高得点作品掲載所     中吉さん 著作  | トップへ戻る | 


聞き耳探偵とわたし

 1:喫茶店の男

 二月の風は冷たい。
 外に吹き荒れる寒風から逃れるように、赤茶けた扉の中にさっと飛び込む。中に入った瞬間、暖かい空気とコーヒーの鼻に抜ける酸っぱい匂いがわたしを歓迎してくれた。
 わたしが冬将軍に追い立てられて逃げ込んだここは、K大学の学生が好んで溜まる喫茶店。大学にごく近い商店街の、一つ裏の通りにひっそりとたたずんでいる。耳に馴染みやすい音楽と穏やかなマスターが迎えてくれる、どこか秘密めいた雰囲気が魅力の店だ。
 薄暗い店内に足を踏み出すと同時に、そこかしこから控えめな好奇の視線が飛んでくる。わたしはその視線を避けるように奥の二人掛けの席を選んだ。
 しわがつかないよう注意しながら、深緑のスカートをももの下に敷いて足の長い椅子に座る。ウェイターにカプチーノを注文し、一息ついたところで手袋とマフラーを外す。周囲をうかがうと、店内には同じK大学の学生らしき男女がぱらぱらと座っていた。注文したコーヒーが手元に届くまで、わたしは冷えた指先をこすり合わせて寒さをしのぐことにした。
 今日は土曜日。この喫茶店に来る学生たちの話を、コーヒーを飲みながら聞くともなしに耳にいれることがわたしのささやかな週末の過ごし方だ。

 上手くいかないサークルの人間関係。
 講義の単位の取りかた。
 実習中に起こった事件。
 だれそれが別れた、付き合った。

 密やかに交わされる学生たちの他愛のない話を背に、穏やかな時間が流れていく。
 手元に運ばれてきたカプチーノが三分の一ほどまでに減ったとき、ひとすじの寒風が店内に吹き込んできた。わたしを含めた何人かが入り口の扉をちらと見遣ると、新しい客が入ってくるところだった。週末になるたびにこの喫茶店に通いつめているわたしでも見覚えがない、新顔の男だ。店内の薄明かりに浮かび上がった顔を見た限りでは、わたしと同じくらいの年齢に見える。恐らくK大学の学生なのだろう。すっきりとした鼻筋と、目の下の隈が特徴的な、全体的にやや鋭い印象を持つ男だった。
 寒さに身を縮こませているのか、うつむき加減のその男はわたしが座る隅の席とはまた別の角の席に座った。
 男は黒をベースにしたカジュアルな上下をそつなく着こなしている。その姿は照明の弱い店内でも充分に人目を引いたようで、彼が隅の暗がりに身を隠すようにして座ったあともちらちらと目線を送る何人もの女性客たちの姿が見て取れた。
 かくいうわたしもその例にもれず、ちょうど対角の隅に腰を落ち着けたその男の様子をこっそりとうかがっていた。男はカウンターに背を向け、壁と向かい合っている。わたしからは気だるげに弛緩している横顔がかすかに見えるだけだ。
 男は近寄ってきたウェイターに小声で注文をしたあとも、店内を見渡すこともなく、ただ背もたれに深く身を預けて座っているだけのようだった。その落ち着いた雰囲気から察するに、わたしが知らないだけで、本当はここの常連なのかもしれない。
 数分が過ぎ、ウェイターがコーヒーカップを運んできても男の横顔に変化はなかった。その頃になると、当初彼を気にしていた女性客の興味もひととおり失われたようで、店内の空気は再びのんびりとしたものとなり、客たちは内々の会話に戻っていった。
 わたしが男に奇妙な既視感を抱いたのはそのときだった。
 背もたれに深く腰掛けているその無気力な姿が、周囲に興味はないとでも宣言するように壁と向き合っているその無関心な姿が、本当は周りの人間の会話に集中することに対するカモフラージュではないか――そんな直感がわたしの中に降りてきたのだ。
 根拠はある。……わたし自身がそうだから、だ。
 彼に対する強烈な既視感は、まるで自分を見ているかのようだという、わたしの直感に他ならなかった。ひとたびそのことに気がつくと、その考えはますます強くなり、わたしの頭からなかなか離れなくなった。

 直後、わたしの天啓ともいえるそのひらめきが確信に変わるできごとが起こった。

 不意に周囲の気温が下がり、わたしは肩を震わせた。先ほどと同様に、一陣の北風が店内に吹き込んできたのだ。入り口に目を向けると、女子高生たちが明るい笑い声を上げながら入ってくるところだった。彼女らにはこの酷寒の候も関係ないらしい。わたしは半ば感心しながら、短いスカートからのぞく三組の白い足が店内中ほどにあるテーブルにつくのを眺めていた。
「あたし、カフェモカ!」
「あたしもそれで〜」
「じゃ、このウィンナーコーヒー? とかいうのにしよっかな」
 彼女らは華やいだ雰囲気を周囲に振りまきながら注文をし終えた。その少々場違いな空気に顔をしかめる客がいることに気がついたふうもなく、待ち時間をおしゃべりで埋めている。
 わたしもそうだが、この喫茶店の主な客層は、騒がしい大学から離れて隠れ家のような空気を楽しみたいという大学生たちがほとんどだ。彼らにとってあの手の客は、同じ客という立場から見てあまりいい気分ではないのだろう。
 そのうち、気にしても仕方がないという気持ちが勝ったのか、彼女らの動向を見守っていた者たちも各々の会話に戻っていった。ときおりそっと冷たい目線を向けはしつつも、彼らは自身の世界に集中することにしたようだった。
「それで何の話をしてたんだっけ? ミヤコ」
「だから、先週、田舎のおばあちゃん家に行ったときにちょっと怖いことがあったんだって」
「なにぃ〜?」
 女子高生の甲高い声が多少気になりながらも、ミヤコ、という少女の《ちょっと怖い話》に興味を引かれたわたしは自然と中央のテーブルに目を向けていた。
 そのとき、彼女たちが座るテーブルを挟んで対角の位置に座っていた彼と目が合ったのだった。
 彼は少しだけ目を見開き、すぐさま、いかにも興味ないといった風情でわたしや中央の女子高生から目を逸らした。
 だが、わたしは見てしまっていた。目が合ったのは一瞬にも満たない時間だったが、たったそれだけの間でもわかるほどに彼の瞳が好奇心にきらめいているのを。
 いまも女子高生たちに背を向けてはいるが、耳はしっかりと彼女らの話を捉えているのだろう。わたしは同類を見つけたような心持ちになり、顔を伏せてひっそりと笑みをこぼした。
「私のおばあちゃん家ってすっごい田舎にあるんだよね。山に挟まれた谷間に、田んぼが広がる風景っていうのかな。近所は農家ばっかりで、一つの家がものすごく広い畑とか山とかを持ってたりするわけよ」
 ミヤコという少女が続きを話しはじめたようだ。わたしは笑みを引っ込め、耳を澄ませた。
「車なんかもめったに通らないし、コンビニだって近所に全然なくて。だから、ちょっとジュース飲みたいなぁって思っても、一キロ離れた自販機まで行かなきゃならないくらいなのよ」
「嘘ぉ」
「マジ〜? ありえなーい!」
 相槌を打つ声が店内に大きく響いた。この話が終わる前にこの子たちが店からつまみ出されるなんてことにならなければいいけど、と内心わたしは心配になった。ちらりとカウンターをうかがってみると、マスターは涼しい顔でコーヒー豆を挽いている。いまのところは大丈夫のようだ。
 話が途切れたとき、タイミングよく現れたウェイターが彼女たちのテーブルにお盆からコーヒーカップを三つおろした。口々に礼を言いながら、少女たちは白いカップに口をつける。その魅惑的で香ばしい液体の風味を褒めしきる彼女たちの会話が《ちょっと怖い話》に戻ってくるまで、わたしは辛抱強く待った。
「ええと、それで。お昼ごはんのあと、無性に甘い飲み物が飲みたくなったのよ、私。でもおばあちゃん家はそういうの置いてないみたいで。仕方ないから自転車借りて、寒い中その自販機のところまでこいでいったの」
 わたしは目を閉じて、そのときの情景を想像してみた。灰色の雲に覆われた空の下、女子高生を乗せたちっぽけな自転車が田んぼに挟まれた田舎道を風を切って走っていく。自転車が目指す先には、一本の電信柱。そこからするりとのびたコードが、半ば塗装のはげた――というのはあくまで想像だが――自動販売機につながっている。
「ようやく到着して自転車とめて。ちょうどココアがあったから、百二十円ピッタリ入れてボタンを押して――そしたら、チャリン、なんていってお釣りが出てきたのよ。よく見たら、いまだに缶の値段が百十円でね。本当びっくり」
 想像上の少女は、思いがけず出てきたおつりに目を白黒させている。しばらくすると、少女は状況を理解してにやっと笑う。――十円、得した。
 と、そこまで想像したところでわたしは目を開いた。ミヤコという少女は、わたしの中でケチくさい子になってしまっていた。ずいぶん失礼なことを考えているなあと、少し反省をする。
「いまどきそりゃないわー。って、ミヤコ、まさかそれが怖い話?」
「そんなわけないでしょ! ここからよ。それで、せっかくだからおばあちゃんにも何か買ってあげよっかなーって、自販機の前で迷ってたら、車が一台――あ、軽トラックだったんだけどね。ちょっと薄汚れた、荷台に何を積んでるわけでもない、ごくごく普通の軽トラック。それが後ろをぶおーんって、ゆっくり通り過ぎていったの」
「軽トラねえ。いかにも田舎、て感じねー」
「そうなんだけど……。私、その自販機のところまで一台も車とすれ違ってなかったから、珍しいなぁ、どんな人が乗っているんだろうって思って。パッて振り向くと、運転席はもう通り過ぎてたんだけど、荷台の先に窓が――ほら、軽トラックって窓が運転席の後ろにも付いてるでしょ? だから、その窓をちらっと見てみたの。でも、運転席には人の姿が見えなくて……」
 ミヤコという少女はここで言葉を切ると、一つ息を吸い込んでから大真面目な顔で続きを告げた。
「それに――窓越しに見えたバックミラーにも、空っぽの座席しか映ってなかったの!」
 一瞬の間が空いたのち、少女たちの弾けるような笑い声が店内に広がった。


「ごちそうさまでした〜」
 一人不機嫌になった少女をなだめながら三人が出て行くと、店内は急に静かになったように感じられた。
 わたしは隅のテーブルでもやもやとした思いを抱えながら残り少ないカプチーノを飲んでいた。先ほどの《ちょっと怖い話》のことが気にかかって仕方がないのだ。
 聞き手の少女たちは、それは見間違いだと頭ごなしに否定していた。たしかに、そうかもしれない。あのミヤコという子が、とっさに振り返った車の運転席を正確に見たかの保障は、ない。
 だが、もしも、見間違いでないとしたら?
 無人で走る軽トラック――当たり前だが、これはおかしい。おかしいということは、なにかそのおかしさを説明する理由があるはずだ。
 例えば。背が極端に低い人が運転していた、というのはどうだろうか。それならば、後ろの窓から運転手の姿が見えなかったことも納得がいく――と考えたところで、わたしは自分の眉間にしわが寄るのを感じた。これはまずい。これではバックミラーに運転手の姿が映らなかったことの説明が付かない。
 誰かがアクセルを固定してイタズラをした、という考えもあるにはある――が、これも、少女が言っていた「カーブもきれいに曲がっていったのよ!」という言葉の前には霧消するしかなかった。
 しかし、なによりわたしをもやもやとした気持ちにさせたのは、同じく話をこっそり聞いていたはずの彼が見せた表情だった。
 わたしは少女の話が一段落してからずっと無人軽トラックの謎に首を捻っていたのだが、ふと顔をあげた拍子に彼と再び視線が交錯した。そのときの彼の顔には、あろうことか、人を小馬鹿にしたような笑みが貼り付いていたのだった。

 おれにはもう全部わかったんだけどな――。

 その表情を見た瞬間、聞いたこともないはずの彼の声がわたしの脳内で再生された気がした。
 恐らく彼は話を聞きながら瞬時にしてその真相がわかったのだろう。そうして、同じように話を聞きながら、同じ場所にはたどり着けなかったわたしを馬鹿にしているのだ。そうに違いない。
 思い返すと、一度は去ったはずの悔しさが再びこみあげてきた。これではとても集中して謎を解くことなどできそうにない。と、そこまで考えたところで、わたしは無意識のうちに自分が答えにたどり着けないことを彼のせいにしようとしていることに気がついた。わたしは軽い自己嫌悪に陥りながら、額を押さえてため息をついた。
 ――ここはひとつ、正直に、彼に答えを教えてもらうべきだろうか。
 ――だが、それもしゃくな気がする。
 わたしがテーブルの木目を睨みながら自身の好奇心とプライドの間で揺れていると、椅子を引く音が耳に飛び込んできた。反射的に顔を上げ、例のテーブルを確認すると、彼の姿はそこから消えてカウンターへと移動していた。会計を済ませているらしい。マスターがレジスターの引き出しを閉める金属質な音が耳に届いたとき、わたしは知らず伝票を握りしめて立ち上がっていた。


 肩の鞄に財布をねじ込みながら、空いた手で扉を押し開ける。ごちそうさまでした、という挨拶もそこそこに、彼に続いて会計を済ませたわたしは寒風吹きすさぶ路地に飛び出した。指先や頬が凍えるのを感じながら、手袋やマフラーをつける暇も惜しんで左右を見渡したところ、狭い通路を歩いていく人影が目に入った。
「あの、すみません! さっきのお店で隅に座っていた方!」
 わたしが声をかけながら走り寄っていくと、彼は路地の真ん中で足を止めて振り返った。薄暗い店内ではわからなかったが、外界の下で見る彼の目は黒というには薄い色をしていた。作り物めいた薄茶の瞳からは、見るものを怯ませるほどに冷たい視線が放たれている。
「おれですか」
 そう確認してきた声が、いままでに知る誰よりも平坦で感情がこもっていなかったため、わたしは戸惑い、つい駆け寄る足を止めてしまっていた。
 身を切るほどに冷たい風が、下手くそな口笛のような音とともに路地を吹き抜けていく。彼との間に横たわる中途半端に開いた距離が、軽い興奮状態にあったわたしの頭を急激に冷やしていくのを感じた。
 途端、喫茶店の穏やかな空気の中で感じたはずの既視感や、つい数分前まで感じていたはずの悔しささえも、わたしの中から幻のように消え去った。
 彼がわたしと似たような人間観察の趣味を持っていること。
 彼が少女の《ちょっと怖い話》の真相を見抜いたこと。
 得意げに、人を小馬鹿にしたような顔を見せたこと。
 何を映しているのかまるで判然としない男の目に見据えられると、それらすべてがわたしの思い込みだったのではないか、という思いが突如としてわきあがってきた。
 見ず知らずの男の人物像を勝手に作り上げ、あまつさえ、思い込みだけで舞い上がり話しかけてしまった馬鹿な女、という図がわたしの脳裏に浮かんだ。いまとなっては相手の見目の良さも、自分の愚かさを助長させた忌々しい要素にしか見えなかった。
 もはや、わたしの頬を赤く染めているのは寒さばかりとはいえなかった。
「なにか?」
 無情にも目の前に立つ男が続きを促してきたが、わたしはただ黙ってうつむくことしかできなかった。いたたまれない空気に、その場から逃げ出したい衝動に駆られる。
 ――すべて、わたしの勘違いだったのだ。
 わたしは絶望的な気分になりながらも、意を決して、勘違いで呼び止めてしまったことを詫びようと顔を上げた。眼前の男は、黙ってこちらの様子をうかがっている。上手く謝罪の意が通じればと願いながら、わたしはかすれそうになる声をなんとか絞り出した。
「……いえ、なんでもないです。呼び止めてしまって、すみませんでした」
 ほとんど消え入るような声とともに、頭を下げた。だが、それが限界だった。今度は相手の顔を確認することもなく、わたしは身をひるがえして一目散にその路地から逃げ出した。背後で男が何事かを言っているようだったが、必死の思いでその声を耳から締め出して、わたしは走った。――走りながら、自分の愚かさに泣き出したい気持ちになった。


 気がつくと、どこをどう走ったものか記憶はなかったが、大学最寄りの駅にたどり着いていた。荒い呼吸のまま、わたしは改札を抜けてホームに設置されたオレンジの背のベンチに腰を下ろした。気持ちの整理をつけようと、うつむいて深呼吸を繰り返すうちに、先ほどの自分の行動を客観的に捉える余裕が生まれてきた。
 思い返して――顔から火が出るとはこのことだった。
 赤の他人に声をかけて、『なんでもないです』と告げて逃げ出す。もし自分が同じことをされたとしたら、おおいに疑問を抱くような行動だ。下手をすると、そのときの気分次第では不快だと感じることもあるかもしれない。後悔で一杯の気持ちを抱えて、わたしは胸が詰まった。凍えた手で火照った頬を挟んでみたが、こめかみの奥でどくどくと脈打つ音が聞こえるばかりで、熱は一向に去りそうにない。
 わたしはあきらめて一つ溜息をついた。気分を変えようとかぶりを振って周囲を見渡すと――偶然だろうか、反対側のホームに見覚えのある姿を見つけた。ベリーショートの黒い頭が、ややうつむき加減の姿勢で、わたしと似たようなベンチに座っている。
 彼女が、ふと顔をあげた。
 不可視の線がこちらに届くその寸前、間に合わない、と自覚しながらもわたしは目を逸らした。そのまま逃げるように席を立ち、ホームの隅に設置されたエレベーターの陰に移動する。いまの自分を知り合いに――特に彼女には見られたくなかった。
 わたしがエレベーターの陰で固まっていると、構内にアナウンスが流れ、上り電車がこちらのホームに入ることを知らせた。
 耳に響くベルの音とともに、風を巻き込みながら電車がホームに滑り込んでくる。銀色の車体が反対側のホームからの視線を完全に遮ったことを確認してから、わたしは車内に飛び込んだ。効きすぎた暖房と、むっとするほどの人いきれに辟易しながらも、壁際に居場所を確保する。左手首の時計に目を遣ると、針は五時を少しまわった時刻を指していた。
 大学前の駅から七つ離れた自宅最寄の駅で降りる頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。本来は家路へ急ぐ人々であふれる時間帯だが、土曜日ということもあってか、遊び疲れた若い親子や私服姿の学生たちが満足そうな表情で降車していく姿がちらほら見られるだけだ。先を争うように改札を目指すサラリーマンの姿も、今日に限っては少ない。
 駅を南に抜け、がらがらのロータリーを横切り、街路灯がぽつぽつと灯る県道に出る。県道とはいっても、車線は一つで歩道もろくな広さがない田舎道だ。もっとも、車通りも人通りも少ないこの近辺では、それでじゅうぶんといえばじゅうぶんなのだが。
 この薄暗い道を二十分間、さらに細かいわけ道に入って十分間。それだけ歩いて、ようやく我が家にたどり着ける。
 前を歩く人が一人、二人と減り、家路を半ばほどまでたどる頃には、わたしの周囲から人の気配は消えていた。心細さと寒さに身を縮こませて道を急いでいると、不意に、右前方の路地から一組のヘッドライトが現れた。まぶしい光の中にぼんやりと浮かび上がる、特徴的な白い車体は軽トラックのものだった。チカチカとウインカーを光らせた軽トラックは、ゆっくりと角を曲がり、こちらに頭を向けた。その運転席は、ヘッドライトのまぶしさに隠れてよく見えない。

 ――あの運転席に、人がいなかったらどうしよう。

 ごぼりと音を立てて、不安がこもるよどの中から、そんな考えがわたしの中に浮かび上がってきた。
 わたしは慌ててその馬鹿げた考えを打ち消そうとしたが、どういうわけか、否定しようとするほど、その考えは強迫観念のように意識に刷り込まれてくる。
 徐々に軽トラックが近づいてくる。運転席の中は、まだ見えない。
 まばたきをする。
 まだ見えない。
 白い車体が迫ってくる。
 まばたきを繰り返す。
 ――まだ、見えない。
 背筋がぞっとちりけ立った。
 世界中の人が消えてしまったような、蒸発してしまったような――この世界にわたしだけしかいないのではないかという恐怖が、足元から這い登ってくる。とっさに振り返った夜道には、街路灯が作る無機質な光の円が点在するばかりで、生あるものの気配はない。季節はずれの汗が背を伝い、不快な感触を残す。早鐘のように打つ鼓動が、耳の奥から聞こえてくる。
 たったそれだけで、わたしの足はすっかりすくんでしまっていた。
 軽トラックが通り過ぎるまで、わたしは歩道に目を落としていた。


