僕個人は、「ちょっと奇抜」くらいのラインをオリジナリティがあるというのではないかなと思っています。
奇抜すぎるとニーズがなくなりますので……。
「ニーズのないオリジナリティ」はオリジナリティとは呼ばないんじゃないかなと。
塩梅的には「王道+α」くらいがちょうどいいのかな、と。
たとえば名探偵ネタなら「名探偵+美少女+ネコ耳」で「ネコ耳探偵○○」とかオリジナリティあるかなと。
「既存のアイデア+α」くらいにしておけば無難じゃないかなと思います。
うーん、オリジナリティって狙って出せるものじゃないと僕は思うんです。
ここについているレスや第四研究所のオリジナリティの項目でも、オリジナリティは狙って伸ばせる文章力なんかと違って、どちらかと言えば作者の意欲、思考、経験の副産物に過ぎないような記述が散見されますよね。
主さん自身も仰るように狙って100%オリジナルなんて恐らく作れないでしょう、
「だからしゃあないじゃないか、こうするしかない」という、一見ある種の開き直りのように見える意見もあります。
主さんはそこがいまいち腑に落ちないのかもしれませんが、僕はそういう意見に賛成の立場です。
創っていて偶然いい発想ができたとかアイディアが浮かんだというのはありますが、いつもそれに頼ってしまうのは不安定ですし、自分では斬新な発想だと思っていたら、リアリティなさすぎて噴飯ものみたいな扱いをされたり、先にやってる人がボロボロ出てきたりすることもあります。
かといって闇雲にあっちこっちの知識を集めても効率は悪いでしょう。
例えば、主さんはロボットアニメがお好きならその作品群について、過去から現代までの作品の数々、各シリーズの特徴、原作者や製作者の思い、放送された時代の受け止められ方など、どの程度『語る』ことができますでしょうか?
「ロボットアニメ」という同一のジャンルの作品をたくさん見てきて、押さえておくべき共通点やお約束事、あるいはジャンルの不満な点、不充分な点など、いくつも思い当たる部分はありますでしょうか?
ロボットアニメのにわかファンやよく知らない人に言い負かされない程度には持論を展開できますでしょうか。
もしただぼんやり数だけたくさん見てただけ、というのであれば、もう一歩、二歩と踏み込んだ鑑賞や調査をしてみてもいいのではと思います。
オリジナリティって、たまたまの思いつきや突拍子のない発想じゃなくて、そういうところから生まれてくるんじゃないか、というのが僕の考えです。
話題のパシフィック・リムは僕は未見ですが、監督さんは日本のロボットアニメに多大な影響を受け、深い敬愛を込めてあの作品を創ったそうです。
こないだのピクサー作品のシュガーラッシュにもクッパやザンギエフが登場するなど、日本のゲーム作品へのオマージュや引用がふんだんにあります。
一時期話題になった中国でクレヨンしんちゃんやドラえもんが丸パクりされて、本家を追い出している状況を肯定する人はいないでしょうが、オマージュの中に深い理解と愛を感じる作品ならばむしろ「さすが、よくわかってるねェ」などの好意的な反応が返ってきます。
創り手としてまず目指さなければいけないのは。どこかの分野でその領域に達することじゃないかと思います。
推理ものなら推理もの、恋愛なら恋愛、半沢直樹みたく銀行員なら銀行員、そしてロボットアニメならロボットアニメ。
そういった深い理解やこだわりを持つ人は、ことさらオリジナリティを強く意識せずとも、独創的な作品、意欲的な作品として評価されやすくなるのではないかと思います。
なぜなら、世間の大半の人は詳細に語れるほどロボットアニメについて知りませんからね。
周りがあまり知らないことに詳しい、これは作者としてとても大きい武器であり個性だと僕は考えます。
こんにちは、雷です。
オリジナリティがあるか否かを「客観的」に判断することはできない、と僕は考えています。
作り手も読み手も、オリジナリティの有無を「主観的」に判断するしかないからです。
たとえば、僕が昔このサイトに投稿したあるファンタジー小説の主人公は、飛空艇を使う届け屋、ひらたくいえば郵便宅配員を仕事にしていました。
僕は、飛空艇や届け屋を題材にしたファンタジーは、ありふれたものだと思っていましたが、読者のひとりが「独創的だ」「オリジナリティがある」と評価してくれました。
