高得点作品掲載所       飛乃剣弥さん 著作  | トップへ戻る | 


三度目の正直

◆六月四日 凪坂陽平(なぎさかようへい)の始まり◆

《あなたのブルマは僕が大切に使わせていただきます 凪坂陽平》

 昼休み。本を読んでいた僕の視界を遮った紙にはそんな文字が書かれていた。
「見損なったわ凪坂君。あなた、変態だったのね」
 嫌悪と侮蔑をにじませたその言葉に、僕は眼鏡の位置を直しながら顔を上げた。
「え……?」
 訳が分からず、とりあえず顔に疑問符を浮かべてみる。
 僕の机の前に仁王立ちの構えで、こちらを見下ろしているのは同じクラスの女子だった。
学級委員長を務める彼女は、普段の知的な顔からは想像出来ないほどの怒りの形相で僕の方を睨み付けている。
「早く返しなさいよ」
 語調は穏やかで、声もそんなに大きくはない。しかし、わずかに震えている言葉が、溢れんばかりの怒気を何とか制御しようとしていることを雄弁に物語っていた。
「何を言ってるのかさっぱり分からないんだけど」
 僕が思ったことを素直にそう言うと、委員長の目は大きく見開かれ、殺気に満ち満ちた鋭い視線で僕を射抜いた。
 な……なんなんだいったい。この感じはただ事じゃないぞ。僕が何をしたって言うんだ。
「あなたねっ……!」
 委員長は何かを叫ぼうとして、その言葉を呑み込んだ。そして何度か深呼吸をする。どうやら理性で激情をなんとかコントロールしようとしてるみたいだ。
 最後に大きく息を吐くと、彼女はさっきまでとはうって変わって静かな表情で僕の方を見ていた。
 うーん、凄いな。さすがは委員長。あっという間にクールダウンだ。
「葉山さん。ちょっと、いい?」
 委員長は僕から視線を外す事無く、手だけで他の女子を呼びつけた。そしてその声に応えるようにして、呼ばれた女子がオドオドと僕の方に近づいてくる。
 彼女は、後ろで三つ編みにした長い黒髪を指先でいじりながら、どこか申し訳なさそうに委員長の横に立った。いつも伏せ目がちな双眸と、小柄で華奢な体つきからは、小動物の様な弱々しさを感じさせる。
 葉山鈴音(はやま すずね)――中学時代の同級生だ。
「凪坂君。葉山さんの体操服、どこにやったの?」
「はぁ?」
 思わず声が裏返る。
 僕が盗んだ? 葉山の体操服を?
 僕はあっという間に混乱の渦中に突き落とされ、目の前に出されたさっきの紙と、葉山の顔を交互に見比べた。
「凪坂君……どうしてこんな事……」
 葉山は半分泣きそうな顔になりながら僕の方を見ている。
「ちょ、ちょっと待て。なんですでに犯人が僕になっているんだ? 根拠は? 証拠は?」
 ずり落ちた眼鏡の位置をなおしながら、僕は必死になって弁明した。
「ソレが何よりの証拠よ」
 そう言って委員長は、僕に机の上に置いた紙を指さす。
 おいおい……マジかよ……。
「コレは僕の字じゃない。第一、僕が犯人だったらどうしてわざわざこんな文章を残すんだ? おかしいだろ? 明らかに、誰かが僕に罪を着せようとしてるんじゃないか」
「誰がよ」
「そんなの知らない」
「凪坂君って、誰かに恨まれるような覚えでもあるの?」
「それは……」
 『覚えがありすぎて、すぐには思いつきません』なんて口が裂けても言えない。
 せっかく高校デビューしたのに、こんな所でふいにしてたまるか。まだ目標も達成できていないのに。
「と、とにかくだ。僕はやってない。無実だ。潔白だ。事実無根だ」
「そんなどっかの政治家みたいなこと言っちゃって。後になって『出来心でした』じゃ済まされないわよ。今の内に白状して楽になった方がいいんじゃないの?」
 ダ、ダメだ……。この女、完全に僕のことを犯人だと決めつけている。推理ドラマとかだったら真っ先に死んでくれるキャラなんだが……。
「凪坂君……私、信じてるから……」
 葉山は消え去りそうな声でそう言うと目尻に涙をため、何かに耐えかねたように小走りに自分の席に戻った。その姿は悲哀に満ち、否が応でも同情を誘う。
 ちょっと待てー! 泣きたいのはこっちだ! だいたい信じてるって何をだ! 僕がやってないって事をか!? それとも、僕が君の体操服を返してくれることをか!?
「凪坂君。あなたって意外と自己顕示欲、強かったのね」
 だーから違うっつってんだろーが!
 胸中で中指をおっ立てながら、そう叫ぶことが僕に残された唯一の抵抗だった。
 委員長は哀れみの視線で僕を一瞥した後、葉山をなぐさめに行った。そして、それを見ていた周りの生徒も事情を聞き始める。
 最悪の展開だ。
 そして、僕はたった一日で『優等生』から転落し、『変態』のレッテルを貼られることとなった。

「やっほー! きーたよ、陽平。アンタ変態になったんだってー?」
 次の日。学校に来て最初に聞いたのは、その心臓をえぐるような言葉だった。朝の眠気の覚めないところに、唐突に突き刺された焼け火箸は、ただでさえ低い僕の沸点を軽く上回った。
 この……クソアマ……。
 コメカミを痙攣させながら、ぎこちなく顔を動かし、辛辣な言葉を容赦なく浴びせた本人に顔を向ける。
「まーまー。人生色々あるって。何事も経験よ、ケーケン!」
 品のない笑い声を上げながら僕の肩をばしばしと叩いてくるその女は、やはり予想した通りの人物だった。
「那々美(ななみ)……僕は今、非常に機嫌が悪いんだ……」
 低い声で吐き捨てるようにそう言う。しかしその女――藍沢(あいざわ)那々美はまるで気にしたふうもなく、ポニーテールにまとめ上げた栗色の髪を尻尾のように揺らしながら僕の前に立った。
「そんなウジウジしてるとー、いつまでたっても汚名挽回出来ないわよー?」
 これ以上僕にどんな汚名を挽回させる気だコイツは……。汚名は返上するもんだろうが。
「ほーら、授業なんてサボって気晴らしに外でも行こーよ! 外はいい天気だよ!」
 ああ、お前の頭と同じくらいにな。
「あ、ひょっとしてお腹減ってるの? ちょっとあげよーか? あたしのお弁当」
 そんなモンで僕の渇望が……。
「満たせるかー!」
 ダン! と木製の机に右の掌を叩き付け、俺は勢いよく立ち上がった。
 那々美は僕のとった突然の行動に口を半分開けながら、ただ呆然とこちらを見つめている。その顔を見て僕は後悔した。
 しまった……また悪い癖が……。
 周囲を見回す。さっきまで他愛のない会話で賑わっていた朝礼前の教室は、水を打ったように静まりかえり、皆の視線は当然のごとく僕たちの方に集中していた。
「陽平……やっぱり鈴音の言ったこと本当だったんだ……」
 さっきまでは快活で愛嬌のあった大きめの目を失意の色に染め、那々美は声のトーンを落としてそう呟いた。そして、薄くリップクリームを塗った桃色の唇から、はぁと溜息が漏れる。
 だ、だめだ……このままだと僕の目標が……。ようやく大切な人への告白のキップを手に入れたのに。
 僕の中で何かが音を立てて崩れていくような気がした。
「陽平。お昼ご飯、一緒に食べようね」
「あ、ああ……」
 作り笑いを浮かべて僕にそう言う那々美に、僕は気のない返事をすることしか出来なかった。
 とにかく今は冷静になる時だ。感情を理性で押さえ込め。一刻も早く僕を陥れた奴を捜してボコボコに……ああ、いかん。そう言う発想は自粛しなければ。僕は大人しい優等生なんだ。とにかく、冷静に、冷静に。事を可能な限り穏便に運ぶんだ。
 僕は自分に強くそう言い聞かせ、眼鏡のレンズを拭いた。

 そして昼休み。事態に進展はない。
 ソレもコレもあの那々美のせいだ。
 部活の最中に怪我をしたとかで昨日休んでいた那々美は、ノートを僕からふんだくるとそのままどこかへ消えてしまった。おかけで校内中を探し回るハメになり、午前中は那々美に振り回されっぱなしだった。
 しかも今度は気晴らしに外で昼ご飯を食べようとかで、わざわざ学校裏の花壇に呼び出すし……。まぁ、僕を元気付けてくれているのかもしれないけれど。実際、僕にまともに話しかけてくる奴はアイツだけだしな。
「はぁ……」
 自然と溜息が漏れる。何回目かなんて馬鹿馬鹿しすぎて数えていない。肩を落としながら、上履きを履き替えるため、僕はシューズボックスを開けた。
「ん?」
 中には僕の運動靴以外に一通の封筒があった。そこには『凪坂陽平へ』と記されている。
 ラブレター? まさかね。こんな時代錯誤な真似する奴がいたら天然記念物モノだ。 
 大した期待はせず、僕は封筒を開け手紙の内容に目を通す。そこには短い文章でこう書かれてあった。

