高得点作品掲載所     tanisiさん 著作  | トップへ戻る | 


盲目

 今は夜の8時頃だろうか。私は住み慣れた1Kのアパートの一室にいる。
 私の両目は、激しい痛覚だけを残しどこかへ行ってしまった。先ほど、祐二が私の右目から左目にかけて、ナイフで真一文字に切り裂いたからだ。
 切られた部分からは液体が溢れ出ていた。ほとんどは血だと思うが、もうそれを判別することさえできない。
 祐二は私の傷の部分に柔らかい布を巻いている。おそらく包帯だろう。介抱しているところをみると、殺すつもりはないのだと思い、少しほっとした。

 今日は仕事が終わった後に、同僚の高橋君に祐二の暴力のことで相談に乗ってもらっていた。今から2時間ほど前の話だ。
 同棲している祐二にそのことが知られたのは今から30分ほど前。お風呂に入っている間に携帯のメールを見られたらしい。殴られた後に、視力を奪われてしまった。

 祐二とは、ちょうど今から1年前に職場の工場で知り合った。
 見た目はカエルのようだし、同僚の人に馬鹿にされることも多い彼だったが、まじめで誰にでも優しいところに惹かれて付き合い始めた。付き合って3ヶ月後には、祐二の一人暮らしのアパートに泊まりに行くことが多くなり、自然と同棲していた。私たちは結婚して、人並みの幸せを手に入れられると信じていたのだ。そのころはまだ――。
 彼の態度がおかしくなり始めたのは、付き合って半年ほどたってからだった。些細な口答えをするだけで暴力をふるうようになり、それは次第にエスカレートしていった。
 暴力の原因は、いつも私からすれば些細なことだった。職場で男の人と話をしたからだったり、朝の挨拶を男の人に笑顔でしたからだったりした。ある時は、テレビを見ながら俳優をかっこいいと言っただけで殴られた。祐二の嫉妬深さは常軌を逸していたのだ。
 もちろん今日のことだって、ばれたらただでは済まない事はわかっていた。だが、誰にも話さずにこの生活を続けることはもう限界だったのだ。

 職場で言いたいことが言えないからか、祐二は私の前では饒舌になる。口調まで別人のようだ。
「いや、わりいな、ちょっとやりすぎちまった。でも、お前が悪いんだぜ。おれ、正義感の強いとこがあるからさ。悪いことする奴にはきっちり罰をあたえないと気が済まないんだ。」
 包帯を巻きながら自己弁護する祐二の声が聞こえてくる。落ち着いているように装っていたが、さすがに声が震えていた。
「てめえも、なんでよりによって高橋なんかに相談すんだよ。あいつはツラがいいのを利用して女だましてるクズだぞ」
 頷きながら、頭の中では必死に否定していた。そんなことはない。今日だって親身になって話を聞いてくれた。泣きじゃくっている私に、「警察に行くならおれも付き合いますよ」とも言ってくれた。長袖で隠している無数の火傷のあとに気づいてくれたのも、高橋君だけだった。今の祐二の言葉で否定しなかったのは美形だということだけだ。
 高橋君は、1ヶ月前から働き始めたばかりの新人なので、たしかに私も彼のことは詳しく知らない。だが、それは祐二にしても同じはずだ。

 クズは祐二だ。今まで、「別れてくれ」とどれだけ懇願しただろう。返事は決まって蹴りかパンチか根性焼き。最悪なことに、最後には決まって、愛してるからやるんだ、なんてことを言ってくる。だいたい、高橋君のことにしても「高橋」なんて呼び捨てにしているのを職場では一度も聞いたことがない。高橋君のほうが祐二より年下なのに。 
「でも、安心しろよ。高橋なんていなくても、ずっとおれがついててやっからよ。愛してるぜ」
 目の前が真っ暗になった気がした。事実真っ暗だが。明日からどうしようか。目は治るのだろうか。逃げ出したかったが、包帯を巻き終えた祐二はロープのようなもので手首と足首を縛り始めていた。
 その日の夜は痛みと恐怖で眠れなかった。

