高得点作品掲載所       じゅんのすけさん 著作  | トップへ戻る | 

うたたね♪

序章 その日あたしは魔女に出会った

 歌が好き。
 あたしにとっては歌がすべて。歌は世界そのもの。
 あたしの人生から歌を切り離すなんてできはしない。歌っていないあたしはあたしじゃない。ある意味寂しい人生だけど、そう断言してもいいくらい、あたしはいつでも歌っていた。
 始まりは小学校に上がる前のこと。なにもわからないまま親に連れられオペラを観た。
 新聞屋さんにでも貰った安物のチケットだったと思う。全然一流とかじゃない、どうにかギリギリプロとしてお金取ってますって感じのささやかなオペラ。
 物心がつくかどうかの女の子がオペラなんかに興味があるわけない。あたしはただ、帰りに豪華な外食にありつけるかもしれない、そんな程度にしか考えていなかった。
 でもその晩になにを食べたかなんて、もう記憶の片隅にも残っていない。
 なのに、オペラの内容と受けた衝撃だけは今でも色鮮やかに心に刻まれている。これって凄いことだ。幼稚園のころに体験したほんの数時間の出来事を、十年経っても覚えているなんて。
 つまりそれだけの感動があったということだ。
 あたしだって女の子だ。恋愛映画を見れば憧れを抱き、心に波紋が起きもする。けど、そのときの心の揺らぎは波紋なんていう可愛らしいものじゃなかった。嵐だ。波が心の堤防を決壊させそうなくらい、暴力的な衝動だった。
 以来あたしは声楽を習い、ひたすらに毎日歌い続けてきた。
 もう一度言う。
 歌が好き。
 あたしにとっては歌がすべて。歌は世界そのもの。
 そんなあたしの前に、あいつは――魔女は現れたのだ。
      ♪
「あぢぃ〜、死む〜」
 殿方にはとてもお見せできないだらけきった顔を晒して道を行く。その道も、アスファルト付近は空気がうねうね歪んで見える。
 世界のなにもかもがとろけてしまっているのだ。
 張り切っているのはどこからか聞こえる蝉たちの大合唱のみ。いくら歌好きなあたしでも、夏場は彼らの合唱に張り合う気にはなれない。
 夏休みの真っ最中だというのにあたしは中学の制服姿。一見涼しげなんだけど、セーラーカラーというのは結構暑い。それにあたしはチビだから、地表付近の熱を人より多く感じるのだ。
 どうしてこんな格好かというと、部活帰りとかじゃなく学校見学の帰りだったりする。来春受験予定の私立校「ミカエル大付属高校」だ。
 ちなみに共学。女子校での百合ライフも捨てがたいけど、BL的要素も捨てがたい。双方の欲求を満足させるならやっぱり共学に限る。
 試験に落ちなければここの学生になると思う。声楽部があまり盛んじゃないみたいだけど、今までだって歌は部活に入らずやってきたんから問題ない。
 それにしても暑い。今日はこのあと病院だ。面倒だな……。
 ふらふら、だらだら。体が溶け出しているんじゃないかなどと思いつつ、高校を背にあたしは駅へ向かって歩いていく。見学会を終えて帰宅する、とりどりの制服を着た子たちもおんなじくらいドロドロした足どりだ。
 駅へと向かう住宅街の道すがら、あたしの視界を白く涼しげな影がかすめた。
「ん〜?」
 顎を上げれば、前方から白いワンピースを着た女の人が歩いてくるのが目に入る。
「うわあ……」
 思わず漏れる感嘆のため息。すごい美人さんだ。モデルか芸能人か。あたしとちがってメリハリのとれた体型にスラリと伸びた身長が、こんな住宅街さえ映画のセットかと思わせる。
 黒い髪もなんて綺麗なんだろう。色が濃い。まるで闇そのものが糸になって流れているみたいな髪。それが、水が落ちるような素直さで腰のあたりまでまっすぐ伸びている。
 うだる暑さの中、彼女のまわりだけ冬の湖さながらの空気ができあがっていた。当然、注目されないわけがない。わざわざ立ち止まる人はいないけど、すれ違うときには誰もが彼女の横顔を盗み見ていく。
 こんな美人さんの進路を邪魔するなんて恐れ多い。あたしは大げさなくらい左に寄って、美女のための道を空けてあげた。
 なのに、美人さんは空けたスペースを通らずまっすぐこっちへやってくる。
 あたしは大いに戸惑った。どうして? あたし、なにか粗相でもしただろうか?
 ひょっとしてあたしのあまりの美貌が、こんな美人さんさえ嫉妬させてしまったのか。
 美人さんは、あたしの目の前で立ち止まって妖艶に微笑んだ。
「え? あの? な、なにか?」
 動揺。キョドッたあたしは意味もなく手足をバタつかせた。端から見たら怪しいダンスにしか見えないだろう。正直かなり恥ずかしい。
 けれど動揺だってする。間近で見たらホントに美人なのだ。特に髪と同じ闇色をした切れ長の瞳が恐ろしくキレイだった。
「あなた、いい声を持ってそう」
 不意に美人さんが口を開いた。でも、言っていることがよくわからない。ただなんとなく、ゾクリとしたものが背筋を走り抜けた。
「いただくわ」
「え、あの?」
 美人さんの微笑が近づいてくる。妖艶で、とても魅惑的な笑み。どんな男でも、もしかしたら女だってコロリとKOしてしまえるくらいの美しい表情だった。
 だけど……だけどあたしのお腹の底から湧いてきた感情は幸福感なんかじゃない。
 恐怖だった。
 美人さんの笑顔が、まるで壁際のネズミを見つめる猫のように感じられたから。
 なに? 一体なにが起きてるの? あたしはただ、学校見学を終えて駅へ向かっていただけ。まわりにはいくらでも同年代の子たちがいたというのに。
 なんであたしはこんなキレイでコワイ人に目をつけられてしまったの?
「怯えないで、力を抜いて」
 口調が変わった。どこか高みから話しかける風情だった声が、歌うようなゆったりとした語りかけに移ろっていく。
「そう、なにも怖がることなんてないのよ」
 彼女が言葉を紡ぐたび、あたしの体から力が抜けていく。このままじゃ糸の切られた操り人形みたいに、くてっと崩れ落ちてしまいそう。
 闇色の瞳がますます寄ってくる。今度はあんまり怖くない。
「いい子ね、ほら、わたくしに身をゆだねるの。そう、顎を上げて」
 視界が揺れている。あたしがふらついているのか、それとも……。
 なんだろうこの気持ち。心が体から抜けだして宙を漂っているみたい。眠ってなんかいないのに、幸せな夢の中にやってきた心地。
 あたし、ちゃんと自分で立っているだろうか。他人の視線はどうだろう。
 ……まあ、いいか。
 今は美人さんの甘やかな声を聞いていたい。目の前で小さな唇がなにかを言っている。
 あたしは言われるままに、顎を上げて体を美人さんに預けた。他にも色々指示された。それにあたしは従った。
 なにを言われているのか、理解はできていなかった。でも、自分が言葉のままに操られていることだけはわかる。
 視界の中で、見上げるほどだった美人さんの唇がだんだんと近づいてきて、それは目線よりもさらに下がっていき――喉に違和感を走らせた。
 脳天に雷が落ちたような衝撃。
 靄がかかっていたあたしの視界が瞬時に晴れた。女の声しか聞こえていなかった耳に周囲のざわめきと蝉の合唱が割りこんでくる。
 急に正気に舞い戻る。とっさに美女から飛び離れた。
 なに今の? あたしはなにをされた?
 見上げる美女は、満足げに口の端を上げている。
「ごちそうさま」
 悪戯っぽく笑う美女を見て、あたしは違和感を得た喉に手をやった。
 嫌な、とてつもなく嫌な予感がする。
 そんなあたしの心境をあざ笑うかのように、美女は続く言葉を口にした。
「あたなの歌声、いただいたわ」
「な……」
 怒ろうか。笑おうか。呆れようか。
 あたしがリアクションに迷っているうちに、美女は肩が触れ合うような距離であっさりとすれ違っていってしまった。小さく、あたしだけに聞こえるくらいの声で歌を口ずさみながら。
 有名な曲。映画にも使われたことのあるクラシック歌曲。あたしの十八番。美女の口から流れる旋律は――あたしの、歌声。
 理解ができなかった。あたしの声が、他の人の口から聞こえるなんて、そんなことあるわけない。でも、鼓膜をくすぐるのは間違いなくあたしの声なのだ。
 ――あなたの歌声、いただいたわ
 そんな馬鹿な。あたしは慌てて、喉にやった手を下ろした。喉の違和感なんて、気のせいに決まっているのだから。
 その証拠に、あたしはちゃんと歌える。
「あ……あ……あれ?」
 おかしい。こんなカラスみたいな声のはずはない!
「あぁ……あぅ……あれ? なにこの声」
 喋る声は普通に出てる。でも歌おうとすると……。あれ? どうして……。
 見学会があったため人通りは少なくない。当然、一人で「あーあー」言っていれば気味悪げな目だって向けられる。
 それでもあたしは声を出すのをやめなかった。
 いつの間にやら美女の背中も消え失せて、人通りが減って、ついには誰もいなくなっても。
 いつまでもいつまでも。
 あたしは、声を出すのをやめなかった。
 何度だって言う。
 歌が好き。
 あたしにとっては歌がすべて。歌は世界そのもの。
 なのに、中学三年生の夏のこと。魔女は、あたしから歌声を盗んでいってしまったのだ。



一章 戦っているつもりで足掻いて……

 あたしの喉が歌声を失おうと季節は無情に過ぎていくわけで。
 当然のように秋がきて、冬がきて、受験シーズンという名の嵐の季節も過ぎ去って、あたしは無事に高校生となった。いや、無事にと言っていいものか。
 あれ以来成績の落ちること落ちること。わりと優秀だったこのあたしが受験に苦戦するなんて、屈辱もいいところだ。それもこれもすべてあの魔女のせい。
 出会った場所が学校の近くなのでいずれ見つける機会もあるかと思い、意地でもミカエル大付属に入学してやった。入学して一週間、今のところ成果はないけれど。
 クラスでは、入学後間もないのにもう席替えがあった。どうも、出席番号順などの便宜上の決定ってやつが嫌いな人が多いらしく、熱烈な席替え要望が挙がったのだ。
 あたしの目の前の席になった男の子も、少しばかり変わっている。なにしろ髪が金色だ。
 その彼は変わったばかりの席に興奮しているみたいでやたらとテンションが高かった。
「おう、よろしくな! ところでお前、部活決めたか?」
 そんな会話を右の席の人に振っている。右の人がすでにどこかに仮入部済みであることがわかると、今度は左の人へ。続いて前の人へ。
 感心するほど元気がいい。そして当然、流れからすると次は――
「うおおっ、後ろは女子か! オレ、三瓶九太! よろしくな! ええとあんた、名前は」
 やはりきた。訊かれた以上、答えないのは失礼だろう。
「山咲スミレ」
 一言だけだけど、なるべく無愛想にならないように気をつけて返事をした。というか、金髪少年のテンションに押され気味で気の利いたセリフが浮かばなかった。本来ならあたしは、もう少しユーモアのある人間なのに。
「山咲か、よろしくな! で、もう部活決めた?」
 目をキラキラ……いや、ギラギラさせた九太くんが、男子にしては小柄な体を乗りだして質問を飛ばしてきた。
 なんといか、いかにも「少年!」という感じの男の子だ。麦穂色に脱色した髪は寝癖みたいに暴れていて、笑うと覗く歯は白い。八重歯がちょっとしたチャームポイントだった。
 笑顔がやんちゃな感じで一部の女子のツボにはまりそうな子。あたしもこういうタイプは嫌いじゃない。こういうのは、大人びたクールな男子と組み合わせると美味しいBLカップルになりそうだ……。などと考えるあたしはやっぱり変わってるんだろう。
 勝手にホモカップリングを想像されているとはまさか思うまい。九太くんは開けっぴろげな笑顔であたしの返事を待っている。
 返事……。一瞬思考が停滞したが、すぐに部活のことだったと思い出した。
「うんにゃ、特に決めてないよ」
「おおそうか! じゃあ軽音こいよ! 歓迎するぜ! なんだったら見学だけでもいいからさ。今日の放課後、講堂で新歓ライブやるんだ! オレも出るから聴きにこいよ!」
 ずい、ずい、ずいと乗りだしてくる九太くん。熱い、というか暑苦しい。
「一年なのに、ライブ出られるの?」
 ギラギラと迫ってくる顔を両手で押し返しつつ、あたしは至極まっとうな疑問を返した。なにせ入学してまだ一週間ちょっとしか経っていないのだ。今月いっぱいはどこも見学および仮入部期間。軽音部の内部事情は知らないが、一年生のぺーぺーがライブに出られるものなのか。
「オレは付属組だからな。中学のころから高等部の軽音部に参加させてもらってたんだ!」
「あーそれで」
 あたしは納得して机に肘をついた。
 新入生だけで六百人いるそれなりに大きな学校だけど、そのうち百人くらいは附属中学からの繰り上がりだ。そういった事情なら、一年生でライブ出演というのもわからなくはない。
 行かないけど。
「ちょっとやそっとじゃ中坊が高校の部活に参加させてもらうなんてできねえんだぜ! その壁を越えたオレの腕前を見せてやるよ!」
 教室中に響き渡る声で叫んだかと思うと、九太くんはやにわに席に立てかけてあった皮のギターケースを開け放った。そして一動作のうちにエレキギターを肩にかけ、ピックで弦をかき鳴らす。
「うおおお! オレのギターを聴きやがれ!」
 ノリノリでギターをかき鳴らす九太くん。その演奏は繊細かつダイナミックで、独奏開始からわずか五秒にして――
「うおおおおブベァッ!」
 担任教師の鉄拳によって中断させられた。
 HR中なんだから当たり前だ。
 九太くんは、殴られた脳天を抱えて机に突っ伏し身動き一つとろうとしない。いや、違った。なんかピクピク痙攣してる。
 とりあえず担任の拳がとても危険なしろものだってことを身をもって教えてくれた九太くんの犠牲は無駄にはすまい。あたしは今後、HR中に無駄なお喋りはしないように心がけることにします。
 だから九太くん、安らかに眠ってください。
      ♪
 悪いけど、軽音なんかに興味はない。
 あたしがやりたいのは声楽だ。かつての美しいソプラノを絶対に取り戻してやるのだ。
 舞台で披露するあたしの美声。耳を傾ける観客席の聴衆たち。スポットライトに映えるあたしの美貌に人々の視線は釘付け。拍手、花束、歓声――
 そうだ、そんな世界があたしを待っている。かつていたあの世界に戻るためにも、あたしは妖精のようだったソプラノボイスをもう一度出せるようにならなくてはいけない。
 軽音なんて、名前からしてダメダメだ。
 ――軽い音。なんて薄っぺらな響きだろう。
 そんなわけで放課後になると、あたしは教室でちょっとだけ時間を潰してから特別教室棟の三階へとやってきたのだった。
 見上げるプレートにはこうある。
〈音楽室〉
 ここで声楽部の面々が活動しているはずなのだ。
 正直に言おう。今現在、あたしの歌声はとても聴けたものじゃない。音痴とかそういうことではなく、声楽のための高い声がさっぱり出せない状態だ。つまり、ただの素人が歌うのとなにも変わらない。
 だからあの夏の日以来、あたしは人前で一切歌を歌っていない。受験に集中するからなどと口実をでっちあげ、レッスン通いも休止した。今は学校生活に慣れるためという理由でお休みをいただいているが、そんな言い訳も一学期いっぱいしか保たないだろう。
 自分で言うのもなんだけど、あたしは期待されているのだ。ドイツでオペラの舞台に立ったことだってある。
 そのあたしが今さら高校の声楽部に入ろうとしているなんて、高飛車な物言いだけれどやっぱり悔しい。オペラに出たことさえあるあたしが、初心者歓迎の高校の部活動になんて。
 でも、初心者歓迎の部活動だからこそ、あたしに歌い方を思い出させてくれるかもしれない。
 そうだ。認めよう。今のあたしは初心者と同じ。だからあたしはこのドアを叩かないといけない。プライドなんて、歌声を取り戻すためなら安いものだ。
「よ、ようし」
 ごくりと唾を飲みこんだ。
 やたらと緊張する。「見学希望です」と言って中に入れてもらうだけなのに。学校の見知らぬ部屋というのは、どうしてこんなに入りづらいオーラをむき出しにしているんだろう。
 とりあえず今日のところは音楽室の場所とドアの外観だけ確認しにきたということで、中に入るのは明日にしてしまおうか……。
 駄目だ。だんだん弱気になってきている。花も恥じらう乙女なあたしが顔を覗かせている。思えばいつもそうだった。舞台とかは平気なのに、用意したバレンタインのチョコは本命も義理も、恥ずかしくなってしまって一個も渡せたことがないのだ。
 今回も、あたしはその轍を踏もうとしている。
 部活に入ったからって歌声を取り戻せるかはわからないし、別にいいじゃない……などと言い訳がましく考えそうになる自分が情けない。
 本当に情けない。このままでいいはずなんて絶対ないのに。あたしにとって、歌こそすべてだったのに! 歌えないあたしなんて、あたしじゃないのに!
 思い出せ! あの夏の日のこと、魔女の微笑を! 魔女の口から奏でられた歌声を! あたしのものだった歌声を!
 あたしはもう一度歌うためだったら弱い自分だってきっと捨てられる!
 だから、この扉をノックするのだ!
 と、勢い勇んで右腕を上げたところで、目の前の扉がいきなりガラッ!
 きゃぴきゃぴした女子高生の群れがゾロゾロッ!
 あたしのミニマムボディーは女子高生たちのスクラムを食らってどーん!
「あ、そこのあなたごめんね! これから軽音の新歓ライブがあるから急いでるの! 早く行かないといい席が取られちゃう! 入部希望だったらまた今度持ってきてねっ。じゃあ!」
 それだけ言い残して、声楽部の先輩方は、講堂のほうへ埃を巻き上げつつ走っていってしまった。残されたあたしは、突き飛ばされた拍子に廊下に尻をついた格好のまま、呆然とそれを見送るばかり。
 ついでに言うなら突き飛ばされた拍子に壁に後頭部をぶつけたんですけど。とってもズキズキするんですけど。
 さらに加えるなら、目の前を通っていく他の生徒たちはあたしに手を貸してくれることもなく、男どもに至っては明らかに開いたスカートの中を見ていきやがってるんですけど。
 これはなに? 放置? プレイ? さっきまでのシリアスで熱血だったあたしはどこ?
 気づけば、声楽部の先輩の背中はもう見えない。完全に置き去りだ。
 いかにも木枯らしがが吹いて枯れ葉が目の前を流れていきそうな雰囲気だった。屋内だし春だからそんなマンガみたいな現象は起きないけれど。
 思わず拳を握りしめていた。それを床に叩きつけると、痺れるような痛みが腕を駆け上がってくる。ふざけるな! そう怒鳴ってしまいたかった。
 なんだこの状況は。新歓ライブ? 新入生でもないくせに……声楽部員のくせに……喜びいさんで出かけるなんてなにを考えているのだ。
 この学校の軽音部はレベルが高いという噂は知っている。でもこれはあんまりだ。人から見たら下らないことかもしれないけれど、音楽室のドアを叩こうと決心するのは、あたしにとっては凄く大きな試練だったのに。
 なのにこんな、やる気のない部だったなんて……。
「あ〜あ」
 意味もなく落胆の声を漏らしてあたしはのろのろと立ち上がった。お尻の埃を払ってふと思いつく。あたしのパンツを覗いていった奴らからお金を取ればよかったな、と。
 覚悟とお金を損した気分になって、もう帰ろうかと音楽室に背を向けたとき、それは聞こえてきた。
「ピアノだ……」
 流れるような清らかな旋律。小川へ流れこむ雪解け水のように澄んだ音色。それでいて生命の息吹を感じさせる春の響き。
「これは……この演奏は……」
 なんて美しい調べなんだろう。ささくれだった心を静めてくれる清らかなアルペジオ――いわゆる、和音を同時に鳴らすのではなくハープのように分散して奏でる奏法。
 これを本当に高校生が? ううん、もしかしたら音楽の先生かも。
 俄然興味を取り戻し、あたしは音楽室のドアからひょいと首だけ覗かせた。
 部屋の奥に、ピアノはあった。鍵盤の上で優雅に指を滑らせているのは一人の女生徒だった。
「おお……」
 思わず漏れる感嘆のため息。なぜならあまりにも可憐な人だったから。
 別にそういう趣味はない。百合やBLを好きなのはフィクションの中だけだ。
 それでもため息が出てしまうくらいかわいい人だった。和風良家のお嬢様といった雰囲気の人。眉のあたりでまっすぐ切られた前髪といい肩で綺麗に揃えられた髪といい、和服を着てお茶でも点てさせたらものすごく絵になりそうだ。
 伏せた瞳を縁取る睫毛も長くてしなやかに見えた。
 素晴らしい……。なんて素敵なんだろう。気が強くてプライドの高い長身美女でもいれば、最高の百合カップルができあがるに違いない。
 無駄に荒くなってきた鼻息を抑えるのが一苦労だった。それより今はピアノだ。
 曲はアヴェ・マリア。今まで何度も歌ったメロディ。
 そんなことを考えていると、いてもたってもいられなくなってきた。まるで誘うような……いや、導くような……そんな演奏だった。
 衝動。歌いたい。とってもとっても歌いたい……。そして、あたしは誘惑に身をゆだねた。
「Sancta Maria, Mater Dei……」
 まったく声楽らしくない歌声。音程を外しているわけではないが、以前の惚れ惚れするソプラノからはあまりにかけ離れたあたしの歌声が演奏に乗っかった。
 ピアノの女生徒の瞳がこちらを向いた。感情の薄い、波のない水面みたいな目だった。
 一瞬、演奏を止められるのかとヒヤヒヤした。あたしのしていることは、はっきり言って失礼極まりないことだ。怒らせたとしても不思議じゃない。
 でも、ピアノをなでる繊細な指は舞いをやめなかった。
 許された……? なら、続きを歌ってもいいんだろうか。
「ora pro nobis peccatribus, nunc, et in hora mortis nostrae. Amen」
 曲がすでに終盤だったこともあって、あっさりと歌い終わってしまった。それからわずかして演奏もフィナーレを迎え、ピアノ少女の指が鍵盤を離れて膝の上に置かれた。
 当然、場には静寂が降りる。どうすれば……。途端にあたしは戸惑った。
 やってしまった。人の演奏に勝手に下手くそな歌をへばりつけるなんて、信じられない狼藉だ。向こうがなにも言ってこない以上、こちらから謝るしかない。
「す、すみませんでしたっ!」
 声が思い切り裏返った。
 歌っているときはちっとも上手く高音が出ないのにこんなときだけ。
 軽く落ちこみつつも、沈黙が気まずくならないように歩み寄りながら話しかける。
「あ、あのっ。スバラシイ演奏でした!」
 物静かな瞳がこちらを向いて、ピアノ少女は不思議そうに小首を傾げた。
 そんな仕草もお人形さんみたいでかわいい。あたしを見つめる瞳は黒曜石に似て神秘的で、混じりけのない黒髪は、まるで満天の星空みたいにそれ自体が輝きを放っている。小ぶりな唇も花びらみたいで愛らしかった。
「声楽部の人ですか? あたし、一年の山咲スミレっていいます! 今日は見学をさせてもらおうと思ってですねっ」
 いけない、焦って早口になりすぎている。相手に喋る隙くらい与えないと。
 やたらしゃべくりながらずんずん近寄ってくるあたしに身の危険でも感じたのか、ピアノ少女は椅子の上で体をのけ反らせた。
 あたしは、いつの間にやら会話をするには少々近すぎるくらいの位置まで詰め寄ってしまっていた。他人事ながら結構怖いだろう。相手にちょっと同情する。
 相手はあたしをじっと見つめつつ沈黙。三秒、五秒、十秒……だんだん気まずくなってくる。
 重たい沈黙を破ったのは、物静かなたたずまいのピアノ少女のほうだった。なんの前触れもなく、きっかけもなく、ぽつぽつと口を開く。
「青龍院……蓮華。二年生です」
「は、はあ……」
 名前……だろうか。和風良家のお嬢様なんていう勝手な想像がいかにもと思えてくるような仰々しい名前だった。それにどことなく上品な雰囲気。本当にお嬢様なのかもしれない。
 ともあれよかった。声楽部の中にもやる気のある人がいてくれたのだ。やっぱり軽音のライブなんかのために部活を休むような人ばかりじゃなかった!
「あの、青龍院先輩、あたし、今日はせいが――」
「蓮華で……いいです」
「そ、そうですか。蓮華先輩、ですね。で、今日は――」
「そう」
 わざとではない――と思いたい。会話の間が全然噛み合わない。
 なかなか喋りたいことを言えずにいると、蓮華先輩はほとんど音をたてない動作でピアノ蓋と鍵盤蓋を閉じ、楽譜を片づけ始めた。
「あれ、蓮華先輩、帰っちゃうんですか? 今日は部活――」
「用事が……あります。講堂へ」
 相変わらず会話のタイミングが合っていない。けれど、それは些細なことだった。蓮華先輩が講堂と言った。そのほうがよっぽど重大だ。
 落胆……ううん、失望と言っても大げさじゃない。
 せっかくやる気ある先輩に出会えたと思ったのに。蓮華先輩のピアノの音色には、本気で心を奪われたのに。この音色が導いてくれるなら、いつか歌声を取り戻すことだってできるかもしれないって、そんな希望さえ抱いたのに。
 なのに蓮華先輩まで、声楽部より軽音のライブが大事だなんて……。
 先輩は、静かなのに動作自体はてきぱきとしていた。もう楽譜を鞄にしまい終わって音楽室を出る準備が整っている。
「山咲……スミレさん」
 てっきり無言で去っていくものだと思っていたので、声をかけられて思わず肩を跳ね上げてしまった。少しばかり恥ずかしい。
「はい、なん――」
「また……」
 たった二文字だけを残して、先輩はしずしずと音楽室を出ていった。やっぱりというか、歩くときもほとんど音をたてない。
 なんだか変わった人だった。「また」というのは一応挨拶……だろう。「さようなら」ではなく「また」ときた。無愛想かと思ったらそんな挨拶を残して去るなんて。人をガッカリさせておいて再会を意味する挨拶をよこすなんて。
 混乱しかかっていた。この感覚はなんだろう。毒気を抜かれたというやつだろうか。
 声楽部には失望したのに蓮華先輩には失望しきれなかったというか。
「部活……どうしよ」
 ちょっと歌ってみたい気分になっていた。久しぶりにアヴェ・マリアなんて歌ったからだろうか。いや、あんなのは「歌った」なんて恥ずかしくて言えないレベルだが。
 でも、下手でもいいから旋律を紡いでみたい気分。
 あたしは一つ息を吐いてから、鞄を肩に担ぎなおした。
      ♪
「ドナドナドーナードーナー、荷馬車がゆ〜れ〜るぅ〜」
 仔牛っぽい声で歌を締めくくった。
 日は傾きつつあるものの空は青い。風が心地いい。
「はぁ、春だねぇ」
 じじむさく呟くと、屋上の手すりに肘をつきながら次に歌う曲を考えた。よしあれだ。
「かーえーるーのーうーたーがー」
 カエルっぽい声で独唱。いつもならすぐに惨めになってやめてしまうのに、今日はなぜだか歌い続けていられる。
 ヘタでもこうして歌っていると思い出す。あたしは歌が大好きなんだって。
「好きだからやってるんだもんね」
 カエルの歌を中断して、自分の胸の内っ側に向けて囁く。こういうのって、ちょっとしたことですぐに忘れてしまう。だから確認の意味もこめて時々口にするのだ。
 屋上は立ち入り禁止なのかと思っていたらそうでもないようだ。少なくとも放課後は屋上を活動場所に定めている部活もあるらしく、出入り口は普通に開放されていた。
 ちなみにあたしがいるのと反対側では演劇部が発声練習をやっている。
 そう。あれこそ部活動のあるべき姿だ。軽音のライブのために練習をほったらかしにするなんて言語道断。
 とはいえ、今日は放課後の校内が少し静かな気がする。やはり声楽部みたいなところが多いのだろう。うちの軽音はレベルが高いらしいし、いくつか組まれているバンドの中にはファンクラブまで抱えているものもあるんだとか。
 人が音楽に関心を持ってくれるのは嬉しいけれど、声楽とか、オペラとかのクラッシック歌曲にもっと人気が集まってほしい。
「さて、もう少し歌っていこっかな」
 そう決めて体を起こしたところで、手の中で紙切れがカサリと音をたてた。
 音楽室にあったので勝手にもらってきたチラシだ。あんな部でも一応新入部員を勧誘するつもりはあるらしく、声楽部へ誘う煽り文句がいろいろ踊っていた。
 いわく「楽しく」とか「仲よく」とか「初心者歓迎」とか、そんな文章。
 確かに楽しそうではあった。連れだって講堂へ向かう彼女たちはいかにも仲よしグループといった風情だった。それはまあ、部員同士で仲よくするのはステキだって思う。けれどやっぱり、声楽をやってないい声楽部なんかに用はない。
 チラシに目を落とすと活動日が書いてある。それによると部活動があるのは月曜日と水曜日だけらしい。
「イマイチだなー。やる気なさそうだし、入る気にはなれないなぁ」
 やはり独学で歌声を取り戻すしかないか……。独学といっても、声楽のレッスンは今までさんざん受けているし、初心者用の訓練くらいは指導者がいなくても平気なはずだ。というか、やってみせるしかない。
 受験はとっくに終わってるのだ。歌がすべてと公言していたあたしがいつまでも歌わずにいたら、さすがに家族だって不審に思うかもしれない。
 だから頑張って歌わないと。
「あるぅ日〜森のな〜か〜……」
 熊っぽい歌声を夕方手前のグラデーションがかった空に披露。空はどんなに下手な歌でも黙って聴いてくれる。いい練習パートナーだ。
「くまさ……んぅ?」
 ちょうど眼下に、校舎と講堂をつなぐ二階渡り廊下が見えた。その窓から覗くのは、大勢の人が作る渋滞の列。
 ライブが終わったと見える。だったらデザートにあたしのジャイアンリサイタルでもご馳走してくれようか。なんて考えそうになり首を振った。いけない。軽音の集客力に嫉妬したって仕方ない。
 あたしはあたし。軽音は軽音だ。こっちは魔女に盗まれた歌声をもう一度自分の中から作りあげていく作業に忙しいのだ。軽音などにかかずらっている暇はな――
 瞬間、眼下に目をやるあたしの視界になにかが引っかかった。
 言うなれば、敷き詰めた塩の中に一粒だけゴマが混じっていた。そんな違和感があたしの心に波紋を広げている。関係ないがあたしはゴマ塩が嫌いなのだ。
 渡り廊下? ――違う。
 講堂? ――近い。
 なんだろう。気になる。たぶんもの凄く大事なものが目に触れたはず。
 渡り廊下にはライブの客がぞろぞろ帰っていく姿。
 講堂の一階玄関口に溜まっているのは軽音部員たちだろうか。一仕事終えたという感じに伸びをしている人もいれば、暑苦しい仕草でギターを鳴らしている人もいる。
 ああ、あの暑苦しいギターの男子は同じクラスの九太くんだ。ライブに出るって言っていたのは嘘じゃなかったらしい。
 と、九太くんがスラリとした美人さんに声をかけられている。どうやら上級生……か……?
 ――ドクン。
 心臓か……跳ねた。ううん、暴れた。
 九太くんに対してじゃない。その隣に並んだ女……あれは、あれは――
「み、見つけた……」
 そう認識した途端、脊髄反射で体は動いていた。身を翻しダッシュ! 疾走!
 ひたすら走る走る走る走る走る走る走る!
 屋上から校舎へ、階段を転がるように駆け下りる。途中、踊り場でちちくり合うカップルにぶつかりかけて「すいません!」と叫んだ。
 それでも足を動かし続け、ついに一階に到着か! というところで盛大にこけた。
 廊下へダイビング。びたーん! と、まるでギャグみたいな音で通行人の視線を大いに集めた。胸にクッションのない体だったせいで余計音が盛大だったのかもしれない。
 顎を床にぶつけたみたいで頭がクラクラする。
「うう、けほっ」
 肺が苦しい。息を吸いたいのにお腹も胸もまともに機能してくれない。
「げふっ! はっ……」
 鼻の奥がつんとして、涙がこみ上げてきそうになった。けど泣かない。歌声を盗まれたときだって泣いたりしなかった。だから、あたしはどんなことがあっても泣かない。あれより辛いことなんてありえないから。
 第一それどころじゃない。ようやく機能を回復し始めた肺に鞭打ってあたしは再び走り始めた。見つけた。ついに見つけたのだ!
 間違いない。モデルのような体型、闇色の長い髪、陶磁器みたいな白い肌。すべて、あの夏の日に焼きつけられた記憶と符合する。
 唯一違うのは年齢の印象だけど、それは服装のせいかもしれない。以前は白いワンピースを着ていた。ちょっぴり妖艶な印象もあって、ハタチくらいだと思っていた。でも、制服を着ていた今の姿は、大人っぽい印象はそのままにちゃんと高校生に見えた。
 でも間違いない。間違えようがない。あれは魔女だ! ずっと探してた、あたしから歌声を盗んだ魔女!
 ここで会ったが百年目! あたしの歌声、絶対取り戻してみせる!
      ♪
「ついに見つけた、この魔女め!」
 さすがに息が切れ手足も重くなっていた。けれど気持ちだけは全力疾走のままで突進。
「うおっ? 山咲、なにやってんだ?」
 仰天してこちらを見る九太くんも無視。あたしの標的は美貌の魔女ただ一人だ。
 あたしは興奮し、完全に我を見失っていた。すでに相手が「敵」だという認識と、魔女に対する憎しみだけが心を占めていた。
 女同士だとか、暴力はよくないだとか、そんな一般論も頭になかった。あとであたしが一方的に非難されても構わないとさえ思っていた。
 とにかく殴る。殴ってやる。
 その前段階として胸ぐらに伸ばした左手は、しかし九太くんに止められてしまった。手首を捩られて力が入らない。
「なに邪魔してんのよこの馬鹿! チビ助!」
「いいから落ち着け! それからチビはおめぇもだ!」
 落ち着けだって? いきなり教室でギターを弾きだした猪突猛進男に言われたくない。
「どいてっつってんの! あんた魔女の味方するわけ!」
 あたしの突進にたじろいだくせに、なんでこの男は反応鋭くあたしの拳を止めるのか。
 九太くんはこっちの剣幕に怯むことなく、巧みに体を入れ替えてくる。
 気づいたら完全に羽交い締めにされていた。これじゃあまったく身動きできない。
 魔女は掴みかかろうとするあたしを見てちょっとだけ目を丸くした。けどそれだけだ。あたしが必死になろうとも、「ちょっとびっくり」といった程度のリアクションしか引きだせなかったわけだ。
 そして、動けないあたしにできることは口を開くことだけ。
「くそっ、返せ! あたしの歌声返してよ!」
 すると魔女は、あろうことか微笑みやがったのだ。
 同性も異性もまとめて魅了するような、あでやかな微笑。
 おのれおのれぇぇっ! なにがおかしい! あたしが必死なのがそんなに面白いか!
 全身にさらなる力をこめて拘束を解こうともがく。
 だけど、九太くんの力は思った以上に強かった。まるで磔にされているみたいに身動きが取れない。
 魔女は悔しげに呻るあたしを見下ろして、ようやく小ぶりな唇を開いた。
「無事にうちの学校受かったのね、山咲スミレさん」
 それは意外な一言だった。どうせ「あなた誰?」みたいな屈辱的なことを言われるだろうと思っていたのだ。ただ、相手がこちらを知っていたからって救いになんてなりはしない。
 あたしはただ歌声を返して欲しいだけ。そしてできれば回し蹴りの一発でもぶちこんでやりたいだけ。だから言い返す言葉は簡潔。
「うるさい! 歌声返せ!」
 その要求に反応をよこしたのは眼前の憎々しい美貌じゃなく、真後ろからだった。
「伶、お前またやったのかよ」
 責めるような口調。それに対して魔女は、
「必要なことなの。九太ちゃんならわかるでしょう?」
 あたしに、いや、あたしの頭を越して後ろの九太くんに向かって表情をほころばせた。
 それは、さっきあたしに向けたのとは種類の違う微笑。
 ふざけるな魔女のくせに。普通の女の子じゃあるまいしそんな表情!
 それに今、九太くんは「またやった」と言った。つまり魔女は、あたし以外の人からも歌声を盗んでいるということだ。
 だったらなおさら許せない! あたしみたいな想いをした人が他にもたくさんいて、魔女はこんなところでのうのうと微笑んでいる。そう思うだけで胃の底が焼けるように熱くなる。怒りで視界がどす黒く染まりそうになる。
 人が綺麗な歌声を出せるようになるまでに、どれだけの時間と体力と精神力を費やさないといけないのか、あたしは知っている。あたしは小学校に上がる前からずっと、綺麗な歌声を出すための努力を重ねてきた。何年も何年も。
 そして長く続けていれば挫けそうになることだって一度や二度じゃない。上手くいかずに悩むことも多い。むしろ苦しいことのほうが多いくらいだ。
 でも歌が好きだから頑張り続けてきた。思い通りの声が出せたときの喜びが忘れがたくて、ちょっとずつ、時には転びながらもステップを登ってきた。挫けてやめていった人を何人も見てきた。孤独な想いも味わった。
 そんな努力の結晶を、魔女は一瞬にして奪い取り、自分のものにしてしまう。目の前で笑うこの女は、努力や苦しみの尊さなど知りもしない。ただおやつをいただく気軽さで、人から歌声を取り上げてしまう。そういう存在。
 許せるわけがない。
 魔女が、九太くんに向けていた黒瞳を下ろし、あたしを見た。その瞳に映るあたしは獣みたいなぎらついたまなざしをしていた。
「返せということは歌声を取り戻せていないのね。やはり……」
「やはりじゃない! あたしにとって歌はすべてだったのに! なのにあんたが! あんたがっ!」
「取り戻せていないなら諦めたほうがいいわ。貴女、声楽には向いていないようだから」
「なっ……」
 絶句した。怒りのあまり、目の前の景色が赤く染まってくるようだった。
 なにも知らないくせに! ドイツのオペラにまで出演したあたしをつかまえて「声楽には向いていない」だって! あたしの声を盗んでおいて、言うことはそれなのか!
「殴る! 絶対殴る! 放せこのバカ九太!」
「うおっ、落ち着けって! 伶、お前もなに言ってんだよ」
「それが事実だもの。山咲スミレさん、あなた声楽なんて辞めたほうがよさそうよ」
 完全に切れた。あたしは四肢をめちゃくちゃに振り回し拘束を振りほどこうとする。
 集まった野次馬さえ引くほどの猛獣ぶりだ。でも、この腕が振りほどけるなら猛獣でもなんでもいい。にっくき魔女を殴れるなら鬼や悪魔にだってなってもいい。
 とにかく余裕たっぷりの笑みを引き裂いてやりたい。
 なのに、魔女はさらにあたしに屈辱を上塗りしようとする。
「かわりに軽音なんてどうかしら。あなたの声にぴったりの、ボーカル募集中のバンドを見繕ってあげてもいいのだけれど」
「バカにすんな! 誰が軽音なんかに入るか! 見てろよ、絶対に歌声を取り戻してやるんだから! そしてあたしが声楽に向いてるってことを証明してやる!」
 そうだ、なにがなんでも歌声だけは取り戻す! 歌は努力によって上達するものだと教えてやるのだ。あたしは負けない、挫けない。
 挫折なら、今までだって越えてきた。「魔女」というハードルは壁みたいに分厚くて高いかもしれないが、越えて向こう側へ行かなくてはならない。それを果たしたとき、あたしはさらなる高みへと辿り着けるのだ。
 もがくのをやめ、叫ぶのをやめ、ただ相手を焼き尽くせとばかりに精一杯の気持ちを瞳にこめて、魔女を睨みつけた。
 魔女は双眸の奥を楽しげに揺らめかせただけで小揺るぎもしなかった。
 その余裕も今のうちだけだ! 必ず吠え面を拝んでやる!
 野次馬の外側から威圧的な男の声が聞こえてくる。どうやら教師が騒ぎを聞きつけたようだ。
 説教はごめんだし、事情説明をしても納得させる自信もない。「魔女に歌声を盗まれました」なんて言おうものなら病院を紹介されるのがオチだ。
 そのあたりは九太くんにもわかるのか、拘束を緩めてくれた。
 魔女に殴りかかることはしないで、あたしはさっさと講堂前から逃げだした。いや、逃げるわけじゃない。これは転進、いわゆる戦術的後退というやつだ。
 魔女への逆襲はこれから始まるのだ。



