高得点作品掲載所     ジャンゴ五郎さん 著作  | トップへ戻る | 


クリス・エグジスタンス

「さてと、仕事の時間だぜ?」
 闇の中。
「ええ、兄さん。それにしても実に素敵な夜だと思いませんか? 僕と兄さんを結ぶエグジスタンスが……嗚呼」
「エグジスタンス、存在感か。お前と存在までつながってると思うと寒気がする」
 静かに響く声。
「素直じゃないですね、こんな夜に敬愛する兄さんとデートできるなんて……」
 蒼い月に照らされた二つの影。
「お前、仕事する気ないだろ?」
「フフ、九割本気の冗談ですよ、兄さん」
 蛍火は儚く。蒼月は淡く。星宙は煌く。
 混ざり合った光が、その荘厳なるシルエットを照らし出す。
 その美しくも妖艶に、闇の中に聳える姿を。
 幻想的な美の中に禍々しさを宿した古城……キャッスル・トランシルヴァニア。
 吹きすさぶ風が儚く啼いた。
 蒼く丸い月と重なる塔の上で、風を受けた黒いマントがはためく。
 風に靡くその様は、まるで暗黒の塊を翼に変えたようでもあった。
「ハハハハハハハハハハ……!!!!」
 漆黒のマントを纏った男の忍び笑いが静寂を引き裂く。
 美しくも凛々しい……幻惑的で官能的な甘い声。
 だが、だが、その声は……聞く物の心の底を鷲づかみにし蹂躙する魔力を持っていた。
 声は終わりなき暗黒の中をどこまでも響きわたる……。
「随分と楽しそうじゃねぇか。時代遅れの吸血伯爵」
 ……古城の煉瓦門のもたれていた男は、両手を合わせ拳を鳴らした。
 ネクタイがフッと夜風になびく。
 黒いスーツとメタルフレームの眼鏡のクールなデザイン。
 それが男の整った顔つきをよりシャープに見せている。
 ややクシャッとした黒髪とブラックのトレンチコートが、男のしなやかな体型にマッチしていた。
「主役さんの登場ですね、兄さん」
 ……門の上で黒い薔薇を手にした男は、長い黒髪を風に遊ばせばながら微笑む。
 質感のあるシルバーのスーツは、インナーに黒いシャツを着ることで落ち着いた印象を与えていた。
 いや、落ち着いた柔らかな物腰はこの男、本来の物かもしれない。
 男の甘いマスクに憂いを帯びた瞳……。
 美形と言ってもなんら遜色のない顔立ちだった。
「ま、俺たちはパーティの脇役だからな。盛り上げてやるだけさ」
「フフ。では主役の伯爵には私たちと一緒にブラッディーマリーでも存分に味わって頂きましょうか」
「……俺はパスな」
「兄さんはお酒も煙草もダメでしたね。人生の半分を損していますが、そこが兄さんのかわいいところなんですよね」
「……うるさい」
 ゆっくりと二人の眼前の地面が隆起した。
 まるで殻から生まれ出る胎動のように……それは大地を破る。
 突き出した腐った無数の手が地面から這い出す。
 二人は鼻先に漂う腐臭に肩をすくめた。
 腐臭……違う、死臭だ。
「まさか、お前と吸血鬼狩りするとはな、十四(じゅうし)」
「ええ、私こそ一緒に仕事するとは思いませんでしたよ」
 十四と呼ばれた男は胸元から小さな鉛の塊を取り出す。
 その鉛の塊は掌でどんどん形が変わり……黒光りするフォルムに変貌する。
「しかし、兄さんと一緒に殺しが出来るなんて私は暗殺一家死村始まって以来の幸福者ですね、一三兄さん……いや、むしろ一三兄様」
「……その呼び方はやめろ。鳥肌がたつ」
 一三(かずみ)はコートの上から自分の身体をさする。
 可愛い弟や、妹に言われるのはいいが双子の十四に言われるのは耐えられないのだ。
「フフフ、兄さんにゾクゾクして貰いたくて私は言ってるのですよ……」
 いつの間にか、十四の掌にはモダン、コンバット、オート、ピストルの中でトップの性能を誇るSIG−P226が握られていた。それが先ほどの鉄くずだと、一体誰が考えつくだろうか。 
「……先に行くぜ」
 一三が溜息の後、はいでる屍骸の群れを見つめた。
「ええ、その前にいつものあれをやりませんか?」
 いつものあれ……。
 そう言われ一三は面倒そうに髪をかく。
「おいおい。今夜は脇役って言っといてかよ」
「はい。脇役だろうが何だろうが、登場に格好つけるのは暗殺一家・死村の嗜みですよ」
 地面から這い出した腐った死体達……リビングデッドが一勢に動き出す。
 眼前に立つ二人の生き肉を食らうために。
「では高らかに誇りを持って私の名を名乗りましょう。『黒き眠りへ誘う者(マインスリーパー)』の二つ名と……死村十四の名を。せめて儚く散りなさい」
 ……スッと死村十四は銃を醜悪なリビングデッド達に向ける。
「ま、信念と忠義を持って俺の名を名乗ンぜ。『死村第六位・甚六(ジンム)』の二つ名と……死村一三の名をな。お前等のレール、今、ここで途切れンぜ」
 ……スッと死村一三は開いた右手をリビグンデッド達に向ける。


 ……十四、一三、二人の脇役の影が闇の中を疾駆する!!!!





『ゲームをしようか……クリス』
 頭の中にまで響く忌々しい言葉……。
『私の元へ辿り着きたえ、クリス。さぁ、君の首筋に刻んだ我が牙の後を思い出すがいい……』
 魂にまでこびりつくようなどす黒い気分。
 暗黒のパレットで真っ白なキャンバスに闇を塗りたくるよう感覚。
 それはトランシルヴァニア城の主、吸血伯爵ドラクロア・S・ディープカルネージの声だ。
 マントを纏った少女はゆっくりと瞳を開ける。
 クリスタルのシャンデリアとアンティークの調度品。
 この部屋はトランシルヴァニア上の来賓広間の一つであり、少女が数十分前から休んでいた場所でもある。
 少女はもたれていた白い大理石の柱から起き上がった。
 まだ少し疲労が身体に残っている。
 脚の先の筋細胞が震える感じ……。
 眠ったのはほんの数分だが追撃がある以上、長くは休めない。ゲ−ムは既に始まっているのだから。
 小さな深呼吸の後、長い金色の髪をなびかせ歩き出す。
 室内の豪奢なドアを開け、外に出るとそこは石畳の螺旋階段だった。
 少女は靴音を立てず、螺旋階段の石畳を上りだす。
 その動きには足音、外套が擦れる衣擦れの音、乱れる呼吸の音さえない。
 全くの無音。
 音すら立てず気配に警戒しながら進む様は、まるで夢遊病者や幽鬼だ。
 夢遊病者や幽鬼……。
 もしかしたら、それは魔夢の城と呼ばれる此処、トランシルヴァニア城には相応しいかもしれない。
 魔夢の城……その呼び名はくだらない流言蜚語でもないし、虚言者の妄言でもない。
 そのことは少女の首筋に刻まれた奇妙な噛み傷や、武具を手にしたまま転がった白骨死体が教えてくれている。
 螺旋階段で朽ちた亡骸……。
 食い散らかされた白骨死体はこの城に訪れた少女の同業者の者だろう。
 耳元まで届く、屍骸から発せられる憎悪と悲嘆の声。
 魂はこの城に囚われたまま永劫の罪囚と成り果てる。
 闘いの果ての死。
 それは魔を狩る者が抱えた定めでもある。
 そして、この少女もまた魔を土に帰す者……グレイヴであり、戦いの果ては覚悟できていた。
 格子窓から漏れる月明かりが少女の美しい金色の髪を照らす。
 あどけない蒼の瞳は、澄んだ湖面のように限りなく透き通っている。
 幼さを残した顔つきは十代前半の少女が大人の女性に変わる時に特有の美しさだった。
 細い薄絹の手袋をした指先が白く滑らかで美しい肌に触れた……。
 その首筋に穿たれた二点の痕を。
 それは深々と柔肉を裂き悪魔の牙が刻印を刻んだ証である。
「傷が気になるのかい? 吸血鬼狩りのクリス。伯爵様の牙は太くて立派だっただろう?」
 不意に響く突然の声。
 自動車のノーズアップダウンのように少女の体が急停止した。
 その声にクリスと呼ばれた少女は咄嗟に振り返る。
 ……誰もいない。
 ただ通ってきた螺旋階段が続いてるばかりだった。
 いない、違う。
 視覚による意識認識だけではなく全ての感覚を研ぎ澄まし、在ることを感じなければ何も見えることなどない。
「この城に入った時、伯爵様に噛まれた傷痕だね。でも君は伯爵様の牙では物足りなかった……そうだろう、クリス」
 クリスの首元で囁かれる言葉。
 ……感じる。
 しかし体を捻り、振り返るがやはりそこに姿はない。
「見ていたのか、覗きとは品がない奴だ」
 小さな溜息の後、クリスは闇に向かって呟く。
「それともレディに話しかける自信がなかったのか、化物」
「チークタイムを待っていたのさ。僕の牙だって太く固く……クリスを十分に満足させることができるんだよ?」
 闇の中、甘美なる声だけが虚ろな空間に響き渡る。
「柔らかな君の肌……まるでフーラードの薄絹だね。今夜のパーティの姫君よ。僕はずっと、嗚呼、この城に入った瞬間から、そう、君を気にいってたんだ。君が伯爵様の物にならなくて心から安堵しているよ……」
「……出て来い。時代遅れの吸血鬼。私が塵に還元してやる」
 クリスは美しい声に似合わぬ口調の後、銀のナイフを構える。
 それはドイツのゾーリンゲンに並ぶ三大産地の一つ、シェフィールドで作られたナイフだ。
 刃は清められた特殊な物であり、吸血鬼やアンデッド等、総称してDと呼ばれる怪物達などには絶大な効果を発揮する代物である。
「無理だよ、クリス。そんなナイフでどうするんだい?長いグレイヴ達との争いを生き残り、現代まで生き残った上級種族……僕たちDに人間が勝てると思っているのかな?」
「……貴様、甘く見てるな、腐れ吸血鬼。貴様等を滅ぼすロジックは既に確立されている」
「そうかな? 太陽の光? ニンニク? クロス? 聖水? そんな物が御伽噺みたいに聞くと思っているのかい?」
 闇の中から伸びた手がクリスの首筋をつかんだ。
 冷たい、死者の指先……。
「!!」
 クリスが思わず小さく悲鳴をあげた。
 当然のように闇から現れた男はそっとクリスの体を背後から抱きしめる。
 男のオールバックの髪から漂う甘いフレグランス……。
 クリスは手足の力が徐々に抜けていくのを感じた。
 吸血鬼の持っている『魅了』の力だ
「華奢で細い首筋……ここに伯爵様の牙が通ったのが数時間前の事だ。君はか細く弱い声で嫌と言ったね。伯爵様の孤独な御心を理解せずに……」
 数時間前……。
 伯爵抹殺の為トランシルヴァニア城に来たクリスを出迎えたのは……。
 他ならぬ城主、ドラクロア伯爵だった……。
 そのことを思い出すと寒気に似た感覚が身体を走り抜けて行く。
「うう……」
 クリスが小さく呻くと男の手はそっと首筋の刻印を弄ぶ。
 それはまるで薄絹をなでる様な愛撫だった。
「何故、伯爵様が君を僕達ヴァンパイアにしなかったか分かるかい?」
「……弄ぶ為だろう」
「それもあるけど、違うのさ。本当は君が拒んだからだ。君は拒んだんだ、伯爵様の吸血を」
「何が言いたい?」
「拒んだ……だが君はここに来た。それは……僕に、このギュンター・ラル……ギュンター・ラル・ザ・エイムストライクに会う為だろう? クリスは僕の側に居たいのさ」
「ふ、ふざけるな……」
 クリスの背筋を寒気と違うゾクゾクとした物が通り抜ける。
 その感覚……。
 まだ男を知らぬどころか、キスもしたことのないクリスはそれが悦楽だと知ることはなかった。
 朦朧ととした意識である男の姿を思い浮かべる。
 何故、その姿が思い浮かんだか分からない。
 このまま闇に落ちてしまったら『あいつ』にもう届かない気がした。
「私の居場所は貴様の側などでないッ……!!」
 シェフィールドナイフが手から離れた瞬間、風を斬る。
 銀刃がギュンター・ラルの首筋目掛け放たれた。
「くっ!!」
 舌打ちと共にギュンター・ラルは首をひねらせる。
 もし少しでも反応が遅れていればナイフは眉間を貫いていただろう。
 ……紙一重、首筋を掠めたナイフは螺旋階段に突き刺さった。
「知っているよ、クリス。僕は君のことは何でも知っているんだ。クリスクロス・セリザワ・ロックナイヴス。君の『自分より軽い物体の重さを自由に操る能力』もね。その力が伯爵様に全くつうじなかったのは忘れてないだろう」
 ギュンター・ラルはクリスの細いウナジにキスをした。
「あああああああああああああああああ!!!!」
 ゆっくりと牙がクリスの中に入り、欠陥に牙を立てる。
 その瞬間、ギュンター・ラルの表情が慈愛と恍惚に満ちた物になった。
 吸血鬼にとって吸血とは最大の陵辱行為でもある反面、愛情表現でもあり、性行為なのだ。
 牙の刺さった首筋から、クリスの熱い血が溢れ首筋を伝う。
 次にクリスを襲ってきたのは体の中を侵略する官能だった。
 意識が、無意識と意識の狭間に堕ちていく。
 現か幻か……ぼやけた思考の中、悦楽だけが確かだった。
 血管から血を吸い上げられる度に、
 そのおぞましい行為が、柔波に素足で触れる心地よさをもたらすのだ。
 血を吸われているというのに、華奢な身体を駆け巡る熱い快楽。
 それはこの吸血鬼がもっとも理解していることだろう。
 ギュンター・ラルがウナジから牙を抜き、真っ赤な歯を見せ微笑む。
「あうう……」
 クリスの弱々しい声……。
「ん? 血が止まった……これが君の持つ『セリザワ』の血か。もっとも多く僕たちDを滅ぼした者の力……素晴らしい!!」
「貴様ッ……!!」
「さぁ、次はどこを噛まれたいんだい、クリス。その白く細い胸元かい? それとも舌かな? 嗚呼、いっそ、君のつぶらな胸を……」
 クリスは赤らんだ顔で小さく呟く。
「――――」
「ん? なんて言ったんだい?」
 ギュンター・ラルが甘い吐息を漏らしながら尋ねる。
 その瞳は吸血の恍惚に酔いうっとりとさえしていた。
「愛の言葉かい? 嗚呼、もっと吸ってくださいと君は心の中で……」
「……落ちろ」
「え?」
 次の瞬間、ギュンター・ラルの口からゴポリと赤黒い呪われた血が溢れた。
「ナッ……!!」
 震える体でギュンター・ラルが呟く。
 ……ウナジから首筋をシェフィールドナイフに貫かれたまま大きく目を見開いて。
 赤黒く染まった銀刃。
 それはさきほど螺旋階段に刺さったナイフだ。
 素早くクリスはギュンター・ラルから手から離れた。
「落ちろと言ったはずだ」
 もがくギュンター・ラルの頬に全体重をかけたクリスの拳がめり込む。
 それはひどくマヌケな表情だった。
 ギュンター・ラルからしてみれば予測などしていなかったのだろう。
 勢いに押され前のめりなった二人は螺旋階段から闇の中へ落ちていく……。
「アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!! クリスゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!」
 ギュンター・ラルの咆哮が場内に轟いた。
 深い闇の中に落ちていく二人の体……。
「クッ!! フラッフィー・プラナリア!!」
 クリスの力ある言葉と、風を切裂く音が鳴った。
 闇の中からギュンター・ラルの首筋を離れたナイフが飛来する。
『綿毛の兆重(フラッフィー・プラナリア)』。
 それがギュンター・ラルの口にしていたクリスの能力である。
 クリスは空中でバランスを取ると、長い足で乗るように飛来したナイフを踏んだ。
 ナイフに重力に引かれた体を支える力などない。それはクリスも分かっている。
 ……トッ、と階段をステップで上がるようにナイフを踏み台にして、細い体が壁際の格子窓につかまった。他の格子窓と違い内部につながる格子窓だ。
「……悪かったな、つぶらな胸で」
 クリスは闇の中を見つめる。
 ギュンター・ラルの姿も声も既に闇の中へ消えていた……。
「ギュンター・ラル。私をクリスと呼んでいいのは……あいつだけだ」
 答えはない。
 ただ風だけが闇の中から吹きつけていたのだった。


