ライトノベル作法研究所
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  4. 実はラノベの表現の幅は一般文芸より狭い?公開日:2015/01/07

実はライトノベルの表現の幅は一般文芸より狭い?2

うっぴーさんの意見2015/01/07

 こんにちは。
 ラノベはあまり高度な知識、教養は必要としない、オタク的な最低限のお約束さえ理解していれば楽しめる、という小説です。逆に言えば、大人向けの知識、教養は盛り込めず、漫画・アニメ的なお約束にまったく理解がないと、楽しめません。 

 最近、田中芳樹のSF小説『銀河英雄伝説』を読んでいます。
 1982年に刊行されたものですが、現在になるまで売れ続けているロングセラーで1500万部の売上を記録しています。
 銀河英雄伝説は、SF的な科学考証はあまり考慮されておらず、中世の国盗り群像劇を宇宙を舞台に展開したような話です。ラノベの先祖的な位置にある小説で、アニメにもなっています。

 これを現在のラノベと比較すると、10代の少年少女が読むには内容が高度です。たぶん10代に読んでも味わえない部分が多いと思います。
 清廉な独裁国家と腐敗した民主国家のどちらがマシか? といった難しいテーマや、政治抗争、マキャベリズム、経済学、皮肉の効いたブラックユーモアの数々など、楽しむにはそれなりの教養を必要とします。
 現代のラノベとの最大の違いは、いくら読んでも美少女が登場しないことです。二人の主人公を支えるヒロインはいますが、かわいらしさのあまりない大人の女性です(特にヒルダさん)。

 知的興奮を味わうための様々な要素を盛り込めるのは利点ですが、子供には難しくて読めないという欠点でもあります。

 ラノベはSF小説とは違って、10代の少年が読解力を要せずにとことん楽しめるものです。そのため、彼らが理解できない、楽しめない要素は排除されてしまうのです。

兵藤晴佳さんの意見2015/01/09

 こんにちは。
 趣味の問題なのでどうこういうことはできないかもしれませんが、ヒルダって、ラノベ的にはそんなに魅力のない人なのかなあ、とも思います。
 銀河帝国の若き英雄ラインハルトに媚びる弱小貴族たちの中で、「自分たちがいなければ、大貴族には勝てない」という態度をとる度胸と機智。
 かつて、これにゾクっときた私が早熟だったのかもしれませんが、これが読者に通じないとなると……間口狭いなあ、と言う気もします。
 遠くなりにけり、80年代。

うっぴーさんの意見2015/01/11

 兵藤晴佳さん、こんにちは。
 銀河英雄伝説、私も読んでいます。
 ヒルダは、人間としては魅力的だと思うのですが、萌えキャラとしてはおそらく失格かと思います。
 彼女は誇り高くて弱い部分をまったく見せない、男性の保護欲を刺激しないキャラなのです。

 ライトノベルのヒロインは、強さだけでなく、弱さも見せるので、そのギャップで「俺が守ってやらないと」という気持ちに主人公(読者)をさせます。

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の桐乃などはこの良い例で、いつもは兄に命令していて強気なのに、自分では解決できないトラブルを抱えて弱気になったところを兄(主人公)に助けられます。 

 ヒルダがもし弱気な態度を取ったら、臣下に才気と誇りを求めるラインハルトは、彼女を軽蔑するでしょう。
 なので、彼女は女性的な弱さを見せることができず、新銀河帝国の他の勇将たちと同等の強さを示し続ける、女性なのに中身は男性なキャラになってしまっているのです。

 強い女性キャラがいても良いのですが、彼女がときどき見せる弱さがないと、萌えキャラではなく、他の男性キャラとほとんど同じ頼れる仲間キャラになってしまうのです。

萩鵜あきさんの意見2015/01/11

 研究所の方に記載されております文章についてのうっぴーさんへの指摘です。

>>彼女は誇り高くて弱い部分をまったく見せない、男性の保護欲を刺激しないキャラなのです。

 1980年に発売された「めぞん一刻」でヒロインは、いわゆる男性の保護欲を刺激しないキャラです。
 1980年の萌えトレンドがそういうキャラだったというだけで、現代の価値観とは違います。当時の萌えは現代の守ってあげたいキャラ(これももう古い)ではなく、守らなくても自立している女性です。「守ってもらいたくなる女性」的萌えといえるでしょう。一周回って現代ではその流れが流行ってきております。
 ちなみにラムちゃんもそうですね。ラムちゃんに喩えるとわかりやすいでしょう。彼女は文句なく当時NO1の萌えキャラでした。