《体操服を返して欲しかったら校門前まで来い。この変態やろう》

 体に一瞬震えが走った。間違いなく罠だろう。しかし少なからずコレで事態は進展する。場合によっては解決するかもしれない。
 稚拙な文字で書かれたこの手紙に一条の光を見いだした僕は、喜び勇んで校門前に向かった。

 校門前にいたのは三人の男子生徒だった。眉無し、ソリ込み、逆モヒ、といずれも厳つい顔立ちで、『私は社会不適合者です』と強い自己主張をしている。哀れな連中だ。
 しかしこいつらどこかで見たことがあるような……。
「で、君たちが葉山の体操服を盗んだの?」
 僕は眼鏡の位置を直しながら、不良三人組に声をかけた。
 その言葉に彼らはお互いに顔を見合わせ、「ひゃはは!」と下品な声で大笑いする。
「盗んだのはお前だろーが。この変態」
 逆モヒが唾を吐きながらそう言った。期待はしていなかったが、やはり罠だったようだ。
「前から気に入らなかったんだよ。テメーのその名前がよ」
 眉無しが拳をボキボキと鳴らしながら凄んで見せた。
 名前? ああ、そうか。思い出した。こいつら僕と同じ中学に居た奴らだ。勿論名前など覚えていない。所詮はその他大勢だ。
「お前をボコれる絶好の機会だからな。覚悟しろよ」
 と、ソリ込み。
 なるほど、変態を殴っても悪者にはならないって訳か。まぁいい。それならそれで僕の方にも考えがある。
「なぁ、ココじゃ目立つだろ。場所を変えないか?」
 僕のその言葉に三人は再び顔を見合わせ、「ゲラゲラゲラ!」と頭の悪そうな笑い声を上げた。
「お前が呼び出したんだろーが! ボケ!」
 そう叫んで眉無しは、いきなり僕に殴りかかってきた。
 まずい。ここでモメるのは非常にまずい。
「ちょ、ちょっと待てよっ」
 慌てて身を引き、右の拳をかわすと僕は両手を前に出して制止を求めた。
「待てるか!」
 眉無しは空を切った右の拳を戻すことなく、そのままの体勢で更に一歩踏みだしタックルをかけてくる。
「ぐっ」
 肺を強く圧迫され、軽くせき込んだ僕の下から、眉無しの肘が僕の顎を捕らえた。ガツン、と上顎と下顎が激しく衝突し、顔面が跳ね上げられる。そして、一瞬で視界が空へと切り替わった。
 ブチ
 そして、俺の中でも何かが切り替わる音がした。
「へっ! この変態ヤローが!」
 投げかけられたその罵声の位置と、さっきまでの眉無しの体勢を、おおざっぱに頭の中に描くと、俺は仰け反り返る姿勢に逆らうことなく、自然な形で右足を垂直に蹴り上げた。
「がっ……!」
 視界の下で、苦悶の声が聞こえる。
「やってくれんじゃねーか。この三下」
 眉無しの股間を綺麗に捕らえた右足を戻して踏ん張ると、俺は顎の下をさすった。
 痛い……。痛いが……どこか心地よい感触だ。
「一発で気ぃ失うんじゃねーぞ」
 自分の急所を押さえ、うずくまる眉無しの顔面の位置に高さを合わせて俺は腰を沈めた。左足で地面を強く踏みしめ、右足のバネを最大限に活用させて腰を前に突き出す。腰の回転を上半身へと伝え、肩、肘、拳へと力を伝達させて行った。そして、ターゲッティングしていた左手と入れ替わるようにして、右の拳を腕が一直線に伸びるように突きだす。
「うぶっ!」
 俺の正拳突きは、鼻と上唇の間、いわゆる人中という人体急所の一つに見事に突き刺さった。ここを思い切り殴られた時の痛みは想像を絶する。案の定、眉無しの意識はあっけなく抵抗をやめた。
「おい。お前らは?」
 俺はダテ眼鏡をポケットにしまうと、気絶して無様にうずくまった眉無しを足蹴にした。
「テ、テメー!」
 我に返ったようにして、ソリ込みと、逆モヒが右と左から突っ込んでくる。
 さすがに二人一度に相手にするのは面倒か……。
 俺はすっと目を細めると、隙の多そうな方を見定める。
「おおらぁ!」
 先に大振りなパンチで仕掛けてきたのは逆モヒだった。俺は逆モヒの方向、左側に飛び込んみ、間合いを一瞬で詰める。そして身を低くして逆モヒの拳を空振りさせると、更に左側に飛んだ。
 俺から見ると丁度二人が一直線に並んだ形になる。
「この!」
 空振りさせられたことの羞恥と、仲間を一人やられたことに対する激怒に顔を赤くし、逆モヒは再び俺に拳を振りかぶった。今度はソレを両手で受け止める。
「なっ!」
 また、かわされると思っていたのだろう。ありありと狼狽の色を浮かべながら、逆モヒは拳を引こうとした。しかし、ガッチリとグリップした俺の両手がソレを許さない。
「ほらよ」
 軽い声でそう言い、受け止めた拳を外側にひねった。
「うぁっ」
 腕を無理な方向にねじ曲げられ、逆モヒは苦悶の声を上げる。そしてその苦痛から逃れるために身をよじり、肘の関節がピンと伸びきった。
「そぉら!」
 その瞬間を狙って、俺は逆モヒの拳を思い切り奥に押し込む。
 ゴグッ、という低く、くぐもった音を立てて逆モヒの肩の関節が外れた。多分、手首の骨もタダでは済まないだろう。
「ギ……ギャアアァァァァァ!」
 自分の身に降りかかった突然の惨事に一瞬我を忘れていたのか、一呼吸置いた後、逆モヒは激痛にのたうち始めた。
 狂葬曲の調べを背中に受けながら、俺は逆モヒの影から残ったソリ込みの横へと飛び出す。
「え……う、あ……」
 ソリ込みの頭はすでに現実逃避を始めているようだった。もう焦点が定まっていない。
「ケンカ中に夢見てんなよ!」
 そう叫びながら俺は、携帯を握り込んだ右拳をソリ込みのリバーへとめり込ませた。骨が無く、筋肉も弱い。急所が集まる正中線からは外れるが、俺が飛び出した体勢からは最もダメージを与えられる場所だ。
「げぁ!」
 今にも血反吐を吐きそうな声を上げながら、ソリ込みの体は打撃の反動で反対側へと流れていく。俺は拳を九十度回転させ、その反動に負けない早さで、さらに数ミリめり込ませた。
「ッぅぁ!」
 わずか数ミリたが、限界まで押し込まれた内蔵が更に数ミリ圧迫されるのだ。悶絶は必至である。
「さぁて」
 俺は唯一気を失っていない逆モヒにゆっくりと歩み寄った。
「いいストレス解消になってくれたが……」
「たっ、助けてくれっ」
 右腕を体全体で庇いながら、逆モヒは校門の方へと後ずさった。
「面白いことを言ってたな。『俺がお前らを呼び出した』ってのはどういう意味だ?」
 そう、眉無しが確かにそう言っていた。
「お、俺達は手紙を貰ったんだ」
「誰から?」
「し、知らない。鞄の中に入ってたんだ」
「今、持ってるか? 見せろよ」
「あ、ああ、コレだ……」
 逆モヒは左手をポケットに突っ込み、苦しそうに表情で取り出した。俺はソレをひったくるようにして取り上げる。

《お前が犯人だってことは分かってる。 バラされたくなかったら昼休みに校門前に来い。 凪坂陽平》

「ほぅ」
 俺は面白そうに目を細めた。そして俺に送られてきた手紙を取り出して見比べる。
 同じ筆跡だ。逆モヒが持っていた手紙の文字は筆跡を変えようとしたのか、いびつに歪んでいるが、文字の書くときの止めや払いのクセが俺の持っている手紙と同じだ。どうやらこの手紙の差し出し主が犯人であることは間違いなさそうだ。
「コラー! お前ら何やってるー!」
 校舎の方から聞こえてきた怒鳴り声で僕は我に返った。声のした方に振り向くと、体育教師が激昂しながらこちらに走ってきている。
 し……しまったぁ! やってしまったぁ!
 胸中で後悔の叫び声を上げながら、僕は天を見上げて顔を手で覆った。