二章 敵が悪だと確信をする

 甘く見ていた。それを思い知ったのは翌日の朝のことだった。
 魔女の実力を――ではない。知名度をだ。
 校内で知らぬ者などいないほどの有名人だったらしい。そしてそんな人物に公衆の前で堂々と喧嘩を売ったあたしも、一躍時の人になっていた。
 魔女と一悶着あってからまだ一晩経っただけだというのに……。噂というのは恐ろしい。
 舞台の上で注目されるのはいいけれど、こういうのは勘弁して欲しかった。
 教室の入口を睨みつけると、数名の女生徒たちが「きゃあきゃあ」言いながら逃げていった。
 まったく……。叫びたいのはこっちのほうだ。
「あ〜、いやんなる」
 まだ生徒も半分くらいしか登校してない朝の教室が、早くも居心地最悪だ。
 ただ、役立つことも少しはあった。あたしにすり寄るゴシップ好きの女子たちが、頼まなくても魔女の情報を色々提供してくれるのだ。
 彼女たちによると、魔女の名前は音無伶。軽音部所属の二年生。特定のバンドを組んではおらず、おもにソロシンガーとして活動しているらしい。
 実力は折り紙つきで、いくつものプロダクションから声がかかっているそうだ。本人さえ望めば、いつでもメジャーデビューできるほどだとか。
 どうせ他人から盗んだ歌声のたまものに違いないけれど。
 それからもう一つ気になる話。それは魔女が「神音使い」だという噂があること。
 事実だったらとんでもないことだ。
 今、世界で神音使いと認められている歌手は九人だけ。そこに十人目として音無伶が……あの魔女が入るなど、冗談にしたってタチが悪い。
 神音使いとは歌声によって聴衆の精神を同一の方向に導くことができる能力者のことだ。「平穏の神音使い」の異名を持つ歌手アネット・クリュヴィエが、デモから発生したパリの暴徒を歌声だけで鎮めた逸話は有名だった。彼女の歌によって、一万を超す暴徒たちがまるで胎児のように平穏な表情を取り戻したという。
 その神音使いの一員にあの魔女が入るなど、認めがたいにもほどがある。もしも魔女が神音を使うとして、ではその歌声はどこから盗んだものかという話にもなってくる。
 女子の中でも他を寄せ付けない噂好き、「ゴシップ吸引機」ともあだ名される美樹本ちゃんがテンションを上げつつ言った。
「とにかくすごい歌手なのさっ。音無先輩のすごさは一度軽音のライブを聴きに行った人なら誰でも認めるよ! 怖いけどすごい人。こういうのなんて言うんだろうね? あ、畏怖ってやつ? そうそう! 畏怖されてるのさ音無先輩は!」
「ふーん、じゃ、昨日のライブも出てたんだ?」
「まあ、出てたといえば出てたんだけど、本来のソロシンガーとしての出番はなかったんだよね。とあるバンドの臨時ボーカルとして一曲歌っただけなのさ」
「あのタカビーな感じの魔……音無伶が臨時ボーカル? なんか企んでたんじゃないの?」
 そこで美樹本ちゃんはググッと体勢を低くして、ほとんど机に覆い被さるように身を乗りだしてきた。つられてあたしも体を低くする。
 女同士、ほとんどほっぺをくっつけ合うようにして囁きあう。美樹本ちゃんの口の軽さからすると、ひそひそ話なんてしても無意味だろうけど。
「ここだけの話、音無先輩が臨時ボーカルを務めたのって、九太くんのバンドなのさ」
「九太って、うちのクラスの三瓶九太?」
 そういえば、昨日九太くんは魔女を「伶」って呼び捨てにしていた。
「あの二人って、どーゆー関係?」
 それどころじゃないのに下世話な興味が湧いてしまうのがあたしの悪い癖。九太くんと魔女がそういう関係だったとしても、BLでも百合でもないから面白くはないが。
「残念ながら二人はただの幼なじみで、期待してるみたいな関係じゃないのさっ」
 それはそれでつまらない。でも幼なじみか。それも萌える間柄かもしれない。
「んで、九太くんのバンドも面白い話題が多くてさっ。軽音部員の中から自然発生的に組まれたバンドなんだけど、軽音部の中でも群を抜く実力派バンドなの。なにしろレベルが高すぎてつり合うボーカルが見つからず、ライブは常に臨時ボーカルを使ってるってくらいなのさ!」
「ふうん、九太くんってバカっぽいけどギターは上手なのかぁ。でもさ、ボーカルだったら神音使いでメジャーデビュー級のがいるじゃん、約一名」
「そこが不思議なのさっ。音無先輩自身は、めちゃめちゃボーカルになりたがってるって話なの! なのに扱いはいつまで経っても臨時ボーカル。正式メンバーになるためにいろいろあくどいこともやってるって話だけど報われてないのさ。実力は申し分ないと思うのになぁ。あたしの情報収集能力を持ってしても、そこだけはわからないのさ」
 なるほど。あの魔女にも思い通りにならないことがあったとは、ちょっとだけ胸の空く気分が味わえた。
 ただ、美樹本ちゃんの話の中で聞き捨てならない一文があったのも確かだ。
「あいつがあくどいことをやってるってのは? それに畏怖って、なんで怖がられてるわけ?」
「そのことなんだけどねっ!」
 よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに美樹本ちゃんが両目を輝かせた。もしかしてあたしはガソリンでも注いでしまったのだろうか。それもハイオクを。
「九太くんのバンド『マキシマム・レベル』は去年の夏休みに立ち上がって、九月にボーカル募集オーディションをやったのさっ。広く軽音部内外問わず募集って触れこみでね。かなりの応募があったんだけどオーディション直後、参加者全員にアクシデントが発生したのさ!」
「アクシデント?」
「失声症で一時的に喋れなくなったり、喉を潰して歌えなくなった人が続出! 方法はわかんないけど、それをやったのが音無先輩って噂もあるわけさ」
「それは……」
 普通なら「まさか」と思うとこだろう。常識的に考えてそんなことできっこないから。だからこそあくまで噂にすぎないんだろうし、周囲も大声で糾弾ができないというわけだ。
 でもあたしの印象は「やっぱり」だった。あたしは失声症でも喉を潰したわけでもないけれど、やっぱり魔女によって歌声を奪われた者の一人だ。あの女の仕業だろうと想像するのは、喉が渇いたら水を飲むのと同じくらい自然な流れだった。
「やっぱりあたし以外からも歌声を盗んで……」
「そうそう、そうなのさっ! 中には歌声を盗まれたなんて訴える人もいるの。もう、そこまでくるとあの先輩ってなんでもアリだよね! それでついたあだ名が魔女! なんていうか、見た目にもバッチリ合った異名だね」
 はは……内心であたしが呼んでたのとおんなじあだ名じゃないか。
 って、傑作だけど笑ってる場合じゃない。やはりあたし以外にも被害者がいるのだ。あの女をのさばらせておいたらまだまだ犠牲者が増える。歌を愛する人たちが、なんのいわれもなく声を奪われていく……それがどれだけ残酷なことか、魔女は理解しているのだろうか。
 あいつは歌の心なんて持っていないに違いない。だから平気で人から奪う。そしてそんな奴が歌手として成功するわけがないのだ。だから九太くんのバンドにも入れない。
 神音使いというのもただの噂だろう。神音は歌を愛していない者には操れないはずだ。
 そのとき、あたしの前の席にどっかと人が腰かけた。九太くんだ。
 美樹本ちゃんはそれに気づくなり、曖昧な笑いだけを残して後ろ向きに去っていった。まだ話足りなそうだったけど、あたし的には十分だ。魔女の情報はおおむね揃った。
 それよりもこの九太くんという男、どう扱えばいいんだろう。魔女と幼なじみで、悪事についてもある程度は知っている様子だった。とはいえメンバーに迎え入れていないことからして、必ずしも魔女の仲間というわけでもないらしい。
 九太くんが、苦笑しながらあたしを振り向いた。
「よぉ、美樹本と話してたってことは、伶のことをいろいろ聞かされただろ」
「まーね、あんたのバンドのこととかもね」
「そうだお前、昨日こいって言ったのにライブ聴きにこなかっただろ!」
「行かなくて正解だったんじゃない? あたしが会場で魔女を見かけてたら、ライブぶち壊してたと思うから」
 皮肉ってやると、九太くんは舌打ちをして黙りこんだ。ついでに言うならあたしが「魔女」と口にした瞬間、微妙に顔を歪ませた。
 なるほど、幼なじみを悪く言われるのは気に入らないと。でも言い返す言葉もないようだ。
 少し意外だった。九太くんはもっとまっすぐというか、竹を割ったような性格をしていると思っていた。少なくとも悪事は見逃せない正義漢かと。
 言いたいことを喉の出口で止めるなんて、九太くんには似合わない。
「あんたさぁ、そんな顔するくらいなら止めたらどうなの? 魔女の悪事」
「……悪事……ねえ」
 ため息をつくみたいに言って、シニカルな笑みを口元だけに浮かべてみせる九太くん。
 ……その表情、気に入らない。自分だけは全部わかってますという顔だ。
「山咲は声楽やってたんだってな」
「過去形で言わないで。声楽はずっと続けるんだからね」
「けどよ、伶は辞めろって言ってたぜ」
「アホか。なんであたしが魔女の言うことを聞かなきゃな――」
 ちょっと待て。なにか違和感がある。
 そうだ、昨日は怒りのあまり疑問にも思わなかったけど、魔女はどうしてあたしの名前を知っていた? 去年の夏にあたしの歌声を盗んだということは、その時点であたしを知っていたのだろうか。声楽をやっていることも含めて。
 知っていたと考えるのが自然だ。だからあたしは標的にされた。でもなぜだ?
 去年の夏といえば、九太くんのバンドが結成された時期だ。そのころからボーカルになることを望んでいたなら、障害の排除を始めた時期としては一致する。
 オーディション参加者と同じように、あたしも障害と判断されたのだろうか。あの時点ではまだ入学も決まっていなかったのに。
 あたしのことを知っていたというのは、あり得ない話じゃない。大きな舞台に立ったこともあるわけだし、人前で歌う機会も多かったから。
 いずれにしても、これであたしが歌を辞めたら魔女の思惑どおりな気がする。
 だとしたら、あたしは絶対に辞めるわけにはいかない。それにあたしは辞めろと言われるほどに反骨心が煽られてやる気が出てくるタイプなのだ。
 心の底に炎が灯るのが実感できた。あたしは決して折れはしない。きっと魔女を見返してみせると誓いを新たにした。
      ♪
「ふあ〜あ」
 放課後、古典の授業で眠気を刺激されたあたしは目をこすりながら音楽室の扉に手をかけた。
 今日は火曜日なので声楽部の練習はないけれど、ひょっとしたら……という予感があった。
 ずっしり重い防音扉をガラガラ引くと、やっぱり聞こえてきた。ピアノの奏でる涼やかなメロディ。
 そこにあったのは昨日と同じ光景だった。ガラス細工みたいな繊細さで、蓮華先輩が鍵盤上に指を踊らせている。
 こうして見るとやっぱり美少女だ。綺麗に切りそろえた髪には今日も乱れがない。
「こんちはー。やっぱり今日もきてたんですね。部活がない日だけど、蓮華先輩だけはピアノを弾きにきてるんじゃないかって気がして」
 話しかけながら音楽室に踏みこむと、背後で扉がズシリと閉まる音がした。
 蓮華先輩は、あたしのほうをちょっとだけ見て軽く会釈。その間も休むことなくピアノを奏で続けていた。
 わかっていたことだけど、愛想はあんまりよくない人だ。でもそれがいい。こういうキャラとの百合は、お姉様タイプでちょっとプライドが高い感じの――などと考えていたら魔女の姿が思い浮かんでしまった。途端に不愉快になる。
 蓮華先輩自身は、目の前の下級生が自分を使ってレズ妄想しているなんて思いもよるまい。ただ黙々と――無心にピアノを弾いている。だんだん、昨日この人が講堂のライブを聴きに行ってしまったのはなにかの間違いだったんじゃないかと思えてくる。
 あたしはピアノのそばの机に乗っかってあぐらをかいた。
「ねえ、蓮華先輩」
 呼びかけても、首を傾げるだけで先輩は無言。
「あたし小さいころから声楽やってて、自分で言うのもなんだけど、ちょっとしたもんだったんですよ。いえ、昨日ヘタなアヴェ・マリアを聴かせちゃったから信じられないかもしれませんけどね、へへ……」
 なんでだろう……すごく話しやすい。相づちもないんだから気まずくなってもおかしくないのに。どうしてか、蓮華先輩が話を促してくれているように感じる。
「二年に音無伶って人がいますよね。あれがもうとんでもない性悪女で、あたしの歌声を盗んだあげくに声楽には向いてない、辞めろなんて言うわで……とにかく最悪です」
 ピアノを弾き続けたまま、蓮華先輩がこっちを見た。黒曜石みたいな瞳が悲しげに湿り気を帯びているように見えたのは気のせいだろうか。
 目が合ったのはほんの一瞬だけで、綺麗な瞳はすぐに鍵盤へと戻されてしまった。
 それからもあたしはたっぷり愚痴った。確実に迷惑だったと思うけど、先輩が黙って聞いてくれるのをいいことに喋り倒した。魔女の悪口から自分が今まで積み重ねてきた努力まで。ついでに受験の苦労話までぶちまけたりもした。自己紹介くらいしか交わしていない、ほとんど初対面と言ってもいい相手に対して、だ。
 そんな相手に心を許しかけているのは、ピアノの旋律が優しかったからかもしれない。
 ひとしきり愚痴を吐き終わってピアノに聞き入っていると、音楽室の扉がカラカラと音をたててスライドした。
 蓮華先輩が顔を上げたので、あたしもつられて入口を見る。
 と、そこにいたのは――
「あああっ! 魔女!」
 つい、ピアノを打ち消すような大声で叫んでしまった。
「やっぱりここにいたのね、スミレさん」
「あたしを名前で呼ぶな!」
 魔女の背後で扉が閉まる。それからヤツは、ゆったりとした足どりであたしのほうへとやってきた。動作の一つ一つがやたらと偉そうだ。
 殴られる心配はしないのだろうか。今日は止めに入る九太くんはいないというのに。
「なにしにきたのよ」
 精一杯不機嫌な声で、あたしは魔女を威嚇した。暴力衝動が抑えられているのは、ピアノのおかげかもしれない。この状況でも平然と演奏を続けるのだから、蓮華先輩も見た目に似合わず太い神経をしているようだ。
 魔女はあたしがそうしているように近くの机に腰かけた。ただしあぐらはかかずに落ち着いた仕草で腕を組む。組んだ腕が豊かなバストを際だたせて、イヤミか、と思う。
「もちろんあなたに会いにきたのよ、スミレさん」
 あたしはアンタなんかに会いたくなかった。歌声を返してくれるのなら別だけど。
 それとあたしを名前で呼ばないでもらいたい。
 こちらのそんな内心なんてどこ吹く風で、魔女はあくまでマイペースに話しかけてくる。
「わたくしは言ったわよね、声楽なんて辞めなさいって」
 この女はやっぱり馬鹿か……? なかば本気にそう思う。なにが悲しくてあたしが魔女なんかの言うことに従わなくてはならないのか。
 そしてそれ以上に――
 あたしは蓮華先輩のほうをチラと見た。先輩は、今までと変わらず涼しげにピアノを弾いている。いや、むしろ音色が優しくなってる気さえする。あたしが逆上しないように、精一杯の優しい音で鎮めてくれているようだ。
 そう、ここには蓮華先輩もいるのに。声楽部員の先輩がいる前で、よくもまあそういう無神経なセリフが吐けるものだと思う。声楽「なんて」とか。辞めろとか。
 やはりこの女は人の心の痛みを感じることができないのだ。だから無神経なことも平気で言うし、歌声を盗まれた者の悲しみも理解できない。
 神音使いという噂もでまかせだ。人の気持ちもわからない歌手が、どうして歌で心を動かせるだろう。
「それでスミレさん、昨日の話の続きなのだけれど、軽音に入らない?」
 そんなことを言われてあたしは唖然。
 というか、昨日のアレをしれっと「話」だと言う神経が信じられない。あれは「話」などではなく乱闘騒ぎだろう。暴れたのがあたし一人だとしても。
 そして言葉の内容。もう、怒りを通り越して呆れるしかない。
「バカバカしい……。話になんないわ」
 もともと話す口も聞く耳も持たないが。
 向こうは向こうで「困った子ね」とでも言わんばかりに肩をすくめて苦笑する。
 互いに口を開かない。当然沈黙が空間を支配した。ただ唯一の音であるピアノの旋律が、流れる時間をゆったりと消化していく。
 今日は蓮華先輩のピアノを鑑賞したり、できれば練習につきあって伴奏してもらおうかとも思っていたのに……魔女が居座るなら帰ったほうがよさそうだ。
 ところが机から降りようとしたところ、再度音楽室の入口が開く気配が生じた。
 そして飛びこんでくる楽しげで華やいだ話し声。
「ピアノを聴きながら語らうのも落ち着いていていいものだヨ」
「直人くんってムードを大切にする人なのね」
「ほんとほんと、がさつなクラスの男どもにも見習ってほしいわ」
「いやあ、ボクはただキミタチに楽しんでもらえればと思っているだけサ」
 沈黙と旋律の空間にずかずかと上がりこんできたのは男子一人とそれを囲む女生徒たちという、あまりにもあんまりな集団だった。
 女の壁に遮られてよく見えないけれど、男子生徒の視線がこちらを向いたようだ。
「おや、伶クン」
 何気なく言ったようにしか聞こえなかったが、女生徒達の反応は劇的だった。
 視線が魔女に集中した途端、楽しげだった彼女たちの表情が凍りつく。天国から地獄へ……そう、まるでうきうきとスキップをしている最中に足の小指をタンスにぶつけたような――かなりわかりにくい喩えだけれどそのくらい表情が激変した。
 女子たちの一人が、
「ご、ごめんなさい、突然虫の知らせで母が危篤になった気がするから」
 なんて言って去ったかと思えば次々と。
「私は突然持病のペストが……」
「あたしは持病のつわりが……」
 二人去り、三人去り、ついには中心にいた男子生徒一人になってしまった。もとが楽しげな雰囲気だっただけに落差があって、ひどく惨めに思える。女生徒たちの口実がどれもこれも出来損ないの嘘っぱちなあたりが特に痛々しい。
 魔女の影響力もすごいものだ。夏場に家に飼っておけば蚊よけに効果があるかもしれない。
 取り残された男子生徒をまじまじと眺めて、あたしは思わず喉を鳴らしてしまった。なるほど、あれだけの女たちを連れ回す資格は十分にありそうな美男子だ。
 艶やかな栗色の髪が嫌味なくなびいていて印象は爽やか。流し目の似合う少しだけ細い目はタレ気味で、それが絶妙なあまやかさを醸している。髪も瞳も色素は薄めだが、別に染めているわけでもなさそうだ。
 背も適度に高くてスマートだった。引き締まって見えるので筋肉質なのだろうけど、マッチョな感じはしないから女の子受けするだろう。あたしはマッチョも好きだけど。
 とにかくあり得ないくらいの美形だった。アイドル事務所の稼ぎ頭にだってなれるだろう。その彼が、悩ましげに額に手を当てている仕草はとってもサマになっていた。
「伶クン、キミのおかげでレディたちが怖がって逃げてしまったヨ」
 困ったように寄ってくる歩調はモデル歩き。普通の男がやったら気持ち悪いだけだろうが、この人がやると怖いくらいにハマってる。
 非難しつつ寄ってくる美形を見上げて、魔女が鼻を鳴らした。
「わたくしはなにもしていないわよ? お友達は皆さん病気がちのようね」
 まあ、こういう返事になるのは当然と言えば当然か。
 しかしこの音楽室の光景、ちょっとした異常空間かもしれない。美男美女が勢揃いしすぎだろう。あたしを含めて。
 そんなことを考えつつも、ついハンサムさんに見とれてしまう。その視線に気づいたのか、美形がこっちを向いて甘い笑顔を咲かせた。
「こんにちは」
「こ、こんちは……」
 まずい。これか、この笑顔にみんなコロッといってしまうのか。油断しているとあたしも危ない。ちょっと防衛線を張っておいたほうがよさそうだ。
「ボクは木佐直人。そこの伶クンや蓮華クンたちと同じ二年生だヨ」
「キザなオトコですか」
 一応この応答があたしなりの防衛線のつもりだ。別にシャレを言いたかったわけじゃない。
「あははは、キミは面白いねえ。キザじゃなくて木佐だヨ、木佐直人」
 あっさり笑って流された。こういうタイプはプライドを刺激すれば激高しそうなものなのに、思ったよりも大らかだ。
「そうですか、あたしは――」
「知っているサ。山咲スミレクンだネ?」
「はあ、どうしてそれを……」
「昨日の一件以来キミは有名人だからネ。というのは冗談で、ボクは女生徒の顔と名前くらいなら、全員入学式の当日に覚えることにしているヨ」
 普通、後者のほうが冗談じゃないだろうか。でも、この先輩を見ていると一日で女子を覚えたというのも嘘じゃないような気がしてくる。
 アクの強い闖入者に、魔女がこれ見よがしにため息をついて机から降りた。
「木佐くんのせいで気が削がれちゃったわ。わたくしはこれで失礼」
 髪をかき上げると、闇色の流れがふわりと宙に舞って一瞬だけ夜の帳が下りたよう。そんな錯覚から立ち直ったときには、魔女はすでに出口へと歩き始めていた。
 そのまま帰ると思った矢先、出口手前で振り返る。
「スミレさん、わたくしの話、真面目に考えておいてね」
「はあっ? ふざっ……」
 ふざけんなと言い終わるより先に、魔女はさっさと出ていった。
 話というのはあれだろう。声楽を辞めて軽音に入れなどというたわごとのことだ。
「なに企んでんだろ、あいつ……」
「スミレクンも、厄介なことになっているようだネ」
「まったくそのとおりで……って、なに馴染んでんですかキザ先輩は」
 そもそもこの人、ピアノをBGMにガールフレンドたちとお喋りをしにきたのでは? 女の子たちは帰ったんだから、さっさと出ていけばいいのに。
「怒った顔……いや、困惑した顔かナ? そんな表情も魅力的だネ」
「む……」
 見え透いたお世辞だが、とびきり爽やかな笑顔を近づけながら言われると胸が高鳴りそうになって危険だ。
「でも、笑えばもっとステキだと思うヨ? スミレクンは笑わないのかナ?」
「わ、笑いませんよっ!」
 思わず答えてから胸にグサリときた。
 笑わない。確かにそうだった。あたしはかなり長いこと、笑顔ってヤツを作ったことがないんじゃなかろうか。いつからか……そんなの考えるまでもない。
「それはもったいないネ。いつか自然に笑えるようになれたらステキだなって思うヨ。もし笑えるようになったら、ボクにも笑顔を見せてくれたまえ」
 ここで「ボクが笑顔を取り戻してあげるよ」とか言わないあたり、この人もただ女ったらしとは毛色が違いそうだ。
「どうだい? もし邪魔でなかったらボクと話でも。キミのような可愛らしい女性とだったら、ボクはいつまでだって語らっていられるヨ」
「いえ、邪魔ですから」
「あははは、キミは遠慮がないネ。でも、それもまた魅力的だヨ」
 ホント言うと、美男子に言い寄られてまんざらでもない気分だった。だけど歌の練習のほうが大事だ。魔女もいなくなったことだし、蓮華先輩に伴奏を……。
 ところがキザ先輩ときたら、あたしに振られたからって今度は演奏中の蓮華先輩に話しかけている。というか、あからさまに口説いている。
 前言撤回、やっぱりただの女ったらしだ。
 結局、困惑した様子の蓮華先輩からキザ男を追い払ってやり、それを恩に着せて先輩に伴奏をお願いすることにした。
 ただそれも、口で言うほど容易じゃなかった。なにせ無駄に美形なので冷たくすると胸が痛むのだ。特に笑顔がいけない。ついついほだされそうになる。どうにか籠絡されずに音楽室から蹴り出すことに成功したのは僥倖だった。次も上手くやる自信は全然ない。
 とにかく疲れた。歌の練習を開始するのにこんなに気力と体力を必要とするなんて、目の前に立ちはだかった壁は予想以上に高そうだ。
      ♪
 また翌日。さすがに四月も中旬を過ぎると学校にも慣れてきた。構内の地理はもちろんのこと、放課後にどの場所でどんな部活が活動しているのかもだいたい把握できている。
 吹奏楽部が楽器ごとに班分けされて、別々の教室で練習をしている音が本校舎のほうから聞こえてくる。
 掃除をしていて遅れたけれど、渡り廊下を渡り終えたあたしは今日も特別教室棟へとやってきた。最近、放課後はここへ足を運ぶのが日課になりつつあった。
 珍しく視聴覚教室には使用中のランプ。それを横目に見ながら通り過ぎると階段がある。これを上れば三階――音楽室があるフロアだ。
 今日は水曜日。声楽部の数少ない活動日だった。
 今さら声楽部に入ろうとは思わないけれど、見学くらいはしてみたい。それに蓮華先輩のピアノだけでも聴く価値ありだ。
「入らないのに見学するんじゃ冷やかしになっちゃうけどね」
 少し緊張しつつも音楽室の扉の前へ。そしてゆっくりとノック。
 応答なし。
 もう一度、しっかりノック。
 やっぱりリアクション皆無。……留守だろうか?
「失礼しま……す。開けますよ〜」
 及び腰になりつつ、そろそろと扉を開けた。
 薄暗かった。歌声もないし話し声もなかった。ピアノの旋律もなく、しんとした室内。
「あれ……ホントに留守だ」
 電気を点けて中に入るも、やっぱり人の気配はまるでない。
 机の間を縫って教室前方へ。しかし、ピアノのそばにも日本人形じみた先輩の姿はなかった。
 足音が、音楽室の音響効果によって部屋の隅まで届いていく。
 理由はさっぱり不明だが、声楽部の面々がここにいないのは確かだった。ちょっとなにかを買い出しに行ってるだけで、しばらくしたら戻ってくるのだろうか。
 希望薄な気もしたけどこのまま帰るのも癪だった。
「しゃーない、待たせてもらおっかな」
 その独り言も、音楽室にはよく響く。加えてあたしの地声もわりと大きかった。他がすべて無音なだけに、それが余計に実感できる。
 せっかくだから、ただ待っているだけじゃなくて発声練習でもしておこう。
「あー、あー、ラーラー」
 まずは基準となる「ラ」の音を発声。
 やっぱり以前の声とは違う。クラシックの発声は、魔女に盗まれたせいでまったく喉から出てこない。
 今あたしが発声しているのは、地声がある程度連想できるような太めの声だった。カラオケで流行りのポップスを歌うんならこの声でも十分だけど、あたしが求めるのはソプラノ――以前オペラに出演したときのあの歌声だ。そもそもあたしはカラオケなんてやったことないから、こういう声が出たって無意味なのだ。
 ただ、そんなことに固執してたら練習にならない。だからあたしは悔しさを腹の底に沈めたまま発声を継続する。
 太めでパワーだけは無駄にこもっていそうな声であたしは発声練習を続けた。
 低音から徐々に声を高くしていき、喉に過負荷を感じる手前でまた低音へと引き返す。高音を出すときほど喉から力を抜くように意識するのがコツだ。口からというより、脳天から声を出すように意識すると、意外と高音も辛くない。
 今のあたしに出せるのはざっと三オクターブほど。歌声を盗まれてもこれだけ出せるんだから、きっと上出来なんだろう。カラオケで三オクターブも出たら羨望の的に違いない。
 でも、あたしは二オクターブでもいいからかつてのソプラノを甦らせたかった。
 そこで一瞬、魔女の顔が頭の隅をかすめたけれど、額を叩いて振り払う。
 いけない、あんな女のことを考る暇があったら歌の練習をしないと。
 音響の整った場所で発声練習するなんて、今では貴重な機会だった。歌えないことがばれるので、以前みたいに音楽教室には通えないのだから。
 なのでこういう機会は無駄にできない。蓮華先輩の伴奏はないけれど、無音の中、一人で発声練習というのも悪くなかった。思い描いた声が出せないために少なからず苛くが、それでも今日は順調なほうだ。
 どれくらい一人で練習を続けただろう。いつまで経っても声楽部の人たちはやってこない。
 どうしたんだろう。やっぱり今日は休みなんだろうか……?
 ちょっと休憩。
 窓のほうに目を向けると、魔女の髪みたいな闇色のカーテンが校庭からの風に吹かれてふわふわとなびいていた。
「窓が開いてる……」
 変だ。授業が終われば戸締まりの確認はされるはず。なのに開いてるってことは、声楽部の人たちが一度はここに集合したのかもしれない。
「でも、それならどこに行ったってのよ……」
 鞄なんかは置いてないし、手がかりになりそうなものも見あたらない。
 なんとなくそわそわして、あたしは探偵さながらに音楽室の中をキョロキョロと歩き回った。消えた部員たちを探す糸口とか、なにかないものか……。
 と、開いた窓のそばにそれは落ちていた。
「これは……チラシ?」
 最初は机の上にでも置いてあったらしい。床に落ちていたのは、窓から吹いた風のせいだろう。
 ぺろりと拾い上げて、あたしは机に腰を下ろしつつチラシを見た。
「――げえっ!」
 それが最初のリアクション。あまりの大音声。その声が音楽室の壁に反響したことでさらにあたしをビクッとさせた。無駄にでかい声は相変わらずだ。
 それより今はこのチラシ! 女の子らしくないリアクションになるのも無理はないってくらいの衝撃だ。だってチラシの内容が――
「マキシマム・レベル ボーカルオーディションだとおぉぉーっ!」
 女の子らしくないというより、ほとんど男みたいな叫び声を上げてしまった。
 マキシマム・レベルのボーカルオーディション! 去年の九月に開催されて、参加者がことごとく喉を潰したり失声症になったりしたと、美樹本ちゃんは言っていた。
「まさか声楽部の人たちって!」
 慌ててチラシをもう一度見る。そこには「軽音部内外問わず広く募集」の文字が。
 ――やっぱりか!
 チラシを握りしめ、あたしは走った。階段を降りて渡り廊下を猛ダッシュ。
 なんてことだ。九太くんのバンドがまたオーディションをやるだなんて。
 美樹本ちゃんの話じゃ、魔女はそのバンドのボーカルになりたがっているらしい。去年、参加者を潰して回ったのもヤツの仕業だという噂だ。
 実際に歌声を盗まれたあたしからすれば、ただの噂とは思えない。そんな魔法みたいなことができるなんて信じがたいけど、でも事件は実際に起きているのだ。
 だったら、今回のオーディションでもなにかが起きる!
 声楽部の面々や今回新たに参加してるだろう人たちは、魔女の力を実際に見ていないから警戒心も薄いかもしれないが、だったらなおさら止めないと!
 急がないと、また被害者が大勢出る!
 握りつぶしていたチラシを開いてオーディション会場を確認。視聴覚室だ。今日は珍しく使用中のランプが点いていたけれど、あれがそうだったのか!
 講堂へ向かっていた脚を止め、渡り廊下を引き返す。
 さんざん歌った直後のせいか、息が苦しくなってくる。運動不足も祟って脚が重い。
 けれど止まるわけにはいかない。間に合え! 魔女の暗躍を阻止し、オーディションが無事に終わるように! そして、普通にボーカルが選ばれるように。
 視聴覚教室が見えてきた。息を切らして顎が上がる中、絶望的な光景が目に飛びこんできた。
 視聴覚教室の使用中を示すランプが消えている。
「そんな……もう、終わって……」
 教室掃除に加え長々と発声練習までしたんだから当然と言えば当然だ。それでも、悔しさのあまり唇を噛んだ。終わったなんて信じたくなかった。
 一縷の望みを託して教室まで走り、ノックもしないで扉を開けた。
 教室は人の気配と匂いこそ残っているものの、明かりが落とされ静かになっていた。
 思わずその場に膝を着いてわめきたくなる。
 それをしなかったのは、たった一人だけ、教室の中に残っている人がいたからだ。その人物にだけは、ぜったいに悔しがる顔を見せたくなかった。
「遅かったわねスミレさん、ずっと待っていたのよ」
 そう言って教室中央からあたしを見下ろし、あまつさえ微笑みを浮かべる女は、魔女こと音無伶その人だった。
 息を切らしたあたしは、とっさに言い返すこともできない。
 魔女は余裕をたたえた表情であたしにゆっくり歩み寄り、数歩手前まできたところで手にしたマイクを放ってきた。
 放物線を描いて飛んでくるマイクを、反射的に胸の前で受け取った。
「オーディションを受けにきたのでしょう? 特別に、わたくしが聴いてあげるわ」
「だっ誰が!」
 ようやくそれだけ叫んで、あたしは受け取ったマイクを魔女めがけて投げつけた。マイクはてんで見当違いの方角に飛んでいって、据え付けの机に衝突。教室の前のほうに置いてあったアンプから「ボゴォッ!」という鈍い音が増幅されて響いた。
 教室の備品じゃなくて、軽音部が持ちこんだマイクとアンプのセットだったらしい。
 魔女はマイクを投げつけられたというのに涼しい顔で、軽く肩をすくめている。その仕草があたしの怒りをさらに加速させた。
「あんた、今回の参加者も潰す気でしょ! 自分以外の候補者は邪魔になるから!」
「……噂を聞いたのね」
 そう呟いて微笑むだけで、魔女は否定も肯定もしない。いかにも余裕の態度だった。
 確かに歌声を盗むなんて能力は実証できないだろうし証拠もない。だから告発もできない。態度から余裕が滲み出るのも頷ける。
 でも被害者たるあたしとしては、これ以上魔女をのさばらせておくことは到底許し難い。
「いくら九太くんのバンドに加わりたくても、悪い噂の尽きないあんたなんて、仲間に入れてもらえるもんか……」
「マキシマム・レベルは奇跡が巡り合わせたとしか思えない至高のバンドだわ。それならきっとボーカルさえも、奇跡が彼らに引き合わせてくれる」
「それがあんただって? ハン、寝言を言うなら時間と場所を選んでよね。夜のベッドの上で一人で言ってろ」
「スミレさん、貴女口が悪いわねえ」
「性格が悪いあんたに言われたくないよ」
 息が整ってきて、だんだん口がなめらかになってきた。けどそれも、魔女の次のセリフが吐きだされるまでだった。
「スミレさん、声楽を辞める決心はついたのかしら? 軽音は貴女を歓迎するわ」
 どんな嫌味や憎まれ口よりも、声楽を諦めろと言われることが一番あたしの神経に障った。
 許せなかった。なんの努力もしないであたしのソプラノを手に入れた魔女が。そしてソプラノ以外の歌声も、他人から盗んだものに違いないのだ。
 被害者がいて、あたしと同じように努力を無にされて悔しい思いをしている。きっと何人も何人もいる。本当なら去年のオーディションを通過していた人だっているかもしれない。
 そんな非道を振り撒いて、魔女は盗んだ歌声のおかげでプロダクションからも声をかけられている。本当なら別の誰かがデビューの喜びに笑顔を咲かせていたかもしれないのに。
 許せるわけがなかった。
「負けない……」
 思ったよりも低く暗い声が出たことにあたし自身が驚いた。
「あたしは絶対、あんたなんかに負けない。絶対に本当の歌声を取り戻すし、あんたをこれ以上のさばらせることを許しもしない! あんたの企み、絶対に阻止してやる!」
 相手が余裕でいようとも、あたしは宣戦布告のつもりで言った。始めから諦めるつもりもなかったし許すつもりもなかったけれど、それでも今、括った覚悟はこれまで以上に強かった。
 歌声を取り戻し、もう一人の犠牲者も出さない。
 この二つを、あたしは自身に固く誓った。



