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  4. 王道はダメなのでしょうか?公開日:2005/11

王道はダメなのでしょうか?

 深村さんの質問 2005年11月

 どうも、深村です。
 時に、私の作品は、頂く評価があまりかんばしくありません。
 その主な理由として、「ありきたり」「面白いが、それまで」というものがあげられます。
 私は、いわゆる「王道」的な作品が好きなのですが、
(例:ガラスの仮面、ジャッキ―・チェンの一連の作品、シスプリ、音楽で言えばガンマ・レイ)
 やはりこれではだめなのでしょうか?
 私の考える「王道」とは、「分かっていても、体が反応してしまう!!」
 という、「ツボ」を押さえて、「ツボ」から下手にはみ出さない作品のことだと思います。
 (ツボからはみ出す作品=最後にヒロインが死ぬ、など、カタルシスを昇華できないで終わってしまう作品)
 王道、とは、万人が好きだから王道と言う、という話を聞いたことがあります。
 それに、「24」のような大どんでん返し!と謳う作品でも、王道的カタルシスは一貫しています(バウアーの活躍など)。
 私の作品でも、「王道」のカタルシスを出しているつもりなのですが……
 どうすれば、もっと皆さんに楽しんで頂けるのでしょうか?
 教えていただければ、幸いです。

●答え●2005/11

 意外性があって、かつ読者に受け入れられる作品を作るためには、良い意味で読者を裏切る必要があります。

 王道とは数多くの創作者によって踏襲され研鑚され効率化した物語の黄金パターンです。
 ある意味では完成されたスタイルを指す言葉ですね。
 「こうなったら、こうなる」という掟。例えば、
 『強敵に破れた主人公が、新必殺技を編み出してリベンジする』
 『さらなる強敵が出現した際、かつて倒したライバルが主人公の救援に駆けつける』
 『不思議な力を手に入れてしまった主人公が、謎の組織に狙われる美少女のために戦う』
 『血の繋がっていない妹は、なぜかお兄ちゃんのことが大好き』などです(笑)。
 これらは安心して使える物語のパターンであり、読者に確実にウケることができます。 

 しかし、王道には『退屈』『ありきたり』というデメリットも潜んでいます。
 いわば行き慣れた通学路・通勤路みたいなものです。
 いつも通っている道を使えば、安全にゴールにたどり着けることができます。
 ただ、そこにはなんら新しい発見がなく、おや? という驚きが無いのです。
 そこで、ある程度意識して王道から外れる必要があります。

 行き慣れた道にある、入ったことのない路地へ足を踏み入れる感覚です。
 そこには新しい風景が広がっており、新鮮な驚きに満ちています。

 しかし、ここで気を付けねばならないのが、意外性を出そうとするあまり読者を悪い意味で裏切らないようにすることです。
 例えば主人公が途中で殺され、まったく違う人物が主人公の座に付くという物語があったら、「いままでの主人公はなんだったんだ!?」と抗議したくなるでしょう。
 単に王道から逸脱しただけでは「うわぁ、こんなのイヤだ!」と拒否反応が起る場合があるのです。 

 では良い意味で読者を裏切るというのはどういことかというと、例えば、電撃文庫に『DADDYFACE』(2000年3月1日刊行)という作品があります。

 これは大学生の主人公・草刈鷲士の元に、十二歳の美少女が転がり込んでくるという王道的なストーリーです。
 でも、この女の子が実は主人公が8歳の時に作った実の娘なのです。
 親子だから一緒に住むのは当たり前という展開に、度肝を抜かれました。 

 これは王道を踏襲しつつ、微妙に王道を外した見事な設定です。

 良い意味で読者を裏切るには、このように王道に沿いながら、そこに捻りを加えることがコツです。
 もちろん実行する際には、読者にどう思われるのか? よく考えてから行う必要があります。 

 深村さんは、おそらく王道を意識しすぎだと思うので、少し王道から外れてみてください。
 その際は、くれぐれも読者を悪い意味で裏切らないように注意しましょうね。

東琴傭兵さんの意見2005/11

 ええと、東琴傭兵です。どーも。
 自分がそういう”王道”である作品に個性をいれるため工夫する手段を言うと……

 設定とストーリーが両方とも王道であってはならない。

 ということです。この二つがダブってしまうと、それは単なる似た話になってしまいます。
 例えば勇者が魔王を倒す話があるとします。王道ですよね?
 勿論これだけの話なら相当の文章能力がなければ、ボロクソに言われるでしょう。
 どうすればいいか? 勇者やその仲間、もしくは魔王の設定を変えればいい。

