高得点作品掲載所      だいきちさん 著作  | トップへ戻る | 

救いの道筋

 それはこんな小さな街に似つかわしくない鉄骨のビルの残骸だった。百坪ほどの敷地内は崩壊したコンクリートと鉄骨の破片が山積みになっている。私が現場に駆けつけたとき、他の九人、すなわち人命救助を目的としたNGO団体「CRPE」のメンバーたちは、皆すでにその瓦礫の除去作業を始めていた。
 国土のほとんどが砂漠に覆われた小さな国だった。長い間内戦に明け暮れ、今もなお各地で戦闘が行われている。そんな国の中にある、世帯数にして五十世帯ほどの小さな街に私たちは来ていた。一ヶ月ほど前に激しい戦闘が行われたこの街で、生存者を救助するのがその目的だった。
 しかし、私たちがこの街で見たもの、それは戦闘というより虐殺の痕跡だった。敵のゲリラが潜んでいるかどうかを捜索するよりも、街ごと焼いた方が早い、という冷徹な作戦だったのだろう。そのあまりにも念の入った砲撃や銃撃の痕跡の中には、単なる作戦を超えた非人道的な醜い衝動らしきものすら感じ取れた。私を含めたメンバー十名で手分けして街中を探索したが、瓦礫の山と大量の蝿と、かつての住人の炭化した残骸の他には何も見つけることができないでいた。
 しかしそこに、生存者がいるかもしれないとの一報が入る。そこで慌ててこの現場に駆けつけてきたところだった。
「どんな状況なの?」
 私たちが乗ってきたトレーラーのそばに、背の高い痩せた青年が立っているのを見つけ、私は彼に声をかけた。彼の名はデイル。歳は二十代後半くらいと若いが、医師の資格を持っている。
 私は彼がいてくれたのでほっとしていた。私はメンバー内で唯一の女性であるせいか、扱いづらい存在として他のメンバーからやや邪険にされている向きがあった。しかし年の近い彼だけは同世代のよしみと思うのか、比較的親切に接してくれていたのだ。
「音響探知機が、誰かがノックしてるような音を捉えたんだ」
「声は?」
 彼は黙って首を横に振る。
 音響探知機は瓦礫の下に埋まっている生存者の有無を確認するために使用する。生き埋めになった人が助けを求める声や、瓦礫を叩く音を捉える装置だ。
 私はその音が確かに私たちに助けを求める目的で発せられたものであるように祈った。鼠がたてた音や、風で動いた扉の音に一喜一憂するのはもうたくさんだった。
 私も現場に入り、瓦礫の撤去を手伝い始める。
 先ほどから現場の中央、瓦礫の山の中腹あたりから激しい切断音が響いている。どうしても動かせない瓦礫は機械を使って切断して運び出すのだ。しかし、しばらくするとその音がやみ、山の中から一人の男が出てきた。
「だーめだ、レシプロソーじゃ歯がたたねえ。誰か、エンジンカッター持ってきてくれ!」
 私の頭くらいの太さを持った腕が、手にしたその小型の切断用電動工具を振り回す。私はその男の、まるで人を威圧するかのような筋肉隆々たる体と、それに似合って繊細さのかけらもない乱暴な態度がやや苦手だった。
「グレイ! どうだ、調子は?」
 トレーラーのそばで見ていたリーダーのジョンがその男に声をかける。
「もうちょっとでこのでけえ塊がなんとかなるよ。クレーンの準備をしといてくれ!」
 仲間からエンジンカッターを受け取りながらグレイが言う。エンジンを始動させると、爆音とともに円形のブレードが回転し始めた。より力のある工具を手にしたグレイの表情はご機嫌だった。
 グレイの作業により、ビルの壁面にあたる巨大な瓦礫の端部が削り取られていった。一方でトレーラーの天井からクレーンが伸ばされ、サイズの大きい瓦礫が吊られていく。
 この巨大なトレーラーは、私たちの仕事のために作られた特注品である。単に私たちの移動手段であるだけでなく、中には寝室や医務室もあり、また後部の格納庫には各種の救命器具や、このようなクレーンまで装備されている。私たちはこのトレーラー一台で街から街へと渡り歩いて仕事をしているのだ。
 グレイによって切断されたコンクリートの塊は他のメンバーたちの手によってワイヤースリングに玉掛けされ、クレーンにより次々と撤去されていく。その作業は手早く、見る見るうちに倒壊したビルの内部があらわになっていった。私は細かい破片を片付けながら、その連携作業の見事さを感心しながら眺めていた。
 邪魔な瓦礫が全てどけられると、グレイと音響探知機を持ったメンバーが中へと入っていった。私たちは固唾をのんでその様子を見守る。しかし、十数分後に出てきた彼らの表情は暗かった。
「ノックと思ってたのは機械か何かの音みたいだな。生きた人間はいやしねえや」
 グレイはそう皆に報告した。
 メンバーたちは口々に残念という意味の言葉を吐き、仕事の手を止める。しかし私はあきらめきれず、何か人のいる痕跡はないかと未練がましく瓦礫の中にあいた穴を覗き込んで歩いた。
「危ねえっ!」
 グレイの野太い声が響く。次の瞬間、私の足元が崩れた。私はそのまま瓦礫と共に、かつてビルの地階であった場所へと滑り落ちてしまった。
 幸いにも怪我はなかったが、したたかに腰を打ち、私はその痛みにうめいた。
「大丈夫かあ!」
 上からメンバーの声がする。見上げると、メンバーたちが穴から覗き込んでいる。
「だ、大丈夫、です」
 私は無理に声を出す。
「待ってろ、今助けてやる」
 一人がそう言ってくれる。しかし野太い声がそれを遮った。
「待て! うかつに中に入るな!」
 グレイの怒ったような声。そしてそれはそのまま私にも投げかけられる。
「おい、レラ。自分で上がってこれるか?」
「はい、大丈夫です」
 私は痛みをこらえ、無理やり立ち上がった。そして投げてもらったロープをつたって、自力で上に上がる。
「危険な場所に助けに入ってそいつもやられたら元も子もねえからな。手前のミスではまったんだ。自力で上がってこれなきゃ置いていく。わかったな」
 上りきったところで力尽き、地面にしゃがみこんでいた私に向かって、グレイが上からそう吐き捨てた。
「はい」
 私は彼の顔を見上げることなくそう返事をした。それでも彼は満足したのか、トレーラーの方へと歩いていった。
「危険な場所って……危険な場所で人を助けるのが私たちの仕事でしょう?」
 私は彼の後姿を眺めながら、不満げにそうひとりごちた。

   *

 私たちCRPEに対して、実は世間の目は思いのほか冷たい。戦争の真っ只中でもかまわず救助に向かう私たちの行動はあまりにも危険過ぎたからだ。
「人の命を助けようとする者がどうして自分の命を粗末にするんだ?」
 多くの人がそう言って私たちをいさめようとした。しかしリーダーのジョンを始めとして誰一人そんな話には聞く耳を持つことはなく、今回もこうして内戦中の国に来ている。自分たちのことをあまり多くは語らない彼らが、なぜあえて危険を犯すのかは知るよしもなかったが、私にとってそれは都合のいいことだった。
 実は新入りの私にとって、今回の仕事は初の遠征だった。結婚に失敗し、家にもいられなくなり、この団体を知り所属することを決意するまでには少々長い経緯がある。ただその結果としてすぐにこの遠征に参加できたのは幸運であった。事務仕事などより早く救助が行われている現場に行きたかった。
 しかし問題が一つあった。かつて植民地としての歴史を持つこの国では言語で不自由を感じることはない。コミュニケーションに不自由したのは、むしろ仲間であるはずのCRPEのメンバーたちとの方だった。歳の近いデイルを除けば他のメンバーたちは誰も私に話しかけてくれるものはなく、私が話しかけてもたいがいぶっきらぼうに突き放された。私にはそれが自分の行動を浅はかな女の気まぐれだと馬鹿にされているようでくやしかった。何か成果をあげて皆を見返してやりたかったが、何の経験もない非力な身で何かができることもなく、ほとんど役に立っていないというのが現状だった。

