評論家としての創作論なら、それで良いのだろうと思います。しかし、評論家の創作論と創作者の創作論は違います。創作者の創作論は、理論をプロットに変換することができなければ意味をなしません。
『魔法少女まどかマギカ』というアニメはご覧になったことがあるでしょうか?
この作品は、序盤では視聴者の「魔法少女もの」への先入観を利用してミスリードを仕掛けています。しかし、その先入観を裏切る要素を少しずつ挿入し、視聴者に「あれ?」と思わせます。そして、第3話に大きなサプライズが仕掛けられていて、視聴者が最初に思っていたものとはまったく違った物語だという確信を決定的にします。
まったく違うということは理解したけれど、何が違うのかはまだわからない。
そういう状態は、多くの人に強い興味を喚起するもののようです。
第3話以降の展開も、序盤で視聴者の心をつかんだ(であろう)クエスチョンを、どのように繋いでさらに引き込んでいくかということが良く考えられていました。
まどマギは、このような視聴者への心理操作を明らかに意図的に設計しているのがわかる脚本になっていて、創作者にはかなり参考になると思うので、これまでも何度も引き合いに出して推奨してきました。
理論をプロットに落とし込む。
そういうことについては、どうお考えでしょうか?