高得点作品掲載所     さんともさん 著作  | トップへ戻る | 


ある日ある朝、僕の背中に

 ジリリリ、という古臭い目覚し時計の音が鳴り響く。それは武利(たけとし)が小学生の時から使っている物であり、古いと言えば古い。かといって、それほど愛着のあるわけでもない。
 武利からしてみれば毎日同じ時間帯に戦っている、好敵手の一つだ。時計なので、間違っても友情などが芽生えはしないのだろうが。
 しかし、毎日この時計に起こしてもらっている事に関しては、感謝をしてもいいだろうと思っていた。
「……ふぁ」
 もぞもぞと蠢く布団の中から手が伸び、鳴り続けている時計の頭を叩いた。それを境に、部屋に響き渡っていた音が鳴り止む。
「……ねむい」
 そんなことを呟きながらも、武利は布団を押しのけて起き上がった。首に左手を当て、首を回すとゴリンゴリンという大きな音。頭には拍手を送りたくなるほど見事な寝癖。
 起き上がった武利は、自分に何とも表現しがたい違和感を覚えていた。身体が重いような気がする。背中がムズムズする。なぜか疲れている。
 床に落ちていた羽らしき物を拾い、ゴミ箱へと捨てながら、武利は半分眠ったままの頭を働かせようとする。
なんだろう? 何か変だ。いや、何が変なのかはわからないんだけど……。
 そんなことを思いながらカーテンを開き、ふと向かいの窓が目に入る。その窓は幼馴染である蛍子(けいこ)の部屋のものであり、今はまだカーテンが引かれていた。
 十秒ほどその窓を見つめた後、もう一つの窓のカーテンを開き、のんびりとベッドに腰かけた。
 部屋に散乱した羽に気がつき、掃除しなくちゃなぁ、などと思う。
 ――羽?
 一瞬だけ、頭の中に空白が生まれた。その後、ようやく噛み合った脳内の歯車は正常な回転を始め、部屋の異常を武利に伝える。
 羽だらけの部屋。床も、ベッドも、机も、見える範囲に薄い灰色の羽が散らばっている。まるで、複数の鳩がバトルロワイヤルでも繰り広げたかのような、そんな有様。
 もちろん、そんなわけがない。鳩の姿はどこにもないし、窓も扉もしっかり閉まっていた。そもそも、武利の部屋でそんな命がけの戦いをする必要性がない。
 誰かの悪戯か?
 そう考えたが、すぐに首を横に振る。こんな手の込んだ悪戯をする相手に心当たりはない。というよりも、こんなことをされる心当たりがあった時点で問題である。
「どうしよう?」
 小さく呟き、小さくため息。痒みに堪えられなくなり、背中を掻こうと手を伸ばし、それが手に触れた。
 ふわふわしてて、暖かくて、鳥の翼みたいだぁ……。