以前、投稿したもうひとつのファンタジー小説は「魔王と勇者がふたりで旅をする」というものでしたが、これも、それほど目新しい題材ではありません。
しかし、主人公である魔王に関わる設定を説明する場面で、「端的にいえば、魔王とは“呪い”だった」という表現を使ったためか、「斬新な設定だ」と評価されました。
こうした実体験にもとづいて、僕は「オリジナリティとは副産物である」と考えています。
強いて言えば、そのように開き直ったうえで作品に反映する「自分らしさ」こそが、オリジナリティの源泉なのだと思います。
例えばにわかファンとか興味ない人が「あんなんダサいだけやんか、何がいいの?」と言ってきたら、「何言ってんだ、こういう魅力がある」と詳細に語ることができ、相手を納得させられるでしょうか、という意味です。
「あ、こいつガチで詳しいわ」と感じたら大抵の人は一目置くようになりますが、ガチで詳しいか、詳しいふりをしているだけかは何となく相手にも伝わります。
兵器ヲタとして評判の宮崎駿監督は少年時代に軍事評論家と専門雑誌上で議論を戦わせたようですが、そんなレベルまで詳しくなれればすごいなと思いますね。
あと他の方が「職人」を引き合いに出して説明されていますが、例えば京都の創業ナン百年の老舗は後生大事にカビ臭い伝統的なアナログ手法を守ってきたから老舗なのだ、というわけではないようです。
先祖代々のやり方を継承はするけども、時勢に合わせて常に改良や革新を行っており、「古い看板にあぐらかいて潰れかかってるようなのは老舗と言わねえ、繁盛してこそ老舗」なんて哲学があります。
また明治維新で天皇陛下が東京に行ってしまい、京都が衰退の危機に瀕したとき、京都の職人はこぞってフランスなど西洋の最先端の機織り技術を輸入して産業の再興を図ったりもしたようです。
職人は守旧的で創造性がない、作家は革新的で創造性がある、それは果たして正しいと言えるでしょうか?
結局のところ、常に勉強して経験を積まないと周囲から評価される個性や独創性も生まれ得ないのでしょう。
くどいようですが、「自分は没個性だからオリジナリティで勝負しなければ」よりも、「自分が個性的になればオリジナリティも出てくる」と考えるべきかと思います。
僕も先日、先生から訊かれました。
「挫折の経験ってどれぐらいある?」
「これについてなら何時間でも語れる、ってことはある?」
後者はまだしも、前者はほとんど思い浮かばなかったんですよね。
その訊いてきた先生は「私は10代の頃に両親を亡くして、ひとりで生きなきゃいけなかった」と続けられたので、ああ、そりゃ僕なんか細々とした不満や失敗はあってもそんな挫折経験はないし、薄っぺらくて何もない人間なんだ、と意識せざるを得ませんでした。
で、大学も親の金で何となく入って部活やサークルでのほほんとやってきた没個性な自分と、若くして両親を亡くされ学費捻出や自活のためにやむなくとは言え全力で活動してきたパワフルなその方と、どっちの方が個性的で魅力的に見えるか、どちらの話を聞いてみたいかっていったら、そりゃ後者の方でしょう。
いくら話術や耳触りのいい言葉で取り繕ったって、実体験からの言葉の方が強いに決まってます。
ありえないでしょうが、もし学識も人生経験も充分、常に何十枚何百枚の論文や報告書を書き上げ自著も出版されているその方が、本気で勉強して思案と経験を重ねて小説を書きにきたら、個体値の違いすぎる僕なんか敵うわけがありません。
でももし僕がある分野では周囲の人も顔負けの知識や経験があれば少しは勝負できるかもしれません。
プロ志望というわけではありませんが、僕はそこに賭けたいなと考えております。
そんなある意味実体験からのレスでした。何度も失礼しました。
・始めに。
紙飛行機さんは、オリジナルではない=パクリだという見識のようですが、この二つはまったく別の問題だと思います。少なくとも、その二つを混同して考えるのは間違いです。
その考えはつまり、自分一人で一つの世界を造り、人物を考え、ストーリーを描くことを意味します。人間業ではありません、神業でしょう。
このことを前提にして、好き勝手に話を進めていきます。(かなり長くなります)
・さて。
この作品にはオリジナリティがある、と言われれば、それは確かに褒め言葉です。
