高得点作品掲載所     バールさん 著作  | トップへ戻る | 


フルスイングでバス停を。 禅編

 そのバス停も消えていた。
 ――死のう。
 そう思った。
 諏訪原(すわはら)篤(あつ)は肩を落とし、前を見る。
 眼の前には、長イスとひさしだけが取り残されていた。
 本当なら、そのそばにバス停が立っているはずなのだ。
 篤がいつも利用している『亀山前』のバス停。原生林が生い茂る山を背景にぽつねんと立っている情景は、「ド・田舎」という表現が恐ろしいまでによく似合う――そんなバス停だった。
 それが、雑草にふちどられた丸い跡だけを残してきれいさっぱり消えてしまっているのだ。
 ――もうダメだ。
 今日は妹のお見舞いに行かなければならないというのに。だからこそこんな朝からバス停に出向いたというのに。
 バス停のないところにバスは来ない。それは世界の摂理だった。
 リンゴが地面に落ちるのと同じレベルでの法則である。
 バス停が存在しないということは、バスに乗れないということであり、それはつまり妹の待つ姫川病院へ行くことができないという結果を意味していた。
 地面にくずおれる。
 ――俺という人間の全身全霊は、ここに敗れ去った。
 おぉ、なんということだろう。
 だが、打ちひしがれる前にやることがある。
「よし」
 篤は決然と立ち上がった。
 その顔からは、さっきまでの落ち込みようは欠片も見られない。
「ここでクヨクヨしていても仕方がない」
 諏訪原篤、切り替えは早い。
「死のう」
 たぶん、間違った方向に早い。
 落とした小銭が見つからなければ腹を切り、家に忘れ物をしても腹を切り、インスタントやきそばを作ろうとしてお湯と一緒に麺までこぼれたらやっぱり腹を切る。
 日々を全力かつ完璧に生きることを自らに課す。正しく生き、正しく死ぬ。些細なミスを許容せず、フォローが不可能ならば即座に命を絶つ。
 物心ついた時から変わらない信念だった。
 死のうとするたびに妹にどつかれて止められていたが――
 今ならば。
 懐にいつも忍ばせているドスを抜き払い、腹に狙いを定める。
 今ならば!

 瞬間、目の前が白くなった。
 遅れて爆音が大気を震わせ、篤は自分の体が宙を舞っていることに気づいた。

 ●

 ふもとの町では、バス停が消えるという事件が相次いでいたらしい。
 一週間前に『萩町神社前』、三日前に『谷川橋』、そして昨日は『針尾山』。町に四つしかないバス停が、三つまで消えてしまったのである。
 死活問題、と言っていい。
 このまま最後のひとつである『姫川病院前』まで消えてしまえば、交通が途絶え、この付近の人里は陸の孤島と化してしまう。
 そこへきて今度は篤の村の『亀山前』である。
 いよいよ事態は深刻といっていいだろう。
 いや、問題はそれだけではなく――
 交通の流れとは、つまりエネルギーの流れと同じことだ。交通量の多い場所の地下深くには、人や物の流通に伴って眼に見えない力が蓄積されてゆく。これを放っておけば、大地に溜め込まれた力は臨界を突破。熱や衝撃の形で噴き出し、大爆発を引き起こしてしまうのである。
 このすさまじいエネルギー流を、地政学用語で〈BUS〉――すなわち戦闘宇宙力(Battle Universe Strngth)――と呼ぶ。古来より、覇者と呼ばれた歴史上の人物たちは全員〈BUS〉の存在を掴んでおり、その力を巧妙に利用して自らの覇道を推し進めていたことは、専門家たちの間ではすでに常識であった。
 だが、飽食長寿の世界である現代日本においては、人口の氾濫に伴い交通量も爆発的に増加、すでに自然の〈BUS〉分解作用だけでは大爆発を抑えきれなくなっている。
 全国に無数に存在するバス停が今にも暴発しそうな〈BUS〉を制御する装置であることは、もはや社会の暗黙の了解と言っていい。
 一見ただの看板にしか見えないが、その内部は現代の科学ではありえない超技術の塊なのだ。
 嘘だと思うなら近くのバス停を持ち帰ってバラして見ればいい。
 捕まるけど。

 ●

「げぶほぁっ!」
 篤は地面に叩きつけられた。
 視界が激しく揺れ、衝撃が体を突き抜けてゆく。
 やや遅れて痛みがじわりと染み出てくる中、篤は地面に手を突いて跳ね起きる。
 なぜか落ちてたボロ雑巾をふみしめ、身構える。
「……すわ、敵襲か……!」
 何の敵襲なのか、というか本当に敵襲なのか。自分でもわかってないがとりあえずそう言っておいた。侍かぶれのボンクラ少年としては、心機を二十四時間臨戦態勢に整えておくことなど当然のたしなみである。
 もうもうと立ち込める土埃の奥から、徐々に人影が現れ始める。
「あれ、死んでないんですか? 瀕死ですか? 半死ですか?」
 神経質そうな声がした。
 粉塵が晴れてゆく。
 影が少しずつ鮮明になってゆく。
 そこにいたのは、なんか、変態……としか言いようのない、人の形をした何かだった。
 いや、特にみょうちきりんな格好をしていたわけではない。普通のスーツを着た男である。
 だが……だが、なぜ背中を極端に反らすイナバウアー、すなわちサーキュラーイナバウアーを完璧に実演しながら逆さまの顔でこっちを見ているのか。理解できなかった。
「面妖な……何者だ! 名を名乗れ!」
「ゾンネルダークですか?」
 いや聞かれても。
「……いま俺を吹っ飛ばしたのは貴様か!」
「そうなんですか?」
「一体どうやって!」
「企業秘密ですか?」
「なぜイナバウアーをしている!」
「企業秘密ですか?」
「というかそのしゃべり方はなんだ!」
「企業秘密ですか?」
 うざっ。
 篤は男と会って十秒で看破した。こいつ友達いない。
 男は極限まで反り返った上半身を揺らして笑った。蛇の笑みだった。
「ま、とにかく『亀山前』のバス停は私の物になったんですか? ここに近づく人は問答無用で殺すんですか? 覚悟しろですか?」
 篤は深呼吸をする。気持ちを落ち着かせる。
 そして男の言葉を反芻する。
 ――『亀山前』のバス停は私の物になったんですか?
 それはどういう意味か。
 篤の脳裏には、否応もなく昨今のバス停盗難事件のことが浮かんでいる。
「このごろ町でバス停が消えているのは貴様の仕業か!」
「そうなんですか?」
 うわ殴りてえ。
「ポートガーディアンはどうしたんだ!」
 すべてのバス停にはポートガーディアンと呼ばれる護衛官が最低一人はつくことになっている。強大な〈BUS〉を制御する要であるところのバス停を悪用されないためには当然の処置と言えた。それはどんなド・田舎のバス停であっても変わりはない。
「ポートガーディアン? あなたが踏みつけているゴミクズのことですか?」
「え」
 言われるままに下を見る。
「うおぉっ」
 ちぎれたボロ雑巾だと思っていた物体は地面にめり込んだ人間だった。慌てて飛び退り、しゃがみ込む。
「つ、勤さん……? まさか、勤さんなのですか!?」
「うぅ……」
 ボロ雑巾はうめいた。
 それは、普段から篤に兄貴分として慕われていた『亀山前』のポートガーディアン、布藤勤の変わり果てた姿だった。
「篤くん……か……油断したよ……『亀山前』の交通量がほとんどゼロになる早朝に襲われてしまった……」
「しっかりしてください! この戦いが終わったら結婚するんでしょう!?」
「……いや、あの……ひょっとして遠まわしに死ねって言ってる……?」
「わかりました……わかりましたから! もう喋らないでください……傷が開いてしまう!」
 まさに外道。
「い、いや、とにかく篤くん、逃げるんだ……! あいつは普通の人間じゃない……!」
「そうですね、なんかまだイナバウアーやってるし……あんな普通じゃない奴はじめて見ました」
「いや、そういう意味じゃなくて……奴は在野のバス停使いだ……つまり犯罪者なんだよ!」
 在野のバス停使い。
 すべてのバス停が国によって厳重に管理される現代社会において、ポートガーディアン以外の人間がバス停の超常的な力を使うことは、国家転覆を目論むテロリストと見なされて重罪人扱いを受けることにつながる。
「むぅ、それは……」
 篤は顎に手を当てる。その辺を飛んでいたモンシロチョウに気を取られている怪人イナバウアー男を見やる。
 確か――ゾンネルダークとか言ったか。
 そうか、犯罪者か。
 他のポートガーディアンを叩きのめし、バス停を奪い取り、何を企むのか。
 ――世界征服か。
 真っ先にその単語が出る。
 ――まぁ、犯罪者の考えることはだいたい同じだからな。
 と、世の犯罪者各位が聞いたら憤死しそうなことを思いながら、ゾンネルダークをにらみつける。
 いずれにせよ、放置しておけばこの村は交通的にもエネルギー的にも孤立し、枯渇してしまうことだろう。〈BUS〉は単なる破滅的なエネルギー流というだけではない。淀みなく循環していたなら、その地域の自然や文明を活性化させる霊的な作用が働くのだ。
 それが、奪われようとしている。
 目の前の、この男によって。
「……捨て置けん」
「え?」
「奴はここで俺が倒します」
「ん? ……あれ? なんでそうなるの? ねえ、なんでそうなるの? 逃げようよ篤くん! むしろ僕を運んで逃げようよ! 逃げてよ!」
「黙れ敗北主義者なんて思ってませんから」
「思っている! めっさ思ってる!? っていうか無理だから! バス停使いの戦闘能力はゾウリムシ三百億匹分のパワーだから!」
 比較対象としてどうかと思う。
 篤は軽く首を振ると、一歩踏み出す。
 踏み出しながら、感慨めいた想いを抱いていた。
 ――戦ってきたのだ。
 物心ついたころからの歴程。
 ――戦い抜いてきたのだ。
 挫折と克己の軌跡。
 ――戦い続けてきたのだ。
 何と?
 ――自分の極端な生き方をいさめようとする世界と。
 何故?
 ――ただ、己の道を往くために。
 道とは?
 ――?正しさ?を追い求める指標。
 今、この瞬間。
 篤は機会を得た。
 己の正しさは――正しかったのだろうか?
 この故郷の、なめらかにうねる草木や、頬をなでる薫風や、田んぼの中で生きる人々――それらを守れるのだろうか?
 これ以上ないほどわかりやすい悪を前にして、己の道を全うできるだろうか?
 それを、今、問う。
 篤は全身でターンし、目の前の空間を右手で薙ぎ払う。
「オォ――!」
 横に伸ばされた腕が、バス停の遍在する異空間に突き込まれ、肘まで見えなくなる。
 ――〈BUS〉の流動よ、俺の思いを届けてくれ。
 別の空間で何かをつかんだ腕から、宇宙的な高まりが流れ込んできた。

 一方ゾンネルダークは爬虫類を思わせる動作で篤の方を向くと、
「話は終わりましたか? もういいですか? 殺していいですか?」
 弓を引き絞るように両腕を後ろに引きつけ、一気に前へと突き出した。腕の先は、この世ならざる空間へと潜り込み、見えなくなっている。
「接続(アクセス)! 第八級バス停『萩町神社前』、使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)ゾンネルダークが命ず! ――界面下召喚!」
 驚くべきことにまっとうな口調でそう叫ぶと、全身をしならせつつ、空間から?何か?を引き抜いた。
 赤い稲妻とともに。
 荘厳なまでの光と熱に包まれた?何か?を。
 ――それは、鋼とコンクリートの輪舞曲。
 ――それは、ジュールにかしずかれた神の樹。
 ――それは、摂理を執行する無窮の刃。
 あたりに真紅の雷光が走り、草木が次々と発火しはじめた。
 同時に、大気が轟々と泣き叫びながらソレを中心に四方へ吹き荒れる。吹き散ってゆく。まるで、ソレを恐れているかのように。
「……フフフ……ヘヘッ……エヒャーッハッハッハッハッハァ! 素晴らしいんですか!? この力!?」
 力強い疑問系。
 その手には、青地に白文字で『萩町神社前』と書かれたバス停が握られていた。二メートルを超える刀身(停身?)にも関わらず、ゾンネルダークはイナバウりながら軽々と保持している。
「そろそろ殺そうと思うんですが、かまいませんかね!?」
 古代の投石機のごとく、反り返った姿勢から一気に身体を引き戻し、『萩町神社前』先端部の丸い看板を足元の地面に勢いよく斬り込ませた。
 反動で身体は宙に打ち上がる。同時に、地面に潜り込んでいた丸看板が大量の土砂とともに篤のほうへ跳ね上げられ、紅い斬光波を撃ち出す。
「土竜裏流れですか!?」
 高密度に圧縮された〈BUS〉が、地中を泳ぐサメのヒレのような形を取って篤に迫る。
 地面を斬り進むことでの『抑圧』。そして中空に斬り抜けた瞬間の『解放』。これら二つがデコピンのごとく作用して、恐るべき初速を斬光に与える。
 土竜裏流れ。
 ゾンネルダークの波動拳コマンド技であった。大地を砕き散らしながら、篤へと殺到する。
 その必殺の飛び道具が、
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
 蒼い光によって爆裂に四散した。青白い雷撃が四方へ弾け飛んでゆく。
「何ィィーッ! ですかァァーッ!?」
 そろそろ無理やりになってきたゾンネルダークの驚きリアクションをよそに、拡散した土竜裏流れの余波は扇状に広がる衝撃波となって人里に殺到。バイオダイナミック農法で一山当てた野田信一の紅茶栽培園を一撃でオシャカにし、お向かいの脱サラファーマー山本功治が借金をものともせずにこさえたビニールハウス農場を粉砕。後方に位置する島川昭人、善導寺乙矢、石井和彦の伝統的藁葺き屋根住宅(重要文化財指定)を半壊せしめたのち、広大なニセアカシア防風林を威力を減じつつも突破。村から離れた山中で暮らす変人・霧沙希紅深の屋敷に涼しいそよ風として吹き込み、洗濯物の乾燥を助けた。
 南無。
「どういうことですか? ポートガーディアンでもないガキが、バス停を召喚するなどありえないんですか? 何故ですか? 謎ですか? 不可解ですか?」
 再びイナバウアー体勢をとるゾンネルダーク。
 篤はうつむいている。
「あそこは――姫川病院は、俺の罪が生まれた場所」
 うつむきながら、長大な蒼いバス停をヴンと振り回し、肩に担いだ。村の破壊をみすみす許してしまったことへの自責が、彼をうつむかせる。
 後で死のう。
「こいつは――俺に課せられた罪の焼印。その顕現だ」
 『姫川病院前』の文字が刻まれた、そのバス停。
 ゾンネルダークはケタケタと哂う。
「『姫川病院前』のポートガーディアンが見つからなくて困っていたんですが、そういうことだったんですか?」
「さっさと『亀山前』を返せ。あれがないと霧華の――妹のお見舞いに行けない」
 ゆっくりと顔を上げる。睨みつける。全身を〈BUS〉の青白い雷光が網目のように這っている。その勢いは徐々に高まってゆき、ついには篤の全身を覆い尽くす。
「それはこっちの台詞なんですか? 私は貴様と違って仕事でやってるんですか? ガキの相手なんかしてる暇はないんですか? さっさと渡せば許してやるんですか?」
「断固として断る! それから――」
 轟音。
 篤が地面を蹴り砕き、青い光弾となってゾンネルダークに肉薄する。
「後でちゃんと村のみんなに謝っておけ!」
 渾身の力で振り下ろす。
「しゃらくさいんですかァッ!?」
 蛇の擦過音。再び吹き上がってくる紅い斬撃。
 『萩町神社前』と『姫川病院前』が激突し、爆発。凄まじい量の〈BUS〉が撒き散らされ、周囲の環境に無差別に襲い掛かった。熱が周囲数十メートルの草木を発火させ、衝撃が大地にクレーターを穿ち、白い光がすべてを押し包んだ。「ぐぎゃぁ!」とか声を上げながら吹っ飛んでいくボロ雑巾が視界の端をかすめていったが、篤はとりあえずほっとくことにした。
 まぁ、多分、大丈夫、なんじゃないかな、うん。
 激突と同時に通りすぎ、背を向けあう二人。……いや、ゾンネルの方は腹だったが。
 めぢぃっ――と、金属が折れ千切れる音。
 折れたのは、赤い光を纏う『萩町神社前』だった。
「バぁカなぁー! ですかァー!」
 先端の丸い看板部分が回転しながら地面に突き立つ。そこを中心に稲光が発散してゆく。
「何故ですか!? 何故競り負けたんですか!? こんなガキに!?」
「その油断が貴様を敗北させた」
 篤は再びバス停を肩に担ぎ、振り返る。
 その持ち方は、ゾンネルダークとは逆――丸看板よりやや下を持ち、基部のコンクリート塊が先端となる形だ。
「そ、その握りは――!?」
 バス停闘法には、より重い方を先端に据えて振り回すことで、破壊力を倍化させる特殊な握りがある。
「逆持ちですか……? 魔停流の使い手がこんなところにいたとは驚きなんですか? 道理で競り負けるはずですか?」
 魔停流――バス停使いたちの中でも、特に一撃の破壊力に重きを置いた一派である。事実だけを言うなら篤は完全に自己流でバス停を振るっているのだが、ゾンネルダークは勝手に納得していた。
 ククク……と、蛇の笑み。
「ではこういうのはどうなんですか?」
 ゾンネルダークは背中を強烈に反らしながら、観客の喝采を受ける役者のような動作で両腕を広げる。それぞれが手首の辺りから見えない空間に埋没している。
「接続(アクセス)! 第八級バス停『谷川橋』、および第九級バス停『針尾山』、使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)ゾンネルダークが命ず! ――界面下召喚二連!」
 ぐにゃりと変態じみた動作で旋回し、何もない空間から得物を引きずり出す。
 右手に緑の光――『谷川橋』。
 左手に橙の光――『針尾山』。
 二振りの神柱。
 さっきとは段違いの威圧感。
「二刀流――いや、二停流か!」
「エェヒャッハァーッ!」
 篤の目の前で、緑と橙の軌跡が網目のように交錯した。
 連斬連撃。
 慌てて飛び退るも、腕と胸から次々と血が噴き出す。
 逆持ちは強力だが、反面取り回しが遅い。加速するまでが遅く、一旦加速するとなかなか止まらない。
「まだまだまだまだまだァー!」
 順持ち二停流の圧倒的な手数を前に、篤はなすすべもなかった。
「これだ……!」
 歯を食いしばりながらも、心機は充実していた。
 ずっと前から、こういう窮地を待っていたのだ。
 ――俺は、罪を背負った。
 幼い頃の痕。
 その罪は、もはや取り返しの付かない類のものであり、償いようのないものであった。
 『谷川橋』と『針尾山』の乱舞は続く。篤の全身に傷が刻まれてゆく。
 ――あのとき妹の霧華には、一生かけて詫びても許されないであろう非道を働いた。
 あぁ、だかしかし、それは償おうとしないことへの言い訳にはならない。
 ――俺はだから、償うため、我が穢れた魂がこれ以上黒く染まらぬため、正しく生きると心に誓った。
 自分はもう二度と、あんな過ちはしでかさないと、霧華に対して証明し続けることが、贖罪の道の第一歩であろうと。
 そしてそれが、無駄ではないと信じて。

 ●

 それは、妹が生まれた年のことだった。
 柵付き赤ちゃんベッドの中ですやすやと眠り続ける赤ん坊を、篤の両親がメロメロな笑顔で見つめていた。
 その光景を見て、篤は五歳にして人生初の嫉妬を覚えた。
 ――すわ一大事……パパとママを盗られ申した……ッ!(※意訳)
 そしてその夜、篤は超絶に眠りを求める肉体を意志の力でねじふせ、あどけない表情でねむりこける妹の前に立っていた。
 ――不埒な輩よ、天誅を受けよ!
 そして――おぉ、なんということだろう。
 振りかざしたマジックペンで、どこかの部族みたいな恐ろしい化粧を、無垢なるその顔(かんばせ)に描き込んでいったのだ。
 やった、と思った。
 この異教の邪神のごとき形相を見れば、必ずやパパとママも己の気の迷いに気づいてくれるであろう、と。
 そして満足のうちに自らの寝床へと戻っていったのだ。

 だが、ことはそれだけでは終わらなかった。

 ……どうも、幼少の篤には芸術の天性があったらしい。
 望みもしないのに。
 翌日、可愛い可愛い第二子の顔を見に来たパパとママは驚愕した。
 そこにはワビサビがあった。
 単純な線の集合の中に、豊かな情景が広がっていた。
 霧の中にたたずむ可憐な華。そのさまが赤子の顔に生き生きと描かれていた。いや、篤はそんなつもりで描いたのではないのだが、少なくともパパとママにはそう見えた。
「霧華……」
 パパは呆然と言った。若いころ絵画にかぶれていたこの男は、驚愕とノリのままに自らの娘の名前を決めた。
「この子の名前は霧華にしよう!」
 興奮気味に叫んだ。
「そうね、綺麗な名前……」
 ママものせられやすかった。
 ――かくして諏訪原家長女は呪われた命名を受ける。
 諏訪原霧華。
 すわはらきりか。
 その名が偶然かもし出した恐るべき意味に気づいた時、篤は己が取り返しのつかない非道を働いたことを悟った。
 ――すわ、腹切りか。
 ハラキリて!
 女の子の名前にハラキリて!
 恐るべき慙愧の念に、篤は絶望の深淵へと突き落とされていった。
 なんという――
 おれはなんということを――!
 両親には怒られなかった。むしろほめられた。二人とも霧華の名の意味には気づいていないようだった。天才だな息子よ、となでられながら、篤は一人うちひしがれる。
 ――妹に呪われし因習の名を押し付けしその所業、許しがたし。
 当時は語彙が貧困だったので正確には違ったが、おおむねそんなようなことを考えていた。
 ようやく両親から開放された後、人生初の
「しのう」
 をつぶやき、台所から包丁を持ち出す。
 が――
 かつん、と、頭に何かが当たった。
 振り返ると、柵つきベッドで毛布にうずもれていた霧華がそこにいた。
 足元を見下ろすと、ピンクのおしゃぶりが床に転がっている。
「むう……?」
「あ〜う〜」(意訳:オムツかえて〜)
 澄んだ眼が、こっちを見ていた。
「よせ、というのか」
「だぁ」(意訳:オームーツーかーえーてー)
「このおいぼれたおとこに、いさぎよいさいごすらえらばせてはくれぬのか」
 先週見た時代劇の受け売りである。五歳児とはいえ、大意は朧気に理解していた。
「ぶぅ!」(意訳:ちがーう! オムツー!)
「ではどうしろというのだ」
「ばぶ」(意訳:なんという兄貴…少し言葉を交わしただけでわかった。この男は間違いなくバカだ)
 自分で考えろとその眼は語っていた、ように見えた、少なくとも篤には、多分。
「……しかたがない」
 どっかりと床にあぐらをかき、しばしの瞑目。
 篤は思考の海にたゆとう。
 二時間三十二分二十五秒後、少年・諏訪原篤は生涯の道を定めた。
 正しくあろう、と。
 二度と、昨日の夜のような気の迷いに心を奪われぬよう。間違わぬよう。
 一片の曇りもない、まったき正しさを得よう、と。
 その結果、少女・霧華はとてつもない苦労を背負い込むことになるのだが――この時の彼女には知る由もないことだった。

 ●

 ……あぁ、だが、気づいてはいるのだ。
 正しく生ようとするあまり、些細な間違いですぐに死ぬのは愚かなことである。
 死のうとするたびに。霧華にどつかれて止められるたびに。
 ひどく思い知らされる。
 ――あぁ、俺はまだ生きていていいんだな。まだ生きろと言ってくれるのだな。
 その事実を確認するために、自刃未遂を繰り返しているのだろう、と。
 ――許しを求め続ける餓鬼。
 それが俺。
 今の俺。
 なんという浅ましさ。
 後で死のう。
「だが、それでも――」
 胸を切り裂かれ、吹き飛ばされる。
「それでもな――」
 遅れて飛来する二条の斬空波をかろうじてかわすも、余波だけで体が吹き飛ばされる。
 地面に叩きつけられ、骨がみしりと悲鳴を上げる。
 すぐに起き上がる。すでに全身は傷だらけ。
「――『今日、見舞いに行く』と言った以上、約束を守れぬ兄貴にはなりたくないのだ!」
 全霊の咆哮。
 全身を駆動させ、『姫川病院前』を振りかぶる。そのモーションの間に三度斬られたが、意に介さず。
「俺は絶対に『亀山前』を取り戻し、霧華の元へと辿りつく!」
 叩きつける。
 打撃点を中心に、光が爆ぜる。
「そのためにお前は倒す!」
「無駄なのですか!? 一本のバス停で二本のバス停には敵わないんですか!? 小学生の算数ですか!?」
 瞬間、Xの形に爆光が吹き散らされる。篤の攻撃が、正面から押し戻されたのだ。
 その向こうから、両手のバス停を振り抜いたゾンネルダークが現れる。
 甲高い哄笑が響き渡る。
「そろそろ死ぬといいんですか!? ダブル土竜裏流れ!!」
 土砂とともに襲いくる二重の斬空波。二つは踊っているかのように互いの位置を入れ替えながら殺到。篤を完膚なきまでに叩きのめしたのち、数十メートルを直進。草、土、草、土、草のド田舎ロードを粉砕しつつ、バイオダイナミック農法で一山当てた野田信一のモダンなマイホームを十七分割し、お向かいの山本功治の愛犬ケンシロウの小屋を完全破壊。後方に位置する島川昭人、善導寺乙矢、石井和彦の伝統的藁葺き屋根住宅(半壊)に止めを刺したのち広大なニセアカシア防風林を苦もなく突破。村から離れた山中で暮らす変人・霧沙希紅深の屋敷に門から突入し、庭で野放図な繁栄を謳歌している雑草を根こそぎ斬り裂いてから屋敷そのものには一切傷をつけずに裏門から山奥へと通りすぎていった。
 一体どれだけ運がいいのだ、霧沙希紅深。
「がァッ!」
 篤は血を吐いて吹き飛ぶ。仰向けに倒れる。全身から、力が抜ける。かわりに断続的な痙攣が支配する。
「ぐぅ……」
 手の中にあった『姫川病院前』が、薄れて消えてゆく。本来別の場所にあるはずのバス停をこの場につなぎ止めていたのは、〈BUS〉と共振するほどの篤の戦意。それが消えた今、元の場所へと還ってゆくのみ。
「妹のお見舞い――ですか? くだらないですね?」
 足音がする。死の足音が。
「私のバス停を収集せんとする意思に比べれば、なんと薄弱な理由でしょうか?」
「貴様の、理由だと……」
 篤はうめきながら起き上がろうとする。しかし手足に力が入らず、体中の痛みがより鮮明に脳へと突き刺さっただけだった。
「ククク……我ら《ブレーズ・パスカルの使徒》は、神造兵器たるバス停の力を誤った形でしか利用しないこの現代社会を叩き潰し、その本来の目的に沿った秩序あるエネルギー社会を構築せんとする有志の軍勢ですか?」
 ゾンネルダークは恍惚とした顔で語り続ける。
 《ブレーズ・パスカルの使徒》。
 なんかよくわからないがそういう集団がいるらしい。
 その素晴らしさについて説く変態。演説は延々三十分にも渡り、しかもまだ終わる気配がない。
 なんか上層部にいるっぽい女幹部について言及するに至り、イナバウダークの興奮は臨界に到達。イナバウアーしながら手を大きく振り、腰を小刻みに振り、彼岸を見つめる瞳で裏返った奇声を上げ続ける。
「あぁ、彼女は素晴らしいィ! あぁ、彼女は素晴らしいィ! もっかい言いますよ? あぁ、彼女は素晴らしいィィィ! それに比べれば一介の雌犬の見舞いなんてクズ!? 大変にクズですか!? どっちが重要かなどまったく論議にも値しないんですかァ!?」
 涎が垂れている。
「だからとっとと『姫川病院前』を渡すんですか!? さっさとしないと殺すんですか!? 殺すんですかァーッ!? っていうか貴様の妹とか多分私が『萩町神社前』でぶっちめてやったんですか!? なんかよく覚えてないけどちっさいメスガキを吹っ飛ばしてやったような記憶がおぼろげにあるんですか!?」
 二振りのバス停を振りかぶる。
 篤は、その時

 笑っていた。

「…………[テメェか]」
「!?」
「[霧華に怪我をさせたのはテメェかよ]」
 篤は上半身を起こす。
「そうか、そうなのか……」
 会う人全員が知り合いなこのド田舎の中で、『ちっさいメスガキ』という言葉に当てはまり、かつ今現在ケガで入院している人間といえば、一人しか心当たりがなかった。
「キレましたかァーッ!? キレちゃいましたかァーッ!? キャハハハァーッ!」
 全身に、黒くたぎる力がゆきわたる。
「おい、今何時か知ってるか?」
「え? はぁ? 八時ぐらいですか? それがどうかしましたか?」
 篤はゆっくりと立ち上がる。さっきまでの半死状態からは考えられないほど、その動作には危なげがなかった。
「ここいらの年寄りたちはやたら元気でな。基本的に病院に用事なんぞないのだが、腰が痛いだの背中がかゆいだの嘘偽りを口実に病院に行き、待合室でダベる習性がある……」
 ゾンネルダークはそこで表情を一変させる。愕然とする。
「ま、さか……」
「診察時間である朝と夕方だけ、『姫川病院前』の利用率は跳ね上がるのだよ」
「な、な……」
「今、丁度朝の診察時間の始まりだ……しかもウチの妹は村中で人徳を得ていたからな。お見舞いに行かんとする者たちでさらに交通量は高まることだろう」
 バス停の持つエネルギー量は、それが本来根付いている場所の交通量に比例する。
「そ、そ、そのために今までわざと『姫川病院前』の召喚を解除していたというのですか!? 病院にジジババを誘い込むために!?」
 篤はギラリと嗤いながら、右手を天に掲げた。
 途端、世界が暗転する。
 周囲を青い龍のような稲妻が、何百何千と荒れ狂う。熱風が吹き荒れる。
 神がいるとするならば、その降臨はこのような形でなされるのではないか。
 そう思わせる光景。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
 天空が、爆裂した。
 そこに出現したモノがさっきと同じ存在であるなどと、誰が信じられるだろう。
 桁違いの存在感、重圧感。
「メスガキ、と言ったな」
 感情を殺した声。
「妹を――霧華を、メスガキと言ったな」
「ヒ、ヒィ!」
 篤は、その手に降臨してきた超存在を握り締め、ゆっくりと歩みを進めた。
 振り上げる。
「謝れ。病院には送ってやる」
 振り下ろす。
 光爆。
 はじけ飛ぶ。
 すべて。
 すべて。
 すべて。

 ●

 爺さん婆さんでごったがえす朝の姫川病院。
 ベッドのひとつに、腕にギブスを巻かれた少女が寝ている。
 やや跳ね癖のあるショートカット。健康的に日焼けした肌。Tシャツとスパッツを身につけ、大きな瞳は溌剌とした光を湛えていた。しかし、その目尻は自らの境遇に不満を抱いているのか、やや吊りあがっている。
 樹の洞でしぶしぶ雨宿りをする猫――といった風情だ。
「……遅い」
 頬が膨らむ。
 傍らには、山のような果物や花束が机に積み上げられていた。子供の少ないド田舎では、彼女はやたらと可愛がられている。
 諏訪原霧華。
 ようやくの登場であった。
 ふもとの町の中学校から家に帰ろうと『萩町神社前』のバス停に近づくと、いきなりイナバウアーな変態に襲われて吹っ飛ばされ、腕を骨折してしまったのだ。
 正直、怖かった。あんまり認めたくないけれど、ちょっと泣いてしまった。
 しかもそれから慣れない入院生活だ。
 知り合いの爺ちゃん婆ちゃんと話しているうちはそうでもないが、不意にそれが途切れると心細くて膝を抱えてしまう。
 なのに……
「……ぐすっ……」
 慌てて目をぬぐう。
「こっ、子供じゃない! わたしもう子供じゃない! 来なくても全然平気!」
「邪魔をするかもな」
「うわっ!?」
 珍しくしんみりした気分をブチ壊す勢いで、招かれざる客が一人。
 窓から入ってきたそいつは、少なくとも篤ではなかった。
「だ、だ、誰!?」
「ヴェステルダークかもな」
「断言しろよ!? っていうかなんで窓から!? ここ五階なんだけど!?」
「企業秘密かもな! ……なんだ、諏訪原篤はまだ来ていないのか」
「あ、兄貴の知り合い? 兄貴になんの用よ」
「ゾンネルダークの眼球に埋め込んだ〈BUS〉感覚変換機の映像が途切れたので、直接会っておこうかと思ったのだが……まあいい、奴に伝えておけ。今日のところは勝利を譲ろう。だがゾンネルダークは我ら《ブレーズ・パスカルの使徒》地方征圧軍十二傑の中でも最も格下――とな!」
「はぁぁ?」
「いわゆる『俺たちの戦いはこれからだ! 第一部・完!』という奴だ! ではさらば!」
「え、あ、ちょっと!?」
 珍妙なる不審者は再び窓から飛び降りていった。
 と、その時病室の前が騒がしくなった。霧華が視線を転じると、出入り口の前を担架が通り過ぎてゆく光景が目に入った。
「……あれ、勤にぃ?」
 運ばれていたのは布藤勤。村一番の(という言葉をつけるとすごくショボくなるのは何故だろう)ポートガーディアン。なんかすごいズタズタのボロボロでボロ雑巾のようだった。ボロ。
 続けてまた一台の担架が通り過ぎてゆく。
「……げげ!」
 霧華に怪我をさせた変態がいた。こっちは勤以上にボロボロで、いったいどんな目に遭ったんだと思うほど全身バキバキだった。あと寝てる時でも腰や背中がやたら反り返っていて、すごく…変態…です。
 そして三台目の担架が通過する。
 運ばれていたのは、
「……って兄貴じゃんッ!」
 がばり。
 布団を跳ね除ける。
「あんのバカ兄貴ィィ! 今度はなにやった!?」
 Tシャツを腕まくりし、担架に向けてダッシュ。

 一方、篤の方は。
「先生、お願いです、刃物を貸してください……できればドスとか、ドスとか、あるいはドスとか……」
「え……なぜ?」
「いえ、ちょっと野暮用で……最期のお願いです……」
「い、いや、しかし」
「後生ですから」
「うーん」
 篤の妙な迫力に負けて、迷いつつもポケットに突っ込まれていたメスを渡そうとする医師。
 その瞬間、
「このあんぽんたーんッッ!!」
 ドロップキック状態で飛来した霧華が、篤の横っ面を蹴り飛ばした。ついでに付近にいた看護師数名を巻き添えに吹っ飛ばす。
 医師が眉を吊り上げた。
「き、君ぃ! 患者になんてことを!」
「わたしも患者だぁーッ!」
「え、あ……ハイ、すいません」
 床に投げ出された篤がうめくような声を上げる。
「……霧華よ、何をする。俺はこの後三回は死なねばならないのだ。邪魔をしないでくれ」
 いつもと変わらない静かな眼差しが、霧華を包み込んでいる。
 ずいぶん長いこと、この眼を見ていなかった気がした。
 ――考えてみれば、こんなに長い間兄貴をどつかなかったことはなかったな。
「もう、このバカ兄貴ッ!」
 今度は肘を落とす。「げふっ」
 霧華の大きな瞳が、少し、潤み始めていた。
「うぅ……もう、今日は何!?」
「何、とは」
「その全身の傷はなんなの!」
「……あー……うむ……コピー用紙で切った」
「騙す気カケラもないでしょ!」
「いや、そんなこともないが」
 騙そうとしたことは認めるらしい。
「うぅ〜!」
 猫にも似た唸り声。
 震える唇を噛み締めながら、霧華は握りこぶしを振り上げる。
「バカっ! アホっ!」
 どしっ! どしっ!
「うむ、うむ」
 篤は目を閉じたまま抵抗しない。
「うそつきっ! 遅刻魔っ!」
 どしっ! どしっ!
「うむ、うむ」
 1ヒットのたびに「うむ」と返す。
「ぼんくらーッ!」
 どがっ!
「うむ!」
 強く言いました。

 それから、とうとう泣き出した霧華を篤があやし、
 おもむろに死のうとする篤を霧華が殴って止め、
 結構な大怪我を負っていたことを忘れていた篤がついに気を失い、
 速攻で霧華の隣のベッドに入院となったのだった。

 完


 第二部 『吐血潮流』

 信じがたいことだが、世間一般で「ラブレター」と呼称される超常現象は実在するらしい。
 もはや文化というより都市伝説とか表現したほうがしっくりくるきらいがあり、そんなものを目の当たりにした人間が現代社会においてどれだけ居るというのか――恐らく誰一人として把握できてはいないことだろう。
 だが、それでも。
 やはり、あったのだ。
 実在したのだ。
「む……?」
 その手紙を手に取った少年――諏訪原篤は、普段から眠そうな眼をさらに細めた。
 背丈は一般的な高校男子の平均程度だが、やたらと姿勢がいいので長身に見える。ほっそりとした顔つきや、常に伏せがちの目、色白の肌、目元がぎりぎりで隠れない程度の頭髪など、個々のパーツは取り立てるほどではないのに、全体としては異様に調和していた。高校生とは思えない落ち着きに満ちた挙動も相まって、どこか仙人のような風格がある。

 ――ゾンネルダークとの戦いから、一ヶ月が経っていた。
 一応、この疑問系な変態から受けた負傷はほぼ完治し、めでたく退院の運びとなったのであるが、未だ体のあちこちに湿布が残っていたりする。
 盛大に破壊されまくった村の家屋は、『神樹災害基金』と呼ばれる組織によってすべて修復・再建されていた。これは在野のバス停使いによる破壊行為を保障・隠蔽するために設立された超法規的秘密財団法人であり、ニュースでよく叩かれている横領や使途不明金は、実はこういうところに消えているのである。
 嘘だと思うなら近くのバス停を振り回してひと暴れしてみるといい。
 消されるけど。

 そんなわけで、ようやく学業への復帰が叶った篤であるが、一ヶ月というのは決して小さくないブランクだった。事実、初登校となる今日の授業はまったくカケラもわからなかった。
 ――死のう。
 懐のドスに手をかけた瞬間、級友数名によって故なき集団暴行を受け、あえなくドスを没収されてしまったのだった。
 ――実に、無体な話である。
 俺が何をしたというのか。
 失意の中で下校しようと下駄箱に向かい、靴箱を開けると――中に瀟洒な封筒が入っていたのだ。
 宛名は『諏訪原くんへ』とある。
「ふむ」
 さっそく封を開け、中身を取り出す。
 隅に桜の花びらが描かれた、雅な便箋だった。

 諏訪原くんへ。
 まずは退院おめでとうを言わせてください。ひさしぶりに元気な姿を見られて安心しました。
 まだお怪我が残っているようですが、無理はせずにきちんと療養してくださいね。諏訪原くんはちょっと無茶をしてしまうところがあるので、わたしは何だか心配です。

 諏訪原くんがいない間、いろいろと思うことがありました。
 わたしのなかで、諏訪原くんがいかに大きな存在だったかを、不意に思い知らされた気分です。
 突然こんな手紙を受け取って戸惑っているかもしれません。
 でも、わたしの胸にあるこの気持ちに整理をつけないと、今にもハレツしてしまいそうなのです。
 あなたをずっと見ていました。
 入学式で転んでしまったわたしに、手をさしのべてくれた時から、この気持ちははじまっていたのかもしれません。
 諏訪原くんの落ちついた声とか、ほっそりした指さきとか、やさしい目とか、思いだすたびにどんどん胸がくるしくなっていきます。
 本当は、この手紙で伝えようと思っていたけれど、わたしは文才なんてないから、諏訪原くんへの想いはきっと十分の一も伝わらないことでしょう。
 あなたの目をみて、直接伝えたい。
 放課後、教室で待っています。

「オイオイ篤! オイオイオイオイ篤! なんだよそれオイ畜生それ! 青春それ? 青春かお前それ! 羨ましいじゃないかこの野郎ブッ殺すぞこの野郎ちくしょ〜い!」
 横で甲高い声が上がった。
 振り返ると、[高校の制服を着た小学生]がいた。
 ・高校の下駄箱にいて
 ・高校の制服を着ている
 そんな人物の正体を想像するなら、高校生と考えるのが妥当である。しかし、場所や服装などのあらゆる諸要素を加味してもなおその少年は小学生にしか見えなかった。
 めちゃくちゃちっちゃいから。
 ちっちゃい上に頭身が低く、目もでかい。制服はダボダボであり、明らかに二次成長はじまってない。
 嶄廷寺(ざんていじ)攻牙(こうが)。
 高校二年――信じがたいことに篤と同学年のクラスメートである。篤のみぞおちあたりに頭のてっぺんがくるという尋常ではない小ささを誇り、紳相高校生徒の中でもぶっちぎりで最小。
 二年の男子の中で最小なのではない。全学年の男女含めての最小である。
「む、攻牙か」
 篤は、攻牙の頭をつかんでぐりぐり回した。
「お前は相変わらず小さいな。注射器で牛乳を血管に注入してみると良いのではないか? 普通に飲むより効くだろう」
「牛乳大明神様をヤバいお薬みたいに言うんじゃねえー!」
 攻牙は短い腕をぶんぶん振りまわして篤の手を振り払う。口調は荒いが、なにしろ見た目が小学生なので迫力に欠けることおびただしい。そのせいで上級生に可愛がられたり同級生に可愛がられたり下級生に可愛がられたり、ことによると中学生に可愛がられたりとロクな目に遭わない男である。本人としてはマスコット的ポジションは気に入らないらしく、努めて粗暴な口調でしゃべることにしている……のだが、そういう必死に尖がってる感じがまた可愛らしいと学校のお姉さま軍団や一部特殊な趣味を持つお兄さま軍団に評判である。なんだこの学校。
 攻牙は、はたと気づいて腕を下ろし、篤をにらみつける。
「……いやどうでもいい! ホントどうでもいい! お前の繰り言に対するツッコミほどどうでもいいものはないよ! 手紙だよボクが話題にしたいのは手紙! それ! 手紙!」
 攻牙は火の出るような勢いでまくしたて、篤の持っている桜柄の便箋を人差指で何度も突いた。
「うむ、これか。下駄箱に入っていたのだ」
 篤は目を細めて便箋を眺めると、丁寧に折りたたみはじめる。
「実に見事な書状だ。字体と言い文体と言い、書き手の熱き情念が伝わってくるかのようだ」
 それから手紙の想いを胸の裡で味わうかのように目を閉じた。
 ――必ず、ゆこう。
 そう、決意を新たにする。
「それで? 諏訪原くんはいったいどういう返事をするつもりなのかな?」
 突如、優雅なテノールが背後から聞こえてきた。
 攻牙の声ではないし、もちろん篤でもない。
「謦司郎かッ!」
 篤は弾かれたように振り返った。その速さたるや凄まじく、篤の姿が一瞬小型の竜巻となったほどである。
 だが、振り返った先に誰もいない。
「遅いねぇ、あくびを催す遅さだ。そんなザマでは僕の姿を捉えるなど到底無理だね」
 凄まじいまでの少年漫画臭を放つ言葉が、背後から聞こえてくる。再び振り返るも、視界の端に黒い残像がかすかに見えただけで、次の瞬間にはそれも消え去ってしまった。声の主の姿は捉えられずじまい。
 まるで、光に追われる影のごとき体捌き。もはや超人的という言葉すら生ぬるい。不可解と理不尽の権化と言えよう。
「謦司郎……恐るべき男よ……!」
 額に汗をにじませる。
 闇灯(あんどう)謦司郎(きょうしろう)。
 嶄廷寺攻牙と同じく、篤のクラスメートだ。一年以上の付き合いがあるにも関わらず、篤は彼の姿を一度たりとも見たことがない。なぜか徹底的に篤の視界を避けているのだ。
 そのくせ気がついたら背後にいるので心臓に悪いことこの上ない。
 そういうわけで、篤は彼がどのような容姿をしているのかわからないのだが、クラスの女子の話を聞いてみると「すっごくカッコイイ」とのこと。同性な上に人を褒めることが滅多にない攻牙すらも「まぁ見た目だけはイケメンだよな。見た目だけは」と認めており、その胸焼け級の激甘マスクぶりが伺える。下級生の中には様付けで謦司郎を呼ぶ集団もいるあたり、尋常ではない。免疫のない人間などはこいつの顔を見ただけで糖尿病になるのではないかと思う。見たことないけど。
「で? どーすんだよ実際コレ? 放課後ってもう今じゃんコレ!」
 攻牙がわめく。
「受けるのかな? 断るのかな? お友達からはじめるなどというヘタれた選択肢はパパ認めませんからね!」
 謦司郎がウキウキとした声で言う。他人が困ったり焦ったりする様を見るのが楽しくてしょうがないらしい。
 ……しかし、残念ながら篤は困っても焦ってもいなかった。
「ふむ、知れたこと」
 篤は手に持った封筒を頭上に掲げ、よく通る声で宣言した。
「急な話ゆえ、戦装束の支度はできていないのが悔やまれるが、入学式の時から始まっていたという彼我の宿命、ここで決着をつける」
「……え?」
「は?」
 怪訝そうな声を出す二人。
 ――何をそんなに不思議がっているのだろう?
 構わず篤は言葉を続ける。
「俺は物心ついたころから武士(もののふ)たらんとして生きてきた。戦士としての俺を認め、雌雄を決するべく死合を挑んできたというのなら、その心意気に答えぬわけにはいくまい」
 当然の選択だった。まず書状を送り、礼を尽くして勝負を申し込んできた相手がいるのならば、全力で受けて立たねば礼を失するというものだ。
「あのー篤さん? それは多分ラブレ……」
「見届けておくれ、我が友たちよ。結果がどうあれ、これより俺が挑む修羅場は誇りあるものとなるであろう……!」
 どこの誰なのかはわからないが、この自分を勝負に値する存在と認めてくれた人間がいる。その事実は、篤の胸に誇りと闘志を灯した。
 ――もはや、言葉は無用。行動のみが、真実を語る。
 床を蹴る。走り出す。
「あ! ちょ! 待てコラ篤ー! おいー!」
「うわぁい、これはひどいや! 明らかにとんでもない勘違いをしたまますごい勢いで走って行ったよ! ここで追いかけないなどという選択肢を選ぶ意味がわからないくらいおいしい状況だよ! いけない! ニヤニヤが加速する!」
「くっちゃべってねえで追いかけるぞオイ! ニヤニヤが加速する!」
「当然! ニヤニヤ!」

 なぜそこで闘志が湧くのか。
 なぜ明らかにスウィートな意味を持っているであろう手紙を果たし状だなどと勘違いできるのか。
 もはや常人には理解しがたいところではあるが、武士と呼ばれる戦士階級が数多くいた時代には「恋愛」という概念がそもそも存在しなかったことと関係があるのかもしれない。
 ないのかもしれない。
 いや、さて。
 攻牙と謦司郎である。
 この二人、篤とよくつるんで騒ぎを起こすので、七人の凶悪な変人が君臨する紳相高校の中でも最もアグレッシヴな変人集団として恐れられていた。
 具体的には、
 1、融通という言葉を知らない篤が厄介ごとを引き起こす。
 2、謦司郎が面白がって事態を深刻化させる。
 3、攻牙が二人を怒鳴りながら解決に奔走。
 この三段階の事件推移における文化的破壊力係数はゾウリムシ三百億匹分に相当し、これは一般的なバス停使いが全力で暴れまわった場合のエントロピー増加率にほぼ等しい損害である。学校の不良連中の中には彼らの名を聞いただけで顔を青くしながら周囲を見回す者もおり、三人の知名度は入学以来こいのぼりであった(有事の際はめちゃくちゃ目立つけど普段は空気という意味で)。