 と、まぁこれは自分がギャグを書くときのやり方なんですが。(笑)
 まぁ、シリアスでも大して変わりませんね。
 王道という強力な武器があっても、それは誰でも知ってる武器です。
 普通に使ってしまえば当たらない、
 だから工夫しなければいけないんじゃないですかね?
 工夫しているからこそ、その武器の威力は目立つわけです。

 ……とまぁ偉そうなこと言ってみましたが、意味不明ですね(笑)
 お役に立てそうになくてすいません、東琴傭兵でした。

DoZunさんの意見2005/11

 どうも。DoZunという者です。

 王道とは、確かに誰もが惹き付けられる物です。
 王道と呼ばれるからには、そう呼ばれるだけの魅力がある訳ですから。

 ですが、それは同時に見覚えのある作品が、氾濫する危険性も孕んでいるということを忘れてはいけません。
 一応作品を読ませてはいただきましたが、どちらの作品も「王道ではあるが、それ以上にありきたり」な作品だという印象を受けました。
 東琴傭兵さんも仰っていますが、設定とストーリー両方が王道であってはいけません。
 例えば、設定を一工夫する。ラストで大どんでん返しが待っている。
 予想外のキャラが予想外の働きをする。

 そういった、「見覚えのある作品」に対して構えている読者の期待を、良い意味で裏切ることが出来て初めて、王道としての魅力が発揮されるのではないでしょうか。
 深村さんの作品は、予想通りの展開で終わってしまったり、何処かで見たことがある設定で終始してしまっている気がします。

 王道を行くことは、極端な話、誰でも出来てしまいますし、ストーリーや設定を考えることは容易くなります。
 ですから、より設定を工夫する必要があり、ストーリーに変化を付ける必要があるのではないでしょうか。

 偉そうなことを言ってしまって、すみません。
 雑文・乱文ではありますが、少しでもお役に立てれば幸いです。
 でわでわ。

ほうきんさんの意見2005/11

 こんにちわ。ほうきんです。

 私は『王道』絶対必要派です。
 『王道』とはすなわち『基本』。
 プロスポーツ選手と同じく、基本身につけずして発展はないと思いますので。
 ですから私も深村さんと同じく、王道的作品が大好きです。
 逆に基本だけの選手は、華々しい一流にはなれないのかもしれませんけど。

 手前味噌で恐縮ですが、私は「金太郎の打ち上げ花火」という短編で、皆様に高い評価をいただきました。
 義理人情にあつい主人公が自分を犠牲にして他人を救う、という王道的ストーリー。
 登場人物を人間ではなく金魚にしたことで、皆さんに楽しんでいただけたようです。 

 すでに東琴傭兵さんが述べられておられます通り、ストーリーか設定、どちらか一方だけ王道を採用するのが、意外性を生み出す早道でしょう。

 私は深村さんの作品を読んで大ウケしたタチです。
 しかし評価は普通とさせていただきました。
 以下、私だったらどうするかを考えてみました。

 ”妹の愛”を”妹の復讐”に逆転させてみます。
 ・妹は兄を愛するのでなく、復讐しにやってきた
 ・プロの殺人術を身に付け、やたらと強い妹
 ・ボロボロになりながらも、幸運により何とか撃退
 ・兄の強さに惚れてしまう妹
 ・可愛い妹ができて喜ぶ兄
 ・まだ自分のような妹が百人いると告げられ、驚愕する兄
 ・和洋今昔、様々な格闘術を身に付けた妹たちが大挙襲来

 まあ、これが本当に面白いかどうかは、他者の評価を聞いてみないとわからないことではあります。
 なんだか個人的意見を押し付けだだけのようで恐縮ですが、何かの参考になれば幸いです。

オジンさんの意見2005/11

 こんにちは、深村さん。オジンと申します。

 「王道ではだめなのか」とお悩みのようですので、深村さんの作品を読ませていただきました。
 二作品とも掌編ですね。掌編には掌編の書き方があります。

 私見では、掌編の命はオチにあると思っています。
 オチのない掌編は、かなり良く作られていても評価できません。

 この基準(私家版ですが)から見ると深村さんの作品は二つともオチらしいオチががありません。
 これが低い評価になったと思います。

 深村さんの作品「思い出の中の想い」は、ただのラブ・ストーリーですね。
 おもしろさを感じさせるには、少なくとも70枚前後の短編くらいの分量は必要かと思いました。
 幼馴染が仲が良いだけでは、「あーそう」で終わるでしょう。
 私は恋愛物が嫌いであまり読まないのですが、読むとすれば、ヒーローとヒロインにはいろいろと苦難にあって欲しいし、それを切り抜ける過程で両者の良いところが発揮されて、両方ともより強く、美しくなって結ばれるという「王道」的展開を期待します。
 そういう立場からすると、酷な言い方ですが、深村さんの作品は王道にも到達していないと思いました。

