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「ありがとうございましたー」 ユエはカットを終えた女性客を店先で送り出し、その背中が見えなくなったところで再び店内に戻った。 右手の親指の付け根にくっきりと丸い跡が残っている。ハサミのハンドルの跡だ。それが仕事を終えた証拠のような気がして、ユエの気分は清々しく晴れ渡る。 「終わったぁ」 いかにもやり遂げました――というように額の汗を手の甲で拭おうとした瞬間。 「このボケがっ!」 丸めた雑誌が脳天に振り下ろされた。 「あう」 雑誌の角が当たったユエは、涙目になってその場にしゃがみこむ。打撃が加わった場所を押さえると、ずきずきと痛んだ。 涙目を上げると、そこには丸めた雑誌で肩を叩く青年が仁王立ちしている。 「なんなんだぁ? 今のカットは」 「な、なにか問題ありましたか……?」 ユエは恐る恐る青年に尋ねた。 青年の名前は芳人という。彼は三十路手前だが、色の濃い赤毛をしており、その一本一本が二回転するほどパーマを強くあてている。釣りあがった目の上には五センチほどの傷があり、攻撃的だ。 彼は霧吹きをまるで拳銃のようにユエに突きつけている。 「問題も問題。わかんねぇのかこの馬鹿め! テメェの目には問題を遮断するフィルターでも付いてんのか?」 そう言って芳人が霧吹きの引き金を引いた。発射された霧状の水を顔面に受けたユエは、ひゃあ、と間抜けな悲鳴を上げて尻餅をつく。その拍子に後頭部を店の扉にぶつけ、今度はそこを押さえる羽目になった。 「わ、私はちゃんと注文通りにカットを、しました、よぅ……」 ユエの言葉はどんどん尻すぼみになっていく。 この美容院『シザーズシスター』の見習いになって二年、美容師の国家資格を取って更に二年、こうやって幾度となく芳人に怒られてきたユエだが、彼女の弁解が聞き入れられたことはなかった。 だからユエの弁解は言い訳じみて尻すぼみになる。 「そうだな。ボブカットにしてくれって言われたんだっけ?」 「そ、そうです」 「うん。確かにヘアカタログどおりのボブカットだった」 芳人は腕を組んで頷いている。それを見て少しだけユエの表情が明るくなった。もしかしたら、初めてユエの弁解が聞き入れてもらえたのかもしれない――そう思った瞬間、今度は霧吹きを二回吹きかけられた。 「だからってカタログ通りにカットするんじゃねぇ! カタログに載ってる通りの長さにカットしたら、あの客の輪郭に合わなくなるだろ! なんか客の顔のサイズが増してたぞ。カットが終わったとき、俺がどんだけ『顔デカ!』って叫ぶの我慢したと思ってやがる」 知りませんよそんなこと――と言おうとしたユエだが、連続して霧吹きを掛けられるので、口からは間抜けな悲鳴しか出てこなかった。 「客の要望に応えるのはもちろんだが、少しは自分で考えろ! サイドのボリュームを抑えてやればどれだけよくなったと思う!」 「うう、すみません……」 ようやく霧吹き攻撃が止んだところで、ユエが口にしたのは謝罪だった。少しは反論もあったのだが、水攻めに近い攻撃をされてすっかりそんな気は失せてしまった。 ユエはびしょ濡れになった顔を拭う。前髪はペッたりと額に張り付いているし、シャツの襟元には染みがついていた。多大な霧吹き攻撃の被害を確認して、ユエは再び「うう」と鳴き声だか呻き声だかわからないものを漏らす。 「でも……カタログのカットお客さんの要望ですし……」 もごもごと、口の中だけでユエは呟く。 すると芳人は威勢よく鼻を鳴らした。 「はっ! そんなに他人の髪形を真似たけりゃカツラでもかぶってればいいんだよ」 「でも……」 ユエはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。 「カタログ歓迎。流行のヘアスタイルは便乗してなんぼ。だがな、それはあくまで『例』だ。他人にコピー&ペーストしたところで似合うワケはねぇ」 肝心なところでハサミの刃を閉じるのは、テメェのセンスで決定しろ――そう言われ、ユエは深くうなだれる。 「それはテメェのカットだけじゃなく、テメェ自身にも言えることなんだぞ?」 そう言って芳人の手が伸びてきた。ユエは何だか危険を感じて頭を抱え込もうとするが、それよりも早く芳人の手がユエの髪の毛を掴んだ。 「これだよ、これ」 ユエの髪を掴んだまま、芳人がその毛先を目の前でちらつかせる。 ユエの髪はキャラメルのような色をしており、ボリュームがある。髪は下に向かってくるくると螺旋を描いており、現在流行のヘアスタイルである『巻き髪』になっていた。 ――が。 「似合ってねぇ」 ずばりと芳人は言った。 そのヘアスタイルは、ユエの輪郭に恐ろしいほど似合っていない。しかもその巻き髪は下に向かうにつれて螺旋の幅を広げており、まるでヘビがとぐろを巻いているようだった。明らかにパーマを失敗したのが分かる。 「なんだこのヘビみたいな巻き髪は?」 「へ、ヘビってなんですか!」 ユエは髪の毛を掴む芳人の手を払うと、いじける様にして自分の毛先を摘んだ。カットしたのが他の美容師なら文句の一つも言えるのだろうが、これはユエが自分自身でやったものなので何も言えない。 「確かに……カーラーをまくのは失敗しましたけど……」 「パーマの失敗云々じゃねぇよ。そもそも巻き髪がお前の輪郭に合ってねぇ」 言われてユエは自分の頬を押さえた。ユエの顔は小さく、輪郭はまるで頬骨がないかと思うほど丸みを帯びている。卵型――というよりは球のような丸顔なのだ。だからこそ、巻き髪にすると無駄に髪が広がってしまい、頭でっかちに見えてしまう。 アンバランスだ。 「無理に流行の髪形にしようとするからそうなるんだよ」 ユエは押し黙る。 「とにかく、流行のコピー&ペーストはやめることだな」 「はい……」 頷いたものの、ユエは内心無理だと思った。客の要望に自分の意思を織り交ぜようなんて気持ちは起きてこない。たとえ「似合う髪形にしてください」と言われたとしても、その時はカタログから流行の髪型を選んでその通りにカットすることになる。 美容師としてユエは『表現者』ではない。 『再現者』なのだ。 「今日はもう閉店だ」 そう言うと芳人は店の正面のブラインドを下ろした。美容院『シザーズシスター』は店の正面がガラス張りになっており、カットしている姿が見れるようになっている。だが、店じまいする時にはブラインドが下ろされる。閉店時間まではまだ少しあるが、今日はこの後に予約客も入っていないので閉めるのだろう。 「お疲れ様でした……」 ユエは暗い声で言って立ち上がった。合皮製のシザーバックを腰から外し、鏡台の前に置く。これから閉店業務の掃除だ。ユエは用具入れまで行こうと一歩踏み出したが、 「待てコラ」 芳人に頭を鷲摑みにされ、引き止められた。強力な握力で頭を掴まれたユエは、無理やり元の位置まで戻らされる。 「な、なんですかあ」 「何のために一時間も早く閉店したと思っている?」 芳人の問いに、ユエの肩がビクリと震えた。見ると、芳人は不吉にいやらしい笑みを浮かべている。 「まさか……」 「ああ」 彼の両手は、わきわきと、忙しなく淫靡に動いていた。 