 萌えは移り変わっております。昔はお歯黒が許されていたけれど現代ではあり得ないように。(それを萌えというのかは謎ですが)
 それに対して、現代の価値観で判断して歴史を考察するのは危険かと思います。

水すましさんの返信(質問者)2015/01/12

 皆さん、たくさんのご意見をありがとうございます。
 ある程度、出揃ったようなので、間が開いてしまいましたが、意見を聞いて感じたこと等をお返ししようと思います。
印象に強いものから書いていきますので、投稿順でない変則的な並びになりますが、ご容赦ください。

<萩鵜あきさん><Smanさん><うっぴーさん>
>  ライトノベルは主に十代に向けたお話なので、その範囲に受けるものしか書けないわけですね。

 確かに個人差は大きいにしても、平均すれば、中高生は大人に比べると、どうしても知識、経験、読解力などは劣るでしょう。そういう読者を相手にするとなると、どうしても描けない部分もあるでしょうね。
 今回、質問して、一番強く感じたことは、ライトノベルは中高生向けに書かれているということを、あまり深く考えていなかったことです。どうも私の違和感の最大の原因は「大人も読むもの」というのを意識しすぎたことかな、とも思います。

<emewさん>
>  それは、「ラノベ」のみが持つと想定される「固有の表現」を探し当てることが、仮説や議論の場で探し当てるものではなく、結局は一つ残らずつぶさに調べ上げ、これを一般文芸と比較し検証するという実際の調査に基づく必要があるからではないでしょうか。この膨大な作業抜きにして、2番を肯定したり否定することはできません。

 「固有の表現」の解釈に違いがあるようです。私は「過去のその表現を用いた一般文芸が一作品もない」ほど厳密なものは想定していません。一般文芸で使われた例があっても、作品数がごく少数であったり、使っているのが最近多いライトノベル的作品であれば、例外として無視して良いと思いますし、そのような表現は「ライトノベル固有の表現」と言えると思います。
 しかし、例に挙げた「魔法・超能力・天使・悪魔・しゃべる動物など、非現実的な現象・存在を登場させられる」については、今、思い付くだけでも

「件」内田百閒
「田紳有楽」藤枝静男
「神様」川上弘美
「ささらさや」加納朋子
「でかい月だな」水森サトリ
「アムリタ」吉本ばなな

 など。乱読しているわけでもない私でもとっさにこれだけ挙げられるのだから、一般文芸でも膨大な数の作品で使われていると思われます。そうであれば、これは小説全般に使われている表現というしかないと思います。

 ですがSmanさんが以下のように言っているように、特定の表現のみに注目してもあまり意味がないのかもしれません。「ライトノベル的」というのも文体、作風など作品全体の雰囲気で語られているようですし。

<Smanさん>
> そしてその主観の話で答えると、ライトノベルとして書いているから成立する表現なのに、表現だけ抜き取って一般文芸でも可能と言われても、そりゃ同じ日本語なんだから可能だろうよ、としか答えられないような。

 ライトノベルと一般文芸との違いでということでゆくと、飛車丸さんの意見について。

<飛車丸さん>
> また、両者を比較した場合、もっとも顕著に違いが出るのが、現実感との距離です。
> より創造的、あるいは想像的、ないし妄想的なのがライトノベルであると考えれば、現実に縛られない=表現が自由である、とも言えますね。

