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北崎陽一郎さん 著作 | トップへ戻る | |
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ヒロちゃんは大人びてるね、とよく親戚のおばさんから言われた。
確かに、そう自分でも思っている。世間一般から見れば僕は中学二年生という子供だけど、同年代の人の中では、かなり物事を深く見通せる人間だと思っている。 自分のことを客観視できるようになったのはいつからだろう。僕は小学五年生の頃から、大人用の挿絵のない小説を読むようになった。大体、どの小説でも自分のことは客観的に見ているから、そのせいで僕も、自分のことを第三者の視点から見る癖がついたのかもしれない。 客観的に見た、自分のことを述べてみる。小柄。男子の中では背が低い。運動はからっきし。女の子みたいな顔(これは言われて気づいたのだが)。これといって特徴も無い、極々普通の人間。こんなところか。だけど、それで自分が嫌いだということはない。これは生まれつきなので仕方ないことだし、あがいて変わるわけでもない。 交友関係は狭い。別に僕が皆から仲間はずれにされているわけではなく、これ以上広げる必要もないと思ったからだ。仲の良い友人は主に、中学二年になってクラスが一緒になって、本の趣味が一致して意気投合した男子生徒が一人。その友達で、これまた本好きが一人。――あとは、小さい頃から家が近くて仲が良い女の子が一人。大体、これくらいか。 僕のことを述べるのなら、こんなところ。 とりあえず、この中で一番重要なのは、僕の友達の女の子のことだ。 ある日、彼女が変なことを言いだした。それは、ある日の放課後、帰り道のことだった。 「ヒロくん。私ね、魔法が使えるようになったんだ」 絶句。 僕は彼女の正気を疑って、慌てて顔を見た。 「……前々からおかしいなとは思ってたけど、とうとう逝くところまで逝ったか、奈糸」 ちなみに彼女の名前は鞠内奈糸と書いて、まりうちないと、と読む。変わった名前だった。 「む、ひどいなー。そんな言い草はないんじゃない?」 彼女は可愛らしく頬を膨らませて、僕の顔を下から覗き込んだ。後ろで左右に二つ結った髪が揺れる。ツインテール、というのだろうか、そのせいで彼女の童顔が更に引き立っている。目鼻立ちが整っているので、意外ともてるらしいが。 「じゃあ、馬鹿」 僕は一言で切って捨てる。 「馬鹿じゃないやいー」 彼女は言って、僕をぽかぽかと叩いた。僕は適当にやり過ごす。 彼女とはもう十年くらいの付き合いになる。これはいわゆる腐れ縁というやつなのだろう。別に僕が望んだわけでもなく、彼女と僕は一緒にいる。彼女も多分、僕といることを望んだわけではないだろう。 そんなことは言っても、長年近くにいれば、お互いの性格や癖がよく分かってくる。 彼女は基本的に、人当たりがいい性格をしている。誰にでも優しいし、明るい性格で常に笑顔を絶やさない――のだが、僕と一緒にいるときは別の顔を見せて、よくからかわれたりする。昔の僕の失敗を笑ったり、ヒロくんは表情が硬いよもっと笑ったほうがいいよと、頬をつねったりする。どうやらこちらが本当の彼女らしい。以前聞いたところによると、僕とは長年の付き合いだから変に気を回す必要はないのだという。まあでも基本的に彼女は僕にも優しくしてくれるので、一緒にいて嫌ではない。 そんな彼女が、変なことを言い出した。 「最近私の家に来た親戚がね、魔法使いなんだって。私、その人の魔法見て感動しちゃって、それでその人に弟子入りすることにしたんだ。今私は見習いの魔法使い」 すごいでしょ、と奈糸は胸を張る。 僕は肩をすくめた。 「じゃあ百歩譲ってそうだとしよう。奈糸、僕に魔法を見せてくれ」 う、と彼女は言葉に詰まって、それからゆっくりと首を振った。 「む、無理だよ。さっき見習いって言ったじゃん。まだマントの着方とか杖の振り方とか、基本的なことしか教わってないの」 僕はもう一度肩をすくめる。 「で、でも本当なんだから! 