けど逆に、まるであの作品を彷彿とさせるような、というのも確かな褒め言葉なんです。
どちらも光栄な感想で、ありがたい評価ですよね。
・もしも。
この世に本当にオリジナルのものがあるとしたら、それはあなた自身です。先人の知恵、つまり既存の作品に学び、取り入れながら、あなたが創作すること自体がすでに、完全無欠にオリジナルなんですよ。
ははっ、詭弁だが何か!? 大抵のラノベの言い回しは詭弁で溢れてるぜ!?
……ごほん。何か、言ってはいけないことを言ってしまった気がしますが。けど、何一つ資料を読まず、何一つ”参考”にせずに書いた作品など、売れるはずもなければ評価されるはずがない。
むしろオリジナルであればあるほど、万人受けしない作品になるのかもしれません。
・きっと。
世で評価されている作家の先生方なら、テンプレートなキャラクターを、テンプレートな世界観に当て込んでも、面白い作品を書いてくれます。つまりそれらは作品を構成する要素のひとつでしかなく、面白さこそが文章作品の真実であり、作者はそれのみを求めて執筆するべきでは?
ゲームのシナリオライターさんなどは、よほど大御所でないかぎり、用意された舞台の中で、用意されたキャラクターを、用意されたプロット通りに動かすだけです。オリジナルな作品とは呼べませんよね? でも、面白いゲームはたくさんあるわけで。
・例えば。
機動戦士ガンダムSEED。あれの前半部分は、初代の機動戦士ガンダムのストーリーを、かなり色濃く踏襲しています。
地球側の軍がガンダムを造り、それを宇宙側の軍が狙い、主人公たちは地球側の軍の本部を目指すけど、途中で砂漠に立ち寄る、主人公はそこでダンディなおじさまと出会って云々。
既視感が半端ではありません。他の細々した部分でも類似点は多い。
いやいや馬鹿か? どっちもガンダムシリーズなんだし、オマージュと呼ぶべきだろ? と思うかもしれませんが、それは同時にマンネリと呼ばれる危険性も孕んでいます。
けどSEEDは高い評価を受けています。なぜなら面白いから。もちろん賛否両論あるわけですが。
・そもそも。
オリジナリティがないという評価を受けたのは、ただ独創性がないからという理由ではないと思います。おそらくは面白くなくて、その独創性のなさが目立ってしまったからではないでしょうか。(すいません、かなり暴言ですが……)
・以前。
私も紙飛行機さんとまったく同じことで悩んだことがあります。好きなラノベとか、漫画とかゲームとかの設定の一部一部を摘まんで、自分の作品に当て込んでいたわけです。
オリジナリティを求めて、既存の作品と被らないように被らないように被らないようにと、散々頭を悩ませました。パンクしそうでした。でもどうしてもそこから抜け出せないまま、公募の締め切りが迫り、ヤケクソになってそのまま送りました。
ちなみにこの作品、高校の頃に書いた処女作を大幅に改稿したものでした。
見事に落ちました、二次審査で。初めて公募に送ったのだし、一次通過で充分だと思っていましたし、ショックは少なかったです。そもそも評価シート欲しかっただけだしっ。(言い訳です、悔しさでいっぱいでした)ですが返ってきた評価シートには、世界観が魅力的だ、中世の世界観と主人公の設定を上手くかけ合わせている、と書かれていました。
……何というか、私は何に頭を悩ませていたのか、分からなくなりましたよ。
・では。
紙飛行機さんにとり、私の意見がいくらかの”参考”にならんことを願います。乱文長文、失礼しました。
(・さて、の項目だけで充分だった気もしますが……)
オリジナルという言葉が一人歩きして「オリジナル=独創的」だと思われがちですが、実はオリジナルは元ネタ、原作という意味があります。
私自身、オリジナリティとはその人が書いたことない物だと思っています。…正直、設定や世界観、キャラクター像、物語展開って出尽くしたと言われています。
例えば、遊戯王、バトルスピリッツ、ヴァンガードは同じカードバトルで、主人公がカードバトルを通して成長する話です。プリキュアはセーラームーンと似て女の子が変身して戦う話です。
ホイッスルやエリアの騎士、キャプテン翼は同じサッカーの話です。
どれも題材は似ていますが、パクリと言われて放送中止に追い込まれた物語はありますか?
