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『たすけて』
二学期が始まったその日、橘からそんなメールが届けられた。 高校二年の夏休み。 友人と遊んだ帰り道、クラスメイトの橘陽菜がシャッターの閉まった肉屋さんの前で、ぼうっと突っ立っているのを見つけた。 普通ならそのまま通り過ぎるのだが、声を掛けようと思ったのは、俺が少なからず橘に興味を持っていたからだ。 「よう、何してんの?」 ちょっと緊張しながら訊ねると、橘は伸び過ぎの前髪越しに俺を二秒間見つめて、 「雨宿り」 と、簡潔に答えた。 雨宿り? 首を傾げて疑問に思う。見上げると、確かにそこには小さな屋根があった。ただ、今は雨なんか降ってない。 「ほら」 「え?」 ぽつり、ぽつりと。 頭に水滴が落ちてきた。やがてそれは勢いを増してくる。ていうか、夕立だ。俺は慌てて橘の隣に行き、雨を凌ぐ。 「うわー」 驚きと傘持ってねえどうしようが入り混じった「うわー」だった。 橘に視線をやる。俯きがちな姿勢と前髪のせいで、表情がほとんどわからなかった。 「なんで雨降るってわかったんだ?」 「それは、私が私だから」 なんだそりゃ。全然意味がわからない。 橘はちょっと電波系な女だった。 クラスでも孤立しているというか、孤高な存在感を放っている。 今まで出会ったことのないタイプだったので、好奇心割と強めな俺は前々から橘と話してみたかった。とはいえ、皆がいる教室で話し掛けるほど、思い切ったこともできないでいた。 今こそ好奇に違いないと、会話を続けさせてもらう。 「雨が降るってわかってたのか?」 「そう」 「じゃあ、傘を持ってくれば良かったじゃん」 「……あー」 あー、じゃねえよ。 その手があったかとばかりに、手を打つ橘。 「しかし、計算通り」 「なんでだよ」 雨宿りしなければならないこの状況のどこが、橘の計算なのかぜひ教えていただきたい。 「私は瀬戸の話し相手になる為、ここで待機していた」 「俺の話し相手?」 橘の言い分に、目を丸くする。 「そう。一人で雨宿りは退屈」 「なるほど。俺がここで雨宿りすることを見越して、橘は待っていてくれたのか」 「その通り。傘を用意するのを忘れた訳じゃない。勘違いしないで。私は瀬戸と話す為にここにいる」 「……それは、ありがとう」 もしかしたら俺は凄いことをしているのかもしれないと、不意に思った。 教室で橘がこんなに喋っている姿を見たことがないからだ。 「さあ、なんでも話して」 そんな橘が会話を促してくるなんて。しかし、何を話題にしようか。 「あ、そういえば、前から橘に言いたいことがあった」 「なに」 俺の言葉を聞こうと、橘の顔が気持ち上を向く。 「髪切ったら、結構可愛いと思うぞ?」 「……あー」 あー、じゃねえよ。 その発想はなかったとばかりに、うんうん頷く橘。 「よく気付いた。やるね、瀬戸」 「いや、別にやらねえよ」 「まあ、私も知ってたけど」 「嘘つけよ」 そんな感じで、雨が上がるまでの三十分ほど、橘と噛み合ってるんだかよくわからない会話をした。 最後に、電話番号とアドレス教えてと俺が言うと、なんと橘は「ハンカチ持ってない」と同じテンションで「ケータイ持ってない」と言いやがった。 仕方がないので、俺の番号とアドレスだけ教えて、その場は別れた。 すると、後日。 『けたいかった』 手抜きにもほどがある本文で、橘からメールが届いた。 漢字変換どころか、伸ばし棒をどこで入れるかわからなかったのかよ。 ただまあ、あの橘がケータイを買ったのだ。大した進歩である。 何かあったら連絡しろと返信すると、三十分後にやっと、 『わかった』 と、またメールが届いた。 頑張って俺にメールを打つ橘の姿を想像すると、心の底で飴を煮詰めているような気分になった。 夏ももうすぐ終わりだなあと思っていると、あっという間に新学期だ。 学校だるーって気持ちでいっぱいだが、登校しない訳にもいくまい。 俺が憂鬱という二文字を背負って教室に入ると、窓際の後ろの方で軽い人だかりができていた。 なんだなんだと近寄ってみる。俺の好奇心は割と強いのだ。 「え」 驚きに間抜けな声が漏れた。その中心には橘陽菜がいた。 髪を切っていた。 どこの美容院でやってもらったのだろう。鬱陶しかった前髪が見事に切り揃えられ、予想以上の美少女がそこにいた。 橘の物凄い変わりように、クラスメイト、特に男子共が調子良くしきりに話し掛けている。だけど、橘はそれにどう対応していいかわからないのか、明らかに困っているようだった。 あ、目が合った。 落ち着きなく動いていた橘の大きな瞳が、俺を正面に捉えた。 何かを訴えているのか、じっとこちらを見つめてくる。 と思ったら、橘がスカートのポケットからケータイを取り出した。 何をするんだ、と俺は様子を窺う。周りの奴らも、どうしたんだと観察している。 一分後、俺のケータイが震えた。 橘からのメールだった。 『たすけて』 そのやっぱり手抜きな本文を読んで、俺は一人密かに微笑んだ。 あと五分経ったら、助けてやろう。 |
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●感想
一言コメント ・こんな雨宿りなら、どしゃぶりもいいですね。 |
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