならば、どうすればいい」 翔馬は怒りを押し殺して、静かに訊く。ここで声を荒げれば、美奈に何をされるかわからないからだ。 「そうだなぁ。じゃまず、これまでのことを謝ってもらおうか。とーぜん、土下座でな」 耳を疑った。なぜ自分が謝らなくてはならないのだろう。 「それはできん」 きっぱりと言い放つ。それを聞いた江崎が、凶悪な目つきになった。 「ぁあ? てめ、何言ってんだよ。ジョーキョーわかってんのか」 江崎の左腕が動く。美奈への締め付けが強くなり、彼女が小さく呻いた。 「早まるな。何もしないとは言っていない」 「なら、どうオトシマエ付けてくれんだよ?」 仕方あるまい、と翔馬は条件を切り出した。 「要は、俺に仕返しがしたいのだろう。だったら、好きなように攻撃するがいい。無論、反撃はしない。これでどうだ」 願ってもない条件だ。江崎の表情からはそんな考えが読み取れる。相手の真の望みは、翔馬の謝罪ではない。ただ、鬱憤を晴らしたいだけなのだ。 「面白ぇ! わかったよ、やってやろうじゃねぇか。てか、ホントにそれでいいんだな?」 「男に二言はない」 それきり、翔馬は口を閉ざした。ここからは、言葉のやりとりが通用する場面ではない。 「よぉーし。とりあえず、上着を脱いで貰おうか。中に武器を隠してるかもしれねぇしな」 何を馬鹿なことを。男が喧嘩に武器を使うものか。こいつにはそれが理解できないらしい。もっとも、普段から武器を使わなければ満足に戦うこともできないのだから、そのような考えに至るのだろうが。 言われるまま、翔馬はぼろぼろの外套と学生服を脱ぐ。腹にサラシを巻いた逞しい上半身があらわになった。 準備が済むと、翔馬はその場にあぐらをかき、両腕を組んだ。鋭い両眼で江崎を正視し、「さあ来い」と迎え撃つ。 「それでいいだろ。うっし、お前ら。思いっ切り逝ってやんな!」 『うっしゃあ!』 取り巻きが一斉に声を上げた。 翔馬に歩み寄ってくるのは十数名。彼らは手に手にバットや角材、特殊警棒といった武器をぶら下げている。 「いちおー言っとくけど、頭やんのはナシなー。後でケーサツとか来たら、メンドいしー」 江崎が余裕綽々の声で手下たちに呼びかける。そのルールを果たして悪党どもが遵守するかどうかは、疑わしいところだが。 「一番手、いっきまーす!」 翔馬の背後で甲高い声がした。と同時に、背中に脳髄まで突き抜けるような痛みが走る。おそらく、バットで力任せに殴りつけたのだろう。人間を鈍器で殴ることに何の躊躇もないとは。こんな奴が自分と同じ性別かと思うと反吐が出そうだ。 これを皮切りに、次々と翔馬を打ち付ける男たち。彼らは「こいつ、ガチで固ぇじゃん」「どこまでやったら死ぬんだろーなー」などと、冗談半分で暴力を振るっている。彼らにとって翔馬は、いたぶるためだけに差し出された生け贄なのかもしれない。 間断なく襲ってくる激痛に耐えながら、翔馬はひたすら美奈を見詰めた。 彼女の顔は蒼白になり、今にも気を失いそうだ。あまりにも凄絶な場面を見せられるのが辛いのだろう。 (……待っていろ、美奈) 奴らの気が済めば、さすがに美奈は解放されるだろう。 それに、下手に反撃すれば、たとえ江崎たちを撃退できたとしても、風雲高校の教員に問題視されることは免れない。そうなった場合、自分は漢部を失う。 だから、これでいいのだ。美奈と漢部の両方を救う唯一の方法は、自分がこの嵐を耐え切ることなのだ。 「……なんか面白くねぇな。おーい、江崎ー」 身体を殴りつけていたうちの一人がリーダーに声を掛けた。なかなか音を上げない翔馬に、業を煮やしたのだろう。 