 一般文芸において作者や読者の願望が予定調和に満たされる小説は「願望充足小説」と呼ばれ、否定的に捉えられることが多いです。
 思うに一般文芸は栄養バランスまで含めて評価される「料理」で、ライトノベルは口に含んでいる時に感じる味だけで評価される「お菓子」のようなものでしょうか。結局のところ、分野として評価基準が違い、何で評価するのか読者の価値観が違うのだから、比較することじたい無理があるかもしれません。

<たこやきさん>
> 似たような作品の多さから、いつ頃からか[1]が制約のようになってしまったのではないでしょうか。ですが一般もラノベでも売れる作品が書けるようにさえなってしまえば、それは他作家さんの制約であり、自分には適用されないと思っています。

 たしかに、売れっ子になると、編集者より立場が上になって、何でも好きにできるようになるようですね。これはライトノベルも一般文芸も共通のようです。
 ところで、ライトノベルは、若い作家が多いことなどから、他の小説に比べ、編集者に対する作家の立場が弱いとも言われています。うまく立ち回らないと、完全に我を殺して、編集者の指示通りの作品ばかりを書かされることになることもあるとか。

  編集者の介入が分かりやすいのは、新人賞受賞作の応募時と発売時のタイトルの違いで、応募時に「ウーナマイズ・ジェネレーター」だったのが「モテモテな僕は世界まで救っちゃうんだぜ(泣)」に。「アテレコ」が「声優のたまごが、俺の彼女だったようです。~ぱんつの中身は大事です!~」になっていたのは、笑えない笑い話として結構有名です。
 一般文芸でも、昔、平岡公威という青年の文章が雑誌に掲載される時、編集者に勝手にペンネームを付けられてしまった、ということがありました。その編集者が三島駅で見た富士山が雪を積もらせてきれいだったことから付けたペンネームが「三島由紀夫」です。
 作家と編集者のパワーバランスは難しいところですね。

<にょるにるさん>
> ヒロインをロングヘアにするのは、制約に感じるのでしょうか。それで物語が壊れることはないと思うし、壊れるくらいならそのを注文しないと思います。
<Smanさん>
> そのようなテンプレがあるかもしれませんが、研究され尽くしてる一般文芸の例で言うとミステリや推理にだって「燻製ニシンの虚偽」とか「チェーホフの銃」とかいろいろルールがありますよ。

 何をもって制約か、が少し問題になったようですが、私は「取捨選択の権利が作者にない」「必ずしも物語の質を上げるものではない」が基準かな、と考えています。そういう意味ではSmanさんの挙げた「燻製ニシンの虚偽」や「チェーホフの銃」は、面白いストーリーを作る上でのテクニックであって、制約とは違うように感じます。
 まあ、「映像で見せられない」を小説全般の制約とする人もいるくらいなので、この辺りは人それぞれとしか言いようがないかもしれません。

 「メインヒロインはロングヘアであること」についてですが、これは萌えキャラに書きやすいというのと、表紙を派手にしやすいという理由からとされています。ちなみに、あるライトノベル作家によると、最初にショートカットを希望すると、編集者からたいてい言われることで、希望を通すにはそれなりの駆け引きが必要とのことでした。それによって物語の完成度が向上するとも言えず、マーケティング上の理由から作品に作者の希望しない変更を求められるのは、やはり制約ではないかと思います。
 ただ、どれだけ萌えられるか、が大きな評価基準になっていることを考えると、テンプレな萌え要素を入れることも完成度を上げているという解釈もできそうですが。

 今回、皆さんの意見を聞くことで、何となく自分の中にあった違和感が和らいだように思います。
 まず、ライトノベルは中高生向けであるために、中高生に受けることに特化しているものであることを再認識しました。また、ライトノベルにテンプレがあることも多くの方が指摘していることであり、これを様式美のようなものと捉えるか、同じようなのばかりと感じるかが、その人のライトノベルに対する印象を決めるのかもしれません。
 たくさんのご意見、ありがとうございました。