 ●

 篤は教室の扉に手をかけた。
 ここまで一気に駆け抜けてきた。しかし呼吸は乱れていない。むしろ軽い運動をこなしたことでウォーミングアップの手間がはぶけたくらいだ。
 ――この扉の向こうに、書状の送り主がいる。
 この空気。張りつめた気配。
 間違いなく教室に誰かがいる。
 そして俺を待っている。
「……今征くぞ、我が雄敵よ」
 力を込めて。
 万感を込めて。
 ――一気に扉を引く。
「ひゃおうっ!?」
 変な悲鳴とともに、机と椅子がこんがらがって倒れる音がした。
 見ると、紳相高校の制服に身を包んだ少女が椅子に座ったままひっくり返っている。
 ふわふわしたボブカットの髪が床に散らばった。
 スカートがまくれあがって露になった太ももを気にする様子もなく、彼女はこっちを指差して、口をぱくぱくさせはじめた。
「す、す、すわ、すわ……ッ!」
「さよう。書状に従いまかり越した」
 篤は重々しく頷き、堂々と前進する。
 そして倒れた少女のすぐそばで立ち止まった。
「立てるか?」
「あ、は、はいっ」
 少女はがたがたと音を立てて机をどかし、一瞬足を曲げて飛び起きた。
「よっと!」
 バンザイ状態で元気よく着地。しかし倒れた時に打ったのか、頭をさすりはじめる。
「うーん、痛いでごわす……」
 ごわ……す……?
 今こいつ「ごわす」って言った……?
 それは何かひどく意識を混乱させる三文字であった。
 ちゃんこはそんなに好きじゃない。
 ――いやいやいやいや、あり得ん。あり得んことだ。
 懊悩する篤に対して、少女はクルリと振り返った。
「はじめまして、諏訪原センパイ♪」
 活発そうな印象を受ける少女だった。さっぱりとしていて天真爛漫、悪くいえば物事を深く考えなさそうな雰囲気。しかし、人にそういう印象を与えることを自覚して、それを利用しようとするしたたかさも、茶色の眼からかすかに覗いている。
 いわゆる営業スマイル。
 攻牙ほどではないが、子供っぽい容姿だ。篤の肩のあたりに頭のてっぺんがくるのだから、女性としても小柄なほうと言っていいだろう。染めているのか、単に色素が薄いだけなのか、茶色っぽい髪をショートボブにまとめていた。はしっこい輝きに満ちた目で、篤を面白そうに見つめている。
「一年五組出席番号十二番、鋼原(こうはら)射美(いるみ)でごわす♪」
「…………」
 残念ながら聞き間違いではなかった。
 なんということだろう。
 ごわすってお前……
 複雑な思いが篤の脳内を駆け巡ったが、一秒後にはその現実に適応した。
 疑問形でしゃべる変態に比べたら遥かにマシである(文法的な意味で)。
「七月生まれの十五歳、血液型はB型でごわす♪」
「うむ」
「趣味は吐血、特技は吐血、嫌いなものは吐血でごわす♪」
「うむ。めずらしいな」
「いやそれ絶対おかしモガッ!」
「はいはい尾行中尾行中」
 後ろで聞き覚えのある声がした。
 謦司郎と攻牙が廊下から覗いているのだろう。なぜコソコソしているのかはわからない。堂々と見守っていればよいと思うのだが。
「いやー、まさかホントに来てもらえるなんてビックリでごわす! 射美が[センパイのカバンに入れておいた]手紙、読んでもらえたんでごわすね?」
 さすがに一人称は「おいどん」ではなかったようだ。
 なんか裏切られたような気分になる篤だったが、そんなことはさておき。
「うむ。清廉な決意の感じられる、良い果たし状であった」
「えへへ、ありがとうでごわす♪ ……って、果たし状?」
「因果を含めてほしい」
「へ?」
「俺を見て、降り積もった思いがあろう。始める前に、それらを明確にしておいてほしい。受け止めよう」
 篤は腕を組み、教室の扉に背をあずけた。
 軽く首をかしげ、鋼原射美の発言をうながす。
「えーと、つまり本題に入ろうってことでごわすね? ふっふっふ、言うでごわすよ? 言っちゃうでごわすよ?」
 鋼原射美はコホン、と軽く咳払いした。
 そして大きく息を吸い込み、
「諏訪原センパイ、好きでごわす!」
「ふむ」
「廊下ですれ違ったときとか、ガッコの行きしに見かけたときとか、いいなぁってずっと思ってたんでごわす!」
「ほう」
「間違うとすぐセップクしちゃうあたり、なんかほっとけないカンジでごわす! 責任感ありそうなあたりもポイント高しでごわす♪」
「ほほう」
「おねがいでごわす! 付き合ってください! そして一緒にバカップル化して周りの人たちからウザがられちゃうといいでごわす♪」
「……なるほど、話は大体わかった」
 篤は重々しく頷いた。
 彼女の決意に応えるべく、腕を解き、半身になる。
 戦闘、態勢。
「――いざ、参られよ」
「ゼンゼンわかってないーっ!? え? っていうか、あれ? なんでこれから宿命の闘いが始まるような流れになっちゃってるんでごわすか!?」
 目を白黒させる鋼原射美。
「宿命か……言い得て妙だな。俺もその言葉に見合う礼節を尽くさねばならぬようだ」
 ――思い返せば、俺の応対はあまりに簡潔にすぎた。
 迷いは忌むべき停滞なれど、反省は惜しむべきではない。
「丁重な名乗り、痛み入る。――返礼いたそう!」
「うぅっ!?」
 篤は息を吸い込んだ。
 まるで、巨大な怪物が顎門を開く時のような雰囲気が、あたりに満ちた。
 理が、ぐるりと裏返る。
 この世を形成する、二つの要素――すなわち陰(ボケ)と陽(ツッコミ)が、逆転する。
「二年三組出席番号十番、諏訪原篤! 夜長月生まれの齢十六! 血液型は弱酸性!」
「お肌に優しそう!?」
「趣味は切腹、特技は切腹、嫌いなものは切腹だ!」
「切腹嫌いだったんでごわすか!?」
「好きな本は『葉隠』、好きな言葉は『常住死身』、好きな山本常朝は『湛然和尚より慈悲と寛容の心を学びしのちの一皮むけた常朝』である!」
「もうダメだ! 射美はいきなりセンパイのことがわからなくなったでごわす! でもそんなセンパイもミステリアスでステキでごわす……っ♪」
 祈るように両手を組んで、目をキラキラさせている。
 ガゴン! と後ろで扉が音をたてた。
 廊下の二人が、なにやら騒いでいるようだった。

 ●

「『好きな山本常朝』って何だよ特定個人じゃねえかよ! ……もーぉダメだ! ボクはあのツッコミ不在ぶりに耐えられねえ! あぁもう行かせろよ謦司郎〜! 片端から突っ込んでやる……!」
「まぁ落ち着きなって。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて有頂天」
「ただの変態じゃねえか! ……それから! あいつらの会話はもう恋の告白って雰囲気じゃねえよ! 単なるボケポジションの奪い合いだよ! すでに電波だよ! わけわかんねえよ!」
「いやぁ、でもあの子……鋼原さんだっけ。ツッコミもそれなりにこなせてはいるよ」
「篤の野郎がアホ過ぎてツッコミに回らざるを得ないだけだ! すぐ破綻する!」
「さすがに一年もの間彼にツッコミ続けた男の言うことは含蓄があるね。でもまぁ乱入は待ちなって」
「なんでだよぅ!」
「あの教室、[二人っきりじゃないよ]」
「……は?」
「[もう一人いる]」

 ●

「そこにいるのは何者か?」
 篤は不意に、鋼原射美から目を外した。
 その視線の先には、掃除道具の入ったロッカーがある。
「ほぇ? どーしましたでごわすか?」
「俺たちの決闘領域に、想定外の者が入り込んでいる」
「いや決闘領域って……」
 篤は視線を漂わせ、
「ふむ、そこか」
 おもむろにロッカーへと歩み寄る。
 そして躊躇いもなく扉を開けた。
 ……開けようとして、奇妙な手ごたえを感じた。まるでロッカーの扉がヒモでつながれているかのような抵抗があった。
 篤は構わず腕に力を込め、扉を引き開けた。
 ぱら、と、床に何かが落ちた音がする。見ると、制服のボタンが三つ、木目の上でフラフープのごとく踊っていた。
 そして、ロッカーの中には、
「こ、こんにちはぁ……」
 なんか、いた。いるはずのないものがいた。
 あまつさえ困ったような笑顔で小さく手を振りだした。
 思わず、まじまじと眺める。
 [なにが]いるのかはわかった。しかし[なぜ]いるのかがわからない。
 そいつは少し頬を染め、篤から目をそらした。
「あのぅ、諏訪原くん……そんなに見つめないでもらえるとうれしい、かな?」
「…………」
 無言で扉を閉める篤。
「ど、どーしたんでごわすか!? 中にいったい何が!?」
「いや、何もいなかった。モップと箒とバケツとチリトリと霧沙希(きりさき)藍浬(あいり)が置いてあっただけだ。異常はまったくない」
「最後のキリサキアイリって何でごわすか!?」
「掃除道具だ」
「それでゴマカしているつもりでごわすかー!」
 むっ、と篤は息を詰まらせる。本当にそれでゴマカせると思っていたのだ。
「誰か……っていうか霧沙希って人がいるんでごわすね? 今までずっとそこにいたんでごわすね!?」
 鋼原射美は頭を抱えて宙を仰ぐ。
「うぬぬぅ……! 話をゼンブ聞かれていたでごわすかぁ〜!」
 そして突然目を見開き、
「……うぐっ!?」
 あわてて口を押さえ――

「ゴふェェッ!!」
 いきなり血を吐いた。

「うおぉっ!?」
 口を押さえる手の間から、赤い筋が垂れている。
 ――趣味は吐血とか言ってたけどホントに吐いたよこいつ!
「けほっ、けほっ」
「…………」
 しばらく、鋼原射美の咳き込む音だけが教室に響いた。
「ああ、その、大丈夫か?」
 篤、呆然としながら聞く。
 射美は慌てた様子もなく手の甲でぐしぐしと血を拭い、息をつく。
「うぃ〜、ひさびさにやっちゃったでごわすぅ〜」
 ゲロ吐く酔っ払いみたいに言うな。
 夕闇忍び寄る教室で、口元を真っ赤に染めた少女が照れ笑いを浮かべている。見る人が見たら、恐怖のあまり全身の穴という穴から変な汁を出して気絶しそうな光景である。
「射美はコーフンするとつい血を吐いちゃう体質なんでごわす♪」
「いやそれどんな体質モガッ!」
「はいはい出歯亀中出歯亀中」
 そして忍ばない二人。
 なぜ彼女に気付かれないのだろう。不可解というほかない。
「うぅ〜、そんなことより射美は一世一代の告白を他の人に聞かれちゃったことがショックでごわす!」
「あ、こら」
 篤が「実はもう二人ばかり隠れて聞いている奴がいるんだぞ」と止める間もなく、射美はずんずんと歩みを進め、血に塗れた手でロッカーに手をかけた。
「文句言ってやるでごわすぅ〜!」
 がたん。
 開けた。
「…………」
 そして固まる。
「あら……?」
 ロッカーの中から、ささやくような、典雅な声がした。
 篤は目頭を押さえる。
 今鋼原が見ているであろう光景が、手に取るようにわかった。
 そこには、紳相高校の夏季制服に身を包んだ女子生徒が挟まっていることだろう。
 ロッカーというものはそもそも人が入れるようには作られていないので、無理に入り込もうとすれば相応のしっぺ返しが付いてくるのが当然である。
 ――その女子生徒は、格子のように立つモップと箒によって身動きが取れなくなっているのだ。ロッカーを閉めた際、扉の裏側にあるチリトリを引っ掛ける金具に誤って箒の柄が引っ掛かり、固定されてしまったのである。体を屈めて引っ掛かりを外せば良いのだが、空間的余裕の問題で、屈み込むにはにはロッカーを開けねばならず、開けてしまっては篤と鋼原に気付かれてしまう。それゆえ、彼女は今まで身動き一つできなかったのだろう。
 問題点はもうひとつある。
 悲劇と言ってもいい。
 たぶん、篤がロッカーを開けた時に起きたことだ。
 ボタンが外れていた。
 薄手のブラウスの第一から第三ボタンが、ちぎれて飛んでいったのだ。
 そんでもってなんかこう、世界の半分を占めるある種の人間たちが、なんかある種の憧れというか興奮というか競り上がってくる情熱的なものの混じった視線を注ぐであろうある種の隆起というか膨らみというか白い二つの果実というようなある種神話的な表現をせざるをえないなんかこう、ある種のあれ、あれだよ、ホラあれ! ある種!
 普通に言うと胸の谷間がチラリ。
「あわ……あわわ」
 射美が目を白黒させている。状況が理解できないのだろう。
 というかこの場の誰ひとりとして理解できていない。
「ええと、こんにちは。はじめまして」
 あまつさえロッカーの少女はフツーに挨拶してきた。
「あ、は、えと、あぁ、はじめ…まして……?」
 混乱中。
 約二秒間の自失から立ち直った射美は、ロッカー少女をキッと睨みつけた。
「……じゃなくて! なんでそんなところに!?」
「ごめんなさい。あなたの大事な用事を台無しにしてしまって」
 いきなり謝ってきた。
 言い訳なり反論なりを予想していたのか、うろたえる射美。
「はぁ、いえ、その、まぁ、なんというか……」
「邪魔するつもりはなかったんだけど、いきなり始まっちゃったから、出るに出られなくて」
「はぁ、いえ、そういうことなら、なんともはや……ごわす」
 思い出したように語尾。
「あら」
 不意に、ロッカーの中から白い手が伸びてきて射美の頬に触れた。
「はわっ!?」
「血が……大丈夫?」
「いえあのっ、これは……」
「待ってて」
 手が一瞬引っ込み、桜柄のハンカチを持って再び伸びてきた。
「あう」
「じっとしてて」
 ふきふき。
「どこか怪我でもしたの?」
「いえ、あの、射美はそーいう体質なんでごわす」
「まぁ、大変ね」
 驚愕のツッコミポイントをそれだけで終わらせるロッカー少女。
 彼女は、名を霧沙希(きりさき)藍浬(あいり)という。
 篤のクラスメートであり、同級生はおろか上級生にまで「お姉」と呼ばれるほど大人びた物腰の女子高生である。攻牙とは逆ベクトルで有名な人物といえるが、実際のところ容姿そのものは「超・高校生級ッッ!」みたいな隔絶した何かがあるわけではない。その顔容はすっきりと整ってはいたが、幼さも色濃く残っていたし、その頬にいつも湛えられている微笑はどちらかというと無邪気なものを感じさせる。星空を映す夜の湖のような漆黒の髪も、特に手を加えることなく自然に背中まで伸ばされていた。まぁ身体のある一部分の発育だけは、超高校生級と言ってもいい雄大な存在感を誇示していたが、何事にも例外はあるのだ。
 彼女、霧沙希藍浬が「お姉」などと呼ばれる由縁は、主にその言動である。
 ――やはり、彼女は、器がでかい。
 と、篤は思う。
 普通、口元が血まみれな少女が目の前に現れたら、もう少しあたふたしても良いと思うのだが、彼女は一瞬でその事態を受け入れる。ことによると「一瞬」というタイムラグすらないかもしれない。
 浮世のよしなしごとをすべてあるがままに受け入れ、しかも別段無理をしている風には見えない少女。
 その心の在り方は、篤にとっては妙にまぶしく映る。
「はい終わり。きれいになったわ」
 ロッカーの中へ、手が引っ込んでゆく。
「あ……」
 何故か名残惜しそうな声を出す射美。
「う……その、お礼なんて言わないでごわすよ〜!」
 射美が慌てたように声を上げ、藍浬の手からハンカチをひったくった。
「で、でも借りっぱなしは気分が悪いのでハンカチは洗濯してきてやるでごわす」
 以外に義理堅い性格なのか。
「あら、気にしなくていいのに」
「そーいうわけにはいかないのでごわす!」
「まあ……それじゃあお願いしようかしら、ふふ」
「ふ、ふん、明日持ってきてやるでごわす!」
 ハンカチを胸に抱きながら、プイと顔をそむける射美。
「そ、それから! 諏訪原センパイ!」
 急にこっちを振り向いた。
「むっ」
 鋼原射美は目を細めた。
「どーも出会ったときからお話がかみ合わないと思ってたでごわすが、どーやら射美の正体がバレてたようでごわすね」
 え?
「『ドキドキ☆夏の恋仕掛け大作戦〜吐血自重しろエディション〜』で油断したところをドクチア! って行く予定でごわしたけど、そんな小細工は通用しないようでごわす」
 聞いただけで頭が悪くなりそうな作戦名である。
 ビシィ! と篤に指を突き付ける。
「ゾンちゃんの仇は、この射美が討つでごわす! 覚悟するでごわすよ〜!」
 突き付けたまま走りだし、後ろ手で器用に扉を開け、そのまま廊下へと消えていった。
「ゾンちゃん……だと……?」
 聞き覚えのある語感に、なにやら嫌な予感を抱く篤。
 その時、廊下から声だけが聞こえてきた。
「いてっ!」
「あうっ」
「気をつけろよオイ前見て走れ!」
 攻牙のちまっこい怒鳴り声が響いてくる。
「いてて……う〜ん、ごめんなさいでごわす…………って、あれ?」
「あぁ! やめろ! その眼はやめろ! なんでこんな所に小学生が? とかそんな感じの眼はやめろ!」
「なんでこんな所に小学生が?」
「口に出して言うなァァ!」
 廊下で出歯亀っていた攻牙とぶつかったらしいが、なんかもうかなりどーでもいいと思ってる篤だった。
「可愛い娘ね」
 背後で霧沙希藍浬の声がした。
「む……」
 振り返ると、彼女はロッカーから顔だけ覗かせていた。
 どこか、儚い思いを抱かせる微笑みを浮かべている。
「付き合うの?」
 小首を傾げると、長い黒髪がさらりと揺れた。
 誰と――とは聞くまでもない。
 篤は深々と頷く。
「無論だ。彼女の気持ちには答える」
「ふふ、がんばってね」
「あぁ。……ありがとう」
 篤は少し気持ちが軽くなり、口元にあるかなしかの笑みを灯す。
 どうということのない言葉だが、霧沙希藍浬が言うと不思議に心が洗われる気がする。
「でも意外ね。諏訪原くんも男の子だったんだ」
「霧沙希は今まで俺を女だと思っていたのか」
「ふふ、そうかもね」
 なぜかクスクス笑いはじめる。
 なんだかよくわからないが、笑っているのでよしとする。
「ところで諏訪原くん」
「何だ」
「出るの、手伝ってくれない?」

 ●

 ――甘かった。
 鋼原射美は、ひとり難しげな顔をして歩いている。
「うぬぬ、まさか射美のカンッペキな演技が見抜かれようとは……」
 カバンをしょって下校中である。
「諏訪原篤……さすがはゾンちゃんを破っただけのことはあるでごわす」
 あの眼力はただものではない。
 甘ったるいアニメ声とか、なんか頭悪そうに見える容姿とか駆使して相手を骨抜きにし、背後からボコるのが鋼原射美のいつものパターンなわけであるが、世の中にはそーいうのが通用しない相手もいるらしい。
 となれば、小細工なんか抜きにして正面からぶつかるか。
 《ブレーズ・パスカルの使徒》地方制圧軍十二傑が一人、セラキトハート。
 それが射美のコードネームであり、正体である。
 まっとうに戦ったって勝てるのだ。
 ゾンネルダークを破ったバス停使いがいると聞いたから、ちょっと無理して学校に潜入してみたけれど、実際に会ってみればさほど強力な〈BUS〉感応は感じ取れなかった。
 要するに、諏訪原篤はスペックの低さを戦術で補うタイプの使い手なのだろう。
 射美にとって、そういう相手は最も戦いやすい。
 とはいえ――
「うーむ、とりあえずは報告でごわす」
 カバンからストラップがじゃらじゃら付いた携帯を取り出した。
 側面のカバーを外し、中の青いボタンをつまんで引っ張り出す。
 間違ってボタンを押したりすると携帯が爆発するので、ちょっと緊張する射美であった。
 何度かのコールののち、電話がつながった。
「あー、もしもし? タグっちでごわすかぁ〜?」
『ハイパー☆晩飯タイム、はっじまっるよぉー!!』
 なんかいきなり叫び出した。
 やや甲高い青年の声だった。
「……あぁ、今は躁モードでごわすか」
 若干の頭痛を覚える射美。
 ――タグトゥマダーク。
 それが電話の相手のコードネームだった。
『やあ射美ちゃん! いつもいい具合に脳みそ溶けそうなアニメ声だね!』
「ほめてるのかどうかよくわかんないでごわすけど、とりあえずありがとうごわします♪」
『今日の晩御飯は天ぷらスペシャルだヨ! 衣がフニャらないうちに帰っといで?』
「あ、りょーかいでごわす♪」
 それは急がねば。
『それで、どうしたのかな! お兄さんに何か相談事かな! 今の僕は可愛い後輩のためなら実の妹を質に入れてもいいと思うくらい慈愛の心に満ち溢れているよ!!』
「ぜんっぜん慈愛にあふれてないでごわすよ♪ むしろ軽く最低でごわすよタグっち♪」
『死のう……』
 いきなり沈んだ声でつぶやくタグトゥマダーク。
 がさがさと神経質な手つきで周囲をさぐる音が、携帯を通じて聞こえてくる。
「はいはいすとぉ〜っぷ。刃物探すのストップでごわすよタグっち〜? 今のナシナシ。ウソ。ジョーク。ジョークでごわすよ〜?」
 いつものことだけど、躁鬱の浮き沈みが激しすぎる。
『……ホント?』
 捨てられた子犬みたいな声を出すな。
「ホントでごわすよ〜? 怒ってないでごわすよ〜? 怖くないでごわすよ〜?」
『ふふふ、良かった。ゴメンね、取り乱しちゃって』
「い、いえ、問題ないでごわす……」
 内心超メンドくさい人だと思ってる射美であった。
『それで、どうしたのかな?』
「あ、はい。相談事っていうか、報告でごわす」
 射美は今日あった悶着について一通りのことを話した。
 諏訪原篤に接触したこと。
 しかしこちらの演技は完璧に見抜かれていたこと。
 あと廊下で小学生みたいな男子生徒を見かけて超カワイかったこと。
 あとあと、なぜかロッカーの中に入っていた人に、なんかこう、独特のノリで丸めこまれてしまった感じなこと。
『ほへ〜』
 なにやら感心したような声を上げるタグっち。
『すごいなぁ、射美ちゃんは』
「へ?」
『学校に潜入して早々に友達を作るなんてすごいことなんだよこれは! お兄さんの学生時代とは大違いだね! 死にたい! 死のう!』
「そっちでごわすか!」
 トラウマスイッチを押してしまったみたいだった。
 その後、どうにか言葉を尽くして自殺を思いとどまらせると、タグトゥマダークはため息をつきながら言った。
『で、えーと、つまり? 諏訪原篤は君の「真夏☆恋仕掛け急接近大作戦」を軽やかにスルーする精神と眼力を持ち、かつ《絶楔計画》の存在を知れば確実に邪魔立てをしてくるであろう人物だと、そう言いたいわけだね?』
 いきなり冷静な口調。しかし☆のところで変な抑揚をつけているのがなんかムカつく。
「はぁ、えっと、急に話が進んだでごわすね……まぁそーゆーわけだから、普通に戦っていいでごわすか?」
 射美の操停術は、絶大な破壊力を誇るものの、静殺傷能力は著しく低い。
 超目立つ上に超やかましいので、使ったら即バレるのである。
 政府のポートガーディアンたちと正面からぶつかるのは今は避けておきたいので、射美はあらかじめ上司に了解を得ていないと戦闘能力を解放できないのだ。
『ま、そうなるよね。いいよ、ヴェステルダークさんには僕から言っておく。隠蔽工作はまかせといて』
「ありがとうごわします♪ じゃ、切るでごわすよ〜」
『あ、そうそう! ちょっと待って。ヴェステルダークさんがさっき言ってたんだけど、諏訪原篤の抹殺の他にもうひとつ任務が追加されたみたいだよ』
「ヴェっさんが? どんな任務でごわすか?」
『人を一人、拉致ってきてほしいみたい』
「りょーかいでごわすよ。どこの誰でごわすか?」
『霧沙希藍浬だ』
「……へ?」
『霧沙希藍浬』
「…………それって」
『霧沙希藍浬』
「い、いや三回も言わなくていいでごわすよ!」
『あだ名はキリっぽ』
「変な設定付け加えないでほしいでごわす!」
『その様子だと、もう心当たりがあるみたいだね。さすがは射美ちゃんだ。その調子でたのむよ〜?』
「は、はぁ……」
 電話を切ってから、射美はぼんやりと空を見上げた。
 飴色の空が、どこまでも広がっていた。
 スカートのポケットに手を突っ込んで、血まみれのハンカチに触れた。
 霧沙希藍浬から預かったハンカチだ。
 興奮すると血を吐くというホラーな体質を目の当たりにしても、ふんわり微笑んで口元を綺麗にしてくれたくれた人のものだ。
 ……ぎゅっと、握りしめた。
「作戦、変更でごわす」

 ●

「いっ」と、篤が声を上げた。
「せー」と、攻牙が続けた。
「のー」と、響司郎が繋いだ。
「「「せッ!」」」
 三人そろってシメ。
 がたん! と音が鳴り、ロッカーの入り口からホウキとモップが外れた。
「ふふ、ありがとうね。三人とも」
 中からゆっくりと霧沙希藍浬が抜け出てきた。
「うむ、無事でなによりだ」
 篤は重々しく頷いた。
「別に大したことじゃねーよ」
 攻牙は何故か目をそらす。
「女性のお役に立つのは男の本懐さ」
 謦司郎は篤の後ろでフワサァ……っと前髪をかき上げた。
 いや、後ろだから見えないのだが、篤には気配でなんとなくわかるのだ。
 恐らく、薔薇などが周囲に舞っているのではないか。
 見えないけれど、見えないから余計にそう感じられる。
「うー……んっ」
 霧沙希は二の腕を掴んで伸びをした。
 しだれ桜のような肢体が、しなやかに解放を謳歌する。
 女子としてはやや長身の背中に、光沢を宿した黒髪が柔らかく散らばった。
「……帰ろっか」
 こちらを振り返り、ふわりと微笑う。
 同時に、千切れたボタンが引き起こす極限の狭間が幕を開け、白く神話的なある種のふくらみが二つ、窮屈そうに互いを押しあっている荘厳な光景が篤たちの視界に入った。
「いや待て霧沙希―!」
 攻牙が叫んだ。
「お前ちょっと外に出る前にちょっとお前そのあれだ」
 そして汗をかきながら眼をそらす。
「まままっまままっ前をな前を気にしろうん気にしろ」
「え?」
 言われて藍浬は自分を見る。
 一瞬の沈黙。
「……きゅう」
 妙な声をあげて、胸元を抑える藍浬。
「もう、先に言ってよ攻牙くん……」
 そして目じりを押さえた。
「ちょっとショック」
 謦司郎がやれやれとため息をつく。
「攻牙〜、泣かしちゃだめだよ。もうちょっと空気読むべきだったね」
「ちょちょちょ待てよボクが悪いのかよ!」
「キミが何も言わなければ、霧沙希さんは恥ずかしい思いをせずに済んだんだよ! そして僕は豊かな生命の神秘を存分に鑑賞することができたんだよ!」
「本音はそっちかよ!」
「僕が彼女の胸をなめるようにいやらしく上から下から眺めまわしてどこに星マークを付けるべきか慎重に見定めるという高度な思考活動を止める権利が君にあるとでもいうのかい!?」
「あるよ! ありまくるよ! なに本人の前で邪まな欲望をカミングアウトしてんだよ!」
「ち、違う! 僕はエロくない! 変態なだけだ!」
「うるせえよ黙れよ!」
 藍浬はうつむきながら蚊の鳴くような声でしゃべる。
「そ、そうだよね。しょうがないことなのね。お、男の子だもんね……」
「おい霧沙希ィィーッ! こいつの妙に堂々とした弁舌に流されるな! 気を強く持て! 変態のたわごとに耳を貸すな!」
 誰の前だろうと自分の変態ぶりを隠す気がまったくない謦司郎は、ある意味自らの道に殉ずる忠烈の士とも言えるような気がする。そうか?
 とはいえ、いつまでも霧沙希をこのままにしておくわけにもいかない。
 篤は自分のカバンに手を突っ込み、中を探る。
 中には教科書やノートに紛れて、手紙の入った便箋が二つあった。
 ……二つ……?
 ひとつは下駄箱の中にあった桜柄の手紙だが、はて、もうひとつは……?
 とてつもなく不可解だったが、今探しているのはそんなものではない。
 さらにカバンを探り、ついに目的のもの見つけた。
「おい、霧沙希」
「え?」
 しゅるりと衣擦れの音がして、霧沙希藍浬の首に何かが巻き付いた。
 それは紳相高校制式のネクタイだった。
 篤は無言でウィンザーノットの形に結びつける。
「うむ、これでよし」
 作法に則ってきっちりと結ばれたネクタイは、うまい具合に霧沙希の胸元を隠していた。
 謦司郎が愕然とした声を上げる。
「あぁ、篤、なんてことを……霧沙希藍浬はネクタイを装備した! 防御力が50上がった! エロさが20下がった! 具体的には装備前がR16相当だとしたら、今はR12くらいだ! あくびがでますな」
「お前の脳内ではネクタイどんだけ優秀な防具なんだよ!」
「えっと、ありがとうね、諏訪原くん。助かったわ」
「うむ、後は俺たちが周囲をガードしていれば、帰り路も安全だろう」
「可憐な女性を取り囲む三人の男……ゴクリ」
「息を荒げながら言うな!」
「ふふ、大丈夫よ。そこまでしてもらっちゃ悪いわ。私の家は山奥だし」
 霧沙希は自分の席からカバンを掴むと、小走りで引き戸の前に向かった。
 振り返ってはにかむような笑みを見せる。
「さすがにちょっと恥ずかしいから、一人で帰ります」
「お、おう気を付けてな」
「またね〜霧沙希さん」
「さらばだ」
「はい、また明日ね」
 つつましやかな足音が、遠ざかっていった。

 ●

 その後、好奇心剥き出しで鋼原射美の正体や目的について教えろとしつこくまとわりついてくる攻牙を振り払い、篤は急いで下校した。
 家に帰りつくと、さっそく自らのカバンを開ける。
 教科書とノートの間から、二通の手紙がこぼれ落ちた。
「うぅむ……」
 片方は下駄箱の中にあった桜柄の手紙だ。篤が丁寧に折り畳み、カバンの中へしまった。
 だが、カバンの中にはもう一通の手紙があった。
 拾い上げてみると、『趣訪原センパイへ』と、やたら丸みを帯びた字で書かれている。
 ――いつの間に入れられたのか。
 ――そして『しゅわはら』とは誰のことか。
 二つの疑問が脳裏を駆け巡ったが、とりあえず脇に置く。
 正体不明の嫌な予感に眉をひそめながら、封筒を開け、中身を取り出した。

 大女子きて”こ”ゎす!
 方攵言果後、センハ。イの教室で待ってるて”こ”ゎす!

 金岡原身寸美より(はぁと)

「むぅ……これは……ッ」
 篤は愕然と目を見開く。
 そしてこの書状が持つ恐るべき意味に気づく。
「新たな果たし状ッ!」
 多分、というか絶対に違うのだが、突っ込む者は誰もいない。
「しかし……これはどういうことだ?」
 篤は首をひねる。
 最初、下校しようとして下駄箱を開けたら果たし状(?)が入っていた。文面に従って教室に行ったら、そこには鋼原射美がいた。
 だから特に疑問にも思わず受けて立とうとしたのだが……
 今、ここにもう一通の果たし状(?)が存在している。こちらには差し出し人として鋼原射美の名前があった。『かなおかげんしんすんみ』などという珍妙な名前でもない限りは間違いないところだ。
 ――これはあの、ナウかつハイカラな言葉でいわゆるところのギャル語というやつであろう。
 考えるまでもなく、鋼原射美が本当に出したのはこっちなのだ。
 では……下駄箱に入っていた方は何なのか?
 篤はしばらく考え、考え、考え込み、五分も経ってからようやくその可能性に気づいた。
「果たし状を出した人物は、鋼原射美の他にもう一人いたのかッ!」
 そして、自分が重大な過ちを犯したことを自覚した。
 ――なんということだ。
 諏訪原篤は、あろうことか決闘の誘いをすっぽかしてしまっていたのだ!
 その瞬間、あたりを地鳴りが包み込んだ。根源的な不安を煽る、大地の怒り。その律動。
「なんという……なんということだ……!」
 別口の決闘があったから行けませんでしたなんて言い訳で、罪を誤魔化すつもりはなかった。
「俺は、一人の気高き戦士の誇りを、踏みにじっていたのか……」
 地鳴りはやがて震動に変わる。家屋がガタガタと悲鳴を上げ、本棚におさめられているふっるい本の数々が床に落ちる。
 しかし、篤は気付かない。動揺した己の心が生み出す幻覚だと思っている。
 ――これほどの失態、いかにして償うべきか。
 答えは、すでに出ていた。
「死のう」
 懐からドスを引っ張り出す。
 と同時に、背後でドアの開く音がした。
「兄貴〜! 大丈夫? かなり揺れたね……ってぎゃあ! なにやってんのバカァーッ!」
 その瞬間放たれた霧華のローリングソバット(しゃがみガード不可)によって篤は無慈悲にも吹き飛ばされ、全治三十秒の重症を負った。
 ドアを開けた瞬間に状況を理解し、コンマ一秒の遅れもなく即座に攻撃に移る。妹の恐るべき格闘センスにいつものことながら戦慄しつつ、一応抵抗してみる。
「……霧華よ、いくら腹に刃物を当てていたからと言って事情も聞かずに蹴り飛ばすのはいかがなものか。本当は切腹ではなかったのかも知れんではないか」
「じゃあなんだっつうのよ!」
「ヘソごまを取っ」
「ああもういい! 黙れ!」

 ●

 次の日。
 諏訪原篤は襲撃を受ける。
 登校してきた生徒たちでごったがえす紳相高校の廊下にて、それは完全なる不意打ちの形をとって成された。
「うらぁーッ!」
 襲撃者は背後から篤に飛びかかると、首に腕を回して締め上げてきた。
「昨日はよくも逃げてくれたな篤この野郎てめえ今日は逃がさねえぞコラァ!」
 セリフに読点をつけない男、嶄廷寺攻牙。
「あー」
 篤は頭を掻きながら、何と言ったものか思案する。
 攻牙は、ヒーロー願望が強い。普段から「あー世界の存亡をかけた戦いに超巻き込まれてえー」だの「いつになったら破門された兄弟子が仮面をかぶって師匠を殺しに来るんだろう」だの、高校生にもなってちょっとそれはどうかと言われそうなことを平気で口に出す奴だ。
「高校生にもなってちょっとそれはどうか」
「何がだよ!」
 見た目が小学生なのでまったく違和感はないが。
 そんな少年が昨日の篤と射美の意味深なやりとりを見れば、これはもう何らかの劇的な事件の匂いを嗅ぎつけて意地でも首を突っ込んでくるに決まっているのである。
「うーむ」
 首にぶら下りながらぎゃあぎゃあ騒いでいる攻牙をとりあえずスルーしながら、篤は考え込む。
 やはり適当に曖昧な返事をして誤魔化すしかなかろう。級友をバス停使いの戦いに巻き込むのは篤としても本意ではない。
「オラオラとっとと教えやがれ! あのごわす女は何者だ! ゾンちゃんって誰だ! 仇って何のことだ!」
「……うむ、何のことかはまったくわからないが、ゾンちゃんというのがゾンネルダークなどという変態の略称ではないことだけは確かだ。本当に何のことかはまったくわからない」
「わかってんじゃねえかよ! 誰だよゾンネルダークって!」
「……何故わかったんだ。天才かお前は」
「いやいやいや!」
 まったくわからないって二回も言ったのに、実はわかってることを一瞬で看破されてしまった。いったいどんな鍛錬を積めば、これほどの恐るべき洞察力を獲得できるのか。
 ――次からは三回言おう。
「……むっ!?」
 その瞬間、意識の片隅で、ある気配を感じた。
 覚えのある気配であり、現在最も警戒しなければならない気配。
 一見ふにゃふにゃの隙だらけに見えて、中に剣呑なものを宿している気配。
 だんだんと、近づいてくる。
 周囲の雑踏の中から、篤はその足音だけを拾い上げる。
 そして。
「諏訪原センパイ〜おはようでごわす♪」
 甘ったるい声。
 篤は即座に頭をめぐらせ、声の主を見やる。
 案の定、そこには鋼原射美がいた。
 両手を後ろに組んで、身をかがめ、いたずらっぽく笑っている。
「ぬあっ! 昨日のごわす女!」
 攻牙が声を上げた。
「昨日のおチビちゃんもおはようでごわす〜♪ お兄ちゃんにおんぶしてもらってるでごわすか?」
「うわすげえムカつく!」
 しかし、はたから見ると確かに「歳の離れた兄貴におんぶしてもらってる子供」の図である。
「……用向きは何だ?」
 篤は静かに、油断なく問いかける。
「そんなにケーカイされると悲しいでごわすよ〜」
 よよ、とわざとらしいしなを作りながら、指で涙をぬぐう仕草をする。
 が、すぐに半眼でこちらを一瞥し、口の端を吊り上げた。
「ふふん、ちょっと見かけたから挨拶がてら決闘でも申し込もうかと思っただけでごわす」
「ほう」
「確か……『姫川病院前』のパワーが一番高まるのは、診察時間の朝と夕方でごわしたっけ?」
 ――そんなことまで知っているのか。
 篤が契約しているバス停『姫川病院前』は、その名の通り姫川病院の前に位置しており、朝と夕方の診察時間には近隣の爺さん婆さんが押し寄せるため、段違いに利用率が高くなる。当然、〈BUS〉の流動も活発になり、バス停の持つ力は最高潮に達するのだ。
 バス停使いにしてみれば、自分が契約するバス停がどこのものなのかを知られるのは非常マズい。そのバス停の利用率が低い時間帯に襲いかかられると、恐ろしく不利な戦いを強いられることになる。
 篤は、己の弱点とも言うべき情報を、いともあっさりと握られてしまったのだ。
「さて……どうだったかな」
「またまたぁ、隠さなくても大丈夫でごわすよ〜。利用率が低い時間に襲撃しようなんて思ってないでごわす♪」
 別に隠していたわけではなく、単に姫川病院の午後の診察時間が何時だったのか良く覚えていなかっただけなのだか、篤は黙っておくことにした。
「ほう?」
 いかにもポーカーフェイスやってますよと言わんばかりの鋭い表情だが、実は何も考えていない。
「今日の夕方。学校の裏山で待ってるでごわす」
 にひ〜、と射美は意味深な笑みを浮かべている。
「わざわざ俺に有利な時間を指定するとは、よほどの自信があるようだな」
「ふっふっふ、そうでごわすよ? 射美がホンキを出せばセンパイなんてイチコロでごわす」
「それは楽しみだ。場所と時間は了解した。必ず行こう」
「待ってるでごわすよ〜♪」
 篤は踵を返し、颯爽と歩きはじめる。
 新たなる敵との戦い。
 その予感に、体中の細胞がざわめいた。
 ――やはり常住死身の信条は、闘いの宿命を引き寄せる、か。
「やれやれだ」
 肩をすくめる。
「夕方に裏山だな? よ〜くわかったぜこの野郎」
 肩が、固まった。
 背中に攻牙を背負ったままだったことをやっと思い出し、頭が痛くなった。
 どうしよう、これ。

 ●

 大過なく授業は終わり、放課後に突入。
「すまん、霧沙希。こいつを抑えておけそうなのはお前くらいしかいない」
「ふふ、諏訪原くんが頼みごとなんて珍しいわね」
 ぎゃあぎゃあ喚く攻牙を後ろから抱きすくめながら、霧沙希藍浬はふんわりと微笑んだ。
「どうしても一人で出向かねばならぬ用向きがあるのだが、攻牙が付いて行くと言って聞かぬ。俺が戻ってくるまでの間、こいつを抑えていてくれないか」
「昨日のコ……鋼原さんと待ち合わせ?」
「……霧沙希に隠し事はできんな。そういうわけだ」
「はいはい了解ですよ。がんばってね」
「うむ、恩に着る」
「ち、ちくしょう覚えてろよ篤この野郎―ッ!」
 攻牙の三下っぽい叫びを背に、篤は教室を出た。

 ●

 ちくしょう。
 あの野郎。
 許さねえ。
 嶄廷寺攻牙の脳裏をよぎるのは、その三つだった。
 鋼原射美と諏訪原篤の意味深なやり取りを聞いた時、これだ! と思った。
 ――このつまんねえ日常から抜け出すカギを、ついに見つけたぜ!
 そう思った。
 主人公。ヒーロー。英雄。
 甘美な響きだ。
 攻牙は小さい頃(要するに最近)、自分の名前の由来について父親に聞いてみたことがある。
「え? 名前? あぁ、えっと、ああー、由来ね、うん、由来。由来を聞きたいわけか、なるほどなるほど、うんうん。えっとな、あれだ、一言で言ってしまうと、あの、あれだ」
 親父はそこで爽やかな笑みを浮かべた。
「父さんが当時ハマっていた鬼畜系エロゲーの主人公の名前からなんとなく取ったんだ」
 普通の少年ならば満面の笑みを浮かべながらドメスティックバイオレンスに身を任せているところだが、攻牙は違った。
 「なんとなく」という言葉尻が引っかかったのだ。
 普段から何かにつけていい加減かつテキトーな親父だが、不意に予知能力でもあるんじゃないかと思うほど鋭いことを言う時がある。
 そういう時は決まって頭を掻きながら「なんとなくだ!」で済ますのである。さらに聞くと、自分でもなぜそう言ったのかわからないという答えが返ってくる。
 まるで、何かの啓示を受けたかのように。
 ――ボクの名前も、そうなのかもしれねえ。
 アホな親父ではなく、運命とか宿命みたいなものによって決められた名前なのかも。
 そう思ったものだ。
 ――なにしろ攻牙だよ攻牙。
 ――こんな名前で主人公やらずに何をやるっていうんだよ。
 小さかった(今も)攻牙は一人そうつぶやき、ニヤニヤしていた。
 別に根拠はないが、確信していた。
 自分はヒーローとなる男なのだと。
 そして今。
 諏訪原篤は明らかに、何らかの超越的な戦いに身を投じている。
 ――きたぜ! ついに!
 宿命の時が来た。
 ――篤の野郎が手を焼く戦いに、ボクも超巻き込まれてゆくにちげえねえ。そしてもうアレだ、超獅子奮迅な活躍をして世界を超救うに違いあるめえ。あるめえよこりゃ!
 とか何の根拠もなく確信しきったのである。
 嶄廷寺攻牙はマジだった。
 バス停使いの闘いに巻き込まれるということ。
 それが一体どんな意味を持っているのか知りもせずに。
 どれほど強大で人知の及ばぬ戦いに首を突っ込もうとしているのか、まったく自覚せずに。