「こいつ、全然効いてないみたいだぜ? ていうか、メチャ疲れたんだけど」 「それもそうだよなぁ……。このオッサン、何か弱点とかねぇのか?」 江崎は思案顔して、後ろに立っている人物に声を掛ける。不似合いなことに、参謀役までいるらしい。 「そうですねぇ」 と言いながら、一人の男が姿を現した。短髪を茶色に染め、サイズが大きめのトレーナーとカーゴパンツという服装であり、いかにも外国産の不良を気取っているものの、下がり調子の眉に垂れ目という気弱そうな顔が雰囲気を台無しにしていた。 翔馬は、この男を見て心臓に杭を打たれた気分になった。 (……小暮!?) 江崎の傍らに立っていたのは、今日退部届を出したばかりの小暮だったのだ。 「……っすー、センパイ。今日から俺、江崎サンについて行くっすよーみたいな?」 使い慣れない口調で喋る小暮は、滑稽そのものだった。 (……お前には、武田の想いが伝わらなかったのか……ッ!) 腹の底から怒りが込み上げてくる。 武田は、自分が嫌われ者になることを厭わず、後輩の指導役を自ら買って出た男だ。 二人で漢部の活動方針を相談していた時、武田は後輩部員の指導について、こう語っていたものだ。 ――ワシは目一杯厳しくするつもりじゃ。後輩に嫌われようとも、奴らが少しでも真の男に近付けるんなら、それで本望じゃからの。なあに、嫌われることには慣れとる、どーんと任せたらんかい!―― 翔馬は知っている。あの武田がどんな想いで後輩に厳しくしていたのか。そして、退部者を出したことにどれだけ責任を感じていたのか。 だというのに、小暮はそれも知らずに部を去り、あまつさえ敵側に寝返ったのだ。 「つーか、ですよ? 俺、実はモテたかった……って感じなんスよ。男らしくなったら、ちょっとは女の子が振り向いてくれるかなーって思ったワケ?」 それが入部理由か。情けないにもほどがある。 「でも、あの人……武田のヤローがまじウゼーことしてきましたんで、もう辞めようって思ったトコなんス」 たどたどしく喋る小暮の言葉を、翔馬はとても聞いていられなかった。 これほどまでに日本男児の魂は腐っていたのか。 徒党を組み武器を持たねば戦うこともできず、弱い者ばかりに理不尽な暴力を振るう。女を楯にするなど論外だ。 さらに、快楽に生きることを至上とし、何一つ信念を持たず、耐えることもなく、己の欲望のためだけに生きている。 ――これが男か。真の男は一体どこに行ったのだ!! 「……なあ、小暮ちゃんよぉ。てめーのなげー話とか、どーでもいいから。コイツの弱点とか教えろよ、どっか怪我してるとかさ。じゃねぇと――殺すぞ」 江崎に凄まれ、小暮は縮み上がった。生来の頼りなさは未だ改善されていないらしい。 「うう……。て言っても、翔馬センパイは身体をまんべんなく鍛えてるんで……」 「お前、マジ使えねーのな。結局俺が得したの、この女を人質にできたことぐらいじゃねぇか」 そういうことか。翔馬と美奈が幼なじみという情報を、小暮が江崎に流したのだろう。そうして、美奈を人質に取る作戦が考案されたに違いない。 かつては苦楽を共にしたのに――男の魂、地に堕ちたり。 「あーあ、そんじゃ仕方ねぇな。ヤベぇことになったら、そんときにどうすりゃいいか考えるわ。てなわけで、ボクサツ解禁でーす」 瞬間、翔馬の脳天に角材が振り下ろされた。あまりの衝撃に、意識を根こそぎ持って行かれそうになる。 (……ぐッ!?) 翔馬は持ち前の精神力でこれに耐えた。何発殴られようと、決して倒れるつもりはない。 体育館の入り口を一瞥する。 スライド式の扉には内側から鍵が掛けられ、すぐ近くには見張りも立っている。