 ◇


 ギュンター・ラルと戦闘する前……城内に侵入した際、クリスを出迎えたのは伯爵だった。
 あの瞬間を思い出すとまた華奢な身体がまた震えてしまう……。
 これは遊戯だ。退屈と永遠の生を持て余した怪物が仕組んだおぞましいデスゲームなのだ。
 クリスとて戸惑いや恐怖感がないわけではない。
 だが戦うべき理由があれば進むしかないとクリスは知っていた。
 だが戦うべき理由がなければ存在する居場所はないとクリスは知っていた。
 格子窓の先を進み、今は下水のような水気のある場所を進んでいく。
 淀んだ空気と溝水の臭い……それが奴等に似ていて気分が悪くなる。
 それは酸性の腐植層土壌の下に溜まった層の臭いに良く似ているとクリスは感じた。
 どこにいてもクリスにはこの臭気がつきまとう。
 ずっと、ずっと……。
 死臭。血肉の香り、獣の匂い、悪意の持って人を惑わすフレグランス……それらは体にこびりつき落ちることはない。
 ずっと、ずっと……。
 クリスは歩きながら、ここに来ることになった理由を思い返す……。
 ……。
 …。
 トランシルヴァニアの町はルーマニアの首都ブカレストから北西約300キロメートルに位置した。
 レンガ造りの建物やチャペルなどが連なる美しい町並みは古い歴史を持っている。
 1191年にドイツ人が移住し、小高い丘を作ったことからこの町は始まった。そして15〜16世紀には、16のギルド(職業別組合)が存在し、城塞都市して大きな興隆を見せる。その中で最も重宝されたのが16番目のギルド、グレイヴギルドだった。
 狩人……グレイヴは余程の実力者でなければ家族や居場所を持たない者が多い。
 いや、持てないと言ったほうがいい。
 殺し屋などの裏事師と違い市民から必要とされることがあっても、始末屋や裏事師同様、日陰の存在でしかないグレイヴは社会的に認められていないのだ。
 そういう者にとって、依頼人などと交渉してくれる仲介人は重宝する存在だった。
「……で?」
 仲介屋の男は格子窓の向こうで調書を取りながら、路上の受付口に立つクリスに尋ねた。
 尖塔や教会などの立ち並ぶ通りの一角……。
 そのやや裏路地に位置する煉瓦作りの簡素な建物。
 そこはトランシルバニアの一角にあるグレイヴ専門の仲介屋である。
 クリスは市長から受けた仕事を終えて報告に来たのだ。
 今回の仕事はクリスにとって特別な物だった……。
「ああ。村外れの廃屋にひそんでいたのを……追い回して抹殺した」
 クリスが殺したD……グールの牙を格子窓の前にそっとおいた。
「屋敷から発見された農民は六名、うち三名は既に死亡、二名はスレイヴとなっていたので処理、残る一名は現在、教会で治療中だ」
 仲介屋の男は牙を受け取ると銀のピンセットでつまんだ。
 それをシゲシゲト眺めると数回頷く。
「確認した」
 そう言うとスッと、格子窓の隙間から金の入った袋を置いた。
 この金でロマンスシネマを見るのもいいし、音楽を聴くのもいい。
 たまには女の子らしい服を着るのもいいかもしれない。
 だが、それ以上に……今回は欲しいものがある。
「例の件だが……」
 クリスが話を切り出すと、仲介屋は溜息をついた。
「金だ。これをもって街から出て行ってくれ」
「え?」
「この街に住みたいそうだが……許可は無理だそうだ。他の街へ行ってくれ」
 クリスの細い手が男の服をつかんだ。
 今回の仕事の報酬……。
 それはクリスがこのトランシルヴァニアの街に市民権を得ることだったのだ。
「約束と違う!!」
「触るな。と、とにかく六人中、五人も殺しておいて何が約束だ」
 痛い所をつかれた。
 そう言われクリスは言葉に詰まるしかない。
 報酬が大きくなればそれだけリスキーになるのは当然のことであり、そのリスクを減らしてこそプロなのだ。
「英雄の末裔らしいから期待していたのに。出てけ、人を呼ぶぞ!!」
 最初からそういうつもりだったことは簡単に分かった。
 そう、グレイヴなどこの街に住ませるつもりはないのだ。
 怒りよりも先に浮んだのは深い絶望感と孤独だった。
 クリスは闇に浮ぶ蒼い月を背負ってレンガ造りの街中を歩く。
 ふと見れば周囲の家々からは楽しそうな笑い声が響き、優しい明かりが灯っていた。
 優しい灯かりが灯る場所……そこにクリスの居場所はない。
 トランシルヴァニアの町外れ……桟橋下の闇の中、そこがクリスの居場所だった。
 そこでクリスはいつも通り老浮浪者の四人兄弟と焚火を囲む。
 街に住むことを許されないクリスはいつの間にかこの輪の中に溶け込んでいた。
 川で取った魚を焼きながらクリスが今日のことを話すと、
「何? 市民権貰えなかったって?」
「ホホ、そりゃあ、お前さんが怖いからさね」
 事の顛末を聞いた浮浪者の一人が笑い声を響かせる。
 この浮浪者達の兄弟は皆そろいのゴーグルと皮の帽子、ボロボロの外套を纏っていた。
 兄弟……それが少し羨ましい。
「怖い? 私がか?」
 クリスが口の端を尖らせる。
 クリスにしては珍しい子供っぽい表情。
 それを見て他の老人達もつられて大笑いしてしまう。
「だから難癖つけて住ませないのよね。そんなもんなのよね。別にいいのね、街で暮らさなくても。一人は悪くないのね」
「ホホ、そうそう。若いうちはそんなもんさなぁ」
 浮浪者達はクリスから貰ったライスボールを食べながら頷く。
「爺さん達は私を怖がってないじゃないか……」
 クリスの言葉に再び老人達が大笑いする。
「わし達はこの歳だ。どうせ死ぬだけさね。怖いもんなんてない。ほれ、お前さんはこうしてライスボール……オジギーリだったか、よくワシ達にくれるしな」
「日本の重要国産品、オニギリだ。これが作れなければ国民と認められないらしい」
 クリスはそう言いながら小さな口でオニギリに食いつく。
 中身はおかか……を香草で真似た物。クリスのお気に入りだ。
「お嬢ちゃんの気持ちは分からんでもないが、街の者にしてみればそう化物と大差はないさなぁ」
 その言葉を聞いた時、クリスはキュッと自分のマントの胸元を握った。
 それは分かっているが、とても辛いことだ。
 クリスがいくら誰かの為に戦っても感謝されることはない。
 受け入れてもらうことも居場所もない。
 それはあまりにも辛すぎる。
「もちろん、お嬢ちゃんはいい娘なのよね。でも街の人たちはそんなこと知らないのね」
「グレイヴが薄気味悪いと思われてるのが問題じゃよ」
 うんうんと老人達は頷く。
「そうそう。イメージアップするのよね。ドデカイことして他と違うと思わせるのよね」
「ホホ、吸血鬼伯爵でも退治してみるか?」
「そりゃいい。トランシルバニア城の吸血伯爵ドラクロアでも退治するかね」
 クリスが小さな声で『ドラクロア』という名前をなぞる。
 老人達は驚くクリスを見て知らないと思ったようだ。
「何じゃ、知らんのか? 前にこの辺にいたお前さんの同業者が詳しく調べ取ったぞ」
「お嬢ちゃんは若いし同業者の知り合いは少なそうだしなぁ……まぁ、冗談さね。お前さんみたいなのがそんなとこ行ったら何されるか……」
 老人がそう言った時、既にクリスの覚悟は決まっていた。
 ……クリスがトランシルバニア城に向かったのはその夜から数日後だった。
 ……。
 …。
 クリスはそっと首筋に触れてみる。
 まだ、痛みはひいてはいなかった。
 先ほど吸血されたこともあるが、体力の消耗が激しい。
 場内に進入した時に伯爵と遭遇し吸血され、次はギュンター・ラル……。
 傷はそれほど深くはないが、どこかで休まなければ到底、伯爵の元に辿り着くことなどできないだろう……。
 撤退などない。敗北などない。
 戦わなければ居場所など、どこにもない……それは身を持って知っている。
 この戦いで生き残り、そして……居場所を手に入れてみせる。
 ふいに、クリスの足が止まった。
 歩き続けた先、そこは行き止まりだった。
 戻ることも考えたが無駄な体力を使う気にはなれない。
 手探りで壁を調べると……眼前に僅かな光が見えた。
 そっと行き止まりの壁を押してみる。
 この光が、もしかしたら……そんな予感が確実な物に変わった。
 重々しい音と共に光が広がっていく。
 ……やはり、抜け道だ。
 ナイフを構え、警戒しながら通路の外に出る。
「暖炉か……」
 クリスが這いずり出てきた場所は煉瓦作りの暖炉だった。
 どうやら先ほどの道はこの暖炉に繋がっていたようだ。
 広々とした空間とブロンズ像や美術品の数々……敵の姿はなく、気配もない。
 静かな空間……。
『エクシード』と記された美しい女性の絵画や彫刻。
 ドラクロア伯爵の関係者だろうか。
「フゥ……」
 クリスは小さく呟くと赤茶色の壁に持たれかかる。
 コートのポケットから塗り薬を取り出すとそっと指先ですくって首筋に塗った。
「ッ!!」
 熱く焼けるような感覚。
 先ほどの快楽など一片もない。
 やはり、一瞬の快楽なんて……幻と同じなのだろう。
 そっと傷口をなぞるとまだ痛む。
 もしかしたらここで死ぬかもしれない。
『あいつ』とこのまま会えずに。
 孤独に……。
「一人は……もう嫌だ」
 うつむき小さく言葉を漏らす。
 こんな職業、何度もやめようと思った。
 だがやめてしまったら何も残らないのがもっと嫌だった。
『あいつ』は今の自分を見て何と言うだろうか。
 強くなった、と言ってくれるだろうか。
 クリスはそんなことを考える。
 ……その時だった。
 軋むような音が部屋中に響き。
 クリスの頭上、天井が大音響と共に破砕したのは。
 音を立て堰を切るように崩れた木片。
 降り注ぐ木片の土石流。
 気づくと同時だった。
 気づくと同時にクリスの細い体がとっさに床の上を転がる。
 感覚が体を咄嗟に動かしたのだ。
 クリスが避けた瞬間。
 流れ込んでくる木片が破砕音と共に床に叩きつけられる。
 それはまるで木片の雪崩だった。
 あのままその場にいたら華奢なクリスは押しつぶされていただろう。
 積み上げられた木材の山と部屋中に充満し立ち込める埃。
 黴臭い匂いと共にそれが揺らめく中。
 ゆっくりとシルエットが浮かび上がる。
 隆起した骨格と真紅の双眸、孕んだ邪気。
 クリスは体の重心を落としシェフイールドナイフを構える。
「ウォウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!」
 空間を一閃するような獣の咆哮。
 クリスの瞳が、意識が、埃の中から突進する血まみれの獣を認識する。
 刹那だった。
 その瞬間、衝撃と共に体が壁に叩きつけられる。
 クリスの瞳に飛び散る血反吐が妙にゆっくりと見えた。
 一瞬のブラックアウト。
 消えた意識が戻った瞬間、何が起こったか理解する。
 単純な話、突進を避けるのが間に合わなかったのだ。
 息がつまり『カハ……』という、かすれた音が喉から漏れた。
 血が喉の奥に引っかかっている。
 ねばついた感覚……。
 先ほどから痛烈な痛みがクリスの体を駆け巡っていた。
 背骨からそのまま全身が砕けて散ってしまいそうだった。
「アオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
 再び響く獣の声……。
 血を涎を撒き散らし、雄叫びに全身を震わせる血まみれの人狼。
 腰には中世の腰布であるロインクロス……。伯爵の僕だろうか。
 どうする、どう対処する、感覚が麻痺してる、どう体制を立て直す、あいつならどうする、ダメージが大きい、どうしてあの人狼は怪我をしてる、あいつは……渦巻く思考の中、確実なのは一つ。
 ……思うように痛む体が動かないことだ。
 絶対絶命。
 あの牙が、あの爪が肉を裂き食らうというのに。
 こんな時になぜ……あいつのことを思ったのだろう。
 くたびれたスーツとくしゃっとした髪、鋭さに余裕を隠した表情。
 なぜ、あいつの姿が眼前に浮んでしまうのだろう。
 あいつの姿が……。
「よぉ。俺から逃げてどこ行くてンだい? ザベル・ザ・ストロングシャウト」
 狼に向かってあいつが問いかける。
 あいつの幻が……。
「ぐぅぅぅぅぅぅ……」
 挑発を受けた人狼がたじろいだ。
 クリスの視界がひどく揺らぐ中、あいつはスッと開いた右手を人狼に向ける。
「……お前のレール、今、ここで途切れンぜ」
 その言葉の瞬間、人狼とあいつが……死村十三が疾駆する。
 ……速いッ!!
 距離など関係なく一瞬で互いの間合いに踏み込む。
 そのスピードはまるで閃光だった。
 十三の拳が人狼の水月……鳩尾にめり込み、人狼の爪は一三の頬を掠めていた。
 赤黒い血反吐をぶちまいた瞬間、人狼が退く。
 ……逃げるためではない。
 その体毛に覆われた巨躯が床を駆け上り壁を奔った。
 室内を疾駆する獣の体躯。
 絵画、ブロンズ像の欠片が、風と共に部屋中に飛び散る。
 破壊音とそれが宙を舞い落ちる音、獣の疾駆する音が混ざり合う。
 天井まで縦横無尽に、駆け上がった人狼がその鋭い爪で十三を。
「ちっと、遅えな」
 クリスは何事もなかったかのように人狼の隣に並んだ一三を見た。
 知っている。
 その動きが無音の高速移動術『闇歩』と呼ばれる物だと。
 そして、その右手が次に繰り出す技と一三の言葉を。
「護るべき主君がありながら逃げた、その時点で終わりだぜ」
 十三の右手が軋む音を奏でる。
「……識りな、殺戮式を」
 シリナ、サツリクシキヲ。
 右手の掌が人狼の顔面に打ち込まれた瞬間、粉骨のフォルティッシモが響いた。
 殺戮式……それは初代創始者である沙羅双樹(さらふたき)が生み出した壱から壱百までの殺し方であり、殺戮式は身体の部位に勁孔と呼ばれる気門、骨を内部破壊する。
 その威力は武二非ズ、技二非ズ、術二非ズ、是タダ殺戮也と詠われるほどである。
 まさにその詠どおり、人狼の体毛と顔の筋繊維が。白と赤が。眼球と神経細胞が。歯茎が破壊され四散した。
 肉片がボトボト床に音をたてて落ちていく。
 大理石の床に向かって二人が落下する最中、人狼の体が弾け飛び血飛沫をあげていた。
 破壊、殺すための方法……故に殺戮式。
 もはや、それは技でも武術でもない。
 そういう領域は既に超えた所に存在する。
 ストッという軽い音と共に、一三が血肉まみれの床に降り立つ。
 血に塗れたコートが月明かりに照らされる。
 その様は、人ではなく死を告げる黒衣の神のようだった。
「よう……久しぶりだな、クリス」
 微笑み手を差し出す一三。
 それは幻などではない。
 それは黒衣の神などではない。
 それは優しい夢などではない。
 確かな存在感をもってそこに。
 死村一三はそこにいた。
「一三……」
 一三に向けて手を差し出し……。
 クリスは意識を失ったのだった……。


