高得点作品掲載所     ジャンゴ五郎さん 著作  | トップへ戻る | 

シムラ・ジャメ・ビュ

『ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ!!!! さぁ、三六さん。お兄ちゃんの胸にその華奢な体を飛び込ませなさい。天使のようにあどけない瞳も、薄い唇も、美しくも艶やかな黒髪も、お兄ちゃんが全て抱きしめてさしあげましょう!!』
 リピートされるデジタル目覚まし時計からの声……不快極まりない。
 それを毛布から伸びた白い手が手探りで止める。
 レースのカーテンから溢れる優しい光……。
 それが白を基調とした部屋の中に降り注ぎ、コケティッシュなヌイグルミや動物型の可愛らしいクッションを照らしていた。
 三六がゆっくりと瞳を開けると目の前には……。
「おはようございます。三六さん、最近思ったのです」
 ……死村三六(しむらみろく)。華奢で小柄な十六歳。
「三六さんは私のことを兄さんと呼びますがそれではあまりにも味気ないと思うのです」
 ……公立高校生女子。一人称、ボク。
「お兄ちゃん……。嗚呼、この響きの持つ素晴らしさが分かりますか? 私は三六さんからそう呼ばれるたびに背筋にゾクゾクとした物が走るのです」
 ……年頃になれば悩みの一つも。
「三六さん知ってますか? お兄ちゃんという言葉には由緒正しい歴史があり、その昔、種子島に伝えられたのは鉄砲ではなくお兄ちゃんという言葉なのです。かの有名な徳川家康もこう言っています……呼ばぬなら、呼ばせてみせよう、お兄ちゃん」
「黙れ!! ボケ!!」
 朝一番の三六の怒声。
 甲高いその声はまるで不如帰が囀るようだった。
 三六の白い足が、死村十四(しむらじゅうし)を全力で布団の中から蹴りだす。
 十四のスラッとした体が三六のベッドから転がり落ちた。
 寝巻きの浴衣姿ということは昨日の夜から忍び込んでいたのだろうか……。
 ジッと見つめる三六に気づき十四が満面の笑みを浮かべる。
 憂いを帯びた切れ長の双眸に柔らかな唇、端正な顔立ちと際立たせる長い黒髪も鮮やかで……美形と呼ばれても何等遜色のない顔立ちなのだが……。
「ああ……朝から妹の足蹴にされる兄の幸せ……これでこそ忍び込んだ甲斐があるというものです」
 ……変態である。
 蹴られて尚、その端正な表情は至極幸せそうだった。
 一人目の変態兄、死村十四。大学生。
 妹である三六でさえ美形だと認めるが、この男こそ宝の持ち腐れという言葉が最も相応しい。
 文学少女である三六が最近読んだ詩集の中にこういう言葉があった。
『この赤い花は二つの罪を犯している。それは私に美しいと思わせたこと、愛させたこと。つまり美しいことはそれだけで罪なのだ』
 哲学者エソントの詩……もし、その言葉の通りなら十四の美しさは罪なのかもしれない。いや、変態と言う時点で大重罪なのだが……。
「兄さん、あのですね、ボクのベッドに勝手に入らないでください!!」
 三六は側頭部の癖毛を直しながら口を尖らせた。
「勝手に入っていません。ちゃんと耳元で囁きましたよ……。優しく、甘く、入りますよ……?いいですか、とね」
 甘い、蕩けるような十四の声。
 まるで耳元でソッと吐息を吹かれるような感覚……。
 きっと、三六以外の女の子がその声を聞けばあっさりとドアを開けていただろう。
「寝てる間に言っても意味ないですよ!! だいたいが錠前をつけたはずです!!」
 スッと十四が『ドロドロに溶けて固まった』錠前を見せた。
「私の愛はこの程度では束縛できないですよ?」
「またそういうことに無駄な『力』を……。いいですか、今後はボクの了承を得てからそういうことしてください」
 と言いつつも、何があろうと絶対に了承しないと心に誓っていた。
「そうですね、分かりました……」
 寂しそうな顔で十四が起き上がる。
 それはどこか遠くを見つめるような瞳だった。
 少し言い過ぎたかと、死村家の中で比較的人格のまともな三六は考える。
「兄さん……」
 三六の呟きの後、フッと十四が笑った。
「では、一緒に朝風呂に」
「……底なし沼に素潜りさせますよ?」
 その時は他の変態兄達も一緒に沈めてしまおうと思う。
 もっとも十四達にはそれぐらいでは『効果がない』ことを知っているが……。
「うあ! 兄貴!! 肉じゃがとカレーを混ぜるなよ!!」
 キッチンから弟である死村十五(しむらじゅうご)のボーイソプラノが響く。
 三六は昨夜の残りの肉じゃが冷蔵庫に残っていたのを思い出した。
 カレーと肉じゃがを混ぜる暴挙に出るのは多分……もう一人の変態だ。
「たはは。俺のレパートリーって言ったら、カレー、肉じゃが、肉じゃがカレーだからな」
「なんで最後のはミクスチャーなんだよ! 普通に肉じゃがで……ゴボウ? なんでゴボウ?」
「いや、サトウキビだ。甘みを少しな……」
「入れるな!!」
「まぁ、胃の中に入れば同じだろぜ。たっぷりと食え」
「いいから入れるなっ!! 姉貴!! 早く起きて!! 姉貴!!」
 十五の絹を裂く悲痛な叫び声……。
 三六は思わず頭を抑えた。
 ふと時計を見れば時間は七時……。
 早く兄たちのお弁当と朝食を作らなければ学校に遅刻してしまう。
「そうそう、三六さん。お爺様から伝達がありました」