外も同じく見張っている仲間がいることだろう。仮に警察や教員が駆けつけたとしても、時間稼ぎされるのは目に見えている。だったら、奴らが飽きるまで耐え切るのみ。 二発目。 今度は後頭部だ。思考が停止しそうになる。 三発。 四発。 五発……。 額から血がしたたり始め、若干量が目に入る。赤く染まった視界が揺らめき、もはや美奈がどんな顔をしているのかすらよく見えない。 「ショウちゃん!」 たまらず、美奈が叫んだ。力の限り喉から絞り出したような声だ。 (そんな声を出すな。今に助けてやる……) 諦めるものか。 これは戦いだ。 自分が真の男になるための。 「っがぁぁぁッ! なんだよ、コイツは」 ついに江崎がしびれを切らした。御大自ら手を下す気になったらしく、こちらに歩み寄ってくるのがわかる。 「貸せっ」 手下から武器を奪ったようだ。じきに攻撃が降りかかってくる。 翔馬は来るべき一撃に向けて、奥歯をあらん限りの力で噛みしめた。 「死っねぇぇぇぇぇっ!」 ――来る。 そう悟った翔馬は両目を閉じた。 「うわっ!?」 いきなり、入り口付近で誰かが素っ頓狂な声を出す。それもそのはず、これと同時に地震のような衝撃が体育館を襲ったのだ。 「な、何だ……?」 江崎が戸惑っている間に、もう一発。今度は地震というよりは砲撃に近かった。 突如として起こった異常事態に、体育館内にいた連中は面食らったようだ。戸惑うあまり、誰も動く気配がない。 その隙に翔馬は手で顔の血を拭うと、強靭な精神力を総動員して立ち上がった。 轟音は続いている。見れば、体育館の扉が外側から内側に向かって大きく陥没していた。これは、誰かが扉を叩いているのだろうか。それも、丸太のようなものを使って。 「――ぉぉぉぉおおおおおっ、どっせいぃぃぃぃっ!」 野太い咆哮が扉の外で響く。その直後、体育館の扉が金属製の悲鳴を上げた。いくら内側から鍵を掛けられているとはいえ、常識外れな攻撃には耐えられないようだった。 「うおおおおっしゃぁぁぁぁぁッ!」 度重なる突撃。五発目にして、ついに扉が吹き飛んだ。 「武田!」 その向こうから現れたのは、益荒男神社の柱を脇に抱えた武田と後輩部員だった。入り口の向こうを見ると、三十人近くいたはずの見張り役が半分以下に減っている。残っていた手下どもは、不幸なことに全員白目をむいて大の字になっていた。 この状況からして、武田と後輩部員の二人が柱を使って強行突破してきたのだろう。一抱えもある丸太を持って特攻を仕掛けてくる相手など、よほどの度胸と力がなければ止められるわけがない。 親友は誇らしげに拳を掲げ、 「風雲高校漢部、ここに見参じゃあ!」 と、がなり声を上げた。その後に続いて後輩部員が「押ーっ忍!」と、ドスの利いた声で叫ぶ。 「翔馬、助太刀じゃ」 「押忍、押忍ッ」 「お前ら……」 武田には「一人で行く」と伝えていたのに、奴はそれを覆したのだ。だが、不思議にも腹は立たない。むしろ、禁を破られたことのほうが喜ばしく思えた。 「行くか行くまいか悩んだんじゃが、やっぱりワシはこうせずにいられん。朋友(とも)を見捨てて何が男ぞ!」 ――人を助けずして、何が男ぞ。 翔馬と武田の想いが一つになった気がした。 (そうだ、男はこれでなくてはな……) 力が湧いてきた。男が奮い立つのに理屈は要らない。ただ、信じ合える朋友がそこにいれば充分なのだ! どん、と音を立てて武田と後輩部員が柱を床に立てた。顔に不敵な笑みを浮かべ、並み居る悪漢どもを睥睨する。 「翔馬、取り巻きどもはワシらに任せぇ。その代わり、お前は美奈を助けるんじゃ」 「押忍。