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むしゃくしゃする。
酔った視界に、親友『だった』美由紀と、彼氏『だった』孝則の姿がちらついて、あたしはジンフィズのグラスを空にした。 (何杯目らっけ……) これ。 視界が、揺れた。ダンスフロアから鳴り響いてくるはずの大音量も、どこか遠い。 「ねぇねぇ、ひとり?」 またナンパ……。 ちょっとうんざりした気分で、あたしはテーブルから体を起こした。 クラブにいる男ってのは、女と見れば声をかけなきゃなんないってルールでもあるんだろーか。 ひとりでいるから尚更なんだろうけど、普段ナンパなんて縁のないあたしにさえ、さっきからナンパが絶えない。画期的。 「ひとりじゃないわよー」 「え? 嘘だあ。さっきから見てたけど、ずっとひとりで飲んでるじゃない」 軽そうな男。 人懐こいのと慣れ慣れしいのを、勘違いしてんじゃないの? 男は、あたしの隣の椅子を引くと、こっち向きに座ってテーブルに頬杖をついた。 ぱさぱさに脱色した髪がライオンみたい。ダボパンに日サロ、金のネックレスにピアス。 いるいる、こういうの、渋谷センター街にたくさん。 女を引っかけることに命かけてるみたいなの。 なまじっか、ちょっと顔が良かったりすると、女も馬鹿だから引っかかんのよ。……悪かったわねっ!! 孝則は確かに、こーゆー男だったわよっ!! だけど好きだったのっ。しょうがないじゃないっ。 「荒れてんのぉ? 何かあったぁ? 俺で良ければ話聞くよ? どっか静かなとこ、移る?」 「ひとりじゃないって言ってるでしょ?」 男が笑った。 「えー? 今は俺といるから、ふたりぃ?」 「お狐様」 「……は?」 男の笑顔が凍った。 「やだなあ、お茶目なこと……」 「あたしにはお狐様がついてるの。満月の夜には同士が集まって『お狐様を崇める会』をやるのよ。いつもあたしのそばであたしを守ってくれてて、あたしのお狐様は九尾一族の強い力を……」 「ごめん、話が合わなさそうだからまた今度」 ふん。狐憑き程度にびびるくらいならナンパなんかしてんじゃねーわよ。 言ってる意味なんか、あたしにだってわかりゃしないわよーだ。 気味悪そうに席を離れていく男の背中に、舌を出しながらひらひらと手を振る。 それからグラスに手を伸ばし、中身をさっき飲み干したことを思い出した。 おかわりをもらおう。まだ飲み足りない。まだまだまだまだ飲み足りない。 そう思って立ち上がりかけた時、それを遮るようにテーブルにグラスが置かれた。 「……何あんた」 テーブルを挟んで向かいに、さっきとは別の男が座ってる。 今追い払った男に比べれば、随分地味な感じではあった。多分あたしよりちょい年下、10代と20代の境目とかその辺。長髪ってのが少し軽そうではあるけど、尻尾みたいに後ろに1本でラフにまとめてて、普通の黒髪。質素な顔立ち。ちょっと目尻の下がり気味なのが、人の良さそうな印象。 「いやぁ……今の追い払い方が、衝撃的でした」 「これ、何。水?」 「水。今もらってきたばっか。どうぞ」 「飲みたいの、あたし」 「だからどうぞ」 「あ・る・こ・ー・るっ!! ってゆーか、何あんたあたしのテーブル座ってんのよ」 男はちょっと笑って、あたしの方に水のグラスを押し遣った。 「『あたしのテーブル』って……。別に変なモン入ってないから、とりあえず少し水飲んどけば? それでもまだ飲みたきゃ、俺がもらってきてあげるから」 優しい言い方に、水のグラスに手を伸ばす。 確かに立て続けに何杯も飲んでるから、この辺で一度休憩すべきはすべきかもしれなかった。 「……あんたもナンパ?」 「まあ、そーなる」 否定も、取り繕うこともせず、男はあっさりと白状した。 「ひとりで飲んでるから声かけよーかなーって思って見てたんですが、何だか荒れ模様だったんでどうしようかなあと迷ってたら、さっきの男の衝撃的な撃退シーンを見てしまったので、ちょっと面白ぇなあ、と」 「……」 「その水、あんたの為にもらってきたんで、遠慮なくどーぞ」 言われて口をつけると、本当に今し方入れてもらったばかりらしく、水はひんやりと喉に染み込んだ。 