あいさんの質問 2013年06月02日
私なりに三人称一視点と一人称の違いについて調べました。ですが、いまいちよくわかりません。
私は三人称一視点をこういう風に考えています。
間違っていたらすみません。
1、三人称一視点は、視点人物に憑依し、その人が見たもの知っているものしか描写できず(目の前で魔法を繰り出されても視点人物がそれを理解していないと、どれくらいの威力で、どんな効果を持っているのか明確に描写できない)、視点人物以外の心理を描写できない。語彙もその人のものだけ。
2、三人称一視点は一人称のようにダイレクトに心理描写はできないが、客観的になら心理描写できる。
1は一人称と制約が一緒ですよね?
2は心理描写が客観的なので少し冷めたように感じるか、そうでないかの違いですよね?
一人称との違いは、視点人物の心理をダイレクトには描写せず、客観的に描写し、主語を俺・私・僕などではなく彼女・彼などにしただけでは?
他に三人称一視点で可能な描写方法、一人称ではなく三人称一視点を選ぶメリットがあれば教えて頂きたいです。
●答え●
1は一人称の特徴だと思います。
「視点」と考えるから混乱するんじゃないでしょうか。
一人称・三人称による制約の違いは、カメラの位置が違うだけと思えば簡単なのではないかなと思います。
一人称はFPS視点、つまり主人公の「視線」とでも言いますか。キャラの視界内の出来事のみ描写可能です。
三人称一視点は主人公を上から見下ろしてる感じ。別に上じゃなくてもいいけど、主人公の「周囲にカメラがある」感じでしょうか。
ですので、一人称と三人称一視点の制約は一緒ではありません。
例えば、主人公の死角からの攻撃、なんて一文は一人称では書けません。死角は見えないので。三人称なら一視点でもカメラは主人公の周囲にあるので、主人公の死角を書けますよね。死角にカメラを向ければいいので。
そんなわけで、
>目の前で魔法を繰り出されても視点人物がそれを理解していないと、どれくらいの威力で、どんな効果を持っているのか明確に描写できない
三人称一視点なら描写してもおかしくありません。
2は、まあ、そうですと言えばそうかもしれませんが、一人称と三人称の違いで一番わかりやすく書き方が変化するものは「誤解」というシチュエーションだと思います。
一人称だと主人公の心情になるので「誤解」という言葉が使いにくくなります。
「彼は誤解している」ならともかく、「私は誤解する」というのはちょっと変ですよね。
しかし、三人称なら一視点だろうと「主人公は誤解した」と書けるわけです。これには説明はいらんでしょう。
>三人称一視点は、視点人物の心理をダイレクトには描写せず、客観的に描写し、主語を俺・私・僕などではなく彼女・彼などにしただけでは?
読者としては、そう感じるのも無理は無いと思います。
書く側としては、アクションシューティングとFPSくらいにいろいろと差がありますね。
>これ以外に三人称一視点で可能な描写方法があれば教えて頂きたいです。
一人称で不可能だけど三人称一視点で可能という意味でしょうか。
だとすると、私個人の感覚としては、そんなの一つもないよ、と答えます。
先ほど「死角」が書けないと書きましたが、「思いもしない方向からの攻撃で」とか言葉を変えればどうとでもなりますし、「誤解」にしても少し展開をいじってやれば一人称にも三人称にも対応できると思います。
要するに、一人称や三人称というのは物語をどういうスタイルで書くかという演出の一つに過ぎず、どちらで書くにしてもそれぞれに相応しい展開を用意してやれば良い話なわけです。
説明のために、一人称と三人称の違いを考えてみてください。
イメージ的には、箱庭の中から物を見る(一人称)か、外から物を見る(三人称)かの違いですね。
一人称は、物語内の登場人物の誰かに視点を固定するため、
> 視点人物に憑依し、その人が見たもの知っているものしか描写できず(目の前で魔法を繰り出されても視点人物がそれを理解していないと、どれくらいの威力で、どんな効果を持っているのか明確に描写できない)、視点人物以外の心理を描写できない。語彙もその人のものだけ。
というような制約が発生します。
対して三人称は、物語外に、自由に視点を配置できます(内部に忍ばせることも可能)。
視点は人である必要すらないので、物語内の登場人物の心情描写も可能ですし、その場にいなくても光景を描写できますし、物語の未来を知ることすら可能です(この方式を三人称・神視点と呼ぶこともあります)。
簡単に言えば、一人称は制約ガチガチ、三人称は自由自在という感じです。
ただし、制約はときに利点にもなりえます。
例えば一人称では、読者にとって登場人物の心情とシンクロしやすくなります。三人称でも、同一シーン内では視点を固定する(一人の心情描写だけに絞る)ようにしておくと、読者にとってよりわかりやすくなります。
本題に移ります。
三人称一視点というのは、一人称視点と三人称(神)視点の中間に位置するものです。
一人称視点っぽく「読者にとって感情移入しやすくしたい」、なおかつ三人称視点っぽく「詩的な描写や設定説明などを自由に書きたい」という要求を、ある程度両方叶える手段です。
> 一人称との違いは、視点人物の心理をダイレクトには描写せず、客観的に描写し、主語を俺・私・僕などではなく彼女・彼などにしただけでは?