◆ 2日目 朝

 能天気な小鳥のさえずりが聞こえてきた。目の痛みは相変わらずだが、どうやら朝になったらしい。怪我のせいだろう、頭痛と吐き気が定期的に襲ってくる。昨夜の言葉通り、祐二の気配は一晩中部屋から消えることはなかった。起きているのだろうか。膀胱がむずむずしてきた。
「トイレ、行きたい……」
「ん……ああ、だよな。えーと……」
 起きていた。少しごそごそと物音がしてから、逃げるなよ、と言って足のロープを切ってくれた。
「手は?」
「手はダメだ、おれが連れてって手伝ってやる」
「大丈夫だよ、逃げたりしない。祐二と一緒にいたいもん」
「いや、だめだ。もしおまえが裏切ったらおれはお前に何するかわからない。お前のために言ってるんだぞ」
「逃げないってば……わたしだって、昨日のことは反省してるんだから。それに、真っ暗だからもし逃げたくても無理だよ」
「……しかたないな」
 納得したのか、手のロープも切ってくれたので、ようやく四肢が自由になった。逃げ出したかったが、もちろんそんなことはしない。失敗した時のことを考えると恐ろしい。
 それに、先ほどの話はほとんど嘘だが「真っ暗で逃げられない」と言う部分だけは残念ながら本当だった。今は逃げるチャンスを待つべきだ。
 トイレに行こうとしたが、暗闇を歩くのは住み慣れた狭いアパートでも難しく、何度かつまずいてしまった。スウェットのズボンを下ろしてから、なんとか便座に座ろうとして便器の中にお尻を突っ込んでしまった。
「ひゃっ!」
 冷たくてびっくりした。すぐに立ち上がり、便座が上がっていることに気がついた。座り直して用をたしながら、なぜあんな男と知り合ってしまったのか、付き合ってしまったのか、同棲までしてしまったのか。自分の運命を呪った。

 トイレから出ると、話し声が聞こえた。
「はい、ほんとにすいません、はい、はい……失礼します」
 電話の様だ。祐二は携帯があるからいい。私の携帯は昨夜折られてしまった。
「今、二人とも風邪ひいたって班長に言っといてやったぜ。これで会社のほうはしばらく大丈夫だ、感謝しろよ」
「うん、ありがと」
 心から呆れた。一体何が大丈夫なのか……。こんな大けがして、職場に戻れるわけがない。私の場合、生きて実家に戻れるかどうかも怪しいのだ。だが、少し希望も見えた気がした。 
 もしも祐二の本性を知っている高橋君が今の話を聞いたらどう思うだろう。
 アパートの場所は知らないだろうが、何かあったと考えて警察を呼んでくれるかもしれない。いや、もしかしたら住所を調べて助けに来てくれるかもしれない。それはなかなか素敵なことだ。今の自分の状況も忘れて、頬が緩んでしまった。 
 また手探りで部屋に戻り、何もやることがないので座っていた。いや、できることがない、といったほうが正しいかもしれない。視力のない生活は予想以上に不自由だ。あまり予想したこともなかったが。
 テレビがついているらしく、朝のニュースが聞こえる。自分の今の状況も、そのうちニュースになるのだろうか。だとすれば、できるだけ小さいニュースで済むことを祈ろう。もしも全国ニュースだった場合、画面の下のテロップに、「遺体」の2文字が付いている可能性は高い気がした。

 ニュースに交じって、油の爆ぜる音が聞こえてきた。祐二が朝ご飯を作り始めたらしい。また目玉焼きだろうか。「目玉」なんて言う単語は、想像するだけで頭痛がひどくなってしまう。
 そのうちに、足音、皿を置く金属質な音、目の前に何かが引きずられる音がした。テーブルを移動してきてくれたのだろう。変なところで気が利くやつだ。
「はい、あーんして」
 衝撃的だった。思わず顔が引きつるが、身の安全を考えて大人しく食べることにした。
 祐二は、ひどい暴力をふるった次の日の朝は妙に優しかった。だから、こんなふうに泥沼化するまで付き合ってしまったのだ。もしかしたら、付き合い始めたころの優しい祐二に戻ってくれるかもしれない、と期待して……。

 朝ご飯を食べてからは、横になっていた。頭痛に加えて、少し熱も出てきた気がする。祐二は横で明るい未来を語り続けていたので、適当に相槌を打ちながら聞いた。
「おまえの目、早く治るといいな。知ってるか、人間の再生力って結構すごいんだぜ。指が切れた時、くっつけておくだけで元通りになったなんて話もあるんだから。お前の目も安心だな」
「うん、よかったあ」眼球だ。簡単に治るか、バカ。
「おう、安心しろ。おれの応急処置も完ぺきだからよ」
「うん、ありがとー」嘘つけ。消毒もしなかったくせに。
「ま、こういうアクシデントもあって、二人の愛は深まってくもんなんだよな」
「もう、祐二ったら……」死んでしまえ。
 