ツンデレの女の子が出したら、「〇〇にしかツンデレは使っちゃダメだ!」と非難を浴びますか?
今のラノベは様々な創作物の物語や世界観、キャラクター像をごちゃ混ぜにしているだけです。
今人気のSAOの最初なんて.hackと類似点(バーチャル世界をモチーフにしている所とか)がありますが、それで盗作だ!謝れ!となっていますか?
時代物をモチーフにしたアニメや漫画は、同じ新撰組や歴史上の人物を使った時代劇のパクりですか?
ロボット物の話も大体が「戦争」に発展したりしますよね?
マクロスは歌ったりロボで戦いますが、サクラ大戦も歌劇団で歌ったりして、ロボで戦いますよね。似ていますが、舞台も違いますし、女の子が闘う訳でもないし、目的も違います。
完全オリジナルは作れません。今はどれだけ既視感を与える世界観やキャラクター像や展開を読者に悟られない様にするのか。或いは悟られても先を読みたいと思わせるのかだと思います!
オリジナリティとは「自分の表現で如何に人が魅せられるのか」だと。
この表現で人を魅せられる様にするのが難しいから、独創性を追い求めてしまうのでは?
※盗作は書いた文章の表現が完全一致して、設定や世界観も何の捻りもなしに一致し、さらに知っててわざと真似ようとした事かと思いますし、盗作を推奨している訳ではありません。
既存作品を見ずに既存作品と丸かぶりは無いと思います。
オリジナリティとは難しい話に行き当たりましたね。
オリジナリティは、なんというか、求めるほどに無くなっていき、捨てるほどに寄ってくる性質のものだと私は思っています。
私も一時期、オリジナリティの落とし穴にはまったことがあるんです。
その時に、最初の方は誰にも真似のできない究極とかを考えたものです。
中二病とか高二病とか、そういうのをこじらせていたわけですね。
そうやって設定を突拍子のないものとして作るほどに、いざ書き始めると、話が進むにつれて書けなくなっていくんです。
実は、突き詰め過ぎた設定にしてしまって、私自身が扱えなくなっていたんですよ。
そうして、諦めて自分の日記に近い、オリジナリティを投げ捨てたものを書いてみました。
すると、没個性的な小説になるはずが、強烈な個性の光を出し始めたんです。
後で人に聞いてわかったことですが、文章っていうのは自分の頭の中身を描き出すもののようですね。
「オリジナリティを出したい」という雑念が消えた結果、純粋に自分の頭の中身が出て、それは自分にしか書けないわけですよ。
これ以上のオリジナリティ、個性もないわけです。
ビジネス文章みたいに判子を押すようにコピペするわけじゃないので、小説には必ず個性が滲み出ます。
そこにオリジナリティを入れようとするということは、逆に個性に異分子を混ぜて、個性を見えにくくするような、そんな所業なのではないでしょうか。
偉そうな事言ってすみません。
何かの参考になれば幸いです。
作品の個性と作者の個性がごっちゃになってそうです。
作者の個性を出したいのなら、いっそ好きに書けばいいです。
作品の個性を出したいのなら、頭を捻って捻って捻りまくることです。
両方出すためには、頭を捻りまくってさらに好きに書くことです。
設定が独特と言われたようですが、読者のレベルが不明ではどうにもなりません。
中学生や高校生くらいだと、ありきたりなものであっても独特に感じることがあります。その作品が気に入ればなおさらです。
ですので一部の意見ならば、自分の作品を気に入ってくれたことに感謝しつつ、意見自体は切り捨てましょう。
逆に多数から寄せられた意見ならば、それは作者自身の個性が良い方向に解釈されたということです。自分の長所がどこであるか、読者の意見と自作の分析から探し、より伸ばしていくといいでしょう。
で、どこからオリジナリティがあるといえるか。
