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  4. プロによる小説の視点講座公開日:2011/052/23

プロによる小説の視点講座

 作家志望さんからの質問 2011年5月23日

 交流用掲示板でラノベ新人賞の下読みをなさっている帽子さんが仰っていた「会話と地の文の乖離」を読ませていただき、三人称神の視点に関して疑問が浮上してしまいました。

 まず、三人称一視点(カメラが登場人物の後方にある)で地の文に「主観」が交じる場合、その主観を述べる人物の「語彙の範疇」を超えてはいけない、これは理解できました。
 例えば、幼子の後方にカメラがあるとして、自分の母の容姿を述べる「主観の交じった地の文」があったとします。「母は凛として優美だ」などと語ったら、それはやはりおかしい、となるわけですよね。幼子だから「ママはとてもきれいだ」と書いたほうが妥当であると。

 しかし、三人称神の視点ともなると、地の文における「主観」はどう表現したらいいのかわからなくなってしまいました。

(1)例えば「誰の心中でもない神の視点の描写」があっとします。
 そうですね、「ベッドが12台、広くはない一室を占めていた」という描写があったとします。
 この「広くはない」は「主観」ですよね? 見る人(読み手)にとっては「広く感じる」かもしれないからです。この描写は、「神の視点」による「神(書き手)の主観」とも言えます。
 この書き手の主観は、やはり取り除くべきでしょうか? 「ベッドが12台、部屋を埋めていた」といったように。

(2)また、神の視点で誰の心の中も断言(Aはこう思った、Bはこう考えた)できるとあっても、「登場人物の様相」を描写する際、あくまで「客観的」に書くべきでしょうか?
 例えですが、

「あんたなんか大嫌い」
 A子はB男を以前から気にくわなかった。彼に容赦なく言い放ち、言い終えるなり教室を出て行く。
 B男は弱々しく踵を返すと、力なく自分の座席へと腰掛けた。
 A子に振られた、それがB男の心を重く塞いでいた。

 このような神の視点で書かれた文があったとして、この「容赦なく」や「弱々しく踵を返す」、「力なく」といった表現は「神(書き手)の主観」と言えないでしょうか? もしそうだった場合、やはり取り除くべきでしょうか。

 わかりにくかったら申し訳ありません。
 お時間がある時で構いませんので、アドバイス頂けましたら幸いです。
 よろしくお願い致します。

帽子さんの回答

 おはようございます。

A(1)神は基本的に主観を書けません。
 しかし神視点では以下のような文が度々見られます。
 「世界で一番綺麗なお姫様(男)」の一行目から引用させて貰います。

 昔々、サーラスという国にエルティシアという美しいお姫様がいました。
//引用終わり

 神は主観を書けないのに、じゃあこの文は認められないの? というと認められます。
 おかしいじゃん、と思われるかもしれませんが、これも実は神がカメラ役となり、登場人物の主観を客観的に描いているだけに過ぎません。

 ただし三人称一視点が登場人物の一人の主観を客観的に書くのに対し、神視点ではその物語に登場する全ての人物の主観を客観的に書くことになります。(ただし語彙は神のもので良い)
 つまり登場人物の一人がエルティシアは美しくないと考えていれば神視点ではこのように書けない事になります。

質問者さんの例文で言えば、よっぽど狭い部屋でなければ「広くはない一室」と書く事は出来ないという事です。
 小学生の女の子から見たら広い部屋で、ジャイアント馬場から見たら狭い部屋を、「広くはない一室」とは書けないのです。
 このような時は、「馬場は部屋に足を踏み入れた。見回すとその部屋は広くはなかった」などのように登場人物を通して「広くはない」と書かなければなりません。

 以上で分かるかと思いますが、神視点において神の主観描写を書ける場面はかなり限定されますので、結局主観描写は誰かを通して書く事になり、多視点とあまり変わらなくなります。

A(2)神は基本的に主観を書けません。
 「容赦なく」はA子自身またはB男の主観を、「弱々しく踵を返す」もA子、またはB男自身の主観を客観的に書いているに過ぎません。
 ただし誰の目から見ても「容赦なく」と言えるのでしたら、神視点で書いたと言っても構いません。
(ただしそうなると誰の目から見ても容赦なくなってしまうので、B男が立ち直れない位に「あんたなんか大嫌い」と言った事になってしまい、ニュアンスが変わってきます)

