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カーナビゲーションシステム。
それは目的地まで車が道に迷わないよう、サポートするシステムのことである。一般的にカーナビと略される。 一方でジンナビというものがある。 その意味とは――。 ☆ 「使えねえ機械だな。ポンコツがよ」 目的地まで車を誘導する、カーナビと呼ばれる機械を前に、春山翔太は悪態をつく。 二度ほどカーナビを叩いてみるが、カーナビはうんともすんともいわない。画面は黒く染まり、音声案内まで途絶えている。完全に故障したようだった。 社会人としてもうすぐ十年が経つ翔太は、スーツに身を包んでいる。仕事を終えたため、ネクタイを緩め、首を圧迫する第一ボタンは外してある。朝に剃ったアゴヒゲが少しだけ顔を覗かせていた。 翔太は最後の一本であるタバコを取り出し、ライターで火をつけた。マルボロと英語表記された箱を握りつぶし、後部座席へ投げ捨てた。 全開の車窓から急かすようなクラクションが飛び込んでくる。ふと後方を見ればヘッドライトに光をつけた車がいた。前方を見れば信号が、さっさと進め、と青色で告げていた。 再度いらただしげなクラクションが聴覚を刺激する。 「わかってるよ。うるせえな」 翔太はアクセルを乱暴に踏み込み、一気に加速した。 二車線の道路をゆったり走る他の車たち。決して多くない車を、翔太は車線を変えながら抜かしていく。誰が見ても事故を誘発しかねない運転は、しかし長続きしない。赤信号に行く手を阻まれる。 「オレが運転してんだから、青になっとけよ」 車窓から外へ腕を伸ばし、タバコの灰となった部分を落とす。急ぎの用事はない。ただ車を走らせたいときに邪魔をされるのが嫌なだけだった。 翔太は車で、息子が通う青空保育園に向かっていた。 勤め先である篠山工業での残業をおえ、会社を出たのが二十一時ごろ。あと五分もあれば――つまり二十二時には青空保育園につくだろう。そうなると帰宅は二十三時になる計算だった。 青空保育園は自宅から、かなりの距離がある。そんな場所に息子を通わせているのは、遅い時間帯まで子供を預かってくれる保育園が少ないためだ。残業が恒例である翔太にとって、青空保育園がもっとも条件にあっていた。 タバコを指で弾いて車外に捨てる。一度気勢を削がれて、暴れるような運転をする気もおきない。まったりと目的地へと向かう。 青空保育園の到着し、路上駐車をして車を降りた。 正門は固く閉ざされているが、横についている小さな扉は開錠されている。保育園の職員が、わざとそうしてくれているのだ。 多くの部屋が消灯された保育園で、唯一明るい小部屋に翔太は足を踏み入れた。そこには翔太の息子がいる。 柔らかそうな頬に、重さを感じさせないふわりとした髪。彼は丸みを帯びた瞳で翔太を見ると、パッと顔を輝かせた。今まで遊んでいたのか、彼は両腕でボールを抱え込んでいた。 「ほら、一樹君。お父さんが来たよ」 職員の女性が言った。彼女の声音には弾むような明るさがある。 「さ、ボールを片付けて」 「うん、わかった」 素直に従う翔太の息子――春山一樹は、おもちゃがところ狭しと詰まっている箱に、ボールをそっとおいた。 「それじゃあ、お父さんの車まで一緒に行こうか」 いつものことだが職員も車まで見送ってくれるらしい。仕事とはいえ律儀なことだ。 職員が差し出した手を、しかし一樹は握らなかった。 「ん、どうしたの?」 職員も違和感を覚えたのだろう。普段なら、職員と一樹、二人が手を繋いで車まで行くのが恒例だ。だが、今日に限って一樹は手を取らない。どうしたというのか。 不思議がる翔太をよそに、なぜか一樹が歩み寄ってきた。 五歳である一樹の身長は、翔太の腰元ぐらいの高さしかない。そんな彼は微笑み―― 「おとうさん。て、つなご」 手を差し出して、そう言った。 上目づかいの一樹を見下ろす翔太の瞳に、感情の光が動く様子はない。 「さっさと家に帰るぞ」 淡々とそれだけを伝え、一樹の手に触れることなく翔太はきびすを返した。 翔太は一樹という存在に果てしなく興味がない。 嫌いということではない。憎いということもない。 死なずにいてくれれば、自分に迷惑をかけなければ、一樹が何をしようと構わなかった。 翔太にとって、一樹は血のつながった他人だった。 ☆ 住宅街の一等地に立てられた、春山という表札を掲げた家がある。二階建てで、4LDK。そんな立派な一軒屋は闇に包まれ、人気がないことをあらわにしていた。 「ただいま!」 一足先に家に入った一樹が暗闇に向けて帰宅を告げた。静寂が支配する空間に、もちろん返事はない。 翔太は壁際をまさぐり、ようやく触れたスイッチを押すと電気がついた。闇を切り裂き、襲い掛かってきた光に少しだけくらっとする翔太である。 「おとうさん、おかえり!」 元気よく一樹は言った。しかし翔太は靴を脱ぐだけで、相槌すらうたなかった。 一樹のことを変な奴とも思わない。いつものことだからだ。 妻と別れた直後ぐらいだったろうか。青空保育園から帰ってくるたびに、一樹は意味のない言動をみせるのだ。初めに「ただいま」と叫び、次いで「おかえり」と言う。これが日常というならば、その後の翔太の反応もそうだろう。今まで一度も言葉を返したことがない。 「飯を食うぞ。さっさと手を洗ってこい」 「うん。わかった」 リビングとキッチンが繋がった部屋へ、一樹が駆け込む。後に続いた翔太は、リビングで存在を誇示する大きなテーブルにビニール袋をおいた。着ているだけで肩がこるスーツの上着を、椅子に羽織らせるように掛ける。 晩御飯はコンビニで買ってきた弁当である。妻がいなくなってから、春山家の御飯はずっとこうだった。 妻がいなくなってから二ヶ月が経過しただろうか。決して料理が上手ではなかったが、それでも味気ない弁当よりマシであったことは認めよう。そんな微妙な料理を作る妻は、ある時に出て行った。別に男ができたらしかった。 離婚しないと他の男と籍を入れることはできないわけで、一ヶ月前に一度だけ家に戻ってきたことがある。さすがに彼女が苦しんで生んだ子への愛着を失ったわけではないらしく、離婚届を書く際に親権の話し合いになった。翔太は息子に興味がないので、もちろん連れて行くことを止めようとは思わなかった。 一応、一樹の意見を聞くところが妻らしかった。公平感を演出したかったのかもしれない。しかし彼と過ごした時間を考えれば、答えなど明らかだ。倍率だと百対一ぐらいはあるだろう。ともかく妻は「父さんと母さん。どっちと暮らしたい?」と尋ねた。 結果は見えている勝負。しかし一樹は言ったのだ。「ボクはおとうさんのそばにいる」と。 その時の妻の顔がさすがに笑えたことは記憶に新しい。