タイトル:物語作品の「何が駄目なのか」が読者視点で分からないの返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 投稿者: 半額オソーザイ
私はその人のことを大して知らないので、あまりコメントはできないのですが(もとい、あまくささんとの話の中でもあるように、自分は他人にそこまで興味を抱けないからかもしれませんが……)
実際シェアと読者を奪い合うライバル関係になるのに、「恐れ多い」
⇒これは自分はその高みに到達できないであろうことを、今までの経験や実績から分析して冷静に考えているがゆえの言葉でした。
気概だけでは何も変わらないし、気概を持ったところで行動が伴わなければ意味がない。
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逆に言えば気概は必要なく、必要なのは技術を磨くこと。
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努力に結果が伴う確信はないけど、結果が無ければ評価はない。
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現状、評価されている点が自分にはない(独自の視点があっても、結果がなければ評価に繋がらないと思ってしまっている)
おそらくこういう思考プロセスなのだと、ちょっと天井のシミを数えながら考えました。
ただこれは「売れなければ意味がない(結果を出せなければ意味がない)」という強い固定概念が自分を押し殺しているからであって、心底では「ただ売れるだけの作品に面白味はないので、読み手の価値観に殴り込むような意欲作で勝負したい!」という強い想いがあるのだなぁ、とも考えて思いました。
だから本質的には、そういう身の丈に合わない気概を抱きやすい人間なのだと、読むせんさんの返信を拝見して自己分析できました。
この考え方の中では「評価」は、目標の過程にすぎず極論「ポジティブな評価は“そこを武器にすればいい”という証左だし、ネガティブな評価は“そこがアキレス腱なので補強しなければならない”という証左で、執筆活動の中での学びの一つでしかない」になるな、と……(もちろん評価されることを嬉しいと思う素直な気持ちは否定するべきじゃないですが、評価が絶対条件ではない?的な感じです)
自己の根幹を構成する部分に、他者評価を無理やり入れ込んで安心していたのかもしれません……。
本来の私は「恐れ多い」なんて言葉を使わないのかも。
ただそこに創作とは一切関係のない、私個人に染み付いた劣等感が自己矯正を内部から行っているから、こんな歪な状態になっていたのだと思います。
そういう意味で言えば、
別に「実写版デビルマン」を面白いと感じる自分も否定しないし、でも自分なりにやってみろと言うのなら、自分のやりたいよう最大限の力を尽くして「半額オソーザイ版デビルマン(実写版)」を撮るのだと思います。これは対象が「ショーシャンクの空に」や「ファイトクラブ」(どちらもわりと有名な洋画なので伝わるはず……?)であっても変わらないと思うので、ある意味で手の施しようの無いほどの馬鹿なのでは……?とも。
なので「あのままを人生初デビルマンとして人に観せてあげたい?」と言われたら、そんなものより自分の書いたデビルマンを読んでくれ!と答えます。
答えになってなかったらすみません。
【ブス界へようこそ】
⇒あ、本当だ……無料で読める漫画あるんですね。ちょっと見てきます。