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ええと、大変私事で、恐縮だとは思うのですが。
我が家に、一匹の猫がいます。名前はクロという、ごくありふれた黒猫です。 毛並みは艶やか、瞳は金色。まず器量よしといっても差し支えない、その姿。 しかし、なのです。このクロ、ちょっと変わっていまして。 「きな子、メシくれ、メシー」 「きな子呼ぶなとあれほど言ったはず……。 私はトキナ。そんな豆類の粉末のような名前ではありません」 「何でもいいから、メシくれにゃー。腹ペコなんだにゃー」 そう、うちの猫、喋るんです。 あっさりと言ってしまいましたが、これは大変に問題のある猫、ということになりましょう。 何しろ人語を理解するだけならばともかく、どういう仕組みで発声しているのかなど、興味は尽きず。 しかしまさか解剖して調べるというわけにも行かず。ならばと本人……もとい、本猫に問い合わせたところ。 「猫が喋って何が悪いのさ? 人語禁止令とかいう法律でもあるのかにゃー?」 「そんなものはありませんけど。でもとりあえず、猫が人間の言葉を喋るのは、由々しき問題と言えるでしょう」 「別にいいじゃん、喋るくらい。これが二足で立ち上がってタップダンスを踊るとかいうのだったら、アタシもちょっとは考えるけどにゃー」 万事、この有様。この猫にとっては、人間の言葉を喋るのは、ごく自然な事のようです。 しかし、それが世間一般に当てはまる常識であるかどうか、それは大いに問題があり。 もしもこのことが露見した場合、このクロ、ひいては私にも、なんらかの危害が加えられる恐れがあり。 なればこそ、私はこの事は、他人には秘密にしているのですが。 「猫の口に戸は立てられないにゃー。そのうちばれて解剖されるにゃー」 「あなた自分の事なのに、ずいぶんとのんきですね」 「しょせんはその刹那を生きる猫だからにゃー。人間とは価値観が違うにゃー」 これではそう遠くないうちに、事は露見してしまうでしょう。まったく、飼い主の事も少しは考えて欲しいものです、この猫。 そもそもがこのクロという猫、私がお婆さまから譲り受けた、由緒正しき猫ということなのですが、どうもお婆さまの前では一言も言葉を口にしなかったらしく。 それが我が家に居ついた途端、このように憎たらしい口をきくようになった、と。 そこが不思議といえば不思議なのですが、本猫曰く、 「思春期の少女には、不思議が欠かせないにゃー。少女に怪異の取り合わせ、これ鉄板にゃ」 余計なお世話だと思う次第です。そもそも鉄板って何ですか。 まあ、そんなわけで、我が家の猫は喋る、というのはおわかりいただけたと思うのですが、そんなことが本筋ではないのです。 この私にとっては、猫が喋ろうが犬が歌おうが、まさしくどうでもいいことでありまして。 もはやこれは諦めるほかになく、どうしようもできない問題だということもありますが。 しかし、猫が喋るのは日常の上での出来事として片付けられるのですが、そうはいかない問題もあります。 そう、例えば……。 「そろそろ来るんじゃないかにゃー?」 「あら、そうでした。用意をしなければ」 お花をきちんと並べて、来客を待ちます。そう、私は花屋を営んでいるのです。 そしてそこに現れる、とあるお客様に……ちょっとした御縁がありまして。 そう、そのご縁とは……。 「こんにちは、トキナさん」 現れたお客さまに、私は慌てて応対します。 「い、いらっさいませ!」 途端にうずくまります、私。いらっさいませって何ですか。どこの方言ですか。 「なにをそんなに落ち込んでいるんだい、トキナさん?」 「い、いえ、その、ちょっと足元にゴミが。そう、ゴミが足元に。清潔第一が、私のお店のモットーですから」 「そうかい? それならいいんだけれど」 不思議そうに私を見る、彼。