「撃退したわけじゃなくて、本当に『狐憑き』かもよ」 「今まで『狐憑き』を見たことがないんで、それはそれでまた一興」 「『狐憑き』だと思ってる、頭のおかしな女かもよ」 「頭おかしいようには、見えないもん」 笑った顔が、素朴な感じだった。 クラブなんかで、しかもナンパしよーってんだから、素朴なわきゃない。そんなことわかってる。でも、さっきの男に湧いたほどの警戒心は、湧き上がらなかった。 「どうする? まだお酒、欲しい?」 飲み干した水のグラスを、テーブルに置く。グラスの表面についた雫が伝わり落ちて、テーブルにしみを作る。 「……うん」 「んじゃあ、最後に一杯ってことで」 そう言って立ち上がるとドリンクカウンターへ歩いていく男の後ろ姿を眺めながら、不意に、泣きたくなった。 目を瞑ると美由紀と孝則が浮かび、目を開くと美由紀と孝則が見える。 彼の部屋、上半身裸で玄関に出てきた彼、床に脱ぎ散らかされた服、部屋の奥で凍りついたようにあたしを見る美由紀。 「お待たせ。『あの人の同じもん』って頼んだらジンフィズが出てきましたが、あってる?」 「あってる。……じゃあ、最後の一杯」 「うん」 あたしにジンフィズのグラスを差し出した彼は、もうひとつ自分用のグラスをテーブルに置いて、元の場所に腰を下ろした。 「飲み過ぎ注意報。OLさんじゃないの?」 「何でわかったの?」 「服装で何となく、オフィスカジュアルって奴でしょ。明日仕事なんでしょーから、ほどほどってことで」 その言葉を聞いて、ちょっと笑った。 変わってる、この男。 クラブでナンパしようってんだから、女の子が酔い潰れちゃう方がラッキーなんじゃないのかなあ? 普通。 なのにあたしの明日の仕事を心配している辺り、妙に手緩くて、おかしい。 くすくす笑うあたしに、男が軽く片眉を上げた。グラスに口をつけてから、首を傾げる。 「何」 「ううん。変な奴」 「……えぇとー、勘違いでなければ俺とあなたは今が初対面だと思うんですが」 「そうだね」 「初対面の方にいきなり『変な奴』は失礼かなと思わなくもないですが、そのあたり、いかがですか」 「気のせいだと思う」 「……」 くすくす笑いながら答えると、男は顰め面で胸ポケットを漁った。煙草を1本抜き出して指先で弄ぶと、「吸って良い?」というような仕草をする。あたしが頷いてみせると、煙草を咥えて火をつけた。 「彼氏と親友が浮気してるの、見ちゃった」 「げほっ」 それを眺めながら唐突に言うと、男が煙にむせた。 「いきなりな人ですな、あなたも……」 「多分あたし、誰かに愚痴りたかったんだもん」 「だったらさっきのナンパ男に乗っといても良かったんじゃないですか」 「あんなのについてったら、あたしの身の危険じゃないのよ」 「俺は?」 改めて煙草を吸い直して尋ねる男に、あたしは少し考えた。 そうだな、何で追い払う気にならなかったんだろう。 「安全牌」 「……」 あたしの答えに、男がテーブルにひれ伏す。呻き声が聞こえる。 「今、俺の繊細な心に亀裂が……」 「だってそう思ったんだもん。いーじゃない、安全」 「すげぇ屈辱的……」 酔っ払いに怖いものはないもんね。 そ知らぬ顔で、男に奢らせたジンフィズを口に運んでいると、よろよろと男が体を起こした。灰皿を引き寄せて、煙草の背中をポンポンと軽く叩く。 「まあ、いいや……。愚痴れば」 「ああいう場面に遭遇したら、ヒステリックに泣きながら『ひどい!! あたしのこと、騙してたのね!!』とか叫んだり、たまたまなぜか持っていたバッグの中のカッターナイフ振り回したりすんのかと思ってた」 「……たまたまカッターナイフをなぜか持ってるのは、どうかと思いませんか」 「そこ突っ込まなくて良い」 「んで、あんたはどうしたの?」 男が、煙草の先で灰皿の中をなぞる。ゆっくりと円を描く煙草の赤い火を眺めながら、テーブルに両肘をついた。組んだ掌に顎を乗せて、ため息。 「『どうもお邪魔しました』って言って、出て来ちゃった」 「……」 「何か、自分でも咄嗟にわけがわかんなくって、『何であたし、ここにいるんだっけ』『この2人、何してるんだっけ』って一瞬で思って……」 「……うん」 「何か、とにかく早くそこからいなくならなきゃって……」 ぽた……っと涙が零れた。 