高得点作品掲載所       黒野玄人さん 著作  | トップへ戻る | 


形のない奇跡

 彼女の姿に、見とれていたんだと思う。
 僕が少しだけ見栄を張って選んだカフェですら、彼女はそつなく背景にしてしまった。まさに居るべきところへ戻ったかのような、そんな感じ。男として格好つけようと思ったのに、これでは僕のほうが恥をかいてしまいそうだ。
 彼女は運ばれてきたコーヒーにミルクを注ぐ。角砂糖は二つ。
「――変わってないね。前会った時から」
「え、何のこと?」
 美由はまるで慈しむように、スプーンでコーヒーをかき混ぜる。
「砂糖の数、だよ。あと、ミルクをたっぷり入れるところも」
「何て言うか、人の好みってそんなに変わらないんじゃないかなー」
「そんなもん?」
「そんなもん。コーヒーを飲むのって習慣じゃん? 角砂糖の分量にしても、いつもと変えるとなると、身構えちゃうんだよね。それまでとは違うやり方をするってことだからさ」
 くるくる、とスプーンを回す。時々カップのふちに当たって、キン、と音がする。
 美由と会うのは高校の卒業以来だ。
 僕らが住んでいた、田舎の中の田舎とでも言うようなところから、美由が東京へ出て行ったのは三年前のこと。
「それにしても、少しは連絡しろよなー。三年も音信不通じゃ皆心配するって」
「ごめんごめん。でも今日帰ってきたんだし、それでいいでしょ?」
 ね? と言われても困る。確かに美由の両親は「知らせがないのは良い知らせだ」なんて言っていたけれど。
 地元で就職した僕の気持ちも少しは考えて欲しい。僕が美由の両親ほど肝が据わっていないのは、美由もよく知っているはずなのに。
 もっとも、それをストレートに言ってしまえば「考ちゃんは気が弱いんだから」なんて馬鹿にされるに違いないから黙っておく。
「いいわけないだろ。ただでさえ東京は治安が悪いっていう話なのに、美由に何かあったらどうするんだよ?」
 伝聞形で会話しなければいけないのが悲しい。
「確かに村と比べれば、治安は雲泥の差だけどね。村が平和すぎるってのもあるんだけどさ」
「だったら、余計に――」
 外出するときに玄関に鍵すらかけないところで育った人間が、いきなり治安の悪いところに行っては危ないじゃないか。
 僕の抗議を最後まで聞かず、「だいじょーぶだってば」と、美由は言った。
「私も子供じゃないんだしさ、無茶はしないって。それに、お父さんもお母さんも大して心配してなかったでしょ? そんな小さなことで悩む性格じゃないもん」
「うっ――」
 なかなか鋭い。親子とはかくも偉大か。
 美由の両親が特別というよりも、村の人は総じてそんなものだ。何かと人の世話を焼きたがるくせに、いつも大きく構えている。どちらかと言えば些細なことで動揺する僕のほうが少数派だ。
「あ、もしかして心配してくれてたの?」
 悪戯っぽく聞く美由。昔から、人をからかうのだけは上手い。
「別に」
 首を縦に振ったら負けを認めるような気がして、僕は口を尖らせた。
 このままだとどんどん押されそうなので、話を変えてみる。
「ところで、急に帰ってくるなんて、どういう風の吹き回し?」
「あれ、言ってなかったっけ? 取材だって、取材」
「取材? そんなこと聞いてないぞ?」
「うん、じゃあ今言う。私雑誌の記者やってるんだけど、その取材に考ちゃんも一緒に行って欲しいの。現地に詳しい人は多いほうがいいでしょ?」
「現地?」
 首をかしげる僕に、美由は机から身を乗り出して言った。
「――噂なんだけど、村に幽霊が出るらしいの」


 三菊村は渥美半島の先端にある小さな村だ。区分で言えば愛知県になるけれど、県庁がある名古屋市と比べれば町並みの差は顕著だ。
 フェリーが流行った頃はちょっとした観光地だったらしいけど、今ではその影すらない。
「噂によると、年に一度――つまり今日だけど――死者の魂が蘇る日があるんだって。死んだはずのおじいちゃんとか子どもに会った、って話は耳にたこが出来るほど聞いたよ」
「魂が蘇る――って、幻覚じゃないか?」
「あくまで噂だから真偽は分からないけど。うちの雑誌の幽霊企画でその当地を取材しようってことになった、ってわけ」
「幽霊、ねぇ。そういうのは都会でやって欲しいもんだけどな」
 僕は車を走らせながら、助手席の美由に言った。
 取材の付き添いとはつまり、車の免許を持っていない美由の足になれということらしかった。
「静かな田舎なんだから、わざわざ騒ぎ立てるようなことしなくてもいいのに」
