高得点作品掲載所       Carasさん 著作  | トップへ戻る | 

海に想いを、空には夢を

 八月に入り、夏の日差しにより一層の磨きのかかった午後。そのとある離島の波止場。
「ふぅ……」
 海上で散々浴びた熱気にややうなだれつつも、草壁朋也はタラップを降り、数時間ぶりの陸地の感触に足の裏を馴染ませる。
(んー……っ、やっと着いたかぁ)
 いまいち硬かった船内の座敷に、体がすっかり硬く凝ってしまった。その場で上半身を軽く捻ってほぐしながら、乗せてくれた船に振り返り、辟易な視線を送る。
(補助犬OKな船がこれ位しかなかったからな……まぁ、そんな過疎島選んだ自分が悪いといえばそれまでなんだけど。……よし)
 朋也は同じく、初めての船旅でややぐったりした表情だが、それでも足取りはしっかりした相棒に、手綱を引いて促す。
「さ、行こうかマルス」
 促され、目だけで返事をして、
 聴導犬マルスは、主人の歩く道を見据えながら、お互いに初めての景色を進みだした。

 朋也は明確な目的を持ってここを訪れた訳ではない。
 一応事前に島の概要を調べはしたが、観光名所がある訳でもなく、かと言って知人が居る訳でもない。そもそも何があるかどうかが、彼にとって大事ではなかったのだ。
 ただ、都会の喧騒から離れ、何も無いような場所で過ごし、落ち着いて考えてみたかった。
 自分のこれからを。
 音を失った、これからの人生を。



 それまでの人生は、いつも音楽と共に暮らしてきた。
 幼い頃から歌手というものに憧れ、自分もこんな風にテレビに映って大勢の観客の前で歌ってみたい。
 そんな夢を、そんな頃から大事に諦めず、一途に目指していた。
 初めは友達に「へたくそ」と馬鹿にされた。
 幼心に傷付きもしたが、そんなことで諦める道ではなかった。
 やがて、その友達から「かっこいいじゃん」と褒められた。
 その一言で、道はさらに広く、明るく見えた。
 それが嬉しくて、歌がさらに好きになって、朋也はただ一途に目指していった――

 ――そして三年前。
 この頃、地元のライブハウスで上々の人気を集めていた彼の元に、ついに夢の切符が渡される。
 メジャーデビューのスカウトだ。
 ずっと夢見てきた、願い続けていた出来事に、朋也は顔をクシャクシャにして喜び叫ぶ。二十二年の歳月、間違いなく最高の瞬間だった。

 ……そして、最悪の瞬間も間もなくだった。
 後日、レコード会社で契約の手続きなどを済ませ、夕闇の中、喜び勇んで帰路を踏みしめる朋也。
 常に肩に掛け、苦楽を共にした相棒のギターも、ケースの中で心なしか弾むような感触を伝えてきている気がする。軽快な音楽を両耳に携え、彼は上機嫌で足に小さくステップを作りながら、交差点の前で信号が変わるのを待つ。そんな彼の身に、

『その時』が、来た。
 横断歩道前で立っている彼の右斜め後方、今現在赤信号になっている車道から、一台の軽トラックが走ってくる。しかし停止線に近づいても止まる気配はなく、さらに蛇行し、スピードを落とさぬまま歩道に乗り上げる。まるで、その先にいる青年に引き付けられるかの如く。
 その光景に悲鳴をあげる者、軽トラックの逸した走行ルートから逃げ惑う者。それらの中で朋也だけが、ほかの者たちより数秒の反応を遅らせていた。聴覚を、音楽に支配されていたことによって。
 その数秒が明暗を分けた。周りの緊張した気配と、地面の不可解な振動に彼が気付いて振り向いたときには、危機はすでに目の前に迫っていた。
 その突然視界に映った鉄塊に思考を一瞬凍りつかれる朋也。だが恐怖への本能で必死に身体をよじらせ、紙一重のところで衝突を免れる。勢いよく鼻先を掠める衝撃に、彼の背中がゾクリと震える。
 だがそれと同時、辛うじてかわした車体の横に取り付けられていたサイドミラーが、耳にしていたイヤホンごと、彼の側頭部を容赦なく直撃した。
 互いの衝撃にイヤホンは砕け、サイドミラーが外れ飛ぶ。朋也は、頭が砕かれそうな衝撃を体感する間もなく、意識の底へと沈み、身体を流れに任せ、そのまま宙に飛ばされていく――

 ――泥酔運転による暴走事故。
 相棒のギターは、ケースごと軽トラックに潰され、原型を留めぬほど粉々になっていた。



「んんー。海上の景色も良かったけど、島から見える海も絶景だなぁ」
 島に降り立ち、とりあえず決まった目的も無いまま、当ても無く海岸線沿いの歩道を歩き続ける。
 水平線を間一直線に望める海からは、その香りそのままを織り交ぜた浜風が、彼の鼻腔を心地よくくすぐる。マルスも時折海の方に首を動かし、鼻先を小さく動かしている。
 反対側を伸びる乾いた車道に、彼らの脇を通り過ぎる車はいまだ現れない。その閑散のせいか、色あせたアスファルトも所々が小さく荒いひび割れを起こし、自然の悪路を積み重ねている。
(……ちょっと過疎過ぎたかな?)
 十五分ほど歩き続けているが、島民も、遠く小高い丘の畑に農作業中と思しき人間を一人、見かけただけだ。遠目だったので、もしかしたら案山子だったかもしれないが。
 うーん、とため息混じりに、朋也は再び海に視線を向ける。
 島に来た当初の、うだるような暑さは今は感じない。身体が気温に慣れた訳ではなく、海からの心地よい風が、体全体を撫でてくれるからだ。
 しかし、耳に伝わる風の感触に、海の音が届けられることはない。
「…………」
 それでも朋也は、その音を求めて、叶わないと自覚してなお、静かに耳を傾けていた……。



「――ぅ、…………ん」
 ――事故から一夜明け、ようやく彼の意識が現実に戻る。
 目覚め、初めて目に映ったものは、馬鹿みたいに真っ白で明るい天井だった。
 上りかけた陽の光に反射するその明るさに目を細めつつ、彼はゆっくりと起き上がる。
「…………痛っ」
 身体を起こした弾みか、軽く突き刺すような頭痛が朋也を襲う。手を当てると、頭には分厚い包帯が巻かれていた。体の方は、と見てみたが、軽い鈍痛が残っているだけで、手足のどこも固定されていない。
 事故時、車体の直撃を避け、撥ね飛ばされた先も歩道の花壇だったこともあり、外傷は擦り傷や軽い打ち身のみで、幸いにも大事には至らなかったのだ。

 しかし、そんな『幸い』を軽く塗りつぶす、彼にとって『絶望』ともいえる欠落が、その身に起こっていた。
「……、…………?」
 周囲を見渡し、ここがどこかの病室であることを理解した辺りから、朋也は自分の中の違和感に気付き始める。
 初めは、朝の静寂のせいかと思った。
 だが、身体から起こるはずの衣擦れの音すら、聞こえない。
 聞こえるのは、『静寂』の果てにある小さな耳鳴りだけ。
「…………あー、あー……」
 発声練習のように、声を伸ばしてみる。それでも、

 声が――聞こえない。
「え……? あ……、あれ?」
 そんな自分の声すら耳に届かない。
 訳の分からない孤独と混乱の中、一つの『原因』が頭を過ぎった瞬間、
 ゾクン、と。
 身体の中で、黒く重い恐怖感が腹の底から生まれ、ジワジワとせり上がってくる。
「う……、……あ」
 それはゆっくりと上がり、蝕むように心臓に纏わりついていく。
「っ……、あ」
 纏わりつき、さらに握り潰そうと蠢いていく。
 じっとりと、這い回るように。
「あ……ぁ」
 やがてその動き、圧迫感に『心』が潰されそうになり――

「……っ、………………あ、あ……ああああああああああああああああああああああっ――」
 
 ――ついに耐え切れなくなって、その自分を壊そうとする『何か』を吐き飛ばすように、朋也はただ思いっきり、叫んだ。喉がつぶれ、口が渇くほどに叫んで、ただ叫んで。
 その声に驚いて、病室に数人の看護士が駆け込んできたことにも目に入らず、ただ、ひたすらに――

 ――そして、はっきりと理解する。その叫びすら届かないほどに、自分の世界から音が消えたことを。

◆ 

「っぷはぁ……。ほら、疲れたか? マルス」
 ペットボトルのミネラルウォーターを一気に半分ほど飲み、残りを持ってきた飲み皿に開けてやる。マルスはそれを慌てることなく、しかし黙々と顔を突っ込んで飲んでいる。
 視界いっぱいに水平線を眺められる、防波堤のコンクリート段の上。
 やや歩きつかれた朋也はマルスと一緒にそこに座り、足を投げ出して前方の海を静かに眺める。

 眺めながら、ゆっくりと考えてみる。
 自分の、これからを。
 
 幼い頃からの夢があっけなく砕け、それから一年ほどは呆然自失の生活だった。
 おかげで、その頃の自分が何をして過ごしていたか、ほとんど記憶に残っていない。よく人生を諦めなかったなぁと、朋也は今だから出来る苦笑を漏らす。
 恐らくは、いつか治る日が来るのではないかという、淡い期待にすがっていたのかもしれない。またいつか、夢に向かえる日が来るのかもしれない、と。
 しかし、そんな奇跡はいまだ起こらない。
『現在では回復の見込みは無い』と後に告げられ、彼の夢はそこで断念を余儀なくされた。
 その時の自分は、驚くほどに淡々としていた。その言葉で諦念を持って、自分のこれまでの人生に一つの区切りを付けたはずだった。

(…………)
 なのに。それなのに。
 目の前の景色を眺めて、とても揺さぶられている自分がいる。
 澄み渡るほど青い空。
 透き通るほど蒼い海。
 染み渡るほど壮大なその色彩に、心の奥底に仕舞い込んだはずの想いが、自然と、ゆっくりと、紐解かれていく。
 やがてその気持ちに流されるまま、彼は声を水平線に向ける。そして――

 ――夢を諦めて以来、初めて朋也の口から、『歌』が流れだしていた。

「――――、――――――……」

 目を細め心静かに、何処か昔を懐かしむように口ずさみながら歌う。
 するとふいに、マルスの前足が朋也の太腿を軽く引っかいた。
(ん?)
 声はそのままに、その方向へ顔を向けると、
(……えっ?)
 いつの間に現れたのだろうか。マルスを挟んで右隣に、見知らぬ少女が朋也と同じように、だが可愛らしくちょこんと座って目を閉じ、こちらに耳を傾けていた。
 ここまで島の人間に全く接していなかった朋也は、この突然目の前に現れた一人の観客に驚き、思わず声を途切れさせられてしまった。
 歌の中断に、その少女はわずかに首を傾げ、瞳を開いてこちらに向き直る。
 初対面と思えない、まるで数年来の友達に出会ったような、そんな無邪気な笑顔と一緒に。
「っ――」
 その笑顔に。一瞬、心奪われる。

 とても『少女らしい』少女だと、朋也は思った。
 年は十三、四くらいだろうか。自然のままに磨かれた、腰元まである艶やかなストレートの黒髪。それと同じ色を映す、子犬のような人懐っこさを感じさせる丸い瞳。薄手の白いワンピースに、薄く日に焼けた健康的な素肌が眩しい。その場にしっかりと馴染む雰囲気からして、恐らくこの島の住人なのだろう。
 するとその少女は突然、間に挟まれたマルスを無視して朋也の前にグイっと詰め寄り、まるで手品を見て驚嘆した子供のように顔を輝かせ、何かを話しかけてきた。マルスはその勢いに押し退けられ、思わず段差の下に飛び降りる。少女に吠えはしないが、物凄く不満な視線を彼女に向けていた。
(な、何だ、一体……?)
 しかし、朋也には声が聞こえない上、唇の動きを読もうにも早口で捲くし立てられて
いるので、何を言っているのか全く分からない。そこで彼は、マルスの手綱を軽く掲げ、自分の耳をトントンと指差し、「ごめんね、耳が悪くて聞こえないんだ」と声にも出して、少女にその旨を伝える。
 すると彼女は、ピタリ、と忙しなく動いていた口を止め、頭の位置はそのままに、ゆるゆると視線だけを斜め上に逸らし顎に人差し指を当て、硬直してしまった。
 そのまま、数秒ほどの沈黙が流れる。
「あ……えっと」
 その一連の行動を見て、説明が足りなかったかなと思った朋也が、補足しようと話しかけた矢先、
 クルリと、
 何を思ったのか、少女は朋也に何も告げることなく急に踵を返して段上から飛び降り、どこかへ走り去ってしまった。
(…………?)
 何だったんだ? と少女が見えなくなってから首を傾げる朋也。隣が空き、マルスが再び段上にひょい、と乗ってくる。
 とはいえ、似たような状況は聴覚を失って社会に出てからは何度かあった。道や人などを尋ねられたときに、耳が聴こえない事を伝えると、即座に相手にされなくなる事が時々起こったりするのだ。現に、この島へやって来る途中でも一度、彼は同じ旅行者と思われる相手にそんな経験をしている。
 今回も愛想を尽かされたかなと思い、先ほどの少女の笑顔に少し後ろ髪引かれつつも、水平線に視線を戻し、朋也は再び『歌』を噛み締めていく――

 ――しかし数分後、再びマルスの前足が朋也の太腿に感触を与える。
(んん?)
 今度は何だ? と彼が向き直ると、

 さっきの少女が見えた。今度は間近ではなく、かなりの距離を置いて。
 少女は遠くから、何かを両手で真上に掲げながら大きく口を動かし、こちらに駆け寄ってきている。マルスが反応したところを見ると、相当大きな声で叫んでるようだ。
 近づいてくる姿が段々大きくなり、彼女の持っているのが割と大きめのスケッチブックであることが分かる。おそらく美術などの授業で使っているものであろう、その大きく真っ白なページを埋め尽くすほどに、太く大きく書かれていた文字は、

『いっしょにお茶でもどうですか?』

(…………ナンパ?)
 そう思ったのもつかの間、少女はこちらしか見ていなかったのか、突然何かにつまづいてしまう。だがスケッチブックを掲げたままだったので受身も取れず、彼女は前に向かって派手に転んでしまった。思わず「あっ」と叫ぶ朋也。しかし、それでもメッセージは倒れること無く、律儀にも朋也に向かって真正面に掲げられていた。
(……やれやれ)
 心の中で苦笑しながら、彼は倒れたまま無邪気な笑顔を向ける少女の元に駆け寄っていった。



(ま、ナンパな訳は無いか……)
 麦茶を啜りながら、朋也は自嘲気味に心の中で溜息を付く。
 少女に案内されたのは、さっきまでいた防波堤沿いの車道のすぐ脇、舗装も古い坂道を登った先にある、同じく古びた一軒家だった。
 といってもしっかりとした造りのようで、常に浜風に当たられているだろうにもかかわらず、軋んだり痛んでいるようなところは特に見当たらない。立派な装飾や材質とは大分かけ離れている外見だが、そういうのを抜きにして「立派な家だな」と彼は思う。
 その立派な家の縁側で、朋也は少女から差し出された冷たい麦茶をご馳走になり、マルスはその傍らで、日陰になっているコンクリートにうつ伏せて気持ちよさそうに座っている。
 その彼らを接待した少女はというと、転んだ時に膝を擦り剥いたらしく、彼らをもてなすとすぐに、『バンソウコウはってくるね』と書かれたスケッチブックを見せ、そそくさと奥に引っ込んでしまった。その間際、大丈夫かと問いかけると、彼女は『いつものことだから』と照れ笑いと共に返してきたが。
(…………ふぅ)
 縁側を吹き抜ける優しい浜風に身体を撫でられながら、朋也はふと数分前のことを思い出す。

 案内された道すがら、少女は伊原可奈子と名乗った。
 生まれは東京なのだが、幼くして両親を亡くしたため、そのころから祖母のいるこの島で暮らしているとのこと。
 そしてその時以来一度も島の外に出た事がないらしく、知らない人を見かけてふと目が止まってしまったと彼女は言った。ちなみにこの島の人間は、全員がほぼ顔見知りなほど人口が少ないらしい。彼女に出会うまでほとんど人を見かけなかったのも納得がいく道理だった。
 さらに可奈子は歌が何よりも大好きで、さっきの防波堤で海に向かって歌うことを趣味としているらしく、今日もそのためにやって来たところに、『外』の人間と思しき朋也が、しかも自分と同じように歌っているのを見て興味が湧き、つい話しかけてしまったという――

 ――それらをとても楽しそうに、可愛らしい字で一方的にスケッチブックと唇の両方で捲くし立てていた彼女を思い出し、つい小さく微笑んでしまう朋也。
 と、そんな彼の目と鼻の先に、

『ただいまーっ』

 と大きく書かれた文字がいきなり現れ、朋也は「うわっ!!」と叫び、思わず身体をビクッと引きつらせてしまう。その勢いで持っていたコップから麦茶がこぼれ、冷たい液体が傍に居たマルスの鼻先にかかる。彼もまた、ビクッと頭を起こして小さくキョロキョロしたが、主人に特に危険がないと冷静に判断すると、またゆるゆると頭を元に戻した。
 そんなパートナーをやや恨めしそうに一瞬見てから、改めて後ろを振り返る。
 そこには、右の膝に絆創膏を二枚バツの字に貼り付けた少女・可奈子が、悪戯な笑みを浮かべて立っていた。そして自分の胸元にスケッチブックを戻すと、改めて『ただいまーっ』と発してくる。
「……おかえり」
 苦笑して返す朋也だが、それでも「声の聞こえない僕が、視覚のみで驚かされるのは心臓に悪いから以後控えるように」と釘を刺す。一応やんわりと注意したつもりだったのだが、彼女は悪いことをしたと強く自覚してしまったらしい。急にシュンとした表情になり、「ごめんなさい……」と口でつぶやいた直後、ハッと思い出し、スケッチブックに改めて、今度は大学ノートに普通に書くような小さな文字で『ごめんなさい』と、口元を隠しながら恐る恐る掲げてきた。
 感情と文字がリンクしているその様に、思わず笑いがこみあげる朋也。その表情のまま、「大丈夫、怒ってないから」と言うと、彼女はホッとしたように表情をまた明るく戻した。
(本当に、目まぐるしい子だな……)
 こんなに気分が軽くなったのは久しぶりだなと、朋也は心中で呟く。