「シャルロットを、やる」 ひぃ、とユエは悲鳴を上げた。 がたがたと震え始めたユエを無視し、芳人は店の奥へと入っていく。ユエがその背中に「やめてください、よしましょうよ」と叫んでも止まろうとしない。 やがて芳人は、木箱を持って戻ってきた。それはスニーカーの箱くらいの大きさで、黒ずんでいる。フタは皮ひもでぐるぐる巻きにされ、しっかりと縛られていた。 「さあやるぞシャルロット」 そう言って芳人は皮ひもを解き、木箱のふたを開けた。 その中にあったのは綿に包まれたアンティークドールだ。十七世紀の女性をモデルにした物らしい。セルロイド製の白い肌。青いガラスの瞳。癖など一つもない真っ直ぐな金髪の髪。胸元に編み込みが入った黒いドレスを着ている。光にかざせば透けてしまいそうな薄い唇が、妙に艶かしかった。 木箱に入れておくのはもったいないくらい、美しい人形だ。 ただ一点を除いて。 「ひいぃ!」 ユエが悲鳴を上げる。 木箱から取り出されたシャルロットの髪は、二メートル近くあった。彼女を包む綿に見えたものは、隙間なく収まっていた髪の毛である。 ちなみのこのシャルロットという人形、先日は肩口ほどまでしか髪の毛がなかった。 髪が伸びる人形なのである。 「シャルロット。今日はそこのヘビ髪の女がカットしてくれるぞ」 芳人はそんなエピソードがあっても尚、平然としている。彼は鼻歌交じりでシャルロットの頭だけが背もたれから飛び出すように椅子に縛り付けた。 芳人は、この人形の髪が伸びることをいい事にカットの練習台にしているのだ。 彼はよく「マネキン買う金が浮く」といって十万円もするハサミをしゃきしゃき鳴らす。 「ほれヘビ髪。好きなように練習しろ」 「嫌です! 絶対に嫌です!」 ユエは店の隅に縮こまり、頭を抱えながら首を振った。 「シャルロットちゃんで練習すると絶対にその夜金縛りになるんですもん!」 「それはテメェのカットが気にいらねぇからだ」 「違う違う! 絶対に違います! 呪われているんですよ! 何回か人形寺に持っていきましたけど、『手に負えません』って速達で送り返ってくるんですから!」 「テメェ……勝手に供養しようとしたのか。髪をカットする前にテメェの給料をカットしてやろうか?」 「わ、わあ芳人さん。上手いですね……」 「うるせえ! とっとカットしろ! ハサミで鼻フックされてーのか」 芳人が自慢のハサミをしゃきしゃき始めたので、ユエは目尻に涙を溜めながら立ち上がった。 給料カットも鼻フックも嫌だった。 2 ユエは幽霊のように力のない足取りで帰路についていた。ハサミの握りすぎで右手が痛い。ただでさえ労働時間が不規則で、立ちっぱなしの仕事をしているのだ。おまけに呪われた人形の相手もしていては、肉体的にも精神的にも疲れる。 結局シャルロット相手にカットの練習をしたユエだが、結果は散々。人気の髪型を真似しようとしたら怒られ、映画の主人公の髪形にしようとしたら、ふやけるほど霧吹きを掛けられた。 最後には「ちゃんとテメェの判断で切れ!」と怒鳴られ、蹴りだされるようにして帰ることを許された。 「はあ」 ため息は夜の中でよく響く。夏の夜は湿っぽく、顔の横の巻き髪が暑苦しい。一歩踏み出すたびに揺れる横髪が、夏の熱気を絡め取ってユエに浴びせているような気がした。 切ってしまおうか――そう思ってヘアカタログの中身を思い返してみたが、今ショートカットは流行っていない。ユエは諦めた。 「疲れたぁ」 ため息と弱音を同時に吐く。 思い返すのは芳人の言葉。 「てめーの判断でハサミを鳴らせ……かあ」 そんなの無理だ。 お客の要望に答えずに、何が美容師だろう。 もちろん、客の要望を無視しろという意味でないことはわかっている。出された要望を、その客に似合うよう、自分のセンスで見抜いてカットしろということだ。 でも、できない。 指定された髪型にならないのならば、ユエは何もできなくなる。カットという物は、切ってしまえばやり直しが効かない。切ってしまえば元に戻るまで何日もかかるのだ。シャルロットの髪ようにはいかない。 自分のセンスで、そんな重要なこと――切れるわけない。 美を求めてリスクを背負うより、『客の要望どおり』という逃げ道があるほうを選んだほうが楽だし、確実だ。 だからこそユエは、美容師として『表現者』でなく『再現者』なのだ。 「無理だよぉ……」 ――と、その時。 「おーい。そこの巻き髪の人」 不意に声を掛けられ、ユエは周囲を見回した。 住宅街の中を走る十字路の一角。そこには一軒家ではない、奇妙な建物が建っている。 新しい住宅が並ぶ中で、その建物だけがレンガ造りのような概観をしていた。明かりが漏れる窓は黒ずみ、古めかしい。日本の中にそこだけヨーロッパの景色を貼り付けたような、奇妙な構図だ。 だが、建物の屋根に掲げられた看板の『小麦堂』という達筆な漢字が、辛うじて日本とその建物を繋ぎ合わせている。 「ちょっと、ちょっと」 声はその建物の前から聞こえてきた。見ると、店の前の椅子に誰か座っている。 その人物は妙な格好をしていた。黒いスラックスに黒いネクタイ、おまけに黒いベストを着ているので闇に溶けている。唯一白いシャツの袖だけがやたら目立つ。 「私、ですか?」 ユエは自らを指差しながら近づいていった。 椅子には、ユエよりも少し年上の青年が足を組んで座っている。切れのいいネコのような瞳をした青年だった。服装と同じく真っ黒な髪は濡れたように潤っており、艶がある。彼は口元に三日月状の笑みを浮かべると、ゆっくり立ち上がった。 ユエより少し大きい、百七十センチあるかないか位の青年は、笑みを浮かべたまま建物の扉を指差す。 「仕事帰り? ずいぶんとお疲れのようだけど、ウチの店で甘いお菓子でもいかがですかい?」 「はあ」 良く見ると、青年の格好はウエイターのようだった。彼はネコのような瞳を気だるそうに半開きにして、店の扉を指差したまま突っ立っている。客引きの割にはやる気のない顔だ。 「ここは……何のお店なんですか?」 「ああ、暗くて見えないか」 青年の指が、扉から屋根の上の看板に移動する。 先ほど見た『小麦堂』の文字の上に、小さく『洋菓子店』と刻まれていた。 『洋菓子店 小麦堂』。 「あまりに暇で閉店しようかと思ってたんだけど……どう? 本日のラストオーダーって事でサービスするよ?」 暇か否かで閉店を決定する――ということは、この青年はウエイターではなく経営者らしい。それにしては商売っ気がないように見える。半開きの瞳の所為だろうか。 (ここにお店あったんだ……) ユエは看板を見上げながら思う。この道は通勤路だが、今まで気づかなかった。……いや、気づいてはいたのだが、店とは思わなかったので目に入らなかったのだ。 ユエは少し考える。こういう店の話は、カットをしている時に客に振りやすい。明日の仕事の話題作りのためにも、入ってもいいかなと思った。 「じゃあ、お邪魔します」 「あいよ」 青年は頷き、扉を開けてくれた。 ドアにくくりつけられた鈴がからからと鳴る。 「わあ」 店の中は、外観以上に異国だった。広さはバスケのハーフコート程度。その狭い空間の中にテーブルが二つ。隅にレジらしきカウンターがあり、その奥にキッチンらしき場所が覗える。