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目次 関連情報・第4研究室 『テーマについての悩み』 |
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テーマとは何か?
テーマとは、主人公の貫徹行動が、暗黙の中に訴える倫理的、社会的な意味です。 「ストーリーの作り方のヒント」でも紹介しましたが、 主人公は自分の目的達成のために、それを妨害する「敵」の勢力と戦います。 この「敵」は主人公から見れば「悪」ということになります。 この「悪」の行動原理に対する「善」の概念、 テーマとは主人公が何のために、何を愛して戦うのか、その愛の形を意味します。 主人公の愛の対象は、作品によって千差万別です。 なにも世界平和や男女愛だけがテーマとして選ばれる訳ではありません。 例えば、榊一郎さんの著書「スクラップドプリンセス」は「兄妹愛」をテーマとしています。 主人公のシャノンは、「世界を滅ぼす」と予言された義妹のパシフィカを守るために戦います。 彼の行動は、一般大衆の目から見れば、完全な悪であり、非難の対象です。 シャノン自身も、本当にパシフィカを守ることが正しいのか、幾度となく悩みます。 しかし、やがて葛藤の末に、 「世界を敵に回してでもパシフィカを守る」という覚悟を固め、戦うことになります。 この決意の純粋さや強固さが、読者の感動を呼ぶのです。 世界を滅ぼす猛毒を抹殺するという敵側の行動原理 ↓↑対立 葛藤 世界を敵に回しても妹を守るという愛(敵の行動原理に対するアンチテーゼ) また、ライトノベルに限らず、世の中には 『復讐』や、『手段を選ばない闘争』などを描いた作品も多くあります。 しかし、これらは「悪を許容しよう」、「復讐も悪行も結構じゃないか」という視点では描かれていません。 例1 「主人公は盗賊だけど、味方に対しては優しい面も見せるし、 敵に情けもかけるから、根っからの悪じゃない」 例2 「恋人の仇をとるために非情に徹して敵を陥れる主人公。 だけれど、裏を返せば、それだけ恋人を愛していたということだ」 例3 「金のために殺し屋稼業を続ける主人公。 金に汚い性格に見えるが、実はそれは不治の難病に侵された妹の治療費を稼ぐためだった」 このように、主人公の負の要素が前面に出された作品であっても、 根底には正の要素(愛情)を持たせることで、読者に感動や共感、 それに、ある種の安心感を抱かせることができるのです。 確実に言えることは、「根っからの悪を称揚しても、読者の支持は得られない」ということです。 また、よくテーマを勘違いしてしまう人の中に 「私は、この作品を通じて平和の大切さを訴えたいんだ」と言う人がいます。 そういう人は、登場人物に「平和が大切だ」などと、訴えたいテーマを口に出させてしまいがちです。 しかし、これは極力避けねばなりません。 小説の目的は、思想や信条のプロパガンダではなく、道徳のお説教でもないからです。 「私が正しいことを教えてやる」的な道徳の押し付けは、嫌がられるし、反感も買うので危険です。 ライトノベルは、あくまでエンターテイメント。 読者を楽しませるのが目的であり、教育的メッセージは二の次です。 これを逆転させてしまっては、本末転倒と言うより他ありません。 テーマは作品の中に内在しつつも、決して面に表れないものなのです。 主人公の行動を、ストーリーによって示すことによって、 お説教や演説を超えた強いメッセージを伝える。これがテーマの本質です。 ▲ページの先頭へ |
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テーマは一つに絞る
『スクラップド・プリンセス』のシャノンは全十三巻通して、 妹を守るという動機のみに従って、迫り来る様々な敵と戦います。 他の女性を好きになって、その人の幸せのために剣を振ったり、 復讐のために敵を殺したり、友情のために自分を犠牲にしたりすることはありません。 もし、そんなことをしたら、シャノンの妹への愛は嘘だったことになり、 この作品のテーマは崩壊します。 つまり、 テーマとは、何を書いて何を書かないか決める基準でもある訳です。 一つのテーマを決めたら、徹頭徹尾、それに沿ったストーリーを展開させましょう。 兄妹愛がテーマだったら、友情は大切にしても、妹を守るより優先順位を高くしてはいけなんですね。 また、友情を大切にする話ばかり書いてしまい、 妹を守るエピーソドが小さくなってしまっても、テーマがあやふやになります。 例えば、一口においしい食べ物といっても、辛口カレーとシュークリームはぜんぜん味が違いますよね。 シュークリームを食べたい人は、甘さを求めている訳です。 最初の一口は、甘い味だったのに、突然、ぴりっと辛い、カレーみたいな味に変わってきたら、 なんじゃ、こりゃ? ということになります。 これでは、安心して食事を楽しめません。 同様に、最初はピュアな学園ラブコメで話が進んでいたのに、後半はいきなり展開が変わって、 父親の仇を求める暗い話になったら、訳がわかりません。 復讐をテーマにすると決めたら、最初から最後まで復讐に沿ったスートリー展開を、 恋愛をテーマにすると決めたら最初から最後まで、 恋愛を盛り上げるためのストーリー展開を行うのです。 もし、復讐が目的なら、恋愛は、あくまで脇役、隠し味程度にしておかなければならないのです。 恋愛が目的なら、逆に、復讐が脇役、隠し味になります。 ▲ページの先頭へ |
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テーマを深めるには?