「やれやれ……」
 放課後。僕は自分の机に突っ伏しながら溜息をついた。
 長い、実に長い一日だった。
 昼間の件は、僕が優等生で、相手が不良と言うこともあり、反省文を原稿用紙五枚に渡って書かされたくらいで済んだが……ケンカしたくらいで五枚も書けるわけねーだろ! 途中から、『現代社会に生きる若者が持つ心の闇』にテーマをすり替えたから何とかなったものの……。
「くそっ」
 悪態を付きながら僕はポケットから二枚の手紙を取り出した。
 いったい、誰の字なんだ……これは。
 他の奴らが下校する中、僕は一人で二枚の手紙とにらめっこしていた。しかし、そんなことをしていて書いた人間が分かるならFBIはいらない。
「あ、ホントだー。やっぱり付き合ってたんだー」
 僕も帰ろうと席を立った時、後ろから声をかけられた。首だけ動かして声の主を見やる。
「君は確か……」
 後ろを振り向いたそこには、艶のある黒髪をボブカットにした女子がいた。相手に不思議な安心感をもたらす柔和な笑みを浮かべながら、彼女は目を輝かせている。その視線の先には僕が今持っている封筒があった。
「千早(ちはや)?」
「何で疑問形なのよ」
 そう言って彼女は頬を膨らませる。元々童顔なせいもあるだろうが、そういう子供っぽい仕草をすると余計に幼く見える。
「ちゃんとフルネームで覚えてよねー。朋華(ともか)よ。ち・は・や・と・も・か」
 千早朋華は派手なリアクションで僕の方を指さしながら、自分の名前を一文字ずつ区切って教えた。
 ああ、そうだ。思い出した。那々美の側にいつもいるうるさい奴だ。占いとかに凝っているせいか、やたらと人に不幸を押し売りに来る。『今日のラッキーアイテムは制服ー、ラッキーカラーは赤ー』とか言いながら彫刻刀を持ち歩いていた日にはどうしようかと思った。
 幸い被害者は出なかったようだが……。
「ま、いいわ。それより二人の門出を祝して、わたしが今後の運勢を占ってあげる」
 そう言って取り出しのは、安全ピンとワラ人形。彼女が何を考えているのかは大体予測できた。
「髪」
「嫌だ」
 極めて短い会話の後に、殺伐とした雰囲気が残る。相手は一歩も引くつもりはないらしい。久しぶりだ。これ程の殺気を目に込めた奴を見たのは。
 しばらく睨み合い、僕の方から目線を逸らせた。このままだと、また変な気を起こしかねない。
「で、さっきから何を勘違いしている? 僕が誰と付き合ってるって?」
 好きな人はいる。だが、まだその人とは殆ど進展がない。彼女の勘違いだろう。
「那々美ちゃん」
 ほら来た。アイツはいつも僕につきまとうからな。そう言う目で見られてもしょうがないが、アイツとは何もない。
「根拠は?」
 僕は冷めた視線を千早に向けながらそう言った。本命のためにもこういう噂は潰しておくに限る。
「えーっと、委員長も言ってたしー」
 委員長? あの女が? そんなことをするタイプには見えなかったが……。
「それにほら。二人、手紙でやり取りしてるし」
「何?」
 意外な言葉に目が点なる。
「僕が那々美と? いったい何を証拠にそんなことを」
「だって、その封筒……」
 そう言いながら千早は、僕が握りしめている手紙の入っていた封筒を指す。
「その字、那々美ちゃんの字でしょ?」
 点になっていた目は完全に消失した。

◆六月三日 藍沢那々美の始まり◆

「しまった……」
 あたしは部室のロッカールームで溜息混じりにそう言った。
 スチール製のロッカーの扉を閉めながら思考を巡らせ、そして答えにたどり着く。
 そうだ。あたしの体操服は昨日、洗濯機に入れたままだった。母さんが洗ってくれているだろうと思っていたら、昨日はあたしが洗濯当番だったんだ。
「どーしよー」
 汗の臭いが充満した、狭い部屋の真ん中にある長椅子に腰掛け、あたしは知恵を絞った。
 誰かに借りようにも、同じバスケ部の友達は自分で使ってしまっている。当然だが。
「うーん」
 クッションの悪くなった長椅子に一人座り、貧乏揺すりをする事、約一分。
「そうだ!」
 単純な発想よ。同じクラスの子に借りればいいんじゃない。
 幸い明日、体育の授業はない。なら、今日中に洗って明日返せばいいだけのことだ。
 あたしは急いで、体育館から教室に戻った。下校時刻はとっくに過ぎている。
 誰か一人でも女の子が残ってくれていれば良いんだけど……。
 部室を出てグランドを横切り、校舎に戻る。そして階段を駆け上り、廊下を疾走した。息を切らせながら教室の前に立ち、誰か残っていることを祈って扉を開けた。
 立て付けが悪いのか、ガラガラと大きな音を立てながら扉はスライドする。
「いない……」
 しかし望みかなわず、教室には誰も残っていなかった。
「あーどーしよー」
 部活はサボりたくない。試合が近いこの時期に一日でも体を動かさないと、不安でよく寝付けないのだ。
 あたしってば、意外と小心者。でもそんな可愛い自分が好き。なーんて。
「虚しい……」
 両手の人差し指をほっぺたから離し、あたしは肩を落とした。
 しょうがない。黙って借りるか……。未来の日本のエースに使われるんだから、きっと体操服も大喜びよ。うんっ。
 あたしはそう開き直ると、友達の体操服を物色し始めた。しかし、どれも汗や泥の匂いが染みついておりとても着る気にはなれない。
 まぁ、贅沢を言える立場じゃないんだけど。
「おっ」
 諦めかけた時、あたしは新品同然の体操服を発見した。教室を見回して、その席の場所を確認する。
「鈴音の席……」
 あ、そーか。あの子いつも体育は見学だったっけ。ゴメンね鈴音。洗って返す時に、あたしの土偶コレクションの中から可愛いの一つあげるからソレで許して。
 あたしは鈴音の机の上に借りて行く事を伝えるメモを残すと、体操服を大事に抱きかかえて意気揚々と体育館に向かった。

「ぜーぜーぜーっ」
 あたしは肩で息をしながら、体育館の隅でスポーツドリンクを飲んでいた。
 バスケ部だけではなく、バレー部や卓球部も入り交じった体育館。生徒のかけ声と、先生の指示の飛び交う光景をぼーっと見ながら、あたしはもう一口ドリンクをすすった。そして大きく息を付く。
「どーしたのよ。調子悪いの?」
 シュート練習を終えた朋華が、心配そうにあたしの顔をのぞき込んだ。
 サラサラヘアーのボブカットが流れるように彼女の頬を伝わっていく。そう言えば昔、『ボブにしてっ』って美容師さんに頼んだ娘が五分刈りにされてたっけ。あれは同情したなぁ。
「だ、大丈夫。練習始まる前に教室とココ、全力で二往復したモンだから、ちょっとバテちゃって……」
 この体育館と校舎四階にある教室は、長方形をした学校の敷地の、ちょうど対角位置にある。この距離を四回も全力疾走すれば、例え陸上部でも息が上がるだろう。
「派手なウォーミングアップね」
 そう言いながら朋華はあたしの隣に座った。
「でも、もう大丈夫よ。ね、ワン・オン・ワン付き合ってよ」
「オッケー」
 あたしは立ち上がると、カゴからバスケットボールを取り出し、センターサークルに立つ。
「あたしが先攻で良い?」
「うん」
 あたしは朋華に目で合図を送り、ドリブルを開始した。
 彼女の目の前まで行き、右手から股下を通して左手へ。左へ行くとフェイントをかけながら、右足を起点に半回転する。
「甘い!」
 しかし読まれていたのか、あたしが前を向いた時、彼女は真っ正面にいた。
「ちぇっ」
 再び後ろを向いて体でボールを庇いながら、あたしはじわじわと後ろに下がっていく。右手と左手で交互にドリブルしながら体を左右に振り、どちらかの方向に抜きに行くと見せかけながら、あたしは後ろ向きのまま股下でボールをバウンドさせた。
「えっ」
 朋華の渇いた声が後ろでする。ボールはぴったりと密着していたあたし達二人の股下を通過して、後ろに飛び出た。
「もらった!」
 あたしは正面に向き直りそのボールを追いかけて、足の筋肉に力を込める。
 バスケットシューズが体育館の床を蹴り、その一点に集約させた力がスピードへと変換される直前――
 ブツッ
 変な音がして、力は霧散した。
「きゃっ」
 短い悲鳴を上げながら、あたしは無防備の姿勢のままで前傾し、そのまま為すすべもなく床へと転がる。
「だっ、大丈夫!?」
 突然の出来事に朋華は混乱しながらも、あたしの方に駆け寄った。
「イタタタタ……」
 とっさに顔を庇った時に擦りむいたのだろう。あたしの両肘は床との摩擦で皮膚がめくれ、少し血が滲んでいた。
「あーあー。こりゃ、消毒して絆創膏でもはっといた方がいいよ」
 傷口を見ながら朋華は眉をひそめた。
「ちぇー、ついてないなー」
 でも何で転んだんだろ。別に床には何も落ちてなかったはずだけど。
 不思議に思いながら立ち上がろうとしたその時、足首に激痛が走った。
「ッ!」
 あまりの痛さに目の前がチカチカする。少し浮かせたお尻が再び床に不時着した。
「どしたの?」
「あ、足が……」
 片目つぶり、苦悶の声を上げながら、あたしは痛んだ右足を押さえる。
「ああ、原因はコレね」
 あたしの正面にかがみながら、朋華は納得したようにあたしのバスケットシューズを指さした。つられて、あたしもその指の先に視線を向ける。
 紐が切れてる。ああ、それでか。
「はぁー……」
 あたしは真ん中で切れた靴紐を見ながら、深く溜息をついた。
 転んだ理由がはっきりしてたのは良いけど、それであたしの足の痛みが引くわけでもない。この痛みからすると捻挫だけでは済まないかもしれない。とにかく明日、病院に行って看て貰う必要がありそうだ。
 けど、おっかしーなー。二ヶ月前に新しいの買ったばっかなのにー……。うー、今月のお小遣いがー。
「ん?」
 悲嘆にくれるあたしを後目に、朋華はさっきからキョロキョロと辺りを見回している。
「ねぇ、さっきから何探してるの?」
「黒猫」
 良い友達持ったよ。あたしゃ。