こうすると、一人称に限りなく近い三人称一視点(というより呼称を変えただけの、実質一人称)になります。
加えて、三人称で可能な別の人物の主観描写などについても、三人称一視点なら書けます。
気をつけるべきこととして、一人称的な利点を引き立たせたい場合、シーン内の中心人物(主人公とか)の主観をメインに書く必要があります。そうでなければ、設定説明や別人物(物語内・外問わず)の主観をばんばん書いてOK(?)です。
> 他に三人称一視点で可能な描写方法、一人称ではなく三人称一視点を選ぶメリットがあれば教えて頂きたいです。
ってことでメリットは、書きたいものに応じて、一人称寄り・三人称寄りを切り替えしやすいところじゃないでしょうか。
書く内容を上手に絞ることで描かれた情報が目立つし(制約の利点)、かといって必要な情報を違和感なく提示することも大事だし(自由の利点)。
おおきな違いは、地の文の取り扱いにあります。
・一人称
「みろよ」
私の目の前に差し出されたのは一丁の拳銃だった。
S&WのM37エアウエイト。日本の警察でも使われている代物だ。
どうしてそんなものをコイツが……?
・三人称一視点
「みろよ」
太郎の目の前に差し出されたのは一丁の拳銃だった。
S&WのM37エアウエイト。日本の警察でも使われている代物だ。
どうしてそんなものをコイツが……、と太郎は訝しんだ。
それほど違いはないようにみえますよね。
でも三行目に注目してください。
『S&WのM37エアウエイト。日本の警察でも使われている代物だ。』
一人称の場合は、あくまで『私』の胸中のひとりごとです。
しかし、三人称の場合は著作者の解説と読み取られます。
いったい、これはどういう違いがあるのでしょうか?
たとえば物語がすすんで、実はこの拳銃が偽物のエアガンだったと判明したとしましょう。
地の文で書いたS&WのM37エアウエイトというのは誤りだったのです。
その場合、一人称ならば『私』の勘違いだったということですみます。
けれども、『三人称一視点』ならば、地の文章でウソをついていたことになり、アンフェアな記述になります。
『三人称一視点』は一人称っぽくみえるだけであって、あくまでも三人称なのです。
極論をいってしまえば、一人称はすべての地の文が『私』の思い込み。三人称は、地の文のすべてが事実となります。
ですから叙述トリックものは一人称がおおいのです。(騙しやすいので)
この違いは頭に入れておきましょう。
おはようございます。
三人称一視点のおおまかな素描としては、あいさんの捉え方でだいたいOKなのではないかと思います。
そこを前提とした上で、もう少し踏み込んで考えてみます。
まず。
三人称一視点という手法は、簡単に言い切ってしまうと「一人称と三人称のイイトコ取りを狙った実践的なテクニック」なのだと思います。
そこで、先に三人称と一人称のメリット・デメリットについて考えてみます。
(1a)三人称のメリットは、叙述の客観性。ストーリーや視点などを含め、多様な表現が可能なこと。
(1b)三人称のデメリットは。まず、地の文に語り手(多くは主人公)の心情を直接話法で書くことができない。文体などに直接感情を盛り込むことができないため、ややもすると冷淡な印象を読者に与えてしまう傾向がある。人物やシーンなど多様な視点から描くことができるが、反面やりすぎると物語のどこに軸があるのか分かりにくくなりがち。
(2a)一人称のメリットは、文章に感情がのせやすい。語り手への読者の共感(感情移入)を引き出すことが比較的容易。基本的に「視点のブレ」は有り得ない。
(2b)一人称のデメリットは、地の文が語り手の主観に左右される。語り手の知り得ないことや語り手以外の人物の心のうちを、直接書くことができない(間接的に書くことは可能ですが、制約は多くなります)。
他にもあるでしょうが、ご質問の趣旨に即して言えば、このようなことだと思います。
こうして整理してみると、一人称と三人称は、かなりの部分で表裏一体の関係にあることが解かります。
で、三人称を基準にしながら、(2a)のようなデメリットを排除するにはどうしたらよいか、考えてみてください。
まず、三人称には、地の文に感情がのせられないという制約。そのために文体が冷淡になるというデメリットを緩和するために、なるべく一人の人物(多くは主人公)に視点を寄り添わせ、ストーリーの中でその特定キャラと読者に共通の体験をさせるようにします。そうすることによって、読者のその特定キャラへの親近感を引き出そうとする工夫です。
また、視点の移動などが自由にできることが三人称の強みであることは承知した上で、やりすぎて物語が分かりにくくなる欠点を避けるために、敢て視点移動を必要最小限に抑えるのです。
そのような配慮をすると、自然に「三人称一視点」になることが、お判りでしょうか?