 説明が上手くできている気がしませんが、言ってしまえば神の主観はその物語内では客観的事実に昇華されると思っていればいいかと思います。

例)
 その少女はそれはそれは美しい容姿でございました。
  ↓
 誰の目から見ても美しいという客観的事実に昇華される。

 客観的事実に昇華出来ないものは誰か一人の主観を通して描きましょう。

モールさんの意見

 こんにちは、モールです。

 横やりという形で失礼も承知で言わせていただきますが、神視点は主観を入れることが出来ますよ。
 帽子さんがおっしゃる「主観描写は登場人物の主観を通さなければいけない」というルールは神視点の本質ではありませんから。

(1)に関しては作家志望さんのおっしゃるように作者の主観を入れてもいいはず。
 最初から語り手=神=作者のようなルールで書いているなら大丈夫でしょう。

(2)の例は厳密にいえば神視点ではないです。
 その例では複数視点で描写しているだけになります。
 複数の心理描写をしただけでは神視点とはいいません。
 神視点だと言えるのは「作者しか知り得ない情報が入っている」場合です。

(1)視点が当たっていない場所や人物の心理を説明する
(2)作者の主観が入っている
(3)予知をしている

 この3つの内どれか1つでも入っていれば神視点と言えます。
 例を改変しつつ、神視点で作者主観をいれるならこんな感じです。

「あんたなんか大嫌い」
 A子はB男に容赦なく言い放ち、教室を出て行く。
 B男は弱々しく踵を返すと、力なく自分の座席へと腰掛けた。
 A子に振られた、それが彼の心を重く塞いでいた。
(1)しかし、実際にはA子はB男のことを試しただけだ。
(1)現にA子はB男が追いかけてくるのを待っている。
(2)今までの態度を見れば普通なら気づきそうなものを。鈍感なヤツだ。
(3)この時行動できなかったことをB男は一生後悔することになる。

 ちょっと無理矢理すぎておかしくなっていますが、全要素をいれるならこういう文章になります。
 参考になるといいんですが……。

 で、ここからちょっと視点について書こうと思います。
 スレ違いとは思いますが、いい機会ですので私見を述べさせていただきます。

 そもそも原点に返って話をすると、おかしいのは「視点」の意味する所です。
 本来視点が指す言葉は「語り手の視点」のことであって、
 「◯◯視点はこういう書き方をする」というモノではないんですよね。
 書き方に1番影響を与えるのは「語り手の設定」であって、視点ではないんです。

 視点は「語り手の視点をどこにするか」と「その視点を固定するかどうか」の2つを設定するだけで、あくまで語り手の設定を補強するだけのものです。

 ですから現在言われている「◯◯視点はこういう書き方」というのは本質から大きく外れています。
 正しくは「語り手が◯◯という設定だからこういう書き方になる」とならなければいけません。
 たとえば

Q・なぜ神視点は誰の心理描写も書けるのか?
A・語り手が神=作者であり、何でも分かっているから。視点は関係ない。

 これが正しい説明のはずです。
 で、この語り手=神の場合の書き方の本質は「ルールなしがルール」です。
 神=作者ですから、読者が混乱しなければ基本的に好きなように書いていいんです。

 ルールがあるとすれば、必ず「作者しか知り得ない情報」をいれることでしょうか。

 そうでないと複数視点で書かれているのか判別つきませんからね。
 これが神視点の基本ルールといえるでしょう。

 帽子さんがおっしゃる
「主観描写は登場人物の主観を通さなければいけない」
 というのは語り手=神における「作者の主観」を排除するためのルール設定というだけです。
 ですから上記の「主観描写は~」というものは、語り手=神における不変のルールというわけではないです。

 もう1つ例を。1番混乱が多いであろう三人称一視点について。
 三人称一視点は本来
「第三者の語り手が、何か1つのモノに視点を固定している状態」
 を指すはずで、決して
「登場人物1人の主観を客観的に描写できる」
 とはなりません。

 たとえば、語り手をカメラと設定し、登場人物1人に視点を固定した場合はどうでしょうか?
 これも三人称一視点ですが、視点となっている人物の主観は決して描写できません。
 なぜなら語り手はカメラなわけで、主観を読み取れるはずがないからです。