三章 勝ち負け――あたしは歌いたかっただけだなはずなのに

 早速翌日から、魔女の尾行を開始した。
 まずは魔女が講堂へ向かうのを確認。大勢の軽音部員たちがいるところでは迂闊に動けないはずだから、その間あたしは歌の練習だ。
 屋上で講堂を見張りながら発声練習。魔女の下校に合わせてあたしも昇降口へ。九太くんはバンド仲間といるせいか、幼なじみといえども帰宅は別々のようだ。
 帰り道を尾け、電車では隣の車両に飛び乗った。人陰に紛れながらの尾行には、あたしの小さな体が大いに役立った。
 ちらちらと魔女を窺いつつ、同じ駅で降車してから目を剥いた。そこはあたしの家の最寄り駅と一緒だった。思ったよりも近所に住んでいるらしい。
 思わず顔をしかめながら尾行を続行。改札を抜けてから向かう先はあたしの家とは逆方向だった。うちとのあいだに線路があったことにちょっぴり安堵。同じ町内じゃなくてよかった。
 自転車を使うこともなかったので助かった。でも歩くのは速い。脚が長いせいもあるだろうけど、帰宅ラッシュの人波を縫うのがすごく上手だ。無人の街を歩くみたいに駅前商店街を抜け、住宅街へと入っていく。
 あたしは何度も通行人にぶつかりかけ、そのつど魔女を見失いそうになった。
 でも、ようやく人の少ない住宅街へとこぎつけた。今日は何事なく帰宅するだけみたいだ。
 一応魔女の自宅くらいは確認しておこうかと思って尾行を続けていると、不意に前を行くモデル体型がピタリと立ち止まった。
 尾行がバレた? まずい、隠れないと――
 大いに焦ったものの、そばにあるのはせいぜい標識のポールくらい。いくらあたしが小さくたって、これじゃ無理がありすぎだ。それでも藁にすがる思いでポールの後ろに飛びこんだ。が、その必要はなかったみたい。
 魔女の前方にある路地から、ゾロゾロと女子高生の集団が出てきたのだ。どうやら魔女は、あたしじゃなくてそっちの連中に気づいて脚を止めたらしい。
 集団は、全員うちの学校の制服を着ていた。剣呑な空気を全身から発散させながら、間隔もバラバラに魔女の前に立ち塞がっている。
 これはもしかして……集団リンチの前触れか……?
「なにか用かしら?」
 凶悪な視線を一身に浴びているのに、魔女は涼しい声でそんなことを言う。
 その余裕ともとれる態度に、集団の女たちは一様に怒りの気配を膨らませた。
 彼女たちの気持ちがよくわかる。あの態度はもの凄く神経に障るのだ。あれは経験した者じゃないとわからない。思わず共感しそうなるあたしだった。
 どうして魔女は、ああやって人の反感を買おうとするのだろう。明らかにわざとだ。
「なんの用かは、自分の胸にでも訊いてみるんだね」
 七人ほどの集団の中から、一人の女生徒が一歩進み出た。両目をギラギラ輝かせ、魔女への憎悪で整った顔立ちを歪ませている。無関係のあたしでさえ背筋が冷たくなるくらい平板で冷たく、同時に熱をも帯びた声だった。
 魔女は鞄を持ったまま、体の前で腕を組む。
「貴女たち、去年のオーディションからまだ立ち直れていないのね」
「てめぇのせいだろうが!」
 先頭の女と、後ろの数人からそんな罵声が飛んだ。
 あたしもぞんざいなほうだけど、さすがにこういう言葉はあまり口にしない。でも下手に凄みのある男より、彼女たちみたいに見た目綺麗な女の子が言うと奇妙な迫力があった。
 やりとりからすると、彼女たちは去年のオーディションで魔女に潰された被害者たちか。今日こういう場面にはち合わせたのはたまたま……ではないだろう。買った恨みの数からすれば、こういうことはこれまでも何度かあったに違いない。
 どうしよう。自業自得とはいえ、目の前でリンチというのは後味悪そうだ。
 ところが魔女は、あたしのそんな葛藤などよそにあくまで腕を組んだまま余裕の態度を崩さない。あれが癇に障るのだ。被害者集団に怒りが溜まっていくのが目に見えるようだった。
 魔女が追い討ちをかけるように、ゆったりと口を開く。
「失声症になった人、喉を潰した人、わたくしから歌声を盗られた人、それぞれいるようね。貴女たちはもう諦めてしまったのかしら? なぜ再び歌えるように努力をしないの?」
「努力もしねーで歌声を手に入れてきた魔女が!」
「その魔女に対して、悔しさはないのかしら? わたくしを見返そうという気概はないのかしら? 誰も、本当は歌など好きではなかったのかしら?」
 ずけずけと魔女が言う。その言葉がどれだけ臓腑を煮立たせるか、あたしはわかるつもりだ。特に最後の一言は、間違いなく彼女たちを怒り狂わせる。
 ついに先頭の一人が理性の糸を切った。魔女に向かって駆けこむや、手にした革の鞄を大きく振りかぶろうとする。
 それに対して魔女は、引くどころか自分から前に踏み出した。相手は虚を突かれて一瞬だけ動きが止まる。そこで魔女は相手の体をふわりと抱きとめると、振りかぶられた右腕を左手一本で簡単に掴んで止めてしまった。
 そればかりか、魔女は右手で相手の顎を持ち上げると、口づけでもするような仕草で見下ろした。そして凛と、
「貴女たちは、本当の意味で歌声を失ってしまったのかしら? もしもそうなら、わたくしは一切の遠慮を廃して貴女たちから声を盗む。音楽を聴く耳を盗む。スポットライトを眺める瞳も、光をも、盗ませてもらうわ」
 落ち着いているのに凄烈さを感じさせる魔女の声。あたしの耳は、自分の喉がごくりと鳴る音を拾っていた。
「もしそうでないのなら、もう一度わたくしに貴女達の歌声を聴かせてみることね」
 それだけ告げると魔女はふわりと身を離し、硬直する女の胸を柔らかく突いた。
 女はフラフラと後退して、仲間たちに支えられるようにしてようやく脚を止めた。その顔は憤怒じゃなくて、恐怖に歪みきっていた。
 魔女が、ゆっくりと集団に歩み寄る。
 集団の誰かが「ひっ」と漏らす声が聞こえた。
 それが合図になったのか女生徒達の気迫はこぞって折れて、誰からともなく魔女に背中を向けて逃げだした。
 あたしも魔女に恐れを感じ、淀みない歩調で去っていく後ろ姿を追うことができなかった。
 魔女の背中は次第に小さくなり、やがて夜闇に溶けて消えていった。
      ♪
 今日こそは最後まで尾行を! そう意気込んであとを尾けたはいいけれど。
 デジャヴュ。
 魔女は昨日と同じところで脚を止め、あたしも同じように慌てて標識のポール脇で身をすくめた。
 今度こそ尾行に気づかれたのか?
 かと思ったら、昨日の出来事がループしているかのように同じ展開へ。
 ただ違ったのは、今日路地から出てきたのは女生徒の集団ではなくてもっとタチの悪い連中だったことだ。
 ゾロゾロゾロゾロと、ガラの悪い男ばっかり五人、六人。背の高い人、体の分厚い人、目つきの悪い人、とにかく全員危険な匂いをプンプンさせている。
 うちの制服を着ている人もいれば私服の人もいる。昨日の女生徒達が彼らに泣きついたから出てきたのか、単に魔女があのチンピラどもに目を付けられていただけなのか、それはわからない。でも、どうひいき目に見ても魔女は絶体絶命に見えた。
 気のせいか、普段なら後ろ姿にさえ余裕を滲ませている魔女も、この時ばかりは怯み、逃げ場を探しているようだった。昨日は自分のほうから声をかけたのに、今日は無言のまま後ずさろうとしている。
「姉ちゃん怖がってんじゃねえよ、なにもしてねえのに後ずさるなんてよぉ、俺らに対して失礼だと思わねぇわけ?」
 集団の一番後ろにいる、バンダナ男からそんな声が投げられた。同時に左右からうちの学校の制服を着たチビとのっぽの二人組が魔女に近づいていく。
 いかにもやばそうな成りゆきだった。なにもしてないなんて言うけれど、空気だけでビンビン伝わってくる。魔女に危害を加える気満々だ。
「近づかないで」
 ねちっこい圧迫感で包囲されかかるなか、魔女は想像以上に神経が強かった。
 迫ってくる二人組――チビのほうに狙いを定めて踏み出すと平手を繰りだした。いや、あれは平手より掌底と言ったほうがいいかもしれない。
 その攻撃は、的確に男の顎を捉えるかに見えた。ところが魔女の細腕はチビ男の手にがっちりと掴まれてしまう。
「はっ放して!」
 魔女が声のトーンを上げた。ここまであからさまに感情の入った魔女の声を、あたしは初めて聞いたかもしれない。
 腕を捩って背中に回され、魔女はあっという間に動きを封じられる。そのまま民家の塀に押しつけられて、苦悶の声が小さく漏れた。
 どうすれば? あたしは動揺した。昨日の女生徒達とは人種が違う。昨日みたいな脅しは通用しないし、魔女が体に力をこめようが、戒めは全然ほどける気配もない。
 逃げたい。けどそうもいかない。そりゃあ魔女のことは憎らしいし痛い目見てざまあみろって思う気持ちもあるけれど、それもちょっと叩かれておしまいになるならの話だ。
 あの連中が、ちょっと痛めつけておさらばしてくれるようには絶対思えない。このあと魔女がどんな仕打ちを受けるのかなんて簡単に想像がつくし、それは同じ女として、決してあってはいけないことだと痛感できる。
 でも……でも……あたしにできそうなことなんてなにもない。ノコノコ止めに出ていったって、男達を余計に喜ばせるだけなのは分かりきっていた。
 そうだ、人を呼ぼう! ここは一応住宅街だ。目についた家に飛びこめば誰かしらいるはず。
 それまで魔女が無事でいられる保証はないが、それしかない!  あんなヤツのために必死になるのは癪だけど、やらなかったら確実に後悔する。
 恐怖で竦みそうになる体に鞭打って、足音をたてないよう徐々に後ずさり――
 どんっ。
 なにもなかったはずの背後。なのになにかにぶつかった。
 悲鳴の塊を吐きだしそうになるが、喉が硬直して吐息一つ零すことができなかった。
 ただ、ぎちぎちと錆びついたロボットみたいな動きで首を後ろに振り向ける。
 背後に男が――いた。見上げるような長身と分厚い体に今度こそ悲鳴を上げかけた矢先、その男から思いの外優しい声音が降りてきた。
「何事だ」
 木訥で愛想はないけど不思議と安心できる太い声。この声に、あたしは聞き覚えがあった。
「健吾……先輩?」
 もう一度、まじまじと背後の男を見上げてみる。
 長身、マッチョ。見るからに体育会系の人種で双眸も肉厚の刃物みたいにぎらりと鋭い。けれどよくよく見ると男前。こう見えて本人は優しい表情をしているつもりなんだってことを、あたしはよーく知っていた。
 同じ中学で一学年上だった御劔健吾先輩だ!
 これぞ地獄に仏! 健吾先輩は中学時代、柔道で全国制覇しているほどの猛者なのだ。
 学年は違うけど、声楽で賞を獲ることが多かったあたしと柔道で上位常連だった健吾先輩は、よく朝礼で表彰されていた。知り合ったのはそれがきっかけだった。
 無口だしあまり笑わないから一見怖い。だけど実のところ凄く優しく誠実で、密かにちょっといいなと思っていた時期もあったくらいだ。
 とにかく、その健吾先輩が通りかかってくれるとはなんていう幸運。いや、ラッキーなのはあたしじゃなくて魔女のほうか。
 問題のチンピラどもと絡まれる魔女に視線を投げると、健吾先輩も前方で展開される不埒な騒動に気づいたようだ。刃物じみた両目がいっそうすがめられてかなり怖い。
「音無伶か」
「えっ? 先輩、魔女のこと知って……」
 そこであたしは、やっと健吾先輩の服装に意識が行った。やたら大きいが、紺のブレザーと胸のエンブレムはここ半月ですっかり見慣れたものだった。
 まさかミカエル大付属に進学していたなんて……。柔道の名門校から声がかかっていたはずなのに、どうしてわざわざ弱小柔道部しかない高校を選んだんだろう。
 唐突に疑問をぶつけたくなったけれど、あたしが顎を上げたときにはすでに、先輩はチンピラ達に向けて一歩を踏みだしかけていた。
「あっ、先輩」
「案ずることはない。すぐに済む」
 武士みたいな時代がかった言葉を残して、健吾先輩は魔女を助けに悠然と歩いていく。
 六対一。数の上では圧倒的に不利だけど、あたしは先輩の誠実な人柄を信じている。先輩はできないことを「できる」なんて言ったりしない人だ。その健吾先輩が「案ずるな」と言ったんだから、本当に心配はいらないはずだった。
 その証拠に、接近に気づいたのっぽの男が警告で突きだしてきた右手を先輩は難なく掴み、あっさりと小手投げを決めてしまった。
 のっぽが硬いアスファルトに叩きつけられてくぐもった苦鳴を漏らした。
 ただし先輩……小手投げは合気道の技では? 内心であたしがそんなツッコミを飛ばしているとも知らず、先輩は魔女を後ろ手に固めていたチビに鋭い眼光を飛ばした。
 チビは、飛びかかるか人質を盾にとるかで一瞬躊躇したようだった。そして、そんな隙を格闘技の鬼である健吾先輩が見逃すはずもない。先輩の大きな手がチビの首に軽く当てられ数秒、相手は白目を剥いてどさりと地に沈んだ。頸動脈を絞めることで意識を落としたのだ。
 解放された魔女は、驚きと安堵の目で健吾先輩を見上げている。
 まだ敵は残ってたけど健吾先輩なら大丈夫そうだ。なら、もういいだろう。このままじゃ魔女に見つかりそうだし、先輩になにをしていたか訊かれたら答えようがない。
 今日も尾行の途中だが、あたしは乱闘の気配を背中にさっさとその場を離脱した。
 それにしても……駅に向かいながらあたしは思う。
 昨日といい今日といい、これほどトラブルに遭遇するのは普通じゃない。方々で恨みを買いまくっている魔女ならではだろう。それでいて普段は余裕と自信に満ちた態度を崩さないのだから、あれはあれでたいした精神力だ。
 駅のほうまで戻ってくると、学校帰りの高校生や買い物客、定時上がりのサラリーマンが多く見られてホッとした。緊張が解けてきて、思わずその場に崩れ落ちそうになる。
 気づかないうちに、恐怖で神経がすり減っていたらしい。
 断言するが、あたしが魔女みたいな目に遭ったら失神か失禁かパニックか……とにかくまともじゃいられない。あんな中、魔女はよくも毅然と男たちを睨みつけられたもんだ。
 今までだってあっただろうに、それでも生き方を変えないというのはどういうわけだろう。
 自業自得なのは確かだが、実際に暴力を振るい慣れた男たちを見たあとだけにそうも言ってはいられない。あの恐怖を前にして、さすがに「ざまあみろ」とは思いにくかった。
 魔女はあんな目に遭ってまでマキシマム・レベルのボーカルになりたいのだろうか……。だとしたら、やはりライバル潰しに動く可能性は大きい。
 魔女の監視を継続する必要を、あたしは改めて感じていた。
      ♪
 しかし残念ながら、土日は魔女の監視ができなかった。これまでの尾行が中途半端で、魔女の家を確認できなかったせいだ。学校にくれば軽音の活動でもしていたのかも……ということに気づいたときには、すでに月曜の朝だった。
 しかたがないので今日は朝から情報収集に努めた。それによると、やっぱり魔女は周囲にかなりの数の敵を作っているらしい。それでも無事に済んでいるのは、妙な能力があるという噂のせいだとか。魔女と正面から敵対すれば、今度は自分が声を失うんじゃないか……そう思うと大抵の女子は腰が引けてしまうらしい。
 男子については、そもそも魔女の敵になるような連中がいない。むしろ、魔女は男子には比較的人気があるのだそうだ。美貌と歌唱力のたまものか。
 つまり、先日のケースはイレギュラーだったということだろう。
 そしてもう一つ、ゴシップ吸引機とあだ名される美樹本ちゃんから面白い話を入手した。
 先日のオーディションで圧倒的な声量と歌唱力を見せつけ、ボーカル候補筆頭と囁かれる子がうちのクラスにいるというのだ。
 美樹本ちゃんが指さした先は教室前方。そこには仲よく朝の挨拶を交わす女子が三人いた。
 その三人のうち誰がそうなのかはすぐにわかった。教卓正面の席にたった今腰かけた子――どこがどうとは言えないが、不思議と注目を寄せるオーラを纏った女の子だった。細身で背が高く、愛嬌のある顔立ちをしている。表情が豊かでステージに立ったらさぞ映えるだろう。
 あの子が九太くんのバンドのボーカル候補……だとすると、魔女の標的になるはずだ。忠告しておいたほうがいいかもしれない。
 美樹本ちゃんに情報のお礼を告げて、あたしは早速教室前方へ。
 歩みながら、相手の名前を頭の中から検索する。たしか鈴村さんといったはずだ。
「おはよう、鈴村さん」
「……? おはよう」
 怪訝そうながらも、力強い声が返ってきた。ロックバンドのボーカルというのはこうじゃないといけないんだろうか。だとしたら魔女は少々質が違う気がする。
 鈴村さんは不審気な目であたしを見ながら、手に持った便箋で胸元を扇いでいた。なにやら警戒されてしまっているようだ。これまで一度も話したことのない間柄なのだから無理もない。
 でも、ここで尻込みしたって仕方ない。魔女を打倒し鈴村さんを守るためだ。少しくらい気味悪がられても言うべきことは言わないと。
「ねえ、鈴村さんってオーディション受けたよね!」
 鈴村さんの便箋を持つ手が止まった。
「マキシマム・レベルの?」
「そうそう、でも二年生に、もう一人ボーカルの地位を狙ってる女がいるのよ。その女はとんでもない性悪で、ライバルから歌声を盗もうと企んでるわけ」
「は? 歌声を盗む?」
「そう、だから鈴村さんも十分に注意したほうがいいよ、自分が狙われてるって自覚を持って常に警戒を怠らず――」
「バカじゃない?」
「――へ?」
 今なんて? とても悪辣な一言を聞いた気がする。
「そんなんで私が怯えるとでも思ってるの? 私を脅かして辞退させて、山咲さんが代わりに立候補しようって腹?」
「え、いや、あたしはオーディション受けてないし……」
「私見たんだから。山咲さん、オーディションに遅刻して、とっくに終わってから大急ぎで視聴覚教室に駆けこんでたでしょ」
「え、違……わないけど……でも……」
 鈴村さんは、そら見ろと言わんばかりに鼻を鳴らし、あたしを侮蔑たっぷりに見下ろした。わざわざ席から立って。そして手にしていた便箋を丁寧に置いてから、机を叩いた。
「私はちゃんと軽音部に入部して、正式にオーディション受けたんだから。私は真剣にマキシマム・レベルのボーカルになりたいの! 邪魔しないで!」
 話はそれで終わりとばかりに、鈴村さんは席に座ってぷいっと前を向いた。横に立っているあたしのことなんて見もしない。
 教室中の視線は、すっかりあたしたちのほうに集まっていた。声楽のおかげで注目されるのには慣れてるけれど、こういった類の視線には全然免疫がない。
 いたたまれなくなって退散するしか、あたしにできることはなかった。
 失敗だ……。完全に馬鹿をやった。
 有力候補者って言われて本人だって期待しているだろうに、それに水差すようなこと言ったのだ。怒られたって不思議はない。
 それにバカ正直に「歌声を盗まれる」なんて言ってしまった。あたしは当事者だから違和感なく言えるけれど、知らない人には出来の悪い創作話としか思えないだろう。歌声を盗むなんて魔法じみた話、信じるほうがどうかしている。
 席に戻って自己嫌悪。そんなあたしを、美樹本ちゃんが猫でもあやすみたいによしよしと、頭をなでて慰めてくれた。
 そうだ、ここでめげるわけにはいかない。鈴村さんには嫌われたけど、彼女が狙われる立場にあるのは変わらないのだ。
 歌が好きな女の子に、これ以上あたしみたいな悲劇は味わわせない! そして、魔女の思い通りになんかさせるわけにはいかない!
 これまで以上に魔女の監視を厳しくしよう。今日こそ尾行をやり遂げる! ストーカーみたいで嫌だけど、そんなことに構ってはいられない。絶対に鈴村さんを守ってみせるのだ。
 鈴村さんとのやりとりのおかげで少しだけ教室の空気に棘が混じっていたものの、午前中の授業は何事もなく消化されていった。そして、昼休みになるころには棘の面影もほとんど感じない程度になっている。
 さて昼食だ、と張り切って弁当箱の包みを取りだし……それから気づいた。
 鈴村さんがいない。
 いつも鈴村さんとご飯食べている子たちに訊いてみたが、彼女たちも知らなかった。
 嫌な予感がする。休み時間なのだから出かけることもあるだろうけど、彼女は魔女に狙われるかもしれない身だ。あまり一人にはしたくない。
 昼食も摂らずに出ていったとなると部活がらみだろうか?
「ねえ九太くん、今日の昼休みって軽音のほうでなんか用事とかある?」
 前の席、麦穂色の後頭部に声をかけてみた。
「別に。休み時間に用事できるほど忙しい部じゃねーし。一年だからってパシリに使われたりはしねーよ、運動部じゃあるまいし」
 九太くんは、あさっていた鞄の中から財布を探し当てると、いそいそと席を立った。友だちと連れだって、いつものように購買に行くのだろう。
 やっぱ部活の仕事じゃないか……。だったらなおさら気になる。今日の鈴村さん、普段と違うところなんてあっただろうか……?
 あたしが話しかけたのは鈴村さんが教科書を机にしまい終えたところで、手に持った便箋で胸元を扇いでいた。胸の成長に嫉妬した覚えがあるから間違いない。
 それからあたしが怒らせてしまって、便箋を置いてから机を叩いて――
 ――気になる。あの便箋はなんだったんだろう。ラブレター? いや、確かに鈴村さんは美人だけど、入学して間もない時期に貰うものじゃないはずだ。
 胸騒ぎ……というより、もっと明確に嫌な予感がする。
 あたしは弁当の包みを解く手を止めて、椅子を鳴らして立ち上がった。
 九太くんを探したけれど、購買へ向かう人たちはさすがに早い。教室に残っているのは弁当持参組ばかりだった。魔女が行きそうな場所の心当たりを訊いておきたかったが仕方ない。
 昼食に誘ってくる美樹本ちゃんに謝って、あたしは教室を走り出た。
 あの便箋、魔女からの呼び出しかもしれない。やっぱり魔女は、ボーカル有力候補の鈴村さんに目をつけていたのだ。
 放課後は鈴村さんだって部活に出ているので人の目がある。なら、魔女が暗躍する時間帯として昼休みは大いにありえそうだ。
 とりあえずは上の階だ。三階と四階が二年生のフロア。そこからあたってみよう。
 と、そこまでやってきてから思考が停止した。魔女の教室ってどこだろう? しまった、美樹本ちゃんなら魔女のクラスくらい知っていたはずなのに……。
 キョロキョロ見回すと、あたりには二年生の姿がいくらでもあった。けれど、誰に訊いたらいいのかさっぱりわからない。
 上級生というのは、どうして実際以上に大きくて怖い存在に見えるんだろう。話しかけにくくてたまらない。どこかに蓮華先輩か健吾先輩でもいれば……。
 だんだん心細くなってきたところで、
「おや、スミレクンじゃないか、こんなところでどうしたんだい?」
 やたら耳に甘い、男の人の声がかけられた。
 そういえば……と、二年生にはもう一人顔見知りがいたことを思い出した。
 少しうんざりしながらも、一応は地獄に仏な状況だ。感謝しながら声のほうへと振り返る。
「う……」
 いきなり二、三歩退いてしまった。別に相手が嫌いだからではない。むしろこんな美男子と喋れることを光栄に思うくらいだ。あたしが引いた理由は別にある。
 声の主、木佐直人先輩は両方の腕にそれぞれ女子をしがみつかせ、他にも何人もの女の子たちを侍らせてこちらに歩いてくるところだった。
 色素の薄いタレ目が優しげな微笑を浮かべて微笑みかけてくる。それだけのことで腰が砕けそうになり、慌てて気をしっかり保った。なんて危険な男だろう。
 総勢十人近い女生徒達を引き連れた一人のハンサム。かなり異様な光景だった。
「なにやってんですかキザ先輩……」
「キザじゃなくて木佐だヨ。それからなにをしているかというのはボクのセリフだネ。よかったらスミレクンもどうだい? ボクたちと一緒に中庭で昼食でも」
 爽やかに両腕を開いて微笑むキザ先輩。それぞれの腕に抱きついた女の人がよろめくことがないような優しい仕草だ。まるで「ボクの胸に飛びこんでおいで」と言わんばかり。思わず体がそのとおりに動きかけて大いに焦った。
 取り巻きの人たちはあたしのことなんて眼中にないのか、ただキザ先輩の一挙手一投足にうっとりするばかりだった。
「いえ、遠慮します……それよりキザ先輩」
「木佐だヨ」
「魔女……音無伶ってどこにいるか知ってます?」
 途端、先輩の周囲にいた女子たちが怯えたような顔になった。どうも悪いことをした気分になってやりづらい。それにしても恐るべきは魔女だ。名前を出すだけでこの効力とは。
「伶クンかい? 彼女ならボクと同じクラスだヨ。六組だから、そこの教室だネ」
 キザ先輩が、肩ごしに自分の歩いてきた方向を指さした。
「でも、昼休みが始まると同時に出ていってしまったヨ。どこに行ったのかはわからないネ」
 なんだ……。同じクラスだと聞いて期待したのに、今ひとつ使えない先輩だ。
「む、スミレくん、今、使えないとか思っただろう?」
「いえいえ、とんでもないです。ではキザ先輩、ごきげんよう」
「木佐だヨ」
 たしなめるように名前を直すキザ先輩を尻目に、あたしは大急ぎで引き返す。
 やはり怪しい。鈴村さんと魔女、二人とも昼休み開始と同時に姿を消したなんて。
 まずい。鈴村さんは、ほぼ間違いなく魔女からの呼び出しを受けている。
 入学したての鈴村さんなら、魔女の黒い噂を知らなくたって無理はない。歌が上手くて美人の先輩というくらいの認識しかないとしたら危険だ。
 呼び出しに使われそうな場所ってどこだ? 講堂? 中庭? 校舎裏? 屋上?
 そのすべてに全速力で向かい、ことごとく空振った。特に最後の屋上などは、昼休みにはカップルのメッカとなっていた。周囲に漂うピンク色の空気に力が抜けそうになってくる。
 息が切れ、ふくらはぎはパンパンだ。もう一メートルだって走れそうになかった。ひとまず膝に手をついて休憩。お腹が空いているせいもあって力が入らない。
「くそ、魔女のヤツ、どこ……行ったっての……」
 鈴村さん、どうか無事で。
 屋上の端から校庭を見下ろすが、仲よくキャッチボールやバレーボールをして遊ぶ人ばかりで怪しげな気配は感じない。いたって健全な昼休みだ。
 校庭からは目をそらして、特別教室棟のほうを見てみる。
 向こうの屋上にも人はいるけれど、やっぱりカップルや女同士での食事が主流のようだ。
 ならどこだ? 人がいなくて呼び出しに適した場所……。
 少なくとも本校舎のほうは人が一杯だから、特別教室棟か?
 こうなったら特別教室を一つ一つしらみつぶしに探していくしか――
「――ん?」
 ちょっと待った。今、視界のどこかに引っかかるものがあったような……。
「ええと……いた!」
 見つけた! あそこは音楽室だ! 人影が一つ……いや、二つ見える! 遠いから人物の特定まではできないけど、きっとあれに違いない!
 それに音楽室なら大声を出しても外には漏れないから、魔女にとっては都合がよさそうだ。
 などと悠長に考えている間に一人がもう片方の人影を壁際に追いつめようとしている。
「急がなきゃ!」
 立っているのも辛い状態だったが、そんなこと言っていられない! 今まさに、一人の歌い手が声を奪われそうになっているのだ! もう、あたしみたいな人間を増やしちゃいけない!
 転がるように階段を下りて、今日何度目かの猛ダッシュ。陸上部でもこれほどの特訓をするかというくらいのハードな昼休みだ。二階まで降りたら特別教室棟への渡り廊下へ。それから階段を上がって三階の音楽室へ到着!
「そこまでだ魔女おぉ――っ!」
 破壊するほどの勢いで扉を開けた。と同時、中にいた二人があたしに目を向ける。
 一人は長身の鈴村さん。はっきりした目鼻立ちだが、目元がうっとりと陶酔の色を浮かべていて、普通の状態じゃないのがわかった。
 そしてもう一人は、鈴村さんに寄り添うように立っている闇色の髪の美女。あたしがこの世で一番憎む、魔性の力を持つ女だ。
 魔女は鈴村さんの喉に寄せようとしていた唇をそっと離し、眉根を寄せてあたしを見た。ああいう表情をするということは、まだ歌声を盗む前だ! 間に合った!
「あんたの悪事はここまでよっ! これ以上、人から声を奪うなんて行為は許さない!」
 大音声が音楽室に反響し、そのせいか、とろけたようだった鈴村さんの表情に理性の色が戻ってきた。途端、彼女の表情には魔女への怯えが浮かび上がり、ぱっと身を翻した。
 とっさに魔女が伸ばした手は届かず、鈴村さんはあたしの――正確には出口のほうへ。
 恐怖に染まって泣きそうになった顔のまま、鈴村さんはあたしの脇を抜けて音楽室から出ていった。さぞかし怖かっただろう。あたしは鈴村さんに深く同情した。
 そして音楽室に残されたのは、壁際に立つ魔女と入口に立つあたしの二人だけ。
 ついに……ついに魔女の悪事を阻止できた。
 しかも現行犯だ。詰問するには十分な状況と言えた。
 あたしは笑みが浮かぶ口元を見せつけるように、部屋の中央まで悠々と進んだ。
「さあて魔女、現行犯だからね、言い逃れできるんならしてみるがいいわ!」
 すると魔女は、ゆっくりと胸元で腕を組み、ツンと顎を上向ける。
 相変わらず仕草の一つ一つが偉そうだ。そこからどんな言い逃れを展開する気だろう。
「スミレさん……貴女、余計なことを……」
 困ったように首を振り、責めるみたいにあたしを見据えてくる。それは言い逃れですらなかった。あまりの言い草にあたしも開いた口が塞がらず、言葉が出てこない。
 気を取り直すまで呼吸三つ分の時間がかかった。
「あ……あんたなに開き直ってんのよ! 歌声を盗もうとしてた現場を押さえたんだからね! 弁解できるもんならしてみろって言ってんの!」
 こちらがいくら威勢よく噛みついても、魔女のリアクションは「ふぅ」と吐息が一個だけ。
「あの子、もうわたくしに近づこうともしてくれないでしょうね……」
「ったりまえでしょ! もう歌声盗むのは無理だからね!」
「残念だわ。あの子の気性じゃ話して聞いてくれるとも思えないし」
 魔女は組んだ腕を解くと、今度は両手を腰に当ててあたしを見下ろしてきた。
「スミレさん」
「うるさい。名前で呼ぶな」
 魔女が目をすがめてあたしを睨んできた。顔立ちが整っているだけに異様な迫力があって、思わず怯みそうになる。魔女に喧嘩を売った女生徒達の恐怖が少しだけ理解できた。
「あの子はお友達?」
「く、クラスメイトよっ」
 質問に答えるだけなのに、必要以上に語気を強めてしまう。気圧されているのが見え見えで悔しかった。
「貴女から、ボーカルを諦めるように薦めたほうがいいわ。彼女はもう、わたくしには警戒心しか抱けないでしょうから」
「なっ、なんであたしがあんたの片棒担がなきゃなんないのよ!」
 前に軽音に勧誘されたときにも思ったが、この女は頭がおかしいんじゃないだろうか。どうすれば、魔女を敵視するあたしが言いなりになるなんて思えるんだろう。
 おめでたい思考回路と言うよりは、単に頭が悪いのかもしれない。
「もういい……付き合ってらんない。とにかく企みはあたしが阻止したからね! あとは鈴村さんがマキシマム・レベルとやらのボーカルになるのを指をくわえて見てるがいいわ!」
「あの子はマキシマム・レベルのボーカルにはなれないわ。歌声を盗むのを止めた結果がどうなるか……スミレさん、貴女には目をそらさずに見届ける義務がある」
「ふん、負け惜しみなんてみっともないだけだよ」
 もう、話をする意味もない。歌声を盗むなんて、誰にも告発できはしないのだから。
 でもあたしは勝った。魔女の暗躍阻止に成功したのだ。あとは教室に帰ってお弁当を食べれば、愛すべき日常が戻ってくる。あたしは胸の空く思いで魔女に背を向け、音楽室の出口に向かった。
「スミレさん」
 呼ばれるけれど、返事はしない。脚も止めない。
「貴女は軽音にくるべきよ」
 まただ。どこまでも自分勝手な言い草。あたしが好きなのは声楽なのだ。
 別れの挨拶に親指を下向けた拳を向けてやってから、あたしは力強く扉を閉めた。
 予言めいた魔女の言葉……気にならないと言えば嘘になるけれど、これ以上なにかが起こるはずはなかった。だってあたしは鈴村さんの歌声を守り、魔女に勝利したのだから。
 あとはあたし自身が歌声を取り戻せば完璧だ。そうと決まれば放課後は練習あるのみ。音楽室に蓮華先輩がくるようなら、今日も伴奏を頼んでみよう。
 本校舎に戻る途中で予鈴が鳴った。それでちょっとだけ気分の高揚が収束する。意外と時間食ってたようだ。そんなものを食っていたおかげでお弁当にありつくことができなかった。
      ♪
 放課後、空腹に耐えきれずに遅弁をしてしまった。
 のんきに食事をしている間に、蓮華先輩はもうきているかもしれない。
 いそいそと音楽室に向かって、いつもの防音扉を開くと――やっぱり。耳をとろけさせる心地いい音色が音楽室の空気を清浄なものへと変えている。昼にあたしと魔女が対峙した険悪な空気なんて綺麗に洗い流されてしまっていた。
 あたしは鍵盤で指を踊らせる先輩に控え目に挨拶して、ピアノの前に陣取った。
 先輩の演奏が一段落すると、あたしは昼にあったことを得意になって話した。ボーカル最有力候補と噂される鈴村さんのこと、魔女が鈴村さんから歌声を盗もうとしたこと、それを見事、このあたしが阻止したこと。
 一応自慢話だったので、あたしとしては蓮華先輩に感心して欲しかった。なのに、なぜか反応は芳しくない。あまり表情を変えない人だけれど、よく見ればいつもより少しだけ眉と眉の間が狭くなっている。なにか気に入らないことでも言っただろうか。
 そういえばオーディション当日、蓮華先輩は音楽室にいなかった。実はこの人も参加者だったので有力候補の鈴村さんに嫉妬をしているとか……いやまさか。
「あのう先輩、どうかしました? あたし、なんか気に障るこ――」
「止めるべきでは……ありませんでした」
 相変わらず噛み合わないタイミングで、蓮華先輩が静かな声を呟いた。頻繁に会っているわりに、蓮華先輩の声を久しぶりに聞いた気がする。
 それよりも、あたしは耳を疑った。
「止めるべきじゃなかったって魔女のことですかっ? そんな、あたしはちゃんと鈴村さんを助けてあげたんですよ? あのままじゃ魔女に歌声を盗まれてあたしみたいな思いを――」
「助けて……いません」
「え、それはどういう……」
「かえってその子が……心配です……」
 先輩の言っていることがちっともわからなかった。あたしは間違ったことなんてしてないはずだ。
 なのに、先輩はそっと鍵盤の蓋を閉じて立ち上がると、ピアノに布のカバーをかけて帰り支度を始めた。
「蓮華先輩……帰るんですか? 今日も練習に付き合ってもらおうと思って――」
「講堂へ……行きます。無事なら……よいのですけれど……」
 鞄を持った先輩は、音もなく歩いてあたしの横をすり抜けた。
「ちょ……先輩!」
 呼び止めようとしても全然振り向いてくれない。お茶を運ぶからくり人形みたいに、機能的な動きで音楽室から出ていく。それを、あたしは止められなかった。
 どういうこと? あたしは間違いなく鈴村さんを救ったはずだ。でも蓮華先輩は「助けていない」と言った。それどころか、かえって鈴村さんのことが心配だなんて。
 魔女がこの程度で諦めるはずがないということだろうか。今度は実力行使でくると?
 でも、力ずくでくるなら蓮華先輩が駆けつけたって意味がないように思える。あんな華奢な体でなにができるというのだろう。
 追いかけて訊いてみればいいんだけれど、そういう気にはなれなかった。蓮華先輩の纏う雰囲気が孤高で近づきがたいからというのもある。でもそれ以上に、あたしは反発みたいなものを先輩に対して感じていた。
 あたしがしたことが無駄だったと言われたようなものだから。そんなことを言われて面白いわけがないし、魔女に勝った達成感に水を差されて気分が悪かった。
 あたしは勝ったのに……。別に見返りを求めてやったわけではないが、鈴村さんはあたしを避けるだけでお礼を言ってくれなかった。やっぱそういうのって寂しい。
 蓮華先輩に話したのは、鈴村さんの代わりに褒めてくれないかな……なんて期待してのことだった。でも、先輩はむしろ余計なことをしたみたいな言い草で……。
 面白くない。
 だったらもういい。あたしはあたしで、もう一つのほうでも勝ってみせる。つまり、自分の歌声を取り戻してみせる。
 がらんとした音楽室で、あたしはぎこちなく歌声を編みあげていった。