突き詰めれば、テーマとは読者が 「ああ、この物語はおもしろかった。 きっと、この物語は主人公のように勇気を持って悪と戦うことを教えているのだな」 と、 ストーリーの意味に自分なりの解釈を与えたものです。 このため、この作品のテーマは何だと思いますか? と質問すれば、人によって異なる意見が返ってきます。 当然、作者が物語を通して伝えたかったことと齟齬が生じることも稀ではありません。 しかし、これが悪いことかと言えば、逆です。 人によって、いくつもの解釈がされるということは、その物語が多面的な意味を内包し、 人の心にさまざま影響を与えた証拠です。 いろんな解釈ができるからこそ、その物語は深く人の心に浸透し、 書評であーだこーだ、と議論されて売り上げも伸びるわけです。 近年だとアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が良い例だと思います。 何が正しいのか? という答えの出ない問いかけを味わうのが、文学の一つの醍醐味なんですね。 このために必要なのが、 悪役の行動にも道理があり、それに対立する主人公側にも善の理念がある、という対立と葛藤です。 これが答えの出ない状態、すなわち味わい深いテーマ性を生みだす源泉となります。 最終的に主人公が勝つのだとしても、 悪役の考えにも理があるのだということをキャラクターに体現させることで、 どちらが正しのか、解釈の余地を生むことができるのです。 特に、それまで主人公が信じてきた倫理や価値観をひっくり返すようなできごとがあると、 敵との間だけではなく、主人公の内面でも葛藤が生じ、 作品のテーマ性はより深くなります。 ただし、主人公が最初の目的とは反対の目的に向かわないように注意してください。 ふらふらするような優柔不断な主人公だと、何をしたいのかわからなくなります。 例えば、1972年に作られた永井豪の漫画『デビルマン』は人間の闇と愛憎を深く描いた傑作です。 デビルマンは後のエンターテイメントの世界に大きな影響を与えました。 『ベルセルク』『エヴァンゲリオン』もこの影響を受けています。 この『デビルマン』のストーリーを研究の俎上にのせてみたいと思います。 主人公の不動明は、世界を支配しようとする悪魔と戦うために、 悪魔族の勇者アモンと合体して、その身体を逆に乗っ取ったデビルマンとなりました。 そして、親友の飛鳥了と共に、現代に復活した悪魔たちと、人知れず戦ってきました。 しかし、悪魔王ゼノンによる人類に対する宣戦布告が行われ、悪魔の存在が公になると事態は急変。 悪魔が人間に化けているという流言飛語が飛び交い、悪魔狩り組織が結成されます。 悪魔狩りによって、悪魔の疑いをかけられた人々は、捕えられ拷問の末に殺されるようになります。 ここで、「人間=善、守るべきモノ」という不動明の価値観は、大きく揺さぶられます。 悪魔の身体を手に入れた彼は、今まで守ってきた人間たちから攻撃されるようになるのです。 しかも、この事態を仕組んだのは、親友であったはずの飛鳥了でした。 実は彼は、悪魔王ゼノンの上に位置する大魔王サタンであり、 人間に化けて、自らの記憶を消して人間社会に入り込み、 無意識のうちに、どうすれば人間を滅ぼせるのか研究し、悪魔たちに指令を出していたのです。 不動明をデビルマンにしたのも悪魔に対抗するためではなく、 親友である彼を悪魔の世界で生き延びさせるためでした。 「俺が作戦を考えて、明がそれを実行する。 それは、これからも変わらない。俺たちは、ずっと親友だ。 ただ、戦う相手が悪魔ではなく、人間に変わるだけだ。 君も見ただろう? 人間のおぞましさを」 と、サタンとして覚醒した飛鳥了は、不動明を悪魔の陣営に引き入れようと説得します。 サタンは、人間を滅ぼうそうとする『悪』でありながら、 親友を救いたい、不動明と共にありたい、という友情に関しては本物なのです。 