「うわあああああああああああ!」
 午前六時半の鈴木家に、武利の悲鳴が響き渡る。その直後、バタバタと階段を駆け下りる音。その音に、顔をしかめながら、武利の父は新聞から顔を上げた。
「た、大変だよ!」
 声を上げて駆け込んできた武利に、父は視線を送る。同時に、朝食を作っていた母親も武利を見た。
 武利はやや小柄な少年である。丸い目は大きく、顎のラインは細い。顔立ちも整っているのだが、美少年という印象はない。長めの前髪によって、暗め雰囲気をかもし出しているせいかもしれない。
 武利の親友は、武利を小動物に喩えることが多い。確かに、ひ弱で臆病そうな見た目である。しかし、その身体は決して貧弱ではなく、むしろ引き締まっている。運動神経も良い部類に入るのだが、大人しい性格が原因なのか、運動が苦手という誤った認識をみんな持っている。
 その親友は、もしかしたならそのような部分までも見抜き、小動物に喩えるのかもしれない。
 とまあ、髪を切って性格を変えれば、山のようにラヴレターを貰ってもおかしくないような武利であるのだが、そうそう上手くいくものでもない。簡単に性格を変えられるのならば、とっくに変えているはずだ。かといって、武利が自分を変えようと努力しているわけでもない。
 自分から何をするでもなく、流されるままの地味な少年。それが武利である。
 そんな武利を十五年間見守ってきた父は、少しだけ顔をしかめて口を開く。
「何だお前は、朝から大きな声を出して。ご近所様の迷惑を考えろ。林さんちの妖怪婆さんに嫌味を言われるのは母さんなんだぞ?」
「お父さんったら、そんなことまで心配してくれるんですか? 嬉しいから、今日は目玉焼きを一つオマケしちゃおうかしら?」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないんだよ!」
 歳を考えずにベタベタといちゃつく両親に、武利は必死の思いで訴える。二人がいちゃつくのはいつものことであり、いつもは気にしないようにしている。しかし、今日はそれどころではないらしい。
「僕の、僕の背中に翼が生えてるんだよお!」
「ん? おお!」
 そこでようやく武利の姿に気がついた父は、目を丸くして自分の息子を見つめた。
 言葉のとおり、武利の背には翼が生えていた。翼は寝巻き代わりのシャツを突き破り、シャツの外で器用に折りたたまれている。もちろん、武利がやろうと思ってしたことではないだろう。
 それは大きな――広げれば翼長は三メートルを越すであろう――薄い灰色の翼。それを背に持つ武利は、天使のように見えなくもない。しかし、半べそをかいて台所机にしがみついている姿は、お世辞にも美しいとは言えなかった。パニックに陥っているため、それを情けないと責めるのは酷かもしれないが。
 とにもかくにも、父が状況を理解してくれたことに武利は目を輝かせ、この奇妙な現象を治めてくれると根拠もなく信じた。
「喜べ母さん。我が息子にとうとう翼が生えたぞ!」
「あらあら、それじゃあ今夜はお赤飯かしら?」
「……な、なんでそうなるんだよ!」
まったく予想外の言葉に武利が悲鳴に近い声を上げた。
「だって、こんなおめでたい日にはやっぱりお赤飯を炊かないと」
 ニコニコと、満開の桜のような笑顔の母。