残ったスペースは、花瓶や食器などのアンティークが飾りつけられていた。 ドールハウスに入ったような錯覚を覚える。 「このお店は一人で?」 ユエは席に着くと、白いエプロンを腰に巻いている青年に問いかけた。 彼は「ああ」と言うと、メニューを持って近づいてくる。 「オーナー兼、ウエイター権のパティシエ。店が狭いから一人で全てまかなえる」 「それじゃあ、なんて呼べばいいか迷いますね」 ユエがそう言うと、青年は「そうさね」といって頭を書いた。 「常連さんは店の名前を取って『小麦堂』って呼んでるねぇ。はいよ、メニュー」 青年――小麦堂からメニューを受け取ったユエは早速それを開く。メニューは見開き一ページと少なかった。 そして、その一ページを見たままユエは固まる。 「……なにこれ?」 思わず声が出た。ユエはそのメニューに書かれていたモノを見て眉をひそめ、再度小麦堂の顔を見る。彼は猫目を開き、片手をテーブルに着いたまま首をかしげた。 「あの……これは」 「小麦堂の洋菓子さね。変かい?」 「変というか……」 珍妙だ。 こういう雰囲気の店の洋菓子というのは、『天使の〜』や『妖精の〜』など、抽象を通り越して飛躍した名前がつけられるものだが、この店の洋菓子にはそんなテイストは一切なかった。 ユエはメニューを上から読んでいく。 ――『犬舌ラング・ド・シャ』『年齢不詳のバウムクーヘン』『母の仇のダイジェスティブ・ビスケット』『貧乏人のフィナンシェ』『生命謳歌のブッシュ・ド・ノエル』―― メルヘンのかけらもない名前ばかりである。ますます珍妙だ。アンティーク調のこの店の中で、菓子名だけが浮いているというのはどういうことか。 「やっぱり、ちょっと変わってますよ」 「そうかい?」 「でも、食べてみたくなる名前ばっかりです」 珍妙、だからこそ惹かれる。ユエはもう一度メニューを上から見直した。ホールケーキ以外ならば値段も手ごろだ。 「うん?」 その珍妙な中で、ユエの目に一つの洋菓子の名前が留まった。文字の色も大きさも他の名前と変わらないのに、何故かその名前だけ括弧でくくられたように目立つ。 その名前は『流行遅れのプリン・アラモード』。 (変……) 名前が矛盾している。アラモードとは【最新流行の】という意味だ。それなのにこのプリン・アラモードには名前の前に『流行遅れの』がついている。 惹かれた。 どうしようもなく。 ユエの指が、自然と『流行遅れのプリン・アラモード』を指差す。 「これ……これを」 「あいよ」 小麦堂は伝票を書くと、返事といつの間にか用意した水だけを残してキッチンへと消えていった。 ユエは小麦堂の背中を見送ったあと、頬杖をつき、たまに思い出したように水を含みながら待つ。店内には一切BGMなどなく、微かにキッチンから水の流れる音などが聞こえてくるだけだ。あまりに静かで、ユエがグラスを置いた音さえ店の隅まで響く。 少しして、トレイを片手に小麦堂が帰ってきた。 「あい、お待たせ」 ユエの前にグラスカップが置かれる。 カップ上には薄い黄色をしたプリンがあり、それを取り囲むようにフルーツが並べられている。カラメルの黒艶が薄明かりに光っており、端にはサイコロのようなティラミスが添えられていた。 普通のプリン・アラモードだ。 「これが流行遅れ……?」 むしろ定番と言える。 「そうさね」 しかし小麦堂は頷いた。 「使ってあるフルーツは、全て数ヶ月前が旬の果物。味付けは甘みを抑えてあるけれど、これも一昔前の作りさね。おまけに添え付けのティラミスは昔流行したデザート」 「ああ、なるほど」 このプリン・アラモードはわざと時期がずれた作り方をしているのだ。 だから『流行遅れ』なんだろう――と納得する。 ユエはプリンにスプーンを差し込んだ。計算された色彩の中に、銀色の不純物が混じる。それでもってプリンの一角を削り取り、ゆっくりと口の中へ運んだ。 瞬間。 「美味しい」 ユエは感嘆の声を上げる。 口に近づけるごとに香ってくる卵の香り。それを口内に含み、舌で潰すと少し苦みばしったカラメルの味がする。プリンの弾力を潰そうとすると、空気をふんだんに含んだきめ細かい生クリームも一緒に潰れ、くしゃ――という小気味のいい音が聞こえてきた。 不思議な食感だ。プリンは口に含むと弾かれそうなほど弾力があるのに、いざ潰すと液体のように流れてしまう。味わうよりも、次の一口を食べたくなる味だ。 「美味しい?」 小麦堂はテーブルに片手をついたまま聞いた。 「ええ、とっても」 「本当に?」 ユエは正直に言ったつもりだったが、何故か小麦堂は疑わしげに食いついてくる。そんな彼の態度にユエは首を傾げたが、もう一度同じ返事をした。 「美味いかあ、やっぱり、うーん……」 小麦堂は顎を撫でながら何かを考えている。美味いモノを美味いと言われて喜ばないわけはないのだから、やはり小麦堂の態度は妙だ。 「どうか、したんですか?」 「いや、いいんだ」 そうして小麦堂は、「サービスだよ」といってコーヒーをテーブルに置いた。 「いいんですか?」 「最初に言ったっしょ」 一口飲んでみると鋭い苦味がする。口の中から鼻腔を逆流して豆の香りがした。それでも、甘ったるいプリンにはこの苦味が合う。 つるつるとした食管のプリンは、どんどん口の中へ滑り込んでいく。気づけば、数分でグラスの上は生クリームの汚れだけになっていた。 コーヒーを飲み干したところでユエは席を立つ。 「ごちそうさま」 「どうも」 『小麦堂』のレジカウンターには立派なレジスターなどなく、簡易金庫が置いてあるだけである。会計を済ませたら、レシート代わりに社印を押した伝票をもらった。 「また来ますね」 そう言ってユエは店を出る。 一度振り返ると、やはり周囲の風景に合っていない『小麦堂』の洋菓子店。 プリンがゆっくりとお腹の中で溶けていく。 3 翌朝。ユエは陰鬱な気分のまま出勤の支度をしていた。 その原因は一つ。 (また金縛りにあった……) 今朝もシャルロットの呪いと思われる金縛りを体験し、泣きべそをかいたのである。 ユエは低血圧のため、朝に弱い。おまけにシャルロットの所為で更に辛くなっている。とりあえず着替えを済まし、相変わらず似合っていない巻き髪をセットしたところでリビングへと向かった。 ユエの両親は仕事柄、朝が早い。なのでリビングでは大学生の弟だけが朝食を取っていた。彼は朝から活気がみなぎっており、姉の姿を確認するなり右手を挙げてくる。 「おはよう姉ちゃん」 「おっはー」 やる気のない挨拶を返し、ユエは「よっこいしょういち」と大儀そうに椅子に座った。弟は甲斐甲斐しくお茶を入れ始める。 「姉ちゃん。朝飯、パンとご飯どっちにするよ?」 「銀シャリがいい……」 お茶をすすりながらユエは答える。 「銀シャリ……って、ああ。ご飯ね。姉ちゃん、なんで大戦後みたいなセリフ口走ってんだ?」 「へ?」 弟に指摘され、ユエは首をかしげる。まだ寝惚けているのか、ユエは今、自分がなんと言ったかわからなかった。 「姉ちゃん、もしかして疲れてる?」 「そんなことないよ。私はナウなヤングなんだから、仕事疲れなんか感じてられないよ。めちゃんこ元気だから、だいじょうブイ」 「……姉ちゃん、やっぱ変だぞ……」 弟は顔を引きつらせながら一歩後ずさりした。 「そんなバナナ。