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サティを聴きながら

 私が最初にその葉書を見つけられたのは偶然だった。結婚準備の為に、たまたま実家に帰省していたから。葉書の差出人は菱沼 総一郎。心当たりのない名前をいぶかしんだ。でも、その裏に書かれた訃報はサチ婆――祖母のものだった。
 サチ婆との記憶は十歳で止まっている。もう十八年も昔のこと。けして派手な人ではなかったけれど、立ち居振る舞いや表情に女性特有のしなやかな魅力を感じさせた。でもピアノを弾いているときだけは、どこか遠くを見つめて少女のような表情もしていた。弾くのはいつも同じ曲。E.サティの『ジュ・トゥ・ヴー』だった。本当は仏語らしいけど、私はサチ婆のカタカナ発音で覚えている。緩やかなメロディと透明感に満ちた音色は幼い私まで幸せにしてくれた。まだ世界は何の矛盾もなく、全てが理路整然としていると信じていた頃のことだ。
 葉書を持って居間に行くと、サチ婆に面差しが似てきた母がテレビを観ていた。
「お母さん、手紙――」
 私はそこで言葉を切った。言うべきかどうかの一瞬の逡巡。でも、すぐに言葉を続けた。どんなに辛くても知らなくていいことなんか、この世には一つもない。
「はい、手紙。お祖母ちゃんの訃報だった」
 一気に剣呑な空気が辺りに満ちる。案の定、私が差し出したソレを母は引ったくり、ありったけの憎悪をぶつけるようビリビリに破いてしまった。破り終えた後に声を荒げながら、
「あんな人のこと、いまさら知らないわよ!」
 そう言って、居間から出て行った。私はその場に捨てられた紙片を集め、サチ婆から貰った御守袋にしまいこんだ。
 仕方ない。サチ婆は家族から憎まれている。だって――駆落ちしたんだから。
 それは本当に突然のことだった。私が十歳のときに祖父も私たち家族も捨てて彼女は駆落ちした。家族は青天の霹靂という感じで大騒ぎ。口々に、何の不満がだの、あの真面目な人がとか、世間体が悪いと漏らしていたのを覚えている。以来、祖母のことは我が家のタブーになった。
 私は自分も捨てられたことは悲しかったけれど、同時に納得もしていた。ピアノを弾きながら彼女はいつも遠くを見ていたから。あれは、ここに想い人がいなかったからなんだ。あの幸せそうな笑みは特定の誰かに向けられていたものだった。それから、少女のようなサチ婆の恋心も。
 もちろん、何のわだかまりも無く全てを受け入れることなんて出来ない。それは今でもそう。でも、私はもう知ってしまった。この世界は決して、誰も何の間違いも犯さずに生きられる所ではないということを。みんな少しずつ何かを間違えながら生きている。その間違いが、時として誰かを傷つけてしまうことも……。
 三年前、私は会社の上司と泥沼の不倫劇の果てに別れた。別れるの別れないのと散々口論し、挙句は奥さんが会社に乗り込んできて、その場で修羅場を繰り広げた。結局、私は会社を辞め、彼は左遷された。ただ彼を好きなだけだったのに。最後は全てを傷つけあい駄目にする結果になった。しかし、最初に彼を好きだった気持ちに偽りはない。偽りはなかったが、もう今となっては、それを証明できるものもなかった。人の気持ちは変わっていく。
 自室に戻ると、そのままベッドに倒れこんだ。夕暮れを過ぎた仄暗い室内にまどろみを覚える。私は右手に持った御守袋を両手で包み、
「サチ婆ぁ……」
 と呟いた。なんだか、泣いてしまいそうな気分だった。