◆ 2日目 夕方

 夕方になり、期待していたことが起きた。時間は朝からつけっぱなしのテレビの音でわかる。
「ちょっとコンビニ行って飯買ってくら」
「うん、気をつけてね」
 突然のチャンスの到来に、私の心臓は高鳴った。
「誰か来ても、ドア開けんなよ」
 祐二の声のトーンが若干変わった気がした。
「当たり前じゃん、早く帰ってきてね」
 アパートは町はずれにあるので、最寄のコンビニでも車で10分はかかるはずだ。往復ならもちろん20分。
 玄関のドアが閉まる音がした。続いて鍵も。さあ、どうやって逃げよう。
 まず考えたのは電話だが、この家には固定電話はないし、携帯は折られてしまっていた。それならと次に考えたのは、大声を出すことだ。隣室の人たちに聞こえれば助けに来てくれるかもしれない。だが、帰宅しているだろうか。それに、いつものDVでも結構な声で騒いでいるが、助けられたことはない。何より、コンビニへ行くのは嘘で、逃げ出す気がないか確認しているのかもしれない。ドアの向こうで息を潜めている祐二を想像して身震いした。
 
 金属製の階段を下りていく足音がした。この部屋は2階にあるので、当然一階との間には階段があるのだ。だが、聞こえてきたのはそれだけだった。エンジンの音が聞こえれば出かけたと確信がもてるのだが、駐車場は少し離れたところにあるためか、聞こえなかった。やはり、足音を殺してドアの向こうに戻ってきているかもしれない。私を縛りもしないで出かけたことも怪しい。
 その時、大きな足音で階段を駆け上ってくるのが聞こえた。続いて、部屋にチャイムの音が響き、ドア越しに声が聞こえた。
「高橋です、開けてください! 会社に来ないから心配で来ちゃいました」
 高橋君! うれしくて仕方がなかった。これで助かる!

 無我夢中でドアに向かった。途中、テーブルにつまずき、なにか硬いものを踏み、頭を壁にしたたか打ったが、全く気にならなかった。ドアノブにすがりついて鍵を開ける。
「高橋君、ありがとう! すぐ救急車と警察を呼んで!」
 叫びながらドアを開け、抱きつこうとした。
 とたんに腹に重い衝撃が走り、玄関の床に吹っ飛ばされてしまった。すぐにドアのしまる音がして、ドア越しに抑揚のない声が聞こえてきた。
「あんまり、祐二先輩のこと悲しませちゃだめっすよ。」
 それだけ聞こえると、次に聞こえてきたのは、階段を下りていく足音だった。
 玄関の冷たい床の上でずっとうずくまっていた。目さえ健康なら、どれだけ涙が出たかわからない。確かに、少しおかしいとは思った。いくら心配してくれたとしても、1日会社を休んだだけで、家を調べて来てはくれないだろう。
 初めからグルだったのか……。真剣な表情で話を聞いてくれていた高橋君を思い出した。警察に付き合うと言ったのも、私に一人で行かれると誰も止められないからだろう。なるほど、確かにクズかもね。

 また手探りで部屋に戻り、元の位置と思われる場所に座った。放心状態だった。先ほどのことは祐二に伝わっただろうか……。恐ろしい。考えたくない。
 どれくらい時間がたっただろう。テレビの音は消えていないが、耳に入ってこなかった。
 階段を上がる音がする。また心臓が暴れだした。暗闇の世界では、その音は大きく響いている。
「ただいま! わり、ちっと遅くなっちまったよ。おにぎりとか適当に買ってきたからよ」
 明るい声を聞いた瞬間、いやな予感がした。
「うん、ありがとう」
 あの祐二が、何も聞いてこないなんて、なにかおかしい。
「とりあえず、これでも食えよ」
 近くでビニール袋を探る音がする。
「あ、スプーン取ってこねえと」
 店員が入れ忘れたのだろうか。それとも、私に食べさせるのに割り箸よりも便利だから?
 台所から戻ってきた祐二がまたあの言葉を口にした。
「はい、あーん」
 怖かった。でも、食べないわけにはいかない……。
 口に入れた瞬間、祐二に手で口を押さえられた。じゃりじゃりした。気持ち悪い! 吐き出したい! 両手で手を口からどけようとするが、片方の手を頭の後ろに、もう片方の手を口にあてて、がっちりホールドしていて無駄だった。
「ちゃんと食えよ、裏切り者! くそ女!」
 土……それだけじゃない。何か動いている! 舌がちくっとした。もちろん咀嚼(そしゃく)なんてできない。舌を喉のほうに引っこめて、飲み込んでしまわないようにしていた。祐二の手が緩んだ瞬間に、顔を振りながらすべて吐き出した。
「あーあ、もったいね。300円もしたんだぜ、このミルワーム」
 胃液まで吐いてしまった。しかも、1匹だけ舌に噛みついたままぶら下がっている。ミルワームといえば、ペットショップなどで鳥用の生き餌として売られているなんとか虫の幼虫――つまりいも虫だ。プラスチックのカップの中に土ごと売られているのを見たことがあった。
「てめえがあんな奴信用すっからわりいんだよ! しかも警察呼べだと? なめたこと言ってんじゃねえよ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 叫んだが、そのままめちゃくちゃに殴られ始めた。ひたすら丸まっていたが、やがて両腕の力が抜け、意識は遠のいていった。