 ◇


 夢を見ていた。
 それは二年ほど前の記憶……。
 ある異能者との戦いに敗れ、死にかけたクリスを助けたのは一人の男だった。
 介抱されたのはトラシンルヴァニアの古宿で、クリスがまだ排他的な思考を信条としてた頃だ。
 どうしてその男がクリスを助けたのかは分からない。
 変わり者か何かで気まぐれで助けたのか。
 もしく面倒ごとに巻き込まれたがる馬鹿な男なのか。
 怪我がある程度治り動けるようになるまでの数日間、クリスはその男とずっと一緒にいた。
 そのうち、クリスが回復するにつれその男と言葉を交わすようになる。
 最初は確か、エグジスタンシャリスムとエッセンシャスリスム……いわゆる、実在主義と本質主義の話しだったろうか。キルケゴールやマルサルの有神論的な立場をどう思うか、排他的論理和について……大体の人間はこんな話をすればクリスが生意気な小娘だと思い離れて行っただろう。
 だが、その男は違った。
 一言を一言を受け止め、クリスに言葉を投げ返す。
 その心地よさはクリスが今まで感じたことのない心地よさだった。
 男と話すほどクリスの態度や言葉はゆっくりと柔らかくなったいく。
 好きな映画や音楽、話すことは何でも良かった。男の祖国である日本の話や経済の話し、男が裏事師……殺し屋であることや、体験談、家族の話し。
 その男と話すことが人と関わることを怖れていたクリスの心を開いていく。
 どこまで話してもその男の事を知りたいという気持ちや、話していたいという気持ちが湧き上がってくるのだ。
 男の言葉は暖かかった……。
 一言一言もぬくもりが砂漠のような心に染込んでくるのだ。
 傷だらけのクリスの額にそっと冷やしたタオルを乗せる度に触れる手が暖かくて。
 自分の為に作ってくれたライスボール……オニギリが懐かしい優しい味で。
 なんでそれが懐かしく感じたのか分からないが。
 だから……ばれないように泣いていた。
 胸がドキドキして苦しくて……でもそれがなんだか幸せで。
 クリスは排他的だった自分の弱さや愚かさを知る。
 そして、それを知った頃には傷が治り、男はクリスの前から去った。
 男から与えられた物の大きさをクリスは別れの涙と共に知ることになる。
 それでも、クリスの中には、またどこかで会える……そんな予感がしていたのだ。
 その男の名は。
 ……。
 …。
 ゆっくりと瞳を開ける。
 真っ暗。顔の上に何かひんやりとした物が置かれている。
 それが瞳から額までを覆った濡れタオルということはすぐ分かった。
 どうやら自分は大理石の床の上に寝かされているようだ。
「目が覚めたか?」
「!?」
 その声を聞いた瞬間、クリスは飛び起きようとした。
 だが、体は思うように動かない。
 痺れるような感覚がして身体を見ると手足から首までのいたるところに包帯が巻かれていた。
「おいおい、まだ無理するな」
 そんなこと言われても、気持ちを抑えることなどできはしなかった。
 クリスがこの声を忘れるはずがない。
 何度もあの時の言葉をなぞってきた。
 再び、この声を聞くのをずっと待ち望んでいたのだから。
 心臓が柔らかで高らかなメロディを奏でる……。
 音符が弾むように鼓動に合わせて心まで弾むように震えていく。
 クリスは震える手でゆっくりとタオルを取った。
 涙がゆっくりと溢れていく。
 クリスの傍らに座った男はあの頃と何一つ変わらぬ姿で微笑んだ。
「……一三」
「ああ、クリス」
 その言葉だけ十分だった。
 昔のようにそうやって名を望んでくれるだけで……。
「ずっと……。ずっと会いたかった。ずっと……」
 なんてクリスは言えなかった。
 その代わりに小さく呟く。
「今更、こんなところで会うとはな。寂しくでもなったのか?」
 それは精一杯の強がりだった。
 本当は、いつか必ず会えると信じていた。
 海と空が遠く彼方で重なり合うように。
 風と花弁が季節の果てに巡り合うように。
 いつか、必ず会えると。
「久しぶりだな、クリス」
「べ、別に私はお前になど会いたくはなかった」
「そうか、俺は会いたかったけどな」
「ま、真顔でそう言う恥ずかしいことを言うなッ!!」
 一三がたははと笑う。
 あの頃と変わらない笑い方。
 その笑い方は嫌いではない。
「傷は痛むか?ほとんど十四が手当てしてくれたんだが」
「ん、十四もいるのか」
 思わずクリスの眉間に皺がよる。
「ああ。今は様子見と雑魚掃除だ」
 一三に手当てされてた時、何度か会っているから十四の顔も知っている。
 ……真性の変態だ。
 二人でここに来ているということは仕事だろう。
 暗殺一家死村の殺す者は人間とは限らない。
 殺せる者は全て仕事の対象に含まれる、それが死村だ。
「すまない。手当てまで……」
「ああ、気にすンなって」
 クリスは包帯の巻かれた指先を見つめる。
「また見られててしまったな、この手を……」
 包帯の下から現れたのは火傷跡や傷痕のだらけの小さな掌だった。
 幼少のクリスは、育ての叔母から、『女性は好きな男性から手にキスしてもらうと幸せになれる』と聞かされていた。実に少女チックで夢見がちな話だが、まるっきり信じていないわけではないし、憧れていないわけではない。
 昔、一三はこの手が好きだと言ってくれた。
 あの頃より、刻まれた傷が増えたこの手を一三は好きだと言ってくれるだろうか。
「ん……手当て!?」
 ふとした疑問が脳裏をよぎった。
 クリスは恐る恐る包帯を巻かれた自分の身体を見る。
 手首、腕、太もも、腰、胸に巻かれた包帯……。
 気づいてしまったが為に、段々と恥ずかしさが込み上げてきた。
 それが顔をゆっくりと赤く染めていく……。
 いや、年頃の娘で恥ずかしがらない者がいるだろうか。
 つまり……つまりは。
「にゃああああああああああああああああああああ!!!!」
 その叫びは気高さも高圧感もなく、むしろ女の子らしさを含んでいた。
 十四、あの変態がいたら恍惚の笑みを浮かべているだろう。
「おいおい、どうした」
「見たのか!? 貴様、見たのか!? 見たんだな!?」
 一三が少し考え込んだ後、ポンと手を叩いて笑う。
「ああ、裸か」
「真顔で言うな! デリカシー持て!! 変な想像はするな!!!!」
 クリスはぎこちない動作で真っ赤になった顔を抑える。
 一瞬だけ一三になら……などと戯けたことを考えた自分自身が許せない。
 そんな乙女チックな戯言を考えてしまうとは……。
「たは。十四は女の裸になんて興味ねぇから気にすンなって」
「それはそれで問題はあるし、一三だって見たのだろッ!!」
「おいおい。昔は恥ずかしがらなかっただろが」
 全く意にもかいしてない一三が笑う。
「今は違う!!」
 一三がもう一度手を叩いた。
「あれか? あれなのか? 段々、お兄ちゃんと風呂に入るのが恥ずかしくなるってあれか?」
「変な例えを出すなッ!!」
 いつも通りたはは、と一三は笑う。
「まぁ、クリスは妹みたいなもんだろ。兄弟なら別に変なことでもねぇさ」
「ぐ……」
 妹と言われても。
 裸を見られても嫌がらないものなのか?
「泣くなって」
「泣いてない!!」
 一三の大きな手がそっとクリスの頭をなでる。
「泣いてないからな!!」
「分かってンよ」
 たったそれだけなのに、それは吸血の快楽など比べ物にならないほど幸福な気持ちだった。
 それは一三が与えてくれるぬくもりのせいかもしれない。
「そうだ……薬飲めるか?」
「ん……飲める」
 やや不機嫌そうにクリスが答える。
「口開けてろ」
「う、うん……」
 言われるまま口を開けると、中に丸い丸薬が入れられる。
 その瞬間、クリスの顔が引きつり、眉間にグッと皺が寄って眉もつりあがった。
 思わず口元を押さえてしまうほど、その味は……。
「苦っ……!!!!」
「たはは。だろうな」
 クリスは差し出された竹筒に入った水を飲み干す。
 一体何をどうしたらこんな薬が出来るのだろうか。
 涙目で一三を睨む。
「そんな顔するなって」
 クリスの舌先にはまだ何とも言えない苦味が残っていた。
 一体何を原料にしたらこのような味になるのだろうか。
「薬が苦手なのは変わってないな。涙目になってるぜ」
「な、なってない!!」
 クリスは無理矢理、涙を堪え言葉を紡ぐ。
 今更、意地になっても仕方ないのは分かっているが。
 あの頃より強くなった自分を見てもらいたいと言う気持ちがそれを許さなかった。
「一三はなんでここに来たんだ……?」
「それはこっちの台詞だぜ。クリスがまだグレイヴを続けてるとはな……」
 やはり一三はこの仕事を続けてることは快く思ってないらしい。
「って、すまん。好きでやってるわけじゃなかったな……」
 一三は答えながら、タオルを水筒に入っていた水に浸す。
「ううん、気にするな……」
 クリスは首を横に振った。
 一三が心配してくれていることは分かる。
「グレイヴになったことには後悔してないんだ……そのおかげで仇も見つかった」
「仇?」
「ああ。小さい頃、叔母に引き取られて育って、その叔母も襲ってきたDに殺されたのは話したな」
「ああ……まさか」
 一三が言い淀むと、クリスはコクリと頷く。
「襲ってきたDは叔母と相打ちになったが、そのDが死ぬ前に『ドラクロア』と呟いてた。それから何度か私も襲われたし、生前の叔母の話しでは両親も私が物心つく前に襲われて死んでいたらしい」
「……」
「全く普通の人間でグレイヴじゃなかったそうだ。多分、セリザワはDの天敵だから一族皆殺しにしろとか命令していたんだと思う」
「ああ。多分、セリザワ狙いだ。力のある無しに関わらず根絶やしにしろとか命じたンだろうな」
 セリザワの一族は過去において、最もDを殺した一族である。
 それに関しては他の追随を許さぬほど卓越していた。
 分家のほとんどは息絶えたが、本家の血筋と宗主が襲名する『克己(エクシード)』の名はまだ途絶えてない。
「さっきの質問だが、十三はなんでここに来たんだ……」
「……」
 一三が面倒そうに髪をかいた。
 裏事には依頼人からの信用上、秘密にすべきこともある。
 それはクリスも十分に分かっていた。
「いや、言いたくなければいいんだ」
「……実を言うとこっちの依頼人がセリザワでな」
「なに……!?」
 無理矢理、上半身を起こそうとして顔を歪ませるクリスを、一三がそっと寝かせた。
「お嬢さんが吸血鬼に噛まれて吸血鬼化を始めてる。セリザワの術者さんたちが仮死状態にして、必死で押さえてるが……ワクチンが必要だ。さっきクリスが飲んだような薬がな」
「さっきのは吸血鬼化を防ぐ薬だったのか……」
「ああ。念の為な。セリザワの血が持った抵抗力は個人差があるからな」
「薬や仮死状態……セリザワはそんなことまでできるのか?」
 クリスもセリザワの抽象的な噂を聞いたことはあった。
 だが、叔母が全てを教える前に亡くなったため、知らないことも多々ある。
「セリザワが怖れられてきたのは何も単に遺伝的な力だけじゃない。何代にも渡る練磨された技術と積み上げられてきた知恵があるからだ。その知恵の中には吸血鬼の毒を中和する薬だってある。まぁ、原料は吸血鬼の脳なンだがな」
「だったらもっと下位レベルの吸血鬼でも……」
「ああ、普通の人間だったらな。だが病弱な依頼主の娘さんでは、吸血鬼の脳に混じった不純物の副作用に耐えられねぇンだ。吸血鬼としての純度……歳月をかけて高めた純度の高い脳が必要だ」
 クリスはふとあることに気づいた。
「一三、脳って……さっきの薬は……」
 大きく見開いたクリスの瞳が一三を見つめる。
「悪い。言ったら飲まないだろ。作戦勝ちって奴だ」
「ずるい……」
「そう言うなって」
 駆け引きのうまさというのだろうか。
 仕方ないのだが気分のいいことではなかった。
「まぁ、それが俺の方の理由だ」
「それでドラクロアを……」
 頷いて、スッと一三が立ち上がった。
「行くのか?私も……」
 一三は振り返らず答える。
「クリス、お前は此処にいろ」
「え?」
「今のお前じゃ足手まといになる」
 足手まとい……。
 一三の厳しい一言が重くクリスの身体にのしかかる。
 足手まといということは分かっていた。
 実際伯爵に手も足も出なかったのだから。
「あ、足手まといなのは分かるが……!!」
「自分でも分かってンはずだぜ。セリザワの血が優れてつってもまだ自分が未熟だと……」
「でも……!!」
「俺はクリスが傷つくのを見たくない」
「でも、二人で戦えば……!!」
「ダメだ」
 一三はそっとクリスにコートをかけた。
 そしてクリスの小さな唇に人差し指で触れる。
「あ……」
 思わずクリスが呟く。
 その途端、まるで熱せられたようにクリスの顔が熱くなってしまう。
「可愛い妹が傷だらけになって喜ぶ兄貴がどこにいるンだ? 痛みも苦しみも全部、俺が受け入れて背負う。それが兄貴の務めってもンだろ」
「一三……」
 一三の人差し指が切なさと共にゆっくりと離れ。
 クリスはキュッと一三のコートを抱きしめた。
 やっと……やっと出会えたのに。
 胸の奥に、眩暈にも似た苦しさが込み上げてくる。
 止められないことは分かった。
 ならば、せめて。
「戻って来い。絶対、絶対、絶対、約束だからな……!!」
 その言葉に背を向けたまま一三は答えた。
「ああ。それから……居場所がなかったら俺の所に来ればいい。名前は……そうだな、死村九六三(クロス)でどうだ」
 キョトンとしていたクリスは吹き出すように笑った。
 ギュッともう一度強くコートを握り……一三を送る。
「……絶対帰って来い」
「ああ。ま、後はお兄ちゃんに任せろ」
 ゆっくりと一三の姿が闇に消えていくのを、クリスはずっと見つめていたのだった。