 次の日、私は実家の車を借りて出かけた。昨日の葉書に、サチ婆のお墓の場所が記載されていたからだ。もう初七日も済ませたと書かれていた。いまさら感傷に浸りたいわけじゃない。ただ、十八年もの空白と自分の気持ちにケリをつけたかった。それから――。
 その霊園は田んぼに囲まれた場所にあった。まだ青い稲の間をぬって、気持ちのいい初夏の風が吹いている。いくつかの古びた墓石が並ぶ中に、ま新しいお墓が一つ。それがサチ婆のお墓だった。建立されたばかりのそれには『菱沼家之墓』と書かれており、何だか実感が湧かない。周囲は綺麗に掃除され、菊やヒヤシンス、ロータスを束ねた仏花も新しかった。誰かがちゃんと墓参りに来ているらしい。その事実は、私を少し安心させた。
「サチ婆、来たよ」
 お線香を供えながら手を合わせる。硬く冷たそうな御影石は何も応えてくれないけれど、私の中に祖母との思い出が蘇ってくる。七五三で着物を着せてくれたことや誕生日には毎年ちらし寿司を作ってくれたこと、手を繋いで散歩したときの夕焼け……沢山のことを思い出した。それでも一番鮮やかなのは、縁側の近くに置いたアップライトピアノを幸せそうに弾いているサチ婆の笑顔だった。
「私ね、明々後日に結婚するの。とっても優しい人なんだ。私なんかには、もったいないくらいだよ」
 墓前で笑った顔はどこか嘘っぽかった。私はここに、家族ごっこをしに来たわけじゃない。サチ婆は昔、言っていた。『この世に、知らなくていいことなど一つもないの』と。だから私は来た。サチ婆が知らないことを伝える為に。
「昨夜――お母さん、泣いてたよ」
 見てしまったのだ。夜中に台所で一人、声を殺して泣く母の姿を。その手には、セピア色の写真が握りしめられていた。それは、いつだったか見せてもらった母とサチ婆が二人で写ったもの。母は嗚咽も声も我慢して、肩を震わせていた。何度も洩れ聞こえてくる「お母さん……」という言葉が、ただ切なかった。
「サチ婆のこと、お母さんは本当に好きだったんだよ」
 たぶん、家族の誰よりも。だからこそ、いつまでも憎んでいた。深すぎる想いが、裏切りを許しはしなかったんだろう。
 たまに私は思うときがある。この世界が、子供の頃みたいに全て理路整然としていればいいのにと。好きなら、その気持ちを素直に相手へ伝える。実にシンプルなことだ。でも、人間は単純に思えて実は複雑だから、心のままに想いを伝えきれなかったりする。昨夜、母が零していた涙は、そんな伝えきれなかった想いの結晶だったのかもしれない。
 私はゆっくりと立ち上がり、スカートの裾を払った。
「これだけ、どうしても言いたかったの。もう行くね」
 そう言って、その場を後にした。
 霊園の門扉の傍まで来たとき、こげ茶色のスーツを着た老齢の男性と会った。直感的に、この人が菱沼 総一郎だと確信した。向こうも気付いたのかもしれない。私たちは、お互いを黙って見つめあった。稲を揺する初夏の風が二人の間を渡る。私たちは何も言わず、ただ静かに礼を交した。サチ婆が愛した男性は、小柄な身体つきをした温和な瞳を持つ人だった。