不動明がその誘いに乗れば、彼は悪魔族の勇者、サタンの右腕として、 人間に味方するより、よりより人生を送ることができるでしょう。友情もずっと続きます。 逆に人間に味方して、悪魔に勝利したところで、 悪魔として人間から追われ続けることは、目に見えています。 しかし、不動明は、その誘いを蹴ります。 親友を敵に回しても、最後まで人間のために戦おうと決意するのです。 友情。希望ある未来の提供。人間こそ本当の敵。(サタンの道理) ↓↑ 対立、葛藤 俺は、人間だ。最後まで人間を守る。(不動明の道理) サタンと不動明の主張の対立は、実は不動明の内面の葛藤とも共通しています。 不動明が人間に味方するのは、人間は美しい心を持っている、と信じているからです。 今、人間は仲間同士で殺し合う醜い姿を見せているけれど、 それはすべて、サタンが仕組んだ汚い計略のためなんだ、と彼は自分自身を納得させます。 人間こそ滅ぼすべき敵なんだ、と囁くサタンの言葉は、 彼自身の内側で生じた疑問と重なるのです。 その後、不動明は、恋人の美樹の両親が、悪魔狩りに逮捕されたのを契機に、 悪魔狩りこそ諸悪の根源だと判断し、彼らの本部を襲撃します。 しかし、時、すでに遅く、彼をかくまってくれていた美樹の両親は、無残に殺されていた後でした。 しかも、拷問官たちは、恐ろしい悪魔の姿をした不動明に媚びへつらい、 「ここで殺した連中に君たちの仲間はいなかったんだよ。みんな人間だったんだ。だから助けてください」 などと、許しを請うのです。これに不動明は激怒し、 「俺の体は悪魔になった……だが人間の心は失わなかった! きさまらは人間の体を持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ! これが! これが! 俺が身を捨てて守ろうとした人間の正体か! 地獄へ落ちろ人間ども!」 なんと火炎を吐いて、その場にいた人間たちを焼き尽くしてしまいました。 人間と悪魔、悪魔と不動明の立場が逆転してしまった、デビルマンの中でも特に衝撃的なシーンです。 これで、彼の内面にあった、「人間は尊い」、「人間は悪」という二つの葛藤が、 「人間は悪」という方向に、決定的に傾いてしまいます。 では、不動明は人間を見限って、悪魔の味方になるのでしょうか? 「俺にはまだ、守るべき人がいる! 美樹! 君がいるかぎり、俺は悪魔にはならん!」 「美樹! 君一人のために俺は戦う」 不動明は、世界が、美樹の生きていけない悪魔の世界になることを防ぐため、 彼女を悪魔の手から守るために戦おうと決心します。 おそらく、不動明は、人間こそ本当の悪魔だった、サタンの方が正しかった、 という事実を受け入れたくないために、美樹にすがろうとしたのでしょう。 彼自身のアイデンティティを支える最後の砦が、彼女だったわけです。 だが、なんと、急いで下宿先である美樹の自宅に駆け付けてみると、 家は狂った暴徒と化した悪魔狩りの連中に放火され、美樹と仲間は殺されていたのです。 不動明は、そこで嬉しそうに勝利の声をあげていた人間たちに、絶叫しながら襲いかかります。 これで、彼のアイデンティティは完全に崩壊しました。 人の心に絶望し、愛する者も失い、人間に二度も牙を剥いたのです。 彼に最後に残されたのは、すべての惨劇を引き起こした元凶である かつての親友サタンと戦うことだけでした。 激闘が終わった後、サタンは死にゆく不動明の隣に寄り添って謝罪します。 「……わたしは許せなかった。私が命をかけて守った地球を汚した人間を! 私は人間を滅ぼすことにした……だが、それは神がデーモンを滅ぼそうとしたことと同じ行為だった…… 力の強い者が強いからといって弱者の生命を権利を奪って良いはずはないのにな……許してくれ、明」 サタンは残酷な計略で人間を自滅に追い込んでおきながら、最後は、 戦いの虚しさに気付き、友を失った悲しみに涙するのです。 