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「ほら、恭介。休みだからっていつまでも寝てると腐っちゃうよ」
雪奈が僕から布団を剥ぎ取り、体を揺する。僕はまだ眠りから覚めない体を起こして、彼女に向き直った。 「おはよう、雪奈」 僕はエプロン姿の彼女を引き寄せ、キスをした。彼女は少しだけ顔を赤らめて、どぎまぎする。 僕はその隙に奪われた布団を手に取り、再び横になる。 「でも、もうちょっとだけ寝かせて」 心地よいまどろみの中、二度寝という至福の時間を楽しむ。布団に残された温もりが僕を再び眠りへと誘う。 「だーめ。大体今何時だと思ってるの? それに今日はバイトがあるんでしょ」 彼女は再び布団を剥ぎ取り、窓を開け放った。冬の凍えた空気が窓から落ちて、僕の眠気は一気に覚めていった。 「ほら、もうすぐご飯の用意ができるから顔でも洗って、シャキっとしてきたら」 彼女はそう言って隣のキッチンへと戻っていった。 「ったく、誰のせいでこんなに眠いと思ってんだよ……」 「え? なにか言った?」 ひょい、と彼女が開け放たれた間仕切りから顔を出した。 僕は悪戯な笑みを浮かべてからかうように答える。 「いや、別に。昨日の雪奈はかわいかったなぁって……」 「ちょ、恭介っ!」 彼女は顔を真っ赤にして「もう、知らないっ」と言って剥れてしまった。 僕は「ごめん、ごめん」と謝りつつも、ついつい笑ってしまう。 同棲を始めて二ヶ月とちょっと。僕達はわかり合ってると思ってた。言葉なんて必要無いほどに。 でも、そんな幸せな日常は些細なすれ違いで脆くも崩れていった―― 「ねえ、どうして? なんで、なにも答えてくれないの!」 雪奈が悲痛な叫びを上げる。 「私は恭介のことが好き。だから、楽しいことも悲しいこともみんな二人して分け合いたいの。恭介も私のこと好き、なんだよね? 私、恭介のこと信じていいんだよね?」 「そんなの、言わなくてもわかってるだろ」 僕達はわかり合ってると思ってた。だからなんで今更、と思った。 言わなくてもわかるだろ。なんでわかってくれないんだよ! 「だったらなんで? たった一言、私が聞きたいそのたった一言をなんで言ってくれないの? 私、不安なの。恭介のこと疑いたくない……でも、言葉にして言ってくれなきゃわかんないよ!」 「うるさいなっ! なんで、そんなわかりきったことを言わなきゃなんないんだよ!」 僕は高鳴った感情を抑えきれずに、強く吐き捨てた。 「……出てく」 彼女はうっすらと瞳を滲ませて、小さく呟いた。 「あー、そうかい。そんなに僕のことが信じられないなら何処へなりとも行って、別の男でも作ればいいだろ!」 心とは裏腹に、僕の口は勢いに任せた言葉を吐いていた。 彼女は目に涙を溜めて、小さく震えた。 「……なんでそんなこと言うの。もう、恭介なんて大っ嫌い!」 彼女は最低限の荷物だけ乱暴にかき集めて部屋を飛び出した。 僕は、彼女の後を追いかけなかった。 『おかけになった電話はただいま電波の届かないところか電源が――』 切ボタンを押して画面に表示された時刻は二十三時を回ろうとしていた。 あれから一晩、心を落ち着けて考えた。僕は、言い過ぎたと思う。心にもないことを勢いに任せて言ってしまった。自分の気持ちが伝わっていないことに苛立ちを感じて、彼女のことを考えるのを忘れてしまっていたのだと思う。 ごめん、僕が悪かった。僕は雪奈が――彼女の求めたその一言が言いたくて何度も、何度も電話した。 でも、携帯の向こうから聞こえてくる音声はいつも同じだった。 彼女の実家にも電話したけど、そこにも彼女は居なかった。僕は雪奈が行きそうな所を探して携帯のアドレス帳を眺める。そして、ふと一つの名前を見つけた。 遠野夏樹、雪奈の親友だ。 雪奈につれられて、彼女とは何度か一緒に飲んだ事がある。雪奈を迎えに彼女の家に行くこともしばしばあったから、会えばそれなりに話もしたりする。でもハッキリ言ってそれだけの仲だ。電話番号は知っているけどかけた事は無いし、向こうからかかって来ることもなかった。 僕は一縷の望みを託して、発信ボタンを押した。何度かコール音がなり、遠野が電話にでる。 『もしもし』 「あ、遠野さん。桧山だけど」 彼女の携帯には僕の名前が出ているはずだけど、初めての電話だったこともあって名乗った。 『あっ、ああ、桧山くん……。どうしたの? 私に電話なんて珍しいね』 彼女は以外にも少し驚いた声を上げた。 「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど今いいかな?」 『大丈夫だけど、なに?』 「いや、雪奈がそっちに行ってないかな、と思って」 『…………居ないけど、どうかしたの? まさか喧嘩したとか?』 なんだ、今の間は? 「まあ、ね。実は雪奈の携帯に全く繋がらなくて困っててさ。雪奈が今どこにいるか知ってたら教えて欲しいんだけど」 『……知らない』 え? それだけ? 親友の携帯が繋がらなくて、行方がわからないのに? おかしくないか。他にもっと言うことがあるだろ、普通。 「本当に?」 『うん……あっ、ごめん。キャッチが入ったから切るね』 その言葉を最後に電話は切れた。 明らかにおかしい。彼女は雪奈について何か知っているに違いない。なのに僕に隠すってことは……雪奈に口止めされてるってことか? 携帯に出ないほど怒ってるんだ、それぐらいは不思議じゃないか。 となると雪奈は彼女のところにいる可能性が高いな。そうでなくても何かは知ってるはずだ。 僕は携帯を折り畳み、強く握り締めた。テーブルの上に置いたキーとバイクのメットを乱暴に掴んで玄関に向かう。と、同時に携帯の着信音が短く鳴った。 ――画面には雪奈の名が表示されていた。 僕はメールの内容を確認もせずに雪奈に電話する。数回、コール音が響いてそれが途切れた。 「雪奈っ!」 『――になった電話はただいま電波の届かないところか――』 「くそっ! 一体何だってんだよっ!」 僕は何度も聞いた腹立たしい音声に向かって喚いていた。 結局残ったのは未読のメールが一件。僕はそのメール開いた。 『今日の深夜二十四時に三島公園で待ってます』 ◇ ――ッ。 明かり一つない真っ暗な、どことも知れない場所で僕は目覚めた。 頭が痛い。意識が朦朧とする。 とにかく灯りを――なっ、手首を縛られている? いや、手首だけじゃない。足も胴体も縛られ、何かに固定されているみたいだ。身動きが取れない。これは……椅子か? それに―― 髪や頬に触れる柔らかな感触。息を吐くたびに篭る湿気を帯びた空気。どうやら目隠しをされているみたいだ。 しかし、ここは何処だ? 僕はどうした? 何でこんなことになってる? 「やぁ、やっと目が覚めたかね。桧山恭介くん」 男の声が僕の思考を遮った。初めて聞く声だ。 「高木、彼の目隠しを取ってあげたまえ」 おそらく黒い厚手の布地だろうと思われる目隠しが外された。 辺りは薄暗い。それでも暗さになれた僕の目には十分な明るさだった。目の前には大きなデスク。距離にしてだいたい四歩。