これは、世に出ている作品作家との比較で決まります。
つまり、同ジャンル内の現行作品と被らないアイディアを使っているか、現行作家より優れた個性を持っていることが、オリジナリティの条件です。
私なりの見解を置いていきます。
オリジナリティは作者の「味」みたいなモノだと思います。
現状ですと設定だの物語の展開だのはもう煮詰まって飽和状態だと思います。
いくら頭を捻ってアイデアを絞っても大同小異から抜け出すのは至難の業です。
そこにオリジナリティを見出すならば、物語に作者の思考が見えるかどうかだと思うのです。
書き方や表現方法など、同じ内容でも人によって文章が違います。
それは作者の「思考」がそれぞれ違うからです。
冒頭で言った「味」とは「個人の思考」の事です。
逆に言えばオリジナリティが無いというのは誰かのマネや、人の受け売りなどをそのまま使った状態ではないでしょうか。
人の作品や知識から影響を受けるのは当たり前の事です、しかし得た知識や影響には必ず自分の考えを上乗せしなければいけません。
究極的には作者名が解らない状態で作品を読んでもらって「紙飛行機さんの作品かな?」と思わす事が出来たなら最高のオリジナリティが出せてる状態だと思います。
ただしオリジナリティを出す事に傾倒しすぎると、面白さが抜ける恐れがあります。
小説は娯楽の一種ですので、面白さを第一に考えていって、「自分なりの面白さ」を書ければ自然とオリジナリティはついてくるんじゃないか。
私はそう考えております。
では、失礼しました。
ニーズは『オタクの中高生が求めていそうなもの』と考えれば分かりやすいかなと思いました。
自分の求めているものではなくて、読む人が求めているもの。
露骨なところでいうと、美少女であったり萌えであったり。あるいは燃えであったり。
『老人』は中高生がほしいと思っているものから遠いので「ニーズから離れている」と言えるのではないかなと。
「中高生が何を求めているか?」をもっと詳しく知るためには、今の中高生に純粋な興味を持たないといけないと思います。
恋愛一つとっても『10代の求めるもの』と『20代~30代の求めるもの』って違いますし。
(個人的には『安易な肉欲(それでいてモロではないライン)を求めている』と思っています)
その辺りにぐぐっと視線を寄せていくと自然と感覚的に理解できるようになるのではないかなーと思いました。
勉強あるのみですな、と。僕自身強い戒めがあります(苦笑)
昔は僕もオリジナリティについて考えてた時期もありますが、今はまったくといっていいほど考えていないです。
最終的に判断するのは読者であり、自分ではないと思ったからです。最大限の努力はするつもりですが。自分には見えない部分だと思います。もしも作品にオリジナリティがないと、NOを何度もつきつけられれば、才能がないと思いやめるか。さらに続けるかのどちらかだと思います。
同じ設定でも。
ライト層では設定が面白い!となるかもしれませんが。
ヘビー層では、それでこの設定を使ってあなたは何がしたいの?となってきます。
僕は主にヘビー層に受け入れられるように、書いています。
ライト層は何を読んでも斬新に思い、おそらく面白いと感じるからです。ヘビー層が面白いといえば、大抵の作品はライト層にも面白いと言ってもらえるのではないかと思ってます。
昔は感じませんでしたが。
長編の作品は長いです。長いゆえに作者様の性格が文章からにじみでてきます。
技術的な部分とは別に。どういう気持ちで、どういうふうに書かれた小説が一番面白いと思っているのかなど。
読んでると、想像ですけど。日常生活やその方の考え方までもが、たまに垣間見えたりしてきます。
これがオリジナリティではないかと僕は思うのですが。