◆ 3日目 朝

 また小鳥のさえずりが聞こえる。暗闇の中で目を覚ました。不思議な感覚だ。
 気を失っている間に、朝になってしまっていたらしい。しかも、体全体が痛い。顔を手で触ってみると、腫れあがっていてサッカーボールのようだった。鏡を見ることもできないのは不幸中の幸いかもしれない。
 ゆっくりと身体を起こしてみた。
「起きたか?」
 すぐ近くから聞こえる祐二の声に体が強張った。
「う、うん。おはよう、昨日はごめんね」
 タバコの匂いもする。また押しつけられるのだろうか。
「ああ、これでお前も高橋がどんな奴かわかっただろ?」
「うん」
 信じていたのに……。昨日のことが夢だったらいいのにな。
「もうツラのいいだけの奴に騙されんじゃねえぞ、あーゆうのは金渡したらなんでもやるんだからよ」
「うん」
 なぜ、祐二が目を潰したのかわかった気がした。自分のコンプレックスのためだろう。たとえどんなに格好良くても、こんなやつとずっと付き合えるわけないのに。
 
 お腹のなる音がした。昨日の朝から何も食べていないのだ。
「お、腹減ったのか、また食うか? あれ……」
 思いっきり首を横に振った。冗談じゃない。想像しただけで鳥肌が立った。
「どうすっかな……食べられそうなもんはあれしかねえし」
 お願いだから、ミルワームを食糧のリストから外してほしい。人をなんだと思っているんだ。
「よし、出前でも取るか。お前残していくと、また逃げようとするかもしんねえからな」
「え、ありがと……」
 逃げるかどうかの話は無視しておいた。昨日のことを思い出されても怖い。
「じゃ、ちょっと待ってろよ、ピザ頼んでやるから」
 そう言うと、玄関の閉まる音がして、外に出て行った。

 10分ぐらいたって祐二が戻ってきた。電話をしただけにしてはずいぶん遅い。だが、余計な詮索をして怒りを買うのもばかばかしいので、聞かないでおいた。
 出前が来るまでの間、考えていた。もうすぐ出前が来る。もしもドアを開けた時……祐二が玄関にいる時に助けを呼べば助かるかもしれない。失敗すれば恐ろしいが、もう一秒もこんなところにはいたくなかった。
 しばらくしてから、チャイムの音が鳴った。来た! 頼むから助けに来てよ……。
 また心臓のボリュームが上がる。
 玄関が開いた音がする。女の人のざらついた高い声で、お金を請求する声が聞こえた。こういう時は男の人のほうが頼もしいのだが、贅沢は言えない。それに、男ではまた祐二とグルの可能性もある。
 勇気を出して、思いっきり「助けてください!」と叫んだ。すぐに祐二が飛んできて、まためちゃくちゃに殴り始める。ここまでは覚悟していたことだ。あとはあの女の人がなんとかしてくれるはず。
 しかし、何も起こらなかった。祐二の荒い息遣いと、暴力が骨に響く音だけが聞こえる。祐二がようやく殴るのをやめた。すると、すぐ近くであの女の人の声がした。
「彼氏さん裏切っちゃだめですよ、罰としてピザは没収です」
 意味がわからない。こいつまでグル? しかし、部屋に人の気配は一人分しかない。その時、また女の声がした。ざらついた、若干機械的な声……。
「変声機だよ、ばーか!」
 なるほど、これも祐二の罠か……。土下座しながら、絶望感で胸がいっぱいになった。その後に受けた罰は、根性焼き20回。タバコの火を、ひたすら腕に押しつけられた。悲鳴をあげたが、もちろん誰も助けに来てはくれなかった。