「人の多いところでは怪談話なんて滅多に出ないよ。怪談は面白いけど、実際に身に降りかかると怖いから。対岸の火事だから聞いて楽しめるってわけ」
「それは……そうだけどさ」
「三菊村は一時期観光地っぽくなってたしね。旅行の土産話に尾ひれが付いたんでしょ」
 楽しがる分には構わないのだろうが、実際にそこに住んでいる人間としてはあまり面白い話ではない。
「ま、考ちゃんもそうカリカリしないでさ。とにかく楽しいドライブだよ、ドライブ」
 気を取り直すように美由が手を叩く。
「そうだな。美由も折角帰ってきたんだし」
 開け放した窓からの風が、美由の髪を撫でていた。
 当たり前のことだけれど、髪型も前とは変わったと思う。
 けれど重苦しい会話ですら一瞬で楽しくしてしまう笑顔は、三年を経ても変わりなく。
 まるでそれは、昔好きだった間違い探しゲームのようだった。
「あ、停めて。そこが最初のポイントだから」
 自前のノートを見比べながら美由が言って、僕は車をわき道に停めた。
 車を出ると、待ち受けていたのはトンネルだ。一般の自動車が使うにしては過剰なまでに大きく、山そのものが大口を開けているようにすら見える。深いトンネルのわりに電灯は老朽化していて、中は暗闇といっても差し支えないくらい。行政問題にならないほうが不思議だった。
「……入るのか?」
 恐る恐る僕が聞くと、
「当然でしょ。そのトンネルが噂の心霊スポットだもん」
「あ、そうなんだ」
 一度オーケーしてしまった手前、今更「帰らせてください」は通用しないだろう。
「もしかして考ちゃん、怖いの? そーだよねぇ。昔からそうだもんねぇ」
「そんなことあるかよっ」
 条件反射的に返してしまった後で、しまったと思った。
 美由はこちらを見透かしたような笑みを浮かべている。
「それじゃあ、来るよねぇ?」
 僕を試している――いや、あれはおちょくっているのだろう。完全に美由の趣味だ。僕が怪談話に弱いことを知りながらそうしているのだから。
 肝試しをしようと仲間で集まった小学生の夏、怖気づく僕が美由に引っ張られていったのは今でも軽いトラウマだ。夜の墓地を見るとつい思い出してしまう。
 ここで引いては男の沽券に関わるというものだ。
「行くよ、行けばいいんだろ行けば!」
 嫌な思い出を拭い去るように、恐怖心を悟られないように、僕は強引に彼女の手を掴むと、真っ暗なトンネルの中へ入っていく。
 思いのほか力が強かったのか、美由がバランスを崩しかける。
「ちょっと待ってよ――」
「うるさいうるさい。美由が言ったんじゃないかっ」
 最初のうちは意気揚々と進んで行ったけれど、段々と歩くスピードは落ちてくる。黙々と進み続けたのに、ものの五分もしないままに足が止まってしまった。暗闇が怖かったのではない。
 なるほどここは幽霊話が生まれても仕方ない不気味さだと僕は思った。電灯の光が弱いせいで人の顔が辛うじて分かる程度の明るさしかないし、どこかで雨だれが落ちるような音はトンネルに反響してやたら大きく感じる。ともすれば人ではない何かがひたひたと歩み寄っているようにも聞こえる。
「どうしたの?」
 てっきり弱虫と罵倒されるのかと思いきや、美由の口調は優しかった。
「大丈夫?」
 僕は目を暗闇の向こうに向けたまま、首だけで頷いた。
 ――久しぶりに会っただけなのに、僕は何をやっているのか。
 僕は握った美由の手を離す。
 一体何の資格があって、美由に触れていたのか。今でもまだ恋人であるとは限らないのに。
 取り繕おうと視線を向けた先で、美由が不服そうな顔をしていた。
「いや、これはそういうつもりじゃなくて……」
 あたふたと慌てふためく僕に、さっきとは違う調子で美由が問いただしてくる。
「じゃあ、どういうつもりなの?」
 顔が近い。質問というより詰問だ。
「それは……」
 三年も会っていなかった人間と、手を繋いだことだろうか。
 それとも、その手を離してしまったことだろうか。
 古い電灯の仄かな明かりは、美由の輪郭をぼんやりとなぞる。一応ここは車道だというのに、脇を通る車は一台としてない。静寂だけがそこにあった。
 僕は美由に触れてもいいのだろうか。
 浮かび上がる疑問には、目を凝らせど答えは見えない。
 今ここで美由に触れたなら、
 ――三年前の続きを、紡ぐことが出来るのだろうか。
「やっぱり考ちゃんは怖がりなんだから」
 迷う僕に助け舟を出したのは、美由だった。
 ついさっきまで僕を見つめていた目が、ぷいとそっぽを向く。