 沈黙に心が震えるから、帰りの車中はカーラジオをつけていた。流れてくるクラシックは聴き馴染んだものばかりで気持ちを落ち着かせてくれる。
「……お送りしたのはショパンで『別れの曲』でした。では、次の曲を。次にお届けするのはエリック・サティの『ジュ・トゥ・ヴー』です」
 男性パーソナリティの言葉を聞くと、私はすぐに車を路肩に駐車した。まさか、こんな日に。何か運命みたいなものを感じた。
 低くて良く通る声が先を続ける。
「この曲は、アンリ・パコーリによって作詞されたものに、サティが曲をつけたシャンソンが原曲です。ジュ・トゥ・ヴー――Je te veuxとは『あなたが欲しい』という意味。
 ここで、その歌詞の一節をご紹介します」
 歌詞? そんなの私は知らなかった。サチ婆の弾くピアノしか知らない。
「思慮分別も遠くへ押しやり 悲しみなんかもはやない あたしは強く憧れている 二人で幸せなあのときを あなたが欲しいの
 あたしは少しも悔やまない 望みはたった一つだけ あなたの傍で すぐ傍のそこにいて 生涯を送ること――」
 パーソナリティはまだ何か喋っていたが、もう私の耳には届かなかった。この歌詞は、サチ婆の願いそのもののように思えた。こんなにも純粋で真っ直ぐな想いを、自分は抱いたことがあっただろうか。
 不倫相手と別れたとき、もう自分はこのまま死ぬんじゃないかと本気で思った。酒に溺れ、家に引きこもり、この世を呪った。けど私は別に死ななかった。ちゃんと失恋の傷は癒せた。図太く、また新しい気持ちで人生を歩み始めた。彼との時間を忘れることで。胸に巣くう想いをなかったことにすることで。
「……望みはたった一つだけ あなたの傍で すぐ傍のそこにいて 生涯を送ること、か」
 ハンドルにもたれて、誰に聞かせるでもない呟きが洩れる。
 私と違い、サチ婆は想いを貫き通した。不倫を良い悪いだけの二元論で言えば、悪いに決まっている。でも、ただ『人を愛する』という一点のみで考えたとき。サチ婆ほどの想いが私にはなかった。何もかも捨てて相手を愛し抜くことも、その想いを貫き通す勇気もなかった。三年も経てば、簡単に『過去』へと追いやれる。別の誰かと結婚してしまえる。その程度の想いでしかなかった。愛と勇気だけを選ぶことなんか、私には到底できはしない。
 人間は簡単に忘れる生き物だ。全てを『なかったこと』に出来る。それは仕事も家族も――恋さえも。けれど、その一方でサチ婆たちみたいな人もいる。愛と勇気がなければ出来ないことを、確かに選べる人間もいるんだ。
「サチ婆は……強いね」
 車内に流れるサティを聴きながら、溢れてくる涙を留めることが出来なかった。それは私の伝えきれなかった想いの結晶だったのかもしれない。
 この日、サチ婆を許そうと思った。わだかまりも葛藤もある。でも、ひとつ思い出したことがあった。自分は幼い頃、祖母が大好きだったということ。そして祖母も確かに自分を愛してくれていたこと。その思い出と自分の気持ちを天秤にかけたら、わだかまりに目を瞑れるくらいには、まだサチ婆が好きだった。
 暮れなずむ夕陽の中、サティを聴きながら亡き祖母を偲んだ。


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●感想
まゆさんの意見 2012年07月31日
 心が健康で、愛されて育った人なら、不倫をして「誰も間違えながら生きている」とは言わない。

 祖父との現実から逃げ、駆け落ちするサチ婆。
 既に自立し家庭もありながら、サチ婆に依存し執拗に憎しみを抱き続ける母。
 初七日も埋葬も済ませてから、葉書で訃報を知らせてくる菱沼の異様さ。
 登場人物がそれぞれ歪んでいながら、ナルシシズムに浸っている。
 真に愛情のある人なら、十八年の空白などとは思わないだろう。
 大切な人のことはいつも心にあって、相手との距離が離れているなら、心を繋ぐ行動を起こす。
 最後の場面で、私はサチ婆を許すと言う。私も間違えた人生を生きてきたのではなかったのか。
 ここで、私が美しい思い出を語りながらサチ婆を憎んでいたことが感じ取れる。
 私は自分の心にある矛盾に気づいていない。それは作者が本当の自分の心に気づいていないからではないのか。

 淋しい人は人生の決断を間違える。みんなが間違えるわけではない。


一言コメント
 ・これはいい。
 ・きれいなお話でした。おばあちゃんが熱い!
 ・涙腺にきました。
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