 可奈子は朋也が聴覚障害と知っても、表情に一片の曇りも見せなかった。恐らくは初めてであろう筆談にも、好奇心にも似た、どこか楽しそうな表情でペンを走らせている。
 思えば事故以来、自分の欠落を知ってなお、赤の他人からここまで裏表なく接してもらったことがなかった気がする。良くてもどこか遠慮がちに、悪ければ完全無視な状況だった。
 今となっては自分に対するそんな対応にも特に気にはしなくなった朋也だが、やはり根底には寂しさが引っかかってくる。彼女の対応に自覚があるとは思えないが、むしろそれが、何よりも心地よさを感じる。
 そんな可奈子は、さっきから興味深げにマルスの喉を掻いたり、尻尾を突付いたり、『お手』を強要したりしている。マルスはいかにも迷惑そうな顔で目を細め、大人しくしている。『お手』は無理矢理の握手になっていた。
 やがて一方的なスキンシップを終えた可奈子は、改めて朋也の方に向き直る。
『この犬は、朋也さんのペット?』
「あ、いや……」
 ……やはりあの時の説明は足りなかったようだ。とはいえ、聴導犬はやはり馴染みの薄いものなのかもしれない。
「こいつの名前はマルスって言ってね。耳の不自由な人を手助けする『聴導犬』って犬なんだ」
 可奈子は僅かに首を傾げ、
『もうどう犬みたいなの?』
「そうだね。朝起こしてくれたり、ブザーや警報の音を主人に知らせてくれたり、僕の耳の代わりをしてくれるとても賢い犬なんだよ」
 へぇー、と感心した顔でマルスを見る可奈子。心なしか、『そうだぜ嬢ちゃん』とばかりにマルスの胸が誇らしげに反らされている。

 現在、日本国内で活躍している補助犬は、盲導犬が約千頭に対し、聴導犬はわずか十頭ほどしかいない。
 しかし視覚障害者と聴覚障害者の数は、程度の違いで変わりもするが、さほど差はない。 まだ歴史が浅く、理解や需要が浸透していないという理由もあるが、主人の命令を主に受けて行動を起こす盲導犬と違い、主人の身の回りの音に反応して自立的に行動する聴導犬は、やはり優秀な補助犬と言える。
『マルスってすごいんだねー』
 そう言いつつも、先ほどと変わらないスキンシップを繰り返す可奈子。そんな対応に、マルスは残念そうに尻尾をペタン、と垂らしてしまった。
『あれ、でも朋也さんは耳が聞こえなくてもふつうに話せるの?』
 補足説明を受けているうちに疑問に思ったらしい。「?」な顔を朋也に向けている。
「ああ、僕は成人してから聴覚障害になったからね。言語を覚えていれば、耳が聞こえなくなっても喋るのには特に不自由しないんだ」
『じゃあ朋也さんの分のノートはいらないんだね』
「……ごめんね。可奈子ちゃんだけ手間かけさせて」
 ううん、と屈託のない笑顔で首を振る可奈子。
 彼女の笑顔は、思わずこっちまで笑顔にさせられる、とても自然なものだと朋也は感じながら、彼女との会話を楽しんでいた。

 ――午後の突き刺すような日差しに、傾きと落ち着きが現れ始めた頃。
『ほら、かえってきたよ』
「帰ってきた? ……ああ」
 可奈子が指差した方角、この家と眼下の車道を繋ぐ坂道から、一人の老婦人が手提げ袋を片手にこちらに歩いてくるのが見える。彼女が話に出ていた、可奈子の祖母なのだろう。
「おばーちゃーん!」
 待ちかねたように縁側から飛び出し、可奈子は祖母の空いている方の腕にしがみ付く。
 その勢いに少し身体を振り回されつつも、祖母はしっかりと孫を抱きとめた。
「はいはい、ただいま。あら、……お客さん?」
 視線を可奈子が走ってきた方に目を向け、そこにいる見知らぬ青年に軽く会釈をする。
「あ、こんにちわ。すみません、お邪魔させてもらってます」
 立ち上がり、同じく会釈して返す朋也。
 老婦人は一瞬、朋也の顔を見て驚きの表情になったが、すぐに穏やかな微笑みを見せる。
 そして歓迎の言葉をかけようとした寸前、
「あ、待っておばあちゃん」
 それまでしがみ付いていた孫に制止される。
「どうしたの?」と尋ねる祖母に返事をせず、可奈子は縁側に置き残していたスケッチブックを取り、祖母に渡して簡単に説明する。
 その説明に少し目を丸くしたが、すぐに先ほどと同じ微笑みを朋也に見せると、すらすらとペンを走らせる。
『初めまして。可奈子の祖母で、伊原時江と申します』
 縦書きだった。それも、驚くほど流麗な書体で。
「こ、こちらこそ初めまして。草壁朋也といいます」
 その妙に貫禄のある文章にやや気圧されつつ、しかしさすがは可奈子の祖母なのだろうか、彼女と同じかそれ以上に柔らかい時江の笑顔に、まるで自分の家のような居心地のよさを覚える。
(……いい所だな、ここは)
 心奪われる景色と、心暖かい笑顔。
 長く抱えていた不安や恐れが、少しずつ洗われていくような、そんな気持ちを朋也は
感じていた。

 ――祖母を交えて会話は進み、青かった空の端から、少しずつ夕の色が混じり始めた頃。
『わたしに、歌をおしえてください!』
「…………へ?」
 一瞬、見間違いでもしたのかと思った。
 それは、どう考えても今の自分に頼まれるようなことではなかったからだ。

 不思議と苦に思うことなく、自然な会話の流れのままに、朋也は自分の過去を可奈子に話していた。もちろん、簡単な経緯でだが。
 それを真剣な面持ちで聞き入っていた可奈子は、その後、しばらく顎に人差し指を当て「うーん」と唸なっていた。指を顎に当てるのは、どうやら考える時の癖らしい。
 そして突然パッ、と花が咲いたように笑顔になったかと思うと、先刻の文章を朋也に付き付けてきたのだった。
「……僕に言ってるの? それ」
 思わず当たり前のことを聞き返してしまう。可奈子はそれを気にすることなく、「うん!」と大きく頷いた。
 目の前のキラキラした瞳を前に、思わず頷いてしまう衝動を何とか抑える。
「……いや、僕は確かに歌手を目指していたけれど、人に歌を教えられるような立派な人間じゃないし、というかそれ以前に僕は耳が聞こえな――」
『それでもおねがいします!』
 まるで返事を先読みしているかのように、素早く返してくる可奈子。ここへ来て大分筆談に磨きが掛かってきたようだ。嬉しくもあるが、この状況においては少々複雑な朋也である。しかしそう思う間にも、可奈子の手は休んでいなかった。
『さっきの朋也さんの歌、とてもかんどうしたの!』
 バッ、と勢いよくページをめくり、さらに書きなぐる。
『わたしもあんな風に歌えるようになりたいの!』
 文字にも駆けるような勢いが付き、思わず後ずさる朋也。
「いや、しかし……僕は、歌はもう――」
 言いかけて、突然言葉に詰まる。

 ――もう、何なのだろう?
 ――自分は、本当に諦めてしまったのだろうか?

 もう音の届かない人生を送ることに、絶望はしていない。
 それを受け入れる覚悟を持つ時間は十分に過ごしたし、マルスというパートナーにも巡り会えた。生活に今や大きな不便はないはずだ。
 ――しかしそれは、『そんな自分を受け入れた』に過ぎないのではないか。
 ――だからといって、『歌が好きな自分』まで捨ててはいないのではないか。

(今だって……歌は好きだ。だから僕は……)
 あの防波堤からの景色。思わず突いて出た歌声。
 聴こえはしなくても、とても心の落ち着いている自分がいた。
 あの感覚は、昔も今も変わっていなかった。
 ならば、自分は――

「……わかったよ。あんまり役に立てないと思うけど、僕でよければ――」
 と承諾した瞬間、可奈子はすでに用意してたのか、『ありがとうー!!』と書かれたページを振り回しながら、勢いよく朋也に飛び付いてきた。
「う、うわっ!?」
 驚く間もなく彼女の艶やかな黒髪が朋也の頬や肩に思いっきり掛かり、少女の持つ何だか甘い、それでいて島民特有の海の香りの爽やかさやその他諸々いい匂いが、彼の脳裏にチリチリと焦がされるような感覚を与えている。
(……な、い、いかん! こんな気持ちは駄目ですよ草壁朋也……!)
 と、『こんな気持ち』を結構必死で抑え、爽やかかつ紳士的に引き剥がそうと手を動かした直後、パッと彼女の身体が朋也から離れた。
(あ、あれ? ……もしかして変に怪しまれた!?)
 マズイ、と思った朋也だが、当の可奈子はすぐに傍らのマルスにもむぎゅーっと抱きつき、『マルスもよろしくー』と口を動かしていた。抱きつかれたマルスは、主人の反応とは正反対に『んー何だようっとうしいなぁ』とばかりに、少女の腕の中で大人しくしつつも迷惑そうに目を細めている。
(…………ま、そうですよね。ハイ)
 手を宙に固定させたまま、己を恥じる朋也であった。

 ――夕陽の色が空を包み、海を暗く光らせ始めた頃。
「あ、もうこんな時間かぁ……。そろそろお暇しないとね」
 いつの間にかずいぶんと長居してしまったことに気付く朋也。それだけ、居心地が良かったせいでもあるが。
 よっ、と腰を上げた青年を、
『どこかに用事があるの?』
 少しの不満と寂しさを混ぜたような表情で見つめる可奈子。それに名残惜しさを感じつつ、
「ん? いや、用事というか、民宿までね。ここまで来る途中に一軒見かけたし。また明日、教えに来るよ」

『え、うちにとまっていくんじゃないの?』

 ――五秒間の沈黙。

「い、いやちょっと待って! それはいくらなんでもまずいでしょう!?」
 しかし彼の反論に対し、『どうして?』と言葉そのままの表情で返す可奈子。これまでの彼女の言動から察するに、恐らくは他意の無い提案であろうと思われるが、だからといって「だよねー」と好意に甘んじる訳にはいかない朋也である。
「ど、どうしてとかじゃなくて……、それに、泊まるお金もあるから大丈夫だし」
『だいじょうぶ、うちならタダだよ! それに広いし!』
「うっ……」
 経済的メリットを突かれ、思わずたじろぐ。
 実際問題、この島の滞在は一週間の予定だったので、今すぐお金に困るということは無いのだが、人間『タダ』という言葉には弱いものである。
 それに、この家は居心地が良かった。久しく忘れていた暖かさに、もっと浸りたい思いもある。が、
「いや、でも……僕は……」
『三食ひるねつき! おやつもあるよ!』
「ううっ……」
 サービス面を突かれ、思わず引かれる。
 だがしかし、ここで堪えねば『漢』がすたる的な朋也である――いろんな意味で。
「い、いや、で、でも……ぼ、僕は……」
 そんな朋也の煮え切らない態度に、「むうー」と頬を膨らませた可奈子は、今度はスケッチブックに思いっきり大きな字で『YES』と、見えるか見えないかくらいの小さな字で『NO』と書いたページを突き付け、さらに『YES』を方を露骨にピッ、ピッと指差してこちらを凝視してきた。心なしか、彼女の目が据わっているのは果たして気のせいだろうか。
 このまま断ってしまうと、もうこの島に居られなくなってしまうほどの不幸が起こるのではないかと、朋也は行き過ぎた不安に駆られる。
 だが、ここで一つの疑問点が浮かぶ。
(いや待て、それ以前に彼女の意見だけでこの件が通るはずは無いじゃないかそもそもお年寄りと年端のいかない少女だけのこの家に四捨五入三十路狼男が転がり込むなんて保護者が許すはずが無いでしょというか自分で狼男とか言ってて悲しくなるけどううぅ……)
 と、徐々に暗くなる思考を巡らせながら朋也は視線を祖母の方へ向けると、

『晩御飯は何が良いですか?』

 その保護者は、ニコニコとした表情でスケッチブックを向けていた。
(……………………保護してないし)
 まさか許可が下りるとは。これがいわゆる島民特有の開放的精神とかいうやつなのだろうか、と朋也はとりあえずこの結論に悩む。
(うーん……)
 とはいえ、ここまで押し切られると自分の固定観念が間違っているのではないかと思えてしまう。
 彼女たちは素直な好意で薦めているのだ。その気持ちを自分の邪(?)な懸念で蔑ろにするのも悪いのかもしれない。
(…………まぁ、いいか。彼女は歌のレッスンをして欲しいだけで、それ以外に何かあるわけじゃないし……ん? 何を僕は考えているんだバカバカしい)
 複雑な、何かもやもやした気持ちを拭えない自分に辟易しつつも、この家族に感謝の念を込める。
「分かりました。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 その言葉に、満面の笑顔と穏やかな笑顔が咲く。
『それじゃ、晩御飯の支度してきますね。今日は沢山食べてくださいな』
 そう言って、足取りも軽く台所へ向かう時江を見やり、
『よろしくねー!!』
 そう言いながら飛び付く可奈子を、今度は紳士的に防御しながら、
(……やれやれ)
 笑顔でため息をつく朋也だった。



 翌日。
(……うーん、何だか身体が重苦しい感じが……するな。久しぶりの長旅で……疲れが思いの他出たか……?)
 起床寸前のまどろみの中、うーんうーんと身体を軽くよじらせる朋也。しかし、身体はお腹の辺りを支点に固定されているかのように、身動きが取れない。
 何だか漬物石の下の漬物の気持ちを共感しかけている彼の腕に、肉球と爪の軽い感触が伝わってくる。マルスの日常生活における仕事のひとつ、主人に朝を知らせる合図だ。
 そのいつもの朝の感触に、朋也はようやく目を覚ます。しかしうっすらと開いた両目は、正面の景色を確認した瞬間、限界まで見開かされることになる。

『おはようー!』
「……………うわぁーっ!?」

 目の前にあったのは、スケッチブックだった。
 そこに書かれた大きな文字が後ろへ引かれる。その上に見えたのは、彼のお腹の辺りで馬乗りになってニコニコと笑っている可奈子だった。今日の彼女は、淡い水色のノースリーブのワンピースに、綺麗な黒髪の横から流れる一房を、白く細いリボンで小さく結んでいる。
 まるで、ちょっとよそ行きな感じの格好だった。これで麦藁帽でも被っていれば、高原を爽やかに走るお嬢様になれることだろう。
 というか、そんな格好で今現在馬乗りなんてされている朋也には、非常にいたたまれない状況な訳であって。
(な、……ちちちちょっと待ってくださいよ可奈子さん!?)
 しかし当の可奈子は、その体勢のままペラリとページをめくり、『朝ごはんだよー』と、朋也の心の叫びなど全く意に介さない様子で、笑顔で語り続ける。
「う、うん。分かったよ」
 辛うじて笑顔で返すが、どうしても口の端が引きつってしまう。横を見れば、モーニングコールの仕事を半分取られたせいなのだろうか、マルスが心なしか不機嫌そうな顔で、『いいからさっさと起きんかい、このエロ主人』とばかりに、朋也と可奈子を交互に見ながら辟易している。
(……ハイ、そうですね)
 パートナーの刺々しい視線に冷静さを取り戻した朋也は、「そろそろどいてもらえると嬉しいんだけど」とサワヤカかつ紳士的な口調で可奈子に願い出る。すると彼女も『はーい』と素直に横にどいて居直った。……やはり深い意味の無い行動だったようだ。
 そんな彼女の無防備な魅力に、これからの下宿生活が心配になる朋也であった。マルスの沈着冷静な補佐が、彼にはとてもありがたく思える。
(これからも頼むよ……相棒)
 そんな主人の心の声に、相棒は目を合わすことなくフシュッ、と鼻を鳴らすだけだった。

 台所に向かい廊下を歩く中、改めて朋也は可奈子の今日の服装を眺める。
「今日は何だかおめかしだね。どうしたの?」
 そう尋ねると、彼女はえへへー、と表情を緩めながら『どうかな? 変じゃないかな?』と左右に少し体を揺らしながら訊いてくる。
「うん、よく似合ってるよ」
 もちろんこれに異を唱える朋也ではない。その服装は、彼女の持つ雰囲気を見事に引き出していた。出会ってまだ一日だが、こういう格好が彼女には一番似合うんじゃないかと彼は思う。
 その返事に、ますます笑顔になる可奈子。本心とはいえ、何気ない褒め言葉を素直に喜ぶ彼女に、朋也も自然と笑みがこぼれる。
『今日から先生にレッスンしてもらえるから、何だかはりきっちゃった』
「それは光栄だけど、本当に大した事は教えられな…………『先生』?」
 うんっ、と元気よく頷く可奈子。
『だって、歌をおしえてくれるから。その方がいいと思って』
「せ、先生ねぇ……」
 なんともむず痒い朋也である。生まれてこの方そんな称号を持ったことはないし、実際呼ばれると妙に自尊心をくすぐられる気分になる。
『イヤだった?』
 ページを顔のそばまで持っていき、上目遣いで訊いてくる可奈子を見ていると、最早断ることが罪に思えてくる。
「あ、ううん、嫌じゃないよ。何だか照れくさいなと思って。それに、まだ何も教えていない身分だしね」
『だいじょうぶ。すごく先生っぽいよ、せ・ん・せ・い』
 からかうようにクスクスと笑いかけられる。横に結んだお下げも、笑顔に合わせてゆらゆらと揺れていた。