 部屋を出ようとした十四がドアノブに手をかけ止まった。
「兄さん、宗主って呼ばないとうるさいですよ……またアレですか?」
 三六はそう言いながら、癖のある長い黒髪をゴムで留める。
 宗主からの伝達を想像しつつ嘆息した。
「はい。察しの通り。放課後、説明するから本家に来て欲しいそうです」
 宗主……死村一族の長にして曾祖父。
 偏屈で変わり者だが、誕生日プレゼントは必ず贈る豆な面もある。
「あの、兄さん。ボク……普通の高校生女子じゃダメですか?」
 三六は少し上目遣いに十四を見つめた。
 十四はいつも通り微笑を浮べる。
「私も三六さんぐらいの頃にそう思いましたね……」
「兄さんもですか?」
 十四がフッと笑い頷く。
「ええ。普通がどういうものか……。自分の生き方を決めるのは三六さんですよ。自分の進む道をじっくりと考えて、もし悩んで疲れたら僕たち兄弟に頼ってください。死村は家族と忠義を裏切りませんから」
 優しい微笑み……。
 少しだけ、この人が兄で良かったと思う。
「多分、答えはもう三六さんの中にあると思いますけどね」
 十四はそう言うと妙にあっさり部屋から出て行く。
 もしかしたら三六が宗主に呼ばれたことを気にしているのかもしれない。
 意外と十四はそういうナイーブな面があるのだ。
「……家族ですか」
 呟きながら三六はパジャマの前ボタンに手をかける。
 周囲と自分の環境のギャップや普通ではないこと、それが少しだけ苦しかった。
 自分が異端者だと思い知らされる度に、くすぶる何かが胸の奥でチリチリと音をたてるのだ。
「三六さん……」
 ドアの向こうから聞こえる十四の声……。
「兄さん、ボク……」
「日記に連載小説とか書くのはどうかと思いますよ」
「兄さん、貴方に読まれた日記帳で血反吐吐くまでブン殴っていいですか?」
 こうして、いつも通り、死村家にとって『普通』の日常が始まった。





 三六は高校からの帰り道の途中のスーパーマーケットに必ず寄る。
 授業が終わって、学校の図書館でその日の授業の復習をして学校を出ると、ちょうど生鮮品の値下げが始まるのだ。スメラギチェ−ンのスーパ−は品数が多く、三六のお目当てであるコーヒー豆まで豊富に置いてある。普段ならゆっくりと目利きするとこだが、今日は急いで宗主の元に行かなければならない。
「家業ですか……」
 手の中の買い物袋の重みを感じながらポツリと三六が呟く。
 学校などで周囲の家庭環境の話しを良く耳にする。
 やれ進路はどうだとか、やれ家族はどうだとか……。
 その度に、三六は自分が周囲とずれていることを感じるのだ。
 周囲との違いは幼い頃から気づいていた。
 レールから外れるという言葉。
 よく青春ドラマとか三六の好きなジュブナイル小説で聞く台詞だ。
 ……多分、死村はそんなレベルではない。
 ドロップアウト・オブ・ドロップアウト。
 元からレールや道など歩いておらず、つまり根本的に異なる。
 極論に近い乱暴な言い方だが、より多くの人が考える『普通』が、その社会の『普通』であり真実だ。
 死村は普通の定義から外れていると言ってもいい。
 それがゲミュート……いわゆる心情を掻き乱すのだった。
 三六はしばらく歩くと、鉄筋コンクリートの重厚なマンションの前で足を止める。
 慣れた動作で、玄関ホールに入り部屋番号と呼び出しボタンを押した。
「ただいま」
 そう、自宅に帰って来たのだ。
 スピーカーフォンから返事が返り、その直後、厳重に閉じていたガラスの扉が横に開く。
 オートロックの自動警備システムだ。
 三六はエレベーターに入り最上階の五階に向かう。
 そこにいるのが死村家の宗主である。
「……」
 揺れるエレベーターの沈黙の中、三六はふと物思いにふける。
『沈黙は一つの会話である』と言ったのはW・ハズリットだったろうか。
 考えても仕方ないことや、悩んでも仕方ないことで悩むのは悪いことじゃない。そういう時は静かに沈黙して自分と会話をすればいい。
 普通であること……。
 十四は、答えは三六の中にあると言った。
『ジャメ・ビュ』……未視感、経験してることや知っていることを初めてだと感じること。
 今まで、どこかで答えを見ているのかもしれないし、触れているのかもしれない。三六の気づかないどこかで……。
 エレベーターが停止すると、五階で降りて隅の部屋へ向かった。
 通り過ぎるどの部屋にも表札がない。ただ簡素などこにであるドアが並んでいる。
 五十六、一二三……。
 表札の変わりに格部屋のドアには漢数字で番号が書かれ、それが延々と廊下の端まで続いていた。
 それは部屋番号などではない。至極簡単な答え……ここに住むのは皆、死村の血族、つまり各部屋の番号は一族の名前である。
 一族で一つのビルに住む……三六は小学生になるまでそれが普通だと信じていた。
 どこの家でもきっとそうなのだ、と。
 まだ幼い三六が十四にその理由を聞くとこう答えた。
『三六さん。死村は皆、寂しがり屋さんなんですよ』と。
 子供の頃は十四の言葉を鵜呑みにしていたが、今考えれば一族の家業という側面もあるのだろうと思う。
 三六は奥の部屋の前で立ち止まるとドアフォンを押す。
 ほどなくしてドアが開き、アロハシャツの老人がひょっこりと姿を現した。