本当に、近いうちに魔法使えるようになって、ヒロくん驚かすんだから!」 「はいはい」 僕は適当に流す。彼女が冗談を言うことはあまりないのだけど、まあ彼女もこういった技術を身に付けたということなのだろう。まだまだだけど。 「……で、ね、ヒロくん」 少し奈糸は俯いて、続けた。 「親戚の人が住んでるのはね、遠いところなんだ」 彼女は上目遣いに僕を見て、指をもじもじさせながら、その県の名前を言った。確かに、ここからはかなり遠かった。 「私、その人に筋が良いって言われたの。それで、本格的に魔法使いになりたいなら、その人のところで修行しないか、って」 ああ、つまりこういうことか。 要するに彼女は引越しをするのだろう。多分言うとおり、何かの都合でその県に。別れを切り出すから、それらしい理由を絡めて僕に言っているのだ。それにしては変な理由だが。 「というか、奈糸の親は? こっちに残るの?」 奈糸は頷く。 「うん。行くのは私だけ。お父さんもお母さんも、ちゃんと許してくれたよ」 仮に魔法云々を置いておくにしても、かなり寛大な親だと思う。奈糸はまだ中二なのに、普通自分の手元から手放すだろうか。だがしかし、奈糸の両親は元々そうだった。僕が前に会って話したときも、実に大らかな夫婦だった。――もしくは、その親戚を信用している、ともとれるが。 「そう。いってらっしゃい。それで、出発はいつ? どれくらい向こうに行ってるの? ずっと?」 少し奈糸は声を落として、言った。 「三年。出発は、再来週の――明後日」 三年、か。随分と長い。とすると、僕はそのとき高校二年なわけだ。 それから、再来週は―― 「頑張ってな」 「うん、ありがとう」 彼女は寂しそうに笑んだ。 ――再来週の明後日、つまり十六日後は、僕の誕生日だった。 自分のことを客観視できるということは、自分の恥ずかしい感情も自覚しているということだ。自覚できずに否定しているのなら、それは客観視の偽物だ。 家に帰るたび、僕は思う。 誰もいない、マンションの一室。部屋は暗く、リビングのテーブルには今日の夕食の準備がしてある。今日はトンカツだった。食器にラップがかけられていて、ご丁寧にレンジで温めて食べてくださいという書置き。 僕はため息をついて、自分の部屋に行って制服を着替える。 僕の両親は共働きで、毎日帰りが遅かった。物心つく前も、ついてからもずっとそうだったので、僕は家族の団欒というものを経験した覚えがあまりない。ただ一応は愛されているらしく、色々と気にかけてくれているようだ。 ――だけど、どんなに気を使ってくれたって、奥底にある感情は拭いきれない。 別に僕は、両親がいなければ死ぬ、というほど両親に依存していない。というか死んだって少し泣いたら元気になるだろう。 だけど。 ――多分、寂しいんだと、思う。 毎夜枕を濡らすほど寂しいわけでもない。それは何と言うか、冷たい木枯らしのような感じ。別に生きていけないわけではないけど、僕の心を冷たくする風。それほど重くないのだけど、軽くもない、この気持ち。 というより、人の温かみが欲しいのかもしれない。いや、違うか。自分で思っていて恥ずかしくなるような言葉だけれど――愛が、欲しいのだろう。 誰かにずっと僕のことを見てもらいたくて、 だけどたまには放っておいて欲しい。 慰めるときには慰めてくれて、 一人にしてくれるときは一人にしてくれる。 上手く言えないけれど、そんな感じの、想い。矛盾しているけど、僕はそう思っている。 僕は深く、ため息をつく。 別に、寂しさはまぎらわすことが出来る。奈糸にすがればいい。奈糸はこのマンションの目と鼻の先にある一軒家に住んでいるから、いつだって訪ねることはできる。だけど、それは多分迷惑だ。彼女にとって僕はずっと一緒に話していたいほど大きな存在ではないだろうし、僕もこんな自分の感情で奈糸に迷惑をかけたくはなかった。 多分、このままで生きていくしか、ないのだろう。 きっと、今年の僕の誕生日にも両親は仕事で、誕生日プレゼントは一切れのケーキと現金になるだろう。 寂しいんだろうな、と。 僕は思う。 一週間経った。