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タイトル:現在「看護師」 昔「看護婦」 使うときの返信の返信の返信 投稿者: にわとり

 言いたいことが伝わってない様子。そうじゃなくてさ、自然言語には大衆の先入観がプリセットされてるから、言語を用いて大衆の心に訴えかける芸術であるところの文学が、大衆の内なる差別意識から逃れるすべはないっていう話をしているんだけど。
 別に女性看護師/看護婦に限らず、定義上同じ意味のはずなのに、なぜか受ける印象が異なる言葉っていくらでもありますけど、それって偏見と何が違うんですかね。定義が一緒なのに印象が違うなら、それはわれわれの認識のほうに何らかの"間違い"があって、それが反映されているって考えたほうが妥当なんじゃないかと自分は考えますけど。
 でも同時に、言葉がもつイメージの違いにたいする嗅覚こそが作家の資質でもあるわけで、原理的な意味で差別感情を助長してはいけないと言われたら作家としては目隠しされたも同然なんですよね。それは、言葉を選んではいけませんって宣告されるのと同義だから。だからどこかで折り合いをつけなければいけないと言ったわけです。

 だからまあ、『看護師は私の感覚的に堅い感じでより行政的な感じ』っていうのは正しいですよ。感覚的によく分かる。すると相対的に、看護婦は柔和で寛いだ感じということになるんでしょうか。上の方の返信で優しさとか癒やしという言葉も出てきますね。
 とはいえ看護師はいわゆる接客業ではない(病院にも経営の概念はあるけど、それ以前に社会インフラとしての側面が強い)ので、寛ぎ、優しさ、癒やしは確かにあったら嬉しいかもしれないけど過度に要求すべきことではないし、看護婦という名前が独り歩きして"病人の看護は女のやることだ"という先入観が固定されてしまうのも避けなければならない。
 だからこそ行政は看護婦を廃して、より中立的な用語である看護師を必要としたわけでしょ。だというのにそこであえて、看護婦が差別用語と見なされうることを知っていながら"看護婦"という言葉が持つ微妙なニュアンス、あえて社会が言葉狩りしてまでなかったことにしようとしたイメージを小説の中に呼び戻そうとするなら、それについて何か文句を言われたとしてもそこは甘受すべきなんじゃないでしょうかね。
 どれだけ気をつけても、不特定多数に言葉を発信する以上、その言葉で誰かが傷つくかもしれないことは常に意識するべきなんですよ。やれるだけのことはやった上でそれでも最後は腹を括らなきゃいけない。そういう話。

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