 結局、怪我はそれほど大きくはなく、骨にも異常はなかった。ただの捻挫だ。
 けど、その日は足が腫れ上がって思うように歩けず、学校を休んだ。
 次の日になると腫れも痛みも大分引き、普通に歩く分には問題なくなった。ただ、バスケットが出来るような状態ではなく、次の試合は欠場せざるを得なくなった。
 あーあ、楽しみにしてたのになー……。
 肩を落として歩きながら、あたしは校舎の四階にある教室に向かった。階段を上るたびに、右の足首がしくしくと痛む。地味な痛みでは会ったが、試合が出来ないことを何度も再確認させられているようで胸が痛んだ。つい、二日前まではこの階段を全速力で上ったり下りたりしていたのかと思うと落胆に拍車がかかる。
「あ」
 四階の階段を上がり切ったところで鈴音の姿が視界に入った。リノリウム張りの廊下をあたしの方に向かって歩いてきている。
 あ、そーだ。体操服。返さないと。結局昨日は返せなかったからなー、悪いことしちゃった。鈴音ってば、何回携帯に連絡入れても出てくれないんだもん。留守電にもなってないしさー。ホントに困った子。って、まぁ悪いのは勝手に借りたあたしの方なんだけど。
「鈴音ー」
 あしたはブンブンと大きく手を振りながら、鈴音を呼んだ。
「あ、那々美ちゃん。おはよう」
 あたしの声に気付いたのか、鈴音は三つ編みにした黒髪を揺らしながら小走りにやってくる。身長一五〇センチほどの小さな体は、頭の位置が丁度あたしの手を置きやすい場所にあった。
「ゴメンね鈴音、勝手に借りちゃった」
 いつも通り鈴音の頭をなでなでしながら、あたしは持っていた紙袋を差し出す。
「ん? 何、コレ?」
「体操服。一昨日、自分の忘れちゃって。勝手に借りちゃった」
 そう言っていたずらっぽく笑ってみせる。
 鈴音はあたしのその言葉に伏せ目がちだった目を大きく見開くと、顔を見る見るうちに青白く染めていった。突然、鈴音はあたしの手を引くと、その小柄な体からは想像も出来ないほどの力で、あたしを人気のない屋上の扉の前まで連れて行った。
 え……そんなにヤバかった?
 意外すぎるリアクションに、冷たい汗が背筋を流れた。
「な、那々美ちゃん、だったの? 私の体操服持っていったの……」
「え、えーと。うん、そー」
 気まずい雰囲気が漂う。
 え?  なになになに? この『あなたが犯人だったの……』みたいな空気は。ひょっとしてあたしが知らない間に『他人の体操服を借りた人は、校舎引き回しの上、打ち首獄門!』なんて校則が出来ちゃったとか?
「那々美ちゃん……大変なことしちゃったよー」
 鈴音は涙声になりながら、上目遣いであたしに何かを訴えてくる。いよいよタダ事ではない感じだ。
「え? ウソ。それじゃあ、あたしゴザの上で桜吹雪見せられちゃうわけ?」
「いや、言ってることよくわかんないけど、それに近いかも」
 近いんだ……冗談で言ったのに……。
 いまいち事情の飲み込めていないあたしに鈴音は最初から説明してくれた。
 うーん、あたしがたった一日休んでる間にとんでもないことになってるなー。
 けど、メモは残しておいたのに……。風で飛んだのかな? 何か重しでも付けておけば良かった。
「でもそれなら話は簡単じゃない。あたしが本当のこと言って陽平の誤解を解けばいいだけでしょ?」
「それは……あんまりお勧めできないよ」
 両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、鈴音はどこか申し訳なさそうにそう言った。
「凪坂君、今すっごく怒ってるから。だから、那々美ちゃんが犯人だって分かったら何されるか分からないよ?」
「だーいじょーぶよ。あんなガリ勉君、ケンカしたってバスケで鍛えてるあたしが勝つに決まってるわ」
 しかし、鈴音はあたしの言葉に首を振る。
「那々美ちゃんは中学生の時の凪坂君を知らないからそんなこと言えるんだよ」
「中学の時のアイツ?」
 ああ、そういえば鈴音はアイツと同じ中学だったんだっけ。
「ふーん、『なー、ねーちゃん。ワイと茶ぁしばきに行かへんかー』って感じだったとか?」
 鈴音は首を横に振る。
「じゃぁ、『俺に触るとヤケドするぜ』くらい?」
 またも鈴音は首を横に振る。
「まさか、『お前はもう死んでいる』クラス!?」
 と、そこで鈴音は首を縦に振った。
「ヤバイじゃん! それじゃああたし、ひ……!」
「秘孔は突かないよ?」
 突っ込むの早いじゃん。鈴音……。
 胸中でぼやきながら、あたしは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「中学の時はね、髪の毛も金色で長かったの。でも、高校に上がるときに急にまじめになって。私の他にも、凪坂君と同じ中学からここに来た人もいるけど殆ど気付いてないみたい。みんな同姓同名だって思ってる。
 だからそれくらい別人になっちゃったんだよ」
 すぐに信じられる話ではない。けど、鈴音がウソを言うとは思えない。
「じゃ、じゃあ、どうすれば……」
「うーん……」
 鈴音は下顎に人差し指を当てて、視線を中空に投げる。鈴音が思考する時のいつものポーズだ。その仕草があまりに可愛くて、いつも抱きつくのだが、今はそんなことで鈴音の邪魔をしたくない。
 コレはあたしにとって死活問題なのだ。
「あ……」
 そして、鈴音が何かを閃いたようにあたしの方に視線を戻した。