(先生、か……大層な呼ばれ方されちゃったな)
 もちろん、悪い気はしなかった。

 朝食後、時江に見送られ、二人と一匹は昨日出会った防波堤までやってきた。
 今日も空は透き通るような青一色。まだ午前中もあり日差しは穏やかだが、その陽光はしっかりと海面を微細に輝かせている。
「うん……、やっぱりここからの景色は凄く綺麗だね」
『でしょ? わたしの一番お気にいりのばしょなの』
 共感してもらえた嬉しさからか、可奈子は元気よくコンクリートの段上にひょい、と飛び乗る。慣れた動きではあるが、一応保護者気分の朋也からすれば危なっかしく感じてしまう。
 朋也も段上に座り、海から直に来る潮風を身体いっぱいに浴びる。マルスはその左隣に姿勢よく座る。朋也を真ん中に、三つの影が車道に差し伸びている。
「……さて、僕は何を教えればいいのかな?」
 歌を教えるにあたって、『声』に指導を挟めないのは致命的ではと考える朋也は、依頼された側とはいえ、期待に添えられるのか少々不安になる。
『うん、先生は声のしどうじゃなくて、しせいとか――』
 ピタリと、そこでペンが止まってしまった。
 可奈子は適切な言葉が出てこないのか、「えーっと」な表情で顎に指を当てて何やら唸り始めてしまう。
 こんな表情も妙に似合うなぁ、と朋也が心中で呟いた直後、ようやく思い出したらしく、再びペンが動く。
『――ふいんきを感じてください!』
「……『ふいんき』じゃなくて、『ふんいき』ね」
 朋也の『先生』らしい突っ込みに、「はうっ」と顔を赤面させ、慌ててぐしぐしと線で消して直す可奈子。どうやら誤字脱字は彼女的に結構恥ずかしいらしい。
 そう言えばあまり漢字を使わないな、と朋也は国語の先生も視野に入れながら、彼女の表情を楽しそうに眺めていた。

 いまだ赤みが小さく残る表情を「こほん」と小さく咳払いして、指導を受ける生徒の表情に切り替える可奈子。
 防波堤の段上に立つその姿は、下から見上げる朋也からは、ワンピースの水色と空の群青が、海の波が揺れるように混じり、とても絵になる構図になっていた。
『では一番。伊原可奈子、歌います』
「はい、お願いします」
 ぺこりとお辞儀を向ける小さな歌手に、小さく拍手で返しながら、朋也は初めて『聴く』彼女の歌に、大きな期待を感じていた。
(可奈子ちゃんの歌か……不思議だな。聴こえないって分かってるのに、どうしてこんなにも楽しみになるんだろう)
 そんな朋也の期待の眼差しに、可奈子は照れくさそうに目を逸らし、視線を水平線に移す。やや緊張してるのか、風に揺れる頭のリボンを整えたり、「あーあー」と発声練習する仕草もどこかぎこちない。
「……がんばって。落ち着いてね」
 朋也のその気遣う声に、風が通り過ぎるように緊張が解けた可奈子は、「うんっ」と元気よく頷き視線を海に戻す。こちらに向けた、爽快な笑顔そのままに。

 そしてそのまま数秒、面持ち静かに遠くを眺めた後――

 ――少女が。
 瞳を閉じ、潮風の混じる空気を小さく吸い――
 一拍の間を置いて、小さな唇が声を紡ぎ、薄く瞳が開かれた瞬間――

 ――空気が、変わった。

「――――、……――――」

(…………えっ)
 肌は鋭敏に、その揺らめきを痺れるように感じさせ――
 目は鮮明に、その情景をより眩しく映し出している――

 ――少女の、歌う姿を。
 
「……――、――」 

(あ……え……?) 
 まるで、空を薄く彩る筋雲が、少女を始点に波紋を広げているように――
 それは、海面をたゆたう波が、少女の声に同調して揺れているように――
 
 ――歌う姿を、彩っていく。

「――……、――――」

(……聴こ、える……?)
 自身でも有り得ないと思える、しかし、それを拒む余地の無いほどの感覚に、朋也は全身を包まれていく。
 声ではなく、言葉ではなく。
 直接心に届く、不思議な『暖かさ』に。
 
「……、――――……」

(……何だか……)
 その表情は、常のあどけない笑顔から生まれたとは思えないほど、慎ましく静謐で――
 その立姿は、常の元気溢れる挙動から生まれたとは思えないほど、涼やかで優美で――

(……すごく……)
 いつしか、そんな少女の姿に目を奪われた朋也は思わず呟くように――その口から無意識に、『心のまま』の言葉を紡いでいた。

「――だ……」
「――っ、!?」 
 細く小さな呟きだった。しかし、その言葉は風に流されるように少女の耳へ鮮明に、通り響く。
「えっ?」
 突然、滑らかに動いていた景色が本来の動きに切り替わるような感覚に、朋也の意識が覚醒する。
 見ていたはずの少女は、さっきまでの薄く見開かれた双眸を、普段の人懐っこい子犬のそれに戻してこちらに向き直り、きょとん、と真ん丸くさせていた。
 両の頬を、ほんの僅か紅くさせて。
「あ、あれ? どうしたの?」
 しかし、間違いなく口にした『その言葉』を、朋也は無意識のため、さらには耳に出来ないために全く気付いていない。
 可奈子はいまだ、その表情のまま固まっていた。
 両の頬を、今ははっきりと紅くさせて。
「え……も、もしかして何か邪魔しちゃった……?」
 可奈子の歌を止めた原因が自分にあると思った朋也は、慌てふためき、親に叱られた少年のような表情で首をすくめる。
 そんな子供っぽく萎縮する青年を、瞳だけじっと凝らして見ていた可奈子は、
 ふいに、小さく弾けるように肩を震わせ、それが顔に伝わって段々と俯いていき――
「へ……?」
 ――顔が隠れた直後、
 いつも以上に無邪気な笑顔が一気に弾け、大きく口を広げて笑いだした。
 頬の紅は、堪えを吐き出した笑顔の赤みに混じって、隠れてしまっていた。
「え? な、何で笑うのさ!?」
 訳の分からないリアクションに、つられて赤くなりつつ朋也が訊いても、
『なんでもなーい』
 スケッチブックを胸で抱きかかえて返し、それでも少女は感情のままに笑い続ける。
 とても、幸せそうに。
(……。ま、いいか)
 可奈子のそんな表情に、深く追求する気も無粋と思った朋也は、そのまま黙ってやり過ごすことにした。
 笑顔の余韻を残し水平線を眺める姿は、同じ構図でもさっきとは違い、彼女らしい快活さを帯びて周りの色彩に溶け込んでいる。
『で、どうだった?』
「え?」
 海に向けていた身体をくるりと横に回し、突然訊かれたその問いに朋也は思わず疑問で返してしまう。
『わたしの歌ー!』
 ぷー、と頬を膨らまし、目の前にまでスケッチブックを突き付けられる。
「え、あ、うん……えっと――」
 そこまで言いかけて、自分が何も考えてなかったことに気付く。
 というよりも、考えることすら忘れてしまうほど、彼女の歌に魅入ってしまっていたのだ。
 一応『先生』という肩書きがある手前、何かしら指導を挟みたいところでもあるが、発声を指導できないことを抜きにしても、彼女の歌は非の打ちどころが無い気がしてならない。
(うぅ……何を言えばいいんだろう……)
 突きつけたまま、頭の上に「?」を浮かべて見ている可奈子に笑顔を向けつつも、朋也は『先生』としての面目を保つため、内心は必死で添削を探しているのだった……。



「あ、そこはBだね」
『ここは?』
「えっと……そこはアとウが入るね」
『じゃあここは?』
「そこはC、じゃなくて@かな。……てか可奈子ちゃん、もう少し悩んでから訊かなきゃ身に付かないんじゃないの?」
『だいじょうぶ、ちゃんとなやんでるってばー』
「……訊いてる時点で大丈夫じゃない気がするんだけど」
 むー、と膨れる彼女を尻目に、訊かれた問題へ軽く思考を働かせ、解答を導いてあげる。
 
 やや蒸し暑さの残る夜。
 可奈子の部屋の中心に置かれた、四隅が色あせている小さな長方形の木製テーブル。
 やや窮屈ながらも二人は並んで座り、プリントに書かれた問題と格闘している。
 向かい合わずわざわざ並ぶのは、視線の向きが同じ方が筆談がしやすいという理由からで、朋也としては、肩が触れるほどの間隔が妙に落ち着かなかったりするのだが。
 そして可奈子は右脇に筆談用のメモ帳を置き(スケッチブックでは大きすぎるので)、会話と解答に右手を忙しなく動かしている。
 マルスはというと、二人から少し離れた場所で座布団の上に伏せ、やや退屈そうにこちらの様子を伺っている。傍に置いてある蚊取り線香の煙に興味があるのか、時々嗅いではフンッ、と鼻を鳴らしているようだ。
(……うんうん)
 さっきの朋也の忠告が効いたのか、可奈子は長文の問題を至近距離で睨めっこしながら「うーんうーん」と唸っている。メモ帳には『考え中』と書かれていた。
 その間、朋也は失礼かなと思いつつも、改めて部屋をぐるりと見渡してみる。
(ふーむ……)
 可奈子の部屋は、『少女らしさ』というのがほとんどなかった。
 内装は居間や客室と同じで、広さは八畳の畳張りに、調度品もこの家と共に過ごしてきた年月を色に滲み出したタンスなど、古めかしいものばかりだ。彼女の部屋になってまだ五年ほどしか経っていないらしいせいか、それとも本人の嗜好のせいか、電化製品の類もほとんどなく、部屋の隅にCDラジカセが見えるくらいしかない。
 ただ、床の間にはやや色あせた、それでも痛みのほとんどない大きなクマのぬいぐるみが中央にでん、と飾られているのが妙に可愛らしいくもある。
(まぁ、ある意味可奈子ちゃん『らしい』かな)
 視線を隣に戻し、いまだプリントと睨めっこを続ける少女を眺めながら、今の状況に複雑な想いを募らせる。

 あの後、結局指導らしい指導は出来なかった。
「――えっと……うん、すごく良かったと思うよ。何ていうか、風景画の中に可奈子ちゃんが居るみたいで、……それに、聴こえないのに何か、声が聴こえるような……そんな感じが、したかな」
『そうなの? そう言われると、なんかすごくうれしいな』
 そんな、漠然とした感想しか言えなかった朋也に、それでも可奈子は素直に照れ笑いを浮かべ、喜んでくれた。
 だが朋也からすれば、頼りにされた嬉しさもあり、何とかして彼女の役に立ちたい気持ちでいたので、自分の曖昧な言葉に不甲斐なさを感じてもいた。
 もちろん、喜んでくれたことは嬉しいが。
「うーん……。ゴメンね、それくらいしか言うことが思いつかないや……」
『ううん、気にしないで』
 そんな言葉に、朋也は責任と感謝を同時に募らせ―― 

 ――で、今現在『先生』という呼び名に相応しく、学業指導にあたっている訳である。
 ちなみに、やっているのは夏休みの宿題の一つである、教科別に配布された復習問題だ。
「……ゴメンね、これくらいしか手伝えなくて」
 朋也の呟くような声に、しかし可奈子はしっかり反応して見返してきた。
『先生、それもう四回目だよ』
「え、あ、ごめん」
 また謝る朋也をクスクスと笑いながら『やっぱりわかんないよー』と、先ほどから凝視してた問題をシャーペンで突付いている。
「はいはい…………む」
 しかし今度の問題に、さっきの自責を覆い被される思いをすることになる朋也だった。
(……何だっけ? これ)

 一分後。
(ぬう……中一のときこんなの習ったかな……十年も経ってるし、きっと変わったんだよそうに違いない! ……って結論付けたら余計分からないじゃないか思い出すんだまずは十年前の時事から――)
「うーんうーん」が朋也に移ってしまっている最中、すっ、と視界の隅からメモ帳が滑り込んでくる。
『でもね』
「ぅーん?」
 唸りが間延びした返事で顔を横に向けると、
 可奈子は普段の笑顔のトーンを少しだけ落とし、そんな前置きのない言葉を差し出してきた。
 彼女は一瞬逡巡する様子を見せた後、やや書きなぐるようなスピードでシャーペンを走らせる。
『先生がきいてくれるだけで、わたしはうれしいよ』
「可奈子ちゃん……」
 実際、最初に謝ったときも、彼女はそんな様子を見せていた。
 あのとき『気にしないで』と言ったのも、恐らく本心だろう。短い付き合いだが、彼女が嘘やお世辞を言うような人間ではないことを、朋也は心から思っている。
 だからこそ、そんな心からの言葉が、何よりも嬉しかった。
「……ありがとう。すごく嬉しいよ」
 朋也の心からの感謝に、そこまで深く反応されると思わなかったのか、可奈子は口を四角にして慌てたように、ぶんぶんと手を振っている。そして、
『だいじょうぶこっちもありがとう』
 知らず文章まで慌てさせ、そのまま横を向いたまま固まってしまった。
 表情は、俯いて垂れた前髪に隠れて見えなくなってしまう。
(……?)
 そんな彼女の様子を怪訝そうに眺めていること数秒。妙な沈黙に絶えられなくなったのか可奈子は突然、二人して唸ってた問題をズビシッ、と指差す。
『で、先生わかったの?』
「え? あ、…………スミマセン」
『しっかりしてよー、せ・ん・せ・い』
 沈痛な面持ちで沈む朋也を見て、可奈子は隠してた表情に悪戯っぽい笑みを乗せてポンポンと肩を叩く。いつの間にか立場が逆になってしまった。
(あれ……いよいよ『先生』降格ですか? ボク)
 ドーン、と額に数本の縦線を出しながら更なる落ち込みに突入する朋也の頭を、「よしよし」と撫でながら少女は無邪気に笑い続け、夜は過ぎていった……。



 翌朝。
 昨晩、また可奈子にマウントポジションを取られ、マルスに冷たく諌められる展開を懸念八割・期待二割で眠りに着いた朋也だったが、今朝はマルスの前足の感触だけが、彼の目覚めを促した。
「ん……、うーん……」
 何だいつもの起こされ方か……、と懸念八割をどこかに置き忘れたかのような呟きをしてから、彼はマルスに「おはよう」と言おうとして横を向いたところに、

 可奈子がいた。
「……うおっ!?」

『おはようー』とスケッチブックを構え、マルスの真横にちょこん、と正座していた。今までの彼女の言動とはちょっと印象の違う、実に静的な仕草だ。よく見ると、表情も少し畏まっている。
「あ、……う、うん。おはよう」
(マ、マズイ。さっきのいかがわしい発言は彼女の耳に到達しちゃったか? いやでもこれまでのリアクションからして今の言葉の意味を汲み取る極意は習得してないはず……してませんよね?)
 と、平静な表情の内面で大量の冷や汗を流す朋也だったが、可奈子は特に反応することなく穏やかな笑顔で『もうすぐ朝ごはんだからね』と伝えるだけだった。
(ふぅ、よかった……聞こえてなくて…………って、ん?)
 朝から無駄に緊張したせいか、朋也は今更になって気付く。

 可奈子が、いつものワンピースではなく、セーラー服を着ていたことに。

 あまりに自然な着こなしや、胸元のタイやセーラーカラーがスケッチブックで隠れていたせいもあり、咄嗟には分からなかったのだ。
 そして改めて見ると、これがまたワンピースに負けず劣らず猛烈に似合っていた。まだ中学生になって四ヶ月ほど。先を見越してのややゆったりサイズであるにもかかわらず、えも言えぬ存在感。うーむこりゃ昨日の自論を考え直す必要があるかな、と思いつつ朋也は尋ねる。
「あれ、今って夏休みだよね? 何で可奈子ちゃん制服着てるの?」
 すると彼女は、「うっ」と言葉に詰まってしまい、あー、うー、と口を動かしてマジックを持つ手があらぬ方向へ漂い始めてしまう。そして何故か顔まで少し赤くなっている。 その言動に思わず「?」となる朋也。そんな状況に答えを導いてくれたのは、

『今日は学校で補習があるんですよ』
 そう書かれた、彼女より一回り小さいスケッチブックを手にして、廊下からひょっこり顔を出している彼女の祖母・時江だった。
 ああ、そうなんですか、と朋也が口にした瞬間、可奈子はグルンッ、と体を回れ右して、祖母に何やら食い掛かりだした。恐らく『補習』しなければいけないほどに、学業が疎かになってしまった自分の失態を知らされて恥ずかしかったのだろう、さっきから何か叫びつつ、祖母の体をポコポコと小さく叩いている。
 しかし叩かれている本人は、全く意に介さない様子でニコニコし、わざわざ朋也に伝わるよう、『どうせ学校に行くんだから分かってしまうでしょう?』とスケッチブックに書いて見せた。
 言われて「むぅー」と口を尖らせる可奈子。そんな祖母と孫の様子を見て、やはり彼女は元気が似合うなぁと朋也は思う。
(ん? じゃあ何で朝一番はあんな大人しかったんだろう……)
 そう思い首を傾げる彼は、恐らく気付かないであろう。

 いまだ祖母に言い寄っている可奈子の赤面には、今朝の朋也の呟きによって、違う赤みが混じっていることに。
 そして昨日、防波堤での『あの』言葉が、彼女の『心』を揺り動かし始めていることに。



『いってきます』
 ニコニコ顔で玄関で見送る二人に対し、渋々顔をしながらスケッチブックで返し、可奈子は補習のため学校へ向かう。
 補習は昼前には終わるらしいので、『午後からまたレッスンおねがいだからね』と彼女は言い残していった。
 彼女が家の正面から伸びる坂道を下っていき、姿が見えなくなるのを確認してから、
(さて。可奈子ちゃんは行っちゃったし、帰ってくるまでどうしようか……)
 見送った玄関先で立ち尽くす朋也。水場を借りて、マルスを無理矢理(割と風呂嫌い)洗ってやろうかなどと考えていると、ポンと肩を叩かれた。
 ん? と振り返ると、
『あの子が帰ってくるまで、ゆっくりしていてくださいな。色々相手して疲れたでしょう?』
 そう言い残し、傍らにいた時江はそそくさと奥へ引っ込んでしまった。
 確かにここ二日、可奈子に振り回されていた(いい意味でだが)朋也は、お言葉に甘えさせてもらおうかと一瞬頭をよぎったが、
(……うん、せっかく下宿させてもらってるんだし、やっぱり何かお手伝いしないとな)
 お年寄りが家事に勤しんでいるのに、若者一人ゴロゴロするのは気が引けた朋也は、早速家主に願い出る。
「おばあさん、よかったら僕もお手伝いしますよ。何でも言ってください」
 時江は少し目を丸くして朋也を見ていたが、すぐに少し困ったような笑顔を見せ、手にしていたスケッチブックにすらすらと文を綴る。
『お気持ちは嬉しいけれど、お客様に雑用をさせる訳にもいかないわ。気にしないでくつろいで居てくださいな』
 やんわりと断られてしまった。
 しかし、昨日一日見た限りでの彼女は、常に何かしら忙しく手を動かしていた気がする。割と広いこの家を掃除したり動き回るのはきっと大変なんだろうなと朋也は思う。
 そして、だからこそ彼は役に立ちたいと思う。自分が障害者である負い目も多少あり、何か人の役に立って、自分を認めて欲しいという衝動が、健常人よりも強いのかもしれない。
「大丈夫ですよ、これでも男ですから。やっぱりお世話になっている身ですし、耳を使わない仕事なら、遠慮なく任せてください!」
 そんな意気込みを見せられて、断るのは逆に悪いと思ったようだ。少し間を置いてから、彼女は答える。
『分かりました。それじゃ、少しだけお言葉に甘えさせてもらおうかしら』
「はい、任せてください!」
 張り切って雑務に意気込んだ朋也であった。




