ライトノベル作法研究所
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  4. 努力する主人公が避けられる風潮がある?公開日:2013/03/20

ラノベには努力する主人公が避けられる風潮がある?その3

ティモテさんの意見2013/03/23

 面白いテーマなので、意見を書かせてください。(36歳・男性)
 ここでのテーマで言われる『努力型』と言われる成長パターン。かつての主流だったといっても良いパターンだと思います。

 たとえば戦闘などの要素が絡む話において、最初は能力のないキャラが苦難や気づきの末に成長し、物語の終盤には心身ともに強い力を発揮できるような展開は、醍醐味かと思います。

 この一方でというか、たとえば

・受験勉強もしないで志望校に合格する
・トレーニングもしないで筋骨隆々のマッチョマンになる
・モテたい!と願うだけで美少女がわんさか寄ってくる(しかも好意的に)

 これは私の目から見た場合、決して相反するものではなく、同じくくりの中にある質の違う一要素に見えます。
 大事なのは、

『キャラクターが何であれ望む結果を手に入れるという物事の裏には、必ずそれが叶っただけの理由が必要である』

 という事ではないでしょうか?
 『○+○=結果』なのであれば、答えよりもこの式こそが重要で、読み手を納得させるだけの面白い理由付けを考える事が作者の腕の見せ所であるといえると思います。

 しかし昨今の時代、これは良い意味で昔の精神論ありきの発想から離れていると思うのですが、徐々に『血と汗と涙こそが成長の基』みたいなものが薄くなってきました。

 下手をすれば虐待やしいじめ、体罰や暴力と評されてしまったり、自己卑下や自尊心の低い状態を賛美するようなマイナスの印象を与えてしまいます。
 若い人が一概に「汗臭いのはキライ」「努力なんてイヤだ」そう思っている、この一言だけでは言い表せないものがありますし、これは間違いです。

 前置きが長くなりましたが、一つの良い前例というか、このテーマに一番適したようなものが見つかったので、少し書かせてください。
 ライトノベルも、その他の媒体でも良いアイデア自体を引っ張り出すのは同じ事という意味で、映画の一例で紹介します。

 確か1984年のアメリカ映画『ベスト・キッド』 という作品がありまして、近年ではジャッキー・チェンがリメイクしました。
簡単に説明しますと、空手の「か」の字も知らない内向的な少年が、物語の終わる二時間後には地区の空手チャンピオンになっているというお話です。

 空手という格闘の世界においてチャンピオンの座を掴むにいたるのですから、さぞかし猛トレーニングを!人が寝ている間も頑張る!みたいなイメージを連想されるかとも思いますが、そうではありません。
 かといって偶然的に超常的な力を持つにいたるなどと、神秘の力でスーパーマンになってしまう描写もありません。
(あえていえば、その中間でしょうか?)

 この作品は、そんなものすら風刺的に描くがごとく、独特の修行方法、および独自の精神論で見る人を惹きつけてくれます。

 アイデア一発というか、努力はしているのです。
 しかし、その努力の方法論がとても面白いのです。

 ネットで調べれば一発で分かるのですが、もしも本当に興味がおありの方ならば、物書きや創作者そのものの視点で、この作品世界を分析するように鑑賞してみると、勉強になる部分が多々あると思います。

 最後になりますが、このような疑問というかテーマを投げられたのは創作界の発展に希望を持たせてもらえる良い話だと思いました。

 ライトノベルとはいいますが、十代でもその下の年代でも、まず書いてみるとか、実際に世界に触れてみる。
 その行動からくる創り手としての疑問や悩みなどを生の感覚で心に宿すのは、プロになるならないの話の前に、世界に住むものとしての本当のプライドが身につくとてもよいことかと思います。
 最後は蛇足でしたが、私の意見でした。失礼いたします。

あまくささんの意見2013/03/23

 ジブリの『耳をすませば』 は、ご覧になったでしょうか?
 主人公の女の子が好きになった少年は、高校に進学せず、バイオリン職人への道を志してイタリアに行くと言います。女の子は、夢を追い求める少年の姿に惹かれ、自分も何かをしなくてはと思い立ち、受験勉強を中断して構想していた「物語」を一生懸命書き上げる。そんなエピソードがありました。

 「努力」には様々な形があり、『耳をすませば』で描かれていたのは、「目的に到達するために真摯に取り組み、地道な努力を継続する姿」ではないかと思います。

 少年の行為は、バイオリン職人とかイタリアとかいう選択肢こそ特殊ですが、けして視聴者(読者)が手が届かないほど優秀でなければできないことではなく、やっていることは「地道で平凡な努力」です。