頼んだぞ」 翔馬と武田、後輩部員の三人は互いに背を向けて身構えた。 こいつらになら後ろを任せられる、それが全員の共通認識なのだ。 「ワシについてこいッ」 「押忍、押忍っ、押ー忍ッ!」 武田と後輩部員が、獲物を見つけた肉食獣のように飛び出していく気配。 たちまちのうちに、体育館は悲鳴一色になったのだった。 「さて」 翔馬は悠然と構え、江崎に近づいていく。武田たちの奇襲が功を奏したらしく、敵の親玉はそれまでの余裕を完全に失っていた。 「な、何なんだよお前ら!」 翔馬は歩みを止めない。 「ありえねぇ、ありえねーって、マジ!」 有り得ないことはない。男は己の信念を貫き続ければ、誰でも強くなれる。この自分がそうだったように。 「くっ、くそっ! これでどうだ」 苦し紛れに江崎が取り出したのは、飛び出し式のナイフだった。水銀灯の光を受けてぎらぎら光る刃が、美奈の頬に押しつけられる。 「そ、それ以上近づいたら女を殺すぞ……」 ――この外道が。 翔馬は射貫くような視線を江崎にぶつけた。もし本当にそんなことをしたら、生きて帰さないという態度である。 しかし、江崎が恐慌状態に陥っている以上、下手に動けば美奈が危ない。彼女を無傷で助け出さなくては、守り切ったことにはならないのだ。だから、翔馬は仕方なくその場で立ち止まる。このときほど武器を持っている敵を恨めしく思ったことはない。 「は、ははっ。そうだよなぁ、怖いよなぁ。この女が死んだら、お前は困るんだろ?」 若干、江崎に余裕が戻ってきた。再び自分が優勢に立っていることを意識しているのだろう。 こんな奴に抱きすくめられて、美奈はどんな思いをしていることだろうか。普通の女なら、今頃泣きながら命乞いしていてもおかしくない。あるいは、混乱するあまり悲鳴を上げ続けていたかもしれない。 翔馬は美奈の瞳を見据えた。すると、彼女は気丈にも恐怖を押し殺し、じっと耐えている。わななく唇を固く噛み、声が漏れそうなのを必死でこらえていた。 (……いい女だ。それでこそ救い甲斐がある) 翔馬は美奈の度胸に感服した。と同時に、自分も腹を決める。 「武田!」 背中越しに副主将の名を呼ぶと、背後から威勢のいい返事が返ってきた。どうやら、取り巻きどもはほとんど恐れをなして逃げていったらしい。奴らの声がまったく聞こえないことからも、部員二名に勝てると考えた人間は一人もいなかったようだ。 当然だ。普段から厳しい鍛錬に耐えている者と、快楽に身を任せている者とは性根が違う。目の前にいる江崎にも、そのことを教えてやろうではないか。 「では、いつも通りに行くぞ」 翔馬が口にしたのはそれだけである。 事前に作戦などは伝えていない。だがそれでも、あの男ならこれで言わんとするところを理解してくれるはずだ。 「押忍。おい、整列じゃ」 「押忍!」 思った通り、武田が後輩部員を呼び、一年生も異議を唱えることなくこれに従う。 間もなく、崇高な時間が訪れる。男が魂の叫びを迸らせる瞬間だ。 「美奈、耳を塞げ」 翔馬は諭すように言った。彼女は、幼なじみの言葉を信じたらしく言う通りにする。 「へっ、何するつもりか知らねぇけど、いい加減諦め――」 「〈男の四箇条〉高唱!」 武田の爆声が体育館を揺るがせた。グラウンドの端からでも校舎の窓ガラスを震動させるほどの声が、屋内で炸裂したのだ。その威力たるや、音波攻撃といっても過言ではなかった。 『一つ、男は堪え忍ぶもの也!』 然り。男たるもの、いかなる困難が立ちはだかろうとも己の目的を果たすためには耐え抜くべきである。 『二つ、男は根性で進むもの也!』 いかにも。