 ツルッと光る頭にはサングラスを乗せ、両耳にはピアス……。
 それらは老人の顔に刻まれた皺とひどく不釣合いな出で立ちである。
「おお、三六」
 老人に向かって三六が頭を下げた。
「宗主様、お話を窺いに参りました」
 ゆっくりと頭をあげ、三六は老人を見つめる。
 三六はこの老人……宗主が玄関に出てくるまで、室内にいるのか、いないのかさえ分からなかった。
 今も確かに目の前にいるというのに気配というものが全くない。
 さすが死村最強と言われることがある。
「よく来た。よく来た。さぁ、お入り」
 宗主が三六を手招きする。
 昨日会ったばかりだというのにまるで数週間もあってないような口調だった。もしかしたら、十四が言うように死村は寂しがり屋なのかもしれない。
 三六は黙って宗主の後を着いて、室内に入っていく。
 宗主の部屋は相変わらずゴチャゴチャしていて、短い廊下にもゲーム機の箱やコミックが陳列されている。
 キッチンとバスに挟まれた廊下の先にドアがあり、宗主が先行してドアを開く。
 ドアの奥、そこは十畳ほどの広さの和室だった。
「三六さん」
 部屋の中で座っていた人物が柔らかな声で三六の名を呼んだ。
「あ、兄さん……」
 思わず三六が声を上げる。
 部屋の奥に跪座していた十四がいつもの微笑を浮べ頷く。
 その横顔は赤く染まった障子から漏れる夕日を受けていた。
 和室の最奥、十四の傍らに宗主が座ると三六も跪座した。
「三六よ……」
「はい……」
 明かり障子を通った陽の光が、三六の白い頬を染める。
「まず、ワシに膝枕を……」
「殴りますよ、宗主様」
 十四と三六が同時に言葉を紡ぐ。
「兄さんと意見が……」
「ええ、珍しいですね。三六さんと意見の一致とは……これも兄と妹の愛でしょうか」
 三六はとりあえず変態の言うことは無視した。
 意見の一致に少しでも喜んだ自分の馬鹿さ加減に後悔しながら。
 一瞬、緩んだ宗主の顔が鋭い表情に戻る。
「ふは。戯れだよ、三六。お前さんはちと固すぎるからな」
 いやいやいや、本気だった。
 宗主はあの変態同様に本気で言っていた。
 宗主の発言に悔しそうな顔してる十四が腹立たしい。
「実はお前に仕事をしてもらいたい」
 スッと宗主は三六の前に書類を置いた。
「……殺すんですか?」
 ごくごく普通に発せられたその言葉に宗主は頷く。
 依頼を受け、人を殺す。それは暗殺集団死村にとって当然のことだ。
 ある者は素手で肉を裂き、ある者は玩具に偽装した暗器で完殺する。
 そして、またある者は自信の資質で依頼を遂行するのだ。
「分かりました」
 三六は手を突いて礼をすると、音も立てずに立ち上がった。
「そうか。三六もようやく音を立てず歩けるようになったのだな……初めて人を殺してもう五年か」
 三六は言われてそのことを思い出した。
 殺すという行為があまりにも日常的になり過ぎている。
 それは世間の定めた普通の定義から大きく逸脱していた。
「はい。五年です」
「お前ぐらいの年齢ならもう一人で殺していけるはずだ。十四や一三のように立派な暗殺者になりなさい。いつか二つ名で呼ばれるぐらいのな」
 三六は老人の言葉には応えず、背を向ける。
「あ、三六さん」
 十四に呼び止められ三六が振り返った。
「三六さん、『ベルベット・ガーデン』のライヴに行きたがってましたよね。実はチケットが手に入りまして」
 十四がスッとポケットからチケットらしき紙切れを取り出した。
「え!! 本当ですか!!」
 三六のあどけない瞳が御馳走を目の前にした時のように輝く。
 ベルベット・ガーデンは中高生女子に人気のロックバンドである。
 死村家でそういうことに興味を示す者は少ないため、十四が知っていたのは驚くべきことだ。
「ええ。この仕事が終わったら二人で行きましょう」
「行きます!! 行きます!!」
 宗主は歯軋りしながら十四を睨む。
「クッ。小細工しおって……!!」
「フフ、ちゃんと三六さんの日記で欲しい物はリサーチ済みですよ」
「ナッ!! 羨ましい……!!」
 心底悔しがる宗主と、何故か誇らしげな十四。
 ……最早、何も言うまい。
 三六は無言で部屋を出たのだった。





 蒼い月灯かりが寂しく闇の中で輝いてる。
 儚く、蛍火のように……。
 ビル風が林立する高層建築物を通りすぎる度に唸り声をあげていた。
 湿度は20%、南南西からの風速は12マイル。
「……あそこですね」
 三六はやや緊張した声で呟いた。
 濃紺のセーラー服がビル風に煽られるその度に少しだけ肌寒さを感じる。
 今、三六が立っているのは標的のマンションから、200ヤードほど先のビルだった。
 手にはやや大きめのギターケース……。
 それを冷たいコンクリートの上に置き、中からライフルを取り出す。
 ごくごく自然な、慣れた手つきで。
 死村で銃を使う者は少ない。
 体術や技能に劣るが集中力と繊細な神経を持った三六には狙撃が最も適していた。
 通常、狙撃は二人のチームで実行される。
 一人がスナイパー、もう一人がサポートの観測者だ。
 だが三六の目があれば観測者は必要ない。
 三六の目は死村の中で最も優れていて、暗闇の中でも確実に針穴に糸を通す動きができる。
 今もしっかりと200ヤード先の室内をしっかりと捉えていた。