 嶄廷寺攻牙は、あまりにもマジだった。

 ●

 ……マジだったのだが。
「ボクは何をやっているんだろう……」
 頭を抱える。
 攻牙は、いまだに学校にいた。
 正確には、校舎の辺境に位置する図書室である。時刻は三時過ぎ。飴色を帯びはじめた大気が動き、窓から涼しい風が吹き込んでくる。校庭が一望できる窓際の席で、攻牙は時間が無駄に過ぎるのをまんじりともせずに耐えていた。
 グランドでは、野球部が練習に精を出している。高等部のむくつけき野郎どもがランニングをしている横で、小学生の子供たちがわいのわいの言いながらキャッチボールに興じていた。
 紳相高校の隣には公立の小学校があるのだが、ド田舎なので子供の絶対数が少なく、いちいち学校ごとにでかい運動場を造るのは不経済極まりない。そのため高校のグランドを他校の生徒にも解放し、自由に使わせているのだ。
 いやそんなことはともかく。
「なあオイ霧沙希」
「うん?」
 隣の席につく霧沙希藍浬は、読んでいた本から顔を上げた。
「ボクはなんでここにいなきゃならないんだ」
 場所が場所なので、小声である。
「ふふ、諏訪原くんのところに行きたいの? でも駄ぁ目。若い二人の邪魔をしちゃあ、ね?」
「いや……ね? とか可愛く言われてもな」
 霧沙希の場合、普段の大人びた言動とのギャップがなんかヤバい。
 ――って何を考えてるんだボクは。
 自分の頬をぺちぺちしながら状況を整理する。
 篤とごわす女の待ち合わせ場所に向かい、世界の存亡をかけた戦いに超巻き込まれる。これこそが攻牙の目下の目標なわけであるが……
 それを嫌う篤の差し金によって、霧沙希藍浬が立ちはだかっているのだ。
 ……いや、立ちはだかっているというか、座って本を読んでいるだけなのだが。
 それでも立ち去ろうとすると、ひょいと白い手が伸びてきて腕をつかまれる。つかまれたのなら振り払えばいいだけなのだが、
「……うぅ」
 攻牙はそれを振り払えなかった。
 霧沙希藍浬の手は、ひんやりとして柔らかい。
 ――いやだからなんなんだよ!
 攻牙は自分が何を考えているのかよくわからない。
 だが、努めて冷静になって考えてみると――
 ――多分ボクは霧沙希の意に沿わないことをするのが恐ろしいんだな。
 そういう答えが出る。
 霧沙希が恐ろしいのではない。
 しかし、彼女の笑顔を曇らせることに、かなり大きな抵抗を感じるのだ。
 霧沙希藍浬が悲しむと、何か恐ろしいことが起きる。そんな気がしてならない。いや、彼女が自分の意志でその「恐ろしいこと」を起こすわけではない。だが、攻牙には想像もつかないような因果を辿って、結果的にとんでもない事態になってしまいそうな気がするのだ。
 なぜそんな気がするのかは自分でもわからないが……
 霧沙希藍流は、桜の花のような笑顔を浮かべる少女だ。
 他人を安心させることにかけて、彼女以上の人間にはお目にかかったことがない。
 だから、そんな笑顔を壊すような奴はバチを当てられてしまうんだろうな、多分。
 と、攻牙は思う。ごくナチュラルに。
「なぁ霧沙希」
「うん?」
「そもそもなんでお前はこんな所で本を読んでいるんだ?」
「あぁ、本当は専用の部室でできたら一番なんだけど、わたしの部活動は部員が三人しかいないから、部屋まではもらえないの」
「部活動……ってお前部に入ってたのか」
「ふふ、そうよ。これでも部長なんだから。『文芸研究殺人事件』っていうの」
 殺人……事件……?
「……えーと悪いもう一度言ってくれるか?」
「『文芸研究殺人事件』」
「それが部名なのかよ!」
 意味わからん。
「だって『文芸研究部』じゃ地味そうで誰も入ってくれないじゃない?」
「『殺人事件』でも入ってもらえねえよ! ていうか部じゃないだろもはや!」
 霧沙希藍浬が何か言いかけた時、フッと黒い風が吹き抜けた気がした。
「いやいや、殺人事件の文字は間違いなく目を引くよ。なんというか、ロマンとミステリーの香りがするね。部の目的ともマッチした素晴らしいネーミングだと思うよ」
 別の声がした。
 見ると、謦司郎が本を何冊か抱えてそこに立っている。
 こいつが唐突に表れるのはいつものことなので、攻牙もさほど驚かない。
「頼まれていた資料を持って来たよ霧沙希さん」
「ありがとう闇灯くん。いつもごめんなさいね」
「はっはっは」
 謦司郎は髪をかき上げた。
「霧沙希さんの制服ごしに浮かび上がる起伏豊かなわがままボディを脳に焼き付けて今夜の自家発電の燃料にするという計り知れない恩恵を得るためならこんなことぐらいどうってことないよ!!」
「せめて本人の前では言わずにおけよアホかお前は何さわやかな笑み浮かべてんだよ!」
「ふふ、大丈夫よ。闇灯くんってすっごく紳士なんだから」
「ちょっとは気にしろよ霧沙希も! こんなド直球なセクハラに慣れ親しむなんていう無意味な適応能力はいらねえんだよ!」
「はいはい攻牙。図書室では静かにね」
「なんでボクだけが騒いでるみたいな雰囲気にしてるんだ!」
 しかし実際問題、周囲の迷惑そうな視線が痛くなってきた。図書室を見渡してみると、十人前後の生徒が思い思いの位置で読書や勉強に勤しんでいる。しぶしぶ矛を収める。
 そこで攻牙は我に帰る。
 ――脱線してるじゃないか!
 そもそもは、さりげなくこの場所から移動させるよう仕向けて、移動中にひそかに姿を消そうという目論見のもとに会話を始めたのに、もう目的がブレている。
 ――このままでは奴らの決闘現場に行けねえ……!
 どうにか霧沙希を説得できないものか。
 しかし攻牙の目的を正直に話したところで同意が得られる可能性は果てしなく低い。それどころか篤とごわす女が戦おうとしているということ自体信じはしないだろう。
 ――くっそーどうすりゃいいんだ!
「あら……?」
「どうしたの? 霧沙希さん」
 不意にグランドの外に目を向ける藍浬。
 視線の先には、学園のそばを通る道路があった。
 今そこに、不可解なものが走っている。
「あそこって、バスなんか通ってたかしら?」
 そう、バスだった。
 緑と白のツートンカラーが目に優しい、何の変哲もないバスだった。
「うーん、聞いたことないけど」
 謦司郎は顎に手を当てる。
「……おいちょっと待て上に誰か乗ってないか」
 攻牙は立ち上がって身を乗り出した。
 ……確かに、その怪しいバスの上には、小柄な人影がある。
 中で座っているのではなく、屋根の上に立っているのだ。
「それに、なんか持ってるね」
 謦司郎が攻牙の横に並ぶ。
 怪しいバスの上の怪しい人影は、大きな柱状の物を手に携えている。どう考えても持ち上げられるような大きさではないのだが、人影は何の苦もなくそれを片手で保持していた。
「よく見たら、ウチの制服を着てるわね」
 藍浬も横に並ぶ。
 怪しいバスの上で怪しい柱状の何かを持った怪しい人影は、バスが近づいてくるにつれて、紳相高校の女子制服を着ていることが明らかになった。
「あれって……ひょっとして……」
「鋼原さん……?」
 謎のバスは、唐突に向きを変えた。ただの自動車ではありえない、急激な方向転換だ。
「かぁぁちこみでごわすぅぅぅぅぅぅ!!」
 甘ったるい声。
 攻牙たちのいる図書室へと鼻先を向けると、ロケットエンジンでも付いてるんじゃないのかと思うほど爆発的に加速した。
「な……!」
 門から突入、などという礼儀正しいことを彼女はしなかった。
「やばい――おいお前ら逃げろーッ!」
 攻牙が野球部の連中に怒鳴った。
 次の瞬間。
 金網のフェンスを突き破り、直接グランドへ鋼鉄の巨体が侵入した。
 道路から学校の敷地までの間は傾斜になっていたので、勢い余って宙を舞う。
 さすがに悲鳴を上げる野球部員たちの頭上を飛び越え、グランドの中央に着地した。
 衝撃で二回ほどスピンしてから停止したバスは、そのまま何事もなく走行開始。
 まっすぐこちらに向かって突っ込んでくる。
 紳相高校の安っぽい木造校舎など一瞬で突き崩せそうな、凄まじいスピードである。
「きーりさーきセーンパーイ! ハンカチ返しにきたでごーわーすーよー!」
 バスの上で、手に持った柱状の何か――バス停に見えるが目の錯覚だろう――をブンブン振り回しながら、鋼原射美は声を上げている。
「……あらあら」
 藍浬が困ったように微笑んだ。
「こっちよ〜! 鋼原さん」
 手を振りながら、呼びかける。
「言っとる場合かーッ!」
 攻牙は藍浬の手を掴むと、渾身の力を込めて引っ張った。
 瞬間、直前まで三人が立っていた位置の壁が爆発し、震動と轟音が校舎を揺るがした。砕けた窓ガラスは滝のように室内へと降り注ぐ。本棚は次々と倒れ、中の本が次々と床に散らばっていった。図書室に残っていた生徒たちの悲鳴が飛び交っている。
「ゲホゲホッ! くっそ無茶苦茶だ!」
 もうもうと立ちこめる粉塵にせき込みながら、攻牙は身を起こした。
 瓦礫が散乱する中に、巨大な影が浮かび上がっている。ヘッドライトが不気味に明滅している。バスだ。バスが壁を突き破って図書室に突っ込んできたのだ。
 しゅたっ、と目の前に細い足が降り立った。
「うふふ〜、愛と吐血と喀血の轢殺系美少女、セラキトハートただいま参上でごわす♪」
 そして周囲を見渡し、
「……惨状なだけに!」
「全っ然上手くねえんだよバカヤロウ! 何やってんのお前何やってんの! なんでバスで突入してくんだよ! どうやって運転してたんだよ! いろいろと意味不明だよ!」
「あらら? 誰かと思えばおマセなおチビちゃんじゃないでごわすか。篤お兄ちゃんのところにいるんじゃなかったでごわすか? いま何年生でごわすか?」
「お前より一年上だよムカつくなオイ! つうか篤のところにいるはずなのはそっちだろ! 何でお前ここにいるんだよ! 篤と決闘してるんじゃねえのか!」
「あぁー、それはあの、すっぽかし……ゲフンゲフン、サボったでごわす」
「そこで言い直す意味が本気でわからねえよ!」
「イチバン大きな敵戦力である諏訪原センパイをウソの約束で遠ざけ、そのスキに任務を達成してしまおうという高度なセンリャクでごわす」
「あー……なるほど」
 バカ正直な篤なら間違いなく引っかかるな。
「ふふ、元気な登場ね、鋼原さん」
 そこへ、藍浬が微笑みながら歩み寄る。
「この惨状を見て元気の一言で片づけるのかよ霧沙希。どれだけ人間がでかいんだよお前は」
「霧沙希センパーイ! ハンカチ洗ってきたでごわすよ〜♪」
 しっぽ振る子犬みたいな勢いで駆け寄る射美。
「はい、どーぞでごわす♪ ピッカピカでごわす♪ 一年生でごわす♪」
「ありがとう。気を使わせちゃったわね」
「そんなことないでごわす〜とんでもないでごわす〜」
 頬に手を当ててくねくねする射美。
 いつの間にかやたらと好感度が上がっている。
「あぁ、かぐわしいユリ科の香りがするね……」
「瓦礫の中から顔を出した第一声がそれかよ」
 どうしようもなく頬がニヤついている謦司郎。
「でもいきなりバスで図書室の壁を壊すのはダメよ? 図書室は静かに使わなくちゃ。みんなビックリしちゃうわ」
「はぁ〜いでごわす!」
「そんなレベルの問題じゃねえ!」
 攻牙のツッコミはスルーされた。
「ところで霧沙希センパイ。今、お時間は大丈夫でごわすか?」
「あら、なにかしら」
「ちょっと射美と一緒に来てほしいでごわす〜」

 ごすっ……と。
 鈍い音がした。

「……っ……?」
 藍浬の鳩尾に、射美の拳がめり込んでいた。藍浬はきょとんとした顔のまま、ゆっくりと崩れ落ちる。
「おっとっとぉ」
 射美は藍浬の体を支える。
「ごめんなさいでごわす〜。でも任務でごわす〜。あ、よっこいせっと♪」
 掛け声と同時に藍浬の体を背負った。
「さぁ〜てそれじゃあ……」
 唖然とする周囲の視線を意に介さず、射美は天に向けて手を伸ばした。
「接続(アクセス)! 第七級バス停『夢塵原公園』、使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)セラキトハートが命ず! 界面下召喚!」
 幾筋もの光が、射美の頭上から降り注ぐ。空中のある一点から漏れ出しているそれらの光は、やがて一つに纏まりながら爆裂した。
 ――顕現する。
 神意の木霊。
 荒ぶる龍をつなぎとめる楔。
 射美の手の中に出現したソレは、荘厳な気配を纏いながら低い唸りを発した。
 全長は二メートル超。片方の先端には丸看板。もう片方には台形のコンクリート塊。始源にして究極のスタイル。青地に白の文字で『夢塵原公園』の文字が、清澄なる燐光を放っていた。
 あまりの神々しい姿に、図書室にいたすべての人間は息をするのもわすれて目を見張っていた。
「すっげー」
「なに、あれ」
「ていうか誰あの子」
「あれだよ、ちょっと前に転校してきた」
「ヒャッハー! 上玉だぜェーッ!」
「こっち向いて〜!」
 声に応え、射美は視線を巡らせると、ニコニコしながら出現したバス停を振り上げた。
「そ〜ぉれ♪」
 軽く振り下ろす。轟音。打ち据えられた床を中心に直径数メートルのクレーターが出現した。砕け散った床の木材が四散して生徒たちを襲う。
 あちこちで「ぎゃあ」「痛ぇ!」「うわらば!」「僕の美しい顔が!」悲鳴が上がった。
「え〜っとぉ、今のはホンキの十分の一でごわす♪ もっと痛い目に遭いたくなかったら地べたに這いつくばって大人しくしてるでごわす♪ 間違ってもケーサツに通報したり、ケータイで誰かに連絡したり、あまつさえ射美のジャマをしたりしないでほしいでごわす♪ そんなことする悪い子はプチッてつぶしちゃうでごわす♪」
 場が凍りついた。
 射美は満面の笑みを残して踵を返すと、そのまま壁から突っ込んできたバスの方へと歩いていった。
 耳が痛くなるほどの沈黙が、辺りを包み込んでいた。射美が瓦礫を踏みつける音だけが続いている。床板を粉砕しながら広がるクレーターは、人間をモザイクが必要な物体へと簡単に変えられることを証明していた。
 ……これ以上ない示威行為だった。
 誰ひとりとして動くことができず、固唾を呑んで射美が去ってゆくのを待つばかり。
 ――そのはずであった。
「おいコラてめえちょっと待てや」
 甲高い声がした。
 小学生みたいな声がした。
「えっと何? 今よく聞こえなかったんだけどよぉ何だって? え?」
 立ち上がった奴がいた。
 睨みつける奴がいた。
「痛い目に遭いたくなかったら? あ? なんか言ったよなその後なんだっけオイ」
 鋼原射美――否、セラキトハートがゆっくりと振り返った。無表情だった。
「あっれれぇ〜? 射美の声が聞こえなかったでごわすかぁ〜?」
 ドブに繁殖する細菌でも見るような眼で、身の程知らずなことを言い出した輩を見下した。
「ミドリゾウリムシと黄色ブドウ球菌くらいの戦力差があることを、今の一発でわからせたつもりだったんでごわすけどぉ〜」
 逆にわかんねえよ。
 攻牙はセラキトハートに指を突き付けた。
「お前は次に『おチビちゃんはつぶされちゃいたいんでごわすね?』と言う!」
「おチビちゃんはつぶされちゃいたいんでごわすね? ……ハッ!」
 ――やっべ一度やってみたかったんだこれ!
 地団駄を伴うガッツポーズで大喜びした。
 攻牙が最大の敬意を捧げる偉人(架空)の決め台詞なわけだが、ここでやる意味は特にない。
 しかし予想外にうまくいってしまい、なんとなく調子こいた攻牙はさらにでかい口を叩く。
「くっくっくジャマをするなら痛い目に遭わすだと? ナメてんのかてめえそりゃこっちのセリフだ! 痛い目に遭いたくなかったら霧沙希を置いていけコラ!」
「あらあらおチビちゃんはひょっとして射美をやっつけて霧沙希センパイを取り戻そうなんて身の程知らずなことを考えてるんでごわすかぁ?」
 攻牙はゆったりとした足取りでセラキトハートに歩み寄った。
「考えてるんでごわすよこの野郎っと」
 なんかダルそうに首をコキコキ鳴らすと、人をナメくさった眼でニヤリと嗤った。
「来な一年坊主。もう始まってるぜ」
 あまつさえ揃えた四指をくいくいっと曲げて『さっさとかかってこい』のジェスチャーをする。
 セラキトハートは不審そうにその様子を見ていた。
「な、なんでそんな自信満々なんでごわすか?」
「え? はぁ? 何お前ビビってんの?」
「むきぃー! ちょっとカチンと来たでごわす〜! ……でも射美は相手がお子ちゃまだからと言って油断するような噛ませ犬とは違うでごわす」
 警戒しつつもじりじりと攻牙に近寄った。
 バス停の中ほどを持ち、丸看板の先っちょを軽く突き出す。力はほとんど込めていない。せいぜい尻餅をつかせる程度である。
「それっ♪」
「ぐはァーッ!」
 ……攻牙は盛大にぶっ飛んで壁に激突した。
「って弱ッ!?」
 ずるずると床に崩れ落ちる。
 壊れた人形のように手足を投げ出し、ピクリとも動かなくなる。
「えっと、あの、まさか死んでないでごわすよね……?」
 やや青い顔になるセラキトハート。
 だが――
「へっへっへっへっへ……」
 押し殺した笑いが、攻牙の口から漏れ出た。
「すげーなオイ……昼に喰ったハムサンドとコーヒー牛乳を危うくグラシャラボラスするところだったぜ……」
 ソロモン王七十二柱の魔神が今の状況と何の関係があるのかは大いなる謎であるが、そんなことはともかく攻牙はくわっと顔を上げ、跳ね起きながら横に手を伸ばした。
「そ、それは……!」
 伸ばした手が触れたものの正体に気づいたセラキトハートは、両手で顔面を庇おうとした。しかし背中に藍浬を背負ったままだったことを思い出し、思いっきり顔が青くなった。
「喰らえやオラァッ!」
 セラキトハートに向けて、白い粉煙が凄まじい勢いで噴射された。

 ●

 紳相高校は木造校舎なので、火災に対する備えは万全を期している。校内のいたるところに消火器が設置されているのだ。それは図書室も例外ではない。
「ワザとぶっ飛んで消火器のところへ向かうとは、味なマネをしてくれるでごわす」
 鋼原射美は、白く閉ざされた視界の中で唇を噛んだ。
「っていうかぶっちゃけ危なかったでごわす。間一髪でごわす」
 粉煙は射美のところまでは届いていない。〈BUS〉を巧みに操作し、体表面にエネルギーフィールドを形成したのだ。体の一部にフィールドを張って攻撃に耐えるという程度ならどんなバス停使いも無意識にやっていることだが、それを体全体に隈なく展開させるとなると、なかなかできる芸当ではない。
「でもこんな小細工、射美には通用しないでごわすよー!」
 片手で無造作にバス停を振るう。巻き起こる豪風によって白い粉煙は横一文字に引き裂かれ、そこを中心に掻き消えていった。
 急激に晴れる視界。
「さぁ〜て、おチビちゃん。かーくーごーでーごーわーすー。ちょっと見た目が愛くるしいからってあんまり調子こいてると射美も怒っちゃうでごわすよ〜……って、あれ?」
 そこに攻牙はいなかった。
 左右を見回すも、物陰から恐る恐るこっちを見ている一般生徒たちの姿が見えるだけで、肝心の頬ずりしたくなる小学生ルックが見当たらない。
「ありゃりゃ? ひょっとして逃げちゃったでごわすか?」
 五秒ほど警戒していたが、何の反応もない。
 ――なぁ〜んだ。
 どうやら本当に逃げてしまったようだった。
「射美の買い被りだったでごわすかぁ。やれやれでごわす」
 肩をすくめつつ、壁に大穴を開けたバスへと向かう。
 バス停を軽く振ると、バスのドアが自動的に開き、射美と藍浬を中に迎え入れた。
「霧沙希センパ〜イ、ここで休んでてくださいでごわす♪」
 気を失ったままの藍浬を座席の一つに寝かせると、自分はドアから出て行って屋根の上に飛び乗った。ただの人間ではありえない跳躍力だった。
「出発進行でごわす♪」
 軽やかに『夢塵原公園』をひと振りすると、バスは崩れかけの壁を吹き飛ばしながら後退しはじめた。頭側を振り回すように方向転換し、爆発的に加速。地面に深い溝を刻みながら走り出す。
「気分ソーカイでごわす〜」
 物凄い速度でカッ飛んでゆく紳相高校の景色に目を細めつつ、セラキトハートは鼻歌交じりに携帯を取り出す。青いボタンを引っ張り出した。
「あ、もしもし? タグっちでごわすか〜? バッチリ成功でごわす〜拉致完了でごわす〜」
 ……その瞬間。
 がたん、と。
 物音がした。
「ごわっ!?」
 珍妙な驚きリアクションもそこそこに、セラキトハートは真下を見る。
『どうしたんだい射美ちゃん? 何か問題かい?』
「な、なんかバスの中から物音がしたでごわす」
『霧沙希藍浬が目を覚ましたんじゃないのかい?』
「たぶんそーだと思うんでごわすけど、ちょっと見てみるでごわす」
『あ、ちょっと待っ……』
 携帯を切ると、セラキトハートはバスの屋根のふちに手をかけて、音がしたあたりの窓から中の様子をのぞき込んだ。
 そして、息を詰まらせた。

 ●

 ――かかったなアホめ!
 [最初から消火器の白煙に紛れて車内に潜んでいた]攻牙は、[あらかじめ開けておいた]窓から両手を突き出した。
 上から窓を覗き込んでくるセラキトハートの両眼に、張り手をかました形だ。
 ちんまい掌には、消火器の粉――リン酸アンモニウムがべったりと付いている。
「ぎゃんっ!」
 いかに言っても不意打ちだったようだ。両眼に白粉をなすりつけられたセラキトハートは、悲鳴をあげて顔を覆った。
 バスが急停止する。
「おい、おい! 霧沙希! 起きろ!」
 座席で気を失っている藍浬の頬を手の甲でぺちぺち叩くが、目を開く気配はない。
「うぅぅぅ……ひどいでごわす……」
 地の底から響く呻きのような声が、車外から漂ってくる。
「射美がせっかくオンビンに済ませようと手加減してあげたのに……」
 攻牙のすぐ横を、鋭い閃光が走り抜けたと思った瞬間、バスの先頭部分が一瞬で斬り飛ばされた。
 断面から突風が吹きこんでくる。
「も〜許さないでごわす……つぶしちゃうでごわす〜!」
「ちっ! もう動けるのかよ……!」
 攻牙としては、さっきの眼潰しで数分は時間が稼げると思っていたのだが、あてが外れた。とっさに目を閉じていたのか――あるいは図書室での消火器噴射を防いだ力の応用で、粉を弾き飛ばしたのかもしれない。敵のスペックがわからない以上、そのあたりは想像するしかない。
 足音がする。ゆっくりとした足音が。
 断面の端から、セラキトハートが姿を現す。
 眼が、禍々しい血の色に染まっていた(要するに涙目)。
「めっさぽん痛いでごわす〜! 仕返しでごわす〜!」
 車内に足をかけ、バス停を振りかぶりながら、セラキトハートはこっちに踏み込んできた。
「くおぉっ!」
「ごわっ!?」
 攻牙が思いっきり横のシートベルトを引っ張ると同時に、バス停の柄が唸りをあげて脇腹を打ち据えた。
 ちっこい体は真横に吹っ飛び、ガラス窓を突き破って宙を舞った。
 たっぷり五メートルは滞空したのち、地面に叩きつけられ、二回転半ほどでんぐり返った末にようやく止まる。
「うぬぬぅ〜どこまでもコシャクなマネを〜……!」
 セラキトハートは脚に絡みつくネクタイを引き剥がした。攻牙はあらかじめ自分のネクタイを両側の座席のシートベルトと結びつけ、足を引っかける罠を作っていたのだ。
 おかげで踏み込みの脚が取られ、攻撃の威力が五割減である。
 しかし――
 攻牙は腹の中で暴れまわる衝撃を抱えながら呻いていた。
 威力半減だろうがなんだろうが、これは滅茶苦茶効いた。
 ガラスを突き破った時にあちこち切り傷ができていたが、そんなものがどうでもよくなるくらいに効いた。
「コザカしいってこういうときに使う言葉なんでごわすね……むきぃーっ!」
 ――うるせえよ。
 地面に降り立って地団駄を踏んでいるセラキトハートを横目に、攻牙はしばらく耐えていたが、やがて限界が訪れた。
「「うぐっ!?」」
 二人同時に嗚咽。
 そして、
「「ごふぇぇぇぇぇッ!!」」

 グラシャラボラス:
 ソロモン王が従えたとされる七十二柱の魔神のひとつ。翼の生えた犬のような姿をしており、常に血に飢えている。人間を透明にしたり、仲違えや仲直りをさせる力を持つ。三十六の軍団を率いる虐殺者。

 見るも無残な光景がそこにはあった。
 攻牙とセラキトハートは地面にうずくまり、痙攣している。
「けほっ! けほっ!」
 セラキトハートは咳き込んでいる。
「げぼっ! がほっ!」
 攻牙はえずいている。
 詳細な描写は省くが、ハムサンドとコーヒー牛乳がラッピングされ店頭に並ぶまでに携わった様々な人々の思いはこの瞬間グランドにブチ撒けられ水泡に帰したとだけ記しておこう。
 無念なるかな、養豚場で生を受けたトムとマット。彼らのタンパク質は不毛なる校庭に散布され、新たな命を育むことは恐らくない。
「あぁ……畜生……効いた、ぜ……おい……」
 呻きながら、震えながら、攻牙は身を起こす。
 体に、力が入らない。それほどまでにさっきの一撃は凄まじかった。
 ――篤の野郎は、こんなとんでもない奴らと戦ってたんだなぁ……
 不良に絡まれてる奴を助けようとして逆にあっさりボコられるという経験には事欠かない攻牙だが、これほど重い打撃を受けたことはない。
「うぃ〜、またやっちゃったでごわすぅ〜」
 手の甲で乱暴に口元を拭きながら、セラキトハートが起き上がるのが見えた。
 そしてこちらの方を見て、にひひと笑う。
「痛いでごわすか? 苦しいでごわすか? 思い知ったでごわすか? ケホケホ」
 闘志が急速に萎えてゆく。
 ――いやいや、もう無理だろ。
 ――意味不明な超常能力を持つ謎組織の謎エージェント相手にここまで粘ったんだからボクはもう評価されるべき。
 ――なんか哀れっぽい声で命乞いすれば多分許して貰えるんじゃねーかな。こいつアホそうだし。うん、それが一番いい。そうしよう。
 などと理性的に主張してくる自らの怯懦を抑えつけ、
「……関係ねえな」
 右足を踏み出し、立ちあがろうとする。
 そのさまを見て、セラキトハートは慌てたような声を上げる。
「えっ、ちょっ、まだやるつもりなんでごわすか!? いや〜、射美は寝てたほうがいいと思うでごわすよ〜?」
「関係ねえよ!」
 勢いをつけ、左足も地面を踏ませる。体がぐらりと傾ぐが、どうにか踏みとどまる。
「ど、どーしてそこまでするんでごわすかー! 霧沙希センパイがそんなに大事なんでごわすか?」
 攻牙は、全身を覆うダルさと吐き気と痛みを吹き飛ばすように、天に向けて吠えた。
「ヒーロー願望ナメんなコラァァーッ!」
「えぇ〜!?」
「ボクはなぁ! 人助けがしたいとか世界を平和にしたいとか大切な誰かを命をかけて守りたいとかそんな動機は持ってねえぇぇぇぇぇぇぇんだよ! てめーの命が一番大事だコラァァァァァァッ!」
「なんかぶっちゃけだした!?」
「だけどなぁ! 野郎として生まれたからにはなりてーじゃんか! ヒーロー! 主人公! 英雄! ボクは図体がチビだからよー! ケンカじゃ誰にも勝てねーよ! 勝てたためしがねーよ! でもあきらめたくないじゃん! 体が強くなれねえからって心まで弱くなきゃならねえなんて認めたくねえじゃん!」
 鼻息も荒くそう叫ぶ。
 ――ヒーロー願望。
 それは薄っぺらな虚栄心。
 だがそれゆえに――
「ヒーローは見捨てない! ヒーローはあきらめない! ヒーローは現実に屈しない! だったらボクもそうするぞ! そうするかぎりヒーローへの道は閉ざされねえ! それだけだ! 男が立ち上がるのに見栄と意地以外の理由なんか必要ねえぇぇぇぇぇぇッ!」
 それゆえに、何よりも純真。
「うぅぅ……」
 セラキトハートが呻きながら後ずさる。
「来やがれごわす女! てめーの悪行はこの嶄廷寺攻牙がブッ潰す!」
 全力で吠える。
「し、知らないでごわす! どーしてもジャマする気なら、ええと、その……い、命の保障はしないでごわすよ〜!」
 敵がバス停を構えた。
 ――しかしまぁ、実際問題どうするよ。
 攻牙は身構えつつ思考を巡らせる。啖呵を切っている間も、この遮蔽物のないグランドでいかにして奴と渡り合うかを考えていた。結果、五つほど策めいたものは浮かんできたが、そのいずれも分の悪い読み合いを何度か切り抜けなければならない。
「……関係ねえ!」
 できるかどうかじゃない、やるかどうかだ。最悪、隙を突いて喉笛に噛み付いてやる。
 決意を固め、四肢に力を込めたその瞬間――
「うぅっ!?」
 セラキトハートの体を、漆黒の魔風が吹き抜けた。
 そんな錯覚をしてしまうほどに邪な気配を纏う人影が、彼女のすぐそばを駆け抜けて行ったのだ。
「あ、やんっ!」
 彼女は悲鳴を上げて自分の体を抱きしめた。
「――この身は瘴気。あらゆる防備を嘲笑う疫風……」
 セラキトハートの背後で、優雅なテノールが奏でられる。それは不純な興奮によって上擦っていた。なんかもうグヘグヘとか笑い出しそうなくらいに。
「ふ……今の一瞬で、君の体のあらゆる突起物(けいらくひこう)を触れるか触れないかという絶妙かついやらしい力加減で突いた……君はもう、お嫁にいけない」
「な、何者でごわすかぁーッ!」
 なんか涙目なセラキトハートが振り返る。
 そこにいたのは制服を着た長身の少年。スマートな佇まい。美麗な微笑みを浮かべる顔。しかしその目元は緑がかった漆黒の髪によって隠されていた。
 鉤状に曲げた指を拡げ、さらに顔を隠す。しかし邪に歪む口の端は隠しきれず、ぬらりとした舌が踊って言葉を紡ぎ出す。
「闇灯謦司郎、変態さ」
 うん、バーロー。
「う、ううぅぅぅ……!」
 セラキトハートは再び呻きながら後ずさる。
 行いはどうあれ、驚愕すべき身体能力であった。やや離れて見ていた攻牙にすら、謦司郎がどこから現れて具体的にナニをしたのか見えなかったのだ。理不尽すぎる。
「……っていうかセクハラやってる暇があったらバス停とか奪えよ!」
「残念、僕は女の子の暗い欲望より重いものは持てないんだ」
「えっとごめんちょっと何言ってるのかわかんねえし」
「おっ、主賓が来たみたいだ」
 次の瞬間、謦司郎はその姿を消した。現れた時と同じく、動作はほとんど見えない。
 そして――

「攻牙よ、お前の決意は聞かせてもらった。俺はお前のことを侮っていたようだ」

 グランドに、朗々とした声が響き渡る。
「うぅっ!? その声は……!」
 セラキトハートのバスが巻き上げた砂煙――その向こうに、人影が浮かび上がる。
「へっ! 遅ぇんだよこの野郎……」
 攻牙が口の端を吊り上げた。会心の笑みだった。
「そんな! どーしてここにいるんでごわすか!?」
 今までで一番動揺しているセラキトハート。
 人影は、腕を天に向けて伸ばし、高らかにその名を叫んだ。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
 突風を伴い、蒼い稲妻が荒れ狂った。砂塵は一瞬にして払拭され、一人の少年の姿が現れる。
 普段は眠そうなその目が、今は研ぎ澄まされた光を湛えている。
 ――それはひと振りの魂を鍛え上げる決意の焔。
「鋼原射美よ。いろいろと有為曲折はあったが、今こそお前との宿命に決着をつけるとしよう」
 ヴン、と『姫川病院前』を打ち振るい、強壮な風を引き起こす。
 ――あらゆる情念を越えた地平から撃ち放たれる、純然たる戦意。
「あわわわわ、ヤバいでごわす〜! こんなはずじゃあ……」
 四指を噛むセラキトハートをよそに、彼はどっしりと腰を落としてバス停を構えた。
 ――動かされることを拒否する佇まい。不撓にして不屈の不動。
 かくあれかしと。
 彼は自らに課する。
 その名は。

「我流、諏訪原篤。推して参る――!」

 地面を蹴り砕き、肉薄。
 逆持ちの握りから、全身をひねって横薙ぎの一撃を繰り出す。
「せいッ!」
「きゃんっ!」
 激突。伴って閃光と爆裂。
 衝撃が拡散し、突風となって周囲を荒れ狂う。
 セラキトハートは『夢塵原公園』で防御した姿勢のまま、十数メートルを吹き飛んだ。
 戦いが、はじまった。

 ●

「やー、手ひどくやられたねえ」
 二人のバス停使いの超絶的な戦いを眺める攻牙を、背後から優雅なテノールが労わった。
「謦司郎! てんめえ……やけに遅いじゃねえかよ!」
 攻牙はガバッと振り返り、肩を怒らせる。
「いやいや、そう言わないでくれよ。僕は長距離走は苦手なんだ。もうヘトヘトさ」
 セリフのわりに息ひとつ乱していないのがなんかムカつく。
 ……すべては攻牙の考えである。
 図書室でセラキトハートにバス停の力を見せ付けられた瞬間から、攻牙は思った。
 ――こりゃやべえ。
 衝撃を受けた。こいつ強すぎる。
 [今の]自分ではこいつを止められず、霧沙希は拉致されてしまう。こいつはいわゆる「イベント戦闘」だ。物語の序盤で敵の強大さを表現するために仕込まれる、絶対勝てない戦闘なのだ。そうに違いない。いずれ自分自身も数々の強化イベントを経てハイパーな戦闘能力を獲得してやるつもりではあるが、今は勝てない。
 冷静に(?)そう認めた攻牙は、裏山にいるであろう篤にメールして呼び戻すことを考える。
 ポケットから携帯に手をかけた瞬間、はたと思いだす。
 そういえば篤は携帯を持っていなかった。
 ――あんのアナログ野郎が……!
 そこで次善の手として、謦司郎をパシらせることにした。
 普段から篤の視界を避けつつ接近するという恐るべき機動力の持ち主であれば、裏山までそう時間はかからないだろうという目論見である。
「あ、そういえば僕も最近携帯をトイレに落としてオシャカにしちゃったから、そこんとこよろしく。ちなみにその日はちょっとお腹の調子が悪くてね……優しいブラウンに染まった僕の愛機は、まるでミルクチョコレートのごとき素朴な美を宿していたよ……」
 おいィィーーッ!
 大声で突っ込みたかったが、セラキトハートの手前、それは自粛する。
 ともかくそういうわけだから、篤とも謦司郎とも連絡できなくなる以上、彼らが戻ってくるまでは是が非でも敵を学校に足止めする必要があったのだ。
 ――死ぬかと思ったが、どーにかなったぜ。
 へへん、と攻牙は上機嫌。
 ――篤、今回はヒーローは譲ってやる。
 そして、叫ぶ。
「だから、勝て! 勝って霧沙希を救え!」
 
 ●

「――ええいっ!」
 おざなりに振るわれるセラキトハートのバス停を、篤は無造作に打ち払った。
 ――これはどうしたことだ?
 相手の攻撃に、気迫がまったく込もっていないのだ。
 それどころか、なにやらひどく動揺している様子である。
「どうした、お前の力を見せてみろ!」
「ふ、ふんだ! いまのうちせいぜい勝ち誇っているがいいでごわす!」
 ――なにやら策はあるようだが、はて?
 そこまで考えて、篤は愕然と顔を強張らせる。
 裏山で彼女を待っていた時に、謦司郎からことのあらましは聞いている。
 ――この一見どこにでもいる娘は、驚愕すべきことに俺を謀り、自分だけ学校に向かって霧沙希を拉致しようとしたのだという。
 篤は苛烈にバス停を振るいながら、唸る。
 ――恐るべき神算鬼謀と言わざるを得まい。人類は、知性を極めることによりこれほどの権謀術数を駆使することができるというのか……人が持つ無限の可能性、その重みを、俺は甘く見すぎていたようだ……
 間違ってもそれほどのものではないのだが、ただひたすらに感心する。
 篤は、ウソが壊滅的にヘタクソだ。支離滅裂というかシュールというか、とにかく脈絡のない妄言を吐き散らして、それで騙し通せると思い込んでいる。本当に騙す気があるのか! とよく霧華や攻牙から突っ込まれるのだが、本人はいたって真面目である。
 だからこそ、他人から騙されると心底から驚嘆してしまうのだ。自分には絶対にできないことだから。
 ――俺の周囲には、なぜこうも天才ばかり集うのだろう。
 お前から見れば誰でも天才だよ! と突っ込んでくれそうな者は、今観戦モードで座っている。
 とにかく、そんな超絶すごい大策士(※篤の主観)であるこの少女が、なにやら奥の手を隠していそうな気配を出しているのだ。最大限に警戒すべきだろう――
 掌に、汗がにじむ。
 ――恐怖、だと……? この俺が……?
 だからそんな大層な奴ではないのだが、焦燥に駆られた篤は逆持ちがもたらす超重量の打撃を立て続けに叩き込み、セラキトハートを押しまくった。

 ●

 バス停使いの闘術は、大別すると三種に分類される。
 物体の内部に存在するエネルギーのベクトルを操作する『内力操作系』。
 物体による介在を必要としない、純粋な熱量を操作する『外力操作系』。
 そして、上記のどちらにも該当しない特異な現象を引き起こす『特殊操作系』。
 篤のストレートな白兵戦術は『内力操作系』であり、ゾンネルダークの土竜裏流れは『外力操作系』の技である。
 そして、セラキトハートは。
 ――うわぁぁん、こんなハズじゃなかったのにィ〜!
 半泣きになりながら、怒涛のような篤の攻勢に耐え続けた。
 彼女は内力操作の技も、外力操作の技も、さして得意なほうではない。そのへんにいる凡百のポートガーディアンどもと大差のない戦力だ。(例:ボロ雑巾)
 だが、もちろんそれだけならば十二傑の一角に数えられるわけはない。
 セラキトハートと、彼女が契約したバス停『夢塵原公園』には、特別な才能があった。
 特殊操作系能力――〈臥したる鋼輪の王(アンブレイカブル・ドミナートゥス)〉。
 他のバス停使いがいくら修行を積もうが決して得ることのできない唯一無二の技。
 ……彼女は、この世のすべてのバスを操る。
 バスという車両の形状が、流体力学的に完璧な構造をしていることは周知の事実であるが、これは別に空気抵抗うんぬんの対策をしていたわけではなく、地中を大蛇のごとく這う〈BUS〉の流動を効率的に捉えて推進力に変換するためなのである。つまりバスとは、ガソリンで動く自動車とはまったく違う存在なのだ。その駆動原理はどちらかというと帆船に似ている。
 〈臥したる鋼輪の王(アンブレイカブル・ドミナートゥス)〉は、一時的にバスと地脈のつながりを絶つことができる能力だ。地脈から解放されたすべてのバスは、『夢塵原公園』から放出される〈BUS〉にのみ影響を受け、セラキトハートの思うがままに動き回る。……地上のあらゆるものを蹂躙し爆走する、魔獣の群れと化すのだ。
 完全に発動したならば、辺り一面を更地に変えるほどの壮絶な破壊力を発揮する。
 あくまで発動すれば、の話だ。
 ――普段なら負けないのに〜!
 爆音と爆光と爆圧がセラキトハートを打ちのめし、その身を大きく後退させた。
「くぅ……!」
 地面に二本の溝を刻みながら、彼女はそれに耐える。
 セラキトハートが一方的にやられている理由は簡単だ。近くにバスがないのである。
 彼女がここまで乗ってきたバスは、攻牙に目潰しされた腹いせに意味もなく一刀両断されて機能を停止していた。
 ――マズったでごわす〜! あんなことするんじゃなかったでごわす〜!
 後先考えないまま衝動に生きる少女、セラキトハート。
 というか、仮に篤と戦うハメにならなかったとしても、たったひとつの移動手段であるバスを自分で破壊して、その後どうするつもりだったのだろうか。どうにも「ア」で始まり「ホ」で終わる言葉が似合う奴である。アイダホ。
 ――能力の範囲内にバスがひとつもないとか、どれだけド田舎なんでごわすかこの辺!
 とにかくバスを探さなければならない。バスさえあれば勝てる。
 そんな観念に囚われたセラキトハートは、能力の走査範囲をさらに拡大する。その分、篤の攻撃を受けるのに使う力が割を食うことになるが、背に腹は変えられない。
 『夢塵原公園』との感応をさらに強め、付近一帯の〈BUS〉の流れに沿って霊的な感覚の手を伸ばし続ける。
 ……だが、それは篤を前にして、あまりにも愚かしい決断だった。
「オォ――ッ!」
 篤が、吼えた。腰を低く落とし、背中が見えるほど身を捻り、しかし爛々と戦意に満ちた眼差しをこちらに向けながら。
 これまでとは段違いの〈BUS〉感応が、双方の髪や衣服をはためかせる。目を開けているのが辛くなるほどの雷光が、篤のバス停を蒼く明滅させている。
「渾身せよ、我が全霊!」
 號音。
 大瀑布のように、土砂が跳ね飛んだ。〈BUS〉の内力操作によって超身体能力を得た篤が、大地を蹴り砕いたのだ。爆裂したグランドの土は、上空十数メートルの高さにまで巻き上げられる。
 隕石の衝突現場のごとき光景をバックにして、篤がこちらにカッ飛んで来る。
 コマ落としのように、一瞬にして視界の大半を篤が占める。
「わひっ……」
 咄嗟に『夢塵原公園』を掲げることができただけでも、奇跡に近かった。
 だが――

 ●

 結局のところ。
 セラキトハートの敗因とは、実力でも相性でもなく、いらん策を弄して物事を楽に済ませようなどと考えた点である。
 ごく普通に篤との約束に従い、尋常な勝負に臨んでいたならば十分に勝ち目はあったし、その後悠々と藍浬を拉致することもできたはずである。
 物事の優先順位を明らかに間違えていたのだ。
 そのせいで攻牙と謦司郎の介入を許し、すべての計画が台無しとなった。
 だが、それは何故だったのか?
 なにゆえに彼女は障害の排除そっちのけで藍浬を手に入れようとしたのか?
 そこに、何か意味があるのか?

 ●

 視界が、白く塗りつぶされた。世界から、一切の音が消えうせた。
「かっ……くっ……?」
 セラキトハートは、自分の体に何が起こったのかわからなかった。
 ただ、痛みがあった。
 それは篤の攻撃を防いだ時の、直接的な痛みではなかった。そんな感覚は、とうに麻痺している。
 では、これは何か?
 この、体の内部から響いてくる、耐えようもない痛みは何か?
「ひ……ぅ……」
 違う。
 これは痛みではない。
 喪失感だ。
「う……う、うぅ……」
 ――射美は、なくし、ちゃった……?
 何を?
 自分は、何をなくしたというのか?
 視界が、徐々に戻ってゆく。
 空が広がっていた。視界の端を、沈みかけの太陽が、赤く照らしている。
 どうやら仰向けに倒れているようだった。
 徐々に意識がはっきりとしてくる。
 背中に、土の感触。冷たく、ざらついた感触。
 ごうごうと鳴る風。耳鳴りのごとく。
 そして、空を覆う、目が覚めるほどの赤。
 赤。
 炎のような、華のような、絵の具のような、リンゴのような。
 ――血のような。
「……ぐっ……ぅ……っ!?」
 そう思った途端、自分の体の中心にある、底なしの空虚が、中身を求めて暴れだした。
 喪失感。
 痛いほどの。
 本能的に、セラキトハートは悟る。
 ――ショートして、灼き切れた。
 彼女は知っている。自分の肉体の中に、ある機械が埋め込まれていることを。それは、体の中を〈BUS〉が流動した際、抵抗を減らして臓器への負担を軽くする機能を有していた。
 ……特殊操作系バス停使いの宿命である。人体とは、あらゆる部位が無駄なく組み合わさって形作られる精密なからくりだ。そこに特殊操作系能力のような、人体の本来の機能とはまったくかけ離れた余計な能力がそなわれば、不具合が起きないほうがおかしいのである。規格の違う部品を無理に押し込んでも故障するだけなのである。
 もちろん、内力操作系や外力操作系のバス停使いにもその種の負担がないわけではないが、鍛錬次第で克服できる程度のものだ。特殊操作系能力がもたらす命の危機とは無縁である。
 だからこそ、セラキトハートの体には、能力と人体の仲立ちをするシステムが組み込まれていたのだ。
 それが、故障した。
 本来ならばありえない事態。だが、慣れない近接戦闘を強いられたことによって、極度のストレスと肉体への負担が重なっていた。さらにバスを探そうと躍起になるあまり、『夢塵原公園』と深く感応しすぎた結果、バス停が受けたダメージの何割かがセラキトハートに逆流してきたのだ。
 内臓機械は、その負荷に耐えられなかった。
「うぅぅ、う……あっ……!」
 空虚が、暴れまわる。
 なくしたものを求めて哭く。
 牙を剥く。
 セラキトハートは身をよじる。体内にブラックホールが発生し、次々と周囲の臓器を飲み込んでゆくかのような感覚。
 死に直結した苦しみ。
 冷たく熱い汗が噴き出す。体が痙攣を始める。心臓の鼓動が鳴り響き、そのたびに体の機能が死んでゆく。
 ――……いや……
 セラキトハートははっきりと恐怖した。
 ――助けて……
 自分と一緒にこの町へ乗り込んできた仲間たちを想った。
 ――タグっち! ディルさん! ゾンちゃん! ヴェっさん!
 昏みゆく眼をいっぱいに開いて、彼らの姿を探し求める。
 ――助けて! たすけて!
 だが、視界はすでに真っ赤に染まり、もはや何も捉えることはできなくなっていた。
 さらに、視覚以外の感覚も、ひとつずつ深紅の暗闇に沈んでゆく。
 触覚が沈んだ。横たわる地面の感触は真っ赤に染まった。
 味覚が沈んだ。口の中に残る血の味は真っ赤に染まった。
 嗅覚が沈んだ。かすかに香る土の匂いは真っ赤に染まった。
 聴覚が沈んだ。鳴り響く風の音や、近くにいる誰かが上げる声は真っ赤に染まった。
 セラキトハート……否、鋼原射美は、一切の感覚を失い、ただ深紅色をした狂感覚の牢獄の中を、無限に漂い続けた。
 何もなく、何一つ感じ取れない世界が、これほどまでに恐ろしいものであることを、射美は思い知らされた。
 そして、恐ろしいと思う心すら、徐々に溶けていった。

 そのはずであった。

 頬に、掌の感触があった。まるで触れられた部分だけが実体化したかのように、赤く染まった感覚の中で、そのことを認識した。
 少しひんやりとしていて、やわらかい。
 心を落ち着かせる肌触り。
 掌は、まるでいたわるように射美の頬を撫でている。
「………、………。…………、…………」
 どこかで、声が聞こえた。
 短いフレーズを繰り返しているようだった。
 やがて、掌から涼しく清澄な波紋が浸透してゆくように、射美は徐々に身体感覚を取り戻していった。
 ――頬から頭部全体に。
 そのとき射美は、自分の頭が誰かの膝の上に乗っていることに初めて気づいた。
 ――頭部から胴体に。
 自分はいつの間にか移動されていたらしく、背中の感触は平たく滑らかなものに変わっていた。
 ――胴体から手足の先へ。
 ディテールはさらに正確になる。腿や脹脛の感触から、自分が乗っているのは木製のベンチであることがわかる。
 胸の狂おしく悶える空虚が、徐々に大人しくなってゆく。
 満たされてゆく。
 ゆっくりと。
「……大丈夫、大丈夫。怖くない、怖くない」
 声が聞こえる。しっとりとした、ほのかに甘い声。
 ゆっくりと眼を開く。
 まず目に入ってきたのは、どこか神話的な曲線であった。視界の中央付近に存在するその優美な曲線を境に、右は〈漆黒の闇〉、左は〈陰影のある白〉と、世界がはっきり二分されている。
 さらに眼を凝らすと、〈漆黒の闇〉とは夜の空であり、〈陰影のある白〉とは街灯に照らされる紳相高校の制服であることがわかってきた。
 ――あー……
 そして、それらの境界線となっている、「荘厳な」とか「重厚な」とか「霊性に満ちた」とかいう神話的形容詞をつけたくなるような、たおやかな曲線の正体について思い当った射美は、ほぁー、と間の抜けた溜息をつく。
 どうも自分は、ベンチに座る人物に膝枕をしてもらっているようである。
「あら」
 その神聖なる曲線の向こうから、まるで二つ連なる丘を越えて朝日が昇ってくるかのように、霧沙希藍浬の顔が現れた。顔の下半分はいまだに膨らみの向こうに隠れている。
 ――下から見ると余計におっきいでごわすなぁー……
 地球という惑星のもたらす恵みの豊かさに、畏怖の念を抱く射美であった。
「おはよう。鋼原さん」
「お、おはようでごわす……」
 と、つい反射的に挨拶を交わしてしまうが、よくよく考えてみると状況が不明すぎる。
 ここはどこで、今はいつで、自分はどうなったのか。
 ――自分は、どうなったのか。
「……っ!」
 さっと顔が蒼くなり、自らの胸元を抑えつける。その際射美は正体不明の劣等感に襲われたが、なんのことなのかまったくわからないのでとりあえず気にしないことにした。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
 再び、ひんやりやわらかい掌が、射美の頬を包み込んでスリスリ。
「うに……」
 なんとなく、喉を撫でられる猫の気分。別に苦しくもないのに身をよじりたくなってくるので、なんだか気恥しい。
「むっ、目覚めたのか」
 静かな、しかしよく通る声がした。