「これでよし、と」
 昼休み直前。四限目の授業を早めに抜け出したあたしは、満足げに陽平のシューズボックスを閉じた。中には、陽平の靴と一緒にあたしからのラブレターが入ってる。
「あとは、何人集まってくれるか、ね……」
 そう言ってあたしは、体育倉庫の裏へと移動した。あそこなら、隠れる場所はいっぱいあるし、何より校門からの距離が近い。
「うまく行きますよーに」
 天に祈りながら靴を履き替える。
 鈴音の閃いたシナリオはこうだ。
 まず陽平に頭の悪そうな不良達とケンカをするようにし向ける。そして陽平はボコボコにされる。気を失った陽平をあたしが保健室に運び込み、その枕元にそっと鈴音の体操服を返しておく。
 訳が分からず、顔を腫らしたまま体操服を鈴音に返す陽平。そして、鈴音がわざとらしく『真犯人はあの人達だったのね! 教室から見ていたわ! 取り返してくれて有り難う!』と感激の言葉を述べるのだ。そうすれば、陽平は濡れ衣だったって事になるし、あたしが黒幕だったって事も気付かれない。
 ここで重要なのは、ケンカを教室からでも見えるよう出来るだけ目立つ場所でやるということ。そして、陽平には必ず負けて貰わなければならないということ。
「少なくとも三人くらいは欲しいなー」
 ケンカ相手は、強そうなのを適当に見繕って、陽平からの挑発の言葉を書いた手紙を鞄や机に入れて置いた。陽平のノートをふんだくって、出来るだけ筆跡を似せたつもりだけど、どこまで近づけることが出来たかはあやしいもんだ。とにかく、何人集まるかは分からないけど、三対一くらいならまず負けることはないだろう。
「お、いるいる」
 あたしが体育倉庫の裏から校門の方を見やると、そこにはすでに悪そうな顔をした男が三人来ていた。顔の迫力もさることながら、体つきも良い。これなら大丈夫だろう。
 内心ホッと胸をなで下ろす。
 陽平はあたしがお昼ご飯を外で一緒に食べようって誘っておいたから、あの手紙は確実に見るはずだ。
 ああ! ゴメンね陽平! やっぱりあたし自分が可愛いみたい! お詫びにあたしの大好きな、納豆パフェおごってあげるからそれで許して!
 心の中で懺悔していると、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
 数分後、校舎の方から陽平がこちらに向かってくる。
 そして、ケンカが始まった。

 ああ……なんて、ことなの……。
 放課後。あたしは誰もいない屋上で独り頭を抱えた。長い間風雨に晒され、老朽化した鉄製の柵に身をあずけながら天を仰ぐ。
 まさか、陽平かあんなに強かったなんて……。
 ゴツそうな三人組相手に余裕の勝利。しかもあたしがアイツらに書いた手紙まで見られてしまった。あの時の陽平は、遠目でも分かるほど勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。多分、陽平が受け取った手紙と差出人が同じだということは気付かれただろう。しかし、それを書いたのが私だとは気付かないはず。
「うーん。どーしよー」
 こんな事なら正直に謝っておけば良かったと後悔するが、もう遅い。陽平のあの強さを見せつけられては、『やっちゃったっ。テヘッ』『こぉの、いたずらっ子めっ。エイッ』ってなノリではすみそうにない。
 これ以上鈴音に迷惑をかけるのは忍びないし……こうなったら!
「時効成立を待つ! これっきゃないっ!」
 拳を高々と掲げながら、あたしは胸を張った。
 バタン!
 その声に呼応するかのように、屋上の扉が勢いよく開く。反射的に視線はそちらに向き、そして最も会いたくない人物をあたしの網膜に写した。
 短く切りそろえた黒い髪。黒縁眼鏡の奥には刃物のように鋭い三白眼。彫りが深く、通った鼻筋はどこか日本人離れしているように見える。
「ぃよう。那々美」
 扉の向こうにいたのは陽平だった。肩を怒らせ、両手に一通ずつ手紙を握りしめて、ゆっくりとあたしの方に歩み寄ってくる。
「や、やぁ、陽平。どうしたの? 恐い顔しちゃって」
 陽平は両目に壮絶な光を宿しながら、一歩、また一歩と、まるで獲物を追いつめるように近づいてきた。背後に黒いオーラが見えるのはあたしの気のせいか?
「実はお前に聞きたいことがあったんだが……さっきの叫び声でその必要もなくなった」
「え? さっきのって……『歯垢清潔』ってヤツ? いやー、あたし今歯磨きに凝っててさー」
「この手紙は、お前が出したんだな?」
 あたしの冗談には何の反応も示さず、陽平は低い声でそう言うと、ゆっくり二通の手紙をあたしに見せる。
「ど、どこにそんな証拠が?」
 我ながら往生際が悪いと思う。でも、分かるの早すぎない? あたしが陽平にノートを借りることはあっても、貸した事なんて無いのに。
「とある情報筋から、この字がお前の字だと教えて貰った。お前のノートと比較して確認したから間違いない」
「とある情報筋って何よ」
「それは言えない。女同士の友情にヒビを入れるのは遠慮したいからな」
 っかー! こーの偽善者! いい!? 『人の為』って書いて『偽り』って読むのよ! 良く覚えておきなさい! 
 あー、でも誰だろう。誰だか分からないけど、とにかく今はソイツのせいであたしは追いつめられている。ああん! 誰よ! そんな余計な事したの!
「何でこんな事をした?」
 陽平の声にわずかに殺気がこもる。眼光が鋭さを増した気がした。とてもいつもの陽平からは想像できない。
 ちょっと、ちょっと、ヤバくない? この状況。落ち着け、落ち着くのよ、あたし。落ち着けばきっと良い打開策が浮かぶはずよ。そう言えば、今日の晩ご飯は何だったかしら。ああ、そうだ。今日は二人とも仕事で遅いんだった。だったら出前でも取ろうかなーって、違ーう! そんなこと落ち着いて考えている場合じゃないのよ!
「いい、陽平。落ち着いて」
「冷や汗を浮かべて言うセリフじゃないな」
 えーと、今日の七時からは『刀山の銀さん・世界一周打ち首物語』があるから早く帰って録画の準備をしないとーって、コレも違ーう! あたしの灰色の脳細胞! ちゃんと働け!
「筆跡なんて、やろうと思えば真似ることだって出来るわ」
「それはお前の字がココに書いてあることを認めるってことだな?」
 そう言えば、ヤモリって爬虫類だっけ? 両生類だっけ? イモリも居るからややこしいのよ! 誰よ、こんな紛らわしい名前付けたの! ペンタゴンに訴えるわよ! ってああー、そんなことどうでもいいの!
「陽平がそう言ったんじゃない」
「そうだったな……」
 そう言って陽平は、二枚の手紙を広げてあたしに見せる。そこには何も書かれていなかった。ただの白紙だ。
「この手紙を見せた時の反応だけで十分だったよ。『どこに証拠が?』なんて何も知らない奴が、いきなり言う言葉じゃない。まず最初は『何のこと?』だろ?」
 ハメられた!? ハメ……ハメ……ハメ……ハメハメハ大王! ってなんでやねーん! それ、ゆーんやったらカメハメハやろー! ってああ! ノリツッコミしてる場合じゃないのに!
「さっきから大丈夫か? お前。一人で飛んだり跳ねたりして。悪いモンでも食ったのか?」
 陽平は少しあきれた顔であたしの方を見ている。心なしか語調が和らいだ気がした。
 さすがあたし! 無意識のうちに相手の戦意を刈り取っていたのね!
「ったく。お前のことだ。どーせ、軽い気持ちでやったんだろう。明日から学校中回ってキッチリ説明して貰うからな」
「……はい」
 やれやれ、と陽平は溜息をついてあたしにそう言う。あたしはそれに恭順の意を見せるべく素直に頷いた。どうやら丸く収まりそうな感じだ。ホントに良かった。
「で、理由くらい聞かせてくれるんだろ。なんで、こんな事書いたんだ?」
「いやー、それは……」
 あたしは最初から話そうと口を開いたが、陽平の差し出した手紙を見て呆気にとられた。

《あなたのブルマは僕が大切に使わせていただきます 凪坂陽平》
  
「ナニ、コレ?」
「お前、まだそんなこと……!」
 陽平の顔が再び怒りに染まっていく。
「ちょ、ちょっと待って。本当に知らないの! あたしが書いたのは、陽平のシューズボックスに入れたやつと、不良達に宛てた手紙だけ! そんな文章、見いたこと無いわ。それにあたしの字じゃないでしょ!?」
 あたしのその言葉に陽平の顔から怒りの色が消えていく。
「……確かに。それにお前が芝居下手だと言うことはすでに証明済みだしな」
 悪かったわね。
「けど、僕はコイツのせいで犯人にされたんだぞ」
 そう言いながら陽平は手紙を睨み付け、ウーンとうねった。
「え?」
 ちょっと待って。あたしが聞いた話と違う。
「陽平。あんた、誰かに見られた訳じゃないの?」
「見られた? 僕が葉山の体操服を盗むところを? まさか。僕は立派な帰宅部だぞ。残業はしない」
 いや、ンな事で胸張られても。
「でも、あたしはそう聞いたけど」
「誰から?」
「鈴音」
 もうすぐ夏だというのに、ひんやりとした空気が、あたし達の間を吹き抜けた。

