布施隆三さんの質問 2014年08月05日
ご無沙汰しております。布施です。
現在に至るも凝りもせず青春ノワールを構想し続けているのですが、一つ問題にぶち当たりまして。
僕は東北を出たことがほとんどありません。冗談抜きで、中学と高校の修学旅行、この二回ぐらいしか、東北の外の風景が記憶にありません。
なので東北を舞台に書こうと思っているのですが、ジャンルがジャンルなので、三年が経過したとはいえ、先の震災の傷も癒えぬ今、被災地を舞台に裏切りと愛憎の物語を描くことに、抵抗があります。
正直に言いまして、バッシングが怖いという気持ちも多分にあります。そんなことを恐れていては作家など務まらないのは百も承知ですが、バッシングのニュアンスが違うので、それが心配で。
一応、架空都市を構想する準備もすでに整っているのですが、リアリティの意味で、どうしても実在の街にこだわりがありまして。
読み飛ばしてもらってもけっこうですが、愚痴を言いますと、今だからこそ、被災地の若者を描くことに意義があると思っていますし、若者の悪辣さを描くのではなく、その中にあるイノセンスを描くことを主眼に据えているのですが、読者がそこまで冷静に受け取ってくれるのか、そこが懸念されます。
読者を侮ることはやってはいけませんし、僕の作品はラノベではない(一般向けの相談もOKと管理者様から許可は得ています)のですが、ネットの掲示板やレビューサイトなどを見ると、短絡的な受け取り方をしたり、小説を即物的娯楽と見なしている読者も少なくないと感じられます。もちろん、これには語弊があります。非難の意図はありません。
実際、被災地を舞台に暴力的で閉塞的な物語を描くことって、NGでしょうか。
●答え●
ゴジラやガンダムが受け入れられてきた歴史を見ると、一定数は理解を示してくれる人々もいるんじゃないでしょうか。他にも社会派と呼ばれるような作品は多々ありますし。ただ、それに対して怒りを感じてきた人達もいるのが実際の所なのでしょう。
ただそれらの製作者たちには、批判の矛先をかわすテクニックも同時に存在している気がします。具体的な地名を出さない、残酷で生々しすぎるシーンを書かない、テーマの深い部分で社会的道徳と対立しない(今夏のゴジラは上手くやってました)などなど。そこらへんのかわし方を研究してみてはどうでしょう。
とにかく、どんな事をやっても叩く人はいるものです。あなたがそれにも負けず書きたいならば、書けばいいと思いますよ。
正直、放射能について書くことはNGかもしれません。少なくとも相当気を使う必要があると思います。
他については書いてもいいと思います。現実の地名を使おうと小説=嘘です。嘘には嘘の、嘘にしかできない社会的役割があると思います。
震災前後の東北を知りもしないよそ者がただの舞台装置かのようにあの災害を扱うのはマズいと思いますけども、地元の方や被災者の方と触れ合った経験があるのでしたら、現地の感情を汲んだ書き方ができるのではないでしょうか。
恐らくちゃかしたりコケにするような扱いや描き方はなさらないと思うのですが、世間の反応が恐いような場面などは具体的に出てくるのでしょうか?
しかし、いずれにしても読者は自分(作者)の伝えたいことを「正確に受け取る」とは考えない方がいいと思います。
いわゆる「偏向報道」やSNSのいさかいでよくあるように、文脈上は問題ない表現を切り取ってきて、拡大解釈や極端な意見にすり替えて攻撃してくる人は現にいます。
で、作者自身の価値観やメッセージがクドすぎると説教臭くなって作品としてダメになるのは言わずもがなですので、あまり神経質になるより割り切りも必要だと思います。
かんたんに割り切れるネタじゃないし、配慮や情報収集が必要なのはもちろん承知ですが。
もし仮に人気作品になって多くの衆目に晒されれば、いわれのない批判や中傷もあるでしょうし、中には言い返せないような鋭い指摘もあるかと思います。
被災地にボランティアに行った経験を高校生相手に語った人が、書いてもらった感想の中に「どうせ就活のネタ作りだろw」とあるのを見つけたようです。
そういう冷たい受け止め方をする人だっていますし、どのみち作者は読み手を選べません。
無数の人の生命や生活がぶち壊された大惨事だけに、「語らぬが吉」の面がどうしてもあるのでしょうけど……
最後は覚悟と知識(情報)量にかかってくるのではないでしょうか。
未だに向き合うことも扱うことも出来ないテーマの一つですね。
例えば架空の地域で、震災を連想させる描写を避け、「ただ主人公達が只管理不尽な困難に耐えている状況」という方向に持って行くのは批判をかわす一つの手法としてありうるかと。
「大きな悲しみに立ち向かう人」の姿はいつの時代も美しいと思います。
こんばんは。バッシングを受けたのは、美味しんぼの原作者で雁屋哲でしたね。
彼は福島の原発問題を描いて批判を受けましたが、それは漫画の内容があたかも真実であるかのように表現したからです。
バッシングが怖いのであれば、フィクションであることを強調したほうがよろしいでしょう。
でもそれだと実在する地名を使う理由が薄れてしまう懸念があるのですけどね。
そこは痛し痒しですね。
ところで、なぜ被災地を暴力的で閉塞的に描きたいと思ったのでしょうか?
ひょっとすると、さいとうたかをの「サバイバル」に影響されたのでしょうか?
その点がわかりにくいので、あるいは的外れなことを言っているのかもしれませんが、故郷を悪いイメージで描くのは、そこに縁がある者としては良い感情を持てませんよね。
ただNGという程でもないというところです。
その方向はいいですね。
逆にダメなのは、被災地を連想させた上で『放射能』『原発』などのデリケートなテーマに触れる事でしょう。更にそれで風評被害になってしまうような事を書いてしまったら、ハンパなく叩かれて駄作の烙印を押されてしまう。もし書くなら専門家顔負けの知識を身につけた上で、覚悟をもってやらなくては。
障害者を見れば手を貸してやるべきでしょうか、老人を見れば席を譲るべきでしょうか。
手を貸すことも配慮ですし、貸してやらないことも或いは一個の独立した人間として見とめる証左でもあります。
何かしらの腫れ物に敢えて触れることが批判される理由は、このような一方の観方からでは断罪できない現代の価値観に由るものでしょう。配慮しても配慮せずとも批判されるのであれば、当然のように引き篭もりが増えたわけです。
長い間メディアを通して私が得た印象は、"腫れ物"を抱えた彼ら自身が、実際には「手を貸されたくない」という思いを抱いていることが多かった、という事です。普通の人間として扱って欲しいとでもいいますか、これ自体配慮一辺倒が必ずしも善意と感謝に溢れたものではないことを示しているのではないかと思います。
質問者の「今だからこそ」という言葉に如何なる含意があるか、私には理解の及ばぬことでありますが、『校庭を仮設住宅で占拠されながらも、その隅で楽しく遊ぶ小学生たち』のように、被災で傷つこうとも本質的なところは健常な町々と変わりないのだということを伝えるのは、上記の例に漏れることは無いのではないでしょうか。
どこかで読みましたが、東北の震災をテーマにしている小説の投稿は多いようです。
逆にいえば,それだけありふれているということですから、応募作とするのであれば、光るものが必要なのかと思います。
私個人の意見でいえば、ライトノベル作家といえども文芸人ですからバッシングを恐れて、自分の表現を狭めてしまうことはよくないことだと思います。