 ●

 ……あの時。
 篤の渾身の一撃は、射美のバス停を叩き折り、彼女を数十メートル吹っ飛ばした。
 だが、頭にコブでも作りながら「いったーいでごわすー!」とか叫びつつ跳ね起きるかと思いきや、何やら尋常ではない様子で脂汗を流しつつ苦悶の呻きを上げ始めたため、
「殺めてしまった……死のう」
「切り替え早すぎだろアホ!」
 攻牙に蹴り飛ばされてグランドに倒れ伏す。
 篤としては、死力を尽くした戦いの果てに生き死にの分かれ目があるのは、致し方のないことだと考えている。だが同時に、敵手の死を望むなら自らの死をもって当たるのが当然であるとも思う。
 大事なのは、いかにして調和を回復するかということだ。
 そして、篤の見たところ、彼女の命脈はすでに尽きているように思われた。断続的な痙攣が彼女を襲い、その血色は見る間に悪くなってゆく。遠からず、命の炎は消える。
「くっそこりゃ救急車か!?」
 攻牙は急いた手つきで携帯を取り出した。
 ――いや、そうではないな。
 級友の様子を見ながら、篤は自らの怠惰を恥じる。あきらめるべきではない。たとえどんな状態であろうと。
 見たところ、心肺機能に異常があるようだが、この場合の応急手当は――
「待って。わたしに見せてもらえる?」
 涼しげな声。藍浬が目を覚ましていたようだ。
「うむ、この場合、心マッサージか人工呼吸か、もしくは足元を高くして寝かせるだけでよかったのか、適切な対処はいずれであっただろうか?」
 無駄な問答は極力減らして問いかける。
「ううん、これは違うの」
 ……?
 藍浬は、死の痙攣を続ける射美のそばに膝をつき、両手で頬を包み込んだ。
 途端に、射美の表情がやや和らぐ。
「おお……」
 依然として死の淵にはあったが、一歩だけそこから遠ざかっている。
「攻牙くん、救急車は呼ばなくていいわ」
「え? な、なんでだ?」
「それよりも、ここを離れましょう。たぶん、普通の病院じゃ鋼原さんは助けられないわ」
「……この症状に覚えがあるのか?」
 篤の問いかけに、藍浬は困ったような笑みを浮かべた。
「一度だけ……ね。だけど、わかるの」
 篤は、藍浬の眼を見つめる。眼の奥を透かし見る。迷いと、不安と、切実な願い。
「実を言うと、どうしてわかるのか、自分でもわからないんだけど……でも、これは絶対。鋼原さんはわたしにしか助けられないわ。前もそうだった。……信じて、もらえない?」
「わかった。信じよう」
 効果のあるなしに関わらず、いまから病院に搬送しても間に合わない公算が高い。それに、彼女が射美に触れると症状がやや改善したのは事実である。
 篤は射美の腕を取って軽く捻ると、その体はくるりと回転して篤の背中に収まった。
「ではゆくぞ。寝かせられる場所がよいか?」

 ●

 それから、近くの公園のベンチに射美を寝かしつけて現在に至る。
 時刻はすでに八時を回っていた。
「す、諏訪原センパイ……」
 射美が藍浬の膝の上で視線を上げ、逆さまの顔で篤に声をかける。
「気分はどうだ」
「いや気分はどうだじゃないでごわすよ! これから射美をどーするつもりでごわすかぁー!」
「うむ、もう少し様子を見てから、大丈夫そうであればお前を家まで送っていくつもりだ」
「なんで……!」
 息を吸い込んで何かを言い募ろうとした射美は、膝枕をする藍浬にのどを撫でられて「うにぃ」力が抜けたようだった。
「うぅ〜、スリスリするのズルいでごわすぅ〜」
「ふふ、かわいい」
「お前の正体は知っている」
 空気を読まない篤は構わず話を進める。
「ゾンネルダークの同僚なのだろう。《ブレーズ・パスカルの使徒》が、手段に拘泥しない恐るべき組織であることも、身をもってわかっている」
「じゃあどーして射美を助けたりするんでごわすか。射美は生かしておいたらゼッタイ仕返しにくるでごわすよ〜? また何度でも学校とか壊れたりするでごわすよ〜?」
 篤は眼を閉じ、首を振った。
「主語を混同してはならない」
「ほぇ?」
「問題なのは、お前の組織の是非ではない。お前自身の是非だ」
「……よく、わからないでごわす」
「わからずとも良いさ。ただな――」
 眼を開き射美を見据える。
 視線が重なる。
「お前は攻牙を殺そうとはしなかったな。それに、わざとバス停の力を見せ付けることで無用な戦いを避けようとした。どのような思惑で成された行いなのかは与り知らぬが……俺にはお前がそういう判断のできる人間に見えた。なにも死ぬことはないだろうと、そう思うのだ」
 射美は眼に強い力を込めて睨む。篤は静謐な眼差しでそれを包み込む。
 お互いが、お互いを理解しようとして。
 やがて、射美が顔を背けた。
「諏訪原センパイは甘ちゃんでごわす。カッコつけでごわす。偽善者でごわす」
「褒めても何もでないぞ」
「むぅ……」
 むくれた顔で唸る射美。
 勢い良く藍浬の膝から跳ね起きると、駆け足で五歩ほどベンチから離れ、振り返った。
「射美はそーゆーノリはキラいでごわす!」
 べーっ、と舌を出してから再び踵を返し、走り去る。
 その姿は、街灯が照らす範囲を出た瞬間、暗闇にまぎれて見えなくなってしまった。
「……急に動いて大丈夫かしら?」
「あの様子なら問題なかろう。バス停使いであれば夜道など恐るるに足りん」
「うーん、でももうちょっとナデナデしたかったかも……」
 ――正直それは自重しろ。
 というかこの場に謦司郎がいなくて本当に良かった。彼と攻牙は学校に残り、警察に事情を説明する役を担っているのだ。攻牙は「説明ったってどうすりゃいいんだよ」と困惑気味だったが、別段恐れることはない。ありのまま起こったことを話せばいいのである。警官の諸兄は攻牙たちが何を言っているのかわからないと思われるが、超法規的秘密財団法人『神樹災害基金』の力はこういう権力機構に対してめっぽう強い。穏便な手段でバス停戦闘の隠蔽を図ってくれることだろう。
 その時、暗闇の向こうからなんか怒ったような大声が押し寄せてきた。
 
「助けてくれて〜、ありがとぉーでごわすぅぅぅーッ!」
 ごわすぅぅぅ、ごわすぅぅぅ、ごわすぅぅぅ……(エコー)

 眼を丸くして片田舎の闇夜を見る藍浬。
 やがて、その顔に桜のような笑みが灯る。
「ふふ、こういうの何て言うんだったっけ? シンドラー?」
「うむ、インテルだった気がするぞ」

 ●

「――暗闇の中に、三つの影があった。彼らは息を潜めながら、ベンチに座っている諏訪原篤と霧沙希藍浬の姿を監視している」
「やはり、あの少女――霧沙希藍浬は本物なのかもな」
「――中心に佇む男がぽつりと言った。闇の中に溶け込むかのような黒のスーツと、適度に散らしたオールバックの髪型、引き締まった長身痩躯など、研ぎ澄まされた日本刀のごとき印象をまとう男であった」
「そうみたいですねー。でもよかったなぁ。射美ちゃんが無事で」
「――その左で、ずいぶん年若い青年が微笑んでいる。同じく黒のスーツ姿であったが、着こなしはかなりだらしない。頭にタンポポが咲いていそうな弛緩した笑みも、軟弱な印象を助長している」
「セラキトハートの心臓部に埋め込んだ〈BUS〉整流機構を、直接触れずに修復したあの力こそ、皇停の担い手たる証に違いないのかもな。《絶楔計画》を第三段階へとシフトする……『俺たちの戦いはこれからだ! 第二部・完!』というやつかもな」
「たまには断言してくださいよ……不安になってきますって」
「――青年の主張などどこ吹く風で、中央の男は踵を返した。奇妙な語尾とは裏腹に、一片の迷いもない確固とした足取りであった」
「あのー、自分の描写はしないんですか? ディルギスダークさん」
「――青年は誰に向けて言ったのかよくわからないことをつぶやいた。青年の視線の先には誰もいない。独り言だろう」
「いやいや、いますよね。そこに。普通に」
「――また独り言だった。相変わらず青年は誰もいない闇の一角を見据えて喋っている。不可解というほかない」
「いや、あの、ていうか最初『暗闇の中に三つの影があった』って言ってたじゃないですか」
「――青年の独り言は続く。その空虚な言葉に答えるものはいなかった。幻覚でも見ているのだろうか。精神的な病の可能性があった」
「ひどっ!? 僕のトキメキ☆ナイーヴハートはもう再起不能です! 死にたい! 死のう!」
「――突如そう叫ぶと、彼はポケットからカッターナイフを取り出し、無数の躊躇い傷が走る自らの手首にあてがった」
「死にます! 死んじゃいます! し、死ぬ! 死ぬよ!?」
「――誰もいない暗闇に向けて、彼は一人騒ぎ立てた。しかし誰一人その声に応える者はいない。彼を止める者もいない。それはまるで彼の前途を暗示しているかのようであった。青年は寄る辺とてない闇黒の深淵で、誰にも看取られることのないまま死ぬのだ」
「う、うわあああああああん!」
「貴様ら遊んでないでさっさと帰るのかもな」

 ●

 翌日。
 学校は普通にあった。破壊されたはずの図書室は、以前とまったく変わらない様子でそこにあった。
 グランドやフェンスも元通りであり、そこで戦闘があったことを示す証拠は何も残っていない。
 『神樹災害基金』が擁する特殊操作系バス停使いの仕業なのだろう。これが『基金』のやり方だ。目撃者を捕えて忘れろとがなるより、「何事もない平凡な日常」という幻想を完璧に裏付けてやるほうが効果的なのだ。
 諏訪原篤は、学校の屋上で昼食がてら攻牙、謦司郎、藍浬の三人に、ことのあらましを説明していた。
「つつつっつつつまりあのあれか! バス停は実は地脈のエネルギーを制御するための装置でその力を使ってなんかとんでもないことを企んでいる悪の秘密結社がいてなんかこうドンパチやっていうっていうのかよオイオイすげええええぇぇぇぇぇよオイマジかよ!!」
 攻牙はもう有頂天を衝くとかそんな合成言葉を使いたくなるほどの興奮ぶりであった。ちょっとは落ち着け。
「でもいいのかい? 僕たちにそんなこと話して」
 謦司郎は相変わらず篤の背後から出てこない。
「確かに、あまり褒められたことではないかもしれん。少なくとも『基金』の者たちはいい顔をしないだろうな」
 ずび、と茶を一口すする篤。
「だがお前たちはすでにバス停の力の一端に触れてしまった。ここで忘れろなどといっても納得はしないだろう」
「そりゃそーだぜへっへっへ」
「そして、襲撃は今後も続くものと予想される。ならばむしろ積極的に事態の情報を開示し、自衛策を講じてもらったほうがまだ安全である」
「うーん、どこか別の場所に逃げるっていうのはダメなの?」
 藍浬が困った顔をする。
「うむ、それもひとつの手だろう。だが霧沙希、お前に限っては逃げても無意味である可能性が高い」
「鋼原さんが、わたしを狙っていたから?」
「そうだ。あれが鋼原射美の独断でもない限り、敵組織の狙いはお前と見て間違いない」
「うーん、鋼原さんみたいなコならいいけど、もっと怖い人に襲われたら困ってしまうわね」
 あんまり危機感の感じられない様子である。
「そこで、こんなものを用意した」
 篤は自分の鞄に手を突っ込み、長方形の弁当箱っぽい機械を四つ取り出した。
「これはナーウかつハイカラな言葉でケータイデンワというものだ。離れた人間とも会話ができるという驚くべき」
「トランシーバーじゃねえかぁぁぁぁぁぁッ!」
「……うむ、そうともいう。これで相互に連絡を取り合い、」
「どっからこんな前世紀の遺物を発掘してきやがったんだバカヤロウ! お前が携帯買えば済むことだろどれだけ思考が時代遅れなんだよ!」
「むぅ、俺はあの小さくて薄い装甲がどうも好きになれん。あんな有様では拳銃弾の貫徹すら許してしまうぞ」
「携帯電話をなんだと思ってるんだーッ!」
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ攻牙と篤の後ろで、ひそやかに交わされる会話があった。
「霧沙希センパイ〜こんにちはでごわす♪」
「あらこんにちは。体の調子はどう? なんともない?」
「ご心配にはおよばないでごわす♪ 射美は堅甲遊猟児でごわす♪」
 チャ○ ャプーの亜種かなんかですか?
「射美もお昼ごはんご一緒していーでごわすか?」
「ふふ、もちろんよ。鋼原さんはお弁当派?」
「お弁当でごわす〜毎朝タグっちが精魂込めて作ってくれるでごわす〜」
 鼻歌まじりに楕円形の弁当箱を取り出していると、攻牙と篤が射美の存在に気づいた。
「っておいィィィィィィ! なに自然な感じに混ざってんだよお前は! 何しに来やがった!」
「スパイ活動でごわす♪」
「えええええ!?」
「きのうはヴェっさんに怒られちゃったでごわす〜もっと相手を見てから仕掛けろって言われたでごわす〜」
 アスパラガスのベーコン巻きを幸せそぉ〜にかじりながら、射美は言葉を続ける。
「だから敵情テーサツでごわす♪ これからセンパイがたの弱点とか隙とか裏も表もセキララに探るつもりでごわす♪ 覚悟しやがれでごわす♪ ……あ、諏訪原センパイのタコさんウィンナーかわいいでごわす〜」
「うむ、我が妹の手による造形だ。……前々から思っていたのだがこれをタコと言っていいのだろうか? 触手の本数や口腔の位置が生物学的に不正確な形態ではあるまいか?」
「細かいこと気にしちゃダメでごわすよ〜いい妹ちゃんでごわす〜」
「うぅむ……」
 篤が己の弁当箱を凝視して思索にふけっている間、射美の背後に黒い風が蟠った。耳元で異様な熱を孕んだテノールが囁かれる。
「ところで、タコさんウィンナーって卑猥な形をしてるよね……」
「ひぃぃ!?」
 悲鳴をあげて藍浬の後ろに隠れる射美。
「き、ききき昨日のヘンタイさん!」
 カチカチ歯を鳴らして汗を垂らしている。
「もう、闇灯くん、鋼原さんになにしたの?」
 じとーっと謦司郎をにらむ藍浬。
「ははは、やましいことなんてなんにもしてないさ。ちょっと力の込もった挨拶をしただけで」
 風を巻き込む勢いで首を振りまくる射美。
「おい篤……篤! いいのかよアレ! スパイって自分でいってるぞオイ」
 藍浬によしよしと撫でられて、「うにぃ」力が抜けている射美を指差しながら、攻牙は篤の袖を引っ張った。
「む……」
 篤は顔を挙げてその情景を見ると、
「うむ」
 重々しく頷いた。
 そして言った。
「仲良きことは美しき哉」
「えぇー……」

 完


 第三部 『かいぶつのうまれたひ』

 ダンボール箱に入っていた。
 ひろってください、などと紙が張ってあった。
 あまつさえ、「みゅう、みゅう」と保護欲を刺激されること甚だしい鳴き声を上げていた。
 ……つまるところ。
 霧沙希藍浬は登校中に二匹の小動物を発見したのである。
 時刻は、早朝。いまだに太陽の熱気が押し寄せる前。大半の人間はまだ眠っているか、目をこすりながら朝食を用意している時間帯。今日は期末試験の日なので、いつもよりさらに早めに教室に入って試験範囲をひととおりおさらいしておこうかと思ったのだが――
 思わぬものに遭遇した。
「……」
 藍浬は無言でしゃがみ込み、二匹を間近で見つめる。
 それらは、同じ種族の二匹ではなかった。
 一匹は子猫。さっきからしきりに鳴いているのはこちらである。白と黒の縞模様が目に鮮やかな、アメリカンショートヘアーであった。タレ目がちな目つきが何とも哀愁を誘う。
 一匹は子兎。真っ白い体毛と、澄んだ紅玉の瞳が、印象的なコントラストを奏でている。「ちぃ」とも「みぃ」とも「ひでぶ」とも鳴かず、じっと藍浬を見据えている。
 二匹は寄り添うようにして体を丸くしていた。早朝とはいえ七月の中ごろだ。寒いということではないだろう。
 心細さゆえか。
 世界という名の茫漠たる荒野を前に、途方に暮れているのか。
 そして何より――
 彼らは愛くるしかった。可愛い盛りであった。おそらく毛が生え揃ったばかりの赤ん坊なのだろう。手足は短くぶっとく、目はつぶらで、毛並みは綿菓子のようだった。
 大抵のことには動じない広大な精神を持つ藍浬だが、この二匹を前にするとさすがに頬がほんのり桜色に染まる。
「うーん、凶悪……」
 二匹を驚かさないよう、ゆっくりと手を伸ばした。
 右手に子猫を。左手に子兎を。お腹の下にそっと手を差し込んで、持ち上げた。
 掌に胴体が収まってしまう小ささを、実感する。
「うわぁ……うわぁ」
 思わず華やいだ声も出てしまう。
「……っと、いけない」
 我にかえって首をふるふるふる。漆黒のセミロングが滑らかに波打つ。
 可愛いからと言って深く考えもせずに拾うのは無責任と言わざるを得ない。
 藍浬は自分の家庭環境を思い出す。
 ――住居。
 山奥の一戸建て。広さは十二分。しかも持家だからペットに関する規制は特にない。
 ――経済状況。
 出所は藍浬にも不明だが資産家。猫と兎ごとき楽勝で養育可能。
 ――家族。
 姉が一人だけ。別段動物嫌いではないしアレルギーも持っていない。
 ――そして、自分。
 わたしは、この子たちのお母さんに、なれるだろうか?
 正直わからないが、とりあえず学校が終わったら本屋に寄って兎と猫の飼い方について調べてみよう。
 藍浬はひとつ頷くと、目の前に二匹の顔を持ってくる。
「……ね、わたしの家族になってくれる?」

 子猫は「たーくん」、子兎は「あっくん」と名づけられた。

 ●

 ある朝、諏訪原篤が異様なる夢より目覚めると、彼は己の頭からウサ耳が生えていることを発見した。
「ふむ……?」
 鏡の前で己の姿をしげしげと眺めながら、彼はしばし黙考する。
 ――これは何だろう?
 頭の上でピョコピョコと可愛らしく動く、白くて細長い耳。
「んんー……」
 寝ぼけた頭で昨日のことを思い出してみるも、特に変わったことはなかったような気がする。
 ――はて、なぜこんなものが?
 おもむろにウサ耳を掴んでみる。驚いたことに、掴まれた感触があった。
 引っ張ってみる。
 けっこう痛い。
 少なくとも髪の毛を引っ張られるのよりは痛い。
 つまり、これは付け耳でもなんでもなく、本当に己の頭から生えているのだ。
「不思議なこともあるものだ」
 ぽつりと呟くと、篤はいつものように歯磨きと洗顔を済ませ、制服に着替えた。
 今日から一学期の期末試験が始まる。
 気を引き締めねばなるまい。一ヶ月の入院生活が得点に響かなければよいが。
 洗面所から出ると、ちょうど霧華が寝ぼけ眼を擦りながら階段を下りてくるところに出くわした。
「ふぁ……おはよ〜、兄、き……!?」
 足を止める霧華。
「うむ、おはよう」
 その前を悠々と横切る篤。歩行に合わせてウサ耳がピョコピョコ揺れるので大変かわいらしい。
「えっ、ちょっ……えぇ!?」
 階段を三段飛ばしで下り、篤の背後へ駆けつける霧華。
「あ、兄貴!? ちょっ、それ、何の冗談よ!?」
「うむ、眼が覚めたら生えていた。原因は不明だが、日ごろの行いが良かったためだろう」
「兄貴的にはうれしいことなわけ!?」
「やらんぞ?」
「いらんわ! 何の罰ゲームよ!」
 篤は目を伏せて、ほんのわずかに微笑んだ。
「フ……霧華にはまだちょっとわからない世界かもな」
「いやいや! 何その大人になればわかるよみたいな言い方! わかんないよ! いくつになってもわかんないよ!」
 そこで霧華は何かに気づいたのか、さっと顔色を青くさせる。
「……っていうか、あのー、兄貴? まさかその格好で学校に行くつもりじゃあ……?」
「何を言っている。行くに決まっておろう」
「やめて! お願いだからやめて!」
 なぜか涙目で腰にしがみついてくる霧華をとりあえずスルーしつつ、篤は朝食を作るために台所に向かった。

 ●

 ある朝、タグトゥマダークが異様なる夢より目覚めると、彼は己の頭からネコ耳が生えていることを発見した。
「ひぎぃっ!」
 彼は鏡を見た瞬間、変な叫びを上げてひっくり返った。
 風呂場のタイルに頭を打ちつけ、のたうち回る。
「お、お、おおお落ち着け僕! おち、おちおちつくんだゴハァッ!」
 言ってる間に足を滑らせ、泡を吹いて尻餅をつく。
「寝ぼけてるんだ! 僕は寝ぼけてるんだッ!」
 寝ぼけてる、寝ぼけてる、と自己暗示を幾度もかけてから、恐る恐る起き上がり、再び鏡を覗き込む。
 若干タレ眼気味なものの、整った青年の顔。
 ――いつも通り。
 色素の薄いブラウンの髪。
 ――今日も決まってる。
 髪の毛の中から生えている、ピンと伸びた縞々のネコ耳。
 ――超ラブリー。
「こ、こ、こ、コアアアアアアァァァァァっ!」
 鶏の断末魔みたいな叫びを上げながら泡を吹いてぶっ倒れた。風呂場のタイルに頭をぶつけてのたうち回った。
「お兄さま? どうかなさいましたか? 自分が実はハゲだったことにようやく気づかれたんですか?」
 風呂場の外から、小さな鈴のような声が聞こえてくる。
 っていうかいきなりひどいな。
「ななななんでもないよ夢月(むつき)ちゃん! ホント心配ないから! あと僕ハゲてないよ! 生えてるよ! 豊作だよ!」
 むしろ余計なものが生えちゃったから困っている。
「ならいいのですけれど……もうちょっとで皆様が起きてこられます。朝ごはんの支度を急いだほうが良いかと。お兄さまの存在価値なんてそれだけなんですから、きちんとしませんと」
 それにしてもひどいことを言う。
 タグトゥマダークは、自分の妹がいつからこんなマルキ・ド・サドな性格になってしまったのかよくわからない。
 人形のようにちんまい女の子で、御歳は十歳。常に赤い着物姿で生活するという古風な趣味を持ち、それがまた抜群に似合う。座敷わらし的な可愛らしさとでも言えばいいか。タグトゥマダークは控えめに言ってシスコンじみた愛情を注いできた。
 ……のだが、どこで何をどう間違えてしまったのだろうか。
 しかし、今はそんなことを思い煩っている場合ではない。
「わ、わ、わわわわかってるよ夢月ちゃん! もうちょっと待ってもうちょっと! 冷蔵庫からタマゴ五つ出してボウルに割っといて!」
「あらあら……この私を使おうなんて、お兄さまは何さまかしら? 神?」
「どれだけ自分を高く見てるんだキミは!」
 しずしずと歩み去ってゆく足音を尻目に、タグトゥマダークは青ざめた顔で鏡に向き直った。
 相変わらず、そこには「猫耳の生えた男」という存在価値が微塵も見出せない生き物が映っていた。
「……どうしよう……!」
 ……数分後、タグトゥマダークはターバンのごとく頭にタオルを巻き、恐る恐る風呂場から出てきた。
 歩くたびにギシギシ言うボロ借家の廊下をなんとなく抜き足差し足で通過しつつ、必死に思考を巡らせる。
 ――どうなってるんだ……! 昨日なんかあったっけ!?
 しかし、別に肉体を変異させるケミカルX的なものを飲んだ覚えはなく、悪の組織に拉致られて脳改造の直前で脱出した覚えもない。
 というか客観的に言って悪の組織は自分たちである。
 では《ブレーズ・パスカルの使徒》にこのような肉体改造を施す技術があったのかと言うと…………正直あったかもしれないが、少なくとも男をネコ耳化させて喜ぶような特殊すぎる趣味の輩はいない。
「…………はずだけど」
 十二傑の濃すぎる面々を一人一人思い出すうちに、だんだん自信がなくなってゆくタグトゥマダーク。
 現在、このボロ借家で寝泊りしている人間は、五名。
 ヴェステルダーク、ディルギスダーク、セラキトハートこと鋼原射美、タグトゥマダークこと自分、それから夢月だ。
 ――それにしたってなぜ僕なんだ! どうせやるなら夢月ちゃんと射美ちゃんだろ!
 射美と自分の妹がネコ耳化した姿を思い浮かべてみる。
 思い浮かべてみる。
「……うわあエヘヘ」
 頬がニヤついた。
「うんうん、いいよそれ、問題ないよ何の問題もない、むしろイエスだね! 超イエスだよそれ!! 本人も喜びそうだし!!」
「タグっち〜! 朝ごはんま〜だ〜?」
 突如響いてきた射美の声にビクゥゥッ! と体を強張らせる。
 ――もう起きていたのか!
 その衝撃で乱れたタオルを神経質に直すと、
「あ、うん! すぐいくから待ってて!」
 ――とりあえず、料理をして落ち着こう。
 そう心に決めると、タオルの端をしっかりと結び固め、台所に急いだ。

 ●

 どうあってもそりの合わない奴というのはいるもので、そういう輩は分かり合おうという努力を嘲笑うかのように背格好や立ち振る舞いのことごとくがこちらの神経を逆撫でしてくる。
 しかもその者が半端に自分と似ていたりするともう最悪で、なにやらこの世のすべての対立概念を自分と相手が背負って立ち、対峙しているかのような錯覚にすら陥ってしまう。
 似ているけれど違う。
 違うけれど似ている。
 自分の醜悪なパロディを見ているかのような気分。

 やがて――
 運命は、彼らを引き寄せる。

 ●

 ――あーだりー。
 ハイパーミニマム高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、その日いつにも増して沈鬱な気持ちを抱えて登校していた。別段、いくら牛乳を痛☆飲しようが一向に成長する気配のない我が身を儚んでいたわけではなく、もっと別の事情であった。
 ――期末試験!
 それはあらゆる高校生の身の上へ平等に降りかかる、審判の儀式!
 夏休みに補習などという懲役を食らわないためにも、死力を尽くして闘いに臨まねばならない!
 のだが!
 ――ボクの夏休みは正直終わった。
 攻牙は肩を落とす。
 実はちっとも勉強してなかった。攻牙的にはやむにやまれぬ事情というやつで勉強の暇が取れなかっただけなのだが、学校側に認められるような理由ではなかった。
 そこまでして攻牙を邁進させた用事にしても、意味があるかどうかはまったくの不明である。
 ――まさか戦闘準備にここまで手間取るとは思わなかったぜ。
 攻牙は、来るべき悪の組織との戦いに向けて、とある作業を進めていたのであった。しかしその作業は想像以上に難航し、謦司郎を強引に手伝わせることでようやく完成の目処が立ったわけだが――
 その時、日付はすでに試験の前日になっていた。
 そりゃ気も重くなります。
 ――あー米軍が飛んできて学校を誤爆しねえかなー。
 いくらアメリキャンが大雑把だからってそれはない。
 とたたたたっ、と軽快な足音が聞こえてきたのは、その時である。
 なんとなーく、嫌な予感がする攻牙。
 ――この知性のカケラも感じられない足取りッ! 覚えがあるぜッ!
 足取りに知性なんて宿るんだろうか。
「攻ちゃ〜ん! おっはよーうでごわす〜!」
「ぐぎゃああ!」
 ……普通の女子高生はいくら登校中に知り合いを見かけたからといっていきなり背後から飛びついて圧し掛かるようなことはしないのである。
 つまり、そいつは普通ではなかった。
 端的に言うとアホの女子高生だった。
 背後から突如として抱きつかれた攻牙は、勢いに押されてorzの形に倒れ込んだ。
 掌をちょっと擦り剥く。
「うふふ〜攻ちゃんは今日もぷにぷにでごわす〜」
「うっぜぇぇぇぇぇッ! 果てしなくうっぜぇぇぇぇッ!」
 ほっぺつんつんしてくる指を振り払い、彼女の下から脱出すると、振り返って睨み付けた。
 活発そうな少女が地べたに座り込んでいる。茶色のボブガットが、朝日を受けてきらきらと光を反射していた。
「あぁもう! 毎回毎回会うたびに飛びつくのやめろって言ってんだろうがァ! 明かりに群がる虫ですかお前は!」
「どちらかというと『エイリアン』のフェイスハガーでごわす〜飛びつかずにはいられないでごわす〜」
「ボクに寄生する気だったのかーッ!」
「そして数時間後チェストバスターに進化して攻ちゃんの可愛いハートはいただきでごわす♪」
「何も上手いこと言えてねえからなお前……」
「末端価格で八万ドルでごわす!」
「臓器的な意味かよ! 生々しいなオイ!」
 セラキトハートこと鋼原射美。
 約三週間ほど前に学校へ襲来したバス停使い。
 こいつが悪の組織の尖兵らしいということは、攻牙自身嫌というほど思い知らされてはいるのだが、ここ最近はまったく敵意めいたものが感じられないので、正直扱いに困る。
 自分ではスパイとか言ってるが、本当にこちらのことを偵察する気があるのかは果てしなく謎である。
 勘違いするな、貴様を殺すのはこの俺だ! 系のポジションでも狙っているのだろうか。
「……プッ」
「なんでごわすかーっ! そのインケンな失笑はーっ!」
「いやいや別に無理とか言ってねえよ。諦めんなよ」
「なんかわかんないけどすごくムカつくでごわすーっ!」
 そんなこんなで取っ組み合いの喧嘩をしつつ歩いていると、やがて学校前の坂道に到達する。
 攻牙たちと同じく登校中の高校生および小学生の姿が、前にも後ろにも見られるようになってきた。
「……なんか騒がしいな」
 前方の学生どもが、みな一様に同じ方向を見ている。
 その上、瞠目している。
 隣の奴と顔を合わせてヒソヒソ言ってる奴もいたが、すぐにまた視線が戻る。
 中には泡を吹いて倒れている者までいる。
 彼らの見る先には――なんかいた。
 変なものがいた。
「……おい」
「……なんでごわすか」
 気を落ち着かせるために射美に話しかけるが、こいつも同じものを見て動揺していることが確認できただけだった。
「ボクの眼には、頭からウサギの耳を生やした奇妙な生き物が歩いているように見えるんだが」
「いやいや、それは夢でごわすよ。攻ちゃんは今頃まだベッドの中でお眠でごわすよ。この射美も夢の産物でごわすよ」
 あの光景を否定するためなら、自分の存在すら夢ということにしたいらしい。
「ハハハそうかぁ夢かぁそりゃそうだよなぁー常識的に考えてあんな光景があるわけが[何やってんだコラァー篤ーッ!]」
「あああ、攻ちゃん! 自分を騙すのあきらめちゃダメでごわすよ〜!」
 後ろから射美が追いかけてくるのを感じ取りながら、攻牙は全速力で走った。
「む……」
 そいつが振り返る。篤に似た背格好と篤に似た顔をしていた。
 ていうか篤だった。
 しかし振り向くのに合わせて頭のウサ耳が可愛らしく揺れるのは頂けなかった。
 近くで見ると余計にヤバい。
 いつも通り無表情の篤! しかしその頭にはウサ耳! 時空が歪むレベルの異様さだった。
 攻牙と射美の背後にいた通行人たちは、その顔を正面から見るなり、一斉に叫びをあげた。
 それはもはや殺傷力すら伴う違和感だった。謦司郎と並ぶ超イケメンとして定評のある二年三組の星殴(せいおう)惟平(ただひら)は衝撃を受けるあまりエレガントな気絶して地面へと芸術的に倒れ付し、彼をストーキングしていた一年二組の景山(かげやま)翔子(しょうこ)は口に含んでいたウィダーインゼリーを吹き出す勢いで下顎の親知らずのパージに成功。そのそばを歩いていた『謦司郎様親衛隊三大幹部』などという忌み名で知られる菱川(ひしかわ)涼音(すずね)、火楽(ほのぐら)火輪(かりん)、剛闘(ごとう)厳蔵(げんぞう)ら三人は爆笑を抑えようとするあまりミオクローヌス発作のごとき痙攣症状を引き起こして呼吸困難に陥っていた。
「篤……お前……ちょっ……それ……お前っ! なんという……なんという!」
 わなわなと全身を震わせる攻牙。
 篤はその頭をつかんでぐりぐりする。
「攻牙か。相変わらずお前は小さいな。第一胃の食物をよく反芻してから第二胃に放り込めとあれほど言ったではないか」
「なんでいきなり家畜扱いなんだよ! 自分の発言がおかしいことに気づけ!」
「そして牛乳を体内で生成できるようになれば、さすがにその図体も改善されるだろう」
「なんなのお前! なんなの!」
 後ろから追いついてカワイイを連呼しまくる射美と一緒に、ウサ耳の事情を問い詰める。
「いったいどんなピタゴラスイッチ的事件連鎖が降りかかればそんな状態になるんだよ! むしろどこの国の刑罰だよ!」
「三行以内で説明するでごわす〜♪」
「うむ、起きたら生えていた」
「一行もいらなかったーッ!」
 射美は目を輝かせながら、前後左右あらゆる角度からウサ耳を眺めまわした。
「でもかわいいでごわす〜ラブリーでごわす〜ギャップ萌えでごわす〜」
「むっ!」
 なぜか脂汗を滲ませながらウサ耳を手で隠す篤。
「や、やらんぞ……これはやらんぞ……やるものか! も、ものか!」
「全力でいらんわ!」「えぇ〜、ケチ!」
 頬を膨らませる射美に、攻牙は唖然と振り返る。
「お前欲しいの!?」

 攻牙が吠え、篤が思索に沈み、射美が妙なことを言い出す。
 約一名の頭部および周囲の惨状を除けば、いつも通りの登校風景となっていた。

 ●

「……いいねえ……友達……いいねえ……」
 カリカリカリカリカリ。
 電柱の陰から、篤たちの姿を眺める者がいた。
 タグトゥマダークである。
「……イジられキャラって楽だよねぇ……」
 カリカリカリカリカリ。
 親指の爪をかじっていた。
 篤が、攻牙と射美に囲まれて問い詰められているさまを見ている。
「……自分は何もしなくていいんだもんねぇ……」
 カリカリカリガギィッ!
 噛み千切った。
「って、痛ぁーーー!?」
 のたうち回って電柱に頭をぶつけた。
 頭のネコ耳が、ぴくぴくと痙攣する。
 しかし、そのさまは深々と被ったニット帽によって隠されていた。

 ●

 そいつが物陰から現れた時、篤は何か異様な感覚に囚われた。
 例えるならば、歪んだ鏡を目の当たりにしているかのような。
 妙な、気分だった。
「あいたたた……」
 そいつが呻く。
 道路に転がりながら、後頭部を押さえつけている。長い手足が絡まっていた。可動式フィギュアの頭を掴んで思いっきり振り回したのち地面に放り投げればこんな姿勢になるのかもしれない。
 なぜかこの暑い中、黒のスーツに黒のニット帽を被っている。着こなしは、かなりだらしない。スーツはだぶつきまくりだし、ネクタイは結び目が歪んでいる。
 年の頃は篤たちよりも少し上といったところ。容姿は爽やかイケメン。しかしタレ目な上に挙動が間抜けすぎるので、カッコイイという印象からは程遠かった。
 周りの学生たちも、新たに現れたこの不審者を訝しそうに眺めては、しかしもう関わり合いになりたくないのが見え見えな態度で歩み去ってゆく。
「あっ、タグっち」
 射美がそいつを見て声を上げた。
「うぅ……ぅ……」
 青年は呻きながら篤たちのほうを見た。
 射美、攻牙、篤の順に視線を巡らせる。
 三人もまた、なんとも形容のしようがない視線で青年を見返す。
 しばしの沈黙。
 微妙なる沈黙。
 痛々しい沈黙。
 青年の顔が歪んだ。
「――死にたい! 死のう!」
「あぁ! ダメでごわすよタグっち! まだ何も言ってない! 何も言ってないでごわすよ〜!」
「いいもんいいもん! 言われなくてもわかってるもん! みんなどうせ僕のことをアホで間抜けで空気が読めない天才のイケメンだと思ってるんだ! それほどでもないよ!」
「……あ、あれ? 途中から言ってることが違う……?」
 攻牙が頭をかきながら射美を見た。
「あーつまりなんだ? あの生き物はお前の仲間か?」
「ふっふっふ、そーでごわすよ? コードネームはタグトゥマダーク! 愛称はタグっち! めっさぽん強いでごわすよ〜?」
 篤にはとてもそうは見えない。
 ――動作は隙だらけ、殺気も闘志も感じ取れない、体はなよなよしている、しかもタレ目。
 タレ目は関係ない。
 だが、それでも篤はタグトゥマダークから目を離すことができなかった。
 何か――既視感を刺激された。
 自分は毎日あの姿を見ていたのではないかという、錯覚。
 もちろん錯覚は錯覚だ。あの男には今日はじめて会う。
 そのはずだ。
「そのタグトゥマダークが何の用だ」
 篤は静かに問いかける。
 声に反応し、タグトゥマダークがこっちを見る。
 眼が、合う。
 なにか濁ったものが流れ込んでくる気がした。
「わくわく☆尋問タイム、はっじまっるよぉー!」
 なんかいきなり叫びだした。
 タグトゥマダークはずんずんとこちらに向かってくる。
「むっ」
 篤は身構える。
 タグトゥマダークは明らかに篤ひとりを見据えていた。
「問い1:あなたの名前はなんですか?」
 頭にタンポポ咲いていそうな微笑みを浮かべつつ、そんなことを言った。
 ――問われたならば、応えるか。
 第一印象はともかく、礼儀として。
「応えて曰く:諏訪原篤である」
「問い2:そのウサ耳はなんですか?」
「応えて曰く:俺にもわからぬ」
「問い3:心当たりもない?」
「応えて曰く:日ごろの鍛錬の成果だと考えている」
「問い4:どうして世界から争いはなくならないの?」
「応えて曰く:人には平和を求める心が確かにある。未開の時代に比べれば、確実に悲惨な出来事は少なくなった。俺たちはもっとそのことを誇ってよい」
「問い5:愛って何?」
「応えて曰く:この世を形作る引力のようなものだと俺は考える」
「問い6:今日のおパンツ何色?」
「応えて曰く:紺色のトランクスである」
「問い7:まさか答えるとは思わなかったよ」
「応えて曰く:そうか」
「問い8:ていうか黙秘してよ。この世の誰もそんな情報知りたくないよ」
「応えて曰く:そうか」
「問い9:まぁそれはそれとして死ね」
「応えて曰く:受けて立とう」
 篤とタグトゥマダークは弾かれたように互いから間合いを取った。
「何なのこいつら!」
 攻牙が頭を抱える。
「す、諏訪原センパイはトランクス派でごわすか……フンドシかと思ってたでごわす……」
「お前も何を赤くなってんだ!」
 攻牙の叫びを背に、篤は右手を横に突き出した。
 見えざる空間に突き込まれ、肘から先が切り落とされたかのように見えなくなっている。
「顎門を開け――『姫川病……!?」
 バス停を取り出そうとする腕が、掴まれた。
 制服の、袖口あたりを。
「なんていうかさぁ、バカみたいなんだよねぇ」
 タグトゥマダークは溜息をついた。
 篤の間近であった。息がかかりそうなほどの、至近距離。
 瞠目する。
 ――いつの間に……
「ひゅーん、ばりばりばり〜、どっかーん! やめない? そういうの。カッコよくもなんともないっていうかぁ、ぶっちゃけうっとおしいんだよね」
 やれやれ、と。
 肩をすくめながら。
「こういうのは華々しかったり派手だったりしちゃダメなんだよ。もっとこう、静かで、惨めで、陰湿であるべきだ」
 タグトゥマダークは、相変わらず虫も殺さない笑顔で。
 そんな笑顔のままで。
「――殺し合いって、そういうものだろ?」
 ささやかな風が吹いた。
 髪をわずかに揺らす程度の、どうということもない空気の流れ。
 だが――
 ずぶり、と、異音。
 篤だけが、その音を聴いた。思い知った。
 [喉に指がめり込んでいる]。
 二本の指が、三センチほどの間隔を置いて、篤の喉に突き入れられている。それはまるで、喉仏を掴み取ろうとしているような位置だった。
「いっ」
 気道が圧迫される。呼吸不可能。
「簡単だよね。人間はこうすればすぐ死ぬんだ。バス停なんか非効率的だよ」
 篤はバス停を引き抜いて振り払おうとしたが、界面下に突っ込んだ腕を掴まれて一切動かせない。
 刀に例えるなら、柄頭を押さえられてしまったようなものだ。
「このまま喉を握り潰そうか? それとも窒息するまで待つ? 好きなほうを選びなよ。どうせしゃべれないだろうけど」
 視界が黒く塗り潰されてゆく。肺の中に残った空気が、外に出ようと暴れまわる。
 ――どちらも断る。
 篤は自由になっている左手を握り締め、敵の顔面に向けて打ち込んだ。
「ま、そうなるよね」
 喉にめり込んでいた指が引き抜かれ、ほぼ同時に篤の拳が受け止められた。
 咳き込みながら、その事実を識る。
「左手が自由なら、普通そうするよね。正しい判断だ」
 退屈そうに、タグトゥマダークは呟いた。
「――じゃあ死ね」
 左腕が、捻られる。
 手首、肘、肩の関節が異様な方向へ捩じられ、みしみしと軋んだ。
「んっ」
 たまらず、篤はつんのめるように体を曲げ、捩じれを逃がした。
 頭が前に出る。
 前に出る。
 その先には、この世ならざる空間への出入り口がある。
 見えないが、確かに存在する。
 今しがた自分で開いたものだ。バス停『姫川病院前』を引き抜くために右腕を突っ込み、しかしタグトゥマダークに腕を掴まれて動かせなくなっているため、今も開きっぱなしだ。
 次の瞬間、篤の頭部は、異空間へと没入した。させられた。
 まるで、水中へ顔を浸したかのように。
 視界一面に、混沌とした世界が広がった。無数の色彩が乱舞する万華鏡のごとき眺めだ。
 無限の広がりを持つ空間に、さまざまな色や形が見え隠れしている。
 それらは時に炎のようであり、時に水の流れのようであり、時に散りばめられた星屑のようでもあった。魚のような蒼い煌めきが群れを作って泳いだかと思えば、捻じくれた樹上組織が早回しで形作られ、その背景には山のような巨大な影が一瞬現れてはすぐに消えた。紫の炎が海草のように揺らめき、蛍光色の花火が乱れ飛んで次々と散華していた。
 視覚化された〈BUS〉の流動。
 バス停使いたちによって「界面下」と名づけられたこの空間は、通常の世界とは少しずれた位相に存在し、基本的に交わることはない。そこでは、すべてのバス停がエネルギーの波となって溶け合い、あらゆる場所に遍在している。熱と光のコーラスを奏でている。
 物質世界に存在するバス停などは、この奔放な本質のごく一部の側面が現出しているに過ぎないのだ。
 だが、篤はこの雄大な無秩序をゆっくり鑑賞する暇などなかった。
 体が、動かない。
 界面下空間の外で、右腕を掴まれ、左腕を捩じ上げられている。
「虚停流外殺――」
 くぐもった声が、かすかに聞こえてくる。タグトゥマダークの声が、その振動が、篤の体を伝って耳まで届いたのだ。
「――〈次元断頭〉」
 何をするつもりなのかは、なんとなく、わかった。
 恐らくは――次元の出入り口を何らかの方法で閉じるつもりなのだ。
 二つの世界に分かたれた頭と体は、これ以上ないほどきれいな断面を残して切断されることだろう。
 篤は、敵の冷徹な戦闘感覚に皮膚を粟立たせた。
 ――恐るべき、技だ。
 しかも技名を言い終わったということは、もうこの瞬間にでも界面は閉じられるということだ。
 ――実に、恐るべき、技だ。
 それが不可能であるという点を除けば、である。
「――前』!」
 篤は、叫んだ。それだけを聞いたらまるきり意味不明の言葉を。
 瞬間、周囲の光彩が篤のそばへと集まり、収束し、バス停『姫川病院前』を形作った。
 ただし、それは篤の手元にではない。
 足元に出現したのだ。
 腕を捩じられ、無理やり界面下へ顔を突っ込まされると同時に、篤は自分の足元にも異空間への出入り口を開いていたのだ。
 左足を界面下へ突き入れ、出現した『姫川病院前』に引っ掛けると、前方に思い切り蹴り飛ばした。
 物質界に吹っ飛ばされたバス停は、篤の体を天秤のように支えていた右足に当たって回転する運動を与えられ、タグトゥマダークの足元を薙ぎ払った。
「おっと」
 篤の両腕に絡み付いていた拘束が解ける。
 即座に頭と右手を界面下から引き抜き、敵へと向き直った。
 タグトゥマダークは不審そうな顔でそこに立っていた。やや離れた間合いだ。
 とっさにバック宙返りを決めて、足元への攻撃は回避したようだ。呆れた反射神経である。
「妙だね……どう考えても君の召喚文句が終わる前に、僕の〈次元断頭〉は完成していたはずだ」
「注意力の問題だな。解説などする気はない」
 篤は足元の『姫川病院前』を蹴り上げた。空中で掴み取り、構える。
「さぁ、貴君もバス停を抜かれよ」
「ふぅん……」
 タグトゥマダークは、バス停を召喚するそぶりも見せず、しげしげと篤を見ている。
「めずらしい扱い方をするね、キミ。普通、バス停使いって想定外の逆境には弱かったりするものなんだけどな。なまじ強すぎるから、苦戦という経験が不足しがちなんだね」
「……何が言いたい?」
「キミはそうじゃないってことさ。両手が使えないから、じゃあ足で――って、言葉にすれば簡単だけどさ、普通そんなことをあの一瞬では思いつかないよ。お兄さん感心しちゃったなぁ」
 自らの顎に手を当て、不敵な微笑を湛えながら、
「ちょっと、苦手なタイプかもしれないニャン」
「…………」
 空気が、なんか、微妙な雰囲気になった。
「ニャ、ニャン!?」
 タグトゥマダークは口に手を当ててあたふたしていた。
 篤は興味深そうに、己の顎を掴んだ。
 ――今度は「ニャン」か……
「《ブレーズ・パスカルの使徒》には、珍妙な語尾でしゃべらなければならない掟でもあるのか?」
「か、か、勘違いしニャいでくれ! 僕はこんな語尾ニャんか……あああ! 付けたくニャいのに! 付けたくニャいのに付けてしまうニャンッ!」
 タグトゥマダークは、ニット帽に包まれた頭を抱えて天を仰いだ。
「タグっち……そんな人だったでごわすか……」
 後ろで射美が半眼になって呆れていた。
「ちょっと頭が不自由だけど、優しくてカッコイイ人だと思ってたのに……」
「あああっ! ち、違うニャン! これはおかしいニャン! 僕の意思とは無関係に語尾がついてしまうニャン! っていうかさり気に前半部分ひどいニャン!」
「あー中学生の時こういう奴いたぜ。腕に危険なパワーが宿っているってな設定で授業中によく『ぐぁ…っ! 静まれっ!』とか言い出すんだ」
 攻牙が耳の穴をほじりながらどーでもよさそうに言った。
「いくら目立ちたいからってそれはねえよ。みんなドン引きだったぜ」
「設定とかじゃないニャン! マジで止まらないニャン! あと思春期の想像力をバカにする奴は心が貧しいとお兄さんは思うニャン!」
 三人の、そして周囲の通行人の冷めた視線が、タグトゥマダークを追い立てた。
「うっ、ううっ」
 その顔が引き歪む。
「うにゃあぁぁぁぁぁんッ!」
 泣きながら走り去っていった。
 ナイーヴにもほどがあった。