 三六が立つこのビルはそれほど高くはないが、斜線が通るギリギリ高さだ。
 高ければ高いほど、狙撃に適するわけではない。
 下向きの射撃では重力の弾道に及ぼす影響が誤差となることがある。
 高すぎる位置は狙撃自体の難度を上げてしまうのだ。
 高さ、角度、風向きから考えてもこのビルは狙撃に最も適しているだろう。
 三六は伏せ撃ちの体制を取る為に毛布を引いた。
 ……今回の仕事のターゲットは暴力団組員の男性らしい。
 依頼人のことや、殺す理由は聞いてないが、多分それはどうでもいいことだろう。
 殺して、また殺して……ただ、殺す。
 初めて人を殺して死村と認められた時からその運命は変わらない。
 最早、普通に生きることなど……そもそも普通とはなんなのか。
 自分は本当に死村の者なのだろうか。
 三六はフォアエンド先端のパイポッドを展開してからストックを抱きうつ伏せになる。
 体をコンクリートと固定し、ストック内からモノポッドを引き出し調節した。
 コンクリートと体がしっかりと一つに重なる感覚……それは暗殺前のいつもの感覚。
 さらに300口径ライフル弾を収めた装弾子ごと機関部に押し込む。
 薬室に弾丸を押し込む冷たく魂のない音。
 ……三六は淡々と慣れた動作でこなす自分自身に嫌悪感がした。
 このスコープの縁取った世界に映る物……。
 これから奪う命……。
 これから奪う未来……。
 初めて殺した時の十字線が標的と合った時の恐怖感や緊張はもうない。
 月明かりに反射するマンションの窓ガラス越しに標的のシルエットが見えた。
 標的の男性だ……。
 妻がいて……子供がいて……友達もいるだろう。
 誰に恨まれてかは知らないし、知ることに意味はない。
 今此処でその命を奪う。
 縁取った世界に標的を捉える。
 丁度、窓際に立った。
 風が強く吹く……。
 三六はゆっくりと引き金を……。

 ……引かなかった。

 様子がおかしい。
 突然、標的の体が窓際に叩きつけられた。
 抗争だろうか。何かが室内で起きている。
 心臓は不規則なリズムを刻みだす。
 ざわめく不安が心に広がっていく。
 どうする。このまま続けるか、撤退するか。
 躊躇った瞬間だった。
 スコープの向こうで標的の体が……千切れ飛んだ。
 切裂いたのは血に染まった褐色の細い手だった。
「!!!!」
 スコープに映る赤。赤。赤。肉片。
 まずい!!!!
 肌を突き刺すような感覚……。
 何が起こっているか理解するより先に、死村の本能が危険のシグナルイエローを告げていた。
 ここにいるのは確実にまずい!!!!
 しかし……遅い。
 撤退しようと行動した時、標的のベランダの窓がゆっくりと開く。
 思わず三六の動きが固まる。
 窓から現れたのは三六よりもう少し年下の少女だった。
 夜の闇に包まれた褐色の肌と大きな瞳が月明かりに照らされ輝いている。
 凝視した三六の瞳とベランダに立った少女の目が合う。
 その瞬間だった。
 跳んだ。
 少女のしなやかな褐色の筋肉のバネがコンクリートを弾き宙に舞う。
 まるでカタパルトで飛ばされた大弓だ。
 その出来事は三六が認識した映像を脳に伝える刹那であり、声の一つを発する間もなかった。
 思わずライフルが手から落ちる。
 トッ、という階段を二段飛ばしで飛ぶような軽い音。
 少女の体が近場のビルの屋上に降り立ち、もう一度跳んだ。
 それを数回繰り返し少女は三六の前に降り立つ。
 ……シグナルレッド!!
 少女のブリーチの入ったスカートと、サラリとしたショートヘアがビル風に踊る。
 ビル間を跳躍する人間離れした動きを見せた少女は八重歯を見せて微笑む。
 少女の白を基調としたセーラー服と、鮮やかな褐色の肌のコンストラストが少女の輪郭を、存在感を際立たせていた。
 三六は死角なる背中でP38マニュリーンを握り締める。
「はじめまして」
 少女はそう言うと、人懐っこい笑みで照れくさそうに笑う。
「あ、いえ、こちらこそです」
 三六は律儀に頭を下げた。
「ええと、お姉さんは殺し屋だよね?」
「ええ、そうです」
 緊張しながらぎこちなく三六が答えた。
「あ、やっぱり同業者か……」
「あの貴方も……?」
「そ。一応女子中学生兼殺し屋です!!」
 少女は三六よりもさらに薄い胸を張る仕草をしてみせる。
「お姉さんとターゲットがブッキングしたみたいだね」
「ええ……」
「お姉さんさ、こういう時のルールって知ってる?」
 ルール、そう呼べるほどの物ではない。
 第一に優先すべきは仕事。
 だが、時々この少女のように不必要に接近してくる者がいる。大概、そう言った者は何かしらの狂気や厄介事を孕んでいるのだ。
 そういう事態の暗黙のルール……。
 三六は無言でP38マニュリーンを構える。
 それが少女の言葉への返事だった。
「なんだ。知ってるんだ」
 少女の左手が素早く伸び、
「なら話は早いよね」
 P38マニュリーンの遊底をつかんで押し上げた。
「!!!!」
「オートマティックは遊底を押すと、排莢孔が露出して撃針は作動しないんだっけ?」
 少女の右手が高く振り上げられる。
「バイバイ、同業者のお姉さん」
 銃を離し、三六が、少女から、跳び退ろうとする。
 本能が告げていた。
 あの右手は……危険だ!!!!