だから大丈夫だよ。お姉ちゃんはチョベリグでイケイケだから」 そう言ってユエは親指を立てた拳を突き出した。 ――固まる姉弟。 ユエはやっと今、自分が何を口走っているのか理解した。 「……あの」 「喋るな! 喋らないで……マジで」 弟は更に後ずさりする。彼の顔には明らかな侮蔑が浮かんでおり、驚愕も混じり、そして何よりも強い憐憫の眼差しを持っていた。 ユエは頭を掻きながら、無理やり笑う。 「わ、私ちょっと疲れてるのかな? イマドキ一般ピープルがこんな言葉使わないよね。おじんじゃあるまいし」 ユエは口を押さえた。 口が自分の意思とは関係ない言葉を吐き出している。――いや、口にした言葉が、勝手に別の言い方になってしまうのだ。 言葉遣いが全て、流行遅れの死語になってしまっている。 「いっ、いやあああああっ!」 ユエは悲鳴を上げ、椅子を倒して立ち上がった。頭を抱えて激しく首を振る。 「ど、どどど、どういうこと!? アバンギャルドなカリスマ美容師を目指す私がこんなイカレポンチな喋り方なんてありえないよっ! ゲ、ゲロダサだよ! 現代っ子の私がぁっ!」 もはや通訳が必要だ。 「お、落ち着け姉ちゃん! カリスマ美容師って古いから! それに『現代っ子』の言葉が流行った世代はもう四十過ぎてるから!」 弟は宥めようとするが、ユエはますます混乱する。 「の、呪いだあ……シャルロットちゃんの呪いだ。私の頭の中がタイムスリップしてるぅ……」 ユエはその場にしゃがみこみ、しくしく泣き出した。 「姉ちゃん落ち着けって」 弟に背中を撫でられながら、ユエはしゃくりあげる。 「今日は仕事休んで、家でゆっくりしてな」 その言葉を聞き、ユエは勢い良く顔を上げた。 「そ、そうだ! 仕事!」 ユエは慌てて時計を見る。時刻はいつもの出発時間を大幅に過ぎていた。 「だ、駄目よ! 今日は予約のお客さんが入ってるから休めないよ!」 ユエは自分のバックを抱えると、大急ぎで玄関へと向かった。 「早くしないとチンチン電車がきちゃう!」 「姉ちゃん女の子がそんなこと言っちゃ駄目っ! せめて市電とか言って!」 弟の声を背中で聞き、ユエは「アイアイさー」と、やはり死語で叫んでしまった。 4 『シザーズシスター』の前でユエは大きく深呼吸する。 気を抜けば口から死語が飛び出す。見知った顔ならばともかく、お客の前で口走れば――。 (私、アウトオブ眼中になって指名客いなくなっちゃうよ……) ユエは深呼吸の次にため息を吐き出した。こんな喋り方では、解雇されてしまうかもしれない。それだけは嫌だった。 ユエは覚悟を決め、店のドアを開ける。 「オ、オハヨウゴザイマス」 死語を口走らないよう、細心の注意をしながらユエは頭を下げる。店内にはすでに芳人がいた。 「おう。……で、なんでカタコトなんだ?」 「チョット、風邪ヲ引いテ……」 「風邪でロボ声にゃならねーよ」 芳人は後ろで縛った黒髪を掻き毟りながら呟く。 「――って、芳人さん!? 髪型変わってません!?」 「ん? ああ」 芳人は「今頃気づいたのか」というように半目になった。昨日の芳人はパーマのかかった短い赤毛だったが、今は黒くなっている。長さも後ろで縛れるほどだ。 「シャルロットに呪われたみてーだ。昨日モヒカンの練習台にしたのが気に食わなかったのか? ったく……人形の癖に妙な能力持ちやがって。作り主にクレーム入れてやる」 「わ、私も呪われましたっ!」 ユエは堪らず大声を上げる。 「あ、朝起きたら金縛りに合って、それで――」 「風邪をひいたのか?」 「いや、ちが……」 「出勤したんだから仕事はできるんだろ? 今日はテメェの指名客も来るんだ。仕事できねーとか言うなら給料じゃなくて首をカットするぞ」 弁解しようとしたユエの口が閉じる。 「どうなんだ?」 「や、やれます! あたりきしゃりきの、こんちきちーです!」 「……」 しまった――と、ユエの顔が見る見る青くなる。解雇という言葉に動揺して、つい注意がそれてしまった。 一瞬の沈黙は時計の秒針が動いた音で破られる。 芳人は特に興味なさそうにそっぽを向いた。 「ならとっとと開店準備始めるぞ。おら、とっとと掃除だ」 「は、はい!」 思いっきり安堵のため息を吐きたいのを我慢し、ユエは威勢よく返事をした。それからきつく下唇を噛んで口を開かないようにする。とりあえず今は、極力喋らないようにするしか解決策がない。 ユエは掃除用具を取り出すと、日課の掃き掃除を始めた。横目で芳人を見てみると、彼はユエの言動を気にする様子もなく、丹念にハサミやコームの消毒をしている。 態度は横柄な芳人だが、バカがつくほど美容師が好きなのが彼だ。衛生法に則って器具の消毒は欠かさない。以前ユエがうっかりハサミの消毒を忘れたときなど、無理やり全身を赤青白のボーダーにデコレートされ、一日中サインポール(床屋とかの前でくるくる回っているアレ)の真似をさせられた。 狭い店内は三十分ほどで掃除が行き届く。ユエはやはり無言のまま自分のハサミの消毒も終えると、小さく息を吐きながら待合客用のソファに身を沈めた。 この調子で行けば――とユエが行く末に希望を見た瞬間、芳人がスタッフルームからシャルロットが入った木箱を持って出てくる。 ユエはただ泣きそうな顔をした。 「おら、ヘビ髪。客が来るまで練習だ」 やっぱり髪が伸びているシャルロットをカット台に縛りつけながら芳人が言う。ユエはおずおずと挙手し、極力言葉遣いに気をつけながら口を開いた。 「あのー、芳人さん。呪われた昨日の今日ですし、その……シャルロットちゃんで練習するのは……」 「アホか。練習用マネキンだってタダじゃねーんだ。それで経費使えば、当然テメェの給料だって減る。安いハサミしか持ってない上に、研ぎ代で泣きべそかいてる奴が文句言うな」 ユエは反論できず、悲しげにうめいた。ユエの使っているハサミは安いから、割とすぐ刃が悪くなる。それを研ぐ代金は自腹だ。 仕方なくユエはシザーバックを腰に巻いてカット台の後ろに立った。昨日モヒカンにされたらしいシャルロットの髪は、首筋から下二十センチほどまで伸びている。 (と、とにかく気に入られるようなカットにしよう) ユエは彼女から目を背けるようにしてヘアカタログを開いた。その中から適当な髪形を選び、ユエはハサミを握る。 「そ、それじゃあ始めます」 「おう」 芳人が隣で見守る中、ユエはとにかく早く終わらせようとハサミを捌く。しゃきしゃき音が鳴るたびにシャルロットの金髪が床に落ちる。箒で掃いて捨ててしまうにはもったいないくらい綺麗な髪の毛だが、ユエにはおぞましくて仕方がない。 「人形の癖にいいキューティクルもってやがる……人毛は違うなあ」 落ちた髪の毛を摘み上げて芳人が呟く。どうやらシャルロットの髪は人毛を使ったらしい。 髪が伸びる人形は人毛を使用している――その設定だけで夜が訪れるのが本気で嫌になるエピソードが出来上がりそうだ。 ユエは考えるのも嫌で、とにかく髪を切った。一心不乱に、ヘアカタログ通りの髪形を『再現』しようとする。 客の注文にアレンジを加えるのは苦手だが、手本を忠実に再現するのだけは得意だ。 後ろ髪を長めに取り、トップを短めに。サイドにボリュームをつけて巻き流す。ユエはひたすらに『再現』していった。 