 もう1つの作品「SISTER OF HUNDRED」は、タイトル通りに妹が百人いるというアイデアだけの作品ですね。
 こういう作品は、分量より見せ方に工夫が必要かと思います。
 最後の百人をどういう状況で出すかが、肝心だと思います。
 兄ちゃんのどういう反応を引き出したいかで見せ方は変わってくるでしょう。
 恐怖のどん底に突き落としたいか、諦めの境地に立たせるか、はたまた歓喜に打ち震えさせるか。
 どうも、こういう計算が作品には見られないように思いました。
 妹百人をたいした飾りもつけずに出してしまった為、「あー、百人もいるのか」というなんでもない反応に終わってしまった感があります。
 この大きな原因は、兄ちゃんが完全に観客の立場になってしまったのが大きいかと思いました。

 私の感想はこんなところです。私は王道ではだめとは思いません。
 小説には実にたくさんの要素があります。
 設定、ストーリー、キャラクター、言葉の選択、文章、描写の対象と内容、会話、題材、テーマ、エトセトラです。 

 王道といわれるのはそのうち、設定・ストーリー・キャラに関してあるくらいです。
 この三つが同じでも、題材・描写・文章等の違いで出来上がる作品は、大きく肌触りが異なってきます。

 王道が良くないのではなく、あなたの作品の肌触りがよくないのだと考えたほうが良いかと思います。
 きつい言い方で失礼しました。では。

余韻さんの意見2005/11

 はじめまして、余韻と申します。
 私はよくミステリを読むのですが、結構王道が多いです。
 トリックとか、登場人物の刑事とか被害者とか。
 それでも「読んでよかった」と思える小説はあるんです。

 ★登場人物が魅力的
 ★会話にユーモアがあってテンポが良い
 ★文体が心地良い などです。

 最後の文体は、ある意味とても難しいですね。
 生まれ持ったセンスが必要かもしれません。

 オジン様も書かれていますが、掌編の場合オチがあって当たり前です。
 読後「だから何?」とならないためにも、工夫が必要だと思います。

みつきさんの意見2005/11

 深村さん、はじめまして。
 王道についてですが、これはぜんぜんダメではないでしょう。
 私も王道的ストーリーでカタルシスの感じられるものは大好きですよ。

 ちなみに、カタルシスの定義は次の通りです。
(1)悲劇を見ることによって日頃鬱積(うつせき)している情緒を解放し,精神を浄化すること。
(2)精神分析で,抑圧された感情や体験を言葉や行動として外部に表出して,
  心の緊張を解消すること。
 ――goo辞書より――

 (2)のほうを小説などに置き換えると、エピソードを連ねてストーリーに抑圧を作り出し、ラストでハッピーエンド展開に持っていくことで読者に開放感を味わわせる、といった感じになるでしょうか。

 つまり、王道的ストーリーでカタルシスを感じられるものというのは、読者が悲劇に浸ってわーわー泣けて、すっきりできるセカチュー的なものか、主人公たちが波乱万丈のエピソードを次々とくぐり抜けていく、その中でどんな窮地に陥っても、結局はハッピーエンドに至るという『お約束もの』って感じでしょうか。

 ということを踏まえたうえで、深村さんの投稿作品を読ませていただきましたが、二作品のどちらにも、ハラハラドキドキ、主人公はこの先どうなるの?
 というような手に汗握る感覚もなければ、内容にどっぷり浸って、ジーンとできるような要素も特になかったと思います。

 というか、掌編で『王道』をやるのは難しいのではないでしょうか。
 掌編はどちらかというと『トリック命』、『オチ命』なものだと思うのですが……。

雨杜 潤さんの意見2005/11

 王道はダメだと思いませんよ。
 竜が出たり、勇者がいたり、天使が出てきたり……
 王道ファンタジー大好き派です(王道恋愛はダメなんですが/ぉぃ;)
 でも、やっぱり他の皆さんがおっしゃってるように王道には王道の良さと見せ方があるんですよね。 