人間が邪悪な心によって自滅し、サタンは愛に目覚めてしまう、 という善と悪の劇的な逆転が、ここでも見られます。 さらに、悲しみに暮れるサタンの背後に神の軍団が降臨し、 今度はサタンが弱者として踏みつぶされるであろうことを暗示して、物語は終わります。 このように、デビルマンは、不動明の価値観を揺さぶる大波を何度も起こしただけでなく、 敵であるサタンの心の葛藤と変化まで描きました。 しかし、不動明は最後まで、悪魔と戦うという行動を変えませんし、サタンも初心を貫徹します。 二人が和解し合えなかったからこそ、二人の愛憎はより強くなり、ラストに重みが出てくるのですね。 ▲ページの先頭へ |
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勧善懲悪のメリット、デメリット
単純な善悪二元論を用いた、悪が善に屈する勧善懲悪のストーリーも人気があります。 例えば、時代劇やハリウッド映画の分野では勧善懲悪モノがメインになっています。 水戸黄門が良い例ですね。 私利私欲のために庶民を苦しめる悪代官を、正義の味方である黄門様が懲らしめて一件落着という、 まったく同じパターンの物語が1969年から、現在にいたるまで延々と繰りかえされています。 勧善懲悪モノの優れているところは、 必ず善が勝つというパターンが決まっているので、安心感があるところ。 どこら見ても悪人である悪役がコテンパンにやられて大団円となるところです。 悪が善に屈するというのは、誰もが心の中で望んでいることなので、強い快感を与えることができます。 いままで、さんざん悪いことをしやがって、ざまーみろ! という心理です。 ここでは『悪代官には実は病気の娘がおり、彼女の治療費を稼ぐために悪事に手を染めている』 などという、悪役側に共感できるようなバックボーンが描かれることはありません。 また、黄門様が、なんからの政治的意図で、水戸藩の評判を高めるために庶民を助けている、 などという善玉の負のバックボーンが描かれることもありません。 悪役は完全な悪であり、善玉は完全な善としてしか表現されないのです。 勧善懲悪の場合は、何が正しいのか? などという答えの出ない問いかけはせず、 善が勝ち、悪が断罪されるという単純な構造を取っているので、 何も考えずにまったり楽しみたい分野に向いています。 テレビや映画は、食事しながらだったり、ボーっと映像を見ていても、 十分内容を理解して楽しめる受動的なメディアであるため勧善懲悪モノがマッチしています。 逆に小説は、読者が自分の頭を働かせて文字を拾い、 作品世界のイメージを脳内に構築する能動的ジャンルです。 答えの出ない問いかけなど、受け手に考えさせることに適しています。 このため、完全な勧善懲悪というのはあまりないです。 勧善懲悪のデメリットとして、 作品がいかにも作り物めいた薄っぺらいモノになってしまうことがあげられます。 また戦隊ヒーローなど子供向け番組にも多いため、 子供っぽいという印象を持たれやすい傾向があります。 時代劇など、勧善懲悪がお約束化している分野であれば、 視聴者もこれを理解した上で、善が勝つカタルシス(快感)を求めて視聴するので問題ありません。 しかし、小説の醍醐味の一つは、答えの出ない問いかけ、テーマ性を味わうことなので、 このような単純な構造は、薄っぺらいモノと認識されることが多いです。 ライトノベルは、時代劇やハリウッド映画のような、爽快感重視の勧善懲悪を下地にしながら、 文学的なテーマ性も取り入れる傾向があります。 |
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