津軽さんの質問 2012年11月04日
初めまして、津軽と申します。
みなさんに質問なのですが、小説ならではの魅力や武器はなんだとお考えでしょうか? 可能であれば読者として感じるものではなく、作者として日々考えさせられている内容でお願いします。
尚、漫画や映画などの小説以外でも見受けられる魅力・武器に関してはまたの機会にお願いいたします。
ではでは、意見や持論をお待ちしております。
●答え●
こんにちわ。あるいはこんばんわでしょうか?
どうも、苦いネギです。以後お見知りおきを。
さて、小説ならではの武器・魅力とは?とのことですが、私は以下のように考えています。
(あくまで私個人の持論に過ぎません。ご容赦ください)
【活字であること】
揚げ足を取るつもりは全くないのですが、これだけでもすでに十分な魅力ではないでしょうか?
活字離れが叫ばれる現代ですが、依然として読書の楽しみは消えていませんし、電子書籍やネット小説の台頭など、媒体やメディアが異なるだけで活字の持つ魅力は健在であると思うのです。
【言葉遊びができる事】
独特なセリフや言い回し、文体などは活字だからこそです。
掛け言葉や、語感を重視した造語もこれに入りますかね。
「月姫」における「檻髪」や「紅赤朱」なんかを見た時は「やるなぁ」と唸ってしまいました(笑)
奈須きのこや入間人間、田中ロミオなどは近代のラノベ系作家、あるいはライターとしてはその代表格ではないでしょうか?
【形にできない物をカタチにすること】
これに関してはいつも周囲の人間に「よく分からん」と一蹴されてしまうのですが・・・
どういうことが言いたいのかというと、「こんなのあり得ない」「全く想像できない」「絵になんてできない」なんて言うような突拍子もない代物も、文章なら自分の表現力次第でいくらでも幻想を膨らませられてしまうと言いたいのです(自分でも上手く言えないのですが)
かなり強引かつ少々的外れな例えですが、漫画家は「丸い三角形」を「描く」ことはできません。形容矛盾もいいところですからね。
しかし作家ならば「丸い三角形」を「書く」事が出来るわけです。実際に形にできるかはさておいて、書くことはできますよね。
そういう絵にできないことができるのは一つ大きな強みかな、と。
【微妙なニュアンスの違いを楽しめる】
同じような意味合いを持つ単語や熟語、あるいは名詞でも、よく考えてみると異なったニュアンスを含んでいたり、どことなく違った雰囲気を持っている場合があります。
例えば「漢字」と「ひらがな」の違いとかね。(人名に多いですよね)
こうした違いを楽しめる、あるいは活かせるのも活字媒体たる小説ならではではないでしょうか?
わたしはこの感覚を色彩表現の際に強く感じます。
一例を挙げますと↓
青→蒼
赤→朱→紅
緑→碧→翠
黒→玄
などですね。意味するところや、視覚的な面で言えばさして違いはありませんが、文章だと「何となく違う」雰囲気を出せますよね。
【間を作りだすことができる】
つまり、俳句や短歌における「切れ」と同じです。
私の目指す理想の一つなんですが・・・
行間を読ませる、とはよく言ったものですが、――や体言止め、改行によって生まれた空白は、ただ受身に甘んじているだけでは姑息な行稼ぎですし、継ぎはぎだらけの汚い文章に過ぎません。
しかし、これを逆手にとって活かしてやれば、万の文字を費やしても表現できない空間的・時間的広がりを表現できると思うんです。
俳句や短歌がそうであるようにね。
勝手な話ではありますが、奈須きのこの「空の境界」はこの間を上手く使っている作品だと思います。
以上です。
まとまらない文章なうえに、勝手な持論をグダグダとスミマセン。
参考になれば幸いですm(__)m
こんばんは、お初にお目にかかります、津軽です。
>【活字であること】
活字であることがメリットになりうるということに関しては同感です。活字のみの表現である小説だからこそのものが確かに存在するからです。
ただ、トータルさんへも似たことを返信させて頂いたのですが、活字であるということは読者が自由に想像出来る環境がある、ということに繋がりますよね。それは同時に扱い難さも備えたものになっていると僕は思うのですが、そういった点はどう思われるのでしょうか。