 1時間ほどして、祐二の下品ないびきが聞こえてきた。落ち着いてから考えてみたが、注文の電話に時間がかかったのは、玄関のチャイムにタイマー式の細工をするためだろう。工場で働いているので、祐二は機械には詳しい。
 唯一の長所までこんなことに使いやがって、と恨めしく思った。
 機械は、昨日コンビニに行く時に違う店に寄って仕入れたものだろうか。わからない。こんなくだらないことを思いつくやつだから、普段から持っている可能性も十分あった。
 そこまで考えて、ある可能性に気がついた。昨日はどうだったのだろうか?
 昨日の高橋君も、もしかしたら祐二だったかもしれない。だが、全く知らない人になり済ますならともかく、知人の声までボイスチェンジャーで真似できるものだろうか。
 でも、ドア越しだったし……。それに、もしも昨日の高橋君が祐二なら、機械を初めから持っていなければ無理だろう。祐二が出かけてから、高橋君はすぐに来たのだから。
 だが、いつも聞いている声を真似するだけなら、そもそもボイスチェンジャーなんて必要なかったのかもしれない。
 体調不良で回らない頭が混乱してきた。
 答えは出ないが、もうどうでもいいことのような気がした。これからは逃げようなどとは思うまい。祐二の策略にはまるのは癪だが、逃げようとさえしなければ、しばらくは生きていける。そんなことを考えながら、その日の昼は過ぎていった。

◆ 3日目 夜

 いつの間にか私も眠ってしまっていた。相変わらず点けっぱなしのテレビからは、毎週夜7時から放送のバラエティ番組がやっているようだ。司会者の明るい声で、甘い夢から引き剥がされた。
 半日も寝てしまった。精神的な疲労と空腹でかなりまいっているな。このままでは本当に餓死してしまうかもしれない。今ミルワームを口の中に入れられたら、吐きだす自信はなかった。
 少し離れた場所から、祐二の声がした。
「お、起きたか、ちとコンビニまでタバコ買いに行ってくるわ」
「うん、わかった」
「逃げようとしたら、わかってるよな?」
「うん、もうほんとに逃げようとしたりしないよ」
「お、さすがに諦めたか。おれも仲良く暮らしたいから、頼むぜ」
「わかってるよ。わたしが馬鹿だった。できたら、食べる物もお願いね」
「おう、了解。おまえの好きな菓子パン買ってくるな。でももし逃げようとしたら、もうミルワームも食べさせてあげないからな。ははは!」
 しゃれにならないジョークを言って出かけて行った。

 本当にもう逃げたりするのはやめよう。なんだか、だんだん祐二がいい人のように思えてきてしまう。確かに、逃げようとしたり、嘘つかなければ優しくしてくれそうだしな。良く考えれば、祐二は私のことが好きだからこんなことをするのだ。方法はめちゃくちゃだが、こんなに私を愛してくれた人は、今までいなかった。
 そこまで考えて、慌てて首を振った。危ない。何考えているんだ、わたしは。
 そういえば、以前テレビで見たことがある。
 長時間監禁された被害者が、生存本能で犯人に協力的になったり、惚れてしまうことがあるとか。たしか、ストックホルム症候群とかいうんだっけ。
 でも、やっぱり死んじゃうくらいならあんな男でもいいかな……。
 かなり意識が危なくなっていた。体調はもちろん最悪。今なら、どこの病院でもVIP待遇で迎えてくれるだろう。交換されてない包帯は血でパリパリに乾いてしまっている。お風呂にも入りたい。帰ってきたらお願いしてみよう。
 あれほど嫌悪していた祐二の帰りが、今は待ち遠しかった。

 ほどなくして、足音が聞こえて、玄関のチャイムが聞こえた。
 誰だろうか? また祐二が何か企んでいるのかもしれない。
 無視していたが、しつこく鳴っているのでドアの方へ手探りで行って見た。
「すいません、高橋です。由香さん、いるんですよね? 心配だったので、会社が終わってからアパートの前でずっと張っていたんです。さっき、祐二さんが一人で出て行くのが見えたんで……」
 本物――ドア越しでも、口調が祐二のそれとははっきり違う。昨日のが祐二だったのかどうかはわからないが、どう対応するかは決めていた。
「高橋君、来てくれてありがとう。ちょっと風邪ひいただけだから、心配しないでいいわよ」
 もしも昨日のが祐二の声真似で、今目の前にいるのが本当の高橋君だとしても、グルだという可能性は捨てきれなかった。それに、本物が2回続けて騙しに来る可能性もある。昨日のは本当の高橋君じゃなかった、と思わせて、もう一度同じ手で騙すために変声機なんて使ったのかもしれないのだ。
「……あ、祐二さん宛てに会社から書類預かってるんで、少し開けてもらえませんか?」
 怖い。だが、顔を見られなければ問題はないだろう。ドアに手をかけて、鍵を開けた。ポストの存在を思い出したのはその時だが、もう遅かった。
 すごい力でドアを開けられ、ドアノブを掴んでいた私は、そのまま外に飛び出してしまった。
 何かにぶつかって、そのまま後ろに尻もちをついた。
「由香さん、その顔……!」
 多分、真っ赤な包帯を巻かれて、腫れあがった顔を見られたはずだ。
 そのまま腕を強引に引っ張られて、すぐそこの階段まで引きずられた。階段の上でなんとか踏ん張って止まり、そして叫んだ。
「やめて! やめて! こんなところ祐二に見られたら……」
「何言ってるんですか! 祐二さんなら出かけましたから、逃げましょう!」
「いいの、やだ!」
 階段の下に祐二がいるような気がして恐ろしい。
 その時、下で小さく何かの音がした。
 恐怖に駆られて、そのまま両腕を突き出していた。
 手に柔らかくて重いものが触れ、すぐにその抵抗は無くなった。
 一瞬の空白があり、下の方で何かが割れる音がした。階下のコンクリートに頭から落ちたのだろうか。
 私は階段の上で、怖くなりただ震えていた。遠くでかすかにエンジンの音がする。
 しばらくして、祐二の声が聞こえた。
「な、な、なんだこれ! なんでこいつがここに!?」
 私は、軽く笑いながらこう言った。
「おかえり、祐二……」
作者コメント
 こんにちは、tanisiといいます。
 少し前に書いたのですが、投稿していなかったものを投稿させていただきます。
 ラノベから離れてしまっているような気もしますが、感想いただけるとうれしいです。