 その後私たちは、再び生存者の捜索に出た。
 私はメンバーの一人と組んで、街の中心へと向かう大通りを歩いていた。たどり着いた先は広場のような場所。そこで見たものの姿に私は思わず息を飲む。ほとんどの建築物が破壊されている中、一つだけ原型をとどめている建物があったのだ。
「礼拝堂?」
 白黒に彩られたレンガで装飾され、屋根には尖塔が左右に二本建てられているその姿は、明らかに他の建築物とは趣を異にしている。恐らく彼らの宗教における崇拝の対象なのだろう。私はその建物に近づこうとしたが、一緒に来たメンバーに止められた。
「見た目はちゃんと立ってるように見えるが、熱と震動でかなりやられてる。今ならアリが乗っても崩れるぜ」
 それまでずっと無言だった彼がそう説明してくれる。私は再び礼拝堂を見た。確かに、良く見るとかすかに建物の形がゆがんでいるようにも見える。私は近づくことをあきらめて踵を返そうとする。しかし次の瞬間、私は礼拝堂から視線をはずすことができなくなった。
 突然きしんだ音と共に、礼拝堂の扉が何者かの手によって開かれたのだ。
「まさか……」
 思わずそう呟いた。開いた扉から姿を現したもの、それは一人の少女だった。少女はそのままこちらに向かってゆっくりと歩いて来る。年の頃は五、六歳くらいだろうか。褐色の肌に長い黒髪、灰色のワンピースを着たその姿は、ここに来るまでに出会った少年少女たちとなんら変わるところはない。ただ力を失った、ぼんやりとした瞳だけが印象的だった。
「保護、してくれ。俺はみんなに連絡する」
 彼はそう言うと、無線で他のメンバーたちに呼びかけ始める。私は彼女の方に向かって近づいていった。彼女もゆっくりとこちらに歩いて来る。
「こんにちは」
 私は彼女に近づき、声をかけた。彼女が歩みを止める。
「よく無事だったわね。もう大丈夫よ。私たち、あなたを助けに来たのよ」
「助けに……来た?」
 相変わらず虚ろな瞳のまま、か細い声で彼女は私の言葉を反復する。
「そう、私たちは兵隊じゃないの。あなたを守ってあげる。それよりどこか怪我はない?」
 彼女は少しの間じっとこちらを見ていたが、やがて首を横に振った。一人なの、他に誰かいないの、という問いにはただちに首を振った。
「私はレラ。あなたの名前は?」
「……マラク」
 彼女は私にそう名乗った。

   *

「どこも怪我はないようだし、心配ないよ。ただ栄養失調気味だね。何か消化にいいものでも食べさせてやってよ」
 マラクを診察したデイルはそう言った。あの後、生存者発見の一報を受けて、皆が礼拝堂前に集まってきた。幸いトレーラーまで来てくれたので、すぐに彼女をデイルに診せることができた。彼女の体調が問題なかったことに私はほっと胸をなでおろした。
 デイルの助言通り彼女に何かを食べさせてやろうと考え、トレーラーに乗り込む。
 マラクはベッドの上で上半身を起こしていた。私の姿を見てもその虚ろな表情は変わらない。私は彼女に笑顔を向けると、キッチンに行き、そこで缶詰のスープを彼女のために温めた。
 しかし、私がすすめたスープを彼女は飲もうとはしなかった。
「どうしたの? お腹空いたでしょう?」
 私がそう問いかけても、彼女は黙って首を振る。
「そう……」
 きっとまだ警戒しているのだろう、私はそう判断して皿を置いた。
「でも偉いわ。よく一人で頑張ったわね」
 私はそう彼女に話しかけた。話でもすれば少しは緊張も解けるだろうと思ったのだ。
「辛かったでしょう」
 背中まで届く彼女の長い髪は、長い間櫛を入れていないせいですっかり痛んでいる。私はその髪をそっと撫でた。彼女は初めて心地よさそうな顔を見せた。
「本当にあなた一人だったの? 他に誰か残った人はいなかったの?」
 私がそう尋ねると、彼女はベッドの横に座る私の顔をじっと見る。
「最初はいた。でも、もういない」
「そう……」
 私はそれ以上訊くのは酷かもしれないと思い、質問を中断する。その代わりに彼女の髪を撫でる手にわずかに力をこめた。
「本当に、よく頑張ったわ」
「あなたは、子供がいるの?」
 突然彼女が私に向かってそう訊いてきた。不意を突かれたため、答えるのに少々時間を要してしまった。
「……いないわよ。どうして?」
「お母さんみたい」
「私が? どうしてそう思ったの?」
「あたしのお母さんもよく私の髪を撫でた。それに似てたから」
 一瞬胸にこみ上げてくるものがあり、それを抑えるのに苦労した。私もかつてはこうして子供の髪を撫でていた。その感触を思い出すのが怖くて、私は思わず手を離してしまった。
「あなたたちはあたしを殺しに来たんじゃないの?」
 彼女が唐突に訊いてくる。私は笑ってそれを否定した。
「逆よ。あなたを助けに来たの。怖い兵隊が来たってみんなであなたを守るわ。あなたを絶対殺させたりなんてしない」
 私は力を込めてそう言った。そこで見せた彼女のかすかな表情の変化を、私は不審に思った。私にはそれは不服そうな表情のように見えたのだ。
 そのとき、隣のキッチンとの仕切りのカーテンが開いた。向こうからジョンが顔を出す。
「レラ、ちょっといいか?」
 席を立って隣に行くと、待ち構えていたようにジョンが訊いてくる。
「何か情報は?」
 私は首を振る。
「彼女の他に生存者はいないようです」
「そうか……まあ一人助かっただけでも儲けものだがな」
 彼の声は大きい。その無遠慮な言葉が仕切りの向こうの彼女に聞こえるのではないかとひやひやした。
「捜索は打ち切りですか?」
「いや、一応礼拝堂の周りだけは調べさせてる」
 ジョンがそう言った直後、仕切りの向こうから大きな音がした。慌ててカーテンをめくると、ベッドの上がもぬけの殻になっていた。
「マラク!」
 彼女は急にトレーラーから出て行ってしまったのだ。私も急いで降りようとする。しかし急ぎすぎて出口で転んでしまった。転げ落ちるようにトレーラーから降りた私の視界に、礼拝堂に向かって走っていくマラクの姿が見えた。
「マラク! 駄目よ! 礼拝堂は危ないわ!」
 私はそう叫んで、彼女を追いかけた。
 一目散に駆けて行く彼女は、しかし礼拝堂の中には入らず、その裏へと回り込んだ。
 そこは礼拝堂の裏庭だった。私がそこに着いたとき、そこには礼拝堂の周辺を探索していたメンバーが二人立っていて、困惑した様子で彼女を見つめていた。彼らの見つめる先には地面に大きく土を盛り上げてつくった小山があり、彼女はそれにすがりついて身を硬くしていた。
「マラク……」
「ダメッ!」
 私が声をかけると、彼女は激しくそれを拒絶した。
「これは、見ちゃ、ダメッ!」
 彼女は泣いていた。涙をぼろぼろとこぼしながら、まるで駄々っ子のように見ちゃダメだと繰り返す。
 彼女のすがりつく小山はちょうど彼女の体が収まるくらいの大きさだった。そしてその隣にはそれよりもやや小さく土が盛られている。さらにその隣は、土で盛り上げる代わりに墓標らしき棒が立てられている。三つ整然と並べられているそれらを見て私は全てを察知した。
「お墓……なのね」
 私は思わずそう呟く。生き残った人は彼女以外にも少なくとも三人はいたのだろう。最初はきちんと穴を掘って埋め、墓標を立てることができた。しかし一人ずつ人数が減っていくに従い、徐々にそれは困難になっていく。
「あなたが、つくってあげたの? このお墓」
 私は彼女のそばに座って、彼女の肩に手をかけた。彼女の肩がびくりと震える。
「わかったわ。このお墓は誰にも手を触れさせないようにする。だから安心して」
 私はそう声をかけてやる。彼女がようやく顔を上げた。
「あなたの家族?」
 彼女が首を横に振る。
「お友達?」
 しばらく考えて、彼女は首を縦に振った。
「そう……かわいそうに」
 私は他の二人にトレーラーの方に戻ってもらうように頼んだ。二人きりになると、ようやくマラクは立ち上がった。彼女の服についた土を払ってやる。すると彼女が墓を一つずつ順番に指差して言った。
「これがヤキーン、これがサミーラ、これがナサブ」
「お友達のお名前?」
 私が訊くと、彼女は頷き、そして言った。
「みんなあたしのせいで、死んだの」
「えっ?」
「だからあたしはここ」
 彼女は、彼女がナサブと呼んだ一番大きく土が盛られている山の隣を指差した。
「あたしも、もうすぐ死ぬの。だからあたしはここに埋めてくれる?」
 彼女は相変わらず無表情のまま、私に向かってそう尋ねた。