奈糸が出発する日まで、あと一週間。一緒にいるうちに、彼女の表情や言動から嘘を言っているわけではなさそうだと感じたので、どうも本当に行くらしい。――だからといって、魔法云々とかを認めたわけじゃないけど。 彼女は時折あさっての方向を見て、ぼーっと立ち止まる。僕が話しかけると、慌ててといった感じで笑んで、やけに明るい話題を切り出す。これは普段の彼女だったら、考えられない所業だ。だから、やっぱりどこかに行ってしまうのだろう。彼女の言うとおり、某県に。――彼女もこちらの友達と離れるのは寂しいのだろう。 だけど彼女は、ただ寂しがっているだけでもないようだった。僕の顔をじっと見て、嬉しそうに笑んだりする。何か、よからぬことでも考えているような目だった。 「……何か企んでるの?」 「べっつにー」 僕が聞くと、どうとっても信じられないような悪戯な笑みを浮かべて、彼女は否定する。 「何か嬉しそうだな」 そう聞くと、彼女は嬉しそうに頷いた。 「毎日魔法習っててね、楽しいよー」 また魔法か。――まあ、たまにはそんな冗談に乗じてやるのもいいかもしれない。 「あれ? その魔法使いの親戚の人はまだいるの?」 「うん、私がついてく、って言ったらじゃあ一緒に帰ろう、って。だから来週までいるんだ。それまで、毎日夜に魔法を習ってるの」 彼女は、本当に楽しそうに言う。 ――なんか、本当っぽい。彼女は僕をからかったりはするけど、でも基本的に嘘をついたりはしない。ここまで真面目に、しかも曇りのない笑顔で語っていると、何だか信じられてしまう。 しかし、『魔法』というのは明らかに僕の許容範囲を超えている。第三者が聞けばそれは何かの比喩にとるだろうが、しかし彼女は本気でそれを言っているようなのだ。 一体どう反応していいものか。 ――まあ、そんなに深く考えなくてもいいか。きっと本当は手品だったとか、そういうオチなのだろう。 所詮、この世に魔法や超能力などは存在するはずがないのだから。以前これを奈糸に言ったら夢がなさすぎると言われたけれど、でもそれは真実だ。そんなのは小説や漫画だけの世界であって、現実にありえることではない。これは彼女の冗談か、物事を大げさに言っているだけなのだろう。 だから、別に乗ってやってもいい。彼女の嘘に、付き合ってあげよう。 「どんな魔法を習ってるんだ?」 「えっとねー」 彼女は顎に指を当てて、考えている仕草をする。それから、言う。 「秘密―」 そうですか。 だけど、本当に彼女は楽しそうに言っていた。 彼女の笑顔を見ていると、僕は少し温かくなれる。 まあ、奈糸がそれでいいのなら、僕もそれでいいと思う。 「とりあえず頑張れよ」 僕が言うと、彼女は本当に明るく微笑んだ。 家に帰ると、珍しいことに母親がいた。 「ただいま」 「おかえり」 母親は笑顔で返してくれるけど、僕は無表情だった。寂しいには寂しいのだろうけど、でも面と向かってそんなこと言えるわけない。――それは卑怯だ、と思う。自分の気持ちを言わずにそうして欲しいと望むのは、卑怯でしかない。 ――だけど、そんなこと言えるわけない。僕がそんなこと大それたことができたら、とっくに地球から戦争はなくなっているはずだ。 「ヒロちゃん」 僕が部屋に行こうとすると、母親に呼び止められた。 「――なに」 僕はまた無表情で振り返り、母親を見た。 「ヒロちゃん、誕生日、また仕事が入っちゃって。ごめんね。お父さんも、そうみたい」 ああ、そうですか。 「別にいいよ」 「本当にごめんね。ご飯、ヒロちゃんの好きなのにしておくから」 僕は答えずに、早足で部屋に入った。 ―――――――それは、分かっていた、コトだ。 なのに、何だか、哀しい。 僕の顔から落ちた水滴は、汗ではなかったと思う。 奈糸の顔は相変わらず寂しげで、嬉しそうだった。 僕は彼女のそんな顔を見ながら、日々を過ごした。これで彼女の顔も見納めになるのかな、と思いながら、日々はあっという間に過ぎ去っていく。 彼女が出発する日の前日、僕の家に奈糸から電話があった。その日は土曜日だったので、僕は家にいた。 『ねえ、今日暇?』 