そして髪型が仕上がる。 「できました芳人さん!」 ガンマンさながらにハサミをシザーバックにしまったユエは、声高らかに叫ぶ。 「今回は――」 ユエはシャルロットの髪を指しながら、 「最近流行りの――」 ヘアカタログに載っていた通りの文句を言おうとして、 「歌手の髪形を模倣した髪型でして――」 実は全く違うことを口走っていることに気づき、 「その名前は――」 顔面蒼白になり、 「聖子カットです! ――ってこんな髪型にしてなぁぁぁいッ!」 絶叫して床に突っ伏した。 十七世紀の女性をモデルにした人形は、現代の美容師の手によって、昭和五十五年デビューの歌手のヘアスタイルにされ、もはやいつの時代のものか分からなくなっている。 シャルロットは気に入らないのか、みるみる髪を伸ばし始めていた。 「なんで!? トレンディーにカットしてもうバッチグーだと思ったらナウくなーいっ! しかも一回も練習したことないのにウルトラCの出来で、今にも赤いスイートピーが聞こえてきそうな感じがビビビッと――」 「おいコラ、ヘビ髪。なに死語ばっかり連発してやがる。頭の中バグったか?」 ユエは錯乱し、もはや死語を隠すことも忘れて泣き叫ぶ。 「もう許してシャルロットちゃん! アイ・アム・ソーリー・安倍総理! もうこっそり燃えるゴミに出したり、髪が伸びないように頭にボンド塗ったりしないから! ホントにこれからは心を入れ替えます! インディアン嘘つかない!」 真面目に謝るユエだが、死語が混じる所為でどうしてもふざけているようにしか聞こえない。 「ヘビ髪。ちゃんと説明しろ!」 「芳人さん! 助けてくださいッ!」 ユエはべそをかきながら芳人のスラックスにすがりついた。 とりあえずユエは芳人に「鬱陶しい!」と怒られ、「泣くな!」と一喝され、「座れ!」とソファに連れていかれ、「説明しろ!」と言われて説明を始めた。 ユエは金縛りにあったことを始めとし、喋る言葉が勝手に死語に変換されること、そしてカットをするセンスや技術までが『流行遅れ』になってしまったことを話す。 話を聞き終えた芳人は小さく唸り、それからカット台に縛り付けられたままだったシャルロットを持ってきて膝の上に乗せた。 シャルロットと目が合ったユエは、まるで銃口を向けられているかのように怯える。 「そりゃシャルロットの仕業じゃねぇな」 「え?」 ユエは驚いてシャルロットを見た。彼女は冤罪を掛けられたためか、心なしか不機嫌そうな瞳をユエに向けている。 「コイツは髪を伸ばすくらいしか芸がねぇ人形よ。カットが気に入らねえからって、そんな変な呪いをかけるような人形だったら俺だって捨てる。練習にならん」 それもそうだ。金縛りや髪が伸びるなんていう呪いはまだしも、ユエのような症状が出るならば練習などできない。 「じゃあなんで……」 「知らねぇな。変なモンでも食ったんじゃねぇのか?」 「記憶にございませんよ。そんな食べ物で流行遅れになるなんて――――あ」 と、ユエは唐突に昨晩のことを思い出した。 変な名前のものならば、一つ食べている。 「『流行遅れのプリン・アラモード』……」 「ん?」 「昨日、変なプリンを食べたんです。このお店で……」 そう言ってユエは財布の中からレシート代わりの伝票を取り出した。それを見た芳人は苦虫を噛み潰したような表情になる。 「テメェ、小麦堂に会ったのか?」 「知ってるんですか!?」 「知ってるもなにも」 芳人は右手の伝票を握りつぶし、左手でシャルロットの頭を叩いた。 「シャルロットを作ったのが小麦堂だ」 ユエは思わず声を上げた。確かに、『小麦堂』の店内ならばシャルロットのような人形が置いてあっても不思議でない雰囲気である。 「あのバカ……余計なことしやがって。何考えてやがる?」 芳人はシャルロットの頭に肘を置き、頬杖を着いた。 頭に肘を乗せられ、少し打つ向き気味になったシャルロットは何だか迷惑そうだ。 「わ、私、『小麦堂』まで行ってきます!」 ユエはバネ細工のように飛び上がると、出口に向かって駆け出す。 しかし、すれ違いざまに芳人に足をかけられて顔から転倒した。磨いたばかりの床はユエの頬と激しく擦れ、甲高い摩擦音を奏でる。 「な、なにするんですかあ!」 「バカが。時計を見てみろ」 そう言われて時計を見ると、十一時五分前だった。 「テメェの客の予約が入ってる」 「あ……。でも、私、こんな喋り方じゃあ……」 「このボケ。客はテメェとお喋りに来てるんじゃねぇ。今は気をつけながら髪を切れ。行くのはそれからだ」 「でも……」 「うるせぇ。解雇ならしねぇ。とにかく、今日だけは客の要望通りに切れ。流行遅れの髪にするよりはいい」 皮肉にも、ユエの欠点を肯定する羽目になってしまった。それが気に入らないのか、芳人はひたすら不機嫌だ。 それでも、ユエはぱっと表情を明るくする。 「あ、ありがとうございます! 感謝、感激、雨嵐……マンモスうれピーです!」 「感謝されておいてアレだが、なんかテメェは蹴り飛ばしてぇな」 5 十時を数分過ぎ、『シザーズシスター』に一人の少女が入店してきた。彼女は片手を腰に当て、もう片方の手を振りながらにこやかに近寄ってくる。 「ユエさん久しぶりー」 「いらっしゃいハルナちゃん」 ハルナと呼ばれたその少女はユエの指名客の一人で、現在高校生だ。彼女はユエに手荷物を渡すと、飛び乗るようにしてカット台に座る。 「ほ、ほんとに久しぶりだね。髪結構長くなったけど、ど、どう切ろうか?」 ユエは口調を気にしながら、何とか世間話を始める。 「んっとねー、こんな感じかなー」 ハルナはカタログを指差す。 ユエは紙面とハルナの髪を交互に見つめ、 「こ、これでいいの?」 思わず聞いてしまった。 ハルナは「お願いします」と言ってくる。 しかし、 (この髪……すっごく変) ユエは、カタログの髪型が信じられないほど格好悪く見えてしまった。 (何で? 何で! カタログに載っているから流行なのは間違いないのに、なんでこんなに変に見えるの!?) 昨日まで自分も見て手本にしていた髪形が、奇妙なアートに見える。 (まさか……) 考えられることは一つ。 『流行遅れのプリン・アラモード』の効果により、センスや口調が流行遅れになっただけでなく、今流行しているものが奇抜に思えてしまったのだ。 「ユエさん?」 「な、なんでもないよ。そ、それじゃあ始めるね」 とにかく、カタログを信じれば大丈夫だ。客はこの髪型を指定したのだから、変に思えてもこの通りに着れば文句は言われない。 カタログを器具台の上に乗せていつでも見れるように準備すると、ユエはカットを開始した。必要以上にカタログを気にする。間違えてはいけない――と、ユエは額に汗を浮かべるほどプレッシャーを感じた。 「ハルナちゃんどう? 彼氏とかできたかな?」 気を紛らわすことも兼ねて、ユエは世間話を始める。 「それが中々うまくいかなくて」 ハルナは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。 「今度夜這いでも仕掛けようかなーって。既成事実つくればこっちのもんですし」 女子高生にしては過激すぎる発言に、ユエは苦笑する。 「そう急がなくても平気だよ」 ユエはなだめるように言い、ハサミを閉じる。 