その向こう側で立派な椅子に腰掛けるスーツ姿の男が、僕を眺めていた。年の頃は五十過ぎくらいだろうか。デスクに置かれたパソコンの液晶ディスプレイから漏れる青白い光が、その男の顔を不気味に照らしている。 僕はとんでもないことに巻き込まれたのかもしれない。 「はじめまして、桧山恭介くん」 男が抑揚のない声で言った。 今のこの状況はどう考えても普通じゃない。僕が何かしらの事件に巻き込まれたのは確実だ。僕が巻き込まれる理由……なんてあるのか? 僕はただの大学生だぞ? とにかく、今がとても危険な状態だってのは嫌でもわかる。 僕はごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。 「あんたは誰だ?」 「私が何者なのか……そんなことはどうでもいい。今重要なのは、何故君がここにいるのか? これから君がどうなるのか? ということではないのかね」 確かにそうだ。手足を縛られ身動き一つできない僕に選択肢はない。状況はどう考えても最悪だ。 「僕は、殺されるのか?」 パソコンから漏れる雑音以外に何も聞こえない、恐ろしい程静かな部屋に沈黙が横たわる。 「……それは君次第だと言っておこうか」 男が少し身を乗り出す。椅子の軋む音が狭くは無い部屋に飲み込まれた。 よく見ると、この部屋には窓がない。あるのは、男の横のやたらとごつい金庫を思わせるよな扉とその反対側に辛うじて見える普通の扉だけだ。僕の右斜め後ろにある扉の前にはもう一人、別の男が立っていた。暗くてハッキリとは見えないが、こちらも同じくスーツで身を固めている。おそらく高木と呼ばれた男だろう。 そして……あまり深く考えたくは無いのだが、僕の足元にはビニールシートらしきものが敷かれている。 「あんたの目的は何だ? これから僕はどうなる?」 「君は飲み込みが早くて助かるよ。いつもこうだと私も楽なんだがね……。 と、愚痴はさて置き、早速ビジネスの話をしようではないか。短刀直入に言えば、我々が欲しいのは新鮮な死体だ」 「なっ、やっぱり僕を殺すのか!」 男の顔に作り物のような笑顔が張り付く。今までとは打って変わった――男の本心が垣間見えるようなそんな笑い顔だった。 「君は少々落ち着きすぎていると思っていたが……やはり君も人間か。だが、安心したまえ。単純に死体が欲しいだけなら君はとっくに死んでいる、違うかね」 確かに。だが、死体が欲しいと言っている以上、安心など出来るわけが無い。 「なら、あんたの目的はなんだ? 死体以外の何かがあるから僕を生かして置いたんだろう?」 僕は男の顔を見据える。 男の目的がわかれば、僕は死なずに済むかもしない。 「私はね、退屈なのだよ。名声以外の全てを手にいれた私にとって、合法的な娯楽ほど詰まらんものはないのでね」 「どういうことだ? 何が言いたい?」 「私は君にチャンスをあげようと言っているのだよ」 チャンス? ということは生きてここから出られるのか。 「君にはこれからちょっとしたゲームをしてもらう。まぁ趣味と実益を兼ねたちょっとしたお遊びってやつでね。なに、心配する必要はない。そのゲームに負けたからといって君が死ぬことはないのだからね。そのゲームで賭けるもの、それはこれだ」 男はそう言うとデスクの上の液晶ディスプレイをこちらに向けた。 そこには、閑散とした何もない部屋が映し出されていた。ただ一つ、中央に置かれた奇怪な形をした椅子に縛り付けられた人影を除いて。 背筋が凍りつくような悪寒が走る。 画面が切り替わり、人影の顔がハッキリと映し出された。 ――雪奈! 椅子に縛りつけられているのは確かに僕の彼女だった。 奇怪な形をした椅子は彼女の頭と顎を固定し、こめかみに拳銃を突きつけていた。その拳銃を固定する装置から一本のコードが延びている。 雪奈は目に涙を浮かべ、体を必死に動かしながら、何とか拘束を解こうともがいていた。でも、彼女を縛り付ける拘束具はビクともしない。彼女は何かを必死に叫んでいるようだったけど音声はこちらに伝わってきていなかった。 「お前、なんてことを! 雪奈を放せ!」 僕は力の限りを込めて立ち上がり、目の前の男に襲い掛かろうとした。だが、僕をきつく縛り付ける拘束具がそれを許さない。 「くっくっく、そそるねぇ。実に甘美だよ」 男の下卑た笑い声が耳に障る。 「さて、君の彼女に対する気持ちも確認できたことだし、ゲームの開始と行こうかね。高木、準備を」 背後で物音がし、天井に添えつけられた四つの小さな白熱灯が部屋を照らす。中央に配置された大きな蛍光灯はついていない。明るいとは言い難いが、モノの形や色、部屋の様子を伺い知るには十分な明るさだ。先程は気付かなかったが、右手の壁には一面を覆いつくさんばかりの大きな絵画が額に飾れていた。そして左手の壁際には高そうな壺や絵皿が飾られ、その近くの床にはこの部屋には不釣合いな一本のコードが横たわっている。 高木と呼ばれた男が僕の前にテーブルを置いた。おそらく僕の真後ろに置いてあったのだろうそれに、リボルバー式の拳銃と赤と黒、二種類のボタンが付いた何かのスイッチらしきものが置かれる。そのスイッチから伸びるコードは左前方の壁際をつたい、暗闇に飲み込まれていった。 「それではルールを説明しよう。一度しか言わないから良く聞きたまえ。まずこのディスプレイに映っている彼女だが……実はこの部屋の隣にいる」 男は自分の左手後方にあるごつい扉を指差して言った。 「そして、君の目の前にあるスイッチ。それは彼女に突きつけられた拳銃の引き金だ。赤と黒、そのどちらかのスイッチが彼女を殺す」 男は淡々と語る。 「次に君の前にある拳銃。これには一発の弾丸が込められている。だが、これはロシアンルーレットではない。その弾丸は引き金を引けば確実に発射される」 灯りの乏しい部屋の中、影を落としたような黒いそれは静かに横たわっていた。 僕の想像より明らかに小さいそれは、それでもなお不気味な雰囲気を漂わせている。 銃身は掌に隠れてしまうぐらい短い。でも、高木がこの拳銃をテーブルの上に置いたときの重たくて冷たい音が耳から離れない。 「そして、君に与えられる選択肢は二つ。 一つ目は、その銃を自分のこめかみに押し当て、引き金を引くというもの。君は確実に死ぬが、彼女は確実に助かる。この際、君は右手で拳銃に触れてはならない。右手で拳銃に触れた場合……どうなるかはわかっているね。 二つ目の選択肢、それはその赤と黒のどちらかのスイッチを押すというもの。君は確実に助かるが、彼女は二分の一の確率で死ぬ。そして、もし彼女が死ななければ君たちは二人とも開放される」 男は一通りの説明を終えたのか一息ついた。 「それとこれは補足だが、この部屋と彼女がいる隣の部屋は完全な防音になっている。たとえ、どちらかの部屋で銃声が響いたとしても、別の部屋にそれが届くことは無い。 このビルは私の持ち物だが……さすがにこのような事をしているのがばれるのは不味くてね。事件自体を揉み消すのは簡単なことだが、私の数少ない娯楽が一つ減ってしまうのは避けたいのだよ」 男の顔に嫌らしい笑顔が張り付く。 