 仮にハリポタ的魔法学園物やヘルシング的吸血鬼物など、王道中の王道物を書くとしましょう。
 読者が簡単に予想できる展開でも、おもしろいと思いますか?
 普通に魔法学校に入って、勉強して、ハロウィンやクリスマスがあって、一年が終わって……。

 『魔法』って要素が入ってるだけで、普通の学校生活(外国風にしろ)と何も変わらないことを主人公がやっていてもつまらないでしょう。

 ライバルいたり、先生が嫌味だったり、トロールに襲われたり、賢者の石見つけたり。
 結局、無事に学校を卒業することになっていても、何かしら山がないとおもしろくくないでしょう?
 山場も、常人がすぐに思いつくような内容ではダメだと思います。
『えぇ?! こ、こんなことまでやっちゃうの!?』
『マジかよ! 危ないって絶対! 子供は大人しく寝てろってばぁ!』
 みたいな展開があるから面白いと思うんです。

 展開が王道のハッピーエンドであっても、途中経過まで王道(ありきたり)では、全く意味が無いと思います。
 世界が王道なら、王道だからこそ『え?』と思うような設定。
 『竜が闊歩している世界……でも、彼らは臆病な生き物で』とか(ちょっとナンセンスか;)
 どこかで、何かを捻るだけで物語の組み立てや展開がガラリとありきたりではなくなります。
 (この辺は、力量ですが)

虎助さんの意見2005/11

 こんにちは。いつもライトノベル作法研究所で、色々とお勉強させていただいている虎助です。

 結論から言いますと、私は王道はダメじゃないと思います!!

 私は王道的なストーリーやキャラクターが大好きです。
 やっぱり、王道ならではの読んでいて安心できる点が好きです。
 それと同時に、少し矛盾しますが……
 「王道=ありきたり・つまらない」といった面も、確実にあると思います。

 そこで、私が見つけた王道を使いながらも、全く新しいストーリーやキャラクターを作り出した作品を紹介したいと思います。
 (ちなみに、ライトノベルではなくて漫画です)

 それは赤松 健先生の『魔法先生ネギま! 』 (2003年7月17日刊行)という作品です。

 赤松先生は、過去に大ヒットした『ラブひな』なども書いている、有名な漫画家さんですので、この方法を全くの素人が使ってうまく行くかはわかりませんが……

 この作品は、主人公のネギがイギリスにある魔法学校を主席で卒業した後に、立派な魔法使いになる修行の為に、日本で先生をする事になるという始まり方をします。
 ちなみにこの作品は「一人の主人公と大勢の美少女」という、よくあるハーレム漫画です。
 これはさまに王道ですね。
 しかし、この作品の凄い所は【登場する美少女の数】と【主人公の年齢】です。
 まず、この手の作品では十中八九、主人公はモテない男子中学生か高校生です。
 さらに言えば、運動神経も学力もないダメ男です(苦笑)

 しかし、この作品の主人公ネギは、顔は美少年、学力は魔法学校を主席で卒業、ついでに言うと、運動神経も年齢の割りには凄いです。
 それにこの手の作品に登場する美少女は、せいぜい5人か6人程度ですが……
 この作品では、主人公が学校の教師と言設定を活かして、31人=クラス1つ分という贅沢な作品です(少し多過ぎますが、インパクトは相当な物です)
 この段階でこの作品はありきたりなハーレム作品ではないと言っていいでしょう。

 それともう一つ、主人公のネギはイギリスの魔法学校を卒業する所から、物語が始まりますが……
 魔法学校に入学する以前に両親を亡くしています。
 それと、物語の途中で主人公のネギがまだ幼い頃に、悪魔たちに、自分の住んでいた街を襲われるというエピソードがあります。
 その悪魔に主人公のネギが殺されかけた時、何処からとも無く現れた謎の人物が彼を助けます。
 これでもかってぐらいにカッコイイ登場をする謎の人物の正体は、既に死んだはずのネギの実の父親なのです。

 このエピソードによってネギは、伝説の英雄(だったはず)の父親を自身の目標とするのです。
 田舎から出て来た少年が偉大なる父親を目標に頑張る……
 これまた、RPGでよくあるパターンですね(苦笑)
 しかし、ここがこの作品が他のハーレム漫画と決定的に違っている点ですね。
 ネギは、まだ10歳の少年なので、憧れの父親の影を追いかけるという所が、より一層盛り上がるのです。
 それにネギが、ハーレム系の主人公のわりに幼いというのは、他のハーレム系作品との大きな違い=この作品のオリジナリティです。