意図しない受け取り方をされてしまえば、作者の考えていた物語の本質から読者が離れてしまうかもしれない。そうなっては、いくら読者から見て「面白い小説」でも作者からすれば拍子抜けもいいところです。
活字であることは武器というよりも、小説を創ることが既に活字を綴ることなので、武器というよりも切り離せないものかと。活字で書かれない小説は小説ではないですもんね。
>【言葉遊びができる事】
続いて否定的になってしまいますが、漫画でも言葉遊びの好きな作者さんは数多く。やはり、多少なりとも言葉を活用する分野では言葉遊びというものを大切にしたい人は多いようです。
しかし小説ほど分かりやすく言葉遊びを押し出せるものは他にない、とも。それは、全てが活字で形成されている小説ならではの武器と取ることも出来るかもしれません。
ですが、ここで疑問なのですが『言葉遊び』をするにしても、作者個人のセンスが試されてしまいますよね。小説全体に対して武器と言えるのか否か。返信を書いている中、作者の個性として数えるべきものなのではないかとも思い始めてしまいました(ぁ)。
>【形にできない物をカタチにすること】
うーん。仰りたい事は分かるのですが、「作者の表現力次第で」と言ってしまうと今時はどの分野でも出来てしまう気がします。
逆に、絵を文章として書き起こすことが難しい場合もありますよね。例えば、ピカソのゲルニカを活字で描写したとしたら、「とにかくグチャグチャとした白黒の絵」ということが共通するだけで、具体的なゲルニカとしての像を読者に伝えることは出来ないと思います。
>【微妙なニュアンスの違いを楽しめる】
これには「あっ」と思わされました。確かにそうだ! 微妙な違い。語彙によってニュアンスに捻りを加えられるのは小説ならではと言えると思います。ただ、「青→蒼」や「やりたい→殺りたい」のような漢字の置き換え的なものは漫画でも可能ですが。
しかし、ある程度の文量を持つ一文や段落を作っていける小説では、強みになりうる。
ちょっと勉強になりました。有難う御座います。
>【間を作りだすことができる】
書き手としては確かに、と凄く頷けます。僕もテンポ作りには苦労することが多々あり、ダッシュをどこに置こうだとか、読点の位置を気にしてしまったりをよくします。
ただ、どれほどこの『間』を読者が気にしているのだろうかと考えると複雑です。自分もそうなのですが、読み始めて物語の中に入って行くと、文章よりも先の展開が気になったりしてしまいます。勿論、テンポを気にして句読点で一拍二拍待つこともありませんし、流し読みも同然になります。
本を読み慣れていればいるほどそういうものは気にせず、ささっと読んでしまうのでは……と思うのです。
たくさんの意見を有難う御座います。また暇があるときにでも返信して頂けたらと思います。
折角なので、色々と考えて行きたいです。では!
初めまして、トータスと申します。
現在、大恥を掻いているのですが、恥は掻き捨てと考えるモノで、そんな事は余り気にしない様にしています。
気には成りますが、気にしていてはつまらないので・・・
恥は掻いてこそ、それで育つと考えれば、更に次へと進めるかと・・・
では、本題に・・・
見えないからこそ、と言う事が武器になるかと考えています。
想像する事しか出来ないから、色々と見えて来るモノがあるかと・・・
明確に見えてしまっては幻滅するだろう事も、文で表わす事で違ったモノに見せる事が出来たり・・・
簡単な表現で連想させる事が出来る事だと思います。
氷塊という文字だけでも、それがどんなものかを連想出来てしまうと言った事ですね。
人それぞれですが・・・
極端に大きかったり小さかったりしますが、そこは補正も出来てしまったり・・・
何処までも描くのは文字では有るが、他の部分は映らないからこそ、後は読んだ相手の想像力が試されたりも・・・
気温や、何処に居るのかも、勝手に思い描いて貰えたり・・・
出来るだけ詳しく欲しいと仰られる方も居ますが、少ない方が楽しめたりも・・・
極端だと駄目ですけどね。
適度が判らないと、大いにひんしゅくをかったり・・・
想像できる相手からは、これで良いと言われたり・・・
映画や漫画、ゲームでは、明確に顔が出ますが、小説では想像する事が武器かと・・・
自分自身を投影する事が出来たりする事が、最大の武器なのかと考えてみたりしています。
感情移入するのではなく、投影できる事が強みかな?