   *

 トレーラーに連れて帰った後のマラクは人が変わったかのように雄弁になった。あの墓を私たちに見られたことで、それまで抑えていた何かが彼女の中で切れたらしい。無表情だった彼女の顔に表情が戻り、抑制のない笑顔や涙を交えながらこれまであったことを彼女は一気に喋った。一種の躁状態に陥っているように見えた。
 軍隊が街を襲ってきたとき、彼女は礼拝堂の地下にいて助かった。生き残ったのはそこに隠れていた四人だけだった。
 マラクの他、ヤキーンという男の子と、サミーラとナサブという二人の女の子。その中で一番年上のヤキーンは神に対し敬虔な少年だった。彼は一番年下のマラクを気遣い、少ない食料を常にマラクに多く分け与えた。マラクが遠慮をしても、それが神の教えだからと語り、他の二人の少女にもそれを従わせた。ただヤキーンとサミーラは大きな怪我を負っていた。日に日に力を失い、二人はやがて起き上がることも困難になった。しかしそれでもマラクが差し出す食料を、君が食べろと言ってヤキーンは拒んだ。満足に治療も食事も得られぬまま、二人は次々に命を落としていった。
 二人になったナサブとマラクの元に残された食料はわずかだった。ナサブはヤキーンの言葉に従い、その多くをマラクに差し出した。そのときのマラクには遠慮などする余裕はなく、分け与えられたそれらを彼女は全て食べた。そうして食料が尽きた。二人は礼拝堂の中で死を待つだけの状態となった。
 そうなってから、ナサブはマラクに呪いの言葉を吐くようになった。国を呪い、軍隊を呪い、自らの運命を呪った。そしてナサブはマラクに言った。本当は食料をマラクに分けたくなどなかった、ヤキーンが言うからしかたなくしたのだ、と。
 ナサブがある朝目を開かなくなったとき、マラクは思った。自分が彼女らの分まで食料を食べてしまったから、彼女らは早く命を落としたのだ、と。自分が彼女らの命を縮めたのだ、彼女は私にそう語った。
「そんなことないわ。ヤキーンたちはただ運がなかっただけなのよ。あなたが助かったのは、あなたが幸運だったからよ」
 私がそう言っても、彼女は辛い告白を続ける。
「あたしだって、自分ばかり多く分けてもらいたくなんてなかった。でも食べた、お腹が空いて、我慢できなくて。みんなの分まで……」
 彼女の頬をまた涙が伝う。
「あたしが食べなかったら、みんな生きてたかもしれないのに」
「そんな風に思っちゃだめよ。せっかく生き延びたんだから」
 しかし彼女は首を振る。
「だから、あたしも、ここで死ぬの。だって本当ならあたしもう死んでたんだもの」
「そんなことないったら」
 私がいくら話しても、彼女は頑としてそれを受け入れず、首を横に振り続けた。
 結局その日、彼女は何一つ口に入れようとはしなかった。

 トレーラーの外はもう夜の闇に包まれていた。星明りだけがおぼろげに周囲にあるものの姿を浮かび上がらせている。
 マラクの語った話を聞いて、私は例えようのない無力感を味わっていた。かろうじて生き残った人間の意志すら奪っていく戦争という相手の強大さの前に、私たちにできることなど何もないように思われた。
 そのとき、デイルがトレーラーから降りてきた。彼は外で一人佇んでいる私の存在に気付き、声をかけてくる。
「どうしたの、こんなところで」
「うん……ちょっと休憩」
「そっか、じゃあ僕も付き合おうかな」
 彼はそう言って、私のそばにある大きなコンクリートの破片の上に腰掛けた。私もそれにならって石の上に座る。
「あの娘、様子はどう?」
 彼が訊いてくる。
「相変わらずよ。何も食べようとしないわ」
 私は彼女が語ったことを彼に話した。仲間の死に直面してショックを受けていること。仲間たちの最期の善意が、皮肉にもかえって彼女を苦しめていること。そして、あまりにも死に囚われすぎた彼女の言葉。
「ひどい話よね。あなた、あんな小さな頃に自分が死ぬなんて想像したことあった?」
「いや……」
 デイルがかぶりを振る。私はため息をついて言った。
「いったいどうしてあげたらいいのかさっぱりわからない。ねえ、どうしたらいいと思う?」
「……そんなことがあったんじゃ仕方ないね。僕らにできることは、もうないと思うよ」
 自分の足元を見つめながら、ぽつりと言った彼の意外なほど冷静な言葉に、私は少しむっとした。
「随分冷たい言い方じゃない。なんとかしてあげたいって思わないの?」
「そう言われてもなあ。なんとかしようがあれば考えるけどさ」
 私の追及に対して、彼は相変わらず下を向いたままそう言うだけだった。
「わざわざ自分の身を危険にさらしてまで助けに来ておいて、保護したらあとは知らないってこと? 随分じゃない?」
「そんなこと言ったって、そこまでが僕らの仕事だろう? そこから先は彼女自身で頑張ってもらうほかないよ」
 いきり立つ私に対して、彼は冷めた口調を崩すことはなかった。
 私は納得がいかなかった。わざわざ危険を犯してまで救助に来た、その熱意に対して彼の割り切り方はあまりにもバランスを欠いているように思えた。
「本当に人を助けるってそういうもの? 命さえ助かればいいってものじゃないでしょう」
「そうだね、その通りだ。でもだからと言って全てを完全にやろうとしたってやりきれるもんじゃない。どこかで線引きはしないといけないんだよ。もし僕らがここに来なかったら、彼女は生き延びるチャンスを得ることもできなかった。でも僕らはここに来て、彼女はチャンスを得た。あとは彼女しだいさ」
 彼は私の方を見て、初めてはっきりとした口調でそう言った。私はそれに反論をすることはできなかったが、納得もできないでいた。二人の間にしばし沈黙の時が流れる。
 しばらくして、彼がその沈黙を破る。
「僕は、ここに入る前は別のNGOで働いていたんだ」
 彼が語りだした内容は私を驚かせた。ここの男たちはなかなか自分の過去の話をしようとしない。彼も決して例外ではなかったはずだ。私は唐突にその禁を破った彼の話に、黙って耳を傾けた。
「ある国で内戦が終わった後に僕たちが派遣されてね。そりゃもうたくさんの怪我人や病人を治療した。仕事は毎日腐るほどあったよ。ところが、終わったと思った内戦がまたすぐに始まっちゃってね。そしたら、そこはうちなんかと違ってまともな団体だったからさ、危険だからすぐに引き上げるって話になっちゃったんだ」
 彼は私をじっと見ながら話し続ける。
「当時の僕には納得いかなかった。だって治療途中の患者だっていっぱいいたし、それでなくったって僕らに診てもらいたいって人は後を絶たなかったんだぜ。だから、僕は帰らなかった。一人でその国に残ったんだ。あの時の僕は今の君と同じような気持ちだったと思うよ。どうしても最後までやれるだけのことをやりたかったんだ」
「それで、どうなったの?」
 私の問いに、彼は再び下を向いて答える。
「結局、何もできなかったよ。機材も薬もない医者なんてみじめなもんさ。患者が苦しんでいたって痛み止め一つくれてやれない」
 話すに従い、下を向く彼の瞳からは、先ほどまで湛えていた生き生きとした光が消えていった。ぽっかりあいた洞窟のような虚ろな瞳のまま彼は話し続ける。
「薬があれば助かるはずの患者たちがどんどん死んでいったよ。僕はなんとかしたくて、ありとあらゆるところに国際電話をかけて援助を求めた。けど、勝手に居残った若造の言うことなんて誰も聞いてくれなかったよ。毎日山ほどおしかけてくる患者に対して、僕ができたのはその死を看取って、死亡診断書を書くことだけだった。毎日毎日、何人も僕の前で死んでいくんだ。何も、できずに……」
 私は相槌すら打てず、彼の言葉を黙って聞く。
「数え切れないほどの患者を看取った。あまりにも人が死んでいく姿を見過ぎて、それで僕は壊れちまった。おかしくなって、もう何もできなくなって、それで僕は救助されたんだ。国に送り返され、自分の家に戻された。すっかりおかしくなっていてあの頃のことはよく覚えてない。ただ、家に戻っても患者たちの姿が頭に浮かんで離れなかった。だって、あいつら僕が何もできないってのに、まだすがってくるんだぜ。助けてくれ、助けてくれって。毎晩あいつらの夢を見て、家にいても少しも心が休まらなかった」
 彼はそこまで一気にしゃべって、それから一つ深いため息をついた。それから虚ろになった瞳を私に向ける。私はぞっとした。彼の瞳の中に、助けを求める人々の姿が見えたような気がしたからだ。
「それで、CRPEに入った。ここなら危険だから戻って来いって言う奴もいないし、ちゃんと僕のできる仕事が用意されてる。何よりここで働いている間は、あの夢を見ないで済むんだ。だから危険だろうとなんだろうと、僕はどこへでも行くよ。でも、決して僕のできないことはしない。そんな力も、余裕も、今の僕にはないんだ」
 やれることを全てやろうとして、結局己が壊れるまでやり過ぎてしまった彼の言葉に、私は何も言い返すことはできなかった。私たちはしばらくの間、互いに視線を向けることもなく黙ってそこに座っていた。