「ああああああああああ!!」
 叫びを上げ三六が飛び退った。
 その瞬間、少女の右手が三六の前髪をかすめコンクリートを切り刻む。
 それはあまりにも圧倒的な破壊だった。
 音もなく抉られたコンクリートには五本の大きな傷痕が出来上がっている。
「あちゃ。外しちゃったか……」
 少女はパチンと指をならしてみせる。
「お姉さん、避けると痛いよ? ちゃんと切裂かれてくれなきゃ……それとも 戦うなら戦士として誇り高く戦闘しないとね」
 三六の歯がカチカチと音を鳴らしていた。
 思考がうまく定まらず、既に情報処理の限界を超えていた。
 何故、こんなわけも分からず、名前も知らない、出会ったばかりの、全くの他人に、ここまで……。でも、それはこの世界では当たり前のことで。それなのに、それなのに、この感覚は……。
 思考した言葉のフラグメントをまとめあげる暇などなかった。
 すでに少女が三六の眼前まで接近していたからだ。
 三六が気づいた時、少女の鋭い蹴りが腹部にめり込む。
「あぐぇ……」
 蛙が潰される様な声の後、血の混ざった胃液が飛び散った。
 刹那、高く振り上げられた少女の足が三六の脳天に振り下ろされる。
 対応しきれない素早い動きの連動……。
 三六の体の奥から稲妻のような熱が駆け巡っていく。
 足に力が入らず、体が地面とキスしてしまう。
 ぶれる視界は少女のリズミカルな動きを倒れながら見つめていた。
 ……レベルが違う。
 これではまるで子供と大人の喧嘩だ。
「じゃあね、お姉さん。バイバイ」
 少女が三六の襟首をつかみ持ち上げる。
 スッと振りかざしたのは先ほどの右手だった。
 ……殺される。
 本能的に三六はそれを悟っていた。
 それなのに……殺されるというのに、三六は不思議な気持ちだった。
「フ、フフフ……」
「ん?」
 少女の振りかざした手が止まる。
「何?」
「ハハハハハ……」
 死を前にして三六は尚も笑う。
「貴方は人を殺すことに躊躇ったことはありますか?」
「……ないよ」
「じゃあ、心が痛んだことは?」
「ないけど?だってこの仕事なら当たり前のことだよ」
 そう、それがこの世界で当たり前で普通のことだ。
 自分より年下であろうこの少女は既にそれを理解している。
「なんだかバカみたいですよね。ボクは普通に生きたかっただけなのに……」
 初めて人を殺した時から、それが当たり前になって……。
 周囲では人を殺すなと誰もが信じてる。
 汝、殺めることなかれ。
 教主は教徒に、親は子供に、教師は生徒に、人を殺めることを禁忌として教える。
 でも死村は違う。
 人を殺すのが死村だと教える。
 この世界の正義が大多数の方なら、死村は悪であり異端だ。
「ボク……自分が普通じゃないと思ってたんですよね」
「……」
 『普通』というのは一体なんであろうか。物理現象によって起こされる事象には必然的な結果が伴うものが多い。こうしたら『普通こうなるだろう』というように。
 一般論というにはあまりも不確実なロジック……。
 つまり『普通 』は『普通こうであるべき』という何らかの考えによって定められた不確定な基準である。確か、哲学者エソントの言葉だ。
 ……要は、決して決められたことが正しいわけではないということだ。
「分かりました、自分が何なのか……」
 死を前にして今更、気づいたこと……。
 少数の正義が悪だとしてもそれを誰が否定できるのか。
 そんな権利は誰にもない。デタラメなロジックに従う必要などない。
 少女は躊躇わないこと、痛みを感じないことが当たり前だと言った。
 その考えにも従う必要はなどないのだ。
「ボクは……」
 そして、こんな絶対絶命の状況で、圧倒的な強者を目の前にしたこの高揚感……湧き上がってくる力。
 それは死村の者として当然のことであり普通のこと。
 表にも裏にも従わない、死村の普通。
 なんのことはない……三六は骨の髄まで死村だったのだ。
 そんな分かりきったことを確認するとは……悩むとは愚の骨頂もいいところだ。
『ジャメ・ビュ』……探してた答えは死村の血が知っていたのだ。
「ボクは死村、死村三六ですっ!! それが貴方を殺す者の名前ですよ!!」
 怒りと決意の咆哮が夜空を劈いた。
 怒声と共に三六の繰り出した指先が少女の首筋を狙う。
 武器なんかない。
 ただの爪だ。
 だがそれだけで十分だ。
 肉を裂き、獲物を仕留めることができるならば。
「ッ!!」
 少女は頚動脈スレスレの一撃をなんとかかわす。
 それは少女にも予測できなかっただろう。
 その証拠に爪がかすめた首筋から血がしたたっていた。
 一瞬の隙。
 少女の指先が緩んだ瞬間、三六が素早く後退した。
「やるね、三六さん!! それでこそ、あの死村だね!!」
 少女は心から楽しむように笑った。
 まるで遠足を前にした子供のような表情……。
 どうやらこの少女も根っからの戦闘狂いのようだ。
 三六は死村家がそれなりに裏事の名門だと知っていたが、そんなに有名だったのだろうか。
「私は殺姫……殺姫初音(さつきはつね)。それが三六さんを殺す者の名前だよ」
 初音の指がパキパキと音をたてると大気を振動した。
 三六の額から一筋の汗が流れていく。
 圧倒的なまでのプレッシャー。
 デジャビュの反対であるジャメ・ビュの感覚。
 多分、勝てないだろうこと。
 三六にはそれが分かっていた、知っていた。
「行くよ、三六さん♪」
 少女が地を蹴る。
 一瞬で詰まる間合い。
 舞い上がったコンクリートの欠片が落ちるよりも早く三六との間合いを詰めた。
 勝てない……。
 今の三六にできること。
 それは見ることだけだった。
 見ることだけ……。
 拳が風を切り突き出されるのが見えた。
 三六は僅かに体を捻る。
 いや、それぐらいしか出来なかったという方が正しい。
 突き出された拳は風を裂き、三六の頬をかすめた。
 ……見える。
 驚くほど心がクリアーだった。
 夜空が、風が、今なら全てが見える。
 感覚が研ぎ澄まされていく。
 殺姫初音の一瞬で接近し、拳と蹴りのコンビネーションで攻める戦闘スタイル……。
 確か、中国武術の八卦掌(はっけしょう)の亜流派である八卦連符掌(はっけれんぷしょう)だったろうか?