今はそんな事が出来辛かったり・・・
イラストが多かったり・・・それで固定されてしまったり・・・
思い描ける人が少なかったりする事が、一寸寂しかったり・・・
私は、思い描ける事が武器であり、魅力だと考える次第です。
参考までにどうぞ。
お初にお目にかかります、津軽です。
読者は視覚的に見ることが出来ないからこそ想像力を駆使してより深くものを見ることになる、ということでしょうか。
確かに、仰る通りだと思います。僕も日頃、小説はそういう部分が武器ではないかと感じてはいました。ですが、これには欠点があるのでは、とも思うのです。
例えば、読者それぞれが好き勝手なイメージをすることで作者の意図しないものを植え付けてしまうことになったり。はたまた、文章の読みやすさばかりが求められるようになり言葉の綾による引っ掛けやより簡単な表現が普通になってしまっていたり。
こういったマイナスと受け取れる部分も含めて武器となりうるのかどうか。或いは、そういう傾向は飲み込んで現状の読者の想像力に頼った書き方を行なっていくべきなのか。
折角の機会ですので、少し掘り下げてみたいと思います。
暇があるようでしたら、改めてお考えをお聞かせ下さい。では!
こんばんは。
財布の中身は百円以上と未満で区別して入れる特産ロデオです。
議題がまさに今私も考えていることだったので参加させて戴きます。
小説の武器はやはり『活字でしか物語を表現出来ないこと』だと思います。
一見デメリットに見えますが、活字しか伝達手段がない代わりにどれだけ活字を使っても許されるというのが最大のメリットに成りうると思います。
例えば状況説明や思考内容・行動理由を表現する際。
小説なら活字で好きなだけ書き連ねることが可能です。何故咄嗟にそんな判断をしたのか、論理的思考も一から十まで余すところ無く、しかも台詞の合間ですら描写できるでしょう。
しかしアニメや映画でそれをやったらどうなるか…
ナレーションが長々と原稿用紙1枚分も喋る?
登場人物が咄嗟の行動の理由を逐一脳内で呟く?
不毛の極みです。
通常、音声と映像は一次的な物であり、人間が行うような内外から情報を抽出しさらにそれを材料に二手三手先を読んで…といった描写は困難です。
勿論、脳内予想ビジョンとして映像化出来ますが、やり過ぎるとくどくなりテンポを崩します。
アニメや映画のオフィシャルブックなどで、『このシーンは誰々がこんな考えからこう動いたんだよ』と度々捕捉される所以ですね。
また、漫画にしてもほぼ同じことが言えます。
絵と活字の融合と言えば良く聞こえますが、やはり小説程詳細な説明を付けるというのは特に動きのあるシーンでは無理があります。
以上より、視覚的情報の代わりに活字によって表現される誰にでも伝達可能な詳細な情報の量こそ小説の武器だと思います。
私もこれを活かそうと、アクションひとつにもただの力任せでなく頭脳戦や判断の連続と言ったギミックを組み込む試みをしてます。
最近は設定の段階から、物語の進行には論理的思考が不可欠な世界観を作るようになってます(汗
若輩者の戯言ですが、参考になれば幸いです。
お初にお目にかかります、津軽です。
これはトータスさんと同じ考え方なのかと一瞬思ったのですが、少し異なりますね。
先の「活字であるがゆえに読者が好きに想像が出来る」という意見に対し、ロデオさんのものは「表現に制限がない」という点を武器としている様子。受け取り方が間違っていたらすみません。
しかし、例のアニメや映画だと活字で説明している部分を動きと同時に表現する事が可能になっていたりするのではないでしょうか。それこそ、アニメなら主人公が焦りの表情を浮かべる中で胸中の意識を語り、同時に剣を振り下ろす――なんて描写も多々目にします。
これは、小説だと順を追って描写していくことになります。まずは自分の状況がどれほど危ういものかというものを伝え、次に相手がどう出るかを観察して考え、そして行動に移す。
確かに、活字であるということは好きなだけ描写が可能かと思います。勿論、読みやすさを考慮した上である程度の長さというものはあるでしょうが、そこに明確な決まりや制限はない。ただ、逆に考えればそうしなければ表現しきれないのでは、とも。
これは武器というより特性的なものかとも受け取れるのですが、改めてロミオさんの返信を待たせて頂くことにします。暇があるときにでもまた宜しくお願い致します。
では!