   *

 翌日、この街を離れることが決まった。マラクの語った話もあり、これ以上捜索の必要はないと判断されたのだ。私たちは朝から出発の準備を進めていた。その忙しさに追われ、私は医務室で寝ているマラクのことを忘れていた。
 片づけが一段落して、ようやく彼女のことを思い出す。嫌な予感がして医務室の入り口のカーテンをめくり中を覗く。
 ベッドにいるはずの彼女の姿はなかった。慌ててベッドに駆け寄り、周囲を見回す。トレーラーの外に出る扉が開いていた。
「まさか……」
 私はトレーラーの外に出て、周囲にいたメンバーたちを片っ端から捕まえて彼女のことを尋ねた。しかし誰もその姿を見たものはいない。
「どうした、マラクがどうかしたのか?」
 デイルが憔悴した私の姿を見とがめて訊いてくる。
「どこにもいないの。姿を見なかった?」
「いや、見てない。最後に彼女を見たのは?」
 朝早く、朝食を食べさせようと持っていった。彼女はやはり何も口にしようとはせず、頭から布団をかぶって隠れてしまった。それが彼女を見た最後だった。その後は急に出された退去命令のために、片付けに追われて、医務室には顔を出していない。そこで私ははっと気付いた。
「……あの娘、わかったんだわ。私たちが街を離れようとしていること」
「えっ、なんだって?」
「自分はここで死ぬんだって言ってた。そうよ、この街を離れたくなかったのよ」
 私は独り言のように呟いた。
「あそこに戻ったんだわ。連れ戻さなきゃ!」
 そして礼拝堂の方を見た。
 その瞬間、全身に鳥肌がたった。
 尖塔が、崩れていく。礼拝堂の屋根の上に設けられていた二つの尖塔のうちの片方が、轟音と共に屋根の中にめり込むように消えていった。いよいよ礼拝堂が崩壊し始めたのだ。
 マラクはきっとあの中にいる。私は矢も盾もたまらず礼拝堂に向かって走り出した。
 数十メートルの距離を夢中で走る。礼拝堂の目前にせまる。しかしあと少しというところで、誰かが後ろから私の腕を掴んだ。振り返ると、グレイが怖い顔で私を見ていた。
「お前バカか? 崩れてる建物に向かってくやつがあるか!」
「あの中にマラクがいるのよ! 離して!」
 私は怒鳴り返した。
「マラクが……、なんで?」
 彼が理解できないといった様子で訊いてくる。
「知らないわよ! とにかく助けなきゃ!」
 彼は少しの間礼拝堂を見つめていた。そして首を振り、低い声で言う。
「駄目だ」
「は?」
「助けに入ればそいつもやられちまう。入ることは許さん」
「ふざけないでよ! それじゃあの娘はどうなるの!!」
 私は声を張り上げる。しかし彼は表情を変えずに言った。
「……仕方がねえだろ。ここでお前まで中に入って、もし出られなくなったら、もう誰も助けには行けない。犠牲者を二人にすることはねえ」
「だったら自力で出てくればいいんでしょう! 離して!」
 私はそう叫び、暴れるようにして彼の手を振りほどいた。
「レラ!」
 後ろからかけられる彼の声も無視し、私は半ば開いた礼拝堂の扉の中に駆け込んだ。