「そうだな。父さんとしては、もう少し早く生えて欲しかったが、まあ生えないよりはいい。良美のときは父さん、がっかりしたしなぁ。まあ、よかったよかった!」
 ガハハハと、満開の桜の下で宴会やっているオヤジのような笑顔の父。
 子供って、親を選べないんだよなぁ。なんて武利が思ったかどうかは置いておき、目の前の二人がまともな人間でないと思い出した武利。仕方なく、他の誰かに助けを求めようと考えたその時、
「うっさいわね、静かにしなさいよ。あんたもう十五でしょ?」
 そう言って姿を現したのは、武利の姉である良美だった。高校の制服に身を包んだ良美は、普段から吊り上っている両目を更に吊り上げ、武利を睨む。
「ね、姉ちゃん! 聞いてよ、朝起きたら背中に翼が生えてたんだよ!」
「はいはい、おめでと。あ、お母さん、朝ゴハンいらないから。もう学校行くね」
「何だ、今日も部活の朝練か?」
「ちゃんと朝ゴハン食べないと、身体に良くないわよ?」
 いつもと同じような会話を交わす家族に、武利は頭を抱えた。
 おかしい。間違ってる。どうしてみんな、普通の朝を送ってるんだ? だって、背中に翼が生えてきたんだよ? もっとビックリしないとおかしいよ!
 とまあ、心の中で叫んでみたりする。実際に叫ばないのは、姉に怒られるのが怖いからであったりする。
 玄関へ向かう姉と、姉を見送ろうとついていく母。
「今日はお祝いするから、早く帰ってきてね」
「まったく、翼が生えたくらいで大騒ぎして。サーカスに売られるわけでもあるまいし」
「そんなこと言わないの。おめでたいことなんだから」
「はいはい、わかりました。じゃあ、できるだけ早く帰ってくるようにはするから、しつこく携帯にメールして来ないでよ? 行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
 玄関から流れてくる会話に、武利は頭がおかしくなりそうになった。母も父も姉も、翼が生えたことは認識している。その上で、あんな反応を返しているのである。
 力なく床に座り込みながら、武利は思う。
 もしかして、僕のほうがおかしいのか? そんな恐ろしい疑問。
 いや、まさかそんなことは。……でも、もしかしたら。
「みんなぁ、おはよぉ」
「じいちゃん!」
 瞳を輝かせ、藁をもすがる思いで武利は台所に入ってきた祖父を見つめた。すっかり禿げ上がった頭の祖父は、危なっかしい足取りで食卓につく。
「朝ゴハンはぁ、まだかぁ?」
「もう少しですから、待っていてくださいね」
 食器棚に向かって話し掛けた祖父の言葉に、律儀に答える母。
 祖父のボケが始まってからずいぶんとたつ。まともな会話をしたのは、一年近くも前のことだ。一瞬でもそのことを忘れていた武利は、どうしてか本気で泣きたくなってきた。
 誰も、望んだ反応を返してはくれない。それどころか、相手にもしてもらえない。
 その場で体育座りをし、膝の間に顔を埋める。それはやたらと暗い雰囲気を、容赦なく周囲へと撒き散らした。
「どうした武利? 腹でも痛むか?」
 さすがに何かを感じたのか、父が武利に尋ねる。
「違うよ」
 完全に精神的引きこもり状態に陥った武利を見て、父は首をかしげる。何かを思い出したかのような仕草だ。
「もしかするなら、お前には話してなかったか?」
「……何を?」
「うちの家系が、有翼人の血を引いてるってことを」