「だから、彼女を守る為に自分の命を投げ出す場合は、遠慮なく引き金を引いてくれたまえ。その銃声が彼女に聞こえることはないからね。なに、君の死体が彼女の目に触れることはないから安心したまえ。その辺りの配慮はちゃんとしているのでね」 僕は自分の足元に視線を落とした。今ならハッキリとわかる。そこには青い色をしたビニールシートが敷かれていた。 「おっと、一つだけアドバイスをしておこうか。 実は、その銃は新しい拳銃が警察に配備されたときに廃棄されるはずだったものを譲り受けたんだが……如何せん撃鉄が重いのが難点でね。もし自害を選ぶのであれば、撃鉄を起こしてから引き金を引くことをお勧めするよ」 男はそう付け足すと革張りの椅子に背を預けた。男の重みに耐えかね、椅子が小さな悲鳴を上げる。 「ここまでは理解したかね? 桧山恭介くん」 「理解も糞もあるか! こんな一方的で理不尽な――」 背後から撃鉄を起こす音と共に、僕の頭に硬い感触が押し付けられた。 冷たい汗が吹き上がる。拘束されているにも関わらず、体が小刻みに震える。 ここに来て初めて感じる『死』という恐怖。今までの漠然としたものではなく、すぐそこに実感として横たわる『死』は僕を否応無く黙らせた。 「君はなにか勘違いをしているようだね。君には私が与えた選択肢以外に選択の余地などないのだよ。私は、自分が助かる、愛すべき人が助かる、そして二人して助かるかもしれないという破格のチャンスを君に与えてやったんだ。これ以上いったい何を望むというのだね、君は?」 男は何処からともなく煙草を取り出し、火を付ける。 僕は死に怯える自分を繋ぎとめるのに精一杯で、何も反論できなかった。 「どうやら、納得してもらえたようだね。それでは高木、彼の縛めを解いてあげたまえ」 高木が突きつけた拳銃を引き、僕を縛り付ける拘束具を解いていく。 「君が自由になる前に言っておくが、くれぐれもその銃を使って私を狙おうなどという妙な気は起こさないことだ。君がそのような素振りを見せたら直ちに高木が君を殺す」 男は煙草を燻らせ、汚れ一つ無い硝子の灰皿に灰を落とした。 僕を拘束していた縛めが解かれる。始めに左足首。次いで右足首。そして脛、太もも。胴回りと胸を固定していた縛めが解かれ、最後に後ろ手に縛られた手首が開放された。 僕は手首に残る痣をさすりながら男を睨み付ける。 「ああ、うっかり忘れていたよ」 男はそう言うとこちらに向けていたディスプレイの電源を落とした。 「さすがに愛する人の脳髄がぶち撒かれる瞬間は見たくないだろうからね。どうだね? これで多少はボタンを押すことへの抵抗も無くなったのではないのかね」 男は心底楽しそうに僕の表情を観察する。 なんて趣味の悪い男だ。理不尽な生死を賭けた選択を突きつけ、それに苦悩する人間を観賞する。最悪だ。腐ってやがる。 この男は普通じゃない。話をしてこの場をどうにか出来る様な余地はないだろう。悔しいが僕に残された選択肢はこのゲームに勝つというもの意外にない。 僕はテーブルに置かれた拳銃とスイッチに目を落とした。 どうする? どうすればこのゲームに勝利できる? 単純に確率と期待値を考えればスイッチを押すという選択肢が一番だ。確実に一人が助かり、さらに運がよければ二人助かる。でも、拳銃はどう足掻いても一人しか助からない。 でも、ことはそんなに単純じゃない。スイッチを押したことで死ぬかもしれないのは僕じゃなく、雪奈なんだ。そして、もし間違ったスイッチを押した場合、僕が彼女を殺したことになる。 くそっ、なんて嫌らしいゲームを考えるんだ、この男は。 「いいねぇ、その表情。とてもそそるよ。理不尽な生死を賭けた選択を迫られ苦悩する弱者、それを高みから見物する。これこそが人生最高の娯楽だ。 とは言え、私にも慈悲というものはあるのでね。ヒント……となるかはわからんが他の連中の結果をお教えてやろう」 他の奴の結果? ということはこの男はこのゲームを既に何度か行っているということか。 「三週間前、私は一組のカップルにこのゲームを持ちかけた。その時の彼らは、この部屋を二人して出ることは出来なかったよ。まったく残念なことだ」 三週間前……。ここ最近、僕の記憶が確かなら誘拐事件や殺人事件は起きていないはずだ。ということはやはりこの男の言うとおり事件を揉み消すのは簡単だってことなのか。この拳銃も警察から譲りうけたと言っていたし……。いや、そもそも事件にすらなっていないのかもしれない。たんなる失踪扱いになっているということも考えられる。だが、少なくとも警察に何かしらの影響力を持っているのは確かか。 「そして、一昨日。私はまた別のカップルでこのゲームを行った。その時の彼らは二人してこの部屋を出て行ったがね。確かトオノ……とかいう名前だったか。彼女は嬉しさのあまり、彼の胸で暫く泣いておったよ。まぁ、だからこそ今ここに君がいるんだがね……」 一昨日? トオノ? だから僕がここにいる? ちょっと待て。どういうことだそれは。 昨日、僕は彼女と喧嘩した。そして雪奈はおそらく遠野夏樹の部屋へと身を寄せたはずだ。それ以後、彼女の携帯は繋がらなくなり、雪奈について遠野はただ「知らない」としか言わなかった。あの時の遠野の様子は明らかにおかしかった。 それはつまりそういうことなのか? 「一つ聞いていいか? そのトオノとかいう女の名は……夏樹か?」 「ええ、確かそのような名前だったと思うが、それがどうかしたかね?」 あのくそアマ、生きてここから帰ったらタダじゃすまさねぇ。 「つまり、その女が僕らのことをあんたに話したから、今ここに僕らがいる……と?」 「正確には違うが、まぁそのように考えても差し支えないだろう。我々も商売なのでね、タダで彼女たちを帰すわけがなかろう」 くそったれ。ってことはたとえこのゲームに勝ったとしても他の誰かを生贄に捧げろってことかよ。僕たちの名を上げた遠野には腹が立つが……あいつも被害者なんだよな。結局何もかもがこの男の思惑通りってことか。 待てよ。じゃあ、僕が雪奈から受け取ったメールって……。 「なら、雪奈からのメールもあんたの仕業だったってわけか?」 「ん? あぁ、これのことかね」 男はそう言ってどこからともなく携帯を取り出しデスクの上に置いた。それは紛れも無く雪奈のものだった。 「君を人気の無い場所に呼び出す一番簡単な方法だったのでね。存分に利用させて貰ったよ」 思い出した。僕はメールを受け取った後すぐに雪奈に会うために公園に向かったんだ。でも、そこに雪奈はいなかった。約束の時間を過ぎても彼女は現れず、僕は突然何者かに襲われたんだ。何か隠しているようだった遠野に詰め寄る時間があればこんな事態は避けられたかもしれないのに……。 行き場の無い怒りが込み上げ、僕はぎゅっと拳を握り込んだ。 とにかく今はこの状況を何とかしなければ……。 高木とよばれた男は先ほどからずっと僕の左後方、少し離れた所で銃を僕に突きつけている。おそらく銃口が目の前の男に向かないようにとの配慮と、僕の右手前方にある隣の部屋への扉とその反対側にある出口と思われる扉を考慮に入れてのことだろう。 