 ●

 ――どこまでも、まっすぐな眼をしていたな。
 タグトゥマダークは、泣きながら朱鷺沢町を駆け抜ける。
 ――諏訪原篤。一切の迷いもない信念に寄り添う、この上なく安定した佇まい。
 泣きながら、駆け抜ける。心はズタボロに揺れ動く。
 だが、その根底には、鏡面のようにさざ波一つない場所がある。
 タグトゥマダークは、そこで思考する。
 ――諏訪原篤。直接相対してはじめてわかる、その存在の堅牢さ。
 冷酷に、思考する。泣きながら、思考する。
 ――死に囚われているがために成立しうる魂。
 泣きべそをかき、同時に心の根底で嗤う。
 ――僕とおんなじだ。そして、僕とは全然違う。
 大声で咽びつつ、泣き叫びつつ、必死に走りつつ、タグトゥマダークは嗤う。
 魂で、嗤う。

 やがて、敷地面積だけは立派なボロ借家に帰り着いた。
 すぐさま妹の部屋に続く襖をズガンと開ける。
 そこでは、切りそろえた髪型の小さな女の子が、机に向かって勉強していた。
 ゆっくりと椅子が回り、高級ピアノのような輝きをもつ瞳が、こちらを向く。
「うにゃあああぁぁぁぁん! 夢月ちゃあああぁぁぁぁぁん!」
 タグトゥマダークは咽びながら自らの妹に泣きついた。
「あらあら、どこの不潔な変質者が入ってきたかと思ったらお兄さまではありませんか。どうかなさいましたか? またディルギスダークさまに苛められましたか? 後で文句を言っておかなければなりませんね。『手ぬる過ぎます。やる気あるんですか?』って」
 相変わらずひどいことを言う。
 しかし言葉とは裏腹に、突然乱入してきた自分をちゃんと受け止めてそっと撫でてくれるので、本当は優しい子なんだなぁ、こんな可愛い妹がいて僕は幸せだなぁ、と思う。
 彼女は、赤い着物を着ている。今時珍しいことこの上ないが、夢月の普段着は着物である。そしてそんなチョイスが恐ろしく良く似合う容姿をしていた。
「それで? どうなさったんです? その頭の肉ヒダはなんですの?」
 ――肉ヒダって……
 いやまぁそうなんだけど。
「あのね、あのね、僕ね、朝起きたらネコ耳が生えてたんだニャン」
「……」
 夢月の表情が、急激に冷めてゆく。
「そんでね、そんでね、さっき諏訪原篤をブッ殺しに行ったらね、なんかね、語尾まで変になっちゃったんだニャン」
 夢月は無言でタグトゥマダークに背を向ける。
 そして机の引き出しに手を入れると、大きなハサミを取り出した。
「切り落としましょう」
「やめてえええぇぇぇぇっ! なんでそうなるニャ!? なんでそうなるニャ!?」
「あら、明白じゃありませんか。その世の中ナメてるとしか思えない軽薄な語尾は、明らかにお兄さまの貧相な頭についている汚らわしい肉ヒダが原因ですわ。ちゃっちゃと切除しちゃいましょう」
「夢月ちゃん! 夢月ちゃん落ち着いて! 落ち着くニャン! 気軽に切除とか切り落とすとか言わないでニャン! 怖いニャン!」
 夢月はかすかにため息をついた。
「……わかりました。お兄さまの気持ちも考えず過激な言動に走ってしまいましたわ。反省します」
「う、うん! うん!」
「去勢しましょう」
「言い方の問題じゃニャいんだよ!? しかもさらにひどい言い方だニャン! 最悪のチョイスだニャン!」
 重くため息をつく夢月。憂いを秘めた白皙の美貌が、遠くを見る。
「……どうしましょう。どこに埋めましょう」
「夢月ちゃん何を言ってるニャ!?」
「いえ、あまりにわがままでヘタレな身内を持ってしまった我が身を哀れんでちょっとした非合法的計画が頭をよぎっただけですわ。お兄さまにはまったく関係のない事柄ですの」
「明らかに僕に関係あるよね! むしろ僕は中心人物だよねその計画! やめて! 僕そこまでひどいこと言ってないニャン!」
「どうせこんなド田舎ですから天狗の仕業にでもしてしまえば万事解決ですわ」
「とんでもない偏見だニャン!」
 その後、わりかしシャレにならない言葉責めを二、三回応酬させたのち、夢月はタグトゥマダークのネコ耳をいじりながら言った。
「ヴェステルダークさまに相談してみましょう」
「え!? あ、うん……えっと……え? なんでだニャ?」
「あの方は最強を誇る《王》の一人。〈BUS〉の特殊な作用については知悉しておられますわ。きっと良い知恵を貸してくださるはず」
「この耳と語尾は〈BUS〉の影響なのかニャ?」
「それ以外になにかありまして?」
「ふむーん」

 というわけで、夢月の部屋を出る。
 タグトゥマダーク一人で。
 ついて来てはくれないのである。
「冷たいニャ〜ン……」
 夢月はあまり自分の部屋から出てこない。そういうところは奥ゆかしくて超かわいいと思うが、兄の一大事の時ぐらい付き添ってくれてもいいと思う。
「ニャ?」
 ふと、自分がハサミを持っていることに気づく。
 夢月がネコ耳を切除しようと取り出したハサミだ。
「なんで僕が持ってるんだニャ?」
 よくわからなかったが、多分無意識のうちに奪い取っていたのだろう。
 夢月に持たせておくとなんか怖いし。
 タグトゥマダークはハサミをとりあえずポケットに突っ込むと、ボロ借家の中心部に位置する居間へと足を運んだ。ヴェステルダークは普段そこで仕事をしている。
「……差し入れでも用意するかニャン」
 途中で思い直し、台所へと立ち寄ることにした。

 ●

「ブリリアント☆おやつタイム、はっじまっるニャ〜ン!」
 緑茶と大福をお盆に載せて、タグトゥマダークは居間に入っていった。
 ……とりあえず、ご機嫌を取っておけば相談しやすくなるかと思ったのであるが、内心ドキドキである。
 居間には、ボロっちいちゃぶ台と丸みを帯びたテレビが置かれていた。黒のスーツをきっちりと着こなした男が、ちゃぶ台に肘を突きながら唸っている。
 ヴェステルダーク。
 この町に滞在する十二傑たちのリーダー。
 いつもは自信と機知にあふれた数学教師っぽい風貌だが、今は何やらお疲れのご様子だった。ちゃぶ台の上には、ここ朱鷺沢町と近郊の地図が広げられており、縦横に赤い線が書き込まれている。その周りには、何らかのデータと計算式が書き込まれたノートが数冊ほど散乱していた。
 ヴェステルダークは一瞬こちらに視線をめぐらせたのち、特に何事もなかったかのよう眼を戻した。
「《楔》が、見つからないのかもな……」
 ――うわノーリアクションだよこの人!
 明らかにネコ耳も見えていたはずなのに。
 なんか、人間としての格の違いを感じる。
「お、お疲れですニャン? 《楔》の探索はやっぱ難しいですかニャン?」
「〈BUS〉の流れが読めないのかもな。二ヶ月ぶっ続けで地脈を走査したにも関わらず《楔》の位置を特定できないのかもな……」
 そして、憂いに満ちた表情で天井を仰ぎ、
「もらうのかもな」
 ぽつりとつぶやいた。
「あ、は、はい」
 慌てて大福と緑茶をちゃぶ台に並べる。

 ●

 ――あらゆるバス停は、その身に漲る〈BUS〉の強さによって、九つの階級に分けられる。
 第九級バス停が最弱で、その基準は「コンクリートの壁を一撃で粉々にする程度の力」。
 数字が小さくなるほど、その身に漲る〈BUS〉の出力は高くなる。
 バス停ごとに固有の性質を持っている場合もあるので一概には言えないが、階級の高いバス停ほど強いのだ。
 そして――
「天と地を斬り裂き、歴史を創るほどの力」
 そんな冗談のような基準で語られるバス停が存在する。
 第一級バス停――通称、《楔》。
 最高位の神樹。
 ひとつの国が収まるほどの範囲で、〈BUS〉の流動を制御し、管理し、自然や文明の(言い換えればあらゆる熱的活動の)守護者となるバス停。
 そういうものが、全国に八柱ほど点在している。
 淵停、枢停、殲停、聖停、終停、龍停、極停、皇停。
 このうち四つは『神樹災害基金』が保有し、二つは《ブレーズ・パスカルの使徒》が確保、ひとつは所在不明で、最後のひとつはここ朱鷺沢町のどこかにあるという。
 ――皇停、『禁龍峡』。
 ヴェステルダークほか四名の十二傑たちは、この最後のひとつを入手するべく動いているわけだが……
 何故か、見つからなかった。

 ●

「やっぱり『基金』の連中が何らかの妨害をしているんじゃないですかニャン?」
「そう思って、ディルギスダークにはポートガーディアンどもを締め上げるよう言っておいたのかもな」
「うわぁ……さすがに同情しますニャン、それ……」
 ヴェステルダークは緑茶を一口飲んでから、刃物のような切れ長の目をタグトゥマダークの頭部に突きつけた。
「……で、頭のそれはなんなのかもな。いわゆるアキバ系という奴なのかもな?」
 微妙に違う。
「ニャ、ニャはは……」
 タグトゥマダークは頭をかきながら事情を話した。夢月に対して一度しゃべっているので、さすがにもう落ち着いている。
「……と、いうわけなんですニャン」
「ふむ」
 ヴェステルダークは緑茶をもう一口すすった。
「前例が、ないわけではない、かもしれない、のかもな」
「ほ、ほんとですかニャン!?」
 できれば二重否定の上に疑問系を二つも重ねないでほしいと思った。
「私が生まれる前の記録なのだが……今から五十年ほど前、この地域で起きたことかもな」
 ヴェステルダークは、ぽつぽつと語り始めた。
「当時からここらへんはどうしようもないド田舎だったのだが……ある時、まったく突然に、極めて局地的な地震が発生したのかもな。建物はほぼ全壊し、絨毯爆撃でも受けたかのような有様だったという。火災や地すべりなどの二次災害も頻発し、多くの人々が致命的な被害を受けたのかもな。恐ろしい災禍だったのかもな」
 持っていたペンを弄びながら、言葉を続ける。
「だが、本当に恐ろしかったのは、その後なのかもな……」
 なんで怪談みたいな語り口なんですかと突っ込みたかったが、空気を読んで黙るタグトゥマダーク。
「人間がな、歪んだのかもな」
 その言葉の響きに、寒気を感じた。
「……歪んだ? どゆことですニャン?」
「比喩ではないのかもな。精神ではなく、肉体が、本当に歪んだとしか思えない有様に変異したのかもな。生き残った人々は、変わり果てた自分の姿に悲鳴を上げたという」
「い、一体、どんな姿に……?」
「直立二足歩行のタヌキになった」
「超かわいいーー!?」
「もっさもっさの毛皮に包まれた住民たちは、そのお陰で家がなくとも冬を乗り切ることができたらしいのかもな」
 えらくメルヒェンな光景がタグトゥマダークの脳内に広がった。
「よ、よかったじゃないですかニャン」
「だが、本当に恐ろしいのはそこからだったのかもな……」
「まさか元に戻らなかったんですかニャン!?」
「『神樹災害基金』の前身である軍属研究機関が、事態の解明を期してこの地域を数カ月にわたって封鎖し、調査部隊を派遣したのかもな」
「そ、それで……?」
「タヌキとなった住民たちに身体検査および質疑応答を行い、さらに一帯の地質を調査した結果、さまざまな事実が浮かび上がってきたのかもな」
 そこで緑茶を飲み干すと、ヴェステルダークは声を低くした。
「局地地震とタヌキ化が起こった範囲が完全に一致していたのかもな。つまり、この二つの現象は同じ原因によるものだったらしいのかもな。さらに、タヌキ化した住民たちの話によると、地震の直前に『山の向こうで巨大な光の柱が見えた』というのかもな」
 光の、柱。
 バス停使いたちにとっては、何らかの攻撃にしろ、召喚時の余波にしろ、そういった現象は見慣れた存在だ。
「バス停、ですかニャン?」
 しかし、山の向こうからも見えるほどの光とは、ちょっと尋常ではない。
「結論から先に言おうか。この地のどこかに《楔》が安置されている、と仮定すれば、辻褄が合うのかもな。事実、被災範囲は、当時すでに存在が確認されていた他の《楔》の管理面積とほぼ等しく、さらにこの異変において地中の〈BUS〉が一切流動しなくなっていたことも確認されているのかもな」
 ヴェステルダークは息を吐き、こちらを見た。
「この『地脈の流れが消失する』という性質から、推定上の存在である《楔》には皇停『禁龍峡』という名が与えられたのかもな。一連の事件の原因は、この《楔》が暴走を起こしたことにあったのかもな」
 皇停『禁龍峡』。すべての原因と目される、仮定上のバス停――
 それからの顛末は、極めて意味不明なものであった。
 皇停『禁龍峡』の位置を特定すべく、調査部隊とタヌキ住民たちは山々を虱潰しに探し回ったのだが、二週間が経過しても手がかりは一切見つけられなかった。
「そして、本当に恐ろしいのはここからかもな……」
 気に入ったんですかその言い回し。

 ●

 その後のヴェステルダークの話を要約すると、二点に絞られる。
 ・探索途中で隊員数名が行方不明になるという事件が発生したこと。
 ・その直後、タヌキ化した住民が一斉に元の体に戻ってしまったこと。
 以上、事件はそれで終わり。皇停『禁龍峡』の正確な位置はつかめぬまま、調査部隊は撤収し、その後政府主導の復興支援が始まったのであった。
 結局、何一つ確かなことは判明しないうちに、この『昭和タヌキ騒動ぽんぽこ事件』は終結を迎えたのである。

 行方不明になった隊員たちは、二度と戻ってはこなかったという。

 ●

「……つまりその、僕のネコ耳も、皇停『禁龍峡』が原因ニャのだと?」
「少なくとも関連を疑うには十分なのかもな」
「ううう……」
「イレギュラーはもうひとつあるのかもな」
「なんですニャン?」
「《楔》とは別に、奇妙なバス停が見つかったのかもな」
 タグトゥマダークは肩をすくめて笑った。
「奇妙じゃないバス停なんてあるんですかニャ?」
「なんかうねうねしていた」
「奇妙すぎる!」
「しかも、この地域の〈BUS〉流動網から孤立しているのかもな」
 ……正確には、完全に孤立しているわけではなく、地脈のネットワークからエネルギーをもらうばかりで、自身からは一切エネルギーを吐き出さないという凄まじい寄生虫ぶりらしい。
 当然バスなど通っていない。
 バス停なのに。
「あの、それ、本当にバス停なんですかニャン? なんか聞く限りでは〈BUS〉を食べる宇宙怪獣みたいな感じがするんですが……」
「あながち間違ってないのかもな。少なくとも、そのバス停のせいで朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相は秩序だったサイクルを維持しにくくなっているのかもな。《楔》を擁する土地であるにも関わらずド田舎なのはそのせいなのかもな」
 〈BUS〉は単なる破滅的なエネルギー流というだけではない。淀みなく循環していたなら、その地域の自然や文明を活性化させる霊的な作用が働くのだ。《楔》のお膝元の地域ともなれば、超サイバーな未来都市トキサワシティーになっていてもおかしくなかったはずなのである。透明なチューブがうねりまくりである。
 だが、現実にはそうではない。
 謎のバス停によって〈BUS〉を吸い取られ、循環の流れをかき乱され、朱鷺沢町はド田舎との誹りを免れぬほどの過疎ぶりとなっているのである。
「……そのバス停の名は」
「第三級バス停、『腐りゆく唇』」
「なんです、それ? 地名じゃないですニャン?」
「不明かもな。丸看板にそう書いてあったのかもな」
「確かに奇妙なバス停ですニャー」
「うねうねしてるしな」
「だから奇妙すぎる!」

 ●

 いや、さて。
 ここで、篤サイドに目を向ける。
 タグトゥマダークを撃退した後も、篤は自らのウサ耳を誇らしげに揺らしながら学校への道を急いでいた。
 攻牙と射美は、篤の周りをぐるぐる歩きながら、ウサ耳を仔細に観察している。
「射美が思うに、諏訪原センパイはきっとウサ耳たちが平和に暮らす国『ウサミニア』のウサミミ王子なんでごわすよ!」
「そんな国は見たことも聞いたこともないがどうせ城はウサミミ城で王様はウサミミ王で大臣はウサミミ大臣なんだろ!」
「ウサミニア……それはウサ耳たちが平和に暮らす国……国民は全員ウサ耳で、シルバニアファミリーばりのキュートでメルヒェンな騒動が毎日起こってるカンジでごわす♪ そんで三十分枠のラストはいつも『もう○ ○ はこりごりだよぉ〜!』『はははは、こいつぅ!』みたいなカンジでみんな笑顔でエンディング突入でごわすよー♪」
「いやに具体的だなオイ」
「末端価格で八万ドルでごわす♪」
「何が!?」
「犠牲もなしにユートピアが築かれるとでも思ってたでごわすかーッ!」
「繁栄の陰で何が行われてるんだウサミニアッ!」
 ――お前たち勝手なことを言っているな。
 篤は二人の応酬を適当に聞き流す。
 それはいいのだが、道中で知り合いに会うたびに、
「ちょっ……諏訪原! 何それ!」
「うむ、起きたら生えていた」
 というやり取りを繰り返すものだから、五回目ぐらいでなんか飽きてきた。

 突然の生徒会長。
「す、諏訪原君……何の冗談だいそれは?」
「うむ、起きたら生えていた」

 突然の不良。
「諏訪原てめえ、気でも違ったか!?」
「うむ、起きたら生えていた」

 突然の風紀委員長。
「こ、こら諏訪原ー! なんなんだ貴様その格好は!」
「うむ、起きたら生えていた」

 突然の後輩。
「あ、あの、諏訪原先輩……よくお似合いだと思いますよ……?」
「うむ、起きたら生えていた」

 突然の変態。
「やあ篤! みんなの股間のソムリエ、闇灯謦司郎だよ! 今日の朝立ち具合はどうかナ?」
「うむ、起きたら生えていた」
「!?」

「ぎゃああ! ヘンタイさん!」
 射美が怯えきった様子で距離を取った。学校襲撃時の体験からか、こいつは謦司郎をやたらと恐れている。
「ウサ耳には目もくれずに開口一番シモネタを言えるお前はある意味すげえよ……」
 攻牙が呆然と呟く。
「はっはっは、三人ともおはよう。なんか凄いことになってるみたいだね」
 謦司郎はいつもにこやかだ。
 相変わらず背後から出てこないので確認できないが、間違いなくいい笑顔だ。
「まぁ要するにこの耳が朝起きたら生えていたってことらしいんだがよ」
「えっ、『生えていた』ってそっちのことだったのか……」
「急にどうでもよさそうな顔をするなよ! ……それで獣耳萌え〜とか言ってそうな世界にも精通している汎用ヒト型決戦変態であるところのお前はこの有様になんか心当たりはねえか?」
「あぁ、これはあれだよ、何かの願望のメタファーなんじゃないかな。こう、体のある部分をもっと多く生やしたい的な。一本じゃ足りない的な」
「誰もお前の願望は聞いてねえ!」
 射美は「フーケーツーでーごーわーす〜!」耳をふさぎながら走り去っていた。

 結局、教室でもクラスメートに騒がれてもみくちゃにされる。
 彼らの感想を総合すると、「かわいい」が一割、「シュール」が二割、「病院行け」が七割といったところだ。
 そんな中、霧沙希藍浬の感想だけは篤を瞠目せしめた。
「す、諏訪原くん……」
 彼女は白い繊手を二つとも口に当て、目を丸くしていた。
「む、霧沙希か」
 篤は誇らしげな足取りで、藍浬に歩み寄った。
「どうだ、俺の頭蓋より生じたる二本の誉れ……は……っ?」
 言葉が乱れる。
 なぜなら、その誉れ高きウサ耳を、藍浬が無造作に掴んだからだ。
 掴んだっていうか、握り締めた。
「き、霧沙希……!?」
「うーん……」
 自らの頤(おとがい)に人差し指を当てながら、藍浬はすっきりとした眉を寄せて思案する。
 その間も、ウサ耳を掴んでニギニギ。
 強い力が加わるたびに、篤の眉はピクピクと動いた。
「んん〜……」
 数秒経っても、藍浬は思案顔。
 だんだん汗を流しはじめる篤。なんか、尻尾を掴まれたトカゲの気分。
 トカゲと違うのは、切り離して逃げることができないという点である。
 藍浬は、親指の腹でウサ耳の毛並みをさすりつつ、人差し指と中指で挟んだり、先っぽの方を小指で弾いたりする。
 その手つきに?猥な妄想を膨らませた謦司郎が息を荒げすぎて過呼吸に陥ると言うハプニングがあったものの、二人の間には何の影響ももたらさなかった。
 やがて、考えがまとまったのか、藍浬は燦々と微笑んだ。
「かわいいっていうのはもちろんだけど、どちらかというと綺麗、かな? アサンブラージュ的な何かを感じます」
「おぉ……」
 篤は思わず藍浬に手を差し出した。
「この、かそけき曲線と無垢なる白皙が織り成す秘めやかな美を認識してくれたのは、お前だけだ」
「う、うん、どういたしまして」
 藍浬はびっくりしたように篤の手を見ていたが、やがて躊躇いがちに握り返した。
 つつましやかな、シェイクハンド。
 触れ合った藍浬の手は、篤のそれよりも少し熱を持っていた。
 チャイムが鳴った。

 ●

 かくしてようやく期末試験一日目は始まり、終わった。
 席を立つ生徒たちの喧騒で、にわかに慌ただしくなる教室。
「うむ、死力は尽くした。たとえ今死ぬとしても、悔いは残るまい」
「死んだ! ボクの夏休みは死んだ! 蘇生不能!」
「うーん、わたしはちょっと地理があぶないかも?」
「ところで、税務署の地図記号って卑猥だよね……」
 篤、攻牙、藍浬、謦司郎の四人は、それぞれの思いを胸に、顔を突き合わせた。
「……忘れていたことがあるんだぜ」
 攻牙が神妙な顔で口を開く。
「何だ。トイレは廊下に出て右に曲ったところだぞ」
「誰がそんなことを忘れたっつったよ!」
 短い腕を振り回す攻牙。
「今朝学校に行く時に襲い掛かってきたイケメン変態がいただろ! あいつのことだ!」
「いやいや、イケメンなんて、そんな……」
 謦司郎が照れくさそうに言った。
「確かにお前もイケメンで変態で学校行く時襲い掛かってきたけど違う! 今言いたいのはお前のことじゃない!」
「……ひょっとして、鋼原さんのお友達が来ちゃったの?」
 うまい具合に藍浬が話を戻した。
「あぁ、あのタレ目の男か」
 篤がぽんと手を打った。
「そいつに関してなんか対策とか立てなくていいのか? 見た感じ鋼原?リバースブラッド?射美よりやっかいそうな感じがしたが」
「ふぅむ……そうだな」
 ――実際のところ。
 やっかい、どころの騒ぎではない気がした。
 登校中の交戦において、篤は敵にバス停を抜かせることすらできなかったのだ。
 それよりなにより、あの男には今までの相手にない凄みがある。
 呼吸をするように人を殺める気配。今日の天気の話をする片手間に人を殺める気配。
 ゾンネルダークもしきりに殺す殺すと叫んでいたが、あれはもう逆上したチンピラが吼えているのと大差はない。
 タグトゥマダークの挙動からは、おぞましいほどの「慣れ」と「倦怠」が漂っていた。殺す、という現実を、どうということのない日常として捉えている、生物として壊れてしまった存在――
 だが、それよりなにより。
 ――死にたい! 死のう!
 その言葉。
 どこか、ひどく、心をかき乱すセンテンス。
 自分の切腹にも通ずる、自害の宣言。
 だが、何かが違う。その言葉は、意図する行為が自分と同じでありながら、それを成そうとする理由に致命的な捻じれがあるように思う。自分の肺腑に、粘い石油を流しこまれるような気分にさせる、異様な捻じれ。
 篤は小さく首を振る。
 ――考えすぎだな。
 息を吐いた。
「確かに、解明しておく必要はあるかもしれない――」
 篤は重々しい光を瞳に宿した。
「――なぜあの男は途中から突然珍妙な語尾を使い始めたのかということを」
「いやそっちじゃねえよ! 気になるけど! 確かに気になるけどそっちじゃねえよ!」
「へえ、今度の敵はどんな語尾だったんだい?」
 謦司郎が面白そうに聞いてくる。
 ――そういえば、謦司郎と霧沙希は、まだタグトゥマダークを知らなかったな。
 篤は謦司郎に目を向けた(が、すぐに謦司郎はその場を移動した)。
「うむ、『ニャン』だ」
「『ニャン』?」
 背後で謦司郎が聞き返す。
「そう、『ニャン』だ」
「『娘』を中国読みした時の『ニャン』?」
 なぜ例えがそれなのか。
「否、『ニャンがニャンだーニャンダーかめん』の『ニャン』だ」
「あぁ、なるほど」
「違いがわからねえよ!」
 叫ぶ攻牙。
 そこへ、躊躇いがちな声が被さった。
「あの、ね……ちょっといい?」
 藍浬だった。
 なぜかしきりに篤のウサ耳を見ている。
「そのかわいい語尾の人、さ……ひょっとしてネコの耳なんて生えてなかった……?」
「!?」
 篤と攻牙は黙り込んだ。
 互いに目を配りあう。
 ――もちろん、ネコ耳を確認したわけではない、のだが……
 タグトゥマダークは、頭にニット帽をかぶっていた。今にして思えば、あれはかなり不自然だ。すでに汗ばむような季節である。だいたいスーツ姿にニット帽は似合わない。
 篤が腕を組む。
「ネコの耳かどうかはわからんが、頭を隠している感じはあったな」
 攻牙は胡乱げに眉を寄せる。
「だけどよー霧沙希。なんでネコ耳なんだ? いくら語尾が『ニャン』だからってそんな突拍子もないことが……」
 攻牙は篤の頭を見る。
「……いやまぁあるけどさ」
「うん、わたしも半信半疑っていうか……正直関係があるのかどうかわからないんだけど……」
「何のことだ?」
「ちょっと、ついてきてくれる?」
 藍浬が席を立つ。
「?」
 篤、攻牙、謦司郎は、何だかわからないながらも彼女の後に続いた。

 校舎の裏側、体育倉庫の陰に隠れて、ダンボールがひとつ置いてあった。
 近づいてくる気配を察したのか、中から「みゅぅ、みゅぅ」とか細い鳴き声が漂ってくる。
「あっくん、たーくん、いい子にしてた?」
 藍浬はダンボールの前にしゃがみ込み、小声で呼びかけながら蓋を開けた。
「おお〜」
 攻牙が覗き込んで声を上げる。
 中には、ひどく小さな毛玉が二つ入っていた。いや、毛玉というか、小さな哺乳類のようだ。
 藍浬の顔を見ると、二足で立ち上がってダンボール箱の壁に前足をつけた。「みゅう!」
「ふふ、ちょっと凶悪よね、このかわいさは」
 藍浬が両手を伸ばして二匹をやさしく掴む。
 こちらに向き直り、自分の頬に押し付けるように抱き上げた。
「今朝、拾いました」
 左手の子兎を持ち上げた。
「こっちが『あっくん』」
 右手の子猫を持ち上げた。
「こっちが『たーくん』です」
 謦司郎がしみじみと頷く。
「なるほど、二匹あわせて『肉色の花園』というわけだね」
「なんでだよ!」
 何も関係がない。
 篤はおもむろに歩み寄り、あっくんとたーくんを観察する。
「ふむ……」
 顎に手を当て、まじまじと見つめる。
 子兎――あっくんと、目が合った。
「……似ている」
「えっ?」
「あっくんに触ってもよいか?」
「う、うん」
 藍浬からあっくんを受け取ると、顔の前に持ち上げた。
 いきなり見知らぬ者に触れられたにも関わらず、子兎のあっくんはまったく動じる気配がない。みじろきひとつせず、篤の瞳を見つめている。
 篤の眠そうな眼。あっくんのつぶらな眼。
 視線を介して、何かがつながった気がした。
 行き交う精神。静謐なそれ。
 自分と同じ存在に出会ったという実感。出会えたという奇跡。
 突き動かされるままに、あっくんを自分の頭の上に乗せた。ウサ耳の間に、ちょこんと稚い生命が乗っかる。
 あっくんは、鼻をフンフンと動かして、ウサ耳の匂いを嗅ぐ。すぐにその場にうずくまり、ぶっとい前脚に頭を乗せながら、リラックスした様子で眼を細めた。
「おぉ――浮世を編み出す縁の、なんと趣き深きことよ」
 篤は眼を閉じて、裡より生じた感動を味わう。
 あっくんの落ち着き払った物腰に、自分と同じ『常住死身』の在り方を感ずる。
 篤は眼を開き、あっけにとられている級友たちを見た。
「どうやら、アドバイザーを呼ぶ必要がありそうだ」
「ど、どういうこと?」
「尋常ならざる事態が発生している」
「まぁお前にウサ耳が生えた時点ですでに尋常じゃないけどな」
 耳をほじる攻牙に向き直ると、篤は言った。
「攻牙よ」
「なんだ?」
「ケタイデンワの操縦方法を教えてくれ」
「お前が何を言いたいのかはわかるが伸ばし棒が足らねえよ!」
「ケーターイデーンワーの操縦方ほ……」
「番号だけ言え! ボクがかけてやるから!」
「む、すまんな」

 ●

 集合場所は、以前鋼原射美の介抱をした公園に決定した。
「きーりさーきセーンパーイ! こんにちはでごわす〜♪」
「はいこんにちは。……あら、ふふっ」
 電話で呼び出された鋼原射美は、真っ先に藍浬に飛びつくと、頬と頬を擦り合わせた。
「うに〜」
「もう、くすぐったいわ、鋼原さん」
「霧沙希センパイのお肌はヒンヤリしてて気持ちいいでごわす♪」
 射美と藍浬が会うなりユリシーズ空間を形成しだしたのを尻目に、(ついでに血走った目でその様を凝視している謦司郎も尻目に)篤と攻牙はさっき立ち寄ったコンビニの紙袋を漁って中身を取り出していた。
「……それでどういうつもりなんだ篤この野郎。まさかみんなでお茶しましょうってだけじゃねえよな?」
「正直ただそれだけというのも悪くはないとは思うが、まぁもう一人のアドバイザーが到着するまでは普通に昼食を楽しもうではないか」
 篤が攻牙の携帯で呼び出した人物は、二人。
 一人は敵方の尖兵であるところの鋼原射美。
 そしてもう一人は、
「いったい誰を呼び出したんだよ?」
「お前たちの知らない男だ」
「ふふん?」
「わっ! なにこれ超カワイイでごわす〜!」
 射美があっくんとたーくんを見つけたようだった。
「みゅう!?」
「あっ、逃げないでほしいでごわす〜!」

 ●

「やあ篤くん。お待たせしたね」
 声がした。
 振り返ると、青年が一人、立っていた。
「お久しぶりです勤さん。お怪我はすっかり良くなったようですね」
「いやまぁ、半分は君にやられた怪我なんだけどね。もう万全だよ」
 それは、篤に普段から兄貴分(笑)として慕われている『亀山前』のポートガーディアン(笑)、布藤勤の変わり果てた姿だった(笑)。
 篤は沈痛そうに目を伏せる。
「あぁ、こんな変わり果てた姿になって……」
「いやいや、もう万全だって。どこも怪我はないよ」
「ボロボロに薄汚れてないなんて、まるで人間みたいだ……」
「あたかも僕の正体がボロ雑巾みたいな言い方やめてくんない!?」
 勤は一同を見渡しはじめた。
「……いやそんなことより」
 攻牙と藍浬はコンビニ弁当のパセリをあっくんの前で誘うように振っている。射美は指をわきわきさせながらたーくんを追い掛け回していた。かすかに聞こえてくる「……フフ……ヘヘ……」という忍び笑いは、どうせホットドッグを目の前にした謦司郎が卑猥な妄想をたくましくさせているのだろう。
「彼らは? 友達かい?」
「えぇ、そのようなところです」
 篤は四人に向き直ると、
「皆、本題に入るとしよう」
 浪々とした声で宣言した。
 藍浬があっくんを胸に抱きながら勤を見た。
「ふふ、はじめまして。諏訪原くんの級友の霧沙希と言います」
「あ、あぁ、どうも」
 勤は頭を掻く。篤はそのさまを見ながら、うなずいた。
「この人は俺の村に唯一存在するバス停『亀山前』のポートガーディアン、布藤勤さんである。ほれ、みんな拍手で出迎えるのだ」
「「わー」」
 ぱちぱちぱち。
 勤は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「やあやあ、どうも、ご紹介にあずかりました布藤勤です。あぁ、どうもどうも。本日はこのような催しにお招きいただきありがとうございます。布藤勤、布藤勤でございます。盛大な拍手ありがとうございます、ありがとうございます」
 そして咳払いをひとつ。
「それでは歌います」
「皆、勤さんがお帰りだ。拍手でお送りしろ」
「「わー」」
 ぱちぱちぱち。
「ちょっ、やめて! 調子こいてすいませんでした! 拍手やめて!」
 と、いうわけで、全員が席に着いた。
 射美が面白そうに眼を輝かせる。
「ほへー、ポートガーディアンの方でごわしたかー。政府の犬さんおつかれさまでごわす♪」
「うむ、この人は一級地脈鑑定士の資格を持っている、わりかしエリートな方のポートガーディアンだ。色々と謎を解き明かすヒントをくれることだろう」
「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってくれ篤くーん! ななななんで《ブレーズ・パスカルの使徒》の一員がこんなところにいるんだい!?」
 勤が明らかな引け腰で叫ぶ。両腕で顔を隠すように庇い、射美から五歩くらい距離をとった。その上全身から脂汗が出る始末。
 ビビり過ぎである。
「うふふ〜、射美は絶賛スパイ活動中でごわすよ〜♪」
「……ということらしいので、こちらとしても彼女を利用することにしました。まぁ希望的観測としては恐らく近づいても基本的には噛み付かないと思われるので安心です」
「がう〜」
 曲げた指を威圧的に掲げて猛獣っぽいポーズをとる射美。
「安……心……?」
 勤は頭を抱えた。
 篤は構わず話を進める。
「それで、鋼原よ」
「はいはい〜♪」
 射美が両手を挙げて、屈託ない笑顔で答える。
「この町にいる《ブレーズ・パスカルの使徒》は……つまり、当面俺たちと事を構えそうな十二傑は、あと何人いる?」
「射美を含めて四人でごわす〜」
「各自の詳細を教えてくれ」
「んん〜っと〜……」
 顎に人差し指を当てて、射美が語る。
 一人目、タグトゥマダーク。
「いつもみんなのごはんを作ってくれるイケメンなお兄さんでごわす♪ 地方征圧軍での序列は第八位。超・めっさぽん強いでごわす♪」
 二人目、ディルギスダーク。
「いつも独り言をブツブツ言ってる変テコなおっちゃんでごわす♪ 地方征圧軍での序列は第六位。超・めっさぽん・ファンタスティック強いでごわす♪」
 三人目、ヴェステルダーク。
「いつも決断がやたら早い射美たちのリーダーでごわす♪ 地方征圧軍での序列は第三位。超絶・めっさぽん・ファンタスティック・エクセレント・ロマンティック強すぎワロタでごわす♪」
「篤くん! 逃げよう!!」
「いきなり何ですか勤さん」
「ヤバいよ! ヴェステルダークって! ちょっとシャレにならないよ! 逃げよう! 今逃げようすぐ逃げようナウ逃げよう!」
「落ち着いてください敗北主義者」
「言い切った!? いやいや、ホントにまずいんだって! 彼は《王》の一人だ! 僕たちとは存在の次元が違う!」
「何ですか《王》とは……いや、だいたいわかります。強いバス停使いなんですね」
「そんなレベルじゃないんだよぉ〜!」
 言い争う篤と勤を尻目に、攻牙が射美に問いかける。
「そういやお前の序列は何位なんだ?」
「……な、なんと上から数えて十一番目でごわす!」
「……」
 嫌な笑みを浮かべる攻牙。
「ムキィーッ! その顔やめてでごわす〜! 地方征圧軍十二傑がその名のとおり十二人しかいないなんてことは攻ちゃんは知らなくていいでごわす〜!」
「その四人は、現在どう動いている?」
 篤が、逃げようとする勤を組み伏せながら言った。
「えっと、確か〜」
 タグトゥマダーク:ヴェステルダークが借りたボロ借家で料理洗濯掃除に邁進するついでに、篤を抹殺しようと動いている。
 ディルギスダーク:あちこち飛び回ってなんかしてる。あんまり家には帰ってこない。なにしてんのか不明。
 ヴェステルダーク:ボロ借家の居間で地図とノートを広げてなんかしてる。《楔》がどうとか言ってたけどなんのことかわかんないでごわす〜。
「つ、使えねえ……」
 攻牙が目頭を押さえながら呟いた。
「えっと、それで射美は〜」
「いや、もういい。お前はスパイ活動なのだろう。わかっている」
 篤も目頭を押さえながら言った。
 というか、味方の行動をあっさりバラすあたり、組織における射美の立ち位置がわかった気がした。
「……ええと、つまり」
 篤に普段から兄貴分(笑)として慕われている『亀山前』のポートガーディアン(笑)、布藤勤は腕を組んでシリアス顔(笑)を取り繕った。逃走は諦めたらしい。
「やっぱり、彼らの目的は《楔》なのか……」
「知っているのか勤ーッ!?」
 篤が叫んだ。
「なんでいきなりタメ口なの!? ……いやそれはともかく、篤くんはポートガーディアンじゃないから《楔》については知らないんだったね」
 ……と、いうわけで、ここから布藤勤の《楔》講座が始まるわけだが、すでにヴェステルダークの話の中で説明してしまったのであり、読者的には不要極まりないシーンである。
 よって省略。
 布藤勤、空気の読めない男である。
「……と、いうわけでこの地域のどこかに、皇停と呼ばれる《楔》が隠されているのさ!」(すごく得意げ)
「ふむ、所在不明のバス停、『禁龍峡』か……」
「あーあー、なんかヴェっさんがそんなこと言ってたような気がするでごわす〜」
「どーも話が見えねえな」
 攻牙がログテーブルに頬杖を突きながら言った。
「それと篤のウサ耳と何の関係があるんだ?」
「あぁ、それについては、似たような例が五十年ほど前にあったらしいよ」
 ……と、いうわけで、ここから布藤勤の『昭和タヌキ騒動ぽんぽこ事件』講座が始まるわけだが、すでにヴェステルダークが説明してしまったのであり、読者的には不要極まりないシーンである。
 よって省略。
 布藤勤、空気の読めない男である(笑)。
「……と、いうわけで、大地震とそれに伴うタヌキ化現象は、皇停『禁龍峡』の暴走が引き起こしたことであると考えられているんだ!」(超得意げ)
「超かわゆい〜!」
「ぐぎゃあ!」
 なぜか攻牙の頭を抱えて一緒にクルクル回りだす射美。
「離せバカヤロウ! 何なんだよ一体!」
「攻ちゃんがタヌキさんになったトコ想像してうっかり萌えたでごわす〜♪」
「ボクをネタに腐った妄想すんな!」
 篤が勤に向き直る。
「つまり、この誉れ高きウサ耳も、『禁龍峡』が暴走した結果であるということですか?」
「そうだね、それ以外はちょっと考えづらい。何らかの特殊操作系バス停使いによる攻撃かとも考えたけど……」
「あ、それはないでごわすよ〜」
 もがく攻牙の頬をムニムニしながら射美は言った。
「タグっちとディルさんは内力操作系だし、ヴェっさんは外力操作系でごわす。射美の能力もそーゆーのじゃないでごわすし」
「いい加減離せコラーッ!」
「あだっ! か、噛むなんてひどいでごわす〜!」
 向かい合ってふしゅぅ〜ッ! と威嚇しあう射美と攻牙。
「ふむ、では『禁龍峡』の暴走で決まりだな。恐らく、タグトゥマダークにも俺と同様の症状が現れているのだろう」
 篤はそう締めくくると、あっくんの耳にたーくんが猫パンチでじゃれかかっているさまを見た。
 おもむろに、そこへ手を伸ばす。
 たーくんは篤の手に驚いて「みゅ!?」飛び退ったが、あっくんは落ち着き払った様子で身を起こした。
 申し合わせたかのように掌へとよじ登ってきたあっくんを、今度は頭の上へ運ぶ。
 すると命じられたわけでもないのに、あっくんは頭を移動してウサ耳の間へちょこんと身を落ち着けた。
「ふ……」
 安らいだ微笑みを宿す篤。
 その様子を、全員が微妙な表情で眺めていた。
「……なんでお前は兎を頭に乗っけてご満悦なんだ……」
「美しく、気高い生き物だ。月の住民と呼ばれるのも頷ける」
「お前はもう語尾に『ぴょん』とでもつけてろよ!」
「わかったぴょん」
「やっぱいい! やめろ!」
「冗談だぴょん」
「……」
「……ぴょ、ぴょん」
 周囲を、重苦しい空気が包み込んだ。
「お……い……? 篤くん? ま、まさか……」
 やや青い顔をする勤。
「……付けるつもりはないのだが付けてしまうぴょん」
 腕を組んで眼を閉じる篤。
「ちょっ! これ……もうこれ! 病院! 救急車!」
 攻牙は頭を抱えた。
「まずいな……これはどんどんウサギ化が進行する流れだよ絶対」
 汗をかく勤。
「どうやら見つけ出すしかねえようだな……『禁龍峡』をよ」
「えぇ〜! いいじゃないでごわすか。諏訪原センパイ、カワイイでごわすよ〜」
 射美の不満げな声に、篤もうなずく。
「うむ、俺も特に不都合は感じていないぴょん」
「いや良くねえだろ! どーすんだよこのままウサギになっちまったら!」
「むしろ功徳(くどく)というものだぴょん。俺はその運命を安らぎと共に受け入れるぴょん」
 仏像みたいなアルカイック・スマイルを浮かべる篤。
「もう多分バス停は使えなくなるぞ!?」
「大事なのは力ではないぴょん。決意と、覚悟だぴょん」
「まっとうな生活を送れなくなるんだぞ!?」
「営みがどのように変わろうと、俺の魂は変わらないぴょん」
「手の構造もウサギ化したらドスが持てなくなるぞ!」
「む……それは困るぴょん」
「なんでそこで引っかかるんだよお前は……」
 疲れた声を出す攻牙。
「切腹は己の魂を純化するのに必要不可欠な儀式だぴょん」
 篤は、哀愁が染み込んだ溜息をつく。
「……ままならぬものだぴょん。致し方がないぴょん。ウサギ化するにせよ、人間にとどまるにせよ、『禁龍峡』は見つけ出さねばならないようだぴょん」
 とりあえず、そういうことになった。

 ●

 帰りのバスに揺られながら、篤は物憂げな様子で外の景色を眺めている。
 脳裏には、ふつふつと取り留めのない思考が去来している。
 今までのこと、これからのこと、自分がウサギになると知ったら霧華はどんな顔をするだろうかということ、あとウサ耳だと頭が洗いにくくなるなぁということ。
 そして、タグトゥマダークのこと。
 あの男も、自らの運命を知っているのだろうか?
 数多くの人間がひしめくこの世界で、自分と彼だけが獣化しつつあるということに、何か意味があるのだろうか?
 どこか、対比のような構図を感ずる。
 そして、想像する。タグトゥマダークが、ネコ耳を生やしたところを。
「うグッ……」
 なんかこう、こみあげてきた。グラシャラボラス的衝動が。
 ――想像以上に、不愉快な心象だ。
 別段ネコ耳そのものが醜いわけではない。子猫のたーくんは大変かわいらしい生き物だと篤も思う。しかし、その耳がよりにもよってあの男についているという事実には、冒涜的なものを感じる。この世の美なるものへの冒涜だ。
 ――死にたい! 死のう!
 フラッシュバックのように、その声が蘇る。
 つばを飲み込んで、吐き気を押し戻す。
「篤くん」
 隣の席にいた勤が、声をかけてきた。
「ぴょん?」
「いや、『ぴょん?』って……」
 気を取り直すように咳払い。
「実は、みんなの前では言っていなかったことなんだけど……」
「なんですぴょん?」
 どことなく躊躇うような勤の口調に、篤は振り返る。
 なんとも言いがたい苦みばしった表情だった。
「霧沙希藍浬という子のことだ」
「霧沙希がどうかしたんですかぴょん?」
「彼女は、その、《楔》の場所を知っているんじゃないのかい?」
「……おっしゃっている意味がよくわからないのですぴょん」
「いや、ただの憶測なんだけどさ。話を総合すると、彼女があの猫と兎を拾った瞬間、君とタグトゥマダークという人に獣耳が生え出したんだろう?」
「正確な時刻はわかりませんが、その可能性は高いと思いますぴょん」
 篤は、思い出す。
 ――そういえば、《楔》についての話が出てから、藍浬は妙に口数が少なかった。
「じゃあ……もう、答えは出てるんじゃないかな」
 沈黙が、二人を包み込んだ。
 電信柱の影が、断続的に通り過ぎてゆく。
 バスは、開けた田園地帯に差し掛かっていた。
 篤は、窓の外に眼を向けた。
「勤さん」
「う、うん」
「夕陽が綺麗ですぴょん」
「……そ、そうだね」
「夜になれば、月明かりが闇の底を青く浮かび上がらせますぴょん」
「うん」
「……俺は、美しいものが好きですぴょん」
「うん、知っている」
「友誼や、信頼といったものも、美しいと思いますぴょん」
「うんうん」
「勤さんは、どう思われますかぴょん?」
 篤は、再び勤に眼を向けた。透徹した眼差しだった。
 両手を挙げながら、ため息をつく勤。
「……わかったよ。君の好きなようにするといい。上へはひとまず報告しないでおく」
「ありがとう、ございますぴょん」
 バスが、『亀山前』に到着した。