 相変わらずソプラノは出ないけれど、自分なりの声でいつまでもいつまでも――ただひたすらに、あたしは歌声を響かせ続けた。
 魔女なんかに負けないことを、一日でも早く証明したかった。
      ♪
 ふと、音楽室の時計を見てあたしは仰天。
「げっ! もう七時!」
 先輩が音楽室を出たのが五時近かったから、それから二時間も一人で歌っていたことになる。悔しさがそうさせたのかもしれないけれど、声を盗まれてからこんなことは初めてだった。
 いつもだったら自分の美しくない歌声に嫌気がさして、すぐに気が滅入ってしまうのに。
 だんだん耳と喉が慣れてきたのだろうか。それはそれで嫌な事態だ。
 こういう歌い方を否定するつもりはないけれど、これはポップスの歌い方であって、あたしが求めるソプラノとは違うものだ。
 だから、あまり慣れたくはない。
「っと、もう帰らないと」
 今日も魔女を尾行しようと思っていたのに、さすがにもう帰ってしまっただろう。
 しかたない、今日はまっすぐ下校しよう。
 慌てて鞄をひっ掴み、あたしは音楽室をあとにした。そろそろ各教室に鍵がかけられてもおかしくない時間だ。
 渡り廊下から本校舎に戻って昇降口へ。急いで靴に履きかえて外へ飛び出すと――思ってもなかった影とはち合わせした。
「おや、スミレクンじゃないか。今日は遅いんだネ」
「わわっ、キザ先輩」
「木佐だヨ」
 キザ先輩も、ちょうど帰るところだったようだ。こんな時間までなにをしていたのかは知らないが、女生徒達に囲まれていない姿というのは新鮮だった。
「いやあ、今日はいろいろあって遅くなったけど、こうしてスミレクンと会えたんだから神様に感謝しないとネ。それとも、感謝するのはキューピッドかな?」
 相変わらず軽さは一級品だ。一緒に校門に向かいながら、あたしは内心苦笑した。
 今が薄暗い時間帯なのは幸運と言うべきだろう。今ならキザ先輩の芸術的なルックスも見えにくいので無駄にクラクラせずに済む。声だけだったらただのキモイ喋り方の人なので、籠絡されることもないはずだ。
「スミレクンとこうして二人で帰れるのも運命かもしれないネ。最初に会ったときは伶クンと一緒にいたし、今日の昼もキミは伶クンを探してたからゆっくり話せなくて残念だったヨ」
 先輩の発言に、あたしは思わず肩を震わせてしまった。
 ただの世間話にすぎないってことはわかっていた。軽く流せばいいのに……それができなかった。今から誤魔化そうとしたってもう遅い。
 ずっと音楽室で歌っているうちに気持ちの整理をつけたつもりだった。でも、やっぱり駄目だ。キザ先輩の何気ない一言で簡単に思い出してしまった。
 昼の騒動と蓮華先輩の不可解な態度が心をよぎった。まるであたしの行為を「余計なこと」みたいに言った蓮華先輩……結局、あの人は講堂に行って鈴村さんに会ったのだろうか。
 会えたとしても無駄足だろう。鈴村さんの性格からして、人に言われてボーカルを諦めるということは考えにくい。
 ついため息を漏らしてしまってから、横を歩く美形の存在に気がついた。
 キザ先輩のまなざしを横顔に感じる。
「スミレクン? なにか嫌なことでもあったのかい?」
 ちょうど校門に差しかかったところで、キザ先輩はそう問いかけてきた。思いがけず感情のこもった優しい声で、あたしは自分でも焦るくらいに心が波立った。
 嫌なこと。そう、魔女に勝利したはずなのに、今日は嫌な気分のほうが目立つ一日だった。魔女の目……あたしを責めるような、困った子どもを見るようなあの目……。
 単に、邪魔をされて悔しがっているのだと思っていた。だから気にしないようにしていた。
 なのに放課後、蓮華先輩のあの態度。
 あたしはなにも悪くない。むしろいいことをしたはずなのに、どうして責めるような目で見られないといけないんだろう。
 こんなの納得いくわけない。
「スミレクン?」
 もう一度呼ばれて、あたしはようやく自分が立ち止まっていたことに気がついた。校門を出たところで俯いて、考え事にひたっていたようだ。
 キザ先輩の声には苛立ちの色はなく、かといて必要以上に同情的でも気遣わしげでもない。
 ただ自然に、様子のおかしいあたしに優しい声をかけてくれていた。
 なんだか、今日初めて人の温かさに触れた気がする。
 この先輩がもてるのは、きっと顔のせいだけじゃないのだろう。でも、あたしが今求めているのは、こんなぬるい心地よさではなかった。
 あたしが欲しいのは勝利、自信、歌によってもたらされる充実感だ。ぬるいものより、熱いものが欲しい。キザ先輩といるとそのことを忘れてしまいそうになる。
 この人と会うときは、間に取り巻きの女生徒達という壁があるべきだ。でないとこの人の無自覚な優しさは、きっとあたしをダメにする。
「先輩、あたし、一人で帰りますね」
「ん、そうかい? 暗いけど平気かナ?」
 あたしの突然の発言にも、先輩はちっとも戸惑いを見せなかった。駅までの道のりは共通なんだから、一緒に歩くのが自然なのに。
 あたしが何歩か先に歩くのを、キザ先輩は立ち止まったまま見送った。
「大丈夫ですよ、子どもじゃないんですから」
「ははは、見た目は子どもとかわらないけどネ」
「うっさいこのキザ」
 本当、優しいんだか失礼なんだかわからない人だ。立ち止まって見送ってくれるということは、少なくとも電車一本分、時間を遅らせてから駅に行くつもりなんだろう。
 ちょっと申し訳ない気持ちになりつつも、あたしは駅に向かって駆けだした。
 今日は気持ちが揺れすぎている。鈴村さんに嫌われて、魔女を阻止して、蓮華先輩に不可解な態度をとられて、キザ先輩に優しくされて。
 リセットしないとおかしくなりそう。
 あたしの原点は歌だ。だから、まずは歌いたいという気持ちをを安定させることから始めないといけない。
 どうすればそれができるのかもわからず、ただひたすらに、あたしは帰路を急いだ。
      ♪
 電車を降りて、家までの道のりをとぼとぼ歩く。
 キザ先輩との別れ方を思い出してみると、耳が熱くなるのが実感できる。
 ちょっとタイプは違うものの、キザ先輩への態度……あれは八つ当たりに近かったと思う。怒りをぶつけたわけではないが、鬱な気分はぶち当てた。挙げ句、さんざん気遣わせておいて一人で勝手に帰ってきてしまった。
 考えるだに痛い行動だ。
「あーもう! なにやってんだろ!」
 思わず大声を出してしまってから、慌てて周囲を窺った。
 駅前の繁華街はもう抜けていたので人通りはなかった。近所の住人には聞かれたかもしれないが、とりあえずは平らな胸をなで下ろす。
「あ〜モヤモヤする。なんか八つ当たりするもんないかな〜」
 キザ先輩への八つ当たりは無自覚だったけれど、今度は自覚的に感情をぶちまけたい気分だった。
 と、そこへ発見。前方、路地の手前に電柱があった。ぼさっと突っ立ったその様子はいかにも無防備。まるで殴ってくれと言わんばかりの風情だ。そんなわけないが。
 ともかく今のあたしは、ライオンの食べ残しを見つけたハイエナみたいな目をしているに違いない。昼間の苛立ちをぶつける用意は着々と調いつつあった。
 南無三! なんて意味もわからないのに呟いてみてから二、三歩助走。
 あたしは華麗に飛び上がり、強烈なキックを電柱へ――見舞うはずが、目測が間違っていた。 見事に体ごと、電柱の脇をスルリと抜けてしまう。
 しかもタイミングの悪いことに脇の路地から人影が!
「うわっ! よけて!」
 そう叫んだつもりだけれど全然言葉になっていなかったと思う。通行人に見事な跳び蹴りを食らわせて、あたしはそのままアスファルトを転がった。
 トラックでも蹴ったような重い手応え……いや、足応えだった。
 などと、悠長に感触を振り返っている場合じゃない!
「すっすすす、すみませんでしたっ!」
 起き上がりざまガバッと土下座。あたしは、どこまで完全無欠のバカ女なんだろう。通行人にいきなり跳び蹴りとは……どんなマンガでも見たことのない凶行だ。
 目線の中には地面と革靴。どうやら相手は男性だ。蹴ったあたしのほうが地面に転がったことからしても、相当体格のいい人に違いない。どうしよう……殺されるかも……。
「山咲か。何事だ?」
 あたしが背中を丸めてビクビクしていると、そんな言葉が降ってきた。この、短く区切るボソボソとした喋り方は……愛想の乏しい低い声は……。
 顔を上げたあたしは、安堵のあまり脱力した。もう、ぐったりとしてそのまま液体にでもなってしまいそうな勢いで安心した。
 見知った相手、御劔健吾先輩だった。同じ中学出身で、こないだは魔女がチンピラに絡まれているときに助っ人になってくれた頼りになる人だ。
 蹴った相手が健吾先輩でよかった……なんて言ったら失礼だが、温厚だからこれくらいで怒ったりしないのだ。見た目は怖いけど。
 でも、やっぱりあたしが百パーセント悪いわけだから謝らないと。
 立ち上がったあたしは、制服の汚れを払うより前に先輩に対して頭を下げた。
「すみません先輩。いきなり蹴っ飛ばしたりして……」
「いや、飛ばされたのはむしろ山咲のほうだろう。俺は別に大事ない」
 確かに先輩は、あたしが蹴った位置から一歩も動いていなかった。ダメージだけなら弾き飛ばされたあたしのほうが大きいかもしれない。
「それよりも何事だ。出し抜けの暴挙、山咲らしくもない」
 相変わらず武士みたいな喋り方をする人だった。立ち振る舞いだけなら、柔道よりも剣道や居合道あたりをやっていたほうが似合いそうにも見える。
 でも体格は、柔道家らしく立派に分厚かった。圧倒的な存在感がある。そんな先輩を前にすると、どうしても自分を偽れなくなってくる。昔からそうだった。だから、歌のことで悩みがあるときも、あたしは親や先生より健吾先輩に相談するほうが多かった。
 その感覚が久しぶりに甦ってきていた。それに今日はいろいろなことがありすぎて、高ぶった感情の流れがあたしの中で行き場を求めて渦を巻いていた。
 健吾先輩が無言で歩き出した。
 それにあたしもついていく。家の方向は同じだから、歩きながら話せということだろう。
 今日も健吾先輩は制服姿だった。先日との違いは肩から柔道着をぶら下げていること。そういえば、さっきの路地の向こうには古びた道場があったはずだ。部活だけじゃなく、道場にも通って練習しているんだろうか。
 暗い道を、大きい背中を追いながら歩く。それだけで不思議と心に安心感がたたえられていくのが自覚できた。キザ先輩の優しさがもたらす安心感とは種類が違う。無愛想だけど、これもまた優しさの一種なのかもしれない。
 だからあたしは話した。前を行く広い背中に向かって。魔女のこと、鈴村さんのこと、蓮華先輩のこと……。歌声を盗まれたことだけは伏せつつ、ただただ愚痴を吐きだした。それは相談と呼べるようなものじゃなかった。
 あたしの中にあるのは、迷いではなく不満の感情ばかりだったのだ。
 それらをぶちまけると、ちょっとだけ恥ずかしくなった。でも、健吾先輩がそんなことで笑ったり馬鹿にしたりしないことはわかっていた。
 ずっと無言で聞いていた先輩だが、しばらく歩いてから訥々と声を零し始めた。
 低くてあまり大きいとは言えない声だったけど、不思議とあたしの耳には素直に届いた。風とか雑音とかに邪魔されない、まっすぐな質の声だった。
「武道には心技体という言葉がある」
 語り出しは、そんな無骨な一言からだった。
「だが、これは武道だけに通ずる言葉ではないと思っている。山咲は歌を歌うのだろう?」
「は……はい……」
 以前の声を失ってしまったことは言いだせなかった。
「いい歌を歌うには、技術が必要だろう。そして、その歌声を支えるための体……歌声に耐えうる強い肉体が必要なはずだ」
「はい……」
 言い方は大げさだけど、確かにその通りだった。魔女が盗んでいったのはどちらだろう。技術なのか体のほうなのか……。
「だが、それより大切なものがあるはずだ。いい歌を歌うためには、心がなくてはならない。歌いたいという欲求がなくてはならない」
 心……心だったら、あたしは持っているはずだ。だって、歌はあたしにとってのすべてなんだから。
「格闘技においての心とは、勝つための闘志だ。そして武道においての心とは、負けないための心構え。では、山咲はどんな心を持って歌を紡ぐ。勝ちや負けではないだろう。もっと根元的な思いがあるのなら、自分にとっての歌が、自ずと見えてくるはずだ」
「あたしにとっての歌……」
「案ずることはない。山咲にならきっと見える」
 相変わらず古風な口調だった。言ってることも、おぼろげにわかるようでいて実のところ今ひとつ実感が掴めない。
 不器用で無愛想だが励ましてくれているらしい。背中で喋るし、声に抑揚もないからわかりづらいけれど、先輩のまっすぐな気持ちだけは伝わってきた。
 先輩は寡黙だけど、話す内容には誠実であることをあたしは知っていた。
 でもね先輩。確かに歌は勝つために歌うものじゃないけど、やっぱり魔女との決着だけはつけないといけないんです……。
 物わかりの悪い後輩でごめんなさい。でもきっと、先輩の言う、歌の心を理解できるようになりますから。
 だから今だけ、あたしのすることに目をつむっていてください……。
      ♪
 一晩寝たら、だいぶ気分も落ち着いた。
 なのに、そんなあたしを再び揺さぶるニュースが、朝の教室を飛び交った。情報通の美樹本ちゃんに聞くまでもなく、クラス――いや、学校はその話題で持ちきりだった。
 昨日の放課後、軽音部での練習中に、鈴村さんが喉を潰して病院に運ばれたらしい。
 それを聞いたあたしは、鞄を落として氷みたいに固まった。
 そんな……。昨日、魔女の手から救ってあげたばかりなのに……。一体になにが……。
 唐突に魔女の言葉を思い出した。歌声を盗むのを止めた結果がどうなるのか見届けろ――確かそんなことを言っていた。魔女はこのことを言っていたのだ!
 蓮華先輩は、こうなることを心配して講堂へ向かったのに違いない。でも間に合わなかった……最悪の事態を止めることができなかったのだ。
 去年のオーディションと同じように、魔女が影で動いたことは疑いようがなかった。
「くそっ!」
 悔しさをぶつけるようにして、乱暴に机に鞄を置いた。落ち着いていたはずの気持ちが、あっという間に煮えくりかえっていた。
 まともじゃない。普通ここまでやるだろうか。人を病院送りにしてまで……。
 魔女の偉そうな態度を思い返すと、どんどんむかっ腹が立ってくる。アイツだけは絶対に許しちゃいけない!
 あたしがあまりに怒りを露わにするのが理解できないらしい。みんなは地雷を見るようにあたしを遠巻きにして、怯えた顔を見せていた。
 でも、そんな反応を気にする余裕なんてまったくない。今からでも魔女の教室に行って問い詰めたい気分だった。いや、殴ってやりたい。
 そこへ、新しいざわめきの種が教室前方の入口から入ってきた。あたしの前の席の男子――三瓶九太だ。
 顔を見た瞬間、九太くんも不機嫌なんだってことがわかった。小さい体ながら、立ちのぼる怒りのオーラは腹を空かせた野生の獣のようだ。麦穂色の暴れ髪も、心なしかいつも以上に逆立って見える。
 みんなからの挨拶にぶっきらぼうに返事をして、あたしの前の席にどっかりと腰かけた。担いでいたギターケースだけは丁寧に机の脇にかけるあたり、理性は残っているらしい。
 一瞬だけあたしと目が合ったが、九太くんは無言ですぐに前を向く。
 不機嫌の原因は、当然あたしと同じで鈴村さんがらみだろう。
 鈴村さんが喉を潰した原因は魔女であって、九太くんのバンドが関与しているわけじゃないと思う。まわりもそういう論調だし、その点ではあたしも別に疑っていない。
 でも九太くんは魔女の幼なじみという話だし、だったらもう少し手綱を抑えてくれないものかと思わずにはいられない。
 教室では、方々で噂の煙が立ちのぼっていた。魔女の手口の推理から、ただの悪口の類まで。わざわざ聞きたくもないけれど、黙っていたって耳には入ってくる。
 前の席、九太くんの背中が放つ気配がどんどん強くなっている。
 さすがに、幼なじみの悪口が蔓延しているのは気分が悪いのかもしれない。
 とはいえ魔女のしたことを思えば、みんなの口をふさぐことは不可能だろう。あたしだって話を振られれば悪口はいくらでも吐き出せる。それがわかっているからこそ、九太くんも無言を貫いているはずだ。
 ただ、周囲の空気にはさすがにあたしも苛々がつのってきた。昨日のあたしの行為が中途半端だったことを思い知らされるし、魔女の噂など聞くだけで胸が悪くなる。
 時間が経つにつれて生徒の数も増えるから、ますますやかましい。九太くんも全身に力が入っているようで、いつ爆発してもおかしくなかった。
 周囲の声がいっそう高まって九太くんが立ち上がったのと、担任が教室に入ってきたのはほとんど同時だった。一瞬だけ教室がしんとなって、すぐにチャイムが鳴り響く。
 いつの間にかHRの時間になっていたようだ。
 九太くんはギターケースを担ぐと無言のまま後ろの扉から出ていった。担任の先生が止めるのも無視。ただ苛立ちの空気だけを纏って小柄な少年は教室から姿を消した。
 一時間目、二時間目。九太くんは戻ってこなかった。
 戻らないまま授業は進み、昼休みになっても、前の席に人が座ることはなかった。
      ♪
 昼休み、食事に誘ってくれる美樹本ちゃんに断りを入れて、あたしは教室を出た。購買で適当にパンを見繕ってから、九太くんを捜して校内を歩き回る。
 クラスの男子が電話をかけても出なかったらしいから、地道に歩いて探すしかない。自分でも、なんでこんなことをしているのか疑問に思う。
 でも、放っておくことはできなかった。
 人捜しといえば、最近妙に相性がいいのが屋上だ。まずはそこから回ってみよう。
 六階建ての校舎の屋上は、日によっては風が強くて目を開けるのさえ困難になることがある。でも、今日の気候はずいぶんと穏やかだった。
 屋上に出てみると風は柔らかで、太陽の光も優しくそそいでいる。花は散ったあとだけど、どこからか飛んできた桜の花びらが側壁のコンクリにへばりついていて……まあ、あまり綺麗なありさまとは言えなかった。
 そして、のどかな風に乗って流れてくる寂しげな旋律。
「ん?」
 もしかして……と思ったら、まさしくその通りだった。旋律の流れてくるほう、右方の手すりに寄りかかって九太くんが座りこんでいた。ギターを弾きながら、肩でリズムを刻んでる。
 まさか本当に屋上で当たりを引いてしまうとは。わりとどうでもいいところでツイているのがいかにもあたしらしい。
 周囲ではちらほらカップルたちがお弁当を広げていたが、九太くんのまわりだけは空気が独特すぎて誰も近寄ろうとしない。
 あたしがパンを入れたビニールをガサガサ言わせながら歩み寄っても、九太くんは無反応で弦をピックで引っかいている。無視してるのか、それとも集中していて気づいてないのかはわからなかった。
 五歩くらいの距離まで接近したところで、あたしは適当にパンの包みを取りだして九太くんに放った。
「おおっと」
 九太くんは演奏を中断して右手でパンを受け止めた。眩しそうに顔をしかめながらあたしを見上げて、少しきょとんとした表情になる。こうして見ると、猪みたいな気性のくせにけっこう可愛げもあった。まるでうり坊みたいな少年だ。
「山咲か、なにやってんだ? こんなトコで」
「その台詞、そっくり返すよ。あたしは昼ご飯食べようと思ってきただけ」
「このコロッケパン、くれんのか?」
「いいよ、食べれば」
「サンキュな」
 素直に嬉しそうな顔をして、九太くんはギターを置いてからラップを剥がした。そう真っ正直に喜ばれると悪い気はしなくて、ついもう一個、ビニールから出して放り投げてやった。
「これもくれんのか?」
 キャッチした九太くんが見上げてくる。普段はギラギラした目をしてるくせに、こんなときだけキラキラしてた。無言で頷くと、九太くんは受け止めたカレーパンを大事そうに膝に置いて、手にしたコロッケパンにかぶりついた。
 さて、あたしも食事をするか。と、九太くんの横にお尻を下ろして手すりに寄りかかった。それからおもむろにビニールの中を覗きこんで……少しだけ後悔した。
 コッペパンとライ麦パンしかない……。交換してもらおうにも、九太くんはすでにカレーパンに挑もうとしてる真っ最中だった。
 しかも、飲み物を忘れていたことに気づいてちょっと鬱。
 仕方なしにコッペパンをかじるあたし。なんか惨めだ……。
 しばらく無言でパンを食べていたあたしたちだけど、先に平らげた九太くんが口を開いた。どうも、沈黙があまり好きじゃないタイプのようだ。
「で、まさかホントにオレと飯を食いにきただけ、なわけねーよな?」
「まーね、だから九太くん、変な勘違いするんじゃないよ?」
「するかバカ」
 ぶっきらぼうに言ってから、九太くんは横に置いていたギターを再度構えた。曲でも弾くのかと思ったら、適当に弦をかき鳴らしただけだった。
 ジャララン……。そんな音の余韻が消えてから、あたしは話を切り出した。
「機嫌はもう直ったわけ?」
 その問いは予想外だったみたいで、九太くんはちょっとだけ目を丸くして――それからすぐに鼻に皺を寄せた。
「……別に」
 返事になってない返事だった。まあいい。話の切り出しに訊いてみただけだ。
「九太くんが気になってるのは魔女……音無伶のことでしょ。幼なじみの悪口が学校中に充満してるのが気に入らないわけ?」
「……うっせえな……。お前だって伶を悪く思ってるクチだろ」
「当たり前。あたしはアイツに歌声を盗まれてるんだからね。九太くんには、幼なじみとしてちょっとはアイツの手綱を抑えとけって言いたいくらいだよ」
 九太くんは、小さく舌打ちしてから、もう一度五本の弦をかき鳴らした。
「伶はバカだからな……」
 それはあたしも思うけど、たぶん魔女は九太くんには言われたくないだろう。
「確かにオレと伶は幼なじみだけどさ、それだけだとなんかニュアンスが違う感じだな」
「恋人同士とか?」
「なんでそーなるんだバカ」
 あたしもバカか。でも、やっぱり九太くんには言われたくない。
「オレはプロのギタリストになりてーしさ、伶はプロの歌手が夢なんだ。小学校に上がるころには、二人ともその夢に向かって一直線だったな。ガキのころの約束だけど、一緒にデビューしようぜって誓い合ったぐれーだ。その約束は、たぶん伶も忘れちゃいねえ」
 いつしか、九太くんの操るピックは流麗な旋律を奏で始めていた。澄んでいて、心が洗われるような音色。ギターにこんな音が出せるなんて、あたしは知らなかった。蓮華先輩のピアノと同等……いや、それ以上の音楽だった。
「中学のころには一緒に路上ライブもやったな。演奏中に大雨になったこともあってよ、まあ、ひどい目にも色々遭ったりしたぜ。それでも楽しかったけどな」
 九太くんの口元がほころぶと同時に、ギターが奏でる旋律も暖かさを増したようだった。凄い演奏だった。マキシマム・レベルというバンドが伝説みたいに扱われている理由がちょっとだけわかった気がした。
「あいつの夢はいつでも叶う。なのに伶がさっさとデビューしちまわないのは、オレを待ってるからかもしれねーな」
 ほとんど独り言みたいにそんな話をすると、九太くんの演奏がおもむろにテンポアップし始めた。妙にセンチになったのを誤魔化そうとしているように、あたしには聞こえた。
 だから、ちょっとだけ微笑ましくなって、質問の口調がとげとげしくならずに済んだ。
「魔女……音無伶が九太くんのバンドのボーカルになりたがってるってのは、ホントなの?」
「ああ、そいつは本当だ」
「だったら、いつまでも臨時扱いじゃなくて正式にメンバーにしちゃえばいいじゃん。プロ級の歌手なんでしょ? 美樹本ちゃん情報だと、神音使いだって噂まであるらしいし」
 実際この騒動は、件のバンドがさっさとボーカルを決めないから起きているのだ。魔女が手段を選ばないのも、九太くんたちの優柔不断に原因がありそうに思える。
 なのに九太くんは「そんな意見はうんざりだ」とでも言いたそうな顔をして首を振った。
「オレらがそれを考えなかったとでも思うかよ」
「む……思わない……けど……」
「オレらの音楽と伶の音楽は違うんだよ。向かう方向が違う。表現する想いが違う。だから音楽性も違う。オレはアイツの歌が好きだし、アイツもオレらの音楽は好いてる。けどよ、お互い、表現方法が違ってるんだ。アイツの歌じゃオレらの音楽には合わねえ。それは伶だってわかってることなんだ」
 九太くんの爪弾く音楽が、また調子を落として重たくなってきた。聴いているこっちの息が物理的に詰まりそうになるほどだ。なんて奏力なんだろう。
「無理に合わせようとしたら、歌も演奏も壊れちまう。互いの長所が潰し合って、音楽とは呼べねえ……ただの音になる。だから伶は……マキシマム・レベルには入れることはできねーんだ」
「それ……魔女には伝えてあるの?」
「ああ、あいつだって承知してることだぜ」
 じゃあ、なんで魔女は候補者の歌声を盗むような真似をするんだろう。嫉妬か、あるいはもっと複雑な感情によるのか……。ただ、どちらにしても許される行為では絶対ない。
 魔女の行為は意味のわからないことが多すぎる。あたしの歌声――ソプラノなんか盗んだって役にも立たないだろうに。それに、入学前からあたしが声楽をやってることを知っていたのも不可解だ。
 そして去年のオーディション参加者を全滅させたこと。昨日、鈴村さんの喉を潰したらしいこと。マキシマム・レベルに加入できないことを承知しているなら、そもそも候補者を潰す意味なんてほとんどない。それこそ嫉妬の衝動くらいしか。
 結局、魔女はなにがやりたいんだろう。
 と、パンのお返しというわけでもあるまいが、九太くんが薄っぺらいなにかを放ってきた。
 わたわた慌て、あたしはみっともなくそれをお手玉した。あたしは九太くんと違って反射神経がナノチューブ並みに細いのだ、急にものを投げないでほしい。
 どうにか落とさずに胸で抱えこんだそれは、CDケースだった。かたわらのギターケースに入れてあったものらしい。
「そいつ、やるよ」
「なにこれ、いらない」
 意味がわからないから投げ返すと、九太くんは半分ムキになった顔して再度放ってきた。
「中身も聞かねーで受け取り拒否すんな。失礼なヤツだな」
 今度は危なげなく受け取ったが、あたしの顔は、この上なく仏頂面になっていたと思う。への字口で睨みあう二人組、端から見たらさぞかし奇妙なことだろう。
「……じゃあ聞いてあげる。説明していいよ」
「……とことん可愛げのねーヤツだな」
 九太くんは、男子にしては可愛げある顔立ちに苦笑を刻んでから、諦めたように話し始めた。
「そいつは伶からだ。中身はオレらのバンドの曲」
「げっ。やっぱいらない!」
 手にしたケースを思わず放すと、それは音もなくあたしの膝に落ちた。
「やっぱ失礼なヤツだな、オレらの曲だぞ」
「だ、だって魔女からって! なんか気持ち悪いじゃん!」
 九太くんは「うんざり」という感情を全身のジェスチャーと表情でで余すことなく表現して見せてくれた。
 額を抑えた顔を左右に振って、指の間から恨めしげにこちらを見上げてくる。さらに言うなら盛大なため息も付属していた。
「……別に種も仕掛けもありゃしねーよ。単に一曲入ってるだけだ」
 別に九太くんのことを疑うつもりはない。が、魔女のことならいくら疑ったって疑い足りることはない。はっきり言って不審すぎだ。
 それでもこわごわとCDケースを取り上げると、なんとなく太陽に透かして見たりする。よくわからないが、爆発物とかではなさそうだ。
 そうなると気になるのは、
「で、なんで魔女が九太くんのバンドの曲なんかをあたしに?」
「なんか、とは言ってくれるぜ……」
 九太くんは困ってるとも忌々しいとも取れそうな顔であたしをじっとりと睨んできた。
「伶から伝言だ。山咲、マキシマム・レベルのボーカル、お前がやれってよ」
「はあ?」
 今なんと?
 よっぽど間抜け面を晒していたんだと思う。九太くんの口元がはっきりと苦笑に変化して、もう一度同じことを、今度はゆっくり言ってくれた。
「うちのボーカルに、してーんだと」
「え……と、誰が?」
「伶が」
「だ、誰……を?」
「お前を」
「え? それってつまり、魔女があたしをマキシマム・レベルのボーカルにしたいってこと?」
「だからそう言ってんだろーが」
 ちょっとだけ苛立ったように口調を強くする九太くん。
 だってどういうこと? 今までの中で一番わけがわからない。
 なんであたしがロックバンドなんかのボーカルに?
 あたしの歌声盗んだくせに! 自分がボーカルやりたがってたくせに!
 確かに魔女はあたしを軽音に誘っていたが……まさかそのために?
 もしも魔女が音楽性の違いからボーカルを諦めたのだとして……だったらそれはあたしもだ。あたしの本業はオペラにも出るようなクラシック歌手なんだから。そんな歌手をつかまえて「ロックバンドのボーカルをやれ」はないだろう。しかも自分で歌声を盗んでおいて。
「魔女は……なに企んでるわけ?」
 最初にこんな疑問がこぼれたのも仕方ないと思う。九太くんもやむを得ないと思っているのか、別段ムキになることもなく、ギターに軽くピックを走らせた。
「さあな……。あいつ、一人で考えて勝手に突っ走るとこあるからな。オレだって、なんで山咲をボーカルに推薦すんのかなんてわかんねー。ただ、あいつはマキシマム・レベルのことに関しちゃぜってー妥協しねーし悪ふざけもしねえ」
 ピックを器用に操ってアップテンポを刻みつつ、九太くんは体でリズムを取り始めた。
「オレは山咲の歌を聴いたことねーから、伶が本気でお前を推してんのか別の考えがあるのかはわかんねーよ。訊いてもはぐらかされたしな」
 そうは言いつつも、九太くんの瞳に魔女を疑うような色は見られなかった。あれだけ評判の悪い女なのに、この人は年上の幼なじみのことを信じようとしているのだ。
「だから山咲、CDで曲を覚えて歌ってみてくんねーか。声楽のための声は出ねえかもしれねえけど、ロックのための声なら出るんだろ? あいつがお前を推薦したんなら、オレはお前の歌を聴いてみてえ」
 本気で言ってるの……? そう訊きたかった。けど、できなかった。訊くまでもなく、力強い黒瞳がすべてを語っていたからだ。
 あたしにロックを歌えって? 確かにあたしが出せなくなっのはソプラノ限定だからポップスやロックなら歌えるかもしれない。が、そんなのは理屈の話だ。コンビニ以外の場所でそういうジャンルを聴いたこともないあたしが、いきなりロックなんて歌えるわけがない。
 そう言い返すのは簡単だったのに……できなかった。真剣な目というのは本当にずるい。そんな目をされたら断るなんて無理に決まってる。
 あたしはCDケースに目をやって、深くふかーくため息をついた。これ見よがしに。
「とりあえず持って帰ってはあげるわよ。でも、聴くかどうかまでは保証しないからね。あたしはロックなんて好きじゃないんだから」
「やっぱ可愛げねーな、お前。……いいよ、好きでも嫌いでもねえんならそのうち聴く気になることもあるんじゃねえか」
 それはどうだろう。あたしは基本的に面倒なことは嫌いなのだ。
「それにしても九太くんは、よくまあ、魔女なんかとつるんでられるよね。そのうち九太くんの評判も下がっちゃうよ」
 怒るかもしれないと思いつつも、あたしは言った。このまっすぐな目も、魔女と一緒にいたら曇ってしまうんじゃないか……。そんなふうに心配したから。
 なのに、九太くんは気を悪くした様子もなく苦笑した。
 ギターの演奏を止め、鉄柵に寄りかかって天を仰ぐ。
 釣られるようにあたしも上を見た。春の空は少しけぶって、深みに欠けた青色をしていた。薄い雲が、ちぎって撒いたみたいにまばらに浮かんでいる。
 空は大きい。ちっぽけなことで悩む人間なんかとは大違いだ。
 そんな隠居人みたいなことを考えていると、隣の九太くんが真面目な口調で呟いた。
「ガキのころから一緒、夢を追うのも一緒……伶はオレにとっちゃ相棒みてえなもんだ」
 でも人は変わるものだ。だって、九太くんの思い出として聞く音無伶と、人の歌声を盗んで回る魔女とではまるで別人のようだから。
 そんな考えが伝わったのか、横目で見た九太くんは自嘲するように笑っていた。
「ま、こんなこと言っても伶に歌声を盗まれた山咲にはバカにされるだけだろうけどな。嫌われるような生き方を、あいつが選んだわけだし」
 言ってから、また真顔になって低い声を出した。
「けど……けどよ! オレには我慢ならねえんだ! 学校にいればあいつの悪口なんていくらでも聞こえてきやがる。あいつが陰口を叩かれるのはオレのためでもあるってのによ……」
 悔しげに、搾り出すように言って九太くんは後ろの鉄柵に頭を打ちつけた。
 低くて重くて鈍い音……。痛くないはずはないのに、九太くんは呻き声一つあげなかった。
 九太くんは魔女のことを「相棒」と言った。その口調は真摯で、魔女を本気で気にかけていることは疑いようがなかった。
 同時に魔女に対する「後ろめたさ」みたいな雰囲気を感じさせる口ぶりでもあった。
 それに「陰口を叩かれるのはオレのため」とはどういうことだろう。意味不明だ。でも九太くんは、魔女が悪く言われる責任は自分にあると考えているようだった。
 事情はわからない。でも、九太くんは苦しんでいる。
 それを知ったとき、あたしは今までとは全然違う怒りを、魔女に対して覚えていた。
 魔女は幼なじみを、一緒に夢を追っている相棒を、こんなにも苦しめているのだと理解しているのだろうか? たぶん、わかっていない。
 魔女の行為に心を痛めているのは、歌声を盗まれた被害者だけじゃない。九太くんだってこうして苦しんでいる。自分のしたことの意味を、魔女はもっと深い意味で知るべきだ。
 さらに言えば、あたしは九太くんにも苛立ちを感じていた。
 まだライ麦パンは食べていないけど、あたしは立ち上がった。気づいたら、昼休みの残りもかなり少なくなっていた。
 でも、教室に戻る前にどうしても言っておきたいことがある。
 あたしは思いっきり、鉄柵を足の裏で蹴りつけた。柵が震えて共振し、周囲の空気が唸りを上げた。
 目を剥く九太くんに言ってやる。
「この、卑怯者!」
 これ以上ないくらい容赦ない言葉をぶつけられ、剥かれた九太くんの目がさらに丸くなった。
 あっけにとられる九太くんを見下ろして、あたしはさらに言いつのる。
「逃げてんじゃないよ! あたしは事情なんて知らないけど、幼なじみが悪く言われるのが自分のせいだって思うなら、陰口なんかに負けてんな! 聞け! 聞いて、魔女が人からどれだけ悪く思われてるのかを知れ! 受け止めろ! もしそれに耐えられないんだったら、あんたが魔女を止めてみせなさいよ! 魔女の悪行の原因があんたにあるんだったら、蚊帳の外にいることを、あたしは絶対認めないからね!」
 自分でも、なにをそんなに熱くなっているのかと思ったけど、どうしても言わずにはいられなかった。
 あたしは魔女のことが大っ嫌いだ。生徒のほとんどが、魔女のしてきた悪事を知って、あの女を悪し様に言う。当然だと思うし、止めようとも思わない。
 けど、別に九太くんが魔女の味方をすることまで否定するつもりはない。心の中じゃ魔女の味方でいるくせに、魔女に向けられた悪意から目を背けるなんて男のすることじゃない。
 あたしは百合やBL好きのマニアックな女だから、男らしさとか女らしさに幻想を持っているのだ。だから、男らしくない男なんて許せない!
 呆然と見上げてくる九太くんに一瞥だけ残してから、あたしはくるりと踵を返した。
 言いたいことはもう言った。あとは九太くんの問題だ。
 そしてあたしは決意した。
 鈴村さんのこともある。魔女に対するには、今までみたいないい加減なつきまといじゃ駄目なのだ。しっかりと白黒つけなきゃいけない。
 幼なじみの九太くんまであんなに患わせて……魔女には、自分の罪の重さをしっかり自覚させてやる必要があるのだ。
 悪事の現場を止めるだけじゃ無駄だってこともわかった。悪事をする理由を突き止めて、改心させないと魔女は止まらない。
「魔女め……見てるがいいわ」
 ぼそっと決意の一端を口にして、あたしは屋上をあとにした。
 午後の授業、あたしの前には小柄な男子の姿が戻ってきた。
 その男子はなにも喋らなかったけど、瞳だけはまっすぐで、あたしはちょっとだけ男らしいかなと思った。