仮にどちらかの扉を目指すとしても僕は奴に背を向けることになる。これじゃ殺してくださいと言っているようなもんだ。第一扉が簡単に開くとは思えない。これは幾らなんでも無茶だ。 それなら、目の前の男を人質に取るのはどうだ? あの男に近づけば近づくほど、高木は発砲し辛くなるはずだ。 いや、駄目だ。目の前にはテーブルとデスク。障害物が多すぎる。それにあの男が丸腰だとはとても思えない。ちょっとでももたついた瞬間にあの世行きだ。 じゃあ、この拳銃で高木を撃って、高木から拳銃を奪うというのはどうだ? いや、これも駄目だ。そもそも高木を撃つ前にこちらがやられる。ただでさえ拳銃なんか撃ったことないのに利き腕じゃない左手、しかも左手後方の見えない高木に奴よりも早く弾を当てるのは不可能に近い。右手で拳銃を持てれば、自害する振りをして高木を見ずに勘で引き金を引き、奴よりも早く発砲することもできたかもしれないが……。 『右手で拳銃に触れてはならない』 初めに聞いた時はなんでかと思ったけど、こういうことか。少しでも可能性があるなら、例えそれが運であっても極力排除する。考えてやがる。 どうする。どうするのが一番いいんだ? 遠野たちは二人してこの部屋を出たということだから、あいつの彼氏はスイッチを押したということか。そして二人とも助かった。やはりここは雪奈を危険に晒してでも二人が助かる道を選択すべきなのか? 彼女が死に、僕が人殺しとなるか? 二人して生き残るか? ――。 僕が、雪奈を……殺す? 得体の知れない何かが喉元まで込み上げてくる。 気持ちが悪い、体がふらつく。頭から血の気が退いて、目の前が暗転していく。 くそっ、こんな所で倒れるわけにはいかないんだ。 僕は喉元まで込み上げてきた何かを飲み込んで、頭を振った。 嫌な汗が額からこぼれ、頬を伝い、首筋を濡らす。未だに焦点が定まらない視界と胸から込み上げる吐き気の中、僕は必死に考えた。 二人して生き残る確率が最も高いのは……やっぱりボタンを押すことだ。その確率は五割。大丈夫だ。僕たちは死なない。二人して生き残って、彼女に昨日のことを謝るんだ。 問題は――赤か、黒か。 どっちだ? どっちが正しい? 赤は……血の色を連想させる。縁起が悪い。でも、だからと言って黒の印象も良くない。どちらも嫌な色だ。彼女が好きな色は白だが、ここにその選択肢はない。 冷たい汗が背中を伝い、二分の一の確率が重く圧し掛かる。 きっとこの世に神様なんていないんだろう。もしいるんなら、僕たちがこんなことに巻き込まれてるはずがない。神様なんていない。だから、僕は自分の意思で選び、その結果を背負う。覚悟を決めろ。ボタンを押すんだ! ……。 …………。 くそったれ! 僕は赤と黒のボタンを見下ろし、心の中で叫んだ。 目がかすむ。体が小刻みに震え、言うことを聞かない。ただ、立っているだけなのに、それすらも辛い。 雪奈の命が掛かってるんだ。そんな、なんの根拠もない運頼みで押せるわけがない。 僕はスイッチの左側に横たわる黒い凶器に目を移した。 自害――これなら雪奈は助かる。 この男が言った二組のカップルの結末からも、おそらく嘘ではないのだろう。 でも、もし仮にこの拳銃を使って抵抗した場合、彼女の安全は保証されるのか? 成功すればいい、でも失敗したらどうなる。僕は死んで、その後雪奈はどうなる? この男は雪奈を開放するのだろうか? あくまでもゲームに固執するこの男はルールを無視した行為をどう考える? 僕がルール違反を犯すことは雪奈にとっても危険なんじゃないのか? こんな腐りきった男の考えることだ、もしこのゲームに満足できなければどこかでその鬱憤を晴らすはず。ならその標的は雪奈になってしまう可能性が高い。 ルール違反は危険だ。最悪二人とも死んでしまう可能性がある。 僕は左手でゆっくりと拳銃を持ち上げた。 ずしり、と重い感触が手に伝わる。所々に小さな傷がある少し古びたそれはとても偽物には見えない。 ふと視線を感じて顔を上げると、目の前で男がニタニタと笑みを浮かべていた。 自害……僕にそんなことができるのか? 僕は自問しながらゆっくりと撃鉄を起こした。 獰猛な昆虫が上げる金きり音を鳴らして、シリンダーが回転する。ガチリ、という感触が親指に伝わり、それは啼き止んだ。起こされた撃鉄の隙間から鈍い黄金色の弾が見える。 ……本当に僕は死ぬのか? 雪奈の為に死ねるのか? 自分でも驚くほどスムーズに、僕の左手は僕に銃を突きつけた。 左のこめかみに冷たい感触が押しつけられる。 僕は真っ直ぐに目の前の男を見据えた。男は相変わらず楽しそうな笑みを浮かべて、紫煙を吐いていた。 口を抜ける荒い呼吸音だけが僕の耳に響く。 死ぬ、僕はここで雪奈の為に死ぬんだ。 人差し指にそっと力を込める。僕の指先を押し戻すように引き金がそれが拒んだ。 なぜか目頭が熱くなり、途端に銃を持つ左手が震えだす。 ……いやだ。僕はまだ死にたくない。 そう思った途端、僕の人差し指は硬く固まってしまった。どんなに力を込めようとしても、僕の体が、本能がそれを頑なに拒んだ。 僕はゆっくりと左手を下ろし、拳銃をそっとテーブルの上に置いた。 出来なかった……。僕には雪奈の為に命を捨てることが出来なかった。 僕は生きたい。愛する人の為に命を投げ出すなんて確かに聞こえはカッコいいけど、僕は生きたいんだ。僕はなんとしても生き抜いて、雪奈も救い出して、二人してこの部屋を出るんだ。 でも、どうする? このゲームのルールに則って、しかも二人して助かる方法はスイッチを押すしかない。ってことは正しいボタンが解らなければ何も出来ないってことだ。 何か、なんでも良い、何か正しい答えを導き出すヒントはないのか? 僕は灯りの乏しい部屋を見回した。でも、何処にもヒントになるようなものは見当たらない。 やはり、この男から直接聞き出すしかないのか? でも、この男が簡単にヒントを出すとは思えない。確率五割の二択で下手なヒントを出せば、それは答えになってしまう。この男がそんな馬鹿な失敗をするとは思えない。 でも、でも僕には何の手がかりも無い。このままじゃ…… 「ヒントを……」 「ん? 何か言ったかね? 桧山恭介くん」 「何かヒントをくれ! 赤と黒、どちらが彼女を救うんだ!? 頼む。お願いだから……何でも良い、何かヒントを……」 視界がうっすらと滲んでいた。僕は泣いているのか? 僕はこんな腐った男に縋り、懇願し、泣く事しか出来ないほど弱かったのか? 「……私から言うことはもう何も無い。それにヒントならば既に与えたはずだがね」 男は紫煙を漂わせながら冷たく言い放った。 やはり駄目なのか。やはりこの男から何かしらの情報を引き出すのは無理なのか。 いや、考えろ。もっと考えるんだ。こんな所で諦める訳にはいかないんだ。 何か手はないか? この男から情報を引き出すにはどうすれば……。 まてよ。 思い出せ、もう一度良く思い出すんだ、このゲームのルールを。このゲームには確か……。そうだ、この男はこの点に関して何も言っていない。