 僕をからかうように。やはり美由の方が一歩大人だ。
「私の心配なんかする前に、まずは自分の心配をしてよね」
 僕に背を向けた美由は、先に歩き出してしまう。
 ヒールが地面を叩く音が、トンネルに反響してやけに気になった。


 トンネルを抜けると、海岸が広がっていた。
 湘南や沖縄のように有名ではないが、ここも渥美半島が誇る綺麗な海だ。白い浜、青い海というホコリを被った形容でさえ、ここではぴったりくる。
 暗いトンネルから陽光の降り注ぐ海岸へ。美由はまぶしげに手を目の前にかざすと、磯のにおいを吸い込むように伸びをした。
「海だねぇ」
 綺麗であることに変わりはないのだけれど、砂浜に観光客がひしめいているわけではない。いわば知っている人のためのプライベートビーチみたいなもので、子供の頃は良く遊んだものだった。
「海だねぇ」
「は……?」
「だから、海だなぁ、って」
 だからなんだと言うのか。
「そうだね、って言えばいい?」
「そーじゃなくて」
 知恵を振り絞って出した返事は、美由の希望にはそわなかったようだ。
 水平線の彼方を見て、美由が呟くように言った。
「海って何なんだろうね」
「何なんだ、いきなり?」
 それは疑問ではなく、話の先を促す。
「海は水なんだけどさ、コップに入った水は海じゃない。水槽に入った水も、ましてやプールの中の水も、海じゃない」
 そりゃそうだろうな、と思うが、口には出さない。こういうときの美由は、聖典でも読み上げているような、触れられなさをまとっていた。
「東京にも海はあるけれどさ、何か違う気がしてた。たった今、ここに来てやっと分かった。私の海は――ここにしかないんだ、って」
 それは僕に向けられたものなのか、それとも――。
 全ての生き物は海から産まれた、って学説があるけれど、それならば陸に上がった全ての生物は何を想えばいいのだろう。故郷は遠く離れ、やがて記憶も薄らいでいくのなら。
 道路脇のガードレールから身を乗り出して、美由は海を眺める。
「ここの海はいつでも私に優しいんだ。昔から見ていた景色はそのままで、慣れ親しんだ場所はそのままでいて。けれどいつしかそれが辛くなった」
「高校出てすぐ東京行ったのも、それが理由?」
 美由は振り返らぬまま、
「分かった? 考ちゃんって鈍感なくせに、そういうところだけ鋭いよね」
 顔は見えないけれど、泣き笑いのような表情をしているような気がした。
「村や海や――その優しさに私は応えられているのかな、ってある日突然思った。けれど私が応えられなくても、ここは優しいままだった。それじゃいけない、甘えてたらいけないんだ、って思ったんだ」
「でも、美由は帰ってきた」
「うん。東京で頑張ってみたけど、辛くなっちゃった」
 弱いよね、と美由は自嘲するように言った。
「逃げるようにここを飛び出したくせに、ここの優しさが欲しくなったんだよ」
 無条件に優しい海を捨てて、辛い現実へと向かっていこうというのなら、美由の理想郷はどこにもない。美由のやり方は積極的ではあるけれど、同時にどこへもたどり着けない。そんな理想は間違っている――いや、少なくとも美由には信じて欲しくない。
「美由。それは多分違うよ」
 だから僕は美由を否定した。美由の言い分を認めてしまったら、美由に優しくすることなんて出来やしないから。
「誰にも辛いときはあるよ。辛かったらここへ帰ってこればいい。誰も見返りなんて求めてないんだから。優しさってのは、借金じゃないんだから」
 美由のやり方では、返済すべき優しさが雪だるま式に増えていくだけだ。進めば進むほど、転がれば転がるほど辛くなる。
「それに、いつまでも変わらず優しいものってのはないんだと思う。本音を言えばあって欲しいんだけど、自分の知らないところで世界は少しずつ変わっていく。いつまでも拒んでたら、大切さに気付くのは失った後だよ」
 同じように見える場所も、見えないところではきっと何かが変わっている。
 しかし、移ろいゆくものに対して出来ることなんて限られているのだろう。小さな人間にできることと言えば、心にそれを焼き付けること――くらいしか。
「なーんてね」
 美由が踊り子のようにターンした。表情はもう笑顔に戻っていた。
「私を慰めようなんて十年早いよー」
 茶化すように美由は言ったが、いつか、僕の言ったことも分かってくれるだろう。いつのことかは分からなくても、小さな僕が彼女の礎になれたのなら。
 車を置いたまま、僕たちは海岸線に沿ってあてどもなく歩いた。