「ただいま〜」
 玄関で騒がしい音がしたきっかり三秒後、錠の外れる音とともに妹が帰ってきた。両親の帰りが遅くなる夜は施錠をすると言い聞かせているのに、妹は必ず、まずは鍵を使わずに玄関を開けようと試すので乱暴な音が出る。家にいる身としては毎回ドキリとさせられているのだが、何度言っても妹は聞く耳を持たないようで、改善の気配は見られない。
 わたしは目の前の鍋から灰汁あくを取りながら、おかえり、と応えた。「寒い寒い」とつぶやく声が背後を通り過ぎ、居間の奥、階段のほうに吸い込まれていった。ややあって、階上からドサドサ、と重いものが落ちるような音が連続的に聞こえてきた。恐らく妹がそこらに荷物を放り出しているのだろう。やがて軽快な足音が階段を揺らし、取り終えた灰汁を流しに捨てようとわたしが横を向くと、そこには妹の姿があった。短くそろえられた前髪の下から、大きな二つの瞳がわたしを見つめている。妹は――駅で見かけたときと同じの――ぴったりとした紺のセーターに包まれた細い腕を組んで、開口一番、
「何か言うことがあるんじゃない?」と鷹揚に言い放った。
 妹は昔からこうだった。年子のわたしたちの間には、明確な《姉と妹》という概念が存在しない。ややもすると、妹のほうが主導権を握ることのほうが多いくらいだ。
 一つ咳払いをして、わたしは仁王立ちする妹から目を逸らした。
「……外、冷えたでしょ。コーヒーでもれようか?」
「いい。私は姉さんほど、コーヒー好きではないし」
「そうだったね」
「――駅で、隠れたね。なんで?」
 その話題をなんとか回避しようとしていたわたしの努力も虚しく、妹はあっさりと核心を突いてきた。わたしは妹の横をすり抜け、冷蔵庫の戸から片栗粉と小麦粉を取り出しながら、別に隠れたわけじゃ、とつぶやいてみた。台所の下にある棚から銀色のボウルを取り出して顔をあげると、妹の形の良い眉がきりりとつりあがってこちらを威嚇していた。
「あのさあ、いま、自分がひどく情けない顔をしてるってわかってる?」
 およそ自覚はしていたが、いざ自分以外の人――それも身内に、歯にきぬ着せぬ一撃で斬り込まれ、わたしは言葉に詰まった。妹はそれきり口をつぐみ、わたしの背後で黙々と配膳を整えはじめた。
 鍋に流し込んだペースト状の団子のふちが、半透明に透けてきたらできあがりの合図だ。最後の仕上げに辛味を少し加えて蓋を閉めると、わたしは鍋を火から下ろした。今年に入ってから買った、まだ真新しい、小さな土鍋。二人分の具材を詰め込んだだけで、もう蓋も閉まらない。これからはこれを使う機会も増えていくだろう。
 わたしは鍋を新聞紙で蓋ごと挟み込むようにして持ち上げ、居間のこたつの上に用意しておいた鍋敷きにのせると、いそいそと布団の中に足を入れた。反対側には、既に妹が陣取っている。こたつの天板の上には、おそろいのどんぶりとお茶碗が二つずつ、色違いの箸が二膳。妹が用意したものだ。
「いただきます」
 どちらともなくつぶやいて、手を合わせる。妹はさっと蓋を取り払うと、ひょいひょいと団子を取りはじめた。自然、わたしは野菜類を多く取ることになる。ゴボウと里芋に、ときおりのぞく糸こんにゃく。熱いのも構わずにまとめて口の中に放り込むと、ほっこりとした里芋がほぐれていく。その感触に我ながらいい出来ではないかと舌鼓を打ちつつ、妹にちらりと目をやったが――妹は食べることに一直線で、賛辞は期待できそうになかった。
 わたしたちはしばし食べることに没頭し、妹が再び口を開いたのは、鍋の底にある焦げ跡がうっすら見えるようになった頃だった。
「あのさあ」
 箸を置いた妹は、いまは片手でテレビのリモコンをもてあそびながら、視線をどんぶりの中に落としている。
「何があったか知らないけど、困ったことがあったのなら、話を聞くよ。姉さんがあまりそういうことを言うってタイプじゃないとは知ってるけどさ」
 逡巡するそぶりのあとに顔を上げた妹の、思わぬ真摯な瞳にわたしは息を呑んだ。
「たまには、頼っていいんだよ。……何も言わずに溜め込まれたほうが、ずっと怖い」
 一言一言を薄氷を踏むように発する妹を目の当たりにして、わたしは罪悪感に襲われた。そんなつもりでは――妹にこんなことを言わせるつもりではなかった。
「違うよ!」一秒一刻が惜しくて、舌を動かす。「本当にたいしたことじゃないの。あなたが心配しているようなこととは違うから、安心して。今日のことは、わたしの個人的な、本当にくだらない――ちょっと人前で恥ずかしいことをしちゃったっていう、ただそれだけのことだから」
 早口でまくし立てたわたしの剣幕に驚いたのか、妹は目を丸くしてこちらを見ている。
「ちゃんと話すから。だから、心配しないで」
「……そう」
 必死で弁解したことが功を奏したのか、妹の表情から緊張が解かれていく。そのまま、諦めたように大きく息をつく。
「じゃあ結局、何が姉さんをそんな顔にさせたわけ? まあ、こんなに引っ張るくらいだから、さぞ面白い体験をしたんだろうねえ」
 打って変わったからかうような口調に、わたしは内心舌を出したい気持ちだったが、ぐっと我慢する。ここでさらにごまかすこともできるだろうが、その代わり、妹との関係に修復不可能な亀裂が入ることを覚悟しなければならないだろうという予感があった。
 そんな条件を呑めるはずもなく、わたしは恥を忍んで喫茶店での顛末を語ることにした。とても平素の状態では言い出しにくいものがあったので、ごまかすように、鍋の底に貼り付いていたゴボウをつつきながらである。
 妹はしばらく真面目な顔で聞き入っている様子だったが、話が終わると同時に「なんだ、男の悩みかあー」とぼやいたのでわたしは喉にゴボウを詰まらせた。涙目でむせているわたしを尻目に、妹はしたり顔で「姉さんにもようやく春が来たのかあ」「って、いまは、冬か。ははっ」などと言いながら一人で納得している。
「なんでそうなるの。……でもまあ、駅で隠れたのは、ごめん。あのときは、だれとも顔を合わせたくない気分だったから」
「わかるよ。男につれなくされたときの惨めったらしい顔を、身内に見られるほど辛いことってないもんねえ」
「違うって、言ってるでしょ!」
 わたしが右手をこぶしに固めて振り上げると、妹はおどけた調子でごめんごめんと肩をすくめてみせた。妹のこういうところが、ずるいと思う。引き際をしっかり心得ているので、こちらが本気で怒ることなどできないのだ。
 ひとしきり笑ったあと、妹はふざけた態度を引っ込め、真顔になってつぶやいた。
「でもねえ。こんなこと、言いたかないけど――知らない男に声をかけるなんて、ずいぶん無用心なことをしたね」
 淡々と告げる妹の口調からは、とがめるような気配は感じ取れない。ただ、静かな、諭すような光をたたえた目をじっとこちらに据えてくるだけだ。
 わたしの苦手とする目だった。
「姉さんはちょっとぼんやりしているところがあるから、ときどき心配になる」
「……わかってるよ」
 妹の言っていることは、圧倒的に正しい。ただ、この件についてこれ以上追及されるのは、勘弁願いたかった。話題の矛先を変えようと、もののついでといった様子を装い、帰り道での軽トラックとの遭遇について切り出してみる。
 わたしが言い終わるが早いか、妹は鼻で笑い飛ばした。
「うちの姉さんは、ずいぶんと怖がりだね。それで、ずっと青い顔をしてたの?」
「だって、あんな話を聞いたあとだったんだから、しょうがないじゃない」
 わたしがむっとしつつ反論すると、にやにやと笑みを浮かべていた妹が、不意に挑戦的な視線を投げかけてきた。
「はたして、本当に《怖い話》かな、それは?」
「どういうこと?」
 妹はわたしの問いには答えず、空っぽの食器を両手に台所へ消えた。再び居間に戻ってきたときには、右手にさきいかの袋が忽然と出現していた。その袋をこたつの上に放り投げると、猫のようにすばやく布団にもぐりこむ。
「ああ、お茶が一杯欲しいな。お茶を飲んだら、私の口の滑りもよくなりそうなんだけどな――あ、これ、独り言だよ」
 とぼけた物言いに小憎らしさを覚えながらも、わたしはお茶を淹れるべく立ち上がった。


 大学も二年目となると、時の流れはずいぶん早くなる。日々の雑事に追われ、気がつくと再び土曜日である。
 ここ二日間ほどは寒波もいくぶん和らいで、穏やかな小康状態が続いている。そんな午後に、わたしは再び例の喫茶店へと足を向けていた。万が一あの男と顔を合わせようものなら、と二の足を踏みそうになったのも事実だが、週に一度の楽しみをみすみす逃すのも悔しい。わたしがこの喫茶店を級友に教えてもらってからそろそろ一年になるが、その間、あの男と遭遇したことは一度もない。恐らくわたしとは根本的に行動する時間帯が違うのだろう、前回はたまたまかち合っただけで。
 ならば今日、いつものように出かけたところで、彼と顔を合わせずにすむ――という道理になるのではないか。
 喫茶店の入り口に突っ立って、半ば自分に言い聞かせるように心の内でそう繰り返したあと、わたしは扉を引き開けた。先週と同じ、濃いコーヒーの香りが鼻をつく。
 店内に入ると、先週と同じように一瞬だけ店内の目が新規の客――わたしに集中する。普段はそれを避けるように正面にだけ目を向けることにしているのだが、今日は視線がぶつかるのも構わず辺りをざっと見渡した。
 ……それらしい姿はない、ようだ。
 とりあえずの安堵を得て、わたしは馴染みの隅の席へと移動した。
 いつもどおりにカプチーノを注文し、コーヒーが届くまでの間、半分目を閉じて、意識をどこか遠いところにやってしまう。深く椅子に腰掛けて、周囲の人のささめきや、名前も知らないクラシック音楽に耳を傾けながら、濃いコーヒーの香りの中で呼吸をする。しばらくすると、体の奥底から暖かい気持ちがじわりとわきあがる。いまだけは、ときおり吹き込んでくる冷気も気にならない――。
 お待たせいたしました、というウェイターの声でわたしは目を開いた。目の前に置かれた、ふわふわに泡立てられたカプチーノを見て、思わず満足の吐息がもれる。ああ、やっぱり、来てよかった。
 いそいそとカップに手を伸ばそうとしたそのとき、テーブルに影が落ちた。ウェイターがまだ何か用件でもあるのだろうか、といぶかしむ間もなく、黒地のジャンパーが視界に入った。
 ――ウェイターでは、ない。
「先日はどうも」
 はじかれたように顔を上げると、テーブルの向かいで椅子を引こうとしている男と目が合った。わたしが止める間もなく、闖入者はそのまま、さも当然とでもいうような顔つきで差し向かいに腰を下ろしてくる。まぎれもない、先週の、あの男だ。
 ただ口をぽかんと開けるばかりのわたしに構うでもなく、男は気さくな調子で話しかけてくる。
「あれから、《ちょっと怖い話》は解決したか?」
 それがごく自然な、親しい友人にでも語りかけるような口調だったので、わたしはついつり込まれるように返事をしていた。
「はあ、まあ。一応は」
 厳密に言うと、解決したのはわたしではなく妹だ。他人のふんどしで相撲を取るような、妙な後ろめたさを感じてわたしは言葉を濁した。
 それに気がついたのだろうか、男は少しだけ眉根を寄せてみせた。しかし、すぐにその表情は拭い去られる。
「それで、どういう結論に?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 男の問いかけをまるきり無視する形になったが、この際それはどうでもいい。
「いまのは先週の、あの女の子がしていた話のことですか?……やっぱり、あなたも聞いていたんですか?」
 そうだ、と答える男の表情には、話の腰を折られたためか若干不機嫌そうな気配がある。しかし、わたしのほうは不機嫌どころの騒ぎではない。この男はやはり話を聞いていた、ということは、つまり――
「それじゃあ、あのとき――わたしが追いかけたときも、わたしの目的やらなにやらまで、全部わかってたんじゃないですか! 知らん顔をしてましたけど、わざとだったんですね?」
 なぜいまになって馴れ馴れしい態度でもって近づいてくるのか、という漠然とした不安と、やはり彼は同類だったのだ、という切実な歓喜。相反する感情に押しつぶされた衝動が、わたしをテーブルの向かいに詰め寄らせていた。
「わざとというか、ごく普通の対応だと思うが。誰だって、いきなり面識のない奴に話しかけられたら警戒するさ」
「じゃあどうして、いまさら、その警戒が解かれたんですか?」
「気が変わることもあるだろ、人間なんだから。……まあ、この話はもういいじゃないか。で、どうなんだ」
 男は少し身を引くと、しっしっ、とうるさそうにわたしの顔の前で手を振った。男の態度に対する釈然としない思いと、いきり立ってしまった決まり悪い思いを天秤にかけて――わたしはひとまず席に着くことにした。
「なんだか納得がいかないような気もするんですけど。……それで、どう、とは?」
「その《ちょっと怖い話》の真相さ。あんた、わかったんだろう? 答え合わせでもしてみないか?」
 向かいに座る男の瞳には、いつの間にか、どこか面白がるような光が宿っていた。わたしがこの提案を蹴るとは毛ほども疑っていないらしい、その態度を目の当たりにして、わたしの中の闘争心とでも呼ぶべきものに火がついた。
「……いいですよ」
 口から漏れ出た声は、我知らず、ずいぶんと挑戦的な色を帯びていた。
『つまりは――』
 頭の中に反芻されたのは先週の妹の声だった。その言葉をなぞるように口をひらく。
「つまりは、子どもが運転していたんじゃないかと、思ったんですけど」
 男は探るような視線をこちらに向けたまま黙っている。どうやら続きを促しているらしい。その態度に、黒板の前に立たされた学生のような気分になる。
「あの女の子――ミヤコさんは、運転席の後ろの窓と、そこから見えたバックミラーを覗いて、『無人だ』と判断したんですよね。でも、ミヤコさんが実際に見たのは、運転席の頭が来る位置……ヘッドレストと呼ぶんでしたっけ? あの部分だけだったはずです。ということは、背が極端に低い人が運転手だった場合、姿が見えなくて当然だということになります。ただ、単純に背が低いだけならば、バックミラーの方には姿が映るはず。でないと、運転手からは背後が見えないことになってしまいますからね。
 ――ですが、小さな子どもが運転していた場合は。子どもの大雑把な運転ならば、バックミラーを使うとは思えません。恐らく、普段親が使う角度から動かさないままでしょう。すると、バックミラーには何も映らない……となって、ミヤコさんの話に一致するように思うのですが」
「なるほど」
 舌に乗せた『なるほど』などとはまるで感じていない口調で男はつぶやいた。わたしが妹からこの推理を聞かされたときの『そんな馬鹿な話があるのか』という感情とも違う、乾いた声だ。その反応に疑問を抱きながらも、わたしは続けた。
「ミヤコさんの話からすると、彼女が軽トラックとすれ違った場所は、かなりの田舎です。自販機にたどり着くまでの道のりで車と一台も遭遇しなかったというくらいですから、よほどのものなんでしょう。そして」わたしは一つ息を吸い込み、姿勢を正した。
「そういった田舎の農家では、人手が足りないと小学生くらいの子どもでも親の手伝いのために車を運転することがある、そうです。もちろん交通法規に違反してますが、田舎では黙認されているらしいんですね。――ミヤコさんが見たのは、そういった用事を言いつかった子どもが運転する軽トラックだったのではないでしょうか」
 わたしの言葉を吟味でもしているのだろうか、男はテーブルに目を落としている。しかし、再び顔をあげた男の口から出てきた内容は、まったく予想外のものだった。
「――なるほど。で、その推理、誰に入れ知恵してもらったんだ?」
「え」
 わたしは思わず間抜けな声を出していた。その反応に図星だということを見て取ったのか、男は底意地の悪い笑みを向けてきた。もともとのとがった容貌に、店内の薄暗い照明の効果も相まって、嫌な感じがよけいに加味されて見える。
「誰を気にしてるのか知らんが、そこそこ筋の通った説明の割に、自説に対してずいぶん控えめだからな。……第一、田舎では子どもも運転することがある、と知っていたなら先週の時点で気がついてもいいだろう」
 至極もっともな男の指摘だったが、すんなり認めるのも不本意だ、という感情の力学が働いた。ほとんど意地のようなものだったが、わたしはその法則に従ってとりあえずの反論を試みることにした。
「たまたまそのときは忘れていて、あとになって思い出すってこともあるでしょう。一般論として」
「一般論として、ね。で、あんたは? そうなのか?」
 薄茶の瞳に覗き込まれると、悪戯を見つかったときのような、妙に落ち着かない気分になった。
「……違いますけど」
 もともと隠すつもりもないことだったので、妹に推理を聞いたのだと白状する。男は、だよな、と満足そうにうなずいている。なんだか馬鹿にされているような気がするが、気のせいだろうか。
 わたしは一つ咳払いをした。
「で、そういうあなたの答えはどうなんですか? 答え合わせ、するんでしょう」
 そういえばそうだった、と言うと男は目を細めた。
「おれの考えも、似たようなもんだ。年端も行かぬお子さまが運転していたと考えると、しっくりいくな、たしかに」
「結局、《怖い話》じゃなかったってことですね」
「……そうでもない、かもしれない」
 先週の夜道での失態を思い出しての発言だったのだが、わたしの言葉に、男は少し引っかかるような物言いをした。目で問い返すと、静かな視線が返ってくる。
「この推理には一つ、穴があるんだ」
「穴? 何ですか、それ」
「ただで教えろって?」
 男の言葉に、先週の妹とのやり取りが脳裏によみがえり、わたしは思わず閉口した。妹も、これほど露骨ではないにせよ、似たようなことを言っていなかっただろうか。
 黙り込んだ私を気にしたふうでもなく、男はテーブルの上に目を走らせたかと思うと、「じゃあ」と一言、テーブルの上にあったコーヒーカップをすばやく片手でさらっていった。
「指南料でもいただいておこう」
 わたしが制止の言葉をかけるよりも早く、カップに口をつける。茫然とするわたしの前で、男はぬるいな、などととぼけたことを言っている。
「あの、それ。わたしが頼んで……まだ一口も飲んでいないんですが」
「飲んでいたらいたで、困るだろう」
 ひょうひょうと答える男に、反射的に反論する言葉が出てこない。たしかに、困るといえば困るのだが。
「……そうなんですけど、いや、そうじゃなくて。人のものを勝手に飲まないでください、という話ですよ」
 この仕打ちに比べると、妹のお茶の催促などかわいいものに思えてしまうから不思議なものだ。
 厚かましいです、と小声でわたしが非難すると、男は斜に構えたような笑みを口元に引っかけた。
「厚かましさはお互いさま、だ」
 それは暗に先週のわたしのことを指しているのだろうが、それといまのコーヒー強奪とは関係ないはずだ。わたしが睨みつけるのも一向に意に介さないらしい男は、カップをテーブルに戻して続けた。
「さて、穴がある、という話だが。子どもが農作業の手伝いに駆り出されるのは、夏休みだとか稲刈りの季節だとか、収穫期と相場が決まっている。だが、いまは冬だ。とてもじゃないが、わざわざ子どもに車を運転させるほど忙しい時期とは思えない。それに、ミヤコは、軽トラが荷台に何も積んでいなかったと言っていた。これが手伝いだとするなら、何か――くわでも肥料でも、積んでいてよさそうなものだと思わないか?」
 そういえば、そんなことも言っていた気がする。
「じゃあ、子どもが運転していたわけじゃないってことですか?」
「いや。あくまで運転をしていたのは子どもだった、と考える。すると、親がそうさせたんだろうが、手伝いでないなら一体何が目的だったのか、ということになる」
 何が言いたいのかよくわからない、と表情に出ているであろうわたしに対して、男はひどく慎重な様子で口を開いた。
「子どもは親の言いつけを聞いて運転をしていた。だが、目的は農作業の手伝いではない。となると――」
「あ! ひょっとして、足として駅まで迎えに来い、とか、そういうのじゃ……」
 勢い込んで言ってみたものの、呆れたような目を真正面から向けられ、後半は力のない言葉に化けた。
「田舎とはいえ、駅前ともなると衆目があるはずだ。そんなところを子どもが堂々と運転してるなんてわかったら、いくらなんでもまずいだろ。それは無しだ」
「じゃあ何だっていうんですか?」
 男は、うん、と独り言のようにつぶやくと、うつむいて考え込むようなしぐさをした。右手を顎に持っていった姿勢のまま、動かない。しばらくの沈黙のあと、男は低い声で話し出した。
「子どもに何かをさせることが目的じゃないとすると――《子どもを家から遠ざけること》自体が目的だったんじゃないか。
 ミヤコは高校生のようだったから、祖母の家に行ったのは学校が休みになる土日のどちらかだろう。……休日で、外は寒いとなると、子どもは家の中にいようとするんじゃないか。極端な田舎ともなると、外遊びを一緒にする同年代の友達も少なそうだしな。もし、それが――《子どもが家の中にいること》が、親にとって都合の悪いことだったとしたら? 適当な用事を言いつけて、子どもを外に出せばいい。『かみの田にちょっと忘れ物をしたから、取ってきてくれ』とでも頼めば、じゅうぶんだ――実際に忘れ物があるかどうかはさておいて。いつ戻ってくるかわからない遊びに行かせるよりは、仕事という責任のあるものを押し付けたほうが、確実に一定の時間、子どもを家から追い払うことができる。その間、親が何をしていたのかはわからないが――」
 子どもの目には触れさせたくないようなことをしていた、ということか。
 それは、夫婦の関係を清算する話し合いだったかもしれない。お金の相談だったかもしれない。あるいは、裏切り行為を働いていたのかも、わからない。
 いずれにせよ、子どもには見せられない、のっぴきならない事情だったということだ。
 不意に、妹の言葉が脳裏によみがえった。
 ――何も言わずに溜め込まれたほうが、ずっと怖い。
 目に見えない場所で、少しずつ降り積もっていく感情のことだ。子どもにはわからなかったかもしれない。わからなかったかもしれないが、寒空の下、一人で車を運転していたその間に、《何か》が家の中で完了されてしまったのだ。子どもを包む世界は、本人のあずかり知らぬところで確実に変容してしまったのだ。
 それは――とても、《怖い》ことではないだろうか。
 冷たい手に背をなでられたような、ひどい悪寒を感じて、わたしは身震いをした。
「……もちろん、背の低い人が誰かに車を借りて、その借りる前の状態からバックミラーを調節し忘れていた、という可能性もある。そもそもミヤコの見間違いだっていう可能性も、そうだ」
 軽い口調で付け足した男の声に、わたしの意識が現実に引き戻される。
「そのほうが子どもがどうこうよりは、ずっと自然だしな」
 それでおしまいだとでもいうように、男は一息にカップの中身を飲み干すと席を立った。現れたときと同じような唐突さで、立ち去るつもりらしい。遅ればせながら注文を取りに来たウェイターが、すれ違いざまに奇妙な顔を見せたが、男は断るようなしぐさをして扉のほうへ歩いていく。
 一体何をしにこの店に来たのだろうか、という至極もっともな疑問だけがわたしの中に残されたが、この件に限ってはわたしにも名推理がひらめいた。薄暗い照明を受けて遠ざかっていく黒いジャンパーをぼんやり見送っているうちに、ぽんと一つの結論が出てきたのだ。
 理由はわからないが、あの男は先週来のわたしの疑問に答えてくれようとしていたのではないだろうか。わたしが既に妹の推理を聞いていたため、答え合わせという趣向になってしまったが。
 思い至った途端、わたしの中に、正体不明の焦りが押し寄せてきた。椅子の背に縫い付けられたように身動きできないでいるうちに、男の姿は扉を抜けて、外の光の中に吸い込まれていった。
 あの扉の外にはもう、この独特な、魔法のような居心地の良さはない。だが、この居心地の良さは一種のつくりごとなのだ。コーヒー一杯の値段と引き換えに得る、特別な空間に過ぎないのだ。
 虚構にしたくない。せっかく見つけた同類との関係を、これっきりにしたくはない。
 わたしは椅子を蹴立てて立ち上がり、ほとんど衝動的に伝票を掴んでカウンターへ駆け込んだ。先週の出来事をそのままなぞる居心地の悪さを感じながらも、慌てて会計を済ませる。マスターがなにやら笑みを浮かべているような気もしたが、詳しく注意を払っている余裕はない。お釣りを受けとったわたしは、わき目もふらずに外に飛び出した。
 空はいつの間にか灰色の雲に覆われていた。先週と寸分違わぬ後ろ姿を少し離れた路上に見つけ、わたしの中にわずかな怯みが生じた。軽くあしらわれた、あのときの記憶がよみがえる。だが、
「あの、すみません、あなたのお名前は!」
 ――あのときと違うことがあるとすると、もうわたしは彼が同類だと知っている、ということだ。
 わたしの問いかけに男は、それには別途指南料が入り用になります、などと言いながら商店街の表通りへと抜ける道に消えていく。わたしはその背に向かって反射的に声を張りあげていた。
「では、今度また土曜日に、あのお店に来てください――コーヒー一杯おごりますから!」
 この声が届いたかどうかは定かではない。
 それでも、風が吹き抜ける路上に立ち尽くしながら、わたしはあの薄暗い喫茶店でもう一度彼と会える予感がしていた。
 今度は、わたしの勘違いでなければいいけれど。