開いた口が塞がらない、という言葉を見事に体現していた。 居たいというなら拒否する理由もない。こうして一樹は春山家に残り、なぜお父さんと暮らすと言ったのかという謎も残った。 ただ、元妻は諦められないらしく、もう一度引き取りに来ると捨て台詞を置いていった。 「いただきまーす」 一樹は水気の拭えてない手を合わせて言った。 「そういえばカーナビが壊れたんだよな」 車での出来事を思い出し、翔太はため息をついた。 車を使うのは出社と帰宅のためだけだ。慣れているので道筋はわかるものの、それでは渋滞情報がわからない。やはりカーナビは必要だった。 翔太はテーブル脇に置いてあったノートパソコンを起動させた。食事をしながら、たちあがるのを待つ。 「そうだ!」 何を思ったのか、一樹が冷蔵庫を眺めた。 「ねえ、昨日買ったジュースのんでいい?」 「好きにしろ」 「おとうさんもいる? オレンジジュース、おいしいよ」 「いらない」 剥き出しの拒絶に気分を害した様子もなく、一樹は冷蔵庫からパックのオレンジジュースを取り出した。 ガラスのコップをテーブルに置いて、パックを両手で持つ。よいしょ、よいしょ、と声を出しながらジュースをコップへ注いでいく。本人は丁寧に入れているつもりで、やはり子供。パックを伝ってジュースが滴り落ちていた。 「あ、ごめんなさい」 翔太の責める視線に気づいたのか、一樹がしゅんと落ち込んだ。 「謝る必要があるか? 拭けばいいだろう」 そうこうしている内にパソコンがたちあがった。身体の一部であるかのようにパソコンを慣れた手つきで操り、インターネットを開き、ブラインドタッチで『カーナビ』という単語を入れた。 問題はカーナビを修理するか、新しく買うかという点だった。 翔太は知識がないので検索してみる。買えば五万円前後の費用がかかる。故障状態にもよるが、修理だと高くて三万円ぐらいらしい。 「直るまでに時間はかかるけど安さには変えられないか……」 翔太は修理に出すと決めた。カーナビは取り外して送らねばならないが、金銭の取引きなどは、どうやらネットで申し込みするようだった。 名前、住所、カーナビの製造番号などが項目として並ぶ中、翔太は一つだけ見慣れないものを見つけた。 カーナビを修理している間、ジンナビは必要ですか。 ジンナビ。耳にしたことのない単語だったが、無料であるため翔太はよく考えずに『はい』を選択した。 事件はそれから二日後の朝におきた。 ☆ 「わたくし、今回ジンナビとして勤めさせていただく藤野タツと申します」 そう言うと、五十才ぐらいの男はメガネをくいっと掛けなおした。彼が背負っている大型のリュックサックの中身はなんであるのか。はち切れんばかりである。 出勤の準備が整った翔太は、玄関扉のノブを掴んだまま動きを停止させていた。 目の前にいるのは見知らぬ人間だ。白髪のうかがえるオールバックがよく似合い、鼻の下にある芝生のようなヒゲは整然としている。人間として熟練の風格を漂わせていた。上下共に黒のスーツを装着し、どことなく執事に見えなくもない。 「申し訳ないんだけど、もう一度お名前を教えてもらってもいいですかね」 「藤野タツですな。これが名刺ですぞ」 横書きの名刺には中央に『藤野タツ』とあり、名前の左上にジンナビとも書いてある。 「ジンナビ? なんだそりゃ」 どこかで見覚えのある単語だが、決して身近なものではない。 「おとーさん。じゅんびできたよ」 とたとた、と軽い足音を伴って一樹が玄関に来た。 「おや、これから出発ですかな?」 「うん。これからボクは、ほいくえんにいくんだ」 一樹は見知らぬ男に疑問を持たず、長年の知り合いのようにタツと会話する。 「早速、わたくしの出番ですな。ぼっちゃんの保育園はなんという名前ですか?」 「あおぞらほいくえん!」 「元気がいいですな。青空保育園、と。しばしお待ちを」 タツは右手を自身の顔へと移動させる。顎を手の平にうずめて目蓋を閉じた。完全に場を支配しているタツに、翔太は問いかけることすら忘れて光景に魅入った。 「位置を把握しました。ふむ、これは随分と遠いようで。ぐずぐずしている暇はありませんな」 タツは家の中に押し入り、リュックサックを丁寧に置いた。玄関に放置されていた翔太の会社用カバンを持ち、空いた手を一樹へと伸ばす。 「ぼっちゃん。お名前は?」 「はるやまかずき、4さいです」 「わたくしは藤野タツです。気軽にタツとお呼びください」 「タツおじさんだね。よろしく」 タツと一樹は握手し、二人は繋がったまま翔太の愛車へと向かう。 「さあ、ご主人。出発しましょう」 「あ、ああ」 狼狽をあらわにした翔太は、とりあえず自宅の鍵を閉めて車へ乗り込んだ。 助手席にタツが腰を掛け、後部座席の右端に一樹が座る。 「さてと電話させていただきますぞ」 片手に携帯電話を持ち、タツはどこかへ電話を掛け始めた。 「本部ですかな? これより春山翔太さんの道案内を開始します。交通状況を随時、教えてください。はい、はい。お願いしますな」 翔太は仕方無しに車を走らせることにした。最初の目的地は青空保育園。まずは住宅街から大通りへ出る必要がある。 いつのように敷地から道路に出て、右折しかけて―― 「待ってください」 タツの制止が車を止めた。 「すぐに大通りへ出るつもりなら、やめたほうがいいですな」 「なぜだ?」 「ここから最短で大通りに出た場合、道路の工事に出くわします。わたくしが指示する裏道を通って、その後に大通りへと向かった方が無難ですな」 道路の工事をしているとは奇妙な話しである。少なくとも先日の朝、夜と工事をしている様子はなかったのだが。 騙されたと思って翔太はタツの指示に従った。一方通行に注意しながら細い道を右へ、左へ。幸いにも他の車に出くわさず大通りへと到着し、翔太は絶句した。 「ほんとだ。こうじしてるね」 シートベルトをしてない一樹が、後ろを眺めながら言った。彼は楽しそうに足を交互にぱたぱたと動かしている。 翔太はバックミラーで何度か確認したが、確かに工事を行っていた。翔太が想像していた道を通れば、間違いなく時間のロスに繋がっていた。 「なんだ、あんた? 前もって知ってたのか?」 「いえいえ、ジンナビ本部からの情報ですな。案内中は、逐一、道路の情報をお伝えしますので安心してください」 タツは携帯電話を膝元に置き、代わりに左耳にイヤホンをつけていた。携帯電話を耳に当てずとも相手の声が聞こえるようにしているらしい。 「だからさ、ジンナビってなんだよ」 「わたくしを注文したのに、ジンナビを知らないとは珍妙な。まあいいでしょう。説明させていただきます」 一つ咳払いをして、タツは話を続ける。 「人間によるカーナビゲーションシステム。