 もう一つ、別の角度から例を。
 「落差を大きくすると過程を描くのが難しい」という事についてです。
 その通りでしょうが、それを実現した作品として『もしドラ』 を思い出しました。主人公たちの高校野球部は、毎年地区予選の1回戦にも勝てない弱小チーム。そのチームを1年で甲子園に連れて行くというストーリー。そのとんでもなく難しそうな設定が、あの小説を読んでいると「なるほど、こういうふうにやれば本当に実現できるかもしれない」と思わせてしまうんですね。

 もちろん、ああ巧く書くのは大変だとは思いますが。しかし、「大変だと頭から思い込んで行動する前から諦めない」ということも、あの小説のメッセージの一つとも思えます。
 まがりなりにも小説という道を志したのであれば、優れた作品に触れた時に「すげぇ」と感心するだけではなく、積極的に自作の参考にする意欲を持つべき? なんてことを思ったりしちゃったりなんてしたものでした。

RAGING ARさんの意見2013/03/23

 構造的にひも解くと、面白味の少ない『努力』系の漫画やライトノベルの主な展開は以下の通りではありまえんか?

・主人公が障害にぶつかる
・主人公が努力して障害を乗り越える
・再び主人公が障害にぶつかる
・再び主人公が努力して障害を乗り越える

 これって強さのインフレーションと呼ばれる展開ですよね。この展開はすぐに強い敵が現れるものだから、結局以前の努力が無駄になるわけです。見ている側からしたら意味のないシーン、つまり見ても無駄と思える。
 いくら努力してもさらに上が現れる。努力していくうちに、どこかかけ離れたものになっていく。次第に読んでいる方は主人公に自己投影ないし感情移入がしにくくなるんですよ。

 実際、努力して問題を乗り越える作品が消えているわけではありませんよね。
 大切なのは「理論の持っていき方」です。

 あなたのいう「避けられている努力」の構造をひも解いてください。まずはそこからです。

 逆に天才というか、強い主人公ならば、そういう無駄が省けますし、強いから敵を倒せるという理論展開もたやすい。すると読者も無駄な抵抗もなくすんなり受け入れやすくなる。
 ちなみにドラゴンボールの「サイヤ人は強い敵と戦うと強くなる」とか「強い存在が強い存在を呼び寄せる」などは後付で強引ながら上手な理由づけだと思いますよ。

 私が思うに、避けられる風潮にある根底は、構造展開に問題があるだけかと。

ひろっさんの意見2013/03/24

 極端なことを言ってしまいますと、ラノベというジャンルも、長い目で見れば一過性のものに過ぎないと思いますよ。
ひとつのジャンルにブームがあっても、それが永遠に続くとか、そんなことはありえません。
 努力する主人公が避けられているというのは、読者の嗜好ではなく、偶然そういう作品が重なっただけだと考えるべきだと、私は思っています。

 なぜか。

 今から書いても、形になる頃にはそのブームが終わっているかもしれないからです。
 時代遅れになってしまうと、そのジャンルの作品は見向きもされなくなります。
 もっともこれは、作家の都合でも読者の嗜好でもなく、編集者の嗜好の変化だと私は考えていますが。

 それではこの辺で。
 何かの参考になれば幸いです。

シュプールさんの意見2013/03/24

 私はこの話をニコニコニュースで知りました。最近の作品では、「目の前の敵にあきらめずに全力で立ち向かう」ことが修行の代わりとされているのではないでしょうか。

 つまり、強敵と戦う→敗走する→特訓・修行→リベンジして勝利という流れが冗長とされた結果、修行とバトルシーンが一体化したと考えられます。

 たまに主人公らが超強敵に負け、敗北を喫するシーンもありますが、その後リベンジするまでの戦いで「あいつと再び戦うまでは負けるわけにはいかない」というセリフはテンプレですが、これはつまりリベンジまでの戦いが修行としての意味を持つということです。

 つまり、特訓や修行のシーン自体は出てこなくなったかもしれませんが、登場人物が根性無しで努力しなくなったかというとそうではないと思います。

小鳥遊夜々さんの意見2013/03/26

 こんにちは、はじめまして。
 人は、生きているだけで努力をしていると思います。私はそう思うのです。

サッパーさんの意見2013/03/26

> 最近のライトノベルの主な読者層では、『努力をする』そして『成長する』主人公が避けられる傾向にあるそうです。主人公が泥臭く努力したり熱くガンバって成長する描写なんていらないから、平凡な高校生がほんのちょっとしたきっかけでお手軽に作中最強の力を手に入れたり、何もしなくても可愛い女の子が惚れてきたり、そんな作品が求められているとか。

 「最初から全能の完璧超人」というキャラは少ないでしょうから、多くは「努力せずに結果を手に入れている」キャラに対する嘆きだと思います。
 「何の努力もしないのに異性に好かれる」とか「何の努力もしないのに戦い(難関学校への受験も戦い)に勝つ」とか、そういう展開。
 後者の場合、最初から高い能力を持っている場合と、突発的に覚醒する場合(俗に言う「イヤボーン」)が多くありますね。