お名前を、ダンナーさんと言います。 私は密かに『旦那さま』とお呼びしているのですが……と、これはどうでもいいお話でありまして。 「きょ、今日は一体どのようなお花をお探しで?」 ダンナーさんは、男性にしては珍しく、お花を愛でる心優しいお方であります。 そういう点は好ましく思いまして、私もそんな彼が……。 「ええと、何か白を基調に、見繕ってくれるかな?」 「は、はい、喜んで!」 いそいそとお花を選ぶ私です。このダンナーさんのお目にかなうように、立派に花束を作るのも、私の仕事。 ここで手を抜いたりすれば、それすなわち私のセンスを疑われてしまいますから。故に、手は抜けないのです。 そして、私は花束を作り上げ、ダンナーさんに手渡して。 「はい、どうぞ! よくお似合いだと思われる次第です!」 「あはは、ありがとう。じゃあ、代金を」 「あ、ありがとうございます!」 にこやかに、お財布からお金を取り出すダンナーさん。それを受け取る際に触れた手が、暖かく柔らかく、私はうっとりと夢見心地になり。 「……にゃー」 そんなクロの声に、我にかえります。私としたことが、自分を見失うなど。 「大丈夫かい、トキナさん? 顔が赤いよ?」 「ひゃい! 大丈夫れす!」 思わずうずくまる、私です。舌が回らないにもほどがある。赤っ恥もいいところです。 そんな私を怪訝そうに眺めながらも、ダンナーさんは花束を手にして。 「じゃあ、僕はこれで。さようなら、トキナさん」 去っていかれる、ダンナーさんです。私は穴があったら投身して上に墓石を乗せたいくらいに落ち込んでいまして。 「こーの馬鹿きな子。いくら好きな相手の前だからって、舞い上がりすぎだにゃー」 「うるさいです、そこな猫」 そう、私はあのダンナーさんに、恋をしているのです。片思い、一方通行の恋ですが。 それでも恋に恋焦がれているのには違いなく、私としてはこの思いが届けば良いなと、密かに期待しているのですが。 「口に出さなきゃ伝わるわけないにゃー。外見はいいのに、これだから積極性のない女は根暗だにゃー」 「いちいちうるさいですね。容姿はともかく私の性格の事をとやかく言われたくありません」 これ、万事がこの調子。花屋の看板娘というのも、なかなかに大変なお仕事なのです。ある意味では。 そもそも私がダンナーさんに惚れてしまったのには、理由があります。 それは、とある雨の日の事でした。傘を持たずに出かけてしまった私は、振り出した雨に濡れて帰るしかなく、それはもう寒い思いをしていたのですが。 「ええと、大丈夫かい、キミ?」 ふと差しかけられた傘。それを掲げる、殿方。雨降る幻想的な街並みの中、その出会いはとてつもなくインパクトがありましたっけ。 「よかったら、この傘を使うといいよ。僕は、濡れて帰るから」 そんなことを仰います。私は、慌ててそれを押し止めようとしたのですけれど。 「じゃあ、風邪をひかないように。おたがいにね?」 そう言い残して、雨の中を駆けていく……あのお方。その後姿に、私はこの小さな胸がキュンとなるのを感じまして。いや、小さいというのは比喩的表現でありまして、寄せて上げても少々足りない私のバストの事を申し上げているわけではなく。 そこだけは、誤解のないように。 まあ、それはどうでもいい事でありまして、そんなわけで一目惚れに近い状況に陥ってしまった私。その私が経営する花屋に、あの時のお方が現れたときには、もうびっくりいたしまして。 「あれ、キミは……ええと」 なにかを思い出そうとしていらっしゃるそのお方に、私は勇気を振り絞って。 「トキナと申します! その、よろしければお名前を!」 「あ、ええと、僕はダンナー。キミとは、どこかで出会ったことが?」 「は、はい。雨の日に、傘をお借りいたしました」 「あぁ、そういえば。