 海は珍しいくらいに穏やかで、波を打つリズムがのんびりと耳に届く。
「あ、もしかして美由ねーさん?」
 僕らが歩いている砂浜の向こうで、ごつごつした岩を器用に飛んだり着地したりしながら、こちらに向かってくる男の子がいた。戦隊ヒーロー番組での登場シーンのようだが、格好良いというよりも子供っぽい。
 遠目にも分かる。歳でいえば僕の五つ下にあたる、友也だ。仮にも高校生を男の子と表現するのは正しくないかもしれないが、友也は僕と美由の弟分だった。そのせいか、いくつになろうっても友也のイメージは男の子だ。
「本当だ……。どうして?」
 友也は僕と美由を交互に見て、目を丸くした。それも当然だろう。久々の再会なのだから。
「おーす! ただいま、元気してた?」
 驚いたままの友也を気にも留めないで、美由はくしゃくしゃと友也の頭を撫でる。
 まるで水を得た魚というか、玩具を得た子供というか。三年ぶりの再会なのに、つい昨日会ったばかりのような表情で笑った。
 成長期を経て背が伸びた友也を、美由は観察するように見る。着ているのは学生服だ。
「私が出て行ったときは、まだ友也も鼻水垂らした小僧だったのになー」
「へ、変なこと言うなよっ! 俺ももう高校生なんだからなっ!」
 ぱっ、と友也は後ろに一歩引いた。
「鼻水垂らしてたってのは間違いじゃないだろ。昔は頭撫でてやると喜んでたし」
「あの頃と比べると、友也も可愛げがなくなったよね」
「だよなー。あの頃は美由の肩にも背が届かなかったのに」
「子犬は大きくなってゴツくなると可愛くなくなるって言うけど、人間もそうなのかもね」
 僕と美由は軽口を叩き合う。
 いつ友也からツッコミが入るのものかと期待して視線を向けると――、
 泣いていた。
 一歩退いたところ。顔を真下に向けたままの友也からは、嗚咽の声が漏れる。
 友也の顔を覗き込むように、美由が声をかける。
「と、……友也?」
「美由……ねーさん。考……にーさん」
 友也は手のひらを顔に押し付けるようにして、涙を必死にこらえているようだった。膝を折らず、その場にうずくまらなかったのは、友也なりの意地なのかもしれない。
「俺、何にも知らなかったから。美由ねーさんが東京へ行ったって知ったのは、もう全部終わっちゃったあとでさ」
 途中に鼻をすすりながらのその言葉は、聞き取りにくかったが痛いほどに伝わってくる。
 美由が東京へ行った日。見送られたら決意が鈍ってしまうという理由で、美由が上京することを知っていたのは、美由の両親と僕だけだった。
 大好きな人が何も言わずに遠くへ行ってしまうのは、友也に深い傷を残したのだろう。友也からすれば、それは美由と僕の裏切りだったのかもしれない。いつも一緒だった三人の中で、友也だけが除け者にされているようで。
「もう二度と美由ねーさんには会えないのかと思ってた。知らないうちにねーさんが遠くへ行ってて、距離が離れて」
 美由が村を発ったのを知った友也が暴れたのは、村の人なら殆どが知っているくらいだろう。大切なものが瓦解して――あるいは握ろうとする手をすり抜けていってしまう欠落。僕には当時の友也の想いを想像することすら難しい。
「こんな風に会うなんて、思ってなかった。考にーさん、ごめんなさい」
 前を向けないまま、友也は僕に頭を下げる。
「何でお前が謝るんだよ。もう終わったことだし、今は三人でこの場にいるんだ」
 美由も僕に呼応するように言った。
「友也に何も言わずに言ったのは、私が悪かったと思ってる。ごめんね。私は東京に帰らなくちゃいけないから長くはいられないけれど、せっかくの再会なんだから、泣いてちゃつまんないでしょ?」
 美由は会ったときと同じように、友也の頭をくしゃくしゃと撫でる。
 さっきは嫌がった友也だったが、今度はされるがままになっていた。
 それは長く、長い儀式のようだった。三年という歳月をゼロに戻すための。
 あるいは、一度は生まれてしまった二人の深淵を埋めるための。
 美由は撫で続けた。相変わらず友也を慈しむように。
「ありがとう。美由ねーさん。俺、もう泣いたりなんかしないから」
 幾度も波を打つ音が聞こえたあと、ようやく友也は顔を上げた。
 美由は、向日葵が開花するように笑う。
「そうだ、その意気だぞ! 一人で立てるようになってこそ、子供から抜け出せるんだから」
 うん、と友也も釣られるようにして笑った。
 その様は三年の時を経てもなお、姉貴分と弟分だった。
 ――果たして、僕はどうなんだろうか?