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

楓さんの意見
 どうも、楓です。
 良かった、昼飯食べなくて……。

 久しぶりに小説読んでゾクッとしました。
 恋は盲目、なんて言いますが、文字通り盲目に……。
 ミルワーム喰わされたりとかなんて、想像しただけでうぁー。

 こういう小説は、これくらい救いがないほうが徹底してていいですねえ。

 気になるところは一カ所だけ。
>だが、いつも聞いている声を真似するだけなら、そもそもボイスチェンジャーなんて必要なかったのかもしれない。

 しゃべり方ならわかるけど、声は無理なんじゃないかな、ってだけです。

 では、いい小説が読めて良かったです。


モモンタさんの意見
 こんにちは。掌編の間でお世話になってますモモンタです。

 びっくりしました。面白いより驚きです。
 仮に読み終わった後に料金請求されたら、払います。

 声のくだりの点など改善点はあるかもしれませんが良作です。

 たしかにラノベではないですね。
 私もシリアス風味を取り込みたいのですがうまくいく気配がありません。
 いい作品ありがとうございました。


中行くんさんの意見
 こんにちは。
 拝読したので感想を書きます。
 
 CS放送で『完全なる飼育』というものを見たことがあるのですが、それを少し思い出しました。まあそれはいいとして今作は、気分のいい作品ではなかったです。ただ物凄く不快になったという点ではすごいと思いましたが。
 
【展開】
起…両目を切り裂かれる。
承…数々の暴力、トラップ。
転…高橋くんを突き落とす。
結…裕二がやっぱり好きなのかも。

 掴みはバッチリでした。承の部分の気持ち悪さが良かったです。ただ個人的な好みを言わせていただけば、承の部分にも裕二がやっぱり好きみたいなのをもっと出して欲しかったです。いえ、オチがこうなのだからあまり出せないのはわかりますので、本当に好みの問題です。監禁されるような不遇な女性は気持ちの浮き沈みが激しいものだと僕は勝手に思っているので、少し由香は冷静すぎるような気もします。

【登場人物】
○ 由香
 目を切られる。冷静。本音と建前を使い分ける女。
○ 裕二
 コンプレックスの塊。ミルワームを食べさせるなど異常な行動が目立つ。もう少し個人的には行動に理由付けが欲しかったです。異常者でもいいんですが、異常者足る理由というか、なんというか。。
○ 高橋
 イケメン
 
【総評】
 僕としては由香が冷静すぎて、また序盤に裕二への愛をを強調しきれなかったためにあまり感情移入できず、単に気持ち悪い話でした。いえ、感情を揺さぶったという点ではすごいと思うのですが。
 
 そんな感じです。うーん、僕の感想は酷評っぽくなってますが、すごかったのは確かです。


natsukiさんの意見
 natsukiです、うーん、ワーム。アルコールが戻ってきそうw
 というのは、置いておいて素直に面白かったです。
 話としては、王道という感じはしますが、狂気と対照的に落ちていく様子が淡々と書かれているので、話にのめり込むことができました。

 何点か気になる点を!
>>一瞬の空白があり、下の方で何かが割れる音がした。
 頭が割れた音を表現したのでしょうか(その後の文で推察しました。違ってたらごめんなさい)
 仮に頭から落ちたとして、割れる音はしないと思います。

>> そこまで考えて、慌てて首を振った。危ない。何考えているんだ、わたしは。
 そういえば、以前テレビで見たことがある。
 長時間監禁された被害者が、生存本能で犯人に協力的になったり、惚れてしまうことがあるとか。たしか、ストックホルム症候群とかいうんだっけ。
 でも、やっぱり死んじゃうくらいならあんな男でもいいかな……。