そんなこともあったかな」 私としましては、そのように印象が薄かったのかと、若干残念でありましたが、こうして再会できただけで、それはもう嬉しく。 「あの、傘をお返しいたします。ありがとうございました」 「別に構わないのに。律儀な子だね、キミは」 慌てて傘を持って戻りますと、お店の花を眺めていらっしゃる、ダンナーさん。 その瞳には、明らかに興味津々といった雰囲気が漂っていまして。 「あの、お花が好きなのでしょうか?」 「あー、うん。まあね。そうだ、ちょっと頼まれて欲しいんだけど」 そう言ったダンナーさんは、少し恥ずかしそうにしておりまして。 そのギャップもまた、愛らしいものだと思う、私でありまして。 「その、花を見繕って欲しいんだ。こういうのは、あまり詳しくなくて。好きなんだけどね、花は。でも、知識が乏しいというか」 「あ、は、はい! それで、一体どのようなお花を……?」 「あぁ、うん。キミの……ええと、トキナさんのセンスに任せて、お願いできるかな?」 そこで私は、ありったけの情熱を傾けて、花を見繕いまして。 「じゃあ、ありがとう。代金は……」 「こ、今回は結構です。その、傘のお礼がありますので」 「そうかい? じゃあ、申し訳ないけれど。ありがとう」 立ち去るダンナーさんの凛々しい姿に、私はうっとりとお見送りをして。 こうして、ダンナーさんとの出会いと自己紹介が終わり。私は、それからの日々を楽しく過ごすことができるようになったのです。 何しろダンナーさんは、お花を毎日のように買い求めにいらっしゃいますし、それに応える私もまた、毎日が幸せなのでありまして。 これが、恋というものなのだと、私は深く喜びを噛み締めるのでありました。 ……ところで、現在。 「もう一ヶ月にもなるのに、なーんも進展してないのは、どういうわけかにゃー?」 クロがあくびをしながら、私の足元でそう言います。 「うるさいです。一ヶ月やそこらで殿方の心を掴めるほどに、私は魅力的ではありませんから」 「魅力がないと自覚しているのは、立派だにゃー。しかし志が低いにゃー」 「やかましいです。こうして毎日を親しく過ごせば、その内に彼も私の魅力に気がついてくれるはず」 「矛盾してるにゃー。魅力がないのに、気付けるはずがないにゃー」 私は、クロに蹴りを入れます。それはもう、憧れの彼女の前でゴールにサッカーボールを蹴り入れる少年のように。 ポーンと飛んでいく、クロ。しかしひらりと受身を取り、そのままぱたぱたと私の元へ戻ってきては。 「なにするにゃ! いくら真実を暴露されたって、やっていい事と悪い事があるにゃー!」 「余計なお世話です、この無駄飯食いが。悔しかったら何かこう、私の恋路を手助けする程度の事はやって見せなさい」 まあ、無理でしょうけれど。しょせんは浅ましい畜生ですし。しかしそれを聞いたクロは、なにやら悩ましげに身をくねらせて。 「まったく、恋する乙女は暴虐だにゃー。まあ、しかしメシの分くらいは恩返ししてやってもいいかもにゃー」 そんなことをのたまいます。まさか、本当に手助けができるとでも? 「そんなの簡単のばっちりだにゃ。猫をなめないで欲しいものだにゃー」 「ならばすぐにそのようにしなさい。これは飼い主としての命令です」 「猫使いの荒い飼い主だにゃ。まあ、そう焦る事もないにゃ。きな子、まずは準備して欲しいものがあるにゃ」 「準備するもの、ですか?」 そして、クロの申し上げる事には、こう……。 「媚薬、ですか?」 「そうにゃ。これを使えば、どんな異性もメロメロ間違いなしにゃ。さて、どうする? 作るかにゃ?」 それはもう、ぜひともお願いしたいところです。あのダンナーさんを虜にできるのならば、黒魔術だろうが禁断の呪術であろうが、何であろうと構いません。 なにしろ恋する力は無限大、と言いますし。