 ◇



 果てしなく続くの深遠への回廊……。
 黒曜石で作られた廊下は、やはりどこか禍々しさが宿っている。
 何人ものグレイヴがここを通り死んで行ったのだろうか。
 行くは自由、戻るは叶わず……。
 黄泉路という言葉が似合っているかもしれない。
 ふと、さきほどから歩き続けていた一三の足がピタリと止まった。
 その瞬間、ゆっくりと黒曜石の壁面が蕩ける。
 それはチョコレートに火をつけるのと似ていた。
 硬い黒曜石がまるで柔らかなマシュマロのようだ。
 それが誰の能力によるものなのか、三は既に知っていた。
「おいおい、随分早いな……十四」
 蕩けた黒曜石の壁の中から現れた十四は一三に向かい微笑む。
「ええ。兄さん。早く兄さんに会いたくて。兄さんの性格だと一人で戦いに行くでしょうからね。特にクリスさんの事となると……」
「……」
 答える必要はない、それはお互いに同じ気持ちだろうから……。
「今夜のヒロインのお身体はどうでした?」
「ああ、俺たち脇役が心配しなくても大丈夫だ」
 十四が僅かに唇を動かし笑った。
「クリスさんは死村に来るんですか? 兄さんはこっちの世界に引き込むのはあんなに嫌がってたのに」
 そう、だから二年前に会った時、クリスの前から姿を消したのだ。
 できればこんなグレイヴなどやめて普通の少女として生きて欲しかった。
「覚えてるか……十四。叔母さんの作ってくれたおにぎりの味を」
「ええ……」
 十四が遠い目で頷く。
 忘れるはずがない。
 大事な家族のことを……。
「兄さん、クリスさんにそのことは……?」
 伝えれば枷になる、それは分かりかきったことだった。
 まだクリスは普通の人間として生きることが出来る。
 戻ることができる、伝える必要はないことだ。
 スッと、一三が黒曜石の扉に手をかけた。
 重々しい音の後、扉がゆっくりと開く。
 飛び込んでくるステンドグラスの輝き。
 祭壇前の棺から漂う邪気。
 鳴り響くパイプオルガンのメロディ……。
 重く暗く心を蝕むメロディ、哲学者にして音楽家エソント作曲の葬送曲だ。
 二人が踏み込んだ瞬間、シャンデリアに虚ろな輝きが宿る。
 その瞬間。
 その瞬間だった。
 背後から。
 余りにも唐突に。
 何が起こったかも分からずに。
 一三の体が大理石の床に沈む。
 十四の瞳に映ったのは……背に両刃の大剣が刺さった兄だった。
 血が勢いよく体から弧をかくように吹き出すと、やっと十四は声を発する。
「兄さ……」
 無意識と意識の狭間……十四の意識は一瞬だけそこに遊離していた。
それはあってはならないことであり、致命傷と何等変わらない。
 腕、闇から伸びた腕、それが十四の顔をつかんだ。
「わざわざ出迎えたんだ。挨拶ぐらいしたらどうだね? 下等生物達よ」
 グシャリという肉を砕く音。
 まるでトマトを潰すようなメロディ。
 十四の顔が大理石の床に叩きつけられた音だ。
「申し遅れたな、私の名は……ふむ、聞いてないか」
 顎鬚を携えた初老の紳士は笑った。
 十四の頭を踏みにじりながら。
「いやはや。まったく。さすがに圧倒的すぎたかな、人間達よ」
 圧倒的なエグジスタンス。
 全てを塗りつぶす暗黒の波動。
 強者は強者を知る。
 それは野生動物の本能である住み分けと同じく自然なことだ。
「よう、クズ野郎。随分な御挨拶じゃねぇか」
 荒い息で一三が立ち上がった。
 背から流れる血は赤い水たまりを作っている。
 傷は決して浅くはない。
「クズ? この私がかね」
 伯爵が指を鳴らす。
 その瞬間、一三の脇を何かが通り抜けた。
 疾駆する銀の輝きが……。
 背後から風を切り飛来した両刃の大剣が十四の背を貫く。
「……!!」
 背から勢いよく噴出す血肉。
 十四の体が僅かにピクリと動く。
 深々と背を貫き……心臓を貫いていた。
 一三はグッと……拳を握ると歯を食いしばる。
 一声もたてることなく、一片の隙もない。
 それが十四と一三の差だった。
「冷静だ。いいぞ」
「いや、冷静じゃねぇ。てめぇをどう殺すかしか考えてねぇよ」
 静かな押し殺すような声……。
 確実に弟の為に殺す、その気持ちだけが全てだ。
 その後に泣けばいい。泣き続ければいい。
 今は殺す。
 初老の紳士は一三から流れ出る憎悪が心地いいのか、大口を開けて笑った。
「君は良いゲームプレイヤーになれただろうに……。クリスの為か? それだけの為にこのドラクロアに挑んだのか?」
「それだけ?」
 ゆっくりと指で銃の真似をするとドラクロアに向けた。
「ガキが泣くのは好きじゃねぇ。それで十分さ」
「いやはや、まったく。それが最後の言葉か。いいだろう。この伯爵ドラクロアの手にかかって死ねるのだ、幸福だろう。君の価値のないエグジスタンスにも価値があるというものだろう」
「てめぇは俺の家族を二人殺した……」
 よろめきながら一三が重心を落とし構える。
「一人は俺の大事な弟……」
「ああ、このゴミか」
 一三の指の骨が鳴った。
 ……やはり決して冷静ではないと自ら感じた。
 ただ、確実に殺すことだけが意識をギリギリのラインに保っているのだ。
「もう一人は死村を捨て、普通の人間として生きようとした俺の叔母、死村六九七……六九七・セリザワ・ロックナイヴスだ。てめぇのレールはどこにも続かねぇ」
 伯爵の笑い声がパイプオルガンのメロディをかき消すほど大きく響いた。
「セリザワ……嗚呼、セリザワか」
 まるで堪えきれないというように。
 伯爵は歯茎をむき出しにする。
「いやはや。なんだ、君の家族はゴミばかりかね。ああ、だから先ほどから臭くてかなわんのか。ヴァハ、ハハハハハハハハッハッハッハハハハハハ!!!!」
 刹那、一三の姿が消えた。
 ゆっくりと、伯爵の目玉だけが動き、自分の胸元を見る。
 瞬きよりも早く、蝋燭のゆらめきよりも静かに。
 伯爵の胸を掌が貫いていた。
 血に塗れた口元がニタリと歪んだ。
「……いやはや、この程度かね?」
 冷たい汗が一三の頬を伝う。
 ……どんな生物だろうと心臓を破壊されれば死ぬ。
 一三の殺戮式は確実に伯爵の心臓を破壊していた。
「少しは楽しめると思ったが……クズはクズか。ヴァハハハハハッハッハッハハハハハハ!!!!」
 ゆっくりと開きっぱなしだったドアが閉じられる。
 肉を裂く音。
 僅かなうめき声。
 それも消えて。
 暗黒の残響音と葬送曲が、いつまでも鳴り響いていた……。