 のすぐ後に、由香は祐二に対する深い愛情と恐怖を抱いて高橋を殺してしまいますが、ちょっと展開が急すぎる気がします。(落ちるのが早い?)
 ここでは、由香が一度、「なにを考えているんだ、わたしは」と言っているので、このタイミングでは、まだ、自分を客観的に見ることができるだけの精神力はあるように読み取れます。
 なので、ここからある程度時間をおいて、落ちきった由香を描写した後に、最後のシーンに持ってきたほうが効果的だと思いました。

 あとは、声関連を多々使ってますが、視覚が奪われている人間は、聴覚に頼らざるをえなくなると思いますので、おそらく常人よりは、注意深く音を聞くと思います。
 その状態で、声を聞き間違えるのならばまだしも、変声機はちょっと間違えるかなぁというのは、少し疑問でした。
 

空不開さんの意見
 なるほど確かにラノベっぽくありませんねw

 盲目状態から疑心暗鬼に陥った主人公の心情が、見事に描かれていたと思います。
 起承転結でいうと「転結」が急展開すぎるような気もしますが、ラストの静かな一言には狂気じみた凄味を感じました。

 あと、タイトルがシンプルすぎると思いました。
 個人的な好みですが、「盲目の愛」とかにすれば、少し皮肉が利いて良いのではないでしょうか。

 ともあれ、怖さを充分に堪能できる良作でした。

 そんな感じです。では。


シラカベヒロ氏さんの意見
 シラカベヒロ氏と申します。拝読させて頂きました。

 他の方のコメントでもありますが、ミルワームのくだりはとても刺激的かつ新鮮で、感覚に訴えてくるような描写は見習わせて頂きたいと思いました。

 その後の変声機のくだりですが、直前のミルワームのエピソードが刺激的過ぎるため、裕二の残忍性と由香の絶望感を出すには少し物足りなく感じてしまいました。もうあとひとつ、何か痛覚なり嫌悪感なりに訴えかけるものが追加されればと思いました。

 ラストでの由香の変化ですが、やはり少し唐突である感が否めませんでした。精神的に強く追い詰められてきている描写をもう幾つか挟んで結んでいくのが良いのかと思いました。
 また、ストックホルム症候群についての説明と単語の紹介を由香がしてしまうと、その後の結末までの流れが少しご都合主義的に見えてしまうかと思われるので、ストックホルム症候群という単語・事例は直接的な表現でなく何かワンクッションあるあらわし方で自然に述べられていくとより良いのではないかと思いました。

 以上、感じたこと、考えたことを指摘させて頂きました。もしも高圧的な印象を受けられたら申し訳ございません。
 全体的にとても面白く読ませて頂きました。次回作もぜひ、拝読させて頂きたく思います。楽しみにしております。


Ganmaさんの意見
 こんにちは、Ganmaです。

 日日ごとに書かれている上、内容が監禁や失明するシーンがあり、他の小説にはない刺激があって大変楽しめました。

 ストックホルム症候群についてはあまり詳しくないのですが、最低でも一週間監禁され生活し、相手(監禁してる人)の辛い過去や自分(監禁されている人)との共通点を聞くことによってこの症候群が現れるとは思います……が、まぁ、結構歴史が浅く、発見されたばかりのものなので深くは言いませんが。

 全体的に私は良かったと思います。
 ただ、もうちょっとストックホルムに気づく心境を書けばもっと良くなると思います。

 それでは失礼しました。


エフェドリンさんの意見
 こんにちはエフェドリンです。
 盲目な恋など経験していませんが感想の方に。

・面白かった。この感想が読後真っ先に思い浮かびましたが、微妙に余韻が残らなかったということも同時に感じてしまいました。
 最初から後半までは面白かったです。恐怖の描写、気持ち悪い描写、歪んでいく描写、救われない展開など、本当の意味?で18禁にしてもいいのではというくらいのお話だったというね。逆にもっと攻めた描写や展開にしても良かったのではないかと。エロやグロに引っかからない描写で。