 三人称一視点で「登場人物1人の主観を客観的に描写できる」という場合は、語り手に幽霊のような設定を与えている場合のみです。
 語り手を幽霊だと設定するなら、登場人物に憑衣することが出来るので感覚を共有していると考えることできますよね。
 ですから「視点となる人物の主観を客観的に描写できる」という説明が可能となるわけです。
 ここからさらに、「体内に完全に憑衣した状態」というルールを付け加えると、視点となっている人物の見聞きしたものしか描写できなくなりますので、限りなく一人称に近い三人称の描写ルールになります。

 逆に視点となる人物に取り憑いているだけとするなら憑衣も可能ですし、周りを浮遊霊のように漂うことで視点人物の周囲も描写できるようになります。
 このルール設定で初めて「視点人物の主観とその周囲を描写できる」という説明ができるんですね。

 あと「三人称一視点では地の文は視点人物の語彙の範疇で書く」は
 私が仮で定義した語り手=幽霊にのみ有効な限定ルールです。
 本来なら語り手=視点人物ではないので、別に視点人物の語彙の範囲で書かなくてもいいんです。
 ただ、読者がより視点人物に感情移入しやすいように上記の限定ルールを適用した方がいいという話だと思います。

 私個人の意見としては、視点人物の語彙の範疇で書く方が感情移入しやすいですし、地の文との乖離を感じて余計な混乱を起こさなくていいと思います。

 でも基本ルールとして、三人称の場合語り手=視点人物ではないので、必ず語彙の範疇で書くというのは少しずれていると思いますね。

 最初にも言いましたが、1番書き方に影響を与えるのは語り手の設定なんです。
 「語り手をどんな設定にするか」でおおよその書き方は決まって、そこから補完的な要素として語り手の視点を「どこにおくか」「視点を固定するかどうか」で小説の書き方が決まるんです。

 ですから「◯◯視点はこういう書き方」という現状の説明はまったくおかしな話なんですね。
 多くの人が、視点=書き方という認識のため「なぜそのような描写ができるのか?」という説明ができないんです。
 視点についての質問が多いのも、ルールについて混乱しているのも、すべては「語り手と視点の認識がおかしいから」というのが私の結論です。

 ちなみに、語り手を神、カメラ、幽霊の3パターンで考えた場合、視点の位置と、一視点か複数視点にするかで大体10通りの描写ルールができます。
 それぞれ、神:1通り、カメラ:5通り、幽霊:4通りになります。
 現状は神視点、一視点、複数視点、カメラ視点の4通りしかないわけで、残りの6通りのルールが混在しているため書き方に統一性が出てないんだろうなと思ってます。

 あとおまけで言うなら「多視点」という言い方はあまりよくないです。
 小説の特性を考えると語り手は基本1人しかいませんし、複数いても文章で書く場合、1度に1つのことしか書けません。

 ですから、同一シーン内で視点人物が変わる場合は基本的に「一視点の複数」、もしくは「複数視点」という認識の方がいいように思います。多視点というと立体視とかの方になってしまいますから、ちょっとずれていると思うんですよね。

 以上が私が出した答えになるんですが、どうでしょうか?

作家志望さんの返信(質問者)

 モールさん、貴重なお時間を割いてまで御意見を書いてくださり、本当にありがとうございます。
 帽子さんの御返信同様、一字一句、噛み砕くように拝読させていただきました。
 自分の脳みそが鍛造された鋼鉄でできており、融通が利かず、いろいろと混同していたようです。

 また、例文(2)の改稿により、神の視点のより具体的なディティールがわかったような気がします。
 今すぐ自分の原稿を推敲したら、直すべき箇所が散見されることでしょう。

 モールさんは三人称一視点への言及について「幽霊」を例にあげておりますが、たいへんわかりやすかったです。
 わたしがいくつか参照にしたハウツー本には、この三人称に関する具体的な言及がされてはいませんでしたが、そもそも、この「三人称」とやらに「具体的なルール」を体系的に示し、定義することは困難なのでしょうね。
 故に「三人称は難しい」と言われることにもなっているのかと。

 帽子さんとモールさんの御返信を拝読し、今ある自分の知識とともに、ぜひ参考にさせていただこうと思います。今なら、執筆に当たって怖いものはない気分ですよ!