故に活動力もまた、無限大に近い私なのですから。 「じゃあまず、マタタビとお酒とバラの花と……」 私は、店内のメモ帳にそれらの品物を書き込みます。 そしてクロの言うとおりのものを、しっかりと揃えてくると約束して。 「これで本当に、ダンナーさんが私を振り向いてくれるのですか?」 「さあ? でも、やらないよりはマシだにゃ。少なくともきな子に欠けているのは行動力だものにゃー」 「それは重ね重ね承知しています。そしてきな子言うな」 そんなわけで、私はクロに言われたとおりの物を調達にかかります。それは若干の困難を伴うものでしたけれど……特にイモリの黒焼きなど、少女である私の身に余る代物でして……とにかく。 「そ、揃えましたよ、クロ?」 「ほんとに揃えちゃったのかにゃー。まあ、仕方がない。やるだけやってみるかにゃー」 そう言うと、私と共にお店の奥へと引っ込んで。もちろんその日は、臨時休業にしたのですが。 店の奥。私たちの生活する空間に、それは漂っていました。 匂い。香り。芳香。しかし、強いて言うならば、それは。 「……くさいんですけれど」 「我慢するにゃー。こうして三日三晩熟成させないと、効果が出ないからにゃー」 そう、とてつもなくくさい、この匂い。悪臭と呼ぶに相応しいです。これ。 ご近所から苦情が来なければいいのですが。まあ、それはさておき。 「本当にレシピは間違っていないのですか、これ? その、どう見ても、これは……言い難いのですが、誰かの吐瀉物にしか見えないのですが」 「見た目じゃないのよ。問題は中身だにゃ。これも三日ほど寝かせれば、匂いも無くなっていい感じになるにゃ」 「ははぁ、なりますか」 「なるにゃ。そしてそれをこしとって作った香水が、それはもうメロメロパワーで骨抜き?」 「あら、それは素敵。では三日間ほど我慢しましょう」 こうして、我が家の奥では悪臭を放つ物体が密かに鎮座していたわけで。 それはもう、ご近所からちょっとばかりの小言を言われましたけれど。 その、『お宅、腐乱死体か何かを隠していらっしゃいませんか?』とか。失礼な話です。 しかし、それも三日間の辛抱。そしてその日になって私が例の吐瀉物を見てみますと。 「あら、透明になってる」 そう、そこにはまったく澄んだ液体が、何かふよふよとした内容物と共に鍋の中に。 さっそく私は、それを濾過して液体だけを抽出します。そう、これがいわゆるラブメロ香水というわけですね。 「クロ、クロ、できましたよ?」 私が呼べば、クロはのっそりと現れて。そして件の香水を前に。 「ふわぁ、やっとできたかにゃ。じゃあさっそく、それを体に振りかけるといいよ」 「直接でいいのですか?」 「問題ないにゃ。あとはその微かな匂いで異性は骨抜き、腰砕けにゃ」 そういうことならばと、私はいそいそと己の体に、香水を振り掛けます。さて、これがどういう効果をもたらすのか。 とりあえず私は、店先に出て、ダンナーさんを待ちます。そろそろ現れる頃だと思うのですが。 「おはよう、トキナさん。今日もいい日だね」 ……と、現れたダンナーさん。今日も素敵な笑顔です。惚れ惚れとします。しかし、今回はそれ以上に、彼にも惚れ惚れとなっていただかなければ。 「その、ダンナーさん? 何か今日の私に、感じるものはありませんか?」 「今日のトキナさんに? うーん……」 考え込むダンナーさん。その答えを待つ私。そんな時でした。不意に私の足元を、なにかがカリカリと引っ掻いたのは。 さてはクロが何か悪戯を──と思って見下ろせば、そこには見たこともない猫の姿。 「クロの知り合い……ではないようですけれど……」 ふと気付けば、私の周りには、猫が、猫が、猫だらけ。 「にゃー」 「にゃーにゃー」 「「「にゃーにゃーにゃーにゃー」」」 ああ、猫まっしぐらな私。猫たちは私を取り囲むと、散々に引っ掻いたり舐めたりかじったり。 