 ●

 翌日、いつもよりかなり早く(具体的には朝の四時)家を出た篤は、校門前で腕を組んで佇んでいた。
 すでに二時間近く立ちっぱなしである。
 この時間に登校してくるのは、運動部の朝練に参加する生徒のみなので、ほとんど人気はない。
 ――霧沙希は、毎日かなり早い時間に登校してくる。
 彼女曰く、誰もいない教室に差し込む朝陽はとても詩的……とのこと。
 確かに、なかなか、悪くない。
 涼しく澄んだ空気と、その中に溶け込む陽光。反射して煌めく草木。こんな時間でも、どこかでニイニイゼミが鳴いていた。
 まだ損なわれてはいない、夏の日の匂い。
 ――おぉ、その素朴なる花鳥風月よ。
 これからは、毎日この時間に登校するつもりである。趣深いこの光景は、早起きのモチベーションという点で重要だ。
 とにもかくにも、確認はしなければならない。霧沙希が今回のウサ耳事件に関与しているのかどうか、篤は確かめるために早起きをしたのである。
 やがて。
「あら? 諏訪原くん、どうしたの?」
 桜吹雪に揺れる鈴――その音色のような声がした。
「霧沙希か」
 すでにかなり前から、涼しげな気配が歩み寄ってくるのは察知していた。
 艶やかに揺れる黒髪。ふくふくとした笑み。
 盛夏だというのに、彼女の周囲だけ春の薫風が吹いている気がする。
「お前を待っていたぴょん」
 事実、彼女が具体的に何時に登校してくるのかわからなかったので、篤は実に朝の四時半からここで立ちっぱなしであった。
 藍浬の足が、止まった。
 軽く眼を見開いている。
「え……っと……」
 声に、多少の困惑が見て取れた。霧沙希にしては非常に珍しい反応である。
 ――これは、やはりそうなのか?
 篤としては、今回のウサ耳騒動の原因を、即藍浬のせいだとは考えていなかった。が、この反応を見る限り、何らかの関係はあるのかもしれない。
「どうして?」
 困ったように微笑みながら、そう探りを入れてくる。
「お前が知る必要はないぴょん」
「ええ……? ふふ、なにかしら。気になるなぁ」
 これは韜晦しているのか、それとも本当にわからないだけか。
 どちらとも取れる表情である。
「お前はすでに、心当たりがあるのではないかぴょん?」
「よく、わからないけど……」
 頬に手を当てる。心なしか、目が伏せられている。
 隠し事のある人間は、他人と目を合わせたがらないものだ。これはやはり黒なのか。
 ――勤さんの言う通りに。
 だが、それだけでは彼女が犯人だと断定するには弱い。
 嘘をついている眼には、形而上の濁りがある。篤は、そういうものを見抜く動物的な感覚が優れていた。あっくんのように、種族も違えば言葉も通じぬ存在とすら分かり合えたのだ。霧沙希藍浬相手にそれができぬはずもない。眼は口ほどにものを言う――実際にはそれ以上だと篤は考える。
 ――もしも俺が、攻牙や鋼原ほども天才であれば、言葉から真実にたどり着くこともできたかも知れぬ。
 だが、自分にはそんなことはできない。
 ――ならば致し方あるまい。
「霧沙希、俺を見るぴょん。眼を見るぴょん」
「ぇ……?」
「さすればお前が成すべきことは自ずと知れるぴょん」
「諏訪原くんを……見ればいいの?」
「うむ。俺の眼を見るのだぴょん」
「よくわからないけど、了解です」
 大きな黒曜の瞳が、篤の眼にぴたりと合わされた。まっすぐで、清澄な視線。人の心の邪念を見透かして、その上で許すような、静かだが力強い眼力だ。
「うぅむ」
 篤は思わず唸る。
 いつか辿り着きたいと願う境地を、藍浬はごく自然に体現している。
「美しい……」
「えっ」
 藍浬の頬に、さっと朱が差した。
 その瞬間、
 ――むむっ、瞳に邪念が入った……!?
 篤の気配センサーは、彼女の中に「動揺」と「秘密」の匂いを感じ取った。
「ふっ……馬脚をあらわしたな、霧沙希よ」
「えぇー……?」
「これからずっと、お前の近くにいることしたぴょん」
「す、諏訪原くん……っ? えっと、あの、本当に、どうしたの……?」
「そして毎日こうしてお前を見ることにしたぴょん」
「ま、毎日……?」
「うむ、毎日だぴょん」
 ざわり、と。
 周囲の空気が一変した。
 喧しいニイニイゼミの鳴き声が、フッと消え去った。
 花の香りが、涼しい風に乗って漂い始める。
 早朝とはいえ汗ばむほどの気温だったのが、なぜか今は心地よい適温だ。
 辺りの草木が、その枝葉の先で一斉に蕾を膨らませ、母を求める赤ん坊の手のように開花し始めた。早回しの映像じみた光景であった。
 空を染める桜の並木。
 地を彩る菜の花の絨毯。
 ぽつぽつと控えめに灯る、タンポポやカタクリ、雪割草。
 霧沙希藍浬を中心に、色彩豊かな世界が広がってゆく。温かく、ぼやけて、にじんだ世界。
 奇妙なことに、遠くの山々や隣の小学校などは、夏の風景のままだ。異変は、彼女の周りに限定されている。
 まるで、彼女の中で折りたたまれ静止していた春の時間が、一気に展開したかのように。
 ――これは……どうしたことだ……?
「からかわないでよ、もう……」
 藍浬は、自分の両頬に手を当てて、拗ねたような、怒っているような、輝いているような、微妙な眼を向けてきた。
 それから、藍浬は逃げるように駈け出した。
「あ、こら、待つぴょん」
 遠ざかってゆく足音。
 ともなって、急激に春の世界が閉じていった。
 気温が上がり、セミの声が響き渡り、花々は最初からなかったかのように閉じていった。
 幻惑的な春の色彩は、強い日差しを吸い込んだ深緑へと戻ってゆく。
 夏の時間が、戻ってくる。
「ふぅむ」
 篤は顎に手を当てて考える。
 しかし約十秒の熟考の末わかったことといえば「考えてもわからない」ということだけだった。
 と、その時。
「むっ……!?」
 地面が、揺れ始めた。視界が軽くかき混ぜられる。草木がざわめき、ちらほらと葉が落ちてゆく。
 不安を煽る、その律動。
 だが、持続したのはほんの五秒ほどだった。ほどなく地震は収まり、常態を取り戻す。
「……うーむ」
 とりあえず、藍浬を追いかけることにした。

 ●

「にゃふー、それじゃあ今度こそ諏訪原クンをブッ殺しにいってきますニャン」
 タグトゥマダークは、相変わらず頭にタンポポ咲いていそうな笑顔で言った。
「いってらっしゃいませお兄さま。せいぜい失敗しないようにお気をつけ下さいね」
 夢月が玄関先まで見送りに出てきてくれた。なかなかに珍しいことである。
「うん、がんばるニャン!」
 ――結局、ネコ耳について出来ることは、現時点では存在しないらしい。
 ヴェステルダークが『禁龍峡』を見つけてどうにかするまでは、このまま語尾に「ニャン」をつけるという死にたくなるような生活を強いられるようだ。
 タグトゥマダークは、息を吐きながら昨晩のことを思い出す。
 帰ってきた射美には笑われるし撫でられるしプラスチックの猫じゃらしで遊ばれるし、ディルギスダークには「現代医学の敗北」とか「オタ文化への主体なき追従」とか「フィギュア萌え族」とかひどい言葉を散りばめた陰鬱なマシンガントークで精神的に追い詰められるしで、何度死のうと思ったことか。
 しかしそれでも、最終的には気分が落ち着いた。
 なんつってもヴェステルダークに任せておけばいずれ解決する問題なのだ。わりかし気は軽い。
「あぁ、でも私は正直心配ですわ……」
「ははは、夢月ちゃんは心配性だニャア。でもうれしいニャン」
 夢月は頬に手を当てて、憂いに満ちた目を伏せる。
「お兄さまは道中でシオカメウズムシに捕食されないかしら……」
「どうしてそこでゾウリムシ扱いされなきゃならないのか全然わかんないニャン!」
「捕食されればいいのに……」
「願望になった!?」
 夢月はそこで小さな肩をすくめた。
「はぁ、それでは戦に臨むにあたっての重要なアドバイスをひとつ」
「うん! うん!」
「首級が見苦しくなるので口は閉じておきなさい」
「うわぁい! 夢月ちゃんは本当に心づかいが細やかだニャア! 死にたい! 死のう!」
「それから……」
 不意に、夢月は歩み寄ってくる。
「ん?」
「はい、これ」
 手渡されたのは、神社で売ってそうなお守りであった。
「買いましたわ。安物ですが、身につけておいてくださいませ」
「あの、うれしいんだけど、これ交通安全のお守りだよね……?」
「あら、安産祈願のほうが良かったかしら?」
「何を生ませるつもりなの!?」
 ひしっと。
 唐突に、夢月はタグトゥマダークの胸元にしがみついた。
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「……うん」
「夢月を一人にしないでくださいね」
「うん、大丈夫だニャ」
 両腕で、そのあまりに小さな肩を包み込んだ。
 温かかった。

 ●

 ハイパーミニマム高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、その日いつにも増して沈鬱な気持ちを抱えて登校していた。別段、いくら牛乳を痛☆飲しようが一向に成長する気配のない我が身を儚んでいたわけではなく、もっと別の事情であった。
「いやこれもうヤベーよこれマジやべーよ勉強してねえよ昨日も全然!」
「昨日の今日ですべきことを忘れるなんて、攻ちゃんはほんとうにオロカな生き物でごわすね♪」
「そういうお前はやったのかと言いたい!」
 射美は目をそらした。
「……そーいえば昨日家に帰ったら、タグっちやっぱりネコ耳生えてたでごわすよ〜。指でつっつくとパタパタ暴れて超キュートでごわした♪」
「ネコ耳で遊ぶあまりやってなかったんだな! すっかり忘れてやがったんだな!」
「……夏休みなんて……無意味な慣習でごわす……」
「すでに夏を諦めてたーッ!」
 校門をくぐり、下駄箱へ向かう。
 と、その時。
 こちらに向けて駆け寄ってくる足音がひとつ。
「あっ、霧沙希センパーイ♪」
 射美が声を弾ませる。
 黒髪を大きく揺らして駆け寄ってきたのは霧沙希藍浬だった。
 珍しく息を乱し、胸元を押さえている。
「はぁっ、はぁっ」
 二人の前にたどりつくと、膝に手をつきながら息も絶え絶えに言った。
「攻牙くん、鋼原さん、た、たすけてくれない……?」
 攻牙と射美は顔を見合わせる。
「な、何があったでごわすか?」
「ついに敵襲かー!」
「ち、違うの……諏訪原くんが……」
「?」
 ――だっ、だっ、だっ、だっ……
 異様なほど規則正しい足音が、近づいてくる。
「あ……追いつかれちゃう……」
 さっと二人の後ろに隠れる藍浬。
「――ようやく追いついたぴょん。観念するぴょん」
 落ち着いた声。
 白いウサ耳をまぶしく揺らしながら、諏訪原篤がターミネーターT-1000のごとく突進してくる。
 そして唖然としている攻牙と射美の前で立ち止まり、二人の背後にいる標的を冷静な視線で貫いた。
「さあ、出てくるぴょん。そして大人しく俺の眼を見るぴょん」
「いやお前はいきなり何を言ってるんだよ!」
 篤は攻牙に眼を向け、鼻を鳴らした。
「攻牙、そこをどいてほしいぴょん。俺は常に霧沙希を視界に納めていなければならぬぴょん」
「な、なんでだよ」
「一言で言うと、眼と眼で通じ合うためだぴょん」
 攻牙は頭を抱えた。
「病院! もうこれ病院行こう! いいから! 病院!」
「落ち着くぴょん。俺は乱心してはおらぬぴょん」
「今のお前じゃ何を言っても説得力ねえんだよ!」
 と、そこで攻牙は肩をちょいちょいと引っ張られた。
 振り向くと、射美が眼を輝かせている。
「まぁまぁ攻ちゃん。これはアレでごわすよ、スウィートな青春イベントという奴でごわすよ」
 にゅふふ、と口に握った手を当ててほくそ笑む射美。
「いっやー、まさか諏訪原センパイがこんなセッキョク的なアプローチをするとは、いっやー、この海のイルミの目をもってしても見抜けなんだわーでごわすー!」
 ――リハクなめんなよコラー!
 と攻牙は突っかかりたかったが、
「〜〜〜〜っ!」
 背後から聞こえてくる変な声に気をとられた。
 首を絞められたハムスターの悲鳴じみた声だった。
「え?」「う?」
 射美と同時に背後を見る。
 ……藍浬が両手で顔を覆っていた。
「わ、わ、わた、わたっ」
 うつむきながら、か細い声で。
「わたし、困る……かも……そんな……急に……」
「うむ、お前にも負担をかけるかもしれぬが、どうしても成さねばならぬのだぴょん」
 篤はずいずいと歩み寄る。
 その気迫に圧されて、攻牙と射美は思わず後ずさる。
「さあ、その顔を見せてくれぴょん。俺は霧沙希の心を知りたいのだぴょん」
 篤は手を伸ばし、藍浬の細い手首を包み込んだ。
 藍浬はぴくんと身を震わせ、ゆっくりと手を顔から離してゆく。
 徐々にあらわになる顔(かんばせ)。紅潮した頬。リスのように引き結ばれた口。指の隙間から覗く潤んだ瞳。
「や、やっぱり無理〜っ」
 篤の手を振り払うと、脱兎の勢いで走り去る。
「待つぴょん」
 素早く腕を伸ばし、逃げようとする藍浬の肩をつかむ。
 そのままぐいと引き寄せ、自分のほうへと向かせた。
 両手が藍浬の両肩を捕らえる。
 藍浬の背中が、下駄箱に押し付けられた。
「ま、待って諏訪原くん! これはちょっとおかしいわ。何がともいいがたいんだけど、何かがすごくおかしいと思います……!」
「もはやお前を放さないぴょん」
「勘違いしちゃう……そんなこと言われるとわたし勘違いしちゃうから……落ち着いて! きっとどこかですれ違いがあるんだと思うっ!」
「その通りだぴょん。だからこそこうやって、誤解や欺瞞なき関係を築く儀式を行うのだぴょん」
「……きゅう」

 ●

 ――この瞬間、紳相高校を中心とする半径一キロの範囲で、気候や植生その他の環境が一時的に春になるという不可解な超常現象が観測された。
 超法規的秘密財団法人『神樹災害基金』の中枢機関は、この事実を厳粛に受け止め、大規模なお花見大会を決行することにした。

 ●

「アブソリュート☆斬殺タイム、はっじまっるニャーン!」
 ……その一撃をかわせたのは、ひとえに篤の『常住死身』たる信条ゆえであった。「生きるため、常に命を賭け続ける」ということ。それはすなわち二十四時間臨戦態勢を維持するということに他ならない。
「むぅ!」
 瞬間的に藍浬を抱きしめると、横っ飛びにその場を離脱した。
 閃光。
 動体視力の限界を超える、フェムト時間単位での斬撃が、凄艶な弧月を描いた。
「は〜ん? やっぱり思った通りだニャン! 諏訪原篤……キミは不意打ちが通用しないタイプの使い手みたいだニャン!」
 ――いずこか……?
 篤は、今何らかの攻撃を受けたことは理解していた。だが、敵がどこからどんな攻撃を仕掛けてきたのか、まるで理解できなかった。何もない空間に、突如として斬撃だけが迸ったのだ。
「ああっ! タグっち! も〜おダメでごわすよ〜今いいところだったのに〜!」
 射美が上を見上げ、手を振り回しながら抗議する。
「やあ射美ちゃん! 諜報活動御苦労さまだニャン! だけどサムライ少年の首は僕がいただくニャ〜ン!」
 どこからともなく響いてくる、タグトゥマダークの声。
 気配は、ある。すぐそばにいるのがわかる。だが位置は特定できない。
「さぁて、こんにちは諏訪原クン! 相変わらずウサ耳と仏頂面が合わなさ過ぎて精神的ブラクラだニャン! 前回は見苦しいところを見せちゃったニャン! リベンジマッチといきたいんだけど、僕の挑戦、受けてくれるかニャン!?」
 躊躇いもなく「よかろう」と答えるには、あまりに危険な匂いのする相手であったが……
 ――異存はない。
 篤は無言のまま重々しくうなずいた。
「グッド! そんじゃあ屋上にご招待だニャン! 最高のおもてなしを用意してるニャ〜ン!」
 そう言い残し、気配は遠ざかっていった。
 しばしの沈黙。
 やがて、攻牙が鼻を鳴らした。
「明らかに罠だな。悪役をやりなれてやがるぜあのイケメン野郎……」
 そして楽しそ〜ぉに笑った。
「『グッド!』に『ご招待』に『おもてなし』だと? 上等じゃねーかよオイ!」
 いきりたつ攻牙の目前に、篤の腕が伸ばされる。通せんぼの形だった。
「……なんだよ」
 篤はゆっくりと首を振った。ウサ耳が頭の上で揺れた。
「そ、そーでごわすよ。タグっちはマジで強いでごわすよ〜攻ちゃんは下がってた方がいいでごわすよ〜」
 射美が横から攻牙の腕を掴む。眉尻は下がり、ちょっぴりマジな顔である。
 攻牙は舌うちした。
「――超人的怪力。クレーターを作るほどの近接攻撃。エネルギー操作による遠隔攻撃。車に轢かれても傷一つ負わないバリアー。そしてそれらの原則にも当てはまらない超常能力――」
「こ、攻ちゃん……?」
「ナメてんじゃねーぞコラ。お前らバス停使いのスペックなんざとっくに学習済みだぜ」
 頬を歪め、尖った歯を見せる。
「ボクが何のために試験勉強ほっぽりだして駆けずり回ったと思ってんだ!」
 クックック……と含み笑いをする攻牙。
「学校中に仕掛けまくった対バス停使い用即死トラップの数々……火を噴く時がきたようだなあ……!」
「そ、そんなものをー!? ウソ、気付かなかったでごわす!」
「気付かれたら罠になんねーだろうがよ! ボクも屋上に行くぞ! 無力な一般市民扱いなんかお断りだぜ!」
「ううぅ!」
「篤! 文句はねーよな?」
 返事はなかった。
「……あれ? 篤?」
 篤はいなかった。
 しゃがみ込んでプスプスと湯気を上げている藍浬がいただけだった。

 ●

 ――ずっと。
 篤は階段を上りながら、自嘲していた。
 ――ずっと目を背けてきたのだ。
 避け得ぬ宿命。絶対の敵対者。
 そういうものは、存在する。
 ――愚かなことだ。
 本質の是非ではなく、篤自身のエゴによって、否定せざるを得ない敵。
 何が起ころうと、許してはならぬ敵。
 ――認めたくは、なかった。
 悪は倒さねばならぬ……篤のシンプルな倫理観は、そう告げている。
 だが、この胸の底から沸き上がってくる、冷たく引き攣れるような闘志は、それ以外の理由によるものだ。
 ――かの敵は、俺のありようを否定する。
 [だから]、討とうとしているのだ。篤が殉じようとする「道」ではなく、さらに言うなら「正義」ですらなく、[自分が否定されたくないがために]、篤はタグトゥマダークと相対するのだ。
 ――嗚呼、本当に、認めたくはなかった。
 自分を守るために、戦いたくはなかった。霧沙希藍浬のように、温かい微笑みですべてを受け入れたかった。本当の強者とは、何かを否定する必要がない者のことなのだ。
 ――だが、それは無理だ。
 タグトゥマダークは、恐らく、生涯をかけて否定せねばならない相手なのだ。
 ――霧沙希よ、どうやら俺は、お前のようにはなれない。
 その事実が、喩えようもなく、哀しかった。
 やがて、屋上へと通ずるドアが、目の前に出現した。
 力を込めて歩みを進める。
 ――俺は、ネコ耳を、許せない。
 扉を、開ける。

 ――やはり、似ている。
 夏の空の下、フェンスの上に悠然と立つタグトゥマダークの姿を見た瞬間、篤はそう思った。
 しなやかな痩身。長い手足。色素の薄い髪。そしてネコ耳。
 顔立ちも背格好も特に共通点はなかったが、その佇まいにはどこか、死への意思を感ずる。
 何らかの理由で、死に魅入られた者の立ち振る舞い。
 まるで鏡を見ているかのような、親近感と嫌悪感。
 そう、似ているのだ。篤とあっくんが似ているのと同じ程度に、篤とタグトゥマダークは似ている。
 だからこそ、許せない。
「うぇええるか〜む! 待って〜たニャ〜ン!」
 タグトゥマダークは、ゆくりと振り向いた。満面の笑み。
 眼が合う。空気が、ドロリと濁る。
「一人で来るとは感心だニャン! 武士道ってやつかニャン!? 超シブいニャーン!」
 足首だけの力で軽く跳躍し、宙返りしながら床に降り立つ。
 着地の際に音も立てない、羽毛のような動き。
 同時に、頭のネコ耳がぴょこんとお辞儀する。
 篤は、奥歯をかみ締める。
「――おぞましきかな、猫の化生。俺は何故か自分でもわからぬが、そのネコ耳をどうしても許せなくなったぴょん」
「へえ、そうニャン? 僕はキミの耳は嫌いじゃないけど、君自身は大嫌いだニャン」
 亀裂のような笑みを浮かべるタグトゥマダーク。
「先にバス停を抜くといいニャン」
 片足に体重をかけ、顔を傾ける。隙だらけの姿態。
「予言しておくニャン。戦いが始まったら、五秒以内にキミは地に膝をつくニャン」
 ――五秒、か。
 篤はどっしりと腰を落とし、右腕をゆっくりと横に伸ばした。前回のように、バス停を引き抜く手を押さえられることがないよう、間合いを確保している。
 ――充分だ。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
 腕が界面下に潜り込み、強壮に唸る鋼の巨鎚を握り締めた。
 青白く迸る電撃とともに、バス停を一気に引き抜く。荒れ狂う大気に、髪や衣服が暴れまわった。心地よい重量感が、腕に宿る。
 篤はタグトゥマダークを正面から睨み付ける。
「――我流、諏訪原篤だぴょん」
 口の端を吊り上げ、タグトゥマダークは応える。
「虚停流皆伝、タグトゥマダークだニャン」
 名乗りを終えて。
 ――いざ、尋常に。

「ニャァァァァァァンッ!」
「ぴょぉぉぉぉぉぉんッ!」

 かくて、ウサ耳とネコ耳の死闘が、はじまった。

 ――直後、篤の胸から、血煙が吹き上がった。
「がッ……!?」
 よろめきながら一歩二歩と後退り、片膝をつく。
「――あはは、一秒で片付いちゃったニャン」
 [背後から]、タグトゥマダークの笑い声が聞こえた。
 まるで、子供の失敗シーン満載なホームビデオを見ているような笑いだった。

 ●

「無音即時召喚……?」
「タグっちは、射美やゾンちゃんやディルさんとはちがうでごわす。ちゃんとしたおシショーさんについてって、キチッとしたバス停のあつかい方を習った人でごわす」
「だったらなんだってんだよ」
「バス停を呼び出すのに、いちいち召還文句なんか言う必要がないのでごわす。出ろと念じたときにはもう出ているでごわす」
「それは……」
 攻牙は一瞬で、無音即時召喚という特質がもたらす戦闘への利便性を考える。
「……ヤバいな」
「そう、ヤバいんでごわす。ヤバヤバでごわす。たぶん諏訪原センパイは何もできないでごわす」
「ボクにそんなことを言ってお前はどうしてほしいんだよ」
「タグっちに掛けあって、諏訪原センパイを死なせない方向で決着をつけてもらうつもりでごわす。だから攻ちゃんはその間に逃げて欲しいでごわす」
「お断りだな」
 躊躇なく即答。
「……どーあっても諏訪原センパイを助けに行くつもりでごわすか」
「ボクには思想も信念もねえけどな……それでも死の危険くらいじゃ止まってやらねえよ」
 攻牙は踵を返し、駆け出す。
 ……駆け出そうとして、後ろから肩を掴まれた。
「どーも忘れられてるみたいでごわすけど、射美はタグっちの味方でごわす。それに攻ちゃんは一見ただのショタっ子だけど、実はそうじゃないカンジでごわす。常識で考えてタグっちほどのバス停使いに一般人がなんかできるとは思えないけど、攻ちゃんはなんかやりそうでごわす」
 攻牙は、ゆっくりと、振り返った。
「ふふん。それで? 止めるのか? 力ずくで?」
「口で言ってもどーしよーもないカンジでごわす。しょうがないでごわす」
 射美は口を引き結んでいる。
 細い腕を頭上に伸ばし、叫んだ。
「接続(アクセス)! 第七級バス停『夢塵原公園』、使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)セラキトハートが命ず! 界面下召喚!」
 眩い光が降り注ぐ。
「いいぜ来いよ! リターンマッチと行こうじゃねえか!」
 肉食性の笑みを宿す攻牙。
 この場に仕掛けた罠の数々を、脳内で瞬時にリストアップする。

 ●

 ――いかん。
 胸を走る、重い痺れ。触れてみると、赤くて熱い液体がべっとりと掌を汚した。
 横一文字に、掻っ捌かれている。
 すぐに後ろを向き、敵を視界に収めた。
「さて……」
 タグトゥマダークの踵は、アウトボクサーのようにゆるやかなステップを踏み始める。その手には、バス停などない。完全に手ぶらだ。
 バス停もなしにどうやってこの傷をつけたのか。どうやって背後に回ったのか。
 いや――
 そんなことはどうでもよい。
 今の攻撃に、殺気どころか[攻撃の意志すら]感じ取れなかったのは、何故か。
 篤は、殺気を読める。意図的に死(せっぷく)と隣り合わせの日常を送っていれば、死の匂いに対する予知能力とでもいうべき、特殊な嗅覚が発達してゆくのだ。だからこそ、下駄箱で藍浬を追い詰めていた時には、どこからともなく発せられてきた殺気を読んでいち早く回避行動にうつることができた。
 にも関わらず。
 今の一撃には、またく何の意志も感情もなかった。……読めなかったのだ。
「今の一瞬で、キミの脳裏にはいくつかの疑問が芽生えたかと思うニャン」
「むぅっ」
 タグトゥマダークは悠々としたフットワークで間合いを詰め始める。
 まっすぐではなく、横に回りこむような動きだ。時折自身も回転しながら、ゆったりとした動作で――その実不気味なまでに素早く――篤の周りを巡る。まるで、さまざまな角度から隙を探すように。
「普通は何も言わずに瞬殺するトコなんだけど……キミは何だかボクと似た匂いがするニャ。もうちょっと遊びたくなったんだニャン」
 円を描くように、篤の周囲を舞い進む。
「悠長だぴょん。それは油断と余裕を取り違えて破滅する者の言説だぴょん」
「ハハ、そうかもしれないニャン。でも諏訪原くん、キミを見ていると、それもいいかななんて考えてしまうんだニャン」
 子供のように、無垢な笑みを浮かべて。
「まるではじめて会った気がしないニャン。鏡を見ているような気分だニャン。最高に最悪な気分だニャン」
 それはいつしか、冷たい嘲笑と化す。
「きっと僕たちは、生まれた時から殺しあう運命だったんだニャン」
 ぎょるっ、と音を立てて、眼が見開かれた。
 ……その瞳孔は、縦に鋭く裂けていた。
 猫の妖眼。
 捕食者の眼差し。
「さあ、いい加減反撃のアイディアは閃いたかニャン? 僕をガッカリさせないでほしいニャン」
 身を低くして、彼は床を蹴る。地を這うような低姿勢で突進する。
 轟音は立たない。コンクリートが砕けもしない。
 だがそれは、内力操作系バス停使いの驚異的脚力が、損耗なく推進力に変換されているということだけを意味する。
 その証拠に、瞬きほどの間隙もなく、間合いがゼロとなる。
「むっ――」
 来るべき攻撃に備え、篤は『姫川病院前』を構える。
 構えようとするその腕が――唐突に血を吹き上げる。
「むむっ!?」
 ――まただ!
 殺意なき、斬撃。
 読めない太刀筋。
 明らかにおかしい。攻撃をする瞬間にすら何の殺意も漏出しないなど、この男が人形でもない限りありえない。
「ははッ! 混乱してるニャン!?」
 ――ッ!?
 その瞬間、まったく唐突に、殺意が迸った。篤の意識に、はっきりと加害の意志が感じ取られた。
 滅紫の斬閃が迸る。
 火花が咲き散る。
 反射的に掲げた『姫川病院前』が、一撃を打ち払ったのだ。
 防御、成功。
 しかしギリギリだ。今の一撃は殺意の漏洩があったおかげで先んじて対応できたが、かつて闘ったどの相手よりも速く、鋭く、精確な一撃だった。もう一度同じように防げと言われても、確実にできるとはとても思えない。
 だが、そんなことよりも――
 タグトゥマダークは軽やかに宙転し、間合いを取る。薄笑いが、消えていない。
 バス停も、持っていない。
 ――どういう、ことだ……?

 ●

「むぎゅ!」
「あうぅ?」
 特に速い動きだったわけではない。
 特に強い力だったわけではない。
 だけど、攻牙と射美は、その腕を振り払うことができなかった。
 ひんやりとした感触が、二人を柔らかく包み込んでいる。
「き、霧沙希センパイ……」
 射美が狼狽した声を上げる。二の腕と鎖骨に挟まれて、借りてきた猫のように縮こまっている。
「むぎゅっ! むぎゅっ!」
 攻牙に至っては神話的弾力の側面に顔を押し付けられて呼吸困難に陥っていた。
「あのね、二人とも。聞いて?」
 藍浬はゆっくり寝物語を語るように、言葉を紡いだ。
「二人は、諏訪原くんのことは好き?」
 攻牙がもがくのをやめた。
 射美はバツが悪そうに眉尻を下げる。
「そ、それは……」
「むぎゅう……」
「わたしは、好き」
 大切にしまっていた宝物を取り出すように、藍浬は言った。
 穏やかに、口元が綻ぶ。
「だから、これはお願い。ケンカはやめて、諏訪原くんを助けるのに手を貸して、くれない?」
「ううぅ……」
 射美は口をにゃむにゃむと波線の形にし、悩んでいるようだった。
「タグっちを裏切るわけには……」
「ふふ、鋼原さん、そうじゃないわ。誰も怪我をしないような落としどころを決めましょうってこと」
 藍浬は破顔して、射美に頬擦りをした。
「うにぃ〜」
 眼を細めながら、射美は潤んだ瞳で藍浬を見た。
「……なまえ」
「うん?」
「なまえ、射美は射美って呼んでほしいでごわす」
「いいわ……射美ちゃん。手を貸してくれる?」
「んにゅふぅ〜、よろこんで♪」
「むぎゅう!」
 そんな簡単でいいのかよ、と攻牙は思った。

 ●

 わかったことがある。
 第一に、タグトゥマダークはやはりバス停を使って攻撃してきているということ。どういう仕組みなのかはわからないが、普段は素手だというのに、攻撃の瞬間だけバス停の刃が出現するのだ。
 第二に、タグトゥマダークの攻撃には、殺意があるものとないものの二種類あるということ。
 殺意があるほうの斬撃は、スピード、精度ともに凄まじく、敵の圧倒的実力を感じさせるものだった。殺意があるおかげで先読みの防御がどうにか間に合うのだが、連続で来られると恐らく防ぎきれまい。
 殺意がないほうの斬撃は、一変して質が落ちる。急所を狙ってくるわけでも、神速を誇るわけでもないお粗末なものである。しかし、殺意がないというのはただそれだけで脅威だ。ほとんど何のリアクションもできずに食らってしまう。
 ――遊ばれているな。
 そう思う。
 恐らく、息もつかせぬ連撃で畳み掛けられると、篤は瞬時に細切れになっていることだろう。タグトゥマダークは、一撃入れるごとに間合いを取り、こちらが体勢を立て直すのを待ってから次の行動に移っているのだ。
「第二次わくわく☆尋問タイム、はっじまっるニャーン!」
 またなんか言い出した。
「問い10:キミと僕は似てる感じがするニャン。けどそれは何故だと思うニャン?」
 迸る殺意。反応して、篤は得物を横に構える。
 瞬速の踏み込みと、彗星のごとき一撃が、滅紫の軌跡を描いた。
「応えて曰く:死。絶対なる終わり。それを見ざるを得ぬ者。最大の共通項はそれだぴょん」
 激突。散華。輝く粒子が舞い散る。篤は足を踏みしめて耐える。
 タグトゥマダークは追撃をかけようとせず、飛び退った。
「問い11:キミと僕は違う感じがするニャン。けどそれは何故だと思うニャン?」
 矢のごとき殺意。反応して、篤は体を半身にする。
 一息に、三回。三条の刺突が閃光の形を取って篤の姿を貫いた。
「応えて曰く:死に対する姿勢の違い。生を苦とし、死に向かう者。生を美とし、死を利用する者。その差異だぴょん」
 貫かれた篤の姿は残像。本物は一歩ずれた脇でバス停を振りかぶる。
 その瞬間、前触れなくこめかみが血を吹き出した。篤は弾かれたようにのけぞる。鋭利な傷跡が残った。殺意なき斬撃だ。
「問い12:似ていながら違う人を目の当たりにすると、なぜこうも殺意が沸いてくるんだニャン?」
 滲み出る殺意。篤は――防御も回避も期さず、ただ無造作に踏み込む。
 旋回とステップを駆使した、円舞のごとき横薙ぎが来た。冥い紫の平面が、視界を二分した。
「応えて曰く:己の悪意ある模倣を見ている気分になるのだぴょん……ッ!」
 最初の二撃を肩から背中にかけて受け、斬り裂かれるのにも構わず猛然と突進。
 何の脈絡もなく脇腹と太腿から血が噴出するが、無視。
「問うて曰く!」
 下手に避けようとせず、逆に前進したのが功を奏した。斬閃の内側にもぐりこむ。踏み込んだ足を軸に旋回し、旋回し、旋回。『姫川病院前』に遠心力を乗せる。強烈な横G。両腕が引っこ抜かれるような感覚。
 そして――慣性を解放。
 下からすくい上げるように、総身の力をひとつにして、『姫川病院前』をブチかました。
「貴様はなぜ死を希求するぴょん!」
「ッ!?」
 着弾。
 吹き荒れる〈BUS〉の狂風。爆音が世界を軋ませる。
 芯を捉えた打撃の反動が、篤の全身を駆け抜けてゆく。
 空が、広がる。タグトゥマダークの体は天高く浮き上がった。
 きっちりとバス停で防御しているようだが、体全体にかかる衝撃はどうしようもない。望まぬ滞空を強いられているようだ。
 その間、篤はバス停を振り抜いた姿勢から、流れるようにコンクリート塊を後方に向けた。そしてギターを持つように支柱を両手で握り締め、空中の宿敵を睨み付ける。
「応えよ! タグトゥマダーク!」
 瞬間、地面に向けられたコンクリート塊が爆裂。〈BUS〉をガスバーナーのように噴射し、篤の体を上空へ射出した。押し広げられた大気が白い輪を形作り、噴進する篤の軌跡を強調する。
 空中のタグトゥマダークへと。
 一直線に突貫する。
 腹の底から、必殺の気合が迸り出る。
 ここから放つ重撃は、回避不能の空中において、確実に敵手を粉砕することだろう。
 腕に力を込め、接触の機を待つ。
 瞬間、タグトゥマダークの体が空中でくねり――消えた。
「っ!?」
「――吠えれば」
 かすかな声。
 背後から、声。
「勝てるとでも?」
 三日月が、嘲笑いながら走り抜けた。
 優美な軌跡の踵落としが、篤の脳天を捉え、叩き落した。
「ごッ、が……!」
 頭の中で超新星爆発。
 受身も取れず、屋上に叩きつけられる。一瞬遅れて、業火に焼かれるような痛みが全身を舐め始める。
 篤は意識が暗くなってゆくのを自覚した。
 が――篤は目を見開いた。
 白く、長く、ふわふわしたものが、視界に垂れさがってきていた。
 ――おぉ。
 それは、美なるもの。
 ――おぉ……!
 侵されざるもの。侵されてはならぬもの。
「お、お、おぉ、ぉぉぉ、おおおおおおおおおぉ……!」
 叩き潰され、薄汚れ、赤く染まり、力なく。
 もはや、ぴんと伸びることもなく。
 本来ならば汚れもなく純白であったはずのそれは。
 ウサ耳は。
 篤の、誉れは。

 ●

 屋上に足を踏み入れたその瞬間に、攻牙は状況を看破した。
 血まみれの篤。なぜか膝立ちで天を見上げている。その頭から生えるウサ耳は、片方が折れて顔面に垂れ下がっていた。白毛の中から、おびただしい内出血の様子が透けて見えた。
 タグトゥマダークは笑っている。嘲っている。
 要するに、頭に何らかの攻撃を受けて大切なウサ耳が折れちゃった、の図らしい。
「左耳……左耳よ……! あぁ――なぜ! なぜお前がかくも無残な仕打ちを受けなければならないぴょん! こんな俺ごときに気高く美しい輪郭を授けてくれたお前が、なぜ……! この世には、神も仏もないのかぴょん……!」
 血涙でも流さんばかりの無念を滲ませ、篤は唸った。
 ――ホントになんなのコイツ!
 攻牙は頭を抱えた。
「おぉ、耳左衛門(みみざえもん)よ……お前の無念は哀切となり、我が胸の裡に涙の花を灯すぴょん……」
 ――ウサ耳に名前をつけだした!?
 どこまでも理解を拒む男、諏訪原篤。
「はっは! 折れちゃったニャン! 潰れて血を流して折れちゃったニャン! もうどうしようもないニャン! ウサ耳人間としてのキミは今死んだニャン!」
 タグトゥマダークは嗜虐に満ちた笑顔で篤を睨み付けている。
「まだ僕の踵には感触が残っているニャン! 命中の瞬間、耳左衛門くんが苦しみ悶え肉が潰れ血を吐き散らし絶望のうちに息絶えるその感触が! 踏みにじり、穢し尽くした感触が! 僕の頭の耳音(みみね)ちゃんと耳美(みみみ)ちゃんも悦び震えているニャン!」
 お前もか!
 センスの欠片も感じられない命名である。
「まだだ――」
 篤が、低く呟く。
 立ち上がる。
「まだ俺には、耳右衛門(みみえもん)がいるぴょん……!」
「笑止だニャン! 僕には耳音ちゃんと耳美ちゃんがいるニャン! 相方を喪った手負いごときに勝てる道理はないニャン!」
 タグトゥマダークは、姿勢を極限まで屈め、猫科の捕食者じみた構えを取る。
 その手にバス停はない。
 ――無音即時召喚ってやつか。
 普段は界面下にバス停を隠し、攻撃の瞬間だけ実体化させるのだ。
「その綺麗なウサ耳を、造作もなく刈り取ってやるニャン!」
 そして――消えた。
 超スピードで掻き消える……という感じではなく、本当にその場で消え失せたのだ。
 攻牙は直感する。
 ――ははぁ、なるほどね。
「篤! 後ろだ!」
 そうして、初めて攻牙は声を上げた。
「むう!?」
 篤はその言葉通り、旋回しつつ振り向きざまに『姫川病院前』を叩き込んだ。
 閃光の炸裂。そして轟音。
「ニャにッ!?」
 タグトゥマダークの狼狽した声。篤の打撃を、自らのバス停で防御している。
 彼の下半身は、何もない空間にぱっくりと開いた次元の裂け目の中にあり、見ることができない。上半身だけがニョキッと生えている状態だ。
 ――見た瞬間わかったぜ。
 自ら界面下に潜り込み、死角から襲い掛かる。
 ――それが虚停流ってわけだ。
 わかってしまえばなんてことはない。奴が界面下に潜航している間、こちらからは見えもせず攻撃もできないが、[それは奴とて同じこと]。対処法さえわかっていれば決して慌てるような代物じゃない。
「篤! 奴が唐突に消えた時は十中八九背後から襲い掛かってくる! 気をつけとけ!」
「むう、そうであったか……ぴょん」
「無理に語尾つけんな!」
 どんだけ気に入ってるんだよ。
「ふぅん、ずいぶん鋭い観察眼を持ってるじゃニャいか」
 タグトゥマダークは音もなく地面に降り立ち、冷徹な視線を攻牙に向けてきた。縦に裂けた猫の妖眼が、冷たい殺意を宿す。
「邪魔だニャ、キミ」
 一瞬身を屈め、跳躍。一瞬で十五メートル以上の高みに至ったタグトゥマダークは、右腕を界面下に突っ込んでいた。上空からの急襲をかけるつもりか。
 攻牙は緊張に身を強張らせた。
 と同時に、違和感を覚える。
 ――なんだ?
 なぜ奴は跳躍している?
 普通に駆け寄って斬り捨てればいいだけの話ではないか。飛び込み攻撃が強いのは格闘ゲームの中だけの話だ。途中で止まることのできないジャンプアタックは、現実では死に技である。動きが読まれまくるから。
 にもかかわらず、なぜ?
 ――まるで、そこに障害物でもあるかのように。
「虚停流初殺――」
 空中で身をよじり、刃を抜き降ろしてくる。
 攻牙は飛び退る――が。
 雷光より眩く鋭い、垂直の軌跡。
「くあ……!」
 頬から腹にかけて、赤い線が刻まれる。痛みではなく熱を発する。
 間に合わなかった。だが浅い。致命傷には程遠い。
 見ると、タグトゥマダークはバス停を振り下ろした勢いのまま界面下にしまい込み、その姿勢のままさらに踏み込んできていた。
「――〈燕天地〉」
 吹き上がる、斬光。
 初撃から第二撃までの間に当然あるべきタイムラグは、すべてキャンセルされていた。体感的には、ほとんど同時に振り下ろしと振り上げが来たように感じられる。
 回避不可。
 防御不可。
 ――おい! こんな序盤で負傷イベントかよ!
 などとメタ思考で現実逃避してみるも、いやいやこれは負傷どころか確実に死ぬ感じの攻撃ですぞと脳内執事(元傭兵)が上申してくるのを聞き流しつつこれちょっとマジやばくねえかよオイこれどうすんだよオイ!
 攻牙はこういう時、脳内に第二第三の自分を作り、一瞬でそいつらと相談するという癖があった。
 ――脳内有象無象ども! てめーらの意見を聞こう!
 即座に脳のあちこちから意見が上げられた。「受け入れろ。ここはそういう世界だ」と大脳辺縁系在住の脳内暗殺者が吐き捨て、「死とは一種の相転移に過ぎない。恐れるなかれ」などと海馬在住の脳内武術家が嘯き、「君の死は作戦の範疇だ」と脳幹における本能のうねりを監視していた脳内陸軍士官は冷徹に丸眼鏡をクイッとやり、「お前の死を乗り越え、俺は必ず世界を救う!」と脳下垂体に巣食う脳内魔王と対峙していた脳内勇者は涙の決意を固め、「あの、あれだから、いわゆるその、あれ、なんていうかなぁ、バッドエンド? デッドエンド? とにかくそういう感じでな、もうあれだな、せっかく女の子が二人もいるのにフラグの一つも立てないからこんなことになるんだぞバカだなぁアッハッハ」と視床下部の狭間で寝そべっていた脳内親父が爽やかに笑った。なんでここにいるんだ穀潰し。
 鋼鉄のひしりあげる悲鳴が、攻牙の益体もない思考を中断させた。
「……!?」
「くうっ!」
 同時に、前から何かがぶつかってきた。
「わぶっ」
 誰かの背中だ。
「攻ちゃん! 怪我は!?」
 ――え。
 背中ごしに聞いてくるその甘ったるい声は。
「……お前」
 鋼原射美!
 バス停『夢塵原公園』を構え、タグトゥマダークの斬り上げを受け止めている。
 なんか身を挺して庇われてしまったようだった。
 ――くそっ! ちょっとカッコいいじゃねえか!
 射美のくせに! ちょっとこれ弱すぎだろ(笑)などと第二部で嘲笑されたであろう鋼原射美のくせに!
「不愉快な空気を感じるでごわすー!」
「気のせいだ! それよりお前いいのかよ! 明らかに裏切り行為だぞ!?」
「うっ、それは……」
「何も考えてなかったのかーッ!」
 ――瞬間、気温が急激に下がった。
 攻牙と射美は、はっと前を見る。
 タグトゥマダークがバス停を界面下にしまい、軽く首を傾げて射美を見下していた。
「えっと……何なのかニャ? 射美ちゃん。ちょっと僕混乱してるんだニャン。君のその行為がどういうつもりなのか、よくわからないんだニャン」
「た、タグっち……」
「あ、うん、わかってるニャ。射美ちゃんのことだからきっと何か事情があるんだニャン。悩みがあるならお兄さんに言ってみるニャン?」
 頬が引き攣れ、笑みを刻む。しかし、眼は笑っていない。
「あ、あのぅ……」
「うん」
「実は……」
「うんうん」
「す、諏訪原センパイと攻ちゃん、殺さないような方向で済ませられないかなぁ〜、なんて……思ったり?」
「え?」
「だ、だから、誰も殺さなくても、いいんじゃないかなぁ、って思ったんでごわす」
「え???」
「うぅ〜! 殺すのやめてくださいって頼んでるんでごわすぅ!」
「え?????????」
「ううううううぅぅぅぅぅぅぅ〜!」
「死ね」
 界面下より抜停し、おもむろに斬撃。
 微塵の躊躇いもなく。
 恐らくは、射美がどう応えようが仕掛けるつもりだったのだろう。それほどまでに太刀筋は冷たく、耽美なまでに残虐だった。
 射美は、眼を見開き、凍り付いていた。
 が――
「ぴょんッ!」
 横合いから、凄まじい力で突き飛ばされる。「わっ!」「きゃんっ!」攻牙と射美は宙を舞い、倒れ伏した。
 見れば、今度は篤が『姫川病院前』で処刑の一撃を受け止めていた。硬質の激突音と同時に、異なる意志に統御される二振りのバス停が反発して光の粒子を撒き散らした。
「二人とも、無事かぴょん」
「無事じゃねー!」
「うむ、何よりだ。急いで立つぴょん。油断は禁物ぴょん」
「てんめえ……」
 攻牙は跳ね起きる。
 そして競り合う二人を見る。
 タグトゥマダークのバス停が、今ようやく、姿を現していた。その看板部位には、タグトゥマダークの得物の真名が、克明に刻み込まれている。
 『こぶた幼稚園前』。
 攻牙は思わず脱力して倒れ伏した。
 いいけどさ!
 別にどのバス停を使おうがいいけどさ!
 次に目に入ったのは、敵のバス停の握り方である。
 基部のコンクリート塊を先端に据えて振り回す握り方を「逆持ち」と言うらしいが、タグトゥマダークの握り方は「逆手持ち」とも言うべきものだ。コンクリート塊のすぐ近くを持ち、小指側から刃となる看板が伸びている。
 バス停を持つ拳が地面に向く形で、振り下ろしていた。
「せいッ!」
 〈BUS〉の光が激発する。
 篤が力任せにバス停を押し込み、相手を突き飛ばしたのだ。
 しかし、
「ふむ……やっぱり力比べじゃかなわないニャン」
 体制を微塵も崩すことなく、タグトゥマダークは着地する。
 血塗れの篤は、据わった眼でそれを見ている。
「今……何をしようとした……」
 重い声で、篤は問いかける。
「え? はぁ? 僕なんかやったかニャン? 気のせいじゃないかニャン?」
 瞬間、その双眸がカッと引き剥かれた。
「何をしようとしたのかと聞いている!!」
 一喝。
 空気が帯電したように震えた。
「……不愉快だニャン」
 タグトゥマダークは眉間に皺を寄せた。
「下位者の裏切りを処断するのになんでキミごときの了解を得なけりゃならないんだニャン? 弁えろよ学生クン」
「よくわかったぴょん」
「へえ、そりゃ何よりだニャン」
「……貴様が恐るに足らん匹夫であるということがな」
 二人は険悪などというレベルを超えた視線を交し合う。
「あんまりナメた口聞いてると楽に死ねないニャン?」
「問題ないぴょん」
 篤はバス停を構えた。
「部下の諫言を裏切りとしか認識できない卑小な男に、負ける気はしないぴょん」

 ●

 ――憎悪とは。
 タグトゥマダークは、第九級バス停『こぶた幼稚園前』を握り締めながら、思った。
 ――憎悪とは、変革の力だ。
 己の体が、内側から作り変えられてゆくかのような錯覚を味わう。
 まったく身に覚えのない、強力にして清爽な意志の奔流だ。
 それが、タグトゥマダークの四肢に常ならぬ力を与えていた。
 だが、当の本人は、その恩恵に違和感と不快感しか抱けなかった。
 ――僕を支えてきたのは、憎悪の力だ。
 ――いつだって、憎しみの力で、夢月ちゃんを守ってきた。
 組織に入る前から。バス停使いになるより前から。
 ただの無力な子供であったころから。
 貧乏とか賠償金とか酒浸りとか節くれだった拳とかなぜか消えてる上履きとかヒステリックな悲鳴とか学校の便器の味とか陰口とか、その他いろいろな醜いものから、妹を守るために。
 ――僕は、憎悪を選んだ。
 いやいや。不幸自慢は趣味じゃない。
 ただ、絶望ではダメだった。うまく利用すれば凄まじくえげつないマネができたのかもしれないが――恐らく、自分は、絶望を御せる器ではない。手首に残る無数の傷が、それを証明している。
 ――で、あるわけだから。
 タグトゥマダークは、いつしか憎悪にどっぷりと依存していたのだ。頭から爪先まで、ことごとく。自分と夢月へ陰惨な悪意を浴びせてきたカスどもに、生まれてきたことを後悔させるために。
 だからこそ、今の自分の状態には違和感を感じていた。
 この、腹の底から湧き上がってくる、なんだかよくわからない力。
 勇壮な活力。
 これは、憎悪なのか?
 タグトゥマダークの本能は、この問いに否と応える。
 この力は、憎悪にしてはあまりにも澄み渡っている。
 勇気などという唾棄すべきものが、体の中に漲ってゆく。血液の中に熱く溶けた鉄を流し込まれたような、この感覚。
 総身に、迷いのない力が宿る。まったく身に覚えのない力が。
 ――クソくらえだ。
 タグトゥマダークは、体の中に残る憎悪を奮い立たせた。
 ――僕が力を得たのは、自分が高みに至るためじゃない。
 心なしか尖ってきた歯を軋らせ、目の前の少年を睨みつける。
 諏訪原篤。存在自体がタグトゥマダークを否定しつくす、人の形をした覚悟。
 ――自分以外の全てを、自分より下に引きずりおろすためだ。
 こんな、綺麗で健全な力はいらない。全てを壊し、汚し、貶め、そして最後には自分も一緒に沈んでゆくのだ。後に残るのは夢月だけで良い。
 ――あぁ……夢月ちゃん。
 ――僕は勝つよ。君のためじゃない。君を守りたいという、僕の滴る欲望のために。
 体中の、殺戮の螺子が、きりきりと巻き上げられる。雄々しい精神の力を、ぎちぎちと締め上げる。
 そして、思う。
 ――いつからだ?
 いつから自分は、こんな愚にもつかない鮮烈でまっすぐな精神に汚染されてしまったのだ?