 そして一番大切なのは「読者を混乱させない」、これに尽きますよね。
 書き手が理解できていないがために、「書き手にはわかっている」という「甘え」で書くから、読者が混乱してしまう。なんか、そんな気がしました。

帽子さんの意見

 こんばんは。全てに答えようと思ったのですが、分かりにくくなってしまったので視点に関する私の考えをまとめて書かせて貰います。

 まずは三人称一視点に関してです。
 語り手が幽霊のように憑依すると説明する方も確かにいます。そしてそれは正しいです。
 しかし、視点人物の主観を客観的に描くという説明もあるのです。

 これは単に説明の仕方が違うだけで、分かればなんでも良いのです。
 私は幽霊になり憑依していくという説明では分かりにくいと思っているので、視点人物一人の主観を書けるんだ、客観描写はカメラの語彙で書いていいんだ、と説明しているに過ぎません。
 説明の仕方というのは千差万別です。どちらが正しいかではなく、ルールがきちんと理解出来ればそれで良いと思うのです。(理屈ではなくルールを理解するのが重要)

神視点について
 私は以前神視点の質問を受けた時、神視点とは登場人物の誰も知り得ない事実を知り、それを語れる視点が入る三人称だと説明しました。それは勿論分かっております。しかし質問者様の質問はそこではなかったのです。
 上記を原則とした上でどう書けば良いのか、というのが質問内容だったと思うのですが如何でしょうか。

 又、私のこのサイトでの受け答えの姿勢を説明するため、島田荘司さんが以下のように述べている事を紹介しておきます。

 それは「三人称も一視点でなくてはならない」という鉄則です。創作は徹底自由を重んじる私ですが、ここだけは踏み外さない方がよいといっておきます。あるいは、これを壊そうとする挑戦は、それほどの実りはもたらさないと言っておきましょうか。

 //引用終わり。(島田荘司のミステリー教室、P95より)

 三人称は一視点でなくてはだめとはっきり言っているのです。

 これは正しいか、と言えば正しくありません。しかし、アマチュアの方に対するアドバイスとして、これは正しいと思うのです。(多視点で書くのは極めて難しいし、分かりにくくなる為)

 私もこれと同じで、一般的に正しいかではなく、プロを目指す皆さんにとって正しいか正しくないかを考えながらアドバイスをしています。

 神視点に関しても同じです。作者の主観は入れても構いません。
(なので、基本的には、という言葉をつけました)
 しかし、作者の主観を入れてしまうと非常に煩雑になってしまい、又それをしたとしても大した実りをもたらさないと言えます。並のプロの筆力でも分かりにくくなってしまうでしょう。
 なので私は神視点では作者の主観は書けないと書きました。(正確に言えば書くべきではない)
 この原則は破るべきではないのです。そしてこれはプロを目指そうとする方へのアドバイスとしては正しいと私は考えています。

>(1)しかし、実際にはA子はB男のことを試しただけだ。
>(1)現にA子はB男が追いかけてくるのを待っている。
>(2)今までの態度を見れば普通なら気づきそうなものを。鈍感なヤツだ。
>(3)この時行動できなかったことをB男は一生後悔することになる。

 この文章を書いていて煩雑で分かりにくいとは思いませんでしたでしょうか。

 その理由は多視点というだけで一々誰の主観、主観描写なのかを説明しなくてはならないからです。

 そこに作者の主観まで加わったら、よほどの筆力でなければ意味不明になります。
 なので書けないと私は言い切ってしまうのです。

 しかし私の言った、客観的事実に昇華出来る事だけを神の主観として書くというルールを徹底すれば、作者を通したとしても、又どの人物を通したとしても一緒なので説明が不要になるので、分かりやすいのです。
 ですので、この書き方をおすすめしました。

 モール様の文章の下半分、「視点ではなく語り手の問題ではないのか」「多視点という言い方はおかしくないか」というのは単に用語の問題ではないでしょうか。

 少年法という用語を考えて見て下さい。
 少女にも適用されますし、青年にも適用されます。
 しかし少年を「この法律では20歳に満たない者をさす」と一般とは違うものとして定義することにより克服しています。

 視点も同じです。視点とは一般的な視点と同じ意味ではなく、定義があるのです。
 その定義はまさにモールさんの語っている通りでしょう。

>以上が私が出した答えになるんですが、どうでしょうか?