いけるか? この方法ならこの男から情報を――いや、ちょっと待て……この方法ならボタンを押さずとも雪奈を救えるんじゃないか? いや、迷うことなんかない、たとえ駄目だったとしても、僕にはもうこの方法しか残されていないんだ。 僕は顔を上げて、深く息を吐いた。 「……このゲームのルールはあんたが喋った内容で全部か?」 「そうだが、それがどうかしたかね?」 「つまり、このゲームに制限時間は無い、ということで良いんだな」 「ああ、その通りだ。制限時間を設けて、時間切れで君を殺しても面白くないのでね。恐怖に怯えながら自ら引き金を引く、彼女の死を目の当たりにして後悔に泣き崩れる、そんな様子を観察するのが楽しいのだからね。わざわざ自分から楽しみを減らすようなことはせんよ」 「……ならば、あんたが雪奈を開放するまで僕は何もしない!」 男の表情が一瞬曇る。 精一杯強がった僕の台詞とは裏腹に、僕の心臓は激しく鼓動していた。 このゲームはあの男が創ったものだ。それに僕はあの男からしてみれば弱者だ。たとえ僕の意見が的を得た正しいものだったとしても、あの男はそれを捻じ曲げ、踏み折ることが出来る。 これは賭けだ。この賭けに負ければ僕は一気に追い込まれる。 男が口に煙草を咥え、煙を吸い込んだ。チリチリと音を立てながら、煙草の火種が一際紅く燃え上がり、男の口から紫煙が漏れる。 聞こえるはずの無い、煙草の燃える音。それが僕の身を焦す。 「ふむ、考えたね。確かにそれはルール違反ではないし、君にはその権利がある」 男は煙草を灰皿に押し付けて、デスクの上で手を組んだ。 「仕方ない、それでは君たち二人には仲良く飢え死んで貰おうか」 ――ッ、くそったれ! やっぱり駄目なのか。僕にはどちらかのボタンを押すしか道は残されていないのか!? 男は嫌らしい笑みを絶やさずに僕を観察する。 「くっくっく、冗談だよ。干乾びた死体など我々には必要ないでね。欲しいのはあくまでも新鮮な臓器であって、干物ではないのだよ。とはいえ、このままゲームが滞ってしまうのは私も困る。さて、どうしたもんかね……」 男は腕を組み、椅子に深く座りなおした。 嫌な沈黙が部屋を満たし、長くはない時間が過ぎた。 「ふむ、こんなのはどうかね。これから新たに制限時間を設ける。もし、制限時間内に君が行動を起こせなかった場合は君ではなく彼女を殺す。これなら私の楽しみも減らず、時間を短縮できる。制限時間は……そうだな二十分というところか」 男が自分の腕にはめた時計に視線を落として言った。 「なっ、何言ってるんだあんたはっ! ついさっき制限時間は無いと言ったばかりじゃないか!」 男は僕の反論に不機嫌な表情を向ける。 「わかってないな君は。ゲームのルールというものはより面白くなるように日々洗練されて行くものなのだよ」 「僕はそんなことを言ってるんじゃ――」 男の表情が一変し、痛い視線が突き刺さる。僕はその迫力に思わず言葉を飲み込んでしまった。 「君はまだ勘違いしているのかね? それともわかっていて咬み付いてくるのかね。今、この場に置いては私こそが絶対のルールなのだよ。君はそのルールに従い、ゲーム行うプレイヤーにすぎない。それに、君には無駄話をしている時間など無いはずだがね。今こうしている間にも時間は刻一刻と経過しているのだよ。君は既に一分半という貴重な時間を無駄にしているのがわからんのかね」 男は腕時計に一度だけ視線を落として言った。 「とはいえ、ルールの盲点を突いた君の戦略は賞賛に値するものがある。君のおかげでゲームがより洗練されたと言っても過言ではないのでね。 そこで、君には特別にご褒美を与えよう。君が先ほど欲しがっていたヒントだ。 本当は私のビジネスが成り立たなくなってしまうかもしれないので言いたくないのだがね。 一度しか言わないので、良く聞いて、良く考えたまえ」 男が新しい煙草に火をつけ、肘をついてデスクに体を預ける。 状況はハッキリ言えば悪化してしまったと思う。とはいえ、この男から新たな情報を引き出せるのは大きい。どの道今までの状況ではどちらのボタンが正しいのかは全くわからないのだから、良くも悪くも進展したことには変わりない。ここからは時間との勝負だ。落ち着け、冷静に考えて正しい答えを導くんだ。 「私はこれから嘘をつく」 煙草から立ち上る煙が揺らめく。 「赤のボタンを押せば彼女は助かる。いいかね? これは嘘だ。そして、黒のボタンを押すと彼女は死ぬ。ヒントは以上だ。あとは君が私を信じるかどうか、だがね」 何を言っているんだこの男は? それはヒントじゃなくて答えじゃないか。 始めに嘘だと言っているんだから、赤のボタンが雪奈を殺し、黒のボタンが助かるということだ。この男が何の考えもなしに答えを言うか? いや、あり得ない。 これじゃまるでジャンケンをする前に予めグーを出すと宣言されたのと同じだ。僕はこの男を信じられないのだから、状況は何も変わってない。結局、僕はこの男の掌の上で踊らされてるだけってことじゃないか。 僕は右手を口元に添え、親指の爪を噛んだ。 くそ、くそ、くそったれ。 考えろ、考えるんだ。きっと何か、何かあるはずなんだ。 ……。 「残り時間十五分と二十三秒だ」 男が淡々と残された時間を読み上げた。 早い、もう五分も経ったのか? 刻一刻と過ぎていく時間が僕を焦らせる。落ち着け。焦るな。焦ったらこの男の思う壺だ。 僕は自分を必死に落ちかせ、考えた。爪を噛む歯が外れて、大きな音を立てる。 ……そうだ。この男は何故ヒントを出した? これがヒントになっていないのは明らかだが、何故この男は僕にヒントを与えたんだ? 立場は僕のほうが圧倒的に悪い。この男からすれば僕にヒントを教える必要など全くない。口先ではゲームを洗練させた褒美だとか言っていたが、それならなおさらヒントを出す必要性などない。なのにこの男はヒントを出した。そこにはこの男の何かしらの意図があったはずだ。 それは何だ? 何の目的でこの男は僕にあの答えを示した? 考えろ、僕があの男だったらどうするのか? 何が一番あの男にとって良いことなのか? ……駄目だ。 そんなのわかるかよ、こんな人の不幸を楽しむような腐った男の考えなんか……ん、まてよ。そうか、この男は僕が苦しむ姿を見て楽しんでいるんだ。なら、この男は僕が苦しみ、後悔し、泣き崩れる姿を求めているということだ。さっき、この男もそう言っていたじゃないか。 ということは、あの答えになっていない答えは、間違ったボタンを押した時に僕の後悔の念が深くなるように仕向けられたに違いない。それならば、この男が僕にヒントを出したのも頷ける。 僕がこの男の言葉を信じて雪奈が死んでしまった場合、それとこの男の言葉を信じずに雪奈が死んでしまった場合、このどちらが僕にとってダメージが大きいか? それがわかれば彼女を救える。 僕にとってダメージが大きいのは……やはり、この男の言葉を信じて雪奈が死んでしまった場合だ。もし、そんなことになったら悔やんでも悔やみきれない。 となると、この男の出した答えは嘘だということになる。ということは正解は赤のボタンだ。 僕はテーブルに置かれたスイッチに視線を落とした。