彼女が電話してくるなんて、何年ぶりのことだろう。小さい頃、彼女はよく僕を家から引っ張り出して、外に繰り出して引きずり回されたものだが、小学校も高学年になってからはめっきり減っていった。中学校に入ってからは皆無になった。僕はその分の時間は読書にあてていたので、別によかったのだけど。 『すごく大変。両親が死にそうでさ、』 『暇なんだね』 無視された。 『今日、そっちに行ってもいいかな?』 『まあ、別に構わないけど』 僕の両親は、平日であろうが休日であろうが仕事が入っている。だから例のごとく家はがらがらで、別に女の子一人連れて来たって誰にも文句は言われない。 『それじゃ今すぐ行くねー』 彼女はそう言って、一体何をしにくるかも言わず一方的に電話を切った。僕はため息をついて、リビングのテーブルに座って待った。 電話を切ってから、実に一分で彼女は来た。中々早いタイムだった。 「久しぶりだな、ヒロくん家来るの」 奈糸はリビングまで来て、どことなく嬉しそうにそう言った。 「小学四年のときからだから……四年ぶり?」 四年ぶり、か。もう、奈糸がここにこなくなってからそんなに経ったのだ。 時間が経つのは、早い。今日なんかあっという間に終わって、明日なんか光より早く終わる。それは毎日続いて、気づいたら僕は多分大人になっていて、もう一度気づいたら老人にでもなっているんだろう。そう、思う。 「ところで、僕の家にきて何をするんだ?」 僕が聞くと、彼女は恥ずかしそうに目を逸らして、返した。 「えっと、その、少し、話そうかな、って思って」 上目遣いに、ちらちらと僕を見ながら言った。僕はその仕草に苦笑した。 それから、精一杯優しく声を作って、言う。 「いいよ。じゃ、一日中話してようか」 奈糸は一瞬驚いたように目を丸くしてから、すぐに満面の笑みでうんと頷いた。 僕の部屋で、本当に一日中話した。用意が良いことに、奈糸がお菓子やら飲み物やらを買い込んできていたので、それらをつまみながらの会話となった。 奈糸とこんなにじっくり話したのは、久しぶりだった。というか、初めてかもしれなかった。 話した内容は、実にくだらないこと。最近の学校のことに始まり、好きな食べ物、お菓子、本、曲(本を除いて僕にはあまり関係ないことだったけど)、僕の最近の身の回りの出来事、奈糸の最近の身の回りの出来事、ここで昼食休憩。適当にキッチンからカップラーメンを二つ引っ張り出してきて、それを奈糸と一緒に食べた。そして更に会話は続く。後半戦は、主に奈糸の引越し先のことだった。やはり奈糸は某県に行くらしい。某県の田舎の、広大な土地で悠々と魔法を習うそうだ。後は親戚の人の話。どうやら母親の方の姉らしく、優しい伯母さんだそうだ。何でもその世界では有名な魔法使いで、魔法の教師としては一流だそうだ。そんな教師に教えられているのだから、奈糸も幸せなのだろう。――とりあえず、僕はこのときだけでも、魔法云々のことを信じることにしてみた。 陽が、段々と落ちていく。 窓の外が暗くなっても、僕たちは話していた。話題はいつになっても尽きなかった。 適当に夕食を食べて、また話し続けた。 話題を持ってくるのは、主に奈糸だった。僕もたまには作り出したけど、大体の話題は彼女が作ったものだった。何だかそれは、離れるのが怖くて、無理やり作っているようにも感じられた。 気がつくと、それは僕も同じになっていた。 奈糸と離れるのを、嫌がっている自分がいた。 夜十時になって夜が更けてくるまで、ずっと、ずっと、話していた。遅くて暗いから送るよと僕が申し出て、家が近くてすぐついてしまうからわざとゆっくりゆっくり歩いて、奈糸の玄関の前でも話していた。 ――でも、結局別れが来る。 僕がじゃあね、というと、彼女は心底寂しそうな表情をした。あと一秒でもいると、ずっと彼女といることになってしまいそうなので、僕は誘惑を断ち切ってさっさと歩き出した。何か声が聞こえたが、僕は答えなかった。 僕の顔から落ちた水滴は――多分、涙だった。 そして、奈糸の出発の日は来た。 相変わらず僕の両親は仕事で、家は空っぽでテーブルに朝食の用意がしてあった。 