 理解はきちんと出来ていますし、間違っていないので良いと思いますよ。
 しかし、視点が厳密にどのようなものなのかという話は大学で習うような、言ってしまえば学問と一緒で正確な答えはありません。
 さらに、そこまで突っ込んで理解する必要はないと言っておきます。
 仮に理解出来たとして、書き方が変わるのでしょうか。変わりませんよね。

> そして一番大切なのは「読者を混乱させない」、これに尽きますよね。

 まさにその通りです。書き方が分からなくなったら「果たしてこれで読者には分かって貰えるだろうか」という事を考えると大抵答えが出ます。

 極端に言えば読者に分かりやすく書ければ視点なんて無視したとしても、何でも良いわけですね。
 以上になります。

モールさんの意見2

 こんばんは、モールです。

 最初に言っておきますが、帽子さんに喧嘩を売ってるわけでもないですし、嫌みを言いたいわけでもないということは理解して欲しいです。
 単純に議論するいい機会だと思ってもらえると良いんですけど。
 それで、いい機会ですのでここで言っておきますが、私はプロのクリエイターとしてお仕事をしてます。
 以下の意見はそういう視点、物作りのプロからのものと思ってください。

> まずは三人称一視点に関してです。
>~省略~
>視点人物一人の主観を書けるんだ、客観描写はカメラの語彙で書いていいんだ、と説明しているに過ぎません。

 「語り手が幽霊のように憑依する」というのは「なぜ視点人物の主観を客観的に書けるのか?」ということを比喩での体系付けで説明したものです。
 帽子さんのは「視点人物の主観を客観的に書ける」というルールを言っただけです。
 ルールを説明しているという点は同じでも、その内容の本質は全然違います。

>説明の仕方というのは千差万別です。
>どちらが正しいかではなく、ルールがきちんと理解出来ればそれで良いと思うのです。
>(理屈ではなくルールを理解するのが重要)

 これはまさにアマチュアの思考そのものです。理屈を知らずしてプロになれるわけがない。
 これが以前創作スレの方で私が言いました認識の甘さのことですよ。

 クリエイターにおけるプロとアマチュアの力量の差は「視野の広さ」と「思考の深さ」です。
 アマチュアは狭い視野と浅い思考でしか物事を見れない、考えれないからアマチュアなんです。
 もしプロを目指してるのならルールだけでなく理屈も知るべきです。

> 神視点について
>~省略~
>質問内容だったと思うのですが如何でしょうか。

 作家志望さんの質問の本質は「神視点における主観は書かない方がいいか?」です。
 それに対して帽子さんは、「神は基本的に主観を書けません」と言ってます。
 ですが、実際は語り手=神の場合、「基本的に主観は書いていい」が正しいです。

 ただ、主観を書いてしまうと煩雑になって分かりづらくなるからやめた方がいいとなるわけです。

 ですから「神は基本的に主観を書けません」と断定するのは良くないだろうと思いレスしました。

> 又、私のこのサイトでの受け答えの姿勢を説明するため、
>島田荘司さんが以下のように述べている事を紹介しておきます。

 私が三人称一視点でいいたいのはここなんですよ。
 ここで島田さんの言っている一視点とは「視点人物の主観を客観的に書ける」の意味なんですか? 
 それとも、「視点となる人物を1人にする」という意味なんですか? 
 この時点ですでに言葉の混同が始まっているんだから混乱するんじゃないかってことです。
 ルールや概念を説明するなら、混同しないように不変的な用語を使わないとどこかで必ず混乱が起こります。
 ですから、私はしつこく一視点に関して言ってるんですね。

 ちなみに島田さんが言っているのは「視点となる人物を1人にする」だと私は思いますけど、どうなんでしょうか?

> 三人称は一視点でなくてはだめとはっきり言っているのです。

 これってミステリーに関してでは?と思ったんですが。
 いや、私も小説は基本的に一視点で書くべきだと思いますけど。

>これは正しいか、と言えば正しくありません。
>~省略~
>目指そうとする方へのアドバイスとしては正しいと私は考えています。

 上でも言ってますけど、プロを目指すなら「深い思考」を身につける必要があります。
 帽子さんが良かれと思ってやってるそのアドバイスの姿勢は、彼らアマチュア作家の思考する機会を奪っていることになります。
 アドバイスをするなら必要な情報は全て提示し、それ以降は質問者の判断に任せるようにしないと、帽子さんがいないと何もできないということになりかねません。「プロ」という権威がついてしまうのですから。

 アドバイスするならそこは気をつけた方がいいです。
 アドバイスは助言であり、答えを教えるということではありませんからね。
 ただ、このことは別に帽子さんが悪いわけではありません。
 そういう姿勢でアドバイスされたとしても、利用者の方がしっかりしてれば良いだけの話ですから。
 1番問題なのは、帽子さんのアドバイスは絶対に正しいと思い、自分で考えるということを放棄している一部の利用者です。 