留意しておきたいことは、三人称一視点は「効果を狙った実践的なテクニック」として工夫されたものですから、「こう書かなければならない」というルールは別にないということです。書き手の目的さえ達することができていれば、標準的な書き方からはずれても構わないということです。
>一人称ではなく三人称一視点を選ぶメリット
これも、簡単に言えば一人称のデメリットを避けたいということでしょう。
上では三人称のデメリットについて書きましたが、今度は一人称の方のデメリットですね。
一人称では語り手が居合わせないシーンが(直接的には)書けないということは、誰にでも分ると思います。しかし、須賀透さんがご指摘されているような問題もあり、これはわりと気づかれにくいのではないでしょうか?
私がよく使う例えに置き換えますと、
地の文で「花子は美人だ」と書いた場合、三人称なら基本的に事実ということになります。が、一人称の場合は語り手の主観にすぎず、実は花子は美人だと思っているのは語り手だけということもあり得るわけです。
そういうことを含めて一人称には、三人称にはない制約が多々あります。回避する方法はあるでしょうが、三人称よりも自由度が低いことは間違いありません。
その自由度の低さや、文体が主観に左右されてしまうなどの一種クセの強さが、物語のタイプによってはさほどの欠点にならないケースもあると思います。ですが、制約が作品の内容と相性が悪く、それでいて(2a)のような一人称のメリットもほしいという場合に、三人称一視点の選択を検討することになるのだと思います。
あいさんの三人称一視点の素描はだいたいOKと書きましたが、はじめから話をややこしくしないために小異には目をつむりました。
念の為、少し補足します。
>1、三人称一視点は、視点人物に憑依し、その人が見たもの知っているものしか描写できず(目の前で魔法を繰り出されても視点人物がそれを理解していないと、どれくらいの威力で、どんな効果を持っているのか明確に描写できない)、視点人物以外の心理を描写できない。語彙もその人のものだけ。
>1は一人称と制約が一緒ですよね?