 友也と美由がそうであったように、僕と美由も三年前に帰ることができるのだろうか。一度離れた心を、元に戻してしまっていいものなのだろうか、と。
 そう思ってしまった後で、僕は一人で苦笑した。
 三年前に帰ったところで何をするつもりだったのだろう。なくしたものを一つずつ拾い集めるように、一つずつに決着をつけようとでも言うのだろうか。
 それは傲慢だ。人の心は、手で拾うことが出来るような代物じゃない。形のない漠然とした霧のようなそれは、緩やかな微風にさえ容易に乗っていく。僕が必死になって追ったところで、霧に止まる気がなければ追いつくことなど出来ない。
「そうだ。記念に写真撮ってくれよ、考にーさん」
 ひとしきり喋り散らした後で、友也が言った。美由が取材用に持っていたデジカメをすっと取って僕に渡すと、美由の隣でピースした。「いいね、撮ろうよ」と美由もそれに倣った。
 僕は蚊帳の外か、と多少寂しい気持ちにもなったが、ここで断るのも大人気ない。「一足す一は?」の掛け声の後にシャッターを切る。
「撮れたぞ」
 僕がそう言うと、友也は何か安心したように息をついた。
「それじゃあ俺、今から用あるから。出来た写真は俺の家に届けといて。美由ねーさん、考にーさん、バイバイ」
 引き止める暇もなく、友也は岩場の向こうに走っていってしまった。写真の出来くらい確かめれば良いのに、と思ったときにはもう、姿も形もなくなっている。
「友也も意外と忙しいんだねー」
 走り去った方向を眺めながら、美由が言った。僕と同じように引き止める機を逸したらしい。
 僕は今撮った写真を液晶画面に表示させようと、デジカメを操作する。使ったことのない機種だが、デジカメなんて基本的な操作は大体同じだ。
「どう? 上手に撮れてる?」
 美由は僕と肩を並べるようにして、画面を覗き込む。
「それで……これ、っと……」
 最後のボタンを押して、写真が画面に現れた。
 写っていたのは美由の笑顔だけ。一緒に写っていたはずの友也の姿はそこには――ない。
 友也は逃げていたのかもしれないな、と僕はぼんやり思った。


 いつのまにか夕方になってしまっていたのは、海で過ごした時間が長すぎたからだろう。出来た写真を見た後、美由は言葉を失った。ただ波の音だけを聞いていた。
 帰ろうか、と僕が重い口を開いたのがついさっきのことだ。声をかけなければ、彼女はずっとそこにいたのではないかと思うほどだった。
 再び山道を走り、来た道を帰っていく。車中には沈黙の帳が降りていた。
「噂には続きがあるの」
 美由が言った。車の窓は開けていない。
「幽霊はまるで生きているように振舞う。記憶もしっかり持ってて、見た目には普通の人と何ら変わりない。ただ――」
「カメラにその姿は写らない」
 わざわざ言わせるのも酷と思い、僕が続きを引き取った。故郷の箱に詰まっているのは、良いことだけとは限らない。一息に全部開けてしまうのは辛いこともある。
「美由が出て行った年の夏だ。台風が来た。首都圏でもニュースになるくらい大きかったって聞くけどな」
「うん、知ってる」美由は頷いた。様子から察するに、台風が来たことは知っていても、その詳細までは知らなかったようだ。村から逃げ出したのだと美由は言っていた。故郷が心配になったとしても、気持ちがどれだけ望んでも、頭はそれを拒否したのだろう。
「危ないから外には出るな、って言ってるのにあいつ聞かなくてさ。大荒れだっていうのに海辺にいたんだ」
 海の近くに住むものが、海の怖さを知らないはずはない。記録的な大きさだと上陸前からニュースで騒がれていたというのに、あまつさえ海の近くへ行くなんて。
 半ば自棄になっていたのだろう。僕も美由も予想だにしていなかったが、友也が知らない内に美由が東京へ行ってしまったということは、それほどまでに友也に衝撃を与えたらしい。
 もともと友也にはそういうところがあった。見た目では打たれ強そうでも、すぐに泣き出すのは知り合った当時から変わっていない。涙を隠すのが上手くなっただけだ。そして一度拗ねたら簡単には元に戻らないのも同じ。僕と美由が手を焼いたのも一度や二度ではない。