 もちろん、ちゃんと考えてる人も中にはいます。
 が、多くは「下読みのプロが言ってるんだから正しい」となっている人が多いでしょう。
 まぁ、これは私の推測に過ぎませんけど。

> この文章を書いていて煩雑で分かりにくいとは思いませんでしたでしょうか。
>~省略~
>分かりやすいのです。ですので、この書き方をおすすめしました。

 あの文章は神視点における条件を無理矢理詰め込んだだけです。
 読みやすい読みにくいは別次元の話ですね。

 で、煩雑で分かりにくくないか?とのことですが、それは当たり前ですよね。
 なぜなら神視点、多視点におけるデメリットそのものだから。

 私は小説を書きませんが、上記の視点における煩雑さは書かなくとも理解できます。
 ちゃんと理屈を理解していますから、神視点や多視点におけるデメリットもきちんと把握してますので。
 ですから、もし私が小説を書くなら最初から神視点や多視点なんてものはやりません。
 そもそも日本人は群像より1人の英雄を好む傾向があるんだからあえてやる意味ないですね。
 私自身、読むなら一視点じゃないとイヤですし。
 よほど画期的な構成や筆力がない限り、駄作になるのは間違いないです。

 ですが、やるやらないはさておき知識として知っておく必要はあります。

 以前の神視点の説明では「作者の視点」に関して言及されていませんでしたし、変な誤解を生みかねないので横やりという形ででもレスをしました。
 あと帽子さんは「おすすめした」と言ってますけど、「基本的に主観を入れられない」と断定しちゃってますから、おすすめというより「こうしなさい」という命令に近いものですよ。
 最初から「神視点は主観は入れられるけど、煩雑になるからやめた方がいい」と言っていれば私も横やりはしませんでした。

> モール様の文章の下半分、「視点ではなく語り手の問題ではないのか」
>「多視点という言い方はおかしくないか」というのは単に用語の問題ではないでしょうか。

 これ正直どうかと思うんですよね。
 言葉を専門に扱うプロがそんな認識でいいわけないですよね。
 単に用語の問題では? といいますけど、混乱しないように不変的で正しい意味の用語を使わないから、今の認識不足という現状があるんだと思うんです。
 その最たるものが一視点だと私は思うんですけどね……。
 これは帽子さんに言ってもしかたないんでスルーしておいてください。

> しかし、視点が厳密にどのようなものなのかという話は大学で習うような、言ってしまえば学問と一緒で正確な答えはありません。
> さらに、そこまで突っ込んで理解する必要はないと言っておきます。

 私は小説においての視点の話をしていたので、なんともいえないです。
 ただ1ついえるのは、深く突っ込んで理解したことで変わることもあるってことですね。
 そこで変わらないと断言してしまうのは思考停止状態であり、クリエイターなら失格です。
 逆に、普通はやらないようなことまでやるのがプロであり、優れたクリエイターといえます。
 その知識を作品にいかせなければ結局意味ないんですけどね。

 返信は以上になります。
 帽子さんへのレスでもあり、ここの利用者全員へ、クリエイターとしての苦言にもなってしまいました。
 帽子さんへのレスに関してはさらっと流してもらっていいです。
 利用者の方は1度は考えて欲しい内容もありますから、読んでいただきたいなとは思います。

 ここからは完全に帽子さんへの私信です。
 正直な話、帽子さんも私も実は中途半端な意見しか言えないプロなんです。
 帽子さんは下読みのプロではあってもクリエイターじゃないですし、私はクリエイターのプロではあっても作家としては素人ですから。
 小説に関しては帽子さんの方が遥かに的確にアドバイスできるでしょう。
 ですが、クリエイティブに関するアドバイス、ようはテーマやコンセプトなどは私の方が的確にできると自負してます。

 ですから、個人的にはお互いの専門分野が重なる所でアドバイスしてここの利用者の力の向上になったらいいなと思ってます。
 帽子さんは自分が関わった方がプロになるのは嬉しいでしょうし、私は面白いラノベが出てくるのは願ったり叶ったりですから。