 ◇



 どれだけ時間が経っただろうか。
 その部屋の中央柱に飾られた大時計だけが歯車の音を響かせている。
 ステンドグラスから漏れる月明かりが、ハングドクロスを讃えるように照らしていた。
 赤く血で染まった逆十字は今まで何人の血を吸ってきたのだろうか。
 流れる葬送曲。
「……」
 立ち尽くした少女は空っぽの瞳でその光景を見つめる。
 ただ、魚の死んだような瞳で。
 心の中の何かが音を経てて崩れてしまった。
 涙すらも流れない。
 目の前のエグジスタンスを受け入れてないからだ。
 ヘミングウェイの敗れざる者では老いた闘牛士が人生を賭けた闘いで敗する。
 だが絶望の中で闘牛士は泣きもわめきもしなかった。
 ただ『運が悪かったのさ、それだけのことよ』と息を吸う。
 闘牛しかない老闘牛士の全てが終わった。
 だからこそ、闘牛士は泣かない。泣けば終焉を受け入れることになるからだ。
 泣くことが目の前を受け入れることだと言うのなら。
 そう、受け入れられるはずはないのだ。
「……」
 小さく、少女の……クリスの唇が動いた。
 大理石の柱に持たれた死村一三と死村十四。
 眠っているように見える二人の腹部に突き刺さっていたのは両刃の大剣だった。
 二人の流れた血だまりも既に固まっている。
『可愛い妹が傷だらけになって喜ぶ兄貴がどこにいるンだ?痛みも苦しみも全部、俺が受け入れて背負う。それが兄貴の務めってもンだろ』
 グッと一三が着せてくれたコートの裾を握り締める。
 ぬくもりも。
 大好きな一三の匂いも。
 まだ残っているのに。
「嘘つき……」
 少女はうつむくと、震える声でただそう呟いた。
 受け、入れ、られる、はずが、ない、のだ。
「いやいや。彼らは下等生物なりに頑張ったと思うだのがね」
 嘲るような見下した笑い声……。
 クリスはその声の方を見ずにただうつむく。
「いやはやまったく。ゴミクズにしては上出来だ。だが、だがね、いかんせん低度が低すぎる。暇潰しにもならなかったな」
 祭壇の玉座の上で豊かな顎鬚をいじりながら、暗黒の王はクリスに冷酷な視線を向けている。
「クリス……。ここまでの到達おめでとう。二人の犠牲を出したが、ゲームクリアまでもう少しだ。君の為に戦って死んだ二人の為に是非頑張ってくれ」
 トランシルヴァニア城の主、吸血伯爵ドラクロア・S・ディープカルネージはあざ笑う。
「ドラクロアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
 劈く咆哮の後、クリスの身体が疾駆した。
 怒りがより強く、より速く、クリスの身体を動かす。
「いやはや、どうやら君はあの二人よりもさらに退屈なようだね」
 ドラクロアが玉座に座ったまま人差し指を動かす。
 もし、クリスがもっと冷静な状態であれば、背後から飛来したそれを避けることが出来たかもしれない。
 だが、今のクリスには三本の大剣を避けることなど出来なかった。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 絹を裂くようなクリスの悲鳴にドラクロアは恍惚の笑みを浮かべた。
 三本の大剣。
 それがクリスの腕を貫き、赤く染め上げる。
「どうしたのかね?うずくまって。私が憎いのだろう、クリス。知っているぞ、ずっと私を恨んでいたのだろう。覚えてるかね、クリス。君がこの城に入った時、絶対に私を殺すと吠えていたね。あの言葉に嘘偽りはないのだろう」
 ゆっくりとドラクロアがうずくまるクリスに近づく。
 押しつぶすような悪意を持って。
「あぐううううう……」
「セリザワの血を引く君をタダでは死なせると思ってるのかね? もっと苦しみたまえ、もっと惨めさを感じたまえ。私を裏切った罪はそれだけ重いだのよ、クリス」
「裏……切った?」
 クリスの混濁した紫の思考はただ言葉をなぞるだけだった。
「いやはや。それを君が知る必要はないのだよ。そう、必要などない。君はただ世界と己のエグジスタンスを呪いながら、ただただ泣いてくれればいい」
 ドラクロアは左腕を脚で踏みつけ、右腕を両手でつかんだ。
「ふむ。傷だらけの手だ。余程の鍛錬を積んだんだろう?」
 右手で四本の指を固定し、左手の指でそっと……。
 クリスの人差し指の生爪を剥ぎ取った。
「ああああああああああああああ!!!!」
 駒鳥が囀るような悲鳴。
「いい声だ。いやはや。実にいいッ!! いいぞッ!!」
 クリスの苦悶の声にドラクロアは身を震わせた。
「泣いてはくれないのかね?ふむ、では一枚ずつ剥いでいくとしようか、クリス」
グッとクリスの爪に力が加えられる。
「うああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 薬指の爪が宙を舞い、カツンと音をたてて落ちた。
「順番に……剥がすとしよう」
 順番に、ゆっくりと、クリスの、爪が剥がされていく。
 クリスの悲鳴を聞くたびにドラクロアは恍惚の笑みを浮かべる。
 それは憎悪からかもしれないし、もしかしたらサディストだからかもしれない。
 どちらにしろそれは最悪だ。
 もっとも最悪なのは痛みなどではなく……その傷だらけの手を蹂躙されることである。
 クリスは人に手を見せるのが嫌いだった……。
 傷だらけで豆だらけの手は少女らしさの欠片もない。
 それを見られるのがたまらなく恥ずかしかった。
 その手が好きだと言ってくれたのは……一三だ。
 爪が剥がされる苦しみと痛みよりも一三が好きだと言ってくれた手が、伯爵の薄汚い手に蹂躙されていく。そのことの方が数倍耐え難い。
 一三、一三はもう……いない。
「ドラクロ……アァァァァァ。貴様……だけは絶対に……」
 痛みで泣き叫ぶよりも、怒りと悲痛で惨めな気持ちが震えた声をあげる。
「フム。次は一本、一本、剣で貫いてみるか」
 ぽそりと。
 小さくドラクロアが呟く。
「出来れば顔は傷つけたくない。動かないでくれたまえ」
 来る。
 背筋に走る冷たい感覚が背後から迫る大剣の存在を伝える。
「フラッフィー・プラナリアァァァッァアァッァ!!」
 タイミングは今しかない。
 これを外せば……死ぬ。
 力ある言葉と共に、大剣がドラクロア自身に向かい放たれる。
「ほう」
 ゆっくりとドラクロアが瞳を閉じると大剣が、胸を、腹を、その身体を貫く。
 夥しい出血の中、ドラクロアが笑った。
「これがどうかしたのかね?」
 一言。
 あまりにも大きな暗い闇がクリスの心の中に広がっていく。
 圧倒的な絶望感が今にも闇の中にクリスをひきずりこもうとしていた。
「いやはや。絶望したかね、クリス」
 伯爵はゆっくりと大剣を体から抜く。
 まるで痛みなど微塵もないと言わんばかりに。
 そしてクリスの胸倉をつかみあげる。
「怖いか? 苦しいか? 孤独か? 孤独だろう。寂しいだろう。一人で私に蹂躙され死んで行くのだ。永遠に、孤独に魂はこの城の中を彷徨うのだ」
 クリスが震える唇を動かす。
「……嫌だ」
「いやはや。ゲームオーバーだ。孤独な闇の中で絶望感を抱えたまま死にたまえ、クリス」
「……一人は嫌だ」
「いやはや、まったく。そうだな、その通りだ。でも君は孤独に惨めに死ぬのだ。孤独に」
「お前は……孤独ではないのか?」
 ドラクロアのこめかみが僅かに動いた。
「私はもう一人は嫌だ! 誰かと一緒にいたい! 好きな人に寄り添いたい! 同じ空を見たい! 同じ風を感じたい!!」
 叫んでいた。
 心の底から。
 ドラクロアに。
 動かなくなった一三達に。
 今までの自分自身に。
「繰り返すが、君は今から惨めに一人で死んで行くのだよ。孤独の闇の中に。たった一人で」
「私は一人じゃない……」
「いいや、一人だ」
 クリスは首を振った。
「居場所になってくれると約束してくれた人がいる。私の存在を認めて受け止めてくれた人がいる。お前には……」
「もういい」
 小さくドラクロアが呟く。
「ドラクロア、お前には……」
「それ以上言うな……」
「ドラクロア」
「黙れと言っているのが聞こえないのか、クリス」
「ドラクロア、お前にはそんな人がいるのか!!!!」
「だまれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!! たった数十年しか生きてない生物が、私、この八大伯爵の一人である私に、この私に、知った口を叩くな!!!! 分かった口で知ったかぶるな小娘が!!!! 孤独の苦しみも何もかも知らないで貴様が孤独を口になどするなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 紳士などではない。
 それは最早ただの悪鬼の素顔であり、孤独に怯え憤慨する姿であり……ひどく人間的だった。
「我が娘は愚かにも私の側から離れ人間を愛し、魔女として処刑されたッ!! 己の子孫にだッ!! 私の全てを、技術を継ぎ人間など虫を捻るように殺せたはずなのに……!! 自ら殺された……!!」
 荒い息で伯爵が壁を殴りつける。
 部屋全体が強く揺れて壁に大きな穴が開き、冷たい風が一気に流れ込んでくる。
 もしや……その殺した者達の中にいたのがセリザワだったと言うのだろうか?
「自ら人間に殺されることを選んだ!! 残された私のことも考えずに!! 愚か、愚か、愚かの極み!!!! 貴様に分かるか!! このジレンマ!! 悲しみ!! 永遠の孤独ッ!! 思い知るべきなのだ、全ての生物は孤独であることを!! そして、私に詫びろ!!」
「孤独に怯えるか、吸血鬼」
「ああ、そうだ。だがな、貴様に何が分かる。繰り返そう。貴様に何が分かるのだ? 私の苦しみを誰が理解できる!!」
「孤独をばらまく貴様が孤独を口にするな!!!!」
「だまれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!! 孤独に怯えながら死ねェェェェェェ!!」