男たるもの、いかなる苦境にも決して屈してはならない。そのためには気合いと根性で乗り越えるべきである。 『三つ、男は弱きを助け強きを挫くもの也!』 その通り。男たるもの、困っている人がいるなら誠意を持って助けに入り、他人を不当な圧力で貶めようとする者がいれば勇気を持って打ち砕くべきである。 『四つ、男は己の信念を貫くもの也!』 言うまでもない。男たるもの、己が正しいと信じた道には命を賭けるべきである。 男たちの声が体育館を揺るがせる。さながら、激しく震える魂と同調しているかのように。 翔馬は、自分の背後で歴代の漢部員たちが見守っているように感じた。男の魂は、時空を、そして些末な常識すらも超越するのだ! 「ひっ!?」 江崎は思わぬ攻撃に、目を白黒させた。口からぶくぶくと泡を吹き、ひきつけを起こしたように身体を痙攣させる。もはや美奈を拘束している余裕もないらしく、ついに彼女を放り出した。 (――今だ!) この機を逃すことなく、翔馬は疾風のごとく間合いを詰めた。そう、今まさに自分は神風。不可能なことなど何もない。 江崎がこちらの動きに気付いた。苦痛に顔を歪めながら、右手のナイフを構えようとする。 ――そんなもの、何の役にも立たない。 翔馬は口の端を吊り上げた。この馬鹿者には、まだ伝えたいことがある。すなわち―― 「五つ、男は愛する者を守るもの也!」 翔馬は腹の底から吼えると、ありったけの想いを込めて拳を突き出した。 「ぶぎゅわっ!?」 豪打。 鍛え抜かれた上、男の魂が込められた拳に耐えられる者などいない。顔面を打ち抜かれた江崎は、綺麗な放物線を描いて体育館の壁に激突した。 壁伝いに座り込む間際、江崎は納得いかなそうに呟く。 「……よ、四箇条って言ったくせに……ガクッ」 それが、彼の最後の言葉だった。 拳を打ち抜いた姿勢のまま、翔馬は片膝をついた。さすがに消耗が激しいと、最後まで立っているのも辛い。 その様子を見て、武田と後輩部員が駆け寄ってきた。そんな心遣いを、翔馬は有り難く思う。 「ショウちゃん!」 ところが、彼らよりも早く胸に飛び込んできたのは美奈だった。あれほど気丈な態度を取っていた彼女が、恥も外聞もなく泣きじゃくる様子は、見ているだけで抱きしめたくなるほど弱々しい。緊張の糸が切れた反動なのだろう。 「美奈、もう大丈夫だ」 翔馬は座り込むと、美奈の頭に手を置く。思わず抱きしめてしまいそうだったが、今の自分にはまだその資格がない。自分のせいで大切な女を恐ろしい目に遭わせるなど、真の男にはほど遠い。つくづく自分が未熟者だと思い知らされる。 「大丈夫じゃ……ないよっ! なんでこんなこと……私なんて見捨てればよかったのにっ」 嗚咽を漏らしながら、美奈はそう訴える。 「私……知ってたんだ。喧嘩なんてしたら、漢部は……なくなっちゃうって!」 翔馬は驚いた。暴力事件が起こった場合、学校側が漢部の廃部を検討するという話は、教員と山内しか知らないはずではなかったのか。 訳を尋ねると、彼女は生徒指導室の外からこっそり話を聞いていたと説明した。翔馬の名前が校内放送で呼ばれたことで心配になり、そのような行動を取ったとのことだった。 「……ショウちゃんは、漢部のこと大事に思ってるんでしょ? だったら、わ、私なんて助けないで……逃げればよかったのに!」 美奈はそう言いながら、何度も翔馬の胸を叩いた。 「いんや、そりゃ違うじゃろ」 武田が声を割り込ませた。 「そんな事情があったっちゅーのは、ワシも初耳なんじゃがな」 皮肉った目で翔馬を一瞥すると、彼はすぐに豪快な笑みを浮かべ、 「じゃが、ワシはこれでいいと思うとる。