 その連続した動作は反撃の隙を一切与えないと十四から聞いたことがある。
 だが連続とは絶え間なく繋がるという意味だ。
 最初の連動……コンボが崩れれば次の出までにコンマ数秒、僅かな隙ができる。
 対応するには十分だ。
 次の攻撃の予備動作に入る瞬間が見える……蹴りだ。
 それが来る瞬間、三六の指が初音の首筋を狙う。
「くっ!!」
 かわそうとした初音のバランスが崩れる。
 刃のような蹴りが空を切裂く。
 初音は素早くリズムを取り後退してみせる。
 三六は追撃せずただそこに立っていた。
 次の攻撃に合わせてカウンターを狙う。
 勝てなくてもいい……相打ちできるなら。
 ……きっと十四や兄たちは三六が殺された時、初音を殺しに行くだろう。
 もしかしたらその時に手傷を負うかもしれない。命を落とすことがあるかもしれない。
 それが嫌だった。それだけは絶対に。
 ここで仕留める、死村としての誇りのために、家族のために。
「ヒュウ!! やるね!!」
 人を殺すための存在は、三六に向かって感嘆の口笛を鳴らしてみせる。
 最早、凶器と言うよりも狂気に近いだろう。
「じゃあ、三六さんはこれをかわせるかな?」
 月明かりが褐色の手を青白く輝かせた。
 ……あのコンクリートを抉って切裂く必殺の一撃。
 それが能力なのか、技なのかは三六には分からない。
「ボクはかわさないですよ。撃ってきてください」
 三六の白い人差し指が来い来いとサインを送る。
 そう、かわす必要はない。三六が絶命する瞬間、三六の爪が喉元を抉っているはずだから。
「戦士の覚悟だね。行くよ、三六さん」
 コンクリートの断片が弾けた。
 ……来る。
 覚悟は決まってる。
 三六の双眸は真っ直ぐに初音を見つめていた。
 腕が振り上げられるのがバカにゆっくりと見える。
 三六は心の中で呟く。
 十五……お姉さんらしいことしてあげられなくてごめんね。
 宗主様……出来が悪い孫でした。
 姉さん、兄さん、皆……。
 十四兄さん……最後まで素直になれなかったけど、一度ぐらいお兄ちゃんと呼んでも……。
 三六の腕が、喉に向かって伸びる。
 初音の手が振り下ろされる。
 ……刹那。
 初音が体を軋ませて後退した。
 それはあまりに不自然で急な動きだった。
 何が起こったのか、三六にすら分からない。
 理解できたのは二人の間のコンクリートに……一輪の黒薔薇が刺さっていたことだ。
「誰ッ!?」
 初音が給水タンクに向かって叫ぶ。
 ……いた。
 そこに立っていた。
 給水タンクの上で、蒼い月明かりを浴びるしなやかなシルエット……。
 その人物は予兆もなければ前兆もない全くの唐突なタイミングで現れた。
 男の黒いコートと長髪がビル風にはためく。
 手には月明かりを宿した漆黒の薔薇……。
 三六はパクパクとその人物を見つめ口を開閉させた。
 死を覚悟したはずなのに……その場にへたり込んでしまう。
「やれやれ……」
 男は微笑を浮べ、吹きすさぶ風にその甘い美声を乗せる……。
「死村が何故、この名を堂々と名乗るか……。それは実に単純明快。それは危険を回避するためなのです。この名前は言わば海賊旗、威嚇。裏事に関わる者なら関わりたくはない忌むべき存在でしょうね。しかし、しかしですよ。面白いことにそれは賞金首の手配書でもあるのです。この名が目当てで死村に挑む者を呼び寄せてしまう……まぁ、大概返り討ちなんですけどね」
 男の黒薔薇がスッと初音に向けられる。
「それはお嬢さんも同じでしょう、殺姫のお嬢さん。殺姫の宗主……貴方の双子のお姉さんはお元気ですか?」
 ビクリと初音の体が反応した。
 だがそれよりも……。
「さっきからグダグダと……。格好つけてないで降りて来なよ」
「登場場面に格好つけるのは死村家男子の嗜みですよ?」
「あー、もういいからさ。早く戦おうよ♪」
 ワーカーホリックならぬバトルホリック。
 初音の獲物を狙う豹のような瞳がギンギンとぎらついていた。
 初音からの禍々しい程の重圧感。
 心底闘いを楽しんでいるのだ。
 三六にも『関わる者の身を滅ぼす』というその意味がはっきりと分かった。
「では高らかに誇りを持って私の名を名乗りましょう。『黒き眠りへ誘う者』の二つ名と……死村十四の名を」
 男……死村十四が三六の前に降り立った。
「兄さん……」
 三六がかずれた弱々しい声でその名を呟く。
 十四は屈み込み、三六の頭をそっとなでる。
 優しく愛しむように。
「三六さん、遅くなってすいませんね」
「兄さん」
 暖かくて大きな手……。
 今まで兄がここまで頼もしく見えたことはない。
 グッと三六は涙をこらえる。
 今は泣く時じゃない……今は。
「どうでもいいことですが……スカートの下にスパッツはどうかと思いますよ」
 なんのことかキョトンとしていた二人だったが……すぐに分かった。
 三六と初音の顔が暗闇でも分かるほど赤くなる。
 スパッツとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「兄さん、こういう時に……!!」
「ぶ、侮辱するなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 三六が怒鳴るより先にキレタのは初音だった。
 大きな瞳には薄っすらと涙を浮かべている。
 薄々、三六も気づいていたことだが、この少女は戦士ということと、戦うということに何かしらの誇りを持っているようだ。そう考えれば十四の言葉は最大の恥辱であり、初音の逆鱗を弄び嬲っていた。
「闘いは常に冷静に……熱くなったらそこで終わりですよ?」
 初音の振りかぶった右手が十四に迫る。
 あの圧倒的な一撃が。
「兄さん、避けて!!」
 三六の叫びに十四は指を振る。
「いやいや、避ける必要はないですよ」
 唸りをあげる右手……!!