 中に入ると、そこは信者たちの礼拝のためのスペースだった。しかし、向こう側の壁面に施された精緻な装飾も、床一面に整然と並べられたちょうど人一人分くらいの大きさの絨毯たちも、ほとんどは天井を突き破って崩れてきた尖塔の石材と鉄骨によって覆われてしまっていた。
「マラク!」
 私は彼女の姿を探す。礼拝堂の中にはぎしぎしと不気味な音が鳴り、時折どこかで何かが小さく弾けて崩れる音が私を驚かせる。それらは明らかにこの建物がもう長くないことを示していた。
 礼拝スペースの隅に扉があり、あけると上下に向かう階段が見つかった。私はマラクの話を思い出す。彼女たちは礼拝堂の地下室をねぐらにしていたという話だった。私は迷うことなく階段を下り始める。
 そしてそれは、階段を下りている途中に起こった。
 何が起こったのかはわからなかった。足を踏み外したわけでもないのに、踏み込むべき下の段が消える。私の体が一瞬宙に浮く。視界が急に角度を変え、暗転する。一瞬遅れて響く地響きのような音。
 建物が崩れた。ようやくそのことが理解できたとき、私は地面に倒れていた。衝撃が全身をしびれさせ、体を動かすこともできない。
 周囲は瓦礫と鉄骨に埋もれているようだった。もう一つの尖塔が崩れてきたんだ。そんなことをぼんやりと考える。ようやく全身の感覚が戻ってくると、どこを怪我しているのか特定できないほど体中が痛みだした。
「い、た……」
 私は無理やり体を起こした。頭からぽたぽたとしずくが落ち、その部分がずきずきと痛んだ。周囲は漆黒に包まれていて、床に落ちたその液体の色を確認することはできない。
 立ち上がることができなかった。下半身に全く力が入らない。
「マラ……ク」
 私はかすれた声で彼女の名前を呼び、立とうとしない体を引きずって前に進めた。
 ここは地下室の中なのだろう。階段の途中で瓦礫の直撃を受けた私は、そのまま下まで転げ落ちたのだ。おかげで生き埋めにならないで済んだ。暗くてその様子はわからないが、地下室はまだ崩壊を免れているようだ。
 そのとき私は、二十メートルほど向こうがぼんやりと白く浮き上がっているのに気付いた。灯りが、ともされている?
「マラク……」
 私はその灯りに向かって動かぬ体をひきずっていく。近づくに従い、その様子が明らかになっていった。地下室の中に設けられた、木箱の上に毛布をひいただけのベッド。その枕元に置かれた燭台。そこに立てられた蝋燭の灯りに照らされた、褐色の肌の少女。彼女はベッドの上でこっちを見ていた。私はゆっくりと彼女の元に近づいていった。
「マラク、迎えに来たわ。さあ、行きましょう」
 私は彼女にそう言った。しかし彼女は首を振る。
「こんなところにいたら死んじゃうわよ。さ、一緒に出ましょう」
 私はなおも言ったが、やはり彼女はかたくなに首を振るだけだった。
「お願いよ、マラク。言うことをきいてちょうだい」
 私の言葉に悲痛さが増す。言うことを聞かないようだったら担ぎ上げてでも、と思っていたが、今の私の状態ではそれはできそうにない。彼女に自主的にここから出たいと思ってもらうしか手がなかった。しかしようやく口を開いた彼女の言葉は、そんな思いからは程遠いものだった。
「放っておいて」
「ダメよ。あなたを放っておくことなんてできない」
「あなたは、あたしとは、関係ない。だから、放っておいて」
 彼女は冷たくそう言い放つ。私は途方に暮れた。どう言ったら、この娘に私の思いを伝えることができるのだろう。
「関係なくなんか、ない……関係なく、なんか」
 私がそう呟いたとき、突然後ろで大きな石が砕ける音がした。いよいよこの地下室も崩壊が始まったのだ。私は反射的に彼女を上から抱きかかえた。大きな音はしばらく続き、地震のような震動が私たちを揺さぶった。背後で次々と天井が崩れ落ちていくのがわかる。彼女が悲鳴をあげた。
「助けて!」
 私は祈った。
 いったん音が静まっても、私たちはじっとしていた。幸いにも私たちの頭上は崩れ落ちることはなく、崩落は一部分だけで済んだ。しかし相変わらずどこかで何かがきしむような音は途絶えることなく続いている。
 私は目を開ける。そして抱きしめていたマラクを見た。
「マラク! 大丈夫? どこを怪我したの?」
 私は焦って訊いた。彼女の頬が血で赤く染まっていたからだ。しかし、彼女は手で頬を拭うと、首を横に振って私を見た。
「あたしじゃない。これ、あなたの血」
 そう彼女に指摘される。彼女を上から抱きしめていたとき、私が流した血が彼女の顔の上に落ちただけだった。それに気付いたとき、一瞬眩暈がして体の力が抜ける。まずい、もう何もかも余裕がない。私は焦った。
 彼女は私の腕の中で、心配そうな表情を私に向けている。そんな彼女に私は語りだした。
「マラク、さっきあなた私に向かって関係がないって言ったわよね」
 私の咎めるような口調に彼女が下を向く。私は構わず話を続けた。
「関係ないなんてことないのよ。私はもうあなたを放っておくわけにはいかないの」
 私は優しく言った。
「昨日、あなた私に子供がいるかどうか訊いたわよね。私ね、子供が、いたの。もう死んじゃったけど。交通事故で」
 マラクが顔を上げ、私を見る。私は微笑んだ。
 そう、緑色のペンキで塗られた柵と、春になるとたくさんの花を咲かせた花壇に囲まれたあの家に住んでいた頃、私には小さな家族がいた。あの子と、その父親と暮らしていた頃は、あの家が私の生活の全てだった。遠い異国の戦場跡に来ることになるなど、想像もしていなかった。
「ねえ、マラク。もし大好きな人が死んじゃったら、あなたはどう思う? どんな風に感じるかしら?」
 彼女は、少しの間考えて、恐る恐る、といった様子で答える。
「……悲しい?」
「そうね。好きな人が死んじゃったら、寂しいし、悲しいわよね」
 あの子が死んでもう六年になる。私は今の心境を話し出した。
「でもね、不思議なものでね、そのときはどんなに辛くても、いっぱい時間が経ったら少しずつ平気になっていくの。あんなに悲しくて、寂しいって思ったのに……気がついたらもう普通に生活をしていて、普通に笑ってたりするのよ。本当に……あんなに、辛かったのにね……」
 最後の方は呟くような言葉になった。彼女は黙ってそんな私の話を訊いている。
「でもね、一つだけ、何年経っても薄まらない気持ちがあるの。それだけは、むしろ時間が経つほどに、強くなってく」
 私は少し間を置き、彼女の目をまっすぐ見つめて答えを言った。
「それはね……後悔すること」
「コウカイ?」
「そう。後になってから、もっとああすれば良かった、こうしてあげれば良かったって色々思っちゃうの。それだけは、何年経っても、ずっと消えないわ」
 私は彼女から視線をはずし、顔を上げて虚空を見つめた。
「あの子が死んだ後思った。どうせ死んじゃうんだったら、あんなに叱ったりしなきゃ良かったって。あの子が死ぬ前の日も、私あの子のこと叱ったの。出したものは散らかさないでちゃんと片付けなさいって。今思えば随分つまらないことで叱っちゃった」
 私は息子のかつての姿を思い出した。ちょうど生意気になってくる年頃だった。母親の言うことには何かにつけてすぐ嫌だと言った。あの日も遊んだものを散らかしっ放しにして、片付けなさいと言っても言うことを聞こうとしなかった。私は彼を叱った。きつい言葉で叱ると、彼は泣きだした。泣きながらおもちゃをしまう彼の姿が脳裏に浮かんで消えない。
「それだけじゃない。ごはんをちゃんと食べなさい、早く寝なさい、わがままを言わない、何度も叩いて、泣かせたわ。可哀想なことした。死んじゃうってわかってたら、あんなに叱ったりしなかった。あんなに嫌いなものを無理に食べさせたりしないで、好きなものだけお腹いっぱい食べさせてあげればよかった。服だって、友達から貰ったおさがりなんかじゃなくて、いつも新しい綺麗な服を着せてあげたかった。欲しいものだってなんだって好きなだけ買ってあげれば良かった。あんなことになるって、わかってたら、何でも好きなようにさせてあげたのに……」
 嗚咽が混じり、声が高くなる。彼女はそんな私の話をじっと聞いていた。
「それより何より、あのとき、事故のあった日、私が目を離さなければって……そればっかり、何年たってもそれだけは悔いになって、残って、消えない。どこにいても、何をしてても、その後悔だけは忘れない。苦しいわ。だって、もう取り返しがつかないのよ。何を、どう頑張ったって、もうあの子は帰ってこない」
 私は涙をこぼしながらそう語った。最後は彼女に聞かせたいのか、自分が喋りたかったのかよくわからなくなり、ただ口から吐き出されるままに思いを言葉にして綴っていた。
 喋りながら息が切れる。先ほどから眩暈が強くなり体を支えていることも困難になってきていた。私は小刻みに震える体を必死で支えながら彼女に語り続けた。