目の前に置かれたはずのスイッチがやけに遠くに感じる。 「残り九分と五十七秒だ」 僕が顔を上げて男を見ると、男は口の端を吊り上げてニタリと笑った。 くそったれ――僕は口の中で小さく呻いて、再びスイッチに視線を落とす。 ――赤だ、きっと間違いない。 心臓の鼓動が頭の中に鳴り響く。 ――確証はない、でも根拠はある。 呼吸が乱れ、口元を通過する空気の音がハッキリと聞こえる。 ――押せ。赤のボタンを押すんだ。 僕は首筋を濡らす汗を右手で拭った。粘ついた汗が掌に纏わりつく。 テーブルに並ぶ拳銃とスイッチが霞んで見えた。 僕は赤いボタンの上に、そっと右手を添える。 一瞬、雪奈の笑顔が頭を過ぎり、頬を伝う汗が拳銃の上で弾けた。 ……。 …………。 ――? ちょっと待てよ、おかしくないか? ふと、僕の頭に疑問が浮かび上がった。僕は赤いボタンから手を離して、右手で口元を覆う。僕の視界には撃鉄を起こしたままの拳銃とスイッチが並んでいる。 「おや、どうしたね? 何故ボタンを押さない? 残り時間は八分を切ったが、君はこのまま彼女を見殺しにするのかね」 僕は男の言葉を無視した。 やっぱりおかしい。あれだけ手の込んだルールを考えていて、何故放って置いた。この男にとっては最も気をつけなければならないことのはずなのに……。 僕は改めて、部屋の中を見回した。 床に敷かれた青いシート、隣の部屋に続く扉、壁に掛けられた大きな絵画、出口と思われる扉、斜め後ろで拳銃を突きつける高木、立派な棚に飾られた高そうな壺や絵皿、壁際へと続くスイッチのコード、そして目の前に悠然と座る男。 なるほど、僕の疑問は強ち的外れじゃ無いかもしれない。でも、まだ根拠が弱すぎる。 僕に残された時間はおそらくあと七分弱。くそっ、少ない。あまりにも少なすぎる。 とにかく思い出せ、今までのこの男の行動を、言葉を。きっとどこかにあるはずだ、僕の考えを後押しする何かが。 ……。 ん? そういえば何であの時……そうか、その可能性も有り得るな、ということはこのゲームは……いや、これはただの憶測に過ぎないか。これも一つの要素だが僕の考えを裏付けるには弱すぎる。他にないか? 何か、こう決定的な何かが…………。 「残り四分と二十六秒。君が何を考えているのかは知らんが、精々最後まで足掻いて私を楽しませることだ」 残り四分半――僕はその言葉を聞いて、再び爪を噛んだ。 焦るな、落ち着け、まだ時間はある。しっかりと思い出すんだ、今までのやり取りを……。 ――っ! 見つけた。この男が言ったあの言葉は明らかにおかしい。 ということは、やはりこのゲームは……うん、おそらく間違ってないだろう。そう考えれば、この男のおかしな発言にも納得できる。 一度でも疑問に思ってしまえば、おかしな部分は結構見つかるもんだな。しかし、何故今まで気付かなかった? 自分では可能な限り冷静でいたつもりだが、その実パニックになっていたということか? いや、それはこの際どうでも良い。とすれば、最後にこの男が出したヒントの真意は……。 「くっくっく、桧山恭介くん、とうとう残り三分を切ったよ。……三十四、三十三、三十二、三十一、三十、……。どうだね? 君の恋人に忍び寄る死の足音は? とても心地よい音色だとは思わんかね?」 男が腕時計に耳を当て、秒針の刻む音に聴き入る。 くそっ、もう時間が無い。僕はテーブルに置かれた拳銃とスイッチを見下ろした。 どうする? 僕の考えは間違って無い、と思う。でも、確証はない。赤いボタンを押すことに比べればこのゲームに勝利できる確率は断然に上だ。というか、僕の考えが正しければボタンは押せない。それは即ち、雪奈を殺すことになるのだから。でも、僕の考えが間違っていれば、僕は確実に死ぬ。 僕が生き残れる確率は、多分八十パーセントくらいはあると思うけど……。 「……、十九、十八、十七、十六、……」 男が楽しげに制限時間を読み上げる。僕に与えられた猶予は残り一分弱。タイムリミットはすぐそこまで迫っていた。 僕は不確かな根拠を元に決断を迫られる。選択肢は二つに一つ。でも僕の考えは既に決まっていた。あとは残りの二十パーセントの可能性を飲み込めるだけの勇気を出せるかどうかだ。 僕は意を決して拳銃を手に取り、銃口をこめかみに押し当てた。 「……多分無いとは思うけど、もしかしたらこれが最後になるかもしれないから言わせてもらうよ」 三十八、三十七、三十六、――僕は目の前で淡々と死を宣告する男を睨みつける。不思議と僕の左手は全く震えていなかった。 「よくもまぁこんなくそったれなゲームを思いついたもんだ。でも残念だったな。よく考えられたゲームだが、完璧じゃなかった」 時を刻む男の口調がほんの僅かだけ引っ掛かった。それは僕の背中を押すには十分すぎるほどだった。 男は何事も無かったように、数を数え続ける。十七、十六、十五、十四、――。 ひとつ、大きく息を吸って吐き、心の中で一度だけ雪奈の名を呼んだ。これが最後の台詞になるかも知れないけど、僕の心はなぜか落ち着いていた。 「わるいな。このゲーム、僕の勝ちだ」 左手の人差し指に一気に力を込める。刹那、撃鉄が落ちた。 ――静寂。 小さく響いた撃鉄の音は、瞬く間に部屋に吸い込まれ掻き消えた。 僕はひとつ息を吐き、こめかみに押し当てた拳銃をテーブルの上に放り投げる。目の前ではやれやれといった感じの表情を浮かべた男が額に手を当てて項垂れた。 「いやはや、まったく。まさかこんな形でゲームが終わるとは思ってもいませんでしたよ」 椅子に腰掛けた男が、今までとは違う口調で話しかけてきた。 「一体、どの時点で気付いたのですか?」 男は柔らかな口調で僕に尋ねる。 「そんなことはどうでもいいだろ。いいから、さっさと雪奈に会わせろ」 男は僕の言葉を聞いて渋々重い腰を上げる。そして高木に指示を出し、最後の灯りが燈された。途端に部屋が明るくなり、先程までの重苦しい雰囲気も暗さと一緒に消え去った。 そんな部屋の様子に目をやっている間に、男は金庫のような扉に手をかけていた。 「今まで幾度もこのゲームを行ってきましたが、見破られたのはこれが初めてですよ」 男はそう言って、扉をゆっくりと開けた。 扉の奥の暗闇から雪奈が静かに姿を現す。それを見て、僕は自分の考えが間違っていなかったことを確信した。 「恭、介……」 雪奈は涙で目を腫らしながら、小声で僕の名を呼んだ。 「雪奈……」 僕もその言葉に応えるかのように彼女の名を呼んだ。 あの涙は嬉し涙なのだろうか? それとも悲しくて泣いていたのだろうか? 「雪奈さん、大変申し訳ないのですがご覧の通りテストは失敗です」 男が雪奈に携帯とハンカチを渡しながら言った。 僕は――雪奈に言いたいことが有った筈なのに、その言葉は僕の口からは出てこなかった。 「ごめんね、こんな……恭介を試すようなことして……」 雪奈は涙を拭いて、ただ僕に謝った。 「大丈夫、別に怒ってないから……ただ、少し悲しいだけだから」 僕は出来るだけ柔らかい声で、そう答えた。 こんな下らないゲームで僕の愛を試されたのが悲しかった。本当にもう、雪奈に信頼されて無いんだってことがわかってしまったから。