そもそも、悪党を野放しにしてまで守った部なんぞ、何の興味もないわ」 と、一笑に付した。 「じゃから、これで漢部がなくなるようなら、それは仕方のないことじゃ。ええわい、部がなくともワシらが修行を続けることは変わらんしの。なあ?」 「押忍!」 武田と後輩部員は、両手を腰に当てて高笑いを上げる。そんな姿がいっそ清々しく思えた。 そうだ。男の修行は部活動などという枠にとどまらない。生きている限り、男は己を磨き続けなければならないのだ。 (……俺は良い部員を持ったものだ) なんという心意気か。これほどの男たちが、まだこの国にいたかと思うと救われる思いだった。 「ところで、じゃ」 不意に高笑いを切り上げ、武田が改まった様子で翔馬の手を引く。 「?」 美奈が首を傾げると、武田は、 「すまんの、ここからは男同士の話じゃ」 と、訳の分からない説明をする。 翔馬は親友に引きずられ、体育館の中程まで連れて行かれた。 (なあ、翔馬。もう、いいじゃろ?) (何がだ?) (とぼけなさんな。美奈のことじゃ。お前、好いとるんじゃろ?) 図星を指されて、翔馬はもう少しで取り乱すところだった。 (……知っていたのか?) (わからいでか。何とも思うとらん女の警護を頼む奴がどこにおる? それはともかく、はようせんかい) (だが、俺にはまだその資格が――) (何を言うとるんじゃ。お前が真の男じゃなかったら、誰をそう呼べばいいんじゃ) (……) (お前が認めんでも、ワシらが認めちゃるわい。じゃから、男らしく、どーんといったらんかい!) そう言って、武田は翔馬の背中を叩いた。「告白しろ」という意味である。 「……わかった」 自分も男だ。こんなことで尻込みしていてはいつまで経っても前に進めない。 翔馬はその場で美奈に向き直り、深呼吸した。彼女に言うべき言葉は、すでに決めてある。男の告白といえば、これの他に考えられない。 「美奈!」 「はっ、はいいっ!?」 いきなり大声を出したので、美奈が飛び上がった。 だが彼女も年頃の女である。この状況と翔馬のただならぬ様子に、これから起こる出来事を予想したらしく顔を赤らめた。やや俯き加減に視線を下げ、恥ずかしげに身体をもじもじさせている。 「聞いて欲しいことがある」 「……うん」 ますます彼女は顔を俯かせた。だがその目は、何かを期待しているようにも見える。 「俺の……」 一瞬、躊躇った。だがここで退(ひ)いては男が廃るというもの。翔馬は意を決して、決定的な言葉を口にした。 「俺の子を産んでくれ」 時間が止まった。 体育館の外から、冷たい風の吹きすさぶ音が聞こえる。 「……」 「……」 「……」 しばらくして、真っ先に声を上げたのは美奈だった。 「……しょ、ショウちゃんの、バカ――――――――ッ!」 彼女は顔を夕日のように赤く染めると、一目散に走り去る。後に残されたのは、漢部員の三名だけとなった。 (……何故だ?) 立ちつくす翔馬に、武田が歩み寄る。そして肩に手を置き、一言。 「翔馬、やっぱりお前は男じゃ!」 それから間もなく、雷雲高校にパトカーのサイレンが近づいてきたのだった。 あれから、雷雲高校に所轄のパトカーが到着し、翔馬たちは警察署への同行を求められた。もちろん、気絶していた江崎もである。何でも、体育館での異変に気付いた用務員が警察に通報したらしい。 それからというもの、翔馬たちは今回の事件について事情聴取を受けたり、教員たちに事情説明をしたりとめまぐるしい忙しさに見舞われた。 救いだったのは、山内が今回の事件について、翔馬たち漢部員に非はないと教員相手に弁護してくれたことだった。