 ●

 手を出すべからざる闘いがあるということを、攻牙はよく理解している。(今まで読み漁った無数の少年漫画から)
 人は皆、その生涯の中でただ一度、己のためだけの敵と出会うのだ。
 社会にとっての共通敵ではもちろんなく、他の誰かと協力して倒すべき敵でもなく、ただ自分だけが狙い、自分だけを狙ってくる敵。
 自分のためだけに、宿命が用意した敵。
 そういう奴はやっぱり居て、お互いに血色の糸で結ばれているものらしい。
 だから――攻牙は迷う。
 篤に手を貸すことは、果たして正解なのか?
 介入は、できる。やろうと思えば。
 驚異的身体能力と、ダンプカーに撥ねられても無傷でいるであろう防御能力、謎のエネルギーを用いた多彩な攻撃能力。バス停使いの驚異的なスペックは、確かに普通の人間が手出しできるものではないかのように見える。おまけに攻牙の戦闘能力は、体格の問題で常人以下だ。
 普通なら勝負にもならない。
 だが、攻牙は知っている。
 篤や射美から口先三寸で聞き出した情報と、自分の目で見た実感が、頭の中で理論を形作り、正解を導き出す。
 攻牙は、バス停を使わずしてバス停使いを倒す方法を知っている。
 そしてそのための罠は、屋上にも仕掛けられている。
 というか、屋上にこそ重点的に仕掛けられている。どうやらバス停使いたちは、自分たちの存在が公になるのを恐れているらしい。であるならば、普段人目につきにくい屋上が戦場となるであろうことは、簡単に予測ができた。それ以外にも、体育館の裏とかトイレの個室とか学校の裏山とか、とにかく人気のない場所はすでにトラップ地獄と化している。さすがに学校以外の場所にまでは手が回らなかった。その点については運がよかったと言えよう。
 だから、罠はいつでも発動できる。各所に設置した防犯用赤外線センサーのスイッチを入れれば、今この瞬間にでも対バス停使い用即死トラップの数々は牙を剥く。
 だが――それは果たしてやっても良いことなのか?
 攻牙は眼の前の闘いを見る。
 蒼い稲妻を体中に纏わりつかせる篤と、冥い紫の妖炎を立ち上らせるタグトゥマダーク。
 二人は対峙しながら、ゆっくりと間合いを詰めていた。
 ――なんかすごく宿命っぽいぞ! 絵面的に!
 この闘いに、立ち入ってもいいものなのか!? 少年漫画的ケレン味は、攻牙の行動原理の根幹を成すファクターであるからして、「認めた宿敵には自分以外の誰にも倒されてほしくない」という戦士のわがままに対しては物凄く理解がある。つもりだ。
 このまま手出しは控え、見届けるべきだと思う。
 だが、介入すべき理由も、ある。
 第一に、タグトゥマダークがいまだに無傷であるという点。スピードやテクニックという要素では、篤はまったくついていけてない。
 もちろん、篤がこのまま成すすべもなくやられるようなタマではないことはよく知っている。追い詰められてからが本番と言っても良い。常時死に身の精神力は、ここぞというところで爆発し、小賢しい理屈を吹き飛ばすことだろう。しかし――果たしてそれだけで、この圧倒的力量差を覆せるものなのか? 攻牙はそこが読みきれない。さすがにそれは、どんな頭脳の持ち主でも読みきれない。
 第二に、攻牙自身の問題。
 攻牙は、ちらりと横を見る。
 鋼原射美。悪の組織の尖兵。轢殺系吐血美(?)少女。
 地べたにへたり込んで、俯いている。
 ――あぁクソッ! こいつが凹んでるとこはじめて見たよ畜生!
 攻牙は苛立たしげに頭を掻く。
 まぁ、なんというか、タグトゥマダークとは気安い間柄だったのだろう。毎日の弁当もタグトゥマダークが作ってたらしいし、射美の中では兄貴的なポジションだったのではないかと思う。相手も自分を妹のように考えていると、そう思っていたとしても不思議はない。それが、たった一度敵をかばっただけで即座に見切られ、「死ね」の一言と共に仮借なき一撃を浴びせられれば、普通はショックを受ける。
 動転して、虚脱する。
 ――あぁもう! こういう雰囲気苦手なんだよなぁ!
 その時、脳内暗殺者が「自業自得だな」と吐き捨てた。「思慮に欠け、自分の行動に責任を持たない女だ」……その通りだ。
 正論だ。
 返す言葉もない。
 だが――それで実際どうするんだ?
 こいつがアホだってことはわかったよ。それで? ボクが聞きたいのはその後だ。[その後どうするんだ?] 見捨てるのか? このまま放置しとくのか?
 そういう判断で、何か意味のある結末を手繰り寄せられるのか?
 攻牙は、思う。
 ――ヒーローは……こういう甘ったれを見捨てない……んだろうなぁ。
 具体的に何がしてやれると言うわけでもないけれど。
 でもまぁ、タグトゥマダークをふんじばって、もう一度、面と向かわせるくらいのことは、してやれるかもしれない。
 そうしたいと思っている、自分が居る。
「攻牙よ!」
 篤の、声。
 タグトゥマダークに険しい視線を注いだまま、こちらに声をかけてくる。
「なんだ!」
「手は、出さないでほしいぴょん」
「……」
 むぅ。
 やっぱりか。
「だが、口は出してほしいぴょん」
「……は?」
「この男の技を読んでほしいぴょん」
「つまりセコンド役か」
「ウイグル語で言えばそうなるぴょん」
「違うぞ!? 英語だぞ!?」
「それから鋼原よ!」
 隣で、射美がビクッと身を震わせた。
「[タグトゥマダークは、決して無謬の存在ではない!]」
「え……」
「奴の言に飲まれるな。お前自身が判断しろ」
 そう言うと、『姫川病院前』をタグトゥマダークに向けた。
 剄烈なる眼差し。
「さぁ、ゆくぴょん。次の交差で、必ず貴様を打ち倒すぴょん」
「へえ、状況はわかってるのかニャン? 何か反撃のアイディアでも?」
 タグトゥマダークは妖眼をすがめ、頬を歪めていた。
「そんなものはない!」
 ないのかよ。
「だが、部下への対応ひとつで、貴様が恐るに足りぬ輩であることはわかったぴょん」
「……面白いことをホザく人だニャン。そんだけズタボロじゃなかったらかっこよかったかもニャン」
 異様に肥大化した牙が覗いた。
「別にかまわないニャン? そんなに自信があるんならかかってくるニャン?」
 構えを解き、傲然と胸をそらす。
「言われずともそうするぴょん。ただし、その時貴様は地面に倒れ伏しているぴょん」
 静かに壮言を呟くと、篤は『姫川病院前』を大きく後ろに振りかぶり、腰を落とした。
「――渾身せよ、我が全霊!」
 ゴォッ――と音をたてて、蒼く輝く〈BUS〉の雷光が荒れ狂った。篤を中心に大気が押し広げられ、悲鳴を上げながら逆巻いている。
 その、無闇にドラゴンボールじみた光景を前に、
「あれ?」
 ……攻牙は、妙なものを見た気がした。
 いや、具体的に何を見たとも言いがたいのだが……篤の闘気が広範囲に放射された瞬間、?模様?のようなものが空間に浮かび上がったのだ。
 丁度、鉄粉が磁場の形を浮かび上がらせるように、何かの?形?が微かに姿を現した。
 ほんのわずかな歪み。目の錯覚として斬り捨てられるレベルの、異変と言うほどのこともない違和感。
 しかし、攻牙は看過しなかった。逆転勝利の秘訣は、伏線を見逃さないことである。
 ……それは、ゆるやかな弧を描く曲線、のように見えた。曲線の周囲の光景は、微妙に歪んでいる。
 わずかに体を傾けて視点を移動させてみると、それに合わせて歪みの位置もずれてゆく。
 要するに、可視光線を歪ませるような[何か]が空中に存在し、浮いているのだ。
 謎の曲線は、戦場の至るところで浮遊静止していた。その数は二十個を軽く超えている。
 ――はは〜ん? こいつは……
 気配を察したのか、篤が視線だけをこっちに向け、
「ハラショーロシア?」(意訳:何か気づいたのか?)
 別にいきなりロシアの赤い竜巻と化したわけではない。
「ハラショーロシア! ハラショーロシア!」(意訳:なんだか知らねえが変なものが浮いてやがるぜ!)
 半年ほど前、超高校生級武闘派不良集団『衛愚臓巣徒』との壮絶な暗闘を繰り広げた際、攻牙が考案した暗号言語である。
 独特の文法と千以上に渡る豊富な語彙を誇り、敵に悟られずに作戦会議をすることができる優れものであった。
 ……そうか?
「ハラショーロシア……? ロシアハラショー?」(意訳:浮いている……? どういうことだ?)
「ハラショーロシア? ロシロシア?」(意訳:闘ってる間に前触れもなく傷を負ったなんてことはなかったか?)
「ハラショー、ハラショー、ハラショーロシア」(意訳:むむ、殺意なき斬撃を受けたことはある)
「ハーラショ〜ゥ!」(意訳:SO☆RE☆DA!)
 その後、「ロシア最高ロシア最高ロシアロシア最最高最高ロシア」と手早く作戦会議を交わし、
「ハラショーロシア!」(意訳:よしこれで行くぜ!)
「ハラショーロシア!」(意訳:心得た。合図は頼む)
「ディス・イズ・ア・ペン!」(意訳:勝利を我が手に!)
「ディス・イズ・アン・アッポォ!」(意訳:勝利を我が手に!)
 何なのこいつら。

 ●

 はじめて彼の姿を見たときから、わかっていた。
 すぐに思い出せた。
 まさか、という思いと、やっぱり、という思いが胸の中で溶け合っていた。
 昇降口で、立ちすくむ。
 足が、震えていた。
 ――あぁ、わたしのせいなんだ。
 それが、今、はっきりとした。
 怖かった。

 ●

「おおおおおおおおおおおおぴょーん!」
 無理やりすぎる雄叫びを上げ、篤は突進する。
 タグトゥマダークは冷たい嗤笑を浮かべてそれを待ち受ける。
 構えるでもなく、悠然と。
 ――よーしそのまま進め!
 攻牙は、篤が語るところの「殺意なき斬撃」の正体について思考を巡らせていた。
 巡らせていたというか、まぁ、ほとんど自明なのだが。
 殺意がないということは、それは「攻撃」ではないということだ。すでにタグトゥマダークの意志を離れた「現象」なのだ。
 つまりどういうことか?
「篤!」
「応ぴょん!」
 攻牙の呼びかけに応じ、篤はバス停を振りかぶった。
 そこにタグトゥマダークはいない。間合いはいまだ遠い。
「発振する――」
 だが問題ない。
「――雷気なりッ!」
 渾身の力を込めて打ち込まれた『姫川病院前』は、何もないはずの空中で、何かと激突した。
 雷光が爆発的に迸る。
 すると、同時に――
「ニャニャ!?」
 ――屋上の至るところで、何の前触れもなく、青白い雷気を纏った熱風が吹き出した。
 まるで、空中に間欠泉でも出現したかのような勢いだった。
 その数、二十数条。
 それぞれデタラメな方向に、〈BUS〉の奔流を吐き出している。
 ――虚停流っつったっけ?
 奔流の直撃を受けて体勢を崩すタグトゥマダークに、攻牙は不敵な笑みを投げかける。
 ――裏目に出たな!
 つまるところ、開戦直後から篤を苦しめていた「殺意なき斬撃」とは。
 その正体とは。
 ――いわゆる設置技だぁ!
 空中に浮遊静止する、空間の裂け目。
 普段、自分やバス停を通過させるために開かれる次元の出入り口を、非常に狭く細くするにより、どんな刀剣よりも鋭利な刃を作り出していたのだ。
 不可視の刃が、空中で無数に存在しているという状況。
 その位置を知っているのはタグトゥマダークのみ。
 篤は、攻撃を受けていたわけではない。浮遊静止している次元の刃に、自ら突っ込んでいただけだったのだ。
 ただそこに浮いているだけのモノに、殺意などあるはずもない。
 そして、タグトゥマダークの動きが妙に曲線軌道というか、まっすぐこちらに向かってこなかった理由もこれで判然とする。
 ――自分が仕掛けた地雷に自分で突っ込むバカはいねえからな。
 以上を踏まえて、攻牙が考案した作戦はこうである。
 ――次元の出入り口に全力の一撃を叩き込め!
 その一撃に内在していた〈BUS〉流動は、衝撃波の形となって界面下に流し込まれるだろう。そして界面下の空間を伝って、この場に存在するすべての出入り口から勢い良く噴き出すだろう。
 タグトゥマダークが次元の門を狭く細くしていたのも、こうなっては裏目であった。
 流体力学の基本、「出口が狭いほど、流出の勢いは増す」。
 ホースの口を潰してブシャー! と同じ理屈である。
 ……まったく予想だにしない不意打ちを受けたタグトゥマダークは、衝撃波に煽られて倒れかかった。
 そこへ、蒼い稲妻を纏った飛影が突撃する。
 バス停を振りかぶり、鋭絶な眼光を閃かせながら。
「是威ッ!」
 雷蹄の一撃。
 爆裂する。
 炸裂する。
「ごギァッ!」
 床に敵を打ち付ける。
 叩き潰す。
 円形に拡がる打震。
「ぐ……ぎ……」
 胸板に重撃を受け、タグトゥマダークは口から血塊を吐き出した。
 直撃。
 初めての、ダメージ。
 それも、甚大な。
「てめえは次に『馬鹿ニャ、こんなことが……』と言う!」
「馬鹿ニャ、こんなことが…………ハッ!?」
 攻牙、地団太を伴うガッツポーズ。
 ――我ながら冴えまくりだぜ!
 作戦の成就には、件の暗号言語によるところも大きい。あの言語を解読できるのは、攻牙と篤と謦司郎の三人の他には、『衛愚臓巣徒』との戦いで渋々手を組んだ風紀委員長の歌守(かもり)朱希奈(あきな)がいるのみである。
 そこまで考えて、攻牙はふと、違和感を覚える。
 ――あれ? 謦司郎……?
 こういう致命的なゴタゴタにおいて、喜々として首を突っ込んでくるであろう変態トリックスター。
 闇灯謦司郎。
 いつも、いるのかいないのかよくわからない奴だが……
 キョロキョロと周囲を見回すが、奴の姿はおろか、その出現を示す黒い風すらどこにも見当たらない。
 初めてここで、攻牙は事態の異常性に気づく。
 ――ボクは……いつから奴のシモネタを聞いていない……!?
 愕然とする。
 思い出せないのだ。
 今までも、二三日ほど謦司郎の無意味なイケメンボイスを聞かないということはあった。
 だが、それは何事もない平穏な期間だったからこそだ。悪の組織の襲来という超弩級の厄介ごとが発生しているにもかかわらず奴が姿を現さないなど、おおよそありえないはずである。
 何か、尋常ならざることが起きている。その予感。
 篤にこのことを伝えようと、意識を現実に戻す。

 その時、篤はすでに倒れていた。

 ●

 つまさき。
 鳩尾にめり込むものの正体は、それだった。
 篤は自らの体を見下ろし、血の混じった胃液をグラシャラボラス。
 不意に手足が言うことを聞かなくなり、尻餅をつくように崩れ落ちた。
 ……超反応クロスカウンター。
 タグトゥマダークは、突進してくる篤の鳩尾へ、神速の前蹴りを叩き込んでいた。
 バス停による斬撃ではないとはいえ、内力操作によって強化された脚力と、篤の踏み込みの勢いが合わされば、致命的な威力となる。
 ――天才的。
 篤の破城鎚じみた一撃もしっかり決まっているので、相打ちではあるが……
 ――天才的、戦闘感覚。
 パニックを起こし、痙攣するばかりの呼吸器系。酸素を取り込まない肺を早々に見限り、篤は敵へと視線を向けた。
 ただそれだけの動作にも、体中が軋みを上げた。
 タグトゥマダークもまた、言うことを聞かない手足を奮い立たせ、体を起こそうとしている。
「ぎ、ハ、はは……くき……キキケけケ……」
 喉を鳴らして、タグトゥマダークが呻く。
「苦手……なんだよニャア……キミみたいな……タイプ……くキッ」
 口の端から深紅の筋を垂らしながら、笑う。
 ホームビデオを見て笑っているようにも、恋人の惨殺死体を見て笑っているようにも見えた。
「常識的な反応、してくれニャいんだよニャア……」
 ゆっくりと、立ち上がる。
 生ける屍のごとく立ち上がる。
 黒紫の〈BUS〉波動が、周囲の空間を揺らめかせる。
「だから一撃もらっちゃったニャン……ふ、ひ……ひはっ」
 天を振り仰ぎ、断末魔の震えにも似た哄笑をあげた。聞いただけで気分の滅入るような、虚無的な笑いだった。
 攻撃を受けた胸板がブスブスと煙を上げ、スーツが裂けている。
 そして、首からは紐がぶら下がっていた。恐らく、お守りか何かを首から下げていたのだろう。しかし紐は途中から炭化しており、何が下げられていたのかはもうわからない。
「ひはは……もらっちゃった……もらっちゃったニャン……ははっ……は……」
 ひとしきり笑うと、篤を見る。
 何の感情も感じ取れない、石のような眼差しだった。
「……血ゲロ吐き散らして死ね、タンカス野郎」
 特に声を荒げることもなく。
 当然の決定事項であるかのように、そう呟いた。
「――ご、ガッ!?」
 喉が、塞がれた。
 馬蹄のように踏み下ろされたタグトゥマダークの踵が、篤の喉笛を踏みにじった。
「死ね。悶えて死ね。死に腐れ」
 英単語を暗唱する時のような抑揚のない口調。
 足が振り下ろされるたびに、篤の全身が痙攣する。
 豹変。
 危ういまでに激しい、感情の起伏。
 ――あぁ。
 篤は眼を見開く。
 ――似ているな。
 自分の中にも、このような激しい気性の渦がある。
 かつて、ゾンネルダークとの闘いで、その片鱗を表に出してしまったことがある。
 妹の霧華が大きな怪我を負い、その犯人がゾンネルダークだと知った時、篤は自分の中の獣を御しきれなくなったものだ。
 ――恥ずべきことだ。
 真に憎むべきは、そうした事態を許した、己の不甲斐なさだというのに。
 だからこそ。
 ――強く、なりたかった。
 この裡なる修羅を、永遠に飼い殺していられるほどに強く。
 タグトゥマダークを見る。
 ひときわ高く足を振り上げ、全体重を乗せて踏み下ろそうとしていた。
 ――この男もまた、裡なる修羅を持て余しているのか……
 このとき懐いた想いは、あるいは共感であったかもしれない。
 篤の喉が踏み砕かれる、その瞬間。
「――夢月ちゃんは」
 涼しげな声。
 しかし、同時に痛ましげな声。
 こつ、こつ、と快い足音が、やけに殷々と響いてきた。
 桜の香りが肌を撫でていった。
「元気、なのかな……?」
 そう言って、ふわりと微笑む。
 目尻に悲しみを織り込ませながら。
「ッ!?」
 タグトゥマダークの反応は、劇的だった。
 一足で五メートルは飛び退り、闖入者を見やった。
 霧沙希藍浬。
 春の世界を纏う少女。
 一瞬だけ、彼女は傷だらけで横たわる篤を見やる。
 何かに耐えるように目を伏せ、唇の動きで「ごめんなさい」と呟いた。
「なんで……その名を知ってるニャン……」
 警戒に満ちた眼差しで、タグトゥマダークは藍浬を睨む。
 彼女は胸に手を当て、哀切に満ちた微笑を浮かべた。そこに仕舞われる記憶を、いとおしむように。
「忘れないわ。大事なお友達だもの」
「何を……!」
 藍浬は微かに首をかしげた。眉尻が、困ったように下げられている。
「覚えてない、かな? あのころはちっちゃかったし、髪の色も違ったもんね」
 何秒かの凝視ののち、タグトゥマダークの顔に理解の色が広がってゆく。息を呑む。
「……まさか……いや、そんな馬鹿ニャ……」
 明らかに、何かを思い出していた。
 藍浬は顔をほんのり寂しげに綻ばせる。
「ひさしぶり。辰お兄ちゃん」
「う、うぅ……」
 ――知己の仲であったか。
 数奇な偶然である。いや、果たして本当に偶然であったか。
「どうして……こんな、どうして……」
 一歩二歩と後退り、余裕のない顔で藍浬を見やる。
 旧知と再会しただけにしては、いささか動揺しすぎである。
「キミは……そんな……キミが[そう]なのなら……僕は……」
「長いこと見ないうちに、ずいぶんカッコよくなったね」
 藍浬はタグトゥマダークを追うように悠然と歩み出した。
「ふふ、あんなに泣き虫さんだったのに」
「……昔のことは、言わないでほしいニャン……」
 悄然とうなだれるタグトゥマダーク。
「そう? じゃあ今のこと。夢月ちゃんはどうしてるの?」
「その……元気だニャン。一緒に住んでるニャン」
 藍浬は眼をを輝かせた。
「会いたいなぁ、[今頃はわたしと同じ高校生よね?]」
 何気ないその一言が、タグトゥマダークの顔から一切の表情を奪った。
 気温が、低下する。
「断る」
 一言で、藍浬の願いを斬り捨てる。
 顔を伏せ、垂れ下がった前髪の間から、藍浬を睨みつける。
 それは、藍浬個人というよりも、もっと大きな、漠然とした何かを睨んでいるように見えた。
 踏みにじられてなお反骨を失わぬ奴隷の眼だった。
「……どうして……?」
「黙れ」
 流れる水のように踏み込んだタグトゥマダークは、右手を毒蛇じみた動きで伸ばし、藍浬の頤を掴んだ。
「――っ!」
「誰にも夢月ちゃんは会わせないニャン。誰一人、夢月ちゃんと言葉を交わす資格はないニャン」
 猫の妖眼を威圧的に見開き、噛み付くように言った。
「それでももし、夢月ちゃんに近づこうなんて下らないことを考えるマヌケがいるのならば、僕は……」
 左手を抜き手の形に構え、その切っ先を藍浬の喉笛に向けた。
 弓を引き絞るように、捻りを加えながら左腕を後ろに引いた。
「僕は……ッ!」

 身を起こす。
 跳ね起きる。
 一気に間合いへ踏み込む。
 そうして、篤は。

「貴様――」
 掴んだ腕を捩じりながら、篤は低く言った。
「ぐっ!」
「どこまでも尊敬を拒む輩だぴょん……!」
 同時にタグトゥマダークの足を払い、大きく一回転させたのち、床に叩き付けた。
「かはッ!」
 肺から空気を押し出され、うめくタグトゥマダーク。
 しかし、すぐにその口は笑みに歪む。
「ぐくく……ほんの冗談だニャ、彼女は《絶楔計画》の要となる人だニャン? こんなところで殺したりするワケないニャン」
 ――瞬間、殺意の匂いが、篤の頭上から流れてきた。
 即座に飛び退ると、直前まで篤がいた場所へ、『こぶた幼稚園前』の切っ先が刺さった。コンクリートの破片など飛び散らない。鋭利極まりない一撃である。タグトゥマダークは逆立ちするように両脚を振り上げて界面下に突っ込み、バス停を振り下ろしたのだ。
「よっと」
 全身のバネを撓らせ、一瞬にして跳ね起きる。同時にバス停を両脚で放り投げ、回転しながら落下してきたところを片手でキャッチ。
 曲芸じみた体捌きだが、まったく無理が感じられない。
 篤は、己の胸の中に生じた粘い炎を、言葉にした。
「虚言だぴょん。今の動きには確かな殺意が宿っていたぴょん」
「ははん、仮に本気だったとしても、どーせこの町は近々消滅するんだから、ここでひとり余計に死んだって別にどうってことはないニャン」
 あまりにこともなげな、終末の宣言。
「なん……だ、と……?」
 呻く。
「それは……どういう意味だぴょん」
「どうもこうも……ねえ? 《絶楔計画》は、その第五段階において朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相を根本から書き換えるニャン。その影響は……ははっ! こんな山間にこびりついたカビにも等しい人里なんて一瞬で蒸発しちゃうニャン」
 ぎり……と、篤は自分の歯が軋む音を聞いた。
「答えろ……《絶楔計画》とは何だ……何を目的にしているぴょん!」
「……ある装置(システム)、その完成への布石だニャン」
「装置……?」
 タグトゥマダークは肩をすくめると、自嘲するように鼻を鳴らした。
「ちょっとしゃべりすぎたニャン」
 亀裂のような笑みを浮かべる。
「続きを聞きたいなら、力ずくで来るニャン」
「……よかろうぴょん。貴様らはどうあっても看過しておけぬ存在だということがよくわかったぴょん」
 鮮烈な怒りを込めた視線と、禍々しく屈折した憎悪。
 二人の中間でぶつかり合い、反発と炸裂を繰り返した。
 ――大義を、得た。
 激突を前にして、篤の心は複雑な思いに満たされていた。
 ――俺は、この男を、討っても良い。
 なぜなら、彼はここ朱鷺沢町を滅ぼさんと画策する巨悪の尖兵であるからだ。
 ――「俺のエゴを侵す存在だから」ではなく、「悪であるから」、それゆえに討っても良い。
 そういう大義を得たことに晴れやかさを感じてしまう自分が、あまりに情けなかった。
 ――ここでこの男を討ち取っても、俺は傷つかない。
 歯を食いしばって、晴れやかさの陰に潜む、自らの醜悪さに耐えた。
 ――何一つ、失わない! 自らの矛盾に直面しない!
 タグトゥマダークの存在自体が許容できないという、生理的で身勝手な動機から、目をそらすことができる。
 ――卑小……あまりにも卑小……!
 だが、それでも。
 ――それでも!
「討たねばならぬ! この一命に代えてでも……!」
 篤の眼光が、均衡を押し流した。
「っ!」
「貴様の歪みし認識、ここで断つ!」
 大気が、弾けとんだ。
 脚が地面を蹴り込んだ。閃光のごとき〈BUS〉が吹き上がり、篤の体を一瞬で急加速させる。
 床が砕けはしない。その分のエネルギーはすべて推進力に転化されている。ただ数分の血闘の中で、篤はより巧みな〈BUS〉の運用をマスターしつつあった。
 咆哮。
 一条の雷撃と化し、一人の修羅が突貫する。

 ●

 タグトゥマダークは、篤のあまりの愚かしさに憎悪を抱いていた。
 ――真っ向勝負だと? 愚鈍がァ……
 鼻面を中心に広がる憎悪の皺が、タグトゥマダークの麗貌を鬼神のごとく変容させる。
 ――まだわからないのか、クズが。雑魚は雑魚らしく奇策で来いよ間抜け。
 墓から手を伸ばす亡者のような手つきで、界面下のバス停を掴んだ。
 全身に、憎悪が滾る。
 憎悪を呼吸し、憎悪を代謝する。
 憎悪で、思考する。
 眼が眩むほどの甘い甘い憎悪を感じ、タグトゥマダークは一転、頬をだらしなく緩ませた。
 ――あぁ、夢のようだ。
 ――これからこのクズ野郎を八つ裂きにできるなんてな。
 腕に異様な力が込もる。カッターナイフの傷跡が無数に残る腕が、その筋肉が、芋虫のように蠕動する。
 ――放つか、禁殺。
 蠕動に呼応して、腕に宿る〈BUS〉が特殊な間隔で律動しはじめる。
 一生に一度、どうしても存在を許せぬ相手にしか用いてはならない。師からそう厳命されていた、絶招。
 それは、虚停流の中では特に難度の高い技法ではない。
 それは、戦術的な意味では特に強力な奥義ではない。
 にも関わらず、禁忌。
 ……その技は、痛みを与える。
 特殊な波形の〈BUS〉流動がバス停の刃に漲り、相手の肉体をわずかでも斬り裂くことで発動する。
 刃から敵の肉体へと流し込まれた〈BUS〉波動は、全身の末端神経に存在する侵害受容器において電気シグナルのように振る舞い、過剰な――あまりにも過剰な痛みを誘発させる。
 薄皮一枚裂けるだけで、臓腑を喰いちぎられるような苦痛が襲いかかる。
 ただ掠っただけで、歴戦の強者が泣き叫ぶ斬撃。
「虚停流禁殺――」
 迫りくる雷撃の塊を前に、タグトゥマダークはもはや莞爾とした笑みを浮かべていた。
「――〈惨聖頌〉」
 あぁ、凄なるかな。
 この苦痛に祝福を。
 諏訪原篤の無意味な矜持は、いま最も醜悪な形で砕け散る。
 ――この僕の手で……ェ……!
 停が、鞘走る。
 どす黒い斬閃が、世界に消えようのない汚点を刻む。
 横ばいの弧月。
 肉体のすべての可動部分が一挙に駆動し、単一のベクトルに加速する。
 それは、あまりにも醜く、それゆえに美しい。
 完璧な軌跡。
 空間を穢し尽くし、そこに地獄を顕現せしめる。
 タグトゥマダークが初めて繰り出した、本気の斬撃。
 彼は敵の技量を正確に見抜いていた。この一閃は、かわせない。絶対に。
 ――泣いて死ね、叫んで死ね、悶えて死ね漏らして死ね垂れ流して死ね。
 死に、腐れ。

 裂。

 振り、
 抜く。

 ●

 ――いや、さて。
 闇灯謦司郎は、分析する。
 彼の敗因は、何だったのだろうか――と。
 ……いやいや、考えるまでもない。
 一目瞭然だ。
 片方は、何の迷いもなく相手を殺そうとしていた。
 片方は、自分の卑小さに苦しみ、それでも相手を討たねばならない状況に迷っていた。
 ――要するに、ただそれだけの違いだったんだろうね。
 動機の、差。
 迷いの、差。
 ――勝てるわけ、ないよねえ……そりゃ。
 つまりはそういうことだったのだ、と。

 ●

 タグトゥマダークは〈惨聖頌〉を振りぬき、怖気のように襲いかかるであろう快楽を待った。
 はたして諏訪原篤は、どんな声で哭いてくれるのだろう。
 どんな音色で狂ってくれるんだろう。
 どんな匂いのクソを垂らすんだろう。
 あぁ――早く。
「――覚悟とは」
 ――早く。
「捨て身の玉砕にあらず」
 ――早……く……・?
 タグトゥマダークは、左の後方から聞こえてくる不愉快な声を、ようやく認識した。
 瞳孔が、収縮する。
「それは現世での責任を逃れるための方便に過ぎない」
 弾かれたように左を向く。
「――覚悟とは」
 自分の振りぬいたバス停。
 その先に。
「たとえ天地の理を覆そうとも目的を達する決意である」
 ――佇んでいた。
 刃の上で。
 悠然と。
「死ぬ気で生き残る。生きて責任を果たす。その心こそが、魂に咲く華である」
 その脚は、奇妙に曲がっていた。
 人間の脚には、本来一つしか間接がないはずである。
 だが、今、篤の脚には二つの間接が存在していた。
 尋常な膝関節と、その下にある逆向きの間接。
 そこまで見て取った瞬間、タグトゥマダークは、自分がいま敗北を突き付けられていることを悟った。
 ――僕と、同じか――!
「たとえこの身がどう変わろうと」
 タグトゥマダークが猫化していったように。
 諏訪原篤もまた変異を果たした。
 ただし、変化する部位を、篤は自分の意志で決定したという点で、自分とは果てしなく食い違っていた。
「ただひとすじの美しき道」
 ゆっくりと――現実には恐ろしいまでの速度で――篤は己の得物を振り上げた。
「……ぎ……!」
「見失わぬ限り俺は俺……!」
 紅く凄愴な眼が、タグトゥマダークの胸を射抜いた。
 裂帛が大気を引き毟り、純粋な衝撃となって顔面を叩く。
「滅却せよ! 彼我なりし怯懦!」
 振り下ろす。
 打ち下ろす。

「覇停・神裂!!」

 白く、淡く、穏やかな光が、タグトゥマダークの眼球を侵した。

 ●

 それは、爆発ではなかった。
 エネルギーのベクトルとしてはむしろ逆――収縮である。
 周囲の地脈に内在する〈BUS〉が、着弾の瞬間、打撃点に向けて一斉に殺到。
 そこで、物理的な熱量としての振る舞いをやめ、ちょうど特殊操作系能力のように、概念的な意味へと姿を変える。
「貴様の歪みし絆、断ち切らせてもらった」
 その意味とは。
「あ……」
 タグトゥマダークが、呆然と声を漏らす。
 消えゆく己のバス停を前に、成すすべもなく声を漏らす。
 『こぶた幼稚園前』は、黒い〈BUS〉を脱ぎ去り、溶けるように消えてゆく。
 本来存在しているであろう、こぶた幼稚園の前へと戻ってゆく。
 ――契約の、破却。
 バス停使いとバス停の絆を、完全になかったことにする。
 それこそが、「覇停・神裂」の威力。
「あ……あ……」
「もはやお前の得物はお前の手を離れた。二度とお前の呼び掛けには応じない」
「な、に……ぃ……?」
 愕然と、バス停の消え去った己の手を見るタグトゥマダーク。
 その前に、篤は膝をついた。
 眼の高さが等しくなる。
「これは、即興だ」
 タグトゥマダークは答えない。こちらを見もしない。
「脚に兎の力を宿らしむる方法も、神裂という技も、俺には直前までまったく思いもよらない事柄であった」
 かまわず篤は、言葉を続ける。
「お前の死閃を間近まで感じた時、俺の心はかつてないほど研ぎ澄まされ、考えるまでもなく『道』が見えた」
 タグトゥマダークの顔が、ゆっくりと持ちあがる。
「『常住死身』とはそういうことだ。死を以て生を鍛える『道』だ」
 視線が、合わさる。
 兎の紅眼と、猫の妖眼。
「――これが俺だ。俺の生き方だ」
 静かに、そう言う。
 タグトゥマダークの顔が、一瞬引き歪んだ。
「黙れ……っ」
 瞬時に立ちあがり、そのまま五メートルほど飛び退る。
「認めるよ……あぁ認めるさ! 僕の負けだ」
 食いしばった歯が、軋んだ。
「だけど……これはキミの力と判断に負けたんだ」
 その妖眼にかつての余裕はなく、ただ不安定に揺れていた。
「キミの生き方に負けたんじゃ、ない……!」
 瞬間、タグトゥマダークの背後の空間に、裂け目が現れた。
「……! 待て!」
 届かぬとわかっていながら手を伸ばす。
 青年の体が、裂け目の中へと飛び込んだ。
 即座に界面下への入り口は閉じる。
 捨て台詞すら残さずに、タグトゥマダークは目の前から消えて失せた。
「逃がしたか……」
 忸怩たる思いが、篤の眉をひそませる。
「まあしょうがねーわな。あんな能力があるんじゃふんじばっとくわけにもいかねえだろーし」
 攻牙が横に立った。
「……それでも、どうにかして捕えたかった」
 重い石を吐き出すように、篤は息をついた。
 攻牙は軽く目を見開いて篤を見た。
「っておい篤お前語尾はどうした」
「む……」
 篤は、初めてそのことに思い当った。そういえば自分はさっきから「ぴょん」と言っていない。
「戻っているな。原因は不明だが……」
 自らの顎を掴み、目を伏せる。
「そうか、戻ったか……」
「何を寂しそうな眼をしてるんだよお前は!」
「寂しくは、ないさ。俺の胸の中で生きている」
「やめろその誰か死んだみたいな言い方!」
 篤は肩をすくめる。
「諏訪原くん!」
 呼びかけに振り返ると、藍浬がこちらに駆け寄ってきていた。
「霧沙希か……怪我はないか?」
「それはこっちの台詞! 血まみれじゃない!」
 言われて篤は、自らの四肢を見下ろす。
「むむ……」
 結構な深手を全身に負っていた。よくもまあ今まで体が動いたものである。
 ゾンネルダークの時よりも、さらにひどい。
「まあ、あの男に勝利するためには必要最小限の犠牲と言え……よう……」
 ぐらりと体が傾ぐ。
「あっ」
 藍浬が慌てて篤の腕を掴む。
「む、すまん……」
「諏訪原くん……聞いて……」
 目尻に透明な雫を湛えながら、藍浬は篤の脇に体を入れ、その姿勢を支えた。
「血で汚れるぞ霧沙希。大丈夫だ、一人で立て……る」
 彼女は大きく首を振った。
「聞いて、諏訪原くん。タグトゥマダークさんとわたしは、小さいころに近所に住んでいたの。辰お兄ちゃんって呼んでてね、すごく、仲が良かったわ」
「……そのようだな」
「それから、わたしはね、あっくんとたーくんを拾った時に、思ったわ」
「……?」
「あぁ、可愛いな……って。この子たちは誰かに似ているな……って」
 穏やかに世界を見続ける子兎と、泣き虫で寂しがりやな子猫。
 それらは、彼女の記憶にある二人の人間を思い起こさせたのか。
「この子たちが、諏訪原くんや、辰お兄ちゃんだったらな……そうならば、ずっと毎日一緒にいられるのにな……なんて。そんな勝手なことを、思ったの……思って、しまったの」
 それは、つまり、どういうことか?
「ごめん、なさい……こうなったのは全部わたしのせいです……」
 ぎゅっと篤の腕を抱きしめ、額を押し付けた。
「もう、大丈夫だから。わたし、もう揺らがないから。こんなことは、もう起こさないから」
「霧沙希」
「……だから、戻って諏訪原くん……!」
 藍浬がそう言った瞬間、にゅるんっ! という妙な音がした。
「うぉっ!」
 空気を読んで黙っていた攻牙が、思わず声を上げる。
 篤のウサ耳やウサ脚やウサ眼が、一斉に変化したのだ。
「おおう……」
 唐突に変異した脚の構造ゆえ、バランスを崩しかける篤。
 藍浬に支えられながら、篤は自分の体を眺める。
 五体全てが人間に戻っていた。
 頭に手をやると、ウサ耳も消えていた。
「むむむ、消えてしまったか……」
 同時に、全身の傷が、かすり傷程度にまで小さく浅くなっていた。
 さすがに失った血までは元に戻らなかったせいか、頭はボ〜っとするものの、さっきまで体を責め苛んでいた痛みは嘘のように鳴りを潜めている。
 不思議な力で傷が癒えたというよりは、全身の肉体変異によって傷が掻き消された、と言ったほうが正確だ。
「神秘、だな」
 しみじみと、篤は呟いた。

 ●

 敗北感。
 それは乗り越えるか否かによって、意味合いが大きく変わってくる感情だ。
 乗り越えれば成長をもたらし、乗り越えなければ腐敗をもたらす。
 ――乗り越えてなど、やるものか……!
 タグトゥマダークは界面下空間を泳ぎながら、そう決意した。
 鋭く尖った牙を軋らせ、妖眼をすがめながら。
 まったく、今日はとんでもない厄日だった。
 ――何が『常住死身』だ。死ねばいい。
 生きるために死ぬという意味不明な信条は、どうしようもなくタグトゥマダークをイラつかせる。
 そんなに死にたきゃ死ねと言いたい。どうせ死ぬ気なんかないんだろ! 目立ちたいだけだろ!
 胸の中で、思いつく限りの罵倒を諏訪原篤へと浴びせかける。
 負けた自分をも貶める行いではあったが、タグトゥマダークはその自傷行為をむしろ嬉々として敢行した。
 だが。
 同時に、自らの腹の底で、闘志が滾っていることに気づく。
 危ういまでに薄く鋭い己のありようが、何か力強いエネルギーによって補強されてゆくかのようだ。
 ――まただ!
 闘いの最中にも感じた、この不愉快な高揚感。
 自分の心に宿るはずのない感情。
 ――何なんだよ!
 おかしい。今日の僕はおかしい。自分の心すら、思い通りにならない。
 まるで、自分の心ではないかのように。
 ……思い当たることは、ある。
 諏訪原篤。
 彼の生き様に影響を受けているという可能性。
 ――ッ!!
 その考えが浮かんだ瞬間、タグトゥマダークの体内を、黒紫色の憎悪が駆け巡った。
 体中の臓腑を焼け爛らせながら、この清澄な熱意を追い出そうと、荒れ狂った。
 ――負けるものか。
 鼻面に皺を寄せ、牙を剥きだして。
 ――負ける、ものか!

 ボロ借家にたどりつくと、タグトゥマダークは息をついた。
 憎しみに強張った顔を揉み解し、「優しい爽やかお兄さん」の仮面を取り繕う。
 ――もういい。どうでもいい。そんな精神的葛藤なんかどうでもいい。
 今大切なのは、夢月に泣きついて甘えることだけである。
 ――夢月ちゃんは、優しくて可愛いものだけ見ていればいい。僕の腐った本性なんか知らなくていい。
 ただひとりの肉親に、本音をさらけ出す勇気すらないのだ。その事実は、タグトゥマダークの魂に屈折と腐敗と快楽をもたらしていた。
 ――あぁ、夢月ちゃん、夢月ちゃん、夢月ちゃん!
 玄関を開け、靴を脱ぐ。
 ぎしぎし言う板張りの床を、足早に通過する。
 ――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん……ッ!!
 甘えよう。ひたすらに甘えよう。甘えてダメになろう。優しいあの子はダメなお兄ちゃんでも受け入れてくれるに違いない。
 そうに違いない。
 ――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむ夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむむ夢月ちゃん夢むつき月つきちゃん夢月つきつきちゃんむ、むむ夢月ちゃん夢月ちゃぁんッッ!
 そうでなければ、ならない。
 部屋の前に、たどり着く。
 襖に手を掛ける。
「夢月ちゃああああああああん!」
 叫びながら、中へと飛び込んだ。
 ――今行くよ! キミの胸の中へ!