 ドラクロアが右手を振り上げ爪を輝かせた。
 それは確実にクリスの頚動脈を裂き、致死に至らせるだろう。
 血肉を吸って、孤独をばら撒いてきた爪牙が、振り下ろされる。
「……いいや」
 囁くように呟く声……。
 伯爵の手が空中で止まった。
 それは、まさに力を込めて振り下ろす瞬間だった。
「アジな真似を……」
 伯爵は呟きながら二の腕に刺さった黒薔薇を引き抜く。
 すると、その黒薔薇がチーズやバターのように溶けて伯爵の腕に絡みついた。
 クリスはただ、ただ、その光景を見つめる。
 見つめる以外にできることはない……はずだった。
 それでも涙はあふれて雫になってしまう。
 その声は確かな存在感を持って言葉を紡ぐ。
「識りな、殺戮式を」
 伯爵の心臓を背後から貫く掌。
「貴様ッ……!!」
 腕が血肉と共に引き抜かれた瞬間、伯爵が跪く。
 その背後で伯爵を貫いた男は微笑んだ。
「泣くなよ、クリス」
 その微笑みに、その言葉に、そのぬくもりに。
 答える言葉はクリスの中に、既に存在している。
 クリスはグッと涙を拭って笑顔を作った。
「誰も……泣いてなどない!!!!」
 暗闇も絶望もクリスの中から消えていく。
 ゆっくりと心の中にある何かが強い力へ変わっていくのだ。
「……いやはや」
 ドラクロア伯爵の目玉が動き、十四と一三を見つめる。
 一三が小さく舌打ちした。
 ダメージがないことは既に予測ができていたのだろう。
 もっと確実に殺すチャンスを狙っていが、クリスを助ける為にこうしたのはクリスにも分かった。
 心臓を貫かれた伯爵があふれ出す血肉も気にせず笑う。
 二度目……それはドラクロアが不死であるということを確信させる。
「ククク、これは驚かされる演出だ。心臓が止まっていたのに起き上がる……死んだフリ、セリザワの仮死法か」
 ドラクロア伯爵の目は足元の歪んだ大剣を見つめていた。
 グニャァリと粘土のように先が曲がった大剣、それは十四たちを貫いていたものだ。
「つまり、物質を溶かす……もしくは硬さ、柔らかさを変化、変質させる能力かね。貫いた瞬間、咄嗟にその能力を発動させたというところかな」
「御名答です。ドラクロア伯爵」
 十四の声と共に黒薔薇だった粘膜が蠢く。
 ゆっくりと元の黒薔薇の形に戻り……。
 伯爵の腕から離れた黒薔薇が大理石の床にゴツンという音をたてた。
「そしてチャンスを窺っていたと。いやはや、驚いた。全くもって驚いた。だがそれでどうだね、どうするつもりかね。不死身の私に何が出来ると言うのかね? 勝てるとでも言うのかね?」
 ドラクロア伯爵の右手と左手が素早く十四と一三の顔をつかむ。
 普段ならば、みすみす触られることはない。
 ダメージもあるがドラクロアが予想以上に速かったのだ。
 その動きの速さは一三の想定を上回っている。
「次はどう驚かせてくれるのかな?」
 その問いかけに対し言葉を発する間もなくドラクロアは腕を振った。
 当然のごとく、そのまま二人の身体は左右の壁面に叩きつけられる。
 一三は空中で体制を直すと、掌で壁の衝撃を受け止め、
 十四は柔らかくした壁にめり込む。
「一三ッ!!」
 叫んだクリスの足元に大剣が突き刺さった。
 バッ!と背後を振り向くがそこに姿はない。
 そう、伯爵にはまだこれがあった。
 ……見えない角度から飛来するブレードが。
「三人の揃った所で何ができるのかね? 一人、一人順番に送ってやろうではないか!! 認識するがいい!! 自らが孤独で哀れな生物だとッ!!!! 見えぬ絆を信じる愚かさを」
「その絆が人間の強さなのですよ、伯爵」
 伯爵の左右にいた十四と一三の姿が消えた。
 否、消えたのではない。
 疾く、静かに、加速して、ただ、伯爵に向かって真っ直ぐ走ったのだ。
「なッ!!」
 伯爵が間合いに入った二人を認識した瞬間、
 グシャリという音と共に二人の長い脚が伯爵の両頬にめり込んだ。
 その瞬間、血肉に包まった歯茎が噴出すように飛び出す。
 完全にガードが間に合ってない。
 それは全くの不覚。
 二人は伯爵の予想以上に戦いなれているのだ。
 頭から転がったドラクロア伯爵がそのまま大理石の壁に叩きつけられる。
「クリス……」
 一三がクリスに駆け寄る。
 その表情はひどく心配そうで……まるで娘を心配する父親のようでもあった。後悔と怒りが表情に滲み出ている。
 伯爵の隙を狙うためとは言え、クリスに苦しい思いをさせたのが心苦しいのだろう。
「すまない、クリス……」
「ううん、私は大丈夫だ」
 血に塗れた指先を押さえクリスが微笑む。
 今はそんなことより一三がこうして生きていたことがずっとうれしいのだ。
「ほら、手を見せてみろ」
「う、うん……」
 躊躇いながら手を伸ばすと、一三はそっとその指先を舐めた。
 クリスはそれを真っ赤な顔でぼんやりと見つめてしまう。
 一三は消毒のつもりだったのだろう。
 だがそれはクリスにとって……。
「人間どもがぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁっぁぁ!!!」
 怒号が蝋燭の炎を揺らめかせる。
 ドラクロア伯爵の怒号が鳴り響いた瞬間、室内の大気が震えた。
 人間に足蹴にされる。
 ダメージがなくてもそれが上級種族としてのプライドを砕いていた。
 伯爵が振り上げた拳を大理石の床に向かって振り下ろす。
 ただ、それだけだった。
 それだけのシンプルなアクション。
 振り下ろした瞬間、
 ハンマーを叩きつけたような破壊音が、流れていた葬送曲すらかき消す。
 まさに豪音。
 音、それと同時に衝撃が床に伝わり……大理石の欠片が宙を舞った。
 まるで隕石が落ちたように、大理石の床にクレータが出来上がる。
 圧倒的なまでの力の差、それが生物としての差だ。
「おいおい……」
 思わず一三が呟く。
 圧倒的にレベルが違う者と向き合う感覚。
 どれだけ殺せば死ぬのか、目の前の化物は。
 人間が戦うには全てが不足。
 生物としてのポテンシャルの違い……いわば格差。
 生物ピラミッドにおいて下位は上位に搾取されるのが定めだろう。
 しかし、その格差を埋めるのが人間の知恵と技術である。
 一三と十四の体躯が再び疾駆する。
 左右に展開しての同時アクション。
 それはドラクロア伯爵にも簡単に予測できただろう。
 近づいた瞬間、吹き飛ばそうともう一度拳を振り上げた。
「フン。同じ手をそう何度も……」
 そう呟いた瞬間、ドラクロアの足元がグニャリと歪んだ。
 まるで柔らかなマットの上に立っているような感覚……十四の能力だ。
 ドラクロア伯爵の頭部目掛け、一三の掌が伸びた。
 舌打ちと共に伯爵がスウェイバックで後退すると、掌が空を切裂く。
 もし喰らっていれば頭一つ持っていけたかもしれない、とその光景を見つめていたクリスは思った。
 ぐらつきながら繰り出したドラクロア伯爵の右蹴り。
「おっと!!」
 チッ、と音をたて切裂かれた一三の前髪が落ちた。
 蹴りを一三が咄嗟に伏せてかわしたのだ。
 無論、不安定な足場の影響を受けた一三が前のめりになる。
 一瞬の隙。
 それを伯爵が見逃すはずもない。
「もらったぞ、小僧!!」
 無防備な一三に迫るドラクロア伯爵の拳。
 風を切裂いてうねりをあげる。
 ……次の一三の行動はドラクロアにも予測できなかっただろう。
 十四が能力を軸にした一撃離脱のシュート・アーツに対し、一三の戦闘スタイルには決まった型というのがない。いや、骨法などを取り込んではいるがそれにとらわれる考え方をしない。
 床に手をついた一三の体が勢いのまま逆立ちした。
 そのまま長い両脚が伯爵の首を挟む。
 流れるようなリズム。
 一三が身体を捻る。
 ……首狩り投げ、ミョルニルスープレックスだ。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
 伯爵の尾をたなびかせるような叫び声。
 物理法則に従い、両脚につかまれたまま伯爵の体が宙に浮んだ。
 まるでハンマーを振り下ろすように、
 そのまま、頭部から床に叩きつけられる。
 鐘を鳴らすような轟音。
 能力解除した大理石の床にもろに頭部が打ちつけられた。
「ぐううう……」
 ダメージにふら付きながら伯爵が距離を取ろうとした。
 だが、甘い。
 背後に接近していた十四がいたのだ。
 それに伯爵が気づいた瞬間、
 十四の投げたコートが伯爵の頭から纏わりつく。
 そして掌に握られていたSIG−P226の引き金に指をかけようとする。
 だが、十四は引き金を引くことはなかった。
 ゆっくりと床に片膝をつく。
 流れ出た血液が床血だまりを作った。
 その背には再び、あの大剣が刺さっていたのだ。
 ほぼ同時に狙われたクリスも床を転がり大剣を避けていた。
 死角から一体どうやって……。
 何かがクリスの中でざわめく。
 死角からの一撃……それが引っかかって仕方ないのだ。
 心の中で引っかかる物がチリチリ燃えていた。
 クリスと一三が十四に気を取られた刹那。
 伯爵は一三の眼前に立っていた。
 それを認識した瞬間、右腕に食い込んでいたのは大剣だった。
 クリスですらそれにきづくことはない。
「まさか、てめぇ……」
 呟く言葉も言い終わらぬ間に、
「見えぬ物を信じる愚か者が!!」
 伯爵の突き出した拳が、うねりを上げ一三の肩を抉った。
 飛び散った血飛沫。
 紙一重。まともに当たっていたら顔が飛んでいたことだろう。
「動作が鈍っているぞ。本当は立っているのもやっとなのだろう?」
「たは、うるせぇよ。聞こえないか、ドラクロア。お前が死ぬまでのカウントダウンがよ」
 一三の右腕が血を噴出しながら掌を打ち込こうとする。
 伯爵の口元がニヤリとつりあがった。
 一三の掌が伯爵の顔にめり込む。
 ……それだけだ。