僕は朝食をゆっくりと食べて、それから少し考え事をする。 奈糸の出発は、夜らしい。十時に空港に行って、それから飛行機に乗るそうだ。 まあ、見送りに行くのもいいかもしれないと、僕は思う。少なくとも、何年も世話になった相手なのだから。 朝食を食べ終わった。 何もやることがない。とりあえず、読書でもしていようか。奈糸と話すのもいいけど、今行ったら色々と迷惑だろう。 僕は部屋にこもって、読みかけの本を読んでいた。 途中で昼食を食べて、僕は少し考え事をしてから読書に戻った。 夕方になった。僕は読書を続けていた。 七時になって日が沈んだ頃、奈糸の家に電話をかけてみたが、誰も出なかった。 ちょうど読書にも飽きた頃だったので、夕食を食べることにした。冷蔵庫に入っているご飯を引っ張り出してレンジで温める。その食事がやけに豪華だなと思って、今日は僕の誕生日だったことに気づいた。冷蔵庫を良く見ると、『誕生日おめでとう』と張り紙がされているショートケーキも置いてあった。 温め終わると、僕は豪華な食事を食べ始める。しかし豪華といってもささやかで、僕の好きな豚肉のから揚げと、僕の好きな海草のサラダと、僕の好きな豆腐とワカメの味噌汁と、赤飯があるだけだった。まあいつもの食事より美味しいのは確かなので、ゆっくりと味わって食べた。 ケーキを食べ終わると、僕は少し休んでから、再び奈糸の家に電話をしてみた。だが、先ほどと同じく誰も出なかった。 僕は、することが無いのでお茶をすすりながら、椅子に座って何もせずぼーっとしていた。 ――その声が聞こえたのは、いつだっただろう。 いつの間にか僕はうとうとしていたらしい。昨日、延々と話していたから疲れていたのだろうか。 その声は女の子の低く真剣な声で、こんな言葉だった。 『れうん、れうん、てぃんすたー、ろうんるあ、きれんとす!』 その後で、どん、という重い音と、きゃあやったあ成功という嬉しそうな声が聞こえた。 僕はそれで、目を覚ました。 ――何の声と、音だろう。 発信元は、部屋の前だと思う。 僕は、玄関まで走ってドアを開けた。 そこには、 ――何やら変な、黒く地面につきそうな大きなマントを羽織って、頭に尖った帽子を被った奈糸と、 僕の身長の、ゆうに二倍はあるような―― ――巨大なケーキ。 結婚式で新郎新婦が入刀するよりも大きい、先ほど食べたショートケーキの存在価値を疑ってしまうような大きいケーキだった。三段組で、よく見ると最上段に僕の歳の数、十四本の蝋燭が立てられていた。 僕が、マンションの廊下にでんと置かれたケーキを見て呆気に取られていると、隣に佇んでいる奈糸が満足そうに微笑んだ。 「はい、魔法」 もう完璧に比喩でもなんでもなく、僕は開いた口が塞がらなかった。 ――奈糸の家は、別にお金持ちでもなんでもない。かといって貧乏でもないのだが、ただの幼馴染の男の子の誕生日に、こんな巨大なケーキをプレゼントするようなお金はないはずだった。 それから僕は思いついて、自分の頬をつねってみた。――痛かった。 それは、つまり、 これが夢でないと言うのなら、 ―――――――――――――――――これは、魔法。 「信じる気になった? ヒロくん」 僕は、ゆっくりと奈糸を向く。奈糸は本当に嬉しそうに明るく笑っていた。 「――スケールが大きすぎて、別の意味で信じられない」 僕はいまだ呆然とする頭で、言った。 「じゃあ、魔法については信じてくれるの?」 奈糸は目を輝かせて僕に聞き返す。 「ああ――一応」 「うん、よかった。――ね、ヒロくん」 彼女は微笑んだまま、真っ直ぐに僕を見つめて言った。 「誕生日、おめでとう」 そのとき、僕の心、に変化、が、起こった。 あれ、何だろう、これ。 「――ありがとう」 そう返す。分からない、これは、なんだろう、 彼女はまた満足そうに微笑んだ。 そして、その笑顔が寂しそうなものになった。 「それじゃ、私、もう行くね。そろそろ空港に行かないと。あ、着いてきちゃ駄目だよ。――離れられなくなるかも、しれないから」 そう言っているのに、彼女は動き出しそうになかった。奈糸は俯いて、長い間黙った。 