 まぁ、利用者からすれば余計なお世話かもしれませんが、帽子さん、利用者の方、私のメリットはみんな一緒なので協力できたらいいですよね。長くなりましたが以上です。

ともかぜさんの意見

 モールさんの意見は少し頭でっかちに感じます。
 『プロたるもの、理屈理論をよく考え、それを理解した上で創作すべき』確かにすばらしい精神論であります。
 確かに創作技術・技法を修得する際に、自分なりに理由を考え、納得しながら学んでいった方が真に身につくでしょう。
 しかしそれだけが正しいとは思えません。

 体感的に実践しながら修得していく方法があるからです。

(というか、アマでもプロでも大半の書き手は、人称などはごちゃごちゃした理屈などは抜きで、実践で修得した経験則に基づいて書いているのでは?
 少なくともモールさんほど滔々と人称論・視点論について述べているプロの作家など見たことがありません)

 そして人称や視点などは教条的にルールとして学んだ所で問題ない部分でしょう。

 もちろん深く考えて学べばそれはそれで多少文章力向上に繋がって有意義ではありましょう。
 が、言ってしまえばただそれだけの事。
 作家としての個性に繋がるストーリーテーリングや語彙やテーマについての思索などの能力に比べれば、一度すべきでない事柄を知ってしまえば、理屈を知らずとも誰にでも簡単に真似でき実践できる、枝葉末節、小手先の技術です。

 自ら考えて学ぶべきというのは賛同しますが、少なくともその労力は人称や視点ではなくもっと別の有意義なものにあてるべきです。

 人称や視点について考えるのも無為であるとは思いません。執筆に当たっては人称や視点に自覚的であるべきとは思います。しかしその理屈を考えないのはプロではないとは到底納得しかねます。
 モールさん自身が書き手ではないとのことですので、ご理解頂くのは難しいかもしれませんが……

帽子さんの意見2

 おはようございます。私の言っている事に対して間違っている、と指摘下さるのはこちらも勉強になりますし、して下さって結構ですよ。

 視点に関してですが、何故小説における三人称において、一人の心理描写しか出来ない三人称一視点という書き方があるのかご存じでしょうか。
 これは単純に分かりやすいというだけです。
 その為に三人称において一定のルールが設けられた三人称一視点という書き方が生まれたのです。

 その後、そのルールを他の者に理解させるために、「語り手が憑依する」「語り手が一人の主観だけ分かる」という説明が生まれたんです。これは決して逆ではありません。

 つまりルールさえ分かればそれに対する説明の部分なんてどうでも良いんです。
(いかに説明が優れていようが優れていまいが、ルールを理解させられれば良い)

> これはまさにアマチュアの思考そのものです。理屈を知らずしてプロになれるわけがない。

 私には同意出来ません。
 ルールさえきちんと理解していれば分かりやすい文章は書けますし、プロになれます。
 又、視点のブレがあるような作品でさえ新人賞をとってしまうのがラノベの世界です。

 又、プロになれないと言うことは=新人賞をとれないという事ですよね。
 そんなことは決してありません。 

 新人賞をとるためには理屈の理解よりも大事な事は山ほどあります。
 それさえ出来ていれば理屈の理解は疎かでもとれてしまうんです。

> これってミステリーに関してでは?と思ったんですが。
> いや、私も小説は基本的に一視点で書くべきだと思いますけど。

 基本的な小説の書き方として紹介されています。
 そもそもミステリーであろうと他のジャンルであろうと小説の書き方は全く変わりません。

 神視点についての部分ですが、やはり私は語り手の主観は書くべきではないと思うので、「神視点において語り手は基本的に主観は書けない」という言い方をしたい。
 断言しちゃってるじゃん、と言いますが、私は断言しても良い位だと思っています。
 その上で例外もある、という書き方です。

 何故なら、小説ではないメディアならば神が意見したとしても分かりますが、小説というメディアにおいて語り手が意見しはじめると確実に意味不明になってしまうからです。これも断言しておきます。

waさんの意見2014/03/07

 とてもわかりやすく参考になりました。僕、個人の意見ですが…
 まず、モールさんの意見は頭でっかちとは思いません。何故なら理論を知るということは、様々なケースに応用が効くからです。それは発見にも繋がります。どちらかというと理系的な考え方ですが。
 もちろん帽子さんの意見も合理的でわかりやすいですし、なりより実践的です。慣れるまではルールに従うという考え方も。それに細かい点を指摘しながらも、結局、読者の立場から見てどうなのかという点をアドバイスされているのはとても参考になりました。執筆を始めたばかりの僕ですが、このような柔軟な考え方ができる方に下読みして頂きたいです。

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