人とナビをとってジンナビと申します。主な仕事は、車に同乗して持ち主様の道案内をすることですな」 「仕事なのか?」 「ええ。人間の仕事が機械によって奪われてしまう昨今、逆の発想で機械の仕事を人間にやらせたらどうか、ということで生まれた職業ですな」 「人間にやらせるったって限界があるだろう。いつも地図を見るってのか?」 翔太はハンドルを右へと半回転させ、右折する。もちろん自転車やバイクを巻き込まないように確認してからだ。 機械ならば地図を確認せずともいいが、人間だとそうもいかない。いちいち地図を眺めては効率的とは到底言えない。 「近隣の地図ならば頭の中に叩き込んであります。ご心配なく」 「叩き込むって……」 そんな馬鹿な話があるわけがない。 「確か目的地は青空保育園でしたな。オーソドックスな道であるならば、このまま道路を直進します。法廷速度で走るならば十分程度でしょうな。駒黒谷の十字路を左折。この時、角には目印のガソリンスタンドがあります。それで――」 翔太は視線を前にむけたままで、しかし意識は耳に集中していた。 長々と続くタツの説明は要点を抑えており、聞いているだけでその道を走っている光景が脳裏に浮かぶ。いつも走っている道とほぼ同じため、よりリアルに想像力が働くのだ。 「タツさん……っていったか。近隣って、具体的な範囲はどのくらいなんだ?」 「現在いる県と周囲の県は把握していますぞ」 「ありえない」 しかし先ほどのルート説明がある以上、否定しきれないのも事実だった。 「記憶は得意ですからな。なんせそれだけで大昔、浪人せずに西大に入ったほどです。はっはっは!」 この男はどれだけ驚かせれば気が済むのか。タツ当人は簡単にいうが、翔太としては笑えない。 西京大学。略称で西大と呼ばれるその大学は、東京で一番と称される某大学と争うほど有名だ。特質すべきは現役で受かる人数が異様に少ない、その困難さにある。それでも西大を目指す人は多く、そして翔太の母校でもあった。翔太は血の滲む努力の末、三浪で入ったのだ。 もっとも、有意義な大学生活は送れなかった。翔太はある人に認めてもらうために努力をして、しかし無意味だった。ある人は認めてくれなかった。 その後、大学はきちんと卒業した。そして大変な仕事ではあるが、高収入を得られる職についた。そう考えると意味はあったと言えるかもしれない。 翔太の疑念はなくなりつつあった。西大の名を出されるだけで説得力があるからだ。 「修理に出されたカーナビが直るまでの約二週間。よろしくお願いしますぞ」 ☆ いつも通り残業をおえ、車で一樹を迎えに行き、帰路につく。普段と違うのは助手席にタツがいることだ。 「タツさんはどんな食べ物が好きなの?」 「サンマですな。一樹君はサンマ好きですか?」 「うーん、おさかなはキライなの。ホネがちくちくするから」 「おやおや。それはいけませんな。魚を食べられないのは人生の半分を損しているようなものですぞ。今度、わたくしめが食べ方を教えてあげましょう」 一樹はタツが気に入ったらしく、色々と質問を投げかけている。タツは子供の扱いになれているのか、はたまた子供が好きなだけか、丁寧な受け答えをしていた。もちろんジンナビとしての仕事をきっちりこなしながらだ。 おかげで静寂が当然であった車内に、珍しく賑やかな花が咲いていた。 ただ、普段が静かといっても、ずっとではない。一樹が保育園での出来事を話題にすることは多々ある。だが、翔太は適当な相槌を打つだけのため、話が広がらないのだ。 さっきも一樹が「きょうね、ひらやまくんが」と話題を振ってきたが、翔太はろくな対応をとらなかった。ひらやまくんというのは、友達だろうか。正直、なんと返事をすればいいのかわからないのが本音だ。よかったな、とか言えばいいのだろうか。それだと相槌と変わらない気がする。 意味がない会話ならば、下手に構うより適当に流したほうがいい。翔太はそう結論付けていた。 「コンビニによるのですか。何か必要なものがあるのですかな?」 「ああ、ちょっとな」 道路からコンビニの駐車場へ入る。車を停止させ鍵を抜く。 「おとうさん。ぼくもいきたい」 「買いたいものでもあるのか?」 翔太は一樹を見向きもしないで尋ねる。 「えっと……、オレンジジュース」 「まだ家に残ってるだろ。おとなしく待ってろ」 「え、でも……いっしょにいきたい」 「いいから、待ってろ」 それ以上の受け答えはせず、翔太は一人、コンビニ店内へと向かった。 自動ドアの前に立った直後、車のドアが閉まる音が辺りに響いた。一樹が出てきたのかと思えば、犯人はタツだった。 「翔太殿。一樹君はやはり買いたいものがあるようなので、わたくしがお連れします」 タツは一樹の手をとり、車から降りる手伝いをした。 勝手にすればいいと翔太は思った。別に一樹が降りようがどうでもいい。ただ、行く必要ないなら、車の中にいればいいと考えていた。 どことなく肩を落とした一樹を横目に、翔太はコンビニにさっさと入る。目指すは弁当を売っている棚だ。 時間帯が遅いだけあって、品数は決して多くなかった。翔太はオムライス弁当へと手を伸ばす。 「おやおや、今日は弁当で済ますおつもりですかな?」 一樹を引き連れたタツがひょっこり姿を現した。 「これは春山家の日課だ。妻が出ていっちまった日からのな」 「なんと!」 仰々しい仕草で驚くタツがいる。演劇でもみている気分だ。 「それはいけませんな。では明日からわたくしが料理を作りましょう」 「飯を作れるのか? いや、そもそも明日は日曜だぞ。仕事はないし、タツさんも家で休むんだろ?」 「いやいや、それはありえません。ジンナビは年中無休。期限の間は家に滞在して、いつでも役割を果せるように待機しておりますからな」 「そうなのか……。なんだと?」 途中まで聞き流していたが、妙な一言に違和感を覚えた。家に滞在、と彼が言ったような気がした。 「オレの家に住むのか?」 「カーナビが直るまでの約二週間、お世話になる予定ですな」 「ふざけんなよ。ありえねえだろ」 「細かいことは気にしてはいけませんな。わたくしは万能ですぞ。炊事、洗濯、掃除。なんでもこなせます。家に中に家政婦が増えたとでも思ってくだされ。はっはっは!」 タツは胸をそらし、天井を仰ぐ姿勢で笑う。 「え、タツおじさん。ぼくのいえに、しばらくいるの? やったあ!」 翔太は矢継ぎ早に文句を言おうとして、しかし一樹の笑顔に邪魔されて、タイミングを逃してしまった。 ふと翔太は思った。一樹がこれほど嬉しそうに笑うなど最近の記憶にない。決して笑顔は少なくないが、翔太に見せるものはどれも陰りがあるのだ。当然といえばそれまでか。翔太が一樹に興味がないのを、子供ながらに感じているのかもしれない。 