 ただ、ここで題材になっている「ひたむきな努力」というのは、かなり狭くて壮大な意味のものではありませんか?
 漫画作品ですが『巨人の星』のようなものこそが「努力の形」で、最近のラノベキャラの成長過程は「努力の形」ではないとでも言いたげな。

 「努力描写」が少ないのは、いわゆる「努力」というのを「努力してるぞ!」という描き方で描くのではなく、現実と向かい合う事での「成長」という形で描かれているからだと考えます。

 例えば、特に必殺技の特訓をしたような形跡はないが、以前は上手く扱えなかった技を上手く扱えるようなっているなら、それは失敗から学んでいるという意味で「努力」であり「成長」であると考えるのが自然ではないでしょうか。
 特に描写はしてないけど、行間から察しろよと。

 純粋なライトノベルではありませんが、ライトノベル的な作風を狙った小説に「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」 というのがあります。
 この小説内における「努力の形」は、昭和時代の作品のような「コンダラ引っ張ってうさぎ跳び」のような目に見えて解り易いものではなく、経営学の教訓に基づいた組織運営という形です。

 スポーツものではありますが、従来の形の努力(筋トレ、素振り等の練習)のみを押し出しておらず、むしろそれだけでは足りないんだ(今まで以上の努力が必要)という事が話の前提になっています。

 「コンダラ引っ張って~」というのはスポーツものとしてはとても解り易い形の努力ですが、努力の形がそれだけでは嘘臭い。
 『もしドラ』でも筋トレのような基礎練習は勿論しますが、それだけで弱小チームが勝ち上がれる訳がないからです。

 また、作者も読者も「大リーグボール養成ギプス」のような訳の分からない訓練器具による派手だが意味不明な努力より、日頃の小さな事柄の積み重ね方を重視しているのではないでしょうか。
 例えば「突然異性にちやほやされる」というあらすじの作品では、きっかけは確かに「幸運による偶然」とか「努力不在の内容」ですが、相手の異性との日頃の付き合いパートに入ると、様々なイベントがあって少しずつ距離を縮めていく感じになるのが大半です。
 「偶然当たった宝くじの資金を元手に、起業して成功する」という物語の場合、最初の「偶然の当選」に努力は介在しません。それと似たようなものだと思います。

 「努力しないで結果を手に入れる」という展開についてですが、私は「努力さえすればどんな結果を手に入れても不問とされるなら、それこそおかしい」と思います。
 「ただの人間が強力なドラゴンを倒す」という物語の場合、「剣術の修練の結果倒した」というのと「なんか凄い魔法の武器を使って倒した」のでは、後者の方が説得力ありませんか?

 漫画作品等で、たまに「物凄く身体を鍛えた結果、銃弾も弾き返す筋肉の鎧を身に着けた人」というキャラが出て来ます。
 多くの場合、それは「長年に渡る修行の結果」という事にされており、「生まれた時からそもそも人間じゃなかった」というキャラは案外多くありません。

 しかし、現実にはどんなに体を鍛えても銃弾を跳ね返す事は不可能です。精神や肉体を鍛えれば何十メートルも跳躍したり何百年も生きたり空だって飛べる! 訳ありません。
 ドラゴンボールのように「そもそも地球人じゃない(純粋な地球人も生身で空飛んでますが)」とか、仮面ライダーのように「超科学の粋を集めた肉体改造を施したから銃弾も跳ね返す(つまり本人は努力してない)」という方が余程説得力があります。

 ここで、「不断の努力の結果手に入れた超人的な肉体は銃弾も弾き返す」というのと「なんか知らんが銃弾も弾き返す肉体を手に入れた」に、どれ程の違いがあると思いますか?
 どちらも根っこが嘘なのはフィクションなので仕方ない事ですが、前者の「努力の結果」というのは、読者に対する説得力という意味で「幾ら嘘でもあんまりだ!」と思いませんか?
 ギャグ作品ならば許せても、それなりにシリアスな作品で「努力したら銃弾も跳ね返せる体になった」と説明されたら、嘘の世界を嘘であると付きつけられる事になってしまいます。

 『ソードアート・オンライン』 のように「ゲームの中だから」という設定は、現実世界ではあり得ない努力の結果があり得るという意味で、「凄い努力と、その結果」を自然に描ける世界観だと思います。

 ライトノベルで扱われるような題材だと、どうしても現実離れした設定、世界観が多くなります。
 そうなると、そんな現実離れした目標を達成するのに「努力(特に旧来の形の努力)」だけで十分なのか? と、私は逆に疑問になります。
 広い意味での「努力」なら、金を稼ぐというのも当てはまるし、仲間との絆を深めるとか、組織を効率的に改革するとか、科学や魔法などの文明力を高めるというのもあるでしょう。