◆六月三日 葉山鈴音の始まり◆

 ほんの偶然だった。
 たまたま宿題のノートを忘れて教室に取りに戻ったら、たまたまそこに那々美ちゃんが居た。
 那々美ちゃんはなんだか一人芝居をしていて声をかけづらい雰囲気だった。
 しばらく隠れて見ていたら急にみんなの持ち物をあさり始めて、そして私の机で止まった。那々美ちゃんは私の体操服を取り出すと嬉しそうに教室を出ていった。
「あーあ。ホントにもう。忘れん坊なんだから」
 私は苦笑しながら教室に入り、自分の席に向かった。
 私はいつも体育の授業見学してるから、使って貰っても全然問題ないし、新品のままおいとくのももったいないから、このまま那々美ちゃんにあげちゃおっかな。
 そんなことを考えながら、私は机からノートを取りだした。その拍子に机の中から手紙が一枚落ちる。
「あ……」
 それを見て私は顔が火照るのを感じた。
 この手紙は凪坂君へのラブレター。いつか私に勇気が出たら渡そうと思っていた物。でも、その勇気が出る気配はない。多分、卒業するまでずっと。
「いいなぁ、那々美ちゃん……」
 那々美ちゃんは可愛くて、運動神経も良くて、明るくて、誰とでも仲良くなれる。特に凪坂君とは、ピッタリ息のあったコンビのように仲がいい。私は中学からずっと凪坂君を見てきたけど、それは一方的な物。多分、彼の記憶の中での私の存在は、薄い。
「帰ろ……」
 いつまでもこんなこと考えてても悲しくなるだけだ。
 私はノートを鞄にしまうと教室を出ようとした。その時に視界の隅に何かがうつる。
「これ……」
 それは那々美ちゃんのバスケットシューズだった。
 せっかく体操服を持って行ったのに。これじゃあ、またここに戻ってくるな。
 今頃、部室で溜息をついているだろう那々美ちゃんの顔を想像すると妙におかしかった。
 けど、私はちっとも笑ってなかった。
 ――持って行かれた私の体操服――那々美ちゃん――バスケットシューズ――
 私の中で悪魔のパズルが完成していく。
 それは今まで何度も繰り返し考えてきたこと。
 凪坂君に振り向いて欲しい。
 凪坂君に私を見て貰いたい。
 凪坂君を私だけの物にしたい。
 那々美ちゃんを凪坂君から引き離して……。
 黒い妄想はどんどん膨らみ、いつしか私は暇さえ在ればその方法を考えるようになっていた。
 そして今、数ある方法の中から抽出された断片が組み合わさり、また別の方法として形を成す。
 気が付くと、私は那々美ちゃんのバスケットシューズとハサミを持っていた。
 ――だめよ! そんなこと! 那々美ちゃんは私の親友なのに!  
 ――どうして? これが最初で最後のチャンスかもしれないのに?
 私の中で良心と欲望が激しい葛藤を生む。
 理性という檻の中で、闇の鼓動がどんどんその早さを増し、膨れ上がっていった。
 もうすぐ那々美ちゃんが戻ってくる。それまで耐えきることが出来れば今で通りの生活が続く。そう、コレまで通りの楽しくて、平和で、そして……退屈な。
 ジョキ……。
私はバスケットシューズの靴紐にわずかに切れ目を入れた。そして那々美ちゃんの残したメモをポケットにしまう。

 うっすらと笑っている自分が、少し嫌だった。

 私は自分の体操服が凪坂君に盗まれたことにした。涙目で『彼らしき人影を見た』と言って私が書いた手紙を見せると、委員長はすぐに信用してくれた。
「大丈夫よ、葉山さん。あなたが言えなくても、私がちゃんと言ってあげるからっ」
 私が嘘や冗談でこんな事を言う人間でないことはみんな知っている。それに委員長は、ちょっとお節介なほど面倒見がいい。
 これで彼が異常者だというイメージを植え付ける事が出来きた。あとは那々美ちゃんが来ないことを祈るだけ。

 那々美ちゃんは昨日、バスケットの練習中に捻挫をしたらしい。靴紐が切れたのが原因だそうだ。
 私の計画は巧く行ってしまった。何かが、私の背中を後押ししているように思えてくる。

 サイは振られた。もう後戻りは出来ない。

 悪い噂は一日あればあっという間に広がる。 
例え、那々美ちゃんが真相を明かしても凪坂君が異常者だという周囲の評価は簡単には払拭できない。
 これでいい。周囲から孤立したときに、救いの手をさしのべられれば、その人を特別視せざるを得ない。私がそうだったように。

 次の日、那々美ちゃんが学校に来るのを見かけた。思ったより早い回復だ。もう一日くらいかかると思っていたのに。昨日、何度も携帯に着信があったけど全部無視した。私が体操服のことを那々美ちゃんから聞くのは学校でなければならない。
 私は廊下に出て、那々美ちゃんが来るのを待った。教室で余計なことを言われる前に、私にとって都合の良い情報を与えるためだ。案の定、那々美ちゃんは私の姿を見つけると、真っ先に声をかけてきた。
 そして、凪坂君と那々美ちゃんを助ける方法を教える。那々美ちゃんは感心したように私の提案に聞き入ってくれた。すぐにでも実行に移したいという意思がひしひしと伝わってくる。
 これで、凪坂君は『異常者』だけではなく、『暴力者』というイメージも周りに植え付けることが出来る。どちらも普段の彼からは想像も出来ない姿だ。人の信頼を築くことは難しいが、崩壊させることは簡単だ。

 昼休み。凪坂君が不良三人とケンカを始めた。那々美ちゃんには凪坂君がどれだけ強いかは教えていない。ハッキリ言ってあの程度であれば五人くらいまでなら楽勝だろう。けど、念のため那々美ちゃんが不良達にばらまいた手紙は、適当な数だけ残して処分させて貰った。
 ケンカの勝敗は、凪坂君の圧勝。
 私はその彼の姿に思わず見とれてしまっていた。
 私の計画はきっとこのまま巧くいく。彼の姿はいつも私に自信を与えてくれる。
 そう、あの時もそうだった。

 私は中学生の時、典型的なイジメられっ子だった。机に彫刻刀で卑猥な落書きをされたり、教科書をトイレに捨てられたり、運動靴を飼育部の動物のトイレ代わりにされたりする事が毎日のように続いた。
 ある時、歴史授業で二人一組になる課題を言い渡された。内容は興味のある歴史人物の背景を自分なりまとめて発表する、と言うものだ。
 当然、私と一緒に組んでくれる人なんて居ないと思ってた。
 イジメられっ子と仲良くしたら、次は自分がイジメられる。その考えはすでに当たり前のように浸透していたからだ。
『葉山。一緒にやろうぜ』
 でも凪坂君は違った。彼は不良達のボスみたいな存在だったから、誰も文句は言え無かった。ましてや報復を考えるとイジメるなんて発想自体起こり得なかった。
 凪坂君は、ただ単に私と組めば、めんどくさい課題を全部やってくれるだろうって考えで私を誘ってくれたんだろうと思う。実際、作業は殆ど全部私がやった。でも全然苦にならなかった。それよりも、今まで恐いとばかり思っていた凪坂君の、優しい一面をたくさん見られて嬉しかった。
 図書館で調べ物をする時、重い資料は全部彼が持ってくれた。私がイジメられているのを見ると『俺の頭脳に触るな!』と追い払ってくれた。発表の最中も凪坂君のおかげでヤジを飛ばされずに済んだ。
 凪坂君が隣にいる。ただ、それだけのことで私は自信が持てた。

 歴史の課題が終わった後。私はイジメられなくなった。間違いなく凪坂君のおかげだ。
 私は彼に感謝した。いっぱい、いっはい感謝して……気が付いたらソレは恋に変わっていた。毎日毎日、凪坂君のことばっかり考えて過ごした。
 それから、喋ることは殆どなくなったけど、遠くから見ているだけでも私は幸せだった。

 中学を卒業する時、これでお別れかと思うと涙が止まらなかった。
 そして高校に入学し、彼の姿を見たときは本当に嬉しかった。嬉しすぎて、ここでも涙が止まらなかった。
 随分外見は変わっていたけど、それでも一目で彼だと分かった。だって、今までずっと彼だけを見てきたから。

 高校で一人目の友達はすぐに出来た。那々美ちゃんだ。
 彼女は誰とでも仲良くなれる才能を持っていた。勿論、凪坂君とも。
 ――邪魔だな。
 いつしか沸き上がったその本音。私は自分に嫌悪感さえ感じた。那々美ちゃんはいい子だ。そんないい子を邪魔者呼ばわりする何てどうかしてる。
 何度も何度も頭から振り払った。でも、そのたびにその黒い感情は強くなっていく気がする。
 そして、ついに表面化した。
 待ってて凪坂君。すぐに那々美ちゃんのこと嫌いになるから。