「ものは考えようか?」 これから二週間、タツが一樹の相手をしてくれれば、自宅での仕事に集中できるため、悪い条件でもないだろう。 だから翔太はタツが住み込むことを許可した。 ☆ 物干し竿を売るさおだけ屋。その特有なアナウンスで翔太は目が覚めた。 枕元にある置時計を眺めれば、すでにお昼を回ろうかという時間帯だった。昨晩、遅くまでパソコンにデータ入力していた反動だろう。 二人分の広さをほこるベッドに、寝そべるのは翔太だけだ。一人で寝るにはいささか広い。しかし大は小をかねるため、これからも同じベッドを寝床にし続けるだろう。 一樹はといえば、同じ二階の部屋を使わせている。一樹と翔太の使用している部屋の間に、空の部屋が一つあるため、そこをタツに貸し与えた。 寝癖のついた髪に構わず、翔太は部屋を出た。 廊下には、なにやら食欲を刺激する香りが漂っていた。想像だけで容易に辛いと想像できるそれ。万人に好まれているだろう食べ物の香りだった。 「おとーさん。おはよう!」 「おはようございます。だいぶお疲れのようですな。そんな時にはこれですぞ」 リビングに入ると同時に確信する。予想通りカレーだった。 キッチンには、カレーをおたまでかき混ぜている一樹がいた。隣には料理の指導に当たっただろうタツがいる。一樹の身長では鍋は覗きこめない。それを可能にしてるのは、用意された椅子をふみ台として使っているからだ。 「あとカレーをかけるだけですから、少々お待ちを」 タツが大皿にご飯を盛り付けると、その上に一樹がカレーを慎重にかけていく。緊張しているのだろう。一樹の瞳は、カレーを見逃さないというように、普段よりぱっちりと開いている。 朝からカレーとは若干胃がもたれそうだが、食い気はカレーを欲している。翔太はおとなしくリビングの椅子に座った。 「かんせーだー」 「完成ですな。お疲れ様でした」 両腕を掲げて、一樹は全身で喜びを表す。そして不安定な椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねる始末である。 「一樹君。危ないです――」 タツが言いかけた、まさにその瞬間。 「あっ!」 一樹の身体が不安定に揺れた。ふみ台である椅子の端に体重を掛けたのが原因だった。足を踏み外したのである。一樹の身体は倒れかける。カレーの鍋がある方向へ。反射的に翔太は立ちあがった。腰を掛けていた椅子が見事にひっくり返った。 「修平!」 タツが叫び、伸びるのも構わず一樹の服を引っ張る。間一髪。一樹が飛び込んだ先はタツの胸元だった。しかし安心したのも束の間だ。タツは一樹の体重を支えきれず、二人揃って後ろへ倒れこみ、軽い地響きが部屋に広がった。 「いたいー」 一樹は泣きそうな声をあげるが、無事のようだった 「おやおや、無事でよかったですな……」 助かった二人を確認して、翔太は深く息を吐いた。いつのまに力が入っていたのか、翔太は固い握り拳を作っていた。 一樹を心配する気持ちがあったことを知って、かすかに驚く自分がいた。 それよりも、と翔太は思った。「しゅうへい」とはなんだろうか。 タツは焦燥を含んだ声音で、間違いなくそう言った。誰かの名前だろう。それもただならぬ関係であることは予想がつく。おそらくタツは一樹を大切な誰かを重ね合わせたのだ。 「一樹君。これからは台所で遊んでは駄目ですぞ」 たしなめる口調でタツは言った。 「タツさん。しゅうへいって……」 誰の名前だと口にしかけて、しかし言葉を飲み込んだ。なぜだか今は踏み込んではいけない領域だと思ったからだ。 翔太は寂しげに倒れている椅子を立てて、背中をあずけた。 一樹がカレーの一つを持ち、残りの二つをタツが運んできて、計三つのカレーが並べられる。 「これは一樹君が作ったんですな」 と対面に座ったタツが言う。 「ぼく、すっごいがんばったんだ」 と隣に座る一樹が言う。 料理に筋肉は関係ないだろうに。なぜか一樹は右肘を折りたたんで筋肉の膨らみを見せようと必死だ。もちろん四歳の子供に大層な筋肉があるはずもなく、腕はぷにぷにのままだった。 頑張ったといっても、やはりタツが大半を作ったのだろう。しかし指摘するのは大人気ないので、言葉は鍵をかけてしまっておく。 「おとうさん、たべてみてよ!」 意気込む一樹を前に、翔太はスプーンでカレーライスをすくい、一口でほおばり、噛み締めて味わう。 辛さは程よく、隠し味にフルーツの甘みがある。ナシだろうか。カレーというのは、辛さの中に絶妙な甘さがあるものこそ美味い、と誰かが言っていたことを思い出す。まさしくその通りだった。 「おいしいな」 誰に向けたものでもなく、翔太はただ思ったことを呟いた。お世辞ではなく、その証拠に二口、三口とスプーン持つ手がカレーを求めていた。 「ほんとうに?」 上目づかいで、一樹は不安げに尋ねてくる。 「本当においしいって」 「やったあ!」 一樹が笑った。夏の陽射しのように輝いた笑顔をみせた。 一瞬目を疑った翔太だが、それはまぎれもなく自分へと向けられている。 「オレに向けてそんな風に笑えたんだな……」 一樹の無垢な笑顔が、心にやきついて離れなかった。 ☆ タツとの契約が始まって五日が過ぎた頃だった。 「翔太殿は一樹君に冷たいですな」 とタツが珍しく真面目な顔で言った。能面を貼り付けたように感情の読み取れない表情だが、声音は責めているものではなく、むしろどこか柔らかだ。 場所はリビング。翔太は第二ボタンまで開いたワイシャツを着て、下はトランクスという姿で仕事に熱を注いでいた。 「いやいや、これは不躾な発言を。冗談と思って聞き流してくだされ」 能面がはがれおち、タツは破顔した。 「……一樹は寝たのか?」 「ええ、ぐっすりと眠りについていますな」 一樹に対する心遣いか、タツの声量はいつもよりも小さい。 「仕事もいいですが、たまに誰かと一杯やるのもいいものですぞ」 いつの間に購入しておいたのか、タツは冷蔵庫から二本の缶ビールを取り出した。翔太は一度ため息をつき、ノートパソコンを閉じた。たまには酒を飲むのもいいと思った。 タツに渡された缶ビールのプルタブを開く。ぷしゅ、っと小気味いい音が漏れた。 「まだ酒はありますからな。遠慮せずに言ってくだされ」 「金はどうしたんだ?」 「もちろんわたくしの奢りでず。心配しなくてもいいですからな」 酒を飲み始めた二人は語るわけでもなく、静寂に身を任せた。 時計の秒針を刻む音がメトロノームのように規則正しく聞こえる。 口に含んだ酒を飲み込むと喉が鳴る。 身体を駆け巡る血潮が熱くなっていくのを感じる。 酒が進む。二本、三本と飲んでしまう。 「オレの親父のせいなんだよ……」 ほおづえをついた翔太は、小さく声を漏らした。 