四章 敗れ、見失い、初めて優しさに気づく

 決意も新たに、早速あたしは放課後から魔女の尾行を再開した。今日は、駅を降りたら適当なところで声をかけてみるつもりだ。
 これまでみたいにただ牙を剥いて突っかかるだけじゃない。いわゆる「話し合い」というやつをやってみるつもりだった。
 自信は……正直ない。魔女の顔を見たら冷静さなんて飛びそうだし、あの女が腹を割った話し合いに応じるとも思えなかった。結局怒りがどんどん膨らんできて、最終的には罵って終わってしまうんじゃないか……そんな気はする。
 でも、今日失敗しても明日また話し合う。それで駄目ならあさっても。とにかく、怒っても罵っても魔女の行為は収まらない。ならば心変わりさせるしかないのだ。
 冷静さを保つには、周囲にたくさんの目があったほうがいい。だから電車を降りたらすぐに……。そう思っていた。なのに――
 なぜか今日に限って、魔女は一個手前の駅で降りてしまった。欲しいのは周囲の目だけじゃなく、見知った景色とか、とにかくあたしを落ち着かせてくれる様々な要素だったのに……。
 見知らぬ駅で降りられたら、それだけで落ち着いた話し合いが困難になる。
 そんなあたしの心の内は知るわけもなく、魔女は駅前を繁華街のほうへと抜けていった。
 昨日ほどではないけれど、時間はそれなりに遅く、周囲は暗くなりつつあった。
 しかも魔女が歩いていくのは繁華街は繁華街でも、ショッピング街ではなく歓楽街のほう。こんなところに、一体なんの用があるんだろう。
 あとを尾けているうちに、だんだん心細くなってきた。
 今日は火曜なのでまだマシだろうが、居酒屋やバーがひしめく夜の道というのは、雰囲気が独特で結構怖い。次第に、見張るための尾行というよりは置いていかれるのが怖いから必死になってついていく――そんな状態になりつつあった。
 遊び慣れた子たちならどうってことないだろうが、あたしはカラオケやゲーセンすら行ったことがないのだ。違う世界に迷いこんだようで、徐々に恐怖がつのってきていた。
 一瞬、魔女の背中を見失った。消えてしまったのかと本気で焦ったが、そんなわけはなかった。単に、流れるような歩調で横に折れただけだった。
 そこは一件の雑居ビル。魔女が消えた場所には地下へ降りる階段があった。ちっとも明るくない照明が、暗い穴を控え目に照らしている。
 階段脇にはスタイリッシュな看板。そこだけが周囲に比べて新しく、やけに浮き上がって見えていた。
「えと……『PUB Tick―Tack』……?」
 パブというと、お酒を飲んだりする店のはず。魔女はどうしてこんなところに?
 なにかの間違いだろうか……。ショットバーあたりでカクテルを飲んでいるのが似合いそうではあるけれど、ああ見えて魔女は高校生だ。しかも今は制服姿。店に入ったからってお酒を飲ませてくれるとは思えない。
 ならバイトか? 飲み屋で注文をとって客席と厨房を往復……それも魔女には似合わない気がする。
 とにかく、あいつがここに入ったのは確かだ。けれど、あたしも追って中に入ってもいいのだろうか。入るなり叩き出されそうで、思わず尻込みしてしまう。
 でも、白黒はっきりさせると決めたのだ。ここで立ち往生しているわけにはいかない。
 脚が震えている。本当は喉がカラカラに干上がるくらい気後れしていたが、強引に脚を前へ。階段へ向かって一歩。また一歩。
 コンクリの階段は、革靴の踵に叩かれて無機質にコツコツと鳴る。それがまたあたしを心細くさせた。
 途中で九十度右に折れ、一番下までくると古びた木製のドアがあった。いや、古びたふうに見せかけた雰囲気ある木戸だ。ドアの脇にはワインだかウイスキーだかの瓶が洒落た配置で飾られていて、それがますますあたしに場違いだと警告しているようだった。
 でも、ここまできたら後には引けない。
 あたしは思いきって、店へのドアを押しこんだ。
 ――そこは異国だった。
 喧噪。熱気。胃袋に直接流れこんでくるような、様々な料理の香り。そして燻る煙草とアルコールの濃密な匂い。
 それらが、波となって正面からあたしを煽った。不覚にも、思わず半歩下がってしまったくらいに、濃い空気が店内を満たしていた。
 思ったよりも広い。なのに、中は完全に座席数以上の客たちでひしめいていた。
 男も女もいる。歳のいったおじさんもいればカジュアルな若者もいる。気取ったドレスでカクテルを傾ける女の人もいる。今日が平日だということを忘れそうなくらい、たくさんの人が店内にごった返していた。
 みんながみんな、楽しげに話し、笑い、食べて、飲んでいた。
 あたしの背後でドアが閉まった。
 入口のそばで立ちつくす小さい女子高生なんか、明らかに場違いな店だった。
 どうしよう……。早くも帰りたくなってきた。でも、魔女がここに入ったのは確かだし……。
 などとずっと石像みたいに固まっていると、トレイを持った髭の店員さんと目が合った。瞬間、あたしの肩は飛び跳ねて、全身からダラダラと嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。
 目つきの悪い店員さんだ。オーラが強烈だからマスターかもしれない。
 その人が、ずかずかとこちらに歩いてきた。怒鳴られ、追い出される覚悟を決めたほうがよさそうだ。むしろ、こんなところで固まっているくらいなら追い出された方がマシだろう。
 そばまできた店員さんは、目つきが悪いだけじゃなく健吾先輩並みに大きかった。ぎちぎちと首を動かして見上げると、店員さんの表情がちょっとだけ和らいだ。
「いらっしゃい。注文はオレンジジュースでいいかな」
「あう、は、い……」
 もしかして、今のは笑顔なんだろうか。
「よし、じゃあちょっと待っててくれ。あと、悪いけど席は全部埋まってるからカウンターのそばのスペース、立ち見で我慢してもらえるかい」
「あ……う」
 まともに返事もできず、機械的にかくかく頷くあたし。
 どうしよう、追い出されるどころか案内されてしまった……。しかも立ち見ってなんのことだろう。なにか見物するものでもあって、だからこんなにお客さんが多いのだろうか。
 店員さんは、これでもかというくらいキョドッているあたしにも不審な顔一つ見せず、店の奥へと引っこんでいった。
 近くの人の何人かは制服姿のあたしを訝しげに見たけれど、咎めて追い出そうとする人は一人もいなかった。
 なんだろう、このお客さんたちの雰囲気、どこかで……。
 そんなふうに首を傾げていると、さっきの店員さんが再び現れてあたしにオレンジジュースを手渡してくれた。そして去り際に「もうじきだから、待ってな」と告げて厨房のほうへと戻っていった。
 もうじきって? なにを待てって? わからないことばかりだった。
 匂いと熱気と雑音に混乱する中、手の中のグラスだけがひんやりと冷たくて、まるで店内で一人だけ浮いているあたしみたいにリアルだった。
 と、いきなり照明が少しだけ落とされた。元々明るくもなかった店内が、ほとんど映画館みたいなありさまにる。そこへ、店の一角だけを明るく照らすスポットライト。チープな感じの黄色い照明に照らされたそこには、小さなステージがあった。
 店内の話し声が一瞬だけ静まって、直後、今度は歓声が暗い空間を渡っていった。
 そこであたしは思い出した。さっきお客さんたちの間に感じた空気。覚えがあると思っていた。そうだ、この空気はコンサートを控えたホールのざわめきに似ていたのだ。
 ステージには小さなドラムセットと安っぽいピアノがある。これからちょっとしたミニライブでもおこなわれるのだろう。と、いうことは……。
 一つの予感に喉を鳴らしたときだった。ステージ脇の従業員専用扉が開いて、高校の制服を着た美人が現れた。
 誰かなんて考えるまでもない。あたしはあの女を追ってこんな店まで入ってきたんだから。
 音無伶――魔女に続いて出てきたのはずいぶんと渋いおじさんたち。タキシードを着こなした姿は一見決まって見えたけど、態度や表情からは強い緊張が窺える。いつもと変わらず余裕たっぷりな様子の魔女とは対照的だった。
 魔女がマイクスタンドへ。四人のおじさんたちは、それぞれギター、ベース、ピアノ、ドラムを担当するようで、それぞれぎこちなく準備を始めた。
 もう、疑う余地なんてない。魔女はこのステージでライブをするのだ。歌を披露してお客さんを楽しませる。まさかあの女がこんなアルバイトをやっていたなんて。
 さっきの店員さんが不審がらずにあたしを案内してくれたのは、魔女と同じ制服を着ていたからだったのか……。きっと友だちかなにかだと思われたのだろう。
 ギターやベース、マイクのセッティングが完了したらしい。ステージを照らすライトが少しだけ明度を落とすと、客席から浮ついた空気が抜けていった。
 高校の制服姿なのに、魔女はステージに無理なく溶けこんで、堂々としていた。照明に装飾されて胸を張る姿は、どこか威厳みたいなものさえ感じさせる。
 魔女が、ピアノの前に座った白髪混じりのおじさんに目配せを送った。直後――
 ポロ……ン。
 おずおずと……そう表現するのがぴったりなイントロが開始され、ミニライブが幕を開けた。
 ピアノに続いてドラムが、ギターが、ベースが……たどたどしいながらも懸命な演奏を開始する。そう、有り体に言ってたどたどしい演奏だった。
 曲調は……なんだろう。詳しくないのではっきりしたことは言えないが、ジャズ……とは違うみたいだった。リズム&ブルースというやつだろうか。
 ともかく、これだけのお客さんを集めるような演奏でないのは確かだった。おじさんたちが一生懸命なのは認めるけれど、お世辞にも上手とは言うことができない。
 だが、そんな退屈な印象も歌が紡ぎだされるまでだった。
 魔女の歌声がマイクを通してスピーカーから流れると、瞬時に店の空気が変化した。
 甘く、それでいて切なく歌い上げるゆったりとしたラブソング。夢を追って出ていった男を待ちながら、安アパートで一枚のレコードを聴き続ける女の追憶。
 魔女の歌声からそんな情景が脳裏に迫ってくる。知らないはずの光景なのに、まるであたしが男を待ち続ける寂しい女になったみたい……。
 もはや、客も店員も関係なく魔女の歌声に聞き惚れていた。それを観察できているあたしはまだ辛うじて自分の世界を保てているわけだけど、歌の魅力がどんどん心に侵入してくるのを拒むことはできなかった。
 なんて言ったらいいのか……。とにかく衝撃だった。ううん、そう表現するのは適切じゃない。むしろ安寧と言ったほうがいいだろう。
 音響を考えて作られたフロアじゃないし、マイクもスピーカーも安くて古びた品物らしかった。バンドのレベルも含め、それらに人を引きつける要素なんて欠片も備わっていない。
 なのに店内には、もはやグラスを傾けている客なんていない。箸やフォークを動かす聴衆なんていない。それは、魔女が自分の歌声の力だけで、一つの世界を作りあげているからだった。
 歌声がもたらす陶酔感に逆らうことができず、あたしも多くの客たちと一緒にうっとりとした世界に溶けこんでいく実感があった。
 心地よくて、安心感に包まれていて、自分が酒場にいることなんて忘れて歌の世界に引きこまれていく。
 こんなに安らかな歌を聴いたのは生まれて初めてだった。声楽、オペラの分野ならいくらでも一流の歌声を聴いたことがあるけれど、これほどの陶酔感を味わったことなんてない。
 歌声のもたらす平安に逆らうことができず、あたしはうっとりと旋律の中に身を浸していった。
      ♪
 空はすっかり暗いけど、歓楽街の中にいるとあまり時間を感じさせない。
 今が何時なのか……携帯を開けばわかることなのに、それをするのも億劫だった。
 視線の先には雑居ビル。魔女は、まだあの地下にいるんだろう。
 ビルから十メートルくらい離れた電話ボックスにもたれて、あたしは緩みきった脳みそを覚醒させるためにあれこれ苦心していた。
 頬をぺちぺち叩いたり、深呼吸したり、こっそり独り言を喋ってみたり。
 でも駄目だった。
 ミニライブの余韻がこれっぽっちも抜けてくれない。魔女の歌声が今でも胸に染みこんでいて、思い出せばこうして立ったままでも陶酔に揺られることができそうだ。
 どうにかジュースを飲み干して、代金として千円札をカウンターに置き逃げるように出てきてしまった。あの千円でお金が足りていたと思いたい。
 茫然自失な状態ながらもお金を払うところまで頭が回った自分を褒めてやりたい気分だ。
 それほどに、魔女の歌声は凄まじかった。
 ちょっとしたアルバイトだったんだろう。ほんの五曲ほど歌ったところで魔女は引っ込んでいってしまった。あの歌なら、適当なところでやめないとかえって営業妨害になってしまうだろうから、五曲というのは妥当な線だ。
 あれからけっこう経ってはいるが、魔女は店から出てこない。もしかしたら、しばらく時間をおいてもう一ステージくらいはやるのかもしれなかった。
 出てこないならこないで、今のうちに平常心を取り戻しておかなくてはいけない。今日は魔女と話し合いをするためにこうして尾けてきたのだから。
 ただ……正直に言ってしまうと、あたしは立ち直るのが困難なくらいに打ちひしがれていた。あの歌声は、やっぱりショックだった。
 あの女が神音使いだという噂は……本当だった。
 歌声によって聴衆の精神を同一の方向に導く者――それが神音使いだ。平穏をもたらす歌い手や歓喜を呼ぶ神音使い、中には哀切の神音使いなんて呼ばれる歌手さえいる。
 その数は世界でたったの九人。そこへ、十人目として魔女が――音無伶が入るのだ。魔女はさしずめ、陶酔の神音使いといったところか。
 あたしは今まで、大きなステージにだって何度も立ってきた。海外でも歌声を披露してきた。でも、神音使いの歌声を聴いたのは今日が初めてだった。
 今までは、同じ人間なんだからいずれ彼らとだって肩を並べることができると信じていた。神音使いとはいっても、相手は神様じゃないのだから。
 でも、その認識は間違いだった。今日、はっきりと思い知った。
 あの歌声は次元が違う。あたしみたいな凡人が一生努力したって手に入らない歌声を、神音使いという人種は自在に操ることができるのだ。
 あれはもう、歌手とか呼んでいいレベルとは違うんじゃないか……。そんなことさえ思う。
 対抗心や反発なんて、まったく抱く気にもなれない。あれと張り合おうと考えるのはただのバカだ。あたしなんかが一生かかっても辿り着けない高みに、魔女はいた。
 あたしは……バカだった。
 バカといえば、九太くんも同様だ。
 あれほどの歌手をボーカルに採用しないなんて、誰が見たって愚かなことだ。音楽性が違う? なにカッコつけてんだって怒鳴りつけてやりたい。はっきり言って、魔女はあたしが今まで出会った中で最高の歌い手だ。ボーカルにしない手なんてあるものか。
 ただ一つだけ、どうしてもわからないことがある。それは魔女の悪行のこと。あれほどの実力を持ちながら、どうして魔女はわざわざ人から歌声を盗んだりするんだろう。今さら他人の歌声など、必要になることはないはずなのに。
 ミニライブで聞いた声は、他人から盗んだものでは断じてない。紛れもなく魔女本人の歌声だ。そのくらいはあたしにだってわかる。あの声には少しの無理も違和感もなかった。魔女本人の体から生まれるのが一番自然と思える音色だった。
 しばらくすれば、あの階段の奥から魔女が出てくるはずだ。そうしたら問いただそう。
 無類の才能があるくせに、なんで他人から声を盗むのかって。
 そして……できればあたしの歌声を返してもらうのだ。魔女には不要な声だから、天才のお情けにすがって以前の歌声をこの喉に戻してもらえれば……。あたしは、それだけで十分だ。
 自分がだんだん卑屈になってきているのがわかる。けれどしかたのないことだ。本心を言えば、あたしだって魔女なんかに負けたくはない。でも駄目なのだ。張り合おうなんて思うこと自体おこがましいような相手だった。
 こんなことを考えてはけない。昨日、健吾先輩に言われたのに。
 なんで歌を歌うのかって、勝ち負けが目的じゃないだろうって言われたのに。誰がどんな歌を歌っていても、あたしは自分の歌を見失っちゃいけないはずなのに。
 なのに、自信が完全に折れてしまっていた。
 何度目かのため息をついたとき、地下への階段から魔女が一人で上がってきた。
 さあ、声をかけよう。他人から声を奪うことをやめさせて、改心を促すために。
 そして、あたしの歌声を返してもらうために。
 なのに脚が動かなかった。今、どんな顔をして魔女の前に立てばいいのかわからなかった。
 惨めな気分で卑屈になって笑うのか、悔しさに涙してうつむきながらになるのか、どちらにしたって、まともな精神状態で魔女と話すなんて不可能だ。
 そんなふうに重い脚と沈む心を理由に躊躇していると、あたしの脇を大型バイクが通り過ぎ――魔女の前で停まった。
 千三百tくらいありそうな大きいバイクだ。全身ツナギのライダースジャケットを着たライダーは小柄で細身に見えるが、あんなバイクを操るのだから体力は推して知るべしだ。
 そのライダーは、二言三言交わしてから魔女に予備のメットを手渡し、後ろにまたがらせた。
 誰だろう。バイトの知り合いだろうか? 今日だけで、魔女の意外な一面をたくさん見た思いだ。
 そしてあたしが眺める先で、大型バイクは爆音とともに歓楽街を抜けていってしまった。人波もだいぶ減っていたので淀みなく、あっという間にあたしの視界からバイクは消えた。
 そのあとも、バイクの排気音はしばらくあたしの耳に残り続けた。それが消えたころ、ようやくあたしは魔女と話す機会が失せたことに気がついた。
 一体なんだったんだろう。あたしはとんだ道化というか……バカみたいだ。しかも内心、魔女と話さなくて済んだことに安堵している。
 なんて愚かな。いや、それすら通り越して哀れでさえあるかもしれない。
 置いていかれた。
 物理的なことだけじゃない。いろんな意味で、打ち捨てられたゴミのような気分だ。
 泣きたかった。なのに涙は出なかった。
      ♪
 昼休み。買ってきた焼きそばパンをかじりながらぼんやり思う。
 どうにも正常な精神状態じゃない。今日は一日中呆けている感じだ。授業を受けた記憶すら残っていないし、ほんのさっきのことなのにパンを買ってきた記憶さえ曖昧だった。
 昼休み特有の騒々しさも、まるで風に揺れるススキみたいにさわさわと遠く感じる。
 美樹本ちゃんたちと話をしながらも上の空。ほとんど抜け殻と変わりなかった。
 今日も所々で魔女の噂話を聞いた気はする。その大半が悪口だ。
 そして思った。「なるほどね」と。
 あれほどの天才なら、周囲の雑音なんか全然気にならないんだろう。だから常に余裕で、ああして我が道を歩いていられるのだ。
 と、考え事と美樹本ちゃんとの会話を同時進行していると、別のクラスメイトに肩をぽんぽん叩かれた。その子が怯えたように指し示すのは教室の後ろの出入り口。
 そこに立っていたのは、会って話し合いをしないといけないのだけれど今一番会いたくなかった人物。魔女こと音無伶その人だった。
「げ……なんでこんなトコに魔女が……。あたしに用だって? 九太くんじゃなくて?」
 前の席で弁当をかきこむ九太くんを親指で指さしながら訊いたけれど、彼女はあたしを呼ぶようにと言づかってきただけらしい。
「ねえ九太くん、どうしよ」
 SOSのつもりで前の席に声をかけたのに、帰ってきた返事はこの上なく素っ気なかった。
「知るか、伶はお前に用があるんだろ。別にとって食われやしねーよ」
 だ、そうだ。いや、とって食いそうだから怖いんじゃないか、魔女の場合。
 とにかく、あたしが出ていかないとクラスのみんなが怖がってしょうがない。しぶしぶと、あたしは美樹本ちゃんと一緒の昼食タイムを中断して魔女のもとへと歩いて行った。
 嫌味なくらいのスタイルを持った美貌に寄ると、気後れに似た気分がこみ上げてくる。昨日までは魔女への敵意ばかりでそんなことはなかったのに。
 こういうのを負け犬根性というんだろうか。
 でも、そんなものを表面に出すほどあたしは殊勝じゃないのだ。少なくとも負けず嫌いなことにかけては天下一品だという自負がある。
 だから魔女と廊下に出てそこで向き合ったとき、あたしは目をそらさないようにして胸を張った。
 魔女が、薄く微笑みながら銀色に光るものを差しだしてきた。つい反射的に受け取ってから、それが百円玉だということに気がついた。
「なんなの……これ」
 むっつり顔であたしが問うと、
「オレンジジュース代のお釣りよ。マスターから」
「うっ……」
 ばれていた。たじろぎ、つい逃げ道を探してしまう。
 それにしても高いジュースだ。チャージ料とかも含まれているんだろうか。
「昨日お店まできていたんですってね。わたくしは気づかなかったけれど、マスターが学校の制服を着た女の子がいたって教えてくれたわ。特徴を聞いて、ああスミレさんだなって」
 あたしって、そんなに特徴的な女の子なんだろうか……?
 それより、百円を渡すためだけにあたしに会いにきたわけではあるまい。
 訝って銀色の硬貨をためつすがめつしていると、魔女が小さく微笑んだ。相変わらず、たっぷりと余裕を感じさせる仕草が鼻につく。
「それで、スミレさん」
「名前で呼ぶなって言ってんでしょ」
「あさって、軽音の定期ライブがあるのよ。本当は奇数月の一日なんだけれど、五月はGW期間中だから前倒しするの」
「言っとくけど、聴きになんか行かないよ」
 跳ねつけるように言ってやった。本心では魔女の歌声をもう一度訊きたいという欲求が確かにあったのに。でも、それを正直に告げるのは癪すぎた。
「違うわ。聴きにきてほしいっていうお誘いじゃないの。バンドのボーカルとして歌ってみない? っていう勧誘よ」
「へあ?」
 思わず口から漏れた間抜け声。
 一度九太くんを通して打診を受けているのでそこまで驚く必要はなかったのかもしれないが、魔女の口から聞かされるとやっぱり衝撃は大きかった。
「ボーカル? あたしが? もしかしてそのバンドって……」
「マキシマム・レベルよ。九太ちゃんのバンド」
 やっぱりそうくるのか……一体なにを企んでいる……?
「九太ちゃんからCD渡されたでしょう? あれを覚えてくれるだけでいいのだけれど」
「あんたはメンバーじゃないんでしょうが。なのになんで勝手にボーカルを推薦なんてしてるわけ? それにあたしがやりたいのは声楽なの! ロックじゃないの!」
「大丈夫よ、メンバーの許可はとってあるから。わたくしの推薦なら一度は臨時として歌わせてくれるわ」
「だ・か・ら! あたしの志望は声楽だっつーの! ボーカルなんかやるわけないでしょ!」
 魔女は、駄々っ子の相手でもするみたいに首を振って肩をすくめた。自分が突拍子もない発言をしているのも棚に上げて、よくもそんな態度がとれるものだと感心すらしてしまう。
 だいたい昨日の店であたしが歌を聴いたことをわかっていてボーカルに推すなんて、嫌味以外の何物でもない。
 自分より遙かに劣るあたしを代役として勧誘するなんて、バカにするにもほどがある。魔女の代役なんて、道化ですらないただの晒し者だ。恥をかかされ自信を折られ、今度こそあたしは、二度と歌えないくらいに打ちひしがれてしまうのだ。
 そんな舞台に、立つわけあるものか。
 魔女は、あたしがどれだけ惨めな気持ちでいるのかわかっているのだろうか。圧倒的に優れた歌手から、自分の代わりに歌えなどと言われる者の気持ちが。
 わかっていて、それをあえて楽しんでいるのだとしたらあんまりだ。魔女みたいな天才は、あたしのような凡才に構ったりしないで自分の道を進めばいいのに。
 怒り……憤懣……いや違う。この感情はなんだろう。忍びないというのか、自分が不憫でたまらなく思えてくる。
 なんであたしは、こんなヤツに目をつけられてしまったんだろう。
 なんで、なんで、なんで……。
 うなだれて、魔女の上履きしか見ることができなかった。顔を上げて、魔女の余裕の笑みを見ることに耐えられそうになかった。
 押し黙ってこの場に立っているだけで精一杯だった。
 でも、もしこれ以上なにか言われたら、感情を抑えていられる自信がない。怒り狂うのか泣きじゃくるのかわからないけれど、きっととんでもない醜態を晒してしまう。
「スミレさん……」
 嫌だ。もう許して。なにも言わないで。お願いだから、もうあたしを苛めないで……。
 そんな願いが届いたのかはわからない。
 けれど、昼休み終了の予鈴にあたしは救われた。魔女は小さく息をついてから、なにも言わずにあたしの前から立ち去った。
 どうにか感情を爆発させずに済んだ。けれど、涙が出なかったことが今はこの上もなく辛かった。
      ♪
 結局午後は、どうやって過ごしたのかも思い出せないくらい自失した。
 教室に戻ったあと美樹本ちゃんと会話をしたはずなのに、内容が思い出せない。叫びそうな自分を押さえつけるのに精一杯で、たぶん相づちくらいしか打たなかっただろう。
 終業と同時に教室を出た。とにかく誰とも会わずに家に帰りたかった。
 逃げるように電車に駆けこみ地元の駅まで着いたところで、ようやく周囲の景色に目をやる余裕が戻ってくる。
 改札口を出た駅のロータリーで、あたしは歩くのすら放棄したくなってぐったりと肩を落とした。なにをしたわけでもないのに、とてつもなく疲れていた。
 精神的にここまできつくなったのは初めてだ。魔女に歌声を盗まれた直後だってこれほどじゃなかった。あのときはまだ混乱と反骨心があって、どちらかというと心が燃えていたはずだ。
 今日は違う。全然燃えない。魔女とは住む世界が違うんだって、敵うわけないんだって理解して、なのに向こうはあたしに構ってくる。ボーカルをやれだなんて言ってくる。もう放っておいてほしいのに……。
 健吾先輩がしてくれた、心技体の話を思い出す。あのときは「心」だけは自分の中に確固として存在すると思っていた。けど、それは間違いだった。
 歌いたいという欲求が、今は全然湧いてこない。歌は勝ち負けじゃないって先輩にも言われたのに、負けたことがあたしの心を折ってしまった。
 このまま、二度と歌えなくなってしまうんだろうか……。
「おや、山咲さんじゃないか? ここで会ったが百年目だな」
 不意に、背後からハキハキとした女の人の声がした。どうやら世界は、静かに落ちこませてもくれないらしい。
 どこの誰かと確認しようとする前に、右肩を強く掴まれ強引に振り向かされてしまった。
「ほうら、やっぱり山咲さんだ!」
「…………はぁ」
 なんだろう、よくはわからないが、やけに色っぽい長身の女性がそこにいた。
 名前を知っているのだから知り合いだろうか。そういえば、この風采には少しだけ見覚えがあるようにも思う。
 気だるさを抑えて、あたしは目の前の妙齢の女を見上げて観察してみた。
 健吾先輩ほどではないけれど女性にしてはやけに鋭い二つのまなこ。それを辛うじて、縁なしのインテリ眼鏡が緩和してくれていた。アップにした清潔な髪はダークブラウンで、根本までしっかりと染まっている。
 なにより、濃いめの化粧とタイトなミニスカートという艶っぽい姿の上に白衣を羽織っているのが印象的だった。美人だけれど、雰囲気が鋭角的でちょっと怖い感じがする。
 やっぱり見覚えがある。ホステスじみた風貌に不釣り合いな白衣……こんなカッコをした人を、あたしは今までに一人しか見たことがない。
「もしかして、耳鼻咽喉科の先生ですか……?」
「おおっ! すごいじゃん! 一回しか会ってないのによく覚えてたね!」
 特徴的な外見ですから……と言ったらどんな反応を示すだろうか。それより、一度看たきりの患者を覚えている先生のほうが凄いと思う。
 それはそうと、なんの用事だろう。街で挨拶を交わすような親しい仲でもないというのに。
 その思いが顔に出ていたのかもしれない。先生の鋭い目つきがいっそう尖り、あたしは思わず半歩くらい引いてしまった。
「どうやらなんで呼び止められたのかわかってないみたいだね。人の診察を骨折り損にしといていい度胸だよ」
「え……? あたし、なんかしたんですか?」
 よくわからないが、穏やかじゃない気配がした。この女医さん、軽く怒っているようだ。
 妙な状況にまごついていると、突然女医さんの手があたしの腕をがっしりと掴んだ。
「な、なにをっ?」
「いいからきな!」
 口答えも抵抗も許さない強引さだった。今日は早く家に帰って泥に沈むように落ちこんでいたいのに、そうはさせてくれない雰囲気だ。
 混乱して目を白黒させている間に、あたしはズルズル引きずられて駅からほど近い清潔なビルに連行された。
 一度きたことがあるから知っている。ここの一階が女医さんの個人医院だ。ちゃんこ屋とかで使われていそうなぶっとく男らしい文字で「矢名医院 耳鼻咽喉科」という看板が出ていた。
 この印象的な看板を見て、ちょっとずつ記憶が甦ってきた……。去年の夏だったか、喉の調子を悪くして診察を受けたことがあったのだ。印象的といえば先生の名前もだ。確か「矢名姉実」といったはず。
 でも、怒らせるようなことなんてしただろうか……? そんな疑問を噛みしめる余裕すら与えてくれず、自動ドアをくぐってあたしは院内に連れこまれた。病院特有のクレゾール系薬品の匂いがして、思わず顔をしかめてしまう。
 待合室に患者はいなかった。
「おう、休憩終了! ついでに患者を一人連れてきたぞ!」
 矢名姉実先生が声をかけたのは入口のすぐそばにある窓口だ。そこにちょこんと座っていたのは、ピンク色のナース服を着た可愛らしい看護士さんだった。
「まあ姉実先生、お医者さまがキャッチセールスだなんて」
「いいんだよ、この子はれっきとしたあたしの患者なんだから。カルテもあるぞ」
 なんだか、勝手に病人認定されている。
 どっちかというと、今のあたしに必要なのは耳鼻咽喉科よりも精神科か心療内科じゃなかろうか……。いろんなことがありすぎて情緒が完璧に狂っている。
 もちろん姉実先生とやらは、そんなあたしの自己診断なんかお構いなしだった。ぐいぐい診察室まで引っ張ると、先生はデスクへ、あたしはその真ん前の回転椅子に無理くり座らされた。
 もう、ここまで強引だと通報してもいいレベルかもしれない。
 ただ、気が沈んでいたあたしは怒る気力がなかなか湧いてこなくて、つい流れに任せてしまっていた。
 あたしがなにも言わないのを観念の印とでも受け取ったのか、姉実先生は席に着くなりおもむろに煙草を取りだして火を点けた。
 煙草……? ここは、診察室のはずなのに。
 無気力状態ではあったものの、さすがにそのへんは指摘したくてたまらなかった。それができなかったのは、紫煙を吐きだすと同時に姉実先生があたしに文句を連ね始めたからだ。
「まだ、自分がなんで連れこまれたのかわからないって顔してるね。まったく、あんた、前に自分がどんな理由で診察受けにきたのか覚えてないわけ? 喉に違和感があって声が出づらい、掠れ気味だって言ってここに駆けこんできたんでしょうが」
 そういえばそうだった。去年の夏の初めごろに検査を受けて、後日結果を聞きにくる予定だったことを思い出す。確か学校見学の帰りにここへ寄る予定だったはずだ。でも、魔女に歌声を盗まれるという事件のせいですっかり失念してしまっていた。
「ようやく思い出したかい? 検査結果を聞きにこないなんて、あんま医者を馬鹿にするんじゃないよ。手遅れになったらどうすんだい」
 なるほど。「ここで会ったが百年目」とか「骨折り損」とか言っていたのはそのせいか。医者のほうから連絡を取って結果を告げるのは原則禁止のはずだからもどかしかったことだろう。
「そうでした……すみません」
 悪いことをした気になって素直に謝ったら、先生は眼鏡の奥の瞳をふっと緩めておもむろに煙草の煙を吐きだした。もしかしたら、見た目ほどには怒っていなかったのかもしれない。姉実先生は、目つきと言葉遣いで損をするタイプのようだ。
「ま、今もそうやって喋れてるんだから回復したんだろうけどね。あんた、下手すりゃ喉を潰してたかもしれなかったんだよ?」
「え?」
 あまりに予想外のことを言われたので、普通に間抜け面で訊き返してしまった。昼以降、初めて感情のこもった声を出したかもしれない。
 そのへんをもう少し詳しく、とは思ったものの、そうは問屋が卸さなかった。
 検査の受け逃げという前科があるから、先生も警戒しているのかもしれなかった。レンズごしの瞳が「逃がさないよ」と雄弁に語っている。
「去年の結果を教える前に、まずは再検査だよ。そこのベッドに横になりな」
「そんないきなり。今日は保険証も持ってないし、お金も……」
「黙りな。医者の意地にかけてもあんたを看る! 保険証も金もいるか!」
 むちゃくちゃ言う人だ。こんな強引……というか無法な医者なんて聞いたことがない。さすがに、こんな無理矢理な診察はあたしにだって拒否する権利はあるはずだった。
 けれどそれができなかったのは姉実先生のさっきの言葉のせいだ。「下手すりゃ喉を潰してた」とはどういう意味だろう……?
 もしかしたらあたしの抵抗を抑えるための方便だったのかもしれない。でも、確証が持てない以上診察を受けるという選択肢を採るしかなかった。
 検査は、控え目に言っても辛いなんてものじゃなかった。去年も経験しているが、喉に異物をねじこまれる感覚は気持ち悪いったらないのだ。
 もちろん喉の局部麻酔はした。ゼリー状の薬品を喉の奥でゆっくり溶かして、飲まないように気をつけながら口内に溜めておく。ひどくマズイ薬を三十秒も口に含んだら麻酔は終了だ。異物の侵入にも、えずきが起こりにくくなる。
 そして難関中の難関。ファイバースコープの挿入だ。鼻の穴から入れて喉の奥までグリグリ進んでくる。麻酔のおかげで痛みはないが、吐き気はやっぱり襲ってきた。
 先生はモニターを見てもいいと言ったけれど、あたしは丁重にお断りした。自分の鼻の奥なんて観察して楽しいわけがない。ましてやさらに奥なんて、見ていて気持ちのいいものじゃないのはわかりきっていた。
 ようやく検査が終わったときの開放感といったらなかった。実際は短時間だったんだろうけど、気分的には精神力の耐久レースだった。
 しかも、検査が終わったからってすぐには帰してくれないのだ。
「帰したらまた結果聞きにこないでトンズラされちゃうからねえ」
 とは姉実先生が唇の片一方をにいっと吊り上げながらのたまった台詞だった。
 どうやら信用ゼロらしい……。
 結局、局部麻酔が切れるまでの一時間ほど、ベッドで休んでいろと言われた。
 お言葉に甘えて寝てしまおうか……。今日は嫌なこともあったし、おっかない女医さんに捕まってひどい目にもあったし。こういうときは寝ると気分が落ち着くはずだ。
 姉実先生はカーテンを引いてベッドと診察室を仕切ってくれた。本当に寝てもいいということなんだろう。でも、いざ寝ようとすると余計なことばかり考えて、なかなか睡魔がおいでにならないのがパターンだ。
 魔女のこと、声楽のこと、姉実先生が言った喉の症状のこと。考え始めると、それらが三本の鎖となってあたしの心をがんじがらめにしようと襲いかかってくる。
 考えないように……。そう思えば思うほど、あたしの心はぎゅうぎゅうに締めつけられた。
 そんな呪縛からあたしを一時的に解き放ったのは、カーテン越しに生じた新たな人の気配だった。
 気づかないうちに、別の患者さんがきていたらしい。言うにおよばず、あたしがベッドに寝ているからって姉実先生は診察を休んだりはしなかった。
「いらっしゃい。久しぶりだけど、調子はどう?」
 歯切れよい口調。姉実先生の声はカーテン越しでもわかりやすい。
「そんなに悪くはないと思うのですけど、少し酷使はしてしまいました」
 先生の問診に答えたのは落ち着いた女性の声だった。
 この声、どこかで聞いたことがなかっただろうか……?
「また、例のアレをやったんじゃないだろうね」
「ええ……、一曲だけですが先週の初めに」
「ったく、ほっとくと無茶するあたり、見た目は落ち着いててもあんたはまだガキだよ」
 呆れた口調の姉実先生だけれど、言葉尻にちょっとだけ怒りが混じっているのがわかった。
 それより、患者の声にはやっぱり聞き覚えがある。それもここ最近何度も耳にしている声だ。聞き間違えようはずもない。余裕や落ち着きに満ちたこの声の主は――
「あんたがそんなにこだわるほどのモンなのかい? そのナントカってバンドは」
「マキシマム・レベルです。先週は新歓ライブがありましたので……。臨時とはいえわたくしもボーカルの端くれ。出ないわけには……いえ、出たかったのです。同じ時代、同じ学校にあれほどのメンバーが揃うのは奇跡と言ってもいいでしょう。そんな奇跡の音楽に少しでもたずさわっていたくて……」
 やっぱりだ! なんということだろう。この薄っぺらいカーテンのすぐ向こうに魔女がいるだなんて。なぜ? どうしてアイツがこんなところに?
 しかも、神音使いである魔女にそこまで言わせる九太くんのバンドって一体……。
「しかしだね、そこで無理して喉を痛めてたら元も子もないよ」
 白いカーテンで遮られていて見えないけれど、冷静に指摘する姉実先生の仏頂面が目に浮かぶようだった。
 トントンと、なにかを叩く音が聞こえたかと思うと、
「先生、ここは診察室ですよ。ついでに言うなら、わたくしはこれでも歌手の卵なのですが」
「ちっ。わかったよ」
 続いてなにか軽いものが机の上を跳ねる音。どうやら先生が煙草を吸おうとしたのを魔女が咎めたらしかった。やっぱり気になるのはあたしだけではなかったようだ。
 それからほんの短時間、診察がおこなわれたみたいだった。姉実先生がゆっくり息を吐くのに続いて、魔女の「どうでした?」という声が続く。
「まあ、喉の炎症は軽いね。概ね直りかかってる。ただし――」
「これ以上マキシマム・レベルのボーカルを続けたら潰れる……と?」
「ふん……わかってるじゃないか。他のバンドなら構やしない。けどそのマキシマム・レベルってバンドだけはやめときな」
「ええ……わかって……います。マキシマム・レベルのボーカルは先週の新歓ライブが最後です。もう二度と、彼らの演奏に合わせて歌うことはしないつもりです」
 小さい声で、だけど魔女ははっきりとそう言った。
 衝撃なんて言葉で片づけられるものじゃなかった。なにせあの魔女が、マキシマム・レベルのボーカルを二度とやらないと断言したのだ。
 本当に九太くんの言う通り、魔女はボーカルを諦めていたと? でも、それならどうして鈴村さんの声を盗もうとした? 説明がつかない。本気で言っているのだろうか。
 それにもうひとつ気になった。喉の炎症のことだ。二人の会話を聞いていると、まるで原因はマキシマム・レベルにあるみたいだ。でも、新歓ライブでたった一曲歌っただけで炎症なんて起こすだろうか。しかも翌週まで引きずるほどに。
 他のバンドならいいということは、マキシマム・レベルだけが魔女の喉に負担をかけるということか? それは九太くんが言うように音楽性が違うから?
 駅前で姉実先生に捕まってから、疑問の大行進だ。
 ここまででもお腹いっぱいになるほど驚いたのに、診察室の会話はどんどん思いがけない方向に発展していく。
「これで最後ねえ……。その言葉、信じてもいいんだろうね」
 それに返す魔女の声は、今までに聞いたこともないくらい弾んでいた。
「新入生がいるんです。素晴らしい才能を持っていて、どこまでも可能性を感じさせる子が」
「ほう、バンドに正式なボーカルが加入したんなら心配いらないか」
「いえ、まだ勧誘してる段階なんですけど……でも、マキシマム・レベルのボーカルを任せられるのはその子しかいないと思っています。わたくしはその子に嫌われているので誘うのも難しいですけれど、いずれは必ず」
 誰のことだろう……。考えるまでもなくわかりそうなものだったが、それはあまりにも信じがたくて……。
 いや、ここで現実から目を背けてもしかたない。認めよう。ほぼ間違いなく、魔女はあたしのことを言っている。
 でも、なんであたしなのかはさっぱりだ。そもそも、あたしは魔女の前で一回だって歌ってみせたことがない。だとしたら、魔女の根拠はなんだろう。
 やっぱり、とんでもなく不思議な女だった。
 最後はほとんど雑談だったけど、魔女の診察は終わったようだ。椅子の引かれる音とともに、人の動く気配がした。
 姉実先生の「お大事に」という声に、診察室のドアが開く音が続く。直後、不意打ちじみた唐突さで姉実先生が真面目な声を投げた。
「お前さんの性格じゃ言うだけ無駄かもしんないけど、あんま落ちこむんじゃないよ。好きな歌をいっぱい歌って元気出すことだね」
 それから少しだけの間を置いて診察室のドアは閉められた。姉実先生の言葉を聞いた魔女は、どんな顔をしたんだろう。
 新ボーカルを語る魔女の嬉しげな声。その中に翳りが含まれていたことに、姉実先生も気づいていたのか……。それを指摘された魔女は驚いただろうか。あるいは苦笑とともに出ていったのかもしれない。
 やっぱり未練はあるのだ。マキシマム・レベルのことを奇跡と言った。その奇跡の一員になれなかったことは悔しいだろう。あたしに言わせれば、魔女の歌声こそが奇跡と呼ばれるに相応しいと思うけれど。
 それとも、九太くんと二人三脚でプロを目指せないのが寂しいのだろうか。
 魔女の企みについていろいろ考えたことはあるけれど、心情を想像してみるのは初めてだった。魔女に一人の人間としての感情があることを、あたしはずっと失念していた気がする。
 魔女は、どんな気持ちでマキシマム・レベルのボーカルを諦めたんだろう……。
 突然カーテンが引かれ、独りきりだった空間に広い視界が戻ってきた。
「ようし! 今度はあんたの番だよ……って、あんたもまた難しい顔してるね」
「若人だから悩みも多いんです……」
「ああ、あたしもうら若き乙女だからわかるよ。っと、ちゃんと喋れるようになってるね。麻酔も切れたみたいだから検査結果の通知から始めようか」
 いえ、この部屋にはうら若き乙女は一人しかいないと思います。なんてことはさすがに言えず、促されるままにあたしは先生の正面にあるスツールに座った。
 隣の部屋から、受付窓口にいた看護士さんの声がする。魔女が待合室で会計でもやっているところだろうか。
 そんな気配もすぐに消えて、診察室からだいぶ音が減ってしまった。姉実先生の口にはいつの間にやら一本の煙草。しなやかな指先を器用に動かして、片手でジッポに火を点けると美人の女医さんはさも美味しそうに紫煙をくゆらせた。
「あの、ここは診察室であたしは歌手……」
「黙ってな。それよりまずは去年の検査結果からだ」
 この待遇の差はなんだ……。なんて内心こっそり涙する暇もなかった。
「去年の七月だけど、あんた、明らかに声帯結節だったね。もう少し進行してたら喋るのにも難儀してたかもしれないよ」
「声帯結節……ですか?」
「ああ、喉の酷使からくる声帯の腫瘤さ。異物感とか声嗄れって症状が出る。悪化すれば喉が潰れて不本意極まりない声変わりさ。あんた声楽やってるだろ? たぶんそれが原因だね」
「そんな……」
「で、さっき検査したばっかの現状だけどね……治ってるよ」
「え?」
「ホントなら徹底的に喉の酷使を改めないと自然治癒なんてしないんだけどねぇ。前に検査受けてから、声楽は変わらず続けてるのかい?」
 訊かれてはっとした。確かに去年、喉の調子が悪くてここにきた。でもその数日後に魔女に声を盗まれるという事件があったのだ。だから当然……
「あれから、ソプラノは一切……」
「ほぉう、感心。喉の回復はそのおかげだね。声楽を続けてたら、今ごろあんたの喉は間違いなく潰れてその可愛らしい声を失ってたとこだ」
 そんな事態を想像すると、背筋に冷水でも流し込まれたみたいに寒気が走る。一歩間違えば歌声どころか話す声すら嗄らしていたかもしれないなんて……。
「で、でも今は治ってるんですよね? もう、声楽やってもいいんですよね?」
 声が上ずるのを止められなかった。祈るような気持ちで、姉実先生が頷いてくれるのを待つ。
 なのに、先生はレンズごしの鋭い瞳でまっすぐあたしを見据えると、無情に首を振った。
「原因が声楽だったんだ。再開したら声帯結節も必ず再発するよ。あたしは医者だからね、悪いけどこう言うしかない。声楽はやめろって、ね」
 その瞬間、ギロチンの刃を繋ぎ止めていたロープが断ち切られる音を、あたしは確かに聞いた。姉実先生の言葉は、あたしにとっては死刑宣告と同じだった。
「そんな……」
 信じられなかった。いや、違う。信じたくなんてなかった。けれど、姉実先生の鋭利な瞳に嘘は感じられなかった。
 医者という人種は、なんて……なんて残酷なんだろう。病気や怪我を治すことにかけては頼りになる。だから声楽をやめろなんてことも言う。
 きっと正しいことなんだろう。それくらいはあたしにだってわかる。でも、そんな宣告はあたしに「死ね」と言っているのと変わらない。
 椅子に座っているのに急に平衡感覚がなくなった。視界が一瞬暗くなったと思ったら、
「おっと危ない」
 気づいたときには姉実先生に体を支えられていた。すぐに回復して姿勢を戻したけれど、呼吸が速くなって手足が痺れた感覚がある。
 もしかして……あたしは今、気を失ったんだろうか?
「山咲さん、とりあえずは落ち着いてゆっくり息をしろ。過呼吸気味だ」
 先生の注意を受けて、やたら空気を求めていた肺を静めるように浅くゆっくりした呼吸を意識する。
 手が震えて……いや違う。全身が震えていた。心が、あちこちからボロボロ崩れていく実感があった。砂浜に作られて放置された砂のお城が、容赦ない波と風雨で形を失うように。
「この世の終わりみたいな顔されるとは……まいったね」
 頭をペンの尻でかいてから、先生は煙草を灰皿に押しつけた。
「なにもあたしは、歌を歌うなって言ってるわけじゃないよ。今までのような歌い方をするなってだけさ。声楽が駄目なら別の歌い方があるだろ? ロックでもブルースでも民謡……は喉に負担がかかるけど、とにかく自分に合った歌を見つけることさ」
 同じことだ。小さなころに見たオペラに憧れて声楽を始めた。そらからはあたしの生活は声楽とともにあった。声楽は生活の一部であり、夢であり、あたしの人生そのものだった。
 そりゃあ、確かに才能溢れる歌い手じゃなかった。でも、あたしは努力によっていっぱしの地位まで手を届かせてもいた。
 なのに、それらは無駄な努力でしかなかった……。
 あたしの喉は、声楽特有のベルカント唱法に耐えられるようにはできていなかったのだ。