 しかし、そういうのは一般的に言う「主人公の行う努力」に含まれない気がします。
 いわゆる「努力」というのは、ハーレムものであれば異性にモテるような立ち居振る舞いを身に着けるとか、バトルものなら戦闘技量の向上、新技開発などを研究する事でしょう。

 しかしそういう、いわゆる昭和的な「努力の形」が忌避されるのは、しばしば「努力が万能の処方箋」になってしまって嘘臭くなるからではないでしょうか。

 最初から異能力を持っていたとか魔法のアイテムを手に入れたとかではなく、普通の人が凄い成果を出した時に「努力したから」という理由で、殆どの理不尽が不問にされてしまいます。
 現実にも可能な範囲の努力と成功であれば物語として面白味がありませんが、インパクトのある大成功を結果に持って来る時、その過程や理由が「努力したから」だけで納得できる読者も作者も多くないのが現実だと思います。
 漫画やライトノベルでは、ハーレムものでもスポ根ものでも異能バトルものでも「努力したから成功した」というのを「お約束のご都合主義で成功した」とか「邪気眼で成功した」とか「魔法のアイテムで成功した」に言い換えても、あるいは逆でも成り立ちます。

 つまり、創作における「努力描写」というのはその程度のもの。通常ありえないようなフィクションならではの成果を読者に納得させるためのツールの一つに過ぎないのです。

・現実的には解決不能な問題の解決方法 → 現実離れした「努力」
・現実的には解決不能な問題の解決方法 → 現実離れした「魔法」
・現実的には解決不能な問題の解決方法 → 現実離れした「境遇」
・現実的には解決不能な問題の解決方法 → 現実離れした「幸運」

 適時、お好きなのを選んで下さいという事です。

> ネット上では、そもそも我々の生きる現代が『努力しても報われない』時代であるせいで、努力して成長するという描写が若者には嘘っぽくしか見えないせいだ、と分析している方もいました。一理あるかもしれないと思うと同時に、なんとも寂しい考えだとも思ってしまいます。

 個人の範囲では「努力すれば成功への道が開ける」とか「努力しても報われない事がある」というのと同様に「努力にも限界がある」という当たり前の事実があります。
 「努力しても報われない」というなら、現実には日頃どんなに努力しても不運によって成果が得られない事があります。
 受験勉強頑張ったのに、試験当日に病気になったとか、悪天候で試験会場に行けなかったとか、可能性としては通り魔に襲われて殺される事だって考えられます。

 人間はどんなに努力しても空を飛ぶ事は出来ないし、銃で撃たれたら傷付くし、時空を超えたりなんて出来ません。
 数ヶ月努力したからといって、15歳の素人剣士が何十年も修行してきた達人剣士に敵う訳もありませんし、その達人剣士に師事したからといって1年や2年で達人にはなれません。
 最高品質のエンジンオイルとガソリンを用意して、精神を集中し気合いを入れてアクセルを踏んでも、普通の自動車は時速300キロでは走れません。

 どんなに努力したって不可能な事は不可能だし、努力をしても方向性が間違っていれば結果は振るいません。だったら、フィクションなのだから潔く「魔法で解決」とか「幸運で解決」の方がスマートな場合があります。

 現代が『努力しても報われない』時代というより、いつの時代でも「努力しても報われない事はある」というだけの話でしょう。
 現代日本で特有の問題と考えるなら、私は「社会(主に家庭や学校)が求める努力の形と、現実に求められる努力の形が違う(故に努力が報われない)」という問題だと考えます。

 学生時代、家庭や学校が求める努力をひたむきに続けても、それは子供同士の社会では必ずしも評価されませんし、大人になってからの社会でも評価されるとは限りません。
 求められる模範的な努力をひたむきに続ければ「中の上」くらいにはなれても、「上の上」はまず望めない社会となっています。
 しかも、頑張って頑張って「中の上」ですから、凡人の努力では「中の下」とか「下の中」が関の山といったところです。

 例えば大規模な建設工事をする時、ブルドーザーやパワーショベルのような重機があるならば普通はそれの扱い方を努力して習得するのが成果への近道でしょう。
 しかし現代社会では必ずしもそうなっておらず、横にブルドーザーがあってもスコップやつるはしを使った作業を「努力」する(させられる)場面がしばしばあります。そういうのが「報われない努力」というのではありませんか。
 スコップやつるはしだけでブルドーザーやパワーショベルを使うのと同じスピードの工事を要求され、それに応えられるように努力するのは虚しい事です。

 これは言い方を変えれば「目的や目標に対して無意味な努力」です。そんな「報われない努力」が評価されないのは当然だと思います。

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