 有翼人。そのまんまの種族である。背中に翼を持った者たち。
 鈴木家はその血を継ぐものであり、最低でも一代に一人は翼を持つ者が存在する。その翼は基本的に、十二歳から十六歳くらいの間までに突然生えてくるものらしい。
 そんな簡単な説明を、武利は十五歳になって初めて聞いたわけである。
「嘘でしょ?」
「父さんの自慢はな、浮気をしたことがないことと、あんまり嘘をついたことがないことなんだぞ?」
 胸を張って言う父に、武利は両手で頭を抱えて天を仰いだ。そんな息子を、楽しそうに見つめる両親。実の息子でも、この二人が何を考えているのかわからないらしい。
「あさ、んぐ、ゴハンは、もぐ、まだかぁ?」
 納豆ゴハンを口に掻き込みながら、祖父が味噌汁に尋ねる。
 今食ってんじゃん! という突込みを祖父に入れることさえ、武利には出来ない。
「もうすぐですから、待っててくださいね」
 母さん、そう言えばじいちゃんが満足すると思ってるのかな? 少しだけ怖くなりながらも、武利は目の前の朝食を見る。いつもと同じ、いや、心なしか豪華な朝食。
 いや、朝食のことなどはどうでもよかった。問題は他にある。
「これじゃあ、外に出られないよ。学校にもいけないよ」
 ボソリと呟いたその言葉を聞き、父が口へ運ぼうとしていた味噌汁を置く。
「安心しろ。母さん、たしかそれ用の制服は用意してあったよな? 背中に穴があいているやつ」
「もちろんですよ。良美の時は使わなくて無駄になっちゃいましたけど、今回は良かったですね」
 うわぁ、学校行かせる気だよ、この人たち。
 もはやエイリアンを見るような気持ちで両親を見つめる。武利にとっては残念なことに、二人とも冗談を言っている様子はない。つまり、本気だ。
「学校なんか行けるわけないよ! 大騒ぎになったらどうするのさ!」
「心配ない。みんな知ってる」
「えええええええぇぇぇっ!」
 躊躇いなど蟻も触角ほどもない父の言葉に、武利は食卓に突っ伏した。その身体がプルプルと小刻みに振るえているのは、怒りのためだろうか?
「それ、どれくらい本当なの?」
「全部に決まってるだろ? 大体、翼くらいでそんなに驚いてたら、この世の中渡っていけないぞ? 向かいの長谷川さんちなんて、家族みんなエラ呼吸できちゃうんだし。三丁目の亀井さんちのおじいさんは、デコに三つ目の目玉があるぞ?」
「朝ゴハンは、まだかぁ?」
「もうすぐですからね」
「じゃ、じゃあ、林さんちのお婆ちゃんは、ほんとに妖怪なの?」
「いんや。あの婆さんは、ほら、人間だけど、妖怪みたいな顔してるだろ?」
「晩ゴハンは、まだかぁ?」
「もうすぐですからね」
 自分の家の奇妙な会話に、武利はため息をつく。思わずよそ様の食卓に突撃し、その会話内容を調べたいほどであった。
「じゃ、じゃあ、蛍子もウチのこと知ってるの?」
「お隣の蛍子ちゃんか? 知ってるはずだぞ? そもそも父さんには、お前が知らなかったことがビックリだ」
 ……知ってるんだ。
 今朝はまだ使っていない箸を右手で強く握り締め、どうにか現実を受け入れようと心がける。それでも、我慢できることと出来ないことはあった。
「今日は、学校に行かないよ」
「何を言っているんだ? そんなこと、父さんは許さないぞ」
「せっかく皆勤賞を狙えるのに、もったいないわよ? 三月まで、あと十ヶ月でしょ?」
 まるで、どこにでもある家の親のように、二人は言い放つ。いや、二人は心の底からそのつもりなのだろう。ごくごく一般の家の、両親だと信じているのだろう。
 落ち着け、と武利は自分に言い聞かせた。どうやら、自分が世の中のことを知らなすぎたみたいだ。だから、両親だけを責めたらダメだ。ダメなんだ。
 冷静さを取り戻し、箸を置く。父を見つめ、その後に母を見つめた。
「だって、学校でいじめられたらどうするんだよ」
「心配ないぞぉ。父さんも中学一年生の時は、翼のせいでいじめられた。でもな、いじめてくる奴ら全員を病院送りにしたら、自然に治まった」
 小さく呻き声を上げながら、武利は俯く。ここで大きな声を出してはいけない。熱くなったら自分の負けだと、そう信じて堪える。
「ぼ、僕は父さんみたいに強くないよ。それに父さんよりも母さんに似てるってよく言われるじゃないか」
 そのとおりだった。武利の顔つきなどは、柔和な母から受け継いだものであろう。二人の顔には、いくつもの共通点が発見できる。
「心配ない。母さんだって、強いんだぞ? あれは、高校一年生の時だなあ。母さん、父さんにラヴレターくれた女の子全員を、放課後には校舎裏に呼んで鉄拳制裁食らわせたんだ」
「やだ、お父さん、それはずっと昔の話じゃない」
「入学して、二週間たってからだな。それまでは毎日、下駄箱にラヴレターが入ってたんだけど、その日からは毎日不幸の手紙だったなぁ」