こんばんは。
返信ありがとうございます。
さて……これは『表現のためにいくらでも描写できる』なんて書いた私の書き方が多分に悪かったのですが、私の主張は『表現が無制限』ではなく『必要とあらば小説でしか出来ない表現が大抵可能』ということです。
小説の魅力、これがあるから時間がかかっても(読解力ないから)読むんですよ、といっても過言じゃないっす!
みなさんがおっしゃってた事に加え、私は漫画や他のメディアのものより小説のほうが、ストーリーが面白いと思うことが多いです。
アニメやゲームとかだとストーリー作りから多人数でやるせいか、どうもつぎはぎで薄っぺらく感じる事があります。
小説が原作であっても実際に絵を描いたり、監督するのは他人です。
原作者とスタッフとでは別個の人間なので、表現したいものに違いがあるでしょうから、そこで統一性がなくなるのかなと思っています。
原作付作品が面白くない、と思うのもここかなと、原作を後から読んでもです。
もちろん、多人数で作るものでも面白いものは多々あるのですが………。
じゃあ漫画はどうなのよ、というと「天は二物を与えず」の言葉通りなのか、絵は上手くてもストーリーは下手とかその逆もしかり。
そして何よりはストーリー作りに専念してる訳ではない、絵の練習もしないといけない訳でして………。
己の鍛錬を文章のみに絞っている小説は、お話作りという点において随一なんじゃないかなと、思ってます。
もちろん欠点もあって、読む本人に読解力がないといけないというのが、悲しいところです。
身近にあるけど、名称を知らないなんてのも多いですしね。
雨戸や天袋に敷居、日本家屋の部位の名称なんて今時の子知っているんだろうか………。
こんばんは、お初にお目にかかります、津軽です。
うーん。ストーリーの面白さは作品や作者によりけりではないかと……。小説ならでは、となると話はまた変わってくるのではないでしょうか?
ただ、読者の読解力合わせた表現が問われるのも小説ですよね。それをどう合わせていくかが作者にとってのテーマであるかとも思うのですが、その一方で「より簡単に」を求めてどんどん程度を下げていくのもどうなのか、と疑問に感じている今日この頃であります。
日本家屋の部位……。敷居や雨戸くらいなら理解するでしょうが、天袋となると分からないでしょうね。
意見を有難うございました。では!
小説の長所は読者がイメージしてくれる事だと思います。
絵や映像とは違って視覚的な描写が一切できない。それ故、叙述トリックなど読者の先入観を利用した手法を書くことができる。場合によっては作者が一切描写しなくても、読者が勝手に脳内で補完してくれる。それも最大限に素晴らしい形で。
主人公や敵の姿が見えないという短所を上手く使い、主人公=敵でした、のような描写は映像や漫画には(できないことはないけど)難しい描写です。
小説とは活字のみ。これは長所でもありますが、短所でもあると思います。
ホラー映画に代表される唐突な出来事(いきなり死体が出てきたりとかビックリするタイプのシーン)を表現することは、小説には出来ません。登場人物の動揺や生理的嫌悪を表現することはできるけど。
漫画などでも「よく見てみると何ページの何コマにちゃんと犯人描いてある」とか、こういう「よく観察してみると」といったタイプのシーンも、小説には出来ません。
しかしながら、長所も短所もひとえに「特徴」であります。
出来ないことを特徴として利用し、読者のイメージを先導することは小説にしかできません。
読者の妄想を手助けする物が小説(ライトノベル)であると考えると、これほど自分に適した道具はないと思っています。
活字のみで自由すぎるという、できることは多いのに道具が言葉しかないというのは短所ですが、それゆえ、短所である特徴を利用するも、短所を補う方法も、考えようによっては「どうとでもなる」のが小説の最大の武器ですね。
最近実写を見てから原作を読んだ『風の果て(藤沢周平)』とアニメを見て原作を読んだ古典部シリーズ(米澤穂信:アニメの題名は『氷菓』)の二作品に限れば、
心理描写は全体に小説が有利、作品世界のイメージも(読者にもよるでしょうが)本の方がリアルかなと思います。