「那々美ちゃんと凪坂君、付き合ってるみたいなの」
 私は朋華ちゃんを捕まえてそう言った。彼女とは那々美ちゃんと三人で一緒に遊んだことが何度かある。私が凪坂君に気があるような態度をとると、彼女は何も聞かずに相談に乗ってくれた。本当は『気がある』なんてものじゃないんだけど。
「わかったわ! わたしが確認して来てあげる! その封筒、無理矢理にでも見てやるわ!」
 朋香ちゃんがそう言う話題に敏感なのは良く知っている。彼女は弾かれたように走り出した。
「あ、待って!」
 私は慌てて呼び止めた。凪坂君を探しに行く前に彼女には言っておかなければならないことがある。
「私の勘違いかもしれないから、私が教えたって事絶対に言わないで」
 朋香ちゃんは強く頷いた。
「分かってるわ。私たちの友情は永遠に不滅よ! 聞かれたらテキトーに誤魔化すから!」
 そう言いながら彼女は走り去った。
 後は巧くいくことを祈るだけ。

 屋上で二人の会話を聞いた。
 そして私の計画が破綻したことを知った。
 てっきり凪坂君が一方的に那々美ちゃんを罵倒して終わるのかと思っていた。でも違った。彼は基本的に紳士で優しい。
 私は屋上の扉を開けた。
「鈴音……」
「葉山……」
 二人の視線が突き刺さる。
 でも逃げることは決して許されない。私は自分の罪を償わなければならない。これで那々美ちゃんには嫌われるだろう、凪坂君には殴られるかもしれない。でも、そうなって当然のことは私はした。自業自得だ。
「ゴメンネ……」
 謝って済むような問題じゃない。けど謝らずに入られない。
「鈴音。説明、してくれる?」
 那々美ちゃんの言葉に私はゆっくり頷いた。そして最初から全部説明する。
 言葉はまるで堰を切ったように溢れ、とどまる事を知らなかった。内に秘めた想いも全部吐き出した。自然と涙が溢れ出た。
 そして最後に、
「凪坂君……大好き」
 言葉は驚くほど自然に出た。いままで、何回も言おうとして出来なかったその一言。
 それがまるで息を吐くかのように、自然に、あっけなく、私の口から飛び出した。
 二人は何と言っていいか分からない表情で私の方を見ている。
「ゴメンネ……」
 私は最後にもう一度、小さくそう言って二人に背を向けた。
 私はこれからみんなに話さなければならない。
 またイジメられるだろう。停学になるかもしれない。いや、退学かも。私は那々美ちゃんの大事な足を傷付け、凪坂君の学園生活を無茶苦茶にしようとしたのだ。
 ああ……でもそうなったら、凪坂君とはもう会えなくなるなぁ。寂しい。寂しすぎて、私は死んでしまうかもしれない。
 でも、当然の報い。
「待てよ、葉山」
 屋上の扉のドアノブに手をかけた時、凪坂君に呼び止められた。
 まだ、何か言いたいことがあるんだろうか。出来れば凪坂君の口から悲しい言葉は聞きたくなかったけど、それは都合良すぎる。殴られなかっただけでも幸せなのだから。
「なに?」
「俺に良い考えがある」
 そう言った彼の瞳には、忘れかけていた中学生の頃の悪戯っぽい光があった。

◆六月六日 凪坂陽平の終わり◆

「こんなところにいたんだ」
 那々美は校舎裏の芝生で寝そべっている俺の顔をのぞき込むようにしてそう言った。人気もあまりなく、日陰も多い。これから暑くなる時期には、重宝しそうな場所だ。
「でも、ホント思い切ったことしたわね」
 俺の隣に腰を下ろし、那々美は溜息混じりそう言う。
「あたしにゃ、とても真似できないわ」
「価値観の違いだろ? 俺は自分が欲しい物が手に入れば、後のことはどーだっていいんだよ」
「はいはい。そーですか。単純思考で羨ましいこと」
「敬ってへつらえ」
 那々美がクスリ、と笑う。
 そう、すべてはまくる収まった。そして俺は欲しい物を手に入れた。
「いよー、変態さん! ブルマの次はニーソックスかぁ?」
 俺が感慨に浸っているとき、左の方から俺を揶揄する声が聞こえた。
 俺は上半身を起こし、その声の主に向かって叫ぶ。
「バーカ! 本人が一番に決まってんだろー!」
「そりゃそーだ。お熱いこって!」
 からかうような口調でそう言うと、その生徒は校舎に消えた。
「ったく」
 少し笑いながら俺は再び上半身を倒す。
 後頭部にさっきまでの心地よいぬくもりが蘇った。
「けど、あんた達。授業サボった上に、こんなところで人目もはばからずにイチャついてて良いと思ってんの?」
 あきれたようにそう言って、那々美は葉山へと視線を移した。
「うんっ」
 葉山はそう言ってニッコリと笑い、膝の上に載せた俺の頭を撫でてくれる。
「あーあ。やってらんないわ。それじゃ、あたしは授業戻るから。それじゃね、お二人さん。お幸せに」
 べーっ、と舌を出して那々美はそう言い残すと、校舎の方に戻って行った。
「凪坂君」
「ん?」
「ありがとう」
 それは昨日から何度も聞いた言葉。けど、何度でも聞きたくなる言葉。
 ――あれから、俺はクラスの連中に『犯人は俺だ! 出来心だった!』と胸を張って言った。視線は、今更何言ってやがる、と物語っていたが、俺が罪を認めたことでとりあえず事件は集結した。
 まぁ、おかげで委員長に頭が上がらなくなったが……。
 テレビのゴシップは謎めいた背後関係に興味が向けられる。犯人の分かっている推理小説など面白くもない。
 だから、いずれこのことも風化し、また新しい事件が起こればみんなの興味はあっけなくそちらに向くだろう。そして、事件はすぐに起きた。いや、起こした。
 俺と葉山の交際スタート。
 さっきまで、加害者と被害者の立場だった男女の恋。これが事件でなくて何だというのだ。
 俺が自分の外見だけではなく、内面まで変えて告白したいと思っていた女性。
 彼女の名前は――葉山鈴音。

 最初、彼女を見たときはただのイジメられっ子だった。イジメは相手が抵抗しないと、どんどんエスカレートする。いずれは彼女も潰れてしまうだろう。これまでそう言った奴らを何人も見てきた。
 そして結末は、引きこもり、転校、あるいは自殺。
 抵抗しない奴が悪い。弱者は虐げられて当然だ。自分では何もせず、周りに何かを期待する方が間違ってる。多分、葉山も周りと自分を呪いながら壊れていくだろう。そう思っていた。
 しかし彼女は違った。どんな酷い目にあっても、どんな辛い思いをしても、眼だけは死なない。なぜだ。疑問に思いながら、いつも真っ直ぐに前を見ているその眼に俺は惹かれ始めた。

 そして歴史の課題で二人一組になることを言われた時、俺は葉山に近づいた。その理由を探るために。
 葉山は幼いときに父親を亡くしていた。以来、母親が女手一つで彼女を育ててきた。生活は決して楽ではなかったが、それでも葉山は弱音らしい弱音は吐かなかった。
『私かしっかりして、お母さんを楽にしてあげるの』
 葉山が俺達みたいなオチコボレがたくさん居る中学校を選んだのは、いわゆる家庭の事情ってやつだ。彼女の学力ならばもっと良い中学に入れたはずだが、金銭事情がそれを許さなかった。
 こんなにも小さく、華奢な体の中に、どうしてそんなに重い荷物をしまっておけるのか。俺には不思議でしょうがなかった。
 弱々しい外殻を支える強靱な意志。その内面の輝きを俺は彼女に見いだした。

 歴史の課題が終わり、俺は葉山に近づく理由が無くなった。大切な物への想いは、それが無くなって初めて気付く。俺は葉山に惚れている事を自覚した。
 彼女をイジメていた奴は片っ端からボコボコにしてやった。男でも女でも容赦なく。
 腕力しか取り柄の無かった俺が彼女に出来ることと言えばそれくらいだった。

 中学を卒業する半年ほど前、俺は彼女の進学する高校に行きたいと思った。そして彼女に告白したかった。
 だが、今のままではダメだ。俺と葉山とでは不釣り合いすぎる。
 俺は学校の授業を必至で聞いた。家に帰るとすぐに親に塾に行きたいと頼んだ。葉山の行く高校は、やはり金銭的な事情のせいか、それほど優秀な学校では無かったが、それでも俺にとっては十分難関だった。元々、進学など考えもしていなかった俺だ。学力など無きに等しい。
 勉強は辛かった。辛いなんてモンじゃなかった。それはまるで言葉の通じない世界。赤ん坊がいきなりコロシアムにつれて来られたような感覚だった。
 何度も諦めそうになったが、葉山への想いが俺を支えた。
 あいつは、あんなに小さな体で頑張っていた。辛い思いを一人で全部乗り越えてきた。俺にだって出来るはずだ。
 そう、自分に言い聞かせて死にものぐるで頑張った。