 これらのことから、私は王道的なストーリーやキャラクターを使った物語に、全く別の王道を取り入れることにより、新感覚の作品を作り出せるのではないかと考えました。

 王道的なストーリーやキャラクターをそのまま使うのではなく、もう一工夫、(複数の王道を混ぜたり、ストーリーとは全く別の王道的なキャラクターを登場させる)すると、王道的なおもしろささを残しつつも、オリジナリティが出せると思います。

峰しずくさんの意見2005/11

 王道、大変よろしいかと思います。
 しかし、王道を踏襲した作品が「似たり寄ったり」かというと、決してそうではありませんよね。
 例えば、スポーツでも喧嘩でも、あるいは、ありとあらゆる勝負物において、ひとつの王道があります。

(1)ライバル出現
(2)負ける または 負けないまでも、快勝できない
(3)トレーニングをする
(4)ライバルに勝つ
(5)ライバルとの友情が芽生える
(6)ライバルが修練を積み、また自分が負ける
 といった繰り返しや、さらに
(1)新たな強敵が現れる
(2)新たな強敵は卑劣なやつ
(3)かつてのライバル(今は友情も芽生えている)と協調して、卑劣なヤツを倒す
(4)卑劣なヤツが改心して、真のライバルとなる。友情が芽生える
 なんてのもありますよね。

 こういったありきたりの展開の中で、どうしてたくさんの作品が実際に成立しているのか。
 それは、「常に自分より強いやつが出現する」というパターンが同じなだけであって、物語が同じなわけではないからです。
 「巨人の星」と「ひかるの碁」と「ガラスの仮面」を読めばお分かりいただけるのではないかと……。

鏡さんの意見2005/11

 「王道」である事にそれほど問題はないと思います。
 問題はその王道ストーリーをどのように読ませるか、だと思いますので。

 小説の例としてはやや不適当かもしれませんが、アメリカのプロレスのWWEを例とします。
 設定されているストーリーは、はっきりいってベタです。
 試合も展開を見ていればどっちが勝つか大体わかります。
 日本の団体と違って「ヤラセだよ」と公言しているWWEですが、面白い試合もあればつまらない試合もあるのです。
 同じようにヤラセ&ベタなストーリーなのに何が違うのでしょうか。

 そこには表現力の違いがあります。

 アメリカで優れたレスラーを言い表す時に「箒とでも試合が出来る」という表現があります。
 いかに必死さを演出するか、いかに凄みを演出するか。
 血糊や衝撃音などあらゆる手段を使い、彼らは試合を演出します。
 それを極限まで突き詰めた試合があれば、私はそれを「面白い」と思います。
 逆にストーリーが面白くとも、そこに表現力がなければ台無しです。

 話を小説に戻しますと、一番大切なのは、王道ストーリーを描く上での主人公の内面描写や葛藤の表現だと思います。
 王道作品は全て同じ文章で同じ作品でしょうか?
 違いますよね。
 表現者が異なる以上、同じ王道的展開でも表現の仕方は千差万別です。
 酷いことをいってしまうとですね、

 今回の場合、ストーリーを王道から外れたものにしたところで、作品としての劇的な向上は見込めないと思います。
 良い作品と悪い作品の差は、そうした展開がどうこうの違いではないからです。
 いかに文章表現で読者を引き込むか、これが面白さだと思います。

 再び例示ですが、オペラやクラシック音楽の上演を思い浮かべて下さい。
 王道作品を上演してもそれだけでは評価は下せません。
 その王道作品をいかにして表現するかが重要になります。
 逆に、原作に下手に手を加えてしまった事で元の作品の良さを殺してしまい、何がしたいのかよくわからない上演もありますよね。

 目指すべきは王道路線からの脱却ではなく、思わず「これぞ王道!」と読者を唸らせるような表現力を身につける事だと思います。
 ……まぁ、王道以外もかけるようになれば作品の幅が広がるので、それはそれでオススメしたいところではあるんですけどね。

太郎兵衛さんの意見2014/09/28

 好きな漫画『黒鷺死体宅配便』(2002年11月) は世界観や舞台設定、ルールシステムを王道的なストーリーの第一話で紹介しています。

 他のエピソードはその第一話をコピー+アレンジしてパターン展開していくだけです。
 それでも面白くて売れています。

 例えば、『笑ゥせぇるすまん』も王道的ストーリーの繰り返しだけです。
 でも面白くて売れました。

 逆に言うなら変わったストーリーは一時的にヒットしても飽きられるのが早いと思います。
 たくさんカップラーメンが新作発表されても30年以上売れ続けている勝ち組は日清カップヌードルです。

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