 埃が、もうもうと吹き上がった。

 窓から差し込む日差しが、それを浮かび上がらせていた。
「……あ……?」
 《ブレーズ・パスカルの使徒》が支給した、さまざまな装備品が、雑然と積み重なっている。
 薄く、埃をかぶっている。
「……あ、あれ……?」
 天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。
 壁紙は所々破れ、木材が剥きだしになっている。
「……部屋……間違えた、かな……はは」
 耳鳴りがする。
 それは、心の奥底に封印されていた、恐るべき記憶(かいぶつ)が、胎動する音に思えた。
「……ひ……」
 ひゃっくりのような声が出た。
 我知らず、後ずさっていた。
 耳鳴りが、強くなった。
「……ひ、ひ……」
 何かが、間違っていた。
 どこかで、間違っていた。
「……ひひ、ひひひっ……」
 ――それは、いつからだったのだろうか。
「ひひっ、ひはは、ひはっ……」
 ――いつから、僕は間違えていたのだろうか。
 歪んでゆく世界の中で、タグトゥマダークは口元を戦慄かせた。
「ひはっ、ひははははっ、はは、ひ、ひはっ」
 ――諏訪原篤と戦った時だろうか。
 ――彼を始めて眼にした時だったろうか。
「ははははははっははっははははははははっ」
 ――あるいは、《ブレーズ・パスカルの使徒》に入った時だろうか。
 ――それとも、師匠に拾われた時だったろうか。
 タグトゥマダークは乾いた声を上げ続けた。
 笑いというには何かが欠け、何かが余分だった。
「はは、ははは、はひっ、ひひっ! ひひは!」
 ――それとも。
「ひはははは! ひはは! ははぁはっはははっははっ!」
 ――もっと前。
 視界に、罅が入った。
 割れ目から、毒々しい血液が流れ出てきた。
「あははははははあっはハハっはっははっはっはははぁはぁはぁはひぃひひひっ!」

 ――夢月ちゃんが、死んだ時からだろうか。

「あっははっはっはははっひははひはひはひはぁーッあっひひひひッ!」
 砕けた。
 深紅の汚流が、襲い掛かってきた。
 獣のような声が、彼の喉を引き裂いた。
 世界は原型も留めぬまでに歪み切った。
 腕に異様な力が滾った。蛆虫のように蠢く指が、獲物を見つけたかのように突発的に動き、頭の肉ヒダに喰らい付いた。
 そのまま、床にくずおれ、うずくまった。
「……ひぃ……ひぃ……」
 体を丸め、頭を抱え、怯えきっていた。
 ぬるい汗が、肌を伝い落ちた。そろそろ日が昇りきる頃合だった。すでに真夏だった。外は晴れていた。強い光が窓から差し込んでいていた。耳鳴りがやかましかった。ここは薄暗かった。埃っぽかった。涙と涎が粘っこかった。耳鳴りがやかましかった。尻に当たる床が少し痛かった。寒かった。暑かった。どうしようもなく寒かった。ぬるい汗が全身を濡らした。手が震えていた。脚が震えていた。臓腑が震えていた。耳鳴りがやかましかった。
 独りだった。

 ●

 鋼原射美は、決断の岐路に立たされていた。
 ボロ借家への道を、とぼとぼと歩きながら、眉尻は垂れ下がっていた。
 もしもネコ耳が生えていたら、しゅんと力なく伏せられていることだろう。
 ――射美もケモノ耳ほしかったなぁ〜……
 なんて。
 思考を関係ない方向に遊ばせてみるけれど。
「ふみ……」
 胸がひくついて、喉が熱くなって。
 やっぱりこらえきれなくなって。
「ふみぃ……っ」
 やっぱりすごくショックで。
 普段あんなに優しかったのにって思うと、ひたすらに悲しくて。
 ――ホントに、怒ってたんだなぁ。
「みいぃぃぃ〜っ!」
 涙が止まらない。
 射美は、生まれた時からすでに《ブレーズ・パスカルの使徒》にいた。彼女の両親は組織の構成員だったようだが、一度も会わせてもらったことはない。
 大人ばかりの組織で、最初に優しくしてくれたのがタグトゥマダークで。
 だからこそ、甘えすぎていたのかもしれない。
 無限の好意なんて、あるはずがないのに。
 ――射美はダメな子でごわす……
 あぁ、だけど。
 誰かにこの悲しみを聞いてほしかった。
 無理して藍浬や篤や攻牙の前から逃げ出すべきではなかった。
 自分は誰かに泣きつく資格なんかない、なんて。
 変に格好つけて。
「ひっ……ひぅ……」
 嗚咽をこらえるくらいしか、できないなんて。
「――どうして泣いているんだい? お嬢さん」
 そう、こんな風に。
「君に泣き顔なんて似合わないよ、鋼原さん」
 優しく話を聞いてくれる誰かがいれば。
「君に似合うのは、頬を赤らめながら唇を噛んで未知なる快楽と羞恥に耐え続ける表情だよ!!!!」
「ぎゃああ! ヘンタイさん!」
 黒い風が吹き抜けた。
 射美は恐怖に突き動かされ、全力ダッシュ。十メートルも進んだところで振り返った。
 均整の取れた長身痩躯。わきわきとイヤらしく動く両手の指。ダークグリーンの前髪が、その眼を覆い隠しているが、口の端は吊り上っていた。
 超高機動型変態、闇灯謦司郎。
 いくらなんでも神出鬼没すぎる。
「はっはっは、君みたいなかわいい女の子に変態なんて言われると、僕のパトリシアが神に反逆しちゃうよ!」
 何の隠喩だ。
「どっ、どっ、どどど、どうしてここに!?」
 もう五分も歩けば、射美たちが隠れ住むボロ借家にたどり着いてしまうような場所である。それはつまり、謦司郎には隠れ家の位置がバレているということではないだろうか?
「ノンノン、そんなことはまったく重要じゃないさ」
 背後から優雅なテノール。
「ひぃぃぃぃぃ!」
 いつ移動したのか全然わからない。怖い。単純に怖い。自分が何をしようが彼の行動を止められないという恐怖。
「今重要なのは、鋼原さん、君が悲しんでいるってこと」
「……ひ……!?」
 ふっと風が吹いて、射美の目尻に何かが触れた。
 謦司郎の親指だ。溜まった涙を拭い去り、引っ込んでいく。
「あ……」
「君に言っておきたいことがあるんだ」
 謦司郎は腰に手をあて、あさっての空を見上げた。そんな何気ない所作が、凄まじく絵になる奴だった。
「……ありがとう」
「え……?」
 意味をつかみかねて謦司郎の顔を見やると、彼の頬は緩やかに綻んでいた。
「攻牙を助けてくれて、ね」
 射美は眼を見開いた。
「君がいなかったら、攻牙は間違いなく真っ二つになっていたと思う。だから、ありがとう。本当に」
 そして、決まりが悪そうに頭を掻いた。
「これでも親友って奴だからね。ふひひっ、本人はムキになって否定しそうだけど」
 射美は、言葉が出なかった。
「だからね、お願いだ。自分の行いを、否定しないでほしい。君のしたことに感謝している人間が、ここに間違いなく一人いる。それに、篤やおっぱ……霧沙希さんも同じくらい感謝してると思う」
 今なんて言いそうになった?
「あ……う……」
 だけど、突っ込みの言葉は出て来ない。
 胸の中で、熱い何かが詰まっていたから。
 こみ上げてくるものがある。
 それは熱を伴って、圧力を高めてゆく。
 やがて、
「ウぐっ!?」
 OK、久々だ。

「ごふぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 グラシャ! ラボラス!
 深紅の! 奔流!
 びちゃびちゃと道端に叩きつけられ、ホラーな領域を広げてゆく。
「けほっ……けほっ……」
 身を折って咳き込む射美。
「あー……えっと……大丈夫かな……?」
「うぃ〜、感極まってやっちゃったでごわすぅ〜」
 咳き込みながら、にひひと笑いはじめた。
 なんとなく、この変態紳士をたじろかせたことに、愉快な思いを抱く。
「しまった……頭から浴びれば良かった……! あぁっ! 美少女の体液が! 体液が! 無駄に地面に染み込んでゆく!」
「…………」
 そうでもなかった。
 変態すぎる。
「あー、こほん」
 気を取り直して。
「あの……ありがとうでごわす。ちょっと気が楽になったでごわす」
 ぐしぐしと口をこすりながら、自然に笑みを浮かべることができた。
「おかげで、決心がついたでごわす♪」
 変態紳士が、わずかに眼を見開いたような気がした。
「決心……そうか」
 そう微笑んで、歩き出す。
 すれ違いざま、射美の肩に手が置かれた。
「無理はしないで、命を大事にね」
「はい♪ ヘンタイさんは、実はいいヘンタイさんでごわすね♪」
「はっはっは、君みたいなかわいい女の子にそこまで言われたら、僕のパトリシアのみならずエリザベスまで凄いことになってしまうよ!!」
「えっ……それ何!? どゆことでごわすか!?」
 別個のナニカらしい。

 ●

 地方征圧軍十二傑の序列第三位であるところのヴェステルダークは、ボロ借家の居間で、ひとつの結論に到達していた。
 皇停『禁龍峡』の位置に関する、重大なパラダイムシフト。
「……私は今までとんでもない勘違いをしていたらしいのかもな……」
 眉間を軽く摘みながら、斬れ味鋭い笑みを浮かべるヴェステルダーク。
 ここ朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相が不安定に揺らいでいる理由。
 どれだけ〈BUS〉の流れを辿ろうが、まったく《楔》に辿りつかなかった理由。
 ようやくそれが、判然とした。
 今までは、謎の寄生バス停(うねうねしてる)が、正常な〈BUS〉の流動を阻害しているせいかと考えてきたが――
 どうやらそうではないらしい。
 むしろ、逆――
「……ん」
 どこかで、絶叫が、上がった。
 まるで、獣のような慟哭であった。
 生きながら喰われる猫のような喘鳴であった。
 あるいはそれは、笑い声にも似ていたかもしれない。だが、そう断じるには何かが欠け、何かが余分だった。
 軽く眉をひそめるヴェステルダーク。
 叫びは、すぐにやんだ。
 不気味なまでの、静寂。
 やがて、襖が蹴破られる音が微かにした。
 足音が響いてきた。
 規則的で、異常に緩慢な、人がましさを感じられない足音だった。
 どうやら廊下を歩いているようだ。
 板張りの床が、軋む。
 だんだんと、近づいてくる。
 ゆっくりと、近づいてくる。
 ヴェステルダークは、鋭く目を細め、自らの顎を掴んだ。
 ……ある予感があった。
 確信していたわけではないが、ひょっとしたらこうなるのではないかと。
 無数にある可能性の一つとして、予測はしていた。
 やがて、ヴェステルダークのいる居間へと通じる襖の前で、足音は止まった。
 がたり、と。
 襖が震える。
 がき、がぎっ、と。
 襖が引っ掻かれる音がする。
 乱暴というよりは、襖の開け方がわかっていない獣のような所作だった。
「――入りたまえ」
 ヴェステルダークがそう声をかけると、わずかに開いた隙間から、派手な音をたてて指が突っ込んできた。
 細かく痙攣しながら、指は爪を立てて襖の端を握り締める。
 瞬間――
「……ァ……」
 襖を力任せに引き毟って、ひとつの影が姿を現した。
 ソレは、人間に似た姿をしていた。
 ヴェステルダークがよく知る部下のような顔をしていたが、まるで死人のように表情がなかった。
 大量に流れ出た血が、その整った顔を禍々しく染めていた。
 ソレは、手に残った襖の残骸を無造作に投げ捨てると、異様に緩慢な動作で歩み寄ってきた。
 そして、ちゃぶ台の上に広げられていた朱鷺沢町の地図に、血まみれの何かを叩きつけた。
 ――縞の獣毛が生えた、二つの肉片だった。
 見ようによっては、耳のようにも見えた。
 くす、と、ヴェステルダークはかすかな失笑を漏らした。
 それはまぎれもなく嘲笑ではあったが、出来の悪い生徒がようやく及第点を出してきた時の教師の笑みにも似ていた。
「[おはよう]、[バケモノ]」
 ソレは、無言であった。
 ただ、ブラウンの前髪の狭間から、底光りする眼でヴェステルダークを見下していた。
 ヴェステルダークは、亀裂のような笑みを頬に刻む。
「私が、憎いのかもな?」
 ソレは、何も言わず、何もせず、ただ見下してくる。
 ただの人間であれば、それだけで絶息しかねないほどの視線だった。
「――知って、いたのか」
 ようやく、ソレは口を開いた。
 鈍い光沢を持った声だった。低く、動かず、ただ黒々と蟠る声だった。
「ああ。一部始終、知っていたのかもな」
 重圧を伴った沈黙が、二人の間を覆った。
 何ら友好的な空気などなかったが、不可思議な調和が保たれていた。
「あんたは」
 ソレは、やや躊躇うような仕草を見せてから、
「[俺]、が、飛びかかってきて首を絞めてくるような展開を期待しているんだろうが――」
 禍々しくも剄烈な力を込めた眼で、ヴェステルダークを睨む。
 その瞳は、ひとかけらの温かみもなかったが、どこまでもまっすぐで、澄み渡っていた。
「《王》たるあんたの力を俺は見誤らない。俺が一生涯をかけようが、到達できない高みに、あんたはいる」
 ヴェステルダークは、その言葉を卑屈とは受け取らなかった。
 眼が、力を失っていない。
 状況を正しく理解し、絶望的な力の差を知り、それでもなお成すべきことを見据え続ける。冷たく研ぎ澄まされた覚悟に燃える眼だった。
 ――いい貌を、するようになった。
 ヴェステルダークは笑みを深くした。
 この、欠落を抱えた青年は、今ようやく、生き始めたのだ。
「それに、あんたたちのことを、そこまで怨んではいない」
「……ほう、意外かもな」
 ソレは、血にまみれた自らの手を凝視した。
 細かく、震えていた。
 だか病的な震えではなく、内部より溢れ出る力の扱い方に、まだ慣れていないだけという印象を受けた。
「こんな、強さなど、欲しくはなかった。ずっと、たったひとりの妹を守っていたかった。たとえそれが幻覚であっても、俺はそれでも良かった」
 言いながら、眼を閉じた。眉間に、苦悩の皺が寄った。
「欲しくは……なかったんだ……現実を見据える強さなど……」
 それは、己の身にかつてあった弱さへの郷愁だった。
 すでに失われてしまった、弱さへの。
 その弱さは、致命的な隙となって、とある特殊操作系バス停使いの精神介入を許した。
 序列第五位、エイリオハート。
 ある意味、目の前の青年にとっては恩人であり、憎むべき詐欺師でもあったが――
 この様子では、彼の眼はすでに別の方を向いていそうだった。
「貴様が諏訪原篤と停を交えた時、恐らくはバス停同士での感応が発生したのだろう。そして、彼と貴様の間で精神的な共震現象が発生した」
 共に強烈な感情をぶつけ合いながら死闘を演じたバス停使いの間には、稀にそういった現象が発生することがあった。
「すなわち、貴様のその強さは、すべて諏訪原篤に起因するということだ」
「あぁ……わかっている……わかっているさ……」
 震える五指を握りしめ、ソレは――かつてタグトゥマダークという名で呼ばれていた怪物は、呻いた。
 ふいにこちらへと視線を戻し、鋼のような声で言った。
「今日は、決別を伝えに来た」
「ふむ」
「もはや《絶楔計画》などどうでもいい。あんたたちで勝手にやってくれ。俺は、俺の生を闘う。生きた証を、自分の手でつかみ取る」
 ヴェステルダークは、目を細めた。
「つまり……裏切ると?」
「そう取ってもらって構わない」
「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」
「くどい」
 ヴェステルダークは、呆れたように息を吐いた。
「……思い人は、あの少年かもな」
 彼は、答えない。
 それが何よりも雄弁な答えだった。
「諏訪原篤は、ディルギスダークが――あの『狂鴉』が、一片の間違いもなくすっきり爽やかに抹殺することだろう」
 酷薄な嘲笑を、口の端に乗せる。
「貴様の出番は、恐らくないのかもな」
「かまわない。俺は――」
 一瞬、青年の顔が嫌悪に歪んだ。
「――奴を、信じている」
 まるで、昨日喰い残した残飯の話でもするかのように、そう吐き捨てた。
 ……腹の底から、笑いの衝動が込み上げてきた。
 くつくつと、低い忍び笑いを漏らしながら、ヴェステルダークは言った。
「よかろう。悔いのないよう、独りで生き、独りで死ね」
「……ありがとう」
 青年は、踵を返すと、振り返りもせずに居間を出ていった。
 後には、血にまみれた獣の耳だけが残された。

 ●

 しばらくしてから、居間にもうひとりの人物が入ってきた。
 大きな瞳を不安そうに揺らしながら、おどおどと。
「あ、あの、今、家の前で、タグっちが……」
 セラキトハート。
 ――いや、もはや鋼原射美と呼ぶべきか。
 彼女のおかげで、この家は明るさを失わなかったものだが。
 そう懐かしむ自分の気の早さに、ヴェステルダークは肩をすくめた。
「ほう、会ったのか。それで、襲われれもしたのかもな?」
 ぶんぶんと、射美は大げさに首を振り、困惑まじりの笑みを浮かべた。
「な、なんか、落ち着いてたっていうか……ブッキラボーだけど、優しかったでごわす」
 ――そうか、そういう見方もあるのか。
 少女の牧歌的な感性に、多少の驚きを覚えた。
「『ひどいことを言った』って。それから、『すまなかった』って……」
 思い出して照れたのか、両頬を手で押さえてくねくねした。
「ひさびさにナデナデされたでごわす〜♪」
 頭が血に濡れているのはそのせいか。
 思わず、苦笑が漏れた。
 青年を相手にしていた時とは対照的に、どうにも毒気を抜かれる。
「それに、なんかネコ耳がなくなってたでごわす」
「……あぁ、耳ならそこにあるのかもな」
 ヴェステルダークがちゃぶ台の上を指し示すと、「ぎにゃあああ!」射美はそこから後じさって尻餅をついた。
「ち、ち、ちぎ、ちぎった……!?」
「そのようなのかもな」
 ヴェステルダークは、血まみれのネコ耳を見つめた。
「……不意に、干し肉が食いたくなる時がある。ちょうど今のように」
「いやいやいやいやいや! イキナリ何を言っちゃってるでごわすか! せめてぼかして! 『かもな』を付けて!」
 ヴェステルダークは低く笑った。
 そして眼を細める。
「それで……貴様も私に用があるのではないのかもな?」
 答えの分かっている問いを、発した。
「あ……ぅ」
 一瞬、射美は息をのみ、やがて観念したように息を吐いた。
 ちゃぶ台ごしに、射美は座り込んだ。
「その……」
 何かを言いかけて、射美は口をつぐむ。その眼は下を向き、怯え、揺れていた。
 ヴェステルダークは、声をかけて続きを促すようなことはしなかった。
「大事な人たちが……この町にいるでごわす」
 相槌すら打たず、ヴェステルダークは目を細めてじっと射美を見る。
「射美は……その人たちが、大好きでごわす」
 彼女は下を向いたまま、肩を細かく震わせた。
「だから……その、射美は……だから……」
 さっ、と顔を上げ、正面からヴェステルダークの視線を押し返しにかかる。
「こ、この町を、ま、ま、ま守るつもりでごわす!!」
 額に汗を浮かべ、どもりながら、ヴェステルダークの眼光に抵抗する。
「……つまり、《絶楔計画》を阻止するつもりである、と?」
「は、はい!」
「要するに、裏切る、と?」
「は、はぃぃ……」
 ヴェステルダークは、軽く吐息をつくと、わずかに眼を見開いた。
 その身に宿る、あまりにも強大な〈BUS〉を、ほんの少しだけ視線に込めた。
「ひっ……ぐ……っ!」
 反応は劇的だった。射美は全身を硬直させ、呼吸困難に陥ったかのように口をパクパクと開閉させ、眼にはありありと恐怖の色を宿した。
「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」
 青年にかけたのとまったく同じ言葉をかける。
 射美はカチカチと歯を鳴らし、眼尻に涙をためていた。
 しかし――視線が、ヴェステルダークから逸らされることはなかった。
「な、な、ないでごわすぅ〜!」
 涙は決壊し、滂沱と流れ落ちる。彼女はわかっているのだ。自分が死地にあるということを。どうやっても逃れることはできないのだと。
 だが――視線は。
 涙に曇っているはずの、その視線は。
「――逸らさないな。一瞬たりとも」
 ヴェステルダークは微笑を浮かべ、根負けしたようにあさっての方向に眼をやった。
「あ……」
 唐突に解けた呪縛に、射美は放心したような声を上げる。
「行け。行きて愛せ。貴様が守りたいと思うすべてのものを」
 視線を戻さぬまま、投げ付けるように、ヴェステルダークは言った。
「う……あ……はいっ!」
 その声は、恐怖によるものとはまったく別種の涙で揺らいでいた。
 彼女が立ち上がる音がする。
「あのっ! ありがとうごわしますっ! それから、今までありがとうごわした! 次会うとき、射美は敵でごわすっ!」
 ヴェステルダークは答えない。射美の方を向きもしない。
「その、ま、まっ、負けません!」
 脱兎のごとく、走り去る足音。
 遠ざかってゆく、足音。
 ヴェステルダークは、穏やかに目を細めた。

 ●

「――かくして、二人の裏切り者が、《王》のもとを去っていった」
「ディルギスダーク……いたのかもな」
「――ヴェステルダークはそう虚空に向けて呟くと、なにやら似合いもしない温かな笑みをあわてて消した」
「余計なお世話なのかもな」
「――だが、ヴェステルダークのこの寛恕は、彼ら二人の若者に、不幸な未来しかもたらさないであろうことは確実だった」
「……ふん」
「――タグトゥマダークは、怪物となった。もはや彼は腹の底で燃え盛る絶望を糧に、温もりも救いもない修羅道を歩むことだろう」
「だろうな」
「――セラキトハートは、明確に《王》の敵対者となった。この時点で彼女の死は決定づけられたのだ。もはや早いか遅いかの違いを除いて、彼女の余生に意味はないだろう」
「それでもな、ディルギスダーク。彼らが自らの意志を貫いて、自らの立場に否やを唱えたことが、私はなぜか、嬉しいのかもな……」
「――ヴェステルダークはそう言うと、遠くを見るような眼差しで、二人が去っていった方向を眺めた」
「本当に……どの子も知らぬ間に大きくなる」
「――彼はおもむろに立ち上がった。その眼には、もはや冷徹な《王》としての威厳以外、何も見出すことはできなくなっていた」
「そして、古い目的にしがみつく古い人間ばかりが、この借家に残ったというわけなのかもな」
「――酷薄に、鋭利な笑みを刻む」
「《楔》の位置については、見当がついたのかもな。《絶楔計画》を第四段階にシフトする――『俺たちの戦いはこれからだ! 第三部・完!』というやつかもな!」
「――そうして、《王》は歩み出した。巨大な時計のごとき歩みだった」

「彼らのゆく手に、断想(パンセ)の導きがあらんことを」

 完


 第四部 『血ゲロのひとつも吐かされたことのない野郎がヒーローを名乗ろうなんておこがましいにもほどがある』

「――ウンコ喰ってる時にカレーの話をするド低脳に対して、人類はいかなる制裁を加えるべきか。これは古代オリエントにおいて文明が発祥した当時から我々の頭を悩ませてきた普遍的哲学命題であるわけだが、人類の集合知が希求するその究極的な回答が今ここにあると言ったら、この男はいったいどんな反応をするだろうか」
 『亀山前』のポートガーディアンであるところの布藤勤は今、選択の岐路に立たされていた。
 すなわち、肉体的な死か、精神的な死か。
 究極の二択である。
 トイレの便器に座り、下半身丸出しのいささか情けない格好で、全身に脂汗をかく。
 なぜそんなところで座っていたのかというと、別段特筆すべき事情など何もなく、ただ単にウンコするために自宅のトイレに入っただけのことである。
 のだが。
 ――どうしてこんなことになってしまったんだ……!
 勤は思いっきり両目をつむって、耳も塞いだ。とにかくこの現実離れした現実から逃避したかった。
 異変は、ほんの二分ほど前に発生した。
 いきなりトイレの壁をブチ破って、一人の男が姿を現したのだ。
 恐ろしく異様な風体の男だったが、彼が行ったことに比べれば何ほどのこともなかった。
 ……男は銀皿に山と盛られたカレーライスを突き出してきたのである。
 みんな大好きカレーライス。
 香辛料の刺激とまろやかさが同居したその芳醇な香りは、誰しもが食欲をそそられること請け合いである。
 ここがトイレではなく、現在進行形でウンコしているのでなければ、勤としてもツバをごくりと飲み下すにやぶさかではなかった。
「――人間の自由意志は、最大限尊重されなければならない。死刑囚ですら例外ではなく、死に方を選ぶことができる。それゆえディルギスダークはこの男に選択の自由を与えた」
「ぎゃあああ! 与えてない! 全然与えてない!」
「――暴れても無意味であった。叫んでも無意味であった。マジ無意味であった。ディルギスダークは、この男の尻からぶら下がっているウンコが落下しないうちに目的を成就させることにした。カレー最高」
 男はあろうことか、その巨大な手で勤の髪を掴むと、差し出したカレーライスへ勤の顔を突入させようとしたのだ。
 行動の意味がまったくわからない。
 が、勤にはその意味不明さに対して突っ込めるほどの余裕はなかった。
「ちょっ! やめて! それ近づけないで! あっ! ちょっ! アッー!!」

 こうして、布藤勤は死んだ。
 享年二十三歳。
 早過ぎる死だった。

 ●

 ――だれもいないのに、だれかがいる。
 語る、ということについて、ちょっと考えてみてもらえるだろうか。
 言葉を用いて物事を誰かに伝えるということ。最も汎用性に富んだコミュニケーション手段であり、誰しもが何の気なしに行っていることだ。
 『言葉では伝えられない』という言い回しが世に氾濫していること自体、言葉の持つ反則じみた万能性を逆説的に証明してしまっていると言える。なぜなら、当たり前のことをわざわざ言う必要などないからだ。
 何かを語るということは、語るに値するレアリティをもった事柄について語らないと、聴衆を惹きつけることなどできないものなのだ。
 『何を』語るのか。それは非常に重要な問題だ。
 だが、それと同等か、ともすればそれ以上に重要な問題がある。

 それは、『誰が』語っているのか、ということだ。

 ●

「なん……じゃありゃ」
 ハイパー夏休み謳歌中高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、今自分がゲームで戦っていることも忘れて、その男を見呆けた。
 奇妙と言うならば、これほど奇妙な人間を攻牙は見たことがなかった。
 なんていうか、一目見たら一生忘れられそうにない外見をしている。
 電動の車椅子に乗る、凄まじいばかりの大男。
 座っている状態なのに、威圧感を感じるほどの背丈だ。立ち上がれば二メートルは遥かに超えているだろう。真っ黒なロン毛が垂れ下がり、顔面をほとんど覆い隠していた。わずかに覗く目元にはベルトが巻かれて目隠しになっており、口には金属製の枷(ギャグ)がはまっている。
 しかも全身をベルトとハーネスでギチギチに縛り上げていた。映画に出てくる凶悪死刑囚みたいにまったく身動きは取れそうにない感じである。
 車椅子の背もたれには身を預けずに、前のめりのうつむき加減で座っていた。背中で両腕同士が縛り付けられていたのだからそれも当然である。そしてわずかに動く指先でリモコンを弄り、車椅子を操作してるようだった。
 墓地に吹き込む風のような呼吸音が、口枷からひどくゆっくりとしたペースで漏れ出ていた。無数のゲームのサウンドで会話も難しいような中にあって、その男の周囲だけが気味の悪い静寂に包まれているかのようだ。
 駅前のゲームセンター『無敵対空』。
 店長の趣味なのか何なのか、アクション・シューティング・格闘などのラインナップが無闇やたらと充実している昔気質のゲーセンである。男の姿は完全に浮いていた。不審者として通報されても文句の言えない場違いぶりである。
 むしろこいつが無理なく溶け込めるような場所にはかなり関わり合いたくない。
 ガキィーン! という金属質のサウンドエフェクトが、眼の前の筐体から発せられる。同時に、ゲームキャラクターの苦悶の呻きが痛ましく響き渡った。
「いけねっ」
 攻牙は慌ててゲームの画面に眼を戻すと、巨大な半透明のガントレットを身に付けた少年が地面に倒れ臥していた。
 でかい攻撃を食らったようだ。
「ちっ」
 対戦相手のキャラクター(ゆらゆら蠢くビーム触手をたてがみのように生やした騎士甲冑の男だ)が即座に間合いを詰め、こちらの起き上がりを待っている。
 なぜかダウン中のキャラクターには一切攻撃できない。ゲームバランス上の配慮だろうとは思われるが、卑怯外道な性格付けのキャラクターですら相手が起き上がるのを律儀に待っている光景はちょっとシュールだ。
 いや、そんなことはともかく。
 ダウンしている側が、起き上がりざまに取れる行動はだいたい決まっているが、このうち攻牙が好むのは最もハイリスクハイリターンな選択肢だ。
 ――喰らえオラァッ!
 起き上がる瞬間にレバーをZの形に素早く動かし、弱パンチボタンを叩く。いわゆる昇龍拳コマンド。
 画面の中で、少年は光のガントレットを高速で回転させながら思い切り突き出した。
 無数の水晶が砕け散るようなヒットエフェクトが炸裂し、相手キャラクターが大きく吹き飛ぶ。
 触手鎧男も何か攻撃をしようとしていたようだが、それを読んでいた攻牙はモーション中に無敵時間が存在する必殺技で相手の攻めをかわしつつ反撃したのだ。
 今度は相手がダウンする。
 攻牙のキャラクターは、ダッシュで間合いを詰めた。ガントレットが後ろになびく。それは、自らの腕に装着しているというよりは、体の両側に巨大な腕が浮遊しているといったほうが正確だ。光の巨腕は、キャラクター本来の腕とまったく同じ動きをする。
 ――起き攻めってのはこうすんだよ!
 攻牙のキャラクターは、地面を見据えながら腕を大きく振りかぶった。ガントレットに光の粒子が集まってゆき、眩く輝き始める。
 瞬間、相手が勢いをつけて跳ね起きた。
 間髪入れず、攻牙はガントレットで地面を殴りつける。画面の振動。鎧男の足元から光の柱が吹き上がった。
 敵はすでにガードを固めており、波紋のようなガードエフェクトが連続して発生するのみ。
 しかし、攻牙はその時すでに跳躍している。孤を描く軌道。そして防御している甲冑男の頭上を跳び越すと同時に蹴りを放つ。
 ヒット。
 相手を飛び越した瞬間に攻撃したため、システム内では「逆方向からの攻撃」として処理されたのだ。
 鎧男の食らいモーションが終わらないうちに小足から始動する連続技を叩き込み、ラウンド開始時に置いておいた設置技〈バーティカルヴォイド〉で真上にふっ飛ばし、空中浮遊するカーソルの中に放り込んだ。
 すると背景が闇に閉ざされ、甲冑男はビームの楔を無数に打ち込まれて空中に縫い止められた。直後に巨大な光の刃が三つ出現し、次々と振り下ろされる。巨大なヒットエフェクトが三重に咲き誇る。哀れな咎人に審判を下す。
 超必殺設置技〈セイクリッドギロチン〉。
『閃滅完了-K.O.-』
 システムヴォイスが、無機質な女性の声でそう告げた。
「『あんたの光は、濁っている』」
 攻牙はガッツポーズしながらセリフを自キャラとハモらせる。なかなかに快調な滑り出しだ。
 『装光兵飢フェイタルウィザード』。
 それが、攻牙のプレイしている2D格闘ゲームのタイトルだった。
 アニメ映画のようにヌルヌル動くスプライトと、緻密にモデリングされた3Dの背景、独創的なキャラクターデザインなど、主にビジュアル面で注目されていたタイトルだ。
 しかし実際に稼働してみると、全キャラクターが複数の設置技を持っており、浮遊静止する攻撃を連鎖的に当てて行くという特異なゲームコンセプトから「ピタゴラ格闘スイッチ」などと呼ばれてコアな人気を博している。
 相手のキャラクターはコンピュータが操作していたため、動きのパターンはもう読めている。正直、めくり攻撃(飛び越しつつ攻撃してガード方向を混乱させるテクニック)など使うまでもない相手なのだが、技術の反復練習はとても重要だ。
 画面が切り替わった。緑色のワイヤーフレームでゲーム内世界の地図が表示され、十数箇所に光点が打たれている。戦いの舞台となる場所を示しているのだ。その中の一つがピックアップされ、次に相手となるキャラクターのビジュアルが表示される。
 攻牙にとっては相性のいい楽な相手だった。
「対戦……してえなぁ」
 小声でぼやきながらレバーを握る。時刻は昼過ぎあたり。歯ごたえのあるゲーマーは大抵社会人なので、まだ出没しない。早く来すぎたか、と思う。
 背景やキャラクターを表示するため、一瞬だけ画面が真っ黒になり、BGMも止んだ。
 こひゅう、という吐息が攻牙の耳朶を舐めていったのは、その瞬間のことだった。
「え……っ?」
 咄嗟に振り返る。
 すぐ眼の前に、彫りの深い男の顔があった。
「ぎょああああ!」
 思わずイスから転げ落ちた。
 さっきゲームセンターに入ってきた車椅子の変態緊縛大男だ。背後から忍び寄り、攻牙の画面を覗き込んでいたのだ。しかし目隠しをしているのに「覗き込んでいた」というのも異様な話だ。
 そして、妙な感覚が頭の中に発生した。脳みその普段使われていない部分に、一斉に火が灯ったような、異様な感覚だった。
 ――なんだこれ!?
 しかし、今はそれよりも早急に行わなければならないことがある。
 すなわち、突然現れた不審者への誰何。
「なななななななんだよおっさん! ちちちちちちちちち近ぇよこの野郎!」
 男は、何も言わない。ただ、鋼鉄の口枷を噛み締めながら、にたあ、と笑った。
 めちゃくちゃ怖い。
 緊縛男は身を引くと、電動車椅子を操作して移動し始めた。ゆっくりと。ゆっくりと。
 攻牙は緊張しながらその様子を見ていたが、やがて台の影に隠れて見えなくなってしまった。
「ったく何なんだよ」
 息を吐く。
 ゲーセンにはたまに変な奴が来るが、群を抜いて変な奴である。
 そしてガキィーン! と効果音。
「あぁっ! やべ!」
 あわてて立ち上がり、画面を見ると、案の定攻牙のキャラクターはダウンしていた。相当ボコられたようで、体力ゲージが半分ほどに減っている。
「ええい上等だコラァーッ!」
 勇んで筐体にかじりつく。
 攻牙にとってはコンピュータ操作のキャラクターなど相手にならないので、その後はほとんどダメージを食らうことなく順当に圧倒していった。
 が、その時、筐体の反対側からゴガッとかいう音が響いてきた。
 直後、いきなりBGMが変わり、画面に『軍籍不明熱源体(アンノウン)接近中-A new wizard showed up-』という文字がデカデカと表示された。
 いわゆる乱入。他のプレイヤーに挑戦されたのだ。
 虚を突かれた。いや対戦自体は大歓迎なのだが、こんな時間帯から乱入を受けるとは思わなかったのだ。
 ――よーしやってやろうじゃねえか。
 肩を回しながら、相手プレイヤーがキャラを選ぶのを待つ。
「んん?」
 妙な――ことが起こった。
 見覚えのないキャラクターが、画面に登場している。
「なんだ……こいつ……?」
 
 
●作者コメント
 派手などんでん返しが大挙して押し寄せる、派手なライトノベルを目指しました。


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
コネコネ子猫さんの意見 
 こんにちは(=゚ω゚)ノ
 読む専門なんで参考になるか判りません
 取り敢えず前編だけ読んで見ました。日常部分で随所随所に笑える箇所が幾つもあり、謦司郎も良キャラです。全体的には間違いなく面白いんですが、読み進めて行けば行くほどつまらなく感じてしまったんです。
 ゾンネルダーク戦は間違いなく面白かったです。そして「ああ、これはボボボーボ・ボーボボ(ご存知かどうか)みたいな感じで読めばいいんだな」と認識してました。ライトノベルに明るさや笑いを求めてる自分からすれば、これはまさに自分好みの作品だと期待してそのまま読み続けました。
 ただ次の射美戦は、冗長な感じがして、やや笑いどころも少なくなったような気がしました。
 タグトゥマダーク戦がまずかったです。射美戦よりさらに冗長になり、明らかにシリアスな感じになり、「何か求めていたものと違うな・・・・・・」と思ったもんです。しかし「にゃん」「ぴょん」と、妙にふざけた要素があるからこれは笑うべきなのかどうか迷ってしまいました。「――夢月ちゃんが、死んだ時からだろうか」前後になると、完全に物語の雰囲気が180度変わった、壊されたような気がします。やはり人が死んだ生きたの話になると話が重くなってしまいます。
 作者さんの 「派手なキャラクターと、派手な戦闘と、派手などんでん返しが大挙して押し寄せる、派手なライトノベルを目指しました」という事であればシリアス寄りになるのもぶれた事にはならんのでしょうが、最初のゾンネルダーク戦で、明るさや笑いを期待してしまった自分としては、その落差に少々裏切られた気分になったのでした。(´;ω;`)ウッ  とにかく徹底してギャグ路線を貫いて欲しかったということです


バールさんの返信(作者レス)
 コネコネ子猫さん、コメントありがとうございます。

 ううむ、実は俺も「ずっとボーボボ的なノリで行くべきではないか」という葛藤は常に抱いていました。
 萌えキャラもシリアスな展開もなく、バカカッコイイという価値観をひたすら追求してゆく。そんなライトノベルは、俺は見たことがありませんし、独自性という点でも申し分ないと思います。
 最初コメディだけど、だんだんシリアス寄りになってゆくライトノベルなんていっくらでもありますからね。
 だからまぁ、現在の状況と言うのはある意味において「楽な方に流れた」と言うべきものです。コネコネ子猫さんの落胆は至極当然のものと言えましょう。
 ただ、それも書きたかった。
 それでもタグトゥマダークという怪物をコメディ世界に産み落としたかったんです。
 作者のエゴ以外の何物でもないのですが、エゴを失ったら書いてる意味なんてないからなぁ、などとカッコつけてみたりもするけれど、誰の共感も得られないこだわりなど何の意味もないわけで、うー、あー、うー。

 まぁ、攻編は鬱要素とかないので大安心ですよ〜と言いたい所ですが第四部は第三部とは違った意味で読む人を選びそうな内容なので「読んでください」などとはとても言えません(汗)。

 そんなことより重大かつ致命的なご指摘なのが「冗長」という点です。
 その評価だけは貰わないよう気をつけていたので大変耳が痛いです。
 やはり戦闘シーンのあたりでしょうか。


冬樹さんの意見
 感想返しが遅くなってすみません。冬樹です。

 読まさせていただきました。
 むっちゃおもしろかったです。
 主人公たちの武器がバス停。そして抜き出せばこれシリアスじゃね? とおもってしまうほど無駄にかっこいい描写。
 そしてギャグ。
 それで中二病まっしぐらなネーミングのくせに、まったく嫌らしさがありませんでした。むしろもっとやれ! てな感じで。

 私では真似できないので、正直うらやましいです。せめてかっこいい描写くらいできればいいのですが……

 キャラクターはどれも個性豊か……すぎでしょ!
 いや、おもしろかったので良かったのですが、あれ現実でいたらすごいな……ちびっこが常識人に見てきましたよ。あとはキャラクターが多すぎる気がしました。正直な話、敵の幹部、だれが誰だかわからなくなってきました。それにキャラクターの名前も独特すぎて、一瞬誰だっけ? となんどか読み直してしまいました。

 それでストーリーなのですが、おもしろかったとこと、良かったところが多すぎて、せつめいできそうにありません。
 ただ主人公(ウサミミ)と、ライバル的な人(ネコミミ)の戦い。語尾がもとに戻ったたりで、流し読みになりました。
 てっきりこのままギャグで終わるかと思いきや、いきなりシリアスモード。正直ついていきませんでした。というか、すごく中二病臭かったです。それまでは気にならなかったのに、いきなりここらへんで、痛くなってきました。
 なんだか別人が書いていたようにしか見えません。
 いっきに伏線が貼られたようですが、性急過ぎる気もします。せっかくギャグとシリアスがうまい感じで混ざり合っていたのに、ちょっと残念です。

 まだ前半しか読んでいないので、点数はナシで。
 後半も時間があれば読んでみようかと思います。
 それでは。


冬樹さんの意見 +30点
  せっかく禅編読み直したんだから、改めて評価を残します。

1章
 ギャグ小説としてよく完成していると思います。
 短編読みきりとして書いただけはあって、テンポ良く完読できました。
 この作品に置ける突込みどころは特に見受けられません。
 1から10までギャグ小説の域ですので、曖昧な設定や無茶な展開もスルーできます。
 以前から言っているように頭3行における掴みが完璧あり、ここで「良い」と思える読者には当作品はバカウケ間違いないですね。
 時折入るバイオダイナミック農法云々のくだりも面白くて好きです。

2章
 ちょっと話を濃くしてきた2章ですが、主人公勢の強化に対して射美が弱すぎるイメージです。
 妥当な戦い方をすればどうであったのか。気になるところですね。
 篤含む三人組はいいですね。よく出来たトリオだと思います。
 異色の二人に対して、能力も考え方も普通の攻牙が、本来読者を置いてけぼりにする二人に対していいフィルターになれていると思います。

3章
 ここで一気に色を変えてきますね。
 狙ってもいないキャラに獣耳が生えることは意外の一言。誰も望んでいない展開に驚愕と、未開の萌えを見た気持ちです。
 馨司郎の登場自体が少なく、笑い成分少なめに思えます。
 全体の構成としては、後の重い展開に対して、1章2章でギャグ作品だと決め付けて読んでくる読者に対しては、裏切りめいた予想外を与えてしまっているので、反感をかうかもしれません。
 自分としても、ギャグと決め付けて読んでいるわけではないものの、3章は読み進めるのが遅くなります。
 魅了され、惹き込まれるだけの強さがない。といったところでしょうか。
 改善する方法こそまったく思いつきませんが、3章だけでこの作品を見放す読者がどれほどいるか……と杞憂してしまう内容だと思います。
 夢月の正体は意外すぎてびっくり。なるほどって思うところもあり、タグトゥマダークの性格が一変する理由としては十分だったと思います。
 しかしあのくだりの描写では意外性がいまいち本領発揮できていない気がします。
 部屋の内装描写などを使って、紛れもなく同じ部屋なのに長いこと住人がいない様子が見られる……というのを明確にしてほしいですかね。(いっそ仏壇があってもいいです。遺骨でもいいですね)
 今のままだと、本当に部屋を間違えてても何の違和感もない書き方です。

 1章50点。2章40点。3章20点。間を取って30点の評価です


S-Yさんの意見
 遅ればせながら参上つかまつりました。S-Yでございます。
 受編、もとい禅編の感想をば上げさせていただきます。
 本作においては、終始暴走機関車で引っ張られ続けるような力強さを覚えました。ただ、バトルの要が途中から異能力的になってきて、バス停の必要性が薄れてきましたが。
 キャラクターも、あまりに強烈で、黎明期のライトノベルを読んだ気がします。
 ただし、読了感は「疲れた。もう結構」の一言でした。
 技術もあるし破綻もしていないのに、その理由はいったい何なんだろうと考えたら、結局この作品における登場人物が、「灰汁の強い個性の押し売り」に終わっているという点です。変態君1号といいござる娘といい、よいキャラなのですが、たとえば主人公の行動原理が見えてこないので、共感できないのです。
 せっかくのストーリーですが、もう少しキャラもエピソードも絞り、すっきりさせた方がいいと感じました。


バールさんの返信(作者レス)
 S-Yさん、コメントありがとうございます。

>受編、もとい禅編の感想をば上げさせていただきます。

 いきなり何を言っているんですかwww

>ただ、バトルの要が途中から異能力的になってきて、バス停の必要性が薄れてきましたが。

 やはりメインは内力操作系による白兵戦にすべきでしたね。バラエティ豊かな能力の持ち主たちが入り乱れる話にしたかったがために現在のような形になったのですが、やはりバス停という「掴み」に惹かれた人たちの期待をあまり裏切るのは良くないですね。

>ただし、読了感は「疲れた。もう結構」の一言でした。

 あー、失敗しましたね。強烈な個性で掴んでから、後でじっくりと掘り下げてゆくという構造を目指していたのですが、いかんせん登場人物が多すぎて「掴み」が長くなりすぎたのかもしれません。

>たとえば主人公の行動原理が見えてこないので、共感できないのです。

 これは半分成功で半分失敗ですね。諏訪原篤は「常人には理解不能だけどなんか面白い人」を目標にしていたのですが、いかに言うても俺ルールが難解かつブッ飛んでいて読者をおいてけぼりにしてしまった感があります。難しいですね、人物造型。反省です。


麻梨さんの意見 +40点
 はじめまして。麻梨と申します。
 比較的読むのは早いほうなんですけれど、この作品は本物の長編であり、お気に入りなので時間をとってじっくり読みました。テストをはさんだせいで1ヶ月経過したにも関わらずまだ前編で……後編をこれから楽しみに読もう! と意気込んでいるんですけれど、とりあえず今読んである分で感想を書かせて頂きます。

 良かったところ

1 武器がバス停
 誰にも真似できない斬新さですよ! 感動しました。武器や設定が誰にも思いつかないモノなので3話あたりの戦闘シーンは想像が追い付かないところもありましたが、誰の心にも残る設定だと思います。

2 キャラクターが強烈
 いい所と駄目なところがこんなにも前線に出ているのに全員魅力的! 一人一人にキャッチフレーズが作れますし、誰が主人公でもこの設定ならいけると思いました。
 全員主人公レベルの濃さなのに、人数も結構出ているのに被らないし鬱陶しくない。これは作者様の力量を感じます。ゲームのシナリオ設定などにも重文通用すると思います。

3 ギャグ全般
 個人的意見ですけど、私のツボは超ド級で突かれました。整体師レベルです! マジで最高っす!!
「ハラキリ?」「ごわすってなんだよ!」「股間のソムリエ?!」と口に出して笑いましたから。
 ギャグって勉強して上手になるには限度があると思うんです。きっと作者様の才能ですよ。いちいちツボったシーン書いていたらきりがないくらい笑いました。私はこういうのすっごい下手なので勉強させて頂きたいです。


気になったところ

1 格シーン冒頭のキャラの心境の描写
 ないと間抜けになると思いますけれど、もう少し削れるかな、と。
 これだけ長い長編の場合、あっという間に読ませる必要があります。十分魅力的な設定・内容なのでその辺りは改善する必要はないと思いますけれど、背景、設定の説明文が綺麗にまとまっているのに、キャラの心境がごちゃごちゃしているかな、と感じました。毎シーン毎シーンに必ず心境描写が来るので飽きが来てしまうところもありますので、もう少し独自の工夫を入れても良いのではないでしょうか。

2 戦闘シーン描写
 これは私の想像力の問題もありますが、追い付かないところが結構ありました。特にタグトゥマダーク戦ですね。「えーと、今どこだ?」と頭を整理させつつ読まないと分かりにくいシーンが射美戦に比べて格段に多かったです。(射美戦は分かりやすかったです。消火器のところとか特に)
 タグトゥマダーク戦が特別わかりにくかったというより、長かったら目立ってしまっただけかもしれないんですけれどね。

3 死ぬ。死ねの言葉が多すぎる。
 ちょっと極端に多いかな、と。軽々しく言うことはありますけれど、やっぱりあんまり言わないほうがいいにかぎると思います。 
 しかし個人的な意見で付け加えると夢月ちゃんの設定は私は良かったと思います。重さと軽さの設定は大切だと思うので。ここで「命」の重さがあるのですから、軽々しい「死ね」はすこし控えるほうが良いかな、と思いました。
 

 随分好き勝手言いました。不快な思いをさせてしまったら申し訳ありません。
 とにかく楽しませて頂きました! ネットで読んだ小説でここまで笑わせてもらったのは初めてです!
 後半楽しんで読ませて頂きます。
 では、失礼しました!


バールさんの返信(作者レス)
 麻梨さん、コメントありがとうございます。

>1 武器がバス停
> 誰にも真似できない斬新さですよ! 

 ありがとうございます。自分としても、このアイディアで設定をまとめた時には、何かこう手ごたえのようなものを感じていました。

>2 キャラクターが強烈
 どうにも癖なのか何なのか大人数を出してしまいがちなのですが、気に入っていただけたのであれば重畳ですね。今までの創作歴の中でも最も気に入っている連中ですので、とてもうれしく思います。

>3 ギャグ全般
 ありがとうございます。笑ってもらえなかったら本作の価値は半分以下となっているところでした。
 しかし、これは才能ではないのです。とんでもないことです。
 市販の笑える作品や、ネット上の笑える文章などを収集、分析して、四六時中笑いの原理について考え続けた結果だと考えています。

>1 格シーン冒頭のキャラの心境の描写
 これは初めて気付きました。言われてみればシーンの冒頭に心理描写が来る確率が異様に高いですね。なんだかんだいって心理描写は好きなので、特に意識もせずに入れまくっていたようです。
 毎度このパターンでは確かに飽きられますね。バリエーション、考えようと思います。

>2 戦闘シーン描写
 あー、毎度わかりやすくしようと悪戦しているのですが、どうも俺の文体は本質的に明朗な理解がしづらいようです。凄みを出そうとして特殊な技法に走り、難解になってしまう。
 斬新な戦闘技能を出そうとするあまり、わかりづらくなっている面もありますね。
 なんとかせねばと思うのですが、奇をてらわずに読ませる戦闘描写というもののビジョンが明確でないせいか、どうにもうまくいきません。

>3 死ぬ。死ねの言葉が多すぎる。
 すいません。ナチュラルに死ね死ね言わせていました。小二病的な言動でおかしみを出そうとしたり、単に殺伐とした空気を演出しようとしたり、死生観を表現しようとしたり、理由は様々ですが、言われてみれば物凄く「死」という単語が多いですね。
 恐ろしいことに、そういう部分で忌避感を持たれる事態をまったく予測していませんでした。そういえばそうですよね。普通そうでした。
 先に謝っておきます。攻編も「死」が多いです(汗)。

 麻梨さんの作品も読ませていただきますね。ありがとうございました。

高得点作品掲載所 作品一覧へ
 戻る       次へ