「あなたをもしここで死なせてしまったら、また私は後悔しなきゃならないわ。何年たっても、ずっとね。それは、本当に苦しいことなのよ」
 彼女はじっと私を見つめていた。どれほど私の言葉を理解してもらえているかわからない。でも私は訴え続けた。それしか今の私にできることはなかった。
「だから、私はあなたを助けたい。今度こそ、あなたを助けて……あなたに元気に、幸せになってもらうの。だから、お願いよ、マラク。ここから出て。それで、生きるの。お願い……」
 そこまで言って、私の意識が一瞬途切れた。
 気がつくと私は床の上に倒れていた。痛みと出血のために気を失っていたらしい。マラクは私の横にいて、泣きながら必死に私をゆすっていた。
「マラク……」
 彼女の名を呼んだ。
「レラ! レラ!」
 彼女は夢中で私の名を呼び返してくる。
「ねえ、マラク。ここにいちゃ駄目よ。外に、出ましょう」
 かぼそい声で言う私の言葉に、彼女は初めて頷いてくれた。そして私の手を強く握ってくる。彼女が頷いてくれたことに喜びながら、私は言う。
「私は、ちょっと無理みたい。もう歩けそうにない。あなただけ先に行って」
 しびれたようになり体の感覚がなくなっていた。地上に出るまでのわずかな道のりがはるか彼方のように感じられた。
 しかし彼女は激しく首を振った。そして私の手を掴んで引っ張ろうとする。
「無理よ、マラク。ね、お願い。一人で出られるでしょう。私は大丈夫だから」
 そんな嘘は彼女には通じない。ついには業を煮やして、動こうとしない私を力任せに引っ張り始めた。私の体が少しずつ引きずられていく。その振動が私の体の感覚をわずかに戻させる。
「痛っ!」
 私は痛みに顔をしかめる。マラクが引っ張るのをやめて私の頭をそっと床に戻した。そして私の顔を心配そうに覗き込む。私はゆっくり手を伸ばしてその頬を撫でた。
 私は先程自分の言った言葉の残酷さを悔いていた。彼女を助けようとしたにもかかわらず、あやうく私は自分と同じ辛さを彼女に押し付けるところだった。彼女に生きろと言った以上、私はここで死ぬわけにはいかないということに気付く。
「ごめんね。ここで私が死んじゃったら、あなたにも同じ辛さを味わわせることになっちゃうもんね」
 掌に感じるマラクの頬は温かかった。指で涙の痕をぬぐってやる。
「うん、わかった。一緒に行こ」
 私がそう言うと、彼女は微笑んで頷いた。
 私は体を起こす。その途端全身に激しい痛みが走る。消えそうになる意識を何とか保ちながら、私は立ち上がった。彼女が私の横に立って手を握る。
 一歩、また一歩。ゆっくりと歩を進めた。一歩歩くごとにひどい痛みが襲ってくる。もう無理だ、あと一歩で限界だ、一歩進むたびにそう思った。それでも私は歩き続けた。彼女を助けるためなら、もう二度とあんな思いを味わわないためなら、こんな痛みなどなんでもない。永遠のようにも感じられる数十メートルを私は耐えた。
 彼女の先導により、闇の中を階段までたどり着く。私はさすがに立って登ることができず、瓦礫を避けながら這うようにして昇っていった。
 やっとの思いで踊り場まで昇ると、マラクがそこで立ちすくんでいる。私はきしむ体を無理やり動かして向きを変え、彼女の視線の先を見た。
 ただでさえ薄くなっている血の気がさらに引いて、思わず目の前が暗くなるのを感じた。先ほど私がこの場所で命を落とさずに済んだのは、きっと奇跡に近い僥倖だったのだろう。そう思わせるほど、激しい崩壊の跡がそこには残されていた。
 尖塔を形作っていた鉄骨が幾重にも折り重なって、まるで鉄の扉のように行く手を阻んでいる。コンクリートの破片がその周りを埋め尽くし、鼠一匹通れる隙間もない。踊り場より先は瓦礫によって完全に塞がれていた。
「マラク、他に出る道は?」
「ない」
 今にも泣き出しそうな表情で彼女が答えた。
 例え私が怪我をしていなかったとしても、これほどの瓦礫を取り除くことはできないだろう。唯一の道を塞がれた今、私たちにできることはもう多くは残されていなかった。
「助けて! 助けて!」
 マラクが上に向かって叫び始めた。
 私は踊り場の壁に体をもたれかけて、その様子をぼんやりと眺めていた。外にいる男たちに助けを求めても無駄だろう、と思った。今この建物の中に入るのは危険極まりない行為だ。その無謀を彼らが犯すわけがない。私はグレイの言葉を思い出す。
「危険な場所に助けに入ってそいつもやられたら元も子もねえからな。手前のミスではまったんだ。自力で上がってこれなきゃ置いていく。わかったな」
 本当に危険な状態に追い込まれて、初めて彼の言葉の意味がわかる。もし今この状況で私たちを助けたいと言う人間がいたら、私でもそれを止めるだろう。他の人間を危険にさらすわけにはいかない。
「助けて! 誰か、助けて!」
 マラクが叫び続ける。その声に悲痛さが増してくるのがわかる。その表情は必死なものだった。最初に会ったときに見せた、あのどこにも焦点の合っていないようなぼんやりとした目ではなく、まっすぐに瓦礫の向こうを見つめる目をしていた。呟くようにぼそぼそと言う言葉ではなく、魂そのものを吐き出すような力強い声で叫んでいた。
 初めて見る彼女の姿だった。これほどまでに強く、助かりたいという意志を彼女が見せたことはなかった。
「……け、て」
 彼女の言葉につられるように私の口から、思わず言葉が漏れた。
 助けたい、と思った。生きている彼女を、生きようともがく彼女をどんなことをしても助けたいと思った。誰がどうなろうと、かまわない。ただこの娘に助かってほしいと強く願った。
「助けて! 誰かいないの! ここよ! 誰か!!」
 私は叫んでいた。体を起こし、瓦礫の向こうに向かって、出せる限りの大声で。無駄だとわかっていても、じっとしていることができなかった。
 私たちは助けを求め続けた。大声を上げ、鉄骨を叩き、壁を叩いた。
「助けて!」
 そのとき、二人の声が重なり、それがやんだ一瞬の静寂の中に、私の耳はある聞きなれた音を捉えた。一定のリズムを刻むかすかな爆音。これは……エンジンカッター?
「マラク、そこから離れて!」
 私は体を起こしてマラクの肩を掴んで引っ張った。次の瞬間、目の前の鉄骨から激しい火花が散り、その向こうから高速回転する円形のブレードが姿を見せた。ブレードはたちまちそこに立ちはだかっていた鉄骨を両断する。そしてその向こうから、私の頭ほどの太さのある腕が出てきて、詰まっていた瓦礫を除けた。
「グレイ!」
 私はその腕の主の名を呼んだ。ようやく開いた穴から、ひげ面の男の顔が覗く。
「レラ! 無事か?」
「ええ、マラクもいるわ!」
「ちょっとどいてろ、すぐ出してやる」
 私はマラクを連れて、踊り場の隅へと下がった。エンジンカッターが立てる火花が見る見るうちに鉄骨を刻んでいく。最後に太い足が邪魔な鉄骨を蹴りとばす。そして開いた穴より、グレイの大きな体が姿を現した。
「よし、すぐ出るぞ」
 グレイはそう言ってカッターを放り出し、私を肩の上に担ぎ上げ、マラクを小脇に抱えた。そしてそのまま、再び穴をくぐり、階段を昇り始めた。
 階段を昇りきり、礼拝スペースに出る。それは驚くべき早さだった。とても人を二人担ぎ上げているとは思えないスピードで彼は走った。
「ワイヤースリング?」
 礼拝スペースの床や天井に細長い何かが這っているのを私の目は捉えていた。どうしてそれがそんなところにあるのかをじっくり見る暇もなく、グレイは礼拝堂の出口へと一気に駆け抜けた。
 外に出る。建物から充分離れて、グレイは私たちを地面に降ろした。私は礼拝堂を振り返って見て驚いた。
 礼拝堂が吊られている。全ての開口部に何本もワイヤースリングが掛けられ、直上に据えられたクレーンより、建物ごと吊るされていた。私が地下でずっとマラクを説得している間、礼拝堂の崩壊が止まっていたのはこのおかげだったのだ。
 建物が重すぎたのだろう。クレーンを支えるトレーラーはその重みでやや傾いており、それを残ったメンバーたちが全員でしがみついて押さえていた。グレイが彼らに向かって大声で言う。
「よおし、もういいぞお! ゆっくり降ろせえ!」
 その声を受けて、ゆっくりとクレーンから吊るされたワイヤーが下ろされる。スリングのテンションがなくなっていくに従い、建物が崩壊していった。まるでスローモーションの映像のように、ゆっくりと礼拝堂は崩れていき、ワイヤーが着地すると同時にそれは単なる瓦礫の山になってしまった。
 トレーラーにしがみついていた男たちは私たちの無事を確認し、歓声を上げて仕事の終了を喜んでいる。私はマラクを見た。彼女は呆然と男たちの姿を眺めている。よく見ておいてほしい、私はそう思った。これだけたくさんの人たちがあなたを助けようとして力を尽くしてくれたのよ。そのことを、忘れないで……薄れゆく意識の中、私は心の中で彼女にそう語りかけていた。