 で、あったのだが。

「………………………………うだー……」
 三時間後、彼は縁側で野たれ死んでいた。
 一人暮らしの経験もある手前、家事を手伝うくらいなら楽勝かと思っていた朋也だったが、これが予想以上のハードワーキングとなったのだ。
 洗濯は人数が少ない分、まだよかったが、掃除が違った。長い廊下や普段使わない部屋も多いので、こまめに掃除しているとはいえ、かなりの労力である。さらに家の裏手には野菜畑があり、これまたこまめな手入れが必要とするため、太陽のギラギラとした熱視線を浴びながら作業に勤しむ。
 開始して一時間を過ぎたあたりから、時江の『大丈夫ですか?』という労わりが頻繁に出てきたが、自分から張り切って申し出た手前、弱音を吐くわけにはいかない。「ええ、全然オールOKです!」と白い歯をキラリと見せて強気を吐き、裏では額から絶え間なく流れる汗を拭いながら朋也は奮闘してきたのだが……結果見事にくたばり、今に至っているのである。
 縁側の下に敷かれた、日陰になっているコンクリートに体を張り付けたマルスは、主人の屍に見向きもせず、下から伝わる冷たい感触に身を委ねている。仕事以外には割と厳しい相棒を恨めしげに見つめながら、負けじと廊下の温い感触に身を委ねる。
(はぁ…………運動……不足が、祟った……かな……)
 事故以来、特に大きな運動はした事がなかったとはいえ、男の面目丸つぶれで正直悔しい朋也である。
 しかし、とうつ伏せになりながら首を傾げる。
(あれだけの仕事量を毎日やって、おばあさんは大丈夫なんだろうか……?)
 一緒にやってて見ていたが、汗はかいていたものの、彼女は特に休むことも無く家事に勤しんでいた。ヘタレな自分が心配するのは筋違いかとも思ったが、それでもお年寄りがあの仕事量をこなすのは、少々心配になる。
(うーん…………うだー……)
 そんな、考えごとをしながらいまだに死んでいる朋也の前に、
『お疲れ様です。すみませんね、いろいろ手伝って頂いて』
 冷えた麦茶を二つ盆にのせ、時江が死体の前に戻ってきた。「あっ、どどどうも!」と慌てて姿勢を正す朋也に、彼女は微苦笑を浮かべ、グラスを一つ、彼に手渡す。そして朋也の隣に静かに腰を落とし、マルスの頭を優しく撫でつけている。相棒も、その優しい手つきに目を細め、気持ちよさそうにしている。
 それを横目に、冷たく美味な清涼感で喉を潤し、見事生還を果たした朋也は「ふぅ」と一息つける。
「しかし、おばあさんは元気ですね……いや、僕がだらしないだけですね。あれだけ大見得切って、面目ないです……」
『いえいえ、とても助かりましたよ。有難うございます』
 社交辞令ではない、穏やかな微笑で返され、朋也は思わず照れる。
「どういたしまして。でも、あんなたくさんの家事を毎日やって、大変じゃないですか?」
『ずっと昔からしてる事ですし、もう慣れましたよ』
「そうですか。でも、あまり無理しないでくださいね」
『あら、これでもまだ若いですわよ』
「あ、いえ、そんなつもりじゃ……すみません」
 うふふ、と子供みたいな笑顔を浮かべながら一旦スケッチブックを床に置き、時江は視線を海の方角へ向けて、麦茶を一口だけ啜る。
 それに習い、朋也も外の景色に目を向ける。
 真上に差し掛かりかけた太陽は、さっきよりも容赦のない空気を地上に充満させつつあった。
(うわー……今外で畑仕事してたら死ぬじゃ済まないなぁ。てか可奈子ちゃん、今ごろ教室の熱気と思考熱暴走のダブルパンチで死んでるんじゃないだろうか……?)
 ふと、ここに居ない少女のことを思い出す。
 この島に来て三日目。降り立って間もなく可奈子と出会い、それからほとんど彼女と付きっきりだったので、こんなに彼女と一緒でない時間を過ごすのは初めてだった。そんな時間の中、改めて考えてみる。何となく疑問に浮かんだことを。
(……どうして、可奈子ちゃんは僕に歌を教えて欲しいと思ったんだろう……?)
 
『気になりますか?』
「えっ?」
 思わず呟いていたことに気が付かなかった朋也は、横からひょっこりと出された言葉に目を丸くする。「あ、はい」と照れながら返すと、彼女はニコリと微笑んでスケッチブックに目を落とす。相変わらずの流麗な書体で。
『こんな事言うと、朋也さんに失礼になるかも知れませんが』
『あの子が歌を教えて欲しいというのは、恐らくそれだけが目的では無いのだと、私は思います』
「と、いいますと?」
 ほんの少しだけ、目の前の青年を見つめてから、時江は静かに文を綴る。

『似ているんです。朋也さんが、あの子の父親に』
 え? と朋也の口が半開きのまま固まる。
 可奈子の父親。
 時江の話によると、今から十二年前。一時的な仕事で本州へ戻る途中、船の事故で一緒にいた妻共々、海の上で亡くなってしまったという。この島に住む、母親の元に預けたままの幼い子供を遺して……。
「でも、可奈子ちゃんはご両親の事はほとんど覚えていないんでしょう?」
『そうですね、まだ幼子でしたし。でも』
『あの子にとって、両親の記憶というのはほんの僅かなものなので、その分大事な思い出として、根強く残っているのではないかと思います』
「……その面影が、僕に重なっているってことですか?」
 ええ、と頷く時江。
『だから、可奈子は貴方に懐いてしまったのでしょうね』
 もちろん朋也さんの人柄もありますけど、と付け足し、彼女はグラスに口をつけて一呼吸置く。筆談というものは、地味に労するものなのである。朋也も一応気遣って、落ち着いて話を促すようにしているが。
 そして彼女は、再び鉛筆を動かしていく。
『実は、私も貴方と初めて会った時、驚いていたんですよ』
『雰囲気が、本当に息子と瓜二つだったので』
 そう言って、彼女は穏やかな視線を青年に向ける。その、自分の子供を温かく見守るような表情に、朋也は気恥ずかしくなって思わず視線を逸らす。
 蒸し暑い熱を送る太陽は、さっきよりも少しだけ、上に傾いていた。

(やっぱり、可奈子ちゃんは僕を父親のように思っているのかな……うーん。嬉しいような、少し残念なような)
 うむむ、と遠く前方に望む海を見ながら、思惑顔になっていた朋也の視界に、ひょっこりとまた、スケッチブックが入ってくる。 
『あの。一つ、朋也さんに尋ねたい事があるんですが』
「? なんですか?」
 気軽に聞き返した朋也だったが、次の瞬間。彼の目に、思わぬ文章が映っていた。
 
『うちの可奈子のことを、どう思います?』

「…………え、あ、えええっ!?」
 今しがた可奈子のことを考えていた朋也は、まるで自分の思考を盗み見られたような質問に、心臓が飛び出そうになる。思わず麦茶を、傍らに居たマルスにまたこぼしてしまうところだった。
(な……、ななななななんですと!? いやどう思ってるかなんて言われても……うっ)
 聞かれて何故か最初に頭に浮かんだ、昨日の朝の出来事(マウントポジション目覚まし)を必死に掻き消そうとしながら、これまた必死に言葉を探す。
「い、いや、あの……彼女はまだ中学生ですし、そ、そういうのはもうちょっと先……や、先ならいいとかそういう訳でもないことでもあるんじゃないかなとか思ってるんじゃなくてゴニョゴニョ……」
 暑さとは違う、大量の冷や汗を流しながらしどろもどろになる朋也を見て、時江はクスクスと含みのある笑顔をすると、

『うちの可奈子の”歌の”ことを、どう思います?』
 さっきのページに一言付け加えて、再び質問してきた。
(…………結構意地悪だな、この人)

 麦茶を片手に、縁側で腰を落としているお年寄りと青年の二人、と傍らに一匹。
 浜風が緩やかに通るこの場所も、更に強くなった真夏の日差しを混ぜ合わせて、温く乾いた風となって彼らを撫でていく。
(可奈子ちゃんの歌、か……)
 小さくなったグラスの氷を軽く回して泳がせながら、朋也は昨日の彼女の姿を思い出す。
 声の届かなくなった彼にも、そんな彼だからこそ、はっきりと感じ取れた。
 彼女の歌う姿、その表情には、魅力的という言葉に収まらない、周囲の空気を一変させるような、あの普段の元気な姿から想像も出来ない神々しさを醸し出していた。今でも思い出すだけで、ゾクリと肌を痺れられるような感覚が彼を撫で付ける。
「……凄いと思います。こんな僕でも、……なんて言うんでしょうか。心に直接、声を届けられているような感じで、……とても、綺麗で…………あ、いや」
 最後の言葉に、思わず顔が赤くなる朋也。時江はそんな彼を見てにこやかに微笑む。
『私も、あなたと似た様なことを感じていますよ』
「え……?」
 ほとんど間を置かず返された文章に、朋也は僅かに目を丸くする。そんな彼の反応を見ることなく、すらすらと滑らせるように鉛筆を走らせる。
『可奈子は物心付いたときから、耳にした歌を何でも口ずさんでしまうほど、歌うのが好きな子でしてね』
『お陰で、家では音楽に困りませんでしたよ』
「……それはさぞ賑やかだったでしょうね」
 二人して苦笑いを交わす。今でこそほとんど無いが、幼い頃は内外人の有無問わず、どこでも歌い回っていて、一緒にいた祖母を困らせていたという。
『でも、聴いているといつも感じるんです。朋也さんが仰ったように、あの子の気持ちというか、想いのようなものが』
『私の中に、そっと置かれていくような、そんな不思議な感覚を。最近は、特にはっきり感じますね』
『多分、あの子にはそんな自覚は無いのでしょうけどね』
 それは、確かに朋也も感じていることだった。そして――彼がかつて、自分に求めていたものでもあった。
「……歌手を目指していた僕からすれば、うらやましい限りです。そんな風に、誰かの心響かせられるような歌を歌えるようになりたいと、いつも思っていましたからね」
「朋也さん……」
 常の微笑みに少しだけ悲しみの色合いを混ぜ、時江は穏やかに語るその横顔を見つめる。
 朋也はその微妙な彼女の表情に気付くことなく、しかし心からの言葉を口にする。
「だから僕は、可奈子ちゃんに出会えて嬉しいですよ。僕が、かつて目指し望んでいたものを、……音を失った僕でも、心に『聴く』ことが出来たんですから」
 嬉しい、と。その屈託ない表情から発せられた言葉に、時江は自分の心も満たされた気分になる。
「……可奈子ちゃんは、いつもどんな気持ちで歌っているんでしょうね」
 彼女の歌にどんな想いが込められているのだろう。
 彼女の目には何が映っているのだろう。
 自分は彼女のどんな想いに惹かれているのだろう。
 野暮かもしれない興味と思いつつも、朋也の口はそんな言葉を漏らしていた。
 と、再び肩に手の感触が伝わる。
『そうですね。これは、わたしの推論でしかありませんが』
 少し遠慮がちに、それでも伝えたい気持ちを押し出して、時江は語りかける。 
『あの子の両親、私にとっての息子とその嫁ですが。先程話した通り、可奈子が生まれて間もなく、船の事故で亡くなっています。もちろん、可奈子にその時の記憶はほとんど無いですけれど』
 ほんの数秒、遠く景色に見える水平線を目を細めて眺め、彼女は再び白い紙に視線を落とす。
『もしかしたら、可奈子があの防波堤で海に向かい歌い続けるのも』
『両親に自分の姿、元気な姿を、「歌」を通して伝えたいと、心の何処かで思っているのかもしれません』
(……両親に、伝えたい。か)
 思えば、可奈子が歌っているとき、彼女の視線は常に、遥か遠く水平線を見据えていたような気がする。自分が、心に声を届けられるという感覚も、時江の推論を照らし合わせて考えれば、非常に納得がいくと朋也は心中で思う。なぜなら、彼女のその『想い』を、彼は間近で『聴いて』いたのだから。
「……そうかもしれませんね。可奈子ちゃんのその純粋な想いが、僕達の心にも届く歌になって。その純粋な心に、僕達は魅了されてしまうのかもしれませんね」
 ははは、と気恥ずかしく頭を掻きながら麦茶を啜る。それを見て、時江は嬉しそうに目を細める。
『どうやら朋也さんも、すっかり可奈子のファンになってしまったようですね』
「はい、もうすっかり。やっぱりおばあさんも、可奈子ちゃんのファンなんですね」
『ええ、もちろん。第一号の、ですね。あの子には、夢を叶えて、両親の分も幸せになって欲しいです』
 しかし、それはいつかここを巣立ってしまうことを意味する。
「……もしそうなったら、少し寂しいんじゃないですか?」
『いいえ、ちっとも。大切な孫が、夢を叶えるために飛び立つことに、寂しいなんて言ってたらあの子に悪いじゃないですか』
『それに、あの子の夢は、私の夢でもあります』
『あの子が幸せになってくれることが、何よりの幸せなんです。だから、私も色々と手伝ってあげたいんですよ』
 そういって微笑む彼女は、今でもとても幸せそうな、孫を想う祖母のとしての表情を見せていた。
 と、ふいに時江は、何かに反応したのかピクリと頭を動かし、目線を家から伸びる坂道に向ける。
『ほら、帰ってきたみたいですよ』
 そう言われ、朋也も坂道に目を向ける。そこから最初に見えたのは、見慣れたスケッチブックだった。
 やがてはっきりと見えたその姿は、『ただいまーっ』という文を両手で掲げ、大きく口を動かしてこちらへ走ってくるセーラー服の少女……。
(…………あー何かこの光景、前にも見たような……)
 そう彼が思ったのもつかの間、こちらしか見ていなかった可奈子は案の定、何かにつまづき、前方へ思いっきり顔面ゴケを果たす。無論、スケッチブックはこちらに向けたままで。
(……やれやれ)
 朋也は苦笑交じりに、残っていた麦茶を一気に飲み干してから、倒れたまま「えへへ」と、照れ笑いを浮かべる少女の下へと向かった。



「あ」
「? どうしたの」
 午後。
 朝の約束通り、防波堤でのレッスン中。
 左の膝に絆創膏を二枚バツの字に貼り付けた少女・可奈子は、朋也との会話中に突然、スケッチブックに視線を落としたまま、体も表情もピタリと固まってしまった。
(……あ、なるほど)
 朋也が同じように視線を落とすと、彼女の持っているスケッチブックは、裏面が一番前にきている。
 つまり、ページがなくなってしまったのだ。
『うー、どうしよう』という文を、前述の『ならあの雲はニンジンだねー』の下に小さく書いて、可奈子はオロオロと表情を曇らせている。
「んー……」
 朋也はぐるりと周囲を見渡してみる。
 しかしここは防波堤。室内ならともかく、周辺に映るのはアスファルトと、前方に広がる海のみ。しいて言えば百メートルほど右に営業してるかどうかも分からないほどに、色褪せてひび割れた外壁が素敵なさびれ具合を思わせる寿司屋(?)があるくらいだ。
 一応、手元に文字の書けそうな小石が一つ転がっているが、まさかアスファルトに書くわけにもいくまい。そんなことしたら、ここら一帯が彼女の語録ロードになってしまうだろう。その前に器物破損罪に問われそうだが。
(……あ、そうだ。せっかくだし)
 ふと一つの妙案を思いついた朋也は、
『とりあえず、あたらしいノート取ってくるね』
 最後は背表紙に無理矢理書いた後、くるりと段差を飛び降り背を向けた少女を呼び止める。
「ちょっと待って、可奈子ちゃん」
 またくるり、と振り向き「?」と首を傾げるその姿を、何だか彼女らしいなと思いつつ朋也は提案する。