「と、とりあえず今日は出なおすよ。じゃあ、トキナさん」 逃げてしまわれたダンナーさん。私は執拗に迫る猫たちに、散々にいたぶられ、辱められ。 もう、これではお嫁に行けないです。 「これは一体どういうことですか?」 クロに問いかけます。私の足には、無数の引っ掻き傷やらなにやら。それを手当てしながら、クロをにらむ私です。 「どうもこうも、あの媚薬には効き目に個人差があり、またすべての人間に効果があるわけではありません、にゃ」 「なんですかその薬品会社の言いわけみたいな理屈は。しっかり効き目があるというから、三日間も我慢したのに」 「なお用法用量を守って、正しくお使いください、にゃ」 「知りませんよそんなこと」 とりあえず、あの媚薬に効果はありました。猫に対して、ですけれど。 しかしそれでは納得できないのも事実。そもそも殿方の気を惹けなくて、なんのための媚薬でしょう? 「この役立たず」 「アタシに言われてもにゃー」 とにかく、このままでは気がおさまりません。えぇ、おさまりませんとも。 「クロ、あなたちょっとダンナーさんのことを偵察してきてください」 「なにそれ?」 「ですから、ダンナーさんの好みやら生活やら……そういうものをですね。こう、猫のあなたならば怪しまれずに調べる事ができるかと」 「無理な注文だにゃー」 私はクロを引っつかむと、鍋の中に放り込みます。そして蓋をして、弱火でコトコトと。 「入浴には時間が早いってば」 「うるさいですね。猫鍋にしようとしているだけですから、気にしないでそのまま茹っていてください」 何の役にも立たない居候を養えるほど、我が家は豊かではありませんからね。この際、貴重な蛋白源になっていただくしか。 「ったく、わかったってば。偵察してくればいいんだよにゃ?」 「えぇ、それはもう。余すところなく観察してきちゃってください」 私はクロを外に放ちます。そしてクロは、トコトコとダンナーさんの家のほうへと向かって行き。 そしてその日、クロは帰りませんでした。たまには静かなのもいいものですが、やや不安も感じますね。 そもそもが喋るだけで鬱陶しい猫でしたが、あんなのでもいないよりはマシというもの。一人寂しく暮らすよりは、まだ良いとも思えるのです。これもあの非日常な猫に毒されている考えでしょうか? そんなわけで、その夜は一人ですぅすぅと寝息を立てて眠った私。翌朝目覚めれば、クロのことが真っ先に気になります。 そこで店をあけて、通りを見れば、そこには丸くなってふて腐れているクロの姿が。 「なにをしているのですか、クロ?」 「何って、不貞寝。窓もドアも開いてないんじゃ、入れないにゃ」 「鳴いて知らせればよろしかったのに」 「アタシは駄猫じゃないから、そんな下品な真似はしないの」 まったく、妙なところで律儀な猫だと思います。しかし、肝心の偵察はうまく行ったのでしょうか? 「あー、それがさー……?」 花屋の奥で、私はクロの話を聞きます。 「すごいよ、彼。脱いだらムキムキ。ちょーマッチョ。鍛え上げられた肉体美?」 「あら、それは素晴らしい。筋肉は男性の誇りですからね。他にはなにか?」 「あと、アレが超でかい。もう棍棒のように?」 「あら、それは素晴らしい……と、そういう下品なのは無しに、なにか他には?」 「あー、それがさー?」 クロは、何かを言おうか言うまいか、悩んでいる様子。そこで私は、辛抱強くその口が開くのを待ちます。 「えーと、なんて言えばいいのかにゃー」 「なんとでも言ってください。ぶっちゃけて構いません」 「じゃあ吐き捨てるように言うけどさ、彼、恋人いるんだわ」 ……。 「ええと、今、なんと?」 「だからー、ダンナーには恋人がいるんだって。毎日のように花買ってたでしょ? あれ、彼女への贈り物なんだわ」 …………。 