おそらくどこかで見たであろう、数ある設定や文体を自分の中で選び。作品のどこへ入れるのか。
選択肢は無限に近いほどあります。基本はたしかにありますが、凡手を輝かせる一手も山のように存在し。
それはおそらく、自分の書きたい作品の中が最も滲みでてくるのでは、と思います。
プロはまた違うと思いますが。アマは特にその傾向が強いのではと思ってます。
一次、二次、三次落ちの作品があったとして、やはり徐々にですがレベルが上がってるように思います。
僕が思うに、二次と三次の差ではオリジナリティはあまり必要にないように思います。
それは技術的な問題であったり、読者への配慮であったり。
まず、読んだ人を感動させる作品があり。その次にオリジナリティが必要になってくるのではと思ってます。
そして読んだ人を感動させる作品を作れるのであれば、電撃大賞でもないかぎり受賞するのではと思います。
オリジナリティはいらないように聞こえますが、作り手であれば、感動させる作品の難しさは十分伝わるはずです。
私はオリジナリティのある話なんて書けないので、読者さんに読んで頂けるような文章と作品作りに励んでいます。
オリジナリティのあるものなんてセンスの有る人に任せておけばいいんです。
ものを生み出すというのは、素直さと頑固さの両立が必用です。
私はこれを両輪に例えて話しをするのですが、自分自身にも、他者とも、この両輪どちらか一方の車輪に偏りが出ると真っ直ぐに進めません。
動力も色々ありますが、解りやすく『やる気』としましょう。
で、ですね。
紙飛行機さんに感じたのはブレーキです。
両輪のバランスにも極端な偏りを感じませんし、動力となるやる気もあるのだろうと思います。
けれど、そこにブレーキがかかっていると感じたのです。
ブレーキの正体をひと言で表す言葉がありませんので、以下、ちょっと長くなります。
私は執筆をしませんので、比較的通事のよさそうなところから、誰でも使ったことがある写真機で例え話させて頂きます。
デジカメ・携帯・Ipad、なんでも良いのですが、これらを就学前の幼児に貸し与えると非常に面白い写真を撮影をします。
どういう写真かというと、興味があるものをひたすら追いかけ、その視点で見たままの撮影です。
これは別に芸術的な解釈云々といった気どった話しではなく、「思わず笑みが浮かぶような」という程度の意味です。
技術的には言わずもがな。
ピントは合っていないし、全体に尾をひいたようなブレもある。逆立ちしたのかというほど傾いでいたり、何を撮ったのか悩むのも普通です。
ただ、「これが何かは解らずとも、とにかく興味を引いたのだろう」ということだけはバシバシ伝わってきます。
そして小学校の高学年に差し掛かる頃、多くの場合こういった傾向は失われていきます。
代わりに、それなりに見栄えのする写真を撮り始めます。
『上手に撮ろう』『下手なのは人に見せられない』
おおよそこういった感情が強く出てくる時期です。
これが大人になると、もっと顕著に見受けられ、平均点狙いとでも申しましょうか、写真撮影も記録の色合いが濃くなります。
さて。
写真も当然プロがいます。
(日常生活でいくらでも目にしているはずですが、具体的にピンとこなかったら本屋にいったついでにでもナショナルジオグラフィックを読んでみてください。超がつく一流ばかりです)
カメラマンといってもジャンルは色々ですが、ただの記録では飯を食えません。
当然ですね。
報道写真であろうと、コマーシャルフォトであろうと、共通することのひとつが『伝えること』です。
写真家が被写体から感じたことや魅力を、視る人に伝えることが要求されます。(少なくとも二流以上は)
プロであっても、プロを目指している人であっても、言い方は相応しくありませんが『上手に撮る』というのは出来て当然です。