「よかったら、手話をやってみない?」
 出会ったとき、可奈子の方から筆談をしてきたこともあり、自然とそれが馴染んでしまったために、すっぽりと手話のことを頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
 ただそれ以前に、筆談の方が双方のコミュニケーションとして汎用であるという理由もあるのだが。
 しかし朋也のそんな提案に可奈子は、 
「しゅわ?」
 と反芻するように口を動かして、今度は反対側に首を傾げてしまった。
 どうやら彼女は手話について全く知識がないらしい。
「あ、手話っていうのはね、手や指の動きで言葉や文章を表して行う会話のことなんだよ」
 その補足を聞いて可奈子は少し考えた後、両手で大きく「○」と「×」を作って三度可愛らしく首を傾げる。どうやら、『こんなの?』と訊いているらしい。
「うーん、それも間違ってはいないんだけどね。さっきも言った通り、色々出来るんだ。例えば……」
 ――右手に傾けた頭を右手の拳に乗せた後、頭を起こすと同時に腕を下げる。
 ――そして、人差し指を立てた両手を向かい合わせ、指先を軽く曲げる。
「これで『おはよう』」
 ――右手の人差し指と中指を立て、額に当てる。
 ――後半は『おはよう』と同じ動きに。
「これで『こんにちわ』とかね。後半の人差し指の動きは、人が向かい合ってお辞儀をする様子を表しているんだ」
 その動きを見て「へぇーっ」と瞳を輝かせながら、可奈子は興味深げに身を乗り出してくる。
 その表情は、ここで初めて出会ったときのそれとよく似ていた。
「こんな風に、手や指を物や人に見立てて相手に伝えるんだ。他にも『指文字』といって、五十音をそれぞれ指で表すことも出来るんだよ」
 説明の中にある『指文字』の部分に反応したのか、可奈子は『おはよう』を繰り返していた手を止めると、自分をちょんちょんと指差して「わたしは?」と口を動かす。
「可奈子ちゃんを指文字で表すと? えっと確か……」
 数秒、軽く記憶をたどってから彼女にそれぞれの指の形を見せてあげる。
 朋也自身、一応今後の生活のためにと、日常会話を一通りと指文字を覚えた程度なので、完全に手話をマスターしている訳ではない。先天性の難聴であれば、言語の習得も難しくなるので手話を習得している人は多いが、後天性(言語習得後)であれば口語も可能で、さらには一般社会において手話を出来る人間が極端に少ないために、習得する必要性もあまりないのだ。
「うん、そうそうその形ね。……あ、『か』は親指をもう少し真ん中に――」
 言いながら、朋也が彼女の右手を両手で包み込むように触れた途端――
「っ!?」
 ――うなじに水滴でも当たったかのようにビクッ、と背筋を伸ばして可奈子は固まってしまった。
 触れられた手も、そのまま硬直させて。
「え? ……あ、ご、ごめん!」
 その反応に、『女性の手に気安く触れるべからず』と意味を汲み取った朋也は慌てて手を離す。
 つられて可奈子も慌てて手を引っ込めるものの、自分の態度が失礼かと思ったのか、すぐに「ご、ごめんね」と口を慌てさせながら照れ笑いを返してきた。彼女も、自身の行動に戸惑った様子を見せている。
(うーん……こういうのは無頓着かと思ってたけど、やっぱり年頃の女の子なのかなぁ)
 思春期を遥か昔に通り過ぎた朋也にとって、可奈子のそんな反応は妙に懐かしくもあり、妙に戸惑ってもしまう。まるで、気持ちだけ中学生になっているような気分だ。
「……で、どう? 覚えた?」
 表情戻してから改めて問い掛けると、可奈子はくるりと朋也に背を向けてゴソゴソ確認してから、
『か』
『な』
『こ』
 ほらっ! と胸を反らしてニンマリと口の端を吊り上げた。別段難しいことではないのだが……新しいことを知った喜びからか、とても嬉しそうな表情を浮かべている。
「はい、よくできました――」
 パチパチと小さく拍手したところで、ふと気付く。
(あれ、……ひょっとして僕、今一番『先生』として輝いてる!?)
 『歌』、『宿題』での不甲斐なさに今まで打ちひしがれていた朋也にとって、この事実は自信回復への大きな足がかりとなった。
 何より、彼女が手話に――自分とのコミュニケーションに大きく興味を持ってくれたことが嬉しい。
 朋也は畳み掛けるべく、少女にずいっと進み出る。
「可奈子ちゃん! もし良ければ、他にも色々覚えてみない? 日常会話くらいなら教えられるからさ!」
 積極的、もとい妙な必死さを表情に宿し問い掛ける朋也に思わず一歩後ずさる可奈子。だが彼女としても手話には大いに興味を示したようで、「うんっ!」と頭を大きく縦に揺らしてくれた。そして使い切ったスケッチブックを手に取ると、
『よろしくねー!!(あとしゅくだいも♪)』
 以前使った文章に律儀にも追加し、抜け目のない笑みを向けてくる。
「あ、……ハイ、ワカリマシタ」
 そんな彼女に苦笑しつつも、しかし『先生』という立場をいつの間にか気に入っていることに自分でも意外に思いながら、朋也は視線を海に向ける。
(……悪くない、かな)

 呼ばれることはもちろん、
 そう思われることも。



「――はい、出来たよ」
『ありがとー!』
 書きあげられた用紙を喜び勇んで受け取り、「うわー」と感嘆の表情を浮かべる。
『やっぱり絵にするとわかりやすいねー』
「その方が覚えやすいでしょ?」
「うんっ」と頷き、早速可奈子はそれをテーブルの上に広げ、虫眼鏡でも覗くように目を凝らししながら、一つ一つ指でなぞっていく。
”朋也作・指文字一覧表”
 あの後、可奈子が「まず指文字を覚えたい!」と言ってきたのに気を良くした朋也は家に戻った後、早速紙に指文字をそれぞれ絵に起こして作ってあげることにした。
 特に絵心がある訳ではない上に、数十にも及ぶ手の動きを書くのはさすがに手間が掛かったが、彼女の嬉しそうな顔を見るとそれらも軽く吹き飛んでしまう。
『後でつくえの前にもはっておくねー』
 いつにも増して勉強熱心なのは良いことではあるのだが、
「宿題もそれくらいの勢いで頑張って欲しいんだけどねぇ」
 その小さなため息に対して、むーっと大きく頬を膨らませた可奈子は、
『ちゃんとやってるもん!』
 ほらっ、と近くに放り出されていた歴史のプリントを眼前に勢いよく突きつけてきた。見れば確かにちゃんと埋まってはいるのだが……
「……問三の解答、氷河期が終わったのが『一年前』になってるけど」
 朋也の冷静な指摘に、持っていたプリントを勢いよく自分の眼前にやり、「ふえっ!?」と顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏し、ぐしぐしと書き直す。
「……ちゃんと、何だって?」
 まるでいじめっ子の弱点を見つけたような表情でニヤニヤと問い掛ける朋也に、ますます頬を膨らませた可奈子は、
『ちゃんと、がんばってるもん!!』
 いよいよムキになって、スケッチブックでバシバシと朋也に攻撃を繰り出してきた。
「ご、ごめんごめん。可奈子ちゃんは頑張ってるね、うん、すごーく頑張ってるよ」
『なんか』『それ』『うれしくない!!』
 叩きながらペンを走らせて器用に返事をする彼女の攻撃に、あぁそろそろ痛いんですけどホントスミマセンでしたと心の中で後悔しかけたとき、

『随分と賑やかですね』
 助け舟がやってきた。
 開かれた襖からひょっこり顔を覗かせ、時江が嬉しそうにこちらを見ている。片手にはお茶菓子を乗せたお盆があった。
 祖母の登場に可奈子の振り上げられていた手はピタリと止まり、なぜか持っていたスケッチブックをさっと後ろに隠す。さっきまでの文章を見られたくないのかもしれない。 
『お邪魔してしまいましたか?』
「あ、いえ大丈夫ですよ。むしろ助かりました」
 朋也の言葉にまた膨らませた可奈子はスケッチブックを持つ手に力を込めるが、祖母の目を気にしているのか攻撃には辛うじて至らないでいる。
『これは、指文字ですか?』
 テーブルにお盆を置き、横にある用紙に時江の目が止まる。
「はい。よくご存知ですね。ということは、手話も?」
『ええ、良くテレビで手話付きのニュースを見るので。と言っても素人同然ですが』
 そう語って、彼女は『お菓子はいかがですか?』と手話を使って話し、お盆にあったどら焼きを一つ、朋也に手渡す。その一連の仕草には、全く淀みがない。
「あ、どうも。へぇ、すごいじゃないですか。とても上手ですよ」
『そうですか? そう言われると何だか照れますね』
 頬に手をやり、年不相応な可愛らしい笑顔を浮かべる時江。そして横には、
『…………』
 わざわざ沈黙をスケッチブックに書き、彼女には珍しい、不機嫌を全身で表しながら口をへの字に曲げてこちらを睨んでいる。顔は怒っているが、その仕草はどう見ても拗ねているようにしか見えない。
 朋也は思わず表情が緩みそうになるのを抑えながら、
「か、可奈子ちゃんもすごいよね。五十個以上もある指文字を覚えたいって自分から言い出すなんてさ」
 褒められて、怒った表情を維持しながらも嬉しそうな気色を浮かべるが、
『宿題もそれくらいの勢いで頑張って欲しいんですけどね』
 時江の小さなため息に一転、ますますぶすーっとふて腐れてしまった。
(ありゃりゃ……)
 同じ言葉を双方から突っ込まれたせいか、さっきよりも憮然とした表情になる可奈子。なぜか朋也の方だけを睨み続けているのは気のせいだと思いたい。
 しかし彼女もすぐにスケッチブックにペンを走らせる。
『わたしにももっと手話おしえてよ!』
 どうやら自分だけ満足に手話が出来ないことが、仲間はずれにされたようでつまらないらしく、さらなる意欲を見せる。朋也としても、この申し出は結構嬉しかったりする。
「もちろんいいよ。そうだなぁ…………じゃあ逆に聞くけど、何を教えて欲しい?」
 言われ、うーんと顎に指をやって考える可奈子。彼女がチラリと祖母の方に目を向けると、
「――――!?」
 何かを言われたのか、可奈子は驚いたように目を丸くしながら顔を赤くし、祖母に何か言い返している。途中で朋也の訝しげな視線に気付き、唇を読まれると思ったのかスケッチブックで顔を隠した。
(またおばあさんが何か吹き込んでるのかな……?)
 時江の性格が何となく分かってきた朋也は、また意表を突かれる言葉を聞かれるのかと思い少し身構えて待っていたが、

『”わたしはミカンが好きです”は?』
 家族会議の末に問われた言葉は、割と普通の文章だった。
 しかし、当の可奈子はなぜか顔が赤いままでいるが。
「うーん、ミカンってどうやったかな……」
 朋也も熟知しているわけではないので、『ミカン』という単語に即答することが出来ずしばし考え込む。と、そこへ時江が横から助け舟を出してきた。
『なら、”ミカン”を”あなた”に変えたら如何ですか?』
「お、おばあちゃん!?」
 その提案を見て、思わず声を上ずらせて講義する可奈子。しかし、
「ああ、その方が分かりやすいですね……って、どうしたの可奈子ちゃん? そんなに驚いて」
 事情を全く飲み込んでいない表情で首を傾げる朋也を見て、可奈子は悲しさ半分、空しさ半分で項垂れると、
『べーつーにー』
 あからさまに口を尖らせて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「あ、あれ? 可奈子ちゃん……?」
 彼女が不機嫌になる理由がまるで分かっていない朋也は、困ったように慌てて時江の持ってきたどら焼きを薦めるが、一向に振り向いてくれない。しかし手だけはニュッとどら焼きを掴み、もぐもぐと頬が大きく咀嚼する動きが後ろから見て取れるが。
 そんな微笑ましい様子を遠くの景色のように眺めていた時江は、
『頑張ってくださいね、先生』
 誰に見せることもなくスケッチブックに書き記し、背を向けた二人に気付かれぬようそのまま静かに部屋から立ち去った。

 朋也が来てから溢れるようになった、可奈子の幸せそうな笑顔を心に抱き留めながら。

◇◇

「え? 僕が可奈子ちゃんくらいの頃のとき?」
 うん、と頷き顔だけをこちらに向ける可奈子。
 足をパタパタと海に投げ出しながら、同じようにヒラヒラなびくスカートを押さえている。今は海から送られる風が少し強い。

 朋也が島に着いて早五日。
 前方を望む景色に最も似合う、澄み切った明るさが空から降り注ぐ午後。
 マルスを間に挟み、水平線を眺める二人と一匹の影が今日も車道を突付くように伸びている。
 そんないつもの防波堤でのレッスン――もとい、お喋りになりつつな中、ふと思い出したかのように彼女は尋ねてきた。
(うーん……中学の頃か)
 そういえばもう十年経ったんだよなぁ、と自分の年月に軽くため息をつきながら、朋也は手繰るように昔を振り返る。横で興味津々な顔を全面に押し出している可奈子の視線を浴びながら。
「そうだね……ちょうどその頃からギターを習い始めたかな。親に無理言って、クリスマスやらお年玉なんかを前借りして買ってもらって……そのときはすごく嬉しかったな。もう毎日のように練習してたよ。あとは小さい頃からの夢だったし、同じくらい歌も練習してたかな。もちろん、可奈子ちゃんみたいにどこでも人目をはばからず歌ってはいなかったけど――」
 と、笑いながら口にしたところで異変に気付く。
 それまで黙って聞いていた可奈子の顔がぷるぷると震え、耳まで真っ赤になっていることに。
(あ、……しまった)
 時江に口止めされていなかったせいもあり、思わず朋也は聞かされた可奈子の過去を漏らしてしまった。やはり彼女も女の子なんだろう、表情から察するに、この過去については相当恥ずかしい思い出になっているようだ。
『なんでそのこと知ってるの!?』
 恥ずかしさに怒りもほんのり混じった表情で、身を乗り出して問い詰めてくる。
「あ……いや……」
『おばあちゃん!? おばあちゃんだね!!』
 文字の迫力にも押され、後ずさりながら口ごもる朋也を睨み付けて拘束する。
「いや、その…………はい」
 まるで刑事の迫力に負けて自供する犯人のように小さく答える朋也に、可奈子は大きくため息を吐いてガックリ、と肩を落とす。
「あ、で、でもおばあさんは悪くないから……僕が勝手に口を滑らせたのが悪いんだし、……その、ごめんね」
 慌てて謝る朋也に対し、可奈子はすぐに苦笑いを浮かべて否定する。
『ううん、だいじょうぶ。おこってないよ』
「そ、そう。よかった」
『……はずかしかったけどね』
「う……ゴメン」
 ジト目で返されてしまった。やっぱり怒っているのかもしれない……。
『おばあちゃん、わたしのしたこと全部おぼえてるから、よく昔のことをほりおこされてはずかしいんだよねぇ』
 そう語る彼女の表情は、言葉とは裏腹に何だか嬉しそうでもある。
「……可奈子ちゃんは、おばあちゃんの事が好きなんだね」
 うんっ、と満面の笑みで頷いてくる。
『すごくやさしくて、ごはんもおいしくて、でもときどきこわくて。おばあちゃんだけど――』
 一瞬、水平線を眺めて可奈子は綴る。
『――おかあさんみたいで』
「……うん」

 風が少し優しくなり、大きくなびいていた彼女の長い黒髪が、緩やかな動きに変わっていく。
 可奈子もそんな潮風に合わせるように、表情を穏やかなものに落とし、水平線に向ける。
 朋也も同じように、視線を向ける。
 何度見ても飽きない、隣の少女も大好きな、ここから望む景色。
 同じようにマルスも海を見据え、二人と一匹の間に、暫し無言の時間が流れていく。
(お母さんか……『伝えたい想い』って、おばあさんは言ってたっけ)
 可奈子が歌う際、見据えているものを感じ取ろうとぼんやり視線を揺らしていると、太腿を軽く叩く感触がやってくる。それはマルスではなく、少女の細い指だった。
 可奈子は上半身をこちらに向け、いつの間にか書いていた文章を見せる。
『わたしのお父さんとお母さんはね』
『わたしが小さいころに、船の事故でしんじゃったんだって』
 ”だって”という部分に、僅かな線の揺れがあるのを、朋也は見逃さなかった。
「…………そう、なんだ」
 可奈子の両親についても、すでに時江から聞かされていた話だったが、今度は黙っておく。
『でも、おばあちゃんがいてくれたから、ひとりじゃなかったし、いろんなことを教えてくれたし、いっぱいあそんでくれたし』
 書きながら、その表情は次第に柔らかく、明るくなっていく。
『だから、わたしにとってはお母さんと同じだし、たったひとりのかぞくだし』
『だから、大好き。おばあちゃんも、おばあちゃんの家も、この島も海も』
 最後は顔いっぱいの微笑みで。
 寂しさを強がっているのではなく、暮れているのでもない。
 忘れたいのではなく、思い出したくないのでもない。
 そこから成った今を『幸せ』として感じ、今までの全てを『思い出』として受け入れている彼女の、それは心からの笑顔だった。
(そうか……やっぱり可奈子ちゃんは)
 時江が言っていた、両親に自分の元気な姿を見て欲しいという想い。
 おそらく彼女は、今の自分が幸せなんだということを、大好きな『歌』で表すのが一番伝わりやすく、自分らしいと思っているのだろう。
 そう考えると、孫を想う祖母の言葉は、やはり間違っていないのかもしれない。
 そんな可奈子に朋也は、感慨深げになりそうな表情を抑え、普段の彼女に合わせるような表情で語りかける。
「あれ、僕は入ってないのかい?」
 朋也としては軽い冗談のつもりで、少し寂しそうな口調で言ったのだが、言われた少女は、
「えっ? あっ」と表情を強張らせ、また耳まで真っ赤になってしまった。
(……あ、あれ?)
 本当に忘れちゃってたのかなと、朋也はさっきの口調と同じく寂しげな気持ちになりかけ、軽く落ち込んでしまう。
 それを見てか見ずにか、可奈子はあたふたと視線を動かしていたが――やがて意を決したように表情を硬くすると、ゆっくりとペンを走らせる。顔の真っ赤は相変わらずで。
『先生は、ちょっとちがうかも』
「違う……?」
 顔の下半分を、文章で隠して答える少女の瞳は正面にある顔を捉えず、周りを泳ぐように視線を動かしている。小さい身体をさらに小さく縮こまらせ、足を落ち着きなくモジモジさせながら。
「……可奈子ちゃん?」
 時々見せていた照れとは何かが違う、似てるようで初めて見る彼女の姿、雰囲気に、朋也は違和感を持つ。
(ちょっとちがう?)
 自分の事が嫌いなのかという考えが一瞬頭を過ぎるが、それはすぐに消える。
 それは奢りでも過信でもなく、彼女に今まで向けられた言動は嘘偽りないものだと、純粋に自分に接してくれていると確信できるからだ。
 まだ短い付き合いだが、可奈子の言動にはそう思わせるだけの魅力が十分にあった。
(じゃあ……――)
 その違和感にふと、自分が少年だったころの記憶の引っかかりを感じた瞬間、
 スケッチブックを持っていた少女の片手――その小さな右手が、

