失礼を承知で言いますが。問そのものがナンセンスである。
と、言われても困ると思うので。結論だけ先に言っておきます。
『自由にすれば?』以上に言える事はないです。
もし、『こうしたい』と言うのが無いのであれば、
①『小説を作りたい』
②『リアリティのある設定を作りたい』
の二つのどちらなのかを考えた方が良いかもしんないです。
先に言ってしまえば、小説の場合どこまで行っても『尺』の都合が出てくるので。設定を細かく作りこんだ所で、往々にしてそれが『無駄』になるというのは、良くあることです。
ただし、もし媒体を小説に絞らないのであれば、形を変えて活かすことは出来ると思います。
そのため、『小説として作る』以外の選択肢も視野に入れると良いでしょう。
こっからは補足。
まず。なぜ『好きにすればいい』と思うか。
作者さんの仰る『反論』の通り、基本的に小説という物は『読者に理解できる形』にまとめる必要があるため、細かく作りこみすぎる・説明に時間が掛かりすぎるタイプの物は好まれません。
いえ、この問題は『表現』そのものが抱えている総括的な問題であり、音楽だろうが文章だろうが絵画だろうが。結論から言えば『人間は理解し合うことが出来ない』という事に尽きます。
『存在するものを真似て作れば、その事くらいは伝わるだろう』と思うかもしれませんが、例え同じものを見ていたとしても、(これは感受性ではなく、脳の神経伝達の問題として)『全く同じように』見えているとは限らない訳です。
さて、その上で。
もう一つ問題が有ります。
それは、『現代の科学が正しいとは限らない』という事です。
コペルニクス達が文句を言いだすまで、地球を中心にしてその周りを太陽がグルグル回っていました。
古代物理学にあっては、物質の根っこは『エレメント』という訳の分からない四種類の物質で、ロバート・ボイルがその後に所謂『元素』なんてものを言い出し、更にその後の時代には『不確定性原理』やら『量子論』やら『波であり粒子である』なんていう訳の分からない話が出てきた訳です。が……。
そこで問いましょう。
『リアリティ』って何ですか?
太陽が地球の周りをまわっていた時代には、天動説準拠のストーリーが『リアル』でした。
要するに、科学的な正しさと、小説におけるリアリティは意味合いが違う、と言う話です。
奇跡が起きる確率を考えるのは、小説のリアリティじゃない。
奇跡が起きるからエンタメであり、そこに確かに存在する奇跡をいかに読者に読ませるかが『リアリティ』です。
その上で、言うのであれば。まずもって、小説に対して『不毛か否か』を問うことそのものがナンセンスでしょう。
作業効率を言うのであれば、『作中に登場しない設定』を作る事は『不毛』ではなく『無意味』です。
作品への思い入れを考えるなら、それは『見えない部分の作りこみ』ではなく、もっと単純に『愛』です。『不毛』と言うのは失礼だ。
嘘っぽくない物、を作りたいのであれば。まず、『奇跡が起こる確率』という考えをやめましょう。
『真実っぽい嘘』を言う事よりも、『大嘘を真実っぽく』書く方が、よっぽど良いと思いますよ。
キャッチ―な言い回しを狙い過ぎて、分かり難くなっちゃったので補足。
要するに。
『九割方現実だけど、ちょっとだけフィクション』という事をやるよりも、『根本的にフィクションなんだけど、そのフィクションを前提にした世界のリアリティを描く』ほうが良いだろう、って事。
なぜかって言うとね。
そっちの方が面白そうじゃん?