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スカーレット・クロス
「信仰の敵、生命の略奪者よ。神の御名において“聖なる下僕”となることを誓うか?」 瀕死の状態で倒れていた、吸血鬼との“混ざりもの”の少女ツキシロ。 不良神父ギブは彼女を助けるかわりに、強引に自分の下僕とする契約を結ぶ。 主従生活を始める二人だが、意地悪なギブにツキシロはふりまわされっぱなし。 さらに、彼女を襲う謎の吸血鬼の影が―!? 闇と宿命のヴァンパイア・エロティカ! 第1回ビーンズ小説賞優秀賞受賞作。
先日刊行された最終巻を読んで「恋愛っていいよね」としみじみ感じたので、 恋愛・ラブコメに推薦させて頂きます! 魔物を退治する能力を持つ神父ギブは、 瀕死の状態で倒れていたヴァンパイアの少女ツキシロを発見し主従契約を結ぶが・・・。 登場人物の会話がおもしろい。すごく生き生きしていてキャラクターの体温を感じます。 セリフや行動の裏づけとなる思考をしっかり書いてあるためか、 短いページ数でも如実に性格が現れていて、素敵です。 特に主役二人が楽しすぎ。 普段は天然ツキシロと毒舌ギブでほほえましいボケ・ツッコミなのに些細な描写が色っぽい。 特に何かリアクションをしている訳でもないのに、 お互い恋情を持っている同士だからか、 ツキシロの黒髪とギブの指だけでも、なにかしらフェロモンが漂っています。 いい雰囲気のシーンも、ギブ視点が多いので、男性にもお薦め。 また、甘いだけでなくヒロインがかなり酷い攻撃を受けたり、 手ぬるくならないのでその点も好きです。
いつも空回りが多いけど、素直で一生懸命でいいこです。 (以下多少ネタバレ含みますが) 敵から●●を粉砕されたり、××を貫通する程のダメージを受けたり、うわゎそれは痛い・・・ という目に遭わされても心が折れない内面の強さも。 日常生活でも、落ち込んでいるのに女友達から水をぶっかけられたりと、 チヤホヤされずに雑な扱いを受けているのが不憫で(笑)つい応援したくなります。
全ての謎が明確になるまでの数巻が冗長に感じたこと。(7・8巻あたり) ・1・2巻のツキシロが幼くて、二人の関係が子供と保護者でしかないところ。
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好き好き大好き超愛してる。
僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。 温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、 それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。 最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。 (本文より) ゼロ年代デビュー、“ゼロの波の新人”の第一走者が放つ、「恋愛」と「小説」をめぐる恋愛小説。
「世界の中心で愛を叫ぶ」に反逆のルルー○ュした作品です。 ではどこが既存のヒロインが死ぬ系恋愛小説と違うのか。 それはこの小説が『自分の大好きな人が死ぬこと』を『物語』として描くわけではなく、 ただ単純にそれを『考える』ことについて書かれた小説だという事です。 ものすごく厳密にいうと 『自分が大好きな人が死んだことをそのまま小説なんかにできるわけねぇだろうこの馬鹿が』 と舞城王太郎はいいたいわけです。 以下ネタバレ(しかしこの小説にネタバレもクソもないと思いますが) 基本的には柿緒T、U、Vの主人公である小説家が主人公で、彼の話が小説の主軸になります。 その他全く関係のない短編が間に三本入っており、 これは『柿緒』編の主人公が恋人である柿緒の死に影響を受けて書いた小説です。 それらの小説はSFだったりファンタジーだったりして一見つながりはなさそうに見えますが、 実のところ全て同じテーマの物語を語り口と設定を変えて書いているだけです。 つまり、一貫して『自分が好きな人が死ぬ』ということが書かれています。 さて、ここで注目したいのが、物語の主軸である柿緒編と他の三本の短編小説の違いについてです。 他の三本の小説は全てシーンを描いています。つまり小説として書かれているのです。 しかし、柿緒編だけは違います。 柿緒編はほとんどシーンを書いておらず、言うなれば主人公の独白日記に近いです。 つまり小説ではない。 これが物語の根幹、作者が読者に伝えたかったことを見事にあらわしています。 <僕が見たことは僕が書かないものなのだ。