 三回、動いた。
「――え?」
 突然の動きだったが、朋也にはすぐに分かる。
 それは手話だった。
 素早い――しかし何度も隠れて反芻していたのかもしれないその手の動きははっきりと、朋也の目に映させていた。
『私は』
『あなたが』
『好きです』
 ……と。
(あ…………)
 ようやく彼は、はっきりと気付く。
 同じ言葉に、『ちょっとちがう』の意味を。
 自分が少女に向けられている、『好き』の意味を。
(そうか……)
 直前に引っかかった感覚に、彼女の言葉が重なる。
 とても懐かしい、淡く純粋な感情に。 
「可奈子ちゃん……」
 名前を呼ばれビクン、と飛び上がるように身体を振るわせた彼女も、自分の本心が伝わってしまったことを自覚しているのだろう。今まで見たことないくらいに顔を真っ赤にさせると、
「――あ、あはは」
 はっきり見て取れるくらいの動揺を表情に乗せ、口だけを硬く開いて笑い出した。
 だがそれもすぐに間が持たなくなり、今度は向かい合う朋也の間に座っているマルスの頭をぐしぐしと撫で回す。マルスはいつものうんざりした細目を見せながらも、それでも大人しく、少女の押し付ける手の動きに流されるまま首をグルングルン動かしている。
 可奈子はその行為に没頭するように、朋也から完全に顔を隠すようにしてしまった。
(可奈子ちゃん……)
 彼女にとって、もしかしたらこれが初めてなのかもしれない。
 人を、『好き』になるということを。
 対する朋也も直に伝えられるまで、彼女が見せた言動は、あくまで朋也に対する信頼であって、『好き』とは少し違っているものだと思い込んでいた。
 少女の子供っぽい、無邪気な印象をそのままに受け止めて。
 そしてそれは間違いだった。あるいは、間違いになったと言うべきだろうか。
 彼女は自分の中に芽生えた感情に戸惑いつつも、懸命にその想いを『言葉』にしてくれた。
 その精一杯の勇気に、
(…………ありがとう)
 朋也は心の中で、心からの感謝を込めて、俯いている少女の頭に手を伸ばす。
 彼女が今マルスにしているのとは反対に――
 そっと、優しい手つきで乗せる。
「――っ!?」
 その感触に、身体も手もピタッ、と硬直させる可奈子。
 しかし、優しく撫でられていくうちに緊張は解れ、その手に流れるままに小さく頭を揺らされていく。いつの間にか、マルスを撫でる彼女の手の動きも、朋也と同じように優しくなっていた。
 そんな、はっきりとした返事ではない、しかし拒むことなく受け入れてくれたその『答え』に、可奈子は包まれるような暖かさ、喜びを感じていた。

 俯いた頭は朋也の手に委ねられ、上がることはなかった。
 お互いに、それで良かった。
 お互いに、どんな表情をしているのかは、もう分かっていたから――



 帰り道。
 水平線に掛かる夕日が、二人と一匹の歩く前に長い影を伸ばす。
 そのうちの一つが大きく揺れ動き、大小並ぶ二つの影の周りを飛び回っている。
「あんまり回ってるとまた転ぶよ、可奈子ちゃん」
『だいじょうぶですよーだ』
 表情だけを膨らまして、それでも彼女は朋也の注意を気にする様子もなく、朋也の周りを付かず離れず動き回っている。
 夕焼け色の頬に、はっきりした赤みを帯びて。
(やれやれ……)
 表情とは裏腹のため息をつき、朋也は元気に動き回る影を何となしに目で追いかける。
 縦に大きく伸びた影は、朋也に重なり、小さく縮み、また跳ねて――その輪郭はとても子供っぽく、見ていて微笑ましい気持ちになる。
 そんな、ぼんやりと影だけを眺めていた朋也の指に突然、小さい感触が伝わる。
「うん?」
 後ろから、小さな指が少し遠慮がちに絡まってきた。
 振り返ると、その少女と目が合い、
 しかし今度はお互い隠すことなく、微笑ましい笑顔と、無邪気な笑顔が交わされる。
 夕焼け色の頬に、はっきりした赤みを帯びて。
 それでもやはりまだ慣れないのか、可奈子はすぐに照れ笑いを浮かべ、「あはは」と頭を掻く。
『早くかえろ。おばあちゃんがまってるよ』
「うん、そうだね」
 また彼女の影が元気に動き回り、先頭を進んでいく。
 今度はしっかりと、大きな影に繋がれて。
 それは、とても暖かい感触だった。

 家を結ぶ坂道を、急かされつつも優しく引っ張り上げられ、朋也は先の告白があったばかりにもかかわらず、何だか父親のような気分になってしまう。
(……でも、その方が可奈子ちゃんらしいかな)
 別に何か変わることを期待しているわけではない。
 かといって、変わることを懸念しているわけでもない。
 今までが十分過ぎるほど心地よかったし、彼女はやはり今のままが一番『らしい』と朋也は思う。
 それに、朋也自身も少なからず動揺が残っていたりもしていた。まだ少女とはいえ、女性に告白されるなんてことは事故以来考えたこともなかった。というよりも、それを素直に喜べる感情が、ちゃんと残っていた自分に密かに驚いていた。
(いや。残っていたんじゃなくて、可奈子ちゃんが作ってくれたのかもしれないな……)
 前を元気に歩く少女を見やる。
 左手でスケッチブックを大きく振りかぶり、右手はしっかりと朋也の手を繋いでいる。
 変わらない笑顔と、変わらない言葉。
 常に振りまかれる少女の魅力に、この島に着た朋也は、ここへ至った今を、『幸せ』と感じることが出来た気がした。
(……ありがとう)
 もう一度、心の中で呟き、繋ぐ指を少しだけ強く握る。
 少女はその僅かな感触で振り向き、変わらない笑顔で返事をすると、またくいくい、と朋也の手を引っ張り上げる。
 それは、とても暖かい感触だった。

 結局、朋也は最後まで可奈子の手に引っ張られる形で家に帰り着くことになった。
 可奈子は終始元気に動き回っていたために、額から幾筋の汗を伝わせているがそれでも足取りは軽い。上ってきた坂道も結構な傾斜と道のりとあるのだが、これが若さなのかと同じく伝う汗を拭いながら、朋也は切ないため息を漏らす。
「おばーちゃーん、ただーいまー」
 可奈子は足取りと同様、軽く弾むような声を、いつも祖母が迎えてくれる縁側に向けるが――
 居るはずの祖母の姿が、そこにはなかった。
「あれ?」
 訝しげな表情で首を傾げる可奈子。
「おばあさん、居ないね。買い物かな?」
『ううん、こんな時間に買いものは行かないよ。いつもはえんがわにすわってまっててくれてるんだけど』
 そういえば、今までがそうだったなと思いながら、朋也は一緒に時江と家事に勤しんだ時のことを考える。
「ひょっとして、まだ家の中で何かしてるんじゃない?」
『かな? じゃあ中いこっか』
 再び小さな手に引かれ、縁側から家の中に入る。マルスの足も軽く拭いて一緒に上がり、中央の居間から声をかける。
「おばーちゃんー、ただいまー」
 よく通るはずの彼女の声に、しかし返事は返ってこない。
「……やっぱり居ないのかな?」
『ううん、いるはずだよ。今までそうだったもん』
 いつもと違う雰囲気に、表情が次第に曇り始める可奈子。繋ぐ手にも、僅かに不安な硬さが感じられる。それにしっかりと握り返してから、
「うーん、家の中に居ないとなると……裏の畑かな?」
 朋也の意見に、彼女はすぐに「うん」と賛同して先導し、台所から抜ける裏口の戸を開ける。そして、
「おばあちゃーん、ただ――」
 呼びかけてすぐ、可奈子の声が止まる。
 その表情が、一瞬で蒼白に染まる。

 祖母はそこに居た。綺麗に耕された焦げ茶の土に、うつ伏せに倒れる形で。
「――おばあちゃん!!」
 叫ぶと同時、スケッチブックと朋也の手を投げ離し、可奈子は祖母の下に必死に駆け寄る。
 畑の作物を無視し、一直線に。まるで、目の前に倒れている祖母以外何も見えていないかのように。
「おばあちゃん! おばあちゃん!!」
 可奈子の反応に一瞬気を取られた朋也も、慌てて駆け寄る。手綱を離されるが、マルスもしっかり後を追いかける。
「待って可奈子ちゃん、動かしちゃ駄目だ」
 肩を揺すって必死に祖母に呼びかける彼女の腕を、朋也が制する。しかし完全に取り乱した可奈子は、今度は朋也の胸ぐらに掴みかかる。
「どうしよう、どうしよう! おばあちゃんが……おばあちゃんが!!」
 もはや筆談することも忘れて叫び出す可奈子。その表情は、数分前とはまるで違う、見ている方も辛くなるくらい悲愴なものに変わり、目尻には今にも零れそうなほどの涙が浮かんでいる。
 朋也はシャツが破れそうな勢いで掴む彼女の手をさせるままにし、代わりに両肩を優しく掴む。
「可奈子ちゃん、落ち着いて」
 正面を向かせしっかりと語りかけるも、可奈子は首を振って叫び続けることを止めようとしない。
 振った勢いで溢れ飛ぶ涙と、小さな肩の振るえを両腕に感じる朋也は、彼女と同じ表情になるのを堪えながら懸命に呼びかける。
「落ち着いて可奈子ちゃん、大丈夫。すぐに救急車を呼んで――」
「どうしよう! おばあちゃんが! わたし……おばあちゃんが死んじゃったら――」

「――可奈子ちゃん!!」
 ビクッ! と肩が跳ね全身を硬直させて、可奈子は震えていた目線を初めてしっかりと合わせる。
 彼女の震える唇を集中して読んでいた朋也は、不穏な言葉に思わず声を荒げて制してしまった。
「……ごめん、可奈子ちゃん。大丈夫だから、おばあさんは大丈夫だから」
 ようやく我に返った可奈子は、その穏やかな声に弱々しく「うん」と頷き、強張っていた体の力を抜いていく。
「うん。……可奈子ちゃん、この島に救急車はあるかい?」
 朋也の問いに、嗚咽で肩を揺らしながらも首を縦に振る。
「よし。いいかい、僕は耳が聴こえないから電話応対が出来ない。だから可奈子ちゃんが電話して救急車を呼ぶんだ。……出来るね?」
 小さく、それでもしっかりと可奈子は頷く。
「大丈夫、おばあさんは僕が看てるから。頼んだよ」
 幾分落ち着きを取り戻した可奈子は、足をもつれさせながらも立ち上がり、少しの間、名残惜しそうに祖母を眺めてから、小走りで居間に向かっていった。
 家の中に可奈子の姿が消えるのを見届けてから、朋也は祖母の容体を診る。
 意識はない。呼吸はあるものの体温はとても高く、しかし汗は完全に引いている。恐らくは熱中症の類だろうと朋也は素人目だが判断する。
(しかし、長年ここでの生活をしてきたおばあさんが、今になってこんなことになるものなんだろうか――)
 そう思った瞬間、ふと、彼女の言葉が頭をかすめる。
『――いいえ、ちっとも。大切な孫が、夢を叶えるために飛び立つことに、寂しいなんて言ってたらあの子に悪いじゃないですか――』
『――あの子が幸せになってくれることが、何よりの幸せなんです。だから、私も色々と手伝ってあげたいんですよ――』
 大切な孫を想い、語られた言葉。
 それが、今はとても重く感じられる。
「もしかして……可奈子ちゃんのために、ですか……?」
 答えの返るはずのない問いを、朋也は思わず口にしていた。



 診断の結果は、熱射病だった。
 さらには慢性的な疲労の蓄積も一因になっていたらしい。
 命に別状はないが、もう少し遅れていたらかなり危険な状態に陥っていたらしいと医者は説明した。これについては救急車が到着するまでの間、朋也が時江の体を冷水や濡れタオルで体温の上昇を抑えるなど、適切な応急処置が幸いした。
 疲労もあり意識はまだ戻らないが、快復に向かっているとのこと。ただし、二、三日の入院は必要とされた。

 時間は二十二時。
 面会時間はすでに過ぎているのだが、可奈子が頑として祖母のそばを離れようとしないこと、親族が他になく、朋也も保護者としては立場が微妙なために、病院側に特別に許可をもらい、入院の間、病院内に留まることになった。マルスも同様に許可されている。
「…………」
 広さはさほどなく、様々な薄い曲線の傷が刻まれたリノリウムの床など、やや年季の入った色合いを見せる内装だが、病室ということを抜きにしても綺麗に整頓、清掃されていた。
 南側に大きく作られた窓から、月明かりが祖母の傍らで座っている少女まで届いている。 が、ずっと俯いたままの表情を照らすまでには至っていない。
「…………」
 病院に来てから、可奈子は一言も喋っていない。
 正確に言えば、医者から診断の結果を聞いてから。
 祖母が病室に移されて数時間。傍らにパイプ椅子を置いて座り、ずっと俯いたままでいる。
 動きも時折、祖母の顔を覗こうと小さく顔を上げる程度で、それもすぐ下がってしまう。
「……可奈子ちゃん」
 呼びかけても、返事は返ってこない。
 彼女の手にスケッチブックはなく、ベッドの隣に設置されたナイトテーブルに置かれている(朋也が置いた)が、あのとき朋也の手と一緒に手放してから、彼女は一度も触れていない。
(…………)
 見ていてとても辛い光景だった。
 祖母に向けるその小さい身体は、常の元気さがこそぎ落とされたかのように、さらに小さく、儚く見えた。
「可奈子ちゃん……お腹、すいてない? お昼から何も食べてないでしょ」
 食べてないのは朋也も同じだったが、心労の具合からいってどうしても彼女の方が気に掛かってしまう。
 しかしそんな朋也の言葉にも、分かるか分からないくらいに小さく首を振るだけで、一歩も動こうとはしない。また祖母に視線を向けては、ゆっくりと下に降ろすを繰り返している。
 朋也はもう何度目か分からないそれを、可奈子の隣に置いたパイプ椅子に座り、沈痛な面持ちで見ている。彼女の横顔は、薄暗い部屋と力なく垂れた前髪に隠され、窺い知ることが出来ない。
 そして、その方がいいと思っている自分が居ることに、朋也は心中で自責する。
 今の彼女の姿は、それほど彼にとっては考えられなく、また心痛む思いだった。
 そんなとき、
(…………あ)
 知らぬ間に雲に隠れていたのか、大きな窓から望む月明かりが強さを増し、思わず朋也は外の景色に視線を向ける。
 島の南端に位置するこの病院からは、敷地内にある中庭に植えられた花木が見え、遠く水平線が一望できる。いつも防波堤で見ていたのとは違い、島の高台に位置する病院からの眺めなので、それよりも広大さを感じられる。
 その雲から晴れた光を受けて、静かに輝かせる海面を眺め、
(綺麗だな……)
 心の中で呟いてふと、静寂の中に小さな気配の動きを感じる。視線を横に向けると、
「――――」
 可奈子が顔を上げていた。祖母の方へではなく、朋也と同じ窓の外の景色を。
 だが、視界に掛かる前髪を透かして覗く瞳は、遠くを見つめながら何も映していないような空虚さを感じさせていた。
「――……」
 彼女も朋也の視線に気付いたのか、ゆっくりとその瞳をこっちに向ける。
 数時間ぶりに、重なる視線。
 それに可奈子はほんの少しだけ、驚きに目を丸くさせる。しかし、気まずそうに視線は外され、また顔を俯かせていく。
(あっ――)
 今を逃すと、もう二度と彼女の笑顔に会えなくなってしまうんじゃないか――そんな、逃げるように下がっていく表情に、言い知れぬ不安が湧き上がった朋也は、思わず口を動かす。
「――可奈子ちゃん、……外、歩かない?」
 俯きかけた頭が止まる。
 そのまま何かを考えるように固まるが、やがて祖母の方へ顔を向けてから、ゆっくりと朋也へ向き直る。祖母のことが気に掛かるらしい。
「おばあさんなら大丈夫。明日になれば目を覚ますってお医者さんは言ってたし、その間に少しだけ、ね」
 静かに、柔らかく話しかける朋也。
 可奈子は唇を少し噛み、しばらく逡巡する様子を見せるが、そのまま頭だけを小さく縦に動かした。

 窓の明かりもほとんどが消え、視覚にも静寂が強く感じられる夜。
 コの字型の病院に囲まれた中庭を、朋也とマルス、そして可奈子は、歩道に落ちた枝葉を踏む感触を確かめるようにゆっくりと、歩いていく。
 ヤシなどの南国風の草木が、蛇行する歩道を程よく取り囲むように生い茂っており、一定間隔で設置された外灯の光が強く、月明かりが淡く、それらの自然物を二重に照らしている。
 そして一方向を開かれた先に見えるのは、病室の窓からと同じく視界いっぱいに広がる水平線。手前の海面を月明かりが反射し、小さな輝きを揺らしている。
「可奈子ちゃん家と同じで潮風が流れてくるけど……やっぱり場所も変わると、匂いも変わってくるね」 
 夕方での帰り道と同じ、小さく手を繋いで歩く二人。
 しかし、その感触は力なく、僅かに下がった体温しか伝わってこない。
 スケッチブックは朋也の右手にあり、そのためマルスは手綱を放された状態で主人の横を追従している。
 そして反対側を、可奈子はやや引かれるように、そして足取りも弱く歩を進める。表情を、いまだ俯かせたままで。
「……涼しくない? 可奈子ちゃん」
 八月とはいえ、夜も一層深くなった海辺の風は思ったよりも涼しい。両肩を露にしたワンピースの彼女を気遣う朋也に、可奈子はやはり小さく首を横に振るだけだった。
(…………)
 思いつきであったとはいえ、外の空気に触れさせるのは悪くはないと思っていた。
 彼女をあのまま病室の中で沈ませるのは、誰にとっても辛くなるばかりだと朋也は感じていたからだ。
 しかし彼女は変わらず、背後に伸びる影に重さを感じているかのように歩き続けるだけで、その足も少しずつ、引きずるように変わっていく。
「――座ろうか、可奈子ちゃん」
 外灯の下、白のペンキが明るく映えるベンチを通りかかり、朋也は可奈子を促す。
 そのベンチの白色に目を細め……彼女はまた、小さく頷いた。

 草木が開かれた正面に海を望むその席に、二人は腰を落とす。
「いい景色だね。……太陽が出てると、また違って見えるんだろうなあ」
 浅く、小さく座る可奈子の表情は、前を向いてはいるものの、瞳は何かを考え込むように小さく泳いでいる。
「……おばあさんが退院したらさ。今度はみんなで一緒に、眺めたいね」
 その言葉に、彼女の焦点が止まり、表情を下へ落とした。
 ――再び沈黙が流れる。
 その居心地に、正面から緩く漂ってくる潮風へと意識が集中しかけたとき、
 くい、と
「ん?」
 シャツの袖を小さく引く感触。横を向くと、
 可奈子が辛さを噛み締める表情で、朋也の横に置かれたスケッチブックを指差していた。
「あ、……はい」
 渡されたスケッチブックを力なく受け取り、自分の膝上に置く。
 しばらく彼女は何かを考え込むようにスケッチブックの表紙を眺めていたが、やがて重たそうにページを開くと、ゆっくりとペンを動かしていく。
 そして、そこに小さく、弱々しい字で書かれたのは――