「そうして翌朝、あいつは遺体で発見された」
 台風が過ぎた後の空は青く綺麗で、陽光が惜しみなく溺死体に降り注いでいた。
「どうして教えてくれなかったの?」
 口調には怒りが含まれていた。しかしそれは僕を咎めるものではない。村の誰を責めるでもないのだということを僕は分かっていた。
「美由は東京に出ていったばっかりだったろ」
 いずれ知るべき時に教えよう、というのが村の人全員の意見だった。亡くなった友也には申し訳ないが、東京で頑張ろうと旅立った美由を引き戻すようなことはするべきではない。またそれは美由を慕っていた友也の望むところではない、と。
 美由は口を閉ざした。知らないうちに失くしてしまった何か。その責は誰にあるものでもないと分かっているのだ。しかし簡単には受け入れられないのもまた事実で。
 いや、容易く受け入れられてしまうのであれば、いなくなってしまった人が浮かばれない。美由には悪いが、美由が辛そうな顔をしていることが友也に対する一番の慰めだろう。
 僕はラジオのスイッチを入れた。スピーカーから流行らしい洋楽と陽気なDJの声が流れてくる。聞くためではない。沈黙を消したかっただけだ。
 助手席からすすり泣きが聞こえてきた。
「ティッシュはドアのサイドポケットにあるから、使って良いよ」
 僕はわき目も振らずに運転に没頭した。
 目が赤いままでは美由も帰ろうにも帰れまい。
 僕は気まぐれにハンドルを切った。


 ねぇ、あそこ行こうよ。
 目的地もなく車を彷徨わせていた僕に、美由が言った。
 そうだね。
 数拍置いて僕は答えた。何気ないようにしてハンドルを切る。復習するまでもなく、道順は頭の中に入っている。
 そこに着くのは意外にも時間がかかった。僕と美由は車を降りる。
 断崖と言って差し支えない所だ。錆びた看板に展望塔とあるように、そこに建つ円柱状の塔は三菊村が観光地であった頃の名残だが、今は訪れる人は滅多にいない。
 けれど僕と美由にとっては特別な場所で、あそこと一言言えば通じるくらいだった。
 階段を上り、塔の一番上に至る。海は朱に染まっていた。
「ここにはもう来ないと思ってたのにな……」
 柵から身を乗り出して、美由は水平線を眺める。
「僕もだ」僕は塔の白い壁を背にして言った。
「私たち、今までここに何回来たっけ」
「さあ……覚えてないな」
「私も。むしろ覚えてたら凄いくらいだよね」
 僕らが高校生だったとき、もう既に観光地としての三菊村はなくなっていた。そこにあったのは、二人だけの真っ白な世界だけだ。古びた塔の上で、新しい思い出は少しずつ記憶に代わっていった。
「でも私、最初に来たのは覚えてるよ。考ちゃんに呼び出されて来たんだ」
「あれ、僕が呼び出したんだっけ? 美由が僕を呼んだんでしょ」
 えー、と美由が抗議の声を上げた。
「そんなことも忘れちゃったの? 考ちゃんがどうしても来いって言うから言ってあげたのにー」
「でも、結果的には同じだったんだからいいだろ」
「そういう問題?」
「そういう問題さ」
 結局どちらが呼び出したのかは分からずじまいだが、そんなことは小さなことだ。とにかくここに最初に来たとき、僕らはお互いに想いを打ち明けたのだから。
 どちらが始まりなんてことはない。それを言うのなら――その両方から始まっていた。
「なあ」僕は壁から背中を離す。「取材はいいのか?」
「うん。もういい」
 美由は僕を見ることもせずに答えた。
「きっと甘かったんだ、私」
「どういうこと?」
「編集部で、この取材をしたいって言い出したのは私なの。取材を口実にして、もう一度この村に来ようと思った。。もしかしたら、友也に起きたことを面白おかしく書き立ててたかもしれない。実際、書き立てるんだろうって思われても仕方なかった」
 口調は自嘲気味だった。
「いくら友也のことを知らなかったからって、考ちゃんにとっては、心に土足で踏み込んだも同然だよね。皆は悲しみながら私に友也のことを隠してるのに、私は嬉々としてその秘密を暴こうとしてたんだから。もしさっき友也に会わなかったら、村の人全員に対して酷いことしてたかもしれない」