Smanさんの意見2015/01/12

>マーケティング上の理由から作品に作者の希望しない変更を求められるのは、やはり制約ではないかと思います。
ちょ、待てぃ。

 言いたいことは確かにわかるのだけど、水すましさんの返信内容をかいつまんでまとめると、これって「編集者と作家の戦い」みたいな話でしかないんじゃないのかな。

 最初の投稿内容では「作家ができるライトノベル表現とは」という意図だと思ったのだけども。返信内容も前半はともかく後半はちょっと論点が変わってる気がします。
 作品の話ではなく、商品の話をされると、内容が全く違ってくるのではないでしょうか。

 無理矢理タイトルを変更させられたとか、ヒロインの造形を変更させられたとか、そんなものは作家と担当編集者との相性や、出版社ないし編集部の方針じゃ?
 確かに10代のライトノベル層を考えると一般文芸と比べ「売れやすい」ための制約が強く担当編集者はこの制約を押してくると思いますが、逆に「ミリオンセラーは期待してないんで、好きなようにやってみましょうか」という担当や、「先生は既に固定ファンがいるので、好きに書いても構いませんよ。固定ファンの分の売上は見込めますから」と言われる古参の作家の場合、水すましさんが提示した制約なんて全部ぶっ飛ぶんじゃないでしょうか。

 ……なにより、「商品」としての話をされると、
 担当編集者がいないライトノベル、例えば電子書籍での個人販売や同人活動、またはWebでの公開などなど、ようするに「商品」ではない「作品」としての趣味レベルのライトノベルには一切制約がないということになってしまう。
 まあ、そいつは創作活動なんだから制約なんてあるほうがおかしいんだけどさ。
 でもその作品には少なからず「ライトノベルらしさ」ってのがあるわけだから、制約というか決まり事ってのはあるのでしょう。

 ――だからと言って、それを守る必要は微塵もない。
 それが「ライトノベル」じゃないでしょうか。
 なにしろライトノベルってヤツは文学のクセに日本語のルールさえ守らないで良しとなる文章もありますからね。

水すましさんの意見(質問者)2015/01/31

 ご意見ありがとうございます。
 どうも、思っていた以上に、前提が食い違っていたようです。
 私は、プロとして出版社のレーベルから発表する場合を想定していたのですが。ネットが普及して事情は変わってきましたが、今のところ一般に「プロ作家」とは「出版社から小説を発表している人」であると思います。

 たしかに
「デビューできなくてもいい」
「出版されなくてもいい」
「売れなくてもいい」
 というのであれば、好きなように書けるでしょうが、そんな前提で話をしても、正直あまり意味がないように思います。
 表現の自由や報道の自由などについて話す時にも「商業ベースに乗せられる」「大手メディアから発信できる」ということが前提とされるのが普通です。
 「テレビ・新聞・ラジオは政府の許可なく報道できず規制でがんじがらめだが、ネットで個人発信するのは自由だから、この国には報道の自由がある」みたいな意見には、違和感を覚える人が多いと思います。

 また、前の返信でも書きましたが、ここで話題としているのは、一例でも例外があれば否定される、というような厳密なものではなく、あくまで「作家の大部分に適用される」もしくは「業界全体の雰囲気としての」制約の話をしているつもりでした。
 そのため、売れっ子作家だけに特権的に認められている自由さも、彼らは非常に数少ない、言うなれば「特権階級」なわけですので、ライトノベル業界や一般文芸業界などの「社会全体」について論じる場合は除外した方が良いと思います。ただ、こう言うとどこまでが例外か、のような問題が出てきますが……。

 私が子どもの頃にあったひっかけ問題に「青酸カリは食べられるか」というものがありました。
 猛毒なので普通は「食べられない」となりますが、子ども流の答えは
「食べられる(ただし、そのあと死ぬ)」
 もしくは
「胃酸の出ない病気の人なら食べられる(青酸カリは胃酸と反応しないと毒性が発揮されないため)」
 というものでした。

 これと同じで
「表現できる(ただし、そういう作品は、新人賞では相手にされずデビューできないし、プロが書いても出版させてもらえないし、売れない)」
「作家の99%には許されないが、残り1%は特別待遇で表現することが許されている」
 というのは、要するに「表現できない」ということになると思います。