「ハルナちゃんはカワイコちゃんだから焦らなくてもいいって。そのうちきっとアチチなアベックになれるよ。ハルナちゃんはアバンチュールな恋をしそうだね」 死語が出た。 しまったと思ったときにはもう遅く、予想通り、ハルナは聞き慣れない言葉にきょとんとしている。ユエは背中の産毛が逆立つ感覚に襲われた。 「そ、それよりも今日は平日だけど学校は半ドンなのかな? 平日でもこのへんは色男を気取ったツッパリがいるから気をつけてね。ハルナちゃんはマブいギャルなんだからガールハントされないようにしなきゃ!」 「え? は? ユエさん?」 「あ、あはは。な、なんか死語でちゃったね。と、歳はとりたくないね! 私ももうおばさん街道に入っちゃったなー」 苦しすぎる言い訳。ユエは混乱してしどろもどろになる。 そしてはっと気づいた。 カットの途中のハルナの髪。 サイドのボリュームが、予定以上に減っている。 こんなに切る予定じゃなかった。失敗した。間違った。取り返しがつかない。 (ど、どうしよう……) 急に足に力が入らなくなった。 倒れないように踏ん張るが、視界まで揺らいでくる。 もはや、どれがいい髪形で、どれが悪い髪形か分からなくなってしまった。 今、自分が切っているのはカタログの髪形か? それとも流行遅れの髪形か。 「ご、ごめ……」 ユエは謝ろうとして声を震わせる。 ――だが。 「若い子にわかんねー言葉使うんじゃねーよボケ!」 背後から芳人に叩かれ、謝罪の言葉は途切れた。ユエは一瞬放心した後に振り向く。すると、芳人はハルナに見えないよう、小さなメモを差し出していた。 「?」 ワケがわからず、そのメモを受け取る。 中身を見ると、そこにはハルナが注文した髪型にするための手順が書かれていた。 「サイドを均等にしろ。クラウンは長めに残せ。それでなんとかなる」 芳人は小声でまくし立てると、さっさと自分の仕事に戻ってしまった。ユエは唖然として彼の後姿を見つめる。 怒られるならまだしも、助けてくれるとは思わなかった。 「ユエさん?」 「え? あ、うん。なんでもないの」 いつの間にか、足の震えや眩暈は治まっていた。 メモに書かれたカットの手順を見る。 プリンの所為で狂っても、手順だけ見ればユエは『再現』できる。 「じゃあ続きを切るね!」 立ち直ったユエはハンドルに力をこめた。 6 芳人の機転で何とか無事にカットを終えたユエは、仕事が終わると全速力で『小麦堂』へと向かった。 そして店の前にたどり着くと、一呼吸おく間もなくドアを開け放つ。 「いらっ――」 「どうなってるんですかッ!」 小麦堂の挨拶を遮り、ユエは柄にもなく怒鳴り声を上げた。客用のテーブルで雑誌を読んでいた小麦堂に向かって、ユエは床を踏み鳴らしながら近づいていく。やがて彼の前まで辿り着くと、勢い良くテーブルを叩いた。 「あのプリンはなんなんですかッ! 私は、私は――!」 「ああ、症状が出始めたか」 声を荒げていたユエが、怒りのあまりに口をつぐんだ。無表情に近い顔をした小麦堂は何を考えているかわからない。ユエは胸に渦巻く感情に任せてもう一度テーブルを叩いた。 「なんで! どうしてこんなことするんですか! おかげで私は散々な目にあったんですよ!」 小麦堂は困ったように頬をかくと、パタンと雑誌を閉じ、大儀そうにため息を吐く。 「あのプリンを注文したのはお客さんだよ」 「だからって!」 「それに、あのプリンはお客さんじゃなきゃ効果が出ない」 「なっ――」 ユエは絶句した。怒り慣れないのに怒鳴り散らしたため、ユエはこの荒れた気持ちをどうしたらいいかわからない。 「そもそも、お菓子とはなんだと思う?」 「な、なにを……」 全く怖気ない小麦堂を前に、ユエの声は小さくなっていく。怒鳴り込んできたユエが、逆に小麦堂に威圧感を感じていた。 「食事は生きるのに必要だが、お菓子は決して必要じゃない。栄養素だって偏ったものがほとんど。食べ物は生きるのに必要――だけど、お菓子は必須ではない、娯楽さね」 「い、一理ありますけど……」 いつの間にか会話の主導権は逆転している。 「じゃあ娯楽は何のためにあるか? 簡単だ。楽しむためさね。お菓子だって楽しむためにある。生きるのに必要な食事に楽しさを見出す――お菓子はそのためだけに生まれた。つまり、お菓子は楽しく生きるためのものよ」 小麦堂は、テーブルの上に合ったメニューを開く。 「ここ『小麦堂』の洋菓子は、それがとても顕著に現れる」 つまり小麦堂は、自分が作る洋菓子は『楽しく生きるためにある』と言うのだろう。 ユエはそれに反対だ。そう認識したとたん、くすぶっていた怒りが再び爆発する。 「私は全然楽しくないですッ!」 「『流行遅れのプリン・アラモード』は……」 小麦堂はユエの言葉を聞いてないのか、構わず話を続ける。 「お客さんも体験したとおり、その人の感性を逆流させる。このプリンは、流行のものを無抵抗で肯定してしまうような人間にしか効果が現れないんだ。そしてそういう人間は、無意識にあのプリンを注文してしまう。流行を無抵抗で肯定しない人間ならば、あのプリンを食べても何の効果がないんだ」 ――むしろ、そういう人はあのプリンは不味く感じて食べれない――と、小麦堂言った。 「つまり、お客さんはそういう人間だったってことさ。流行の真似ばかりするな――って、『シザーズシスター』の店主に言われてたんじゃないかい? そもそもお客さん自身、そんな複製を繰り返すカットを楽しく思ってなかったんじゃないかい? だからプリンを食べて流行遅れになったんだ」 小麦堂は突きつけるように言った。彼の言葉はほぼ全て正しく、ユエは言葉に詰まった。しかし、すぐに本心を言い当てられた恥ずかしさと、自分の症状に対する怒りで声を上げる。 「いい加減にしてくださいッ! とにかく、この症状を何とかしてくださいッ!」 「外的な刺激じゃあ、治らないよ」 少しも悪びれなく、むしろ毅然とした態度で小麦堂は言った。 「治す方法は、お客さんが流行に囚われない人間になるしかないよ」 小麦堂に、責任を感じている様子はない。彼は閉じた雑誌をもう一度開くと、ユエから視線を外して紙面に移動させた。 ユエの我慢が限界に達する。 「もういいですッ! あなたなんかに頼みません!」 ユエはきびすを返すと、ドアが外れるほど力強く閉めて出て行った。 小麦堂はユエが出て行ったドアを見つめ、ポツリと呟く。 「あの髪型、似合ってないなあ」 7 芳人がその古びたドアを開けると、店の主はモップで床を掃除している最中だった。 「今日は閉店さね」 「高校時代の友人が来たんだ。残業しろ」 芳人は店主――小麦堂の脇を通り抜けると、テーブルの上に逆さにして乗せてあった椅子を下ろし、そこにどっかり座った。 小麦堂は諦めたようにため息をつくと、モップを壁に立てかけて芳人と対面するように座る。 「二時間くらい前に、君の所の子が来たよ」 「だろうな。テメェが何を言ったか知らないけど、店に戻ってきてシャルロットをカット台に縛り付けていた」 芳人はそこまで言うと、内ポケットからタバコを取り出して火をつけた。小麦堂にも一本勧めたが、「舌が狂う」と言われて断られる。 「――で、一体何のつもりだ? 