その甲斐あってか、翔馬たちと美奈へのお咎めはなしとなり、漢部の存続も認められた。そうして時刻が午後十一時を回った頃、無罪放免となった漢部員と美奈は家路についたのだった。 その翌日、つまり二月十四日の朝である。 (何がいけなかったのだろうか) 昨晩の事件もさることながら、翔馬が気になっていたのは美奈の反応だった。男らしく告白したというのに、彼女はなぜあんなにも怒っていたのだろうか。断るならそれでも仕方ないが、何も「馬鹿」などと罵らなくてもいいのに。やはり女という生き物は理解できない。 (解せぬ) この世の七不思議について考えているような心持ちのまま、翔馬は校門を通り抜けた。 周りでは、いつものように他の生徒たちが友人に挨拶を交わし、昇降口に入っていく。途中、武田が片手を上げて挨拶してきたので返してやると、彼はニヤリと笑って去っていった。そのすぐ後を、後輩部員が期待に満ちた顔で追っている。今日の部活動を楽しみにしているのか、彼の足取りは軽かった。 翔馬は昇降口から自分の下駄箱に向かうと、上履きの上に何やら置かれていることに気付いた。それを取り出すと、掌サイズの箱であることがわかる。男の持ち物としてあるまじきピンク色の包装紙で飾られ、右角にはリボンが付いていた。 揺すってみると、中からカタカタと音がする。どうやら中身は固形物らしい。 (何だ、これは?) 眉根を寄せ、しばらく心当たりを思い出そうとする。しかし、そんなものはまったく見つからない。一体、これは誰が置いたものなのだろうか。 箱に差出人が書いていないので、翔馬は仕方なく開けることにした。包装紙を破ると飾り気のない紙箱が姿を現す。その蓋を開けると、一枚のメッセージカードが入っていた。 【ショウちゃんへ まだ子供は早いけど、この本命チョコを見たら、私の気持ちわかってくれるかな? だからこれからもよろしくね。 美奈 】 (一体、どういう意味なのだ?) 結局、彼女が何を言いたいのかわからない。そもそも『本命チョコ』とは何のことなのだ? 翔馬がカードを取り出すと、その下からハート型のチョコレートが出てきた。見たところ手作りのようだが、多少作りが荒くなっている。昨晩は美奈も帰宅が遅かったはずなので、翌日の登校に間に合うよう、大急ぎで作ったのだろう。 翔馬はそれを口に放り込んだ。元々甘い物が苦手なので、口にしたのはあくまで美奈に義理立てするためである。 (だが……) 不思議なことに心が弾んでいる。まったく、男が女から砂糖菓子を貰ったぐらいで喜ぶなど情けない話だ。そんな自分もまた―― 「甘い」 今日も男の修行は続く。 |
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●感想
あきらさんの感想 おもしろかったです! 長編とは思えないくらいさらっと読めてしまいました。 女の子の出番がそんなにないのにきちんと恋愛してて、告白場面とラストはほほえましかったです。 ただ、あっさり終わってしまうので、男らしくなると決めたところをもっと詳しく書いたり、 もうひと展開あればよかったかなぁと思いました。 一言コメント ・あつくるしかった! ・男らしくカッコいいお話でした!ストーリーもまとまっていて読みやすかったです。 ・破天荒なキャラ造形ながらしっかりとツボを押さえた構成。 ストイックなまでの女っ気のなさを物ともしないラストの恋愛模様。すばらしかったです。 |
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