 受験当日。俺は長い髪を切り、髪も黒く染め直した。眼鏡をかけて軽く変装し、誰も俺だとは分からないようにした。
 これを機会に生まれ変わる。そして葉山に相応しい男になる。そう決めた。

 俺は無事合格し、高校二年の時に葉山と同じクラスになれた。
 葉山は俺のことがすぐに分かったみたいだった。戸惑いもあったが、正直凄く嬉しかった。
 その時すでに俺は『優等生』であり、ようやく葉山と同じ土俵に立てた気がした。あとはいつ告白するか。
 そう考えていたとき、例の事件が起きた。

 この事件のせいで俺は『変態』と『乱暴者』のレッテルを貼られたが、そんなことはどうでも良かった。
 俺の目標は達成できたのだ。別に『優等生』である必要はない。葉山が好きだと言ってくれるならなんだっていい。
「お互いに、もっと早く気付けば良かったね」
 俺の髪を優しく撫でながら葉山はそう言った。
「ああ、そうだな」
 頭を撫でられる感触がこんなに気持ちいい物だとは思わなかった。まるで雲の上にでもいるかのような感覚は自然と睡魔をもたらしていく。
「けど、ま。こういう出会いがあってもいいさ。おかげで最初から本音をぶつけ合えたんだからな」
 痴漢から始まる恋だってある。悪口から愛情を感じ取ることもある。ロマンチックな出会いだけが恋愛の始まりって訳じゃない。
 だったら、こういう始まり方があっても良いはずだ。
 俺は静かに瞼を閉じる。
 再び目を開けた時、彼女が微笑んでくれているのを期待して。

                                  ―終―


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
かじきまぐろさんの意見
 自分はあまり恋愛物というのは読まないのですが、これは素直に面白かったです。
 ただ、最初の部分はやはり疑問でしたね。
 委員長が無理矢理、陽平に罪を擦り付けている様に見えてしまって、彼女が犯人かと思いました。
 そうなる様、狙ったのかもしれませんが。
 北斗の拳ネタ、笑いました。
 ネタ的に心配なさっている様ですが大丈夫ではないでしょうか?
 フルメタだって、かめはめ波とか昇龍拳とか言ってましたから。


関久弥さんの意見
 楽しく読ませていただきました。
《あなたのブルマは僕が大切に使わせていただきます 凪坂陽平》
 この書き出しにはヤラれましたね。
 全体の流れ、構成、落ち(?)も、そつのないデキです。
 しかし事件解決に至るまでの経緯がやや単純で、
 もう一つだけでも読者を引っ掛けるようなエピソードを絡ませるといいかもしれません。
 もう一つ気になったのが、学級委員長の思考と周りの反応ですね。
 あんな大胆な犯行声明文を見たら、本当に陽平が犯人であるのか否か怪しむと思うのですが……
 本人が否定するくらいなら、最初からあんなものは書かないと考えないでしょうか?
 その辺が不自然すぎて、かなり気になりました。


Sacさんの意見
 正直、私には指摘する点は見つかりません。
 文章の繋げ方、キャラの作り方、フェイク等どれを見ても脱帽しました。
 那々美が何かある。と言うのは読めたのですが、
 そこに葉山が出てきたところでやられた。と思いました(笑)
 文章力については問題ないと思います。
 いや、もう私が文章に踊らされていると言う感じでした。
 言葉の話術が巧みで恐怖さえ感じたほどです(笑)
 では、次回作にもかなり期待します。


恋姫さんの意見
 素直に、メチャクチャおもしろいと思いました。
 冒頭部分では、「ここの説明はこれだけでいいの?」、「設定これでいいの?
 」みたいな部分を感じていたのですが、
 それも読み続けていくうちに、段々謎が明かされていくように解消されていきました。
 ↓この辺の文章が特にそうですね。
>『覚えがありすぎて、すぐには思いつきません』
>まだ目標も達成していないのに
>優等生

 視点移動の利点も上手く生かせていると思います。
 それぞれが秘める思いが、これまた上手く絡み合って一つの物語を形成している。
 そしてラストでは鳥肌が立ちましたよ。こうなるのかなぁと、ある程度予想していながらも、
 実際最後を読んだ時には痺れました。
 見習いたい表現もたくさんあって勉強になりましたよ。

 あと、気になった部分ですが、
 体操服ってゼッケンというか、名札ってついてますよね。ついていなかったかな?
 それを着てバスケをやっていたなら、次の日、
 葉山の体操服がないと騒ぎになった時に誰かが気付かないのかなぁと。
 まぁクラスにバスケ部員が他にいないのなら問題ないかもしれませんが。
 それとも、葉山は体操服着ないから名札もついていないのかな。

 それと、体操服借りる時、電話が通じないなら、メモか手紙で書いて席に貼っていけば…
 あと、バスケシューズの靴紐に切れ目を入れるだけで、
 相手が捻挫をして次の日休むことまで予想できるのかなと。
 これは私自身、運動部でもなかったし、そういう経験がないのでわかりませんが。

 細かいこと言ってすみません。
 あくまで私の個人的な主観で感じたことなので、
 他の方から見たらなんでもないことなのかもしれません。


長万部さんの意見

 読ませていただきました。戦闘シーンがやや長いような気がしましたが、文章力には驚きました。
 羨ましいです。
 後編から急に視点が変わりましたが、それも特に違和感無く読めました。ギャグも面白かったです。
 ただ、「北斗の拳」を知らない方はどうだろうと、少し首をひねるところもありました。
 そして最後に、私めの小説にわざわざ感想を下さってありがとうございました。
 次のご作品を書かれた場合、ぜひとも読ませていただきたいです。


国下 夏草さんの意見

 読ませていただきました。
 お返しに……程度の軽い気持ちでしたが、面白かったです!
 いや〜、犯人が全く読めませんでした。事件といえば、
 人殺行為しか思い浮かばないような空疎な脳味噌の私としては、
 軽い発端から終焉まで体育着を盗んだだけでここまで面白い文章になるとは! と感動した次第です。
 軽く一読しただけなので、粗はまだ見つかりません。
>そう、自分に言い聞かせて死にものぐるで頑張った。
 くらいですね〜。

 アクションこだわり派だったんですね。私も負けないように精進しなければ、と心底思わされました。


犬麻呂さんの意見
 初めまして。読ませていただきました。
 私はこういう恋愛ものは苦手なのですが、文章が読みやすいので最後まで読み通すことができました。
 なかなかの良作だと思います。
 ただ一つ難を言えば、登場人物が少ないので、最後のオチがすぐ読めてしまうことでしょうか。
 例えば、陽平が犯人探しをしていたら、女子更衣室に忍び込む本物の変態を発見したが、
 調べてみるとそいつも結局ブルマーを盗んだ犯人ではなかったみたいなブラフをいくつも仕掛けておくと、
 最後のオチにより意外性が出て面白くなるかもしれません。


香苗さんの意見
 こんにちは、読ませていただきました。
 視点の変化を上手くつけていて、事件を見事に解決。
 面白かったです。
 犬麻呂さんの言うとおり、もう少し、読者を混乱させる部分を作ってみてもよかったかもですね。
 全ての話が伏線になっているので息をつく暇もなく…という感じでした。
 良い意味で、一気に読めました。
 次回作も期待してます。


謝楽さんの意見

 作品読ませていただきました。

 前半からテンポ良く話しがすすんで、とても読みやすかったです。
 視点移動を繰り返しているにもかかわらず、分かりやすく、
 登場人物の心理描写がとても丁寧ですごいと思いました。
 とくに後半の葉山鈴音の心理描写はすごいと思いました。
 「人間の心の脆さ」みた いなものを強く感じました。
 物語のあちこちに伏線がちりばめられていて、長編にもかかわらず、退屈せずに、
 最後まで読み進める事ができました。
(失礼な発言をお許しください。私は長編はめったに、読まず、
 また、読んだとしても回数を分けて読むので…)

 残念だと感じたのは、皆様おっしゃっていらっしゃいますように、オチが読めてしまったことでしょうか。
 でも、楽しく読ませていただきました。次回作、楽しみにさせていただきます。乱文を失礼致しました。


一言コメント
 ・先の読めない展開にとても引き付けられました!!
 ・モザイクノベルがとてもいい。キャラがまっすぐ。
 ・構成力に感嘆しました。素晴らしい作品を読ませて下さいまして有難う御座いました。

高得点作品掲載所 作品一覧へ
戻る      次へ