柿緒の死はそれが実際に起こったようには書かない> これは物語後半からの引用です。 つまり、主人公は柿緒のことをそのまま小説に書くことはできないのです。 なぜならば、主人公は恋人のことを今でも愛しているからです。 好きで好きで好きで、死んでしまった今もまだ好きだから、小説にできるはずがないのです。 それでも柿緒のことを小説に書いていたい気持ちはある。 だから、彼はそれをSFやファンタジーに置き換えて小説にします。 ここに現代で言われる純愛小説のアンチテーゼがあります。 誰かが死んだ――ということを、そのままシーンに焼きなおして小説にできるという事は、 即ちもうその人のことを愛していないのと同義だということです。 作者が体験した事であろうがなかろうが、 小説の『主人公』が死んでしまった大好きな人を思い返しているという構成自体が、 主人公の記憶の中からその大好きな人が消えてしまっているという証明になっている。 つまり物語自体が嘘っぱちであることを証明してしまっているわけです。 かなり大雑把な作品概要ですが、大まかにいうとこんな感じ。 他にも色々ありますが、書くとキリないので。 人がよく死ぬケータイ小説に涙を流す世代こそ読むべき作品ではないかなと思います。 大好きな人が死ぬというシーンに涙を流すのではなく、 大好きな人が死ぬという事自体をもっとよく考えなければならない。そういう事だと思います。 ![]() キャラクターを書いた小説ではありませんが、強いて言えば柿緒でしょうか。 「私ね、治のことがもうホント、超超好きなの。愛してんの。 だからね、私のことばっかり治が知ってんのがやなの。悔しいの」 決して上手くない言葉ですが、安っぽい綺麗な愛のささやきよりも リアリティに満ち溢れていて胸を打ちます。 ![]() 読者を相当選ぶだろうこと。 文体にしても何にしても色々と特殊すぎます。 強いていうならば戸梶圭太さんと似たようなタイプですが、おそらくその十倍ぐらいカオス。 読んで文章の練習になる作品ではありません。
このテの作家としては異例の芥川賞候補に上ったものの、 選考委員長である石原慎太郎氏に『表紙を見ただけで吐き気がした』と言われ落選した、 かわいそうな本である(笑)。 なんとも人を食ったタイトルだが、舞城が書く中で唯一まともなのはタイトルだけだ。 とある小説家の主人公が、不治の病に冒された恋人の柿緒と最期の時を過ごしつつ 小説を書き綴っていくというオムニバス形式(?)で語られる本作であるが、 詳しい話の要約などとてもじゃないが出来たものではない。 柿緒と主人公、その周りの人間との葛藤や衝突、何気ない日常を語ってゆく間に、 突然話の筋とは全く関係のない物語が挿入される。 AZUMAと呼ばれる虫の話、神様と戦うアダムとイブの話、夢の中に現れる正体不明の人物の話など、 全くわけのわからない物語が突如開始され、あれこれと話が続いた後、 やっとクライマックスのようなものを迎える。 そして突然、妄想から立ち返るように柿緒と主人公の現実世界に戻り、 何事もなかったかのように話が続けられる。 これほど『本』というものの面白さに触れた本はないのではないか。 めちゃくちゃな擬音表現(たとえば呼び鈴を押すときの音は『ニヒョルムニ』、 墨を擦るときの音は『しゅりんこきしゅりんこき』)や、やたら読点の少ない口語表現。 ページもなんだかガリ版刷りのようにきったないし(出版社側のミスではない)、 『?』や『!』の後に一文字分のスペースも空けていない。 しかしそれら全ては狙ってやっていると断言できる。 小説という媒体、物語というものを破壊しつつ、それと平行して『愛とは祈りである』 という結論を独自の方法で追ってゆく。 破天荒であるが、それ以上に情熱的で真摯な思い。 それこそ、奇才・舞城王太郎の真骨頂だ。 ![]() ニオモのアダム。 説明不可。 ![]() 受け入れられない人にはなにがあっても受け入れられない作品だろう。 なにも石原氏に限った話ではなく、 あくまでもトリックだとかストーリー筋で小説を見る方にとっては、 この本を読了するまでの時間は苦痛以外の何物でもないと思う。