「……懐かしいですねぇ」
 いや、何か間違ってんだろ。絶対に。
 昔を懐かしんでいる表情の両親を、武利は諦めの目で見ることしか出来ない。思いを言葉にしないのも、これ以上言っても無駄だと判断したからだ。
 身体を小刻みに震わしている武利の様子には気づかず、二人は若い恋人同士のように見つめあい、微笑みあう。
「思い出せば、いつも母さんに引っ張りまわされたばかりだったな。高校も、大学も。そういえば、中学三年のクリスマスに告白してきたのも、母さんだったな」
 父の言葉に頬を赤らめる母。二人とも四十五を過ぎるというのに、二人にはその自覚はまったくない。
「そうですね。雪の降る夜、お父さんを校門の前に呼び出して……。その後、包丁を突きつけて、『好きです。付き合ってください』って、言ったんですよね」
「ああ、そうだ。父さんはその一生懸命な姿に惹かれてな、その日の夜にいくところまでいったんだよな」
「断ってたら、父さんも僕もこの世にはいなかったね」
 顔を少しだけ青くし、苦笑いを浮かべて武利が言う。武利の目は明らかに、自分の両親を見る目ではない。自分とは別の何かを見る目だ。
「はっはっは! 何を言うんだ。父さんが母さん以外の人を好きになるわけないだろ」
「やだ、もう、お父さんったら。朝から何言ってるんですか」
「……もういいです」
 結局、朝食には一口も手をつけないまま、武利は立ち上がった。食欲などというものはとっくに消え去っている。まあ、それも仕方ないといえば仕方ないのだろう。
「……ごちそうさま」
「なんだ、食わないのか?」
「食欲なんかないよ」
 どこかげっそりとした様子の武利。この数十分で少し痩せたのではないかと思える。そのまま力なく、また頼りない足取りで食卓を離れようとしたが、「待ちなさい」という父の重々しい言葉に動きを止めた。
 先ほどとはうって変わった真剣な父の表情に、武利は思わず息を飲む。
 何か、大切な話をしようとしている。そのことを察し、父の言葉を待つ。しかし、なかなか父は口を開こうとはしなかった。
 一分か、二分か、それほど長くはないが、武利にとっては決して短くない時間がたつ。我慢できなくなった武利が口を開き、言葉を発しようとしたその瞬間、そのタイミングを計っていたかのように父が言葉を発する。
「昨日、蛍子ちゃんに愛の告白されて、更に交際を申し込まれて、快く了承したらしいじゃないか」
「……うわぁ」
 思いっきり顔をしかめた武利は、しばし父を見つめた後、何も言わずに背を向けた。その背中は完璧なまでに拒絶のオーラを放っている。それに気づきながらも、父は口元に意地の悪い笑みを浮かべる。いや、気づいたからこそ浮かべたのだろう。
 だが、その笑みは背を向けている武利には見えない。
 階段へ向かって歩き出した武利。父は止めない。ただ、別の言葉を口にするだけだ。
「お前に彼女ができたことが、父さん嬉しくてな。……とりあえず、ご近所に回覧板回して、駅の掲示板にも張り紙を張っといたから」
「なんでえええっ!」
 叫びながらも振り返った武利。その目尻には涙が粒を作っている。
 しかし、誰もそんなことを気にした様子はない。父は何やら意味ありげな笑みを浮かべて武利を見つめ、母はニコニコと二人を見つめている。祖父にいたっては湯飲み茶碗と会話の最中である。
 家出しようかな? なんて武利が思ったことも無理はない。冗談でもない。
「何でそんなことするんだよ!」
「嬉しいからに決まっているだろ」
 嬉しいから。その言葉を聞き、武利の中で何かが大きく爆発した。
 嬉しい? 嬉しいからって、そんなことをしていいのか? 自分が嬉しければ息子の迷惑は考えないのか!
 真っ直ぐに、そして確実な怒りを込めて父を見つめる――いや、睨みつける。両手を強く握り締め、顎を引き、口はきつく結んだ。正直なところ、迫力はそれほどない。それでも、本気で怒っていることを相手に伝えるには、十分すぎる気迫。
「嬉しいからって、父さんにそんなことする権利ないだろ!」
「……半分はある」
「えっ?」
「ちゃんと蛍子ちゃんからのお許しをもらっているのだ!」
 まったく予想外の父の発言に、武利は言葉を失った。
 まさか、と思う一方で、もしかしたらとも思う。
 武利は父睨みつけたまま、押し黙る。もしも本当に蛍子の許可をもらっていた場合のことを考えると、それ以上何も言えないのである。
 しかし、冷静になれば蛍子が武利にことわりもなくそんなことを許可するはずがない、ということにも気づいたはずだ。
 残念なことに、今の武利にはその冷静さがなかった。
「……着替えて学校行ってくる」
 武利はそう言い残して、食卓を離れた。
「そうか、気をつけて学校行けよ」
 そんな父の言葉の意味を考えもせず、武利はドシドシと音を立てて階段を上っていった。