これは、厳密に言うと少し微妙です。
三人称一視点も三人称ですから、一人称と制約が一緒と言ってしまうと少し語弊があります。
三人称一視点では、視点人物(もどき)の知らないことを書いても理屈としてはおかしくはないと思うんですね。ただそれをやってしまうと、先1に書いたこの手法の狙いとする効果が半減してしまうので、そもそも一視点を採用する意味があまりなくなってしまいます。
ですから三人称一視点で書く場合は、一人称と同様の制約を意識はした方がいいでしょう。
そういう意味で、実際問題としてはあいさんの1のような考え方で書くようにすればOKだろうと思います。
ええと、横ヤリというか、どうか補足させてください。
いや、ちょうど須賀透さんが指摘したのと同じ手法を自分が使っているもんで、
この手法がアンフェアだと言われると、僕がつくってきたあらゆる物語の構成が崩れてしまうんです(戦々恐々)
> たとえば物語がすすんで、実はこの拳銃が偽物のエアガンだったと判明したとしましょう。
> 地の文で書いたS&WのM37エアウエイトというのは誤りだったのです。
> 三人称一視点』ならば、地の文章でウソをついていたことになり、アンフェアな記述になります。
僕は、こういう「嘘をつく」ことも良しとしています。
それによって、物語をより面白くできるのなら。
たとえばこのエアウエイトが、おもちゃのエアガンなどでなく、アジア諸国で偽造されたパチモンを暴力団などが密輸した本物の銃だったとしたら。
そしてこの物語を、一見したところでは本物と見分けがつかない銃の真贋を見極め、日本国内で偽造銃が使われるのを防ぎ、さらに外国からの密輸ルートを叩きつぶし、そして……、という刑事モノにありがちな王道ストーリーに仕立て上げるとしたら。
やっぱり僕としては、
「こいつを見ろよ」
「なんだよ、鑑識課にまで呼びつけやがって」
警察学校時代の同期である二郎が、太郎の目の前に一丁の拳銃を差し出した。
S&WのM37エアウエイト。日本の警察でも使われている代物だ。太郎も交番勤務だった頃は、支給品を常に携帯させられていた。
「これがどうしたんだよ」
「3日前に歌舞伎町で殺しがあったろ。これは、被害者のすぐそばに転がっていたものだ。よく見ろ」
「だから、なんだよ」
「捜査一課イチのガンマニアが見抜けないとはな~」
二郎の引っ掛かる言い方に、太郎は袋に入ったままの銃を持って、もういちどよく見てみる。
S&WのM37エアウエイトだ。間違いない。
「じつはそれ、精巧にできた偽造品なんだ」
「マジかよ?」
「組対の連中も感心してたぜ。外観からじゃ、まず判別できない。俺たち鑑識だって、分解してみて初めて分かったんだ」
「でも、この銃が偽造品だからって、どうしてそのことを、俺にわざわざ教えるんだ?」
「その銃の線条痕を調べたら、被害者に致命傷を与えた銃弾と一致した。そしてもうひとつ、マエが無いか確認してみたら、2年前の未解決銃殺事件で、被害者の体内から回収された銃弾とも一致した」
太郎の目つきが変わった。
2年前の未解決銃殺事件。被害者の体内から回収された銃弾。二郎がわざわざ太郎を呼びつけた理由。
心当たりは、ひとつしかない。
「その銃が、三郎先輩を殺したんだ」
太郎が、獲物を見つけた獣のように、歯をむき出しにして笑った。
ようやく、仲間殺しの犯人の尻尾をつかんだのだ。
とかいう展開にしたい(ありがち・爆)
まあ、話の持っていき方によっては、わざわざ太郎に偽造銃をエアウェイトだと誤認させ、二郎が真相を明かすという流れにしなくてもいいんですけど、演出とかも考えあわせていくと、「地の文で嘘をつく」のが必要な場面も想定されると思うんですよね。
一人称文体に比べると、三人称文体はずっと自由な書き方だと、僕は思っています。
雷さま、いつもお世話になっております。
「三人称であれば地の文でのウソはアンフェアである」
そんな趣旨のことを、あるミステリー作家が書籍で主張していました。
わたしもいろいろと考えた結果、三人称の地の文ではウソをついてはいけないという結論にいたりました。
たとえば、『かおるは女の子である。』と三人称の地の文章で書いておいて、じつは男の子でしたというトリックはやはりアンフェアに思えます。
ダメ……というよりも、読者としてアンフェアに感じるのです。
うーん、これがミステリー脳というやつでしょうか……。
そしてミステリー色がつよい作品であれば、審査で減点対象になるおそれもあると考えています。
(三人称の地の文でのウソはアンフェアだと主張する方は、ミステリー系新人賞の審査員でもあります)
上記の文も、地の文にウソをかかずに書き直せると思います。
たとえばこんな風に……。
「こいつをみろよ」
「なんだよ、鑑識課にまで呼びつけやがって」
