ライトノベル作法研究所
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  4. 小説の才能とは何ぞや?公開日:2013/06/06

小説の才能とは何ぞや?

  川奈さんの質問 2013年05月28日

 才能について考え込んだことが、誰しもあると思います。

 ここの研究室には、うっぴーさんの持論が載っていて、その正体は「欲求」「成長」「実績」の三位一体の状態、と結論付けておられます。

 なるほどな、と、とても納得させられるのですが、私はちょっと思いました。
 これは、『才能に対して悩んでいる時間があるなら、書くのを楽しんで(欲求)創意工夫して(成長)長編を書きましょう(実績)』のメッセージではないかな、と。(勝手な解釈すいません)

 しかし、私はあえて考えました。
 『才能には実体が無い。結果を出している人間を、才能があると呼ぶだけ』と。
 努力型だろうと、天才型だろうと、結果を出している人間を「あいつは才能があるから……」と、カテゴライズして、合理化、あるいは自己卑下をしたりするのに使われるのではないかと。

 長くなりましたが、皆さんなりの『才能』についての考えをお聞かせいただけないでしょうか?
 とても興味深いです。

●答え●

一刻さんの意見2013/05/28

 三位一体の話については、今回初めて読みましたが「なるほど」と思わせられました。

 さて。
 うだうだ考え事の多い人間なので、少しでも参考になるかもと思い、投稿します。
 ってことで、小説執筆に必要と自分が思う能力を列挙してみます。
 LV、ABC階層が低いほど、基本的な事柄だと考えています。

LV.0) 精神的な話
 やる気とか情熱。および、物事を継続する能力とか自己管理能力。

LV.1) ネタについて(物語の中身の部分)
 <A> 知識(素材)について、深さ・広さ、体系化の具合・つながり方。
 <B> 思考能力(知識をつなげて粗筋を作る)について、演繹・帰納、whyベース・howベース・whatベースとか。思考パターンの適切な選択・テンプレート(起承転結、推理小説のフーダニットetc.)の利用を含む。

LV.2) 文章表現について(物語の外見の部分)
 <A> 骨組みの部分(構成・大筋の論理とか)。
 <B> 肉付けの部分(文彩・文レベルの論理とか)。
 <C> 全体の雰囲気・リズムとかの領域(外連味?)。
 <D> 執筆速度(生産力)。

 上記の中で精神的・感性の部分は、ぶっちゃけ幼児期の環境や才能によるところが強いと思っています(たぶん事実)。
 とはいえ最近は科学という学問の発展・体系化により、精神・感性についても、一部については理論的な説明がつけられるようになってきています(非常に簡単な例で言えば、体言止めが読者に与える印象)。
 なので、直感で理解できない人間でも、理論を使って人工的にシミュレートすることが可能になってきている気がします。
 技術ってすごいですね。

 天才型は、努力しなくても身に付いている人。
 努力型は、努力することで初めて身に付く人。
 努力で身に付けることが難しいものもあるとはいえ、身に付いてしまえば、天才・努力型の違いなど関係ないんじゃないでしょうか。読者からすれば、なおさら。

 ついでに『才能』のあり・なしって、基本的には能力のあり・なし、もしくはバランスを、主観的にあーだこーだ語っているだけですよね?って感じます。
 独創的なネタ・雰囲気なんかがあれば才能(というか環境?)のおかげと言われても納得しますが、そうでなければ単純に努力の量・しかたの問題な気が。

トータスさんの意見2013/05/29

 才能ですか・・・
 私は経験から導き出される答えかと。
 それに気が付く事が出来る。それが才能かと・・・

 私の場合は、子供の可愛らしい仕草が描ける才能があるそうです。
 戦闘描写の才能は無い様で・・・書くと評価がぁぁぁ! 下がりやがります!
 諦めました。そっちで評価は取れないと割り切り、偶にこれでどうだと挑戦してみます。下がります・・・でも、また挑みますね。下がるけど・・・

 得意とするモノではなく、それが当たり前であると思える所が才能だったりするのかな?
 意識してではなく、無意識にそれとなく当たり前に実行出来るモノこそ、才能かな?