<喫茶店の男・了>



2:人生のしおり

 薄暗い喫茶店の隅のテーブルで、若い男が頬杖をつきながら新聞を眺めている。細かい文字を読むには不向きな頼りない明かりの下、薄茶の瞳をすがめながら紙面に目を走らせている。ときおりその目線がモノクロに刷られた記事から外され、ふらりと出入り口付近に向かうこともあったが、おおむねにおいて男は気だるげな姿勢は崩さずに新聞を読みふけっていた。
 不意に、ざらついた紙をめくっていた男の手が止められる。
 赤茶けた木製の扉が開き、春風とともに一人の客が店内に入ってきたのだ。顔を上げた男の視線の先には《同類》である彼女の姿があった。
 男は少しだけ逡巡したそぶりのあと、誰かを探している様子の彼女に向かって小さく手を振った。

 ***

 土曜日の昼下がり、相変わらずわたしは裏通りの喫茶店にいた。いつもと同じ、隅の二人掛けのテーブルでカプチーノを飲みながら、いつものように周囲の客のこぼれ話を聞いている。

 調子に乗って酔い潰れてしまった新歓コンパ。
 偶然講義が重なった子と付き合いはじめた友人。
 最近、この街から宝くじの一等が出たらしい。
 はじめたばかりの自炊に早くも挫折した。

 春という季節柄か、最近は新生活や新しい人間関係に関する話が多い。交わされる会話の内容も移ろう季節にあわせて変わっていくことが、わたしの心を弾ませる。
 変わったといえば、いつも同じ穏やかな時間が流れていたわたしの週末にも、今年の冬から一つ変化が生まれていた。
「昨日の夕方、図書館に変なおじさんがいたの」
「変なおじさん? あれ、でも、俺も昨日そのぐらいに図書館行ったけど、別にそんな奴いなかったような……」
「市立じゃないほうよ。知らない人も多いけど、旧国道沿いのとこにもう一つあるの」
「へえ。この街にもう一つ図書館があったとは知らなかった」
 わたしの向かいに座っていた先輩はそう小声でつぶやくと、伏せていた顔を少し上げた。
 彼はこの喫茶店からほど近いK大学の学生で、わたしより一つ上の先輩に当たる、らしい。構内で彼を見かけたことがないため、本当かどうかは定かではないのだが、わたしは彼のことを《先輩》と呼ぶことにしている。
 去る二月、彼と出会った厳寒の日から、わたしたちは週末をときおり同じテーブルで過ごしたりするようになった。わたしたちに共通する性質上――あまり褒められたものではないが、人さまの話に聞き耳を立てるという趣味だ――あまり話すこともないので、お互い名前と所属学部といつも注文するコーヒー以外は何も知らない同然の間柄だったが。今日も、店内に入ってすぐ、隅の席に座る先輩の合図に気がついて同席を願い出たものの、わたしたちは黙々とコーヒーをすする以外のことはしていない。
 実際、先輩が唐突に拾い上げた図書館の話題は、わたしから見て正面、彼の背後のテーブルに着いていたK大生らしき二人組の男女が交わしていたのを勝手に拝借したものだ。わたしもなにくわぬ顔をしつつ彼らの会話を耳に入れていたのだから間違いない。
「図書館というよりは、図書室ですね」
 口からカップを離し、先輩の独り言に近かったつぶやきに言葉を返すと、薄茶の瞳がわたしの方を向いた。
「その図書館、中央公民館に付属しているんですけど、広い場所が取れないらしく小規模なんですよね。この街には市立図書館もあるじゃないですか。だからあまり好んで行く人もいないし、話題にも上りにくいんですよ」
「ふうん」
 先輩が気のない様子で相槌を打つ間にも、先ほどの会話は続いていた。
「……たとき、カウンターで待ってたら急にスーツ姿のおじさんが前に割り込んできたの。あそこの図書館小さいから、カウンターに職員さんが一人しかいないのよね。だからたまに混んだりもするんだけど、ああも露骨に割り込まれたのは初めてだったかも」
「おじさんなのに、おばさんみたいな奴だな」
 相手の男の返しに噴きだしそうになったわたしだったが、テーブルの木目を必死に数えることでかろうじて耐えた。横目でうかがった先輩も若干口の端が上がっている気がするが――目が合うと牽制でもするように睨まれた。
「もう、水を差さないでよ。そのおじさん、とっても慌てた様子で『私が三日前に返却した本、ありますか』って職員さんに詰め寄ってね。それがもう、すごい剣幕で」
 わたしはスーツ姿の中年男性が図書館のカウンターに詰め寄る姿を想像してみた。詳しいことはわからないが、さぞ異様なものだったろうな、という見当はついた。
「いきなり言われた職員さんも驚いたみたいで。職員さん、若い人だったから、あんまりそういう経験なかったのかしらね。おじさんが『××という本です』って書名を言っても、まだおろおろしていて。引き出しから貸し出しカードを探し当てるのに、数分はかかってたんじゃないかしら。で、ようやく見つけたんだけど、『その本は現在貸し出し中です』ってことだったみたいで」
「その図書館、いまどきコンピュータ管理じゃないなんて珍しいな」
「もう、水を差さないでって言ってるのに。とにかく、職員さんはそう言ったの。そしたらおじさん真っ青になっちゃって、『いますぐ私がもう一度その本を借りることはできませんか』なんて言うのよ」
 よほどその本が気に入って、返したことがあとになって惜しくなったのだろうか。だがそれだけならば、書店で買えば済む話だし――よほど高価な本、あるいは珍しい本というのならば話は別だが――、顔色を変えるほどのこととは思えない。
 向かいに座る先輩の意見でも聞こうかと視線をテーブルの木目から外した先で、わたしは喉元まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。うつむき加減になった先輩の目が、冷たい光を宿して隅に畳んで置いていた新聞紙(カウンター横のマガジンラックから拝借してきたらしい)を睨んでいた。普段はどこを見ているとも知れないくすんだ薄茶の瞳に、いまは真剣な光が映りこんでいる。
「でも、人が借りてるんだからいますぐなんて無理じゃない。職員さんも、『予約をなさいますと、返却されたときに連絡いたしますが』って言ったのよ。でも、おじさんはどうしても『いますぐ必要なんだ』って繰り返すばっかりで、全然らちが明かないのよね。わたしも彼がどいてくれないと本が借りられないし、いい加減文句の一つでも言おうかと思ってたら、急におじさんが小さな声で『大事な書類を挟んだまま返却してしまったんです』みたいなことをつぶやいたの」
「げ、そりゃ災難だな、そのおじさん。まあ挟んじゃうのもどうかと思うけど」
「うん、普通はそう思うわよね。職員さんも困っちゃってさ、途方に暮れた顔してるの。でもやっぱり無理なものは無理なのよね。そう言うんだけど、おじさんは食い下がる。とうとう、『じゃあその借りた人の連絡先か住所を教えてください』なんて言いだしたのよ」
「え、それは……」
 聞き手の男は、驚きもあらわに声を詰まらせている。わたしも少なからず驚いていた。たとえ大事な書類を挟んでしまったからといって、そこまで言う人がいるだろうか。
「そしたら職員さん、急に怖い顔になって『図書館は利用者の個人情報を保護する義務があるので、お教えできません』みたいなことを言ったの。おじさんのことを不審者か何かと思ったみたいだったわ。正直、わたしもだんだん変だなって思ってきてたし。……でも、ここからが怖いのよ」
 そう前置きをし、女は声のトーンを低くした。
「それを聞いたおじさんが、いきなり職員さんの襟をね、こう、ぐわって掴んで。『教えろって言ってるんだ!』とか『おまえが取ったんじゃないのか!』なんて怒鳴りだしたの。いまにも職員さんを殴りそうな勢いで」
「……怖えぇな、それ。キレる大人ってやつ?」
「そう言うのかしら。それで職員さんとつかみ合いになったんだけど、ここで騒ぎに気がついた他の利用者さんたちが駆けつけて、結局おじさんはつまみ出されちゃったの。わたし、びっくりして固まってたわ。駆けつけてくれた中の一人に大丈夫ですかって声かけてもらって、ようやく我に返ったくらいよ」
「なんか話聞いてると、そのおじさん、相当やばいぜ。自業自得なのにな。なあ、今度からそこ行くときは声かけろよ。俺もついてくから……」
 それで話は一段落したようだった。あとは二人の友情だか愛情だかを確かめ合う方向に会話が流れていったので、わたしは漂ってきた微妙な空気をごまかすようにカップの底に残っていたカプチーノを一息に飲み干した。


 それから五分も経たないうちに、わたしと先輩は喫茶店をあとにしていた。表通りの商店街までは一緒に歩いていくが、そのあとはあっさりと別れる。道中の会話も特にない。それがここ二ヶ月の週末ごとに繰り返されてきたことだ。
 ときおり、こうして並んで歩いていると、先輩はどうしてわざわざわたしのお遊びに付き合ってくれているのかと真剣に疑問に思うときがある。二ヶ月前のあの日、わたしが叫んだ声はきちんと先輩の耳に届いていたようで、その次の週末に無事名前とK大学の学生であることを教えてもらうことができた。もちろん、予告どおり名前を聞き出すためにコーヒー一杯をおごることにはなったのだが……。

『――変わった名前ですね』
『よく言われるよ』
『では、わたしが一つ下のようなので。先輩、と呼びますね』
『……いつおれが、あんたの先輩になったって?』
『いいじゃないですか、同じK大生なんですから。……でも不思議ですね、いままでこの喫茶店で鉢合わせになったことがないなんて。わたし、結構通っているつもりだったんですが。ええと、先輩は、ここの常連なんですよね?』
『おれは普段、平日の空いた時間しか行かないからな。たまたま気分を変えようと土曜日に出かけたら、あんたに見つかったというわけだ』

 まだ外を寒風が吹き荒れていた頃の記憶を引っ張り出していたわたしは、そこまで思い出して顔をしかめた。そのとき先輩が見せた嫌そうな顔に、わたしが少しばかりのショックを受けたこともついでに思い出してしまったからだ。
 だが、先輩が真実わたしのことを邪魔だと感じているのならば、今日のようにわたしが喫茶店に入ったときに奥から小さく手を振って合図をしてくれたり、同じテーブルに座ってコーヒーを飲んでくれたり、こうして帰路の途中まで一緒に歩いてくれたりすることの意味は一体何なのだろう。
「それじゃあ、これで……」
 不毛な思考を振り払い、家に帰ったら月曜締め切りの電磁気学のレポートでも仕上げるかな、などと思いながらおいとましようとしたわたしの背中に、思いがけず声がかけられた。
「なあ、さっきの話なんだが。おまえ、その小さいほうの図書館の場所、知ってるか?」
「ええ、まあ」
 この二ヶ月で初めての展開に驚きつつも、振り向いたわたしはわざと平坦な口調で答えた。先輩はというと、視線を遠方にさまよわせながら、どこかためらうような口調で言葉をつむぐ。
「いまからちょっと行ってみようと思うんだが、案内頼んでもいいか」
「……いいですよ。別に、これから用事があるわけでもないですし」
 助かる、と言った先輩の目は、もう喫茶店の中で見せたあの冷たい光を宿してはいなかったが、なぜか見るものを不安にさせる色をしていた。


 K大学や商店街がある区画からくだんの図書館がある旧国道に出るには、バスに乗る必要がある。ぽかぽかとした小春日和のなか、とうに散ってしまった桜並木を横目に、わたしと先輩はK大学の北門付近にあるバス停へ向かっていた。
 道すがら、わたしは例の中年男性のことを考えていた。彼が返却した本に挟んでしまった書類とは一体何だったのだろう? 仕事上の重要書類だろうか。それとも、保険証や保証書の類だろうか。いずれにせよ、余程大事なものだったのだろう。
 だが、たとえそんなに大事なものでも、相手の住所を調べたり、公共の場で騒ぎを起こしたりしてまでも取り返したいものだろうか。
 知らず、わたしは深く物思いに沈んでいたらしい。隣を歩く先輩が口に乗せた言葉を上手く聞き取れなかった。
「……は、……のか?」
「えっ?」
 会話が通じなかったことを察したのか、先輩は不機嫌そうに片方の眉を少し上げてみせた。
「あ、すみません、ちょっと考え事をしていたので。もう一回言ってもらってもいいですか」
「おまえは、その図書館を頻繁に利用しているのか、と言ったんだ」
「ああ。いえ、そうでもないです。小さい頃は、市立図書館よりは自宅から近いから、それなりに利用してましたけど。いまでは年に数回行くか行かないか程度ですし、本もその場で読むだけで借りません。学部の課題なんかは大学の図書館で事足りますし。読書自体は、割に好きなんですが……」そう答えたところで、記憶の淵から拾い上げられる思い出があった。「ああ、そういえば。司書のおばさんがとても優しかった記憶があります。昔はおすすめの本とか、よく教えてもらっていました」
 その答えを聞いた先輩は、難しい顔をして唸っている。ややあって、口を開いた。
「その司書のおばさんとやらは、いまもまだいるのか?」
 わたしは彼女の柔和な笑顔を思い出していた。特になにがあったというわけではないのだが、年を重ね、図書館に行く回数が減るにつれて、彼女とも疎遠になっていった。ときおり目が合って、軽く目礼するだけの間柄。最後に見かけたのは、半年ほど前だろうか。
「さあ。半年くらい前に行ったときは、いましたけど」ふと、ひっかかりを覚える。「でも、あの話の中には出てきたのは、若い職員さんでしたね……」
 そこまで答えたとき、低いエンジン音を上げる市営バスがわたしたちを抜き去っていった。吐き出された排気ガスの向こう、五十メートルほど前方に目的のバス停はあった。――バスの本数は、この時間帯ならば一時間に三本。
「走るぞ!」
 一瞬顔を見合わせたあとに、にやりとした笑みを浮かべると、先輩は身をひるがえしてバスを追いかけていった。わたしも慌ててその背中を追って走り出す。
 息が上がりかけた中、日差しでまぶしく霞む視界に、運転席の窓から親指が立った白手袋が突き出されているのが見えた。