 速度もなければ威力もない蝿が止まるような貧弱な一撃。
 それを分かっていてドラクロアは受けたのだ。
 屈辱感と無力感を持たせ殺す為に。
「絶望的だな。全く威力がないでないか」
 ドラクロアの伸ばした人差し指がゆっくりと。
「クリス!!本体だ!!伯爵の本体を見つけ……!!」
 ……そこで一三の言葉は途切れた。
 一三の鳩尾に伯爵の人差し指が食い込む。
 肉を抉り、骨を砕き、根元まで深々と。
 身体を震わせ、苦悶に歪む一三の顔……。
 伯爵が笑みと共に赤い指先を引き抜くと、鮮血がこぼれ落ちる。
「一三……!!」
 駆け寄ろうとしたクリスを襲ったのは死角からふってくる大剣だった。
 それをかわし、冷静にクリスは一三の言葉を頭の中で繰り返す。
 床に刺さった大剣。
 つまりこれと一三が戦ってるドラクロア伯爵を操っている本体が存在するということだ。
 本体がこの部屋の何処かに……。
「いやはや、良く分かった。分かったところでどうにもならないがね。さ、次はクリス、君だ」
「待てよ……」
 スッと伸びた一三の手が伯爵の肩をつかんだ。 
「ほう。随分頑張るじゃないか。もう一度聞くが何故、君はそこまでする? まさか本気で子供が泣くのが嫌だなどと言ってはないのだろう?」
「てめぇにはわからねぇさ」
「そうか、実に残念だ」
 ずぶぅり、という音と共に伯爵の指先が一三の胸に食い込んだ。
 細胞、筋繊維、血管を破壊し肉を抉る。
 虚ろな瞳の一三の身体だけが震えた。
 そして、狂ったように笑う伯爵。
 ずぬ、ずぬ、ずぬ、ずぬ、ずぬぅり。
 玩具だ。
 弄る、弄る、指先が一三の身体を。命の玩具を。弄る。
 ……クリスは襲い掛かる刃をかわしながらその光景を見つめる。
 泣き叫びそうになるのを唇を噛み締め堪えた。
 堪えなければならない。
 今できることは叫ぶことではない。
 怒りに身を任せることでもなければ、一三を助けることでもない。
 今すべきことは、命懸けで伯爵を食い止めている一三の言葉に、思いに答えることだ。
 感じ取れ、この室内にいる全てを。
 剣が飛びかう中、ゆっくりと目をつむる。
 瞳を閉じた後、意識の全ての感覚を広げていく。
 ……来る。
 クリスの体がスッと左に傾いた。
 そのスレスレを大剣がかすめていく。
 刃物のように研ぎ澄まされた感覚のセンサーが全ての動きを教えてくれる。
 そっと広げた指先に触れて通り過ぎて行く大気。
 蝋燭の揺らぎまで感じることができる。
 全てが指先に集まり、肌が神経が自分のという存在が周囲と一つになっていた。
 まるで水の中に包まれている感覚。
 何故、一三ほどの者達が背から刺されたか。
 ……スッとクリスが下がると大剣が大理石の床に刺さった。
 目が眩まされていた。目の前の醜悪な邪気に。本当はそこにいるのに気づかなかったのだ。
 伯爵が血まみれの一三の襟首をつかむ。
「もういい。貴様には飽き……!?」
 そこまで言いかけて。
 唐突にビクリとドラクロア伯爵が身体を振るわせた。
「一三が言ったはずだ、貴様が滅びるまでのカウントダウンを」
 ゆっくりと……ドラクロア伯爵が振り返る。
「まさか……」
 伯爵の崩れる体……砂となる指先、髪……。
「クリス、クリス、クリスクリスクリスクリスゥウウウウウウゥウウゥ!!」
 ぐるぅりと回転した瞳がそれを見つめる。
 構える宙に向かい掌をかざすクリス。
 ……赤。
 空中から溢れ出した赤い血。
 ゆっくりと周囲から姿を隠す迷彩が剥がれ落ち……。
 クリスの視線の先で、空中に浮遊するドラクロアの姿があらわになる。
 シェフィールドナイフを刺されたドラクロアの姿が。
 それは一三の前にいるドラクロアと似ても似つかぬほど弱々しい老人だった。
 そう、この痩せ細った老人は最初からそこに存在していたのだ。
「小娘がぁぁぁぁぁぁっぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 しわがれた手がナイフを握りつぶす。
 同時に一三をいたぶっていた方のドラクロアもクリスに向かって動き出す。
「ハッハ!!ナイフがなければなにもできなだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 先ほどまでの大剣を既に塵となっている。
 クリスの武器ももうない。
 ……だが、クリスは冷静にただ、スッと手を動かす。
「一三……ありがとう」
 小さくそう呟いた。
 その瞬間。
 赤が奔った。
 赤の死線。
 煌く赤い何かが。
「あがががががっがががあがっがあがっががが!!!!」
 迸る赤黒い鮮血とドラクロアの叫び声。
「……少しは叫ばなかった一三を見習ったらどうだ、伯爵」
 胸を袈裟斬りに裂かれたドラクロア伯爵の声が響き渡る。
「何をしたぁぁぁ……何故……気づいたぁぁぁ……」
 老人……ドラクロアの本体が呟いた瞬間、立ち尽くしたドラクロアが砂となり崩れていく。
 流れ出す血と共に、ドラクロア本体の上半身が床に落ちた。
「デコイや迷彩とでも言うのだろうな。傀儡に戦わせてる間に自分は安全な所から敵を狙う。下衆が考えそうなことだ」
「うう……」
「何故、狙ったように百発百中で大剣が死角から刺さるのか考えてた……貴様、私が気づく前に一度だけ外したな。私が動かなかったのに貴様は外した。その時は角度的にうまく見えなかったんだろうな……」
 クリスは立ったまま朦朧としていた一三に近づくと、そっとその身体を抱きしめる。
 そっと傷をいたわる様に。
「透明な貴様が血飛沫や埃が飛び散る中を移動して、大気がゆらめいても蝋燭のゆらめきのせいだと思ってしまう。だがその醜悪な臭いと染着いた血の臭いは別だ」
 ドラクロアは震える声を絞り言葉を紡ぐ。
「……武器はもうない……はずだったのに……」
「分からないか?」
 スッとクリスが傷だらけの手を宙にかざしす。
 すると掌に赤い塊が集まり……大理石の床に落ちて広がった。
「それは……いや、まさか……」
「ヘモグロビンの死滅した血液だ」
 ヘモグロビンは赤血球の中に多く含まれている“血色素”とも呼ばれている成分だ。
 ヘモグロビンは,鉄をふくむ特別の色素(ヘムまたはヘモクロモゲン)とグロビンというタンパク質との複合体である。
「勘違いしていたようだが私の能力は斥力、引力の影響を物質に及ぼす力。ヘモグロビンの死滅した血液なら物質と同じで操れないことはない」
 つまりクリスはドラクロアに向かい引き寄せて集めた血液を、ドラクロアに向かって放ったのだ。
 それは水圧のレーザーに良く似ていた。
「そう、それの硬度を調節したのが私だったりします」
 よろよろと立ち上がった十四が一三を抱き起こしながら微笑む。
 一三も血反吐を吐きながら呟いた。
「そンで俺が囮ってわけだ……」
 ドラクロアは血走った目を見開き、三人を見つめる。
 認められるはずがない。
 信じられるはずがない。
 そんなことがあるはずがないのだ。
「そんなバカな……いつ……タイミングを合わせたと言うのだ……まさか短時間でそんなこと出来るはずが……」
 ドラクロアがそれを絆だと気づくことも、認めることも多分もうない。
「何故だ……クリス。私と同じでお前に人間として受け入れられる場所など……」
「終りだ、孤独な吸血鬼。ここから、私は一三と共に生きていく。もう私は孤独なんかじゃない」
 決意と決別。
 それはどこか、始まりと終わりに似ていた。
 孤独を飲み込むたびに、苦笑いをして大人のふりして生きてきた日々……。
 今はもう一人じゃない。大切な者は掴めるほど側に存在する。
「何故、私は……。あの時……」
 遠くを見つめたままドラクロア伯爵が呟いた。
 それは死の淵の走馬灯と蜃気楼かもしれない。
 ゆっくりと夜が終わり、オレンジの光が開いた壁穴から差し込む。
 今、長い夜が終ろうとしていた。
 死を迎える伯爵の唇が僅かに動いた。
「嗚呼……なんて眩しい……迎えに来て……くれたのか……エクシード……」
 ドラクロア伯爵はゆっくりと瞳を閉じる……。
 その死に顔は悪鬼に相応しくない穏やかな……微笑。
 それが吸血伯爵ドラクロア・S(セリザワ)・ディープカルネージの最後だった。
 終わった……長い夜が。
 その瞬間、空へ伸びていく光の粒子……。
 朝日の中、捕らえられていた魂たちが空へ光となって帰って行く……。
 十四はやれやれと呟き、マイルドセヴンを口に咥える。
 クリスがいなければすぐにでも兄に甘えていたことだろう。
「終りましたね……兄さん」
「ああ」
 一三がそう言った瞬間、
「一三……!!」
 バッと、クリスが一三の身体に飛びついた。
 それを支えきれず二人は抱き合ったまま転んだような姿になる。
 フッと一三が微笑む。
 傷は負っていて余裕などないはずなのに、いつも通り余裕ぶるのが一三らしいとクリスは思う。
 そうやって余裕ぶるならば……少しぐらい甘えてもいいだろう。
「クリス……これから先だが……」
 言いかけた一三の唇にクリスの人差し指が触れた。
 そう、それは一三がクリスにやったのと同じ仕草だ。
「家族なら、こうやってハグするのは……自然なことだろう?」
 既にクリスは選んでいた、これから進む道を……。
 共に生きるべき相手を。
 またさっきのように一三が止めようとしてもクリスは着いていくだろう。
 キュッと一三を抱軋める手に力を込め、そっぽを向くクリス。
 キョトンとしていた一三が、そっとクリスの髪をなでる。
「よろしくな、九六三」
「うん……」
 相変わらず不器用に照れながらもクリスは答える。
 クリスは暖かな温もりの中、もう少しこのままこうして居たいと思った。
 大切な物を見つけるのには時間がかかる。
 だがそれを大切にしていくのはもっと時間がかかる。
 その時間はこの先、十分に在る。
 クリスの居場所と大切な人を大事にしていく時間が……。
 