ハイさんの意見2013/05/29

 才能があるとは。
 地図、またはカーナビ、GPSを持っていて目的地に向かって進めること。

 才能がない、とは。
 出発したものの、何ももたず。目的地の方角もわからずただ歩き回ること。

 まー、人によって目的地は違うし、才能にも大小があるので補足が山ほどいりますが、私はこれだけにしてあります。
 才能の話なんてやろうと思えばいくらでも広がっちゃいますしねー。

 ちなみに、目的地にたどり着くには上記プラス努力。 才能だけじゃ駄目です。
 ちなみに、このサイトで才能がある人を何人か見ていた時期がありましたが、結果(プロ化)を出したのは一番頑張ってた人でしたよ。

クウロさんの意見2013/05/29

 才能はいくらでもありますが、誰しも持ってる才能があります。
 「好きなことに努力できる才能」。それが生活につながるかは否として……これ以外の才能は砂場から砂粒一つ見つけるぐらい引き出すのが困難かと思っています。
 なので、好きなことに努力できる才能を生かして人生を歩んで生きたいです。
 こんな感じ?

あまくささんの意見2013/05/29

 例えば、「将棋ムラ」と「陸上ムラ」と「小説ムラ」というのがあるとして。

 将棋ムラでは将棋対局の勝率がよかったり、十三手詰めくらいの詰め将棋を30秒で解ける人は、才能があるって言われるでしょうが。陸上ムラで天才って呼ばれてる人が来ても、あまり評価されないかもしれません。
 小説ムラでは、将棋が強くても足が速くてもダメ。

 才能って、何らかの価値観とセットでなければ意味をなさないものかもしれません。

 歌の文句みたいですが、その人の花が紅い花なのか、黄色い花なのか、紫の花なのかってことなのかなとか思ったり。

あざらしさんの意見2013/05/30

 執筆はせず読むのが好きなだけですが、モノを産み出すという点で、おそらくはクリエイティブ全般共通で言える事柄だと思いますので所感を。

 才能といえるものは、センス。
 他は努力と根性でカバー可能です。

 センスだけは磨くモノで、ちょっと異なります。
 「持って生まれた……」と、までは言いませんが、『どうやって生きてきたか』は、密接に関わるように思います。
 センスは、あるに越したことはありませんが、絶対条件ではありません。

 尤も、大前提となる”当たり前”の条件が色々とあって、『その上で』の話しです。

 ではでは、執筆ガンバって下さい。

あまくささんの意見2013/05/30

 ドラゴン桜というマンガで、主人公が、
「オンリーワンはナンバーワンに決まってるだろうが!」
 と言ってましたw

 まあ、それもナルホドと思ったんですけどね。

 才能は価値観とセットでなければ、というのは本当にそうだと思ってるんですね。
 花の話は、思いつきで言ったんですが。
 もう少し踏み込むと、黄色い花が紅い花になろうとするのは、たぶん意味がないし、努力でもないです。
 でも、くすんだ紅い花と鮮やかな紅い花では、「鮮やかさ」は才能ではないかと思います。
 で、くすんだ紅「花が鮮やかな紅い花を目指すなら、努力ということになるんじゃないかと実は思っています。

pokotaさんの意見2013/05/30

 才能というのは、相対的に評価されるものではないでしょうか?

 例えば、我々日本人は当たり前のように日本語を使っていますが、しかし、海外に出れば『日本語を使える』という才能を持った人材として評価されるかも知れません。
(漢字・かな混じりのような表意文字と表音文字を同時に使いこなす感性を持っているのは日本人だけですw)

 同様に、自分が普段当たり前だと思ってやっていることが、実は他人から見たらすごいことだったりする可能性だってあると思います。

 私は才能とは、生まれ持った境遇や身体的特徴、さらには心の内面世界等の中に本人が気づかないところで身を潜めているものだと思います。

サイラスさんの意見2013/05/30

 どうも、サイラスといいます。

>皆さんなりの『才能』についての考えをお聞かせいただけないでしょうか?