「ありがとうございました」
「ども」
 軽く会釈をしてバスを降りたわたしに続いて、先輩が勢いをつけて飛び降りる。発車するバスを惰性で見送ったあと、わたしは向かいの街路に建つ古めかしい赤レンガの四階建ての建物を示した。
「中央公民館は先輩も知ってますよね。あれ。で、あそこの三階の一部が図書館を兼ねているんです」
「なるほど。じゃ、行くか」
 先輩はそう告げるとさっさと道路を横断しはじめた。わたしは三歩遅れてそれに続く。
「あの、先輩」
「なんだ?」
「これは、さっき喫茶店で聞いた話と関係あるんですよね」
「そうだな」
 赤レンガの壁から一ヶ所突出しているエントランスの前でわたしたちは足を止めた。先輩が入り口のガラス扉を引いて、目線でわたしに先に入るよううながす。そのまま三階の図書館まで案内させる気のようだった。わたしは軽く頭を下げると、中に足を踏み入れた。
 外のまぶしい陽光に慣れた身にとっては、控えめな公民館の照明は役にも立たなかった。まばたきを数回繰り返して目を慣らしたあとでさえ、窓の少ない館内は薄暗く感じる。階段があるのは入って左手の奥だと知っているのだが、暗く先がよく見えない館内と、足を運ばなかった半年の空白が、階段の位置が変わっていたらどうしようという勝手な不安を植えつけてくる。――後ろにいる先輩をつつがなく案内したいという気負いのようなものも、少しは関係あるのかもしれないが。
 当然のことだが、記憶の通り、入り口から左手の奥に階上へ続く階段はあった。わたしは一段が妙に低いその階段を上りながら、喫茶店でのことを思い出しつつ斜め後ろを歩く先輩に訊ねた。
「先輩、あのとき、一度話の途中で新聞紙を見てましたよね。それもやっぱり関係あるんですか?」
 わたしの言葉に先輩は驚いたのか、少し間が空いてから返事が返ってきた。
「おまえ、よく見てるな。見られたほうとしては、ちょっと怖いが」
「怖がらないでくださいよ」むっとしつつ言い返すと、悪い悪い、と欠片もそうは思っていなさそうな声が返ってくる。
「そこまで気がついたのなら、ついでに記事の中身にも目を通していれば、言うことなし、だったんだけどな」
「どういうことです……」
 言いかけてわたしは口をつぐんだ。階段を上りきり、三階に到着したのだ。ここには、他の階とは一線を画する静けさが漂っている。照明も、この階だけはじゅうぶんに明るかった。わたしが図書館のある方向を示すと、先輩は無言でそちらへ歩いていった。
 おとなしくその後ろについていきながら、わたしは不思議な感覚にとらわれていた。
 あの話をしていた女の人と、その話に登場した中年男性。つい二十四時間ほど前にあの話の通りのできごとがここで繰り広げられていたのかと思うと、体が震えるような、興奮するような、いわく言いがたい気持ちになるのだった。
 先輩は図書館に入るとカウンターの方へまっすぐに歩いていった。カウンターには若い男が一人、手持ち無沙汰な顔つきで座っている。話に出てきた若い職員さん、とは彼のことだろう。その前に立つと、先輩はごく丁寧な口調で話しかけた。
「すみません」
「はい。なんでしょうか」
「ここで働いている女性に用事があるんです。――彼女が」
 そう言って先輩が振り向いて示した先にいたのは、わたしだった。喉元まで出掛かった、え、という音をすんでのところで抑えつける。あのおばさんに用事があるって? わたしが?
「えと、女性ですか。早川さんのことかな? 眼鏡をかけて、ちょっとぽっちゃり、なんて言ったらあれですけど。五十代くらいの女の人ですよね?」
 カウンターの中の彼が戸惑いながら告げたその特徴は、間違いなくわたしの記憶にあるあの女性を指していた。
 あまりの展開に口が利けないわたしを、職員に見えない角度から先輩が怖い顔で睨んでくる。どういうことかはわからないが、この小芝居に話を合わせなければいけないらしい。
「あ、はい。そうです。早川さんというお名前だったんですね」
 知りませんでした、と取ってつけたように言ったあとは言葉が途切れてしまった。職員の不審な視線が刺さるようだった。なぜわたしがこんな目に、と思いながらも必死に頭を回転させる。
「あの、わたし、小学生の頃、彼女――早川さんにとてもお世話になったんです。たくさん本も紹介してもらって。早川さんのおかげで読書が好きになったと言っても過言ではないくらいに」
 これは本当のことだった。当時のわたしは子ども向けの本に飽き飽きしていたものの、大人向けの本は難しくて読む気が起こらない、と読書離れをしていた。そんなときに彼女が、少し背伸びした気持ちになれるような中高生向けの読みやすい本を紹介してくれた。そうして次々と薦められるまま本を読むうちに、わたしは自ら進んで本を探すようになっていった。
「そのことを、今日になって急に思い出したんです。思い出したら、一度きちんとお礼を言いたくなって……」
 言いながら、あまりの苦しい言い訳に、わたしは口をつぐんだ。
 ――このあとに一体何を続けろというのか。
 わたしはただ、横で傍観していた先輩にすがるような視線を送ることしかできなかったが、彼は胡乱うろんな目をしたまま突っ立っているばかりでこの状況をどうこうしようという気はないらしい。
 気まずい沈黙を破ったのは、あはは、という職員の気軽な笑い声だった。
「ああ、そういうことでしたか。すみません、最近この図書館に変な人が来る事件があったので、うちもちょっと警戒しなきゃ、ってことになっていたんです。普段は職員に用件のある人が来たら、すぐ引き合わせるようにしてるんですけど」
 小声で告げる職員に、そうだったんですか、と安堵の息を吐いたのもつかの間、わたしは新たな問題に頭を抱えこみそうになった。
 では、いざその早川さんが出てきたとして、一体何を話せばいいのだろう。先ほど宣言した通り、お礼を言えばいいのだろうが、そもそも明確な目的を持って訪ねたわけではないため会話の間が持たない気がする。
 しかしわたしの心配は、続く職員の言葉で杞憂と化した。
「でも残念ながら……。早川さんはつい一昨日、ここを辞めてしまったんですよ」
「え?」
「だからいまぼくが臨時に入っているんですけどね。なにぶん急なことでしたし」
 言われてみると、彼の胸元のネームプレートには赤い字体で臨時職員、と書いてある。沈黙を守っていた先輩が会話に入ってきたのはそのときだった。
「それでは、早川さんは、突然ここを辞めたんですね? 職場の人に相談もせずに?」
「え、ええ。そうですけど」
 先輩の畳み掛けるような気迫に押されたのか、職員はカウンターの中で少し身を引いた。
「そうですか。お手数かけました、ありがとうございました」
 それだけ言うと先輩は愛想の良い笑みを浮かべ、かと思うとカウンターに背を向けその場を離れた。ぽかんとしている職員にわたしは軽く頭を下げ、すたすたと歩いていく先輩のあとを追った。
 周囲を見渡しながら館内を散策しているふうだった彼の足が止まったのは、新聞閲覧のコーナーだった。
「ちょっとこれ、見てみろ」
 先輩が示したのは、喫茶店の中で彼が読んでいたものと同じ新聞だった。その指の先、地方欄の片隅に、一見見逃してしまいそうな小さな記事が載っていた。
 ――宝くじ一等二億円××市××区に――
 どこかで聞いた覚えのある話だ、と考えたとき、喫茶店で交わされていた話の中にそのようなものがあったという記憶にたどり着いた。この街に億万長者が出た、という話だ。
「ああ、喫茶店でも話している人がいましたっけ。××区っていうと、この辺りですか。うらやましいですねえ」
 紙面に顔を近づけ、思ったままの羨望の気持ちを口に出すと、先輩のあきれたような声が降ってきた。
「これで、ヒントは全部出したからな」
「え?」
 驚いて向き直ると、先輩は既に足先を出口に向けていた。その背中がどんどん遠ざかっていくことに焦りを感じ、わたしは慌てて先輩を追いかけた。


「結局どういうことなんです? 話に出てきたおじさんは、早川さんと何か関係があったんですか? あと、さっきの宝くじも」
 来たときとは反対の、中央公民館側のバス停。錆びたベンチにわたしと先輩は少し間隔をあけて座っている。陽はいつの間にか傾き、涼しい風が木々を揺らしていた。
「考える材料は揃っているんだから、自分で考えろよ。それが嫌なら」ここで先輩は人の悪い笑みを浮かべてみせた。「指南料、が必要だな」
「図書館まで案内したじゃないですか。それに、わけのわからない芝居にもつき合わされました」
 そういえばそうだった、と平気でうそぶく先輩をわたしは睨みつけた。
「そういうわけなので、もったいぶらずに教えてください」
「そういうことなら、もったいぶらずに教えてやるか」
 ふざけてオウム返しのように言った先輩は、次の瞬間、少しだけ寂しそうな顔をみせた。
「世の中、金で人生が狂った奴は、どれくらいいるんだろうな」
 不意打ちのようなその表情にわたしが何も言えないでいるうちに、先輩はいつもの調子で話しはじめた。
「結論から言ってしまえば、例のおじさんとやらが本に挟んだのは当たりくじだ。で、司書である早川さんがそれを返却本のチェック中に見つけ、ネコババして換金、雲隠れ。新聞記事になったのが今日だから、換金したのは昨日か一昨日ってとこか。いまごろは新天地で第二の人生のスタートでも切ってるんじゃないか?」
 一瞬の沈黙が流れた。わたしは先輩の告げた突拍子もない《真相》に異を唱えるべく息を吸い込んだ。
「なんで、そうなるんですか?」
「なんでそうならないんだ? とまあ、おれなんかは聞き返したいわけだが」
 先輩の放った言葉と、今日見聞きした事柄がわたしの頭の中をぐるぐると回る。そうして渦巻く情報の嵐の只中に、一つの答えが浮かび上がろうとしていた。

 ――慌てた様子で『私が三日前に返却した本、ありますか』って。
 ――『おまえが取ったんじゃないのか!』なんて怒鳴りだしたの。
 ――早川さんはつい一昨日、ここを辞めてしまったんですよ。
 ――早川さんは、急にここを辞めたんですね? 職場の人に相談もせずに?
 ――宝くじ一等二億円××市××区に。

 おじさんが宝くじを当てた。なにかの拍子にそれを本に挟んでしまった。そして、気がつかずにそのまま返却してしまった。早川さんは、それを見つけた。そして――
「……だから、おじさんは図書館に来て、早川さんは仕事を辞めたんですか?」
「正確には、おじさんが殴り込みだかなんだかに来た昨日にはもう、早川さんは辞めてたってことになる。抜け目のない人だったんだな。
 彼が図書館をあたるのが遅れたのは、まさか本に挟んでいるなんて思いもしなかったからだろう。当たりくじを失くしたと気がついて、家中を探すが、それでも見つからない。二日探してようやく――そう、返却したのがいまから四日前になるんだから、二日間は自力で探したんだ――返却した本の隙間に何かの拍子に挟んでしまっていたのではないかと、そう考えついたんじゃないか。普通なら、そんな可能性は信じない。だが、彼にとっては藁にもすがる思いだったんだろう。なにせ、文字通り、けた違いの大金だったんだからな」
 わたしはうつむいて、知らず握りこぶしを作っていた自分の手を眺めた。
「でも、そんなことって……当たりくじを本に挟んじゃうなんてことが、本当にあるんですか?」
「ないだろうな、普通は。いまの話も、確証はないし、すべておれの推測に過ぎない」
 話し疲れたのだろうか、ふう、と息をつく音がした。
「……それでも、タイミングや周囲の状況がそうだと言っている」
 わたしはしばらくの間、呼吸をすることすら忘れて、ただベンチに座っていた。
 宝くじが当たる。降ってわいたような幸運。恐らく一生縁がないであろう大金を手にしたとき、人は何を考えるのだろうか。単純に喜ぶ者もいるだろうし、人生が狂ってしまうのではないかと恐れる者もいるだろう。あるいは、その両方の感情を抱く者――こちらの方が、普通かもしれない。
 彼もそうだったのだろうか。人生を変えてしまうかもしれない一枚の紙切れ。それを前にして葛藤をするうちに、手に入れたはずのものがあっという間に失われてしまった。そうして、やり場のない失意に突き動かされ、あの図書館に向かったのか。周囲の冷たい視線を浴びる覚悟で、彼の――そう、まぎれもなくそれは彼のものだったはずだ――二億円を取り戻しに行ったのだろうか。
 だが、そうして乗り込んだ先に、既にその二億円はなかったのだ。
 自業自得、という言葉が脳裏にちらつく。喫茶店で、聞き手だった男が言っていた言葉だ。
 確かにその通りだ、何も間違ってはいない。だが――。
 春先にしては妙に肌寒さを感じさせる風がわたしと先輩の隙間を通り抜けていった。まっすぐ前を見つめる先輩の表情は、沈みかけた太陽の逆光に隠れてよく見えない。そのことが、わたしを妙に不安にさせた。
「あ、あの。話は変わるんですけど、先輩は喫茶店で話を聞いたときにはもうおよその真相が見えていたってことですよね? それってすごいことじゃないですか!」
 不吉な予感を振り払おうと、わたしはわざと明るい声をあげて横から先輩の袖を引っぱった。
「ん、ああ。たまたま当籤とうせんの記事を直前に読んでたから、そうじゃないかって思っただけだ。実際、あれを読んでなきゃ全然見当もつかなかっただろうな。待ち時間を潰すために読んでた新聞が功を奏したってわけだ」
 先輩は気のない声で返事をしてわたしの方に顔を向けた。そのときにはもう、少しだけ偉そうな、いつもの通りの先輩の顔に戻っていた。わたしにつかまれた袖を気にしているのか、やや居心地が悪そうにも見える。若干の気まずい思いを抱え、わたしはそそくさと手を離した。
 ベンチの間には再び沈黙が下りた。赤く染められた旧国道を何台もの車が通りすぎていった。
 しばらく車を見送っているうちに、わたしはあることに気が付いた。
「さっきの……《待ち時間》って何です?」
 先輩は一瞬しまった、という顔を見せた。尊大に構えている彼にしては珍しい――というより実際、それはわたしが初めて見る表情だった。
「それは、喫茶店で、わたしのことを待っていてくれたってことですか?」
 わたしと先輩が同じテーブルに座るとき、大抵の場合はわたしが勝手に先輩の座る席に押しかける形になっている(ほとんどの場合彼のほうが早くに来ている)。そのことを先輩がどう思っているのかはわからない。先輩は追い払いもしないが、歓迎もしない。
 その彼が、どういった心境の変化か知らないが、今日に限ってはわたしを《待っていて》くれたらしい。そういえば、わたしが店内に入ったときも手を振ってくれていた。……その割には、店内での先輩の様子に変わった点はなかった気もするのだが、いまのわたしにとってそれは些細なことだった。周囲の話に聞き耳を立てるなりなんなりをしていればいい時間を、わたしを待つことに使ってくれたということが、重要なのだ。
 あー、とも、うー、ともつかないかすれ声を出す先輩を、わたしはさらに追及した。
「それじゃあ、先輩は、わたしと一緒にコーヒー飲んだりすることが嫌ってわけではないんですね?」
「お、おい。なんかおまえ、怖いぞ」
「今日はそればっかりですね。さっきも聞きました」
「さっきのは冗談みたいなものだが、いまのは本気だ」
「そうですか、でもいまはそんなことどうでもいいんです。嫌なのか、そうじゃないのか、教えてください」
 そう言って先輩に詰め寄ろうとした矢先、視界の隅にこちらへ近づいてくるバスの姿が映った。これ幸いと言わんばかりに、先輩は錆びたベンチから立ち上がった。わたしがうらめしそうな目で見ても少しも気にならないらしい、すっきりとした表情で徐々にスピードを落とすバスを眺めている。夕日に照らし出された横顔からは、今日幾度か垣間見た真剣なまなざしや怜悧な面持ちはうかがえない。薄茶の瞳は、陽光を反射してただきらきらと輝いている。
 ――この人のことは、まったくわからない。
 そんなことを考えながらわたしは帰路についた。

<人生のしおり・了>



3:賭博師の代価

「おかあさん! あそこ、おっきなお魚さんがいるよ!」
 子ども特有の甲高い声が耳に入り、男は徹夜明けの影響で落ちかかっていたまぶたをこじ開けた。
 男が半眼をめぐらせた先、少し離れた座席で五歳前後の少年が膝立ちで窓に張り付いている。そのすぐ隣に座る母親は、興奮する様子の彼の頭をなでながら、困ったような微笑みを浮かべている。
 日曜日、次発の電車内。中央を空けてずらりと向かい合う座席の末端に男は座っていた。乗客は少なく、男と母子のほかには朝帰りらしいサラリーマンが一人、反対側の列の座席で舟をこいでいるだけだった。
「きっとネコさんに食べられたんだよ、ほら。見てよ、ねえ!」
 なおも母親の注意を引こうとする少年に、母親が仕方がないといった風情で窓の外に目を向ける。つられるように、男も首をねじる。時刻はまだ日が昇ったばかり。高架を走る電車はちょうど空港の側道を通過したところで、窓からはだだっ広い駐車場と、その向こう側の鉄条網や滑走路が見えるだけだ。
「魚なんて、いないじゃない」
「あんなにおっきいのに、お母さんには見えないの!」
 なだめるような声に、じれったそうな声が重なる。なおも不服そうな顔の子どもだったが、すみませんね、と誰にともなしに頭を下げた母親にその頭をはたかれたあとは騒ぎ立てることもなくなった。
 男は首を正面に戻し、再びまぶたが落ちるに任せて目を閉じた。その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
 ――いいことを思いついた。
 男の意識は既に次の週末に向かっていた。

 ***

 六月もそろそろ折り返しを迎えようかという、土曜日の午後。
 今日もまた、わたしは大学からほど近い商店街の一つ裏の通りにある喫茶店で、馴染みの隅のテーブルに陣取ってのんびりカップに口をつけていた。もしもきっかり一週間前の様子を見ることができるカメラがあって、誰かがそれを使ってわたしを覗いたとしても、いまと同じ姿が見えるだけだろう。
 ――うん、くだらない。
 わたしは一つかぶりを振って、しようのない想像を払い落とした。
 薄暗い店内は、既にK大生らしき男女によってあらかた席が埋められている。客の装いもすっかり薄着になっていて、これから訪れる季節を感じさせる。

 どこそこの講座に美人の先輩がいるらしい。
 連日の雨で洗濯物にカビが生えた。
 最近付き合いが悪い友人。
 K空港の近くに高級なコーヒーを扱うカフェができたらしい。