でも、雪奈をそこまで追い込んでしまったのは他の誰でもない僕だから。 僕はゆっくりと雪奈のもとへ歩いていって、そっと彼女を抱きしめた。 「これでもうゲームは終わりだろ。さっさと僕たちを家に帰してくれ」 僕は傍らに立つ男に向かって言った。 「そうですね、ゲームは終わりです。でもちょっと待ってください」 男はそう言って雪奈の名を呼び、雪奈も男の方を見る。 「あなたにお支払い頂いた代金は後日返金致しますので、こちらに口座――」 「別に、必要ないです」 男の言葉を遮って雪奈が申し入れを断った。 男は少し困った顔をして、言葉を続ける。 「ですが、我々は仕事を完遂できませんでした。お客様の満足のいかない仕事をして、お金を受け取ったのでは我々の信用に関わります。払って頂いている代金も決して少ないものではないですし……」 「要りません」 雪奈は頑なに男の申し出を断る。彼女が何を思って返金を拒んでいるのか僕にはわからないけど、不思議と悪い気分はしなかった。 「そうですか。では、この件に関しては後ほどこちらで処理させて頂きます」 男は少し間を空けて今度は「恭介さん」と、僕の名を呼んだ。 「先程もお聞きしましたが、このゲームが命を賭けたゲームではない――つまり愛の深さを測る為のテストであると何処で気付いたのですか?」 「そんなことに答える必要なんてないだろ」 僕はそっけなく男の言葉を一蹴する。 「いえ、これは我々にとっては死活問題なんですよ。たとえ趣味が高じた商売であっても、商売は商売。我々の仕事に欠点があるのであればそれは直さなければなりませんからね」 男はそれでも尚、引き下がろうとしない。 ゲームが終わってから始終丁寧な口調を貫き通しているが、作り笑顔に潜む眼差しにはゲーム中と同じ高圧的な感じが残っていた。きっとゲームの中で見た姿がこの男の本質なんだと思う。おそらくこの男の問いかけに答えない限り、僕たちは開放されない。 僕は少し考えて僅かに残った疑問、というより興味か、それを尋ねることにした。 「わかった。ただ、それを教える代わりに僕も幾つか尋ねたいことがある」 男は「私に答えられる範囲であれば」と僕の申し出を受け入れた。 「このゲームの勝利条件はあのスイッチのボタンを押さないこと、だと僕は思っている」 「その通りです」 男は答えた。 「じゃあ聞くが、一昨日行ったというゲーム。つまり遠野の彼氏がどうやってこのゲームに勝利したのか教えて欲しい」 男は目を細め、笑みをこぼした。成長した我が子を眺めるような、そんな笑顔だが、なにかが引っかかる。見ていて気持ちのいいものではない。 「彼は非常に素晴らしかったですよ。自己犠牲をも厭わない深い愛情。しかもその上で彼女を泣かせないように自分も生き残ろうと努力する姿は見ていて心地よかったですね。彼は『とにかく死体が一つあれば彼女は解放される』ということを確認した上で、高木に襲い掛かりました。あぁそれと――」 男は思い出したように言葉を付け加える。 「これは後で彼に聞いた話なんですが、彼はたった一発の銃弾に全てを託し、高木を殺した後で私に取引を持ちかけようと考えていたそうです。『新鮮な死体ならここに一つある、だから俺たちを解放しろ』とね。そして、最悪自分が倒れることになっても、死体は一つできるのだから彼女の安全は保証されるというわけですね」 なるほど、そんなやり方があったか。 僕はルールを逸脱することが二人とも殺されるという最悪の結果を招くのではないかと考えたからな。そんな方法は思いもつかなかった。 「じゃあ最後の質問だ。あんたの名前を教えてもらいたい」 「……残念ですが、その質問には答えられません」 予想通りの答えだった。まぁこんなことをしているんだ、少なからずトラブルもあるはずだし、自ら名乗るなんて馬鹿なことはしないか。 「では、今度はこちらの番ですね。あなたは一体何処で気付いたのですか?」 僕はテーブルの上に投げ捨てられた拳銃の方に視線を移して答えた。 「気付いたのは、本当にギリギリになってからだったよ。僕は赤いボタンを押そうとして、ボタンに手を置いた。その時に違和感を感じたんだ。スイッチの横に置かれた拳銃を見てね」 男は「その違和感とはなんですか?」とさらに突っ込んでくる。 「僕は一度自害を試みた。まぁ結局出来なかった訳だけど……その時、僕は撃鉄を起こしたままの拳銃をそのままテーブルに置いた。その動作自体はとても自然なものだったはずだ。だからこそ、あんたたちは見落としたのかもしれない。手に持った銃を自然にテーブルに置けば、当然銃口は前を向く。つまり、撃鉄が上がったままの拳銃の銃口がずっとあんたに向いていたわけだ。なのに、あんたたちはそれを気にしなかった」 「なるほど、それは確かに我々の落ち度ですね。今後気をつけねば。しかし、あなたはたったそれだけのことでこのゲームの正体を見破ったのですか? 確かにそれはあってはならない致命的なミスではありますが……」 男はすんなりと自らの落ち度を認め、さらに詳しく僕から情報を引き出そうとする。 「いや、それはただの切欠だ。確かにこのゲームの正体を知る上では大きな要因だったけど、さすがに僕もそれだけを根拠に自害を選択したりは出来ない。だから、その疑問――つまり、これは本当に命を賭けたゲームなのか? というものを後押しする何かが欲しかった」 「ということは他にも落ち度があったということですか……」 「あぁ、色々とな。例えばそう――」 僕はすぐ傍に掛けれた大きな絵画を指差した。 「この絵なんかも僕の疑問を後押ししたもののひとつだ。 左手に拳銃を持って自害すれば弾は右の壁に向かう。あの拳銃が頭蓋骨を打ち抜くほどの威力があるのかは知らないけど、弾が飛んでくるかもしれない方向の壁に絵なんか掛けたりしないだろ。要因としては弱すぎるけど、それでも僕の違和感を後押しするには十分だったよ」 僕は視線を男に戻してさらに続ける。 「それとあんただ。これが本当に命を賭けたゲームで、あの拳銃が本物であるならあんたが僕と同じ部屋、しかも目の前に座っているわけが無い」 男は「ふむ」と少しだけ頷いて腕を組んだ。 「さらに言えばあんたが僕に見せた雪奈の映像。あれにも違和感を感じた。 これは隣の部屋から雪奈が一人で出てきた時に確信したことなんだが、あれは録画映像だったんだろ? 本当に雪奈が捉えられているのであれば音声を流さない理由が見当たらない。悲痛な彼女の叫びを僕に聞かせた方が効果があるのはわかり切ってるからな。音声が無かったのは、それがあるとあんたにとって不都合だから、つまりそれのせいで真実味がなくなってしまうからじゃないかと考えた。そう考えたらあの映像は演技で録画なんじゃないかと思えた。 だから僕はあんたと雪奈が協力関係にある可能性を疑った。このことに気づいた時点ではただの憶測でしか無かったけど、一度でもそう疑ってしまえばこのゲームが何を目的として行われているのかは容易に想像がついた」 「ご推察の通りです、よく分かりましたね。さすがに我々でも素人にたった一日で完璧な演技をこなせるほどの指導は出来ませんからね。