「なにが……ですかな?」 頬を薄っすら紅色に染めたタツが問い返す。 「オレが子供に興味を持てない原因がだ……」 いつのことだろうか。親父である源二が翔太に興味を持っていないと確信したのは。 友達ができたと報告しようと、テストで良い点数をとろうと、野球でレギュラーの座を獲得しようと、源二の返答はたった一言。台詞が決まっているように「そうか」と短く言うだけだった。 興味がないことは、以前から薄々と気づいていた。だが、それでも誉めてもらいたくて、さらに努力した。西大に入れば認めてくれると勝手に信じていた。 あれは大学生になる直前だった。 翔太は西大の合格通知を手土産に、自宅へと向かっていた。 呼吸を荒げながら、風のように駅から家への道を駆ける。 心臓が高い鼓動を打つ。それは臓器が酸素を求めているためか、はたまた期待に対する胸の高まりか。 住宅街の一戸建てが翔太の自宅である。雨や風など幾度と気候の仕打ちに耐えてきた自宅は、瓦がヒビ割れ、ところどころ壁の塗装がはげているため、全体的に薄汚れた印象だ。 翔太は自宅へ到着すると、畳が敷かれた源二の部屋へ飛び込んだ。 「親父、やったぞ!」 木彫りの机に新聞を広げ、眺めている源二がいた。 「騒がしい」 「あ、ああ。でも、本当に凄いんだって!」 冷静な源二を前に翔太の熱がわずかに冷めるが、燃え広がる炎を消すには至らない。 「西大に受かったんだ! すごいだろ? なんていってもあの西大だぞ!」 翔太は熱弁をふるう。 名門とされる西大に合格。この事実を突きつければ源二の目の色も変わるだろう。よくやった、と言ってくれるのではないか。不器用ながら微笑んでくれるのではないか。翔太はそう信じて疑わなかった。だが源二の口から飛び出した言葉は―― 「そうか」 と短く言うだけだった。 眉根一つ動かさない。新聞から視線を外さない。変化は、何もない。 「それだけ……か? それだけなのか?」 翔太は鈍器で頭を殴られた気分だった。 「話が終わったなら下がれ」 感情の伺えないその言葉が、翔太の心を抉る。 平衡器官を失ったかのように、ふらふらとした足取りで、翔太は部屋を後にした。 固く閉められた扉を力なく睨みつけ、源二の姿を思い浮かべる。 源二は翔太に興味がない。その関係は血の繋がった、赤の他人だった。 「オレは何のために頑張ってきたんだ」 源二の関心を引きたい。ただそれだけで歩んできた道だ。だが、すべて意味のないことだった。関心を持って欲しかった。この際、好意でなくともよかった。 憎んでもいい。嫌ってもいい。ただ目の前にいる息子を見てくれるだけでいい。 翔太の望みはたったそれだけだった。 「オレを見てくれよ……」 翔太の泣きそうな呟き声は、源二に届かない。 その日から翔太は源二に対する興味を失った。 「つまらねえ話しだろ」 自嘲の笑みを浮かべた翔太は、持っていた缶ビールをあおった。 記憶のタンスから昔話を引っ張ってきたが、酔いも回っているため正確性は定かではない。だが、哀愁を漂わせるタツの様子から、上手く彼に伝わったのだろう。 「そういえば、しゅうへいって誰のことだ?」 「どこで修平の名前を?」 「タツさんが口にしてたんだよ。ほら、一樹がカレーに突っ込みそうになったときだ」 「いやはや、そうでしたか。名前を間違えるとは一樹君に失礼なことを」 タツは恥ずかしそうに頬を爪で掻いた。 「修平とはわたくしの息子の名前です」 近くにあった紙に、タツは『修平』と書いて教えてくれた。 「へぇ〜、家族がいるんだ」 「ええ。家族がいました」 言い回しの違いに気づいて、翔太は地雷を踏んだことを知った。 「すまん。余計なことを詮索したな」 「気にする必要はないですぞ。もう十年も前の話しですからな」 タツの家族は亡くなっているのだろう。息子も、妻も。だから家族が「いた」と表現したのではないか。 「事故にあってしまいましてな……」 タツが口火を切った。翔太は空いた缶を置き、話しに聞き入った。 「わたくしは息子と過ごす時間を大切にしていました。毎月一回は野球観戦をする約束もその一つで、何年も続けられた我が家の行事ですな。しかし偶然にもあの時だけ外せない仕事が入り、観戦に行くのを妻に代わってもらいました」 タツはちびちびと酒を飲んでいく。 「思えば約束を破った罰だったのかもしれませんな。歩行者の信号が青で、まさに渡っている時に事故は起きました。居眠り運転の車が息子と妻をはねたのです」 「交通事故か……」 「すべて警察から聞いた話ですがね。息子より仕事を選んだことを悔いて、会社を辞めました」 タツは右手を両目に覆い被せた。彼の声が少し震えていた。 「会社を辞めても、息子の笑顔は返ってこないのですがね」 自らを嘲るような言い方だった。 「しばらくは自暴自棄でしたが、周囲の助けもあって、どうにか立ち直ったというわけですな」 タツと修平の関係はまさしく親子といえたのだろう。春山家とは違う、宝石よりも美しく輝く、確かな絆があったに違いない。 「翔太殿、このままでいいのですかな?」 右手で目蓋を擦り、タツが言った。 「翔太殿は一樹君と、このままでいいのですかな?」 タツは再度繰り返す。 翔太はふと思うことがある。 親父である源二と息子である自分。父親である自分と息子である一樹。 歴史は繰り返すという。自分がしている仕打ちは源二から受けたものだと、薄々感づいていた。それはいけないことだと、わかっている。 だが、どう接すればいいだろうか。息子に何をするのが父親なのだろうか。 考えていつも行き詰る。答えを探そうにも、暗闇の中で模索するようで、光はみえない。間違ったことをしたらどうする。そんな恐怖が自分を覆い、たどりつく結論はいつも同じだ。 余計なことをしないほうがいい。生きていれば、誰かが彼を救ってくれるだろう。 だから翔太は仕事に熱を入れるのだった。少しでも一樹のことを考えないように。 「きっとこのままが一番なんだよ」 翔太は吐き捨てるように言った。 「翔太殿は盲目か。何も見えてないのですな」 「なんだと?」 タツの哀れみを含んだ声。翔太の握力で缶ビールがひしゃげた。 「曇った眼では、側にいる人物はおろか、自分自身のことすら見えません」 「オレは自分がわかってないと?」 「いつか言ってましたな。オレの前で笑えるのか、と。一樹君の笑顔をもっと見たいと思ったのではないですかな?」 笑顔という単語を心の中で反芻する。 一樹の輝いた笑顔が自然と思い出され、同時に身体の内側で湧き上がる、灯火のような何かを感じた。 「沈黙こそ肯定の証明ですな。それでは日曜日を空けておいてください」 「なぜだ?」 「一樹君の希望を聞いて、遊びに行くからですな」 ☆ 子供独特の高くてよく透る声が公園内で飛び交う。