俺ぁ確かにシャルロットをお前に作ってもらったが、あの女に関しちゃ何をしてくれとも言ってねぇぞ」 「同じことだよ。シャルロットは、ユエさんのために作ったんだから」 小麦堂の言う通り、シャルロットは芳人が彼に頼んで作ってもらった。 その時に小麦堂が作った洋菓子は『生命謳歌のブッシュ・ド・ノエル』。クリスマスにイエス・キリストの誕生を祝うために食べられるケーキを小麦堂がアレンジしたものだ。 そのケーキの効果は、モノに命を与えること。 小麦堂はそのケーキをただのアンティークドールの口に捻じ込み、髪が伸びるようにした。 「テメェの作る洋菓子は、昔から妙な効果があるな」 「妙な効果があるんじゃなくて、洋菓子が持つ効果を最大限に引き出しているんだよ」 芳人は「そうかい」と言って煙を天井向かって吐き出す。 「……まぁ、テメェの言うとおり、俺はあの女のためにシャルロットを作ってもらったよ」 芳人はイライラした様子でタバコをもみ消した。 「あいつがあんなカットしかできなくなったのは、俺の所為だからな」 ユエは、最初から流行の髪形を再現してばかりいたのではない。 彼女のそういう特徴が現れたのは一年ほど前からだ。 ――事の発端は、芳人が客の髪をカットしたこと。 芳人は常に客に似合う髪形というモノを模索している。一年前のその日も、芳人は客が指定した髪型を、その人に似合うようにアレンジを加えた。芳人の腕は確かで、完成した髪形は誰が見てもその客に似合っていた。 しかし、客は「指定した髪型と違う」といってクレームをつけてきたのだ。 強情な芳人は今の方が似合っていると主張する。たとえそれが事実だとしても、勝手に髪を切られた客は面白くない。その結果、殴り合いに発展してしまった。 だがこの場合、悪いのはサービス提供者の芳人。彼は本気で客に手を上げるわけにもいかず、一方的に殴られる羽目になってしまった。 喧嘩の末、芳人はミラーに頭から突っ込んでしまい、病院に運ばれた。彼の顔面はズタズタになり、右目の上には縫合した跡が今でも生々しく残っている。 そしてユエは、その様子をすべて見ていたのだ。 二週間後に芳人が退院してきたとき、ユエは客がカタログをそっくりそのまま再現することしかできなくなってしまっていた。 客に対しても、自分に対しても、手本がなければ切れなくなってしまった。 「だからシャルロットを買った」 シャルロットは、芳人がユエのその癖を直すために買ったのである。好きな髪形を好きなだけカットできるように。客の指定した髪をただ再現するだけで、面白いはずがない。 事実、一年前からユエはカットよりも仲良くなった客とのお喋りだけを楽しんで働いているようだった。 「あいつは……はっきり言って才能がある。パーマは下手だがな。敏腕美容師のカットを載せたカタログを見て、あそこまで正確に再現できる奴はそういねぇ。アイツが自分のセンスで客を見極め、思い描いた髪形を再現したら、日本でもトップクラスの美容師になれる。じゃなきゃあハサミの消毒をしょっちゅう忘れるような女はすぐにクビにしてる」 芳人は二本目のタバコに火をつけた。 「小麦堂、テメェは何を考えてやがる? 妙なプリンを食べさせ、あいつを治すどころか悪化させてどうするんだ?」 小麦堂は自分の方に漂ってきた煙を手で仰いで退けた。そして猫目を半開きにして言う。 「シャルロットだけじゃあ彼女の性質は治らないよ。シャルロットはただの人形さね。楽しく生きるための洋菓子じゃない。だから『流行遅れのプリン・アラモード』を食べさせた。頼まれた以上、ちゃんとお客さんを幸せにしなくちゃ小麦堂の名折れさね」 小麦堂は、薄い唇で笑みを象る。 「安心しなよ。それでも、シャルロットはユエさんのために作った人形だ」 8 ユエは夕食も食べずに『シザーズシスター』に戻ると、シザーバックを腰に巻き、カット台にシャルロットを縛り付けた。 シャルロットはやはり無機質な瞳でユエを見ている。今まで真っ直ぐシャルロットの顔を真っ直ぐ見れなかったユエだが、今日、初めて真正面からそのガラスの瞳を見つめる。 「お願いシャルロットちゃん!」 ユエは人形に向かって土下座をした。 「カットの練習に付き合って! このままじゃ、あたし美容師を続けられないの!」 当然シャルロットは喋らない。 だからイエスかノーかは伝わってこない。それでもユエは、大真面目に頭を下げ続けた。 高校を卒業して『シザーズシスター』に見習いとして入り、夜間の専門学校に通いながら必死に学び、やっとの思いでプロの美容師になれたんだ。 (こんなところで……あんなプリンの所為で、終わらせたくない!) ユエは頭を上げた。相変わらず返事は聞こえてこないが、ユエはハサミを握る。カット台の後ろに回りこむと、カタログを開いた。 「……よし、これにしよう。かなりイマいわ」 有名な美容師が手掛けた髪型に決めると、カットの手順を思い描く。そして、その通りになるようにハサミを閉じた。 二時間ほどかけ、カットが終了する。 「できた! ――――ってなんでヘップバーンみたいになってるの!?」 五十年以上前の髪型だ。 「つ、次! シャルロットちゃん、お願い!」 ユエが泣きそうな声で頼むと、シャルロットの髪がどんどん伸びていく。せっかくセットした髪はあっという間に崩れ、元の長さにまで戻ってしまった。 ユエは更にカタログをめくり、モデルとなる髪型を探す。 「……よし、次はこれ!」 今度は昨年CM女王に選ばれたタレントの髪型だ。 ――が、しかし。 「なんでカリプソスタイルになっちゃうのよっ!」 昭和三十年の髪型になってしまった。ユエが生まれていない年代の髪型が自然と出来上がってしまう。 「な、なるほど・ザ・ワールド。女の子の髪型じゃ駄目なのかも。次は男性の髪型で――」 シャルロットが髪を伸ばしている間に、カタログをめくるユエ。 今度は最近人気が出始めた歌手の髪型に決めた。 「よし!」 ――が、やっぱり。 「どうしてビートルズになるのよぉッ!」 金髪のアンティークドールはきのこみたいな髪形になっていた。シャルロットの表情は変わらないものの、髪の伸びるスピードを見ていると凄く嫌がっているのが分かる。 「こ、今度はもう少し簡単なやつにしよう」 気を取り直して次の髪型を探す。 「ちょっとシャルロットちゃんには悪いけど……」 次にユエが選んだのは、サッカー選手の坊主頭だった。複雑な女性の髪形などに比べればずっと楽である。 「よし」 ――が、当然。 「なんでちょん髷なのよぉぉぉおおッ!」 異国のアンティークドールは武士になっていた。 「つ、次は……次は……」 ユエはカタログを捲る。だが、指先が震えて美味く捲れず、何度もページが折れてしまった。 一回のカットにかける時間は一時間から二時間ほど。それを四回も続けて行っているのが、時刻はすでに深夜になっている。当然指にも負担がかかり、震えてくる。痛みも酷い。 「次は……次は……どう、しよう……」 ページを捲る指が止まった。 もう、何度やっても同じではないかと思ってしまった。 疲れてしまって、ユエは座り込む。 すると、目の前のミラーに憔悴した自分の顔が映った。 「あ、ああ……」 ユエは、鏡の中の自分を見て――唖然とした。 髪だ。髪が、自分の髪が酷い。