 ――それから、あたしはどうやって家に帰ったのか覚えていない。
 気づいたときには制服のまま自分のベッドに倒れこんでいた。枕が軽く湿っているのを見てぼんやりと思う。ああ、もしかして久しぶりに泣いたのかな……。
      ♪
 表面上は、翌日の授業も普通に受けられたと思う。不本意ながら、内心を隠して平静を装うのが少し上手になったのかもしれない。
 さすがに美樹本ちゃんには不自然がられたようだけど、それ以外の人とは何事もなく雑談できたんじゃないだろうか。
 放課後になるとあたしは、すぐに九太くんに声をかけてCDを突きつけた。前に屋上で渡されたディスクだ。結局一度も聴いていない。それを押しつけると、なにか反応が返ってくるより前にあたしは教室を飛び出した。
 昇降口で靴に履きかえているときに後ろから九太くんの声が追いかけてきたが、それを振り切ってあたしは校舎裏のほうに向かった。
 そして今、あたしの前にはごうごうと口の奥で赤い舌をうねらせる焼却炉があった。じきに各クラスの掃除当番がゴミを持ってやってくるはずだが、終業直後のこの時間、周囲に人の姿はなかった。都合のいいことに用務員さんもどこかに行っている。
 鞄から取りだす一枚のCDケース。
 九太くんにもらったのとは違い、ちゃんとお店で売っているアルバムだ。ジャケットは、人のいない大きな劇場の俯瞰写真。そこにはアーティストの名前としてこう書いてある。
 ――山咲スミレ、と。
 今は折りたたまれてケースに収められているが、帯にはいかにもな煽り文句が太ゴシックで書かれていたはずだ。確か「クラシック界の聖少女」とか「小さき天才ソプラノ」とか。
 あたしが中二の春に出した歌曲集だ。流行りの曲ではなかったけれど、クラシックにしてはまあまあ売れたほうだと思う。ただし友だちはほとんど買ってくれず、寂しい思いをしたのを覚えている。
 天才なんて書かれているが、あのときからその文句には首を傾げたものだった。本当の天才というのは、魔女みたいな歌手を指して言うべきだ。
 思えば、あたしはベルカント唱法の体得にも大いに手こずった。本来、体のバランスを活かして発声するベルカント唱法はあたしみたいな小さい人のためにあるものなのに。さらに言えば、体得したあともベルカント唱法で歌い続けることに違和感があったのを覚えている。
 普通ならベルカント唱法ほど喉への負担が少ない歌い方はないというのに。
 つまりあたしには、声楽の発声法自体が向いていなかったんだろう。十年以上も重ねてきた努力がまったくの無駄だったなんて、ちゃんちゃらおかしくて涙も出てこない。
 あたしは、もう歌えないんね。歌はあたしにとってのすべてだったのに。それをあたしは失ってしまったんだね……。
 さようなら、あたしのすべて。
 いい夢をたくさん見せてもらったよ。ありがとう。
 でも、夢の時間はもうおしまい。夢から覚めたあたしにはなんにも残ってなかったよ。そこにいたのは、ただのちっちゃい女の子だけ。その子は、歌手でもなんでもなかったよ。
 CDをリリースした夢も、ドイツのオペラに出た夢も、もう忘れないといけないときがきたみたい。
「うん、いっぱいいっぱい楽しかったなぁ……」
 こんなにいっぱい楽しかったんだから、満足しなきゃいけない。
 あたしは、久しぶりに穏やかな笑顔が顔に浮かぶのを自覚した。そして、右手に持ったCDケースを高く振り上げる。
 焼却炉の炎があたしの顔をじりじり照らす。暴力的な熱量が瞳を乾かしてくれるから泣かないで済みそうだった。ちょっとだけ安心した。
 CDケースがオレンジの輝きを反射して、まるで自分の手に太陽を握っているみたいな錯覚に陥る。その太陽を、あたしは手放した。
 視界の中でゆっくりと放物線を描いて、太陽のような夢の欠片が焼却炉の中へ――
      ♪
「馬鹿っ!」
 甲高い女性の声。
 同時にあたしは横に突き飛ばされて、地面に尻餅をついていた。
 瞬間、見上げた光景が脳裏に一瞬のストロボ画像として焼きついた。ほんの一瞬。いや、一瞬の半分にも満たない映像だったかもしれない。けれど、脳に、心に、魂に、その光景は深く深く刻みこまれた。
 そこには、焼却炉に右腕を突っこんでいる魔女がいた。
 直後に焼却炉を蹴って強引に右手と体を膨大な熱量から引きはがし、魔女は地面に倒れこむ。
 本当に一瞬だったけど、魔女は確かに燃える炎の中に手を突っこんでいた。
 倒れた魔女の右手にプラスチックのケースがあった。表面が熱で変形しているが、それは確かに、あたしがたった今捨てたばかりのCDだった。
 歪んでいるのはケースだけで、中のジャケットとディスクは無事のようだ。
「なんで……」
 氷のようだったあたしの心に、ひときわ大きな波紋が立ち、広がっていった。
 なんで! どうして魔女がこんなこと!
 あたしはもう歌手じゃないのに! 楽しかった日々の夢はもう醒めたのに!
 感情が嵐のようにあたしの内側を吹き荒れたが、すぐにそれどころじゃないことに気がつく。
「手! 右手を冷やさないと!」
 苦しげに呻く魔女を起こして、大急ぎでグラウンド脇の水道まで連れていった。水をかけてやると、美貌の眉間が少し寄って魔女が奥歯を軋らせた。
 CDは、今は魔女の左手に持ち替えられている。
「あんた……なんでこんなことを……」
「駄目……よ、スミレさん……」
 そのときあたしは、魔女の息がひどく荒いことに初めて気がついた。焼却炉まで、どれほど懸命に走ってきたんだろう……。
「スミレさん……なかったことにしては駄目。夢の結晶を、捨てては駄目。あなたは歌手なのよ、そのことを、忘れないで……」
 息も絶え絶えに言う魔女は真っ青で、今にも倒れてしまいそうに見えた。
「わかったから! 保健室! 早く保健室行くよ!」
 どうしてこんなことになったんだろう。すっかり混乱したまま、あたしは魔女に肩を貸して保健室に向かった。他の生徒たちの目が集中していたけれど、視線の痛さは感じなかった。それよりも、あたしのせいで苦しんでいる人がいることが痛くてたまらなかった。
 保健室の扉を開けて中に入った。そしてそこにいた養護教諭を見たとき、本日二回目の驚愕に思考と体が一緒になって凍りついてしまった。
「おっと怪我人か。って、音無さんと山咲さんじゃないか。あんたら知り合いだったのかい?」
 レンズごしの目を丸くして驚く姉実先生がそこにいた。でも、驚きの大きさで言ったらあたしたちのほうが絶対に大きかったと思う。横であたしに寄りかかっている魔女でさえ、濃い色の瞳を一回り大きくしたくらいだ。
 そのことに姉実先生のほうも気づいたらしい。くわえていた煙草を机の灰皿に押しつけると、気まずそうに説明を始めた。
「いやあ、ホントの校医はあたしの双子の妹なんだけどね。医者のくせに病弱で人見知りも激しいから、調子の悪そうなときはあたしが代役やってんだ。あ、もちろん教師どもには内緒だから、黙っといておくれよ」
 言われてみれば、保健室前には名札がかけてある。「矢名妹子」と書いてあったけど姉実先生の妹さんだったのか……。
 突っこみたいことはいくらでもあった。しかし今はそれどころじゃない!
 あたしが訴えるより先に、先生が椅子を立った。
「音無さんが怪我人かい? なにがあったわけ?」
 質問に答えようとしたあたしを制して、魔女が幾分落ち着いた声で応じた。
「ちょっとした火傷です。お茶をこぼしてしまって……」
 姉実先生が露骨に胡散臭げな顔をした。それはそうだろう。赤くなっている右手は確かに火傷だとわかるにしても、制服の袖は煤けて黒くなっているのだ。
 絶対信じているはずなかったけれど、追求はされなかった。姉実先生は魔女を座らせて黙々と火傷の治療を開始する。
 その間、あたしはいたたまれなくなって逃げだしたい気分だった。でも、さすがにそんなわけにはいかない。魔女はあたしのCDを救出して火傷を負ったのだから。
 魔女はどうしてあんな無茶を……。
 こういう場合、火傷はあたしのせいということになるんだろうか。
 そしてあたしは、魔女にどんな言葉をかければいいんだろう……。
 治療が終わってしばらくしても、誰もまったく口を開こうとしなかった。すごく気まずい雰囲気で、なにか喋らなきゃと焦るあまり声を出す前に舌を噛んでしまう。
 最初に沈黙に耐えることを放棄したのは姉実先生だった。
「あー、まあその、なんだ。そろそろ若い二人に任せてあたしは退散ってことで……」
 いそいそと煙草とライターを掴み、白衣の裾をなびかせて先生はドアへと小走り。
 お見合いしてるんじゃないんだよ……。と、言わせる間もない素早さだ。
 先生は先生で、あたしたちの微妙な空気を察してくれたのだろう。けれど、少々あからさますぎる気もする。
 保健室の扉がピシャリと閉じられると、再び気まずい沈黙が戻ってきた。
 やっぱりここは、あたしからなにかを言うべきだろう。謝るか……それともお礼を言うか……。どちらにしても魔女に言うには抵抗が強く、それがまた口を重くさせる。
 なんてウジウジ悩んでいると、魔女のほうが先に動いた。
 右手は湿布薬を貼られた上に包帯を巻かれているため、左手で輪郭の歪んだCDケースを差しだしてくる。
 それを受け取りざま、結局謝罪かお礼かも決められないままに口を開いてしまうあたし。思わず口から垂れ流されたのは、そのどちらでもない天の邪鬼な言葉だった。
「こんなの、ただの市販のCDなのに。この世に一枚しかないってわけじゃないんだから、危険を冒してまで焼却炉から取りだす必要なんてなかったんだ。馬鹿みたい……」
 こんなことを言う自分が本当に情けなくなってくる。これが自分のために怪我をした人に言うことなのかと思うと――
「いで、いだだだだだ!」
 いきなりほっぺを襲った痛みに思考がぶった切られた。いつの間にやら魔女の左手が伸びてあたしのほっぺをぎゅうぎゅうつねっている。
「やべで! いだいいだい!」
「いいえやめません。スミレさんは、自分のしたことの意味をちゃんと知るべきよ」
 魔女が椅子から立ち上がった。今度は、つねるだけじゃなくて上に上にと引っ張り上げられる。思わずつま先立ちになるあたしに向かって魔女は闇色の瞳で厳しく睨みつけてくる。
「いいこと? それが世に何枚出ていようと、そんなことは問題ではないの。それは貴女の夢と努力の結晶でしょう。貴女が歌手である証の一つでしょう。それを、自身の手で汚すなど、決してやってはいけないことよ」
 不意に、ほっぺをつねる力が緩められた。なにか言えということだろう。
「あたしはもう……歌手ではいられないんだよ……」
「仮にそうだとして、なら貴女は、もう歌は好きではないと言うの?」
「それは……」
 目の前の美貌が瞳の厳しさをいっそう増してあたしを睨んだ。本気で怒っているのだと、目の色、言葉の端々から押し寄せるようにして伝わってくる。
 そのせいか、あたしは嘘も誤魔化しも口に出すことができなかった。今あたしにできるのは、ただ正直に答えることだけだった。
「それは……歌は好きだけど……」
「でしょう。貴女は歌が好き。歌は好きなのに声楽をやるための声は出ない。でも、だからってそれだけのことで本当に歌うのをやめられるの? 歌うことさえできればその人は歌手なんだって、わたくしは思うわ。じゃあ貴女はどうなの? 貴女は一切歌うことができなくなってしまったの? 歌手であり続けることはもうできないの?」
 たたみかけるような問いかけの嵐にあたしは喉を詰まらせた。
 答えは……わからなかった。
 不意に心技体という、健吾先輩の言葉が浮かんだ。三つの中で一番大切なあたしの心が、自分でよくわからなくなっていた。
 あたしは歌を歌いたいのか……それとも声楽をやりたいのか……。
 俯いて黙してしまったあたしに、魔女からまたCDケースが差しだされた。さっき受け取った歪んだものではなく、ジャケットなんてついていない無地のCDだ。
「聴いていないんでしょう。人から渡されたCDを試聴もせずに返すなんて失礼よ」
「あ……」
 それは、さっき九太くんに押しつけてきたマキシマム・レベルのデモCDだった。
 そうか……魔女は九太くんからあたしの様子を聞きつけて、それで走り回って焼却炉の前にいるのを見つけたのか……。なら、もしかして九太くんは今もまだ別の場所であたしのことを探しているのかもしれない。きっと手分けをしたんだろうし。
 飾りもなにもないCDが、再びあたしの手の中に収まった。
「定期ライブは明日よ。わたくしが貴女にマキシマム・レベルのボーカルを任せたいと言ったのは決して冗談などではないわ。引き受けてくれるのなら、放課後、講堂まできて」
 あたしは一瞬、自分の耳と目を疑った。耳は魔女の誘いがやっぱり信じがたかったからだし、目は、落ち着きのある美貌がかすかに悪戯っぽく微笑んだように見えたからだ。
「それにね、もう、新ボーカルのお披露目をするって学校中に告知してあるのよ」
 どうやら、疑うべきは自分の目でも耳でもなかったようだ。
 今度はちゃんと、魔女の正気のほうを疑った。
「なんであたしなんかを推すの? 長年培った声楽はもうできない。ロックなんてろくに聴いたこともない。そんな人間にボーカルが務まると思ってるんなら、あんたはやっぱり大馬鹿だ……」
 魔女は、あたしの言葉なんか意に介した様子も見せずに微笑んだ。
「返事は、明日聞かせてちょうだい」
 そんな言葉をあたしの耳に残して、魔女は隣を歩いて抜けた。もうふらついてもおらず、顔も血色を取り戻していた。ただ、右手に巻かれた包帯だけが痛々しくて、あたしの胸を締めつける。
 保健室を出ていこうと魔女が扉に手を伸ばしたとき、先に扉のほうが、砕けてしまえと言わんばかりの勢いでスライドした。
 バンとかガンとか、擬音で表現できるどんな音とも違う響きをともなって、九太くんが保健室に飛びこんでくる。
「伶! 大丈夫かよ!」
 あまりに必死な形相を見て、あたしは不覚にも、魔女のことを少しだけ羨ましいと感じてしまった。別にあたしが九太くんに特別な感情を持っているわけではなく、ただ、男の子にあんな必死な顔をされる女になれたら……そう思ったのだ。
 見れば、はからずも目の前で幼なじみを迎えることになった魔女もどこか嬉しそうだ。そして、そんな機嫌のよさそうな柔らかい表情のまま、魔女はあたしを振り返ってこう言った。
「スミレさん、わたくし、貴女のファンなのよ」
 悪戯っぽい笑顔。そんな顔をすると、普段の大人びた美貌が途端に年相応の少女に見えてくるから不思議だった。
 魔女が思ったより元気そうなのを見て取った九太くんは、ホッと大きく息を吐いた。目立っていたから、魔女が保健室に担ぎこまれたというのはすぐに耳に入ったんだろう。
 九太くんはあたしを見て「困ったヤツだ」とでも言うように小さく肩をすくめてから、魔女をともなって保健室の扉を閉めた。
 消毒液の匂いのする室内に、あたしは一人、残された。
「ファンなのよ……か……」
 焼却炉の事件や魔女の説教などがあって、落ちこんでいた気分がさっぱりどこかに行ってしまった。少なくとも、冷静に物事を考える思考がだいぶ戻ってきている。
 そして、冷静になってしまえば自ずとわかってくることがあった。
 それは魔女の……いや、音無伶の行動について。
 魔……伶の行動のいくつかは、あたしのためを思ってのものだったのではないだろうか。
 まず第一に、伶に歌声を盗まれなかったら、あたしは無理をしてでも声楽を続け、絶対に喉を潰していただろう。あのころのあたしは声楽のことでは少し調子に乗っていて、人の忠告なんて満足に聞けなかったと思うのだ。
 高校生になってからも、伶はあたしに向けて「声楽には向いてない」やら「声楽は辞めたほうがいい」やら、ずいぶんなことを言ってくれた。あれは馬鹿にしていたのではなく、きっと忠告だったのだ。
 そうなると当然、伶はあたしの喉のことをずいぶん前からわかっていたってことになる。病院の検査結果を盗み見た……とはさすがに考えにくいから、歌声を聴いて喉の調子に気づいたのだろう。
 あたしが頻繁にオペラや声楽の舞台に立つようになったのは中学に上がったくらいのころからだ。そのときの歌声と喉を痛めていたときの歌声、違いがわかる程度には注意してあたしの歌を聴いていたのかもしれない。伶ほどの歌手なら、聴覚だって常人とは比べものにならないほど優れているはずだ。
 声を盗んだのは、声楽によって喉が潰されるのを防ぐためだったのではないだろうか。
 姉実先生の診療所で、ボーカルを任せられる子がいると嬉しそうに語った伶の声。本当なら伶は、あんな風に明るい声で話すことだってできるのだ。同時にあのとき感じた翳りも、少しだけだけが理解はできる。あたしなんかじゃなくて伶自身がボーカルをできたら、純粋に嬉しげな声だけで話すことができたんだろう。
 それでもやっぱり、伶があたしをボーカルに推す理由は謎だ。
 それに伶の行動の一端があたしのためだったとしても、あの女には他にも色々悪評もあるのだ。さすがにそのすべてが、根も葉もない噂とは言い切れない。
 あたしは考え事をしながら、のろのろと保健室を出た。手にした鞄には、あたしのCDとマキシマム・レベルのCDが触れあうようにして収まっていた。
      ♪
 自然に足が向いたのは音楽室だった。週初めにも一度きているのに、ずいぶんと久しぶりに感じて、あたしはごくりと喉を鳴らした。
 わずかに覚悟を要し、それから思い切って防音扉を開いた。途端に優しい旋律が、耳をふわりと撫でていく。
 ここの空気が少しも変わっていなかったことに気づき、不意に胸が熱くなった。あたしはちょっとだけ慌てて鼻をすすった。のんびり感慨にひたっている場合じゃないのだ。
 一人ピアノを弾く蓮華先輩は相変わらずで、そばまで行っても無反応。ただ黙々と、鍵盤に指を滑らせ続けている。取っつきにくさも変わらずだ。
 最後に会ったのは、鈴村さんが心配だからとあたしを置いて講堂へ向かったときだ。
 鈴村さんは元々喉を痛めていたのだろうか? あたしと同様、魔女は悪化を防ぐために歌声を盗もうとしたと……? 阻止したあたしを責めたのはそのせいか。
 蓮華先輩もそれを知っていて……だから鈴村さんを心配して講堂へ?
 不意にピアノの調べが止まった。曲が終わったわけでもないのに急に。相変わらず蓮華先輩の間の取り方はよくわからない。
「こんにちは、蓮華先輩。実はあたし、せいが――」
「こんにちは……」
 人の話に割りこむように、ちょこんと首を傾げて挨拶をよこしてくる。この、噛み合わない間の取り方がなんだか懐かしい。
「こほん、あたし、実は声楽をやめないといけなくなったんです。あたしの喉は声楽に向いてないらしくて、普通以上に負担がかかるとか。だから……」
 しばらく待っても、蓮華先輩は無反応だった。無視しているわけじゃなくて、あたしがまだなにかを言うと思っていて、それを待っているといった雰囲気だった。
 だからあたしは、ちょっと訊いてみたかった質問を投げてみることにした。
「もし……もしもですよ、蓮華先輩が声楽の伴奏をできなくなったら、どうします?」
 ここでしばらく空白の時間。さすがにもう慣れた。
「クラシックを……弾きます」
 予想外の返答にあたしはずっこけそうになって、質問を言い直した。
「そういうのも弾けなかったらっていうことで……」
「ジャズを……弾きます」
「じゃなくてピアノがダメなんです!」
 だんだん自分がなにを質問しているのかもわからなくなってきた。疲れる問答だ。
「なら……木琴」
 ふざけているのかと疑いそうになったけれど、蓮華先輩はそういう性格はしていない。きっと素で言っているのだろう。しかし、ピアノがダメと言われて木琴が出てくるだろうか。オルガンあたりが一般的だと思うのだけど……。
「だからそういうことを言ってるんじゃなくて!」
 ついつい声を荒げてしまった。それでも蓮華先輩はマイペースで、スカートの裾をいじくりながら静かに首を傾げるばかり。本当に不思議だと言わんばかりにあたしを椅子の上から見上げてくる。
「だって……山咲さんは声を出すことを禁止されたわけではありません。私も……両手を失ったらという仮定で質問されたわけでは……ありません」
 言われてあたしはハッとした。確かに、先輩にぶつけた質問はフェアじゃなかった。あたしが禁止されたのは声楽であって、歌ではないから。
 そう、あたしは歌を禁止されているわけじゃない。姉実先生もそう言ったし伶だって同じことをあたしに告げた。なのにあたしはそれを理解していなかったらしい。
 蓮華先輩の黒曜石みたいな瞳には、困惑するあたしが映っていた。静かな、無機的な感じさえする瞳だけれど、それがあたしの乱れた心の奥まで見通すように据えられていた。かと思うと、視線が流れるように外されて、蓮華先輩はピアノに目と体を向け直す。
 さっき中断した続きから演奏が再開された。
 暗黙の了解というのか、もう質問の時間が終わったんだということがわかった。
 蓮華先輩の演奏は優しく流れてあたしの傷ついた心を撫でていく。それに励まされるように、あたしは一度だけ先輩に頭を下げてから、音楽室をあとにした。
      ♪
 もう帰ろうか。そう考えて本校舎のほうに戻り、一階への階段に差しかかる直前――大勢の女子生徒達に手を振って別れの挨拶をしているキザ先輩に出くわした。
 部活に向かうらしい女生徒達を見送ったあとで、キザ先輩があたしに気づいて微笑んだ。
 相変わらずいい笑顔をする人だった。
「やあスミレクン、もうお帰りかい? 残念だヨ、ボクはまだ学校に用事があってネ、一緒に帰ることができないんだ」
 さも無念と言わんばかりの、目と顔を伏せたポーズ。キザな仕草も好調だ。
「いいですよね……キザ先輩は悩みなんてなさそうで」
「悩みならあるとも。この世界の半分は女性で占められているのに、ボクが幸せにしてあげられるのはその中のほんの一握りのレディたちだけなんだ。ああ、なんて悩ましい……レディたち、罪深いボクを許しておくれ……」
 これはもはや病気では……。そう思うくらいの自己陶酔っぷりだった。ここまでくると、キモイとかを超越して、いっそ清々しくすらある。
「先輩は、女性を見たら口説かずにはいられないんですか……」
「フフ……さすがにそこまでやったら変質者だからネ。けど、言葉を交わす機会が持てるならボクは心を込めて女性を口説くヨ。目の前にボクを刺し殺そうと迫ってくるレディがいたとしても、ボクは誠心誠意女性を立て、慰め、笑って刺されるだろうネ」
 本当にそれをやったら尊敬してあげてもいい。でも、そのあとで少しばかり笑うとも思う。
 よっぽど女性が好きなんだろう。この人が美貌の持ち主だったのは女性にとって幸いだ。この人に口説かれるなら、確かに女としては悪い気がしない。
 でも、好きなものに対してここまで正直になれるというのも珍しい。
「先輩は、なんでそんな、命がけみたいな勢いで女の人を口説くんですか?」
 質問に、キザ先輩は人さし指を一本立てて顔の前で左右に振った。悟ったような笑顔から首の角度まで、完璧な仕草と言ってもよかった。
「愚問だヨ。ボクは女性が大好きだ。この世のすべての女性を愛している。赤ん坊から老婆まで、好きなものには素直に好意を持って向き合うヨ。好きなものを好きと言えない人は多いけど、本当はみんな素直になりたいんだろうなって、ボクは思うナ」
 先輩は一片も恥じるところなんて見せず、正直にそう言いきった。
 普通だったら、呆れられてもおかしくない回答だ。少なくともキザ先輩は普通と違っていて、あたしみたいな一般人の斜め上を行っている人なんだと思えてしまう。
 でも、あたしは呆れることも嗤うこともできやしなかった。先輩の回答はそんな哲学的なものだったのかも不明だけれど、考えさせられるものがあった。
 先輩は女性が好きだ。それこそ赤ん坊から老婆まで。
 あたしは歌が好きだ。ならあたしは、童謡からメタルまであらゆる歌が好きだろうか。その疑問に対する答えはあたしの中にはなかった。だって、今までオペラやクラシック以外の歌をまともに聴いたことがないのだ。だから好きも嫌いもあったものじゃなかった。知らないものは好きにもなれないし嫌いにもなれない。
 そんなことに、今まで気づいてもいなかった。
 ここまで狭い視野でいて、よく「歌が好き」などと言っていられたものだと愕然とした。あたしは今までなにを見て、なにを聴いて生きてきたんだろう……。
「スミレクン、どうかしたかい?」
 憂えるように覗きこんでくるキザ先輩の顔立ちはやっぱり綺麗だった。自分の心に正直に生きているから、先輩はこんなにも綺麗なのかもしれない……。
「いえいえ、なんでもないっすよ。それより先輩はまだ用事があるんでしたよね! あたしは今日は帰りますので、失礼しまっす!」
 バレバレの空元気を出して、あたしは階段を一人駆け下りた。キザ先輩のように正直にはなれなかった。
 先輩は、少しだけ心配そうな顔をしながらも、なにも言わずに見送ってくれた。
      ♪
 地元の最寄りで電車を降りて、賑やかな通りを考え事をしつつ歩いて抜けた。
 暗くなる手前の住宅街は、自転車で走る小学生たちや買い物帰りの主婦がチラチラ見えるくらいで、どちらかというと寂しい感じの街並みだ。
 それらを見るともなしに眺めながら、あたしは足元の石ころを蹴飛ばした。からころと、アスファルトを跳ねる音がいっぱしの音楽みたいに耳に残る。
「あーあ、自分を見つめ直すのって難しい」
 えい! ともう一度、力強く石を蹴った。予想外の快打。石はあたしの身長さえ超える高さを勢いよく飛び――かと思うと、脇道から出てきた人影に見事に命中してしまった。
「すっ、すみません!」
「……俺は、よほど恨まれていると見える」
 人影が低い声で言った。最初は逆光でわからなかったが、脇道から出てきた大きな人影は中学時代からの知り合いであらせられる御劔健吾先輩その人だった。
 健吾先輩は、石の当たった肩口を軽くはたいて苦笑した。
「ホント、スミマセンでした……」
「大事ない。心配無用だ」
 予想できた応えだけれど、言ってもらうとやっぱり安心する。
 あたしは、ふと先輩の出てきた道が気になって歩きながら訊いてみた。
「今の、道場に続く道ですよね。もう練習が終わったんですか?」
「いや、用向きがあって今日明日は休むと申し入れてきた」
「そうですか……」
 家への道を歩きつつ、早くも会話が途切れてしまった。健吾先輩は沈黙が気まずいタイプの人ではないが、やっぱり二人でいるなら会話があるにこしたことはない。
 悩めるあたしにはちょうどいい巡り合わせだった。中学時代にも、勉強や声楽の悩みをいろいろ聞いてもらったっけ。無口なので必ずアドバイスがもらえるわけじゃなかったけれど、話すたびに気持ちが軽くなっていたのは事実だった。
 相談ついでに、以前からの疑問も訊いてみよう。
「先輩は、柔道が好きなんですよね」
「ああ」
「なのに、なんでスポーツ推薦の話に乗らないでウチに……ミカエル大付属なんかに入ったんですか?」
「俺の柔道は勝つためのものではないからな。強豪校に行けば、俺の柔道を見失ってしまう可能性もあった。畳と練習相手さえいれば、己を磨くことはできる。だから俺は推薦を断り、ミカエル大付属にしかないもののために今の高校を選んだ」
「ミカエル大付属にしかないもの……?」
 そんなもの、うちの学校にあっただろうか。いや、あたしにとってはどうでもいいものでも、健吾先輩にとっては何にも代えがたいものなんだろう。
 あたしがこんな質問をしたことを不審に感じたらしい。健吾先輩は武道家だけあってさすがに鋭かった。
 刃物じみた瞳をさらに細めて、健吾先輩はあたしを見下ろした。恫喝しているわけじゃないとわかっていても、やっぱり迫力は満点だった。
「山咲、己の道を見失ったか」
 健吾先輩が言うと、武道の師範代が弟子に説教をくれているみたいだった。けれど、それを言って茶化す気にも当然なれず、あたしは小さく頷いた。
 いつもなら、ここで先輩は「そうか」とか言うだけでだんまりを決めこむのがパターンだ。けれど今日は違った。よっぽどあたしが深刻な顔をしていたのか、それとも先輩の心境に変化でもあったのか……とにかく今のあたしにはありがたいことだった。
「案ずることはない。道は見失うことはあろうとも、決してなくなるわけではない。今は目に入らなくとも、道は必ずあるものだ」
「道は必ずある……」
 少し哲学的な言葉だが、ある意味ストレートな激励でもあった。先輩の励ましはあたしの心に正面からぶつかって、徐々に染みこんでくるようだった。
 道……か。
 蓮華先輩は言っていた。声を出すことを禁止されたわけじゃないって。つまり、声楽以外だったらいくらでも道があるんだって、あたしに教えてくれたのだ。
 キザ先輩は、女性なら赤ん坊から老婆まで愛していると断言した。けれどあたしの目と耳は、声楽の方向しか向いていなかった。そうやって視野を狭めていたから、あたしは今、こうして道を見つけられずにいるのかもしれない。
 健吾先輩は、中学生のころからちゃんと自分の道を見据えていたのだ。だから、強豪校に行くことが自分の進む道ではないと判断することができた。確かに強豪校に行く道は太くて、輝いているかもしれない。でも、今歩んでいる道こそが、きっと健吾先輩にとっての最良の道なんだろう。迷いや後悔と無縁の目を見ていれば、それがわかる。
 あたしも自分の道を見つけられるだろうか……。
 魔女……音無伶の誘いに応じるのが自分の道ってやつになるのかどうかはわからない。
 それにさすがに明日、ぶっつけでライブに出るのは無謀だ。
 ただ……認めよう。道を探すためには視野を広げる必要があることを。だからあたしは赤ん坊から老婆まで……いや、童謡からメタルまで、いろんなものを聴くべきだ。その一環として、渡されたCDを聴くことはやぶさかじゃなかった。
 横を歩く健吾先輩は、静かに覚悟を決めるあたしを黙って見ているだけだった。こんなとき、なにも口出ししないで見守ってくれるのが健吾先輩だ。
 やることが決まりつつあるあたしには、そういった態度で接してくれることがすごくありがたかった。思えば、あたしは先輩方に恵まれているのかもしれない。
 あたしの喉を守るために歌声を盗んだというのなら、その先輩方の一員に、伶も入れてやるつもりだ。
 以前なら考えられなかった思考だけれど、この時あたしは素直にそうやって、周りの人に感謝を抱くことができていた。