 そこは教室。ホームルームの前のこの時間帯は決して静かではないが、今日はいつも以上に騒がしかった。
「おはよーさ……。ど、どうしたんだ、イワ! イメチェンか!」
 ああ、また騒がしいのが来た。そんなことを思いながら、武利はため息をつく。
 教室に入ってきた橋本は、目を丸くして自分の席についている武利へと駆け寄ってくる。すでに武利の周りにはクラスメートたちが集まっていて、橋本はその中へと加わった。
「何これ、本物? 本物?」
 尋ねながら、ベタベタと翼を触る。
 黒い学生服に白に近い灰色の翼。そうなれば、嫌でも目立つ。
「うわ、本物だよ。本物だよな? だって血が出てるもんな。……なんで血が出てんだ?」
「登校中に猫に襲われたんだよ」
 そうなのである。登校途中に何匹もの猫が背中の翼へと飛び掛ってきたのだ。ニワトリか何かと間違えたか、それとも他に理由があるのか、武利にはわからない。
 ただ、父親の「気をつけて学校行けよ」という言葉はこれのことだったのだろうな、と今さらになって思った。
「しっかし、すげえな。こりゃあ、この学校のマスコットキャラクターの座はお前が手に入れたも同然だな」
「いや、そんなの欲しくないんだけど?」
 心底疲れた表情で呟く武利。しかし、橋本は聞いている様子はない。
「でもなぁ、これじゃあ新しいあだ名を考えなくちゃな」
 そんな橋本の言葉に頷く周囲。
 いや、あだ名なんて変える必要ないじゃん。今さらあだ名を変えたって、呼び間違えたりして混乱するだけだと思うけどなぁ。
 武利はそう思うのだが、どういうわけかクラスのみんなはあだ名にこだわるのだ。
 ちなみに、武利の今のあだ名はイワシ、である。通称イワ。その理由は、武利が水泳部に所属している、という簡単であるがどうにも納得できないものであった。
 せめて、トビウオとかイルカとか、他になかったのかな? 
 と、武利がそんなことを思っている間にも、周囲は武利から離れていく。あだ名が決まるまで、内容を聞かせないためだろう。
 もう一度だけため息をつき、武利は考える。蛍子は僕を見て何を言うだろう、と。
 幼い頃からずっと一緒だった幼馴染。今は正式に、恋人という関係になっている。今朝の父の話によると、有翼人の血を引いていることは知っていたらしい。そのため、嫌われることはないのだろうが……。
「イワ、新しいあだ名が決まったぞ!」
「はやっ!」
 まだ三分もたっていないはずである。何やら大きな声で言い合っていたため、もっと時間がかかると思っていたのである。
「喜べ、お前の新しいあだ名は、北京ダックだ!」
「……北京ダック?」
「おう、やっぱ鳥に関係したほうがいいと思ってな」
 武利に集まる視線。誰もが「どうだ、ナイスなあだ名だろう?」と目で尋ねてくる。
 北京ダック。
 武利は頭の中で、その言葉を何度か繰り返す。
「いや、死んでるじゃんっ!」
 そんな武利の叫びも、クラスメートたちには届かない。
「いやぁ、北京ダックか焼き鳥かで、けっこう票が割れたんだよ」
「私的には、やっぱ唐揚げだったんだけど」
「ほら、親子丼だと、卵も入っちゃうだろ?」
 うわ、誰も僕の言葉を聞いてないよ。
 勝手に話を進めるクラスメートたちに、武利は「新しいイジメか?」とさえ思った。しかし、何とかその考えを頭の外へ押し出す。変人ではあるが、悪人ではない。そう信じたかったからだ。
 だが、納得できるかと訊かれれば、「いいえ」である。
 武利は想像してみる。北京ダックというあだ名が定着した後のことを。
 朝は、「北京ダック、おはよう」という挨拶。
 休み時間は、「昨日のあの番組だけど、北京ダックはどう思う?」という会話。
 体育の時間のサッカーは、「行け、そのまま、シュートだシュート! おい北京ダックしっかりしろよ! 食うぞテメエッ!」という怒号。
 テストの返却の時は、「……斎藤、……佐藤、……志村、……北京ダック」と悪乗りする教師も出てくるかもしれない。
「……あ、悪夢だ」
 武利は机を見つめたまま呟いた。もしも現実となれば、武利が引きこもりになるのは容易く想像できる。
 どうにかしなくては。武利は真剣にそう思った。ただでさえ、背中に翼が生えてだいぶまいっているのである。これ以上の負担は増やしたくない。
「あのさ、北京ダックってちょっと長くないかな? もっと短いほうが呼びやすいと思うんだ。ハトとかタカとかワシとか」
「……そういや、そうかもしれないな」
 橋本は答えながら、何やら考える素振りを見せる。
わかってくれたか? 期待に目を輝かせ、武利は橋本を見つめた。橋本はこのクラスのリーダー的存在だ。彼が考え直してくれれば、希望はある。
「……わかった。じゃあ北京でいこう」
「なんでっ! もう鳥関係ないじゃん!」
 そう思ったのは武利だけのようである。周りのみんなは、「いいなそれ」「そうだな、そっちのほうが呼びやすいな」「うーん、やっぱり唐揚げ……。まあいいか」とほぼ納得モードである。
「よし、じゃあイワの新しいあだ名は、北京でいいと思う奴は拍手」
 拍手喝采。まるで武利が水泳の県大会で入賞した時のようである。少なくとも、文句のある人はあまりいないようだった。つまりは、武利の新しいあだ名は北京に決定したわけである。
 あ、この翼あったら、もう泳げないじゃん。武利はその事実に気がつく。
 六月の終わりには中学最後の大会がある。しかし、背中に翼があれば大会に出られるか以前に、まともに泳げるかどうかもわからない。
「ん? どうした北京」
 ……しかも、あだ名が北京。
「ちょっとだけ、泣いていい?」
 机の上で頭を抱えながら、武利は小さく呟いたのだった。