 テーブルの木目から意味深い何かを読み取ろうとするかのようにうつむきっぱなしのわたしだが、耳だけはしっかりと澄ませている。
 週末になるたびに、ここの喫茶店でコーヒーを飲みながら人々の交わす話に耳を傾けること。これがわたしの――厳密には、わたしともう一人の――趣味だった。褒められたものじゃないけど、と苦笑いが口の端に浮かぶ。
 体すべてを耳にするような気持ちで、濃いコーヒーの匂いがたちこめる空気を呼吸する。贅沢な時間の使い方だなあ、という感慨にふけりながら、わたしはもう一口分カップを傾けた。
 店内がわずかに明るくなった。
 入り口の扉が引き開けられ、新しい客が入ってきたのだ。木目から視線を引き剥がしたわたしと、ひょいとこちらに顔を向けた彼の目が合う。そのまままっすぐわたしの座る隅のテーブルまで歩いてきた彼――先輩は、よお、と挨拶をすると自然な動作で向かいに腰を下ろした。とがった容貌に、どこか斜に構えたような態度も、二週間ぶりに見ると懐かしさを覚えてしまう。
 応えるわたしの口からこぼれ出たのは、どうも、というなんとも気の利かない返事だったが、先輩は気にした様子もなく、頬杖をついてメニューに目を落としている。
 黒づくめの上下は相変わらずだが、今日は普段より丈が短い。半袖姿を見るのは初めてかもしれない、などと思いながら、わたしはテーブルに触れている先輩の硬そうな肘の先をぼんやりと眺めていた。
「まったく、兄貴にも困ったもんだ」
 そう唐突につぶやいたかと思うと、先輩はメニューを閉じて脇に除けた。「エスプレッソの、うんと濃いやつ」と、近寄ってきたウェイターに告げる。
 先輩はメニューに載っていないものでも平気で頼むことがままあったが(それでもなぜか毎回メニューに目を通すのだが)、大学生を相手取ってきたウェイターにはその手のオーダーも慣れたものなのか、彼は表情も変えずに去っていった。ウェイターの背中がカウンターの奥に引っ込むのを見送った先輩は、こちらに顔を戻し――すぐさま、そこに怪訝なものを浮かべた。
「なにか言いたいことがある、って顔に見えるんだが」
「そんな顔してますか?」
 思わず頬を手で押さえる。一見してわかるほどの妙な顔をしたつもりはなかったのだが。
「先輩にも兄弟が、しかもお兄さんがいるってことにちょっと驚いただけですよ」
「まるで、おれに兄貴がいちゃいけない、とでも言わんばかりの口ぶりだな」
 挑むような口調で反応が返ってきたので、わたしは慌ててとりなした。
「いや、そんなことは言ってないじゃないですか。……お兄さん、どうかしたんですか?」
 何気なさを装いつつも、内心わたしは驚いていた。先輩が身内の話――ひいては個人的な話を切り出すことが初めてだったからだ。雨でも降るか、雷でも落ちるか。先輩自身も慣れないことをしているという自覚があるのか、頬杖をついたり、外したり、その所作にどこか落ち着きがない。
「どうもこうも。……先週の金曜なんだけどな。夜、兄貴から電話がかかってきて――交通事故に巻き込まれて足を怪我した、なんて言うから」
「ええっ」
「骨でも折ったかと思ったが。医者に見せに行ったらかすり傷、だとよ」
 口調は乱暴だったが、その顔には、安堵に近いものが浮かんでいるように見えた。
「たいしたことがなくて、良かったじゃないですか。……お兄さんて、どんな人なんですか?」ついでとばかりに、訊ねてみる。
「いきなり人を呼びつけて、足が痛むからって――繰り返すが、かすり傷だったんだぞ――翌日いっぱい顎で使うような野郎だ。ろくな奴じゃない。ろくでなしだ、ろくでなし」
『翌日いっぱい』ということは、なんのかんの言いながらも先輩は土曜日の間ずっと《ろくでなし》の看病をかいがいしくしていたことになる。わたしがのんびりコーヒーを飲んでいた時間だ。
「仲がいいんですね、お兄さんと」
 わたしがそう告げると、先輩はわかりやすいほどに顔をしかめてみせた。
「どこをどう解釈したら、そうなるんだ?……そういえば、おまえも妹がいるとか」
 自分の話はこれでおしまいにするつもりなのか、先輩は一つかぶりを振ると今度はわたしのほうに矛を向けてきた。
「はい。一つ下に」
 妹のことを話したのは、冬のあのときの一度きりだったはずだ。先輩が妹のことを記憶していた、というのは多少意外だった。
「……先輩に似てる気がします、なんだか」
 少し考えてそう付け加えると、向かいからの眼差しが胡乱うろんなものになった。
「あ、いえ、顔が、じゃないですよ」
 何かにつけて人におごらせようとする根性が似ている、などとは口が裂けても言えるわけがなく、ともすれば上ずりそうになる声をごまかそうとわたしは空咳をした。そんなわたしの内心も知らず、そりゃそうだ、とつぶやいた先輩は目を伏せた。わたしもそれに倣うようにして、中身が半分になった自分のコーヒーカップに目を落とす。
 わたしたちの会話は終了した。これからは《聞き》の体勢に入るのだ。――だが、その前に。周囲の会話に集中する前に、少しだけ考えたいことがあった。
 先輩は、先週この喫茶店に姿を見せなかった。
 わたしたちが隅のテーブルに同席して、周りの会話に聞き耳を立てることは、明確な約束や取り決めを交わした結果ではない。わたしのほうは毎週土曜日にコーヒーを飲みにこの喫茶店へと足を運ぶことが習慣化していたが、先輩はそうではなかったはずだ。『おれは普段、平日の空いた時間しか行かない』というのは、先輩の言だ。だから、先週彼が店に現れなかったことはべつだん不思議なことではないし、久しぶりに一人でカップをすすることが少し寂しいと感じるのはわたしの勝手な感情にすぎない。
 けれど、さっきの話――お兄さんが怪我をして、その看病をしに行ったという話のことだ――を考えると、土曜日は忙しかったということを、わたしにわかるようにわざわざ説明してくれた……のではないか、という気がする。先輩に説明をする義務なんて、ないのに。
 それは、とても遠まわしだ。
 それでも。
「うれしいな」自然と、口をついて言葉がこぼれ出ていた。対面をうかがうようにそっと顔を上げてみると、先輩は顔をうつむけたままだった。わたしの独り言が聞こえなかったのか――それとも、そのふりをしているのかは、わからない。
 だが、そんなことはどうでもよかった。もやもやとした思いが消え去り、わたしの中に輪郭の定まらない幸福感のようなものが満ちてくる。
 ――余計なことは考えずに、いまはこの穏やかな空気を満喫しよう。
 ようやくわたしの中に《いつもの》週末を過ごす体勢が整ったようだった。


「……よく……があるね。ぼくは、水で遠慮しておくよ」
「私だって、困ってるわよ。でなきゃ、こんな話に乗るわけないでしょ。でも、今日は特別。これを最後の贅沢にするわ」
 不意に聞こえてきた会話の内容に妙な引っかかりを覚えて、わたしは耳をそばだてた。わたしたちの隣、同じような暗がりに半分沈みかけたテーブルからそのやり取りは聞こえてくるようだった。
「二十歳の誕生日に、コーヒー一杯の贅沢か。わびしいなあ」
 渇いた笑い声――若い男の声だ。
「でも、本当にいいんだね?」
「それはこっちの台詞よ」男の言葉尻にかぶさるようにして、勝気そうな若い女の声。
「私はもともと、結婚願望なんてないから、いいのよ。これまでも……これからも。あなたこそ、大丈夫なの? 後悔しても、いつまでも残るわよ」
 女の問いかけに、しばしの沈黙が返される。
「……平気さ。ぼくも似たようなものだから。だいたい、まともな人間は、こんなこと考えない――いや、考えはするかもしれないけど、実行しようとはしないよ」
「それもそうね……あなた、いま、すっごく悪そうな顔してるわ」
「君もだよ」
 くすくすと、密やかな笑い声があがる。秘密を共有するものたちの笑み。薄暗い隣のテーブルの様子はうかがい知れないが、なにか悪だくみをしている気配は伝わってくる。
「実は、もう、もらってきているの。私、二十歳になるのが本当に待ちきれなかったのよ。……あなたも、早いほうがいいでしょ? この一ヶ月間、あなたを待たせてるみたいで、あまり良い気分じゃなかったしね」
 鞄の中を探るような気配のあとに、かさり、と乾いた音がする。女性のほうが、なにか書類か、紙に類するものを取り出したようだ。
「私の分の判は、押してあるわ」
 ここで、わたしははっと息を呑んだ――正確には、呑もうとして口を押さえた。これは、この話は。普段ならまず感じることのない罪悪と羞恥に心が煽られる。
「淡白だなあ。君に、雰囲気なんてものは期待できないとはわかってたけど。……じゃあ、預からせてもらうよ。役場にはぼくが届けていいかな」
「お願いするわ」
「ところで」男の声の調子が、やや軽いものになる。
「試験、大丈夫かい?」
「……平気よ。落とさないように、勉強するから。こんなところで引っかかっちゃ、冗談にもならないしね」
 憮然とした声が返る。ふう、という大げさな溜息の音が聞こえたかと思うと、今度は妙に改まった彼女の声が続いた。
「では、残りの二年と半期の間、よろしくお願いします」
「――こちらこそ」
 穏やかな笑い声をあげて、隣のテーブルでささやかな祝杯が挙げられる。先ほどまでのどこか緊迫していた気配が緩み、柔らかいものに取って代わられた雰囲気がこちらにも伝わってきた。その後は耳をそばだてていても、意味深な会話が聞こえてくることはなかった。


 隣の二人が席を立ち、コーヒー一杯だけの会計を済ませて出て行ったタイミングを見計らって、わたしは顔をあげた。
「先輩」
「ああ、あの二人か。聞いてた聞いてた。で、なんだ」
 狙いすましたわたしの心境でも見抜いたのだろうか、先輩の口の端がわずかに持ちあがっている。
「……聞いてたんですか」
 それならば、話は早い。
「ちょっと言いにくいんですけど、あれって」小さく息を吸い、わたしはテーブルの下でこぶしを握りしめた。
「婚姻届、だったんですよね?」
「……そう思う理由を論旨明瞭に、筋道立てて述べよ」
 真面目くさった表情を顔面にはりつけて先輩が言う。なんなんですかそれ、とわたしは一応抗弁をしたあとに、多少のやりづらさを感じながらも続けた。
「まず、今日が二十歳の誕生日、という話が出ましたね。結婚って、二十歳を過ぎたら保護者の承認なしでもできるじゃないですか。加えて、判子がどうとか、役場がどうとか。若い二人がひっそり話し合うような内容なら、そうなのかなと思ったんです」
 そこで言葉を切って、薄茶の瞳を見返す。
「――でも、なんだか変な感じもありまして」
 気だるげに頬杖をついていた先輩の瞳に、あの面白がるような光が走ったのが見て取れた。そのまま、目だけで先を促してくる。
「最初、女の人のほうは『私はもともと、結婚願望なんてない』って、言ってましたよね。相手の男の人もそれに同意を示していたように、わたしには聞こえました。でも、それなのに……なんで、判を押して役場に届ける――結婚するという話になるんでしょうか。それも、早ければ早いほどいい、なんて。結婚するつもりはないのに結婚する、というのは矛盾じゃないですか。ということは――」
「ということは?」
「なにか、裏があるってことですよね」
 わたしの言葉に、先輩は手を軽く顎にやって考えるそぶりをみせた。ややあって、なにか思うところでもあったのか、険しい目をして唸るようにつぶやく。
「結婚する《つもり》。……なら、やりようがあるか」
「やりよう?」
 なにかを言いかけていた先輩が、はっとしたように口をつぐむ。だがその表情を浮かべていたのも一瞬のことで、次の瞬間には心底楽しそうな、なにかを企むような、とらえどころのない笑みが口元に刻まれた。その表情に嫌な予感を覚えて身を引いたわたしをよそに、先輩は口上を切り出した。
「一つ提案があるんだが」
 はあ、と曖昧な返事を返すも、先輩の勢いは止まらないようだった。思わず目を逸らしてしまいそうになるほど眩しい笑みを浮かべたまま、彼はさらりととんでもないことを言った。
「いまの話――隣のテーブルの二人については、だいだい何を企んでいるのか、見当はついた」
 そうなんですか、と相槌を打とうとしてわたしは目を見開いた。え? と喉から漏れた間抜けな自分の音が、妙に耳に遠い。
「まだ二つ三つ、確かめたいことはあるけどな。おおまかな事情は把握したつもりだ」
「え、いや、でも。さっき話を聞いたばっかりなのに、どうして……」
 台詞の後半は、ぼそぼそという音と悔しさをにじませたまま消え去った。隠そうともしない先輩の得意げな表情に、どうしようもないほど引きつけられそうになる自分を自覚して愕然とする。これでは、罠に嵌められたねずみのようなものだ。
「で、だ。いつもはここで指南料をいただくところだが」薄明かりに悪人の笑みをひらめかせ、先輩はわずかに身を乗り出してみせる。「代わりに、おれの《なぞなぞ》を解いてみないか?」
「は?」
「先週の日曜なんだが、兄貴の看護から解放されたおれは次発電車でさっさとこっちの下宿に戻った。その帰りの車中、窓の外を熱心に眺めている小さな子どもがいてな。ちょうど高架の上で、空港を通り過ぎた辺りでのことだ」
「空港……ええと、K空港、のことですか?」
 頭の中に電車の路線図を思い浮かべながら確認を取る。K空港には最寄の電車駅――K空港前駅という名だ――がある。この喫茶店から一番近い大学前の駅から九駅離れたところ(わたしが通学に使う路線と同じ方向にあるので、家からは二駅離れた位置ということになる)に位置する駅だ。お兄さんのために、ずいぶん遠くまでお見舞いに行ったのだなあと、思わず関係のないところに感心してしまう。
「そうだ。それで、その子どもが空港側の窓に手をつきながら、『大きな魚がいる』と言ったんだ。それから、その魚は『猫に食べられた』んだろうと」
 唐突な話に目をしばたかせるしかないわたしを翻弄するように、先輩はいっそう笑みを深くした。「おれもそのとき窓の外を見たんだが」という前置きのあとに続ける。
「高架下に大きな魚が落ちていた、なんてことはなかったし、あの線路からは海が見えることもない。辺りに魚を連想させるような看板もなかった。一緒にいた子どもの母親も、外を見たが『魚なんていない』と言った。……では、子どもが見たものは何だったのか」
「何だったんです?」つられて身を乗り出すと、途端に先輩はペテン師のようにすっとテーブルから身を引いた。
「来週までにその答えを見つけることができたら――引き換えに、隣の二人の解答編、を教えてやってもいい」
「ええっ」
 ここまで謎を引っ張られた挙句、お預けをくらうとは思ってもみなかった。それも、同時に二つの謎の答えを目の前で取り上げられている。先輩はといえば、何かを試すような、探るような目をしてこちらをうかがっているようだった。
 そうしてただ座っていると、徐々に身に覚えのある悔しさが心の内からこみあげてくるのを感じた。この感情はなんだったろう、と思い出そうとしたその瞬間、先輩と初めて会った日のことがわたしの脳裏をよぎった。
 ――あのとき先輩が見せた、自分はもうすべてお見通しだ、と言わんばかりの顔。
 今回もまた同じ話を聞きながら、先輩は何かに気が付き、わたしは何にも気が付かなかった。
 一人置いてけぼりを食らったような悔しさが心の底ににじむ。だが、それに反発するように、負けてなるものか、という闘志がどこかで奮い立つのも感じた。
「それは、偶然の産物――例えば、たまたま魚屋さんが空港付近をうろついていたとか、たまたま誰かが沿線で魚の形をしたたこを揚げていたとか、そういうことではないんですね?」
 言いながら、それならば母親にも見えたはずだ、と自身に確かめる。
「そうだ」
 どこか楽しむような表情はそのままに、いつの間にか先輩の顔には一さじの挑戦的な意思のようなものが混じっている。
「わかりました」
 むくむくともたげる反抗心のまま、わたしは一字一句を押し込めるようにしてつぶやいた。
「でも、それだけでは――先輩の《なぞなぞ》をわたしが解けるかどうかという、それだけでは――あまりにも一方的でつまらないので。先輩、せっかくなら、《勝負》しませんか?」
 わたしのこの提案が予想外だったのだろう、先輩はいぶかしげに目を細めた。
「わたしが、その先輩の《なぞなぞ》を解くことができたとして、さらに先輩に解答を聞かずにその隣の二人の謎も解けたら、わたしの勝ち。解けなかったら、先輩の勝ち。……どうです?」
 先輩は、実に嬉しそうな顔をした。
「だが、その条件はおれに不利じゃないか? おまえが、完全に謎を解いたとして、それでおれと対等だっていうのならわかるが」
 子どもが欲しくてたまらないおもちゃを手にしたときのような、純粋な喜びを露呈させたその表情のまま、先輩はさっと指摘をした。まったく不利などとは思っていないことはその顔を見れば明白だったが――言われてみれば、その通りである。
「ええと、そこはハンデということで」
「何に対するハンデだ?」
 しまった、と思いながらわたしはなんとか言葉を探した。
「としよ……年長者のハンデです」
「……いい度胸だ」
 ほら、先輩のほうが先輩じゃないですか、と苦し紛れに言い逃れようとすると、先輩はテーブルの上に投げ出していた両手を組み、こちらを睨み上げてきた。その眼光にぎくりと身をすくませて次の言葉を待つが、結局、先輩の口からは「あ、そう」というつぶやきが出るにとどめられた。指摘をするだけして満足したのか、追撃の気配はないようだった。
 わたしはほっと息をついた。
「それで、勝ったほうが――」言いしな、わたしは勝者の賞与を考えていなかったことに気がついた。はたと動きを止めたわたしを見咎めたのだろうか、中途で止められた言葉を先輩が継いだ。
「――負けたほうに、コーヒー一杯」
 それならば仮に負けてもたいした損害ではない、と早くも弱気の虫がわたしの中で鳴いた。
 だが、次の先輩の言葉にわたしの安っぽい安堵は吹き飛んだ。

「ただし、ここ、のコーヒーに限る」

 何気ないしぐさで先輩が上着のポケットから取り出して見せた紙切れには、見覚えがあった。ここ三日ほど、大学前の駅で大量に配られていたのだから無理もない。
 そのちっぽけな茶色の紙は、喫茶店の会話にも登場していたあの《高級コーヒー》とやらを扱っている店のチラシに他ならなかった。
「ああ、念のために言っておくが。魚の謎も、あの二人の謎も、両方解けなかった場合はおまえの二重の負け、ということで二杯だからな」
 余裕たっぷりに告げられた先輩の声とは対照的に、わたしの内心は暗雲に覆われていくようだった。


「……それで、来週末には高級なカフェーに二人でお出かけなわけかあ。へええ、なるほど。なるほどねーえ」
 前へ後ろへとまとわりつく妹を避けながら、わたしは配膳を整えていく。
 日中のじめじめとした湿気も、夕方を回った頃からは涼風に吹き流されたのか、家の中は比較的過ごしやすい空気になっていた。半分開けた網戸から侵入する風が、肌に心地良い。
 今日の晩ご飯はじっくり煮込んだ豚の角煮に、先日母の実家からもらった白菜をたっぷりと使った野菜スープだ。今日も父と母の帰りは遅くなる、と聞いていたので、妹と一足先に食べてしまおうということになっていた。
「ははーん。知らん顔してるけど、なかなかどうして。……やるじゃん、姉さんも」
「違うってば!」
 あとはご飯をよそうだけ、というところでついにわたしは忍耐の限界を迎えてしまった。こめかみを押さえながら、背後に向き直って告げる。
「……どちらかというと、罰ゲームに近い気分だよ。一杯が、千円を超えてるコーヒーなんて」
 それも、下手を打つと二杯もおごる羽目になってしまう。わたしはテーブルの上に置いていた例のチラシをつまみ上げ、妹の鼻先に突きつけてみせたが、妹のにやにやとした笑みは崩れなかった。
「照れない、照れない」
「照れてない!」
 口で妹に勝てないと知りつつも、ついつい彼女の手に乗せられて舌戦に引きずり込まれてしまう。喫茶店の顛末を妹に話したことに、わたしは早くも後悔を覚えはじめていた。
 しかし、嬉しそうな妹の顔を見ていると、後悔すら超えた諦念の感が湧きあがってくるのも確かだった。こうなった妹に勝てないということは、彼女が生まれてからの二十年で嫌というほど知り尽くしている。
「飛んで火に入る夏の虫、ってね。姉さんも間抜けだなあ」
 けらけらと笑う妹の頭を軽くはたいて「あんたも手伝いなさい」と告げる。我ながら情けないほどに八つ当たりだった。妹もそうとわかっているのか、肩をすくめて炊飯器に向かった。
 父と母の取り分を鍋に残して、わたしと妹は台所から居間へ移動する。二人で両手一杯に皿を持って三往復もすると、ささやかな晩餐の準備は完了だ。最後の仕上げとばかりに、卓についた妹がさっとテレビを点ける。徐々に明るくなるブラウン管の中では、二人の刑事が奇怪な事件に立ち向かっているようだった。
「いただきます」
「いただきまーす」
 一言二言、他愛のない会話を交わしながら食事が進んでいく。このスープちょっと塩辛いね。わたしはこのくらいが好きだけど。あ、たぶんあいつは犯人じゃないよ、見るからに怪しいじゃん。ひっかけひっかけ。そうかなあ。…………。……。
「ねえ」
「うん?」
 妹が好奇心に満ち溢れた、きらきらとした目でテレビから顔を離したのは、わたしが最後の角煮を口に放り込んだときだった。
 身内の曇り目、かどうかはわからないが、妹がこの顔をしているときは本当にかわいい、と思う。大きなぱっちりとした瞳に、モデルもかくやという比でパーツが配列された小作りの顔。常に短くしている髪も、溌剌はつらつとした妹の性質を引き立てているように思う。もとより素地は悪くない――いや、悪いどころか、とんでもない美人の部類に入るだろう。
「それで、その《魚》は見つかったわけ? 負けず嫌いの姉さんは、当然もう見てきたはずだよねえ」
 ――ただ、そのかわいらしさに呆けていると、思いもよらぬ攻勢に泡を食うことになるのだが。
 わたしは妹から目を逸らしつつ、ぼそぼそと答えた。
「うん、まあ。見てきたよ。空港方面に用事もあったし、ついでに」
 テレビの刑事たちはライバル刑事と、捜査から手を引けいや引かないと押し問答をしている。口八丁手八丁で言い募る主人公の刑事たちの前に、ライバル刑事がついに折れる。
 その姿につい自分の境遇を重ねてしまい、苦虫を噛み潰したような顔を見せるライバル刑事に、あなたの気持ちはよくわかるよ――と心の中で呼びかける。わたしなどに同情されても、テレビの住人には届くはずもないのだが。
「……見てきたは、見てきたんだけど。電車の窓からは、駐車場と空港の建物自体と、滑走路を囲う鉄条網しか見えなかったよ。魚なんて、全然見当たらなかった」
「沿線に、寿司屋とか市場とかさ、魚の看板があったってことは?」
「そんなものはないよ。あの辺りにあるのは、本当に空港だけだから」
「ふむ……」わざとらしいポーズで顎に手をやる妹。「姉さん。その空港の様子ってのをもう少し、詳しく」
 我が家の小さな探偵の催促に応えて、わたしは今日の夕刻の記憶――喫茶店をおいとましたその足で空港に向かったのだ――を正確に思い出そうと努めた。
 普段意識することはなかったが、高架を走る電車の窓からは思いのほか遠くの景色まで見渡すことができた。まず手前、つまり高架の側から空地を数区画挟んだ先に一本太い道路が走っている。そこから派生した真新しい道が空港の駐車場まで伸びており、そこには夕日を背で反射する自動車が駐められていた。駐車スペースが手狭なのか、斜めになった自動車が二台で一つの『く』の字型のくさびを作り、それが重なるようにして並んでいた場所もあった。駐車場が途切れた先には空港のターミナルが横たわっており、さらにその辺縁部からは鉄条網が滑走路との境界を作っていた。空港全体のぐるりは防音目的らしい、ややまばらな林によって囲まれていた。
 ――つまりは、それだけだった。
 先輩が言ったような《魚》とやらが入り込む余地などどこにもない、ごくごく普通の――とは言っても、わたし自身一般的な空港がこうである、と自信を持てるほど多くを知ってはいないが――ありふれた空港の姿しか見えなかったのだ。正直、もはやお手上げ状態である。
 見てきたままのことも合わせてそう伝えると、妹は腕を組んで首を捻った。しばらくの黙考ののち、何かをつかみそうだという顔でつぶやく。
「その、姉さんが言うところの――先輩、とやらが《魚》を見た状況と、姉さんが見に行った状況で、違うことは何? 彼は『偶然の産物ではない』ということには同意したんだったね。なら、まったく同じ状況で電車に乗れば、当然同じものが見えるはずだよ」
「先輩が乗ったときと、わたしが乗ったときで違うこと……?」
 なんだろうか、と考えたところでまず思い浮かんだのは上り下りの違いだった。先輩は空港から大学方面へ向かう電車、つまり下り電車に乗っていたはずだ。下り電車でしか見られないのだろうか? だが、つい数時間前の車内で、わたしはちゃんと両方の状況で窓の外を見た。上りと下りで取り立てて変わったことはなかった、ように思う。
 ――いや、ひょっとしたら往復の間に駐車場の車の数台くらいは入れ替わっていたかもしれない。
 しかし、そんな差異は論外だろう。だいたい、駐車場の車を問題にするのならば、先輩が見たときと同じ車を揃えなくてはいけなくなってしまう。とてもではないが、それは現実的ではない。ということは――。
「……日にちが違うかな。先輩が乗ったのは先週の日曜日で、わたしが乗ったのは今日だから」
「あとは時間帯だよ、姉さん。土曜日の夕方には見えなくて、日曜日の早朝には見えるもの、かもしれない」
「それじゃあ……」
「そう。上手くいけば、明日の朝一には解決してるってわけ。そうと決まったら、早く寝たほうがいいんじゃない? 次発なんて、怠惰な大学生がそうそう乗れるもんじゃないからね」