   *

 幸いマラクに怪我はなく、私の怪我も出血の割には大きなものにならずに済んだ。ただ頭を強打していたため、すぐに大きな街に戻り、病院で検査を受けさせられることになった。
 翌日、他のメンバーたちが撤収の準備を進める中、私は一人キッチンにいた。この街を出る前にやりたいことがあったからだ。デイルに見つかったら安静にしていろと叱られかねない。私は食器がたてる音にも気を使い、こそこそと温めたスープを皿によそっていた。
 そして湯気の立ちのぼる皿を手に、私は医務室へと続くカーテンをくぐる。ベッドの上のマラクは私の姿を見て表情を明るくした。この娘の本来の表情なのであろう、愛らしい笑顔だった。
 私は彼女のベッドの上にテーブルをセットすると、その上にスープの皿を置いた。目の前に置かれたそれを見る彼女の表情が曇る。私はベッドの横の椅子に腰掛け、話しかけた。
「食事の前に一つだけ言っておかなきゃね」
 彼女が不安げな表情で私の方を見る。
「昨日は、助けてくれて本当にありがとう。あなたがいなかったら私きっとまだあの瓦礫の下にいたわ。私が助けに行ったつもりだったのに、すっかり立場が逆転しちゃってたわね」
 私がそう言って頭を下げると、彼女は頬を真っ赤に染めてかぶりを振った。
「謙遜することないのよ。あなたは私の命を救った。立派だったわ。本当に、ありがとう」
「あたしは、なにもしてない。助けてくれたのは、あなたたちよ」
「そうね。私はともかく、他のみんなにはお礼を言わなきゃいけないわね。私たち二人とも、今生きているのはみんなのおかげだわ」
 私は背後の扉の方を振り返った。扉は開いていて、外で働いているメンバーたちの姿が見えた。
「さっ、人間生きているとお腹が空くわ。食事にしましょう。今日は私のお手製のスープよ」
 私は彼女の方を向き直りそう言った。彼女は目の前に置かれた皿を見て困ったような表情を浮かべる。私の顔をちらりと伺い、そして呟くように訊いてくる。
「いいの?」
「もちろんいいのよ。遠慮なんてすることないわ」
 遠慮、なのだろうか? そうではないとしたら彼女はいったい何に許しを求めたのだろう? 私は急に胸が熱くなり、さらに強い調子で言った。
「いいの。あなたはそれを食べていいの」
 彼女が私の顔を窺う。私は優しく頷いた。
 彼女は震える手でスプーンを握り、その先を皿の中の液体へと挿し込んだ。そしてそれを口へと運ぶ。
「おいしい?」
 彼女はスプーンを皿に戻すと、頷いた。
「おいしい……」
 そう言った途端、彼女の目に勢いよく涙があふれてきた。それはこぼれてもこぼれても尽きることなく湧き出してきて、彼女の頬からぽたぽたと雫となって落ちた。
「どうしたの?」
 私は驚いて訊いた。彼女はそれに答えず、またスプーンを口に運ぶ。
「おいしい……おいしい……」
 彼女は涙を流しながら言った。そんなにおいしいはずはなかった。彼女の腹に負担にならないようほとんどお湯に近いほど薄めてある。しかし彼女はおいしいを繰り返し、そして言った。
「……ごめんなさい」
「えっ、どうしたの。何を謝ってるの?」
「だって……おいしいの。ごめんなさい、ごめんなさい」
 彼女はそう言ってわっと泣き出した。
「ごめんなさい、ナサブ。ごめんなさい、ヤキーン、サミーラ。ごめんなさい」
 彼女はかつての仲間たちの名前を呼び、そしてスプーンを口に運ぶ。一口味わってはわっと泣き出し、また仲間たちに謝罪の言葉を言った。それを繰り返すに従い、しだいに彼女の口から出るのははっきりとした言葉ではなくなっていった。嗚咽ともなんともつかない声を出しながら、それでも彼女はスプーンを口に運び続けた。
 私は胸が詰まり、何もかけてやれる言葉が見つからなかった。ただ泣きながら皿にかじりつくようにスープを飲み続ける彼女の肩をそっと抱いた。
 やがて皿が空になる。彼女はまるで赤ん坊のような泣き声をあげた。私はその頭を自分の胸に抱き寄せる。彼女はしばらくそのまま声をあげて泣き続けていた。