 獣の爪牙が風すら薙ぎ、十四の体すらも裂こうとした!!
「兄さん……!!」
 三六の悲痛な叫びの後、金属と金属の擦れる音が響く。
「兄さん!!!」
 金属音に三六の声が混ざり合う。
 エコーする叫びと金属音が消えていく……。
「なぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 その次に叫んだのは初音だった。
 驚愕に目を見開き、呆然と光景を見つめている。
 その体は右手を振り下ろし固まったままだった。
「……避ける必要はないんです」
 初音の必殺の一撃。
 それを止めたのは十四が手にしていた黒い薔薇だった。
「右手に気……中国武術の勁を込めた必殺の一撃……。貴方のお姉さんと同じ技のようですが威力は劣りますね」
 十四の振るう黒薔薇が初音の脇腹を易々と切裂く。
 流れた鮮血と共に、初音の表情が苦悶に歪んだ。
 十四は黒薔薇の花弁に付着した血をピッと振り払う。
「薔薇が……私の右手を受け止める『硬さ』?」
 戸惑いながらも、それを振り切るようにもう一撃、右手が放たれる。
 烈火のごとく繰り出された右腕。
 普段なら易々と標的の肉を裂いていたことだろう。
 しかし、一輪の黒薔薇はそれを易々と受け止める。
「まだまだぁ!!」
 さらにもう一撃。
 右手と薔薇で奏でられる金属と金属がこすれ合うメロディ。
 その旋律と二人の闘いは流麗ですらある。
 コンクリートの破片が右手が振るわれるたびに弾けて舞い上がる。
 力の拮抗でコンクリートが易々と切裂かれるのに対し、黒薔薇の花弁が散ることはなかった。
 ……三六は知っていたそれが十四の能力だと。
「な、なんで……!?
「お嬢さん、普通とはどういうことだと思いますか?」
「そんなこと……!!」
 初音が傷口を押さえ後退する。
 三六の目から見ても勝敗は明らかだった。
 多分、初音の攻撃は三六には通じないだろう。
 初音もそれを悟ってか、表情には敗北感が色濃く浮き上がっていた。
 だが、確実にこの少女は死ぬまで戦うだろう。
 この後退も撤退のためではなく、仕切り直しのためだと推測される。
 なぜならその瞳はまだ死んではいないからだ。
 先ほどの三六と同じように死を覚悟している目……誇り高き戦士の瞳だ。
「お嬢さん、それが分からなければ私には勝てないですよ」
 スッと……。十四がコートから二枚の紙切れを取り出す。
 初音の瞳が食い入るようにそれを凝視した。
「あ……ベルベット・ガーデンのチケット!?」
 驚くような声を出した後、初音は慌てて口元を押さえる。
 十四はそれを見て微笑む。まるで心を見透かすように。
 一瞬、一瞬だが、初音のその表情はまるで……普通のどこにでもいる年頃の少女の物になっていた。
「これで手打ちにしませんか。こちらとしては不可抗力とは言え、殺姫さんのお宅と潰し合いはしたくないのですよ」
 十四の手が初音の胸ポケットにチケットを入れた。
 ソッと優しく触れるように……憂いを帯びた瞳で微笑みながら。
 それが初音の瞳にどう映っただろうか……。
「あ……」
 初音の小さな呟きと赤らんだ頬……。
 その顔は十四が離れるまで、ぽややんとして固まったままだった。
「こ、こんな物で騙されたりなんか……だいたいが、普通って意味が……」
 初音のゴニョゴニョとした呟き……十四はそれにビッと黒薔薇を向け答える。
「その答えは貴方の小さな胸の中に」
 一瞬の間。
「小さいだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 再び、初音に怒気が戻っていく。
 消えかけた怒りの蝋燭に焔が灯されたのだ。
 三六は二人を見つめながら自分も言われたら怒るだろうなと頷いていた。
「いやいや、かなりマズイですね」
「兄さんが余計なこと言うからですよ!!」
 十四は慌てて三六の細い体を肩に乗せる。
「わわわあ。兄さん」
「……逃げますよ、三六さん」
 屋上に縁に向かって勢い良く走り出す十四。
 ジタバタと暴れて騒ぐ三六を他所に十四の体が夜空に舞った。
 風を受けコートが大きく膨らんだ。
 三六は必死でスカートを抑えていた。
 ……落ちていく。
 糸が糸巻きに手繰り寄せられるように。
 水滴が大地に落ちるように。
 恋人同士が惹かれあうように。
 二人の体が重力に引かれて……落ちていく。
 地面に衝突する瞬間、
「ローズ・アンダー・ガーデン」
 三六は十四がそう呟き、地面に手を触れるのを見た。
 ……知っている。
 三六は十四の呟いた言葉の意味を。
 ゆっくりと……ゆっくりとだった。
 三六を乗せた十四の体が地面に沈んでいくのは。
 グニャリと曲がった柔らかなアスファルトはまるでゼリーだ。
 体が大きく上下した後、どこまでも沈む感覚を感じる。
 そして、その次の瞬間、十四は何事もなかったかのようにアスファルトを踏みしめていた。
「兄さん……」
「なんです?」