警察学校時代の同期である二郎が、ビニール袋にはいった拳銃をみせてきた。
それをみて、すぐにある拳銃の名前が脳裏に浮かぶ。
――S&WのM37エアウエイト。
S&WのM37エアウエイトは日本の警察でも使われている代物だ。太郎も交番勤務だった頃は、支給品を常に携帯させられていた。
「これがどうしたんだよ」
「3日前に歌舞伎町で殺しがあったろ。これは、被害者のすぐそばに転がっていたものだ。よくみろ」
「だから、なんだよ」
「捜査一課イチのガンマニアが見抜けないとはな~」
二郎の引っ掛かる物言いに、太郎はビニール袋の上から銃をさわって入念に調べた。
しかし、どうみてもS&WのM37エアウエイトに間違いないように思える。
簡単にいうと、
「この地の文、ウソじゃないかよ!」
と読者につっこまれないように、
「たしかに誤解をまねく書き方だったかもしれませんが、ウソはついてませんよ?」
という言い訳をつくっておくということです。
まあ、それがのフェアかといわれれば首をかしげざるをえませんが(苦笑)
横ヤリの横ヤリになってしまい、申し訳ありません(汗
私、人称オタクのケのある変人なので、お二人のやりとりに興味を引かれました。
須賀透さんの「三人称の地の文でウソをついてはいけない」というのは重要な指摘だと思います。そこをはずしてしまうと、ヘタをすると読者は何を信じて小説を読めばよいのか分らなくなってしまうので、書き手は基本として念頭に置いておく必要がある事項だと愚考します。
ただ、雷さんの例文ですが。
確かに一瞬ウソをついていることにはなりますが、数行後にそのことを読者に知らせていますから、この程度ならセーフではないかと個人的には感じます。
まずいと思うのは、そういうことをそのままミスリードに使ってしまうこと。
読者というものは、「気持ちよく騙されたい」という願望も持っているものだと思うんですね。
意外なドンデン返しに驚愕した。しかし、読み返してみると、どこにもウソはないように書かれていることが判った。そういうサプライズも小説を読む楽しみの一つだと思うんです。
そういう場合に地の文にウソが含まれているとエレガントではないし、不愉快な意味で作者に騙されたと読者に感じさせてしまう恐れがあるので、慎重でなければならない。そういうことではないでしょうか?
雷さんの例文は、作品中の大ネタとして「騙し」が使われているわけではありません。あくまで小ネタとして、読者の興味を引き付けるためのちょっとした心理的なトリックの範疇と思えますから、許容範囲なのではないかと思えます。
こういうのはね。
ひたすら考えるよりも実際にプロの作品を読んだほうがいいよ。
思っている以上に自由だからさ。
文章力が高いと評判のイリヤの空とか目を通してみなよ。
ほとんど一人称みたいな三人称書いてるからさ。
そういうのがあるから、一人称より三人称のほうが自由とプロにも言われたりするんだよね。
こんにちは。
三人称一視点と一人称の違い、分かりにくくて当然だと思います。
三人称一視点というのは、三人称の一例というよりは、実質的に一人称の変形ですので。
【1について】
三人称一視点と一人称の受ける制約はほぼ同じと考えられたらよいと思います。
三人称一視点は、一人称と違って視点者の外見描写が可能ですが(顔が赤くなった、蒼白になった、など)、美しい顔とか綺麗な瞳とかの描写すると違和感があるでしょうね。
価値基準があくまは視点者ですから。その点でも一人称と同じです。
それと、視点変更の点でも一人称と同様の制約を受けることになります。
三人称一視点で視点変更を行うと、視点だけでなく語り手も変更することになります。これは一人称で『私』視点から『僕』視点に変わってしまうようなものですから違和感が強くなります。
【2について】
三人称の心理描写は客観的にすべきですが、一視点の場合、ダイレクトに描写することも許容されています。
日本語が主語を省いてもOKな言語であるのも理由の一つなのですが、三人称一視点は極めて一人称に近いですので。
実際、『彼』『彼女』が視点人物であっても、一人称の心理描写となんら変わらない作品も多いですよ。
>他に三人称一視点で可能な描写方法、一人称ではなく三人称一視点を選ぶメリットがあれば教えて頂きたいです。
一人称は、主人公に好感が持てないと読む気をなくしてしまうことが多いですが、三人称一視点だと多少なりとも客観性がありますので、アクの強い主人公でも一人称ほど拒絶反応を起こしにくいという点がメリットだと思います。
そのぐらいじゃないでしょうか。描写の点であまりメリットはないと思います。
遅れ馳せながら、考えを述べてみます。
一人称と三人称一視点の違いは、自由度の差です。
一人称は以下のような特徴があります。