何分か過ぎた後、彼女は顔を上げて、 ――――まるで泣き出しそうな笑顔で、言った。 「やだな、こんなときになったっていうのに、私、やっぱり、だめだな」 それでも彼女は微笑んでいた。 「――ねえ、ヒロくん」 奈糸は、ふと僕に問いかけた。 「ん?」 「『魔法』ってさ、何だと思う?」 そんなこと言われても、僕に分かるわけない。首を振った。 「伯母さんが言うにはね、本当は、こんなのは魔法じゃないんだって」 奈糸は、おそらく彼女が作り出したのであろうケーキを見上げていった。 ――だったら、何だと、言うのだろう。 「『魔法』ってのはね、本当は、誰でも使えて、どこにでもあるんだって」 誰でも使えて、どこにでも、ある―― 「私、それ聞いても、意味が分からなかった。何だろう、って思った。だけど――」 奈糸は再び、僕を真っ直ぐに見た。 「今なら、少し、分かるような気がする」 ――ああ、 今分かった。 僕も、気づいたよ奈糸。 君が、君自身が、魔法だったんだ。 奈糸。 魔法で、僕を、 僕は泣いていた。 もう、それは見事に泣いていた。 拭ったって拭ったって、無駄だった。 涙腺が壊れたのではないかと思うくらい、涙が溢れてきてしょうがなかった。 ――嬉しかった。 どうしようもなく嬉しくて、 奈糸が行ってしまうのが、 哀しくてしょうがなかった。 こんな感情を僕が抱いたのは、 きっと、魔法。 奈糸が使った、魔法だった。 じゃあね、と奈糸が呟いたように言って、 僕は胸の痛みをこらえながら、 またな、と返した。 奈糸は、泣きながらも明るく微笑んで、 僕も、泣きながら微笑みを返した。 そうして、彼女は行ってしまった。 ――ケーキは結局、食べきれずにほとんどが腐ってしまった。さすがに隠すのは無理だったので、両親にはとりあえず、道端で助けたおばあさんが実は大富豪で、もうすぐ誕生日だと話したらこんなケーキを贈ってくれやがったと言っておいた。思いっきり疑われたが、しかしまさか奈糸が魔法を使って出してくれたとは言えなかったので、その一点張りで通した。 よく見るとケーキは、ところどころクリームがはげていたり、スポンジが焦げていたりしていた。彼女の魔法は、まだまだ未熟だったということだろう。 でも、それで、いい。きっと、これからどんどん上達していくのだろうから。 もうあれから一週間経った。奈糸は、あちらの生活に慣れただろうか。 また一週間経って、奈糸から手紙が来た。 手紙には簡単な近況と、こんな魔法を習いましたということが書かれていた。最後には、住んでいるところの住所と、返事絶対ちょうだいと書かれていた。 まあ、とりあえず返事は書こうと思う。 恥ずかしいから、こんなことは、書かないけれど、 でも僕は、こう感じている。 ――君が僕にかけた魔法は、 今でも、僕にかかり続けている。 |
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●感想
maoshuさんの意見 読ませて頂きました。 何といっていいのかわからないですが、とにかくよかったです。 まさか、本当に魔法使いだったとは、思いませんでした。 純粋に読んでいいお話だと思いました。 でも、気になるところがひとつ、 >「む、無理だよ。さっき見習いって言ったじゃん。まだマントの着方とか杖の振り方とか、 >基本的なことしか教わってないの」 魔法を習うには、まず外見からということでしょうか。 魔法の内容ではなくて、外見にこだわるのは基本といえるのか微妙でした。 がちょぴんさんの意見 魔法使いの夜と見て某作家の作品と題名がおんなじだなー とか思いましたが、内容は全く関係ありませんでした。 いいお話だと思います。 短い作品の中で彼の心が埋まる過程がよく表現できていると思いました。 すぽんじさんの意見 可愛いお話でした。 表現が乏しくて申し訳ございません。 表現と言えば! 「涙」を段階的に表現する箇所!! ここが大好きです!!! |
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