流行だと思っていた巻き髪が、とても滑稽に見えた。奇妙にもほどがある。髪の毛が螺旋を描き―― まるで、ヘビみたいだ。 「うっ、うわぁぁあッ!」 堪らず、ユエはハサミを握った。そして自分の髪が滅茶苦茶に切り始める。 「なんなのよぉ! もう、なんなのよおっ!」 モデルも、構想も、手順もない。滅茶苦茶なカットだ。鏡も見ずにひたすらハサミを閉じるから、何度か刃が皮膚に触れて血が滲んだ。 それでもユエはカットをやめない。 その凶行は長かった髪が三分の一ほどになるまで続けられた。 男に見間違われるくらい髪が短くなったユエは、床にハサミを落とす。 「うっ、うっ、うう、ううううう……」 そして泣き出した。 もはやどうしていいか分からず、希望も絶え、今まで積み重ねてきたものも崩れ、ユエは堪らず泣き出してしまった。 床に這いつくばって肩を震わせ、ただ嗚咽を垂れ流す。 涙を拭くと、手についた髪の毛の切れ端が顔に付着した。襲われたみたいに乱れた髪も手伝って、ユエは酷い顔になる。 「もう、どうすればいいのよ……。流行に縛られないって、勝手にカットしたら……お客さんに、文句言われちゃう、よぅ……」 もしかしたら殴たれ、鏡に突っ込んでしまい、あの日の芳人のように血まみれになってしまうかもしれない。 ユエはどうしようもなく――客が怖かった。 「ううう――う、ん?」 ふと、自分の髪の毛が揺れた。 窓は閉め切っているから、風ではない。ユエ自身も動いてない。 では、何故? ユエは顔を上げた。 「あ……」 そこで思わず声を上げる。 鏡に映ったユエの髪は、驚異的なスピードで伸びていた。キャラメル色だった髪の下から黒い地毛が次々と現れ、眉にかかり、耳を覆い、肩口までするするとその切っ先を伸ばしていく。 「こ、これって……」 シャルロットの、呪いだ。 彼女の呪いが、ユエの無残な髪を伸ばしている。 やがて、ユエの髪は肩口まで伸びきった。 伸びきったその髪形を見ても、巻き髪にしていた時の嫌悪感はない。 決して流行の髪形じゃない。けれど流行遅れの髪でもない。前衛的でも、芸術的でもない。 それでも、この髪型は。 「似合う……の、かな?」 ユエはそっと自分の髪に手を当てた。色も、長さも変わった髪は、ユエをまるで別人のような外見にしている。 ユエは、ようかくわかった。 この髪が、自分に似合う髪形だ。 「シャルロットちゃん……」 ユエはそっと彼女の頬に触れた。冷たく、人工的な感触。だが、そのセルロイド製の唇が、わずかに微笑んだような気がした。 ユエはそっと微笑み返す。 「ありがとう……ありがとうシャルロットちゃん。今まで……気味悪いとか言ったり、捨てようとしたりしてゴメンね……。私、わかったよ。芳人さんに言われたこと、わかった」 ユエはシャルロットを縛る紐を解き、そっとその小さな身体を抱いた。 「肝心なところは、自分の意思でハサミを閉じなきゃ駄目だったんだ。私の、この髪形はどのカタログにも載ってなかった。私は、それを探しながらハサミを握らなきゃいけなかったんだね……」 ユエはシャルロットを抱えたまま、そっと床に腰を下ろす。 「あなたに似合う髪、わかったよ」 ユエはハサミを右手に持ち、眼を閉じた。 脳裏をめぐる流行遅れの髪形。決して現代じゃ歓迎されないようなものばかり。だけれど、その中にシャルロットに似合う髪形はある。 彼女は十七世紀の女性をモデルに作られた人形だ。 ならば、当時の髪型が一番似合う。 ――『流行遅れのプリン・アラモード』で得た、時代遅れの髪型をカットする力。 ――芳人も認める、思い描いた髪を忠実に『再現』するユエの力。 二つの力を最大限に使ったとき、シャルロットに似合う髪は見つかる。 「ああ……これだ」 見えた。 頭に思い浮かんだ流行遅れの髪形を――ユエは『再現』する。 金髪に刃を当て、閉じ、揃える。苦手なパーマも、瞬きすら忘れてカーラーを巻く。 全てはその人に似合う髪のために。 そして――完成だ。 パーマを終えたシャルロット。金髪は下に向かって螺旋を描いている。 ユエには笑われるほど似合わなかった、巻き髪。 木の葉が落下する軌跡を描いたような、縦ロールの髪型。 シャルロットに、似合っていた。 「とっても可愛いよ」 ユエは微笑んだ。いつのまにか、流行遅れの言葉は口走らないようになっている。 シャルロットはこの髪型が気に入ったのか、髪を伸ばそうとはしなかった。 9 ――数ヵ月後。 午後三時を十分後に控えた頃、『シザーズシスター』の扉が開いた。 「あの……三時に、予約していたんですけれど……」 「あ、いらっしゃい! ハルナちゃんの紹介できた子だよね?」 ユエはソファから起き上がると、小走りで入店してきた少女の下まで駆けていった。きょろきょろと落ち着きなく店内を見回す少女に向かって、ユエは安心させるように微笑む。 「とにかく座って」 ユエは少女をカット台に座らせると、シザーバックを腰に巻きつけた。愛用のハサミのハンドルに指を通すと、それを一回転させ、少女の背後に立つ。 少女の髪は肩よりも少し短いくらいのショートヘアで、癖があった。つむじが少し後頭部よりにあり、扱いづらい髪であることは一目でわかる。 「今日はどんな風にしたいの」 「あの……似合う髪にしてくださいって、そういえば通じるってハルナちゃんが……」 その言葉を聞き、ユエは満面の笑みを浮かべた。 「任せて!」 ユエは自信満々に言う。 そしてカットを開始した。 ――今日、芳人は不在だ。京都で行われる美容師の勉強会に出席している。なので今日はユエ一人で店を切り盛りしなければならない。 以前、芳人が客と喧嘩して入院した時は、退院するまで店を閉めた。けれど今日はユエ一人に任せてくれている。 (成長したってことかな?) 含み笑いをしながら、ユエはハサミを鳴らす。 お客の緊張を紛らわせるように話をしながら、ユエはどんどん彼女の髪を整えていった。 約一時間半で、カットは終了する。 最後に自前の髪留めで仕上げをし、完成だ。 「はい。できたよ!」 「わあ……」 完成した髪形を見て、少女は声を上げた。 「これが、わたし……?」 「そうだよ。あなたの輪郭とか、髪の生え方とか見ると、これが一番似合うと思うの」 自信を持ってユエは言った。 「はい……! 凄いです。本当に噂通り、似合う髪形を見つけちゃうんですね」 少女は別人のように変わった自分の姿を見て、嬉しそうにはしゃいでいる。 「凄い。凄い……ですけれど、あの……えぇっと……」 だが、急に少女は口ごもった。 遠慮がちな口調で、上目遣いになりながら、彼女はミラー越しにユエを見てくる。 「あの……わたしの髪、伸びてません?」 ショートカットだった少女の髪は、長いツインテールになっていた。 ユエは微笑み、そっと後ろを振り向く。 ソファには行儀良く座る、巻き髪のシャルロットがいた。 END |
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●感想
一言コメント ・畳みかける死語のラッシュが徹底してて面白かった(笑) ・はまったwキャラもたってて結構面白いw |
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