> 1、視点人物に憑依し、その人が見たもの知っているものしか描写できず(目の前で魔法を繰り出されても視点人物がそれを理解していないと、どれくらいの威力で、どんな効果を持っているのか明確に描写できない)、視点人物以外の心理を描写できない。語彙もその人のものだけ。
これに対し、 三人称一視点にはかなり幅があり、物語に適した文体を選ぶことができることが最大の利点です。
Aタイプ(一人称寄り)
○主人公の見ているもの、知っていることしか書かない。
○文化風習や世界情勢等の解説は、主人公によるもの。
○視点移動せず、主人公のいる場面しか書かない。いない場面を書く場合は主人公が聞いた話という形を取る。
○心理描写は主人公のみ。
○地の文は、一人称のように、主人公の内心独白や主観で記述される。語彙は主人公の知る範囲に制限される。
Bタイプ(中間)
○主人公の見ていないもの、知らないことも書ける。
○文化風習や世界情勢等の解説は、主人公・語り手どちらによるものでも可。
○視点移動が可能で、主人公のいない場面も書ける。
○心理描写はその場面の中心人物のみ。主人公がその場にいる場合は主人公のみ。
○地の文は、主人公の主観がまま入りつつも、中立は保つ。語彙は基本は自由だが、中心人物の色を出す。
Cタイプ(三人称神の視点寄り)
○主人公の見ていないもの、知らないことも書ける。
○文化風習や世界情勢等の解説は、語り手によるもの。
○視点移動はかなり自由にできる。主人公のいない場面も書ける。
○心理描写はその場面の中心人物のみだが、主人公がいても主人公以外を中心人物に設定できる。
○地の文は、ほぼ中立に近く、語彙は完全に自由で、語り手の口調。地の文に主人公等の内心独白が入っても、語り手が解説している印象が強く出る。
これは便宜上三つに分けただけで、特にBタイプは書き手によって様々なヴァリエーションがあります。
このように、三人称一視点は制約や制限を自分で選ぶことができます。逆に言えば、そのコントロールがきちんとできないと、文体が揺れることになります。
> 一人称との違いは、視点人物の心理をダイレクトには描写せず、客観的に描写し、主語を俺・私・僕などではなく彼女・彼などにしただけでは?
Aタイプは一人称とかなり近いですが、やはり違います。
それは、一人称が、独白、告白、読者への主人公の語りかけであるのに対し、三人称は、事件に直接関係のない語り手が物語っていることです。
自分の体験と、他人の体験を自分の体験のように語るのは同じではありません。どんなに迫力ある語り方をしたとしても、それは結局のところ人事です。
上手く言えませんが、多分、この心の有りようの違いが作品に反映し、おっしゃるところの「客観的な描写」となって表れるのです。
「十二国記」というシリーズがあります。あと十日で十二年ぶりの新刊が出ます。
この作品は三人称一視点ですが、もし一人称だったら、あの「遠い異世界の出来事を物語っている感じ」「その語りに読者が耳を傾け、語り手と共に追いかけている感じ」は出ないと思います。
> 他に三人称一視点で可能な描写方法、一人称ではなく三人称一視点を選ぶメリットがあれば教えて頂きたいです。
BタイプやCタイプ、特にCタイプでは、主人公等の言動に対する周囲の人々の反応を動作や表情で示すことができます。
一人称では、相手が嫌がっていることを示すにははっきりと拒絶させるか、動作をさせて、主人公は意味に気が付いていないが読者には分かるにするしかありません。
ですが、BタイプやCタイプの場合は、主人公には気付かせずに、はっきりと相手の様子を描くことができます。それどころか、主人公のいる場面で、他の登場人物達に秘密の合図や会話をさせることもできます。
こういう、主人公の把握していない部分の登場人物達の行動を書くことができるのが三人称の利点で、主人公が気付いていない登場人物達の長所や短所、思いなどを描きやすいのです。
視点移動も、ある意味その延長の上にあります。
つまり、主人公も、重要ではあるが、あくまでも登場人物の一人に過ぎない、というのが三人称の特徴と言えるでしょう。主人公にどの程度の重みを置くかで、A~Cのタイプに別れるように思います。
十二年ぶりに出る十二国記の新刊が楽しみです。
小説の書き方などの本を読むと、よく「初心者は一人称で書かずに三人称で書きましょう」と書いてあります。
新人賞の応募などは、三人称一視点で書くと堅いとも言われています。
一人称は視点が限られているので、初心者には難しいということです。
しかし、普通の人は、手紙(メール)でも日記でも作文、感想文、論文でもほとんど一人称で書いていて、それに慣れ親しんでいるはずなのです。
では、なぜ、小説だけが一人称で書くのが難しいのでしょうか。
これを考えるとおのずと答えが見つかりますよ。