「猫の分際で忌々しい冗談を吐きますね。死ねばいいのに」 「冗談じゃないってば。現実を直視するにゃ」 あー、その、まとめると、ですね? 「ダンナーさんには、すでに恋人がいて、その人に花を贈っていた、と?」 「そう言ってるにゃ」 その瞬間、私の上にタライが落ちてきたかのような衝撃が。それはもう、完全に打ちのめされましたとも、えぇ。 「クロ、ちょっと頼みがあるのですが」 「なにさ?」 「私、これからちょっとばかり入水してきますので、遺言を頼みます」 「入水自殺が許されるのは、詩人か作家だけにゃ。まあ、そう早まる事もないにゃー」 しかしこの私の暗き思い、どうすれば? まったく生きているのがこれほど苦痛に感じたのは、何度目でしょうか? 「こうなったらダンナーさんを道連れに、あの世へと旅立ち……」 「一人で死ぬならともかく、余計なお節介を焼くものじゃないにゃ」 「こうなったらダンナーさんだけでもあの世へと……」 「何でそう極端に走るにゃ」 ああ、この私、失恋してしまいました。これが少女の限界なのでしょうか? 寄せてあげても足りない小さな胸の限界なのでしょうか? それにつけても、ダンナーさんのお相手が気になりますね。私よりも麗しくなければ、許せたものではありません。それはもう、はっきりとさせたいところです。 「張り合っても無駄。無駄のムダムダ。相手はモデル級のスタイルにナイスバスト。顔もまあ、美貌って言えば美貌かな? とにかくきな子に勝ち目はないにゃ」 「きな子言わないでください。そしてそれでもまだ私は諦められません」 「だーから無駄だって。そもそも彼女、妊娠してるんだぜ? これはもう恋愛感情で対処できる問題じゃないにゃ」 その時の私は、それはもう壮絶な顔をしていたに違いありません。何しろクロが悲鳴をあげたほどですから。 「そう、妊娠……妊娠ですか。一発でも妊娠ですか。く、ククク……」 「おーい、きな子、しっかりするにゃー!」 ああ、失恋した時ほど、虚しいものはありませんね。これ、乙女のブロークンハートです。 今の私はギザギザハート。触れればきっと怪我をします。むしろ触れたら怪我させます。バリバリと引っ掻いてやります。猫のように。畜生のように。 それほどまでに落ち込んでいた私。花屋を開店させても、その心は沈んだままです。 「気にするもんじゃないにゃ。世の中に男なんて、掃いて捨てるほどいるにゃ」 「掃いて捨てないでも済む男性を欲しているのですが」 「わがまま小娘の考えそうなことだにゃー。まあ、それも青春、これも青春だにゃ」 世の中は、本当に理不尽なもので。猫は喋る、好きな男性には恋人がいる、おまけにこんな日に限って。 「わ、振ってきたにゃ!」 大雨と来てます。これはきっと、私の流した涙雨。すべて濡れてしまうがいいです、ふふっ(半ば自棄になっていますね、私)。 「ぼさっとしてないで、花を店の中に入れるにゃ! そうじゃないと萎れてしまうにゃ!」 「いいんです。私の恋のように、無惨に萎れてしまうがいいのです、ふふっ……」 「いい加減に現実逃避はやめるにゃ。ほら、急ぐにゃ!」 まったく、この猫ときたら。口だけは達者で、しかも人の気持ちは汲み取ろうとはしない。 何でこの猫が喋るのか、そもそもそこが不思議でしたが、もしかしたらこれは私がビョーキなだけで、もしかしたらこの猫もなにも変わらない、普通の猫かも知れず。 そう、私はビョーキなのでした。この一言で、何もかもが解決する、はず。失恋も何もかも、有耶無耶になるはず。 ……なのに。 「雨、止まないにゃー……」 クロは相変わらず、私にだけ聞こえるように呟きます。そう、確かにこの猫は喋っている。それが現実。ならば私も、失恋を現実として受け止めて、そして強く生きていかなければ、と。 「うわぁ、びしょびしょだぁ!!」 不意に、店先に飛び込んできた人物がいました。