自分で驚いて、目を見開く。 うわぁ、凄い。これが『自覚がないのに涙が零れる』って奴なのね、とか見当違いなことを考えた。 ああ、ショックだったんだな、あたし。 今更のようにじわじわと、そんな感想が胸の内に漏れる。一度堰が壊れた涙は、目の前で困惑している男なんか関係なしにぼろぼろと溢れていった。 「ふうん? そんで、それからここで飲んでんの?」 「ううん。一軒目は、下北沢のバー。あいつの家が下北沢で、わけがわかんないまま無我夢中で目に付いたバーに入っちゃった」 「普通はとりあえず、どっか少しでも遠くに行ったりしないの?」 呆れたように男が評する。うるさいわね、そんな精神的余裕さえなかったのよ。 「そんで、そこで飲んで……帰ろうと思って電車に乗って……帰りたくなくて……」 「んで、ここに来たんだ」 「そう……」 電車を渋谷で下りて、ふらふらと夢遊病みたいに歩いた。歩いている間にお酒がきれてきて、飲み直したくなって目に付いたクラブに入った。 ダンスフロアでは人が踊ってるし、大音量で鳴る音楽が、あたしの泣き声を消してくれるような気がした。 だけど、涙なんか、今の今まで、出なかった。 男の指先が、煙草を灰皿に押し付ける。 「ねえ、名前、何?」 涙をぼろぼろ零したまま尋ねるあたしに、男がまた呆れたような目線を向けた。だけど具体的には何を言うでもなく、小さく首を傾げる。 「何だと思う?」 ……合コンなんかで「えぇ〜? いくつに見えるぅ〜?」ってのはあるとしても、名前を当てろってのはそうそうないと思うの。難易度高過ぎ。ってか意味わかんない。 「んじゃあカトウ」 「何でカトウ?」 「カトウって感じだから」 どんな感じだよ……と、男もといカトウが苦笑した。やや伸び気味の前髪をかきあげて、グラスに手を伸ばす。意外と、繊細そうな指先。 「じゃあ、カトウで。ま、当たらずとも遠からず」 「何それ」 「カのつく3文字。……良く泣きますな」 何気にずっとぼろぼろ泣きっ放しのあたしをさすがに見かねたのか、カトウがポケットを漁った。思いがけず綺麗なハンカチを、顔に押し付けられる。男の人っぽい匂いと、微かにムスク系のコロンの香りがした。 「迷惑?」 「別に? 涙は、心の傷の出口だから」 ハンカチを両手で持って顔に押し付けつつ、そっと目元だけ覗かせてカトウを見る。 「悲し過ぎて感情が麻痺してても、体ってのは意外に正直。耐え切れないから、せめて少しでも悲しみを外に逃がしてやる為に、涙が出る」 「じゃあ、この中に詰まってんのは、悲しみなんだ」 さっき、あたしの頬を伝わっていくつもテーブルに落ちた涙の跡に、視線を落とす。 「そう。膿みたいなもん」 「何かいきなり汚いもんに見えてきた」 わざわざぶち壊さなくたって。 唇を尖らせるあたしに、カトウが噛み殺すように笑った。それを見て、気がつく。 ……気を紛らわせようとしてるのかな。 ハンカチを目元に強く押し付けながら俯くと、何だか一層涙が出た。そこまで来てから、ようやく胸の中に自覚が芽生えてきた。 あたし、最愛の人を失ってしまったんだ。 あたし、一番の親友を失くしてしまったんだ。 胸を押し潰すような圧迫感に、息が詰まる。頭をぎゅうっと絞られているみたいに、こめかみが痛んだ。 心の中で言葉にしてみると悲しくて痛い気持ちが猛烈に押し寄せてきて、太刀打ちできずに涙の中に引きずり込まれる。嗚咽が喉元を駆け上がり、あたしはいよいよ本格的に泣き出してしまった。 「……ふぅっ……ぅっ……はぁっ……」 時折しゃくり上げながら肩を震わせて泣くあたしの頭に、カトウの手がぽんと乗せられた。頭の上でポンポンと、軽く弾むように動く。 「……ご、ごめ、んね……」 初対面の女に、いきなり号泣されても困るはず。 だけど涙の止め方がもうわからなくて、ぎゅっと瞑った目に握り締めたハンカチを押し付けていると、カトウが微かに笑うのが聞こえた。 「泣けるうちに泣いておくことをオススメします。あんまり自分に我慢を強いていると……そのうち、泣き方もわからなくなるから」 ……? 