 作家と編集者との戦いの話になっているじゃないか、との指摘ですが、これは一般的にプロとされている作家が作品を発表する場合、『受ける制約≒編集者の要望・指示』だと思われるため、前回のような話題の運びとなりました。
 例えば、主に漫画について「人気がない作品は打ち切られる」と言われています。このことから、読者にも作家に影響を与える力がある、とも言えますが、実際には打ち切りを決定しているのは編集者です。

 先ほど話題になった「売れっ子作家だけに認められた特権」にしても、その裏づけは
「この作品にケチをつけても良いよ。ただし、その場合は、よその出版社に持ち込んで出版させてもらうけどね」
 というもので「別の編集者なら出版させてくれる」というのが大きな力になっています。

 なんだかとりとめのない感じに長くなってしまいましたが、結論としては、私は「出版する上での制約」を話題にしていたのに対して、Smanさんは「ジャンルの性質としての制約」を論じていたようです。

 ただ、Smanさんの論点で話をしようとすると「ライトノベルとは何か」「小説とは何か」のような、典型的などつぼにはまる問題にぶつかってしまうので、今回、スレッドの上に上げてしまいましたが、あまりこれ以上深入りするのはやめておいた方が良い気がします。

たまきさんの意見2015/02/02

 「キャラやシチュエーションの視覚的制約」と「文章表現の幅」は全く別の要素ではないですか?
 ロングヘア娘を出そうが、派手なシーンを挿入しようが、それはあくまでキャラの造形や物語の場面設定の話であって、それをどう表現・解釈するかを考えるのが作家の仕事だと思うのですが。

 ……というツッコミは置いておいて、私としては、その考えには同意しかねます。

 まず第一に、それはライトノベルだからライトノベルに即したルールを出されただけで、一般文芸でもそれぞれのジャンルに即した縛りを課せられるはずです。
 その縛りを如実に重荷として感じるというのは、結局面白い作品に仕上がってないからテンプレートをなぞった方がマシというだけに過ぎず、ライトノベルの表現の幅ではなく書き手の表現の幅が狭いということに他なりません。

 プロの作家というのは、「物書きとしての本懐と報酬ために、作品を出版し世に広め多くの人に読んでもらえる権利」を有していると同時に「プロとして出版社へ貢献するために、作品を出版し世に広め多くの人に読んでもらう義務」を負っています。
 方向性の違いや程度の大小はあれど、制約の中で面白い作品・売れる作品を作っていくことに関して、ライトノベルと一般文芸にどれほどの差があると言うのでしょうか。

 ライトノベルはヴィジュアルも考慮に入れなくてはならないとはいえ、作家の仕事ははあくまで文章書き、物語を作ることのはずです。よほどストーリーの根幹に関わるというのでない限り、些細な視覚的情報の制約程度で、その物語の本質的な面白さを損なわせたり、文章表現の幅を狭めることになるとは考えられません。設定はあくまで設定に過ぎません。

 そもそもの話ですが、ライトノベルというジャンルは物語の種類から分類されたものではありません。
 出版社が「ライトノベル」と名付けて出版したものがライトノベルというだけです。
 ライトノベル誕生以前は概念がなかったのだから、昔から一般文芸に「ライトノベル風」の作品があるのは当然の事ですし、ライトノベル誕生以後も、ライトノベルが物語のジャンルでない以上、幽霊だの魔法だの学生生活における恋愛だのSFだのを扱った一般文芸が存在するのも当然のことです。

 それでもあえてライトノベルをジャンルとして見るのであれば、その幽霊だの魔法だの学園生活における恋愛だのSFだのの要素を「思春期の少年少女向けに研磨し、洗練し、フィーチャーし、カスタマイズし、特化したもの」と言えます。
 特化するというのは言いかえれば他の要素を相対的に薄めることです。そう言う意味では、むしろある程度の縛りを設定しているからこそ一般文芸とは異なるライトノベル独特の面白さがあると言えるでしょう。
 いずれにせよ、それらの設定が物語の面白さや、文章表現の幅を損ねる要因になるというのは、考えられません。

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