 私は、「自分の力や好きに対する情熱」と「自分の力と工夫に対する冷静さ」の調和と考えています。
 自分の好きなことや力を信じることや愛することを強く持たないとダメです。そうしないと、不安や裏切りが怖くって、努力だって続かないし、真剣に伸ばそうとしませんよ。これが、情熱。
 一方で、冷静さというのは、自分の力を劣化、暴発しないよう疑い、抑えること。自分の愛情や力を過信するあまり、自他がわからなくなったり、心身ともに参ってしまいます。

 才能って、何か特別な力っぽく聞こえるけど、実際には、自分の持つものを信じ、それを自分に合った確実な方法で精錬させていったものだと、遅まきながら、気づいた今日この頃です。

ウジャBさんの意見2013/06/09

 私の場合はこう考えます。
 悲観主義で合理性を追求する性格が災いしてか、誰に見せても誰かを敵に回しそうですが。

 同じ状況から始まっていても多くの人間が苦労してやっとたどり着く物を当たり前にこなしてしまう人間は、その事の才能がある、と。
 で、それが常人離れした方を天才と呼んだり。

 例えるなら、処女作の小説をそのまま披露したときの評判が、そのままその方の評価される小説を書く才能なのではないか、と。
 少し感じ悪い印象がありますけど、優位性以上の価値がないのもまた事実ですから、あるなら欲しいけど必要とは思いません。

 余り欲求や努力の部分は問いませんね。欲求が無いとダメなら適当にTV見ながら書いても毎回人を唸らせられる文が書ける方は(多分いないでしょうが)才能がないって事になりますし、

 努力でその才を手にする場合「秀才」って言葉がありますから。
 怠惰な天才は秀才には勝てないってのは有名な話ですし、人間として尊敬できるのは秀才の方ですね。
 まぁ、才能ある方が努力すれば、そりゃ恐ろしい事になるでしょうが。

 纏めると素材が良ければ才能があり、磨く事に余念が無ければ秀才になる。
 って感じかと。偉そうにすみません。

すーぱーなちゅらるさんの意見2013/06/09

 初めての書き込みですが、夜中に一気に執筆してテンションが上がっているもので、お邪魔させて頂きました。

 才能について、お世話になっている人の受け売りですがw

 例えば東京から博多へ旅行に行こうとするとき、あなたはどういう交通手段で行こうと思いますか?お金に余裕がある人は、飛行機に乗って約二時間で飛んでいきます。人によっては六時間くらいかけて新幹線で行くかもしれません。
 お金はあんまりないけど車を持っている人は、高速道路で行きます。その場合、体力と眠気との戦いになります。車がない私は、多分安い高速バスに乗って行きます。
 バス代すら無い人は、チャリで行きます。自転車すらない人は、普通ありえませんが歩いていきます。

 私は「才能」について考えるとき、才能=交通手段と考えるようにしています。スタート地点があって目的地(目標)があれば、誰しも何らかの方法でそこに至ろうとします。才能がある人は、飛行機や新幹線でビューンと飛んでいくでしょう。切符を持っているのだから、それは当たり前です。けれど、切符や車を持っていなければ絶対目的地にたどり着けないかといえば、必ずしもそうではありません。

 自転車だろうが徒歩だろうが毎日コツコツと進んでいけば、いつかはそこにたどり着くことができます。

 もちろんその対価となる労力は大変なものですが、目的さえ果たすことが出来れば、手段なんてどうだっていいんです。私は才能とかは、そういう感じの物だと考えるようにしています。

 ちなみに、才能を持っている人が特別かというとそうでもないでしょう。彼らはその切符を手に入れるための別の努力を、どこか別の場所でしてきたのですから。

 現状徒歩組の私ですが、挫けそうなときはそう思うようにつとめています。とっても精神論ですが・・・。そうでも思っていないとやりきれませんてw

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