・ただ最後の最後、ストックホルム云々辺りから、妙な駆け足感を読んでいて感じました。そして終わりの唐突さは、今まで感じていた気持ち悪さやら恐怖などをの感情を一気に持っていってしまうくらいだったかなと。なので余韻が残らず、「あ、終わっちゃったの」という妙な置いてけぼり感が。それはそれで、すぱっと作品を終わらせているということで良いことなのかもしれませんが、このような作品なら終わった後も恐怖なりを感じていたかったものでorz
 他の方々も仰っていますが、やはり一つ二つクッションを置いてから終わらせた方が良かったのかなと。もっと彼女をゆっくり落としてもいいと思う、という他の方の意見には自分も賛成でしたので。
 ストックホルム云々については、つけっぱなしのテレビのニュース特集でやってたとかにすれば、自然かつ繋がりもよくなったかと思います。立てこもり事件があったとかいう情報を事前に提示していれば、そういう特集を放送していても問題ないでしょうし。ついでに主人公の状況とシンクロして、恐怖感をさらに煽れたりしたのではと。
 高橋君の来訪も、事前に暗喩なりで暗示していれば唐突さを感じさせないのかなと。夢を見たとかでも、突然宅急便が来て他にも誰かくる可能性を暗示させるとか。うーん、良い案が思い浮かばないorz

・あとこれも既に出ている意見ですが、変声機云々はちょっと浮いているかなと。それなら祐二と付き合いのある悪友などを持ち出した方が……とも思いましたが、そうすると彼のキャラ付けが変わっちゃうしorz うーん、代案が思い浮かばないのに指摘してしまったorz

【点数とか】
・まずは面白かったです。これだけは真っ先に感じました。色々と疑問点なり湧いてきましたが、これらはマイナス点というより、プラス点になれなかった箇所だったかと思っています。その辺が書けていれば更に良くなったのに、みたいな。
 そんな感じで、今回はこの点数をつけさせて頂きました。

 下手な意見ですが、今後の参考になれば幸いです。


猫サンドさんの意見
 こんにちは。
 読ませていただいたので、感想を置いていきます。

 人目を惹く過激な描写、いいですね。
 人によっては一度は挑戦してみたくなるものでしょう。
 けれど、その暴力性といった所以故に、自ずとハードルは上がってしまうものだと、私は思います(倫理観とか小難しいことは考えませんが)。

 この作品を読んで、最初に感じたことは、作者様が何を伝えたかったのだろう、という無定形な疑問です。

 タイトルからある、恋や愛情といったものは、あまり感じられませんでした。祐二の一方的な押し付けの、愛?とも呼べるかもしれませんが、少なくとも主人公は監視の下にあって、抑えつけられているだけです。最後まで本気で助けを求めているように思えました。

 極限下で祐二に依存していく過程、は淡々とした描写で上手くまとまっていると思います。ただ、最後で主人公が諦めてしまったのか、狂気に片足を突っ込みつつも、僅かな希望は捨てていないのか、他の方が仰るように、ワンクッションが欲しかもしれません。

 例えば、高橋君を突き落としてしまったことで、初めて客観的に冷静になり、愕然として、絶望する。だからもう祐二に依存するしかない、とか。

 刺激的な内容に対して、それを上回るテーマ性、伝えたいことが見えてこないと、ただ極端な描写を描いてみたかったのかなあ、という邪推に繋がってしまいます。そういう意味で諸刃の剣だと思われます。

 極めて個人的な意見ですいません。
 次も頑張ってください。
 では。


Ririn★さんの意見
 こんにちは!
 読ませていただきましたので感想を入れさせていただきます。

 状況を限定して描写する項目を省く手法というのは時々ラ研でも見かけるわけでありますが、この作品もそういった状況を限定した利点をうまく使用していると思います。
 掌編の間にある「れ」さんのカビキラーも暗闇の中で起きたことをうまく表現していたと思いました。
 この作品もそれとは違った方法で状況を作り出して、短編ならではの尺に応じたストーリー性を持っていたと思います。
 私自身はこういった類の話は苦手でありますが、最初のえぐい場面を我慢すれば、ミミズを食べるぐらいの描写ならば我慢できるレベルだと感じました。こういう風に最初に高いハードルを設けて読者を篩いにかける方法というのは効果的に使えば作者も読者も非常に納得できる効果が得られるのだと勉強させていただきました。

 キャラクターに関しては特にこれと言った特徴があるわけではありませんが、どこにでもいそうな人を登場人物に使うことで妙なリアリティがかもし出されており、現実にはおきそうにない事件にも関わらず、ドキドキするような高揚感を味わうことができました。
 ストーリーに関しては、「逃げ出す」一点に焦点が絞られており、どうやって逃げ出すのかというところに読者の興味をひきつけたのは正解だったと思います。

 オチはヤンデレ派の作者様らしいもので、ヤンデレ派の方ならば納得の出来なのではないかと思うのですが、残念ながら私はヤンデレの何たるものかを理解していないので、もやもやっとしたものが胸のうちに残りました。

 短いですが感想は以上になります。
 次回も独特の雰囲気の作品をお待ちしております!

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