父親や母親らしき人々の姿もちらほらあり、家族連れで遊んでいる子供を見かける。 翔太らが訪れたのは花束公園という名の、かなり広めの公園だ。木造のアスレチック、鉄棒や渦巻状の滑り台など、多くの遊具がある。広場として活用できる場所もあるため、バトミントンなどで遊んでいる家族もいた。 「ぼくたちもあそぼうよ」 一樹が翔太の服のすそを引っ張ることで、早く行こうよと訴えていた。 「あ、ああ」 翔太が一樹と共に、公園のような場所へ来るのは初めてのためか、ひどく場違いな気がして居心地が悪かった。 「この辺りなら迷惑にはならないと思いますぞ。では、さっそく始めるとしますかな」 タツは両腕で三人分のグローブを抱えている。古びたグローブを翔太に、購入したばかりでぴかぴかの新品を一樹に、それぞれ渡した。 「さあ、しまっていこー」 どこで覚えたのか一樹が叫んだ。 三人は、繋げば正三角形になるよう距離をとる。 なつかしい、と翔太は思った。 グローブ独特の皮の匂いが鼻をくすぐる。感触を確かめるべく、グローブに拳を軽く叩き付けた。野球に熱中していた高校時代のグローブだ。いままで捨てなかったことに自分のことながら驚いた。 「おとーさん、いくよっ!」 一樹が軟球を握り締め、見せつけるように掲げた。大きく腕を振りながら投球する。だが、手首が使えておらず、体幹も動かせてない。乱れたフォームから放たれたボールは方向こそあっていたものの、三度のバウンドを経て翔太のグローブに収まった。 「うーん、ぜんぜんとどかなかった……」 見るからに落胆した様子の一樹がいる。 「翔太殿。野球部の経験を生かして、一樹君に指導してあげたらどうですかな?」 「え、おとうさん、やきゅうやってたの?」 翔太の瞳がきらりと輝き、羨望に近い光が宿った。 「タツが教えてやればいいだろ」 「残念ですが、野球はやったことがないのです。はっはっは!」 そこでなぜ笑うのか理解できない。 青空を仰ぎ見て、翔太は一度だけ息を深く吐き出した。嬉しそうに駆け寄ってきた一樹に、ボールを放り渡してやった。 「おしえて、おしえて!」 「そうだな。じゃあ――」 あれやこれや。翔太は技術的な指導を口頭でするが、一樹は小首をかしげるばかりだった。挙句の果てに―― 「ということだ。わかったか?」 「わかんない」 とあっさり切り捨てられてしまった。 視線でタツに助けを求めても、彼は肩をすくめるだけだった。その表情にはかすかに笑みがうかがえる。わかっているのに助けない。孤立無援とはこのことか。 「ごめんね。ぼくがバカだから……」 教えを請うことをあきらめたのか、元いた場所に戻ろうとする一樹を、 「教えるから待て」 翔太は反射的に制止させていた。 「……なんで余計なことを言った」 余計な一言さえなければ教える必要もなくなったが、一度引き止めておいて断るのも気が引けた。 自分が言いたいことを、どうすれば子供に上手く伝えられるかわからない。だがすでに退路はない。背後は断崖絶壁である。ここまで来た以上、前に進むしかなかった。 「そうだな。投げるふりをしてみろ。ボールは投げなくていいからな」 「わかった。えいっ!」 掛け声はいいが、相変わらずフォームは乱雑だ。 「もっと身体を使ってだな。まてよ、見せたほうが早いか」 一樹にわかりやすいように、翔太はゆっくりとした投球フォームを見せる。 「おー、すごい」 何に関心したのか、グローブを外した一樹がパチパチと両手を叩き合わせる。 「よし、やってみろ」 「こうかな?」 「少しマシになったか。もっと手首を柔らかくしないとな」 翔太はフォームを何度も見せながら簡単な解説する。わかっているのか、いないのか。その度に一樹は、首を縦に振る人形のような仕草をする。 三十分程度だろうか。練習を続けて実践に移ると早速効果が現れた。 「とどいたよ!」 「これは素晴らしいですな!」 一樹が投げたボールは半円の軌跡を描いて、見事にタツのグローブに収まった。スピードこそないが、なかなかのコントロールだった。 「おとーさん、ほら、とどいたんだよ!」 「ああ、よくやった!」 何を意識したわけでもないが、翔太の手は自然と一樹の頭へと伸び、一樹の髪が乱れるのも構わず撫で回していた。 「えへへ」 一樹は目を細めて気持ち良さそうにしている。彼の頬がほのかに桃色に染まった気がした。そして見るものを安堵させる微笑みを浮かべている。こんな風にも笑えるのか、と翔太は思った。 「おとうさん、て、つないでもいい?」 唐突に一樹が言った。 「どうしたんだ?」 一樹の視線がどこか遠くを見ていた。彼の視線を追ってみれば、そこには一つの家族がいた。父親と母親、そして男の子。子供の両手はそれぞれの親と繋がっていた。 「別にかまわな……」 翔太の発言は携帯電話の振動で妨げられた。右ポケットの中で、早く出ろと要求するように震えている。電話の液晶画面には会社の上司の名前が映っていた。迷うことなく電話に出る。 「春山です。はい、はい……。明日までにですか? ……わかりました」 翔太は電話を切る。 どうやら会社でミスがあったらしく、その尻拭いをして欲しいとの事だった。あたりまえだが拒否権はなく、了承するしかなかった。 「仕方ない。すぐに仕事にとりかかるか」 「……おしごとなの?」 「え?」 ふと一樹と視線が交錯した。 「すまん。そのとおりだ」 「そっか。じゃあ、おうちにかえろ」 責めるような色はなく、ただ悲しみだけがある一樹の瞳。 それでも翔太は帰路についた。 ☆ リビングに差し込む西日を一身に受ける翔太は、洗練された指裁きでキーボードを叩いていた。 「だいぶ進んだか。まあ、夜には終わるだろう」 灰皿に一時的においた、火のついたタバコを二本の指でつまみ、そしてふかす。 「トイレに行くか」 少し安心したためか、生理現象の波が襲ってきた。小さい方なので焦る必要はなかった。 廊下へ出て、囁くような声が聞こえたので立ち止まる。耳を澄ませばそれは二階へ続く階段からであった。いや、正確にいえば二階の部屋からだった。 誰が話してるのかと考え、すぐに答えにたどりつく。一樹とタツに決まっていた。 盗み聞きとは趣味が悪いが、好奇心が勝ったため、翔太は階段を昇った。時折、軋む音が漏れる。 昇ればすぐそこにある一樹の部屋の前で、聞き耳をたてて中の様子をうかがった。 扉越しにすすり泣く声が聞こえた。一樹のものだった。 「泣かないでくださいな」 「だって、だって」 「翔太殿が一樹君のことを嫌いだなんてありえませんから」 「じゃあ、ぼくよりおしごとがだいじなのかな?」 翔太の心臓が一度だけ、どくんと跳ねる。 一樹を泣かせたのは他の誰でもない、翔太だった。 