『わたし、もう歌手をめざすのやめる』
「えっ…………どうして」
 口にした朋也だが、理由は少なからず分かっていた。
 祖母が倒れた直接の原因の一つ――慢性的な過労に、共に過ごしていた自分が気付けなかった、そこまでさせたことに、責任を感じているのだろう。
『わたしのせいで、おばあちゃんが苦しんだから。わたしが、歌手になりたいなんて言ったから』
「違うよ可奈子ちゃん。おばあさんは――」
 朋也の言葉を、首を大きく振って遮る。
『もし歌手になれたら、ここを出なくちゃいけないかもしれないから。自分がさみしいって思わせないように、つらくても元気にみせて』
 徐々に、ペンの動きが早くなっていく。
 唇も、小さく動かしながら。
『わたしひとり、自分の好きにさせてもらって。おばあちゃんやさしいから、わたしはそのやさしさにつけこんで』
「可奈子ちゃん……もういい」
 押し付けるように、乱暴に書き殴っていく。
 唇を、叫びで大きく動かしながら。
『わたしがばかだから、自分かってで、ドジでよくころぶし、ぶきようだし』
『おばあちゃん大好きなのに、こんなに苦しめて、しんぱいかけて――わたしなんか、いなけ――』

 少女の手が、止まる。
「――可奈子ちゃん」
 優しく、だが力強く、朋也が小さな腕を掴んでいた。
「もういいんだ……大丈夫」
 途端、
 ぽとり、と。
 スケッチブックに、水滴が落ちた。
 その真上にある、俯かれた表情から。
 ぽとり、ぽとりと。
 水滴は増え、文字を滲ませていく。
「……ぅ、――っ」
 やがて、嗚咽を必死で堪える肩の小さな振るえが、掴む腕に伝わり、そして――
「ふぇ……、うっ…………うわああああああっ――――」

 今まで堪えていた想いが堰を切ったように溢れ出し、可奈子は朋也の胸にしがみ付いた。
 顔をうずめて泣き叫ぶ声が、抱き止める胸から伝わってくる。
「…………大丈夫、だから」
 絶望、後悔、自責――
 溜め込んでいたそれらを声にして吐き出しきるまで、
 朋也は少女の頭を優しく、しっかりと押さえ続けていた……。



『小さいころね、よく泣く子だったんだ』
 泣き腫らした表情をスケッチブックに落としたまま、弱々しく苦笑いを浮かべている。
 数分後、落ち着きを取り戻した可奈子は、やや気恥ずかしそうに朋也の胸の中から離れると、ゆっくりとそう書き出した。
『それでね、わたしがそんなときになるとおばあちゃんがすぐ来てくれて、歌を歌ってくれたの』
「そっか……おばあさんが」
 うん、と小さく頷き、可奈子は正面に広がる景色を眺める。
『たぶん、おとうさんとおかあさんがいなくて、それがさみしくて泣いてたんだと思う。ほとんど、おぼえてないんだけどね』
 視線を、病室の窓に向ける。
『そのおばあちゃんの歌がとってもあったかくて、うれしくて。こんな気持ちになれるんだってかんじて』
『だから、歌が好きになって。わたしもそんな歌を歌えるようになりたいって思うようになって、それからたくさん歌うようになって、おばあちゃんにもほめてもらえたの』
 さっきとは違い、段々と弾むようにペンが走り出していく。
『それがすごくうれしくて、もっと人にきいてもらいたくなって、歌手になりたいって言ったら、おばあちゃん、よろこんでくれて――』
 踊りかけていたペンが、また鈍り出していく。
『でも、そのせいで、おばあちゃんむりして、つらいときでも平気なふりして。そのことにわたし、気づけなくて――』
 そこで力尽きたように、可奈子の手が止まる。
 心は幾分落ち着いているものの、やはりその表情は暗いまま変わらない。
 自分のせいで祖母に苦労を負わせたという自責から、彼女は抜け出せないでいるのだ。
 誰よりも、祖母のことを大事に想っている彼女だからこそ。
「――……」
 そんな彼女の話と表情を静かに『見ていた』朋也は、視線を海へ向けながら、同じく静かに語り出した。
「……可奈子ちゃんは、路上ライブて知ってる?」
 その投げ掛けられた唐突な質問に「?」と首を傾げる可奈子だが、一応は知っているようで、小さく頷いた。それを確認し、続ける。
「僕が高校を卒業してすぐ家を飛び出して、一人暮らしを始めたころかな。そのときに初めて、路上ライブをしてみたんだ。近くにあった駅前のアーケードでね」
 朋也の過去の話と分かり多少興味が引かれたのか、可奈子は身体をこちらへ傾け、じっと朋也の横顔を見つめている。
「それまでは一人で黙々と練習してただけでね。だけどずっとやってきたから、それなりに自信はあったんだ。で、……どうなったと思う?」
 また唐突に振られ、さらに見つめていた折に目が合ったことで少し動揺しながらも、可奈子は考えてペンを動かす。
『人がいっぱいになった?』
 恐らくは本意であろう答えに気恥ずかくなりつつ、苦笑いで朋也は答える。
「ううん、その逆。……全然止まってくれる人が居なくてね。チラッと見るだけでほとんど無視。初めてだし仕方ないかなって思ってても、やっぱりあのときは辛かったな……」
 残念そうな、どこか悔しそうな表情を浮かべる可奈子。
 彼女には、朋也のそんな姿が信じられないのだろう。
「もちろん、それで諦めはしなかったよ。それから毎日、一生懸命歌い続けた。いつか誰かが耳を傾けてくれると思って――だけどダメだった。もともと路上ライブをしている人がよく集まる場所だったからね。行き交う人たちも珍しがって止まったりしなかったんだ。……それが何だか悔しくてね。そのうちに、『ここの人たちは見る目がないんだ』って生意気なことまで考えるようになっちゃって――」
 昔のことを思い出すのは、彼にとっては苦痛だった。
 そのときの『自分』は、今の『自分』とは全く違うと。夢に向かって走り続けることが出来る『幸せ』があったからだと、心の中で大きく隔てていたからだ。
 しかし、今の朋也にもうその気持ちはない。
 それは強がりではなく、諦めでもない。
 今の自分にも『幸せ』はあると、だから今までの全てがあると信じることが出来たからだ。
 一人の少女との出会いによって――
 その、今は心を迷わせている少女に、朋也は導くように語り続ける。
「それで一週間くらいたったときかな。雨で気温が下がったせいで、次の日に風邪を引いちゃってね。かなりの高熱で、すごくうなされたよ。そういうときって気持ちも沈むものなのかな……自分には、もう歌なんて無理なんじゃないかって、思うようになったんだ」
 可奈子は黙って、そして心配そうな表情で見つめている。
 それに朋也は穏やかに笑って返す。
「で、三日後にようやく治って……いつもの場所に向かいながら、こう考えてたんだ。『今日でダメなら、もう路上ライブなんてやめよう』って――でもね」
 自分の過去を、穏やかな笑顔で朋也は語る。
「そんな暗い気持ちで着いてすぐ、誰かに声を掛けられてね。まだ歌ってもないのに? と思って見回したら……声の主は、すぐそばでやってた肉屋さんだったんだ。何だろう、と思って返事したらさ、『しばらく来てなかったけど、どうしたんだ?』って聞かれたんだ。それで風邪を引いたって答えたら……」
 一拍置き、可奈子に向き直る。
 彼女はピクッ、と表情を硬くするが、目は逸らさなかった。
「『そりゃ大変だったな――頑張れよ、応援してるぞ』って、言ってくれたんだ」
 朋也はゆっくりと思い出すように、
「そう言われた途端にさ、ふっ――と、もやもやした黒い気持ちが消えたんだ。まるで、空気まで澄んだように」
 可奈子の瞳が、何かに気付いたように丸く見開かれる。
「その人にとっては、何気ない言葉だったんだと思う。でも、僕にとってはその何気なさが、逆にすごく染み渡ってきたんだ。まぁ、元々両親にも反対されてた道だったから、身内から応援されたことなんてなかったせいもあるけど」
 ははは、と苦笑いし頭を掻く。
「……嬉しかったよ。やっぱり。街を行き交う人じゃなくても、身近に聞いていてくれる人がいて、自分の夢を励まされて。それから、今まで以上に頑張って――それでも足を止めてくれる人はいなかったけど、めげずに、楽しんで歌い続けて――そのうちに一人、止まってくれて……二人、聞いてくれて……三人、四人と応援してくれて……その日を境に、少しずつだけど、人が増えていったんだ」
 可奈子の瞳が、何かを思い出すように朋也の胸元を見つめる。
「そのときから僕は思うんだ。自分の夢を応援してくれる人、支えてくれる人がいるってことは――頑張る気持ちを何倍も強くしてくれて、叶ったときの喜びを何倍も大きくしてくれるんだってね。……可奈子ちゃんも、それは感じてるでしょ?」
 たしなめられた子供のように、彼女はこくん、と小さく頷く。
「おばあさんも言ってたよ。可奈子ちゃんの夢は、自分の夢でもあるって。……それに、今は僕の夢でもあるんだ」
 その言葉に、弾かれたように顔を上げる。
「おばあさんと僕だけじゃ、足りない?」
 ぶんぶんと首を大きく振り、スケッチブックを見せる。
『すごく、いっぱい』
 恥ずかしそうに、口元を僅かに上げる可奈子。
 小さなものだったが、それは久しぶりに見せる、確かな笑顔だった。
 それに大きな喜びを感じながら、続ける。
「今回は、おばあさんがちょっと頑張りすぎちゃったけど……それだけ想ってくれたことは、素直に感謝していいと思うんだ。だから、可奈子ちゃんがおばあさんのために何かしたいと思うなら、感謝の気持ちを込めて『お礼』をするべきなんだ。『歌手になる』っていうね。決して『罪ほろぼし』になっちゃいけないんだ」
 可奈子の瞳に、じわりと涙が混みあがってくる。
 安堵と、嬉しさを混ぜ合わせて。
 その涙に、朋也は同じ想いを胸の奥に感じた。
 彼女は目元を恥ずかしそうに堪えながら、ペンを動かしていく。
『ごめんね、先生。いっぱいしんぱいかけちゃって』
「ううん、そんなことないよ。可奈子ちゃんのためなら、いくらでも僕は力になるよ」
 しかしその言葉に堪え切れず頬を伝い、白いページを小さく濡らした。
 ぐしぐしと溢れたものを拭い、朋也を見上げる。
 もうその表情に、暗い影はなかった。
『それと、いっぱいありがとう。先生がいてくれたから、おばあちゃんだいじょうぶだったし、いてくれなかったら、きっとおばあちゃんかなしませちゃってたし』
 チラリと朋也の顔を見てから、一呼吸置く。
『わたし、先生に会えてとってもよかった』
 頬を赤くして、小さく微笑みながらそんな言葉を向ける可奈子に、朋也も思わず顔が赤くなる。
「僕も……可奈子ちゃんに出会えて、とても嬉しかったよ」
 え? と口を開き、可奈子の赤が耳まで染まっていく。
「この島に来るまで僕は……過去の自分と今の自分を比べて、落ち込んでばかりだったんだ。でも可奈子ちゃんの歌や想いが、それらの壁を取り払って、合わさって自分があるんだと――今が幸せであれば、過去がそれに結びつくってことを、教えてくれたんだ」
 自覚のないことを言われて戸惑いつつも、朋也に喜んでもらえたのは嬉しいらしく、スケッチブックで顔の下半分を隠し、恥ずかしさに俯いてしまった。
「だから――ありがとう。すごく感謝してる」
 その言葉がとどめのように顔を真っ赤にした可奈子は、お返しとばかりにスケッチブックを突き付ける。
『わたしの方がかんしゃしてる!』
「えっ? ……いやいや、僕の方が感謝してるさ」
 悪戯っぽくオウム返しする朋也に、可奈子も嬉しそうにムキになる。
『わたしの方が――』
「僕の方――」
 言い合い、そしてお互いに笑い合う。
 こんな些細なやり取りが出来ることを、お互いに幸せだと、感じながら。
「――そろそろ戻ろうか、可奈子ちゃん。おばあさんも一人にしたままだし。明日、笑顔で迎えないとね」
 うんっ、と元気よく返し、ペンチから飛び上がるように立つ可奈子。
 その勢いでふわりと大きく、そして柔らかく、彼女の艶やかな黒髪が揺れる。
(あ……)
 外灯と月の光に重なって照らされ、前以上に明るい笑顔を見せる彼女の姿を、座ったまま見上げた朋也は、一瞬躊躇いながらも――素直に思ったことを言葉に出した。
「今の可奈子ちゃん……すごく綺麗だね」
 背中に向けたその声に、
 ビクン、と跳ねるように彼女の肩が上がり、勢いよく朋也の方へ振り返る。
 その顔は赤く、目はきょとんと真ん丸くさせたまま硬直して。
 視線を合わせたまま、沈黙だけが流れていく。
「………………あ、その――」
 可奈子の視線と、口にした言葉の気恥ずかしさに耐えられなくなった朋也が、とりあえず何か言おうと口を開いた瞬間――
 ぷっ、と小さく吹き出したかと思うと、可奈子はいきなり笑顔を弾けさせ、大きく口を開いて笑い出した。
「え? な、何で笑うのさ!?」
 ちょっと恥ずかしい思いをしながらも褒めたのに、なぜか笑われるという訳の分からないリアクションに、朋也はやり場のないもどかしさに駆られて聞き返す。
 しかし可奈子は、感情のまま楽しそうに笑いながら一言、返すだけだった。
 スケッチブックを、胸に抱きかかえて。
 とても、幸せそうに。

『なんでもなーい』



「――――う、ん……」
 朝日が病室の白い壁を明るく照らし始めたころ。
 窓から流れ込む僅かな潮の匂いに誘われたかのように、時江の両目が小さく、薄く見開かれた。
「……おばあちゃん」
 思わず身を乗り出して覗き込んでいた可奈子の両目が、嬉しそうに見開かれる。
 その目尻はほんの少し、赤みが残っていた。
 時江は孫のその表情、一歩後ろで同じように安堵を浮かべている青年、今いる病室という場所に、自分の置かれた状況を即座に理解する。
 そして理解してじわりと、後悔と自責が沸き上がり、思わず眉間に小さく皺を増やして両目を閉じる。
 沈痛な面持ちをしばらく続けた後、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「……心配かけて、ごめんよ。可奈子……」
 待ち望んだ祖母の言葉、その内容の両方に様々な想いが込み上がり、出し尽くしたはずのモノがまた目尻から溢れ始める。
 しかし可奈子はそれを気にする風もなく、むしろ見せるように頬から流し、心からの微笑みで言葉を返す。その涙が、その笑顔と同じものであるために。
「ううん。わたしこそ……心配させて、ごめんね」
 いつもの明るさと少し違う、まるで昔に自分の母親が見せたような笑顔に、時江は今の可奈子の気持ちが痛いほどに伝わってきた。
「ありがとうね……可奈子」
「おばあちゃん……っ」
 逸る気持ちを抑えながらゆっくりと、可奈子は祖母の胸に抱きつく。
 その様子を幸せそうに眺めていた朋也だったが、ふいに可奈子の頭を優しく撫でていた時江と目が合う。ゆっくりと微笑んで、書くものを探すため身を起こそうとしたところで、
「あ、いいよおばあちゃん。わたしが代わりに書くから」
 そう言って、可奈子が祖母の身体をそっと制する。そして時江の言葉に耳を傾け、「うん」と小さく頷いてスケッチブックに書いていく。
『”ごめいわくかけて、すみませんでした”だって』
「……そんなことないですよ。気にしないでください」
 可愛らしい字で綴られた文章に一瞬妙な錯覚を感じつつ、正直な言葉を表情に乗せて返す。
 それを聞いて、今度は可奈子が祖母に何やら耳打ちをし始めた。朋也には聞こえないのにわざわざそうするのは、単に気持ちの問題なんだろうか。
 可奈子の話を聞いた時江は、嬉しそうに顔を綻ばせて可奈子に耳打ちをし返す。聞いて可奈子は少し顔を赤くするものの、素直に書き綴っていく。
『”可奈子のそばにいてくれて、ありがとうございます”だって』
 あはは、と照れくさそうに頭を掻く可奈子。
 恐らく言葉だけの意味ではないのだろう。自分が倒れて沈みかけた可奈子の心を支え、救ってあげたことに対する感謝の気持ちが、小さく頭だけで会釈する時江の表情にしっかりと表れている。
「いえ、僕も可奈子ちゃんには色々と感謝してますし……だからじゃないですけど、可奈子ちゃんには、やっぱり笑顔でいて貰いたいですからね」
 その言葉に大きく反応したのは、やはり可奈子の方だった。
 とはいっても騒ぐ訳ではなく、恥ずかしさからか表情を硬くさせ、萎むように小さく縮みこんでしまった。
 そんな彼女の反応から『何か』を鋭敏に感じ取った時江は、再び可奈子にそっと耳打ちする。縮こまっていたままだった可奈子は、
「――っ! お、おばあちゃん!?」
 爆発するように顔を真っ赤にさせ、病室であることも忘れて祖母に向かって大きく叫ぶ。しかし、時江は全く意に介さない様子でニコニコしているだけだ。
「……? どうしたの、可奈子ちゃん」
 その声に、はっと我に返るが、それでも顔の真っ赤は収まらない。いや、朋也と顔を合わせるその表情は、さらに赤くなっているように見える。
 可奈子は口を震わせながら目線を祖母と朋也の間を行ったり来たりさせていたが、やがて一大決心したように表情を引き締めさせると、ゆっくりとペンを走らせ「えいっ!」と自分の顔を隠しながら勢いよく朋也に見せる。そこに書かれていたのは、