「心の出口を塞ぐと、人って壊れていきますんで」 意味深に聞こえて、ハンカチからそっと目を覗かせる。テーブルの向かいから腕を伸ばしてあたしの頭を撫でていたカトウは、もう片方の手で頬杖をついたまま、笑った。 「悲しいことは、続かない。今は真っ黒に見える未来も、いつかは色が変わってく。人生の長さで考えれば、こんなの、ほんの一瞬の痛みだよ」 そう言ったカトウの笑みは、どこか悟ったようなものに見えた。口先だけじゃない、本当に『黒かった未来』を越えてきた人みたいに。 「泣けるんだから、大丈夫。裏切られる痛みを知ったあんたは多分、裏切らない人になれるんだから」 痛みに歪むんじゃなくて。 痛いからこそ、人に、優しくいられるように。 わかっていても時々人は忘れるから、せめて痛んだ時には、心に刻み付けるように。 「ありがちですが」 茶化すように笑ったカトウに、あたしも笑って、それから顔を横に振った。 偶然居合わせただけに過ぎない通りすがりのあたしに、真面目な優しさをくれたあなたへ、心からの――。 「ありがとう……」 ◆ 未来は、まだ、ちょっと黒い。 彼と会わなくなり、親友とも連絡を取らなくなり、たかだか2ヶ月程度じゃカトウの言うように未来の色は、まだ変わらないらしい。 昼は仕事で走り回り、夜は時々ひとりで膝を抱えて、泣く。泣いて眠れなくて、泣き疲れて眠る。 だけど、泣くことは悪いことじゃないもんね。それは、あたしの中が悲しい気持ちでいっぱいにならないように、みんな外へ解放すると言うことだから。 (膿って……) あの時カトウが言ったことを思い出して、あたしは小さく吹き出した。 もうちょっと綺麗な表現、なかったかなー……。 カトウとはもちろん、あの夜以来会っていない。 あたしは元々クラブとかにさして出入りするようなタチじゃないし、あの『最後の一杯』を本当に最後に、あたしはカトウと別れた。 (ふぁ……眠いなぁ……) 会社のある東京駅で、あくびを噛み殺しながら電車を下りる。通勤で溢れ返る人込みの中、改札に向かうあたしの耳に女の子の声が響いた。 「神田くん」 何気なく顔を上げる。 まるで田舎から上京してきたように、ジーンズにシャツというラフな服装とリュックの女の子が、改札を出ようとしているところだった。長い黒髪が揺れる背中越し、改札の外につられて視線を向けたあたしは、足を止めた。 「お疲れさん」 柱に背中を預けるようにして彼女を待っているひょろっと背の高い男――カトウ。 「うぎゃ。……泥棒」 カトウは、小走りに近づく女の子が背負ったリュックをひょいっと持ち上げた。 「持ってやるっつーの。こんな貧相なもんをもらってくほど、困ってません」 「貧相って言わないで。あたしの今の全財産」 「……あんたの全財産ってこれだけなの?」 呆れたような表情や口調も、あの時見たカトウそのままだった。 思わず足を止めたまま2人を見つめるあたしには気がつかずに、カトウは彼女と並んでこちらに背中を向ける。少しずつ人込みに紛れていく後ろ姿に、あたしも、ようやく歩き出した。 (彼女かな?) でも『神田くん』って言ってた。彼女にしては、よそよそしい。 (『神田』だったんだ) カのつく3文字、と言っていたことを思い出して、あたしはまた、ひとりで小さく笑った。 多分、もう2度と会うようなことはないだろう。2度目の偶然さえ、奇跡的。 だけど何となく、嬉しい偶然だった。何かちょっと、良いことがありそうな気分になれた。 (頑張って、立ち直ろうっと……) 3度目の偶然なんてきっともうないだろうけれど、もしももしも3度目があったら、その時は胸を張って言いたいじゃない? あたしは今、幸せだよって。 カトウがくれた言葉を無駄にしない為にも、色鮮やかな明日に、幸せを掴みに行こう。 悲しいことは、続かない。 ぎゅっと拳を握り締めて気合を入れると、あたしは真っ直ぐ、前を向いて歩き出した。 |
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●感想
一言コメント ・落ち着いた面白さ。 |
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