ふむ、この部分の改善は少しばかり厄介ですね」 男の言葉を聞き、僕はさらに言葉を続ける。 「でも、それでも僕には確証が無かった。僕が自害に踏み切った最後の根拠、つまりあんたが犯したもう一つの致命的なミスはあんたが僕に出したヒントだったよ」 「ふむ、やはり決定打はそれですか。あのヒントに込めた私の真意はそれなりにばれないだろうと思っていたのですが。参りましたね、こんなことになるのであれば褒美のヒントなど与えるべきではなかったですね」 男はなんとも微妙な笑顔を浮かべて言った。 「何を言ってるんだあんたは? 僕が言っているのはそのヒントのことじゃない。あんたが最後に出したヒントの答えは僕にはわからなかったよ。それを探って、僕の考えをより確かなものにしようとは思ったけどね。でも、それには時間が足りなすぎた」 意表を突かれたのか、男は僕の言葉に少し驚いた表情をする。 「僕が言ってるのはあんたが最初に出したヒント――三週間前のカップルの結果だ。 あんたの話ではそいつらは二人して部屋を出ることが出来なかったってことだが、あんたはその結果について『まったく残念なことだ』と言ったんだ。おかしいだろう、これが本当に命を賭けたゲームであるのなら、あんたはゲームを楽しみ、ゲームに勝利し、そして目的の死体も手に入れたということになる。もし、そうであれば三週間前のゲームの結果に対して『残念だ』なんて感想が出てくるわけが無い。じゃあ何故あんたは残念だと思ったのか、そう考えたら僕の憶測は憶測でなくなったんだ」 「なるほど、その私のミスであなたは確信したわけですね」 僕は男の言葉に返事を返さなかった。 引き金を引いた瞬間も、自分の考えに確信を持っていたわけじゃないけど、そんなことをこの男に言う必要はない。 「話すことは話した。さあ、僕たちを帰してもらおうか」 他にも命を賭けたゲームだとすると違和感のある言葉だが、愛の深さを測る為のテストであれば納得のいく些細な言葉のミスはあった。でも、そんなことまでいちいち説明する気にはなれなかった。 「わかりました。では、最後に雪奈さん」 男がもう一度雪奈に向き直り、声を掛ける。 「ちゃんと仕事をこなせなかった私が言うのもなんですが、今後は今回の失敗を踏まえて、より完璧な仕事を致しますので、もし恋に悩める女性をご存知でしたら是非とも我々のことをご紹介願います」 男は笑顔でそう言って、軽く頭を下げた。そしてすぐに高木に指示を出す。 「高木、お二人をお送りしなさい」 僕たちは高木に案内され部屋の出口へと向かった。 「そうだ、最後に一つあんたに言っておきたいんだが」 僕は同じ場所に立ち続ける男に向き直り言葉を続けた。 「こんな馬鹿げたゲームなんかで――」 愛の深さが測れると思ったら大間違いだぞ! そう言おうとして僕は言葉を飲んだ。 それは僕の本当の想いだし、あの男へ向けた言葉だけど、この言葉は雪奈を傷つけてしまうと思ったから。 「……いや、なんでもない」 男はただ「そうですか」とだけ言った。 僕たちは高木に案内され、非常扉を抜けて地下駐車場らしきところに連れて来られた。 そこには一台の黒塗りの高級車が止まっており、僕たちは手を後ろで縛られ、目隠しをされた上でそれに乗せられた。時間にして一時間かそれ以上か。ハッキリとはわからないけど、車は走り続けた。 その間ずっと、僕と雪奈が言葉を交わすことはなかった。 ◇ 後日、僕は一通の封筒を受け取った。 その封筒には『佐伯雪奈様へ』と書かれ、裏面には『シュレディンガーより』とだけ書かれていた。宛先も消印も無い、真っ白な封筒。差出人のなんとかってのは良くわからないけど、これが何なのかは容易に想像できた。 ――でもこの封筒を渡すべき相手は、もうここにはいない。 結局、僕らはあのゲームが原因で別れた。 あのゲームは僕らの間に出来た小さな隙間を埋めることなどなく、より広く、より深くしただけだった。 彼女にあんなゲームをさせるまで追い込んでしまったのは僕だ。だから、元はといえば僕が悪い。あのゲームにしたって、僕は結局彼女の為に命を投げ出すことは出来なかったし、ゲームの本質に気付かなければ僕は赤いボタンを押していた。 あんな馬鹿げたゲームで愛の深さが測れるなんて僕は思わないけど、あのゲームの中で僕が取った行動は紛れも無い事実であり、真実だった。 僕はその真っ白な封筒をポケットにしまい、バイクのキーとメットを手に取る。 今回のことで僕はあるひとつのことを知った。それは二つ一組で、どちらが欠けてもいけない。僕はそのうちの一つしか知らなかった。もし、雪奈と喧嘩する前にこのことに気付いていれば、僕たちは別れなくても済んだかもしれない。 この世には言葉にしなければ確かめられない想いがある。 でもその想いは言葉だけじゃ決して伝わらない。 玄関を開けると、眩しい光が僕の目に差し込んできた。 たぶん、雪奈に会うのはこれが最後になると思う。もう既に別れた後だけど、それでもまだ、彼女のことを忘れられない自分が残っているから。 彼女は僕を信じようとしてくれた。でも、確かめられない想いは彼女を不安にさせ、追い込んだ。不安で、不安でしょうがない。信じたいけど、信じ切れない。どんなに想い合っていても、言葉にしなければ、行動で示さなければ、それは伝わらないんだと思い知った。 それでも、僕はどこかで言葉なんて必要無いと思いたがっている。 愛し合う二人は互いに言葉なんて要らないほどわかり合えると思いたがっている。 でも今度僕が愛する人には、ときどき僕の想いを言葉にして伝えようと思う。 君が好きだ――というたった六文字の言葉にありったけの想いを込めて。 |
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●感想
MSさんの意見 >「私はこれから嘘をつく」 > 煙草から立ち上る煙が揺らめく。 >「赤のボタンを押せば彼女は助かる。いいかね? これは嘘だ。そして、黒のボタンを押すと彼女は死ぬ。ヒントは以上だ。あとは君が私を信じるかどうか、だがね」 の部分で思ったのですが、『いいかね? これは嘘だ。』の部分で前の『赤のボタンを押せば彼女は助かる。』の文を否定していることになり、彼女は死ぬと言うことになります。その後最初の『私はこれから嘘をつく』と言う言葉が適用され彼女は助かることになります。 『黒のボタンを押すと彼女は死ぬ』の文はそのまま最初の嘘が適用され、これも彼女は助かると言うことになります。 つまりどちらのボタンを押しても彼女は助かると言う結論も考えられます。銃に関してはわかりませんが、このような隠れたヒントのような文章に深いなぁと思わされました。 一言コメント ・トリックを見破る根拠を「積み重ねた」分だけ、ちょっと希薄だったかもしれません。 ・起承転結は上手。物語の長さは半端。個人的には主人公に共感できず。 もうひとつ最後にオチがあったら唸ってた。頭で考えた小説に見える。個性的で楽しめます。 |
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