「力を使うなら事前に言ってください!!」
「フフ、すいません、三六さん」
 錠前を蕩けるほど柔らかくした、その反面に薔薇をコンクリートよりも硬くした十四の力。
 それは物質の硬さ柔らかさを調節する力……。
 いや、むしろ変質言った方が正しいかもしれない。
 硬度の変質……十四はこの能力を『棺の薗(ローズ・アンダー・ガーデン)』と呼んでいる。
 スッと三六が十四の肩から下ろされたが、三六は座り込んだまま動かない。
「どうしたんです?早く逃げないとあのお嬢さんが追っかけて来ますよ」
「あのですね兄さん……」
 三六は両手の指先をモジモジとさせ、上目遣いに十四を見つめる。
「ボク……腰が抜けて動けないんです」
 恥ずかしそうに三六が呟いた瞬間、噴出すように十四が笑う。
 口元をおさえ体を震わせる。心底可笑しそうに。
 ここまで十四が笑うのはとても珍しいことだった。
 三六は『むぅ』と唸ると口の端を尖らせる。
「……笑わないでください。ボクだって怖かったんですからね」
「いやいや、可愛いなぁと思いまして」
 スッと十四が背を向け屈む。
「オンブしますからしっかりと掴まっててくださいね。さっさと帰って肉じゃがカレーの残りを食べましょう」
 ああ、あの残りがまだあったことを三六は思い出した。
「は、はい……。あの変なとこ触ったら上の兄さん達に言いつけますからね?」
「フフ、そんなことされたら、本気で三日三晩追い回されて、嬲られ弄ばれ羞恥地獄の中で殺されてしまいますね」
「ですよ」
 十四は三六を乗せ走り出す。
「三六さん、今回の依頼人の事は御存知じゃないですよね?」
「はい」
「依頼人はターゲットの息子さんと奥さんだそうです」
「え?」
 風が少し強く吹きつける。
 三六は小さくその言葉を反芻した。
「ターゲットの家庭内暴力に耐えられなくなったそうです。いやいや、理解し難い話しですよ。それに比べれば死村家は普通だと思うんですけどね」
 淡々と語りながらも十四が怒っているのは、三六にも分かった。
 どんな理由であれ、家族を殺そうと考えるのが許せないのだ。
 勿論、家族を傷つけることも。
 それでも仕事と割り切るのが十四らしいと言えば十四らしい。
 十四が本当に殺したいのはきっとそういう人間なのだと三六は思う。だからこそ、あそこで初音を殺さなかったのではないだろうか。
「あ……。兄さん、腕が……」
 ふと気がつけばスーツの肩口が切裂かれ血が滲み出していた。
 初音の右腕を受け止めた時に出来た傷だ。
 さすがの十四でも無傷では済まなかったらしい。
「今すぐ手当てします!!」
「ああ、気にしないでください。三日もすれば再生すると思いますから」
「で、でも、幾ら死村の治癒力が高いと言っても……」
「フフ。三六さん、可愛い妹を護る為に怪我できて喜ばない兄はいませんよ」
 そう言った十四はとても誇らしげな口調だった。
「兄と言うのはですね、三六さん。妹や弟の道を作る為に先に生まれてくるんですよ。その道の先に貴方達を傷つける者がいれば私が護り抜きます……お兄ちゃんですからね」
 その言葉に一片の淀みもなければ迷いもない。
 強くぬくもりに満ちた言葉。それが三六の胸に染込んでくる。
 だからこそ……だからこそ、余計に、三六は弱々しく呟く。
「兄さんはいつもそうです……無茶ばっかりして」
 そう、いつも兄弟を護って傷ついて……。
 三六が止めた所できっとこれから先も十四は護り続けるだろう。
 今までも、これからも十四が兄であることは変わらないのだから。
 三六は言葉を紡ぐ代わりに十四の背におでこをうずめる。
 大きくて暖かい背中や手の平……。
 いつの間にか忘れてた。
 子供の頃、十四はこうやって三六をおぶってくれたことがある。
 夕焼けの中、背で揺られるのが不思議と心地よかったのを覚えていた。
 ジャメ・ビュ……。
 兄の温もりや優しさ、こうやっておぶられるのは初めてじゃないのに……。
 どこにでもある兄弟の絆。
 それはひどく当たり前で……普通のことだ。
「兄さん。ボク、死村で良かったです……」
 三六はそっと、風の中で小さく、小さく、想いを紡ぐ。
 照れくさい沈黙の時間がそっと二人を昔へ戻してくれる。
 もっと素直にこうして寄り添っていたあの頃の二人へと……。
「待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
 突然、二人に向かって怒声が響く。
 さっきまで聞いていた、その声は……。
「まずいですね……三六さん、スピードを上げますよ。掴まっててくださいね」
 どこか楽しむような十四の声。
 こんな状況なのに三六も笑っていた。
「はい、お兄……」
 三六は言いかけてやめた。
 その代わりにギュッと十四の体を抱きしめる。
「はい。兄さん」
 二人は月明かりに照らされ走り出したのだった。


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