舞城王太郎らしさが伺えるし、帯とタイトルもすごい。 好き好き大好き超愛してる。(タイトル) 愛は祈りだ。僕は祈る。 (帯のあおり文句) 中に入ってみると、また同じ調子。ああ、こんな構造に……と感心させられた。 普通、タイトルはタイトルで本文は本文、というのが常識だと思うのだが…… ここから違うのが舞城王太郎! なんと、『タイトル→帯のあおり文句……』と文章が始まるのだ! えぇ!! 普通に小説ってのは、タイトルは別に考えるものだと思っていた私は、ビックリした。 こういうのもありなのか……。常識を崩された。 『それに、好き好き大好き超愛してる。』においては、 普通の文章形式を見にくいという理由から変えてあるようです。 舞城王太郎の形式は他の小説でも少し特異なので、ここで説明しておきます。 『『!』『?』の後に空白を空けない』のが舞城の基本形式です。 で、話を元に戻しまして――、そのいつもの舞城形式に加えまして、 見やすさという観点から『三文字空白』をしています。 段落を始めるときに普通一文字(カギ括弧は〇文字)空けますが、 これでは、三文字(カギ括弧は、二文字)空けるという方式をとっています。 さらに、一ページは十八行ぐらい普通の小説にはありますが、 この小説は、一段落が以上に長く見づらさを解消するために、 一ページ十二行で出来ており、それでもうわぁぁっ読みづらいと一瞬感じてしまいます。 さらに、本の作り方や形式についてここから語ります。 単行本においては、ショッキングピンクのカバーがかけられております。 文字は銀色キラキラと『好き好き(中略)る。』の文字が光っております。 中を開けると、ゼロページ目(正式名忘れたんですみません)って言うのかなぁ、 そこにイラストがビッシリ。たぶんこっちも、紙が二種類使われています。 あ、そうそう、言い忘れました。この本には二種類の小説が入っています。 もうひとつの作品については、私は未読に近い状態なので語りたくないんで、 他の人が語るかもしくは買って自分でみてくださいな。 で、新書版のほうですが……こちらもすごいです。 表紙には何か……イラストでキラキラ加工してないのに光っているような感じがありますね……。 あと、これは講談社ノベルス何ですが……中の本体の何か――カバーを外して出てくる本体ですよ! あれが、よく見てみると、他の本と違うのです。 キラキラキラキラ……。ビニールって言うのかなんていうのか…… とりあえず、防水コーティイングがあるんです。 それから、こちらも紙が二種類使われており、 最後の方のページの本の刷り数とか書いたあのページには、 使われた紙の名前(オペラホワイトとクリームだったかな?)や 使用フォント(明朝のプロ用だったような)が書かれていましたね。 そういうの書いてあるのは、講談社ノベルスの大田さんのしゅみなんじゃあ、と一瞬思いましたが、 これを読んでいる人は戯言(たわごと)だと思って読み飛ばしてほしいところです。 〈以下、ネタバレあるかも……もしかしたら〉 この作品は、『世界の中心で愛を叫ぶ』のアンチテーゼらしいです。 何かそんな気がします。何も助けようとしないし、見守ってるだけだけど、それでも愛してる。 好き好き大好き超愛してる。ラブ、ラブ、ラブユウ、アイラブユウ。 こんなでも、実は本当に愛してる。そんな行動で示さないが、アツい愛をじっくりと述べていると思います。 目の前で、恋人が死んでいく中、黙って見守る。 手を握って、ずっと悲鳴をあげ続ける中、僕はずっと病室にいた。 すき…………。 その気持ちだけ。 亡くなっても、届く手紙。 亡くなっても、残っている。 無くなっても、心の中で在る。 そんな、物語。 人は愛の中で生きる。 愛しすぎるぐらいに愛する。 それでちょうどいいのかも……、と思う心。 それが、僕の生きていく道だと 知ったんじゃないのかな? 絶対、心が動かされます。 小説だからとたかをくくらないでください。 涙を流す感動ではありません。 失った喪失感に感動します。 恋愛の終わりの感じです。 失恋した人が読むと、今の気持ちそのまんま感じるかもね。 恋愛小説としては、最高なのかも。 暗い中に……明かりは在る……まるで、世界のように。 ![]() キャラクターについて言えば、やっぱり主人公ですかね。 主人公の悲しみは僕たちに何を語るんでしょうか…… 紹介文らしからぬ、疑問で閉めてみます。 ![]() 濃度の高さにより、好みが分かれてしまう。 石原慎太郎は「タイトルを見ただけでうんざりした」と言うが、 池澤夏樹・山田詠美らは強く推したようで、 純文学とライトノベル(あるいは、エンターテイメイト小説)をまたぐ特異的な物語のところではないかと思う。 しかし、ゼロ時代文学……現在、闘うイラストーリー・ノベルマガジン『ファウスト』から発信される 近世代的な文学がここにある。 これから、展開されるであろう、ライトノベルと普通文学の融和について考える機会は、 ここにあるのではなかろうか。
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