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タイトル:宗教が元ネタ、どんな扱い方ならOKかの返信 投稿者: あざらし

ある程度のボーダーラインは引けるかと思います。
大前提としてですが、宗教をネタにした作品はイッパイあります。
知名度が比較的高く、かつ際どい作品をあげますが、
例えば映画なら【マーティン・スコセッシ監督:最後の誘惑】
アニメなら【サウスパーク】
漫画なら【中村光著:聖☆おにいさん】

上記作品を少々補足します。
【最後の誘惑】
名監督の手による名画。
個人的にも好きな映画ですが、キリストその人をあまりにも人間的に描いたことがキリスト教徒の反感を買った模様。教義的にも神の息子なので、まるっきり間違いではないと思うのですが、まぁ、文句つける人はいるだろう、という感じです。

【サウスパーク】
ある意味、中道的リテラシーを試される苦笑いと爆笑が入り交じるアニメ。
そもそも作風として、日常生活に溶け込んだ偽善から国家犯罪まで、ブラックユーモアと風刺により歯に衣着せぬ物言いで斬りまくるので当然っちゃあ当然。
このアニメにかかるとアンタッチャブルはないに等しいので、イスラム教から中国まで噛みつかれたり舐め回されたりします。
コンピューター使用のストップモーションで一話あたりの制作日数が6日。時間が短すぎて局の介入による放送停止判断が間に合わないらしい。(なので、危険すぎて以後お蔵入りになる幻回もあります)
個人的には大好きですが、これは日本では絶対に作れないだろう作品。
アニメとしては異例の長寿番組でもありますし、ケーブル局とはいえアメリカの懐の深さも垣間見られます。

【中村光著:聖☆おにいさん】
内容は今更でしょうし、未読ならば試し読みでどうぞ。
線引きの感覚をご自分でつかまれるには、小説以上に参考になるかと思います。
フランス語版に続き、英語版もありますので少なくとも出版社(講談社)は『問題ない、GO!』という判断を下しています。
個人的に感心する工夫は、
1)笑いをユーモアに絞り込んでいる
2)人間の信者は排除している(記号以上の扱いをしない)
3)キリストもブッダも愛すべき対象として描いている

ちょい補足すると
1)ウィット・コメディ・ギャグ・ジョーク、笑いの種類も色々ありますが、ユーモアを基本にしてます。
むりくり言語化すると、個人を特定せずとも成立するが、理解するのに共通認識が必要不可欠となる、普遍的かつ潤滑油的な和みを主とした笑いとでもいいましょうか。
受取手にとって共通認識となるのが、キリスト教と仏教。

2)ずっと追いかけて買っているほど熱心な読者ではありませんが、(知っている限り)信者は記号的なもので、基本的に登場人物は物語化された教義の登場人物を漫画のキャラクターにしています。
元々が誰かを傷つける類いの笑いではありませんし、そもそもキャラクターが実存していません。
これにより「お前のかーちゃん、で~べ~そ~」という『母』が存在しない。
ただし、実存しなくとも「綾×レイは、で~べ~そ~」でムッとくるファンもいる。ここでユーモアに絞り込んでいることが活きてます。

3)言葉のままです。
神ではなく、キリストさんとブッダさんという二人の人間ならば良い人すぎるキャラクターですし、実際に神であることを知らない大家さんの認識はおおむねそうです。

4)追記ですが。
世界三大宗教のキリスト教と仏教が出てますが、あともうひとつのイスラム教、ムハンマドが出てきません。
教義で偶像崇拝が硬く禁じられていますので、『絵に描く』ということが信者さんを傷つける行為になります。
これは著者さんの線引きだろうと思います。
キリスト教もプロテスタントの中には偶像崇拝禁止の宗派がありますが、カトリックがやってるのを放置して、漫画にだけ文句言うなんてことは無理がありますしね。
カトリックとして偶像崇拝を禁じていないのは『広く一般に親しみを持ってもらうため』という理屈ですが、宗教画の量産という過去がありますから、そうとでも膏薬をつけるしかないのでしょう。

私個人としては、全く問題ないと思いますがこれだけやっても批判する人はいます。
絶対になくなりません。
実際、遊学してた時の知り合いにキリスト教徒が何人もいますが、そのうち一人には『絶対に読ませられないだろうなぁ』という感じです。
人生は勿論、日常生活においての判断基準が『聖書にはどうあるか』が全ての人なので。
メチャクチャ良い人なんですが、それがキリスト教徒と関係はあるか? というのは未だに謎です。

最後に。
『では小説は?』というと、あげた三作品と比べると際どいとは言いがたい。しっかりと回避しています。
【フィリップ・プルマン著:ライラの冒険】日本なら【村上春樹著:1Q84】あたりでしょうか。
以前宗教関係の著作で書かせて頂いた【サルマン・ラシュディ著:悪魔の詩】は別枠。あれは”からかう”レベルで喧嘩売ってるようにも感じます。
作者が元イスラム教徒ですし、何か鬱積したものがあり、小説内で爆発させてしまったような感じ。
【ライラの冒険】は、読めば『キリスト教』だと解りますが、そもそもパラレルワールドの話し。この時点でメタ的には『フィクションじゃ!』です。(他にも仕掛けはあるので興味があったらどうぞ。映画とドラマで映像化されてますが観てません)
【1Q84】も、まぁ同じですね。

最後に。
小説は、当たり前ですが映像ではないので、直接的に『○○教』だと書く必要も無く、その利点を利用することは先人が大勢やってます。
映像の場合は登場人物がダルマティカと似た服を著ていたら、制作者がいくら架空だといったところでイメージ的にキリスト教と直結します。
服装ひとつにしても、イメージと乖離するようにデザインを起こさねばなりません。

大げさにいえば、中世の時代を題材にした場合でも、映像の隅、道ばたにコカコーラの缶が転がっていたら、
【映画なら観客は】撮影時のミス。間違って映ってしまった。
【アニメなら視聴者は】ミスはありえない。わざわざ描かないとこんなことは起こらない。どんな意味があるのだろうか?
【漫画なら読者は】アニメと同じですね。
こう思うわけです。

ところが小説の場合は行間から読者が読み取ります。
『文章では一行も書いていないこと』これを読者は脳内で作り出します。
おおよその宗教はゆったりした服を着ていることが多いですが、ダルマティカを想起させるようなポイントは避ける。
もっといえば、完全に特定する手がかりとなるコカコーラの缶をわざわざ描かない。
そのために協議も含めて各宗教の特徴を知っておくことで、特定宗教から距離をとって、ぱーぷんさんが書きたい小説を書けるのではないでしょうか。

長々と書きましたが執筆頑張ってください。
応援いたします。

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