『”もしよければ、可奈子といっしょになってくれませんか?”』

 今度は朋也が爆発するように顔を真っ赤にする番だった。
「え、えええっ!? あ、いや、その……一緒にって、……ええっ!?」
 保護者からのまさかの言葉に、朋也まで病室ということを忘れて大声で叫ぶ。
 それを見て面白そうにニコニコと笑う時江。その本気か嘘か分からない笑顔に、返す言葉がなかなか見つからない。
 思わず一歩後ずさる朋也。目線を泳がして可奈子の方を見れば、いつの間にか隠していた頭をスケッチブックの横端からこっそりと出して、顔中を真っ赤にしたまま真剣な表情でこちらを見ている。
 朋也の全身が、早朝の爽やかさな気温を無視してじっとりと汗ばんでくる。
 二十五年の人生においてあまり女性に縁のなかった朋也にとって、こういった状況を切り抜ける巧みな言葉は全くといっていいほど持ち合わせていない。ただ、頭の中を混乱と同様が目まぐるしく駆け回るばかりだ。
 とはいえ想いはすでに決まっている。いるのだが、やはり口にするのは彼にとって大きな勇気と覚悟が必要で、今も開いた口が中途半端に戦慄いている。
 じわりと被い囲むような視線と、鋭く突き刺すような視線。
 その二つに当てられ続けた朋也はついに耐えられなくなり、喉を押し出されるように声を絞り出した。
「あ、あの…………三年後くらいになったら……答えようと……お、思い、ます……」
 大の大人が発したにはか細い声で紡がれたその答えに、場の空気が止まった。
 可奈子と時江は、目を丸くさせたまま、視線を朋也に向けている。
(あ、……あれ?)
 妙な温度差のある雰囲気に、ひょっとして自分は行き過ぎた勘違いをしてしまったと思った朋也に、一筋の冷や汗が頬を伝う。
 そして何か弁解の言葉を発しようと慌てて緊張の治まらない頭を巡らせようとしたとき、
 まるで鏡のように、彼女らはゆっくりとお互いに顔を見合わせ――
 くっ、と。
 同時に声を発した直後、堪えていたものを吐き出すように笑い出した。
 時江は顔はにっこりと、頬に手を当てて遠慮がちに、
 可奈子は元気良く、恥ずかしさを吹き飛ばすかのように。
 どちらも、とても幸せそうに。
 そんな二人の反応に朋也はしばし呆然としていたが、やがて小さく肩を落としてため息をつくと苦笑し、窓の外に顔を向ける。
 雲ひとつない青空から差し込む光はさらに強く、明るく室内を照らし続けている。
 中で弾む笑い声に、負けないように。
 今日も澄み渡る景色が、始まっていた。



 ――それから二日が経ち、
 両端に岬を望む、曲線に広がる海岸線の景色を背に、朋也は彼女達と向かい合う。
 時江は退院したばかりでまだ足取りが少し弱かったが、最後まで見送らせて欲しいとわざわざ波止場まで来てくれた。そんな祖母を支えるように、可奈子はしっかりと彼女の腕に腕を回している。
『もっといてもいいのにー』
「うーん。そうしたいんだけどね。もともと一週間の予定だったし、そろそろ戻らないと」
 暇を持て余す子供のように不満げな顔をして、可奈子はスケッチブックを抱えている。
 彼女にとっても、この一週間はとても充実した日々だったのだろうと、朋也は今はもう自惚れではなく実感できた。
 出会った時のことから様々な色を見せた彼女の表情を振り返って、改めて目の前の少女に目を向ける。ぴったりと視線が合って、照れながら微笑む彼女はほんの少しだけ大人っぽく見えた気がした。
『いろいろありがとうね、先生』
 その丸っこく勢いのある書体には、彼女の色々な想いが詰まって見える。
「僕も……この島に来て、可奈子ちゃんに出会えて、すごくよかったよ」
 すると可奈子は急に乗せていた笑みを落とし、無表情のまま朋也を見上げてきた。よく見ると口は真一文字に伸び、心なしか顔の輪郭が震えている。
 何だろう? と朋也が首を軽く傾げると、横合いからにゅっ、ともう一つのスケッチブックが現われた。
『気丈にしてますけど、本当は物凄く寂しいんですよ。この子は』
「お、おばあちゃん!!」
 ズバリ見透かされたのか、真っ赤になって祖母に食い掛かる可奈子。何度も見たそんな光景が、今の朋也には逆に懐かしさと寂しさが入り混じって込み上げてくる。
『だいじょうぶだもん! さみしくないもん!』
 声にも出して言い張る可奈子。しかし、
「……僕は、少し寂しいな」
 朋也の呟くような言葉に、可奈子は声を詰まらせて気まずそうは表情を浮かべる。
 しばらく彼女は逡巡する素振りを見せていたが、やがて小さく肩を落とし、ゆっくりとペンを動かす。
『わたしだって、ほんとはさみしいよ』
 言葉以上に寂しそうな表情を浮かべる可奈子に、朋也が思わず言葉をかけようとしたそのとき、
 ペラリとページが捲られ、
『でもへいき。さよならじゃないし、また会えるしね』
 同時に、花の咲いたような笑顔。
「ねっ」と口で念を押され、一瞬呆気に取られながらも、朋也は負けじと微笑み返す。
「……そうだね」

 定刻より少し遅れて、一週間振りの船が波止場に到着した。
 また数時間固く揺らされるのを辟易しているのか、マルスがややうんざりとした視線を船体に向けて放っている。相棒の様子に思わず苦笑を浮かべるが、それは朋也にとっても同じ感想で、一緒にため息でもつこうかと思ったが、するのは実際に乗り込んでからと思い留まる。そして、
「……じゃあ、そろそろ行くね」
『先生も、げんきでね』
「うん、ありがとう。おばあさんも、あまり無理をなさらないでくださいね」
『そうさせて頂きますね。可奈子も、これからはもっと手伝ってくれるらしいですから』
『ごはんだって作るよ!』
 元気よく割り込んでくるが、
『まずは食材を黒くしない事から始めましょうね』
 容赦なく突き付けられ、「ううぅ」と唸りながら引っ込んでいった。
「……ま、まぁ、とにかく。いつまでもお元気でいてください」
『はい。朋也さんも、お元気で』
 家族の温かみ溢れる笑顔をいっぱいに貰ってから、横で名残惜しそうにマルスの頭をぐりぐりと撫でている可奈子に向ける。
「可奈子ちゃんも、歌手になれるように頑張ってね」
『うん! 先生がおどろくようなすごい歌手になってみせるね!』
 得意そうに胸を反らして笑う彼女を見ていると、不思議と実現するのが確実なものに思えてしまう。それほどに、今の可奈子の笑顔は人を惹き付けてしまう。
 そして、その笑顔がしばらく見られなくなってしまうのはとても寂しいものがあった。
「そうだ。季節の違うときのこの島も見てみたいし、冬になったらまた来るよ」
 言葉に嘘はなかったが、九割以上が建前だった。本音を言うと何だかカッコがつかないと思った朋也は何気なくきっかけを作ろうと口にしたのだが、
『だめ!』
 意外なことに、可奈子は少し頬を膨らますとあっさりと拒否したのだった。
「え、……な、何で?」
 表情から出る雰囲気から拒絶の意思ではないとは分かったものの、まさか断られるとは思ってなかった朋也は動揺も露に訊き返す。
 すると可奈子はそんな朋也の様子を満足げに見据えると、待ちわびたかのようにペンを走らせ、両手をいっぱいに伸ばして突き付けた。
『つぎに会うのは、三年後!!』
「あ……」
 ぴょこん、とスケッチブックの上から顔を出し、はにかむ可奈子。
 朋也が精一杯に搾り出した、それでも偽りのない気持ち。
 あのときは笑っていた彼女だったが、その答えを大事に胸にしまい、待ち続けてくれる。
 それが朋也にはとても恥ずかしく、何よりも嬉しかった。
 そして、大切に受け止める。
「うん。三年後、だね」
『やくそくだよ!』

 人の印象が性格で左右されるように、この島に来たときに見た景色は、同じはずなのに頭の中に染み込むそれは様々な想いに溢れていた。たくさんの、『幸せ』を。
 その『幸せ』を溢れるほどに与えてくれた小さな人影は今は遠く、しかし目に焼き付けられるほどに、その姿を最後まで大きく振り動かしていた。
 僅か一週間ほどの滞在が、人生の船出のような感慨深さに胸の奥が小さく締め付けられる。その小さな苦しさが、不思議と心地よい。
 やがて島が水平線の空気に混じりかかったころ、ようやく朋也は前方を向き、手すりに背中を預けて大きく深呼吸をする。
 体いっぱいに味わった空気は、もうさっきまでの匂いを全く感じなくなっていた。
 それを名残押しつつ隣のマルスを横目で見やると、旅の道中は基本的に主人と同じ方向を向くはずの彼が、いまだに島のあった方向を正確に見据えていた。
「何だ、結構可奈子ちゃんに振りまわされたけど、やっぱりお前も名残惜しいのか?」
 普段は何気に冷たいマルスの意外な一面に、朋也はついからかうように話しかけるが、当の相棒は首だけで主人を一瞥してから、また視線を水平線に戻した。
 朋也は何だか蚊帳の外に放り出された気持ちになりかけてそういえば、と島を去る寸前のことを思い出す。
「そういえばお前、最後に可奈子ちゃんから何か耳打ちされてたよな。あのとき何を言われたんだ?」
 船に乗り込む間際、可奈子は何かを思い出したかのように駆け寄ってきたので何だろうと思っていたら、なぜか彼女はマルスのそばにちょこんと座り、内緒話でもするようにマルスに耳打ちをしていたのだ。あのときは「何してるの?」と朋也が尋ねても、悪戯っぽく笑って『ないしょ』とはぐらかされてしまったので、思い出した途端気になってしまった。
 しかし朋也の問い掛けに、マルスは今度は主人に反応することもなく、じっと視線を固まらせているだけだった。
 朋也ももちろん、答えが返ってくるとは思ってないのでそのまま小さく肩をすくめ、マルスと同じように視線を水平線に向ける。
 その先は陽炎に揺らめいて、まるであそこで過ごした島での日々を夢現にするかのように、緩やかに隔てられていた。
「三年後かぁ……何だか楽しみだな」
 つぶやく朋也は気付かず、マルスの背中に小さく緊張が走る。
 あのとき可奈子から囁かれた言葉。
 理解は出来ずとも、その言葉の雰囲気に何か自分の身に言いえぬ不安を感じた彼は、今もまたブルッと小さく背筋を震わせているのだった。

”いつかお前の仕事を、横取りしに行っちゃうからね”

 ――という言葉に。

◇◇◇

”十六歳の新人歌手・伊原可奈子、初登場四週目にしてついにチャート一位を獲得!”
 歌番組の画面に流れるテロップの背後には、黒いシックなワンピースドレスに身を包んだ少女が、薄い化粧で大人びた表情を醸し出しながら、それ以上に静謐な空気を周囲に広げるようにその歌声を披露している。
 首をゆっくり振る度にさらりと揺れて流れる艶やかな黒髪が、ステージ上からの淡い照明に照らされて煌きを帯び、少女の姿をより焼き付けられていく。
(まさか本当に……いや、やっぱりと言うべきだな)
 デスクの上で頬杖をつき、感慨深くため息をつきながら朋也はその姿を噛み締めるように見つめている。
 初めて可奈子をメディアで見たのは二ヶ月前。テレビCMでの宣伝プローモーションビデオに映っていた彼女を見て、そのとき初めて知った朋也は思わず驚嘆の声を上げた。
 三年前の彼女の言葉は、あれからずっと彼の心の中に深く根付いている。
 だからこそ、テレビに映るその姿が逆に信じられなく、しかし同時に自分のこと以上に嬉しかった。正直、今でも朋也には目の前の光景が夢なんじゃないのかと、彼女に対して少々失礼なことを考えてしまったりする。
「それにしても……綺麗になったなぁ、可奈子ちゃん」
 テレビの視覚効果とは関係なしに、歌うその姿に率直な感想を漏らす。
 女の子というものは、三年も経てば驚くほど様変わりする。可奈子も多分に漏れず、あのころは子供らしいという言葉が見事に当てはまるほどの無邪気な笑顔を振り撒き、活発に駆け回っていた。しかし今では、テレビ越しで歌っているときではあるものの、表情には艶やかさがあり、背も伸びて女性としての柔らかく丸みを帯びた身体が、露になっている肩越しからはっきりと見て取れる。 
 可愛いというよりは、美人と言っても差し支えないくらいだ。
 表情も合わせて目が行くと、ついドキリとしてしまう朋也である。
 傍らのマルスも、テレビに映る可奈子の姿を食い入るように見つめている。
 ただ、その雰囲気は魅入っているというよりもどこか見据えているような感じだった。
 相変わらずだなと朋也がマルスの頭を撫でているところに、視界の端でドアの開く気配がする。
『失礼します』
 そう手話を用いて語りかけたのは、朋也の仕事のサポート――相手との対話を手話で通訳してくれる、手話通訳士の女性だ。
「何ですか?」
 マルスの頭に手を置いたまま尋ねる朋也を見て柔らかな微笑を浮かべながら、彼女は単刀直入に用件を述べる。
『草壁さんに作詞をお願いしたいという方が、お訪ねになられたのですが』
「え、本当ですか?」
 その言葉に、自然と歓喜の笑みが零れる。

 三年前。
 あの島を去った後、やはり音楽の道を諦めることが出来なくなった朋也は、少しでも音楽と関わる仕事がしたい――いつか可奈子が夢を叶えることを信じ、少しでも近い場所で関わりたいという想いが、彼を強く大きく突き動かした。
 しかし歌手にはなれない、作曲や演奏も出来ない朋也は、ならば作詞を携わろうと、作詞家になることを目指す。
 それはもちろん、簡単な道ではなかった。
 何より朋也は耳が聴こえない。周囲からは『曲が聴けない人間に作詞家が務まる訳がない』と批判もされたりした。
 それでも朋也は諦めることなく、『そんな自分だからこそ、表現できる”想い”が何かあるはずだ』と努力し続けた。
 そしてある日、その朋也の詞に目の止まった人物が現れた。
 その人物は何と、かつて歌手を目指していた朋也をメジャーデビューさせようとした、あのときのスカウトマンだったのだ。
 彼は当時の朋也の事故を非常に残念に思っていており、ネット上での作詞の投稿掲示板に公開されていた詞の作者の名前に、もしやと思って連絡をくれたのだ。
 そして朋也の作詞家になりたいという強い意気込みとその可能性を見て、色々と助力をしてくれたのだった。その甲斐あって、朋也は作詞家としての小さなデビューを果たす。
 初めは「聴覚障害者の作詞家」という肩書きを珍しがり、批判的であったり興味半分で依頼してくることが多かったが、それでも多くの人が朋也の熱意に惹かれ、次第に懇意にしてくれる人も多くなった。
 そして現在は仕事にも恵まれ、スカウトしてくれたレコード会社内の一角を設けてもらい、作詞家活動をさせてもらっている。先月には作詞を手掛けたアーティストが初登場で十二位に入るという快挙も成しえた。

「わざわざ訪ねて来てくれるなんて嬉しいですね。一体どんな人なんでしょう?」
 期待に満ちた声を弾ませる朋也に、通訳の女性は突然表情を仕事のものとは違う、朋也より年上なのに妙に子供っぽい笑顔を浮かべると、
『知りたいですか?』
 と、おもむろに言ってきた。
「え? ええ、まぁ」
 直接依頼に来る人物なのだから、恐らくは初対面だろうと思っていた朋也はその笑顔につられ、つい返事を返してしまう。
 すると彼女は表情に含み笑いを上乗せすると、そのまま片手を――テレビに向けて差し出した。
『そちらの方です』
「えっ」と反射的に画面に目を向けると、そこには今もなおステージで歌っている、歌手・伊原可奈子の姿が映っている。
 言葉の意味が分からず、しばし呆然とテレビを眺めていた朋也だったが、画面に薄く反射した部屋の背景に、通訳の女性と違う、一つの人影が入り込んできた。
「――!?」
 その正体に朋也が確信すると同時、再び振り返った先に――

 少女がいた。
 部屋と廊下を隔てるガラス窓の向こうに、三年振りに出会った彼女――可奈子が、後ろに手を組んで覗き込むように、朋也の姿を捉えていた。
「可奈子……ちゃん」
 人目を避けてきたためか帽子を深く被り、ニットジャケットと丈のやや短いプリーツスカートを黒で統一して身を包んでいる。島で会ったときの素朴な雰囲気はなく、まさにそれは街を歩く年頃の少女の姿だった。
 しかしテレビで映っているものとは違い、朋也と目が合って綺麗に弾けたその笑顔は、あのときの無邪気な明るさをはっきりと感じさせていた。
 今もマルスに向かって子供っぽい、意地悪な笑みを浮かべているのが何だか微笑ましい。向けられたマルスは、不機嫌そうにぷいっとそっぽを向いてしまったが。
 それをなぜか満足そうに頷いた可奈子は、改めて朋也の方に視線を向ける。
 少しだけ、恥ずかしそうに。しかし、それ以上の嬉さを見せて。
 実際に見るその姿は、やはりあのころの少女のまま変わっていない。
 それが朋也には懐かしくて気恥ずかしく……そして嬉しかった。 
 窓越しに、しっかりと結ばれる二人の視線。
 可奈子は喜びいっぱいの笑顔のまま朋也に向かって小さく手を振ると、そのまま両手を使って流れるように、はっきりと語りかけてきたのだった。

『いっしょにお茶でもどうですか?』


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●感想
一言コメント
 ・長編でありながら読むのが苦にならず、感動的でした。
 一言だけ、言わせてください、ありがとうございました。
 ・あまり「感動」をしたことない自分。そんな自分でも、この作品は「感動」しました。
 ・とても美しい小説だった。
 ・タイトルも内容も素晴らしい。これからも頑張って下さい
 ・他のどの作品よりも心に残りました。ごちそうさまです
 ・タイトルに惹かれて拝読。光るものを感じたので、投票します
 ・目指せ一位!
 ・最高です!!! 
 ・最高! 私が見たネット作品でダントツの一番!!!!! マルス頑張れ〜♪
 ・読んだ後にも心に余韻が残るNICE小説です!
 ・文体がとても綺麗で内容もとても面白かったです。聴覚障害をもった朋也と夢を持った元気な少女の河奈子の掛け合いや過去の話などとても興味深く感じられました
 ・心に染みる、とても暖かい小説でした。
 ・一シーンの中に人の想いが沢山込められていると思います。
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