 翌日の朝、夜も明けきらないうちから起きだしたわたしは、久しぶりの休みで熟睡している両親を背にこっそりと玄関の扉を抜けた。いまは、蛇行する田舎道をのんびりと歩いている。
 このペースでも五時台最後の一本である次発電車には間に合うだろう。妹にも声をかけようかと思ったのだが、布団に埋もれている幸せそうな寝顔を見せられては、それもはばかられるというものだった。
 駅への道程を消化していくにつれ、徐々に周囲が明るくなっていく。この季節特有の、しっとりとした朝靄あさもやの向こうから交互に現れる田畑と住宅を十分間も横目で眺めた頃、ようやく駅前に続く県道に出ることができた。まっすぐに伸びるこの道をあと二十分も歩けば、駅に到着だ。
 不安と興奮を半々に抱えた気持ちのまま駅前の中心街へと足を向ける。
 ――わたしは、先輩と同じように謎を解くことができるだろうか。
 目覚めを待つ街が、遠くに見えてくる。それは、これから生命の活気にあふれかえる予兆を孕んだ、不思議な緊張感に包まれていた。
 太陽が山の端からその姿をのぞかせたのは、わたしが二十分の距離を踏破して駅に到着したちょうどそのときだった。ほぼ水平に射し込む光が改札を抜け、ホームに停車していた銀の車体に突き刺さる。水気をたっぷり吸い込んだ光に背中を押されるようにして改札を抜け、わたしは一番ホームで待ち受けていた電車に乗り込んだ。
 がらがらの座席に座っていると、こんな時間からどこへ行くのか、半分寝ぼけたような顔で巨大なスポーツバッグを背負う男子高校生や、せわしげに腕時計に目を走らせている年配のサラリーマンらが乗り込んできた。
 ――まもなく発車いたします。閉まるドアにご注意ください――
 通学中はまず感じることのない静けさを道連れに、わたしの乗った電車はホームを滑り出した。
 空港まではほんの二駅だ。いや、この場合、駐車場やターミナルが見える沿線ということだから、実質的には一駅と半分ということになるだろうか。というのは、K空港は空港前駅から少し離れた位置に立地しており、問題の《魚》が目撃されたのは電車が空港前駅に到着する直前、ということになるからだ。
 電車が小さな駅に停車する。機械音声ではない、ややしわがれたアナウンスが無人のホームに響き渡る。乗客の交換もしないまま、車体は再び線路上を滑りはじめた。
 田畑が、シャッターの下りた商店が、歩道橋の下に打ち捨てられた自転車が、窓の外を流れていく。催眠術でもかけられたようにぼんやりとそれらの景色を目だけで追っていると、不意に座席が伝えてくる振動が変化した。――平地にあった電車が、いつの間にか高架上を走っているのだ。
 緊張で乾いた口内を、唾で湿らせる。
 体勢を変えて窓に張り付くようにして外を眺めていると、前方から、横に長いK空港の駐車場が姿を現しはじめる。
『先輩、とやらが《魚》を見た状況と、姉さんが見に行った状況で、違うことは何?』
 わたしが昨日の夕方に来たときと、違うもの。妹の言葉を思い起こしつつ、駐車場の向こうに鎮座するターミナルを見つめる。違うことといえば――太陽がまぶしい、とか、早朝だからまだ駐車場ががらがらである、とか、そのくらいだ。
 わたしが考えている間にも時間は過ぎていく。駐車スペースを区切る白線が、容赦なく視界を流れ去っていく。

 ――白線が。

 わたしはそれに気がついたのは、突然のことだった。
 昨日も見てきたことだが、K空港の駐車場は横長で、やや入り組んでいる箇所がある。特に手狭な場所では、自動車を直角に並べるのではなく、やや斜めに駐車をさせる仕組みになっている。車の後部が合わさると、ちょうど『く』の字型を作るように、だ。
 その駐車スペースを区切る白線の描く形は――まさしく、《魚の背骨》だった。
 さながら、昨日の夕刻に白線を覆い隠していた車は鱗だろうか。
 陽射しの下にさらされる、朝にしか見ることのできない――鱗を剥がされた空港の《魚》。
 わたしは少しだけ子どもの気持ちがわかった気がした。こんなささやかな、素敵な感動があったならば――隣の人に伝えたいではないか。誰かと分かち合いたいではないか。
 いまさらながら、妹をたたき起こしてでも連れてくればよかったと――しかし、家に帰って答えを教える楽しみもあるのだと――、二つの感情と電車が伝える心地良い振動に揺られながら、わたしはひとまず安堵の笑みを浮かべた。


 そうして迎えた土曜日。結局もう一つの謎は解けずじまいなのが気にかかるところだが、期限切れなのだから仕方がない。
 いつもより少しだけ財布の中身を重くし、かつ身なりに気を遣ってみた。
 万全の態勢でK空港前駅から下車したわたしは、改札を抜けて駅の南口へと向かった。そこに三時、というのが先輩との約束だ。
 南口の手前にある、時刻表が貼りだされた壁の前で足を止め、左手首に目を遣る。――二時五十五分。ちょうどいい時間だ。
 時刻表を塞がないように壁からやや体をずらして、すぐ外に続く駅の入り口をぼんやり眺めていると、不意に誰かの手が肩を叩いた。
 わっ、と思わず声をあげて振り向くと、わたしより少しだけ高い位置にある黒い瞳と目が合った。
「ごめんごめん。驚いた?」
 そう言って、悪びれない様子でぺろりと舌を出したのは、自宅で一時間以上も前に別れたはずの妹だった。今日は家でのんびりする予定だ、と言ってはいなかっただろうか?
 おどけたしぐさで額に手をかざし、左右を見渡してみせるその姿は無邪気そのものだが、わたしは頭痛を覚えそうになった。
 妹はそ知らぬ顔で周囲を見渡したあとに、にやりと笑んでみせた。
「先輩、はまだ来てないのかな?」
「……あなた、こんなところで、なにやってるのよ」
 ようやく我に返ったわたしが指摘をしても、妹はどこ吹く風で薄い笑みを崩さない。
「ま、そんなに邪険にしないでよ」
「そうじゃなくて、なんでここにあなたがいるのかって訊いてるの」
 そう口にした途端、思いのほか口調がきつくなってしまったことに気がついてわたしは動揺した。これでは、まるで妹を責めているようではないか。子どもじみた自分の行動にうろたえ、気まずさに視線を落とす。
 うつむいたわたしの頭に、そっと妹の手が置かれた。――そのまま、乱暴とも思える強さでぐしゃりと髪をかき混ぜられる。思わず顔をあげると、わたしの内心などすべてお見通しだとでもいうのか、甘ったるい笑みが待ち構えていた。
「ありていに言えば、好奇心かな。結局、喫茶店で聞いたっていう結婚の謎はわからなかったわけだからね。姉さんの言う、先輩とやらのご高説を実際に拝聴したくなったってわけ」それに、と得意満面の顔で妹は続けた。「あの《魚》の謎も、ヒントをあげたのは……誰だったかなあ? その親切な人に、なにかしらのご褒美、たとえばお高いコーヒーを一杯だとかね。それぐらいしてくれたって、罰は当たらないんじゃない?」
「本当に親切な人はそんなこと――」
「あ、あの人。こっちを見てるみたいだけど、あれが先輩?」
 ひょいと首を傾けた妹に、わたしの言葉は遮られた。慌てて妹の視線をたどると、駅の入り口から五歩ほど中に入ったところに先ほどまではなかった、すらりとした立ち姿があった。やや細身の体を包む黒いジャケット越しにも、尖りぎみの肩がはっきりとわかる。
 今日は斜に構えたような態度がどこかに鳴りを潜めているようだが、間違いない。先輩だ。
 先輩はこちらに――というか、明らかに隣にいる妹に――不審な目を向けているようだった。
 さて、妹のことをどう説明したものだろうか……とわたしが悩む間もなかった。嫌味なほどに整った笑みを浮かべると、妹はわたしを引きずるようにして先輩のほうへと歩いていった。構内を堂々とした歩みで横断し、先輩からきっかり三歩離れた距離まで近づくと、妹はつかんでいたわたしの腕を解放した。そのまま、困惑したような表情の先輩に向けて軽い会釈をひとつ。
「はじめまして、いつも姉がお世話になっています」続けて、妹は自己紹介を端的に述べた。
「妹さん、ですか。……どうも」社交辞令のような、やや硬い口調で先輩も簡潔な自己紹介を返す。
 互いを探り合うような、穏やかでない空気が一瞬場を満たす。が、先輩が肩をすくめてみせるのを合図に、その緊張も去っていった。
「どうなってんだ、こりゃ」
「実際、わたしにもなにがなんだか……」
 言いかけたわたしの前を、傘を手にしたスーツ姿のサラリーマンが避けるように横切っていく。おかしな状況につい忘れそうになっているが、ここは人が行き交う駅の入り口なのだ。
「まあ、こんなところで立ち話というのも迷惑な話ですからね。詳しい話は道中で、おいおい」
 それを機に、というわけではないだろうが――そう一方的に告げたかと思うと妹は外へと足を向けた。そのまま例の高級カフェまで一緒に行くつもりである、らしい。そっと隣をうかがってみると、毒気を抜かれたように立ち尽くす先輩が、心底理解できないといった風情でつぶやきをこぼしているところだった。
「あのどこが、おれに似ているんだ?」
 外では低くたちこめた灰色のぶ厚い雲が、わたしたちの先行きを暗示しているかのような不穏な響きを遠く轟かせていた。


 雲行きが怪しいこともあってか、昼下がりの駅前通りは閑散としていた。一雨来そうな湿り気のある風が、わたしのスカートをふわりと膨らませる。
「まあ、簡単に言うとですね」
 会話の口火を切ったのは妹だった。
 道路側から先輩、わたし、妹の順に並んで駅前から続く大通りを進む。
 例のカフェは駅から徒歩五分という点も売りの一つであったはずだから、この気まずい行軍もじきに終わるだろう。――終わったところで、次はカフェの中が戦場になるだけかもしれないが。
 妹が、いくぶんか気安い口調で続ける。
「家でたびたび、姉があなたのことをどこぞの名探偵のように持ち上げるので、どんな人なのか気になっていたところに――聞くと、今日もまた謎解きをするとか。そこで、こりゃいっちょ本物を見てみなきゃなと思ったわけです、よ。厚かましかったですか?」
「……いや、別に」
 先輩は軽く目を見開き、まずは妹に、次いでわたしに呆れたような顔を見せた。こうもあけすけに言われてしまうと、さすがの先輩もどう対応すればいいのかわからないのだろう。――だろうが、なぜわたしにまでそんな目を向けてくるのか。納得がいかない……。
「あ、あと一つ。今日のことは私が勝手にあとを追跡つけたので、姉に落ち度はない、とだけは弁解させてくださいね。こういうことも、これっきりにするので、今回は見逃してくれると非常にありがたいです」
 読心術の心得でもあるのだろうか――こういうフォローを忘れずに入れる辺りに、わたしがいつまでも妹に頭が上がらないゆえんがあるのかもしれなかった。
「というわけで、今日だけ、私もこのお遊びに混ぜてもらってもよろしいでしょうか?」
 よく動く黒い瞳を先輩にひたと据えて、おどけた調子で妹が尋ねる。
「ここまでされたら、おれとしてはもうお好きに、としか言えないじゃないか」
 隣を歩く先輩の顔には苦笑が浮かんでいたが、まとっていた警戒の色はいつの間にか薄れていた。
「……だってさ」妹が勢いをつけて向き直り、嬉しそうに告げる。「それじゃあ気を取り直して《魚》の答え合わせ、いってみようか、姉さん?」
 無邪気とはまた微妙に違った、にやにやとした笑みを形作ると妹は肘でわたしの横腹をつついた。肋骨の下、柔らかい場所にささった肘に反射的に変な声を出してしまいそうになるが、なんとかこらえる。気を取り直すための咳払いを一つ挟んで、わたしは口を開いた。
「では、空港の《魚》のほうですけど……」
 多少の緊張を覚えながらも、先週の日曜日に確かめてきた白線が作る《魚》のことを先輩に告げる。しばしの間のあと、少しつまらなさそうな表情で「正解」という答えが返ってきた。
 先輩は「ちょっと簡単すぎたか」などと、首を捻っているが――その言葉に、わたしのすぐ横で妹がこらえきれない、といったふうに口を押さえている。その奇妙なしぐさに察するところがあったのか、先輩はふと気がついたように言った。
「ん……《また》、そこの妹さんに助太刀を頼んだわけか?」
「ご明察。謝礼はコーヒー一杯です」余計なことまで、妹はあっさりと口を割った。
「一人じゃ、頼りない姉なものでして」
「そうかもな。おまけに、どこか抜けてる、ときたもんだ」
「お、わかってるじゃないですか」
 両隣であがる、朗らかな笑い声。
 わたしを挟んで勝手なことを言い合う二人に、思わず眉間にしわが寄る。ほら、やっぱり似ているじゃない、と腹立ちまぎれにそんなことを考える。
 めいめい好きに会話をしながら進んでいると、ようやく目的地であるカフェの看板が見えてきた。カフェの外観はこざっぱりとしており、テラスまで備えたそのたたずまいは、洋風のモデルハウスめいた印象を漂わせている。
 入り口に飾られた陶器の兎の瞳が、わたしたちをじっと見つめているようだった。