 ◇


 三年後……。
 その部屋の中央柱に飾られた大時計だけが歯車の音を響かせている。
 ステンドグラスから漏れる月明かりが、ハングドクロスを讃えるように照らしていた。
 赤く血で染まった逆十字は今まで何人の血を吸ってきたのだろうか。
 そして流れる葬送曲……はどこかテンポがおかしかった。
「ははははっははははは!!良くキャッスルトランシルヴァニアに来た、人間よ!!我こそは吸血伯爵……」
 悪意を持った声が響き渡る。
 祭壇の上で、髪をオールバックにまとめた紳士が両手を広げた。
「不死身、無敵、絶倫!! 最強世紀末覇者吸血鬼伯爵!! ギュュュュュュュンタァァァァァァァァァ・ラル!!ギュンター・ラル・ザ・エイムストライク!!」
 ギュンターラルは視線の先に立つ者に向かって叫ぶ。
 その視線の先にはフードマントを纏った人物がギュンター・ラルを見つめていた。
「怯えるがいいさ!! 泣き叫ぶがいいさ!! この私に跪くがいいさ!!」
 マントを纏った人物はフゥーと溜息をつく。
「まさか、知らせを聞いた時は驚いたぞ、ギュンター・ラル。貴様が生きているとはな」
 意外にも、その声は高く美しい女性の者だった。
 ギュンター・ラルは首をかしげる。
「ンン〜? 何を言っているのだ?」
 マントの女性はなおも言葉を続ける。
「しかも犯した罪は、飲食物窃盗、猥褻行為……どこまで落ちぶれれば気が済むのか」
「う、うるさい!! 吸血歯が折れてなければ私だって……!! 私だって生活が大変なのだぞ!!」
 痛いところをつかれギュンター・ラルは地団駄を踏んだ。
 下級吸血鬼、しかも元人間のギュンター・ラルは三年前に死にかけて歯を折られてから再生することがなかったのだ。当然、部下など出来るはずもなく……。
「ええい!貴様、女だな!! 久しぶりの女、十分に味合わせて貰おう!!」
「退治する気も失せるが……貴様は誰に歯を折られたか思い出してみるか?」
 女性がバッとマントをはぎ取った。
「へ?」
 その瞬間、ギュンター・ラルは口をあんぐりと開く。
 大きく見開いた双眸がヒクヒクと動いた。
「あわわわわわわわわわわわ……」
 震える指先が女性を指さす。
 そう、それは……ギュンター・ラルをこの生活に追い込んだ張本人だ。
 今でもあの日を思い出すと恐怖で眠ることもできない。
「登場に颯爽と名を名乗るのが死村の嗜み、あえて名乗らせて貰おう」
 金色の長く美しい髪を靡かせ、女性は微笑を浮かべる。
 あれから三年、スラッとした体つきと、ほんの少し、ほんの少しだけ大人になった胸。変わらない勝気な表情。
「孤独に抗う強さを持って私の名を名乗ろう。『制裁の朱線(デッドロード・エンド)』の二つ名と……死村九六三の名を。お前の居場所、散る前に決めておけ」
 強さと意思を瞳に秘めて九六三は疾駆する。


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
エルスさんの意見
 人として大事なことが、強く描かれているという印象を受けました。
 こういう作風、テーマは最近見なかったので新鮮でした。
 そして、いわゆるモンスターと 人間との戦い。
 臨場感と、敵の桁外れの強さにどきどきでした。
 確かに長いですが、必要な分だけの最低限の長さだと思いました。

 えーと。カタカナ語はちょっとわからない言葉もあったために多いかなと思ったのですが、
 単に私の知識不足です。
 文体がやや硬いですが、私もそうなので気になりませんでした。
 キャラとストーリーは言及するべき点がないです。相変わらずお見事です。
 気になったところといえば、視点の切り替えのポイントでしょうか。
 ちょっとごちゃごちゃしていたと思いました。


maoshuさんの意見
 感想ですが、レベルが高いです。
 吸血鬼の宿命やアクションシーンは楽しめました。

 でも、視点移動があったので主人公が十三なのかクリスなのかがわかりませんでした。
 また、「?」の後にスペースを空けていないのも気になりましたし、
 十四が男なのか女なのか、そして、十三、十四を何と読むのかがわかりませんでした。
 地元に、十三と書いて、じゅうそうと読む地名があります。
 でも、ツンデレが、ああくるとは思いませんでした。
 大人でも、ツンデレが可能……なんですね。


『ち』さんの意見
 全く個人的な趣向ですが、面白いと感じた点をあげてみます。
 敵の強大さ、話の中で成長を見せるクリス、正体を暴くクリスの技量、最強すぎ十三と十四。
 そして、名乗り台詞の美しさもまた最高です。
 ぜひ続編が読みたい、純粋にそう思えた作品でした。


一言コメント
 ・描写がすばらしかったです。
 ・キャラクターが素敵です。十三に惚れました。こんなノンストップで読めたのは初めてでした。

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