「オレの親父のせいだ……」 こんな時に親としてどうすればいいのか、教えてくれなかった源二が悪いのだ。源二が興味を持ってくれなかったから、こんなことになった。翔太はそう思った。 一樹の悲しみを止めたいが、翔太はその術を知らない。 ――ボクはおとうさんのそばにいる。 それは一樹の言葉だ。 当時は何も考えずに彼を受け入れたが、二人が側にいてどんな意味があるのか。 一樹に興味を持たず、何もできない男と一緒に過ごすことに、意味があるのか。 一樹の幸せは、二人が側にいないところにあるのではないか。 「そうか。オレは一樹のことを……」 翔太は一つの答えに至った。 一樹の笑顔が好きだった。一樹の泣き顔は見たくなかった。 翔太は、いつも一樹の幸せを願っていたのだ。 だが接する術を知らないが故に、興味がないふりをして、何も出来ないことを誤魔化していた。だからあの時にタツは言ったのだ。翔太は自分すら見えてない、と。 「オレは一樹に幸せになって欲しい」 翔太は呟き、携帯電話を取り出す。一樹が幸せになれるなら手段を問わない。電話帳から「カレン」で登録された名前を探しだす。 秋川華恋。それは翔太の元妻の名前だった。 ☆ 水曜日となって、翔太は身体の調子が健全であるにもかかわらず、会社を欠勤した。 ある人と、春山家で会う約束をしていたからだ。 何も知らない一樹は、翔太が家にいることに疑問をもたなかった。翔太が、今日は休みだ、と告げると素直に喜んでいた。外に行こうと言われたが、それはできないので代わりに家で遊ぶことにする。 場所は一樹の部屋だ。 部屋の中は整頓されていた。ベッドの上には畳まれた掛け布団があり、猫のぬいぐるみが横たわっている。服が脱ぎ捨てられたまま床に散乱しているということはない。床にあるのは、部屋の隅にぽつんと置かれたグローブと軟球だけだった。 タツをリビングに残し、一樹の部屋に入った翔太は、一樹とオセロで勝負することになった。 白と黒が徐々に入り乱れていく戦場。白を扱う一樹は、白の増減にあわせて一喜一憂する。腕を組んで真剣に悩む彼を見たのは初めてだった。そんな一樹の一面をみて、翔太は自然と頬をゆるめてしまう。 しかし、それは皮肉なことだった。 二人で過ごす最後の日。華恋が一樹を引き取りに来る日に、翔太は新しい一樹を知ることが出来たのだから。 子供との触れ合い方を知らないのでは、一樹を幸せに出来ないだろう。一樹の幸せは、きっと母親である華恋の元でこそ得られるものだ。 それが翔太の出した結論だった。 ふと腕時計をみれば、約束の時間まであと二時間。せめてそれまでの間、一樹の好きなようにさせてやろうと翔太は思った。 「おかあさん?」 「一樹、久しぶりね!」 玄関で息子と久しぶりの再会を果した華恋は、一樹を抱きしめた。二度と離さない。そんな言葉が聞こえてきそうな抱きしめ方だった。 「翔太殿。これは一体?」 「華恋、あとは頼んだぞ」 タツの問いかけを翔太は無視する。 「さあ、お母さんと一緒に行きましょう」 現状が理解できないといったように、一樹は小首を傾げる。 「あら、聞いてないの? 今日から一樹はお母さんと一緒に暮らすの」 「それは、おとうさんもいっしょなの?」 「違うわよ。前にも言ったでしょ。お父さんとお母さんはもう一緒に入られないのよ。お母さんと暮らすって事は、お父さんとはお別れってことよ」 事実を突きつけられた一樹の眼に、涙が盛り上がった。 「やだ! いきたくない!」 「ちょっと、一樹。おとなしくなさい!」 「やだ、やだ、やだ!」 目尻から涙を溢れさせた一樹は、母親の腕から離れようと必死に手足をばたつかせた。 「翔太。この話はあなたが持ちかけたんでしょう。どうにかしなさいよ」 「え? おとうさんが?」 暴れるのをやめて、信じられないといった様子で一樹は言った。一樹の瞳が、嘘と言って欲しいと訴えかけてくる。だがその期待に答えられない。例え一樹に嫌われようと真実を告げねばならない。 翔太は一呼吸おいて口を開いた。 「……そうだ。オレが、一樹のお母さんを呼んだんだ」 翔太はようやくといった様子で声を絞り出した。 「ぼくのこときらいになったの? ねえ、なんで?」 それは違う。幸せを願っている。心から愛している。 「ぼく、わるいことしたかな? もうしないから、ぜったいしないから!」 「さあ、一樹。行くわよ」 痺れをきらした華恋が強引に一樹の腕を取って、連れて行こうとする。 「ねえ、おとうさん!」 助けを求めて差し出された一樹の手。手を掴みたい衝動に駆られる。 翔太は反射的に腕が伸びかけて、しかし自制した。拳を固く握り締めた。 「おとうさーん!」 玄関扉が勢いよく閉まり、一樹の姿は無くなった。 一樹の長く尾を引く叫び声が、翔太の耳の中で木霊するかのようにこびりついて離れなかった。 翔太はこれでいいと思った。 子供との接し方がわからない者に親の資格はない。今は泣いているとしても、一樹を待つ未来を考えれば最善のはずである。そう。これでいいのだ。 「追いかけなくていいのですかな?」 ひざまずき、顔を俯かせた翔太の隣にはタツがいる。彼は腰部で手を組み、扉の先を見据えるような視線をぶつけていた。 「いいんだよ。オレには親の資格がない。全部、オレの親父のせいだ」 子供時代、源二が翔太に興味を持ってくれていれば現状は違ったかもしれない。 「源二殿が悪いと? これは随分と愚かなことをいうものですな。はっはっは!」 タツは顔に冷笑を貼り付ける。これみよがしに大声で笑った。 「あんたに何がわかる」 翔太は力なく言葉を吐き捨てる。 「貴殿が受けた仕打ちを話でこそ聞いていますが、実際にわたくしは知りえません。そういう意味で理解は困難でしょうな」 「だったら黙ってろよ」 「わたくしが愚かと言ったのは、翔太殿が過去を憎み、今を生きていないからです」 タツは翔太に叱責にも似た言葉を浴びせる。 「確かに貴殿の境遇は不幸としかいいようがない。それは認めましょう。しかし過去を恨んでも今は変わりませんな。影響などない」 「今は変わらない?」 「変わるためには今の自分が尽力するしかない。しかし貴殿はそれをせず、過去を思い返して泣き言ばかり。貴殿は親の資格と言いましたが、自ら動いたことがおありか?」 翔太は間違いを恐れて、行動したことがなかった。 「言わせてもらえば、親に資格などと制限するものはない。子供を授かった時から誰もが親となりえる権利がある。問題は、子供のために何をするかだとわたくしは思いますな」 「間違えたことを教えたらどうするんだ。オレはそれが怖い」 「子供を育てる重圧に負けたと?」 「あんたにはわからないだろうがな」 「何を言いますか。その重圧ならわかりますぞ」 予想外の一言に、翔太はタツの顔を勢いよく見上げた。 