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タイトル:追記。左甚五郎の彫り物。 投稿者: あまくさ

伴名練と川端康成の文章に対する分析そのものは興味深かったので、思ったことを少し書いておきます。
特に1の伴名練作品について。この冒頭は確かに仕掛けが分かりやすく、「うだるような暑さ」なのに「雪景色」という矛盾をまず読者にぶつけているんですね。2行目以降はこれの補強になっていて、雪景色についての描写が追加されながら「花火大会」という夏を連想させるワードがまたしても登場しています。

スレ主様の解釈では、1行目だけだと読者に単なる文飾としての比喩と受け取られかねないので、2行目以降の補強によって、そうではなく主人公の周りで実際に起こっている異常現象の描写であることを読者に伝えようとしている。
平たく言えばそういうことかと思いました。

次に、

>解釈があまり多様でなくこの場で重要でもないと思われるような他の出来事は無視されるようになると考えられる。

うん。
ここが割と重要なんですね。

頭が良くて文章力のある初心者が陥りやすい傾向として、比喩を駆使した流麗な文章を書こうとしすぎるというパターンがよく見られます。しかしそういう文章は美文がノイズになってしまい、そのパートで何を読者に伝えようとしているかという方向性が分かりにくくなってしまいがちです。
なので、書き手が方向性を意識して、それを要所で読者の頭に定着させる配慮は大切です。

ただ。

偉そうに言うのも気が引けるのですが。

上記の伴名作品からの引用は、そういうことへの配慮は感じられるものの、個人的にはまだ弱いと思ってしまいます。
ぶっちゃけ、技巧に走りすぎでしょう。読者の印象に必ずしも強く残る書き方になってはいないように感じます。

以下は、江戸の彫刻家、左甚五郎のエピソードだったと思います。

多少うろ覚えですが、寺社の庇を飾る竜の彫り物の制作を、若い新進気鋭の職人と競うんですね。
若い職人は精緻な技巧の限りをつくして、皆が感嘆するような見事な竜を彫り上げます。しかし甚五郎は、一目見て「それではダメだ」と言います。
甚五郎がそう断じた理由は、実際に若者の彫り物を高い庇に付けてみてはじめて分かります。距離を置いて見上げると、彫り物の細かい造作がよく見えず、印象がぼやけてしまったんです。
甚五郎の掘った竜はやや大袈裟なほど深々と削り込まれていて、近くで見ると荒く見えますが、庇に付けて見上げるとディテールがくっきりとして、まるで生きているようだったそうです。

上記の引用文は、私には若い職人の彫った竜のように感じられます。
エンタメ作品の文章は、要所ではケレンをつけて大袈裟なくらいに目立たせた方が良いというのが、個人的な見解です。

スレ主様の「推意」という考えは、着目点としては秀逸だと思います。そういう感覚を意識しながら作品を作ること自体は大切かと。
ただ、推意のコントロールだけで読者の興味を引きつけることができるかと言えば、疑問を感じます。目立たせるべきポイントはむしろ演出で目立たせるべきで、それがあってこそ(どちらかと言うと)隠し味としての推意操作が生きるのではないでしょうか?

   *   *   *

補足1。
先の書き込みで例に挙げた『まどマギ』は、プロットそのものが推意操作の連続で構成されているような脚本です。ここまでやれば思い切り目立つので、謂わば甚五郎の竜のようなものになっているように思います。

補足2。

>「謎を解決する過程でまたもう一つの謎が発生し、しかもその真偽によって最初の謎の答えが変わると考えられる場合、読者はストレスを感じる。」

>より序列の高い謎の答えに影響しないように見える限り、謎はいくつ置いてもよい。

このあたり、ちょっとピンときませんでした。

序列の高い謎の答えが変化するのは悪手というお考えでしょうか?

私としてはむしろ、読者が序盤や前半で最高序列の謎と推測したファクターがストーリーの進展とともに覆り、後半や終盤に至って真の最高序列の謎が明らかになるといった展開の方が望ましいと考えるのですが。
『まどマギ』は、まさにそういう脚本でした。

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