 大きなガラスの引き戸から一歩内側に踏み入るとすぐに、濃いコーヒーの香りが鼻腔を刺激した。いらっしゃいませ、とカウンターの店員が笑顔を見せる。シンプルな黒のラインが二本入った清潔そうな長袖の白シャツに、シックな黒のベスト。商店街の喫茶店はというと、ウェイターはベージュのポロシャツに柄物のエプロン(恐らく自前なのだろう)といういでたちだから、そこからして雰囲気が違う。
 周囲に目を向けてみると、若い主婦たちのグループに、身なりのいいスーツ姿の男女が数組。わたしたちのような大学生然とした客が着いている席もあるようだ。
 観察もそこそこにして、わたしはテーブルの間を抜けて一番奥まで進んだ。ついいつもの習慣で奥まった隅のテーブルを選んでしまったが、先輩はもとより、妹にも異論はないようだった。わたしが壁側の席に座るのを見て、妹が隣に腰を落ち着ける。先輩はわたしの向かい側に座った。
 肩の鞄を膝に移して、さっそく、とメニューを開いてみると――やはりというべきか――ずらずらと並ぶ殺人的な金額が目に入ってきた。強くまばたきをしてもう一度まじまじと眺め回してみるが、数字がそう突然に変わるはずもない。右隣からわたしの手元を覗き込んでいる妹は「私、決めたよー」などとのんきに宣言している。わたしにおごらせる気は変わらずのようで、結局わたしは二杯もおごる羽目になるという最悪の状況を行ってしまったことになる。
 自分の分はというと――倹約をしたいのもやまやまだが、こういった高級店でただ水を飲むのも居心地が悪い。仕方なく、最も無難な値段のものを選ぶにとどめた。
 テーブルの反対側では、先輩がまだメニューを睨んでいた。
「ところで、もう一つの謎の答えを訊きたいんだが」目は紙上から外さずに、先輩が言う。
「……そっちのほうは、お手上げでした」
 答えてから、嫌な予感を覚える。はっと先輩を見ると、この上なく嬉しそうな顔でメニューを閉じているところだった。隣で妹が「ばか……」とつぶやいている。
「決まった」
「――値段を、選んだんですか!」
「いやいや、最初から決めてたさ。まさかおまえが《謎》を解けてなかったなんてなあ。ということは、この一杯はおごってもらえるのか。嬉しい偶然だ」
 しゃあしゃあと言ってのける先輩に、わたしが反論の態勢に入ろうとする寸前、黒の制服をかっちりと身に付けたウェイターが注文を取りにきた。その狙ったかのようなタイミングに、今日はとことんついていない、ということをわたしは確信した。
 気を削がれたこともあって、コーヒーを待つ間わたしは店内を観察することにした。
 入り口のすぐ右手にはカウンター席があり、あとは四人掛けの方形のテーブルと、それよりやや小さな二人掛けの円形のテーブルが並べられている。暖色系の壁紙に、広く取られた窓。古風なランプをモチーフにしたような、かわいらしい照明がアクセントのように店内を照らしている。
 ちょうど内装を一通り見渡した頃、ウェイターが再び現れて木の盆からカップを下ろしていった。立ちのぼる挽きたての香りに、思わず頬が緩む。こんなに素敵なものを前にしては、先ほどの釈然としない思いも若干量だが軽減されるというものだ。
「……話を整理すると、案外簡単なことなんだけどな」
 しばらく言葉が交わされなかったテーブルの上に、先輩が声を落とした。妹は両手で包み込むようにカップを持ったまま、黙っている。
「まず大前提として、あの二人は大学生だったと考えられる。会話の中で、試験がどうのこうの、という話をしていただろう。ついでに『落とさないように』というのが単位のことだとすると、社会人や浪人生ではありえない」
「そうですけど……彼らが大学生、というのが重要なんですか?」
「それと、二人がそろって二十歳だ、ということもな。女のほうがあの日誕生日だった、というのは聞いただろう? そのとき、『この一ヶ月間、あなたを待たせてるみたいで』と言ったことから、相手の男も一ヶ月ほど前に二十歳を迎えていると見当がつく」
 先輩の口ぶりからすると、二人が《二十歳の大学生》だということが、この謎に関する大きな手がかりということになる。《二十歳》の意味合いは、なんとなくではあるが、わかる。結婚をする際に、保護者の同意が必要なくなるのがその年齢だからだ。――では、《大学生》であることの意味とはなんなのだろう。
 考えに沈むわたしの上に、先輩の声が降ってくる。
「あのとき、会話の最後に彼女が何と言ったか、覚えてるか?」
「何と言ったか……」
 なかなか核心に触れようとしない先輩にもどかしさを感じながらも、先週聞いた喫茶店の会話を記憶の底から引っぱり上げる。
 彼女はたしか、男の人が持ち出した試験の話で緩んだ空気を引き締めるような、改まった口調で――
「ええと……二年間だけよろしく、とかなんとか」
「『残りの二年と半期の間』だ、正確には」と、すばやく訂正が入る。
 二年と《半期》。
 小中高校の三学期制とは異なり(最近の中高一貫高ではそうでもないらしいが)、大学は前期後期の二期制をとっているところがほとんどだ。前期は四月から八月半ばまでが授業で、九月いっぱいは夏季休暇。十月から始まる後期もそれと似たような日程――というのが、どうやら典型的なパターンらしい。余談だが、いま現在――六月の半ばというこの時期は、いみじくもあの二人が触れていたように、一般的に中間試験の真っ只中ただなかでもある。わたしも含めて、学生は穴だらけだったり急ごしらえだったりするノートを片手に頭を抱える時期だ。
「――そうか」
 コン、とカップをテーブルに置く音。それまで黙ってコーヒーをすすっていた妹が、唐突に口を開いたのだ。
「それで二年と半期、なんだ。じゃあ、結婚する気がないっていうのは――ああ、わかった」歯軋りするように、呻く。「そりゃ、そういう考えの人じゃなきゃ、とてもじゃないけどできやしないか」
「ちょ、ちょっと。あなたもわかったっていうの?」
 焦るわたしに、しかし、つぶやいた妹の顔には満足の色は見られない。
「姉さん。いまは六月だから、大学の前期日程になるよね」
 急な質問に無言でうなずいてみせると、妹は苦い顔をした。
「あの二人が留年も浪人もしていない、ごく標準的な大学生だとすると……今年で二十歳になったってことは、二回生ってことになる。そこから二年と半期の間だけ、結婚をする――するとして。二人が別れるのはいつ頃の時期になるか、わかるよね?」
「それは、当然、四回生の学期末だから……ちょうど卒業式ぐらいになるんじゃないかしら。留年さえしなければだけど」
「そうだ」先輩が妹の言葉を引き継ぐ。
「二人の取引は学生じゃなくなると意味がなくなるから、卒業まで、と期限を決めているんだ」
「学生じゃなくなると、意味がなくなる?」
 それはつまり――学生の間だけ結婚することに、何か意味がある、ということの裏返しだ。
 一度椅子に深く座り直したあと、先輩はゆっくりと口を開いた。
「大学には昔から、《経済的に学費納付が困難な学生》を対象とした学費の免除、という制度があるんだよ。奨学金は外部の団体が行っているが、こっちは大学自体が主催する制度だな。ところがこれが曲者でな、最近はその免除に関する審査が厳しくなってきた。実際、K大学の学生がかりに訊いてきたんだが、数年前の基準では全額免除になるはずの学生が、最近の基準に照らし合わせると半額、場合によっちゃあ一銭の免除も得られない、なんてこともザラにあるって話だった。
 で、ここで問題になるのが、その免除になる条件だ。学費納付が困難な学生を判断する材料として、扶養者――まあ普通は両親になるんだろうが――その年収を見る、というのが一般的な対応らしい。だが、さっきも言ったように最近は審査が厳しくなって、よほどのことがない限り免除申請が通ることはない。
 そこで出てくるのが学生結婚だ。結婚をすると、所帯が独立して扶養から外されて――まあ要するに、書類上は親の収入から切り離されることになる。学生という身分の夫婦が稼ぐ収入の額なんて、たかが知れてる。それが所帯の収入になるわけだから、年収が百万とちょっとにしかならない、なんてことも当然起こりうる。実情はどうあれ、傍目には《赤貧学生》の誕生ってわけだ。この場合だと審査を通らないほうが、むしろ、おかしい」
 わたしは目をみはった。動悸が耳の奥で痛いほどに聞こえている。先輩と妹が言わんとしている事柄がおもむろに見えてきたのだ。
「そんな……じゃあ、あの二人は、お金目当てで結婚するっていうんですか?」
 自分が放ったにもかかわらず、言葉にしてこれほど滑稽な、現実味を伴わないものもないだろう。それこそ下手な芝居を見せられたような、うそ寒い思いが体を満たしていく。
「ありえないですよ。だって、そんなことをしても……」
「普通はありえないな。だが、ここで重要となるのが、二人が《本当に》経済的に逼迫ひっぱくしている、という事実だ」
「それは……」
 切って捨てるような先輩の言葉が、重くのしかかってくる。
「あの喫茶店で――こんな高級な店じゃなくてだ――、《コーヒー一杯の贅沢》をした女に、《水で遠慮》した男。細かいことまではおれの理解の範疇じゃないが、よほど経済的に余裕がなかったんじゃないのか? そうして切り詰めた生活を送って――だが、その一方で、年々厳しくなる審査のために学費の免除申請が通らない――そんな状況だったとしたら? もしも全額免除が通ったら、半期だけで三十万近くが浮く計算になるんだ。切羽詰った状況で思いついたのがこの案なら、実行する可能性はじゅうぶんにある」
 書類の上だけの結婚をして、卒業後にお互いが用済みになれば、別れる。当然戸籍には、あの消えない印が残る。
 もちろん、そんなことは彼らにもわかっているのだ。再三にわたって互いに大丈夫なのか、と確認しあったように。その答えが、『結婚願望なんてない』であり、『ぼくも似たようなものだから』。そもそもこれから先に結婚するつもりがないのだ、離婚歴など気にするわけがない。
 だが、それはあくまで《つもり》だ。未来に何が起こるかは当人たちにも予測できるはずもない。――もし、もしも、《だれか》が現れてしまったら。そのときはどうするというのだろう?
 本当に大切な人を見つけて、何があってもその人と一緒になるのだという思いさえあれば、離婚歴もたいした障害にならない、かもしれない。それでも、まっさらな未来に暗い影を落とすような真似をすることは――少なくともわたしには――できそうもない。
 だが、わたしは彼らを完全に否定することもできない、ということも同時にわかっていた。
 耳の奥によみがえる、あの楽しそうな――心底満足そうに祝杯を挙げていた、二人の声。
 彼らは、《同類》を見つけてしまったのだ。優先するべきもの、切り捨てるべきものを共通に持つ、それこそ世界で彼らだけしかいないのではないかという《同類》。戸籍に残るあかしと実利を量りにかけ、躊躇せずに後者をとる、その心。彼らが初めてお互いの正体を知ったときの衝撃は、わたしが先輩を見つけたときと同じくらいに――あるいは、もっと――大きなものだったのではないだろうか。

 ――だけど。
 だけど、その下した結論はあまりに寂しい。

「大丈夫だよ、姉さん。世の中、みんながみんなそうだってわけじゃないんだ」
 はっと顔を上げると、隣で妹が困ったような顔で微笑んでいた。その表情から察するに、わたしが相当に落ち込んだ顔を晒していたことがうかがえる。多少ばつの悪い思いをごまかすように、わたしはコーヒーを口に含んだ。いまはとてもではないが、味もわかりそうにない。それでも渇いた喉が癒されていく感覚に、人心地が戻ってくる。――心に霞のようにかかった不安が消え去ることはなかったが。
 ふと顔を逸らした先の窓では、空の重みに耐えかねた水滴が引っかくような跡を残しはじめていた。


 喫茶店を出てすぐの、屋根が張り出した入り口でわたしたちは立ち尽くしていた。
「にしても、まさか誰も傘を持ってきてないなんてねえ……」
 妹が肩をすくめてみせる。
 わたしたちの立つ位置からも、糸を引くように落ちる水滴がアスファルトの路上で控えめに跳ねているのが見える。まだ本降りではないものの、傘も差さずに歩くのは無謀、といった具合だろうか。
「困ったな」
 そう言った先輩は、軽くステップを踏んで脚の腱を伸ばしている。妙にやる気に満ちたその様子に、思わず口がぽかんと開く。
「まさか、走るんですか?」
「歩くのか?」
 至極当然といった体で返され、反射的に返す言葉が出てこない。旗色の悪さに、加勢を期待して背後の妹へと向き直るが、彼女のほうもスニーカーの靴紐を結び直しているところで――まさに気合じゅうぶんという有様だった。
 唖然としたまま突っ立っていると、ちょうど準備を終えたのか、二人分の視線が同時にわたしを射抜いた。催促するような、急かすような瞳が二人分。
 ――こんなところまで似る必要はないのに。
 どうやら覚悟を決めなければならないらしいと、わたしは半ばやけっぱちの気持ちで、雨の中へと先陣を切って飛び込んだ。

<賭博師の代価・了>


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
いわしさんの感想
 ※※※感想にネタバレを含みます。ご注意ください。※※※

 こんばんは。いわしです。拝読しましたので、思ったことを記します。
 ミステリ小説は全く読まない素人の意見ですので、「分かってないな〜」と思ったらスルーしてくださいね。

●謎解きについて
【一話】
 首なしライダーならぬ、身体なしドライバーですか。ここで十分ほど読むのを中断して、考えてみました。

・ラジコンか? いや、そんなオチなわけがないだろう。
 鏡を使ったトリックか? いや、鏡を置いたら女子高生からバックミラーが見えなくなるな。
 分かったぞ、写真だ。写真を運転席の後ろに貼り付けているんだ!
 最近の新聞記事で、中国で撮影された貴重なトラの正体が「カレンダーの写真」だった疑いがある、というのがあったな。コレで決まりだ!
 →orz
・余談ですが、子どもが出かけた目的が自動販売機絡みだった可能性もありますね。丁度ジュースか酒が切れたからお使いにいったところ、女子高生がいたから素通りせざるを得なかったとか。
 酒なら、へべれけになったから親が出られないという理由にはなります。でも、田舎にぽつんと立つ酒の自販機はないですよね……。

【二話】
 人生のしおり、正体は? 二人が図書館のカウンターへ到着したところで中断し、考えてみました。

・人に言えないものか……恥ずかしい写真とか、横領の証拠とかだろうか?
 いや、タイトルは「人生のしおり」だぞ、いい話に決まっているじゃないか。泣かせる話かもしれない。病床の妻への手紙か。いや、それならもう一度書けばいいじゃないか。
 迷ったら、最初の答えに戻れという。分かったぞ、恥ずかしい写真だ。この男にはきっと女装癖があるんだ!
→orz
・読み直して気付きましたが、序盤に噂としてヒントが提示されていましたね。

【三話】
@魚の正体

・読んだ瞬間に分かった。今回は簡単だったな。答えは雲だ。形は何とでもなるし。コレで決まりだ!
→orz 
・ここの解答は面白いですね。「宝はエラにある」とか、暗号にも使えるかも。

A結婚の謎

・何かのカモフラージュに結婚するみたいだな。苗字が嫌なのか? 岡真世(オカマよ)とかか?
 いや、それだと二年半待つ必要がないぞ。卒業後になにかあるのか。タイトルは賭博師の代価だぞ。ギャンブル関係の借金を帳消しにできるなにかがあるのか。二十歳を超えた夫婦だけが借りられる金でもあるのかな? うん、そうだ。そうに違いない。今度こそ勝ったぞ!(二年半のことは関係ねえ)
→orz
・私は昔、日本育英会(今は名前が変わりました)に無利子で借りていました。就職したら楽に返せます。
 今は審査が厳しいんですかね。う〜ん。やっぱり戸籍を汚す気持ちは分からないです。

【謎解き結論】
 四連敗するとへこみます。へっぽこ探偵にも一勝でいいからください。
 はい、いいがかりです(笑)

●いいと思ったところ
・最初の三行で、読了できると確信しました。やっぱり、つかみは大事ですね。
・深緑のスカート:落ち着いた女性のイメージがあります。前々作『天秤』の橙色といい、色の使い方が上手いですね。
・主要人物の名は出ませんが、キャラが立っていますね。特に、主人公がとことん好みでした。その細やかな心の動きは愛しささえ覚えるほどです。

●気になったところ
・二話序盤の会話文「へえ、この街に」と、探偵が会話に混ざるところが分かりにくく感じました。
・個人的には一話の緊迫感が好みだったので、序盤にピークがきてしまったように感じました。

 個人的には、中吉さまの売りは「葛藤の描写」だと思っています。
 そのことがミステリとして良いのか悪いのかは分かりませんが、謎解きよりも心理描写の方が楽しみになってしまいました。
 良い作品をありがとうございました!


あひるさんの感想
 読ませていただきました。
 初めまして、あひるです。

<喫茶店の男>
・二月の風が冷たいのは当たり前
 最初の一行としてはやや弱いかなと思いました。
 実際には、けっこう痛いです。冷たいと言うより、痛い。耳とか末端とか。
 そして、暖房の効いたところに入ると、極限まで冷たくなった部分が、熱を持ってくるんですよね。
 手袋をしていないのなら尚更。
 今は大分暖かいですが、夜間、手袋をせずに歩いてみてください。冷たいなんてもんじゃない。
 時間帯もちょっとわかりにくいですね。

・女子高生
 いきなりポンと「女子高生」。
 「わたし」はよく観察するようですから、せめて「女子高生」の前に「女子高生」を思わせるアイテムが欲しかったですね。細かいですけど。

・伏線っぽい軽トラ
 騙されただけなんですかね。
 「わたし」が帰宅途中で、恐怖を煽られるシーンなのですが、そこで私は『目がライトに慣れてしまい、運転席がより暗く見えた為、誰もいないように見えた』と思っちゃった訳ですよ。
 それならミスリード成立って訳じゃないです。何と言うか、可能性を見逃してる。
 もっと読者を積極的に騙してください。

・妹の行動が不可解
 電車をよく利用するので突っ込ませていただきます。
 同じ方面、同じ駅に行くのなら、同じ電車になるのでは?
 途中でどこかに寄ったんですか?

・推理が唐突過ぎ
 まず、「わたし」が《ちょっと怖い話》に対して、自分なりの推理や考察をしていないことが気になりました。
 軽トラと遭遇した時の恐怖の煽り方はいいのですが、その後に引かないので、恐怖感や謎が持続せず、ちょっと勿体ないです。
 それと、妹の推理に対してあっさり受け入れすぎで、読者にどんな推理なのか、いまいち伝わらないかな、と。
 伏線らしい伏線が見当たらないので、妹の推理が唐突に感じました。

・男の雰囲気は好み
 そこはかとなく無気力な中に見える、鋭い雰囲気がいいです。正にクール。

・全体の雰囲気もいい
 全体的に落ち着いた穏やかな雰囲気なので、恐怖や緊張を際立たせる要素になっています。
 ほんわかな感じがするからこそ、恐怖や緊張がより伝わるのですよっ。

・緊張と不安と恐怖
 この三つのシフトがうまく活きましたね。ただ、ちょっと詰めが甘いかなと感じました。
 鍋がやけに和やかなもので。
 ミステリーということなのですが、そのミステリー部分が全体的に弱いかな、と感じました。

<人生のしおり>
・伏せ字について
 ……考えるのが面倒になりました?
 流石に本の名前を言わないとか、地区の名前を言わないとかですと、ミスリードも誘導もできないと思います。
 伏せ字が陳腐で、違和感がありました。

・伏線の隠し方がうまい
 最初や最後でなく、後から二番目、というちょうど気が緩むところにさりげなく置かれているので、やられました。
 私はお金でも挟んで置いたのかな、と。

・全体的に良好
 先輩の「前略中略後略省略」な態度がナイスです。もうちょっと破天荒でも許せます。

<賭博師の代価>
・魚にこだわって
 もっと魚にこだわって欲しかった。
 魚屋に行くとか、水族館に行くとか、図鑑眺めるとか。
 高級コーヒーを奢るって、そんなに軽いものなんですか、彼女にとって。
 もっと焦って欲しかったと思います。

・行動的
 「わたし」がようやく自ら動き始めましたね。いいことです。
 主人公が積極的に動いたり考えたりしないと、説得力が落ちますよ。

・先輩……v
 今まで人間くさいところが少なかった先輩が一杯食わされ、人間くさい表情が出て「おっ」と思いました。
 先輩、可愛い。

<全体>
・雰囲気
 穏やかな雰囲気なのは、喫茶店という場所からでしょう。好感が持てます。
 持てますが、緊迫感に欠けますね。
 殺人では無いミステリーなので、殺人物に比べると緊迫感に欠けるのはいくらか仕方の無いこととは思いますが、それでも、全体の雰囲気に緊迫感が呑まれてしまっています。
 そうなると、謎解きの爽快感が無くなって来ます。緊迫感が全体の雰囲気を呑むような勢いで、お願いしたいです。

・主人公
 消極的なのはマイナスかと思います。特に、一人称の場合。
 不思議だと思っているのに、深く考えるという行動をすっ飛ばしているので、読んでいる方は納得が行かないです。
 自分で提案して自分で却下、とかやりません?
 何かの拍子に思い付く、も無かったので、やっぱり物足りない感じがしましたね。
 先輩に引きずり回されている感覚が、拭えません。

・伏線
 伏線が弱い部分が目立ちます。悪いと、伏線も無くポーンと。
 期待させて欲しいですよ、ミステリーは。

・わたしと先輩
 「わたし」と「先輩」の関係が、縮みそうで縮まないのが、作品の雰囲気を壊さないのでいいなぁと。
 生暖かい目で見守れます。

・描写
 うるさくも無く、不足するでも無く。
 描写量はちょうどよかったと思います。

・ルビ
 「追跡た」にはまぁ、必要ですが、他の漢字には不要だと思います。
 特別な読ませ方をする語句を極力無くし、ルビを少なくすれば、それだけ読みやすくなります。
 「胡乱」がお好きなようで。似たような言葉で、「怪訝」がありますよ、と言っておきましょう。
 ルビは二度も振らなくていいです。

・ミステリー要素
 あまり感じられません。もっと読者を積極的に騙し、悩ませてください。
 ミステリーは、読者との騙し合いの勝負ですし、読者も作者に騙されることを期待しています。

 そんな訳で、「雰囲気はいい」けど「面白さを感じられません」でした。
 まだまだ改善の余地がありますので、頑張ってくださいね。
 では、長文失礼しました。


りゅうのすけさんの感想
※感想にネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 こんばんは中吉さん。りゅうのすけです。先日は感想をありがとうございました。さっそく読ませて頂きましたので、拙いながら感想を書かせて頂きます。

“わたし”の一人称で描かれた本作は、とても落ち着いた雰囲気で描かれ、終始血なまぐさい事件とは無縁な日常が綴られていました。
 日常の中に隠れている小さな事件を描く。商業作品にもこういったアプローチをするミステリはいくつかありますが、この作品もいい具合にまったりとした雰囲気と、ミステリ部分の融合が果たせているなと感心します。
 またとても文章が上手く。読んでいて作品の雰囲気が感じられるというのは、なかなか難しい技術だと思います。
 特に地の文が織りなす作品世界の空気と、わたしと先輩の距離感が絶妙で、キャラの名前を出さないというのも、この作品の雰囲気を生み出す大きな要因になっているのかなと思いました。
 なお一話と三話は描写に力が入っていましたが、二話はちょっと気が抜けたかな? という印象でした。終始、力を入れられても困るのですが、一話の描写と落差があったもので。

〈喫茶店の男〉
 わたしと先輩の出会いを描いた作品ですね。客同士の会話から、小さなミステリとして取り上げる手法が興味深かったです。そして結局のところ、明確な答えがわからないのも、こういった作品の特徴で、大人びた作品世界をいい具合に表現されていると思いました。
 全部読み終えると、一話目の恐怖や恥ずかしさなどが、二話目以降消えているのがわかるのですよね。一人称の強みがしっかり出ているなと思います。
 
〈人生のしおり〉
 喫茶店の男に比べて、ミステリ要素はかなり少なめです。だけど人間の欲や業を描いた作品として、かなり高評価でした。特にわたしの口から、司書のおばさんがいい人として描かれ、怒鳴り込んできたおじさんが異様な人として描かれていたので、真相がわかったあとの落差がとてもいい。
 読み終えた後、何とも言えない読後感に包まれました。

〈賭博師の代価〉
 ほうほう、なるほど奨学金を狙ってのことでしたか。面白いところに目をつけたトリックだなと思いました。三作品の中で、もっとも考えられていると思った作品です。
 私などは婚姻届ではなく、離婚届なのかな? とかそういったことを想像していたので、真実を知ったときはよく調べてあると感心しました。
 ここにきて先輩のキャラクター性が、上手く表現されるようになってきたと思います。高級コーヒーを飲むくだりで、おごりが確定してからメニューを決定するあたりなんか、先輩の性格が実にうまく表現されていると思いました。