 心労で死ぬかもしれない。武利はそう本気で思った。
 武利はやたらと豪華な夕食を食べ終わり、ベッドの上でぐったりとしている。今の武利の様子を見たら、十人中五人は「あっ、こいつ死ぬな」と思いそうなほどである。
 しかし、武利が疲労していることも仕方ないのである。
 クラスでは翼のことが一通り静まると、今度は蛍子と付き合いだしたことについてだ。父は本当に回覧板をまわし、駅に張り紙をしたらしい。
 昼休みには生徒指導室へ呼び出しを受けた。何かと思ったら、生徒指導の教師の親戚に翼を持っている人がいるとかで、どうでもいいような話を延々と聞かされたのだ。
 学校を歩けば注目をあび、街を歩けば猫に襲われる。
 夕食時には家族との頭の痛くなるような会話。
「はあ、昨日に戻ってくれないかな?」
 思えば昨日の夕食の後、蛍子から告白を受けた時が自分の人生のピークだったのではないか。武利はそう思う。
 その時、コンコンという控えめの音が部屋に響いた。その音を聞いた瞬間、武利は勢いよく起き上がる。死にかけていたとは思えないほどの力強さだ。
 武利はカーテンを開く。その窓の先には闇――ではなく、一人の少女。
 肩まである黒く真っ直ぐな髪。すらっとした鼻に、少し吊上がり気味の両目。顔のわりには大きい耳。恥ずかしいのか、少し赤く染まった頬。
「こんばんは」
 蛍子は笑みを浮かべながら武利を見つめ、そう言った。
 二人の部屋は、窓を開くとちょうど話が出来る位置にある。今でも時々、窓を使って部屋を行き来することがあるのだが、さすがに今日はそうならない。
「う、うん。こんばんは」
「なんか、大変なことになっているみたいだね」
 武利が蛍子と話をするのは、昨日の夜以来である。学校で会うことも出来たのだが、互いに恥ずかしさが先立ったのか、互いに相手のクラスを訪れはしなかった。
「私のクラスでも噂になってたよ? B組の鈴木に羽が生えたって」
「おかげで新しいあだ名がついたよ。北京だって」
「……何で?」
「翼から鳥、アヒル、北京ダック、北京って連想したんだと」
 疲れた顔で答える武利が面白かったのだろう、蛍子が思わず吹き出す。そんな蛍子を見ながら、武利は今日初めての微笑を浮かべた。
 やっぱり、昨日に戻ってくれなくていい。そう思ったのだ。
 少し会話をして、いつもの調子を取り戻したのだろう。蛍子が楽しげに口を開いた。
「ねえねえ、翼見せてよ」
 そうせがまれ、武利はクルリと背中を向け、窓枠に腰をかけた。
「わぁ、すごい。天使みたい」
 言いながら、武利へと手を伸ばす蛍子。
「わっ、ちょっと、くすぐったあだだだだ!」
「羽、抜けないんだね」
「抜かないでよ。お願いだから」
 痛みに目を潤ませた武利が振り返り、蛍子へと訴える。慌てて「ごめん」と答えた蛍子に、武利はそれ以上何かを言いはしない。
「……そういえば、学校で私とのこと、いろいろ言われなかった?」
「あっ、言われた」
「おじさんが駅に張り紙したんだってね。いつものことだけど、さすがに今回は恥ずかしかったなぁ」
 ……はっ? おじさんが駅に張り紙したんだってね?
 武利は何度もその言葉を頭の中で繰り返す。まさかという考え。
「あのさ、一つ訊きたいんだけど、父さんにその、張り紙について何か言われた?」
「えっ、今日の朝、『こんなことしちゃってごめんね』って言われたけど?」
「あ、そう? うん、ならいいんだ」
 笑顔で言いながらも、こめかみがピクピクと痙攣を繰り返している。それと同時に胸の奥からドロドロとした何かが溢れ出してきた。
 武利は決意する。
 ……父さんを殺そう。
 もちろん、そんな思いは微塵にも表情に出したりしない。それでも何かを感じたのか、蛍子が怪訝そうに武利を見つめる。
 右手を振って『なんでもない』ということをジェスチャーで示す。さすがに、蛍子はそれ以上何も言わなかった。
 そこで会話が途切れる。そして静かになったとたん、武利は蛍子を意識してしまう。
 それは蛍子も同じようで、困ったように視線をさまよわせている。
 互いに黙ったまま、時間が過ぎていく。
「ね、ねえ」
 口を開いたのは蛍子。
「えっ、あ、なに?」
「翼が生えたってことは、飛べるの?」
「……えっと、父さんの話だと、練習すれば二週間から一ヶ月で軽く飛べるようになるって」
「じゃあさ、お願いがあるんだけど」
 顔を赤らめた蛍子に、武利は心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
 ドクンドクンドクンと、壊れてしまいそうな勢いで脈動する。
「ちゃんと飛べるようになったら、私を抱き上げて、一緒に飛んでくれないかな?」
「……」
「ダメかな?」
 言葉が出なかった。口は半開きに固まったまま、武利は首を縦に動かす。
 ど、どうしよう? すっごく心臓がドキドキしてる。
 そう思う武利。しかし、それは蛍子も同じだろう。二人は共に『お前ら何やってんだ?』と尋ねたくなるほど真っ赤である。
「ありがとう。……じゃ、じゃあ、お風呂はいるから、また明日ね」
「う、うん」
 閉まる窓。閉じられるカーテン。武利はしばらく向かいの窓を見つめていた。
 やがて、武利も窓を閉じてカーテンを閉める。そしてベッドにうつ伏せに寝転がり、その顔に笑みを浮かべる。
 頭の中で何度も反芻される蛍子の言葉。
 その結果に思う。翼が生えたのも、意外と悪くないかもしれない。
 武利は立ち上がり、部屋を出た。父に飛び方を教わりに行くのだ。回覧板と張り紙の件は、まあ、蛍子が怒ってなかったので許すことにした。
 武利は武利になりに現実と向き合い、前向きに生きていくことにしたのである。
「よし、がんばろう!」
 小さく、しかし力強く、武利は呟いたのだった。