五章 泥にまみれ血にまみれ気づいたこと。歌が好き。

 またヘッドフォンがずれた。あたしって頭がちっこいのだろうか。脳みその容量まで少なとは思いたくないけど……。
 耳に集中していた意識を休ませて、伏せていた視線を持ち上げた。時計を見ると日付はすでに変わって一時を指していた。
 夕食後、お風呂から上がってずっとリピートで聴いていたわけだから、ざっと五時間はこうしていた計算になる。まさかこのあたしに時間を忘れさせるとは。さすがに伶が奇跡のバンドと言うだけのことはある。
 とは言ってもCDに録音されていたのはたった一曲。それもバンドの演奏ではなくてシンセの打ちこみにボーカルを吹きこんだだけのものだった。これじゃあ演奏の実力なんてわかりっこない。せいぜい作詞作曲のセンスを見るくらいしか役に立たなかった。
 伶も九太くんも、どこか抜けている。
 それでもあたしに聴き続けさせることができたんだから、いい曲だって認めてもいい。
 歌も、パブで聴いたときにはおよばないもののさすがは伶、というくらいの歌唱力ではあった。これだけ歌えて臨時なのだから、ずいぶんいいご身分のバンドだ。
 ともあれ、曲も悪くないし詩が気に入った。素直に言うなら、ライブに興味が湧いてきてもいる。とはいえさすがに出演するのは勘弁だ。
 ずっと同じ姿勢でいたせいかちょっぴり肩が凝っていた。あと、無意識に指で机を叩いてリズムを取っていたようで、人さし指だけ痺れた感じがする。
 明日……正確に言うなら今日だけど、伶に返事をしないといけない。悪いけど、定期ライブは断ろう。レベルの高いバンドなら、練習もせずに臨むのは失礼だ。
「さーて、そろそろ寝ようかな」
 水色のパジャマ姿で「うーん」と伸びをしてからヘッドフォンを外した。リモコンでオーディオを止めてCDを取り出しケースに戻す。
 長いこと音楽を聴いていたせいか、久しぶりにリラックスした気持ちになっていた。これなら気分よく日課のBL同人誌拝読ができそうだ。それからゆっくりベッドに入るとしよう。
 ヘッドフォンを外して気づいたが、外はけっこう強めの雨が降っている。バラバラと大粒の雨が屋根を叩き、不揃いな音があたしの意識を現実に戻してくれる。
 窓からは、雨の日特有の薄い明かりが……って、明かり?
 ――ドクン! 一回だけ心臓が飛び跳ねたあと、全身から油っぽい汗がだらだらと流れてパジャマを湿らせていった。
「も……もももも、もしかして……」
 意を決してカーテンを全開! 窓からの景色に目をやると――
 ――昼だった。
 マンガチックに滝汗をしたたらせながら、もう一回時計に視線を投げつけた。今度はちゃんと、時刻の脇の小さい文字まで網膜にしっかり刻みつける。
 時計のデジタル表示にはこうあった。
 ――PM――
「ひぎ…………げええええええっ!」
 午後一時! 携帯をガバッと見ても午後一時!
「なんで! いつの間にこんな時間にいぃぃぃぃっ! っていうか放置すんなよお母ちゃん! お父ちゃんも!」
 曲を聴いている間にこんな膨大な時間が経っていたなんて! 再生中、断じてあたしは居眠りなんてしなかったのに! 無意識に十七時間も聴いていたっ? そういえばお腹も空いて膀胱が張っているような……。
 狼狽のあまり部屋の壁にぶつかってよろけそうになったところで、玄関のチャイムが我が家に鳴り響いた。
 お客さん……? 親は共働きだからあたしが出なきゃ。でも……あ、もうだめ、漏れそう。
 玄関に向かう前に、あたしは人にはお見せできない内股走りでトイレに駆けこんだ。
 水の流れる音が心地いいBGMだった。ホッと脱力しながらトイレを出ると、二度目のチャイム。続いて三度目。四度目五度目六度目――
 ピンポーンなんてゆったりした音色じゃなかった。
 ピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポ!
 やかましいったらありゃしない。
「ああもう、どちらさんですか」
 うざったいなあなどと思いながらも玄関に向かう。鍵を開けると、ドアが吹っ飛ぶような勢いで向こう側に開いた。
「貴女は真性の馬鹿ですかっ!」
 耳をつんざく怒鳴り声。いきなりご挨拶なお客さんだった。
 肩をすくめて相手を見ると、半分予想はしていたが……やっぱり音無伶だった。九太くんからクラス名簿の住所を仕入れてうちを探し当てたのだろう。
 あの冷静で落ち着き払った美貌が上気して、ゼイゼイと肩で激しく息をしている。傘を差してはいるけれど、長い黒髪や足元、制服の肩のあたりはびしょ濡れだった。
 憤怒の形相も、凄みがあって美貌にまた違った魅力を与えており……と、そんなことをのんびり考えている場合じゃないみたいだった。
 まあ……伶の言いたいことはわかる。あたし自身、自分の間抜け具合に呆れかえっているところだから。
 確かに……冷静に思い出してみればCDの曲を二百回以上は聴いたような気がする。
「あ〜……ごめん、渡されたCD聴いてたらいつの間にか十七時間も経ってて……」
 本当のことなのに、これほど説得力の欠如した言い訳もないなと内心苦笑した。
 が、伶は怒りの顔を瞬時にぽかんとさせてから、クスクスと笑い出した。
 伶の百面相を見られるなんて、もしかして貴重な体験をしているのかもしれない。それ以前に、十七時間というのは信じたのだろうか。信じてくれるのなら文句はないが……ひょっとして他にも同じ経験した人でもいるのだろうか。
「そう、そういうことなら仕方ないけれど……だったら色よい返事を期待してもいいのよね? さあ、さっさと学校へ行きましょう」
 伶にぐいっと手を引かれ、あたしはサンダル履きのまま外に引きずり出されてしまった。どうも、急ぐあまりあたしの格好もなにも目に入らなくなっているようだ。家の前の道まで強引に連れ出されたところで、後ろのほうから玄関の閉まる音が聞こえた。
「ちょっ! いくらなんでも強引すぎ! 返事って今日のライブのことでしょ? それなら、さすがにいきなりすぎるし出るのはちょっと……」
 このまま駅まで引っ張っていかれたらたまったもんじゃない。あたしは伶の手を振り払ってひとまず脚を止めさせた。
 途端に伶は眉をひそめ……というより、不思議でしょうがないという顔をしてあたしを見返した。そんなにあたしが断ったのがおかしいのだろうか。
「スミレさんって……少し変わっているのね」
「あ、あんたに言われたくはないんだけど……」
「自分の気持ちは自分で理解できるようになったほうがいいわ。好きなものを好きと認められないのは不自然で……不幸なことよ」
 どっかで聞いた言葉だな……と考えて、それが昨日、キザ先輩の言っていたのと同じ内容だったことを思い出した。つまり伶はこう言いたいんだろう。「貴女は本当はライブに出たがっている。潔く認めなさい」と。
 でも……あたしがどうしたいかなんてことは伶に決められることじゃない。
 あたしの態度が拒否を示しているのには伶もすぐに気がついた。路上まで引きずり出されていたあたしは濡れないように伶に密着して傘に収まっていたわけだが、おかげで美貌に不敵な笑みが刻まれるのがありありとわかった。
「マキシマム・レベルの曲を聴いてもらえば惹かれて歌いたくなるだろうと思っていたのだけれど……そう上手くはいかないようね」
 そうれはそうだ。仮に歌いたくてもライブは荷が重すぎる。
「なら、今から新歓ライブのDVDを観てみない? 部員にハンディカムを買ったばかりの人がいて、撮影してくれたのよ。それを観ればスミレさんの気も……」
 変わるとは思えない。とは考えつつも、マキシマム・レベルのライブビデオと聞いて好奇心を刺激される自分がいるのも確かだった。以前のあたしならロックバンドのビデオなんて鼻で笑って捨てていただろうに……それだけでも目を見張る変化だ。あたしに時間を忘れさせた曲。それを打ちこみではなくライブの音で聴けるとなると、俄然興味が湧いてくる。
 平静を装ったつもりだったのに、一瞬身を乗りだしたのがバレたらしい。美貌を不敵に笑ませ、伶は鞄を軽く掲げて見せた。なんか悔しい。
 ――と、その瞬間だった。
 伶の真後ろをもの凄いスピードでバイクが走り抜けた。同時に伶の体が引っ張られるように傾ぐ。密着していたあたしもそれに巻きこまれ、絡まり合うようにして二人でアスファルトの上に倒れこんでしまった。
「きゃっ」「うわあっ」
 決して優しくない雨は、路面にいくつもの水たまりを作っていた。その一つに全身をびしょ濡れにされ、あたしはなにが起きたのかもわからず立ち上がるのも忘れて呆然とした。
 伶も制服をぐっしょり濡らしながら尻をつき、両手を凝視している。左手の傘は少し離れた路上で逆さになって、雨の水を皿のように溜めていた。右手に持っていた鞄は、どこを探しても見あたらない。
 猛スピードのバイクはすでに小さくなって、遠くの交差点を右折していった。
「もしかして……」
 どこにも怪我がないのを確かめながら、あたしはフラフラと立ち上がった。パジャマは完全に水浸しで、傘なんてもうどうでもいいくらいだった。
「……今のバイク、ひったくり?」
 事実を確認するようにあたしが言うと、地面にへたりこんでいた伶の肩がビクッと震えた。鞄を持っていたはずの右手を凝視して硬直している。
「伶……もしかして鞄を盗られたんじゃ……」
「あ……あ……」
「伶?」
「いやああああああっ!」
 突然の絶叫に、あたしは半歩のけ反った。伶が、常に冷静沈着で余裕の態度を崩さなかったあの伶が、これ以上ないくらいに取り乱し、頭を抱えて絶叫していた。
「ディスクが! ライブのディスクが! いやっ! いやああああっ!」
「伶っ、ちょっ、落ち着……」
 近所迷惑だし、さすがに尋常じゃないものを感じて、あたしは恐る恐る伶の肩に手を伸ばそうと――しかし、伶は前触れもなく手を振り回して「ああああ!」などと叫びだす始末。
 このままじゃ埒があかない……というか明らかにヤバイ感じがする。
 あたしは深く息を吸うと、わめき散らす伶に向かって、
「落ち着けって言ってんでしょうが!」
 思いっきり振り抜いた右手に痺れるような感触。伶のほっぺはそれどころじゃない衝撃に晒されたはずだった。一切の手加減抜きでぶっ叩いてやったのだから。
 頬を抑えて、伶は放心した表情であたしを見上げた。これもあたしの見たことがない表情だった。不安そうに見上げてくる顔はいつもと違って年相応の少女のままだ。
 伶の黒瞳から、不意に雨とは違う水が溢れ、頬を伝って顎に落ちた。かと思うと、今度は年相応どころか幼児返りしたみたいに恥も外聞もなく泣きじゃくる。
「なんなのよ……。そんなに大事なものでも入ってたわけ?」
「うっうっ……。ディスク……。ライブ……の……ううっ、えうっ」
「なに? コピーじゃなくてオリジナルだったの?」
 むせび泣きながら、こくりと一度頷いた。どうやらまだコピーは取っていないのだろう。
「あれ……ひうっ……しかないの……。わたくしと……九太ちゃんたちの、うっ、えうっ」
 つまりわかりやすく言うと、伶とマキシマム・レベルのコラボレーションを記録した媒体は鞄の中のDVD一枚こっきりということか。考えてみれば、あたしが借りたデモCDも打ちこみ演奏に伶のボーカルが入っているだけだった。
 新歓ライブの映像が、伶とマキシマム・レベルが一緒の舞台に立った唯一の記録なんだ……。
 伶のマキシマム・レベルへの執心は有名だ。でも、あの大人びた姿をかなぐり捨ててこんなに取り乱すほどだったなんて、正直思っていなかった。
 あたしが声楽を禁止されたときでさえ、こうはならなかったのに。マキシマム・レベルは伶にとって、あたしにとっての声楽よりも大切なものなのかもしれない。
 自分にとってのすべてだと思っていた声楽よりも……だ。
 包帯は巻かれていなかったけれど、伶の右手には火傷の痕があった。あたしのCDを焼却炉から救出したときの負傷だ。あのCDは、あたしが歌手であった証みたいなものだった。市販品だからあれ一枚きりというわけじゃなかったのに、伶は危険を冒してまで救ってくれた。
 たった今盗まれたディスクには、伶とマキシマム・レベルの絆が……その証が入っている。それはあたしのCDと違って、この世に一枚こっきりしかないのだ。
 伶があたしにしてくれたことを思う。なら、ここであたしがすることは決まっていた。
「追うよ、伶」
「――え?」
 雨と涙でぐっしょりになった顔を上向けて、すがるようにあたしを見る伶。
「大切なものなんでしょうが! それを盗人ごときにくれてやっていいっていうわけっ?」
「嫌……それは……嫌っ」
「だったら追う! 反論却下! ここで待ってて!」
 あたしはダッシュで家に戻って、お母ちゃん所有の原チャリのキーを取ってきた。バイクの性能は心許ないけれど、これしかないんだからしかたない。
 再びサンダルを突っかけて、チャリ置き場にある原付を起動! メットを抱えて道路まで引っ張っていくと、伶は頼りないながらも自力で立ち上がってあたしを待っていた。どうにか泣きやんでいるのは、あたしの平手と説教がきいたのかもしれない。
「お待たせ! こいつで追うよ!」
 気合い一閃で伶に言うと、拍子抜けするほど不安そうな声が帰ってきた。
「あの……スミレさん、貴女免許は……?」
「バカ言ってんじゃないの! あたしはまだ十五歳っ」
 途端、伶の美貌が作り物みたいにぎこちなく引きつった。
「今さら怖じ気づいてんじゃない! 大切なもの、諦めたいのっ?」
「い、嫌っ!」
「だったらさっさと後ろに乗る!」
 小さいシートの後部に無理矢理伶をまたがらせ、有無を言わせずメットをガポッと被せてやった。目を白黒させて慌てる伶が珍しくて、あたしは思わず笑いそうになってしまった。
 続いてあたしも原チャリのシート前部に尻を落ち着けた。当たり前だが、原チャリは二人乗りができるように造られていないから窮屈でたまらない。こんなときだけは、自分の小さなお尻に感謝したくなる。
「さあ行くよ! 掴まってて!」
「す、スミレさん、貴女のヘルメットは!」
「メットは一個しかないの! 事故ったとき死にやすいのは後ろの人のほうなんだからこれでいいんだよっ!」
「そ、そんな……それに原付の二人乗りは……」
「つべこべ言わない!」
 これ以上伶の弱気になんか付き合っていられない。あたしは自転車の運転だったら自信はあるのだ。原付だって大して変わるものか。原動機付き「自転車」というくらいだ。
 あたしは迷うことをすっぱり放棄してアクセルを開けた。一瞬前輪が浮いて後ろにすっ転びそうになったものの、ギリギリのところで押さえつけて前進に成功。
 よほどの恐怖だったのか、伶が後ろからぎゅうぎゅう抱きついてきていた。
「その調子でしっかり掴まってるんだよ! ようし行っけえブラックハヤテ号!」
「きゃああああぁぁっ!」
 さりげなく言ってみたパロネタに、伶は突っこんでくれなかった。それでもブラックハヤテ号(たった今命名)は、原チャリとは思えない速度を出してぶっ飛んでいく。お母ちゃんの改造趣味に乾杯だ。
「いででででで! 雨が痛いっ! 寒っ!」
 スピードにハイテンションでいられたのは始めのうちだけだった。雨が顔に当たって痛いし、過ぎ去る風の前ではパジャマなんてあってなきがごとし。めちゃくちゃ寒かった。
 ブラハヤ号(略)は、あっという間にひったくりが消えた交差点までやってくる。大してスピードを落としもせずに右折しようとしたら、後輪が滑って心臓が凍りついた。
「まっ、曲がれえーっ!」
 あたしの願いが真摯だったおかげか、バイクは触れるほど側壁に接近しながらもどうにか交差点を曲がりきった。後ろからの締めつけが、ベアハッグもかくやというくらいに強くなる。
 曲がってから三百メートルも走っただろうか、前方に見えたコンビニの脇に見覚えのあるバイクが停車している! ライダーは脇に抱えた鞄を物色中だ。
「いたっ! あそこ!」
 あたしの声に、伶が後ろから身を乗りだしてくるのがわかった。犯人の姿を見て、ようやく伶の心に温度が戻ってきたようだった。
「スミレさん! 急いで! 捕まえて!」
「言われなくっても!」
 ところが、パジャマの子どもが運転する二人乗りの原付という姿が悪目立ちして相手に気づかれた。ひったくり男は鞄の物色を中断すると、戸惑った素振りでバイクを急発進させた。
「くそ! 逃げた!」
「待ちなさい! わたくしのディスク!」
 もちろん待ってはくれないので、アクセル全開で追いかける! 痛いとか寒いとか言ってられなかった。癪だが後ろであたしに抱きついている女は恩人なのだ。強引な手段だけれどあたしの喉を守ってくれた。あたしが歌うことを否定しそうになっていたときには、焼却炉に手を突っこんでまで歌手の証を救ってくれた。
 ――だから今度はあたしが!
 しかし、前のバイクとの距離はちっとも縮まってくれない。それどころかじわじわと開いているようだった。バイクの違い、二人乗りというハンデが響いている。それでもどうにか追跡できているのは、少なからぬ交通量が相手のスピードを抑制しているからだ。
 相手もそれに気づいたのか、ルートを幹線道路から外した。スピードを出しやすい程度には道幅があり、交通量は少ない市道に移行された。しかもこちらの重量オーバーを見越してか上り坂になっている。ずる賢いヤツめ!
「スミレさん、離されているわ!」
「こっちも全開だよっ!」
 緩やかとは言いがたい勾配のせいで全然スピードが上がらなかった。ひったくりバイクは地元じゃ桜の名所として有名な桜ヶ丘公園の方角へと向かっていた。小高い丘にある公園からはあたしたちの住む街も一望できる。
 公園をすぎると分かれ道がいくつかあるはずだった。今にも視界から消えそうな相手をそこにたどり着かせたら、もう完全に見失ってしまうかもしれない。
 やがて公園が見えてきた。このままでは振り切られてしまう。
「このおっ! 逃がしてたまるかぁぁああ!」
 叫ぶも、距離は縮まってくれない。
 と、前のライダーがなにかを放り投げる仕草をした。
 こっちに向かって路面を跳ねながら転がってくるのはジュースのペットボトルだった。それを避けるか跳ね飛ばして直進するかであたしは一瞬だけ迷った。その迷いが致命的だった。猛スピードで走っていたこともあってペットボトルとの距離は呼吸一つの間にゼロになり、原チャリは身構える前に障害物を踏みつけスリップしていた。
 世界が勢いよく捻れた。いや、そうじゃない。バイクがスピンしながら倒れていっている。
 気づけば驚くほど近くにアスファルトがあった。とっさにぎゅっと目を閉じた。
 肩口に走った衝撃。あとはもう、なにがなんだかわからなかった。ただ、体を何度も固い地面に打ちつけた。気が狂うほど何度も何度も、天と地が入れ替わった。
 耳が麻痺して、頭の中にラジオのノイズみたいに不快な砂嵐が吹き荒れる。悲鳴も、バイクの倒れる音も聞こえなかった。
 ――ただ、どれほどかの時間のあとに、自分が無様にアスファルトに倒れ伏しているのを知った。雨の冷たさを感じる。
 どうやらまだ……生きているみたいだ。
 起きあがろうとすると、全身がバラバラになるかというほどの激痛に襲われた。
「ぐっ……つぅ……」
 痛い。なんで……。なんだってこんなことに……。パジャマが……右肩のところと右膝のところがズタズタに破れて、その下からじくじくと血が溢れていた。
 死ぬほど痛いけれど、動かない部分はなさそうだ。打撲と擦り傷だけで済んだのは幸運だったと言っていいものか……。
 伶、伶はどこ……?
 錆びついたみたいにぎこちない首を無理矢理廻らすと、あたしが倒れる数メートル前で、伶は自力で立っていた。白い膝からは血を流し、制服のブレザーが所々すり切れている。
 ひとまず深刻な怪我はないようだったが、ふらふら歩く姿からは怪我の具合があたしと大差ないことが見て取れる。
 あんな状態で、伶はどこへ歩いて……?
「……ディスク……ライブの……ディスク……」
 寝言みたいに虚ろな口調で、伶は求めるものを呼び続けていた。倒れこむような足どりですがりついたのは、あたしたちをここまで運んでくれた原付だ。
「伶……あんたまだ……」
 もう、あたしの声さえ聞こえていないようだった。きっと、今の伶が見ているのは盗まれたディスク、ただそれだけなんだろう。
 一緒に事故ったあたしが目に入っていないとしても、それを薄情だとは思わなかった。本当に大切なもののためなら、伶のようになるのがきっと自然なのだ。
 伶は、まだエンジンがかかったままのバイクを起こすと歪んだ車体にまたがってアクセルを開いた。バイクはポンコツじみた動きで走りだした。
「がんばれ……がんばれ、伶……」
 ところが、壊れかけのバイクはハンドルすらまともに回らないみたいだった。十メートルも走らないうちに電柱に衝突し、伶は再びアスファルトに投げ出された。
 バイクも今のが最後の余力だったのか、完全に沈黙してしまう。
 あたしは言うことを聞かない体に鞭を入れて立ち上がった。一歩ごとに激痛が襲ってきたけれど、そんなものに構ってはいられなかった。
 伶は、伶は無事……?
 あたしがそばに寄る前に、伶はさっきよりいっそう痛ましい動きで這いずった。ずるずるとアスファルトで身を削るように。
 次第に力が入るようになってきたのか、何度も転びそうになりながら立ち上がる。
 黒髪から雨滴をしたたらせながら伶は走った。脚を引きずっていて、普通の人が歩くよりもよっぽど遅い速度だったけれど、どんなに速い人の全力疾走よりも一生懸命だった。
「伶……」
 ひったくりのバイクになんて追いつけっこない。それくらい伶だって理解しているに違いない。だけど、あたしは伶を諫めることなんてできなかった。それどころか心の中では「頑張れ、走れ」と応援さえしている。ただ体を苛めているだけなのに。止めてやったほうがどれだけ優しいことかもしれないのに。
 いつしかあたしは伶に追いついて、肩を貸しながら走っていた。二人で寄り添いながら。それが肩を貸すというよりも互いに寄りかかり合っているだけという状態になっても、あたしたちは脚を止めなかった。
 だけど、いくらもせずに限界はきた。
 伶の脚がもつれた拍子に、あたしたちは何度目だか数える気にもならない転倒をした。そしてもう……今度こそ立ち上がれなくなった。
 寒くて歯の根が噛み合わず、疲労が肺をぎりぎりと締め上げる。全身が痛すぎて怪我の箇所さえよくわからなくなっていた。
 隣で這いつくばった伶の肩が震えている。雨の音に消されて聞こえないけれど、すすり泣きを漏らしているみたいだった。
 あたしはマキシマム・レベルというバンドのことを思った。
 ――こんなにも……大切にされているんだ……。
 床も拭けないボロ雑巾のようになって、それでも求めるほどの価値が……少なくとも伶にとってはそれほどの価値があるバンド。一体どんなバンドなんだろう。
 そして、そんな大切なバンドを諦めてあたしをボーカルに推した心境はどんなだろう。新入生にいいボーカルがいると嬉しげに語り、それでいて内に翳りを秘めていた口調を思い出す。
 あたしはそんなバンドを、伶に託されようとしていたのか……。
 歌よりも病院のベッドに思いを馳せたほうがいい状態だというのに、あたしは不意に「歌いたいな」と思ってしまった。
 お笑いぐさだ。こんなになってやっと、歌いたいという欲求を取り戻すことができたなんて。このまま、雨に濡れて体を冷やし続けたら冗談抜きで死んでしまうかもしれないというのに。
「うっ……ううっ……」
 伶が、あたしにすがりついてきた。それは徐々にすすり泣きからむせび泣きに変わり、しまいには雨音さえかき消す号泣となった。
 そして、伶の泣き声が響く中、あたしは背後から迫る爆音を聞いていた。桁違いに大きなバイクが後ろの坂から上ってくる音だった。
      ♪
 桜ヶ丘公園入口にある手すりに、あたしたちは腰を下ろしていた。公園内には屋根つきの四阿もあったが、ここまで濡れてしまえばそれもいまさらだ。
 ソメイヨシノの時期はもう終わっていて、けれど八重桜にはわずかに早いこの季節。おまけに雨とあって、人っ子一人いなかった。
 坂の下からきた大型バイクのライダーは、先日パブの前で伶を拾って去っていった人だった。あのときも小柄な人だと思ったけれど、それもそのはず。ライダーは女性だった。バイザーが鏡面処理さたメットだったので顔はわからなかったけれど、引き締まった体のラインと立ち居振る舞いが格好よかった。
「うっく、うう……ひくっ……」
「あーもう、いい加減泣きやんでよ……」
 少しばかりうんざりしながらも、もたれてくる頭をよしよしと撫でてやる。魔女とも呼ばれて恐れられる女のこんな姿を見た者はそうはいまい。
 バイクの女性は、今はひったくり犯を追っている。もともとあたしたちとの遭遇も、伶を探していて行き会ったかららしい。伶の携帯にはGPS機能がついていて、それを追いながらバイクを走らせていたそうだ。
 その携帯は伶の鞄の中。つまりひったくり犯が持っている。
 結果は神のみぞ知るといったところか。ただ、バイクは大型でもライダーは女性だ。あまり危険なことはしてほしくない。あたしが言っても説得力は皆無だが。
 伶は、緊張の糸が切れたのかさっきから泣きっぱなしだった。
 ライブはどうなっているだろう。時間を確認しようとして、自分が携帯も財布も持っていないことに気がついた。パジャマ姿なら当然か。いつの間にかサンダルもなくなっていた。
 公園の時計を見ると、もうとっくに放課後になっている時間だった。いくらマキシマム・レベルの出番がトリだからといってももう間に合わないだろう。やっとライブに出たいと思えるようになったけれど……残念だった。
 伶があれほど大事にしていたバンドを、あたしはおろそかにしてしまった。
 ちらっと隣を見ると、伶はあたしにしがみついて肩を震わせている。
 風が公園を通り抜けて、あたしも寒さに身震いした。
「ん?」
 今、上の方からなにかが聞こえた……。そう認識した次の瞬間には、バイクの排気音はどんどん大きくなって爆音のようになっていく。
 坂の上、カーブを曲がって大型バイクが現れた! かと思えば瞬間移動じみた信じられない速度でこっちに突っこんでくる。バイクがタイヤを滑らせた瞬間には反射的に逃げ場を探した。けれどそんな心配は無用で、モンスターみたいなバイクは濡れた路面を滑りながらもあたしたちの数センチ手前でぴったり止まった。
 正直、轢き殺されるかと思った。
「伶」
 バイクの女性がメットごしのくぐもった声で言い、車体後部に引っかけてあったものを伶に放り投げた。それは――盗まれた鞄だった。
 あたしは女性のメットにとても血に似た赤い染みがあるのに気づいたが、指摘するのを思いとどまった。たぶん、聞かないほうが幸せなんだろう。
 伶は運良くメットの汚れには気づかなかったみたいで、受け取った鞄を胸に抱えてその場にへなへなとへたりこんだ。安心のあまり腰が抜けたらしい。
 と、いきなりあたしのほうにもなにかが飛んできた。思わず受け取ると、それは女性が予備に所持していたらしいメットだった。
「安心してる場合じゃねえ。二人とも後ろに乗りな」
「え、ど、どこ行くんですか?」
「ガッコに決まってんだろうが。ライブに出るんだろ?」
「で、でももう時間が――」
「間に合わせる。だから乗れ」
 メットごしのくぐもった声だったが、断固とした響きがあってそれ以上なにも言い返せなかった。ほとんど飼い主に命令された忠犬のようなノリで、あたしは女性に従った。伶に手を貸して立たせ、あたしの後ろにまたがらせてやる。
 伶とあたしの間には取り返したばかりの鞄が収まった。もう二度と失わないように、しっかりと密着する。あたしも前の女性にきつく抱きついた。
「よし掴まったな? じゃあ……ハジケるぜっ!」
 直後、なにかの冗談かと思うようなGがあたしを襲った。後ろから回された伶の腕がお腹に食いこんで吐きそうになる。空腹でよかった。
「歌う前に舌噛むんじゃねえぞ!」
 この人は二人分の体重を支えながらなんで平然と喋っていられるのか! アバラがへし折れたっておかしくない負荷のはずだ。
 冗談抜きで、ジェットエンジンでも積んでいるんじゃないかというくらいの加速だ。あまりの速度に景色が見えない。
 とてつもないエグゾースト音を置き去りに、あたしたちは矢になった。
 矢は、放たれたら的に当たるまで止まらない。踏切でも赤信号でも止まらずに、バイクはひたすらに学校を目指して街を駆け抜けた。メーターは、一度も三桁を切らなかったと思う。
 家を出る前にトイレに行っておいてよかった。さもなくば、あたしは絶対にちびっていた自信がある。バイクはもうこりごりだった。
      ♪
 校門さえも抜け、バイクは講堂前まで乗り付けた。
 ずり落ちるようにしてバイクを降りたはいいが、あたしは完全に足腰立たなくなっていた。伶は慣れているのか、平然と立ってあたしの腕を引っ張り上げようとしてくる。
「さあスミレさん、歌う決心はついたのでしょう?」
 さっきまであたしより弱っていたくせに、今は雨に濡れた美貌が屹然として凛々しい。あたしは恨めしい気持ちを精一杯こめて伶を見上げた。
 ただ、こんなところでのんびりしていられないのも事実だ。怪我と寒さと乗り物酔いでひどいありさまではあったが、あたしは伶に引きずられるようにして講堂内へと入っていった。
 講堂と本校舎は渡り廊下によって二階で繋がっているが、ステージへは一階入口から向かう造りになっている。舞台袖では軽音部の裏方さんたちがせわしく動き回っていた。そんな彼らも、ボロ雑巾みたいなあたしたちの姿を見ると、ぎょっとして作業の手を止める。
 無理もない。「たった今車にはねられてきました」と言っても、血と雨にまみれたこの格好なら信じてもらえる自信があった。しかもあたしはあちこち破けたパジャマ姿。ついでに裸足。
 でも、今は自分の中のたがが外れたような感覚があって、他人の奇異の視線が全然気にならなかった。隣の伶も、大怪我を負っているとは思えないくらいに凛としていた。
 今日はとんでもないことをたくさんやった。たがが外れているのはそのせいだろう。そして、今からやろうとしていることもその一環だ。初めて歌うロックがいきなりライブ本番。そんなギャンブル、正気だったら絶対やろうなんて思わない。
 出番を終えた人たちや裏方として働く軽音部員たちが、あたしたちの行く先でモーセが割った海みたいに道を開けていく。そしてあたしたちは、ついにステージの袖に立った。
「九太ちゃんたちは?」
 伶が軽音部の誰かにそう訊いた。おずおずと返ってきた答えによると、マキシマム・レベルのメンバーは、ちょうど今ステージへと上がっていったところらしい。
 ステージを見るも、照明が落とされていてメンバーの姿は確認できなかった。もう、演奏前の打ち合わせも、メンバーたちへの挨拶すらも、する時間がないのだ。
 ステージ上のアンプから、ギターとベースがチューニングする音が少しだけ響いた。それだけで、観客が興奮したように低くざわつく。
 メンバーは、伶がボーカルを連れてくると信じたからこそ、こうして普段どおりの準備を進めているのだろう。気に入った。なかなかどうして潔い連中だ。
 昼過ぎまで、ライブなんてとんでもないと思っていた。なのにどうだ。これからあたしが向かう場所はステージ――その、マイクの前だ。
 伶がどれほどマキシマム・レベルを大切にしているかは、さっき十分に見せてもらったつもりだ。本当なら伶自身が歌いたいに違いない。実力者であればなおさらその気持ちは強いはず。なのにボーカルとしてあたしを推した。どれだけ悔しいだろう。どれだけの覚悟を必要としただろう。伶の気持ち……決して無駄にしてなどやるものか。
 薄ぼんやりとと照らされた客席からは興奮の熱気が伝わってくる。マキシマム・レベル以前に演奏したバンドたちが、歌ったボーカルたちが、たっぷりと聴衆を盛り上げてくれていたのだ。そして観客たちは、いよいよ本命のバンドが登場するのだと、ボルテージを徐々に高めながら待っている。
 そんな場にあたしが出ていっていいのか……。そんな考えは、すでに後ろに捨ててきた。
 他の誰でもない、伶があたしを推したのだ。あたしは自分自身を信じることができるほどの自信家じゃないけれど、伶のことなら信じられる。九太くんも、伶を信じているからあたしが歌うことに反対をしなかった。
 きっと他のメンバーもそうなんだと思う。あたしたちはみんな、伶のことを信じている。
 だからあたしはステージへ――
 ところが、破れかかったパジャマの袖を掴んで止めるものがあった。
「待って、スミレさん」
 ほかならない、伶があたしを呼び止めていた。
「ごめんなさい……。わたくしは、あなたにとても危険な役を押しつけようとしている……」
 危険な役? 浮かんだ疑問が顔に出ていたらしい。伶は瞳を伏せて言葉を続けた。
「去年のオーディションの噂は聞いているでしょう?」
「あの、参加者全員が失声症になったり喉を潰したっていう?」
 こくりと、伶は静かに頷いて、
「去年のオーディションは、実際にマキシマム・レベルの生演奏を従えて歌ってもらったの。けれどそれが失敗だった。誰もが、彼らの演奏を甘く見てたのよ。メンバーたち自身でさえも。彼らの演奏はあまりにもハイレベル、いいえ、そんな次元すら超えていた」
「それのなにが……いけなかったっての?」
「演奏が、際限なく歌手の歌声を押し上げていってしまうのよ。歌手は、自分の力量さえ超える歌声を引きだされ、実力以上の声で歌うことができた。けれど、力量を無視した声を出した歌手はどうなると思う?」
「まさか、じゃあ原因は……」
「そう。限界を超えた声を出した歌手は喉を痛め、潰れてしまった。運良くそれを免れた人たちも、自分の声が著しく演奏の足を引っ張っていることを自覚させられて精神的に折れてしまったわ。そんな人たちはショックのあまり失声症になってしまった」
 それが去年の事件の真相なのだと、伶は語った。
 なら、どうして犯人が伶であるかのような噂がたっているのか……。それは、ちょっと考えればあたしにも推測できることだった。
 伶は、マキシマム・レベルのためなら自分だって犠牲にしてしまう女だ。バンドに「ボーカル潰し」などという不名誉な噂が立つよりはと、自分が参加者たちを潰したのだと流布したのだろう。自分で自分を貶めてまで、伶はマキシマム・レベルを守ったのだ。
 いつかの屋上で九太くんは言っていた。「あいつが陰口を叩かれるのはオレのためでもある」って。それはこのことだったのか……。
 なんて不器用な連中なんだろう。悪意に晒される伶も辛いし、メンバーだって心が痛かったに決まっている。そんな犠牲を潔しとしない人――九太くんとか――もいたに違いないのに。それでも、伶がマキシマム・レベルを大切に思うから、解散を誰よりも嫌ったから。
 だからマキシマム・レベルは今も舞台に立ち、あたしはこうしてここにいる。
 彼らは自分たちのために伶を犠牲にした? そうじゃない。彼らは、伶のために自分たちの演奏をしているのだ。
「ごめんなさい……。それを教えもせずに、わたくしは貴女をステージへ……。貴女がきてくれたのは、わたくしに同情したからでしょう? でも、気が進まないのなら……」
「いいよ、そりゃ、あんたが大切にしてるバンドだからライブを成功させてやりたいって思ったりもしたけどさ、今はそれだけじゃないんだ。見なよ観客の熱気を。これだけの聴衆を前にして尻込みするなんて歌手じゃないよ。歌いたいんだ。あたしはあんたのためでもバンドのためでもなく、今、心から歌いたいって思えるんだ。ステージに立ちたくて立ちたくてたまらないんだよ」
「スミレさん……」
「それにあんただって、一曲くらいなら耐えられたんでしょ? 新歓ライブで少し喉の炎症は起こしたみたいだけど、潰れなかったじゃん」
「なぜ、それを……」
 くっくっっと、自分でも意地悪いと思える顔であたしは笑った。姉実先生の診療所で、あたしが伶の診察を聞いていたのは秘密にしておこう。
「けどまあ、不安はあるよ。あたしは今まで声楽しかやってこなかったからね。その声楽にしてもあんたに声を盗まれたままだから、ちゃんと歌えるかどうか……」
 そしたら今度は、伶のほうが意地悪くクスクス笑った。
「な、なんだよ」
「いえ、歌声を盗むなど、スミレさんは本気で信じていたのね」
「え? それってどういう……」
「あれは催眠術の応用にすぎないわ。わたくしはこれでも陶酔の神音使いだもの、歌うように話しかけて相手を陶酔状態にするのはお手のもの。そこへ暗示をかけてやれば、比較的簡単に相手を操ることができるのよ」
 言われてみれば、伶に歌声を盗まれたときは妙に頭がぼんやりして虚ろだったけれど……。それにしてもあれが催眠術だったなんて……。
「暗示は必ず成功するわけではないわ。わたくしは歌声を出せなくなるように暗示をかけたけれど、相手が心から歌うことを望んでいたら暗示は効果を発揮しない」
「でも、あたしは歌いたかったはずだよ」
「いいえ、確かにスミレさんは歌うことが大好きだったわ。でも、声楽の歌い方と自身の体の相性が決してよくないことを、無意識にどこかで理解していたのよ。そして、それが喉の不調の原因であることもね。深層心理はそれ故に歌うことにわずかの恐怖を感じていた。それが、わたくしの暗示をかかりやすくしていたの」
 そうなの……だろうか。深層心理なんて言葉を持ち出されると、自分でもそんな気分になってしまう。実際、あたしに伶の暗示は効いた。それが証明なのかもしれなかった。
「でも、歌声を盗んだ直後にあんたがあたしのソプラノで歌ってみせたのは?」
 伶の微笑がさらに悪戯っぽくなった。あたしが戸惑うのを楽しんでいるみたいでちょっとばかり悔しい。
「ごめんなさい、あれはね、ただの声帯模写よ。わたくしの特技なの」
 あまりにシンプルな回答に、あたしは腰が砕けそうになった。CDか舞台であたしの声を聴いて、それを真似ただけってこと……? そんなオチって……。
 それにしても催眠術やら声帯模写やら、ずいぶん特技の多い女だ。さらに、そこへ「泣き落とし」も加えてやったらどうだろう。あれは威力抜群だった。
 抜けそうになる力を辛うじて引き止めて、あたしは意識をステージに集中させようとする。ともかく、未経験のジャンルで不安があるのは事実なのだ。
「そんなに不安がらないで。半強制的に歌声を引きだしてくれるマキシマム・レベルの演奏は、今の貴女のためにあるようなものよ。貴女はなんの気兼ねもなく演奏に引っ張られるままに歌えばいいの。きっとそれが、貴女の本来の歌声だから」
 その言葉はあたしの胸にスウッと染みこんで、じわじわと全身に広がっていった。急に安堵感がこみ上げてきて肩の力が抜けてくる。
 ステージへの恐怖感が、夜明けの闇空のようにゆっくりと――だが確実に、拭い剥がされていく。
 ――よし! 大丈夫そうだ。今度こそステージへ! そう思った矢先、今度は体ごと抱きつかれて脚を止められた。
「れ、伶っ? 今度はなによっ」
「ごめんなさい……」
 また謝られた。この体勢じゃ顔は見えないけれど、涙ぐんでいるみたいだった。
「わたくしは貴女が羨ましい……いえ、正直に言うわ。妬ましいと。わたくしの神音はマキシマム・レベルの曲では発揮できないの。それが悔しくて、恨めしい……。貴女を選んでおいて、ひどい言い草だと思うでしょう?」
 それを聞いて、あたしは大いに……拍子抜けした。
 思わず苦笑を零しつつも、やんわりと伶の抱擁を解く。
 あたしの笑顔を、伶はいかにも不思議そうに見下ろしてきた。
「貴女……怒らないの……?」
「怒る? むしろホッとしてるよ」
 そう、あたしは安心していた。魔女なんて呼ばれてはいても、やっぱり伶は普通の女子高生だったのだ。悲しければ泣くし、おかしければ笑う。怒ったり、ときには嫉妬だってすることもある。
 前にあたしは、伶ほどの天才なら周囲からの悪口、陰口なんて気にならないだろうと考えた。けれどそれは間違いだった。伶はただ、人より少し我慢強く気丈だっただけだ。そして、誰よりも思いやりがあっただけなのだ。
 あたしは伶の肩に手を置いて頷きを送った。
「見てて。あんたの大切なバンド、絶対おろそかになんかしないから」
「あ……ありが……とう……」
 伶の喉は、それだけを絞り出すので精一杯という様子だった。美貌を彩る濃い色の瞳から、綺麗な雫が溢れて頬を伝った。
「礼を言われるようなことじゃないよ」
 あたしは、ただ歌いたいからステージに行くだけだ。泣くのも早い。マキシマム・レベルのステージはこれから始まるんだから。
 そしてあたしは、今度こそ舞台袖からステージへと歩み出ていった。緊張はあったけれど、心地よく感じる程度のものでしかなかった。
 あたしが出ていくと同時にステージが明るく照らされた。軽音の照明さんは場慣れしているのかタイミングはバッチリだった。
 観客席のほうから底が抜けたような歓声が上がった。しかしそれは一瞬だけで、拍手と声援はすぐに戸惑いのざわめきへと変わっていった。
 考えてみれば当たり前の反応だ。みんなが待ちに待った新ボーカルの登場かと思えば、そいつが全身ずぶ濡れでボロボロに破けたパジャマなんかを着ているのだから。おまけに脚を引きずって肩や膝が血に染まっているとなれば、ただごとじゃないのは誰でもわかる。
 それにしてもすごい観客数だ。中高の大部分の生徒が集まっているかもしれない。中には教師の姿もあるが、こんな姿を晒してあとあと問題にならないだろうか……。
 ステージ中央へ向かう途中、最初に見つけたメンバーは九太くんだった。ステージで顔見知りに会えたことに安堵して表情が緩む。
「山咲……なんだそのカッコは……」
「へへ……寝起き」
「ハッ、お前はよっぽど壮絶な寝相の持ち主なんだな」
「ま、ね。ちゃんと歌えはするから大丈夫だよ」
 なんて軽口を言い合いながら九太くんの前を過ぎた。と、その隣にもう一人大きな影が突っ立っていたことに唐突ながら気がついた。気配がないから驚いた。
 そして、慌ててその男の人を見上げてもう一度びっくり。
「健吾先輩……?」
 武士みたいに鋭い目をしてギターを肩にかけている姿は一種異様だった。っていうか、なんで健吾先輩がステージに?
「先輩は柔道部員じゃなかったんですかっ?」
「柔道は街の道場だけだ。部活は軽音に所属している」
 平然と言うが、言葉の内容は衝撃以外の何物でもない。それに、先輩と軽音がどうにもイメージ的に結びつかない。
 前に先輩は、ミカエル大付属にしかないもののために柔道の推薦を蹴ったと言っていた。それが伶の歌、九太くんのギターだったのだろうか。伶と九太くんは中学時代から路上ライブをやっていたらしいから、それを聴いた健吾先輩が惹かれたということもあったかもしれない。
 驚きはそれだけじゃ終わってくれなかった。こんなところでサプライズが待っていても嬉しくもなんともないのだが、現実はどこまでも奇異だった。
 マイクスタンドのところまで歩いてから、その現実はやってきた。
「やあスミレクン、今日の格好はワイルドで素敵だネ」
「キザ……先輩……?」
「木佐だヨ」
 なんでキザ先輩がこんなトコに! 驚愕に、思わず踵を返して逃げてしまいたくなる。
 そんな驚きとも絶望ともつかない感情を、キザ男は敏感に感じ取ってくれたらしい。
「ボクがこうしてベースを担いでいるのが不思議かい? 確かにボクの美貌ならもっと華やかなリードギターが似合いそうだが……ほら、ボクの指ってしなやかで美しいだろう? こういう長い指はベースにこそ向いているのサ」
 指がしなやかなのはいいが、この人がハイレベルと言われるバンドのメンバーでいいのだろうか……。なにか、すごく理不尽なものを感じてしまうあたしだった。
 先輩はあたしの怪我を心配してあれこれ声をかけてくるけれど、それもほとんど耳に入ってこなかった。だんだん現実感が希薄になってくる。
 メンバーはこれで全部? いや、そんなはずはない。
 ステージをぐるっと見やる。見たところ、このバンドにはキーボードはいないようだった。
 ならドラムは……? 思って後ろに目をやるが、ドラムセットの位置にも人はいない。まさかドラムのいないバンドなんてないはずだけれど……。
 不審に思って舞台袖に視線を投げた。期待のこもった瞳でこちらを見る伶と目が合った。
 そして、美貌の隣にもう一人の影。あたしたちをここまで連れてきてくれた、大型バイクの女性だった。ああして立っていると、伶より小さいのが見て取れる。たぶん百六十ちょっとしかない。
 女性は、舞台袖で赤いライダースジャケットを脱ぎ始めた。その下から現れた服装を見てあたしはギクリとする。あれはウチの女子の制服……。
 それ以上見るのが怖くもあったけれど、目が離せなくなっていた。女性はメットをゆっくりと外してから、顔にまとわりつく髪をほどくように首を振った。肩口で綺麗に揃えられた黒髪が流れるように広がって、白い面差しが露わになる。
「れ、蓮華先輩……」
 このショックは強烈すぎた。蓮華先輩のおしとやかなイメージが……。ちょっと俯いて喋るボソッとした口調が……。そのほかありとあらゆるものがガラガラと音をたてて崩れていく。
 バイクに乗ると人格が変わる人なのだろうか……。というか大型バイクは十八歳にならないと免許が取れないのでは? そもそもあの華奢な体のどこに大型バイクを振り回すパワーが?
 疑問がぐるぐる回ってふらつきそうだったけれど、驚愕はそれだけじゃ終わってくれない。
 蓮華先輩はメットを伶に預けると、いつもの音をたてない歩みでしずしずとステージまで出てきたのだ。途端、会場の男どもが「ウオオオ!」と獣のような呻りを上げる。
 嫌な予感がする……。というかこの予感、外れる余地がないだろう。
 そしてあたしが思った通り、蓮華先輩はちょこんと可愛らしくドラムの前に座った。スティックを取って、手に馴染ませるようにくるくると回す。
 信じたくなくて、あたしは頭を抱えて首を振った。ピアノが似合う美少女はどこへ……。
「スミレクン、開いた口が塞がらないって顔だネ」
 ニコニコと、愛想よくキザ先輩が話しかけてきた。その表情は、驚くあたしを見て明らかに楽しんでいる。
「蓮華クンは打楽器の申し子なんだヨ。ウチのリーダーは健吾クンだけど、演奏の要は蓮華クンなのサ」
 確かに蓮華先輩は、自分を声楽部員だなんて一言も言わなかったけど、でも。
「じゃあ、あのピアノは……?」
「ピアノだって打楽器の一種だヨ。彼女にとってはピアノの演奏もドラムの訓練の一環らしいネ」
 だからか。だから「ピアノが弾けなくなったら」という質問にオルガンじゃなく、木琴をやるという答えが返ってきたのか。オルガンは打楽器じゃないから。
 なんていうことだ……。まさかマキシマム・レベルのメンバーが全員顔見知りだったなんて。しかもその顔ぶれたるや、全員が全員、これでもかというくらい意表を突いてくる。
「さあスミレクン、まさかそんな姿でくるとは思わなかったけど、いよいよ新ボーカルのお披露目だ。幸運を祈るヨ」
 見とれるほどの笑顔を残し、キザ先輩はステージのやや後方に下がっていった。親しげに会話をしていたように見えたらしく、客席の女子たちから妙に圧力のある視線が飛んでくる。
 客席から騒音が消えつつあることにあたしは気づいた。メンバーが全員揃ったことで、いよいよ演奏の開始を待つ空気になりつつあるのだ……。
 あたしはこわごわとマイクスタンドに歩み寄って口を添えてみた。
『あー、こほん』
 なんとなく出した声がスピーカーから思いきり増幅されて聞こえ、思わず肩を縮めてしまった。もうスイッチ入っていたのか。
 客席からいくらかの笑い声が聞こえて、顔が熱くなるのが自覚できた。
『あの、えと、皆さん初めまして……。こんなカッコですいませんです……』
 曲の前って、なにを言えばいいんだろう。さっさと演奏に入ってもらえばよかったのだろうか。わからないが、もう喋りだしてしまったんだから挨拶を済ませるしかない。
『一年の山咲スミレといいます。その……あたし、前は声楽をやってたんです。すごく一生懸命やってました。歌うことが大好きでした』
 あたし、なにを口走ろうとしているんだろう……。わからないけれど、とにかく口が動くに任せることにした。
『でも、あたしには声楽は向いてませんでした。本来声楽の歌い方は喉に負担なんてかけないんですけど、それでもあたしの喉は痛んでしまいました。あたしは自分の喉のことに少し無頓着だったけど、傷んでることに気づいてくれた人がいました。その人はあたしから、無理矢理に声楽を奪いました。恨みました。その人のことが大嫌いでした』
 会場に戸惑いが生じてくるのがわかった。あたし自身が自分の言葉に戸惑っているんだから当然かもしれない。
『医者からも声楽を禁止されたあたしは、歌が好きだっていう心さえ消してしまおうとしました。でも、それを止めてくれたのは、あたしから声楽を奪った人でした。そしてその人は、あたしがまだ、歌えるんだってことを教えてくれました。声楽はもうできないけど、歌はまだ失われていないんだって、気づかせてくれました』
 そのとき、あたしは唐突に自分が言いたかったことが理解できた。
『あたし、歌が好きです。一度は忘れかけた気持ちだけど、やっぱり忘れられるわけなんてありませんでした。こんなボロボロのカッコになるまであがいて、ようやくその気持ちを取り戻すことができました。だから……歌わせてください。あたしの恩人と、あたし自身の偽れない気持ちのために』
 ゆっくりと、あたしは頭を下げた。人に対してこんな素直な気持ちで頭を下げたのは、生まれて初めての経験だった。
 客席から拍手の波が押し寄せてきて、不覚にもあたしは目頭が熱くなるのを感じてしまった。ダメだ。泣くのはまだ早い。マキシマム・レベルのステージはこれから始まるんだから。
 やがて拍手の波が引いていくと、絶妙のタイミングでギターのイントロが始まった。昨日の晩から何度も聴いたメロディライン。だけど打ちこみの音とは明らかに質も音圧も違っていた。
 九太くんと健吾先輩が、あたしの左後ろでギターの旋律を生んでいる。アンプが増幅する音量にも驚いたけれど、それより音質と二人から感じる熱い風に圧倒された。
 凄い。これが生の演奏――。決して速くも激しくもないイントロなのに、なんて熱量だろう。魂がじわりじわりと火に炙られる。そんな音色があたしの背中を押していた。
 すぐにキザ先輩のベースも加わる。どんな艶めかしい音を出すのかと思ってたけれどとんでもない。堅実で、ギターの旋律をリズムで支える演奏だった。
 弦楽器による三重の音色が一瞬停止――
 そうだ。ここから一拍の呼吸を置いてから本演奏――
 ――来た!
 刹那、背後からのオーラに全身が総毛立った。かと思った次の瞬間、あたしは圧倒的なエネルギーに突き飛ばされ、つんのめって転びそうになった。
 実際に誰かに押されたわけじゃない。音と、音を操る奏者のエネルギーに押されたのだ。
 こんな迫力、いまだかつて味わったことがない。思わず蓮華先輩を振り返った。
 先輩は、表情の乏しい顔にちょっとばかりの笑みを添えて、ドラムにスティックごしのエネルギーを叩きつけていた。足元はここからでは見えないけれど、ベースドラムからはペダルを蹴りつける力の強さが、生きた音として聞こえてくる。
 華奢な体からは想像できないパワフルな演奏だった。キザ先輩がマキシマム・レベルの要と評したのも頷ける。
 今までに経験のない小気味いいテンポ。圧倒的な音圧があたしのおなかを底のほうから焚きつける。体の奥底からなにか、得体の知れない熱いものが噴き上がってくる。まるで、お腹の中からマグマが湧き出てくるみたいだった。
 あたしは、この演奏に匹敵するような歌声をだせるんだろうか……。なるほど、ボーカルを潰すというのも頷けるくらい強烈な演奏だった。曲自体はミドルテンポなのに、魂がひどく鮮烈に揺さぶられている。
 けど、不思議と迷いはなかった。そもそも今さら二の足を踏んでいる時間もない。いよいよボーカルが加わるパートがやってきた。ええいままよ!
 あたしは演奏に導かれるように、ありのままの声をマイクにぶつけた。