しかしライトノベルに限れば、絶対有利とも言えない気がしました。
古典部シリーズはどちらかと言えばラノベっぽい作品(最初の二作はスニーカー文庫で出た)なのですが、丁寧な作りもありアニメにくわれそうな所が多かったと思います。
これはまた、とんでもない、お題ですな。
とんでもないけど、玉砕覚悟で受けて立とう。玉砕前提か。
小説は、一次元のシーケンスです。前から後ろに続く、一本道の文字の連なり。他のメディアと比べると、同じ一次元でも、音声ならボリュームやスピードの違いを表現できる。別々の音声を重ねて奥行きも出せる。映像なら、二次元(そして時代は3D)プラス時間軸の四次元なので、形や色彩に加え、動きを再現できる。
だからと言って、活字のメディアはもう用済み、とは誰も言いません、なぜでしょう。
例えば、あなたが「素敵な音楽を聞いた」、「美しい景色をみた」というとき、音声で、その曲を再生して人に聞かせることができます。その映像をビデオで再生してみせることができます。
でも、あなたが本当にしたいことは違います。あなたがその曲を聴いて、どんなふうに感じたのか、その景色を見てどんなふうに心を動かされたのか、それを読者に伝えたいのです。そして、それは言葉で表すほかはありません。
それが、小説を書く動機ですし、小説にしかできないことです。
伝わるかな、これ。
ホントにひどい質問しますね、津軽さん!
魅力について簡潔に。
それは
『人を楽しませることが出来る』
ということです。
これは、こう言い換えてもいいでしょう。
⇒『人の喜怒哀楽を引き出すことが出来る』
そしてこの感情の起伏こそが、楽しさだと考えます。
なので、どうやって読み手を泣かそうか、喜ばそうか、ということを考え抜くと、自然といい物語が生まれるのではないでしょうか。
やはり曖昧でも伝わることは大きな魅力だと思います。
漫画や映像媒体では場面を具体的に表現する、または曖昧でも無理矢理に視覚化する必要があります。
しかし文章媒体ではその必要がありません。
非常に曖昧なまま伝えることが出来ます。
これこそが読者の想像意欲を掻き立て、様々な思想や愉しみを提供しているのではないでしょうか。
つまり視覚によるイメージの固定が無いので、場面の受け取り方に様々なバリエーションが生まれるのです。
文章媒体の中でもストーリーがある小説は詩歌などに比べて自由度は劣りますが、既に枠組みがある分想像がちょっと苦手な人にも対応できるのではないかと。
まぁ言っちゃうと漫画と詩の中間であるということが小説ならではの魅力なのではないかと。
何かすげぇ勝手なことを書きましたがこの意見が正しいかは分かりません。
あくまで私の思想です。
ご了承ください。
実を言うと、小説ならではの魅力は少ないと思っている。
唯一の長所は「読者の想像に委ねることができる」という点だと思う。
漫画や映画は映像が付随するので、ミスリードを誘いづらいなどという欠点もある。
でも、映像や画像がある事によって入っている情報というのは半端ないので、どうしても小説は漫画に比べて見劣りする。少なくとも、忙しい現代人にとっては、小説よりも漫画の方が合っている。
そもそも、漫画は小説に比べて新しいメディアだから仕方ないってのはあるんだけどね。
私は小説の魅力とは、漫画やアニメと比べて、文章のみで表現するジャンルなので、制作コストや参入障壁が低く、多様なたくさんの作品があることだと思います。
漫画やアニメは作るのに時間、コスト、人員がかかりすぎます。
このため、小説に比べて作品数が少なくなっています。
作品数が多いイコール、自分にぴったりの作品が見つけやすい、という点が武器でしょう。
また、次々に新しい作家が現れてくるので、未熟ではあるものの新しい感性の作品が読めます。
アニメは動画、音声、音楽で構成されたリッチなコンテンツですが、コストがかかりすぎて採算が取れないため、2012年現在、日本のアニメ業界はかつての勢いを失っています。
ア二メが採算が取れないことで衰退するとしても、小説がこの点において衰退することはないでしょう。