 その十日後、飛行訓練中に落下した武利は右腕を複雑骨折するという事態に陥る。
 その結果、丸二日間も自室に引きこもることになるのだが、これあくまで余談である。


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●感想
習志野さんの感想
 丁寧な描写と面白いギャグのバランスが取れていないと思います。


紅鈴さんの感想
 読んだ感想は、面白かったです。
 ノリのいいギャグと分かりやすい描写で最後まで楽しく読ませていただきました。
 ただ、落ちが少し弱いかなぁと思いました。
 初心者ながら、乱文失礼しました。


maoshuさんの感想
 はじめまして。
 読ませて頂きました。
 まず、ギャグがおもしろすぎます。
 今まで見た作品の中では、一番笑えました。大爆笑ものです。
 でも、オチを見て、一気にひきました。

 また、翼のことが、後半では一切触れられていないことも気になりました。
 ギャグはおもしろいのですが、ギャグに熱中しすぎて、
 タイトルにもなっている主軸のストーリーをおろそかにしているような感じも見受けられます。

 酷評になってしまいましたが、参考にして頂ければ幸いです。
 またギャグで笑える次回作、本気で期待しています。


だいきちさんの感想
 はじめまして、感想を書かせていただきます。
 ギャグが非常に面白かったです。笑わせていただきました。
 ただ、他の方も言われている通り、後半翼の話はどこかへ行ってしまったこと、
 オチが弱いことは感じました。
 要するに、朝起きたら翼がはえていた、というネタでは話が長くは続かなかった、という印象です。
 ギャグセンスは素晴らしいので、それを活かせる話のネタ作りをがんばってみてください。
 マジで期待してます。


ぐり。さんの感想
 さんともさん、読ませていただきました。
 ギャグ、すごく面白かったです。おじいちゃん最高。
 私には特に欠点が見当たらず、最後までおもしろかったです。
 翼の次は角。これも好きです。
 批評になってなくてすみません。あー、笑った笑った。


カラメロさんの感想
 文章も洗練された優しい作品です。
 物語がルートしている作品は良く読むのですが、上手い具合にルートしているので、
 もう1度読み返しても納得いく作品だと思います。
 ただ、書きなれていらっしゃるせいか、だらだらした始まり方になっているので、
 最初だけを文章をダイエットさせてみると、読み手も増え、面白さが伝わるのではないでしょうか。
 内容はかなり面白かったです。
 ではでは、生意気言って失礼しました。また、寄らせていただきます。


柊 木冬さんの感想
 柊です。読ませていただきました。

 あー、面白かった……という感じです。一気に読んでしまいました。
 もっと読みたくなるギャグがまたステキ。お父さんとお母さんが素晴らしい。級友たちも素晴らしい。
 こんな人たちに囲まれて、よく常識人に育ったな武利よ。
 この話一番の謎は有翼人とかよりそこだと思います(笑)
 しいて言えばもうちょっとパンチがあってもよかったかな。
 もっとダダダーッと、最初から最後まで突っ走るぐらいの勢いがあれば良かったと思います。
 ただ、具体的な解決案は提示できないので傍からの戯言とお受け取りください。

 頑張ってください。見れば長編のほうにも投稿されている様子。
 今まであそこは見ていませんでしたが、ちょっくら腰を上げて見にいってきます。


Heteroさんの感想
 こんにちわHeteroです。
 「突然羽が生えた」いいネタだと思います。
 また、なかなかに主人公の周囲の様子の描写が楽しかったです。
 でも、少し朝の食卓の風景が長かった様に思います。
 両親との掛け合いをこれだけ書きたかったのだろうと思いますが、少し疲れました。
 おじいちゃんも出てくる必要がないと思いました。
 彼女となった蛍子とのふれあいについて、もう少しあってもいいかと思います。
 羽が生えて困っている主人公に救いが現れるシーンがここですから、
 やはり力を込めて「山場だ!」と文章が叫ぶぐらいに描写できればいいと思います。
 ではまた。


ヤガミさんの感想
 初めまして。感想書かせていただきます。
 まず冒頭での主人公に羽が生えていたシーンはなかなかよかったと思います。
 主人公の反応も無理がなかったし、おもしろかったです。
 なかなかインパクトのある冒頭だったと思います。
 それに面白いギャグがあってよかったです。おおいに笑わされました。
 あとはオチをもう少し工夫すればもっとおもしろくなると思います。
 ではでは、初心者ながら失礼しました。


ミカエルさんの感想
 はじめまして。さんともさんの名前をよく目にしたので、拝読させていただきました。
 朝食のシーンが少し長かったけど、ギャグがとってもおもしろくて、
 一人 でパソコンに向かって爆笑していました。
 まだ私は投稿したことがないのですが、さんともさんのようにテンポよく書けたらなーと思います。
 すてきな作品でし た。続編希望★


涼暮月さんの感想
 この丁寧かつ解りやすい描写はすごいです。ああ……僕もこれくらい上手く描写できたらなー……。
 両親との会話でも笑わせてもらいました。個人的にはおじいちゃんがツボでした(笑)。
 有翼人ってなんなの?という疑問は残りましたが、それほど気にはならないです。
 続編希望。
 それではー。


一言コメント
 ・いや、一回見たほうがいいっすよ。テンポがよくて面白い。お母さん最高。
 ・面白い。笑える。
 ・ミャオ猫。
 ・笑える。
 ・私的に凄く好きですw
 ・めちゃおもしろかったです!!!文章が電撃文庫の「先輩と僕」に似ていると思いました。
  続編があるなら続きを読んでみたいです。
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