同じようにプロである以上『下手なのは見せられない』のも、当たり前のことです。
そしてこれらの事は身につけられます。
技術と総称されることは、自学自習でも、専修としても身につけられます。
絶対に身につけないと話にならない技術というのは、実際そんなにありません。二年も真面目に学校に通えば誰でも覚えます。
けれども幼児期には誰でも出来たはずの、『撮影者が興味をひいたこと、魅力や、その時の感情を伝える』
これは、学校に通えば必ずできるというものではなく、ましてや誰にでもできるとは言い難いことです。
「技術は身につけたが、その技術が邪魔をして感覚質が出てこず、次に破るべき壁が見えない。何をやったらよいか解らず踏み出すこともできない」
抽象的な概念ですので私には言葉にできませんが、箱にパッケージングされちゃったような状態、とでもいいましょうか。
これが原因でブレーキになっている場合は、一度覚えた技術をご破算にして、幼児の如き気持ちでバカに徹する方が良いです。
やっていることが無駄かどうかなんて、一度箱を破って出てみないとわかりませんし、そうやったところで覚えた技術は決して消えて無くなりません。
撮影者が興味をひいたこと・撮影者が伝えたいこと。
これらは「私はこう感じました」と、人前にさらけ出すことと同義です。
ましてや、"感じた事が誰でも着目するような部分"は、"誰でも撮影できる"という事です。
他者とは違うであろう、かつ他者が好ましく感じるであろう部分、そこをさらけ出して初めて意味を持ちます。
感じた事の深い部分、突出した部分、こういった他者とは違うであろう自分は、人に隠したくなるようなところで、深層心理に手が届くようなところです。
はっきり言いますが、これをさらけ出すのは普通、恥ずかしく感じることです。
(実際、他人はそんなに自分に興味を持ってないのにも関わらず)
これが「恥ずかしくない」といえるのは、人前にさらけ出すことに慣れたときです。(ま、元より露出狂という場合もあるでしょうが)
ちょっと心配な可能性は、『恥ずかしくないと言ってるのは、実はさらけ出していないだけ』というケースでしょうか。
恥ずかしいという心の中に潜む感情に気づいていない、というのが実際は一番多いと思います。
要するに、意識せずブレーキをかけている状態です。
これが原因ならば、人目にさらし、恥ずかしいと感じなくなるほど慣れてしまうことが一番です。
慣れというのは不思議なもので、恥ずかしいという感情も、また慣れて気にならなくなります。
どんどん人の目に作品を晒すべきではないでしょうか。
写真を例えにしましたが、例え話ついでに。
オリジナリティそのものは恋愛と似通っています。
これは小説のキャラクターだとお考え下さっても、同じだと思います。
異性に好いてもらうというのは、"どこにでもいる誰か"ではダメで、特定個人として認識してもらうことがスタート地点です。
そこから更に、個人というオリジナリティが相手にとって好ましいものでなければ好かれません。
オリジナリティは相手に気づいてもらうもので、「どうだ」とばかりに投げつけるものじゃありません。
相手の気持ちや好みを尊重しながら、自分との距離を手探りで測っていくものです。
背伸びすることもあるでしょうし、特別なことをしたくなるときもあるはずです。
それでも相手に本当の自分を伝えるには、等身大であることが大切で、そうでなければ蜜月を保つことはできません。
長々と書きましたが、紙飛行機さんにとってのオリジナリティの答えが見つかったとしても、数年経てばまた違う答えが見つかったりするものです。
一生答えが出ないし、一生答えを求め続ける。
それでよいと思いますよ。
ではでは、執筆ガンバって下さい。
応援いたします。