「おそらく、子の幸せを願う親ならば必ずぶつかる壁ですな。子供にとって何が幸せなのか。当人でない以上、わかるはずもない。間違うことも多々ある」 「じゃあ、どうやって間違いに気づけばいいんだ?」 親がこれだと思っても、子供にとって違うなら意味がない。それでは親の自己満足に過ぎないからだ。 「なあ、教えてくれよ」 翔太は懇願を表情でタツを仰ぎ見る。 「子供の笑顔を見つけることです」 タツは優しい口調で言った。 「幸せであるならば、そこには笑顔がある。作ったものではない、輝きを放つ笑顔がある」 「笑顔が……ある」 その言葉の意味を、しっかり噛み締める。 「子供は常にサインを出していることを知りなさい」 「サイン?」 「幸せなら笑顔を見せるように、怖かったり、悲しかったりすれば、子供は何かしら訴えています。それは寂しくても同様です。残念ながら、翔太殿は気づいてないようですな」 一樹がサインを出していたと言いたいのだろうか。 一樹の行動を思い返しても思い当たる節がない。彼に興味がないと心に嘘をついてる人間にわかるはずがないと、翔太は一瞬だけ思った。 「いや、待て……」 心当たりがあった。そうなると翔太の知りうる範囲で、一樹は三度もサインを送っていた。 「あれがそうなのか? いや、だけどよ……」 「翔太殿。あれこれ考えて自制するのが大人の悪い癖ですぞ」 タツは翔太の左肩に手を置いた。 「時に素直になりなされ。貴殿はわたくしとは違う。笑顔を向けてくれる相手がいるのですからな」 タツは柔らかな笑顔をみせた。 修平の笑顔は、今やタツの心の中だけでしか存在しない。それに比べて翔太には、まだ相手がいる。それは幸福なことだった。 翔太は弾かれたように立ち上がり、玄関から外へと飛び出した。 「一樹!」 息もきれぎれに翔太が叫ぶと、その小さな背中がびくりと揺れた。一樹が立ち止まり、華恋は何事かと訝しげな面持ちで振り返った。 翔太は多くのものから眼を逸らしていた。 子供との触れ方がわからないことを源二のせいにし、息子に興味がないと自分に言い聞かせ、一樹の幸せは母親と共にあると決め込んでいた。 そんな自分に再び一樹と顔合わせをする資格などないかもしれない。 だが、それでも一樹の笑顔だけを思い浮かべ、翔太は腹の底から声を張り上げた。 「一樹、聞いてくれ!」 ゆっくりと一樹が顔を見せてくれた。どこまでも悲しそうな一樹は、涙を流していないものの、瞳が涙に揺れていた。 翔太は伝えるべき言葉を考えていたわけではない。 「自分から距離を置こうとして気づいた。オレはお前が好きだ。大好きだ!」 それは世間体など考えない魂の叫び。 「だから帰ってきてくれ! もう一度、オレと――」 それは気持ちを剥き出しにした声。 「オレと一緒に暮らそう!」 それは息子である一樹へ向かって、父親という立場から送った、初めての言葉だった。 「おとーさん!」 「あ、一樹。待ちなさい!」 華恋の手を振り払い、一樹が駆け寄ってきた。翔太は両膝を地面につき、両腕を開いて一樹を迎え入れる。 翔太の胸に収まる一樹から、太陽の香りがした。 一樹は、寂しい気持を三度もサインにして送っていた。 保育園で、手を繋ごうと言ったとき。 公園で、手を繋いでもいいかと尋ねたとき。 玄関で、助けを求めるように手を差し出したとき。 「手、見せてくれるか」 「うん、いいよ」 一樹は一歩下がって、翔太へと手を差し出した。彼の手を、翔太は両手で優しく包み込む。 一樹の手は小さかった。とても小さかった。 この手を伸ばして、一樹はずっと寂しいと伝えていたのか。 そう思うと胸が切なくなる。 「一樹の手は小さいな。でもとても温かい……」 初めて握った一樹の手。 温かい光を連想させる不思議なものが、心にポッと宿った気がした。 「いつか、お父さんの側にいるって言ってくれことがあったな。あれはなんでだ?」 翔太は気になっていたことを尋ねてみた。 すると一樹は口を開いた。 「おとうさんが、ひとりになっちゃうんだもん」 「え?」 「おかあさんがおでかけしちゃうとね、ぼくはひとりでおるすばんするでしょ。そうすると、とってもさみしいんだ……」 一樹は昔のことを話していた。 「ぼくもいなくなったら、おとうさんはいえでひとりぼっちだもん。ずっとずっとさみしくなっちゃうもん。ひとりは、いやだよ……」 一樹が寂しげに微笑んだ。 「そうか、そうだったのか」 翔太は自分自身のことで手一杯だったというのに、まだ幼い一樹は父親のことを考えてくれていたのだ。孤独じゃないようにと、側にいてくれた。 一樹の純粋な優しさに触れ、翔太は心から笑った。 本当に嬉しい。なのに目尻から零れる熱いものはなんだろうか。堰が切れたように止めどなく頬を流れる、これはなんだろうか。 翔太は一樹の手を握り続けた。 この小さくも温かい手を、二度と離さないと誓いながら。 ☆ スズメが歌うように鳴き、早朝を告げている時間帯。 天を仰げば、青と表現するにはまだ色素の薄い空が広がっている。 翔太と一樹は手を繋ぎ、タツを見送るためにパジャマ姿で玄関外まで来ていた。 昨日、修理に出していたカーナビが帰ってきたため、ジンナビであるタツとの契約が切れたのである。 「仲良きことはいいことですな。はっはっは!」 近所迷惑など気にした様子もなく、タツが胸をそらせて笑った。 「タツさんには随分と世話になったな。ありがとう」 「全ては翔太殿が動いたからこその今ですからな。わたくしは何もしておりませんぞ」 タツの凛としたよく通る声が響く。 「長居は無用ですな。わたくしはそろそろ行かせてもらいます」 「もう、いっちゃうの?」 背を向けたタツに、一樹が尋ねる。 「ええ、そのうち遊びに伺わせていただきましょう。それまで、しばしのお別れですな」 「そっか。タツおじさん、またあそぼうね」 一樹の満面の笑みが、タツの背中に送られる。 タツは首だけ振り向くと、白く輝く歯をみせて笑った。 ひと気のない道の中央を堂々と歩くタツの背中が徐々に小さくなっていく。 翔太は思った。 人生という名の道で迷っていた翔太を、タツが助け出してくれた それは、人生のナビゲーションをしてくれた、と言えるのではないか。 「本当にありがとう」 翔太は呟いた。 声が届くはずもないのに、タツは腕を軽くあげたのだった。 |
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●感想
一言コメント ・おっさんのキャラとジンナビのアイデアが良かった。誤字脱字などは多く、文章は二流。 ・素直に面白かったです! ・家族愛っていいですねww |
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