  『遠い約束 覚えてる? 二人で叶えようと誓った
   光が差していたよね 笑い合ったよね
   スカイブルーの天井が あたたかな夢 叶えと言った――』

 歌い出し、聴衆たちは一瞬だけあたしの声を見定めるように動きを鈍らせ――そしてすぐに悲鳴と聞き違うような歓声をよこしてきた。驚きと興奮がない交ぜになった、うねるような大音声だった。
 驚いたのはあたしも同じだ。いや、自分の声だけど、他の誰よりもあたしがたまげていた。これが、あたしの声……?
 なんて荒々しい歌声。かつての澄んだソプラノとはまったく質の異なる、自身の存在を前へ前へと主張していく力に満ちた声だった。本当にこれでいいんだろうか……?
 ちょっぴりすがるような気持ちになって、あたしは歌いながらメンバーたちに視線を送った。
 返ってきたのは人数分の笑顔だった。九太くんは子どものように嬉しげに。健吾先輩は見守るように穏やかに。キザ先輩はウインクとともに爽やかに。蓮華先輩は控え目に、だけど瞳に優しさを乗せて。みんな楽しそうに演奏していた。
 舞台袖の伶も、いかにも誇らしげにあたしのことを見ている。
 そっか……。いいんだ。あたしはここで歌っていいんだね……。

  『とても似てる夢 でもちがう夢 だから道も途中で……
   前を歩くのはどっち 寄り添った道 だけどちがう道
   きみはどこ――』

 ギターがあたしの歌を引っ張り上げて、ドラムが後押ししてくれる。軌道が逸れそうになると堅実なベースが頼もしく支えてくれた。
 そうして高められたあたしの歌声が力強さを増していき、逆に演奏をリードするまでになる。すると今度は、あたしが導いた演奏がさらなる厚みを加え、ボーカルを一層の高みへと連れて行ってくれる。
 歌が演奏を呼び、演奏が歌を呼ぶ。相乗効果が折り重なって、バンドは会場を巻きこんだ一つのうねりへと育っていった。
 これでホントにあたしの喉が保つのか。かすかによぎった不安もすぐに自分の歌声で吹き飛ばした。
 今はひたすらに盛り上がっていたかった。歌はずっと好きだったし、声を出すのは常に楽しかった。だけど、こんなふうに興奮を味わうのは初めての経験だった。
 客席との一体感がある。みんながついてきてくれている。歌うのが楽しかった。嬉しかった。そして曲はボルテージを層倍させていく。

  『私 歌が好き! 歌が好き! 歌が好き!
   あきらめるなんて知らない きみもそうでしょう
   空は 今日も青い! いつだって! だれにでも!
   みんなに同じに照らしてる きみもそうでし――』

 サビを歌い上げ、間奏に入る直前だった。
 異変にどれだけの人が気づいただろう。間奏に入ったところで客席の中でちらちらと落ち着きを失った動きをする人たちが見えた。首をひねったり、不審げに隣の友人に話しかけたりしている。
 この調子じゃ、間奏が終わるころには会場中に異変が知れ渡ってしまいそうだ。
 舞台袖を窺えば、軽音部員たちが急にせわしげになって走り回っている。ずぶ濡れのまま立っている伶も、心配そうに部員たちになにかを指示しているみたいだった。
 メンバー間で交わされるアイコンタクト。にわかボーカルのあたしにも、九太くんたちのメッセージはひしひしと伝わってきた。
 ――落ち着け。メンバーたちはそう言っている。
 さすがと言うべきか、マキシマム・レベルのみんなは精神的にもタフだった。演奏にはそよ風ほどの揺らぎもない。それどころかますますボーカルを励まして、会場を熱気へと導こうとするようだ。
 あたしはスタンドからマイクを引っこ抜いて、軽く爪で叩いてみた。
 ダメだ。やっぱりなんの反応もない。間奏寸前にちょっとだけ歌声が途切れたのはこれが原因だ。マイクが音を拾ってくれない。
 間奏は、九太くんのソロに移っている。もう、次の歌い出しまでそんなに時間がない。
 こんなときに故障なんて! 右手でぎゅっと握りしめたマイクに、髪からしたたった雨滴が落ちた。その瞬間になってあたしは、マイクに凹みがあることに気がついた。まるで硬いなにかに思い切り叩きつけたような――
 閃光のように、急に記憶が甦る。
 このマイクはもしかして! ボーカルオーディションの日、あたしは視聴覚教室に駆けつけて伶に会った。そこで彼女にマイクを投げ渡されたのだ。それをあろうことか、あたしは力一杯投げつけて机にぶち当てたのだった!
 そうだ! これはあのときのマイク! ということは今、ここでこうして故障しているのも全部あたしのせいってことだ。
 後悔先に立たずとは言うけれど、まさか因果がこんなところに巡ってくるなんて!
 思わずステージ上だということも忘れ、頭を抱えてしゃがみこみそうになった。しかしギリギリの自意識と演奏の励ましのおかげで表面上は平静を装うことができた。
 でも、どうしよう。演奏を中止して、マイクを換えてもらうか? 普通ならそうするべきだろう。このままじゃボーカルのパートがきてもなにもできないわけだから。
 けど、みんなの演奏をこんなところで止めたくない。伶が実現させたこのセッションに、不要な水を差したくない。なにがなんでも歌い続けたい!
 愚かな選択? だって、マキシマム・レベルは最高の演奏をしているじゃないか! この演奏を途中で止めようなんてヤツがいたら、あたしはそいつのほうが異常だと思う。きっとそいつは血の代わりに液体窒素が血管を流れているに違いない。
 見たところ、マイクが復旧する気配はなさそうだ。だったらあたしはマイクなしでも歌う! 歌声は届かなくなるかもしれない。だけど、この燃えまくった魂を代わりに届けてやる!
 あたしは右手に持ったマイクを後方に投げ上げた。マイクスタンドを蹴って視界から排除する。マイクなんて始めからなかったと思えばいい!
 ところが、放り捨てたマイクが向かう先がチラッと視界に入ってしまった。それは、ちょうど蓮華先輩のドラムのほうへと落ちていく。
 しまった! と思った次の瞬間、蓮華先輩の操るスティックが稲妻のように宙を疾った。
 哀れにもマイクの黒いボディは瞬時にして粉砕され、内蔵部品を撒き散らしながらドラムセットのさらに後方へと吹き飛んでいった。
 それをパフォーマンスと受け取った観客たちが地鳴りのような雄叫びを上げた。
 蓮華先輩が、一瞬だけ楽しげに口の端を上げたように見えた。
 九太くん、健吾先輩、キザ先輩、蓮華先輩が、力強い視線をあたしに送ってきている。決断を要求する視線だってことはすぐにわかった。演奏を中止するなら、あたしがその指示を出せということなんだろう。
 答えはとっくに決まっていた。
 もう、間奏が明ける。あたしは肉声のまま、精一杯の情熱を乗せて腹から脳天へと歌声を昇らせた。
 届けあたしの魂! 伶の想い! メンバーの情熱!

  「いつでも前を向いてるね だから素直に言える 頑張れ――」

 演奏に遠慮なんて微塵もなかった。みんな精一杯の演奏を講堂内に轟かせている。
 ホントなら、あたしの歌声なんてかき消されてしまうはずだった。
 なのに、自分の歌声がホールの壁や天井にはね返ってあたしの耳に確かに聞こえる!

  「競ってばかりいたよね それが自然だね
   ダイヤのようなお日様が 向かうべき道 示してくれた」

 やっぱり聞こえる! あたしの肉声が講堂の隅まで間違いなく届いている!
 自分自身の歌声が、体内を伝わって雷鳴のように全身を打つ。鼓膜だけじゃない。頭蓋が、神経が、全身の細胞が震動している!
 頭の中に巨大なスピーカーをねじこまれたように、荒々しくも熱くまっすぐな歌声が体内に満ちている感触。
 自分の歌声だということも忘れて、あたしは体に満ちる音楽に高揚していった。

  「二人足跡が ここをさかいに それぞれのお日様へ……
   きみが目指すのはどっち 一緒に見たい いつか交わる
   気がしてる」

 まだまだ演奏は圧力を増していく。あたしはそれに押され、どんどん密度ある歌声を紡いでいく。そうして押し上げられた歌声が、今度はみんなの演奏を導き、音楽は一つの嵐となってホールを吹き廻る。
 まるでハウリング現象のような、収束のない相乗効果。
 お腹の底から魂が高ぶって駆けのぼってくるのを感じる。その高揚が、会場中に伝播していくのがあたしには確かに知覚できた。バンドのメンバーたちだけじゃない。伶、軽音部員たち、会場であたしの歌声を聴いてくれている観客たち、会場内のすべての人たちと五感が共振し、同じものを感じている。
 この瞬間、間違いなくあたしはすべての聴衆と一体化していた。
 あたしが感じているものが、そのままみんなに波となって広がっていく。体内を伝わる自分の声と鼓動、あたしが外から持ちこんだ外気と雨の匂い。そして体から立ちのぼる汗の匂い。全身で受けている演奏の音圧とオーラ。すでに熱気で湯気すらあげているパジャマの重い感触。あたしの目に映る太陽のごときスポットライト。
 それらすべてが、歌声を通して会場中に伝播していく。みんながみんな、あたしとまったく同じ高揚を味わっていた。

  「私 歌が好き! 歌が好き! 歌が好き!
   だから決めたの 歩くって きみもそうでしょう
   雲の 切れ間から! スポットライト! そそぐから!
   走りだせるね私たち だから行きましょう」

 なんて……なんて幸福な時間なんだろう。
 世の中にはこんな歌もあったんだ……。
 あたしは歌が好きだった。歌はあたしのすべてだと思っていた。けど、そんなのは狭い世界しか知らない子どものたわごとだった。歌が好きだったことは嘘じゃないけれど、なら、あたしは歌のなにを知っていたっていうんだろう。
 この世にこんな歌があることも知らなかった。そして、まだまだ、もっといろんな歌が世界には存在しているに違いない。
 その一端を目の当たりにして、これまでより少しだけ深みを増した言葉で言える。
 やっぱりあたしは歌が好き。
 この「好き」を、もっともっと歌に乗っけて伝えたい。

  「道が交差する 二人また出会う……」

 ここでがらっと静かに通る声を出して、余韻を持たせたフレーズ。
 あとは再び熱く、サビを繰り返して曲は収束していく。
 ここまで歌い上げて、あたしはやっと、この曲の作詞をしたのが誰なのかに気がついた。家で二百回以上も聴いたときにはわからなかったのに。
 あたしは左後方に視線を投げて、面立ちに幼さの残るギタリストを見た。九太くんは汗を額から散らしながら、佳境に入った演奏に気持ちよさそうに没頭している。
 あの猪みたいにまっすぐな男は、客に伝えるばっかりで、自分は詩にこめられたメッセージなんて理解できていないだろう。
 苦笑して、あたしは視線をさらに先へと向けた。
 そこには、舞台袖からマキシマム・レベルを見守る伶の姿があった。雛の成長を見守る母鳥みたいな瞳で、伶は九太くんの演奏を見守っていた。視線はそれから、各々のメンバーへ。
 最後にあたしと目が合った。
 あたしは、あんたの想いをちゃんと歌に乗っけられただろうか。
 目線だけで笑みを送って、あたしは意識を曲に戻した。
 残りの歌詞を、あたしは可能なかぎり丁寧に、かつ荒々しく講堂の客とメンバー、伶たちに捧げていった。



終章 うたのたね♪

「うおおおっ! オレたちやっぱ最高だぜ! なによりあのボーカル!」
「九太ちゃん静かに! 保健室の前なのよ」
 扉越しにそんな声が聞こえる。子どもを叱るような伶の声だって十分大きい。
 ライブのあと、あたしと伶は濡れた服を着替えさせられ保健室へと連行された。伶は自分のジャージを、あたしは蓮華先輩から借りたジャージを着た。蓮華先輩も小柄だが、それでも袖や裾が余って着心地が悪かった。また、ジャージの下になにも身につけていないというのも微妙にあたしを心細くさせる。
 伶は手当てが終わったので、今は退出してメンバー達と一緒にあたしを待ってくれている。
 あたしはどうして長引いているのかというと……
「ほら、しっかり口を開けとくんだよ!」
「おえぇ……」
 姉実先生のお叱りに、ちょっと下品な返事を返すあたし。
 今は歯医者さんが使うみたいな小さい鏡で喉の奥を観察されており、つい喉が反応してえづいてしまう。あたしの喉は、人よりちょっと反応が強いらしい。それで、さっきから姉実先生を苦戦させているというわけだ。
 ちなみに今日は、本来の養護教諭である妹さんが出勤してくる予定だったそうだ。なのに姉実先生が、放課後のライブ目当てに学校のほうにきたがったらしい。なんでも伶が昨日のうちに誘っておいたんだとか。
「ふう……」
 脱力の吐息とともに、ようやく姉実先生の手が、あたしの喉から鏡を抜いてくれた。
 安堵のあまり深呼吸を繰り返す。保健室の空気がこんなにおいしく感じる日がこようとは。
 深呼吸の最中、ふと気づけば姉実先生は腕を組みながら首を振り、苦笑していた。今日も白衣の下は刺激的なファッションなので、腕など組まれるとたわわな実りが強調されてあたしにとっては嫌味にさえ見えてしまう。
「信じられないな、山咲さん」
 先生は、どこか呆れたような口調であたしに告げる。
「尋常じゃない酷使を喉に強いたと思ったんだけど、まったく異常がない」
「え、ホントですか?」
 姉実先生の診察結果はかなり意外だった。
 一応覚悟はしてたのだ。去年のオーディションでマキシマム・レベルは参加者の喉をことごとく潰しているわけだし、神音使いの伶すら一曲で炎症を起こしてしまうほどだから。
「むちゃくちゃに見えても、あれがあんたに適した歌い方ってことなんだろうね。神音を発声したときにはあたしも驚いたよ」
「は? 神音?」
 なに言っているんだろう。今日、伶はステージに立っていないのに。
「まさか気づいてないのかい? 自分が神音を発声してたことに」
 姉実先生とあたし、双方が怪訝な表情で相手を窺いあう。ちょっと間の抜けた表情で互いを見つめ、しばらく経ったころ姉実先生が噴き出してケタケタと笑い始めた。
「あの、先生?」
「呆れた、とんだ神音使いだよお前さんは」
 神音使い? あたしが?
「間奏明け、マイクを放り捨てて歌い始めたあとからさ。あんたの歌声は間違いなく神音だったよ。会場が一体になったあの高揚感、間違いないね。さしずめ高揚の神音使い……といったところかね。音無さんがいいボーカルが入学したって喜んでたのも頷ける」
 あたしが神音を……。でも、実感がちっとも湧いてこなかった。確かにステージでは聴衆たちとの一体感を強く感じはしたけれど、あれが……?
 そして伶は、あたしが神音使いであることを見抜いていたと? 確かに伶自身も神音使いだし、どうやら以前からあたしの歌を聴いたことがあったみたいだけど……。そこであたしの本来の歌い方に気づき、ボーカルに誘ったということか。
 なんとはなしに、ドアのほうへと目を向けた。あの向こうに伶がいる。あたしを生かしてくれた恩人が。そう思うと急に照れくさくなってくる。
「あれ、これは」
 そばの丸椅子に伶の鞄が置き去りにされていた。鞄の脇には財布に携帯、定期入れまである。思ったほど濡れてなかったようだけど、念のために鞄から出しておいたらしい。
 それにしてもあれだけ必死に追いかけた鞄を忘れたままで出ていったなんて、落ち着いているように見えて意外と抜けたところもある女だ。
 あたしの視線に気づいたんだろう、姉実先生が伶の荷物をまとめてあたしの胸に押しつけた。
「ほれ、素敵な先輩のところに帰ってやんな。あたしは煙草が吸いたくてたまんないんだ。歌手の卵の前じゃ吸えないだろうが」
 この前は平気であたしの前で吸っていたくせにそんなことを言う。
 先生はさっさとあたしを立たせ、保健室から押し出そうとする。その拍子に抱えた荷物から定期入れが落ちた。
「もう、出ていきますから押さないでくださいよ」
 頬を膨らませつつ定期入れを拾うと、それが裏返しになっていることに気がついた。
 普通ならそういうところにはの時刻表でも入れておくのだろうが、伶の定期入れは違った。
「これって……写真?」
 そう、写真だった。しかもそれは彼氏とかアイドルとかじゃなく、女同士のツーショット写真だ。片方は伶。そしてその隣で微笑んでいるのは……
「げっ、あたしじゃん」
 今よりいっそう幼い顔立ちのあたしが、伶の隣で笑っている。手には自身がリリースしたCD。写真の背景は、どこかのCDショップの店内だ。
 これはたぶん、CD発売記念でささやかな握手会をやったときのものだ。レコード会社の企画で、一回だけそんなイベントをやったことがある。CDを買ってくれた人と握手をして、そのうち何人かとは一緒に写真を撮ったりもした。その中に、伶がいたということか。
 そういえば伶は言っていた。「貴女のファンなのよ」と。伶は、こんなに昔からあたしの歌を聴いて知っていたのか……。そしてこの当時から、あたしの声楽に無理があることに気がついていたのかもしれない。もしかしたら、あたしに神音の素質があることも。
 だとしたらやっぱり、伶はいろんな意味であたしの恩人なのだ。色々あったせいでもう先輩として接するのは難しそうだけれど、少なくとも、もう魔女なんて呼べはしない。
 保健室を出ると、廊下に個性的な五人が立っていた。
 伶は九太くんとなにかを言い合い、キザ先輩が蓮華先輩を口説き、健吾先輩は黙って壁にもたれて瞑想中。そんな彼らが、あたしが保健室から出て扉を閉めると同時に歩み寄ってくる。ある意味ちょっと威圧を感じなくもない。
「おおっ! 検査はどうだったよ!」
「スミレさん、喉の具合は?」
「なんともないかい? スミレクン」
「大事ないか、山咲」
「山咲さん……喉は、大丈夫でしょうか」
 一斉に詰め寄られ、あたしはたじろいで閉めたばかりのドアに背中をぶつけそうになった。
 やっぱりみんな、自分たちの演奏で歌手が潰れていくことに罪悪感があったようだ。あたしが無事を伝えると、目に見えてみんなの全身から力が抜けていく。
 安堵の空気が場を和らげたのをきっかけに、あたしはずっと言いたかったことを口にした。
「みんな、ありがとう」
 たったこれだけ。でも、あたしはどうしても言いたかった。
「なに言ってんだ! 礼を言うのはこっちのほうだぜ! なあ先輩たち」
「そうだヨ、ボクたちはスミレクンのボーカルのおかげでようやくバンドとして誕生することができたんだから。ライブにきてくれて感謝してるヨ」
 キザ先輩がウインクしながら言うと、伶や他のメンバーたちも頷いた。
 彼らの気持ちを無下にしないためにも、あたしは頷きと笑顔をお返しに送る。性格はバラバラなのに気持ちいいくらいまとまった人たちだった。
「うん、でもね、やっぱりお礼は言いたかった……。あたしに歌うことを思い出させてくれたのは伶だし、歌の楽しさをみんなが教えてくれたから」
 その言葉を聞いて、みんながまた暖かく微笑んでくれた。リアクションがいちいち揃っているのを見て、やっぱり仲間なのだと実感できた。
「でさ、山咲はこれからどうすんだ? オレたちのメンバーになってくれんだろ?」
「そうだねえ……それも悪くないよね。『ファン』の期待にも応えたいし」
 言って、あたしは伶に鞄や財布を返してやった。一番上に定期入れを載せて。
 あたしが言った「ファン」の意味に気づいたんだろう、伶は少し耳を赤くして、ひったくるように鞄を受け取ると顔をそっぽに背けてしまった。
 意外と少女っぽい反応。今日はホント、伶のいろんな表情を見る日だ。
「でも、今は他にもいろんな歌を聴いてみたいな。あたしは今まで声楽にしか耳を傾けてこなかった。でも、他にもいろんな歌があって、きっと、どれもみんな楽しいんだろうなってことに気がついちゃったから。みんなと一緒に音楽やりながら、そういうこともできたらいいなって思ってる」
「そっか、やりたいようにやるのが一番だと、オレは思うぜ」
「そうだネ、スミレクンはまだ、咲き始めたばかりの花だからネ」
 相変わらず、キザ先輩の言い回しがキザっぽいので笑ってしまった。それに乗って、珍しく健吾先輩まで口を挟んでくる。
「山咲の場合は、まだ芽が出たばかりだろう。修行次第でどんな花にも成長できるはずだ」
「健吾クンは厳しいネェ。あれだけ歌えて、まだ花と呼べな――」
「山咲さんは……種だと思います。音無さんによって蒔かれて……世界に産声を響かせるのを待っている、歌の種」
「蓮華クンは詩人だネェ、ロマンチックな女性は、とても素敵だと思うヨ」
 さりげなく口説きモードに移行しようとしたキザ先輩の耳を、伶が引っ張って黙らせた。あたしが笑うと、ちょっと情けない顔でキザ先輩も微笑んだ。そうしてみんなが、人のいない廊下で、教師に見つかって小言を言われるまで笑い合った。
 歌の種、か。悪くない。種という響きには可能性を感じる。これから、どんなものにだってなれる。いろんな可能性を秘めた種。
 それが歌の種だ。あたしがそんな存在だというのなら、やっぱり様々な楽曲を積極的に聴いていきたい。そしていつか芽吹き、世界に山咲スミレという名の花を見せつけてやるんだ。
 今日がそのスタート。歌の種が蒔かれた日、だ!
      ♪
 ちなみにバイクを壊したことがバレてお母ちゃんに半殺しにされたのは、また別の話である。


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●感想
一言コメント
 ・終盤の熱さは異常です!
 ・私も歌が好きなのですが、声楽なので今度いろんな歌を歌ってみたいと思いました。
 ・ラストの演出が秀逸! 思わず感情移入して読んでしまいました。
 ・面白かったですよ、これから塾んなのに。
 ・怒涛のラスト! もうたまりませんでした。歌ってみたい! という気分になります。
 ・前半のかったるさを吹き飛ばす、エネルギーあふれるクライマックス。
 迂闊にも涙が出そうになりました。とても楽しませていただきました。
 ・一気に読めてしまった。とても楽しめました。
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