   *

 ひとしきり泣いて、そのまま眠ってしまった彼女をベッドにそっと寝かせる。
 彼女はこれからもずっと食事をするたびに、いや生きている時間を重ねるたびに何かに許しを乞うていくのだろうか。私は彼女の寝顔を見ながらそんなことを考えていた。そして皿を片付けてトレーラーを降りた。
 外に出た途端、鋭い声に呼び止められた。
「レラ! 駄目じゃないか安静にしてなきゃ! 今日一日は寝てろって言ったろう」
 私は怒りの表情を浮かべるデイルに向かって人差し指を口にあてる。
「シッ、今マラクが寝付いたところなの。何でも言うこと聞くから今は静かにして」
 私はそう言って、彼を捕まえて車から離れた。そして一昨日の晩のように二人で向き合って瓦礫の上に腰掛ける。
 私は彼にマラクのことを話した。礼拝堂でのこと、そして今朝のことを。マラクが初めて食事を口にしたことを告げると、彼は笑顔をつくって一言「良かったじゃないか」と言った。私は恐る恐る彼に尋ねる。
「ねえ、私はこの後病院で検査を受けるんでしょう?」
「ああ、そうしてもらうつもりだよ。頭の怪我は怖いからな」
「それってどのくらいかかるの? その、時間的には」
「すぐに終わるよ。一日もかからないさ」
「そう……」
 思わず声が沈む。私にとっては残念な答えだった。そのことに気付いたのだろう、彼が訊いてくる。
「それがどうかしたの?」
 私は思い切って言った。
「その……しばらく私だけその街に留まることはできないかしら。例えば一ヶ月とか。用事が済んだらすぐにみんなに合流するから」
「マラクのそばにいてやりたいんだね」
 彼は私の意図をすぐに察知した。私は頷く。
「あなたに言わせれば私たちの仕事の範疇じゃないことはわかってる。でも今のあの娘には誰かがそばについててあげなきゃいけないのよ。それで誰かが彼女のことを必要としていてあげないと、あの娘はまだ自分で自分のことを受け入れることができない。今のままじゃ彼女は苦しいだけだわ」
 私は彼に切々と訴えた。彼は黙って私の話を聞いている。そして私が語り終えると、尋ねてきた。
「君はどうなんだい?」
「私?」
 質問の意味がわかりかねて訊き返す。
「そう、君は彼女を必要としているのかい?」
 相変わらず彼の質問の意図はわからなかったが、言葉通りの意味であれば答えは決まっていた。
「ええ、私にとっても、あの娘が大事なの」
 彼をまっすぐ見つめて答える。すると彼はにこりと笑って言った。
「だったら遠慮することはないよ。後で合流する必要なんてないから、ずっと彼女のそばにいてあげればいい」
「え?」
「ジョンたちにもそう言えばいいよ。みんな快く了解してくれると思うよ」
 彼は涼しげな笑顔のままそう言った。
「それは、私に辞めろっていうこと?」
 私は語気を強くして訊いた。彼のあまりに冷たい言葉に憤っていた。
「そりゃ私は役立たずよ。みんなみたいに力もないし、経験もない。なんにもできないかもしれないけど、でもそんな言い方ってないんじゃない」
「待って、誤解だよ。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
「じゃあどんなつもりで言ったってのよ」
「その、僕が言いたかったのは、君が役に立つとか立たないとかそういうことじゃない。君は、こんなところにいる人じゃないってことなんだよ」
「どういうこと?」
「一昨日、僕の昔の話をしたよね」
 彼が真剣な目で私を見つめて言う。私は頷いた。
「あのときも言ったけど、僕はもう壊れた人間だ。ここではまともに仕事をしていられるけど、もう普通の世界には僕に帰る場所はない。帰る家もなければ、待っててくれる人もいない。もうあそこにはいられない人間なんだ」
「どうして……」
 私は尋ねた。彼は性格も温厚で、ほんの短期間行動を共にしただけでわかるほど医師としての能力も高い。きっと国に帰ってもいい医者になるだろう。
「言っただろう。忘れられないんだよ、あのときのことが。忘れていられるのは、何も考える余裕もないほど過酷な場所で仕事に没頭しているときだけなんだ。ちょうど今の仕事のようにね」
 この話題になると、再び彼の瞳の色が消える。
「それは僕だけの話じゃない。みんな自分のことは話そうとしないけど、他のメンバーたちも多かれ少なかれ似たようなもんなんだよ。みんな国では居場所のない人たちだ。だからCRPEは危険だろうとなんだろうとどこへでも行くのさ。国に帰るよりも、銃弾の飛び交う中で仕事している方がよっぽどまともでいられる人たちなんだ」
 彼は私から視線をはずし、自分の足元に目を向けた。
「ひょっとしたら、いつかその弾が自分に当たってくれることを願っているのかもしれないね。無心で仕事をしているうちに死ねるなら、僕はそれでもかまわない」
「デイル……」
 私は彼にかけてやれる言葉が見つからなかった。彼の壮絶な体験の前に、簡単に言葉をかけられるほど自分は何かを経験していないと思った。自分とて幾度も死にたいと願ったこともあるのに、だ。
 そんな私の弱気に気付いたのか、彼が私を見て微笑む。いつの間にかいつもの彼の瞳に戻っている。
「初めて君に会ったとき、みんなで話したんだ。君は僕らみたいな人間の集まりにいていい人じゃないってね。君はまだ自分のいた世界に帰ることができる人だと思った。だから入ってすぐだってのに今回の仕事に同行してもらった。グレイなんかは、そこでちょっと苛めればすぐに嫌気が差して家に帰るだろうと思ってたみたいだね」
「そう、なの?」
「ああ、みんな君に冷たかっただろう? みんな君にはまともな世界に帰ってほしかったのさ、こんなところにいついたりしないで、ね。僕は彼らほど優しい人間じゃないからそこまではしてなかったけど」
 彼の言葉は、私がこれまで現実の苦さや辛さを思い知り、それをなんとかしようとあがいたり泣いたりしていくうちに、心の奥底で硬く凝り固めてしまったものの表皮に、そっと触れてくるものだった。何故か私は、なにかひどい勘違いを指摘されたときのように恥ずかしいような気持ちになっていた。
「昨日、君が礼拝堂に飛び込んだ直後にもう一個の尖塔が崩れ出しただろう。あのときのグレイの剣幕ったらなかったよ。礼拝堂に飛び込もうとするのをみんなで必死で止めてさ。それからジョンの指示で建物全体にワイヤーを掛け始めた。まともな人間の考えることじゃない、まさに狂気の沙汰だよね。でもみんな必死だった。グレイなんか早くしろってものすごい剣幕で怒鳴ってさ。でもグレイがすごい勢いで飛び込んでいった後に、案の定重過ぎてトレーラーごと傾き始めてさ、みんな夢中で車に飛びついた。本当にみんな、懸命だったんだよ」
「それは……」
「マラクを助けたかったというのもなかったわけじゃない。でも、みんな本音を言えば、君を助けたかったんだ。君をこんなところで死なせちゃいけないって、みんながそう思ってた」
「そんな、こと……」
 私は両の手を、口を塞ぐようにかぶせた。泣いていいのか笑っていいのか、感情が入り乱れて混乱していた。頭の中がごちゃごちゃになり何を言っていいかわからない中で、涙だけがまっすぐに流れた。
 彼は私を優しい目で見つめて言う。
「でも少し君を甘く見ていたのかもしれないね。グレイは君のことをちょっと苛めればすぐに嫌気が差すだろうって言ったし、実は僕らもそう思ってた。でも君は違った。君は命がけでマラクを助けた。そして君自身も彼女を必要とするようになった。君が過去にどんなことがあってうちに来たのかは知らないけど、君はちゃんと自分で自分を救う道を見つけたんだ」
「私が、救われる道……」
 私も確かに何かから逃れるようにCRPEに入った。自分はそこで人を救う仕事をするつもりだった。しかし知らず知らずのうちに私はメンバーのみんなに守られ、マラクに助けられていたのだ。凝り固まった心が柔らかに解きほぐされていくのを感じていた。
 しかしそれでもその喜びに身を任せきれない思いもあった。このまま、私は彼女と共に生きるだろう。私はそれでいいのかもしれないが、彼らはそれからどうするのだろうか。私は目の前にいる痩せた青年をまっすぐ見つめた。
 彼にも私の言いたいことがわかったのだろう。彼は明るく笑う。
「僕らのことなら心配無用だよ。確かに僕らはずっと今のままだけど、僕らにとってはそれが普通のことだから。それに、君のような人が帰るべきところに帰ってくれれば、一人の女性を救ったってことで、ささやかな自己満足が得ることができるしね。そうやってまた僕らは仕事を続けていくよ、大丈夫」
「ありがとう」
 わずかな沈黙の後に、私はそう呟いた。こみ上げる様々な思いはただ一言のその言葉に収斂されていく。次々と湧き上がる思いのままに私は言葉を吐き続けた。
「……ありがとう、本当に……ありがとう」
 泣きながら礼を言い続ける私を、彼は黙って見ている。気の利いた言葉などなくともただそこにいてくれるだけで、私は暖かさを感じた。それに甘えて、私はしばらくの間子供のように泣きじゃくっていた。
 そんな情景に私は既視感を覚える。そうだ、あのときは立場が逆だった。叱られて泣きじゃくる息子を、私は今のデイルのように黙って見つめていたのだ。あの子もこうやって泣いていても、私から暖かさを感じていたのかもしれない。そうであればいいと願う。私は長く積み重ねていた悔いがかすかに晴れるのを感じていた。
「こらあ、いつまで油売ってんだあ! もう出発するぞ、もたもたしてると置いていくからなあ!」
 野太い声が私たちに向かって飛んできた。私は涙を拭い、キャビンの窓から顔を出しているグレイに向かって笑顔を向けた。
「はい! 今行きまあす!」
 明るい声でそう返事をする。グレイは怪訝そうな表情を見せると、それ以上何も言わずに窓の奥に引っ込んだ。デイルと二人で思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
 それから私たちは、トレーラーに向かって歩き出す。私は、その一歩一歩を踏みしめるように歩いた。人の姿のないこのかつて小さな街であった場所、そこで得たものの重みを噛み締めるように、私はゆっくりと歩を進めていった。


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