 美由は顔を伏せる。髪は表情を覆い隠していた。
「馬鹿だよね。取材の名目で来ていながら、心の底ではそんなことありっこないって思ってた。幽霊の怖さとか不幸とか、そんなのは自分に関係ないって高をくくってた。私にはここに帰るための口実さえあれば良かった。浅ましいくらいに――浅はかだった」
 後悔のような独白は、それ以上続かなかった。続けれらなかったのかもしれない。
 十分に間をおいてから、僕は口を開く。
「さっきも言ったけど、美由は何も悪くないよ。もしも辛いのに耐えているのだとしたら、それは自分がしたいだけだから。美由のため、っていうのも押し付けがましいくらい。それに取材のことを知ってるのは、友也と僕だけだ」
「でも――」
「僕は」美由の言葉を遮る。「僕は、どういう理由であったにせよ美由に会えて嬉しかった。友也もきっと同じはず。――ほうら、何の問題もない」
 僕は美由に歩み寄ると、後ろから抱きしめた。
 美由の驚きが肌から伝わってきたけれど、それも一瞬だった。観念したかのように、美由の体から力が抜ける。
「何の問題もないから」
「本当に?」
「うん。本当に」
 しばらく僕らはそのままになっていた。久しぶりに触れた美由は、温かかった。
「そういえばさ、前もこんな風にしてたことあったよね?」
 美由が呟くように言った。
「そうだったっけ。あんまり覚えてないな」
「その記憶力の悪さは老衰じゃないの?」美由がふて腐れたように言った。「前のは立場が逆だった気がするけど」
「いきなり後ろから抱きつくんだもんな。塔から落とされるかと思って焦ったよ」
「いくらなんでも落とさないよ――って、しっかり覚えてるんじゃないの」
 謀ったわね、と僕の腹に肘打ちをお見舞いする美由。それも連続で。
「痛い痛い。ごめんなさいもうしませんから勘弁してください」
「そこまで言うんだったら許してあげる」
 ひとまずそこで矛を収めることと相成ったらしい。美由は何事にも容赦がないから困る。
「今日は、取材に付き合ってくれてありがと」
「ああ。どういたしまして」
「取材は出来なかったけど……何かと便利だったよ」
 やはり僕は道具扱いらしい。分かってはいても少しへこんだ。
「僕も楽しかったからいいけ……ど」
 不意に、腕の力が抜けた。
 僕の体が自分のものでなくなってしまったような感じがして、悟った。
「どうしたの?」
「ああ。いや……」
 気付いてからは早かった。僕の表現は狂いなく正確だったらしい。僕の腕は、体は――
 僕のものではなくなってしまった。
「どうしたの?」美由が振り返り、異変に気付いて叫んだ。そもそも振り返ることが出来たことがおかしい。美由の体はついさっきまで僕がしっかりと抱きしめていたのだから。
 僕は手のひらを目の前にかざしてみた。向こうの海が見えるのは、肌色が透けてしまっているからだろう。
「時間切れだ」僕は薄く笑った。
「時間切れ……?」
 勘の良い美由ならもう気付いているだろう。頭では分かっているだろうに、表情は必死に分からない振りをしていた。
 それが少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しい。
「どういう仕組みになっているかは知らないけど、一人につき一度、一日だけ現世に帰ってこれるみたいなんだ。これが三菊村の幽霊騒ぎの真相。……黙っててごめん」
「それじゃあ考ちゃんも……」
「そう。あの台風の日、命を落としたのは二人。友也と――それを追っていった大馬鹿者だ」
 僕と友也の死が美由には秘密になっているのは知っていた。村にいた頃は仲の良かった三人だ。その内の二人が死んで――美由だけが取り残されたなんて、誰が言えるだろう。
「本当はこんな予定じゃなかった。普通に美由に会って、普通に別れて、美由が僕が死んだことなんて知らないままなら良いと思ってた。けど欲張りすぎたみたいだ。おかげで、こんな風になっちゃって……ごめん」