 とても完成度の高い作品でした。
 ミステリとして物足りなさが残るのは、血なまぐさい事件が起きないミステリの宿命みたいなものだと思いますが、それを補って余るほどの雰囲気が本作にはあると思います。
 言うなれば、本作は作中に出てくるカフェみたいなものでしょうか。午後の一時に、コーヒー片手にまったり楽しむといったような。
 個人的な好みでは、〈人生のしおり〉>〈賭博師の代価〉>〈喫茶店の男〉といった感じです。とはいえ、物語のとっかかりとなる〈喫茶店の男〉は、ストーリー以外にも配慮する部分があるので、公平な作品比較にはならないかもしれませんね(笑)

 あと、ちょっとだけ引っかかったのは、序盤で描かれた妹との距離感でしょうか。顔を見て逃げ出すといったことや、家でのギスギスしたというか問いつめるような妹の言葉と、上手く返せないわたしを見て、二人の間に何か軋轢があるのかなと思いました。
 ですから、作品にこの軋轢が何か関わってくる? と思って読んでいたのです。しかし一向にそういったものはなく、むしろ仲のいい姉妹として描かれています。
 感想に書く必要はないかと思いましたが、一応読んでいて思ったので、残しておきます。 


 いやー、いい作品を読ませて頂きました。
 伏線をしっかりと引いた上で、ちゃんと物語を描いているのは好感できます。何より事件を解決するというのではなく、謎を解くだけというのがいいですね。
 一応参考までに、私がどういった視点で作品を見たかといいますと、ミステリの良し悪しはあまり評価に入れていません。ですから一読しただけで、看破されるようなネタでなければ、大きなマイナス点ではありません。というか、三話の魚ぐらいしかわからなかったのですけど(汗)
 つまり中吉さんがお知りになりたいという、ミステリ部分の不備をしてきするような読み方をしていないんですよね。すみません(汗)。
 私にとって、こういった作品ではミステリのネタうんぬんを問うより、そのネタを通じて何を描くか? という点を重視したからです。ですから二話目の事件解決の後に来る価値の逆転が、非常に面白いと評価しました。

 ただ他の人の感想も拝見したのですが、本作をどういったスタンスで読むかどうかで、評価が分かれそうだなと思いました。ミステリに事件解決の爽快感や緊張感を求める人ほど、ぬるいと感じるかもしれませんね。

 ……しかし私の感想、本当の意味で感想ですね(汗)。お役に立つかわからない感想で恐縮です。これからも執筆活動頑張ってください。
 それでは、この辺りで失礼致します。


プルートさんの感想
 はじめまして
 中吉さん
 僭越ながら作品を読まして頂きました。

 ミステリー関係が大好きな自分ですので,謎の内容,主人公の目線など、
 気にしながら読んでいましたがとても楽しみながら読むことが出来ました。
 ありがとう御座いました。
 次回作が出来るのを楽しみに待っております。
 では。
 失礼致します。


夜月さんの感想
 はじめまして、中吉さん。夜月と申します。推理小説が好きなので読ませていただきました。簡単ですみませんが、感想を残させていただきます。

『喫茶店の男』の感想。
 まず不満に思ったのが謎の弱さ。初めは「本当に女子高生が話していそうなつまんない話が面白いミステリになるのかしらん?」と不安に思いながら読み進めていたのですが、彼が推理を覆すあたりで思わずニヤリと微笑んでしまいました(こういうのはミステリで本当に大事だと思う。傍からしてみれば凄く不気味ですけど)。ですがその分、彼の推理の矛先が弱くてとても残念に思いました。そこで止めてしまっては消化不良。こういう何気ない謎は意外な真相に繋がってこそ輝くのではないかと思います。

『人生のしおり』の感想。
 まず思ったのがミステリの薄さ。謎は弱いものの第一話はちゃんとしたミステリでしたが、第二話はクイズを解いたような感想を抱きました。語り部の彼女は真相に到達した彼を凄いと言いましたが、私にしてみれば彼の考えは至って妥当。本を返してくれって言うのですから本に何かあると考えるが当然。とはいえ図書館の本にタネがあるとは思えませんから原因を作ったのはおじさん本人のはず。本と言えばしおりだし、大方大事なモノでも挿んだのだろう。――と、誰もがそう考えるはず。ですから、それを宝くじに繋げるのは当たり前過ぎてミステリとしては面白くないと思います。
 あとタイトルについて。こういうネタバレちっくなタイトルは個人的には大好きですけど、やはりこういうのも真相に意外性があってこそ光るものだと思います。

『賭博師の代価』の感想。
 本作の三つの事件のなかでは一番ミステリしていたと思います(魚は別ですけど)。着眼点が良いですし、伏線もばっちり。真相も納得できました。ただ何と言いますか、切れ味が薄いなあ、とも同時に感じました。

全体を通しての感想
 気分転換でもしよっかと思って読んでみたのですが、深夜に読んでいるにも関わらず、すらすらと楽しく読むことができました。ですけど、それはミステリとしてではなく、途中から自分が恋愛小説として読んでいたせいかもしれません。それは読後も変わらず。なぜかと言いますと、謎が弱いのもありますが、おそらくは構成に何も仕掛けが無かったのが原因でしょう。そのせいか、三つの事件は二人を引き合わせ、仲を発展させるイベントに思えました。そもそもミステリとして見た場合では、共通点の無い(人物は別です)短編が三つ連ねられてあるだけですし(短編の間に分けて投稿してもそれほど問題がないということです)。

 それらを考慮して評価は十点。低くてごめんなさい。やわらかい雰囲気や裏に棘のある事件、ヒロインと名探偵の関係、などなど、それらがあるプロの作品と似ていたので、どうしても比べてしまいました。

 以上で、推理小説好きの感想を終わらせていただきます。主観一杯かつ悪文極まりないですが、参考になれば幸いです。機会がありましたら、またいつかお会いしましょう。では。


ミナオさんの感想
 中吉さん、こんにちは。ミナオです。

 いつだったか短編で読ませていただいた作品の改稿プラス拡張番ですね。あのときも楽しませていただきましたが、今回はそれよりもぐっと良くなっている感じがします。
 以前冗長だと指摘されていた(確かそうだったように記憶しています。勘違いだったら失礼をお許し下さい)描写も、今回は適度にシェイプアップされ、かつ細やかな描写は健在で、とても読みやすく味のある文章になっていました。
 トリックについても、――ネタ自体が大仰に構えたものではないとはいえ―― 説明が難しいところを

>わたしは目を閉じて、そのときの情景を想像してみた

 で切り抜けているあたり工夫の跡がみられて、思わず唸ってしまいました。
 男の容姿の

>すっきりとした鼻筋と、目の下の隈が特徴的な、全体的にやや鋭い印象を持つ男だった。
 という描写も巧みだったと思います。妹も加わって、キャラクター性がずいぶん増したように感じました。

 思うのですが、いつもの喫茶店が物語の軸、というか「基地」の役割を果たしているのですね。毎回聞き耳から事件に繋がるというのもアレですし、喫茶店のマスターあたりが絡んでくると、もっと「基地」的な役割が増強されるかもしれません。ありきたりですが(泣)。

 謎解き部分にはあまり関係ないのですが、気になったことがあります。図書館の若い職員についてです。自分が入る前に辞めた職員のことを彼が知っているとは考えにくいです。引継ぎとかがあったのでしょうか。ここは別の職員が出てきて説明する、くらいが妥当かと思います。大したことではありませんが、気になったので。

 「魚」について自分は、旋回中の縦になった飛行機が魚の骨のように見えたのだと勘違いしてしまいました。
 駐車場の白線の背骨部分だけで魚、と見るのは無理があるようにも感じましたが、どうでしょう? でも意外性のある答えだったのでなんだか納得させられてしまいました。

 既に指摘されていることですが、特に1話と2話において主人公の主体性の無さはミステリ的に問題かもしれません。もっと思考と探索の時間を長く取ったほうが、謎解きを盛り上げられると思います。また、トリックもそれに耐えられるもののほうが読みごたえがあると思います。

 キャラクターとその関係が上手く描かれていて、楽しく読了することができました。ありがとうございました。
 それでは、失礼します。


あひるさんの感想
 ※ネタバレ含みます。
 ミスリードについて、勘違いなさっているようなので補足。

 ミステリーに於いて、ミスリードは基本技術です。
 ミスリードは「意図に反して、誤解を招く読ませ方」では無く、「意図的に誤解を招く導き方」。
 Aと思わせて実はB、のようなことです。
 ミスリードは伏線の一種とされています。

<人生のしおり>の場合、
・おじさんが借りた本を「人生のしおり」にする……章の名前がこの本のタイトルだと思わせて、本当の答えに行き着くのを遅らせる。

・おじさんの慌てぶりを意図的に省く……詳しく書きすぎているので、本当の答えに近くなる。もっと省きに省いて「重要書類かも知れない」と思わせたり、「恥ずかしいものを挟んだ」と思わせたりする。

 「わたし」を騙すつもりで書くといいと思いますよ。
 そうすれば、「先輩」の破天荒さももっと出ますし、読者も「ヤられた〜!」と思うでしょう。

 こうして見ると、ミステリーは読み解くのは簡単ですけど、書くのは難しいですね。


カインさんの感想
 カインと言います。初めまして。今回「聞き耳探偵とわたし」を読ませていただきました。
 感想を一言で表すと「物足りなかった」でした。

 ここから批評……というか不満と感想です。個人的に思ったことなので、取り入れる際にはよくよく吟味してくれると嬉しいです。

 文章に関して
 落ち着いた描写は好感が持てました。ただ、何気ない日常や場面などの表現は優れているかもしれませんが、重い場面などは描ききれるかどうかはまだハッキリしないので、描写力に優れていると断言はできませんが……

 登場人物に関して。
 他の人もあげていますが、妹との関係がよくわからないですね。なんとなく苦手意識を抱いてるのかと思うと、あっさり会話をしていますし。
 あと、先輩はもっと魅力的に描けるだろうなと思うとちょっと残念です。こういった性格の人物は好みなので。

 ミステリー部分に関して。
 あまり考えてなかったので、ぜんぜんコメントできませんでした。ただ、魚の骨に関しては早朝なので朝日が空港の建物のガラスとかに反射したのかなと推理しましたが、外れでした。

 ストーリーに関して。
 ストーリーの弱さがこの作品の足かせになっているように見えます。「わたしと先輩が出会った」だけでほとんど人間関係に変化がないので、読後感が物足りない感じになったのだと私は推測しています。文章が良いだけに、ストーリー部分に対する期待が大きくなってしまうのもあると思います。

 総評として。
 文章は好感が持てますが、ストーリーの弱さがかなり大きいです。こうした現代物で落ち着いた描写の小説を書こうとすると、登場人物に強力な個性やパワーをつけるのが難しいので、結果として物語を引っ張る力が弱くなってしまいがちです。
 そう言った点において、物語と登場人物の構造的に妹がキーパーソンになる可能性がありました。彼女をうまく使えば、物語に大きな動きがあったかもしれません(淡々として感じで書きたいならオススメできませんが)。

 点数は五十点から。
・ストーリー部分の弱さが目立った……−二十点
・登場人物の描写に甘いところがある……−十点
・ミステリーに暗いところが多い気がします(個人的な好み)……−十点
・文章に好感が持てる……+十点
 で二十点としました。

 日常の謎を描いたミステリーということで、加納朋子先生の「ななつのこ」と比較してました。
(余談ですが、加納朋子先生は北村薫先生に強い影響を受けてるようです。
 未読ならオススメできるかもしれません)
 ですから、最初はもっとシビアな点数をつけていましたが、プロとアマの作品を比べるのは野暮だろうと思って現在の得点になりました。
 なので、十五点を四捨五入して二十点になった、という感覚でとらえていただければ幸いです。

 他の人があげたのと重なってる上、偉そうな感想を失礼しました。文章力は高い水準にあるようなので、ここを重点的に鍛えれば強力な個性になるかもしれません。個人的な意見ですが。
 ではこの辺で。長文失礼しました。さらなる成長を期待しています。


レディマンさんの感想
 どうもこんにちは、レディマンです。携帯から失礼します。

 寝る前にちょっと覗いて行こうかなーと、軽い気持ちでやってきたら徹夜じゃないですか(笑) いやー、おもしろかったです。

 以下、感想と迷推理。
1.喫茶店の男
・わたし
 清楚なイメージの主人公です。何故だろう、髪がセミロングのイメージだ……。
・喫茶店の男
 何者だろう? カッコイイというより、理知的なイメージ。

・謎
 回りの悪い頭でしばし考えてみる……。うーん、多分すっごい田舎ってのがヒントなんだろうな。
 田舎……田舎といえば……サル……サルだ! 人を恐れなくなったサルがキーを強奪し、人間を観察することで車の運転を覚え、軽やかにカーブを曲がっていったのだ!

・妹
 なんでだろう……イメージが完全に深津絵里だ……。

・解答
 うふふー、ですよね。

・総評
 軽トラは複線じゃなかったんですね。てっきり、これで気付いたりするんだと思ってました。
 そして謎解き。……ちょっと唐突というか、無理やり感があるような……まあ、サルがどうの言ってた人間のセリフじゃないな(笑)

 とはいえ、作品内に漂う雰囲気はとてもしっかり作りこまれていて、先を読ませる力があります。キャラクターも世界に合致していています。特に「わたし」はいいですね、等身大な感じがよく出ています。


2.人生のしおり
・先輩
 あ、仲良くなれたんですね。ここから二人のラブロマンス(笑)が始まるんでしょうか。

・謎
 うーん、本の間に挟むといえばへそくり。お前が盗ったんだろーとか言ってるし。
 へそくりを隠そうとする→奥さんの気配→慌てて適当な本に隠す→忘れる→返す……みたいな。

・変わった名前
 何て名前なんだろう。気になる。かといって、名前が出てしまうと世界観が崩れるし。

・息が上がりかけた〜
 こういう表現、いいですね。

・宝くじ
 レディマン、轟沈しました。

・待ち時間
 大変だ。ニヤニヤが止まらない。暗がりでよかった……(怖い怖い!)

・総評
 1話よりも随分いい感じですね。唐突感を感じなかったです。伏線が上手く機能しています。……てゆーか、さっき気付きました。答え、ほとんど書いてたんですね。

 全3話の中では一番好きですね。綺麗にまとまってます。


3.賭博師の代価
・第一の謎
 いきなり謎掛けですね。ふむふむ、次発ってことは早朝だなー。日が出たばっかりか……わかった、影だ。建物の影が魚みたいに見えた。これでいこう。

・兄貴の話
 うーん、こういう話の持って行き方があるのか。私ならズバッと書いてたかも。今度盗もう(犯行予告)

・第二の謎
 随分、貧乏なようですね。コーヒー一杯が贅沢とは。でも、それと結婚と何の関係が?
 むーん……彼女の親あたりが、結婚を条件に仕送りを止めてるとか。苦しい!

・第一の謎解き
 うふふー、うふふー。わかってた、わかってたさ。

・妹の登場
 おや、妹ちゃんもきたのか……。

・謎解き
 おー、全然気付かなかった。そうかぁ、扶養家族かぁ。

・総評
 うーん、お魚の謎はワトソンくんが自力で謎解きに頑張る展開で、違った流れが出て来たなーと思っていたのですが、婚姻届の謎はやっぱりちょっと無理があるような……いくら何だって周りも止めるだろうし。

 あと、最後に妹ちゃんが先輩に会うのは、なんというか消化不良な印象です。妹と先輩は「わたし」を通じて、お互いの中に存在する人物だったので、一気に世界観が崩れた印象がありました。まぁ、これは個人的な好みですので、無視してくれて結構です。

 というわけで、夜を徹してしまいました。久しぶりの感想書きなので、妙に手間取ってしまいましたが。途中から独り言っぽくなってるのは、純粋な感想ですので、ご容赦いただければと思います。見にくくないといいのですが。
 では、長々と失礼しました。レディマンでした。


紅夜さんの感想
 なにも殺人だけがミステリじゃないなと。そんな感じです。(どんな感じだ。)
 
 日常ミステリとなると大体子供向けのひらがなとギャグで構成されたものしかよんだことがなかったので、描写が多いこの作品は自分の中では新鮮でした。
 ぜひ、次の話も読みたいです。

 明確な証拠はないので、もうすこし「推測である」ということを強調してもいいのでは?と思いました。
 では。


陽ノ神洋也さんの感想
 初めまして、陽ノ神と申します。作品拝見させて頂きました。

 早速感想を。

 個々の内容にいく前に、全体的な感想を。読んだ印象としては、マンガではありますが、『Q.E.D. 証明終了』(作:加藤元浩)が思い浮かびました。日常的な何気ない部分から、推理をしていくと言う形は読んでいて物語に入りやすかったです。
 一カ所気になったのが、台詞のあとに地の文がそのまま続くところが何カ所かあったところです。
 「僕の名前は〜」と彼は言った。←のような使い方ではなく一つの台詞の後に描写の分が続けてくるのに違和感を感じました。

 次に個々の話に。基本的に僕はあまり推理はせず(何となくこんな感じかな程度で)、謎の解決部でどう解決するのかを楽しみに読む立場です。

1:喫茶店の男
 「わたし」が随分大人びた人なんだなと思いました。大学生と言うよりはもう少し年上な印象です。また、どこか緊張した感じが地の文などから伝わってきて、文章を読むことに疲れました(この点は2話以降に無くなるのですが…)。
 最初、連作とは知らなかったので多少話の展開が急だなとは思いましたが、連作であると事前に知っていれば問題ないかなと思います。
 肝心の推理の方ですが、今のご時世いくら田舎でも子供が軽トラといえど車を運転することなんて、まずないんじゃないだろうかと思いまいました。そのため、解答を期待する身としてはこれはないだろうという意識が先行して、読後なんだかなーという後味の悪い印象が残りました。

2.人生のしおり
 まず一話と打って変わって、メイン二人の印象が1話と比較して幼くなった(角の取れた)ように感じて、一瞬別人の話かと思いました。もっとも2話以降の二人の方が自然な感じがして好感を持てました。
 さて、推理の方は途中から何となくオチは見えましたが、もう少しお金で人(人生)の変わった様子を見てみたかった気がします。といいますのは、全体的に読み手に与えられる情報が解答に必要なもの以外は、断片的で(先輩が与えた情報という形上仕方がない面もありますが)物語を読みながら自分の中で膨らませる余地が少ないかなと感じたからです。

3.賭博師の代価
 最後の三話目です。個人的には、このお話は最後に持ってくるよりは、途中に入っていた方が面白いかなと思いました。この次の話で先輩と妹対わたしといった構図の話とかも、見てみたい気がするので(何となく主人公はボコボコに負けそうな気もしますが)。
 最後の推理で魚の方は概ね予想したものと違いはありませんでした。もう一方のほうは、奨学金という視点はなかなか思いつかないかなと思いました。そう言った意味では謎としては成功のような気がしますが、一言ヒントも欲しかったです(先輩が一番学生に必要なのは何だ? とか言う感じで)。

 以上色々と述べましたが、何らかの足しになれば幸いです。執筆頑張って下さい。ではでは。


ツングー正法さんの感想
 読ませていただきました。
 冒頭はゆっくりテンポ、日常、普通の主人公と三拍子そろってしまって、読み始めるのにずいぶん時間を食ってしまいましたが、先輩との接触後はもう騎虎の勢い。読むのが止まりませんでした。
 なんともユニークなシステムですね。先日、私は物的証拠の不足に涙を飲みましたが、この話では推理はあくまで趣味、あるいは頭の体操という感じで、推理が合っているのかどうかも明らかにされない。ある意味、究極ですね。犯人と交わったりもしないので、話がどろどろすることなく、始終さっぱりした味でした。勉強になります。
 好きだったキャラは――もちろん先輩。不思議オーラの表現が素敵です。
 文章を私がどうこう言うレベルでなかったので、後は純粋に楽しませていただきました。

 トラック――無人偵察機が飛び回っている時代なので、遠隔操作トラックかな、と推理しましたが……子供とは。怖っ。
 しおり――こ〜れは、何を推理すべきか察することすら失敗しました。
 魚ーー水面に飛行機でも写ったのかな、と安易に推理しましたが……なるほど、そう来ましたか。私は状況説明を真面目に考慮しなければなりませんでした。
 結婚ーーこれはスコットランド人のやる、契約結婚だな、と推理しましたが……そんな手がありましたか。人生の裏技ですね。
 0勝4敗……OTL
 でわ、次回作も楽しみにしています。 


一言コメント
 ・続編が読みたくなる作品でした。脱力感と緊張感の行き来が絶妙です。
 ・日常の謎、というのがよく、すらすらと読めた。ところどころの『私』と『先輩』のあり鳥も面白かった。是非続編を書いて欲しいです。
高得点作品掲載所 作品一覧へ
戻る      次へ