見ればそれは一人の青年で、濡れた髪がそこはかとなく色気を、色気を……って。 「あ、ごめん。ちょっと雨宿りさせてくれるかな?」 「は、はいっ!?」 思わず私は飛び上がります。だってその人、いいえ、そのお方は、それはもう絶世の美男子であらせられたので。 「あ、ちょ、え、その、い、今タオル持ってきます!!」 慌てて奥に引っ込み、タオルを持って来る私。そしてそれをありがとうと受け取る彼。 ゴシゴシと頭を拭うその姿も、見目麗しく──私は不覚にも、ぽーっとなってしまい。 「まーた始まったにゃ、きな子の一目惚れがにゃー」 「え? 何か言ったかい?」 そう尋ねてくる彼には、私はなんでもないと言いつつ、クロのことを足で蹴飛ばして。 そして色々と、彼とお話を楽しみ……そして、恋に恋して、今。 「……で、何にゃ?」 私は、クロを高く高く吊るし上げて。 「いいですか、今度こそ私の恋を成就させるのですよ? これで十戦十敗なんですから」 「いい加減に諦めるのが吉と出てるにゃー」 「うるさいです。そもそもあなた、人の家に居候しているくせに……」 「好きで住んでやってるわけじゃないにゃー」 「いいから協力お願い。さあ、今度こそ彼のハートをゲットゲット。そしてバージンロードを並んで爆走。花の十代、私は諦めませんからね?」 「そういう努力だけは無駄に張り切るから、困りものだにゃー」 何事も不条理なこの世界。猫は喋る、私は振られる、私は恋をする。 しかし、その中においても、たったひとつの真実があるのです。そう、それは。 「恋愛は、何度経験してもやめられない、麻薬のようなものだということです」 「振られ癖の抜けない女の戯言にゃー」 「何か言いましたか、この畜生が」 「……にゃー」 クロはただ、ジト目で私をにらむのでした。 恋は盲目、という言葉があります。 ならばきっと、クロは私にとっての盲導犬……もとい、盲導猫。 そんなクロだから、私は彼女が喋ることを、否定しないのです。 だって、盲目な私に道を教えてくれる、大切なパートナーなのですから。 「どーでもいいけど、あの男はシスコンだって街の噂だにゃー」 「それはこれから更生させれば良いだけです。えぇ、それはもう、私の愛でこっちの純愛道に引きずり込んでやりますから」 「人、それを泥縄と呼ぶにゃ」 「いちいち小うるさい猫ですね」 何事も、気にしないほうが勝ち、というものです。 故に、これで良いと、そう思う私なのです。そう、猫が喋ることなんて、些細な事。 恋に恋するこの気持ち、そちらのほうがよほど大事で不可思議。 そして今日も、私の『なんでもない』一日が始まる……。 |
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●感想
秋心さんの意見 一言で言うなら、ユーモアセンスのある文章と、構成力が素晴らしいという讃辞を送ります。 面白かったです。枚数を感じさせないほどに。すぐ読み切りました。 喋る猫、惚れっぽい娘、実らない恋という何の変哲もないテーマでしたが、 作者様の力量がやはり素晴らしい。 テーマがありふれている事を逆手にとられたような感じすら受けました。 きな子とクロには有り余る魅力を感じましたし。 一応、指摘らしき事を。 この作品の中で、私が気になったのは、 地文の「〜て。」などの、ですますで終わらない文章の多さです。 アクセントとして用いるなら良いのですが、少し使いすぎという印象を受けました。 後、きな子のクロに対する扱いでしょうか。この作風、文章ならこれでいいのかもしれませんが、 猫を飼ってる身からすれば少々残虐です。もう少し軽い刑罰にしてくれれば、違和感無く読めました。 |
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