「謝らなくていいよ!」美由が叫んだ。「謝らなくて、いいから……」
 美由は実体のない僕を抱きしめる。腕は僕をすり抜けた。
 僕も自分の腕を美由の背に添える。
「奇跡みたいだった。美由ともう一度会えるなんて思ってなかったからさ。でも、これでもうおしまいだ。僕が蘇るなんてことは今までも、これからもこれっきり」
 こくん、と美由の首が縦に振られる。
「写真撮ろうよ、美由」彼女は俯いたままだった。
 僕の体は透明になっているから、カメラを持てない。
「美由」
 二回目の呼びかけで、やっと美由は顔を上げてくれた。透明な涙が一筋だけ流れた、笑顔だった。ケースからカメラを取り出し、レンズを僕らに向ける。
「もっと近付いてよ。一枚に収まらないでしょ」
「これでいい?」僕も笑顔を作ろうと努力してみた。
「じゃあ、いくよ。――はい、チーズ」
 シャッターが切られる。


「ふーん。村の人も幽霊なんて見たことないんだー。何か期待外れ」
 私が出社するや、ナツは隈を作った顔で取材の結果を聞いてきた。仕事が片付かず、今朝は徹夜だったらしい。
 私と同期――二十代前半の肌には悪影響を及ぼすことも甚だしいが、悲しいかな、これが弱小編集部の現状である。環境は確かに過酷ではあるが、それでも私がこの仕事を続けていられるのはこの良き友人の存在が大きい。
 私は会社にあるメーカーでコーヒーを二人分淹れて、ナツのデスクに置いた。
「期待外れでも仕方ないでしょ。村の人が知らないって言ってるんだから。もしかしたら、無関係な人が三菊村の名前を使ってるだけなのかもしれない」
「全部作り話だったってこと?」
「かもね」私が言うと「えー、何それー」とナツは抗議の声をあげた。私に焼きもちを連想させるように、柔らかそうな頬を膨らませる。
「三菊村って、昔観光地として開発されてた時期があったでしょ? けどそれが立ち消えになって村に残った残骸を、他の所から来た人が不気味がったんじゃないかな」
 真相の程は噂の源流を辿ってみないと分からないが、一応筋が通っているように見える。私が最も信じている仮説の一つであり、そうであって欲しいと思う結末だ。
「そうかもしれないね。古い遊園地とかを夜見ると意外に怖いのと一緒かな」
 でも、と思い出したようにナツは続ける。「じゃあ企画はどうするの?」
「そのことなんだけど……他の企画を組むってのはダメかな?」
「えーっ!」ナツは声を上げて驚いた。
 コーヒーが書類にこぼれなかったのは幸運だったろう。締め切りまでそう期間があるというわけでもないのに、代わりの企画を用意するのは簡単ではないのだ。
「別に村の人の話が聞けなかったからって、書くことなら色々あるじゃん。せっかく三菊村まで行ってきたんだし……」
「そういうことじゃないんだ」
 私はコーヒーを一口飲んで、言った。コーヒーは苦かった。濃く淹れすぎたらしい。
「色々あって、あのことは記事にしたくないんだ。――お願いっ」
 私は顔の前で両手をぱん、と合わせた。「ねっ?」と上目づかいに見てみると、ナツは驚きの表情を徐々に和らげていった。
「美由がそこまで言うならいいよ。私の仕事が終わったら、微力ながら手伝ってあげるから」
「ありがとうナツ。恩に着るよっ!」
 色々の部分――あの村で起こった出来事を訊ねてこないのも助かった。
 奇跡みたいだった、と彼は言っていたが、それは他の人に誇るようなものではなかったと私は思う。誰に知られなくとも、私と彼だけの奇跡でいい。
 誰かに話せば、私は夢を見ていただけだと疑われるに違いない。客観的に見れば、夢なのか現実なのかの判断すら付かないだから。
 けれど、カメラのメモリーにはちゃんと画像が残っている。
 イタリア風のカフェの、無人のテーブルが――。


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●感想
一言コメント
 ・冒頭シーンを受けてのラストシーンが綺麗でした。秀逸な幽霊奇譚です。
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